物語の概要
■ 作品概要
本作は、現代日本を舞台に、神々や霊獣との穏やかな日常を描いた現代ファンタジー(スローライフ)小説である。シリーズ第5巻では、人ならざるものが見える青年・楠木湊が、田舎の一軒家「楠木邸」の管理人として、神々との交流をさらに深めていく様子が描かれる。 物語の主な舞台は、神域へと繋がる不思議な庭を持つ楠木邸。今巻では、近隣の山に鎮座する「山神」への信仰を取り戻すべく、湊が御山のかずら橋の整備に乗り出す。莫大な資金が必要かと思われたが、風神の力を借りた登山道のDIYや、霊獣の加護が宿った木彫り細工の販売など、神々の協力を得ながら目標に向かって奔走する姿が中心となる。
■ 主要キャラクター
- 楠木湊(くすのき みなと): 本作の主人公。24歳の青年で、文字に祓いの力を宿す特殊な能力を持つ。親戚から「曰く付き物件」である楠木邸の管理を任され、そこに集う神々のお世話を焼く。穏やかで人当たりの良い性格だが、悪霊をいとも簡単に一掃する規格外の力も併せ持つ。
- 山神(やまがみ): 楠木邸の隣にある山を司る偉大な神。大きな白い狼の姿をしている。威厳ある存在だが、大好物の和菓子を前にすると理性を失うほど喜ぶなど、茶目っ気のある一面を持つ。湊のよき理解者であり、邸の中心的な「隣神」である。
- セリ、トリカ、ウツギ: 山神の眷属である3匹のテン。洋菓子が大好きで、本作の「もふもふ要素」を担う。今巻では人間に慣れようと努力したり、新入りの面倒を見たりと、彼らなりの成長が描かれる。
- 播磨才賀(はりま さいが): 国家機関・陰陽寮に所属するエリート陰陽師。湊の力を頼って邸を頻繁に訪れる。今巻では、隣町で発生している不穏な気配や、退魔師との縄張り争いに巻き込まれ、多忙を極める立場として登場する。
■ 物語の特徴
- 「癒やし」と「もふもふ」の調和: 神々や霊獣たちが湊の作る料理や菓子を楽しみ、庭でくつろぐ様子が丁寧に描写されている。読者に強い「癒やし」を与えるスローライフ要素が本作最大の魅力である。
- 現代ファンタジーとDIYの融合: 今巻の特徴として、神域の整備を「DIY」という現実的な手法と「神の力」という超常的な手法を組み合わせて行う点が挙げられる。資金調達のために霊獣の加護を活かすなど、世俗的かつファンタジックな問題解決プロセスが興味深い。
- 不穏な伏線と日常の対比: 基本的にはほのぼのとした日常が続くが、背景では陰陽師側の深刻な事態や悪霊の増加など、不穏な空気が漂い始めている。この平和な日常と差し迫る異変のギャップが、物語に絶妙な緊張感を与えている。
書籍情報
神の庭付き楠木邸 5
著者:えんじゅ 氏
イラスト:ox 氏
出版社:KADOKAWA(電撃の新文芸)
発売日:2023年8月17日
ISBN:9784049150636
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あらすじ・内容
隣神との賑やかスローライフ、もふもふマシマシな第五弾!
山神の信仰を取り戻すため、御山のかずら橋の整備を始める湊。莫大な資金が……と思ったら、風神の力で登山道をDIYできたり、四霊の加護たっぷりの木彫り細工が高値で売れたり、意外と早く実現しそう!?
そんな湊を見て、ウツギたちも人間に慣れようとしたり、弟分(?)の神霊エゾモモンガの世話を焼いたり、頑張り始めて……。
一方、悪霊シーズンが終わったはずの陰陽師はなぜか忙しそう。街に何やら違和感が……?
隣神との賑やかスローライフ、もふもふマシマシな第五弾!
感想
読み終え、今回も「もふもふ」とした癒やしの密度が極めて高い一冊であった。
湊と神々が織りなす穏やかな日常を楽しみつつも、物語の背後に忍び寄る不穏な気配が、心に強く残っている。
特に印象に残ったのは、以前助けた若い神様がついにその姿を現した場面である。まさかのエゾモモンガという愛くるしい姿で登場し、その可愛らしさに思わず頬が緩んだ。ボール遊びを通して少しずつ体の使い方を学んでいく様子は、まるで幼い子供の成長を見守っているかのようであり、微笑ましさが込み上げてくる。また、田んぼの神様といった新しい神々の登場や、播磨の親族が加わったことで、キャラクター陣営が一段と賑やかになった点も非常に喜ばしい。
一方で、物語の背後に忍び寄る不穏な気配も無視できない要素である。今回は播磨一族がしっかりと存在感を示していたが、彼らの周囲では地味ながらも「きな臭い」事態が進行しているようだ。この不穏な空気はしばらく続きそうな予感があり、日常の平穏との対比が物語に緊張感を与えている。
最も心に引っかかったのは、楠木邸の内と外との鮮烈な対比である。邸内が神々しいほどに清浄である一方で、一歩外へ出れば悪霊や穢れが繁殖し、状況が悪化している事実に衝撃を受けた。悪霊のシーズンは終わったはずなのに、なぜこれほどまでに外の世界で穢れが酷くなっているのか。その根本的な原因がいったい何であるのか、非常に気になるところである。
神々との温かなスローライフを存分に堪能できる一方で、確実に忍び寄る異変の正体から目が離せない。癒やしとミステリーが絶妙に混ざり合った、極めて読み応えのある巻であった。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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登場キャラクター
楠木邸および御山の守護者
楠木湊
楠木邸の管理人を務める青年である 。文字に「祓い」の力を込める異能を持つ 。神域の庭を維持しながら、神々や霊獣と交流を深めている 。
- 所属組織、地位や役職
楠木邸・管理人 。 - 物語内での具体的な行動や成果
護符を作成して陰陽師の播磨才賀へ提供した 。自らの力を用いて御山の登山道を整備した 。迷子になった大黒天の眷属を救い出した 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
四霊の加護を一身に受けている 。退魔師の間では「くすのきの宿の守護神様」として知られている 。
山神
御山を守護する大狼の姿をした神である 。和菓子をこよなく愛しており、地域情報誌で新作を常に確認している 。湊を信頼しており、眷属たちの修行や庭の管理を共に行う 。
- 所属組織、地位や役職
御山の守護神 。 - 物語内での具体的な行動や成果
和菓子の新作情報を見落として大気を震わせる異変を起こした 。湊の代わりに庭への水まきを代行した 。眷属や神霊のために特別な装備や玩具を製作した 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
神域の時間を操作する力を持つ 。楠木邸に内見希望者が近づけないよう神域で操作している 。
セリ
山神に仕える三匹のテンの眷属の一匹である 。落ち着いた性格で、他の眷属を客観的に観察している 。湊が書く文字の香りを好む 。
- 所属組織、地位や役職
山神の眷属 。 - 物語内での具体的な行動や成果
護符を持たずに町へ出て人間に慣れる修行を行った 。路上で悪霊を見据えて退散させた 。喉を詰まらせた新入りの神霊を介護した 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
山神から新調されたウエアハーネス型のリュックを授かった 。
トリカ
山神に仕える三匹のテンの眷属の一匹である 。神々の性質や世界の仕組みに詳しく、湊へ丁寧に説明を行う 。冷静に状況を判断する能力を持つ 。
- 所属組織、地位や役職
山神の眷属 。 - 物語内での具体的な行動や成果
白いネズミの眷属が大黒天のものであると見抜いた 。石灯籠の神霊にお茶を運んで交流を図った 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
山神から専用のリュック型装備を褒美として受け取った 。
ウツギ
山神に仕える三匹のテンの眷属の一匹である 。活動的な性格で、新しいものや場所への興味が強い 。山神の伝言役を自ら買って出ることもある 。
- 所属組織、地位や役職
山神の眷属 。 - 物語内での具体的な行動や成果
十和田記者へ神託を届ける任務を遂行した 。時間を操作して丸太を乾燥させる技術を習得した 。新入りの神霊にどら焼きを差し出して仲良くなった 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
初めての海を泳いで満喫した 。
クスノキ
湊の庭にそびえる神木である 。霊亀から授かった種が神水と神気の恩恵を受けて急成長した 。湊の問いかけに枝を揺らして応える意思を持つ 。
- 所属組織、地位や役職
楠木邸の御神木 。 - 物語内での具体的な行動や成果
定期チェックに来た派遣者の膝裏を枝で叩いた 。湊を驚かせないよう紅葉を我慢していた 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
その枝は破邪の力を持つため、湊の実家や播磨家へ分け与えられた 。
神霊(エゾモモンガの姿の神霊)
楠木邸の石灯籠に住み着いた新入りの神霊である 。エゾモモンガの姿をしているが、中身は幼い子供に近い 。まだ周囲を警戒しているが、湊のみかんには反応を示す 。
- 所属組織、地位や役職
楠木邸・新入りの神霊 。 - 物語内での具体的な行動や成果
湊から差し出されたみかんを上手に食べた 。山神から与えられたボールを使って歩行訓練を開始した 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
以前は剣に閉じ込められていた経緯を持つ 。
応龍
楠木邸の滝壺に住まう四霊の一柱である 。強力な力を持ち、空模様を操ることができる 。以前よりもその力は増大している 。
- 所属組織、地位や役職
楠木邸の守護霊獣・四霊 。 - 物語内での具体的な行動や成果
一条の光を放って雨雲を散らし、晴天をもたらした 。湊が作った木彫りの舟を浮かせてクスノキまで運んだ 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
自らの抜け殻を舟の帆の材料として湊へ提供した 。舟へ「災いをはねのける加護」を付与した 。
霊亀
楠木邸に住まう四霊の一柱である 。落ち着いた性格で、他者の行動をたしなめることもある 。
- 所属組織、地位や役職
楠木邸の守護霊獣・四霊 。 - 物語内での具体的な行動や成果
湊の作った舟へ加護を与えるよう麒麟へ促した 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
自らの抜け殻を木彫りの舟の帆として提供した 。その姿は湊によって木彫りの題材にされた 。
麒麟
楠木邸に住まう四霊の一柱である 。水の味の違いを言い当てるなど、鋭い感覚を持つ 。湊の力の変化を正確に把握している 。
- 所属組織、地位や役職
楠木邸の守護霊獣・四霊 。 - 物語内での具体的な行動や成果
いづも屋まで湊に同行し、店員を驚かせた 。十和田記者を救うため、白虎の力を借りて山神の使いを演じた 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
自らの鱗が使われなかったことに落胆する一面を見せた 。木彫りの舟に「悪縁を弾く加護」を強力に付与した 。
鳳凰
楠木邸に住まう四霊の一柱である 。自由奔放な性格だが、急に眠気に襲われる体質を持つ 。
- 所属組織、地位や役職
楠木邸の守護霊獣・四霊 。 - 物語内での具体的な行動や成果
山神が作った花手水を良い水飲み場だと評価した 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
眠りに落ちるとひよこの姿に変化する 。
風の精
御山や湊の周囲に漂う目に見えない精霊たちである 。湊を慕っており、彼の身を常に守護している 。片言の言葉で湊に情報を伝えることもある 。
- 所属組織、地位や役職
風の精 。 - 物語内での具体的な行動や成果
ネズミを返さない男たちへ突風を吹きつけ威嚇した 。湊が登山道の藪を刈るのを穴を開けて手伝った 。
陰陽師(播磨家および関係者)
播磨才賀
国家公務員として働く陰陽師である 。湊の力を高く評価しており、定期的に護符を買い取っている 。冷静沈着だが、悪霊に対して拳を振るってしまう癖がある 。
- 所属組織、地位や役職
陰陽師 。 - 物語内での具体的な行動や成果
河川敷に現れた人型の悪霊を爆散させて退治した 。洋館での悪霊祓いを完遂した 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
湊の護符の価値を正当に理解している数少ない人物である 。
由良
播磨才賀の部下であり、後輩でもある陰陽師の補佐役である 。悪霊を認識できるが祓う力は持たず、体調を崩しやすい体質である 。勇敢な性格で、無茶をすることもある 。
- 所属組織、地位や役職
陰陽師(補佐役) 。 - 物語内での具体的な行動や成果
新人の陰陽師を庇いながら悪霊に対峙した 。住宅街の空き家に漂う瘴気に気づき、播磨へ報告した 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
播磨の妹である藤乃と結婚する予定である 。
播磨宗則
播磨才賀の父である 。神秘的な存在を愛しており、護符や霊獣の鱗を収集することを趣味としている 。悪霊に憑かれやすい体質を持つ 。
- 所属組織、地位や役職
播磨家当主 。 - 物語内での具体的な行動や成果
湊によって背中の悪霊を祓われた 。山神の使いを装い、十和田記者へ木彫りを届ける大役を支援した 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
湊の四霊の加護を見抜く目を持っている 。
播磨椿
播磨才賀の姉である 。圧倒的な存在感を放つ美人で、男言葉で話す豪快な性格を持つ 。家族を大切に思っている 。
- 所属組織、地位や役職
播磨家・長女 。 - 物語内での具体的な行動や成果
湊に絡んでいた中年男を一瞬で気圧して退散させた 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
美貌を武器として活用する播磨家の女性の一人である 。
播磨藤乃
播磨才賀の妹である 。薙刀を武器として操り、悪霊を効率よく祓う能力を持つ 。現実的な視点を持っており、不遇な立場の一条を冷ややかに見ている 。
- 所属組織、地位や役職
陰陽師 。 - 物語内での具体的な行動や成果
水門に群がる大量の悪霊を薙刀で一掃した 。取り憑かれた嫗から悪霊だけを引き剥がした 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
退魔師の鞍馬から「守護神様」の噂を聞き、実家の品との関連を疑った 。
葛木
播磨才賀とともに仕事をする術者である 。ぬいぐるみの姿をした特殊な式神を二体操る 。播磨とは軽口を言い合える仲である 。
- 所属組織、地位や役職
術者 。 - 物語内での具体的な行動や成果
式神のサメとペンギンを使い、洋館内の悪霊を捕食させた 。河川敷での悪霊祓いに従事した 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
父は非常に強力な術者であり、シャチ型の式神「三号」を所有している 。
新人の陰陽師
陰陽道宗家四家の一つに属する若者である 。真面目だが経験が浅く、手柄を焦って先走る傾向がある 。播磨家に対しては複雑な立場にある 。
- 所属組織、地位や役職
陰陽師 。 - 物語内での具体的な行動や成果
河川敷の悪霊祓いで、飛来した人型の悪霊に弾き飛ばされた 。失敗を播磨に謝罪し、次に活かすことを誓った 。
退魔師
安庄
泳州町を中心に活動する大柄な退魔師である 。陰陽師を激しく敵視しており、縄張りに踏み込むことを許さない 。高圧的な態度を取るが、仕事にはプライドを持っている 。
- 所属組織、地位や役職
退魔師 。 - 物語内での具体的な行動や成果
現場に現れた播磨たちに対し、ここは退魔師の陣地だと主張して追い払った 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
同業者の鞍馬からは実力不足を厳しく指摘されている 。
鞍馬
若くして並外れた霊力を持つ退魔師である 。安庄たち同業者に対しても容赦なく、悪徳商売を嫌う高潔な面を持つ 。湊の作品の価値を正確に理解している 。
- 所属組織、地位や役職
退魔師 。 - 物語内での具体的な行動や成果
縄張り争いをしていた安庄たちを一言で退散させた 。湊の作品を「守護神様」のものとして、播磨藤乃に情報を伝えた 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
湊の作品が温泉郷の治安維持に貢献していることを語った 。
一条
退魔師側の陣営に属する男である 。安庄に挑発的な態度を取り、現場の混乱を招く原因となった 。
- 所属組織、地位や役職
退魔師 。 - 物語内での具体的な行動や成果
悪霊との混戦中に安庄と言い争いを続け、人型悪霊を取り逃がす失態を演じた 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
藤乃からは「足手まとい」と断じられている 。
神・霊獣・妖怪
田神
水田を守護するカカシの姿をした神である 。人間への興味が強く、交流を望んでいるが、不器用なため人々を驚かせてしまう 。湊には心を開き、助言を素直に受け入れる 。
- 所属組織、地位や役職
田の神 。 - 物語内での具体的な行動や成果
地蔵に供え物を持ってきた翁を不意打ちで驚かせた 。湊への返礼として六十キロの新米を出現させた 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
湊の魂を覗き込み、彼の力が未回復であることを看破した 。
ツムギ
北部の稲荷神社を拠点とする黒狐の妖怪である 。以前より湊の温泉を気に入っており、時折訪れる 。
- 所属組織、地位や役職
稲荷神社の狐 。 - 物語内での具体的な行動や成果
よそとの揉め事でやさぐれた姿になり、回復を求めて楠木邸へやって来た 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
拠点とする神社は人間から「本物の神がいる社」として知られつつある 。
えびす神
七福神の一柱であり、日本の神である 。湊の祖父と交流があり、楠木邸で酒を酌み交わしていた 。湊には親しみやすく接している 。
- 所属組織、地位や役職
七福神 。 - 物語内での具体的な行動や成果
眷属である鯛を遣わし、迷子になったネズミを迎えに来させた 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
自分の絵柄の酒がないことを残念がっていた 。
白いネズミの眷属(大黒天の眷属)
大黒天に仕える純白で金粉をまとった小さなネズミである 。非常に幼く、人の言葉は話せない 。はしゃぎすぎて迷子になっていた 。
- 所属組織、地位や役職
大黒天の眷属 。 - 物語内での具体的な行動や成果
人間に捕まっていたところを湊によって助け出された 。鯛の眷属の体内に収まり、無事に元の場所へ帰還した 。
古狸(タヌキの妖怪)
御山に棲む古い妖怪である 。姿を変える技術に長けており、湊の声を真似るなどのいたずらを行う 。
- 所属組織、地位や役職
御山の妖怪 。 - 物語内での具体的な行動や成果
登山道を整備中の湊を声真似で惑わした 。正体を見破られたあとは茶色い毛むくじゃらの姿を晒した 。
擬態していた妖怪
岩のふりをして登山道に潜んでいた黒い毛むくじゃらの妖怪である 。湊が岩を割ろうとしたため、慌てて逃げ出した 。
- 所属組織、地位や役職
御山の妖怪 。 - 物語内での具体的な行動や成果
岩に擬態していたが、湊に正体を見破られると小さくなって逃げ去った 。
妖怪たち
御山に棲む数多くの妖怪の集団である 。友好的な存在が多いが、湊に構ってほしがる面も持っている 。
- 所属組織、地位や役職
御山の妖怪 。 - 物語内での具体的な行動や成果
山神の「掃いて捨てるほどいる」という発言に、捨てないでほしいと一斉に悲鳴を上げた 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
御山が魔境と呼ばれる要因となっている 。
一般人およびその他の協力者
十和田
地域情報誌「和菓子特集」を担当する記者である 。悪霊に非常に憑かれやすく、湊から何度も助けられている 。山神を深く信仰している 。
- 所属組織、地位や役職
武蔵出版社・記者 。 - 物語内での具体的な行動や成果
山神からの「土佐家の特集を組め」という神託をウツギから受け取った 。麒麟から霊亀の木彫りを授かり、悪霊から守られることになった 。
裏島
四年前、田神の神域に迷い込んで行方不明となっていた女性である 。外界との時間の差により、浦島太郎のような状況に置かれているが、前向きに生きている 。
- 所属組織、地位や役職
一般人 。 - 物語内での具体的な行動や成果
買い出し中の湊と地蔵の前で再会し、近況を語り合った 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
田神がもたらした豊作の恩恵を理解しており、恨みを持っていない 。
日向
湊が信頼を置く工務店の親方である 。鳳凰の祝福を受けており、鳥たちに非常に好かれている 。湊の相談に親身に応じる協力者である 。
- 所属組織、地位や役職
日向工務店・親方 。 - 物語内での具体的な行動や成果
かずら橋の修繕相談を受け、より詳しい伝手を持つ出羽前社長を紹介した 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
庭に多くの巣箱を設置し、小鳥たちと会話するかのように接している 。
出羽
建設会社の元社長であり、湊に全面的な協力を行う老人である 。湊の持つ加護の力を無意識に感じ取っている 。神の眷属に対しても冷静で穏やかに接することができる 。
- 所属組織、地位や役職
出羽建設会社・前社長 。 - 物語内での具体的な行動や成果
一本の電話でかずら橋工事の職人たちを迅速に確保した 。湊の連れていたテンたちにお菓子を勧めてもてなした 。
いづも屋の店員
和雑貨店の店員だが、不気味な雰囲気を漂わせる人物である 。神霊や縁起物に対して極めて深い知識と執着を持っている 。商売人として湊の作品を高く評価している 。
- 所属組織、地位や役職
和雑貨店「いづも屋」店員 。 - 物語内での具体的な行動や成果
湊の木彫りに使われたクスノキが最高格の神木であることを見抜いた 。舟の木彫りを顧客たちに値を決めさせる形で販売することを提案した 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
四霊の抜け殻が国家間の争いの火種になるほどの宝であることを湊に教えた 。
派遣者(榊の代理人)
楠木邸の相続人である榊から派遣された定期チェック担当の男である 。神域の庭や神々を一切認識することができない普通の人間である 。
- 所属組織、地位や役職
不動産管理担当者 。 - 物語内での具体的な行動や成果
邸内を磨き上げた湊を称賛した 。来月末の内見希望者の知らせを湊へ届けたが、後にキャンセルとなったことを伝えた 。 - 地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
山神の放つ神気に恐れをなして退散した過去を持つ 。
タツヤ
以前、湊の実家で除霊を受けたことがある筋肉質の男である 。龍神の導きを信じて行動しており、腕力にも自信を持っている 。
- 所属組織、地位や役職
一般人(龍神の信奉者) 。 - 物語内での具体的な行動や成果
当たり屋に絡まれていた湊を助け、相手の肩を痛めつけて追い払った 。
嫗(悪霊に取り憑かれた老女)
町を歩いていた際に人型の悪霊に取り憑かれた老女である 。播磨兄妹によって救われた 。
- 所属組織、地位や役職
一般人 。 - 物語内での具体的な行動や成果
播磨藤乃に薙刀で悪霊を引き剥がされ、播磨才賀によって完全に浄化された 。買い物袋を落とした際に若い男たちに助けられた経験を持つ 。
靴下猫
楠木邸を時折訪れる黒い靴下を履いたような模様の猫である 。神域の気配に慣れており、湊を誘導することもある 。
- 所属組織、地位や役職
楠木邸・近所の猫 。 - 物語内での具体的な行動や成果
町で衰弱した眷属たちを抱える湊の前に現れ、休息に最適な静かな空き家へ案内した 。
展開まとめ
第1章 食後のお仕事
護符をめぐる検証
昼過ぎから雨が降り出したが、御山に守られた楠木邸には一滴も落ちていなかった。縁側では楠木湊と陰陽師の播磨才賀が座卓を挟んで向かい合い、仕事をしていた。昼食を終えたばかりの二人のそばには山神と三匹の眷属が控え、大狼の姿の山神は縁側の中央で気ままに寝転がっていた。播磨の部下である由良は敷地外の車で待機しており、湊は肉と山菜を差し入れていた。
湊の前には播磨が持参したさまざまな術者の符が並んでいた。湊は他人の護符を見てみたいという理由で依頼していたが、持ち込まれた数の多さに驚いていた。湊は最近、護符に和菓子の名前を書いていることに疑問を持ち始めていた。町で見かけた「悪霊退散」と書かれた護符がきっかけであり、自分もそれらしい文言を書くべきではないかと考えたのである。しかし播磨は、文字や図案自体に効力はなく、重要なのは書き手の霊力であると説明した。
さらに播磨は、湊の力は陰陽師の霊力とは異なり、悪霊や穢れを祓うことに特化した能力であると語った。そのため播磨家では湊の符を「護符」と呼び、対象物を守る効果が高いものとして扱っているという。湊は自分の護符に和菓子の名前が書かれていることを恥ずかしいのではないかと気にしていたが、播磨は気にしたことはないと答えた。
退魔師の呪符の存在
播磨は一枚の紙を取り出し、そこに描かれたシャチの絵を湊に見せた。躍動感ある水墨画のような絵であり、文字は端に申し訳程度に添えられていた。その呪符は湊の護符に匹敵するほどの除霊効果を持っていたが、すでに使用済みであり、文字が浮かび上がることで効力が切れる仕組みだった。
この呪符を作った人物は陰陽師ではなく、民間で悪霊を祓う退魔師であると播磨は説明した。国家公務員である陰陽師とは異なる存在であり、湊はそのような者たちがいることを初めて知った。
山神の和菓子騒動
その頃、山神は地域情報誌の和菓子特集を眺めていた。記事は武蔵出版社が発行したもので、市内の和菓子屋が網羅されている特集号であり、山神のお気に入りであった。誌面を眺めていた山神は、土佐家の新作黒糖まんじゅうの記事を見落としていたことに気づき、激しく動揺した。
怒りと悔しさにより山神の周囲の空気は荒れ、大気が鳴り、風が渦巻き、窓が軋むほどの異変が起こった。播磨は驚いたが、湊は落ち着いて対処し、茶を入れる準備を始めた。湊が山神にお茶が入れられないと声をかけると、風は瞬時に収まり、山神は茶の香りで落ち着きを取り戻した。
神託騒動とウツギの出発
落ち着いた山神は、和菓子記事の担当記者である十和田へ神託を送ろうとした。次号の記事で土佐家の特集を組むよう伝えようとしたのである。しかしその神託はウツギによって遮られ、代わりに自分が直接伝えに行くと申し出た。
山神はウツギに伝言を託し、目的地へ導く金色の糸を示した。ウツギは勢いよく駆け出し、塀を飛び越えて南部へ向かっていった。山神と眷属たちのやり取りは、神託のように厳かな雰囲気を帯びていたが、実際には和菓子記事に関する伝言であった。
護符取引の継続と播磨の依頼
騒動が収まった後、湊は今日の護符を播磨に渡そうとした。播磨はそれを受け取った後、湊に失敗作があるかを尋ねた。祓いの力をうまく閉じ込められなかった符のことであり、湊は数枚あると答えた。播磨はそれも買い取りたいと頼み、半値で譲ってもらうことで話がまとまった。
別れ際、播磨は南部方面へ行く場合は注意するよう忠告した。
ウツギの帰還と梅雨の始まり
その直後、南部の空に雷が走り、落雷を背にウツギが戻ってきた。十和田に伝言を届けたうえ、憑かれかけていた悪霊も祓ってきたと陽気に報告した。
やがて播磨は土砂降りの雨の中を帰っていった。縁側では湊と山神が再び静かに茶を飲み、梅雨の長雨の到来を語り合った。登山道の確認もしばらく先になりそうだと話しながら、湊は疲れのため横になるとすぐ眠りに落ちた。山神はその様子を見守りながら、残りの羊羹をゆっくりと味わっていた。
異能の回復と登山道の確認
数日後、ようやく晴天が訪れた。その間、楠木湊は祓いの力や神々の力を一度も使わず、管理人としての仕事だけを続けていたため、異能の根源は完全に回復していた。山神にその感覚を忘れるなと告げられた湊は、意識を集中することで身体の中心に満ちるあたたかな感覚を捉え、自らの力は意識しなければ知覚できないものだと改めて理解した。
その後、湊はウツギとともに山へ登り、かずら橋と登山道の状態を確認した。登山道には無数の岩が落ちており、それらは風神によるものだと眷属から聞かされていた。湊はその後始末を自分が担うべきだと感じ、風を操れる自分の力でどうにかできるだろうと考えていた。
かずら橋の老朽化と湊の判断
一方で、かずら橋の傷みは深刻であった。ツルは朽ちて切れる寸前に見え、素人目にも危険な状態だった。湊はどう対処すべきか悩んだが、ウツギは全部落として一本の木に換えればよいと気軽に提案した。
しかし湊は、それができたとしても人が通る橋である以上、安全第一でなければならないと考えた。知識のない自分が勝手に架け替えてよいものではないと判断し、専門家を探すべきだと結論づけた。珍しい橋であるため職人は少ないだろうが、完全に落ちる前に見てもらう必要があると考え、まずは地元の人に尋ねようとした。そこで工務店の親方である日向に相談することを思いついた。
ウツギの同行願い
湊が翌日に日向のもとへ行くつもりだと告げると、ウツギは自分たちもついていってよいかと尋ねた。湊はもちろん構わないと答え、その申し出を珍しく感じた。普段は引きこもりがちなウツギだったが、この時はどこか緊張を帯びた様子を見せていた。湊にはその理由はわからなかったが、背を向けたウツギの小さな後ろ姿には、これから何かに臨むような張りつめた気配があった。
新入りの神霊と晴天への願い
ウツギに送られて家へ戻った湊は、裏門をくぐったところで、石灯籠へ駆け込む白い影に気づきながらも、あえて気づかないふりをした。それは山神家の新入りである神霊で、エゾモモンガの姿をしていた。湊が不在の時だけ庭に現れる存在であり、まだ正面から顔を合わせる気はないらしかった。湊は以前、夏みかんで釣ろうとしたことを思い返し、近いうちに別の食べ物でもう一度試してみようと考えた。
その後、庭の太鼓橋の上で空を見上げた湊は、遠くに見えない雨雲の気配を感じ取り、翌日も晴れてほしいと願った。すると滝壺から応龍が現れ、まだ見えぬ雨雲へ鼻先を向けた。そして口から放たれた一条の光が空を走り、遠方の灰色雲を貫いて散らした。空には再び一面の青が広がり、翌日も晴天になることが確かなものとなった。
その光景を見ていたクスノキは、樹冠を揺らして楽しげに応えていた。
第2章 今回は物見遊山となるか
護符なしで人混みに挑んだ眷属たち
晴天となった翌朝、楠木湊は三匹の眷属を連れて日向工務店へ向かった。北部の目抜き通りに近づくにつれ人通りは増していったが、湊のバッグに入ったメモ帳はまっさらなままだった。これは出発前にセリから、何も書かずに外出したいと申し出があったためである。眷属たちは人間に慣れたいと考えていたが、普段なら湊が書く祓いの文字によって守られているため、今回は護りのないまま人の群れに入ることになった。
その結果、魂から微量の悪臭を発する人間たちに囲まれた眷属たちは強い苦痛を受けた。鼻だけでなく眼や喉、脳にまで影響が及び、ついにはウツギがよろめき、湊は三匹を抱えて横道へ逃げ込んだ。セリとトリカも衰弱しきっており、ウツギは吐いてしまうほど限界に達していた。
靴下猫に導かれた避難場所
見知らぬ住宅地の路地で休める場所を探していた湊の前に、顔なじみの黒い靴下猫が現れた。猫は返事をせずに先を歩き、湊たちを緑に覆われた元住居らしき場所へ案内した。そこは不気味な外観ではあったが、風通しがよく、人の気配も少ないため、眷属たちが呼吸を整えるには十分な場所だった。
湊は感謝を告げて敷地に入り、三匹を草の上に下ろした。しかし彼らの体調はすぐには戻らず、炭酸水すら受けつけなかった。
湊の文字が持つ癒やしの力
そこで湊はメモ帳を取り出し、神水で磨った墨を用いて山神の名を書いた。具合がよくなるよう願いと祓いの力を込めたその文字からは光と爽やかな香りが放たれ、眷属たちを包み込んだ。三匹は一斉にそれへ群がり、たちまち体調を回復させていった。
セリたちによれば、湊の書く文字そのものから爽やかな香りがしていた。湊はそのことを初めて知ったが、山神の香りの方が強いため気づかなかったのだと説明された。三匹は回復後も帰宅を拒み、人に慣れるために先へ進む意思を示した。やがて湊は、さっき書いた文字が消えていることに気づいたが、これは三匹がその力を吸い取ったためだった。
人に慣れようとする眷属たちの本心
再び人通りの多い道へ戻ると、眷属たちはまだ悪臭に苦しみながらも前進を続けた。人のそばをかすめただけで大げさに避ける場面もあったが、それでも彼らは慣れなければならないと語った。理由は、将来山に多くの人が入ってくる可能性があるからであった。
湊が山に人が来ることは嫌かと尋ねると、セリたちは人間そのものを嫌悪しているわけではないと答えた。ただし、人が来るようになれば山が変わらざるをえず、いまの居心地のよさを失いたくないという不安を抱いていた。彼らが無理をして人に慣れようとしていたのは、湊が山へ人を呼び込もうとしていることを理解し、その変化に備えるためだった。
鳥に好かれる親方との再会
やがて一行は日向工務店に到着した。隣接する家屋の庭には巣箱が数多く設置され、小鳥たちが活発にさえずっていた。そこに現れた親方は、鳥たちに餌が足りたかと声をかけており、鳳凰の祝福によって鳥に好かれる存在となっていた。
湊がかずら橋の件を相談すると、親方は自分のところでは請け負えず、職人の知り合いもいないと答えた。だが、伝手を持っていそうな人物として泳州町の出羽前社長を紹介してくれた。親方は手描きの地図と名刺を渡し、何かあればそれを見せるよう勧めた。
クジラのモニュメントと海への興味
親方の案内通りに進んだ湊たちは、町境近くで巨大なシロナガスクジラのモニュメントに出くわした。御山からしか海を見たことのない眷属たちは、その大きさに驚き、海を水たまりのようなものと捉えていた。湊はそれが実物大に近いこと、このあたりの海にはいない種であることを説明した。
その流れで、用事が済んだら海へ行ってみるかと湊が提案すると、ウツギをはじめ眷属たちは珍しく強い興味を示した。外の世界に関心を向ける姿は極めて珍しく、湊はぜひ連れていこうと考えた。
出羽前社長による迅速な手配
その後、一行は出羽建設会社を訪れ、たまたま会社に来ていた前社長の出羽翁と会うことができた。応接室へ通された湊たちは、出羽が一本電話をかけただけで、かずら橋工事の経験を持つ熟練の職人たちを確保したと知らされた。職人たちは仕事の少ないかずら橋工事をぜひ請け負いたいと望んでおり、必要なかずらも十分に確保できるという。
すべてがあまりに順調に進んだのは、湊が持つ四霊の加護の恩恵によるものであった。湊は深く感謝し、出羽もまた快く応じた。
眷属を受け入れる出羽翁
出羽は焼き菓子の詰まった盆を持ってきて、湊だけでなく姿を隠した眷属たちにも食べるよう勧めた。出羽は彼らの存在をきちんと認識しており、神の眷属を相手にしているにもかかわらず、構えすぎることなく穏やかに接した。ウツギは目を輝かせてクッキーを選び、トリカとセリも礼を述べてそれに続いた。
湊は、普段あまり人と直接関わることのない三匹が自然に接している様子を黙って見守っていた。出羽の柔らかな応対は、眷属たちにとって貴重な経験となっていた。
高額な工事費と湊の決意
しかし出羽は同時に、橋梁工事にはかなりの費用がかかると告げた。修繕でも一千万を軽く超え、架け替えとなれば二千万に達するかもしれないという。湊は高額さに驚きながらも、必ず支払うと強く言い切った。いますぐ満額を用意できるわけではなかったが、それでも支払う覚悟を固めたのである。
人間への見方の変化
出羽建設会社を出た湊たちは、海へ向かう途中で再び人間たちの様子を見ることになった。まず、向かいの歩道で買い物袋を落とした嫗の果実を、近くにいた若い男たちが無言で手際よく拾い集め、何事もなかったように立ち去っていった。湊は安堵し、その光景を見たセリは、ああいう人間たちもいるのだと静かに述べた。
さらに横断歩道では、車列が止まった理由がカルガモの親子の横断であることが判明した。二人の警官が親子を見守りながら誘導し、無事に渡り終えると車は動き出した。のどかな光景に湊たちは和み、ウツギは楽しそうに宙返りをした。
風の精と悪霊の存在
その後、いつもの風の精たちが現れ、湊たちをバス停まで送ろうとした。だが湊は強すぎる風による移動を丁重に断り、自分の足で進んだ。
バス停近くでは神社の鳥居が見え、その脇の梅の木陰に人型の悪霊が潜んでいた。セリがそれを鋭く見据えると、悪霊は震え上がって空へ逃げ去った。セリはそれを追わず、ろくでもないものはどこにでもいると嘆息しながら、先を行く湊たちに追いついていった。
初めての海との出会い
海へ行こうと聞いて湊が思い浮かべたのは崖に波しぶきが砕ける荒々しい景観ではなく、眷属たちが初めて見るのにふさわしい穏やかな海水浴場であった。湊と三匹の前には、どこまでも続く青い海と白い砂浜が広がり、波間には小島も浮かんでいた。人工ビーチではあったが、眷属たちにとっては十分に理想的な海であり、人影のない静かな浜辺は初めての体験にふさわしい場となっていた。
セリとウツギは潮風を受けながら、これが海なのかと感嘆し、絶えず動く水面に見入っていた。一方、トリカは初めて嗅ぐ海の匂いに戸惑ったものの、自然の匂いだから問題ないと受け止めた。ウツギは早く近づきたがり、湊は砂浜の歩きづらさも含めて体験してみるよう促した。
砂浜と波に翻弄されるウツギ
砂浜に飛び出したウツギは、足を取られて派手に転び、砂を巻き上げながら何度ももがいた。砂浜の走りづらさは予想以上であり、その様子を見たセリとトリカは、先に行かせて正解だったと冷静に観察していた。湊も二匹とともに波打ち際へ進み、砂の感触や音を楽しみながら海へ近づいていった。
その間、ウツギは波と戯れ、波が引けば追い、寄せてくれば逃げる遊びを繰り返していた。しかし口に入った海水は強烈にしょっぱく、舌が痛むほどであった。湊は大量に飲まなければ害はないと伝えたが、川とは異なる塩水の刺激にウツギは驚いていた。
海中の生き物と眷属たちの反応
ウツギはそのまま波に洗われながら沖へ流されていったが、セリとトリカは動じなかった。五感を共有している二匹には、ウツギが海底を目指して泳いでいることがわかっていたからである。海底には砂地が終わる地点があり、そこを黒く細い生き物が這っているとトリカが訝しむと、湊はそれがナマコであり、食べられるものだと説明した。
その言葉にセリとトリカは強く引き、人間の食に対する感覚の違いを露わにした。それでも三匹はそれぞれのやり方で海を楽しんでおり、海は彼らにとって未知に満ちた場所となっていた。
祖父との海の記憶
波打つ海面を前に立った湊は、久しく海に近づいていなかったことを思い出した。亡き祖父と海釣りに出かける約束をした翌朝、その祖父がそのまま帰らぬ人となって以来、自然と海を避けるようになっていたのである。
しかし久しぶりに海辺へ立った今、胸に蘇ったのは痛みではなく、祖父と過ごした懐かしく楽しい記憶ばかりであった。釣りそのものよりも、潮溜まりの魚を素手で捕まえたり、モリで突いたウツボを掲げたりする豪快な姿が思い出された。応龍の加護を受けた今では魚に好かれてしまい、もう釣りは難しいだろうと苦笑しつつも、海は祖父との思い出を穏やかに呼び戻す場所となっていた。
海を満喫する眷属たち
やがてウツギが海面から顔を出し、海はだんだん深くなっていて、大きな魚がいても窮屈ではなさそうだと興奮気味に語った。実際に身をもって海の広さを知ったことで、御山から見える海が単なる水たまりではないと理解したのである。
さらにウツギは川より海の方が泳ぎやすいと喜び、塩水では体が浮くからだと湊に教えられて納得していた。湊自身も海へ入りたい気持ちはあったが、まだ水は冷たく、人の体では無茶は禁物だとセリに止められた。加えて海には半透明の危険な生き物もおり、ウツギはそれを泳いでかわしていた。湊は人の身の脆さを思い知らされ、水着もない今はやめておくことにした。
えべっさんの銅像と海の神の記憶
車道側を見やった湊は、ヤシの木の間に大きな白い銅像が立っていることに気づいた。それは胡坐をかき、釣り竿と鯛を携えたえびす神の像であり、湊はそれを見て、かつて楠木邸の竜宮門から現れたえびす神のことを思い出した。
えびす神は七福神の一柱であり、唯一の日本の神として広く親しまれている。湊は、楠木邸で山神や他の神々とともに酒を酌み交わしていたえびす神の姿や、麒麟の絵柄のビールを飲みながら自分の絵柄の酒はないのかとこぼしていた様子を思い返していた。湊はそのことを少し気にしており、こっそりえびす神の望むビールを用意していた。
白いネズミの眷属の発見
その時、砂浜へ若い男が一人下りてきたため、湊は足跡が不自然に残る前に帰ろうと考え、眷属たちを自分の体に乗せようとした。ところが三匹は動かず、車道側をじっと見つめていた。そこでは、短髪の男が白いネズミを拾ったと長髪の男に見せていた。
そのネズミは純白で、うっすらと金粉をまとっており、ただの生き物ではなかった。湊はそれが神の眷属であると察し、男たちに近づいて、その子は自分の飼っているネズミだと咄嗟に嘘をついた。海を見せようと連れてきたが逃げてしまったのだと説明し、助けてくれた礼を述べながら返してほしいと願い出た。
風の精と眷属たちの威圧
しかし長髪の男は、籠も容れ物も持っていない湊の説明に不審を抱いた。その瞬間、突風が男たちに吹きつけ、砂が舞い、彼らは顔を庇わざるを得なくなった。だが湊だけは風に守られ、一粒の砂も浴びず、静かに手を差し出したままそのネズミを渡してほしいと告げた。
男たちには見えていなかったが、そこには数多の風の精が不機嫌そうに舞い、湊を守っていた。さらにセリ、トリカ、ウツギの三匹が背後から神威を放ち、男たちを威圧していた。その恐れに耐えきれず、短髪の男はネズミを取り落とし、ネズミはすぐに湊の両手へ飛び込んできた。男たちはそのまま帰っていき、湊は背中に礼を述べて見送った。
幼い眷属の正体と神ごとの違い
救い出された白いネズミはまだ幼く、人の言葉を話すことができなかった。テン三匹が覗き込むと激しく怯え、湊の親指にしがみついたまま鳴き続けた。セリによれば、このネズミはまだ幼すぎて対話も難しく、他の神の眷属であっても関係なく、知識や記憶を与えられていない個体なのだという。
トリカは、神によって眷属を生み出す時の状態が異なると説明した。山神の眷属である彼らは、最初から不自由なく生きられるよう知識を与えられていたが、それはむしろ珍しい例であり、多くの神はまっさらな状態で眷属を生み、その成長を楽しむのだという。湊は、山神が自分で面倒を見ずに済むようにそのようにしたのだろうと納得し、三匹もそれを認めた。
えびす神の鯛と大黒天のネズミ
ネズミをどうするべきか湊が悩んだ時、海から喜びを含んだ風が届き、風の精たちが何かが来ると片言で告げた。すると沖から金色の光とともに大きな桜色の鯛が一直線に近づき、波間から躍り上がった。その姿を見て湊は、それがえびす神の眷属だとすぐに気づいた。
そして白いネズミの眷属といえば、大黒天の存在が思い浮かんだ。湊がネズミに、大黒様の眷属なのかと尋ねると、ネズミは嬉しそうに飛び跳ねて肯定した。セリが鯛の言葉を通訳し、このネズミは昨日、大黒天の眷属たちとともに現世へ来た際にはぐれてしまったのだと説明した。現世が初めてで、はしゃいだ結果の迷子であった。
ネズミの帰還と竜宮城の気配
鯛はネズミを迎えに来たのであり、体内に自室を持っているから大丈夫だとセリに説明された湊は、ネズミに別れを告げてその身を鯛へ託した。ネズミは少し拗ねたような反応を見せたが、鯛の中へ収まり、そのまま海へと戻っていった。
鯛を見送った後、湊はあの子たちがどこから来たのかを聞いておけばよかったと漏らした。するとトリカは、大黒天たちは竜宮城に遊びに来たついでにこの砂浜へ立ち寄ったのだと何でもないことのように告げた。その言葉によって、楠木邸の竜宮門とつながる竜宮城が、この隣町の近くに存在していることが改めて示された。トリカたちは意味ありげに笑い、湊はまた新たな不思議の広がりを感じることになった。
第3章 陰陽師と退魔師の因縁
河川敷での悪霊祓い
方丈町と泳州町の境目近くでは、色あせた巨大なクジラのモニュメントが御山の方角を向いて立っていた。その尾が指す河川敷で、由良と新人の陰陽師が悪霊祓いにあたっていた。橋の下には、まだはっきりした形を持たない弱い悪霊が大量にはびこり、地面や橋脚、橋の裏側にまで黒い粘液のように広がっていた。
由良と新人は呪符や形代を使って淡々と悪霊を祓っていったが、現代の陰陽師の力は平安の頃に比べて弱く、祓える範囲には限界があった。悪霊の数が半分ほどに減った頃、橋脚に張りついていた悪霊が逃げようと動き出した。新人はそれを追おうとしたが、由良は彼方からおぞましい気配が近づいていることを察して制止した。
人型の悪霊の出現と播磨の介入
だが制止は間に合わず、空から飛来した人型の悪霊が新人を弾き飛ばして橋脚に張りついた。その悪霊は新人には目もくれず、周囲にはびこる弱い悪霊を喰らい始めた。悪霊は自らの力を高めるために他の悪霊を喰らい、やがて輪郭の曖昧な影法師のような姿から、髪や衣服めいた形を持つ生者に近い姿へと変化していった。
由良は新人を庇いながら呪符を投げたが、悪霊はそれをかわし、瘴気を吐いて二人を煙に巻きながら橋の上へ逃げようとした。しかし、そこには胸の前で印を結んだ播磨才賀が待ち構えていた。悪霊は播磨の術によって空中で爆散し、由良はようやく安堵した。
新人の失敗と播磨の対応
橋の下へ降りてきた播磨を、由良は深く頭を下げて迎えた。後ろにいた新人も、自分の失敗で迷惑をかけたと消え入りそうな声で謝罪した。彼は陰陽道宗家の四家の一つに属する者であり、播磨家のような密教色の強い家とは本来折り合いが悪い立場だったが、仕事に私情を挟まない点だけは播磨も評価していた。
播磨は今回の失敗を反省し、次に活かせばよいとだけ告げた。現代では妖怪による命の危険は少なく、任務中に死ぬことはほとんどないため、命がある以上やり直しの機会はあると考えていたのである。
由良の立場と次の現場
橋の下を見渡した播磨は悪霊がいなくなったことを確認したが、由良にはまだ鳥肌が収まらない様子が見えた。由良は悪霊を祓う術者ではなく、悪霊を認識できるだけの補佐役であり、陰陽師を支える立場の者だった。悪霊のそばに長くいると体調を崩す体質でありながら、根が勇敢で無茶をしがちな性格でもあった。
今回も、別件で遅れた播磨を待たず、新人に付き添って現場へ来ていた。新人はまだ経験が浅く、先走る傾向があると播磨は考えていたが、そのことを責めることはせず、次の現場へ向かうことにした。なお由良は播磨の学生時代からの後輩であり、近く播磨の妹と結婚する予定の人物でもあった。
泳州町側の民家に漂う瘴気
次の現場はすぐ近くの住宅地にある一軒家だった。川を境に方丈町と泳州町が分かれており、その家は泳州町側に建っていた。古びた二階建ての家の窓の隙間からはうっすらと瘴気が漏れ出しており、家の中に悪霊がいるのは明らかだった。しかも空き家ではなく、人が住んでいる家であった。
由良は見て見ぬふりができなかったと詫びた。播磨も気持ちは理解しつつ、この場所に手を出すことの面倒さを感じていた。瘴気の薄さから、おそらく家人が取り憑かれているのだろうと見当をつけたが、簡単には動けなかった。
退魔師の介入と不文律
由良と新人が、家人を呼び出して外で祓う方法を考えていたところへ、大柄な退魔師の安庄が現れた。彼は泳州町では陰陽師が出張ってきてはならないと吐き捨てるように告げた。
泳州町には昔から地域に根ざした退魔師たちが存在し、その町では陰陽師が悪霊祓いをしないという不文律があった。国家側も、民間の術者が祓ってくれるなら問題にしないため、それは暗黙の了解となっていた。泳州町は今でもそうした術者の家系が残る数少ない町であり、陰陽師が入ると退魔師たちが必ず現れて追い払うのであった。
陰陽師と退魔師の確執
安庄はここは退魔師の陣地だとあからさまに敵意を示し、陰陽師たちに帰るよう言い放った。播磨たちは反論できず、その場を引き下がるしかなかった。角を曲がる直前、播磨は家の玄関から濃い瘴気が漏れ出したのを見たが、安庄はそれにも気づきながらすぐに動こうとはしなかった。
由良は家人がきちんと祓ってもらえるのかを心配したが、播磨は退魔師たちも仕事に関してはプロであり、この地に根づいている以上、いい加減なことはしないだろうと答えた。効果のない呪符を売りつけたり、祓うふりだけをするような悪質な者は流れの退魔師に多く、この町に住み着く者はそうではないと見ていた。
新人は、退魔師たちが陰陽師を敵視する気持ちも理解できると漏らした。もともと退魔師たちも陰陽道に基づく術を使う者が多く、かつては陰陽師と名乗っていたが、江戸時代に陰陽道宗家が権力を用いて陰陽寮に属する者だけを陰陽師と呼ぶよう定めたため、民間の術者たちはその名を名乗れなくなった経緯があった。そのため彼らはいまも陰陽師にわだかまりを抱いていた。
雨雲の下で思う楠木邸
やがて雨粒が落ち始め、空はいつの間にか厚い雲に覆われていた。だが遠くの御山の周囲だけは青空が広がっており、楠木邸のあるあたりは濡れていないだろうと播磨は思った。あの場所はいつでも春の陽気に満ちているからである。
由良に急ぐよう促され、播磨は二人とともに足を速めた。雨雲の下を進みながらも、つい先日訪れた楠木邸の穏やかな空気が播磨の脳裏には残っていた。
第4章 神の庭に彩りを
神霊への果実の試行錯誤
雨が御山に降り注ぐ中でも、楠木邸の庭には一滴も落ちてこなかった。四霊はそろって外出しており、庭にいるのは山神と管理人の楠木湊、そして石灯籠に籠もったままの神霊だけであった。湊は神霊の様子を気にかけ、朝にはバナナを差し入れていたが手つかずのままだった。そこで新たにさくらんぼやあんずも試したが、どちらにも反応はなく、神霊は依然として沈黙を守った。
夏みかんの時だけは明確な反応があったことから、湊は神霊がみかんを好むのだと改めて理解した。積極的に出てくる気配はないものの、石灯籠の中から外の様子を気にしていることは確かであり、その性質のわかりやすさに湊は少し救われてもいた。
山神の手伝いによる水まき
神霊への対応を終えた湊は、日課の水まきに取りかかった。本来なら応龍が滝壺から神水を放ってくれるが不在であったため、この日は山神が代わりを務めた。縁側に伏せた大狼の尾が振られると、滝壺へ落ちるはずの神水の一部が庭へ導かれた。湊はその水を風で受け止め、クスノキや庭木へと散らしていった。
庭木たちは普通の雨や水道水を好まず、神水しか受けつけない存在であった。すでに十分に神水を浴びたクスノキは、ますます柔らかさを増し、葉を揺らして水滴を四方へ飛ばしていた。山神は寝起きで大あくびを繰り返しながらも、応龍の代役をきちんと果たしていた。
掃除中の山神と和菓子巡回
水まきを終えた湊は邸内へ戻り、掃除機を手に縁側の掃除へ移った。山神は掃除の時だけは素直にリビングへ避難し、自ら選んだお気に入りの座布団を整えてその上に伏せた。室内は掃除ロボットと湊の働きによって埃一つなく、床は光り輝いていた。
掃除機の音が響く中、山神はノートパソコンを手元に引き寄せ、慣れた手つきで操作を始めた。調べていたのはいつも通り方丈町の和菓子屋の新作情報であり、ブックマークも和菓子関連で埋め尽くされていた。しかし新作はまだ出ておらず、山神は残念そうな反応を見せた。湊は、つい数日前にも確認したばかりであり、新作が頻繁に出る方丈町の和菓子屋の方がむしろ特別なのだろうと話した。
築山をめぐる攻防
和菓子の巡回を終えた山神は、次に日本庭園の画像を湊へ見せた。そこには池や石橋を備えた庭が映っており、一見すると楠木邸の庭と大差なかったが、地面に起伏があり、築山が設けられていた。山神はこの庭には山がないと主張し、庭にも山に見立てた築山が必要だと訴えた。
しかし湊は、すぐ隣に立派な御山がある以上、偽物の山は不要だときっぱり否定した。さらに山神が庭の改装を企んでいることを察し、前回池を川へ変えた際に山神が大きく消耗したことを思い出して、大がかりな改装には断固反対した。自分がこの庭の主である以上、許可は出さないという意思を固めていた。
せせらぎを求める山神の企み
それでも山神は諦めず、今度は山中を流れる渓流の映像を見せ、せせらぎの音の心地よさを訴えた。川の音や鳥のさえずりを聞きながら、現在の川を浅くし、角度をつけてせせらぎを常に聞けるようにしたいと考えていたのである。
だが湊は、すでに山神の山でその音は十分に聞いているし、いまの滝の音も気に入っていると答えた。地面を下げるだけだから大がかりではないという山神の理屈も、湊には単なる言い換えにしか聞こえなかった。さらにその変更によって竜宮門がむき出しになることも避けたかったため、川はこのままでと改めて拒絶した。
立手水鉢と花手水の出現
掃除道具を片づけて川辺で手を洗っていた湊が振り返ると、縁側のそばには今までなかった立手水鉢が出現していた。小ぶりながら高さのある手水鉢で、青竹の覚から水が落ちるようになっていた。山神は、川には何一つ手を加えておらず、大がかりな改装でもないと主張しながら、その水鉢に花を浮かべていた。
その花は淡い色合いのダリアであり、水面いっぱいに花弁を広げた花手水が形作られていた。湊はその変化を認めざるを得ず、山神の力もさほど消耗していないことを確認した。山神は花の配置を細かく調整し、職人のような顔つきで出来栄えを見極めていた。
神水の味と新たな使い道
完成した花手水を見た湊は、それを綺麗だと素直に認めた。山神は、この水も神水であり、好きな時に飲めるうえ、筆や硯を洗う場所としても使えると説明した。川の水を直接飲むことには抵抗があった湊は、初めてその神水を手ですくって口にした。
その味は甘さではなく、さっぱりとして後味もすっきりしたものであった。湊はそのおいしさに素直に感動し、神の水のありがたさを実感した。山神もまた、その反応に満足そうであった。
鳳凰の帰還と石灯籠の視線
そこへ竜宮門から帰ってきた鳳凰が飛来し、新しい手水鉢を変わり種だと評した。活動的な鳳凰であったが、近頃は突然眠りに落ちることがあるため、自身の状態を理解して早めに楠木邸へ戻ってきていた。湊の肩に着地した鳳凰は、花手水を見下ろして良い水飲み場でもあると感想を述べた。
しかしその直後、鳳凰は眠気に負けてひよこの姿になり、湊の胸元へ落ちてきた。湊は慣れた手つきでそれを受け止め、なるべく揺らさないようにしながら石灯籠へと運び込んだ。その様子を、もう一基の石灯籠に籠もるエゾモモンガの神霊が、ガラス越しにじっと見つめていた。
第5章 人と神と
田神の相談と湊の助言
ある早朝、地蔵に供え物を持ってきた翁が、背後に突然立っていたカカシ姿の田神を目にして驚愕し、悲鳴を上げて逃げ去った。後日その話を聞かされた楠木湊は、田神が人との交流を望んでいる一方で、その現れ方があまりに唐突であるため、誰もが驚いてしまうのだと理解した。毎年人々から奉納される新しいカカシの体に移っているという田神は、自分なりにわかりやすい姿を選んでいるつもりだったが、人間には通じていなかった。湊は、人は繊細だから心の準備をする時間が必要だと伝え、先触れを出してから現れるよう助言した。田神はそれを受け入れ、酒と甘味を好むことも告げながら、湊から渡された酒を受け取った。
先触れの失敗と田神の再挑戦
その後の逢魔が時、湊は地蔵のそばで再び悲鳴を上げて逃げる地元民を目撃した。田神はカエルたちに先触れを頼んでいたが、野太い鳴き声は警告どころか不気味さを増す結果になっていた。しょんぼりする田神に対し、湊は今度は時間帯にも問題があったのではないかと助言した。田神はそれを素直に受け止め、次は昼にすると決めた。湊は、不器用な田神の試みがいつか実を結ぶよう願うほかなかった。
裏島との再会と四年の空白
雨の合間に買い出しへ出た湊は、帰り道で地蔵の前に立つ裏島と再会した。彼女はかつて田神の神域に迷い込み、外界とは異なる時間の流れのせいで四年後の世界へ戻ることになった女性である。裏島は、田の神のおかげでこの土地の田んぼが豊かに実ってきたことを知っているため、田神を恨む気持ちはないと語った。その一方で、自分だけが四年分取り残され、周囲の人々だけが変わってしまったことへの戸惑いも打ち明けた。湊は慰めようとはせず、ただ事情を知る者として彼女の話を聞き続けた。裏島は、それでも親しかった人たちが皆生きていて、再び会って話せることを前向きに受け止めていた。別れ際、裏島は湊を十代後半だと思っていたと明かし、二人は顔を見合わせて笑い合った。
先触れに慣れた湊と田神の出現
裏島が去った後も地蔵のそばに残っていた湊は、田神の気配を探ったが、神域の門は現れなかった。その場を離れて細道を歩いていると、水田や周囲の生き物たちの鳴き声が次第に大きくなっていった。湊はそれを異常とは受け取らず、むしろ自分の助言どおりに田神が先触れを出しているのだと理解していた。やがてウシガエルの大きな声を合図に、田神が水田の中から姿を現した。湊が落ち着いて挨拶すると、田神は先触れは湊には効果があるが、他の人間の多くはやはり逃げていくと語った。ただし、以前より逃げ出すまでに少し時間がかかるようになったため、田神なりに一定の手応えは感じていた。
田神の人間観察と神の視線
湊が他の神々とは交流しないのかと尋ねると、田神は神には興味がなく、人間のほうがずっと面白いと答えた。姿形は大きく変わらなくても、中身はそれぞれ異なるからだという。その言葉の直後、湊は自分の魂を覗き込まれるような圧迫感を覚えた。田神は湊の力がまだ完全には回復しておらず、神から授かった力を十分に使いこなせていないことまで見抜いていた。神に隠し事はできないのだと湊は痛感したが、田神の物言いには人間への理解不足もにじんでいた。ある日突然神の力を与えられた人間が、それをすぐ自在に扱えるはずもないからである。それでも田神は、帽子や腕に止まる雀を驚かせぬよう静かにしており、表には出にくいものの優しい面も持っていた。
眷属を持たぬ田神と新米の贈り物
湊が眷属を持たないのかと尋ねると、田神は必要がないから持ったことがないと答えた。湊は、山神もかつては同じような状態だったが、眷属を得てから大きく変わったことを思い出したものの、無責任に勧めることはしなかった。代わりに和菓子と洋菓子の詰め合わせを差し出すと、田神はどちらも好むと答えて受け取った。そして返礼として、いきなり六十キロの新米一俵を湊の足元へ出現させた。人は米が好きだろうという確信に満ちた贈り物であり、湊はその重さに顔を引きつらせながらも礼を述べるしかなかった。
第6章 御山、そこは魔境だった
風の力による登山道整備
久しぶりの快晴の中、楠木湊は御山の登山道整備を進めていた。登山道は藪に覆われていたが、湊は風の刃を放って片側から順に刈り払っていった。行く手を進むウツギは木々を飛び移りながら先導し、空間に穴を開けて刈り取った藪をその中へ放り込めるようにしていた。
そのおかげで作業は驚くほど効率よく進み、本来なら数日かかるような整備が短時間で進行した。かずら橋そのものは専門家に任せる予定であり、湊はそこへ至る登山道の整備を自ら担っていた。
倒木と岩の除去
整備を進めた先には、苔や藪に覆われた倒木や大量の岩が行く手を阻んでいた。湊は倒木を風で容赦なく切り刻み、さらに岩も試しに風で斬ってみたところ、思いのほか容易に割ることができた。そのため、以後は大小さまざまな岩を順に切り分けて小さくしていった。
途中、漬物石のような形の大きな岩を割ろうとした際、ウツギが慌てて制止した。その正体は岩ではなく、擬態していた妖怪だったのである。黒い毛むくじゃらのその妖怪は、正体を見破られると小さくなって逃げていった。湊は神霊の宿る岩かと一瞬焦ったが、神気がないことから違うとわかり、相手に敵意がないことにも安堵した。
妖怪との気配のやり取り
その後も湊は山中で妖怪の気配を感じ取った。葉が落ちて進む方向を示すような動きもあったが、姿は見えなかった。湊は、自分はもう妖怪が視えなくなってしまったのではないかと不安を抱いた。祖父からは、山中の妖怪とは不用意に関わるなと忠告されていたが、向こうからちょっかいを出してくる存在は概して友好的だとも知っていた。
やがて、声だけが四方から響くようになった。湊の声を真似るものや、自分たちは構ってほしいわけではないと口々に主張するものもいたが、姿だけは頑なに現さなかった。ウツギは彼らを構ってちゃんだと軽くあしらい、湊を作業へ戻らせた。
山道の目印としての岩
湊は、割った大岩を道脇に積んで残すことを思いついた。景色の変化になり、山道を歩く者の目印にもなるうえ、岩に神秘性を見出す人間にとっては心の支えにもなるだろうと考えたのである。ウツギはただの岩にそこまで意味を見出す人間の感覚を不思議がったが、湊はそれも山歩きの楽しさにつながると受け止めていた。
その時、山神が登山道を下って現れ、岩を眺めながら庭に石で山を置く案にまで思考を広げていた。湊は、風で岩を庭へ運ぶことも一瞬考えたが、家に落下させたら取り返しがつかないとして断念した。
丸太階段の修繕とウツギの挑戦
岩の整理を終えた後、湊とウツギは丸太階段の修繕に取りかかった。ところが、用意していた丸太と杭の数が足りないことが判明した。そこで山神が以前行ったように、神域の時間を進めて木材を乾燥させる作業を、ウツギが自ら試みることになった。
ウツギは神域内の時間を操る力を持っていたが、未来へ時間を進める操作はまだ不完全だった。最初の挑戦では、取り出した丸太に深い亀裂が入っており、しかも百年は経過したかのように劣化していた。急激に時間を進めすぎたためである。
時間操作の習得
失敗に落ち込んだウツギだったが、すぐにもう一度挑戦すると意気込んだ。材料は豊富にあり、かずら橋修繕までまだ時間的余裕もあったため、湊も山神も見守ることにした。湊はその間、階段の路面を踏み固めながら作業を続け、風の精たちの気配も感じていた。
やがてウツギは、時間操作を繰り返すうちに感覚をつかみ、ついに亀裂も劣化もない見事に乾燥した丸太を完成させた。湊はそれを見て素直に感嘆し、ウツギを褒め称えた。ウツギはこれで完璧に覚えたと誇らしげだったが、山神はさらに千年先を目指せと厳しい課題を与えた。
打ち上げ前の正体見破り
その日の作業を終えた湊は、ウツギと山神に打ち上げをしようと提案した。ウツギは大喜びして湊の足元をぐるぐる回ったが、その中に白い塊が二つあることに湊はようやく気づいた。止まって立ち上がった二匹はそっくりなテンの姿をしていたが、片方の尾だけが茶色だった。
見破られたその存在は、白煙とともに茶色い毛むくじゃらのタヌキへと姿を変えた。声真似をしていたのもこの古狸であり、湊は本当にタヌキは化けるのだと感慨を覚えた。山神によれば、あのタヌキはなかなか古い妖怪だという。
妖怪を見る力の再確認
タヌキをはっきり視認できたことから、湊はなぜそれが見えたのかと不思議に思った。山神は、もともと実体を持つ生き物が転じて妖怪となったものは、異能がなくても人には見えると説明した。その一方で、座敷わらしのような存在を見続けたいなら、自分の異能を意識して使い続けることが必要だとも告げた。
山神に促されて意識を向けると、木立の陰に白くぼんやりした妖怪の姿が湊にも見えた。以前より薄くはなっていたが、確かに視えていた。山神は、意識して使えば感覚は取り戻せるし、むしろ感度が上がるかもしれないと語った。御山には掃いて捨てるほど妖怪が棲みついているからである。すると周囲のあちこちから、捨てないでほしいと妖怪たちの悲鳴が上がり、御山がまさしく妖怪たちの棲む魔境であることが改めて示された。
打ち上げの始まりと一家の期待
山の整備を終えたあと、楠木邸では湊と山神一家による打ち上げが開かれた。主に作業を手伝ったのはウツギだけだったが、それはいつものこととして受け止められていた。座卓を囲む場には妙な静けさが漂っていたものの、実際には山神一家は飲み物と菓子を前に期待を隠しきれておらず、耳や尾、ヒゲを落ち着きなく動かしていた。湊が茶を淹れて配る間も、山神も眷属たちも舌を出したまま、箱の中身を熱心に気にしていた。
山神は玉露、セリは紅茶、トリカは珈琲、ウツギは果物ジュースを前にしていた。近頃は菓子だけでなく飲み物の好みにも違いが出てきており、眷属たちは和洋どちらも楽しめる一方で、山神だけは変わらず和菓子一筋であった。
新しいどら焼きへの期待と推測
箱から漂う香りにはあんこの気配があったが、それだけではない要素も混じっていたため、山神一家はその正体を念話で推測しあっていた。山神は、自分が知らない店名である以上、新しい和菓子店の品ではないかと考え、セリは洋菓子店の可能性も疑った。ウツギは和洋両方が入っているのではないかと期待を寄せていた。
一方で一家は、湊が選んだ菓子である以上、外れるはずがないとも確信していた。四霊の加護を受けた湊には強運があり、しかも適当に選ぶこともしないからである。
塩バターどら焼きの衝撃
湊が配った菓子は、一見すると変哲のないどら焼きだった。しかしその中身は、こし餡に塩バターを合わせた品であり、和と洋を掛け合わせた新しい味わいを持っていた。最初に口にした山神は、強烈な衝撃を受け、思わず神威を周囲に放つほど感動した。庭木からクスノキ、御山の木々にまでその影響が及び、葉や枝が派手に揺れた。
山神は、こし餡とバターの相性の良さに驚き、とりわけ塩気こそが決め手だと震える声で語った。湊は迷いながら選んだ品が成功したことに満足し、山神の食の幅を少しずつ広げようとする目論見がひとまず功を奏したことを喜んだ。
山神の食の変化と眷属たちの反応
眷属たちは山神ほどの衝撃は受けなかったが、それぞれにどら焼きを楽しんでいた。彼らはもともと好奇心旺盛で、洋菓子にも慣れていたため、新しい味にも自然に馴染んでいた。湊は、これで今後は菓子の選択肢が増えそうだと朗らかに考えた。
山神も、自分は意外と洋菓子もいけるかもしれないと認めはじめた。湊は食わず嫌いはよくないと勧め、眷属たちもそれに同意した。セリとトリカはナイフとフォークで上品に食べ進める一方、ウツギは頬を膨らませて無邪気に頬張っており、それぞれの個性も際立っていた。
神霊へのどら焼きの差し入れ
その時、湊は石灯籠の神霊のことを思い出した。振り向くと、ガラス窓が開いており、神霊が中から様子をうかがっていた。交流を図りたいのかもしれないと湊が考えているうちに、ウツギが新しいどら焼きを咥えて石灯籠へ飛び移った。そして躊躇なく神霊へ、このどら焼きはとてもおいしいから食べるかと差し出した。
その大胆さに神霊は驚きつつも、どら焼きを受け取った。さらにトリカも湯飲みに茶を淹れて石灯籠まで運び、食べる時に喉を潤すようにと添えた。眷属たちは自然な形で新入りとの距離を縮めていった。
神霊の不器用な食事と湊の見守り
神霊は自分の体ほどもあるどら焼きに夢中になり、口元をあんこで汚しながらむしゃむしゃと頬張った。さらに茶を飲もうとして湯飲みに顔ごと突っ込み、半身を浸してしまうほど不器用だった。石灯籠の中からかすかな咳き込む音が聞こえ、湊は思わず立ち上がりかけたが、すでにセリが駆けつけて介抱していた。
湊は神霊が病気なのではないかと心配したが、山神はありえないと断言した。トリカも、眷属たちは頑丈で病気にもならず怪我もしにくいと説明した。ただし新入りはまだ慣れていないだけだとも語った。何に慣れていないのかは明かされなかったが、神霊がまだこの場にも湊たちにも十分馴染んでいないことだけは確かだった。
新入りと一家の距離の縮まり
石灯籠から顔をのぞかせる神霊は、縁側へ近づこうとはしないものの、眷属たちとのやり取りには関心を示していた。湊や山神のどちらを苦手としているのかはわからなかったが、少なくとも眷属たちとは仲良くやっていけそうだった。
その様子を見守りながら、湊は茶を飲み、この新しい神霊もいつかここに馴染んでいくのだろうと感じていた。
第7章 神霊がみている
橋梁工事代を稼ぐための副業
橋梁工事代を稼ぐと決意した楠木湊は、昼過ぎから護符づくりに励んでいた。祓いの力や神の力をあまり使わずに過ごしていたため、筆の動きは軽く、作業も順調に進んだ。護符を作り終えると、今度は和雑貨店いづも屋へ卸すための木彫りに取りかかった。
湊は、温泉宿向けの表札やキーホルダーも実家から依頼されており、その報酬は現物支給だった。地元の品々が送られてくることに不満はなく、むしろ楽しみにしていた。一方で、せっかく作った品が手癖の悪い客に盗まれてしまうこともあり、その対策を家族と相談しようと考えていた。
木彫りの舟と帆の発想
その日、湊が彫っていたのは霊亀であった。木彫りの腕も徐々に上がっており、以前作ったひよこや狼、さらに練習として作った丸木舟の出来も悪くないと感じていた。しかしその舟は、飾り物としては味気ないようにも思えた。
それを見た山神は、帆を張れば見栄えが良くなると助言した。湊はその案に納得し、帆柱や帆桁を作ることにしたうえで、帆の材料をどうするか考えた。そして保管してあった応龍と霊亀の脱け殻を使えないかと思い至った。
四霊の抜け殻を使った舟の変貌
湊が応龍と霊亀の脱け殻を広げてみると、その質感はこの世のものとは思えないほど滑らかで、美しかった。しかしハサミではまったく切れず、傷一つつけられなかった。そこで山神が自ら前足を使い、抜け殻を四角い帆の形へ整え、さらに帆桁へぴたりと貼りつけた。
その結果、素朴な木舟は一気に宝船のような姿へと変わった。糊もいらず、見た目も格段によくなったものの、湊は今度は帆の存在感が強すぎて舟本体が負けているのではないかと苦笑した。それでも材料の価値を思えば、仕方のないことだと受け止めていた。
応龍による舟の持ち去り
麒麟の鱗は別の用途に使うことにしていたため、この舟には使われなかった。それを聞いた麒麟は目に見えて落胆した。そんな中、応龍が縁側へやって来て、完成した二艘の舟を見たがった。湊が了承すると、応龍は舟を宙に浮かせてそのまま庭のクスノキの木陰へ運んでいった。
湊は、応龍がそんなことまでできるのかと不思議に思った。応龍の力は以前より強まっているように感じられ、それは青龍が訪れて以降の変化ではないかと考えていた。
四霊による舟への加護
クスノキの木陰では、霊亀と麒麟が応龍を待ち構えていた。麒麟は、自分の鱗が使われなかったことに不満を示したが、霊亀にたしなめられ、代わりに舟へ加護を与える役目を任された。
応龍は、最初は宝くじを買えば簡単に金が得られるのではないかと軽く考えていたが、霊亀と麒麟は、湊はそのような楽な方法を選ばず、自分の手で作った物を売って金を得ようとしているのだと説明した。そのうえで、せめて売れるように舟へ加護を与えようという話になった。応龍は災いをはねのけて身を護る加護を、麒麟は悪縁を弾く加護を与えることに決めた。
応龍が加護を与えた舟は光をまとい、さらに見栄えを増した。続いて麒麟も加護を与えたが、応龍にまだ足りないと指摘されて量を増やし、最終的には舟が太陽のような光の塊になるほど力を注ぎ込んだ。四霊たちはそれを少しやりすぎだと感じつつも、きっと高く売れるだろうと結論づけた。
神霊の視線と不器用な歩行
その頃、湊は縁側で彫刻刀を研いでいた。立手水鉢は今や研ぎ物にも使える便利な場所になっていた。その作業を、石灯籠から出てきた神霊が藤の鉢の陰からじっと見ていた。湊はその視線に気づいていたが、反応すると逃げられるかもしれないと考え、平静を装っていた。
だが気づけば神霊はさらに近づき、背後を取っていた。興味に引かれて歩み寄ろうとした神霊は、二足歩行のまま転倒し、顔面と腹を強打して逃げ出した。しかも本来の四足歩行に戻っても動きはぎこちなく、湊はそこでようやく、神霊がまだこのエゾモモンガの体に慣れていないのだと理解した。
山神によれば、その神霊はもともと人型であり、神降ろしを受けた時もまだ幼く、長く剣に閉じ込められていたせいで中身もほとんど育っていないという。湊は、つまりまだ子どもなのだと受け止めた。
休憩時間と神霊へのみかん
やがてスマホのアラームが鳴り、湊は作業を中断して休憩に入った。山神には和菓子、湊自身には激辛せんべい、そして神霊には皮をむいたハウスみかんを用意した。縁側の下に角材を置いて、その上に皿を載せ、神霊へ声をかけると、神霊は意外にもすぐやって来た。
神霊はみかんの香りを確かめたあと、湊を見上げた。湊が自分を害する存在ではないことを、神霊自身も理解していたのである。神霊はみかんの房を両手で持ち、薄皮をはいで果肉だけを上手に食べ始めた。以前、夏みかんをうまく扱えなかった時とは比べものにならないほど上達しており、湊は思わず感心した。
山神への微かな怯え
みかんを食べる神霊は、口元を汚しながらもどこか得意げな様子を見せた。しかしその直後、山神が鼻で笑うと、神霊はわずかに身を震わせた。湊はその反応に気づいたものの、山神は素知らぬ顔であんころ餅を食べ続けていた。
神霊は湊には警戒を解きつつあったが、山神に対してはまだ完全には慣れていないようだった。そうした距離感を抱えながらも、神霊は少しずつ楠木邸での時間に馴染み始めていた。
第8章 播磨家家訓、使えるものは使うべし
洋館での悪霊祓いの開始
住宅地からやや離れた場所に建つ洋館は、月明かりの下で重厚かつ不気味な姿をさらしていた。かつては大尽の住まいだったが、いまは空き家となり、荒れた庭も相まって異様な雰囲気を漂わせていた。そこへ悪霊祓いのために訪れたのは、播磨才賀と葛木である。
葛木は外観を見て、播磨家の館に似ていると気づいた。播磨は不本意そうにしつつも、自宅はきちんと手入れされていると反論した。二人は不動産会社から預かった鍵で扉を開け、館内に入り込んだ。扉が開いた瞬間、瘴気が漏れ出したが、二人はそれを当然のものとして受け止めていた。
館内での軽口と悪霊退治
館内は非常灯のおかげで薄明るく、大理石の階段や厚い絨毯、アーチ状の天井やシャンデリアなど、日本の個人宅とは思えぬ造りであった。播磨と葛木は館の広さに呆れつつも、軽口を交わしながら一階から順に片づけることにした。
その途中、襲いかかってきた獣型の悪霊は播磨があっさり祓った。さらに葛木は式神であるサメとペンギンを呼び出し、館内にはびこる弱い悪霊を食わせていった。二体の式神は二手に分かれ、壁や天井、暖炉周辺などに潜む悪霊を次々に捕食していった。
葛木の式神たちの特異さ
葛木の式神たちは、一般的な式神とは違い、彼の父によって作られた特別な存在であった。形代の状態でも勝手に動き、しかもぬいぐるみの姿をしているという非常に変わった性質を持っていた。葛木はそれを便利だと受け止めており、式神たちにも非常に甘かった。
播磨は、式神を持たない自分とは対照的な葛木の在り方を見ていた。もし自分が式神を持つなら、妖怪を調伏したものがいいと考えていたが、現代では強い妖怪そのものがほとんどいないため、それも難しいだろうと葛木は言った。播磨も、いないからこそ平和なのだと応じた。
最上階での激戦と播磨の反省
館内を進み、最後に残った最上階の角部屋では、獣型、人型、虫型など多様な悪霊が播磨と葛木を取り囲んでいた。まるで見本市のようなその光景の中、二人は絶え間なく襲ってくる悪霊を祓っていった。
播磨は九字を切って多くの悪霊を一気に祓ったが、その後、突進してきた獣型悪霊に対して反射的に拳を振るってしまった。素手では悪霊にダメージを与えられず、その隙に頬を爪で掠られた。葛木に変な癖がついていると指摘され、播磨は素直に反省した。
仕事後の帰路と酔客との遭遇
洋館での仕事を終えた二人が敷地を出ると、暗い通りを歩いてくる酔った中年男と遭遇した。男は葛木の懐の動きや播磨の和装を見て、二人を退魔師だと決めつけ、退魔師への恨みをあらわにして怒鳴り始めた。
播磨は陰陽師だと説明しようとしたが、男は聞く耳を持たなかった。退魔師による悪徳商売の被害者らしく、そのとばっちりを陰陽師が受ける形となっていた。
椿の登場と場の収拾
そこへ播磨の姉・椿が親族六名を引き連れて現れた。黒いスーツに身を包んだ椿は圧倒的な存在感を放ち、月明かりの中でまるで女神のように見えた。彼女が穏やかな声で何かあったのかと問いかけると、中年男はたちまち気圧され、視線を泳がせながら退散していった。
椿の伴侶は、男のいやらしい視線にひそかに悪態をついていたが、誰もそれを取り上げなかった。こうして厄介事は一瞬で収まり、播磨は姉に礼を述べた。
播磨家の一族と才賀の立場
椿は普段の男言葉に戻ると、才賀に怪我を気をつけるよう告げた。義兄は相変わらず軽い調子で才賀に絡み、才賀はそれに冷たく返しつつも、家族との関係自体は良好だった。播磨家は女系一族であり、才賀以外の者たちは神の血を引くがゆえの美貌を武器として活用していた。
親族たちは湊に会ってみたいと密かに話していたが、疲れている日は会わない方がよいとも語っていた。椿一行は、この後に食事と温泉へ向かう予定らしく、遅い時間でも食事を優先する姿勢を崩さなかった。
再び河川敷に現れた悪霊
翌日の昼下がり、播磨と葛木は再び河川敷で悪霊の発生を確認した。つい先日祓ったばかりの場所に、また黒い糸のような悪霊が垂れ下がり、地面にも悪霊溜まりができていた。二人は手早く祓い始め、中央へ追い込みながら処理を進めた。
悪霊自体は弱く、比較的すぐに片づいたが、播磨は前回ここで人型の悪霊が他の悪霊を喰らっていたことを知っていたため、周囲への警戒を緩めなかった。
三号の登場と洋館付近の異変
最後の悪霊溜まりを消し去った直後、空を泳ぐシャチ型の式神・三号が現れた。その口には育った人型悪霊の胴体が咥えられていた。三号は葛木の父のもとにいる式神で、普段は葛木のそばにいない存在である。
葛木が問いかけると、三号は尾びれで洋館の方角を示した。昨日祓ったばかりの洋館近辺に、これほど育った悪霊がいるのは明らかに異常であり、播磨と葛木は顔を見合わせた。
式神による悪霊の蹂躙と新たな疑念
葛木が三号に悪霊を食べてよいと許可すると、三号はその悪霊を上空へ放り投げ、尾びれや口で何度も打ち上げていたぶった末に、一呑みで喰らった。形を持った悪霊をここまで手玉に取れる式神は極めて珍しく、それだけ葛木の父の力が強い証でもあった。
その後、三号は葛木と身振りで会話し、葛木は父が帰ってくるらしいことを知った。一方で播磨は、洋館周辺で何か異変が起きているのではないかと考え込み始めていた。
第9章 褒美をつかわす
立手水鉢に集う湊と四霊
庭の立手水鉢は、いつの間にか人気の場所となっていた。朝の仕事を終えた楠木湊と四霊はそこへ集まり、神水を飲んで休息していた。筧から流れ落ちる水は花々を生き生きと保ち、湊もその恩恵を受けながらグラスの水を味わっていた。
四霊もそれぞれ水を飲みながら語り合い、麒麟はこの水が日によって味が違うことを説明した。それは山神の山と他三つの山から日替わりで流れてきているためであり、麒麟はその違いを言い当ててみせた。霊亀と鳳凰も感心する中、湊は内容こそ理解できないものの、皆が楽しそうにしている様子を眺めていた。
枯れない花と山神の秘密
四霊と湊が目を向けたのは、手水鉢に浮かぶ花であった。数日経っているにもかかわらず萎れもせず、青臭さもなく、茎もぬめらない状態で保たれていた。湊は神水の影響ではないかと考えたが、麒麟は花そのものも特別なものであり、人の世界のものではないと語った。
さらに麒麟は、湊の祓いの力が翡翠色を帯びていることを山神が長く伝えていなかったことも明かした。四霊は同情の目で湊を見上げたが、湊にはその理由がわからず戸惑うばかりであった。
修行を終えた眷属たち
そこへ山神が現れ、背にセリ、トリカ、ウツギの三匹を乗せていた。三匹は修行の果てに力尽きて気を失っており、山神は露天風呂へ運ぶと、そのまま温泉へ投げ入れた。
湯に沈んでいた三匹はすぐに頭を出し、山神の前で反省の言葉を述べた。山神はまず彼らの粘り強さを褒め、その後に同じ方法ばかり繰り返す愚かさを叱責した。眷属たちはその言葉を受け止め、再び挑戦する決意を示した。
山神が戻ってやり遂げてこいと命じると、三匹は湊に挨拶をして山へと駆け戻っていった。
眷属への褒美を考える山神
眷属たちが去った後、山神は縁側で考え込んでいた。湊が茶を持ってくると、山神は眷属たちへの褒美を与えるべきか考えていたと明かした。
最初は洋菓子を思いついたが、湊は形に残るものの方がよいのではないかと提案した。山神は眷属たちの好みをすべて把握していると語ったが、彼らの望みはほとんど洋菓子であり、形に残るものはなかった。
それでも山神は、今後眷属たちが人の世界へ出かけることもあるだろうと考え、神の命を受けている証となる袋のようなものを与えることを思いついた。
眷属用の装備の製作
山神は神霊の器を作った時と同じ素材をこね、三つの塊を作り出した。湊はノートパソコンで動物用のハーネス付きリュックの画像を見せ、それを参考にすることを提案した。
山神はその形を基に調整を重ね、軽くて動きを妨げない装備を作ろうとした。途中で鍛錬用に重くする案も浮かんだが、湊の指摘で褒美として適切な軽さに改めた。
やがて強い光の中で三つの装備が完成した。それは光沢のある黒色で、小さなポケットやベルトがついた美しいウエアハーネス型のリュックであった。
神霊への贈り物の発案
残った一つの珠は神霊のためのものであった。神霊はまだ体をうまく扱えず、セリたちへの劣等感も抱いているため、まずは身体を使う練習が必要だと山神は語った。
湊はノートパソコンの画面を見ながら、追いかけたくなるボールのようなものがよいのではないかと提案した。
神霊用の特別なボール
そこへ山神が取り寄せた神気を帯びた特別なみかんが現れた。山神はそれを白い素材で包み込み、光の中で加工した。
完成したのは神霊に合わせたサイズのボールであった。その中には極上のみかんが入っており、三キロ転がすと食べられる仕掛けになっていた。
湊はその工夫に納得し、神霊が歩行訓練を頑張るだろうと期待した。
大福で回復する山神
大きな力を使った山神は疲れて横になった。湊は休息を取らせるため家へ戻りながら、今日のおやつは大福だと伝えた。
その言葉を聞いた瞬間、山神の目が輝き、疲れていた毛並みも再びふわりと立ち上がった。
第10章 楠木(仮)邸の定期チェック日
定期チェックに備える湊
楠木邸の内外は、日頃から管理人である楠木湊によって丁寧に整えられていたが、この日はいつも以上に磨き上げられていた。邸内を見回した湊は、梁や床、窓に至るまで異常がないことを確かめ、これならどこを見られても問題ないと判断した。今日は、この家を相続した榊が派遣する者による定期チェックの日だった。
湊は掃除道具を片づけながら、自分に言い聞かせるように大丈夫だと気合いを入れ直した。神の庭の存在を知られないよう、決して不用意な言動をしないつもりでいた。
派遣者の来訪と見えていない庭
やがて派遣者がやって来た。平凡な三十路の男で、家の中を一通り歩き回ると、あっさり新築のように綺麗だと褒めた。その仕事ぶりはあまりにも手早く、湊は内心もっと丁寧に確認すべきではないかと思ったが、表面上はよかったですと穏やかに返した。
続いて派遣者は庭を見ようと縁側へ出たが、彼の目に映っていたのは、作庭途中で放棄されたかのような殺風景な庭だった。神の庭の滝や川、手水鉢や露天風呂などは一切見えておらず、庭木の少ない寂れた景色しか認識できていなかった。
一方の湊には、いつも通り金粉をまとった神の庭がはっきり見えていた。そのため、派遣者が立手水鉢をすり抜けて歩く奇妙な光景まで目の当たりにすることになった。
クスノキだけを認識した派遣者
不思議なことに、派遣者はクスノキだけは認識できていた。しかも以前見た時より小さい気がすると首をかしげた。実際には、以前彼が見たのは応龍によって育てられた後の大きなクスノキであり、記憶違いではなかった。
しかし湊は、以前からこんな感じだったと嘘をついてごまかした。派遣者はもともと記憶も曖昧で、深く追及することなく笑って流した。そこへクスノキが枝で派遣者の膝裏を叩いたため、湊は内心で慌てて制止したが、クスノキは涼しい顔で風と戯れるふりをした。
派遣者の長話と榊家の近況
その後二人はリビングへ戻り、派遣者はソファに腰を下ろすや否や、相続人である榊の近況を延々と語り始めた。榊の事業はこの家を湊が管理するようになってからどれも順調で、新会社も軌道に乗り、資産は増える一方だという。榊本人は勘が鋭く、土地選びでも危険を嗅ぎ分けており、実際に避けた土地では土砂崩れや人骨発見といった出来事が起きていた。
湊は相槌を打ちながら、こうした幸運の多くは四霊か山神の計らいなのだろうと察していた。派遣者は口も軽く、榊が新たな別荘を建てたことや、その別荘には温泉まで引かれていることも話したが、湊は自分のいる家にも温泉があるとは当然言えなかった。
内見希望者の知らせ
長話の最中、派遣者のスマホに会社からと思しき連絡が入り、ようやく腰を上げた。帰り際になって彼は、来月末ごろに内見希望者が現れたことを思い出したように告げた。しかも今回はかなり乗り気らしく、今度こそ家が売れるかもしれないと嬉しそうに語った。
だが湊は、これまでの希望者が誰一人として実際にはここへ来られなかったことを思い出し、曖昧な反応しか返せなかった。せっかく毎回掃除を徹底し、茶請けまで用意していても無駄になってきた経緯があるためである。
山神の気配と派遣者の退散
派遣者が帰ろうとしたその時、急に強い寒気を覚えたように身を震わせ、慌ただしく玄関を出ていった。湊はそれを見て、山神が来たのだろうと察した。前回も同じようなことがあったからである。
実際、鍵をかけて振り返った湊の目に入ったのは、クスノキの横に立つ山神の姿だった。山神は塀の向こうを見ていたが、湊に呼ばれるとゆっくりと小径を渡ってきた。その姿を見た湊は、言いようのない安堵を覚えた。
人間を歓迎しない神々の気配
湊が、派遣者に何かしたのかと尋ねても、山神はとぼけるばかりだった。ただ、自分の気に相手が恐れをなしただけだとしか言わなかった。湊は、特別な力を持たない人間にも神の気配が伝わるのかと不思議に思った。
そのやり取りの最中、石灯籠へ戻ろうとしているエゾモモンガの神霊や、川から戻ってきた四霊たちの姿が見えた。彼らはそれぞれお気に入りの場所へ散っていったが、その態度からは、人間がこの家へ近づくことを歓迎していない気配がありありと感じられた。湊は、自分が人を招き入れるような状況を作っていることに、どこか申し訳なさを覚えた。
内見中止の真相
数日後、案の定、内見予定はキャンセルになったという連絡が入った。湊はやはりそうかと思いながら、いつも通り家の清掃に励んだ。
ただし湊の知らぬところで、内見希望者たちはことごとく山神や風神、雷神の神域へ招かれ、この家に近づけないようにされていた。楠木邸が売れずに済んでいる真相は、山神だけが知っていることであった。
第11章 高く売れますように
いづも屋での迎えと麒麟の同伴
薄曇りの朝、楠木湊は木彫りを卸すため南部のいづも屋を訪れた。店に入ると、待ち構えていた店員に店の奥へ通され、窓もない四畳半の和室で向き合うことになった。部屋はぼんぼりの明かりだけが灯る怪しげな空間であり、店員の笑い声も不気味さを増していた。
そこへ、珍しく麒麟が店内までついてきており、襖の隙間から姿をのぞかせていた。店員はそれを一目で本物の麒麟だと見抜き、その美しさに感嘆した。湊は麒麟が珍しい存在であることを改めて知り、店員が神や霊妙な存在をたいそう好んでいることも理解した。
四霊と四神の話題
店員は背後から青龍の絵を取り出し、四霊と同じくらい四神も縁起物のモチーフとして人気が高いと説明した。湊はその絵を見て神々しいと評しつつも、本物には似ていないと漏らしたため、店員は青龍にも会ったことがあるのかと驚いた。
湊は、青龍が遊びに来たことがあるとだけ答えたが、木彫りの題材にしているわけではないと説明した。神々の姿を許可なく写すつもりはなく、その点ははっきりと線引きしていた。店員は残念そうにしながらも、それ以上は踏み込まなかった。
舟の木彫りへの店員の驚愕
湊は持参した木彫りを座卓に置いた。今回卸すのは二艘の舟であり、霊亀の木彫りは出来に納得がいかず持ってこなかった。舟の帆には霊亀と応龍の抜け殻が用いられ、さらに麒麟と応龍の加護まで与えられていた。
それを見た店員は強い衝撃を受け、しばらく言葉を失ったのち、大変だと告げた。湊は売り物にならないのかと不安になったが、店員は逆に、売れるに決まっているものの金額が決められないのだと説明した。
神木クスノキの価値
店員はまず舟に使われている木材に注目し、それが極めて徳の高い御神木であると見抜いた。自身も御神木と縁があり、これまでさまざまな木々を見てきたが、ここまで格の高い木は初めてだと断言した。
湊はその評価に戸惑ったが、クスノキが特別な存在であることは否定できなかった。その木は霊亀にもらった種から生まれ、山神の神気を帯びた水と、風神の力を与えられた湊の風、さらに応龍が呼んだ雲の雨によって急成長したものであり、世界に二つとない御神木と山神が言っていたのも当然のことだった。
四霊の抜け殻と加護の重み
続いて店員は帆に使われた素材にも目を向け、それが四霊の抜け殻であると見抜いた。四霊の抜け殻は万人に認識でき、ご利益にもあやかれるお宝中のお宝であり、かつてはそれを巡って国家同士の争いにまで発展したことがあると説明した。
さらにそこへ四霊の加護まで加わっていると知った店員は、希少という言葉ですら足りないほどの価値があると断言した。そのあまりの重さに湊は、むしろ売らない方がよいのではないかと弱気になった。
いづも屋で売ることへの決断
しかし店員は、二艘の舟を手元へ引き寄せ、ぜひ売ってほしいと告げた。いづも屋の顧客はまともな者ばかりであり、邪な心を持つ人間の手に渡ることはまずないからだという。
金額を決められない以上どうするのかと湊が尋ねると、店員は顧客に値を決めてもらえばよいと答えた。湊は相場がわからず、二束三文にしかならない可能性を危惧したが、店員は高値がつくと保証し、顧客たちは目利きが多く金払いもよいと力強く請け負った。
その態度は、播磨の父を思わせるほどの自信に満ちたものだった。
第12章 敵を見誤るな
川沿いで続く悪霊対応
播磨才賀と妹の藤乃は、早朝から悪霊祓いの任務へ向かっていた。二人とも連日の対応で疲弊しており、川沿いの道を重い空気のまま歩いていた。春の繁忙期が過ぎれば落ち着くはずだった悪霊の発生は、今年に限って沈静化せず、むしろ再び勢いを増していた。
やがて目的地の水門が見えると、そこには大量の悪霊が群がっていた。水門は黒く覆われ、悪霊の膜が泡立つように湧いていた。虫の気配を察した藤乃は即座に薙刀を顕現させ、一気に悪霊を祓い尽くした。神から授かったその武器は悪霊に絶大な効果を発揮し、藤乃は鬱屈していた気分まで晴らしていた。
嫗への取り憑きと異常の確信
次の現場へ向かおうとした兄妹の前に、一人の嫗が現れた。その頭上から悪霊が襲いかかり、老女に取り憑いたため、藤乃は躊躇なく薙刀を振るって悪霊だけを引き剥がした。さらに播磨が呪を放って悪霊を完全に祓い、嫗は無事に正気を取り戻した。
しかし兄妹は、この一件を単なる偶発的な出来事とは見なさなかった。弱い悪霊が頻繁に湧くだけでなく、生者に取り憑けるほど短期間で育っていること自体が異常であった。しかも水門のような、人の強い思念が溜まりにくい場所で悪霊が増殖しているのも不自然であり、明らかに何かがおかしいと二人は確信した。
泳州町側から現れる悪霊と退魔師の介入
その異常を考えていた矢先、川の向こうの泳州町側から再び悪霊が飛び出してきた。そこへ現れたのが退魔師の安庄たちであり、彼らは前回同様、ここは陰陽師が手を出してはならない縄張りだと高圧的に主張した。
播磨は反論せずにいたが、一条が土手を駆け上がってきて割って入り、安庄に挑発的な態度を取った。藤乃と従妹はそんな一条を役に立つと評しつつも、毒をもって毒を制すようなものだと冷ややかに見ていた。陰陽師側と退魔師側の緊張は高まり、罵声の応酬にまで発展した。
悪霊襲来の中で露呈した退魔師の不備
そこへ泳州町の三角屋根の家から大量の瘴気が吹き上がり、無数の悪霊が空へ広がった。陰陽師と退魔師の双方が得物を構えて迎え撃ったが、ここには六人もの術者がいたため、悪霊そのものは急速に数を減らしていった。
しかし混戦の最中、一条と安庄はなおも言い争いを続けていた。その隙に一体の人型悪霊が虫型の悪霊を盾にして退避し、川を越えて方丈町へ逃げてしまった。播磨たち三人はその様子を見ておらず、退魔師側も追う素振りを見せなかったため、結果的に敵を取り逃がすことになった。藤乃は一条をただの足手まといだと断じ、播磨も庇う余地はないと認めた。
鞍馬の登場と退魔師内部の対立
そこへ新たに現れたのが、若い退魔師の鞍馬だった。彼は安庄たちに対して容赦ない言葉を浴びせ、同じ退魔師でありながら明確に対立する姿勢を示した。纏う霊力の質も量も並外れており、その場の空気を一変させるほどだった。
鞍馬の一言で安庄たちは悪態をつきながら退いていき、播磨たちはようやく事態が収まったことを知った。播磨がなぜ同じ退魔師同士でここまで険悪なのか尋ねると、鞍馬は、退魔師も一枚岩ではなく、悪霊祓いはもっとも実入りのよい仕事だから、同業者同士で取り合いになるのだと説明した。陰陽師とは違い、彼らにとって悪霊祓いは生活に直結する死活問題だったのである。
守護神様として知られる湊の存在
鞍馬はさらに、藤乃が持っていた呪符を見て、温泉宿に掲げられている表札やキーホルダーと同じ効果を持つものだと気づいた。そして、その品を作る正体不明の存在を、自分たちの間では“くすのきの宿の守護神様”と呼んでいると明かした。
その温泉宿には、表札やキーホルダーを盗む退魔師もいるが、作り手に対する感謝が強いため、宿自体に迷惑をかけないようにし、温泉郷の治安まで陰ながら守っているという。さらにその宿には強い妖怪も棲み着いているため、軽々しく手を出せる場所ではないとも語られた。
播磨兄妹の新たな警戒
藤乃は表向き穏やかに礼を述べたが、播磨と視線を交わした兄妹は、鞍馬の話を聞き流してはいなかった。実家の宿と、そこで作られている品々がすでに退魔師たちの間で知られた存在になっていることを知り、二人は内心でその件を調べる必要があると判断した。
こうして播磨兄妹は、悪霊の異常発生だけでなく、泳州町の退魔師たちの内情と、湊の実家にまつわる新たな火種を知ることになったのである。
第13章 即席の湊一座
いづも屋の帰り道での思いつき
いづも屋を出た湊は、南部まで来たついでに山神の好物であるきび団子を買って帰ろうと思い立った。老舗の周防庵はそこから遠くなく、先日の散策のおかげで道筋も把握していた。白いレンガのビルを目印に進もうとしたところで、ふと麒麟の姿が見えないことに気づいた。麒麟は気まぐれであり、買い物中も常にそばにいるわけではないため、湊は待たずに先へ進もうとした。
当たり屋との遭遇と謎の男の介入
その矢先、スマホを見ながら歩いてきた男と肩が軽く当たった。湊が謝ると、相手は不機嫌そうに因縁をつけはじめ、自分の肩が外れたと大げさに痛がりながら慰謝料を要求した。見るからに堅気ではない風体の男に対し、周囲の人々も関わりを避けて離れていったため、湊はどう切り抜けるべきか考えるしかなかった。
そこへ、灰色のスーツを着た筋肉質の男が割って入り、当たり屋の肩をつかんで自分が治してやると言い出した。男はタツヤと呼ばれており、肩の関節を外していた当たり屋に対し、逆にさらに痛みを与えて追い払った。あまりに手慣れた動きであり、ただ者ではないと知れた。湊が礼を述べると、タツヤは自分は龍神の導きに従ったまでだと奇妙なことを口にした。湊はそれに合わせて礼を返しつつ、この人物が以前くすのきの宿で悪霊を祓われたうえ、キーホルダーを買い、座敷わらしにも見逃された男であることを知らぬままだった。
町に漂う不穏な空気
その騒動の後、湊は通りの空気そのものが妙に殺伐としていることに気づいた。店先では、若い男にぶつかられて茶碗を割られた中年女性が執拗に責め立て、自転車に乗った翁も子どもを怒鳴りつけながら通り過ぎていった。
先日この町を歩いた時には、人々の笑い声も表情ももっと穏やかだっただけに、湊は町全体に何かいやな空気が広がっていると感じた。偶然とは思えず、生活に影を落とすような何事かが起きているのではないかと考えた。
麒麟の御守りの異変
その時、麒麟が戻ってきたが、様子がややおかしかった。首に掛けていた木彫りの御守りにしきりに触れ、効果が切れかけていると訴えたのである。湊が視ると、確かに木彫りに宿る翡翠の光が薄れていた。
麒麟によれば、ここへ来てから急激に御守りの効力が失われたという。湊は応急処置として木彫りに文字を入れ直そうとし、人通りのない横道へ移動して麒麟に渡すよう促した。だがその直後、麒麟は頭髪を逆立てて跳び上がった。
播磨宗則の出現と悪霊祓い
横道の先から現れたのは、播磨才賀の父である播磨宗則だった。上質なスーツ姿ながら顔色は土気色で、息も絶え絶えであり、明らかに悪霊に憑かれていた。術者ではない宗則は自力で祓えないため、湊は咄嗟に筆ペンを取り、彼の額へ横一文字の線を書いた。すると宗則の背に張りついていた二体の悪霊が膨れ上がって爆散し、消え去った。
墨の線は非常に目立ったが、宗則は助かったことに心から感謝し、むしろ湊の祓いの力が込められた文字を自分も入れてもらえたと喜んだ。宗則はもともと神秘的な存在をこよなく愛する人物であり、麒麟の鱗や護符を飾って喜ぶような性分だったため、この事態すら嬉しそうに受け止めていた。
泳州町中心街の異常
宗則は、自分は悪霊が見えないが憑かれやすい体質であり、護符を常に持ち歩いていると語った。ところがその日赴いた泳州町の中心街では、湊の護符がたった半日で効果を失ってしまうほど悪霊が多かったという。
その話を聞いた湊は強い違和感を覚えた。自分の護符は極めて強いはずであり、それが半日で役目を終えるというのは、強力な悪霊がいたか、あるいは膨大な数の悪霊が存在していたとしか考えられなかった。先ほど感じた町の殺伐とした空気とも繋がっているのではないかと、湊は不安を深めた。
十和田記者の再登場
その時、麒麟が鋭い声を上げた。視線の先には、肩から大きなバッグを下げ、ふらつきながら歩く十和田記者の姿があった。湊が以前から何度も悪霊を祓っている相手であり、今回もまた明らかに悪霊に憑かれていた。
しかし十和田は、湊ではなく山神に救われたと思い込んでいる。しかも山神へ信仰心を向けてくれる貴重な人物であるため、湊としては自分が前に出るのは避けたかった。そこで事情を宗則に説明し、十和田に気づかれずに悪霊を祓う役を頼んだ。
宗則による即席の神託演出
宗則は事情を理解し、その役を引き受けた。彼は十和田の背後をただ通り過ぎるだけでよかった。宗則の額には湊が書いた墨の線が残っており、その姿は神託めいた異様さを帯びていた。
宗則が十和田の背後を通り過ぎた瞬間、十和田は電撃を受けたように背筋を伸ばして振り返った。そのまま宗則は何事もなかったように去り、十和田はしばらく呆然とした後、足取りを立て直して和菓子屋へ入っていった。悪霊は祓われ、取材も続けられるようになったのである。
木彫りを託す方法を巡る相談
宗則が戻ってくると、湊は十和田がまた憑かれるに違いないと考え、霊亀の木彫りを護りとして渡したいと打ち明けた。だが問題は、それをどうやって山神からの贈り物だと信じてもらうかだった。
宗則は、自分が届け役になっても神の使いには見えないと判断した。そこで湊は、麒麟に山神の眷属のふりをしてもらえないかと考えたが、宗則はそれは難しいと即座に否定した。神と霊獣では発する気配が明らかに違い、一度でも山神の神気を体感している十和田ならば、その差に気づくはずだという。湊は、自分が山神たちのそばにいすぎるあまり感覚が麻痺しているのだと初めて自覚した。
麒麟の決意
二人が打開策に悩んでいると、麒麟が屋根から跳び降りてきた。そして湊が望むならば、自分がその大役を果たすと凛とした声で宣言した。
直後、麒麟の全身から白い光がほとばしり、その体を覆い尽くした。人の身である湊と宗則は、その神秘的な変化をただ息を呑んで見守るしかなかった。
山神への土産を買うための寄り道
いづも屋を出た湊は、せっかく南部まで来たのだからと、山神の好物であるきび団子を周防庵で買って帰ろうと考えた。先日山神と歩いたおかげで南部の地理も頭に入っており、迷うことなく目的地へ向かおうとしていた。途中で麒麟の姿が見えないことに気づいたが、気まぐれにどこかへ行ったのだろうと判断し、そのまま歩みを進めた。
当たり屋との遭遇とタツヤの介入
その途中、スマホを見ながら歩いていた柄の悪い男と肩がぶつかった。湊が素直に謝罪すると、男は因縁をつけ、自分の肩が外れたと言い張って慰謝料を要求した。周囲の人々は厄介事を避けるように離れていき、湊はどう切り抜けるべきか思案するしかなかった。
そこへ灰色のスーツを着た筋肉質の男が現れ、外れた肩なら自分が入れてやると言って割って入った。彼は当たり屋の肩をつかむと、関節を外すのも入れるのも得意だと笑いながら痛めつけ、男を命からがら逃げ去らせた。湊が礼を述べると、その男――タツヤは龍神の導きに従っただけだと奇妙なことを口にした。湊は戸惑いつつも、助けられたことには深く感謝した。
町に広がる殺伐とした空気
騒動のあと、湊は周囲の空気が妙に荒れていることに気づいた。店先では中年女性が若い男を激しく罵倒し、自転車に乗った老人は子どもへ怒鳴り散らしていた。通り全体に苛立ちが満ちており、以前この町を歩いた時の穏やかさとはまるで違っていた。
湊は、この不穏な空気が単なる偶然ではなく、町そのものに何か異変が起きているのではないかと感じ始めた。
麒麟の御守りの異変
その時戻ってきた麒麟は、首から下げた木彫りの御守りに異常が起きていると告げた。湊が確認すると、そこに宿る翡翠色の力が薄れていた。麒麟によれば、ここに来てから急激に効果が失われたのだという。
湊は応急処置をするため、人通りのない横道へ移動し、木彫りを受け取ろうとした。しかし麒麟はその直前に強い気配を察知し、跳び上がって警戒した。
播磨宗則の救助
横道の先から現れたのは、播磨才賀の父である播磨宗則だった。彼は上質なスーツ姿だったが顔色は土気色で、悪霊に憑かれているのは明らかだった。湊は咄嗟に筆ペンを抜き、宗則の額へ横一文字を書き入れた。すると宗則の背にしがみついていた悪霊が二体とも爆散し、消滅した。
宗則は苦しさから解放されると、額に直接文字を書かれたことにも怒るどころか、むしろ感激していた。湊は衣服ではなく額に書いたことを詫びたが、宗則は山神の気配を帯びた文字を身につけられたことを心から喜んだ。
泳州町中心街の異常な悪霊の多さ
宗則は、自分は悪霊が知覚できないが非常に憑かれやすい体質であり、いつも湊の護符を持ち歩いていると打ち明けた。しかし今日は泳州町の中心街に赴いたところ、その護符が半日と持たず効果を失ってしまったのだという。
湊はその話に強い違和感を覚えた。自身の護符は並の悪霊程度ではびくともしないはずであり、それが短時間で力を使い切ったのだとすれば、泳州町にはよほど多くの悪霊が溜まっていることになると考えた。
十和田記者への再度の対処
さらに麒麟が警告を発し、二人が視線を向けると、ふらついた足取りの十和田記者が一軒の店の前に立ち尽くしていた。彼もまた悪霊に取り憑かれていた。湊は十和田の顔を知っており、しかも彼が山神に救われたと思い込んでいることも知っていたため、自分が前に出るのは避けたかった。
そこで湊は宗則に事情を説明し、十和田の背後を通ってもらうだけで悪霊祓いの演出を成り立たせようと考えた。宗則はその役目を快く引き受けた。
山神の使いを装った救済
宗則が十和田の背後を通り過ぎると、十和田は即座に異変を察し、悪霊から解放された。彼は、その現象を山神の救いによるものだと受け止めた。さらに麒麟が白虎の力を借りて神々しい姿を取り、山神の使いのように振る舞ったことで、十和田の確信は決定的なものとなった。
麒麟は十和田へ霊亀の木彫りを授け、それを肌身離さず持てば悪霊に苦しめられないと伝えた。ただし、その声は人の頭に直接響く霊獣特有のものであったため、十和田には強烈な頭痛も伴った。とはいえ十和田はそれさえ神秘的な体験として受け止め、木彫りを抱えて去っていった。
宗則が見抜く麒麟と湊の特異性
十和田を送り出したあと、宗則は湊に、麒麟を山神の眷属として装わせるのは本来なら無理があると語った。神と霊獣では発する気配が根本的に違うため、本来なら誤魔化せないというのである。湊は毎日のように神や霊獣のそばで過ごしているせいで、その差に鈍感になっているのだと知らされた。
さらに宗則は、湊の両肩と背に残る四霊の加護の軌跡までも見えていると打ち明けた。湊はその事実にも驚き、自分が思っている以上に神々の力を身に帯びているのだと改めて知ることになった。
麒麟の霊獣としての矜持
麒麟は白虎の力を用いて十和田を騙す一助を担ったが、自身はあくまで霊獣であり神獣ではないと強く主張した。白虎に力を与えられていること自体に複雑な感情を抱いており、それを使わざるを得なかったことにも不満を抱いていた。
それでも湊のためならばと役目を果たした麒麟は、最後には再び飛び去っていった。宗則もまた、いづも屋へ向かうべくその場を去り、湊だけが残された。
周防庵周辺でのさらなる異変
その後、湊はようやく周防庵へ向かったが、店の周囲には先ほどと同じような不穏な空気が満ちていた。しかも道端では、白目をむいて立ち止まった女性に悪霊が取り憑こうとしていた。湊は即座にメモ帳へ大きくバツ印を書き、翡翠色の力で悪霊を祓った。女性は何事もなかったかのように立ち去り、ひとまず事なきを得た。
しかし湊は、南部でここまで頻繁に悪霊が現れる異常さをはっきり認識した。周防庵も営業中であるにもかかわらず客の姿はなく、通り全体が活気を失っていた。悪霊の影響が町の空気そのものを蝕んでいるのではないかと、湊は危機感を募らせた。
神社前で耳にした退魔師詐欺の話
帰り道、湊は神社の鳥居のそばで口論する娘二人の会話を耳にした。一人の母親が悪霊に憑かれているらしく、退魔師が何度も祓わないといけないと金を取っているらしかった。もう一人の娘はそれを詐欺だと断じ、北部の稲荷神社に頼れば本物のご利益があると語っていた。
その会話から、退魔師による悪徳な商売が実際に行われていること、そしてツムギがいる北部の稲荷神社が“神がいる社”として人々に認識されていることを湊は知った。少なくとも娘たちの母親はそちらへ連れて行かれるようであり、ひとまず救われるだろうと安堵した。
悪霊に対する小さな対策
周防庵の活気のなさを放置できないと感じた湊は、苦肉の策として、店先の野点傘の柄に祓いの力を込めた縦線を書き入れた。誰にも見られぬよう気を配りつつ、いずれ消えることを心の中で詫びながらの処置だった。
湊にできることは限られていたが、それでも何もしないわけにはいかなかった。そうして周防庵の紙袋を提げ、帰路についた。
深夜の不穏な気配
その深夜、周防庵の野点傘の下には黒い人影が立っていた。その者は傘の柄に触れ、湊が書いた墨の線を、闇色の粘液で塗りつぶしていった。翡翠色の光は消され、暗がりの中で不穏な舌打ちだけが響いた。南部の異変が、決して自然に収まるものではないことを示す光景であった。
第14章 あんよは上手
紅葉を迎えるクスノキ
小雨が空から降り続いていたが、その一滴も楠木邸には落ちてこなかった。太鼓橋を渡っていた楠木湊は、庭木たちの様子を見ながら、たまには自然の雨に打たれたほうがいいのではないかと考えた。だが庭木たちは一斉に拒否の意を示し、神水のほうがよいのだと伝えていた。そんな中、クスノキだけがどこか元気を欠いているように見えたため、湊は異変を気にかけた。
ちょうどその時、縁側では山神が目を覚ましていた。湊がクスノキの様子を診てほしいと頼むと、山神はそれが紅葉の時期に入っただけだと見抜いた。以前、クスノキが一夜にして紅葉した時に湊が大いに驚いたことがあり、その記憶を踏まえて今回はクスノキ自身が変化を我慢していたらしかった。湊が大丈夫だと伝えると、クスノキは安心したように葉を紅く染めていった。
落葉と山神の荒療治
紅葉を終えたクスノキは続いて落葉の段階に入ったが、動きが鈍く、自力ではうまく葉を落とせないようだった。湊がどう手伝えばよいか迷っていると、山神が自分に任せろと言い、クスノキの幹を前足で押し始めた。山神の手つきはあまりにも乱暴で、クスノキは大きくしなり、樹皮や枝が激しく落ちていった。
湊はその手荒さに慌てて止めようとしたが、山神は問題ないと取り合わなかった。実際、クスノキは痛がる様子もなく、山神の力を借りて古い樹皮や葉を一気に落としきった。その後、丸裸になったクスノキはすぐさま新しい芽を吹き、青々とした葉を取り戻した。山神によれば、これでも成長速度は遅い方であり、本来ならもっと巨木になれる存在だが、クスノキ自身がそこまで育つことを望んでいないのだという。
クスノキの枝と神霊の関心
落ちた枝には芳しい香気が宿っており、破邪の力も含まれていた。湊は今回も実家や播磨家へおすそ分けしようと考え、クスノキに確認を取った。クスノキが了承したため、湊はせっせと枝を拾い集めはじめた。
その途中、エゾモモンガの神霊が飛び石の上で小枝を持ち、香りを嗅いでいる姿が目に入った。湊が声をかけると、神霊は返事こそしなかったが、逃げることもなく、枝がほしいことを仕草で示した。湊が好きなだけ持っていってよいと伝えると、神霊は枝の束を抱えて石灯籠へ向かったが、二本足で歩こうとしてすぐに転んでしまった。
神霊の不器用さと山神の変化
神霊が転んでも駆け寄れない湊に対し、山神はあの身は頑丈だから怪我はほとんどしないと説明した。だが湊は、それでも痛みはあるのではないかと気にかけた。神霊はまだエゾモモンガの体に慣れておらず、二本足で歩こうとする癖も抜けていなかった。
その様子を見た山神は、突如自らの体をゆらがせ、一瞬で子狼ほどの大きさに縮んだ。神霊は湊の足元に隠れるようにしながら、その小さくなった山神を見つめていた。山神によれば、神霊は犬が苦手らしく、大きな狼の姿に怯えているのだという。湊は、久しぶりに小さくなった山神を見て少し懐かしさを覚えたが、神霊が怖がっていた理由がはっきりしたことにも納得した。
歩行訓練用ボールの贈与
そこで山神は、神霊のために用意していた歩行訓練用のボールを与えることにした。それは山神が夜なべして作ったと称する特製の品であり、中にはみかんが仕込まれていた。一定の距離を転がし続ければ、そのみかんが食べられる仕掛けになっている。神霊はその香りにすぐ反応し、強い興味を示した。
山神がボールを転がすと、神霊はまず鼻先で止め、その後は夢中になって追いかけ始めた。ぎこちないながらも四足で地を蹴り、前へ進んでは転がるボールを追い、また押しやる。その姿を見て、湊と山神はみかんにありつける日もそう遠くないかもしれないと見守った。たとえ途中でつまずいて転んでも、神霊は諦めずにボールを追い続けていた。
やさぐれたツムギの来訪
そんな穏やかな時間の最中、山神が来客の気配を察した。裏門へ向かった湊が見たのは、いつもの黒く艶やかな姿とはまるで違う、ひどくやさぐれた様子のツムギだった。毛並みは荒れ、顔色も暗く、禍々しい黒雲を背負っているような異様な姿であった。
湊が驚いて事情を尋ねると、ツムギはよそと揉め事があったのだと、据わった目で苛立たしげに答えた。湊は細かい事情を聞くよりも先に、まずは露天風呂で回復してもらうべきだと判断し、裏門を開けて温泉へ案内した。ツムギは深々と礼を述べると、すぐさま温泉へ駆け出していった。
天使の梯子と新たな始まり
ツムギが温泉へ飛び込む音を聞きながら、湊は空を見上げた。雲の切れ間から差し込む光が放射状に地上へ降り注いでおり、天使の梯子のように見えた。幸運の前兆ともいわれるその光景を、湊はしばらく静かに見つめていた。
そしてその数日後、待ち望んでいたかずら橋の架け替え工事がついに始まったのであった。
神の庭付き楠木邸 一覧











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