小説「戦国小町苦労譚 9 黄昏の室町幕府」第二次織田家包囲網頓挫【感想・ネタバレ】

小説「戦国小町苦労譚 9 黄昏の室町幕府」第二次織田家包囲網頓挫【感想・ネタバレ】

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簡単な感想

第二次織田家包囲網の要、武田家に大勝利。
首謀者の将軍家も足満が潰す。

どんな本?

戦国小町苦労譚は、夾竹桃氏によるライトノベル。
農業高校で学ぶ歴史好きな女子高生が戦国の時代へとタイムスリップし、織田信長の元で仕えるという展開が特徴。
元々は「小説家になろう」での連載がスタートし、後にアース・スターノベルから書籍としても登場。

その上、コミックアース・スターでも漫画の連載されている。

このシリーズは発行部数が200万部を突破している。

この作品は、主人公の静子が現代の知識や技術を用いて戦国時代の農業や内政を改革し、信長の天下統一を助けるという物語。
静子は信長の相談役として様々な問題に対処し、信長の家臣や他のタイムスリップ者と共に信長の無茶ブリに応える。

この物語には、歴史の事実や知識が散りばめられており、読者は戦国の時代の世界観を楽しむことができる。

戦国小町苦労譚

2016年に小説家になろうで、パクリ騒動があったらしいが、、、
利用規約違反、引用の問題だったらしい

読んだ本のタイトル

戦国小町苦労譚  9 黄昏の室町幕府
著者:#夾竹桃 氏
イラスト:#平沢下戸 氏

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あらすじ・内容

三方ヶ原の戦いは、徳川・織田の連合軍の大勝利に終わった。武田軍に完膚無きまでの完敗をもたらした静子は、織田家内外にその名を轟かせるほどの存在に。

そんな誉れもなんのその、当の本人は海外の土着猫の子猫を手に入れたり、ユダヤ人技術者を集めたりと勤しんでいた。そして室町幕府終焉の兆しの中、上杉家がついに・・・・・・!

歴史がガラっと変わった最新刊から目が離せない!

戦国小町苦労譚 九、 黄昏の室町幕府

感想

武田軍を三原ヶ原で完膚なきまで叩き。

山県昌景、秋山虎繁、武田信玄を打ち倒し、勝頼以外はほぼ全滅させた織田家。

コレにより第二次織田家包囲網は瓦解。

首謀者の将軍も兄の足満から折檻されて降伏させられた。

後は上杉、北条がターゲットになるのだが、、

その前に降伏勧告を出したら上杉謙信が降って来た。

しかも窓口は直江兼続を経由して静子が執り行う事になる。

さらに石山本願寺とも和睦をするが、経済の見直しと称してビタ銭を駆逐するため貨幣の見直し。

さらに貨幣の鋳造権も織田家が独占する事になる。

これの効果に気が付かず石山本願寺は、、

経済的な罠にハマった。

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備忘録

元亀四年室町幕府の終焉

千五百七十三年  一月下旬

年の瀬と反織田同盟の苦境

織田家と徳川家は、新たな年に向けて慌ただしくも賑やかな歳末を迎えていた。一方、反織田同盟の陣営には重苦しい雰囲気が漂っていた。武田家が完膚なきまでに敗北し、信玄を含む武田四天王のうち三人が討ち死にしたことで、同盟全体の士気が低下していた。武田軍の総力を挙げても織田・徳川軍には敵わず、戦後の状況は絶望的であった。

織田軍の電撃的侵攻

三方ヶ原での圧勝後、信長はすぐに長島へと侵攻した。十四の防衛拠点も日に三つの速度で陥落し、長島城は戦う間もなく降伏に追い込まれた。この迅速な攻略は、織田軍が戦力に余力を残していたことを天下に示した。反織田勢力は年の瀬を迎えながらも、次なる攻勢に怯えざるを得なかった。

静子の功績と信長の評価

表向きは信長と信忠の戦功とされたが、実際には静子の綿密な計画と後方支援が織田軍の勝利を支えていた。三方ヶ原での勝利へと導き、長島での進軍を支えたのは静子の手腕によるものであった。彼女の存在は織田家中でも重要視されつつあった。

信長との初日の出

元旦の早朝、信長は静子を呼び出し、初日の出を共に拝むよう命じた。寒さに文句を漏らす静子に対し、信長は「この光景を見せたかった」と静かに語った。夜明け前の静寂の中、二人は日の出を見守った。やがて太陽が昇ると、信長は武田を破った現実に改めて思いを馳せた。

織田軍の新戦略

武田の敗北により、反織田勢力の動揺は避けられなかった。信長は、この先の一年で織田軍の編成を小規模な部隊に再編し、各地での支配をより盤石なものとする計画を立てた。静子の軍もまた、この戦略の一環として柔軟に運用されることとなった。

信長の論功行賞と静子の選択

正月の茶会において、信長は静子に対し、望みの褒美を選ぶよう命じた。曜変天目茶碗や名槍などが並ぶ中、静子は「戦没者を祀る社の建築」「藤四郎吉光の刀蒐集への協力」「日本号の下賜」の三つを願い出た。信長はこれを快諾し、静子の功績を正式に認める形となった。

京への軍事示威行動

その後、信長は静子軍を率いて京へと進軍した。表向きは鷹狩りであったが、実際は武田を破った織田軍の力を誇示するための軍事パレードであった。精鋭が揃った軍勢は、京の民を圧倒し、噂は瞬く間に広まった。これにより、信長の権勢は一層強まることとなった。

千五百七十三年  二月中旬

義昭の窮地と反織田勢力の崩壊

武田軍の敗北により、反織田連合の国人たちは次々と離反した。朝倉家は二万の兵を擁しながらも戦うことなく自領へ逃げ帰り、本願寺は長島一向宗の敗残兵を受け入れたことで食糧不足に陥り、自壊の危機に直面していた。義昭陣営もまた、細川藤孝の離反により内部崩壊を始め、織田軍の京進軍を前に義昭は完全に孤立していた。

信長と西洋猫への熱狂

信長は西洋の猫に心を奪われていた。近衛前久、明智光秀、細川藤孝も同様であり、彼らは猫の魅力に没頭していた。猫たちは自由に振る舞い、彼らはそれを愛でるばかりであった。静子が制止するまで、四人は猫を抱えて離れようとせず、ついには「一人一匹まで」と譲歩させたほどである。信長たちは猫を籠に入れて持ち帰り、静子はその熱狂ぶりに呆れた。

義昭との交渉と足満の非情な決断

信長は足満を義昭との交渉役に据えた。しかし、交渉は初めから降伏条件を伝える場に過ぎず、足満は義昭を床に押し付け、足利家の終焉を宣告した。義昭は征夷大将軍を辞し、財産を織田家に譲り、人質を差し出すことを余儀なくされた。こうして、足利将軍家は自ら幕府を閉ざすこととなった。

信長の新たな経済戦略

静子は本願寺の経済基盤を崩すため市場調査を行ったが、信長はこれに先んじて通貨発行権を確立することを優先した。不換紙幣の発行と流通を推進し、寺社勢力の影響力を利用しながら最終的にその力を削ぐ計画を立てた。市場改革や税制改革と併せて、信長は支配をより強固なものとしようとしていた。

新居への帰還と拠点の拡大

京での用事を終えた静子は、新居へと戻った。そこには本殿、裏殿、側殿を中心にした大規模な屋敷が完成しており、もはや城郭と見紛うほどの拠点となっていた。慶次や才蔵らは相変わらず彼女の周囲に居座り、新たな環境にも変わらぬ日常が続いていた。

寛ぐ濃姫と畳の大量生産

静子が帰宅すると、彼女の部屋では濃姫や市、ねねたちがくつろいでいた。新居祝いの名目で入り浸る彼女たちに、静子は頭を抱えた。一方で、畳の大量生産が成功し、い草の供給が増加したことで屋敷全体を畳敷きにすることが可能となった。しかし、需要の増大により供給が追いつかず、新たな課題が浮上していた。

尽きぬ食糧と静子の嘆き

濃姫たちは静子の家の食材を次々と消費し、茶菓子すらすぐになくなった。彼女たちは悪びれる様子もなく食べ続け、静子は「どうせ使い切れず腐らせるだろう」と開き直る濃姫に反論できずにいた。こうして静子の新たな日常は、喧騒とともに再び始まることとなった。

千五百七十三年  三月中旬

足満の密命と危険な道行

三月に入り、信長は足満に極秘の命を下した。この内容は静子にも伏せられ、足満が出発直前に家を空けると告げたことで初めて認識された。信長と足満があえて静子に伝えなかったのは、彼女の精神衛生を考慮しての判断であった。足満の任務は近衛前久を伴い、上杉謙信の本拠地である春日山城へ向かうことであり、雪深い山道を越える危険な旅となった。前久は足満の制止を無視して同行を決め、防寒装備の準備を静子に依頼していた。その装備は高度な防水・保温性能を備えており、過酷な雪山での生存を確保するものだった。

但馬牛の買い付けと信長の嗜好

一方、静子は京へと向かい、信長の嗜好に応じて但馬牛の買い付けを行った。但馬牛は和牛の祖ともいえる品種であり、信長はその肉の味を気に入っていたため、静子が定期的に買い付けを担当していた。今回も交渉は順調に進み、純血種の但馬牛を確保した。静子の京滞在が短期間であったため、彼女自身が牛を尾張へ運ぶ手筈となった。

技術者の獲得と奴隷売買

静子が京を訪れた真の目的は、外国の技師を獲得することであった。通常、技師の国外流出は厳しく制限されているが、静子は奴隷売買を利用して技師を確保する手法を取った。特にマカオの奴隷市場は技術者が多く流れる場所であり、追跡を逃れるための転売も頻繁に行われていた。静子が手に入れた奴隷四名は、異端の罪で処刑を免れた者たちであり、それぞれが言語学、金属加工、薬学の技術を有していた。特に年少の少女は「魔女の子」とされ、迫害を受けていた。静子は彼らに食事を与え、信長の統治下では出自や肌の色に関係なく能力が評価されることを告げ、仕える意思を問うた。

ユダヤ人技師と新たな名

四人はユダヤ人であり、長年迫害を受けてきたことを告白した。それを聞いた静子は「能力を示せば良い」と明言し、彼らの信頼を得た。彼らは新たな人生の出発点として名前を求め、静子は「虎太郎」「弥一」「瑠璃」「紅葉」という名を授けた。こうして彼らは正式に静子の下で働くこととなった。

義昭の追放と室町幕府の終焉

足利義昭は毛利家へ引き取られることとなり、表向きは体調不良による政務の放棄と発表された。しかし、京や周辺の民衆は信長による追放と見做していた。義昭の子は次代の将軍候補とされるが、実際には信長が幕府を終焉させる意図を持っていたことは明白であった。室町幕府はこうして名実ともに終わりを迎えた。

信長の新たな命令と静子の昇格

岐阜へ戻った静子は、信長からの召喚を受けた。信長は茶室で静子を迎え、彼女が南蛮の技師を確保したことに関心を示した。特に言語学者の存在に興味を持ち、外国語を理解する重要性を認識した。さらに、信長は静子に10万石の領地を与えると告げた。その半分は近衛家の補償分であり、静子が直接管理するのは5万石であった。補佐官が派遣されるため問題はないとされたが、静子は突然の命令に困惑した。

本願寺への新たな戦略

信長は一向宗の弱体化策として、捕虜となった一向宗の者たちを石山本願寺へ送り込む策を実施した。難民化した信徒を受け入れることで本願寺の負担を増し、飢餓や疫病の拡大を狙ったものであった。この策が効果を発揮し、本願寺は対応に苦慮していた。信長はこれを確信し、今後も同様の策を徹底するよう命じた。

信長の真意と静子の洞察

信長は反織田勢力に降伏を迫る書状を送っていたが、静子はこれが単なる揺さぶりに過ぎないと察した。信長の狙いは、特定の勢力を手中に収めることであり、それ以外の陣営の選択は二の次であった。静子はその意図を理解しつつも、余計なことは語らず、静かに信長の茶を飲み干した。

千五百七十三年  四月中旬

帰還と奴隷たちへの指示

信長との会談を終えた静子は、慶次たちを伴い尾張の邸宅へ戻った。邸宅の謁見の間には、新たに雇い入れた四人の奴隷が待機しており、静子は早速仕事の指示を与えた。虎太郎には書物の翻訳、弥一と瑠璃にはそれぞれ金属加工と絨毯製作の技術伝授、紅葉には特定の植物の栽培記録を担当させることとした。特に翻訳作業に関しては、静子が持ち込んだ電子辞書では中・近世の語法が対応できない可能性があったため、当時の翻訳家である虎太郎の知識が不可欠であった。

地動説の証明と虎太郎の興味

静子は虎太郎に翻訳の報酬として、地動説の根拠を提供すると告げた。地動説は当時の天文学では異端とされ、ガリレオ・ガリレイらが異端審問にかけられる要因となった理論であった。静子はアリスタルコスやコペルニクス、ケプラー、ニュートンといった歴史的な天文学者たちの理論と証拠を示し、自身がこの説を正しいと請け負うのではなく、虎太郎自身が検証するよう促した。虎太郎はその提案に強い関心を示し、地動説の追実験を決意した。

絨毯製作の技術伝授

瑠璃には、かつて奴隷として働いていた際に習得した絨毯の製法を尾張の職人たちに伝授する役目が与えられた。ペルシャ絨毯と緞通の違いを説明した上で、彼女の知る範囲で職人に技術を伝えることが求められた。静子は細かな指示を出さず、職人たちが独自に改良を加えることを期待した。

金属加工と職人の競争心

弥一には金属加工の技術を活かし、自由に製作を行うよう指示が出された。静子は、職人たちが彼の技術を見て対抗意識を燃やし、自然と技術が広まることを狙った。弥一は寡黙な職人でありながら、徐々に周囲と打ち解けていった。

紅葉とニームの栽培

紅葉にはインドセンダン(ニーム)の栽培を任せられた。ニームは害虫忌避効果を持ち、化学農薬の代替となる可能性がある植物であった。静子は実験の重要性を説き、成功と失敗の両方を記録することを求めた。紅葉は慎重ながらも真剣に取り組む姿勢を見せた。

四人の適応と邸内の変化

三週間が経過し、四人はそれぞれの役割に順応していた。職人たちとの関係も良好で、瑠璃は人見知りながらも兄の弥一を頼り、虎太郎は翻訳と地動説の研究に没頭していた。紅葉は真面目に栽培に取り組んでいたが、日本語の習得は遅れ気味であった。静子は彼らの進捗に満足しつつも、紅葉に対する自身の配慮が他の者に嫉妬を招かないよう注意を払うよう助言を受けた。

統治体制と銀行の役割

静子は与えられた10万石の統治を円滑に進めるため、市長・区長制度を導入し、行政を分担させた。また、銀行制度を構築し、信用創造による経済活性化を図った。特に出入りの商人が銀行の利便性に気付き、積極的に利用し始めたことで、徐々に預金者が増えていた。静子は銀行の信用を守るため、内部と外部の敵対者を徹底的に取り締まる方針を示した。

上杉謙信の降伏と兼続の来訪

四月中旬、静子邸に一人の少年が訪れた。門番が報告すると、静子は彼と会うことを決めた。その少年は上杉家の重臣・直江兼続であり、彼は信長への降伏文書を携えていた。彼の腹が鳴ったことで空気が和らぎ、食事を取りながら話すこととなった。兼続は借金の返済も兼ねており、静子は彼の信義を認め、金額を確認せずに受け取った。

降伏文書の内容と静子の判断

静子は兼続からの文書を何度も読み返した。そこには、上杉謙信が織田家の臣下となることを受諾する旨が記されていた。信長の命により、各勢力に降伏の選択を迫る文書が送られていたが、謙信がこれに応じるとは誰も予想していなかった。静子は速やかに信長へこの報を伝えるべく、早馬を送った。

上杉家の決断とその影響

上杉家が戦わずに降伏を決めた理由について、静子は分析を行った。織田家との戦争は越後の存続に関わる決断であり、勝算がない以上、最善の選択肢は早期の降伏であった。もし劣勢になってから降伏を申し出た場合、織田家にとっての価値は下がり、より厳しい条件を突きつけられる可能性が高かった。謙信は武士としての誇りを捨て、越後を守ることを優先したのであろうと静子は推測した。

信長の反応と今後の展開

信長がこの降伏を受け入れるとしても、上杉家は領土の安堵や関東管領の地位維持などの条件を交渉するはずであった。静子は信長がどのような判断を下すかに注目し、翌朝にはその決定を仰ぐために信長が岐阜へ訪れることを予想し、迎えの準備を命じた。さらに、疲れ果てて眠る兼続に毛布をかけ、彼の覚悟を静かに讃えた。

千五百七十三年  五月中旬

信長の迅速な対応

静子は、信長の行動をある程度理解しているつもりでいた。しかし、上杉謙信からの降伏受諾の報が届いた際、信長が翌朝に動き出すと考えていたのは誤算だった。信長は政務を中断し、単騎で静子の元へ向かう決断を下した。通常半日かかる距離を、馬を乗り継ぎながら数時間で駆け抜け、日没後には到着した。疲労の色を見せることなく、信長は静子に対し「使者と直接話がしたい」と告げた。

信長と兼続の謁見

信長は兼続との謁見を即座に設定させた。兼続は予想外に早い対面にも動じることなく、信長の質問に堂々と応じた。上杉家の即断について尋ねられると、「御実城様の熟考の末の決断」と返答し、家臣としての忠義を示した。さらに、信長が「人質としての覚悟」について問うと、兼続は「約定が破られた場合は、この首を差し出す」と迷いなく応じた。信長はその覚悟を評価し、兼続を静子の邸に泊まらせることとした。

信長の歓喜と浅井・朝倉への嘲笑

信長は兼続との対話を終えた後、独りになると満足げに笑った。武田信玄を討ち、さらに謙信を臣従させたことで、彼の覇業は大きく進展したのである。そして、いまだ織田に敵対し続ける浅井・朝倉を「愚図」と嘲笑い、彼らが降伏の機会を逃したことを愉快に思った。興奮冷めやらぬまま、信長は静子に酒蔵を開くよう命じ、馬廻衆や小姓たちと宴を催した。翌朝、彼は再び岐阜へ戻り、その行動の速さに家臣たちはただ驚くばかりであった。

兼続の扱いと静子の農作業

信長の訪問から数日が経ち、彼からの追加の命令はなかった。兼続は人質扱いでありながら自由に過ごし、慶次とともに街を遊び歩いていた。一方、静子は久々に農作業に精を出し、カカオやコーヒー、胡椒、南国果樹の成長を確認した。環境ストレスが植物の成長を促している可能性を考えつつ、彼女はバナナの品種改良にも着手した。

新築祝いと予想外の広がり

静子は新築祝いの宴を催そうと考えたが、その情報が瞬く間に広まり、信長や信忠、徳川家など多方面から祝いが届いた。静子はこぢんまりとした宴を予定していたが、大規模な催しとなることを余儀なくされた。慶次から「今や静子の一挙手一投足は監視されている」と指摘され、彼女は自身の影響力の大きさを再認識した。

兼続の人質としての立場と慶次の監視

信長と謙信の間でやり取りが続く中、兼続は正式に織田家預かりの身となった。しかし、慶次の監視は名ばかりであり、二人はほぼ毎日遊び歩いていた。静子は「監視とは名ばかりで、実際は楽しんでいるだけでは?」と指摘したが、慶次は「油断を誘って本性を見ている」と笑った。兼続も礼儀をわきまえつつ、年相応の振る舞いを見せていた。

信長の外交戦略と本願寺との和睦

信長は本願寺との和睦に向けた交渉を進め、最も重要な通貨発行権を確保することに成功した。本願寺側は信長の要求を断ろうとしたが、彼は「ふっかけ」として最初に過大な要求を出し、段階的に譲歩する手法を用いた。結果として、本願寺は土地の所有整理やインフラ整備への協力を約束する形となり、信長の狙い通りの条件を呑まされた。

織田の支配体制の整備

信長は経済発展のために道路整備を推進し、土地の検地を命じた。検地の不正を防ぐため、「誤魔化した者は打ち首」と厳命し、家臣たちは細心の注意を払って業務にあたった。また、寺社勢力の荘園を含めた土地の実態を把握し、徴税の透明性を高めることで、領内統治の基盤を固めていった。

謙信の上洛と信長への忠誠

五月中旬、謙信は精鋭5000を率いて春日山城を出立し、織田家へと向かった。彼は信長と本願寺の和睦が成立したことを受け、信長への臣従を決定したのである。その道中、加賀や越中の一向宗が抵抗を試みたが、彼らは織田軍との正面衝突を避けた。道を封じるために神輿を設置する嫌がらせも行われたが、足満はそれを即座に崖へ投げ捨てた。この行動は謙信の家臣たちを驚かせ、足満の冷徹さを改めて印象付けた。

静子の影響力と本願寺の危機感

一方、本願寺は信長に敗北した武田軍の実態を調査し、その過程で静子の存在を知った。彼女の戦略が決定的な勝因であったことに気づいた本願寺は、「単なる女」と侮ることの危険性を認識し、徹底的な情報収集を開始した。頼廉は、静子が持つ圧倒的な知力と人心掌握力に警戒を強め、「敵として侮るべきではない」と強く主張した。しかし、具体的な対策を見出せず、当面は静子の弱点を探ることに専念する方針を固めた。

信長の策謀と本願寺の翻弄

信長は本願寺との交渉を意図的に長引かせ、彼らが焦れて先に動くよう仕向けていた。和睦に応じた本願寺がすぐに信長の要求を飲んだ背景には、彼の外交戦略が大きく影響していた。信長は、織田家の勢力を拡大するだけでなく、本願寺の影響力を徐々に削ぐことを目的としていたのである。そして、織田軍の脅威が拡大する中、本願寺は静子の軍勢の異様な強さに焦りを募らせ、その対策に頭を悩ませることとなった。

千五百七十三年  六月上旬

岐阜城での歴史的瞬間

五月下旬、岐阜城にて上杉謙信が織田信長に臣従し、戦国時代の勢力図が大きく塗り替えられた。越後は織田家の支配下に入り、東国からの上洛が困難となった。織田・徳川・上杉の三ヶ国が西国への道を封じ、信長は東国への軍事負担を減らしつつ西国問題に集中する体制を整えた。一方、越中や越前の一向宗は補給路を断たれ、織田・上杉両軍との二正面作戦を強いられる形となり、窮地に陥った。

静子の新築祝いと宴の変化

静子は新築祝いのために内輪の宴を計画していたが、いつの間にか上杉家を歓迎する酒宴へと変わっていた。信長や家康が参加することは想定内だったものの、謙信までが興味を示し、祝宴に加わることになった。さらに、武田滅亡と上杉の臣従によって織田家の重臣たちも次々と参席し、想定以上の大規模な宴会となった。結果として、静子は家主でありながら宴の準備に奔走し、デザートのショートケーキを用意していた。

信長と上杉勢の宴

信長の開宴宣言とともに宴が始まり、上杉勢の酒豪ぶりが際立った。特に越後の者たちは酒に対する遠慮がなく、酒樽の消費量が激増した。一方、徳川勢は清酒にまだ慣れず、ゆったりと飲んでいた。信長は普段通り少量の酒を嗜み、甘い物を好む傾向があった。静子は主役であるにも関わらず、格式高い席で気を張らねばならず、次第に疲労を覚えた。

宴からの中座と真田家の事情

静子は宴を抜け出し、彩から密書を受け取った。真田昌幸が家督を継いだものの、武田家内で責任を問われ、領地没収の危機にあった。さらに、武田家の間者組織も「臆病者」と断じられ、粛清の対象となっていた。武田家の情報収集能力は壊滅的な打撃を受け、真田家も内部分裂の危機に瀕していた。静子は間者の身柄を当面確保し、後日放つ方針を決めた。

濃姫と女社会の視点

濃姫は、静子が男社会での地位を確立した一方で、女社会では義務を果たしていないことを指摘した。特に、婚姻や嫡子の問題を抱える静子に対し、信長が養子を与えることで女社会での立場を固めようとしていることが明かされた。濃姫は静子の影響力を利用しつつ、彼女が不要な嫉妬や敵意に晒されないよう配慮していた。

宴会での一幕と茶々・初の登場

静子が女子の宴会場に向かうと、濃姫や市と共に、茶々と初が駆け込んできた。二人は静子に甘えながら新築祝いを伝え、ケーキを堪能した。だが、遊び疲れた二人は静子の膝の上で寝入ってしまい、動けなくなる静子は困惑した。最終的に、乳母たちが二人を回収し、静子はようやく解放された。

明智光秀の娘・珠の失態

静子の新居には、明智光秀の娘・珠も小間使いとして雇われていた。しかし、彼女は仕事を忘れて猫と戯れており、光秀の怒りを買ってしまった。厳しく叱責された後、珠は慌てて職務に戻った。静子はその姿を見て苦笑しつつも、彼女が新環境に馴染んでいることを確認した。

慶次と虎太郎の談話

一方、宴を避けた慶次は、虎太郎の研究部屋を訪ね、酒を酌み交わしていた。虎太郎は静子の支援で天体観測を行い、地動説の研究に没頭していた。慶次は「楽しむことが大事」と語り、虎太郎もまた「後悔なく生きる」ことを選んでいた。二人は宗教や異文化について語り合いながら、夜更けまで杯を交わした。

静子の未来への思索

宴会場を離れた静子は、戦国の趨勢を見極めながら、織田家の天下統一が確実に近づいていると感じていた。しかし、予想外の事態が起こる可能性も考え、慎重に次の一手を模索していた。

マンゴーの献上と保存問題

静子は、ユダヤ人の少女・紅葉を伴い、信長のもとへ向かっていた。目的は収穫期を迎えたマンゴーを献上するためである。マンゴーは保存が難しく、冷蔵施設のない戦国時代では長期保存が不可能であった。そのため、静子は作付け時期をずらして収穫を分散させる工夫を施していた。しかし、三方ヶ原の戦いの準備に追われた結果、一括で作付けを行い、大量のマンゴーが同時に熟す事態となった。価値が未知数であるため安易に流通させるわけにもいかず、腐らせるのも惜しかったため、新築祝いの宴で振る舞うことに決めた。

徳川家家臣の酔態

静子が信長のもとへ向かう途中、徳川家家臣の忠勝、半蔵、康政に遭遇した。忠勝は泥酔しており、半蔵と康政が肩を貸していた。彼らは忠勝を部屋へ運び込もうとしたが、手慣れた様子で部屋に投げ入れる形となった。その直後、突如覚醒した忠勝が勢いよく飛び出し、半蔵と康政を巻き込んで縁側から庭へ転落した。武士としての体面を重視する彼らにとって、この光景は極めて不名誉なものであった。静子は紅葉の目を覆い、「見なかったことにするように」と諭した。

信長と紅葉の対面

静子は信長と出会い、紅葉を紹介した。信長は紅葉の碧色の瞳に興味を示し、珍しさを褒め称えた。紅葉は緊張していたが、信長が敵意を持たぬことを理解し、徐々に落ち着きを取り戻した。信長は「異人を懐に入れることに異論を唱える者もいるだろうが、わしが許す」と述べ、紅葉の存在を公認した。

マンゴーの献上と信長の評価

信長は静子が持参したマンゴーを「甘珠」と称し、興味を示した。南蛮のケーキは甘すぎると感じていたため、マンゴーの自然な甘さは信長にとって心地よいものであった。静子はマンゴーを供し、厨房で食べやすく加工させた。種の部分は食用に適さず、果肉部分は料理人たちが味見し、種子は栽培に回された。信長はその味を気に入り、宴の席でも供されることとなった。

静子の牢屋訪問と間者の事情

静子は真田家の間者を拘束していた牢屋を訪ねた。間者は若い女性であり、武田家が歩き巫女を多用していたことから不思議ではなかった。静子は、間者の自由を奪うことが彼女自身の身を守るためでもあると説明し、当面の間、大人しくするよう諭した。間者は静子に対し、主がいずれ静子のもとへ馳せ参じると伝言を残した。数日後、間者は適当な理由をつけて解放され、口頭でのみ主への伝言を伝えた。

信長の激怒と静子の仲裁

信長は親族の失策に激怒し、刀を振り上げていた。堀や蘭丸が必死に宥めていたが、信長の怒りは収まらなかった。静子は信長に対し、「過度な怒りは体に障る」と諫言し、冷静さを取り戻させた。信長は半年の猶予を与え、状況が改善しなければ親子の縁を切ると宣告した。静子の機転により刃傷沙汰は避けられたが、その後、信長は静子を伴い、話を続けた。

伊勢の開発遅延と信長の嘆き

信長は伊勢の開発が遅れていることに苛立ちを見せていた。海運を掌握した信長にとって、尾張と伊勢を結ぶ街道の整備は急務であった。しかし、担当者たちは本願寺勢力に足元を掬われ、進捗が停滞していた。信長は「半年の猶予を与えるが、これが最後の機会」と厳命し、静子に経済問題についての意見を求めた。

貨幣流通量の減少と対策

静子は、貨幣流通量が減少していることを指摘し、貨幣の鋳造が急務であると述べた。信長はその重要性を理解し、新たな貨幣の製造を決定した。偽造を防ぐため、通貨製造に関わる者には厳しい監視を敷く方針が示された。静子は、通貨の安定供給が経済発展の鍵であることを説明し、信長はこれに賛同した。

上杉景勝の人質受け入れ

信長は上杉謙信の臣従の証として、上杉景勝を人質として受け入れた。景勝は岐阜ではなく尾張に移され、静子が預かることとなった。静子は景勝に過度な制限を課さず、比較的自由な生活を認めた。監視役には慶次が任命され、景勝と兼続は静子に対し礼を述べた。

弥一と瑠璃の願い

元奴隷の弥一と瑠璃は、共に暮らす家が欲しいと静子に願い出た。静子はそれを許可し、二人は安堵した。彼らは職人としての技術を磨きながらも、過去の境遇に対する複雑な思いを抱いていた。虎太郎は弥一に「まずは自分の足場を固めることが先決」と助言し、弥一はその言葉に納得した。

虎太郎のワイン作りの願い

虎太郎は静子にワイン作りの環境を整えるよう頼んだ。戒律に則ったものではなく、単にワインを楽しみたいという理由であった。静子は、甲州ぶどうの収穫期に合わせてワイン用に仕分けることを約束し、虎太郎も満足して退出した。静子はその自由奔放な振る舞いに呆れつつも、笑みを浮かべていた。

千五百七十三年  八月上旬

七月の平穏と戦の始まり

七月は静かに過ぎたが、信長の号令により浅井・朝倉討伐が決定された。信忠が副大将として同行し、静子も出陣を命じられた。軍議では静子が朝倉家への攻撃に集中する方針を示し、秀吉に浅井家攻略を委ねることが確認された。浅井家と朝倉家の連携を断つため、大嶽城の攻略が戦の要となった。

浅井・朝倉戦の準備

信長の出陣に先駆け、足利義昭が京から追放され、室町幕府の実質的な終焉が宣言された。信長は将軍家の領地を接収し、元亀から天正へと改元した。一方、静子は後方支援に徹するため、物資供給の準備を進めた。近江の地形上、軍需物資の安定供給が課題となり、伊勢・美濃・尾張からの輸送体制が整えられた。

古書編纂事業の開始

戦の準備と並行し、静子は古書編纂事業を推進した。公家や寺社の協力を得て、散逸した古書を写本し、体系的に保存する計画が進められた。文化保全の取り組みは朝廷や公家社会からも好意的に受け入れられ、貴重な歴史書の再集結が可能となった。

戦前の穏やかな日常

出陣準備が整う中、静子は動物たちと穏やかな時間を過ごした。畑仕事に精を出し、夏の暑さを凌ぐ工夫を施しながら、束の間の休息を楽しんだ。しかし、その静けさも束の間であった。いくさ装束を身に纏った静子は、決意を胸に出陣の号令を発した。

織田軍の布陣と戦略

織田軍は山田村付近に陣を構え、朝倉軍と対峙した。静子は信忠の傍に陣を置きつつ、主に兵站の管理を担った。焼尾砦と大嶽城の攻略が焦点となり、朝倉軍の撤退を誘う戦略が練られた。浅井・朝倉軍の補給路を断つことで、敵の戦意を削ぐ作戦が展開された。

秀吉との軍議と戦術の提案

秀吉の陣で静子は軍議に参加し、大嶽城を落とせば浅井と朝倉が分断されることを示唆した。これにより、浅井軍が小谷城を防衛するか、奪還に動くかの選択を迫られ、結果的に織田軍が主導権を握る展開となった。秀吉はこの戦略に納得し、具体的な攻撃計画を立案した。

光秀との対話と坂本の発展計画

光秀の陣では坂本の統治について話し合われた。静子は町人の反発を抑えるため、港の建設と水運の発展を提案した。また、琵琶湖を利用した商業ルートの開拓を進言し、坂本の経済発展の道筋を示した。これにより、坂本の町は次第に繁栄する可能性を秘めることとなった。

信長との会談と戦の本格化

信長からの呼び出しを受けた静子は、本陣で軍略について議論した。大嶽城の攻略が決定打となることを述べ、信長もこの見解に同意した。秀吉が計略を練り、戦の主導権を織田軍が握ることが確定した。信長はこの展開に満足し、いくさの成就に向けた準備を加速させた。

戦の幕開け

焼尾砦の攻略が進み、織田軍の圧倒的な物量が浅井・朝倉軍に重圧をかけた。静子は兵站を整えつつ、織田軍の勝利を確実なものとするための準備を進めた。やがて戦の火蓋が切られ、織田軍の総力を挙げた決戦が始まった。

千五百七十三年  八月中旬

焼尾砦の寝返りと織田家の反応

八月十一日、焼尾砦を守っていた浅見対馬守が秀吉の調略を受け入れ、織田側に寝返った。この報は即座に信長へ届けられ、山本山城に続く調略の成功に織田家の家臣たちは動揺した。焼尾砦の陥落により、残るは大嶽城のみとなった。もし秀吉がこれを落とせば、浅井・朝倉討伐の第一功は秀吉のものとなり、織田家内での彼の発言力がさらに増すことが懸念された。一方、静子は権力争いに興味を示さず、淡々と柴田勝家や前田利家の陣へ物資搬入と鉄砲衆の配置を進めた。

天候予測と作戦の準備

翌十二日、史実では雷雨を伴う大雨が降ったとされるが、静子は昼間の雲の動きから、天気の崩れが翌日にずれ込むと予測した。その予想通り、十二日の夜は強風こそあれど、小雨すら降らなかった。慶次は夜空を見上げながら、天気任せの作戦に興じた様子を見せる。静子は彼と策について話し、慶次は「傾奇者らしい策」と笑った。傾奇者たちは策の承認を受け、己の生き様を敵に見せつける覚悟を決めた。

兵站の管理と後方支援の指示

十三日朝、静子は自陣にて中間たちの名簿を確認し、熟練者には報酬を増やすよう指示した。働きに応じた適切な評価を与えれば、兵たちは力を発揮し、士気も高まると考えた。また、道具類の整備や休憩の重要性を説き、軍の効率を維持する方針を徹底した。彼女は自軍の役割を「織田軍の縁の下の力持ち」として誇りを持つよう伝えた。

信忠との対話と焦りの克服

信忠の陣では不穏な空気が漂っていた。彼は静子と共に戦うことを期待していたが、静子が前線に出る気配がないことに不満を抱いていた。彼は秀吉や明智の武功と比べて自身の実績の乏しさに焦りを感じていた。静子は彼に「人生は登山のようなもの」と説き、焦らず己の歩調で進むよう助言した。信忠は静子の言葉を受け入れ、自らの焦りを認識した上で、改めて己の進むべき道を模索した。

大嶽城への電撃戦

八月十三日夜、雷雨が激しさを増す中、信長は馬廻衆を率いて大嶽城へ向かった。しかし、既に信忠が城攻めを開始していた。信長は信忠の独断に驚きながらも笑みを浮かべ、織田軍に突撃を命じた。信忠と信長の電撃作戦により、大嶽城は数時間で陥落した。この報に浅井・朝倉軍は恐慌に陥り、織田軍もその速さに動揺した。秀吉は軍議を開き、信長の意図を測りかねていたが、信長は丁野山城を調略で手中に収め、さらに戦局を有利に進めた。

朝倉軍の撤退と明智の追撃

信長は朝倉軍が夜間に撤退すると断言したが、多くの武将たちはその言葉を信じず、動かなかった。静子は朝倉軍の士気や戦況から撤退の可能性を確信し、光秀に鉄砲衆を貸し与えた。光秀は静子の助言を受け、朝倉軍の殿軍に鉄砲衆の一斉射撃を仕掛けた。朝倉軍は混乱し、統制が崩壊した。その隙に明智軍が襲いかかり、敵兵を次々と討ち取った。朝倉軍は完全に崩壊し、逃走する兵たちは道中のぬかるみに阻まれて蹂躙された。

信長の怒りと光秀の台頭

朝倉軍の殲滅戦が進む中、織田家の武将たちは信長の指示を軽視したことにより、追撃戦に遅れを取った。信長は武将たちを叱責し、光秀に追撃を命じた。この決定により、朝倉討伐の最大の武功は光秀のものとなり、織田家中での地位を確立する契機となった。光秀はさらに静子の軍勢を借り、鉄砲衆と共に朝倉軍の追撃戦に臨んだ。

小谷城攻めの準備と秀吉の動き

静子は秀吉にねねの文を渡すふりをして、極秘の情報を伝えた。秀吉はすぐに竹中半兵衛のもとへ駆け寄り、小谷城攻めの準備を始めた。秀吉の狙いは、小谷城を落とし、さらなる武功を立てることにあった。静子は戦局を俯瞰しながら、戦いの流れを操るように動き、最終的に歴史の転換点となる戦局を築いた。

朝倉軍追撃と分岐点の混乱

明智軍と静子軍は朝倉軍を追撃していたが、越前と近江の国境付近で足を止めた。道が二手に分かれており、どちらを進むべきか判断がつかなかったためである。史実では義景は刀根坂を通ったとされるが、既に史実と異なる展開を迎えており、確証がなかった。地面の足跡を確認しても、両方の道に多数の跡があり、判断材料にはならなかった。

そのとき、兵士たちの間から悲鳴が上がり、一人の男が現れた。それは長可であったが、彼は全身血まみれで、恐怖を感じさせる異様な風貌をしていた。彼は椿坂方面から来たが、そこを通る朝倉兵は一人もいなかったと断言した。その証拠に、彼の周囲には敵兵の死体が散乱していた。これにより、光秀は朝倉軍が刀根坂を通ったと判断し、明智軍はすぐさま追撃を開始した。

長可の殲滅戦と織田軍への合流

長可と慶次の部隊は、朝倉軍を迎え撃つために椿坂で待ち伏せを行っていた。しかし、そこを通る本隊はなく、逃げ遅れた兵士たちを殲滅する形となった。敗走する朝倉兵は長可の姿を見て恐怖に駆られ、前へ逃げようとする者と後退しようとする者が衝突し、大混乱を引き起こした。結果として、朝倉兵は自滅し、長可たちは容易に勝利を収めた。

その後、長可は兵たちを休ませるために本陣へ戻ることにした。一方、静子は明智軍と共に刀根坂を進み、朝倉軍本隊を追撃することを決めた。長可は疲労困憊の兵を率いて本陣に帰還しようとしたが、彼らの姿はあまりに血まみれで、陣の守備兵たちが敵襲と誤認するほどであった。旗印すら血に染まり、混乱が起こりかけたが、威嚇射撃の後、旗を交換することで事なきを得た。

刀根坂の激戦と朝倉軍の崩壊

光秀と静子の軍は、朝倉軍を刀根坂で捉えた。追い詰められた朝倉軍の殿軍は奮戦したが、明智軍の勢いには抗えず、山崎長門守らが討ち取られた。戦線を維持しようとする朝倉軍の家臣たちは決死の反撃を試みたが、静子の鉄砲衆が新式銃の弐式カ弾(貫通弾)を使用し、敵を壊滅させた。

貫通弾は朝倉軍の陣形を破壊し、次々と兵が倒れていった。戦意を失った朝倉軍に対し、明智軍は一気に攻め込み、敵を圧倒した。この戦いで朝倉軍の有力武将は次々と討ち取られ、義景の行方もわからなくなった。明智軍と静子軍は、残されたわずかな敵を掃討しながら、義景の逃亡経路を追った。

義景の逃亡と疋壇城の包囲

敗北した義景は疋壇城へ逃げ込んだ。しかし、静子軍は迅速に移動し、城への道を封鎖した。光秀は義景に対し、降伏を勧告した。もし降伏しなければ、女子供を含めた皆殺しを命じるという厳しい通告であった。この威圧的な提案は効果を発揮し、義景は自ら城門を開いて投降した。

義景と側近たちは、武装を解除されたうえで明智軍の管理下に置かれた。静子は包囲を解除し、軍を整えた後、一乗谷城へ向かった。これにより、朝倉家の滅亡は決定的となった。

一乗谷城の制圧と文化財の保護

静子と光秀は、一乗谷城へ進軍した。住民たちは逃げ出し、町は閑散としていた。光秀は伏兵の警戒を命じるとともに、鳥居景近に降伏を呼びかけさせた。これにより、無駄な殺生を避ける意図があった。

一方、静子は文化財の保護に尽力した。一乗谷には多くの貴重な茶器や書物が残されており、それらを可能な限り回収した。静子軍の兵士たちは規律が保たれており、略奪の心配がなかったため、作業は迅速に進められた。文化財の回収が終わるまで、一乗谷の焼き討ちは先送りされた。

高徳院との対話と景鏡の運命

一乗谷城で静子は、義景の母・高徳院と対面した。高徳院は四葩の処遇について問いただした。静子は、四葩が本願寺に逃れれば一向一揆が起こる可能性があるため、確実に捕らえる必要があると説明した。その結果、一向一揆の危険性を知った四葩は恐怖に震え、抵抗を諦めた。

また、静子は高徳院に景鏡の裏切りを示す書状を見せた。これにより、高徳院は景鏡を許さないと決断し、その処刑を暗に認めた。静子は、この機会を利用し、朝倉家内部の分裂を促す形で景鏡の処断を進めた。

信長の試練と静子の決断

信長はこの戦いを通じて、静子が国人としての資質を持つかを試していた。彼女はこれまで戦場では活躍してきたが、政治的判断においては甘さがあった。信長は静子が冷酷な決断を下せるかどうかを見極めていたのである。

その結果、静子は景鏡を処断し、政治的判断を伴う戦を遂行した。これにより、信長は彼女を国人として認め、さらには尾張の統治すら任せてもよいと考えるようになった。信忠はこれを聞き、静子の重要性を改めて理解し、同時に嫉妬の念を抱いた。

そして、信長のもとに景鏡の首が届けられたことで、静子が試練を乗り越えたことが証明された。

景鏡の裏切りと義景の帰還

朝倉孫八郎景鏡は、朝倉家を裏切り、織田に降る計画を語っていた。しかし、その場には斬首されたはずの朝倉義景が現れ、驚愕した景鏡は恐慌を来たした。義景の背後には側近の鳥居や高橋、高徳院や小少将らが控え、彼を非難する視線を向けていた。景鏡の裏切りは光秀によって誘導され、自ら口を滑らせたものであり、すでに織田家からも見限られていた。義景たちは、景鏡の裏切りの全容を隣室で聞いており、その証拠を突きつける形となった。

義景の決断と景鏡の最期

景鏡は動揺し、義景に責任を押し付けようとしたが、義景は自らの非を認めながらも、景鏡の裏切りを許さなかった。景鏡は織田軍の陣中であることを理由に助命を求めたが、義景は「皆覚悟の上」と斬る意志を曲げなかった。周囲には誰も助ける者はおらず、景鏡の末路は決まっていた。義景の刀が振り下ろされ、景鏡は斬られた。裏切り者の末路として、哀れな最期を迎えたのである。

光秀と義景の最期の対話

景鏡の処断を終えた義景は、光秀に自らの首を差し出すことを申し出た。光秀は、義景の覚悟を認め、彼の最後の願いを聞き入れることを決めた。義景は、自らの過ちを認めつつ、一乗谷の滅亡を見届けることを望んだ。光秀は一瞬迷ったが、義景の決意を汲み取り、その遺志を尊重することにした。義景の処刑が決定され、彼の妻や母である高徳院もその運命を受け入れた。

浅井家の崩壊と秀吉の進撃

朝倉家の滅亡が決定的となり、その報は浅井家へと届いた。秀吉はこの機を逃さず、小谷城への攻撃を開始した。彼の軍勢には静子の鉄砲衆が加わり、圧倒的な火力で浅井側の守備を崩壊させた。浅井の武将たちも次々に寝返り、小谷城は急速に陥落へと向かっていった。秀吉は本丸への道を確保し、浅井久政の討伐へと動いた。

浅井久政の覚悟と長政の葛藤

小谷城の隠し部屋で、浅井久政は長政と再会した。久政は、浅井家の滅亡を悟りながらも、近江を織田に渡すことができないという信念を語った。彼は家臣たちに自由を命じ、孫の万福丸を赤尾に託していた。そして、最後は自ら短刀を手に取り、腹を切った。長政は久政の死を見届け、その首を大事に抱えながら、自らの未熟さを痛感した。彼は、信長の覇道を追うことを決意し、再び立ち上がるのであった。

信長との対話と長政の決意

長政は久政の首を携えて信長の元へ向かった。信長は彼の成長を認めつつ、自らの孤独を語った。天下統一の道は孤独であり、決して立ち止まることは許されないと述べた。長政は、その言葉に心を動かされ、信長の道を共に歩むことを誓った。こうして、長政は自らの生きる道を見つけ、信長の覇道を見届ける決意を固めた。

論功行賞と築城を巡る争い

浅井・朝倉の滅亡により、信長は越前と近江を掌握した。秀吉は北近江を、光秀は越前の一部を治めることとなり、二人は織田家の中核として台頭した。一方、静子には支配地こそ与えられなかったものの、財貨や技術者、文化財が下賜された。その後、秀吉と光秀は築城を巡って対立し、静子は両者の間で板挟みとなった。しかし、信長が北伊勢の鎮圧を命じたことで、静子はその争いから逃れることができた。

信忠の戦果と越後行きの準備

信忠は北伊勢を迅速に鎮圧し、軍を再編するため尾張へ戻ることとなった。その後、信長の命により、上杉家への技術供与の交渉が決まった。静子は当初、自ら越後へ向かうつもりであったが、信長の判断により足満が派遣されることとなった。こうして、静子は越後行きを免れ、代わりに真田家の動向を見守る役割を担うことになった。

真田家の内部分裂と織田への影響

真田家では、親武田派と織田への鞍替え派が激しく対立していた。特に、勝頼の強引な徴税政策が影響し、織田へ寝返る動きが活発化していた。静子は、真田家の動向を注視し、もし織田に従う者がいれば保護する方針を固めた。一方、足満は上杉家との交渉を担い、織田の技術供与を円滑に進める役割を果たすこととなった。こうして、戦国の覇権争いは次の段階へと移行していった。

千五百七十三年  十月中旬

浅井・朝倉家滅亡後の動向

信長は浅井・朝倉家を滅ぼした後、一か月間目立った動きを見せなかった。一方で、秀吉と光秀はそれぞれ信長から任された領地の統治に努め、黒鍬衆の配分を巡る争いを調整した。最終的に街道整備から戻った人員も含め、公平に配分されることとなった。秀吉は初めての城として長浜城の築城を進め、坂本城に匹敵する城を目指したが、資材の優先供給については制限が設けられた。建材価格の引き下げにより、両者の不満を抑える形で決着を見た。

収穫と鮭の養殖

今年の収穫量は昨年並みとなり、病害虫の被害も抑えられた。特に海産物の養殖が好調であり、今年から始めた鮭の養殖も豊漁となった。鮭の回帰率は低いが、人工孵化により一定の向上が見込まれていた。静子は放流数を増やし、人工授精による繁殖強化を指示した。この結果、漁獲量が増加し、商人たちが集まり始めた。近衛の関白就任に伴い、一部の鮭を市場に流さず確保する必要があり、分配についての調整が求められた。

静子の市場視察と本願寺の動向

収穫祭に向けた準備が進められる中、静子は港街で食材の買い付けを行った。彼女が大量の物資を購入することは毎年恒例となっており、商人たちはその動きを商機と捉えていた。この港街には本願寺の下間頼廉が潜入しており、織田の経済力を探るため自ら調査を行った。頼廉は街の快適な環境が間者の士気を奪い、情報収集が困難になっていることを悟った。さらに、静子の経済戦略により尾張の繁栄が確立されていることに気づき、織田を包囲する戦略がもはや無意味であると結論づけた。

静子の経済戦略と本願寺の敗北

頼廉は静子の経済基盤が尾張全体に広がっていることを認識し、これを封鎖することは不可能と判断した。彼女の市場経済の発展が商人を引き寄せ、織田の財源を強化していた。頼廉は調査を続けることに意味がないと悟り、撤退を決意した。静子は頼廉の存在を察知していたが、あえて追跡を指示せず、彼の持ち帰る情報が本願寺内部の士気低下につながることを期待した。

新貨幣制度の導入

信長は金・銀・銅の三貨制度を導入し、経済の安定化を図った。銅貨は永楽銭と同価値とし、銀貨は銅貨百枚、金貨は銀貨十枚と等価と定めた。渡来銭や領国貨幣の使用は段階的に廃止され、尾張と美濃では今年限りで制限されることになった。信長は貨幣改革を二十年かけて実施し、信忠に経済の管理を委ねた。

真田昌幸の出奔と新たな任務

真田昌幸は領地没収の危機に直面し、武田家を離れて静子の下へ逃れた。彼の出奔は計画外の事態を招き、家族を伴ったことで追手を招く結果となった。静子は彼の才覚を評価し、甲斐地方の疫病「泥かぶれ(日本住血吸虫症)」の流行地を特定する任務を与えた。昌幸とその配下は過去の感染地域を記録し、将来的な対策の準備を進めることになった。

武田家の動向と静子の警戒

武田家は窮地に立たされており、追い詰められた鼠のように最後の抵抗を試みる可能性があった。静子はその動きを警戒し、昌幸に徹底した情報収集を命じた。彼女は、油断すれば武田の反撃を許すことになると考え、精密な監視を求めた。

酒豪対決と上杉謙信の禁酒

上杉謙信は酒量制限に反発し、勝負を挑んだ。尾張と越後の酒豪たちが集い、壮絶な吞み比べが行われた。結果、尾張の酒豪・みつおが勝利し、謙信は約束通り馬上盃を割って禁酒を誓った。この勝負の影響で、みつおは「酒神」と称され、周囲からの称賛を受けることになった。

新貨幣の流通と経済改革

静子は新貨幣制度の運用を確認し、商取引に支障が出ないよう調整を進めた。信長は全国統一に向けた貨幣改革を推進し、三年以内に近畿圏での移行を完了させる計画を立てた。違反者には厳罰が科され、貨幣偽造は朝敵と見なされることとなった。静子は大規模な貨幣流通の影響を見極め、新たな経済政策の準備を進めた。

未来を見据えた対策

静子は昌幸に東国の情報収集を命じるとともに、彼の子供たちの将来にも言及した。戦国の世が終われば、武家の男たちの役割も変わる可能性があると示唆し、鍛錬の必要性を説いた。彼女は経済改革、疫病対策、情報収集と多岐にわたる戦略を進め、戦国の世を生き抜くための基盤を着実に整えていた。

書き下ろし番外編『紙上のいくさ』

浅井・朝倉討伐の極秘決定

浅井・朝倉討伐の決定は、ぎりぎりまで将兵に通達されず、重臣ですら正確な日程を知り得なかった。しかし、一部の者には何か月も前から情報が共有され、兵糧や物資の準備が進められていた。物資管理においては、書類上の数字と現物の一致が厳しく確認され、補給の確実性が求められた。予備武具の手配も完了し、補修のための職人確保が急がれた。

兵站軍の役割と重要性

織田軍の兵站を担う部隊は、戦闘を支える環境の整備に従事していた。彼らの業務は物資調達、人員管理、拠点設営など多岐にわたり、膨大な情報を記録するために帳面や鉄筆を常備していた。戦場で戦うことのない彼らは「紙魚もの」と蔑まれることもあったが、兵士の待遇改善に大きく貢献していた。将兵が戦闘に専念できるのは、兵站軍の支援があってこそであった。

兵站軍の組織と運営

兵站軍には細かな階級が設けられ、主計曹長のもとに経理や被服、烹炊を担当する部隊が配置されていた。織田軍全体を動員する今回の遠征では、通常の数倍の物資が必要となり、書類業務も膨大なものとなった。信長と信忠を中心とする本軍に加え、明智軍や羽柴軍の支援も求められ、兵站の負担は増すばかりであった。

補給拠点と兵站の整備

戦争を円滑に進めるため、侵攻ルートの選定に基づき、補給拠点の設置や連絡網の確保が行われた。特に食糧供給は重要であり、烹炊隊が温かい食事を提供する体制が整えられた。兵士たちは烹炊係の認識票を示せば、どこでも食事を受け取ることができた。水源の確保は比較的容易であったが、燃料や調理器具の運搬には綿密な計画が必要とされた。

羽柴軍の支援と兵站の負担軽減

今回の遠征では、秀吉が管理する城や砦が補給基地として活用され、物資の輸送や警備の負担が軽減された。もし野陣を敷くことになれば、全てを自前で賄う必要があり、兵站軍の負担は計り知れないものとなっていた。敵の襲撃を避けながら物資を運搬するには、多くの人員と時間が必要となるため、事前の準備が極めて重要であった。

兵站軍の戦場は戦の前にある

兵站軍の仕事は、戦が始まる前にこそ本領を発揮するものであった。案内人の確保や補給ルートの整備が進められ、戦場の外での戦いが展開されていた。主計曹長のもとには膨大な書類が集まり、決裁が下るたびに命令が発せられ、実働部隊が動き出した。彼らは戦場で槍を交えることはないが、紙の上こそが彼らの主戦場であった。

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こも

いつクビになるかビクビクと怯えている会社員(営業)。 自身が無能だと自覚しおり、最近の不安定な情勢でウツ状態になりました。

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