フィクション(Novel)神の庭付き楠木邸読書感想

小説【楠木邸】「神の庭付き楠木邸 6 山神の本名判明」感想・ネタバレ

神の庭付き楠木邸6の表紙画像(レビュー記事導入用) フィクション(Novel)

楠木邸 5巻レビュー
楠木邸 全巻まとめ
楠木邸 7巻レビュー

物語の概要

■ 作品概要

本作は、神々や霊獣が集う不思議な屋敷「楠木邸」を舞台にした現代ファンタジー小説の第6弾である 。主人公・楠木湊が管理人として神々のお世話をする穏やかなスローライフを描きつつ、今巻では老朽化した「かずら橋」の修繕完了や、新たな神域への訪問が物語の軸となる 。神隠しに遭った眷属を救うために湊たちが遠く離れた伊吹山を訪れるなど、物語の舞台がこれまで以上に広がりを見せる内容となっている 。

■ 主要キャラクター

  • 楠木湊: 楠木邸の管理人を務める青年である 。文字に霊力を宿す力を持ち、神々や妖怪たちから信頼を寄せられている 。
  • 山神(方丈様): 楠木邸の守護神であり、大狼の姿をしている 。今巻において、その本名が「方丈(ほうじょう)」であることが判明する 。
  • ウツギ: 山神に仕えるテンの眷属の一匹である 。お使いの途中で「神隠し」に遭い、伊吹山の神域へと迷い込んでしまう 。
  • エゾモモンガの神霊: 楠木邸の新しい住人である 。屋敷での暮らしに慣れ、健気に「親離れ」や自立を試みる姿が描かれる 。
  • 播磨才賀: 湊の協力者である苦労性の陰陽師である 。今巻では、彼の中に「神の血」が流れているという驚きの事実が明かされる 。
  • 伊吹山の山神: 方丈様の友人であり、猪の姿をした神である 。非常に個性的で、湊たちが初めて出会う「別の山の神」として登場する 。
  • ヒサメ: 伊吹山の山神の眷属である 。果樹園や薬草園を趣味としており、独自の感性を持つ個性的な性格をしている 。

■ 物語の特徴

本作の最大の特徴は、もふもふとした眷属たちとの「癒やしの日常」と、徐々に世界の核心へと迫る「シリアスな謎解き」が共存している点にある 。かずら橋の修繕を通した山の妖怪たちとの交流が微笑ましく描かれる一方で、播磨の血筋や退魔師の意外な正体といった物語の根幹に関わる要素が浮上し、読者の興味を惹きつける構成となっている 。また、他作品にはない独特の「隣神」との距離感や、現代日本に溶け込む神域の描写も本作ならではの魅力である 。

書籍情報

神の庭付き楠木邸 6
著者:えんじゅ 氏
イラスト:ox  氏
出版社:KADOKAWA電撃の新文芸
発売日:2023年8月17日
ISBN:9784049150636

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あらすじ・内容

隣神との賑やかスローライフ第六弾! 別の山神さん(猪)が登場!?
 神霊エゾモモンガも楠木邸の暮らしに慣れてきたご様子。「自分でできるもん」とばかりに早くも親離れを頑張り始める!(ちょっと寂しい) かずら橋の建築も順調で、なんて和やかな日々……。
 と思っていたら、お使いの途中でウツギが神隠しに遭った!? 迎えに行くため、湊たちは遠く離れた伊吹山の神域にお邪魔して……初めて別の山神さんにご挨拶!
 隣神との賑やかスローライフ第六弾、今回はちょっとだけバタバタですが、変わらず楽しくやってます。

神の庭付き楠木邸 6

感想

これまでの穏やかな空気を大切にしながらも、物語の背景にある大きな謎や新しい繋がりが色濃く描かれた一冊であった。
日常の何気ない幸せと、背後に忍び寄る不穏な気配の対比が、読者の心を強く捉えて離さない。

まずは、かねてよりの懸案であった御山の「かずら橋」が無事に完成したことに、深い安堵を覚えた 。
修繕の過程で描かれる山の妖怪たちとの交流は、相変わらず微笑ましく、心を温めてくれる 。特に、職人たちの中にも彼らの存在をどこか肯定的に受け入れる「理解ある人々」がいる描写は、人と人ならざるものの共生というテーマを象徴しているようで感慨深かった 。
さらに、我らが山神さんの本名が「方丈(ほうじょう)様」であると明かされた瞬間は、これまでの積み重ねが報われたような心地がし、彼への親しみが一層増したように思う。

本作のハイライトの一つは、ウツギの神隠しを契機に訪れることとなった「伊吹山」でのエピソードであろう 。
そこで出会った伊吹山の山神は、なんと巨大な猪であった 。その強烈な個性にも驚かされたが、さらに印象的だったのは眷属のヒサメである 。
果樹園や薬草園を丹精込めて手入れする彼女の姿は、神霊の意外な趣味を垣間見せてくれ、物語に鮮やかな彩りを添えていた 。
また、大切な桃を失くしてしまった驚きの原因には、彼女たちらしいこだわりが感じられ、思わず笑みがこぼれてしまった。

その一方で、物語の陰影も着実に深まっている。
苦労性の陰陽師・播磨に「神の血」が流れているという事実は衝撃的であり、彼が増え続ける悪霊の根源と対峙する姿には、これまでにない緊迫感が漂っていた。
また、これまで謎めいた存在であった「退魔師」が、実は「人」であったという判明も、今後の関係性にどう影響するのか興味が尽きない。

楠木邸の面々も、相変わらずの自由奔放さで読者を和ませてくれる。
エゾモモンガの神霊が一生懸命に親離れを試みる姿は、少しの寂しさを伴いながらも応援したくなる愛らしさがあった 。
一方、マンドラゴラを育てたがるウツギの飽くなき探究心には、彼らしい極端さを感じてしまい、呆れつつも楽しませてもらった 。

癒やしのスローライフを軸に据えつつ、世界の核心へと迫るシリアスな展開も忘れない。
その絶妙なバランスこそが、本作の魅力である。新たな土地の神々との交流を経て、湊たちの世界がどこまで広がっていくのか、次巻の展開が今から待ち遠しくてならない。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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楠木邸 5巻レビュー
楠木邸 全巻まとめ
楠木邸 7巻レビュー

考察

かずら橋の修繕

方丈町の御山にあるかずら橋の修繕は、楠木からの依頼によって行われた。修繕の経緯や工事中のエピソード、完成後の様子は以下の通りである。

修繕の背景と資金

  • かずら橋自体が少なくなり、職人も減少傾向にある中での修繕依頼は、腕を磨きたい若手職人たちにとって「渡りに船」の絶好の機会となった。
  • この橋の修繕にかかる莫大な工事費用は、湊が希少な御神木のクスノキなどを用いて制作した木彫りの舟を販売し、得た二千万円によって既に賄われている。

職人たちの信仰と作業の様子

  • 山とともに生きる職人たちは信心深く、作業に取りかかる前にかずら橋の脇に簡素な祭壇を設けた。
  • そこで山神に対して橋を架け直す許可を得ることと、工事の無事と安全を全員で祈願してから修繕に臨んでいる。

湊による妖怪対策と陰のサポート

  • 門外漢である湊は直接橋の修繕に手を出せないため、職人たちにスポーツドリンクの差し入れを行った。
  • 山には古狸などの妖怪がおり、作業中の職人の声を真似るなどのイタズラを仕掛けていた。
  • 若手職人が怖がって工事が長引くのを危惧した湊は、妖怪たちを惹きつけ、長である古狸に酒を渡す代わりに「職人たちの仕事の邪魔をしない」という約束を取り付けた。

神の眷属との遭遇

  • 修繕作業を終えた職人たちは、山の神様や眷属に一目でいいからお目にかかりたいと、名残惜しそうに御山を見上げていた。
  • その後、彼らの目の前を神の眷属である光り輝く白いテン(ウツギ)と神霊が通り過ぎ、その神秘的な姿を目撃した職人たちは感極まって涙を流した。

まとめ

妖怪たちが約束を守ってちょっかいを出さなかったこともあり、修繕工事は順調に進み、予想よりも早く完成を迎えた。新しく架け直されたかずら橋はワイヤーも用いられて耐久性が上がっており、以前の朽ちかけた姿から頼もしい姿へと生まれ変わった。しかし、それでも3年ごとに修繕を行わなければならないという今後の課題も残されている。

妖怪との交渉

湊は、かずら橋の修繕工事に訪れた職人たちの安全とスムーズな作業を守るため、御山の妖怪たちと交渉を行った。

山の妖怪たちはイタズラが大好きな性質を持っており、実際に古狸が職人たちの声を真似てからかうなど、すでに作業の邪魔になりかねないちょっかいを出していた。これを見た湊は、無駄に工事を長引かせないため、実家での妖怪の扱いの経験を活かして交渉に乗り出した。

交渉の具体的な内容

交渉の詳細は以下の通りである。

  • 交渉の相手と切り札: 湊は御山に住まう妖怪たちの長と思われる古狸に狙いを定め、リュックから酒瓶を取り出して見せた。古狸をはじめとする妖怪たちはひさびさのお酒が呑みたくてたまらず、湊の周りを取り囲んだ。
  • 提示した条件: 湊はお酒をあげる代わりに、「職人さんたちの仕事の邪魔をしないと約束してほしい」と要求した。
  • 妖怪の葛藤と契約成立: イタズラ好きな古狸は「それは、ひどく難しい」と苦悩したが、周囲の妖怪たちから「ウンって言うだけでお酒もらえるんやぞ」「イタズラするの我慢するさかいな」と強いプレッシャーをかけられた。風の精のイタズラも交えつつ、最終的に古狸は「いいだろう。約束しよう、職人たちにはちょっかいを出さないと・・・・・・!」と宣言し、交渉が成立した。

まとめ

交渉が成功した背景には、湊の持つ「妖怪も神と同じく一度了承した事柄は、必ず守る性質」だという知識があった。そのため、長である古狸と交渉を成立させれば、他の若手妖怪たちも必ずその意に従うと確信していたのである。実際に後日、妖怪たちは約束を違えることなく、職人たちに一切ちょっかいを出さずに静観していたことが確認されている。

南部の瘴気祓い

方丈町南部および隣接する泳州町で発生した瘴気・悪霊騒動と、その祓いの経緯は以下の通りである。

湊による南部の瘴気祓い

  • 湊が眷属のセリとともに南部の中心街を歩いていた際、街全体がおどろおどろしい瘴気に満ち、人々の顔色や精神に悪影響を及ぼしていることに気づいた。
  • 湊が持ち歩いていた神木(クスノキ)の木彫りから放たれる翡翠の光によって周囲の瘴気は自動的に浄化されていたが、現状を見過ごせなかった湊は、目立たない壁や信号機などに筆ペンで「祓いの力」を込めた点を打ち、街の瘴気や悪霊を自ら祓っていった。
  • この常軌を逸した祓いの光景は、偶然居合わせた陰陽師たち(一条、堀川、播磨の血縁者)に目撃され、彼らを「翡翠の方」と驚愕させた。

瘴気の元凶と陰陽師たちの死闘

  • 南部まで瘴気が及んでいた原因は、隣接する泳州町の退魔師・安庄が、金儲けのために自ら悪霊を増やしては祓うという自作自演(マッチポンプ)の行為を行っていたためであった。
  • 安庄は、湊が南部に記した祓いの力(翡翠の光)を、自らの悪霊ビジネスの邪魔になるとして黒い粘液で塗りつぶして回っていた。
  • 事態を重く見た陰陽師の播磨、葛木、一条、堀川らは泳州町に出撃し、町中の悪霊を祓いながら安庄を追い詰めた。
  • 播磨は自身の霊力を限界まで振り絞って安庄と戦うが、安庄が割れた陶器や壺の呪具から大量の悪霊を放ち、絶体絶命の窮地に陥ってしまった。

湊の護符による決着

  • 播磨や葛木らが悪霊の数の暴力に圧倒されかけたその時、湊が楠木邸から風の精霊たちに託して飛ばした護符が飛来した。
  • 湊の護符はどしゃ降りの雨に濡れても効力を失うことなく、すさまじい威力で周囲の悪霊と瘴気をなぎ祓い、最後の一枚が安庄の頬をかすめて壁に突き刺さったことで、悪霊は木っ端微塵に吹き飛んだ。

まとめ

最終的に、護符を運んだ風の精霊たちが楠木邸の湊のもとへ戻り、「悪霊、ぜんぶ消えた!」「泳州町、キレイ、キレイ!」と報告したことで、一連の瘴気騒動は無事に解決したのである。

神々との会食

湊の住まう神の庭付き楠木邸で行われた、神々との豪華な昼食会(バーベキュー)の様子は以下の通りである。

会食のきっかけと手土産

風神・雷神からの差し入れが途絶え、湊が「新鮮な魚介類が食べたい」と渇望していたところ、川からスサノオが姿を現した。スサノオの訪問における詳細は以下の通りである。

  • 神域を通るための手形としてヤマタノオロチを引き連れていた。
  • スサノオの奥さんたちが持たせてくれた手土産として、高級魚ののどぐろ(アカムツ)や鯛、サザエやアワビなどの貝類を持参していた。

調理と神剣の型破りな使用

食事の準備において、スサノオは驚くべき行動を見せた。

  • スサノオは自身の神剣を包丁代わりにして魚を捌き、大根や大葉などのツマまで綺麗に盛り付けるという非常にマメな一面を見せた。
  • 湊はその間にコンロの火をおこし、炊飯器で鯛めしを仕込んだ。
  • 一方、同行していたヤマタノオロチは、スサノオが出した酒樽の酒を八つの頭で飲み干し、早々に縁側で爆睡してしまった。

昼食会の様子

庭のテーブルに所狭しと料理が並び、湊、山神、スサノオによる昼食会が始まった。

  • スサノオは自らコンロ奉行として貝やエビを絶妙な火加減で焼き、山神や湊の皿に取り分けるなどホスト役を務めた。
  • 湊はスサノオのそのこだわりの強い仕切り屋っぷりを自身の兄と重ね合わせ、心底ありがたいと大歓迎した。

狐の乱入とスサノオの一喝

山のそばで新鮮な海の幸を味わうという至福の時間を過ごしていた最中、上空で黒い狐(ツムギ)と若い白い狐(稲荷神の眷属)が激しい空中戦を繰り広げ始めた。

  • せっかくの食事が台無しになりかけたその時、美味しく鯛めしを頬張っていたスサノオが「よそんちに迷惑かけんじゃねェ」とドスのきいた声で一喝した。
  • これに震え上がった白狐は即座に逃げ去った。

まとめ
予期せぬ狐たちの乱入劇があったものの、スサノオの力強い一喝により事態は速やかに収束した。その結果、湊たちは無事に平和で穏やかな食事の時間を最後まで楽しむことができたのである。

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展開まとめ

第1章 かずら橋をよろしく

かずら橋修繕の始まりと職人たちの到着

梅雨が明けた方丈町は晴天が続き、強い日差しの下で老朽化したかずら橋の姿があらわになっていた。その手前には修繕のために集まった多くの職人と見習いたちがおり、工事の様子を見に来た湊は、予想以上の大人数に驚いていた。棟梁は、かずら橋の職人が減る一方である中、楠木からの依頼が若い職人たちに経験を積ませる好機となったため、各所から人を集めたのだと説明し、力のある若者たちを使って工期は長くかからないだろうと語った。

棟梁と山の妖怪への理解

湊のそばに立った棟梁の背後では山爺がいたずらを仕掛けていたが、棟梁は妖怪の姿こそ見えていないものの、吹き下ろした妙な風を妖怪の仕業だと受け止め、山ではよくあることだと笑っていた。通りがかった職人もそれに同意し、山とともに生きる彼らにとって、妖怪は馴染み深い存在であることが示された。

山の神への信仰と湊の胸中

職人たちは仕事にかかる前に祭壇を設け、供物を捧げて山神に工事の許しと安全を祈っていた。さらに、この山にもきっと神がいるに違いない、その姿を一目見たいと期待を込めて語り合っていた。神を身近に感じる国の風土の中で自然な振る舞いではあったが、湊は山神の好物や呼び寄せる方法を知っていながらも、それは個神情報であり軽々しく口にできないと考え、黙っていた。

妖怪の多い山と山神の不在

湊は整備された山道の先を眺め、茂みや木立の各所に潜む妖怪たちの気配や姿を感じ取っていた。山に登るたびに意識してきたことで鈍っていた感覚が戻り、この山には妖怪が多いと実感していたが、彼らは一定の距離を置いて様子をうかがうだけであった。一方で山神やその眷属たちは姿を見せておらず、山神自身は人間の出入りや作業をいまさら気にしていないのだろうと湊は受け止めていた。

古狸のいたずらと湊の対処

作業中の職人たちの声を真似する妙な声が響き、職人たちが互いに戸惑う中、湊はそれが古狸の仕業だと気づいた。以前から山道整備の際にもたびたび構ってきた妖怪であり、今回も木の上から湊をからかっていた。湊はその古狸が酒を欲しがっていたことを思い出し、持参していた酒瓶を見せることで興味を引きつけたうえで、まずは職人たちに差し入れの飲み物を渡し、自分にできる役割を果たそうとしていた。

妖怪を引き離すための誘導

湊は酒瓶を持って下山し、それに釣られた古狸と他の妖怪たちをかずら橋から遠ざけた。湊は幼い頃から妖怪に囲まれて育ってきたため、彼らの扱いに慣れており、職人たちにちょっかいを出す妖怪たちを自分に引きつけておくことができた。十分に距離を取った場所で足を止めると、獣型を中心とした多くの妖怪たちが湊を取り囲み、古狸はとりわけ酒を欲して前に出てきた。

職人を守るための交渉

湊は酒を渡す代わりに、職人たちの仕事の邪魔をしないと約束するよう古狸に求めた。古狸はいたずら好きな妖怪らしく、それはひどく難しいと正直に答えたが、周囲の妖怪たちは酒欲しさに賛成し、早く了承するよう囃し立てた。さらに風の精たちまで古狸を風で翻弄して急かしたため、湊は彼らにもいたずらを控えるよう声をかけた。妖怪は一度了承したことは守る性質があると知っていた湊は、若い職人たちを無用ないたずらから守るため、真剣に交渉を進めた。

古狸との契約成立

悩んだ末に古狸は、職人たちにはちょっかいを出さないと約束し、湊との契約が成立した。湊は礼を述べて酒瓶を渡したが、古狸が他の妖怪にはひと舐め程度しか分けないと言ったため、周囲から大きな不満の声が上がった。それでも酒を手にした古狸は上機嫌で踊り、群れを率いて木立の奥へ去っていった。こうして湊は、工事の妨げとなる妖怪たちを遠ざけることに成功した。

鳳凰の眠りと風の精の伝達

役目を終えた湊は眠そうにする鳳凰を胸ポケットに入れて帰路についた。その途中、風の精たちが職人たちの会話を運んできたことで、湊は風神が言っていた、風の精が各地で聞いた声や音を伝える力を実感した。白い動物を山神の使いかと期待した若い職人たちの声や、それをたしなめる棟梁の声を聞きながら、湊は風の精たちが気まぐれに自分へ声を届けてくれたのだと理解した。

自由な風の精と下山する湊

湊は姿の見えない風の精たちの気配を感じ取りながら、彼らが自由気ままに振る舞っていることに笑みをこぼした。彼らを従えることなど考えたこともなく、これからもそう思うことはないだろうと感じていたが、その自由さこそ彼ららしいとも受け止めていた。そうして帰ろうとしたところ、背中を風で押され、湊は下り坂では追い風はいらないと抗議しながらも、楽しげに飛び回る風の精たちに囲まれて山を下っていった。

神の庭での穏やかな朝

翌朝、神の庭ではいつも通り静かな時間が流れていた。縁側では山神、鳳凰、麒麟とともに湊が画帳を広げ、木彫りの下絵を描いていた。麒麟はモデルとして気取った姿勢を取り、その様子を鳳凰は画帳に注目しながら見守っていた。湊は会話こそ聞こえていなかったが、丁寧に麒麟の特徴を捉えた下絵を完成させ、麒麟も大いに満足していた。

木彫りの制作と売れ行きの話

下絵を描き終えた湊は木彫りに取りかかろうとし、麒麟は自分の木彫りがついに作られることを喜んでいた。山神は、湊が目標としていた橋梁工事代はすでに達成していると告げた。実際、いづも屋に卸した最初の舟二艘だけで二千万円もの大金が入っており、それは御神木のクスノキや霊亀と応龍の抜け殻、さらに麒麟と応龍の加護が施された特別な品であったためである。湊はその売れ行きに驚きつつも、木彫りを続けるつもりでいた。

実家の盗難減少と新たな販売の発想

作業の最中、湊は実家で盗まれがちだったキーホルダーのことを思い出した。そこへ兄から連絡が入り、最近はキーホルダーや表札の盗難が減っていることを知らされた。兄は、盗んだ者たちに座敷わらしが何かしているのではないかと考えており、実際に盗った者が相次いで不幸に見舞われたという噂も広まっているようであった。湊は噂の真偽はわからないとしつつも、盗難が減ったことをよかったと受け止め、いっそ宿でキーホルダーを販売した方がよいのではないかと考え始めた。

木彫りへの専念と霊獣たちの騒がしさ

山神も販売には需要があると認め、クスノキではなく普通の板に力を込めて作れば十分だと助言した。湊はそれならば負担も少ないと納得し、木彫りの作業に戻った。その頃、竜宮門から帰ってきた霊亀と応龍に対し、麒麟は自分の木彫りが先になったことを誇らしげに伝え、応龍と角をぶつけ合って騒がしく争い始めた。しかし湊はその声を聞くことなく、ただ木を削ることに集中していた。

穏やかな庭の締めくくり

山神と鳳凰、霊亀は、いろいろと聞こえない方が幸せだと語り合いながら、静かにその様子を眺めていた。庭の中央のクスノキは、縁側に散る木くずに合わせるように樹冠を揺らし、その頭頂から落ちた一枚の青葉は、石灯籠の傘へとそっと舞い降りた。それは、中で眠る神霊を起こさぬよう配慮するかのような、穏やかな庭の一場面であった。

第2章 自分でできるもん

神霊の新しい体への適応

山神家の新入りである神霊は、元は人型であったため、エゾモモンガの姿となった新たな体にまだ慣れておらず、動作はぎこちなかった。そこで湊は、新しい体を使いこなせるようにと考え、山神が作ったボールを与えた。その中には特別なみかんが仕込まれており、三キロ転がさなければ取り出せない仕掛けになっていたため、神霊はその実を食べるために懸命にボールを追いかけ、転がし続けた。

三キロ到達と神の実の出現

神霊は四つ足で庭を駆け回りながら、鼻や前足を使って赤いボールを転がし続けた。やがてボールは縁側付近で止まり、透けるように消えたあと、小さな葉を載せたみかんが現れた。神霊はそれを宝物のように持ち上げたが、皮は滑ってむけず、噛みついても歯が立たなかったため、もどかしさに地団駄を踏んでいた。

湊による皮むきと神の実の強い誘惑

困っている神霊のもとへ湊が歩み寄り、みかんをむくことにした。しかしその実は、匂いを嗅ぐだけで急激な飢餓感を呼び起こすほど強い力を持っており、湊は食べたい衝動に必死で抗いながら皮をはいでいた。なぜなら、その実を一粒でも食べれば不老不死の肉体になってしまうと知っていたからである。ようやく一房を差し出すと、神霊は夢中で食べ始め、湊はその間も自分の欲望と戦い続けていた。

神の実を食べ終えた後の後始末

神霊はあっという間に神の実を平らげ、なおも名残惜しそうに指を咥えていた。一方の湊は、みかんの汁がついた手を手水鉢の神水で執拗に洗い、匂いとともに冷静さも取り戻していた。振り返ると、神霊の前足や口元から胸元にかけてみかんの汁がべったり付いており、神霊自身もその状態に気づくと、毛並みを整えようとして口元や喉元を爪で引っ掻き始めた。

木桶風呂での入浴

湊は毛が抜けてしまうと案じ、神霊を温泉に入れることにした。木桶に湯を汲んで戻り、手の上に神霊を乗せて運ぶと、そのまま木桶の中央へそっと浸けた。神霊は前屈みになったり横を向いたりしながら、自分の体をまんべんなく濡らして洗い、ついでに頭部まで洗っていた。その動作は人間めいていたが、湊は何も言わず見守っていた。

入浴後の乾燥と湊の工夫

ひと通り洗い終えた神霊は、湯の中でぼんやりしたまま眠気に負けそうになっていたため、湊はそっと引き上げた。本来なら神や眷属は水から上がれば自然に乾くが、神霊はまだ自分の力を使いこなせないため濡れたままであった。そこで湊はタオルで水気を拭き取り、さらに手のひらから風を出して乾かそうとした。これは風神の力を得てから自分の髪を乾かすために使い続けてきた方法であり、神霊を早く乾かそうとした結果、風の温度まで上げられるようになっていた。

神霊の火による乾燥の試み

しかし、まだ乾ききらないうちに神霊は目を覚まし、湊の手から飛び降りて石の上に立った。その直後、神霊の体は赤い炎に包まれた。驚いた湊は、すぐそばにあった木桶の湯を神霊にぶちまけて火を消した。神霊はずぶ濡れになっただけで怪我もなく、その後は湊のすねを叩いて怒りを示した。そこへ山神が、神霊は自分で火を起こして毛を乾かそうとしていたのだと説明し、湊は自分が邪魔をしたのだと理解して謝った。

神霊の自立心の表れ

湊が、なぜ急に自分で乾かそうとしたのか尋ねると、山神は、これまでは湊が乾かし終えたあとに神霊が目を覚ましていたからだと答えた。さらに山神は、神霊は湊の手を煩わせたくなかったのだとも告げた。湊は乾かすことを大した手間とは思っていなかったが、山神は神霊が自立心旺盛であり、できることはまず自分でやろうとする性質だと伝えた。それを聞いた湊は、木桶温泉に入る時も神霊が自力で木桶によじ登ろうとしていたことなどを思い出し、変に甘やかさず見守るべきだと受け止めた。

炎の変化と失敗

湊が黙って見守る中、神霊は再び石の上に立ち、力を込めると鮮やかな赤い炎をその身にまとった。その火は見慣れた火とも雷神の火とも異なる柔らかな美しさを持っており、湊は思わず見入っていた。しかし、しばらくしても毛は乾かず、神霊がさらに力むと炎は大きくなったものの状況は変わらなかった。やがて炎は逆に小さくなり、赤から橙、黄色へと色を変えながら温度を上げていった。その異変に湊が危険を感じて下がった直後、炎は音を立てて破裂し、火の粉が飛び散った。

失敗の結果と湊の気遣い

炎が消えたあとには、白煙の下でボサボサになったエゾモモンガの神霊が残されていた。神霊は自分のごわついた毛やちりちりになったひげに触れて仕上がりの悪さを知ると、がっくりと項垂れた。湊は、はじめてなら上出来だと褒めつつ、見た目が悪いから櫛でとかそうかと提案した。その様子を見た山神は、低い笑い声を庭に響かせていた。

第3章 二色の狐

休暇を決めて縁側で過ごす湊

自由業である湊は、これまで終わりの時間も休日も定めず働き続けていたが、祓いの力が回復しにくくなっていたため、休憩時間をスマホのタイマーで管理し、週休二日を設けるようになっていた。その休日、湊は外出せず楠木邸の縁側で静かに過ごしていた。庭には山神、大狼の姿の山神に寄り添う四霊、石灯籠で眠る神霊が揃っており、湊は皆がのんびりしている様子を眺めながら、工事中のかずら橋のことを思い浮かべていた。

庭の風景と風の精への気づき

湊が庭を見渡すと、神水を浴びて機嫌よく輝くクスノキの周囲では、落ち葉が不自然な軌道で舞っていた。それは風の精の仕業であり、神域が閉ざされていても彼らだけは自由に出入りしていた。湊は、たびたび自分にちょっかいを出してくる風の精の気配を識別できるようになっており、温かな気配の子や冷たい気配の子をそれぞれ覚えていた。山神もそれらを見分けており、二体はいつも一緒に行動していると教えた。

情報誌と山神への誘導

山神は新しくなった地域情報誌を読みながら、服や靴、小物など若い男性向けの記事が増えたことに呆れていた。それらはすべて南部の店ばかりであり、さらに和菓子特集も増量されていたため、湊を南部へ呼び寄せ、その結果として山神も来ることを出版社が期待しているのだと山神は見抜いていた。とはいえ山神は辛辣に切り捨てるのではなく、実際には再訪を少し考えてもいた。湊が気づかずに問いかけると、山神は洋菓子と和菓子を兼ねた菓子の記事に目を留め、結局もっとも関心を寄せているのは菓子のページだけであった。

武蔵社長と十和田記者への湊の懸念

湊は、山神が十和田記者ばかりを気にかけていることが武蔵社長の嫉妬を招いていないかを心配していた。山神は、武蔵社長が自分に心酔しているのは、初代武蔵と山神にまつわる話を聞かされて育ったためだろうと受け止めていたが、湊はそれでも嫉妬という感情は軽く見られないと考えていた。十和田記者が悪霊の悩みから解放されても、職場で居心地を悪くしていないかと危惧していたのである。

風の精が伝えた十和田の本音

山神は、常人には認識できないものと長く付き合ってきた人間は口が堅いものだと語り、十和田記者も誰にも余計なことを話していないはずだと見ていた。すると風の精が湊の耳元で、社長にだけは言えるわけがない、山神から木彫りをもらったなどとは言えない、という十和田の肉声を運んできた。それを聞いた湊は、十和田の心づもりがわかって安堵したが、それでもなお、山神が十和田ばかりを気にかければ武蔵社長は妬くだろうと考え続けた。

話題を切り上げて迎えた八つ時

湊の言葉に対し、山神は直接答えず、そろそろ八つ時だとスマホの方へ鼻先を向けて話題を変えた。湊もそれを咎めず、菓子の時間にすることにした。湊が差し出したのは、新装開店した和菓子屋の駿府の赤しそ餅であり、山神は赤しその香り、餅の加減、そしてこし餡との調和を大いに称賛した。湊は桜餅の赤しそ版のようだと感想を述べ、山神に身も蓋もないと言われていた。

疲れ切ったツムギの再来

その最中、山神は裏門の方に視線を向け、またずいぶん疲れていると告げた。湊が見れば、近場の山に仕える黒い狐のツムギがふらつきながら飛んできていた。先日もきび団子の礼を持参した際に疲れた様子を見せており、温泉で毛並みは戻っても精神的な回復はしていなかった。今回も詳しい事情は語られなかったが、湊はまた誰かと揉めたのかもしれないと感じていた。

不老不死の果実を贈る理由の理解

湊は、ツムギが毎回、不老不死の効果を持つような果実を礼として持ってくることに恐ろしさを覚えていた。前回贈られた黄金のりんごも、芳香と輝きが強烈で、かじりたい衝動を抑えるのに必死であった。そこで山神は、神の実は神にとっても抗いがたい魅力を持ち、天狐もそれを好むため、ツムギにとってそれを差し出すことは最上級の礼なのだと説明した。湊はその意味を理解し、これからもありがたく受け取るが、自分は食べないようにするだけだと受け止めた。

門前に現れた荒れたツムギ

裏門の前まで来たツムギは、前回以上にひどい有様で、毛は逆立ち、静電気までまとい、表情も険しく荒んでいた。湊はその様子に触れず、ただ門を開いて温泉へと手を差し向けた。ツムギは深々と頭を下げて敷居を越え、その後温泉に入って体毛は見違えるほど整った。湊は体の方は元気になってよかったと声をかけ、お茶と菓子を勧めた。前回は礼の品だけ置いてすぐ帰ったツムギであったが、今回は湊の誘いを受け入れようとしていた。

白い狐の襲来

しかしその時、上空から白い光が急速に近づき、裏門の上空で急停止した。現れたのは、稲荷神の眷属らしい真っ白な狐であった。白い狐は黒い狐であるツムギだけを見据え、見つけたぞ黒狐と怒りを露わにしたが、山神の神域に阻まれて中へは入れなかった。山神は、それが南部の稲荷神社から来た小童であり、人間に換算すれば十二、三歳ほどだと見ていた。白い狐は神気を放ち、神域の外の木々を大きく揺らしていた。

ツムギが戦いに赴く

白い狐の気配を受けて、ツムギは空気を張り詰めさせ、湊に詫びながら少し席を外すと告げた。湊は、よそと揉めている相手とはこの白い狐のことだったのだと察した。ツムギは千年を超える古狐であり、七本の尻尾を持つ強い眷属であったが、それでも相手が稲荷神に仕える白狐であるため、湊は無茶をしないか気にかけた。ツムギは心配は無用だと告げ、戦場に赴く者のような決意をまとって縁側から飛び立った。

黒狐と白狐の舌戦と衝突

神域の外で向かい合った白い狐とツムギは、会ったばかりなのに百年目だなどと決まり文句を使う白狐に対し、ツムギが即座に言い返し、そこから激しい応酬が始まった。白い狐はツムギを追い回し、黒狐、出てこい、恐れをなしたかと叫び続け、ツムギはそれを現代風にすとーかー呼ばわりしてさらに怒らせていた。やがて二匹は空中で激しくぶつかり合い、喉元を押さえて威嚇し合いながら、稲荷神社を名乗ることや、この地に来たことへの不満をぶつけ合っていた。

土地神観と信仰をめぐる応酬

白い狐は、稲荷神でもない神が稲荷神社を名乗るのは勝手だと非難したが、ツムギは人間が勘違いしただけだと返した。さらに白い狐が、よそ者のくせにと責めると、ツムギはこの地の人間は土着の神かどうかなど気にせず、吉祥にまつわる神なら歓迎するのだと反論した。湊もその言葉には同意し、仏も異国由来でありながら篤く信仰されていることを思い浮かべ、日本人はそうした由来をさほど気にしないと受け止めていた。

山神の見立てと空中戦の長期化

山神は、稲荷神絡みのものは縄張り意識が強いのだろうと見ていた。このあたりでは、稲荷神を祀る場所は多くあっても、人間が稲荷神社として頻繁に通うのは天狐のところだけであるとも語った。白い狐はその話の最中にも湊を睨みつけたが、すぐにツムギに蹴り飛ばされていた。山神は、天狐は気前がよく、特に気に入った品を献上する人間には大盤振る舞いするため、信者が多いのだろうと説明し、ツムギも上空から天狐は湊の手作りの蕎麦いなりが好きだと伝えていた。

神域を蹴り続けた白狐と山神の怒り

戦いは激しさを増し、やがて白い狐がツムギを追う中で神域の壁を一度、二度と蹴りつけ、ついには連続して足場にし始めた。湊はそれを見て、さすがにまずいと感じて縁側の端まで退いた。山神も半眼から荒ぶる気配を放ち始め、神気が立ち上ると、庭は一気に暴風に包まれた。滝や川、手水鉢の水まで荒れ狂う中、大狼の姿の山神は、ここを誰の地と心得る、たわけどもめ、おいたがすぎると叱責し、その眼から放った光で黒狐と白狐の両方を貫いた。

山神による制裁と事態の収束

光を受けた二匹は悲鳴を上げ、ツムギが詫びようとしたが、山神は最後まで聞かず、光線をしならせて二匹を左右に投げ飛ばした。二匹が遠ざかると暴風は収まり、山神も元の調子に戻った。湊が怪我をしていないか尋ねると、山神は灸を据えただけで傷つけてはいないと答えた。眷属に本気で傷を負わせれば、その背後にいる神たちとの戦争になりかねず、山神もそれは避けたのであった。

テンたちの決意と湊の願い

騒ぎが収まったあと、塀の上にはセリたち三匹のテンが現れ、どこか強張った様子で縁側へやってきた。今の狐たちの戦いを見て、自分たちがいかに未熟かを痛感したのだと語り、まだ空を駆けることすらできないと悔しさをにじませた。ウツギはもっともっと頑張らないといけないと拳を握り、湊はそれに応援すると応じた。しかしその一方で湊は、彼らが礼儀正しいままで、よそに迷惑をかけるような存在にならないでほしいと強く願っていた。

第4章 狐の争いによる被害は甚大

未明の狐争いと大イチョウの倒壊

雨の降る未明、南部の稲荷神社の御神木である大イチョウの上空で、ツムギと白い狐が争っていた。白い狐は、自分の縄張りに踏み入ったツムギを激しく威嚇したが、ツムギは大事な使いの帰りであり、ただ通りがかっただけだと告げて道をあけるよう求めた。しかし白い狐は聞き入れず、若造扱いされたことにも怒って稲光を放った。その攻撃はツムギにはかわされたものの、大イチョウの幹を直撃し、御神木は轟音とともに倒れてしまった。

山中での山神家会議

翌朝、御山ではウツギ、セリ、トリカが集合し、それぞれの持ち場の状況を報告し合っていた。トリカは霊道付近に問題はなく、外れた霊や悪霊を始末してきたと述べ、ウツギは御山もかずら橋も順調であり、山神は湊の家の縁側で眠っていたと伝えた。三匹は山神がつつがなく過ごしていることに満足し、そのうえで山神家会議を始めた。議題は、明後日に湊が木彫りを卸しに南部のいづも屋へ行く際、誰が同行するかというものであり、最終的に今回はセリが行き、次はトリカ、その次はウツギが行くと決まった。

南部へ向かう湊とセリ

南部の中心街へ向かう道を、木彫り入りの手提げバッグを持つ湊と、ウェアハーネスを装着したセリが歩いていた。湊がトリカとウツギのことを尋ねると、セリは二匹は留守番であり、自分たちも常に一緒に行動しているわけではないのだと説明した。その道中では、建物の陰や通行人の背後に悪霊が数多く潜み、一帯に瘴気も漂っていたが、セリはその異常さをすぐには判断できず、ただ普通なのだろうかと首を傾げていた。一方で湊の持つ木彫りは歩くだけで悪霊を祓っており、近くの瘴気も浄化していた。

風の精が運んだすすり泣きと稲荷神社の異変

歩いていた湊の耳元に風の精がすすり泣きを運んできたことで、湊とセリは以前通った道へ出て、南部の稲荷神社へ向かった。そこで湊は、目立っていたはずの大イチョウがなくなっていることに気づいた。神社の近くには焦げ臭さの残る焼け跡と大きな切り株があり、雷によるものかと湊は考えたが、セリは匂いからして自然の雷ではなく、神あるいは眷属の仕業だと見抜いていた。

切り株に残る木の悲しみ

風の精が運んできたすすり泣きは、この切り株からのものであるとセリは告げた。湊が切り株に触れると、そこにはまだ生きている感触と、悲しさや悔しさを伝えてくる弱々しい波動が残っていた。セリは、この木には精霊が宿っており、いまもかろうじて残っていると説明した。その木の精は極めて危うい存在になっており、泣きながら湊の手にすがりついていた。湊はその思いを感じ取り、助ける方法がないかをセリに尋ねた。

クスノキの葉による延命

セリは、神木であるクスノキの力を借りれば助けられるかもしれないと提案した。湊は持参していたクスノキの葉を木の精へ渡し始めた。木の精はそれを抱きしめるように受け取り、葉が消えるたびに存在感を増していった。湊は手元の葉を次々に差し出し、木の精の輪郭は明瞭になったが、宿る木自体が復活しない限り、いずれまた衰えてしまう状態であった。その現実を前に、木の精は再び泣き始め、湊ももっと葉を持ってくればよかったと悔やんだ。

風の精が運んだクスノキの枝

その時、いつもの風の精二体が現れ、クスノキの葉を持ってくると言い残して楠木邸へ飛び去った。楠木邸では、事情を詳しく知らないクスノキが風の精から、木の精が死にかけていることと、湊が葉を必要としていることを聞かされた。葉では足りないと判断したクスノキは、生命力をたっぷり宿した枝を一本伸ばし、それを風の精たちに折らせて持たせた。やがて南部の稲荷神社へ戻ってきた風の精たちは、その枝を湊のもとへ届けた。

木の精の再生と若芽の誕生

セリは、その枝にはクスノキの生命力が満ちており、木の精を助けられるはずだと説明した。湊は初めて木の精の姿をはっきり視認し、その枝の力によって見えるようになっているのだと知った。そして木の精に枝を差し出すと、木の精はそれを抱きしめて切り株の中へ溶け込むように消えていった。その直後、切り株から若芽が一本伸び、さらに二本、四本、十本と増え、葉を茂らせながら急速に成長し始めた。

成長しすぎた若芽への忠告

若芽のあまりに急激な成長を見て、湊はこのままでは周囲の人間に不自然に思われ、気味悪がられて切り倒されかねないと危惧した。そこで、もどかしくてもゆっくり育つように諭し、その方が丈夫に育つとも伝えた。イチョウの若芽たちはその言葉を理解したらしく、それ以上の成長を止めただけでなく、自ら高さを抑え、葉の数も減らした。とはいえ、すでに十分に奇妙な木になっており、湊とセリはクスノキから分け与えられた生命力の強さを思って空笑いするしかなかった。

南部の瘴気の異常さ

イチョウに異常な行動をしないよう言い含めた後、湊とセリは南部の中心街へ戻った。そこで湊は、空気が悪いように感じると口にし、セリも慎重に周囲を見回した。街並みは白と黒を基調とした建物が並んでいるにもかかわらず、瘴気が満ちているせいで霞がかかったように見えていた。悪霊そのものは近くにいなかったが、瘴気の濃さはセリが生まれたての頃なら吐いていたであろうほどであり、ここが普通の状態ではないことは明らかであった。

瘴気が人に与える影響と木彫りの効果

湊が、瘴気だけでも人に影響が出るのかと尋ねると、セリは不安や恐れ、落ち着かなさ、さらには身体の不調にもつながると説明した。湊は、前回来た時に人々が余裕なく他人に当たり散らしていた理由に合点がいった。ちょうどその時、近くを通った男が翡翠の光に触れて、肩の力が抜け、眉間の皺も消えて立ち止まった。湊の持つ木彫りが瘴気や悪霊を祓っていたのである。セリは、本来ならこの浄化は数年は保つはずだが、前回湊がここを歩いたにもかかわらず再び瘴気が満ちているのは異常だと認めた。

湊が祓いを書く決意を固める

南部の現状を目の当たりにした湊は、褒められた行為ではないと理解しつつも、このあたりにも祓いの字を書いていくと決めた。セリは、祓うことを生業とする者が他にいるのだから、湊がやる理由は一つもないと静かに諭した。しかし湊は、どうにかできる力を持ちながら見て見ぬふりをすれば、後になって必ず後悔するとわかっているからこそ、放置できないのだと答えた。その言葉に、セリは苦笑しつつ、湊の精神が老成していると評した。

陰陽師たちが目撃した湊の祓い

その後、湊は目立たない場所を選びながら、店舗の壁や信号機に筆ペンで祓いの力を込めた点を打っていった。翡翠の光の道標のようなものが連なっていたが、常人には見えなかった。しかし、ごく稀にそれを認識できる者たちがいた。この日、陰陽寮から方丈町南部へ急行せよとの命で駆けつけた陰陽師四名のうち、一条、堀川、そして播磨の従姉と再従妹は、人目を避けながら筆ペンで瘴気と悪霊を次々に祓っていく若い男の姿を目撃した。二人の女性はその力の眩しさに身悶えし、堀川は彼女たちの口にした翡翠の方という呼び名を聞き取っていた。一方の一条はただ目を見開いて立ち尽くし、その傍らで拳を握りしめていた。

第5章 管理人の抑えきれぬ欲望

魚介類の欠乏と湊の欲望

家の管理人としての務めを終えた湊は、昼前になって空腹を覚え、冷蔵庫や野菜室、冷凍庫を順に確認した。しかし、いつも風神と雷神の土産で満たされていたはずの魚介類が一つもなく、その事実に絶望した。二神がしばらく姿を見せていないことを思い出しつつも、厄介事に巻き込まれているとは考えず、世界中を放浪しているのだろうと受け止めた。そして、風神と雷神の土産のありがたさを改めて思い知った湊は、新鮮な魚介類が食べたいと欲望を口にした。

スサノオの来訪と手土産

その直後、神の庭に大きな水音が響き、川からスサノオが上陸した。スサノオはヤマタノオロチを川へ落としたまま、紙袋を提げて笑顔で歩み寄り、とりあえず飯を食おうと声をかけた。紙袋からは大魚の頭がのぞいており、今日は争いを仕掛けるためではなく、食事をしに来たのだとわかった。しかも湊が求めていた魚介類を手土産として持参していたため、湊は大いに歓迎した。

ヤマタノオロチと通行の仕組み

湊は、ヤマタノオロチを川に落としたままでよいのかと気にしたが、スサノオはあれは泳ぐのが好きであり、そもそもヤマタノオロチがいなければあの門を通れないのだと説明した。獣が随伴していなければ通れない仕組みだと知り、湊はそんな条件があるのかと驚いていた。縁側まで来たスサノオは山神に軽く声をかけたが、山神は入る前に言うものだと小言を漏らすだけであった。

のどぐろを中心に始まる調理

スサノオが紙袋から取り出したのは、赤い背と白い腹を持つ大きなのどぐろであった。ちょうど泳いでいたから捕まえてきたと語るスサノオに対し、湊はその言い方がらしいと感じつつも、刺し身にするという提案には即座に賛成した。さらにスサノオは、生ものばかりでは飽きるだろうから焼き物も用意すると言い、湊に火を起こすよう促した。湊もすぐに庭へバーベキューコンロを出して炭をおこし、二人で準備を進めた。

神剣による魚さばき

調理の途中、スサノオはのどぐろをさばくために神剣を呼び出した。湊はその剣で魚をさばくことに驚いて止めようとしたが、スサノオは自分の剣なのだから問題ないと取り合わなかった。湊は、その剣があまりに妖しく、美しいがゆえに魂を吸われそうであり、魅了されてしまいそうだと感じていた。スサノオも、それを手にした者には自分のものにしたいという欲が生まれると認めたため、湊は意地が悪すぎると呆れていた。

ヤマタノオロチの介入と酒樽

川から上がってきたヤマタノオロチは、スサノオの足元をうろつき、調理の邪魔をし始めた。湊は酒を出して遠ざけようと考えたが、スサノオはヤマタノオロチは底なしであり、高い酒ではもったいないとして、自ら酒樽を出現させた。ヤマタノオロチは八つの頭を一斉に酒樽へ突っ込み、夢中で飲み始めた。顔に酒が飛んだ山神は単に度数が高いだけの酒だと鼻を鳴らしたが、ヤマタノオロチは味より強さが大事だと反論し、飲み比べるように樽の酒を減らしていった。スサノオは、邪魔な蛇を遠ざけるには酒が一番だと笑っていた。

刺し身と焼き物の準備

スサノオは見栄えまで考えた大皿に切り身を盛りつけ、湊はその手際のよさに感心していた。その後、湊は新たに渡された鯛をキッチンへ運び、鯛めしを炊飯器に仕込んだ。庭へ戻ると、コンロの網にはサザエ、アワビ、白ばい貝が並び、さらに白ばい貝は刺し身や酢の物にしてもよいと話が弾んだ。続いてスサノオは砂抜き済みのしじみまで用意していることを明かし、湊はその用意のよさに感嘆した。

奥方たちが整えた手土産

湊がここまでの下処理を誰がしたのか尋ねると、スサノオは自分ではなく奥さんがやったのだと答えた。その意外な返答に湊は驚いた。さらにスサノオは、手土産を持参するのが常識だと言い張る奥方たちに、のどぐろの一夜干しや出雲そばなども持たされたから好きに食べてよいと告げた。地酒もあると言いかけたが、湊が酒を飲めない体質だと知ると、スサノオはやはりそうかと納得した。一方ヤマタノオロチは、酒が飲めないとはさぞ辛かろうと深く同情しており、湊だけがその反応に戸惑っていた。

新鮮な魚介類による昼食会

やがて昼食会が始まり、庭のテーブルには魚介料理が所狭しと並べられた。食卓を囲むのは山神、スサノオ、湊であり、ヤマタノオロチは縁側で酒に酔って高いびきをかいていた。スサノオはコンロ奉行のように焼き加減を見て、白ばい貝のつぼ焼きを山神の皿に載せた。山神は器用に身を取り出して味わい、その淡白な味と食感を褒めた。続いてスサノオは焼き上がったエビを湊の皿へ載せ、湊は終始笑顔でその采配に感謝していた。こうした仕切り屋の存在は、最高の状態で料理が供されるため、湊にとってありがたいものであった。

狐たちの再来とスサノオの一喝

食事の最中、裏門の方角から不穏な光が近づいてきた。その正体は、再び争いながら飛んでくるツムギと白い狐であった。山神は、自分が以前追い払った程度では抑止にならなかったと嘆きつつも、ツムギが負けることはないが、手加減しながら相手をするのは骨が折れるだろうと見ていた。ツムギは白い狐を楠木邸の上空から遠ざけようとしていたが、白い狐は執拗に戻ってきた。湊が食事の邪魔だと感じて箸を置いた時、スサノオが普通の声で白い狐にうるさいと告げた。その一言だけで白い狐は凍りつき、スサノオの存在に気づくと激しく動揺した。

白い狐の退散と争いの真意

スサノオは、真っ昼間に争えばそれが見える人間もいるうえ、よその家に迷惑をかけるなと低く言い放った。その威圧に白い狐は震え上がり、申し訳ありませんでしたと謝罪して南部方面へ飛び去った。ツムギも楠木邸へ一礼して、自分の住まいの方へ戻っていった。静けさを取り戻した空を見上げた湊は安堵し、スサノオに礼を述べた。するとスサノオは、あの若い狐は気になる相手にちょっかいを出しているだけなのだと明かした。湊は、それがつまり白い狐がツムギに気を向けているということだと理解し、その手段のまずさに呆れた。山神も、ツムギは気位が高く、あの若い狐など相手にしないだろうと冷ややかに語っていた。

神霊とスサノオの対話

その後、スサノオは石灯籠の陰に隠れて様子をうかがっていたエゾモモンガの神霊へ視線を向けた。湊が起きていたのかと声をかけた直後、スサノオは神霊を宙へ引き寄せ、片手でつかみ取った。湊は慌てて止めようとしたが、スサノオはいじめるつもりはないとして、神霊にここで何をしているのかと問いかけた。神霊は言葉を発しなかったが、念話でやりとりしているようであり、山神はそやつらは身内だから気にしなくてよいと湊に告げた。

神霊の系譜と火の力

山神は、神霊がイザナミの子であるカナヤマヒコとカナヤマヒメの系譜に連なる存在であり、一般にはその子であるカナヤコが鍛冶に関わる神として知られていると説明した。湊は、それで神霊が火を扱えるのだと納得した。続いてスサノオは、神霊はもう子どもではなく、新しい体を得たのだから好きにどこへでも行けばよいし、このまま山神のもとで世話になるのもよいと告げた。

神霊への試しとヤマタノオロチの介入

話が一区切りついたあと、スサノオは神霊がいまだに力をまともに使えないことを見抜き、もっと抵抗してみろと挑発した。神霊は炎を身にまとい、範囲や温度を変えながら必死に抵抗したが、スサノオはまったく意に介さず、腹を指でつついて遊んでいた。湊がさすがにやりすぎだと止めようとした時、背後からヤマタノオロチの一つの首が舌を伸ばし、神霊をスサノオの手から奪い取った。ヤマタノオロチは小僧、ええ加減にしろとたしなめ、スサノオはちょっと遊んだだけだと興を削がれたように食事へ戻った。

助けられた神霊と呑んだくれの大蛇

神霊はヤマタノオロチの舌に巻き上げられたまま震えていたが、そのまま湊のもとへ運ばれた。湊が礼を述べて両手で受け取ると、神霊はその指にしっかり抱きついた。よほど怖かったようであった。一方で、助けてくれたヤマタノオロチ自身は、そのまま縁側へ戻って再び酒樽へ八つの頭を突っ込み、やはりこれだと上機嫌で酒に溺れていた。こうして、神霊を救った英雄は、どうしようもない呑んだくれとしての姿もさらしていた。

第6章 いざゆかん、かの山へ

ヤマモモと菓子の交換の申し出

縁側でくつろいでいた湊のもとへ、大狼の姿の山神が竹籠いっぱいのヤマモモを背負って戻ってきた。湊がそれを受け取ると、山神は珍しく背筋を伸ばして厳かな態度をとり、折り入って頼みがあると切り出した。だがその内容は、持ってきたヤマモモと本日の茶請けを交換してほしいというものであった。神の世界では、相手の物が欲しければ相応の品と交換を申し出るのが常識だと山神は説明し、湊はその意外にささやかな願いに拍子抜けしつつも快く応じた。

返礼の品をめぐるやり取り

湊が本日の菓子は和菓子屋さがみのみたらし団子だと告げると、山神はそれを礼としてよその神へ渡すつもりでいることを明かした。その相手は、以前みかんを送ってくれた神であった。山神はその神が自分ほど偏食ではないと語ったが、みたらし団子を手放すのは名残惜しそうであった。そこで湊は、みたらし団子は山神が食べ、返礼には別のつぶ餡のもなかを使えばよいと提案した。山神はその案を受け入れ、よその神への返礼はつぶ餡のもなかに決まった。

礼をため込んでいた山神

みたらし団子を平らげた山神は、今度は花の礼と水の礼もしなければならないと思い出した。手水鉢の花だけでなく、覚から流れ出る水も別の三つの山からのものであると語り、湊は初めてその事実を知った。山神は一つの菓子折りを四等分して配ろうと考えていたが、湊はそれでは少なすぎるうえ裸で渡すような形になると止め、自分も世話になっているのだからと、別の菓子折りを追加で持ってくることにした。

使いの準備と特製のリュック

座卓の上に四つの菓子折りが並ぶと、山神は塀の上に現れたセリ、トリカ、ウツギの三匹に使いを命じた。その前に山神は、三匹それぞれに黒い小ぶりのリュック付き胴着を与えた。三匹はその軽さと動きやすさに大喜びし、山神はそれを自分が夜なべして作ったりゅっくだと得意げに語った。三匹は相談の末、セリが二神分、トリカとウツギがそれぞれ一つずつ担当することに決め、リュックへ菓子折りを詰め込んでいった。

古い記憶を頼りにした出発

準備が整うと、山神は三匹に目的地の地図を脳へ直接送った。しかしその情報はかなり古く、周囲の景色や家の造りが今とは大きく違っていたため、三匹は戸惑いを見せた。山神は、しばらく遠出を控えていたのだから仕方がないと開き直り、山々や海や川の位置といった大きな自然を目印にすれば近づいた時にわかるだろうと告げた。湊もその考えに同意し、三匹は高い位置から地形を見ながら向かうことにした。そうして三匹は風とともに三方へ飛び去り、庭には再び静けさが戻った。

御使いへの不満と天狐への風弾

三匹を見送った後、湊は御使いはそんなに急いで終わらせるものなのかと尋ねた。山神は、三匹にとってはまだ遠出に慣れておらず、今は使命感で動いているが、そのうち帰り道で道草を食うようになると語った。その時、突然山神の機嫌が一変し、天狐から菓子を寄越せという念話が入ったことに激怒した。山神は、やる菓子折りなどないと怒鳴り、火花を散らす風の砲弾を天狐の住まう三角山へ向けて撃ち返した。その後は何事もなかったように湯飲みの茶を求め、湊は呆れながらも茶を淹れ直した。

戻ってきた二匹と帰らないウツギ

数時間後、まずトリカが帰還し、続いてセリも戻ってきた。しかし一番近い山へ向かったはずのウツギだけが戻らなかった。二匹は黄金色に染まりつつある御山を見つめながら心配し、湊も夕飯の支度に手をつけられずにいた。一方で山神は爆睡していたが、セリとトリカがウツギの視覚をたどろうとした時、山神が目を覚ました。そして、ウツギは向かった先の神の神域に隠されていると告げた。

ウツギ救出のための出発計画

湊は、みかんをくれた神であり山神と仲がよいはずなのになぜそんなことをするのかと不思議がったが、セリとトリカは、その神は山神と酒を酌み交わし大地を駆け回るほど仲がよいと補足した。山神は深刻な様子を見せず、相手がウツギを気に入って帰したくなくなったのではなく、自分をおびき寄せるためだろうと受け止めた。そして迎えに行くことを決めたが、その前に現地の和菓子情報を調べるためノートパソコンを呼び寄せた。翌日、山神と湊はかの山の最寄りではなく、より栄えた大きな駅に降り立ち、道草を前提にしたような旅を始めていた。

道草の旅とよもぎまんじゅう

駅で駅弁を食べたばかりでありながら、山神は真っ先に現地でしか食べられないよもぎまんじゅうを目指した。目指す山の名産であり、湊も好物であったため、二人は整備された街の通りを抜け、匂いを頼りに細い路地へ入っていった。山神は鼻を鳴らして、あと十数メートルでよもぎの香りがする店に着くと断言し、湊は山神の嗅覚が地図不要の域にあることに感心していた。

光の塊の正体

その最中、湊は荒々しい神気が近づいてくる気配を感じ取った。直後、光の塊が地を這うように高速で通りを駆け抜けた。さらに別の路地や後方からも同じ光が現れ、縦横無尽に周囲を走り回った。山神はその様子を呆れ気味に眺め、やがて止まれと声をかけた。前方で停止した光の塊を湊が凝視すると、にじむように姿が明らかになり、それは茶色い毛に覆われた小さなうりぼうであった。湊はその姿をかわいいと評し、山神はこのうりぼうが、これから向かう神の眷属だと告げた。

失せ物探しの事情

うりぼうは、通行の邪魔をしたことを素直に謝り、何度もこのあたりをうろついていた理由を問われると、大切な物を落として探していたのだと涙ながらに打ち明けた。しかもそれは神の実であり、山神は一大事だと断じた。湊も、神の実の誘惑を自ら幾度も経験していたため、その危険性をすぐに理解した。もしそれが人間の手に渡れば、奪い合いや殺し合いにまで発展しかねないと三者は判断し、早急に回収しなければならなくなった。

神の実を失った経緯

近くの公園へ移動すると、山神はうりぼうに落ち着いて今日の行動を思い出すよう促した。うりぼうは、神域で袋に神の実を一つ入れて背負い、そのまま一直線に飛び出したと説明した。しかし途中で揚げ物の匂いに惹かれ、是が非でもその店に行かねば後悔すると判断して進路を変えたのだという。店主に認識されずコロッケは分けてもらえなかったが、その香りを堪能した後になって袋がなくなっていることに気づいた。しかも入れていたのは神の与えた袋ではなく、かわいいお姉さんにもらった普通の風呂敷であったため、高速移動に耐えきれず脱落したのだと判明した。

失せ物の位置の推定と山神の嗅覚

湊は、うりぼうの速度があまりに速いため、急な方向転換の際に風呂敷だけが遠くへ飛んだか、そのまま直進してしまったのだろうと推測した。山神もそれに同意し、嗅覚で探ることにした。だが本気で嗅ぎ分けようとした山神は、排気ガスや化学臭、ドブ川の匂いなどに苦しみながらも、ついに神の実の行方を突き止めた。神の実は十数キロ離れた竹林へ飛び込み、しかも人里から少し外れた場所に落ちていた。

神の実を巡る人間たちの争奪

現場に駆けつけた三者が見たのは、竹林で四、五人の人間がザクロの形をした神の実を奪い合って争っている光景であった。一人の青年が懐に抱え込む一方で、他の者たちは髪や腕や脚にしがみつきながら奪い取ろうとしていた。しかも騒ぎや香りに引き寄せられた新たな人間たちも次々に集まり、誰もが欲望をむき出しにして手を伸ばしていた。湊はその姿に愕然とし、人間の本性がむき出しになった光景を直視せざるを得なかった。

奪還の作戦

神の実を取り返すには力づくしかないという山神の言葉に、湊も結局それしかないと認めた。うりぼうは自分がやると申し出たが、湊は大勢の人間を相手にさせることを危険だと感じた。しかし山神は、むしろ人間の心配をすべきだと告げ、うりぼうの神気の強さを示した。そこで湊は、うりぼうに回収を任せる代わりに、自分は風で隙を作ると提案した。湊は、熱風よりも冷風の方が今の人々には効果的だと考え、初夏の服装をした一団に向けて冷気を放つことに決めた。

冷風とうりぼうによる回収

湊が指を鳴らすと、白波のような冷たい風が竹林から飛び出してきた一団を覆い、熱くなっていた身体も頭も一気に冷やした。人々は凍りついたように動きを止め、悲鳴をあげた。その一瞬の隙を突き、うりぼうは疾風のように駆け込み、青年の頭上にあったザクロを鼻ですくい上げて奪い取った。さらに木を蹴って空へ跳び、果実を抱えたままその姿を消した。正気を失っていた人々は、太陽と重なったザクロが忽然と消えるのを見て、ただ絶望するしかなかった。

回収後の帰路とよもぎだんご屋へ

神の実の回収を終えた後、湊は風の温度を下げるのは難しいと振り返り、風神のような細氷交じりの風にはまだ及ばないことを実感していた。山神は、それほど低温なら人間の心臓が止まっていたかもしれないと告げ、今回の冷風程度でよかったのだと確認させた。そこへうりぼうが戻り、湊へ礼を述べた。湊は新たに風遣いの方と呼ばれながらもそれを笑って受け入れた。三者はそのまま遠くの山々へ向かって歩き出し、山神は改めてよもぎだんご屋へ行こうと宣言した。うりぼうもちゃっかり同行を願い出て、湊はそんな二者を見て声を立てて笑っていた。

第7章 旧交をあたためる

伊吹山への到着と猪神への警戒

湊、山神、うりぼうのヒサメは、ウツギが捕らえられた伊吹山を見上げていた。湊は、山神とは異なる硬質で濃い神気に圧され、近づくほど肌がひりつくような感覚を覚えていた。神話に登場する猪神を思い出した湊は、言動に細心の注意を払わねばならないと身構えたが、ヒサメは自分の主は優しいのだと力説した。山神は猪神をただの老いぼれと評し、ヒサメはそれに不満を示した。

神の物々交換の店とクスノキの葉への関心

道中、ヒサメは神の実を交換する専用の店へ向かっていたのだと明かした。神の実だけでなく、神気を帯びた珍しい品も交換可能であり、ヒサメは湊の持つクスノキの葉にも関心を示した。湊は初めてそのような店の存在を知り、山神がその店を使わないのは、神の実を生産しておらず果実自体も好まないからだと理解した。

人目を避けた神域の入口

登山口を素通りしたヒサメは、山沿いの道を進んだ先にある藪の中で足を止めた。そこで木立の空間が波打ち、神域の入口が現れた。人のために作られた入口ではないため高さは低かったが、三者はそこをくぐって神域へ入った。中には、なだらかな丘陵地と雑木林が広がり、陽光と風に満ちた心地よい平地が続いていた。猪が本来平地に棲む生き物であったことを思い出した湊は、この神域の在り方に納得していた。

猪神の突撃と山神との激突

湊が猪神の居場所を尋ねようとした直後、濃密な神気と土煙が迫り、大猪が一直線に突進してきた。山神に離れていろと告げられた湊は、ヒサメを抱えて横へ跳び退いた。その直後、猪神の頭部が山神の頭部と激突し、火花と爆風が巻き起こった。二神は頭を突き合わせたまま言葉を交わし、久方ぶりの再会を確認すると同時に、山神はウツギを隠したことを非難した。猪神はかつての死合の決着がついていないと言い、山神も応じてそのまま激突しながら遠ざかっていった。

二神の激闘とヒサメの平静

湊はヒサメを下ろしたあとも二神から距離を取っていたが、地響きや神圧、地面の崩壊に圧倒され続けた。一方のヒサメは、その激しい破壊を前にしても動じず、むしろ主があれほどはしゃいでいるのを初めて見たとうれしそうであった。地面の亀裂がヒサメの前でぴたりと止まる場面もあり、猪神がヒサメを守っていることがはっきりと示された。

ウツギの隠し場所の見当

湊がウツギの行方を尋ねると、ヒサメは自分もその件を知らなかったと答えた。猪神と入れ違いに神の実を探しに出ていたためである。しかし、猪神のお気に入りの隠し場所なら見当がつくとして、湊を案内した。遠くでは猪神がヒサメを制止しようとしたが、ヒサメはすでに目的は果たされているのだから眷属は解放すべきだと物申した。その最中、山神は猪神に噛みつき、二神は再び絡み合って転がっていった。

別荘の藪とウツギの救出

ヒサメが案内した先には、巨大な藪があり、そこは猪神の寝床その三であり別荘だと説明された。ヒサメが中へ入ると、ほどなくしてウツギを連れて戻ってきた。ウツギは時間の経過をほとんど認識しておらず、すぐ帰るつもりだったのに一日以上経っていたと知って驚いた。湊は抗えない事情だったと受け止めつつ安堵したが、ウツギから強烈な神の実の匂いが漂っていることに気づいて距離を取った。

神の実の果樹園への誘い

ウツギは、猪神に神の実が大量に実る場所を少しだけ見せてもらったのだと興奮気味に語った。そこではヒサメが一人で神の実を育てていると知り、ウツギは感嘆した。ヒサメは、風遣いの方である湊にも後学のために果樹園と薬草園を見学していってほしいと誘い、ウツギもぜひ見るべきだと勧めた。湊は、残り香だけで強烈なその場所に入ることへ不安を覚えたが、二匹の期待を前に断れず、悲壮な覚悟で同行を決めた。

神の実の香りに呑まれかけた湊

果樹園に入った瞬間、無数の神の実が放つ濃密な香りに包まれた湊は、記憶が飛びかけた。花畑のような景色の中に祖父と若い女性の姿を見て、それが早世した祖母だと直感し、近づこうとしたところでウツギの声に現実へ引き戻された。気づけば湊は土に四つん這いになっていたが、幸いそれ以上の醜態は見せていなかった。しかも、香りはきついものの、これまでのような激しい独占欲や食欲は湧いておらず、自分でもその理由を不思議に感じていた。

耐性の理由と果樹園の圧倒的な光景

ヒサメは、香りが混じりすぎて雑多になっているためではないかと推測しつつ、湊がここまで神の実に耐性を持つ理由に疑問を抱いた。湊は何度か神の実をもらったことで慣れたのかもしれないと答え、ヒサメは湊の魂を垣間見て、人間的な欲がもとより薄いのだと納得した。その後湊は、整然と並ぶ果樹と色とりどりの神の実に圧倒された。みかんをはじめ、はっさく、ゆず、きんかん、ザクロなど多彩な実が並んでおり、香りは濃厚でも、湊は次第にそれをいい香りだと受け止められるようになっていた。

神の実づくりへのヒサメのこだわり

ヒサメは、香りをさらに強めることに心血を注いでいると誇らしげに語った。湊は、これ以上人を惑わせる果実になるのかと身震いしたが、ウツギに神の実は神用なのだから仕方ないと言われて思い出した。ヒサメも、通常人間が神の実を目にすることはまずなく、今回のようなことは自分の失態だと認めた。さらに、少し前には猪神自身も神の実を各地へばらまいて回収に難儀したことがあると聞かされ、湊は思った以上に人が神の実に触れる機会があるのかもしれないと感じていた。

薬草園とヨモギの贈り物

果樹園の奥には、果樹に比べて小規模な薬草園が広がっていた。伊吹山は薬草で有名であるが、神は病気や怪我をしないため需要が少ないのだと説明された。湊はその中にヨモギを見つけ、ヒサメは味も香りも効能も普通の物よりはるかによいと紹介した。不老不死の効果はないから持ち帰ってよいとして、ヒサメは神の実回収の礼にヨモギを切り分けた。ウツギは新しく得たリュックに嬉々としてそれを収めていた。

見た目にこだわる作物たち

湊が、神の実も薬草も見た目は一般のものと変わらないのだと感心すると、ヒサメはそこにこだわっているのだと答えた。いかにも神の実だとわかる外見にはしたくないのだという。よそでは金色、銀色、さらには七色に輝くものもあると聞き、湊は驚き、ウツギは見てみたいと目を輝かせていた。

マンドラゴラとの遭遇

その時、薬草の一つが不自然に動き、湊とウツギが視線を向けると、ヒサメはそれをマンドラゴラだと紹介した。引き抜くと絶叫するとされる植物の名に湊は震え上がったが、ウツギは逆にどこから叫ぶのかと興奮した。ヒサメは、この個体は大人しいから絶叫はしないと説明した。さらにその植物には眼があり、機嫌がよければ歌も歌うと語った。マンドラゴラはヒサメが育てた特別な個体であり、ミニ大根のような身から眼や手を見せ、しかも走ることまでできると明かされた。

変わり種の植物への驚き

マンドラゴラが走ると聞いたウツギは見たがったが、葉をつついたことで嫌がられてしまった。湊は、ここまで来るともう意味がわからないと混乱していたが、ヒサメは、自分たちと会話できていること自体、人間から見れば十分不可思議ではないかと返した。さらにマンドラゴラは薬草の手入れも手伝う働き者であり、ヒサメはそれを当たり前のように語っていた。帰り際、土から半身を出したマンドラゴラが片手を振って見送り、湊も思わず手を振り返していた。

荒れ果てた戦場と二神の消耗

再び神域の外へ戻ると、そこには荒野のような光景が広がっていた。雑木林も藪も消え、丘はえぐられ、谷まで生まれていた。二神はなおも激しく戦っていたが、双方に怪我らしい怪我は見えず、湊は神の頑丈さに感心した。ウツギとヒサメは、神は怪我をするほどなら死にかけている証であり、だからこそこの戦いを止めようとはしないのだとあっけらかんと語った。

眷属の一声で終わる戦い

やがて二神は距離を取り、最後の決着をつけようとしていた。猪神は冷気を、山神は熱気を放ち、周囲には寒さと暑さが交互に押し寄せた。人間の湊だけがその影響に振り回されていたが、ウツギとヒサメは平然としていた。そこで二匹は、帰りたい、腹が空いたとそれぞれ自分の主に声をかけた。その一言で二神は即座に戦いをやめ、もう運動は十分だとあっさり矛を収めた。猪神は大地を元の丘へ戻し、空も晴れ渡らせた。

眠りについた眷属たちとヒサメの孤独

ヒサメが夕食の支度のために去った後、山神は伊吹山に他の眷属がいないことを訝しんだ。すると猪神は、他の眷属たちは永い眠りについたのだと静かに語った。死ではなく、そのまま眠り続けている状態であり、眷属が次々とそうなった末に、新たに生み出したのはヒサメだけなのだという。ヒサメは他の眷属とは違い、神の実づくりという趣味を持っているため、同じようにはならないだろうと猪神は考えていた。一方で、ヒサメが人間と頻繁に関わるのは寂しさの表れかもしれないとも漏らした。

ウツギの言葉と猪神の安堵

猪神が、ウツギたちは仲がよいのかと尋ねると、ウツギは三匹で毎日集まり、何かを決める時は必ず話し合っており、寂しいと思ったことは一度もないと明るく答えた。その言葉に猪神は表情を和らげた。山神はなぜか誇らしげであったが、猪神はそれを気にせず、湊にも視線を向けた。湊は神気に押されつつも柔和な表情を崩さず、神の戯れに遭遇するとは運が悪かったと語る猪神に対して、心臓に悪かったが今後の人生でこの経験は役立ちそうだと率直に答えた。その返答に猪神は豪快に笑った。

神の実の土産と深夜の帰還

別れ際、猪神はウツギに神の実をたっぷり持たせた。ウツギは孫のように可愛がられているようで、ほくほくとリュックへ詰め込んでいた。猪神の神域を出ると外は真夜中で、電車はすでに止まっていた。湊が困る中、山神は宙をひとなでして裂け目を生じさせ、その向こうに楠木邸の庭を開いた。山神とウツギに続いて湊もそれを越えると、温かな空気と森林の香りに包まれ、数歩で帰宅できることに夢のようだと感じた。山神は、帰りは億劫でも行きの行程は楽しめるからこそ往路にはこの手段を使わなかったのだと説明し、湊も寄り道したよもぎまんじゅうのことを思い出して納得した。

ウツギの新たな願いとクスノキの反応

こうして無事に帰ってきたウツギであったが、それ以降、自分も家庭菜園をしたい、そのうえマンドラゴラを育てたいと言い出した。山神は、あれは相当手間がかかり、移り気の激しいウツギには育てきれないと断言したが、ウツギも何事もやってみなければわからないと食い下がり、二匹のやり取りは一時間以上平行線をたどった。湊はその様子を見守りつつ、ふと自宅のクスノキに、歩くどころか走ることはできるのだろうかと呟いた。するとクスノキは太い根を二本突き出し、激しく樹冠を揺らした。その様子は、望むなら走ってみせようかとでも言いたげであり、湊は思わず口を開けて見つめていた。

第8章 疲れすぎた播磨の末路

疲労の極限で楠木邸に倒れ込む播磨

連日の悪霊祓いで霊力も体力も限界に達していた播磨は、休みたいという身体の訴えを無視して楠木邸の表門をくぐった。前回は敷地内で荷重の洗礼を受けなかったため今回も大丈夫だろうと高を括っていたが、山神の放つ芳香が持つ強い眠気誘発作用までは見越していなかった。神気を含んだ空気に包まれた瞬間、播磨は全身から力が抜け、持参した土佐家の黒糖まんじゅうの紙袋を落としかけたまま意識を失って前のめりに倒れた。

短い眠りで得た肉体の回復

やがて播磨は、よく眠ったという実感とともにゆるやかに目覚めへ向かっていた。悪霊祓いによる肉体的疲労はすっかり消え、鈍っていた思考も明瞭に戻っていたが、もっとも大事な霊力までは完全に回復していなかった。播磨は、生来霊力が少なく回復も遅い自分が激務の陰陽師に向いていないことを改めて自覚しつつも、それでも自らこの道を選んでいることを思い返していた。

縁側での目覚めと神域の変化

播磨は、自分が横たわってブランケットまで掛けられていることに気づき、表門をくぐって以降の記憶がないことを思い出した。頬をかすめる風と森林の香り、山神の神気から、ここが楠木邸の縁側であると察した。目を薄く開けた播磨は、手水鉢や新たな石灯籠など、庭にまた新たな要素が加わっていることに気づいたが、すでに大木や池や滝まで現れる神域の変化を何度も見てきたため、大きく動揺することはなかった。

風を操る湊の姿

播磨の視線は、手水鉢の向こうに立つ湊へと釘付けになった。湊は手のひらから渦巻く風を起こし、落ち葉を舞わせてかき集めていたうえ、もう片方の手でクスノキを水気を帯びた風の繭で包んでいた。さらに風の精たちと風で応酬し、髪をいたずらされながらも笑って受け流していた。播磨は、湊が風神の力を自らの意思で使いこなし、精霊とも自然に戯れている光景を目の当たりにし、神をその身に降ろしてきた自家の巫女たちとも異なる在り方に驚かされた。

播磨が目を閉じ続けた理由

播磨は、自分を倒れた際に助けたのも湊の風の力だろうと察した。本来なら礼を言うべきであったが、湊はこのような状態を人に見られることを望んでいないはずだと考え、あえてその場では起き上がらなかった。湊は人でいたがっていると播磨は理解していたためである。その間、山神は播磨がもうすぐ起きると告げ、湊は慌てて落ち葉を片づけはじめた。庭の落ち葉は湊と風の精二体による三方向からの風で一気に集められ、風の精たちが去ったところで、播磨はようやく空気を読んで起き上がった。

取引を終えて車へ戻る播磨

つつがなく取引を終えた播磨は、待たせていた車に乗り込んだ。運転手は表門で倒れたことに気づいていない様子で、普段通り次の現場へ向かうと告げた。車中で播磨は、自分の手の甲に書かれた湊の護符を見つめた。今回は両手に丁寧に格子紋が書かれており、その祓いの力は完璧に封じられていたが、それでも翡翠の光は抑えきれていなかった。播磨は、湊の力がまた一段上がっていることを感じ取りつつも、無駄に漏れ出ていないならそれで十分だと判断した。

疲労の回復を実感する播磨

車が動き出した後、播磨は眼鏡が曇っていることに気づき、磨こうとした。その細かな汚れが目に入る程度には、自分が通常の状態へ戻ってきていることを実感していた。楠木邸へ向かう前には疲労でそうした細部に意識を向ける余裕すらなかったからである。そんな中、上着のポケットのスマホが震え、画面には父の名が表示された。

父からの惚気話

電話に出た播磨へ、父は切羽詰まった声で大変だと告げた。だがその中身は、今日も芙蓉さんが美しすぎるという、いつもの母への惚気話であった。播磨は相槌すら打たずに聞き流したが、父は風の音から播磨が移動中だと見抜き、構わず話し続けた。何年経っても美しさの衰えない母のことを延々と語る父に対し、播磨は慣れたものとして淡々と受け流していた。

父の蒐集癖と神域への迷い込み

惚気話のあと、父は昨日また素晴らしい逸品を手に入れたと語り始めた。父は神や霊獣にまつわる品を蒐集しており、思い立ってある町へ赴いた先で気になる店に入り、その品と出逢ったのだという。ただし前回の木彫りがあまりに素晴らしかったため、今回は少し物足りなさも感じたと述べた。さらに、その帰りにはまた土地神の神域に迷い込んだが、今回の神も気のいい方で翌日には戻してもらえたと、こともなげに笑った。神との距離の取り方に長けている父だからこそ成り立つ話であり、播磨は半ば呆れながら聞いていた。

実家への帰還の誘い

父は続けて、今度の日曜日に母のリクエストでひさびさに和食を作ること、特に母がもっとも好むだし巻き卵も用意することを告げ、播磨にも食べに来ないかと誘った。播磨は、実家の居心地そのものは悪くなく、両親から結婚の催促をされたこともないため、帰ること自体に抵抗はなかった。そこで戻るつもりでいたが、父が付け加えたその日あの方も降りてくるという一言で表情を変えた。

姪の縁談と播磨家の先祖神

播磨はすぐに、姉の長女の結婚相手が決まったのだと察した。播磨家の先祖の神は、自らの血を引く娘たちに対して、この世でもっとも相性のよい相手を幼少期から決めてしまう存在であり、反発する者がいても結局その人物を選ぶことが多い。男である播磨にはそのような相手は定められず、自分で探せと言われていた。播磨はそれをむしろありがたいと感じていたが、今回はその報告のためにも実家へ戻らねばならないと受け止めた。

父の最後の忠告

現場が近づき、播磨が電話を切ろうとした時、父は最後にもう一つだけと言って声を低くした。そして、決して霊力を遣いきるような真似はするな、それは命に関わると告げて電話を切った。その言葉だけが播磨の耳に重く残った。

第9章 陰陽師たち、泳州町へ出撃

翡翠の道標を消す黒装束の男

夜の南部の中心街では、湊が記した翡翠の光の道標が並んでいたが、その多くは黒装束の男によって黒い粘液で塗りつぶされていた。男は、苦労して増やした悪霊を祓ってしまうこの光を憎み、店舗の壁や電信柱、信号機を汚すことも厭わず、最後の一つまで消し去ろうとしていた。

播磨の上司への直訴

陰陽寮の一室で、播磨は直属の上司に対し、泳州町の悪霊祓いの許可を求めていた。だが上司は、泳州町には退魔師の家系も多く、彼らに任せておけばよいとして、播磨の願いを繰り返し退けた。播磨は、方丈町南部にまで悪霊が増えている以上、泳州町で悪霊がまともに祓われていないのは明白だと訴えたが、上司は少し手が回っていないだけで、そのうち減るだろうとのらりくらりとかわし続けた。

播磨一族の離脱を賭けた脅し

聞き入れる気のない上司に対し、播磨はついに、許可が出ないなら播磨一族は一人残らず陰陽寮を辞すると宣言した。現在の陰陽寮では播磨一族が最大勢力であり、その大半が第一線で働いているため、彼らが一斉に抜ければ陰陽寮の存続すら危うくなる。上司は播磨にそんな権限はないと反発したが、播磨は現当主である母の許可を得ており、自分の言葉は当主の意向として受け取ってよいと告げた。その結果、上司はしぶしぶ泳州町の悪霊祓いを許可したものの、人員は播磨ともう一人だけだと条件を付けた。

葛木との出撃

夕暮れ時、播磨と葛木は方丈町南部と泳州町をつなぐ橋を渡っていた。上司から許可をもぎ取った播磨のもとには、何も言わずとも葛木が待ち構えており、同行してくれた。偶然にも播磨の身内の剛の者たちは各地へ出払っていたため、その助力はありがたかった。葛木は、上司が悔しがるところを自分も見たかったとぼやき、播磨は苦笑した。

葛木の式神と家族の話

葛木は両脇にサメとクジラのぬいぐるみの姿をした式神を抱えていた。彼は、自分がぬいぐるみを抱えた危ないおっさんに見られそうだとこぼしたが、播磨は堂々としていれば子供への土産と思われるだろうと返した。会話は葛木の息子たちの話にも及び、長男は陰陽師になるつもりだが、次男は退魔師になりたがっていると明かされた。そこへ葛木は、サメの式神の口元がほつれていることに気づき、即座に引っ込めて新たなペンギンの式神に交代させた。式神の綿が出尽くせば死ぬため、葛木はこの点だけは決して妥協しなかった。

泳州町の瘴気と悪霊の多さ

橋を越えてしばらくすると、二人は濃い瘴気に包まれた。町の空気はひどく淀み、人々は覇気がなく落ち着きも失っていた。播磨と葛木は歩きながら呪を唱え、符を用いて瘴気を祓い、通行人に取り憑く悪霊も祓っていった。葛木の式神たちも大口を開けて瘴気を喰らっていた。悪霊の悲鳴や消滅は常人には知覚できず、二人の陰陽師だけがその異常を正確に捉えていた。

泳州町の退魔師への疑念

町を進むうちに、二人は泳州町の異常さを前にしても、退魔師やその式神の気配を一度も感じなかった。やがて、瘴気と悪霊の巣窟と化した古びた建物の前で足を止めると、播磨は、ここまでひどい状況で退魔師が気づかないはずがないと断じた。葛木も同意し、この町の退魔師たちが自分たちで悪霊を増やし、それを祓って金を得ているのではないかと考えた。播磨は、先日会った若者が悪霊祓いは最も実入りのいい仕事だから退魔師同士で取り合いになると言っていたことを思い出し、その疑念を強めていた。

限られた戦力での対処

しかし、術者二人だけで町全体の悪霊を祓うのは不可能に近かった。播磨はすでに霊力が底をつきかけており、湊から購入した護符も親族に渡してしまっていたため、自前の力では心許なかった。その事情を知る葛木は、自分が空から呪符をばらまく役を担うことにした。

サメの式神による空中散布

葛木は形代を再びサメの式神へ変え、その役目を告げた。サメは悪霊を喰いたいと嫌がったが、口元がほつれている以上、悪霊に近づくことすら許されないと葛木に厳しく言い含められた。サメはしぶしぶ了承し、夜空を泳ぐように飛びながら、ヒレの下から呪符を次々と地上へ落としていった。星の瞬く清らかな空の下、禍々しい瘴気に満ちた泳州町へ向けて、無数の紙片が降り注いでいった。

第10章 目指せ空飛ぶハンカチ

夏の庭と冷やしトマト

夏の盛りとなり、湊は庭の滝のそばで入道雲を見上げながら、かき氷が食べたくなる季節だと思っていた。とはいえ楠木邸の庭は涼しく、外の猛暑や蝉の声とも無縁であったため、代わりに滝壺でトマトを冷やして夏気分を味わっていた。網から取り出したフルーツトマトを神霊へ渡すと、神霊は両手で受け取り、湊の真似をするように食べて満足そうな様子を見せた。

湊に付き従う神霊の変化

神霊は近頃、湊の行動を何かと真似るようになっていた。湊が食べる物を欲しがり、落ち葉集めも手伝い、護符作成や木彫りの作業にも間近で張りついて見ていた。その変化を湊は自然に受け止めていたが、麒麟が自分と役回りが被るのではないかと危機感を抱いていることまでは知らなかった。

風鈴を思い出す湊

縁側で眠る山神を見やった湊は、庭の景色に何か足りないと感じ、寝室のクローゼットから木箱を取り出した。中には風鈴が入っていた。以前磨いた時には、まだ夏には早いからと軒下に下げることを風鈴自身に断られていたが、今はすでに夏である。湊は少し遅くなったことを詫びながら木箱を開け、神霊もまた家の外からその様子をのぞき込んでいた。

新しい短冊で機嫌を直す風鈴

風鈴は見た目にはただの風鈴にしか見えず、神霊が触れても反応を示さなかった。湊は、それでもこの風鈴が妖怪であり、機嫌を損ねているのだろうと見当をつけていた。そこで湊は、自作した朝顔の絵入りの新しい短冊を取り出して風鈴に与えた。すると風鈴は喜び、山神によればもちろん気に入ったと大声で答えていた。湊にはその声は聞こえなかったが、激しく鳴る音色でその喜びが伝わった。

風鈴と神霊のやり取り

新しい短冊をつけてもらった風鈴は、表向きはただの風鈴であるかのように静かにしていたが、山神はその妙なこだわりを呆れ半分に代弁していた。神霊はそんな風鈴に興味津々で、短冊をつかんで何度も振り、まるで神社の鈴を鳴らすように遊び始めた。湊はガラスが割れるのではないかと慌てて止めたが、山神はこの風鈴は普通のものより遥かに頑丈だと説明した。ただし、神の手にかかればその限りではないとも付け加えたため、湊は神霊の手から風鈴を離して高く掲げた。

軒下に下がった風鈴の役目

湊は風鈴を軒下に下げ、やわらかな風に舞う短冊と涼やかな音を眺めて満足した。一般に風鈴の音は魔除けとなり、その音の届く範囲は聖域とされるが、ここはすでに神域である。それでも湊は今年もよろしくと声をかけ、風鈴はその夏も魔を打ち祓う役目を果たし始めた。

完成したかずら橋の確認

翌朝、湊は御山へ向かい、完成したばかりのかずら橋の手前で棟梁たちと合流した。職人の若者が橋を慎重かつ軽やかに渡り、その揺れや板の感触を確かめる様子を見て、棟梁は問題ないと判断した。湊も予定より早い完成に感心していたが、その裏で棟梁が若い職人たちを叱咤し、励まし、煽りながら工事を引っ張ってきたことを風の精を通じて知っていた。

山の神を見たがる職人たち

工事を終えた若い職人たちはなおも山を去りがたく、山の神やその眷属に一目会いたかったと心底残念そうにしていた。湊が、どうしてそこまで神に会いたがるのかと棟梁に尋ねると、棟梁は自分たちは山に神がいることを知っているからだと揺るぎなく答えた。これまでさまざまな山へ出かけ、その中には神や眷属が姿を見せてくれた山もあったのだという。さらに棟梁は、この山にも神は確実にいると感じると語り、その澄んだ香りと清廉な空気を根拠に挙げた。

眷属の出現と職人たちの感涙

その時、かずら橋の向こうの木陰から白い動物が姿を見せた。湊にはそれがテンであり、しかもウツギであるとわかったが、他の職人たちはイタチかと戸惑っていた。白く輝く体に金の粒子をまとったその姿は明らかに普通の獣ではなく、眷属そのものであった。ウツギは神霊とともにゆっくり道を横切り、途中でこちらを向いて笑みを見せた後、木立の奥へ消えていった。その光景に魅入られていた職人たちは、姿が消えたあと感極まって涙を流していた。湊はその反応を見て、自分の鈍さを猛省した。

飛行訓練のため再び御山へ

翌日、湊は神霊を胸ポケットに入れて再び御山へ向かった。今日は神霊の飛行訓練が目的であり、山で落ち合う約束をしていたトリカが途中で合流した。神霊は歩くことも走ることもできるようになっていたが、まだ一度も飛んだことはなかった。エゾモモンガの体を得た以上、滑空もしたいと神霊自身が望んだため、湊が付き添うことになったのである。

ニホンモモンガ先生の実演

木々の高低差があり、幹の間隔も広い場所に出ると、トリカは本日の特別講師としてニホンモモンガを呼んでいた。同じ体の構造をした本物を見た方がよいという判断であった。ニホンモモンガは枝を蹴ると被膜を広げ、斜め下方へ美しく滑空し、幹へ張りついてから再び元の枝へ戻る動きを何度も繰り返した。湊はその姿を空飛ぶハンカチだと称し、神霊も瞬きもせずその飛び方を観察していた。トリカは特に着木の動作をよく見ておけと助言した。

神霊の初挑戦と失敗

やがて神霊は自ら木を登り、ニホンモモンガよりも高い位置に陣取った。しばらく動かなかった神霊は、高所への恐怖もあったが、それでも覚悟を決めて枝を蹴った。被膜を広げて飛び出したものの、最初は目を閉じたままで姿勢も安定せず、風にも乗りきれていなかった。やがて樹冠に突っ込んで弾かれ、落下しかけたところを、湊が思わず風で包んでゆるやかに降ろしてしまった。

過保護な湊と山神の忠告

神霊が地面に降りると、山神が現れて、最初から助けるのは甘やかしすぎだと湊をたしなめた。痛い思いをするからこそ次は失敗しないよう意気込むものだと諭され、湊はつい手が出たのだと認めつつも、もう手は出さないと神霊に約束した。神霊も助けられたことには感謝しているが、次は助けなくてよいと示したため、湊は両手を挙げて降参した。

再挑戦への覚悟

神霊は再び木を登り、高い枝の上から下界を見下ろした。恐怖で体が震えたが、それでも以前剣の中に閉じ込められていた時に望んでいた自由を思い出し、歩き、走り、飛びたいという願いを叶えるために勇気を振り絞った。湊たちが見守る中、今度は目を閉じず、前だけを見て飛び出した。すると自然の追い風とともに風の精二体が寄り添い、無理な力を加えることなく、楽しく声援を送りながら並走してくれた。

二度目の滑空と着木の痛み

二度目の滑空は安定しており、トリカもちゃんと目を開けていると認めた。湊は喜び、まさに空飛ぶハンカチだと笑顔を見せたが、山神はまだ風の流れを読めていないと厳しく見ていた。やがて神霊は木の幹へ向かったが、到達自体は成功したものの、顔面を強打して張り付いた格好になっていた。湊は歓声を上げた直後、その実情を知らされて慌てて駆け寄った。神霊は少し泣きながらも、その後も練習を続けていた。

見守る妖怪たちと古狸の観察

神霊の滑空訓練は、梢の間から烏天狗、木立の陰から山姥、茂みのヤマアラシ、さらに大木の上の古狸まで、多くの妖怪たちに見守られていた。中でも古狸は、訓練そのものよりも湊の背中をじっと見つめていた。湊と目が合うたびに場所を変え、また凝視しては笑っており、湊が自分の気配に気づくのが早くなったことを面白がっていた。そのつぶやきを聞いたのは、木の洞にいたアオゲラだけであった。

第11章 はぐれ退魔師と陰陽師たち

泳州町への再出撃と増員

泳州町にはびこる悪霊は、一日では祓いきれず翌日に持ち越されていた。播磨が再び現場へ向かおうとしたところ、一条が自分も参加すると申し出た。播磨が断ろうとしても、一条は自家の当主に直談判して許可を取っており、さらに堀川も自ら同行を志願したため、二度目の泳州町行きは播磨、葛木、一条、堀川の四人となった。

南部で見つかった塗りつぶされた祓いの跡

一条の強い希望で、一行はまず方丈町南部の中心街へ向かった。そこには悪霊も瘴気も見当たらず、表面上は問題がないように思われたが、一条は店舗の壁で足を止めた。壁には黒い粘液がこびりついており、それは数日前に湊が記した祓いの点を塗りつぶした跡であった。堀川が確認したところ、それらは一帯すべて同じように上書きされていた。播磨は、その黒い粘液から湊の祓いの力が完全に消されていることに気づき、相手が並の術者ではないと察した。

鞍馬の再登場と退魔師への疑念

その時、四人の背後から鞍馬が現れた。先日、播磨たちが南部と泳州町の境目で退魔師と揉めた際に仲裁へ入った若者である。鞍馬は、粘液の件は泳州町の退魔師がやったとあっさり認めたうえで、泳州町の退魔師が自ら悪霊を増やしていることを暴露した。くすのきの宿の守護神によって減らされるのが困るから消したのだとまで言い、一条の怒りを買った。だが鞍馬は、自分は依頼されていないことに手を出す義務はないと平然と答え、陰陽師と退魔師の立場の違いを当然のように語った。

鞍馬が語る退魔師の現状

鞍馬は、自分もさすがに悪霊を増やすのはやりすぎだと思っていると述べた。地元があのような状態では、全国をふらふらして花嫁探しをするにも落ち着かないからだという。話が横道に逸れがちな鞍馬を一条が苛立って遮る中、鞍馬は兄が六人いる七人兄弟の末っ子であり、自分と五番目の兄だけが霊力持ちだと明かした。その境遇は一条とも重なっていたが、一条はなおも急かし、葛木も本題に戻るよう促した。

妖怪の式神が見つけた元凶の居場所

鞍馬は、少し待てと告げて腕を横に伸ばした。すると空間が歪み、そこへ妖気の強いコウモリのような妖怪が降り立った。鞍馬はその妖怪から報告を受け、悪霊を増やしている元凶の男の居場所を突き止めたと告げた。そして、元凶の始末は権力の後ろ盾がある公僕である陰陽師に任せると、四人へ押しつけるように言い放った。

安庄の偽りの悪霊祓い

その頃、元凶である退魔師の安庄は、他県の一軒家で中年女性に取り憑いた悪霊を祓うふりをしていた。実際には女性には悪霊は憑いておらず、精神的に弱っているだけであったが、安庄は依頼人を騙して金を取るため、自ら悪霊を憑けて儀式を演出していた。祭壇や呪符などの舞台装置も整え、狐の悪霊だと偽って息子を信じ込ませていた。安庄にとって、それはまさに鴨が葱をしょって来たような格好の獲物であった。

南部近くでの失敗と苛立ち

仕事を終えた安庄は、以前祓い残しておいた家にも向かった。そこは方丈町南部に近い場所であり、前回三人の陰陽師と遭遇したため警戒していた。だが訪ねた先では、家の娘が箒を構えて飛び出し、すでに神社の宮司に祓ってもらったから二度と来るなと怒鳴りつけてきた。安庄は追い返され、一件仕事を失ったものの、町全体に瘴気が満ちていれば、いずれまた疑心暗鬼に陥った人々が依頼してくるだろうと高を括っていた。

一変していた泳州町

しかし泳州町へ戻る道すがら、安庄は異変に気づいた。町は瘴気に満ちた不気味な景色ではなく、車も人も普段通りに行き交う正常な姿を取り戻していた。驚いた安庄は悪霊が巣食っていた元店舗へ駆け込んだが、そこもすっかり浄化されていた。さらに慌てて自宅のある安庄家へ戻ると、母屋に飼っていた大量の悪霊も瘴気もすべて消え去っており、数年ぶりにまともな外観が見えていた。

播磨との対峙

愕然とする安庄の前に、木戸門の横から播磨が姿を現した。播磨は、自分の手でここを祓い、悪霊を増やす呪具も破壊したことを前提に、安庄には令状が出ているから観念しろと告げた。安庄は憎悪をむき出しにして反発し、悪霊祓いを生業としながら悪霊を増やすとは術者の風上にも置けないと責める播磨に対し、術者だからこそ持てる力は遣ってなんぼだと言い返した。さらに泳州町にも土地にも情はなく、金儲けに適しているから住んでいるだけだと吐き捨てた。

逃走のための抵抗

播磨は、陰陽師になれば生活も安定したはずだと諭したが、安庄は無能に顎で使われるくらいなら死んだ方がましだと拒絶した。そして呪符をばらまいて黒煙を生み、そこから黒い鳥を四方に飛ばして瘴気と悪霊を再び町へ広げようとした。だが、それらは敷地外にいる他の陰陽師たちによって即座に祓われた。安庄は、播磨一人ではなかったことに気づいて苛立ちを募らせた。

黒法師との戦いと雨雲の接近

なおも諦めない安庄は、今度は黒い粘液から人型の黒法師を大量に生み出し、播磨へ一斉に襲いかからせた。播磨は数の暴力に晒されながらも、一体ずつ確実に仕留めていった。空には雷鳴が轟き、湿った風が吹き始め、遠くでは灰色の雨雲が近づいていた。状況はなお緊迫していた。

楠木邸で護符を書く湊

一方その頃、楠木邸ではいつも通り穏やかな時間が流れていた。クスノキが揺れ、麒麟や応龍、霊亀、鳳凰、神霊が思い思いに過ごす中、湊だけは縁側で真面目に護符を書き続けていた。筆さばきも祓いの力の込め方も、もはや一端の符術師といえる域に達していた。山神は座布団の底付き感を嘆きつつ、湊の護符作成の手際がよくなっていることを認めていた。

播磨の体質と神の血

湊は、前回播磨が楠木邸に来てすぐ倒れたことを思い出し、やはり相当忙しいのだろうと案じていた。山神は、あの時は湊の風が間に合って顔面から倒れずに済んだと笑いながらも、播磨には神の血が流れていると明かした。湊が以前春に見かけた播磨の血族たちも、山神には一目で同じ系譜だとわかっていたのだという。ただし血はかなり薄まっており、怪我が治りやすい、病気になりにくいといった程度の恩恵しか残っていないと説明した。

霊力の器の違い

さらに山神は、霊力には器の大きさと質があることを、湯飲みやマグカップやおちょこを使って例えた。いづも屋の店員は平均的な大きさであり、播磨の器はおちょこ程度と小さい。一方、湊の祓いの力の器は山神の湯飲みに相当するほど大きく、しかも回復も速いとされた。ただし播磨は器こそ小さく回復も遅いが、霊力の質はよく、日々鍛錬して磨き上げてきたのだと山神は評した。湊は、その努力を思いながら、今日調子がいい分だけ護符を書き溜めておこうと決めていた。

風の精が運んだ播磨の会話

その時、裏門の方から風が吹き込み、風鈴が鳴るとともに枯葉が舞い、風の精が播磨の声を湊の耳元へ届けた。内容は、悪霊祓いを生業としながら自ら悪霊を増やす術者に対する播磨の非難と、それに対する相手の開き直った返答であった。さらに泳州町が悪霊だらけで、そこを金儲けの場としか見ていないことまで聞かされた湊は、顔色を変えた。風の精もまた泳州町の惨状に憤っており、その情報をわざわざ湊へ伝えに来たのであった。

泳州町へ向かう決意

播磨たちの会話を聞いた湊は、護符をかき集めて立ち上がろうとしていた。山神はその様子を見つつ、泳州町の方角を見やった。海側から雷を伴う雨雲が急速に移動し、町全体を飲み込もうとしていた。その滝のような雨が、神の眼にははっきりと映っていた。

播磨と安庄の消耗戦

古めかしい日本家屋を背に、播磨と安庄は互いに肩で息をしながら対峙していた。安庄は尽きぬかと思われるほど悪霊を放ち続け、播磨はそれを一体ずつ祓っていた。安庄はなお余裕を残して播磨に諦めるよう促したが、播磨は手の甲の格子紋も消え、自身の霊力を振り絞りながら、お前こそ諦めろと応じた。戦いは、どちらの霊力が先に尽きるかという様相を呈していた。

豪雨による呪符の失効と新たな悪霊の放出

そこへ突然、滝のような雨が降り注ぎ、安庄の放った呪符の文様が水で流れはじめた。播磨は湊の護符が水で消えないことに慣れていたため、一瞬その当然さを思い出した。しかし安庄は雨ごときで怯まず、懐から取り出した陶器を地面に叩きつけた。割れた陶器から瘴気があふれ、黒煙の中に新たな悪霊の影がうごめきだした。播磨は、安庄がどれほど多くの悪霊を飼い慣らしているのかと戦慄した。

限界の中で元凶を狙う播磨

悪霊の多くは敷地外へ飛び出していったが、それでも敷地内にはなお大量の悪霊が残り、しかも割れた陶器からは次々と新しい悪霊が湧き続けていた。霊力がほぼ尽きた播磨は、立っているのもやっとの状態でありながら、ただ見ていることはできず、襲いかかる悪霊を避けつつ印を結び、陶器そのものを狙って祓った。吹き飛んだ悪霊の塊の向こうに安庄の位置を探り、視界の利かない中で大気の流れ、足音、息遣いを捉えた播磨は、一気に間合いを詰めて腹部へ蹴りを叩き込んだ。吹き飛ばされた安庄は壁に激突し、その場に崩れ落ちた。

最後の抵抗と巨大な悪霊

播磨は力技に至ったことを情けないと自嘲しつつも、残る悪霊を祓おうとした。しかし霊力も体力も限界に達し、片膝をついてしまう。その隙に安庄はなおも諦めず、呪符で封じた小ぶりな壺を地面に叩きつけた。爆発するように瘴気が広がり、その中心に黒い巨人のような悪霊が現れた。播磨は四つん這いのまま、それを見上げるしかなかった。

敷地外で追い詰められる葛木たち

同じ頃、敷地外では葛木もまた追い詰められていた。式神たちは悪霊を喰らい続けていたが、すでに限界が近づいていた。サメの式神が悪霊に噛みつかれ、表皮が裂けて綿がこぼれかけたため、葛木は慌てて抱きとめて傷口を押さえた。その直後、湊の護符とわかる紙片が一直線に飛来し、敷地外の悪霊と瘴気を一掃した。葛木は、その絶大な祓いの力に思わず笑うしかなかった。

護符と風の精による悪霊の殲滅

方丈町北部から飛んできた湊の護符は、風の精たちに運ばれながら道中の悪霊と瘴気を祓い続けており、すでに大半が効力を失っていた。それでも残った数枚が敷地内へ侵入し、播磨の頭上を抜けて巨悪霊を削っていった。右腕を消し、左脚を失わせ、最後の一枚は風の精に射出されて悪霊の喉を貫き、そのまま背後の安庄の頬をかすめて壁に突き刺さった。悪霊は木っ端微塵に吹き飛び、安庄は頬を押さえて悲鳴を上げた。

戦いの終息と播磨の理解

風が吹き荒れたあと、播磨が顔を上げると、雨はすでにやんでいた。地面には元は護符であった和紙が散らばっており、そのうち何枚かは形を保っていた。播磨は、それらが今し方自分を救った湊の護符であると理解し、その不自然な軌道から風の精が運んできたのだと悟った。湊が精霊たちに頼んでくれたのかもしれないと察した播磨は、遠く晴れた楠木邸の方角へ向かって静かに目を閉じた。

寺の屋根から見ていた鞍馬

一方、泳州町外れの寺院の本堂屋根の上では、鞍馬が一連の騒動を高みの見物していた。特殊な目を持つ鞍馬には、湊の祓いの力の翡翠色がはっきり見えており、北部から飛来した光の群れが悪霊を祓っていく様子を余すところなく見届けていた。最後の一枚が対象に当たらなければ祓えない性質だったのだろうと推測しつつ、くすのきの宿の守護神の力の強さに感心していた。そこへ飛来した悪霊を、肩に担いだ呪具の刀で斬って消し去りながら、世の中にはまだまだ強い者がいるのだろうと楽しげに考えていた。

兄たちの怒声と鞍馬の不満

しかしその直後、下から兄たちの怒声が飛び、本堂の上から下りろと怒鳴られた。鞍馬は、自分のおかげで寺が無事で済んでいるのだと小声で愚痴をこぼしたが、僧侶である兄たちは悪霊の存在そのものに懐疑的であり、彼の持つ呪具の刀もおもちゃ扱いしていた。還俗した五男だけは理解者であるが、その兄は不在で、鞍馬は拗ねたように遠くの町を眺めていた。

風の精から届いた吉報

楠木邸では、風鈴が高らかに鳴り、風の精たちが湊へ泳州町の様子を伝えていた。悪霊はすべて消え、町もきれいになったという知らせを受けて、湊はようやく表情を和らげた。護符を託してからずっと泳州町の方角を気にしていたため、その報告は大きな安堵をもたらした。湊は風の精たちを労い、彼らは笑い声を残して空へ飛び去っていった。

湊の安堵と播磨への連絡

山神は、人使いの荒い精霊たちだと半ば呆れながら見送った。湊は、正確な顛末まではわからなかったが、知らせてくれたおかげで助かったと苦笑しつつ、すぐにスマホを手に取って播磨へメールを打ち始めた。山神はその様子を横目に見ながら、大きなあくびをこぼした。

第12章 魅力あふるる方丈山

祠の石を整える湊

青葉の茂る御山で、月に一度の清掃を終えた湊は、祠の前で新しい石を山神に見せていた。もともと三個あった石のうち一つが割れていたため、これから多くの人の目に触れるなら格好がつかないと考え、渓流で拾ってきた石を補おうとしていたのである。山神は石ころなどどうでもよいと無関心であったが、湊は三個あったものは三個に戻すべきだと譲らず、新しい石を据えた。その石は違和感なく馴染み、湊は満足そうに眺めた。

山道で目立つ古狸の化け姿

祠をあとにして丸太階段を下っていると、若い登山客とすれ違った。その二人は道脇にある大きな石に目を留め、漬け物石や温石のようだと笑い合った。湊が振り返ると、その巨石は古狸が化けたものに違いなく、しかもご丁寧にしめ縄まで巻かれていた。何かしでかさないかと湊は気を揉んだが、古狸は黙って石のふりを続け、山神に呆れられるとわずかに浮いただけで耐え通した。

野鳥目当ての来訪者たち

さらに下る途中では、一眼レフを構えた中年の登山客たちと出会った。彼らは道脇から希少な野鳥を狙っており、湊が目を向けた先にはアカモズがいた。湊がその珍しさに思わず声を漏らすと、山神は近頃こうした見慣れぬ動物目当ての来訪者が増えたのだと語った。昔はいなかった動物たちが己の長のそばを望んで集まり、とりわけ楠木邸側に新参の鳥や獣が集まっているのだと説明した。

完成したかずら橋と天狐の話題

やがて二人は完成したかずら橋へたどり着いた。以前の朽ちかけた姿とは違い、今は頼もしい姿で向こう岸へ架かっていた。湊は慎重に橋を渡りながら、踏み板の隙間から川が見えるのはやはり怖いと漏らした。山神は、人間は身一つで飛べないから余計に恐怖を感じるのだと答え、自分は空を駆けることができると告げた。そこで湊が以前天狐と空中戦をしていたことを口にした途端、山神は荒ぶり、橋の上で神気を膨らませた。湊は慌てて謝罪し、橋の上では話題が悪かったと詫びた。山神も自らを省みて神気を収め、二人は無事に渡り切った。

人の増加を見込む湊と山神の反応

登山口近くでは、新しい装備に身を包んだ初心者らしい登山客の団体ともすれ違った。湊は最近の登山やキャンプの流行を思い、これから御山に来る人はさらに増えるだろうと口にした。和菓子記事以外も読んでいる山神も、地域情報誌でその手の特集が増えていることを知っていた。湊は山がもっとにぎやかになるとよいと願ったが、山神はやかましいのは勘弁だと素っ気なく返した。ただその足取りは軽く、尻尾も揺れていた。

楠木邸に集まる野鳥たち

楠木邸へ戻ると、家の周囲には大型の野鳥が何羽も飛び交い、敷地外のクスノキにも多くの小鳥が集まっていた。彼らは己が長である鳳凰の機嫌伺いに来ていたのである。湊が在宅し、鳳凰が起きていることを知る鳥たちは、神域が開かれるのを待っていた。湊が裏門をくぐると神域が開放され、野鳥たちは一斉に敷地内へ流れ込んだ。

黒い鳥の正体と山神の一撃

しかし、すべての鳥が同じ目的で来ていたわけではなかった。ひときわ高いクスノキの先に止まっていた漆黒の鳥だけは動かず、冷たい目で鳳凰を見下ろしていた。その瞬間、山神が放った金色の矢がその頭部を射抜いた。黒い鳥は紙片へと変わり、矢とともに燃え尽きて消えた。それは式であり、何者かが山神のもとへ送り込んだものだった。

門を閉ざす山神

山神は、己のもとへ式を寄越すとは身のほど知らずだと冷然と言い放った。対岸の火事なら傍観するが、自分に降りかかる火の粉は全力で払うのが山神の性分である。怒気をまとった山神は裏門へ向かい、その身が門を越えると格子戸はひとりでに閉じ、固く閉ざされた。

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