フィクション(Novel)ふつつかな悪女ではございますが読書感想

小説「ふつつかな悪女ではございますが: 12 ~雛宮蝶鼠とりかえ伝~」感想・ネタバレ

ふつつかな 悪女で はございますが12の表紙画像(レビュー記事導入用) フィクション(Novel)

ふつつかな悪女11巻
ふつつかな悪女 全巻まとめ
ふつつかな悪女13巻

  1. 物語の概要
    1. ■ 作品概要
    2. ■ 主要キャラクター
    3. ■ 物語の特徴
  2. 書籍情報
  3. あらすじ・内容
  4. 感想
  5. 考察・解説
    1. 玲琳の里帰りと歓迎
      1. 里帰りのきっかけ
      2. 規格外の熱烈な歓迎
      3. 屋敷内での過剰なもてなし
      4. まとめ
    2. 景彰と慧月の葛藤
      1. 慧月の葛藤:恋心の自覚と自己犠牲
      2. 景彰の葛藤:惹かれる心と理性のブレーキ
      3. 祠堂での衝突と感情の決壊
      4. まとめ
    3. 辰宇の凄惨な過去
      1. 実母・アレイナの歪んだ愛情と虐待
      2. 十歳の悲劇:母の拒絶と目の前での処刑
      3. 迫害の日々と、養父・冰凌とのかりそめの平穏
      4. 十五歳の悲劇:信じた養父の裏切りと生き埋め
      5. まとめ
    4. 夜の山での救出劇
      1. 夜の山への出発
      2. 土砂崩れと辰宇の絶望
      3. 玲琳の奮闘による救出
      4. 辰宇の心境の変化と差し出された手
      5. まとめ
    5. 魂に刻まれた呪い
      1. 「病」への違和感と「呪い」の仮説
      2. 「黄玲琳」と名乗った瞬間の激痛
      3. 魂(名)に刻まれた古く強力な呪い
      4. まとめ
  6. 登場キャラクター
    1. 黄家
      1. 黄玲琳
      2. 黄景彰
      3. 黄景行
      4. 黄泰山
      5. 黄静秀
      6. 黄暉宏
      7. 冬雪
      8. 福英
      9. 来喜
      10. 雲錦
      11. 侍女たち
    2. 皇室・宮中
      1. 尭明
      2. 弦耀
      3. 黄絹秀
      4. 朱貴妃
      5. 護明皇子
      6. 和玉
    3. 鷲官
      1. 辰宇
      2. 文昴
    4. 朱家
      1. 朱慧月
      2. 莉莉
    5. 玄家・北方警邏隊
      1. 玄冰凌
    6. 臘楚
      1. アレイナ(阿蓮)
    7. その他
      1. 金清佳
      2. 金成和
      3. アキム
      4. ナディール
  7. 展開まとめ
    1. プロローグ
    2. 1. 玲琳、里帰りを決める
    3. 2 慧月、気付く
    4. 3 玲琳、書を読む
    5. 4 玲琳、語らう
    6. 5 玲琳、山に登る
    7. 6 玲琳、救出する
    8. 7 慧月、問い詰められる
    9. 8 玲琳、星を見上げる
    10. エピローグ
    11. 特典SS『下戸』
  8. ふつつかな悪女ではございますが 各巻レビュー 一覧
  9. その他フィクション

物語の概要

■ 作品概要

本作は、五つの名家から選ばれた雛女(ひめ)たちが次期皇后の座を争う「雛宮(すうぐう)」を舞台にした、中華ファンタジー作品である。物語の核心は、美しく聡明な「殿下の胡蝶」こと黄玲琳と、忌み嫌われる「鼠姫」こと朱慧月が、道術によって互いの身体を入れ替えられる点にある。

最新の第12巻では、金領での激動の騒動を終えた一行が、玲琳の故郷である黄家へと寄り道をする様子が描かれる。入内して以来となる玲琳の帰還に沸く家族たちの裏で、彼女の過酷な生い立ちや、母親との複雑な関係性がついに明かされていく。

■ 主要キャラクター

  • 黄 玲琳(こう れいりん): 黄家の雛女。見目麗しく完璧な姫君として愛されているが、実は壮絶な虚弱体質ゆえに培われた「鋼の精神(メンタル)」の持ち主である。慧月の身体に入れ替わった後は、手に入れた健康な身体を謳歌し、あらゆる逆境をポジティブに跳ね除けていく。
  • 朱 慧月(しゅ けいげつ): 朱家の雛女。強い劣等感から玲琳を激しく妬み、禁忌の道術を用いて身体を奪った張本人である。しかし、玲琳が実は死と隣り合わせの病弱な身であったことを知り、衝撃を受ける。入れ替わり生活を通じて玲琳の強さに触れ、自身の内面にも大きな変化が生じている。
  • 詠 尭明(えい ぎょうめい): 詠国の皇太子であり、玲琳の従兄。誠実で責任感が強く、文武両道な人物として周囲の信頼も厚い。玲琳を心から愛しており、入れ替わった二人の本質にいち早く気づき、彼女たちを守るために奔走する。
  • 辰宇(しんう): 後宮の風紀を司る鷲官長(しゅうかんちょう)。尭明の異母弟であり、冷徹な佇まいと異国譲りの碧眼が特徴である。冷静な洞察力を持ち、玲琳たちの旅や後宮での騒動において重要な役割を果たす。

■ 物語の特徴

本作の最大の魅力は、従来の「入れ替わりもの」の常識を覆す、主人公の圧倒的なバイタリティにある。虐げられる悪女の身体になっても「健康なら何でもできる」と喜び、野草を食らってでも生き抜く玲琳の姿は、読者に強い爽快感を与える。

また、単なる後宮内の権力争いだけでなく、緻密に練られた道術の謎解きや、対照的な境遇にいた姫君たちが次第に絆を深めていく友情のドラマも、他作品にはない独自の差別化要素となっている。

書籍情報

ふつつかな悪女ではございますが12 ~雛宮蝶鼠とりかえ伝 ~
著者:中村颯希 氏
イラスト:ゆき哉  氏
出版社:一迅社
発売日:2026年3月31日
ISBN: 9784758098014

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あらすじ・内容

金領の騒動を終え、帰路につく玲琳たち一行。
しかし玲琳の体調を心配した慧月は、気の枯渇のせいで入れ替わりが解消できないと嘘をついてしまう。そこで玲琳から提案されたのは、
「慧月様、黄領のわたくしの家に寄り道して、数日逗留しましょう!」
まさかの黄家への寄り道だった!?
入内して以来の玲琳の帰還に、喜びに沸く黄家の者たち。そして束の間の休息をとる尭明や景彰たち。
そんな中で慧月が知ったのは、玲琳の両親、そして生まれ育った環境で……。
「あなたは、母親とは別人でしょう?」
なぜ、いつまでも娘が母の影に囚われることを望むのだろう。

迫りくる死を淡々と受け入れる玲琳、ひとり懸命にあらがう慧月。一方、辰宇は仄暗い過去を思い起こし――。大逆転後宮とりかえ伝、第七幕「雨の黄家帰省」編。クライマックス直前、不屈の第12巻。

ふつつかな悪女ではございますが12 ~雛宮蝶鼠とりかえ伝~

感想

まず、鷲官長・辰宇の過去が明かされた場面には、息を呑むほどの衝撃を受けた。彼の美しい碧眼が奴隷の血を引く母親譲りであることや、皇帝の子という高貴さと卑賤さが同居する複雑な立場が浮き彫りになったのだ。幼少期に母親から受けた凄絶な暴力の記憶や、それをフラシュバックさせる土砂崩れに遭い生き埋めにされたというエピソードは、あまりにも気の毒で言葉を失う。

物語の核となる「入れ替わり」に潜む謎も、一段と深まりを見せている。玲琳(れいりん)の本来の身体が死を待つばかりの状態でありながら、入れ替わっている間は病の進行が停止するという現象は、どこか不気味でさえある。これは単なる道術の効果ではなく、当人の「認識」が事象に干渉している証なのだろうか。

玲琳の故郷である黄家でのひとときは、家族の温かさを感じさせつつも、彼女が囚われ続けてきた「母の影」をあらためて浮き彫りにした。死を淡々と受け入れようとする玲琳と、それにあらがう慧月の対比が、読者の心を激しく揺さぶる。この奇妙な病と「認識」の関係が、次なる巻でいかに解明されるのか、期待と不安が入り混じった心地で待ちたいと思う。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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ふつつかな悪女11巻
ふつつかな悪女 全巻まとめ
ふつつかな悪女13巻

考察・解説

玲琳の里帰りと歓迎

玲琳の里帰りと黄家による歓迎は、次のような経緯と規格外の規模で行われた。

里帰りのきっかけ

一行が船で王都への帰路についている最中、激しい船酔いに苦しむ慧月は、病弱な玲琳の身体を守るため、気が枯渇していると嘘をつき入れ替わりの解消を先延ばしにしようとした。さらに追及を逃れるため、気の回復には「夜光花」という架空の薬草が必要だとでっち上げる。しかし、玲琳はそれが黄家の裏山(黄山)にあると信じ込み、急遽、通り道である黄領の実家へ寄り道して逗留することが決定した。

規格外の熱烈な歓迎

黄家への来訪は直前に鳩で知らされたばかりであったが、到着した一行を待っていたのは凄まじい規模の歓迎であった。門楼の扉が開くと、以下のような歓待が行われた。

・黄色の衣を着た使用人たちが一糸乱れぬ隊列を組み、銅鑼や太鼓、笛を鳴り響かせた。
・「皇太子殿下、並びに、ご友人、ご来臨!!」「玲琳様の、おかえりー!」という大合唱が起こった。
・早馬に乗った民たちが道に花や餅を撒き散らす「散福」という黄領独特の慣習が行われた。
・「歓迎皇太子殿下、朱慧月様」と書かれた垂れ幕が掲げられた。

かつて玲琳を突き飛ばしたとされる慧月であっても、「玲琳の親友」として黄家総出で大歓迎を受けた。このお祭り騒ぎに、中身が玲琳である慧月や同行した女官の莉莉は恐怖で馬車の壁に縋り付くほど圧倒されたが、当の玲琳(中身は慧月)は、ずっと憧れていた「親友を我が家に招待する」という夢が叶ったことを心から喜んでいた。

屋敷内での過剰なもてなし

門をくぐる際、侍女長の福英をはじめとする侍女たちによる清拭が行われたが、玲琳が「慧月様を早くもてなしてほしい」と焚きつけたことで、侍女たちのやる気に火がついた。玲琳はこれを「しょせん前座。もてなしはここからが本番」と評し、その言葉通り、屋敷内では過剰なまでの世話焼きが開始された。

「黄玲琳」として扱われる慧月が受けたもてなしは以下の通りである。

・立ち上がっただけで数十人の侍女に囲まれて団扇で扇がれた。
・回廊を歩けば一歩進むごとに新しい絨毯が敷き直された。
・食事の席では箸も匙も握らせてもらえず、一口食べるごとに口を絹で拭われた。

まとめ

このような過保護すぎるもてなしの連続に、慧月は一日で疲労困憊してしまった。黄家の人々が持つ「客や身内をもてなすのが大好き」という気質と重すぎる愛情が、この怒涛の歓迎に色濃く表れている。

景彰と慧月の葛藤

景彰と慧月の間には、黄家での滞在や数々の事件を通じて互いに惹かれ合いながらも、身分や隠し事による複雑なすれ違いから生じる深い葛藤が描かれている。

慧月の葛藤:恋心の自覚と自己犠牲

慧月は、黄家で過ごす中で、意地悪だと思っていた景彰がふと見せる優しさや頼もしさに、自分が密かに恋心を抱いていたことを自覚する。しかし、彼女には立ちはだかる以下の大きな壁があった。

・自分が皇太子の婚約者候補である「雛女」であり、本来結ばれるべきは皇太子であるという身分の壁
・景彰が父親との会話の中で、侍女の来喜に上等な手巾を用意し「責任を取らなくては」と語っているのを立ち聞きしてしまい、彼が他の女性を想っていると誤解したことによる悲しみと嫉妬
・「黄玲琳の体には死期が迫っており、彼女を生かすために入れ替わりを維持している」という重大な秘密

愛する人たちにその悲しい真実を自らの口からは明かせず、一人で背負い込んでいることが彼女の心を深く苦しめていた。

景彰の葛藤:惹かれる心と理性のブレーキ

一方の景彰も、怒ったり照れたりする感情豊かな慧月に強く惹かれていた。彼は慧月のために、初夏にひっそりと咲く「南天の花」をあしらった特注の腕輪を名匠に作らせ、懐に忍ばせていたほどである。
しかし、景彰もまた彼女が「雛女」であるという現実に直面する。

・自分が彼女に腕輪を贈る(求愛する)ことは、慧月がこれまで雛女として積み重ねてきた努力や立場を蹂躙することになるという気づき
・妹の体にいる慧月に対してどう接するべきかという悩み

これらの理由から、彼は激しい葛藤を覚え、腕輪を渡すためにも早く元の体に戻ってほしいと願っていた。

祠堂での衝突と感情の決壊

二人の葛藤は、黄家の祠堂の廂房で正面からぶつかり合う。

・景彰は慧月を問い詰め、彼女のために腕輪を用意していることを明かし、早く元の体に戻ってほしいと迫る。
・これを聞いた慧月は、想いを寄せる彼から自分専用の腕輪を用意されていた嬉しさと、元の体に戻れば玲琳が死んでしまうという絶望から涙を流し、ついに「黄玲琳の体には死期が迫っている」という秘密を打ち明けてしまう。
・これを聞いた景彰は、かつて自分が慧月にかけた「いびつな黄玲琳にひびを入れてくれた」という言葉が、彼女に自己犠牲を強いて危険な真似をさせているのではないかと激しく後悔し、自責の念に駆られる。
・しかし慧月は、誰のせいでもなく自分が黄玲琳になることを望んだのだと自らの意志であることを叫ぶ。

まとめ

このように、互いを深く想い合いながらも、相手の立場や命を思いやるがゆえに本音を隠さざるを得ず、不器用にすれ違ってしまう状況が、二人の葛藤の核となっている。

辰宇の凄惨な過去

鷲官長・辰宇の寡黙で他者を寄せ付けない冷ややかな性格の裏には、幼少期から青年期にかけて経験した凄惨な裏切りと絶望の過去が隠されている。彼の過去は大きく分けて、実母による歪んだ愛情とその死、そして信じた養父からの残酷な裏切りの二つの出来事によって彩られている。

実母・アレイナの歪んだ愛情と虐待

辰宇の母・アレイナ(阿蓮)は臘楚出身の奴隷でありながら、皇帝・弦耀の目に留まり辰宇を産んだ。彼女は息子が次期皇帝になると盲信し、以下のようないびつな愛情を注いでいた。

・辰宇を「シェイン」と呼び、彼が受け継いだ臘楚特有の青い瞳を病的なまでに愛でる
・機嫌を損ねると辰宇に激しい暴力を振るい、直後に泣きながら抱きしめるという精神的な虐待を繰り返す

このような自己中心的な愛情のもと、辰宇は外界から隔絶された屋敷で、母の機嫌を窺いながら孤独な幼少期を過ごすことを強いられた。

十歳の悲劇:母の拒絶と目の前での処刑

辰宇が十歳の時、彼を第二皇子として王都で引き取るため、玄家から使者が訪れた。使者は辰宇の資質を測るため「詠国語がわかるか」と問いかけた。辰宇は母と引き離されることを恐れ、あえて沈黙を貫き詠国語がわからないふりをした。しかし、彼が皇帝になることで自らが国母になるという野望を抱いていたアレイナは、この息子の選択に激怒する。彼女は「あんたのことなんて誰もいらない」と辰宇を激しく罵倒し、彼を衣装棚に閉じ込めた。

その直後、アレイナが長年、皇后や皇太子を呪う呪符を送り付けていた大罪が使者によって暴かれた。

・辰宇は衣装棚の隙間から、母が使者の剣で腹を刺し貫かれ、恨めしげな表情のまま絶命する姿を目の当たりにする。
・さらに使者は辰宇に対し、「野心を見せていれば殺すつもりだった」と告げ、「欲するものがあっても、手を伸ばしてはいけない」という呪いのような言葉を残して去った。

この出来事により、辰宇の心は完全に凍りついてしまった。

迫害の日々と、養父・冰凌とのかりそめの平穏

母の死後、辰宇は玄領の貴族に引き取られるが、皇帝の血を引く異国の奴隷の子という出自や、目立つ青い瞳が原因で激しい迫害といじめに遭い、たらい回しにされた。しかし十三歳の時、玄家末席の三男・玄冰凌(げんひょうりょう)に引き取られたことで転機が訪れる。

冰凌は武術の才こそないものの、辰宇を特別視せず温かく接し、青い瞳を「空のようだ」と肯定してくれた。辰宇は次第に彼に心を開き、学坊に通うようになるなど、人生で初めての穏やかな日々を手に入れた。

十五歳の悲劇:信じた養父の裏切りと生き埋め

しかし、その平穏も長くは続かなかった。国境で臘楚との紛争が激化する中、砦内で「臘楚の内通者」を探す疑心暗鬼が広がり、辰宇が疑われる。そんな中、冰凌が独断で偵察に向かったため、辰宇は彼を案じて後を追うが、以下のような残酷な裏切りに遭う。

・洞穴で冰凌に腹を殴られ、痺れ薬を嗅がされる。実は冰凌こそが長年臘楚に情報を流していた真の内通者であり、自らの保身のために養い子である辰宇に濡れ衣を着せる罠を張っていた。
・駆けつけた警邏隊の前で、冰凌は堂々と辰宇を内通者として告発し、混乱に乗じて逃亡した。
・その直後に臘楚軍の奇襲と落盤が起こり、辰宇は洞穴の土砂に生き埋めにされる。警邏隊は彼が生きていることを知りながら、裏切り者として見捨てて撤収した。

まとめ

辛くも自力で脱出した辰宇であったが、愛した母から拒絶され、唯一心を開いた養父から濡れ衣を着せられて殺されかけたこの経験は、彼に「信じれば必ず裏切られる」「何かを欲して手を伸ばしてはならない」という絶望的な諦念を深く刻み込んだ。彼が他者との関わりを避け、感情を殺して生きるようになった背景には、こうしたあまりにも凄惨な過去が存在している。

夜の山での救出劇

夜の黄山での土砂崩れに伴う救出劇は、単なる命の危機を脱する出来事に留まらず、心を固く閉ざしていた鷲官長・辰宇が過去の呪縛から解放され、玲琳に対する決定的な感情を自覚する重要な転換点として描かれている。

夜の山への出発

慧月の気を回復させるための薬草「白幻露花」が雨で駄目になってしまうことを恐れた玲琳は、夜の黄山へ単身で採取に向かおうとする。抜け出そうとしたところを鷲官長である辰宇に見咎められ、危険だと制止されるが、玲琳は「残された愛おしい時間、相手が望むものは何でも叶えてやりたい」と切実に訴える。この言葉に心を動かされた辰宇は、武官として彼女の安全を守るため、同行を申し出た。

土砂崩れと辰宇の絶望

二人は無事に花を採取するが、突然激しい雨が降り出し、斜面で土砂崩れが発生してしまう。辰宇は咄嗟に玲琳を突き飛ばして庇い、自らが大量の土砂と岩の下敷きになり、生き埋めとなってしまった。
暗く狭い地中に閉じ込められた辰宇は、過去の凄惨な記憶をフラッシュバックさせる。実の母からの裏切りや、恩人だと思っていた養父に見捨てられた経験から、彼は以下のような深い絶望と諦念を抱えて生きてきた。

・手を伸ばしても誰も振り返らない
・自分は見捨てられる存在だ

そのため、今回も玲琳は助けを呼ぶふりをして去っていくに違いないと考え、足掻くことをやめて静かに死を受け入れようとする。

玲琳の奮闘による救出

しかし、玲琳は決して彼を見捨てて逃げるようなことはしなかった。彼女は以下の奮闘により、見事に辰宇を救出してみせる。

・薬草籠に入っていた筆の両端を切り落として空気を送る筒を作り、辰宇の顔付近に差し込んで呼吸を確保する。
・手持ちの鍬と竹を組み合わせててこの原理を利用し、女の細腕で重い岩や土砂を自力で退ける。

辰宇の心境の変化と差し出された手

泥だらけになって自分を助け出した玲琳に対し、辰宇は「一度背を向けられたら二度と振り返られないと思っていた」と己の諦念を吐露する。玲琳はそれを否定せず、自分たちのような人間は他者の強い欲に負けてしまったのだと共感を示した。しかしその上で、「次は勝ちましょう。あなたに不当な扱いをする者がいれば、わたくしがぶっ飛ばして差し上げます」と、同じ傷を抱える仲間として共に戦うことを宣言する。

まとめ

この言葉と彼女の行動は、辰宇の心を激しく揺さぶった。「望んではいけない」「手を伸ばしてはいけない」と自分を戒め、心を閉ざしてきた彼であったが、闇を照らす月光のように力強い玲琳の言葉を受け、ついに彼女が欲しいという強い欲を自覚する。そして、これまで拒み続けてきた他者への期待を受け入れ、差し出された彼女の泥だらけの手をしっかりと握り返すのであった。

魂に刻まれた呪い

慧月が黄玲琳の「病」の真実に気付き、それが「魂に刻まれた呪い」であると突き止める過程は、物語の重要な謎を解き明かす展開として次のように描かれている。

「病」への違和感と「呪い」の仮説

黄玲琳の身体に入っている慧月は、玲琳の不自然な「病」に強い違和感を抱いていた。魂が入れ替わっている間だけ、余命いくばくもないほど病弱なはずの玲琳の肉体が健康になるという現象は、通常の病では説明がつかない。物理的な肉体の病であれば、魂が変わったところで勝手に傷が塞がったり癒えたりするはずがないからである。慧月は道士としての知識から、魂に引きずられて肉体が苦しむこの症状は、もはや病ではなく「呪い」と呼ぶべきものであると推測していた。

「黄玲琳」と名乗った瞬間の激痛

その仮説が確信に変わったのは、黄家の祠堂で景彰と対峙した時である。玲琳の死期が迫っていることを明かし、入れ替わりの解消を迫る景彰に対し、慧月が自らの意志で「わたくしは、黄玲琳よ!」と強く念じて名乗った瞬間、彼女の身体に異変が起きた。

・全身を毒を塗った刷毛で撫で上げられたような感覚の直後、業火で焼かれ、巨大な手で締め付けられるような絶を絶する激痛に襲われ、慧月はその場に崩れ落ちた。
・しかし、倒れて息も絶え絶えになった彼女に対し、景彰が切羽詰まって「慧月!」と彼女の本来の名を呼んだ瞬間、その凄まじい苦痛は嘘のように完全に消え去った。

魂(名)に刻まれた古く強力な呪い

この出来事をきっかけに、慧月はこれまでの不可解な現象を点と点で結びつける。以下のように、入れ替わり直後や玲琳として振る舞おうとした瞬間に、必ずこの激しい苦痛が伴っていたことに思い至った。

・乞巧節での最初の入れ替わりの際
・温蘇で入れ替わった際
・演技のために「わたくしは黄玲琳」と己を強く定義づけようと念じた際

慧月はここから、この苦痛が「黄玲琳」という「名」に紐づいた呪いであると結論づける。名とは存在を定義づける最も根源的な呪であり、それが呪われているということは、すなわち「魂」そのものに呪いが刻まれていることを意味していた。

まとめ

かつて破魔の弓による強力な浄化を受けても消え去らず、魂の年輪の一番内側が腐り落ちているかのように奥深くに刻み込まれているこの呪いは、極めて古く強力なものである。慧月は、この呪いが玲琳の誕生時のような極めて幼い頃から掛けられていた可能性に思い至り、深い恐怖と戦慄を覚えることとなる。

ふつつかな悪女11巻
ふつつかな悪女 全巻まとめ
ふつつかな悪女13巻

登場キャラクター

黄家

黄玲琳

黄家の令嬢であり、皇太子・尭明の婚約者である。病弱な身体を持つが、現在は朱慧月と身体が入れ替わっている。自己の命よりも友人を重んじる傾向がある。

・所属組織、地位や役職
 黄家。雛女。

・物語内での具体的な行動や成果
 船酔いした慧月を手当てし、気の回復のために一行を黄家の実家へ案内した。文献庫で白幻露花に関する情報を発見した。辰宇と共に夜の黄山へ向かい、土砂崩れに巻き込まれた彼を救出した。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 本来の肉体には死期が迫っている。慧月の身体に入っている間は健康に活動できる。

黄景彰

黄家の次男であり、武官を務めている。妹の玲琳を深く愛しており、慧月に対しても世話を焼く。場を収める機転と洞察力を持つ。

・所属組織、地位や役職
 黄家。上位の武官。

・物語内での具体的な行動や成果
 船上では自作の気付け薬を提案した。実家では泰山に抱き上げられそうになった慧月を救い、自ら寝台まで運んだ。祠堂の廂房で慧月の言葉を聞き、入れ替わりの延期理由を知った。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 慧月への贈り物として、南天の花をあしらった腕輪を用意している。

黄景行

黄家の長男である。妹の玲琳を愛しており、豪快な性格を持つ。

・所属組織、地位や役職
 黄家。

・物語内での具体的な行動や成果
 実家への滞在中、狩りに参加して獲物を仕留めた。夜の宴では尭明に強い酒を勧め、冬雪に対して好意的な態度を見せた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 玲琳から冬雪との関係進展を密かに期待されている。

黄泰山

黄家の当主であり、玲琳たちの父親である。大柄で穏やかな性格を持ち、家族を深く愛している。

・所属組織、地位や役職
 黄家。当主。武官上位職。

・物語内での具体的な行動や成果
 重臣会議を終えて屋敷へ戻り、慧月たちを迎えた。朝餉の席で景彰が誰かに贈る品を隠し持っていることを見抜いた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 元々は黄家末席の次男であったが、静秀と恋に落ちて本家の婿養子となった。

黄静秀

玲琳たちの母親であり、すでに故人である。生前は現世に舞い降りた天女と称されていた。

・所属組織、地位や役職
 黄家。領主の元奥方。

・物語内での具体的な行動や成果
 玲琳を出産すると同時に命を落とした。娘のために多くの詩や画を遺した。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 黄家の後殿に位牌が祀られており、古参の侍女たちから現在も深く慕われている。

黄暉宏

泰山の兄であり、玲琳の元主治医である。すでに故人である。

・所属組織、地位や役職
 黄家。元主治医。

・物語内での具体的な行動や成果
 玲琳が七歳のときに、薬の毒見のしすぎで命を落とした。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 玲琳を取り上げた人物であり、静秀の位牌と並んで後殿に祀られている。

冬雪

玲琳に仕える筆頭女官である。職務に忠実であり、冷静な態度を保つ。

・所属組織、地位や役職
 黄麒宮。藤黄女官。

・物語内での具体的な行動や成果
 船上では船酔いする莉莉に梅肉を勧めた。黄家の実家では客として扱われ、侍女たちから強制的に着替えさせられた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 黄家の血が混ざっており、景行付きの侍女たちから高く評価されている。

福英

黄家の侍女長である。かつては静秀に仕えており、玲琳を深く愛している。

・所属組織、地位や役職
 黄家。侍女長。

・物語内での具体的な行動や成果
 屋敷を訪れた玲琳(中身は慧月)を出迎え、手足を拭き清めるなどの世話を焼いた。冬雪たちを客として強引にもてなした。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 静秀への忠義から、玲琳に母親の面影を重ねている。

来喜

玲琳付きの若い侍女である。玲琳と同年代で、明るい性格を持つ。

・所属組織、地位や役職
 黄家。侍女副長。

・物語内での具体的な行動や成果
 玲琳の起床時に世話を焼き、業務日誌を持ち出して過去の記録を語った。慧月が倒れそうになった際には素早く対応した。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 景彰から待遇を気にかけられており、手巾を贈られようとしていた。

雲錦

黄家の侍女である。

・所属組織、地位や役職
 黄家。侍女。

・物語内での具体的な行動や成果
 玲琳の世話に加わり、布団を温めるなどの行動をとった。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 過保護な侍女集団の一員として立ち回っている。

侍女たち

黄家に仕える使用人たちである。主人をもてなすことを好む。

・所属組織、地位や役職
 黄家。使用人。

・物語内での具体的な行動や成果
 門前で銅鑼や太鼓を鳴らして皇太子と客人を出迎えた。玲琳の世話を焼くために大挙して押し寄せた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 静秀付きの古参と玲琳付きの新参の二系統が混在している。

皇室・宮中

尭明

詠国の皇太子であり、玲琳の婚約者である。玲琳の無茶な行動を心配している。

・所属組織、地位や役職
 詠国。皇太子。

・物語内での具体的な行動や成果
 船上では慧月に気遣いの言葉を掛けた。黄家の文献庫で玲琳と会い、彼女への想いと後悔を語った。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 かつて獣尋の儀で玲琳を危険に晒したことを深く悔やんでいる。

弦耀

詠国の皇帝である。冷徹な性格を持つ。

・所属組織、地位や役職
 詠国。皇帝。

・物語内での具体的な行動や成果
 かつて異国の奴隷であったアレイナとの間に辰宇をもうけた。護明皇子の体を奪った術師を長年探し続けている。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 十星奪嫡を勝ち抜いて帝位に就いた過去を持つ。

黄絹秀

詠国の皇后であり、玲琳の伯母である。権力や呪いに対して合理的な考えを持つ。

・所属組織、地位や役職
 詠国。皇后。

・物語内での具体的な行動や成果
 病弱な玲琳のために古今東西の呪具を集め、不要になったものを実家の黄家に送りつけていた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 もともとは妹の静秀が雛女となるはずだったが、彼女の駆け落ちにより急遽雛女となった。

朱貴妃

かつての貴妃であり、慧月の養母であった人物である。

・所属組織、地位や役職
 朱家。元貴妃。

・物語内での具体的な行動や成果
 流刑に処され、朱家からの縁も絶たれた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 現在は貴妃の座を奪われ、名前や身分を全て剥奪されている。

護明皇子

弦耀の兄である。

・所属組織、地位や役職
 詠国。皇子。元皇太子。

・物語内での具体的な行動や成果
 かつて刺客に襲われて失明した。その後、術師によって体を奪われた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 魂は未だに自らの体に囚われているとされる。

和玉

黄絹秀に仕える女官である。

・所属組織、地位や役職
 皇室。藤黄長。

・物語内での具体的な行動や成果
 黄絹秀に仕え、彼女の世話を行っている。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 黄家の福英に該当する立場にあると慧月によって言及された。

鷲官

辰宇

鷲官長を務める男性である。皇帝・弦耀と臘楚の奴隷アレイナの間に生まれた。寡黙で冷ややかに見えるが、職務に忠実である。

・所属組織、地位や役職
 鷲官長。

・物語内での具体的な行動や成果
 船上で雨を予測し、甲板の安全確保を指示した。黄山で玲琳の夜行に付き添い、土砂崩れから彼女を庇って生き埋めになった。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 過去の裏切りから他者への期待を捨てていたが、玲琳に救出されたことで心を動かされた。

文昴

辰宇の部下の鷲官である。明るく調子の良い性格である。

・所属組織、地位や役職
 鷲官。

・物語内での具体的な行動や成果
 船上で辰宇に見張りを代わるよう提案し、軽口を叩いた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 往路での船酔いに苦しめられ、辰宇から船室を借りていた。

朱家

朱慧月

朱家の雛女である。玲琳と体が入れ替わっている。感情豊かであり、景彰に対して密かな好意を抱いている。

・所属組織、地位や役職
 朱家。雛女。

・物語内での具体的な行動や成果
 船酔いに苦しみながらも、玲琳のために入れ替わりを先延ばしにする嘘をついた。黄家で景彰への想いを自覚し、祠堂で玲琳と語り合った。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 黄玲琳の病弱な体に入っており、本来の姿に戻ることを恐れている。

莉莉

慧月に仕える女官である。

・所属組織、地位や役職
 朱家。女官。

・物語内での具体的な行動や成果
 船酔いに苦しみ、冬雪に促されて梅肉を含んだ。黄家では冬雪と共に客室に連行され、着替えさせられた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 黄家の過剰なもてなしに圧倒されていた。

玄家・北方警邏隊

玄冰凌

玄家末席の三男であり、かつて辰宇を養子として引き取った。気弱で温厚な性格に見えるが、裏の顔を持っていた。

・所属組織、地位や役職
 元北方警邏分隊長。

・物語内での具体的な行動や成果
 辰宇を学坊へ通わせ、穏やかに接していた。しかし実際は臘楚と内通しており、発覚を防ぐために辰宇を罠に嵌めて逃亡した。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 逃亡後に捕らえられ、処刑されて首を晒された。

臘楚

アレイナ(阿蓮)

辰宇の母親であり、臘楚の出身である。自らの美貌と血統を誇り、野心に満ちた性格であった。

・所属組織、地位や役職
 詠国皇帝の妾。元奴隷。

・物語内での具体的な行動や成果
 辰宇を次期皇帝にしようと目論み、皇后や皇太子を呪う呪符を送り付けていた。玄家の使者に計画を暴かれ、処刑された。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 死後は失踪として扱われ、存在を抹消された。

その他

金清佳

金家の雛女である。

・所属組織、地位や役職
 金家。雛女。

・物語内での具体的な行動や成果
 帆車交の儀の主催を務め、金領に残った。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 本巻では回想や言及で登場する。

金成和

金領の役人であり、清佳の叔父である。

・所属組織、地位や役職
 金領。役人。

・物語内での具体的な行動や成果
 帆車交の儀が長引いた際、慧月たちを蔵に閉じ込めた。また、麻薬をばら撒く悪行に関与していたとされる。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 本巻では過去の事件の言及で登場する。

アキム

隠密の頭領である。

・所属組織、地位や役職
 隠密頭領。

・物語内での具体的な行動や成果
 皇帝の命を受け、術師を探す任務や慧月を監視する行動をとった。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 かつて慧月を見張っていたことが言及されている。

ナディール

シェルバ王国の第一王子である。

・所属組織、地位や役職
 シェルバ王国。第一王子。

・物語内での具体的な行動や成果
 花や踊り子を伴って入場したことが過去の出来事として言及された。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 本巻では莉莉の回想に登場する。

道術を使う術師である。

・所属組織、地位や役職
 術師。

・物語内での具体的な行動や成果
 過去に極陰日を狙って入れ替わりの術を使用していたことが慧月によって言及された。護明皇子の体を奪ったとされる。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 弦耀に追われている存在である。

ふつつかな悪女11巻
ふつつかな悪女 全巻まとめ
ふつつかな悪女13巻

展開まとめ

プロローグ

帰路の船上と文昴の軽口

金領を発って二日が経ち、一行を乗せた船は王都へ向けて順調に進んでいた。飛州での帆車交の儀と妓楼での麻薬事件を無事に乗り越えた後、主催であった金清佳だけを金領に残し、尭明の船で帰路についていたのである。甲板の先端で見張りに立つ辰宇のもとへ、部下の文昴が現れ、穏やかな海と揺れの少ない船旅を大げさに喜んだ。これは往路で急航のために激しく揺れる船に苦しめられ、恐怖と船酔いで散々な目に遭った反動であった。

辰宇の気遣いと文昴の感謝

往路で文昴を含む多くの者が疲弊したため、辰宇は自らの船室を部下たちに貸していた。そのおかげで文昴はようやく安眠できたと感謝し、今度は自分が見張りを代わるので辰宇も休むよう勧めた。しかし辰宇は、時折座って睡眠を取ったから問題ないと淡々と答えたうえ、狭い船室は好まないとして休息を拒んだ。文昴はその態度を坊ちゃん育ちだとからかいながらも、辰宇の体格のよさに悔しさをにじませ、なおも休むよう勧めた。

雨の予兆と辰宇の異質さ

文昴が海への恐怖をこぼすと、辰宇はむしろ水が怖いなら甲板には立たないほうがよいと告げ、じきに雨が降って波も荒れると予測した。雲ひとつないように見える空でも、辰宇には西の暗雲が見えていたのである。文昴はその視力や青い瞳に神秘や加護を見いだして軽口を叩いたが、辰宇はそれを否定し、今日に限っては冗談に乗ることもなかった。文昴は辰宇の機嫌が普段より沈んでいることを察し、それ以上踏み込まずに船室へ戻っていった。

古傷と過去の記憶

一人になった辰宇は左腕を押さえた。彼の左腕には手首から肘にかけて大きな傷跡があり、雨を察知できるのは水の加護ではなく、その古傷が痛むからであった。玄家筋の血や青い瞳も、周囲が言うような神秘や祝福ではなく、辰宇にとっては呪いに等しいものであった。すると脳裏には、青い瞳を美しいと称えた女と男の声が蘇り、辰宇はそれを振り払うように眉をひそめた。

閉ざされた場所への嫌悪と辰宇の選択

辰宇は眩しさの残る目を閉じながらも、船室で休むことを拒んだ。狭く身動きの取れない場所を嫌っていたからである。さらに彼は、迫る雨、金切り声、無遠慮に伸ばされる手、絆や信頼といったものにまで疎ましさを抱いていた。そうした感情を胸に抱えたまま、辰宇は沈黙のうちに息を整えると、雨が近いことを船内へ知らせるために歩き出した。動き続けていれば、狭い船室に留まらずに済むからであった。

1. 玲琳、里帰りを決める

船上での看病と入れ替わりの異常

玲琳は慧月の体で船酔い対策を次々と実施し、慧月や莉莉の体調を懸命に整えようとしていた。慧月は抵抗するものの、玲琳は専門的な知識に基づき処置を続けた。しかし、入れ替わりが半月以上解消されない異常な状況に対し、玲琳は強い不安を抱いていた。

慧月の嘘と入れ替わり延長の意図

玲琳は、慧月が自分の健康を守るために意図的に入れ替わりを維持しているのではないかと疑念を抱いた。実際、慧月は玲琳を生かすため、気が枯渇していると偽り、入れ替わりを延ばしていた。玲琳の体が元に戻れば命に関わる可能性があるため、慧月は現状維持を選んでいたのである。

虚構の薬草「夜光花」の提案

追及を逃れるため、慧月は気の回復には特殊な薬草が必要だと説明し、「夜光花」という架空の植物を提示した。しかし玲琳はそれを現実のものとして認識し、自身の家の裏山に存在すると断言したため、事態は思わぬ方向へ進展した。

黄家への寄り道決定

玲琳は夜光花を採取するため、自邸のある黄領への寄り道を提案した。尭明や景彰もこれを支持し、短期間の滞在であれば問題ないと判断したことで、計画は一気に現実味を帯びた。慧月は必死に拒否するが、説得は通じず、状況はさらに固まっていった。

慧月の動揺と疑念の深まり

慧月は入れ替わりを維持したい事情を明かせず、追及をかわしきれずに動揺を深めた。景彰からの疑念も強まり、追い詰められた慧月はその場を離脱することで回避を図ったが、問題の先送りに過ぎなかった。

強制的に進む里帰りへの流れ

その後、辰宇の介入によって場は一旦収まるが、既に黄家への連絡は進められていた。鳩による伝達によって受け入れ準備が整えられ、船は黄領へ向かうことが確定する。慧月の意思に反して、里帰りは既定路線となった。

急展開への戸惑いと玲琳の喜び

慧月は急速に進む展開に強い戸惑いと焦りを見せたが、玲琳は初めて友を自宅に招けることを純粋に喜んでいた。こうして、玲琳の里帰りは避けられないものとして決定した。

2 慧月、気付く

黄家の規模と女官たちの会話

黄家の私邸へ向かう馬車の中で、莉莉は広大な屋敷と立派な馬車の待遇に驚いていた。冬雪は、黄家の人間は客をもてなすことを好み、女官たちまで客として扱う気質なのだと説明した。さらに、玲琳の好物を確認しようと本家に問い合わせた際、侍女長から五十冊もの一覧が届いた過去を語り、黄家の過剰なまでの世話焼きぶりを明かした。もっとも、その後に好物の解釈違いで衝突し、以来ほとんど連絡を取っていないことも判明した。莉莉は、黄家の愛情の重さと、それが時に対立を生むことに戦慄した。

黄家の大仰な歓迎

門前に到着すると、黄家の使用人たちは一糸乱れぬ隊列を組み、銅鑼や太鼓、笛を鳴らしながら皇太子と客人たちの到来を盛大に歓迎した。さらに、馬に乗った人々が花や餅を撒きながら祝辞を叫び、垂れ幕まで掲げられていた。莉莉は、その規模と騒がしさに圧倒され、この滞在が穏やかには終わらないと悟った。一方で玲琳は、黄家がもてなし好きであり、自分が長く帰省していなかったために準備していた歓迎を一気にぶつけてきたのだと、楽しげに受け止めていた。

玲琳の期待と慧月の動揺

玲琳は、初めて親友を生家に招けたことを心から喜び、黄家の総力を挙げて慧月をもてなしたいと考えていた。対する慧月は、歓迎の規模に怯えつつ、自分まで過剰に歓迎される理由が理解できず、黄家の浮かれぶりに戸惑いを隠せなかった。玲琳にとっては夢のような帰省であったが、慧月にとっては不穏な予感しかない状況であった。

侍女長への根回し

門前では、侍女長の福英が清拭と清水を携えて出迎えた。本来なら玲琳の世話を焼きたい福英の気持ちを察した玲琳は、自分へのもてなしは十分だから、今後は主人である「玲琳」の世話を優先するよう耳打ちした。しかも、水菓子、按摩、香や花の手配、次々と出す菓子の内容まで具体的に指示し、慧月を十分にもてなすよう焚きつけた。福英はその意図を即座に理解し、侍女たちを率いて屋敷へ戻っていった。

前座にすぎなかった歓迎

表向きの歓待が意外にあっさり終わったことに慧月は安堵しかけたが、玲琳はそれが前座にすぎないと笑って告げた。福英たちは今まさに本格的なもてなしの準備に向かっており、ここからが本番なのだという。外を覗いた慧月は、侍女たちがまるで戦に赴く精鋭のように整然と進軍していく姿を目にし、黄家で待ち受ける過剰な歓待を悟って戦慄した。

過剰なもてなしによる疲弊

慧月は黄家の屋敷で一夜を過ごしたものの、侍女たちの過剰な世話によって心労が蓄積し、疲れはむしろ増していた。起床直後から侍女たちは殺到し、わずかな溜め息にも過敏に反応して世話を焼こうとする。前日の滞在中も同様であり、歩けば絨毯が敷かれ、食事はすべて介助されるなど、常に手厚すぎる対応を受け続けていた。

黄家の侍女体制と愛情の重さ

屋敷には、母に仕えていた年嵩の侍女たちと、玲琳と同年代の若い侍女たちの二系統が存在し、双方が玲琳を世話する体制となっていた。そのため、二重の世話が重なり、屋敷全体が過剰な愛情に満ちていた。部屋には家族や侍女たちの贈り物や手紙が溢れ、母・静秀の遺した品々も数多く飾られており、家族の情愛が強く感じられる空間であった。

慧月の過去との対比

母の愛情に満ちた遺品を目にした慧月は、自身の境遇との違いを痛感した。玲琳が家族から深い愛情を受けて育ったのに対し、自身は母との縁が薄く、今やその存在すら失っていることを思い返し、複雑な感情を抱いた。

玲琳の過去の調査

慧月は玲琳の病の原因を探るため、侍女たちから幼少期の様子を聞き出した。玲琳は生まれた時から病弱で、屋敷にこもる生活が多く、友人もほとんどいなかった。外出も限られており、祖母の庵や屋敷裏の山に行く程度であったが、七歳の頃に山で迷子になったことを境にさらに外出が減った。また、同時期に主治医であった伯父が亡くなっていることも判明した。

病への違和感と仮説

これらの情報を踏まえ、慧月は玲琳の病に違和感を覚えた。魂が入れ替わることで体調が改善する現象は通常の病では説明がつかず、むしろ魂に起因する「呪い」である可能性を考えた。しかし、特定の時期から急激に悪化した形跡はなく、決定的な原因は見出せなかった。

情報収集の限界と今後の方針

侍女や記録から得られる情報には限界があり、決定的な手がかりは得られなかった。慧月は最終的に、玲琳本人から直接聞き出す必要があると判断した。

侍女同士の対立と混乱

その最中、古参の侍女と新参の侍女の間で、どちらが世話を主導するかを巡る対立が生じていた。慧月はその状況にも対応しなければならず、精神的な負担を増していった。

黄泰山との対面

そこへ玲琳の父・黄泰山が現れた。泰山は巨大な体格ながら温厚で親しみやすい人物であり、娘を深く案じていた。慧月はその人柄を理解する一方で、過剰な愛情表現に戸惑い、距離感に苦しんだ。

正体露見の危機と動揺

泰山の言動に対し、玲琳らしい対応ができなかった慧月は、不自然さを疑われかけて焦りを覚えた。状況を取り繕えず追い詰められた結果、思わず景行を呼び求めてしまい、自らの動揺を露わにした。

景彰の介入による危機回避

慧月が追い詰められた場面において、景彰は即座に現れ、父・泰山と侍女たちの前で自然に状況を収めた。抱き上げようとする泰山の行動を諫めつつ、自らが代わりに世話をすると申し出ることで、場の違和感を解消した。しかしその流れで慧月自身を抱き運ぶ形となり、彼女は強い動揺を覚えた。

景彰の言動に翻弄される慧月

景彰は慧月の動揺を見透かしたように振る舞い、からかうような態度で接した。慧月は彼に翻弄されつつも、周囲の疑念を避けるためにその申し出を受け入れざるを得なかった。その結果、密着した接触により心の動揺はさらに大きくなった。

父子の会話から生じた違和感

その後、慧月は景彰と泰山の会話を偶然耳にする。泰山は景彰に結婚を促し、景彰が侍女の来喜に贈り物を用意していること、さらには責任を取るべき相手として認識していることを示唆した。このやり取りにより、慧月の胸には強い動揺が生じた。

嫉妬と喪失感の自覚

来喜の存在を意識した慧月は、自身が景彰から特別なものを受け取っていないことを思い出し、理由のわからない寂しさと痛みを感じた。それは理屈では説明できない感情であり、自分でも抑えきれないものであった。

距離を取る決断

景彰が再び軽やかに接近してきた際、慧月はその手を拒絶し、距離を置くことを選んだ。侍女たちに囲まれながら部屋へ戻る中で、自身の感情を整理しようとするが、内心では強い動揺が続いていた。

想いの自覚と後悔

自室へ戻る途中、慧月はこれまでの出来事を思い返し、自分が景彰に対して抱いていた感情の正体に気付いた。それは明確な恋心であり、これまでの数々のやり取りの中で既に育っていたものであった。しかし、その自覚は同時に、叶わぬ想いである可能性を突き付けるものでもあった。

身分と感情の葛藤

慧月は雛女としての立場を思い出し、結ばれるべき相手は皇太子であると自らに言い聞かせた。これまで追い求めてきた地位や栄華こそが自身の目標であると再確認し、個人的な感情を押し殺そうとした。

想いの封印

最終的に慧月は、景彰への想いを否定し、心の奥へ押し込める決断を下した。しかしその過程で、感情は完全に消えることなく、抑え込まれたまま残り続けることとなった。雨の降り続く中、慧月は自身の想いを封じ込めたまま、静かに耐えるのであった。

慧月の異変への疑念

慧月がこれまでになく静かに去ったことに対し、景彰は違和感を覚えた。普段であれば反発してくるはずの態度が見られず、本当に体調を崩したのではないかと案じたのである。

侍女体制への評価と懸念

泰山との会話の中で、景彰は玲琳付きの侍女たちについて語った。古参の侍女たちは母・静秀の面影を重ねて過剰に尽くしている一方、来喜ら若い侍女たちは玲琳本人の意思を尊重しようとしていると評価した。そうした体制の改善のため、景彰は自ら人員配置に関与していた。

過去への執着への違和感

しかし景彰は、古参侍女たちの祈りが玲琳自身の幸福ではなく、亡き静秀への執着に基づくもののように感じていた。それは祝福というよりも、過去への執念に近いものとして受け取られ、複雑な感情を抱かせる要因となっていた。

来喜との関係の実情

来喜については、引き抜きの経緯から私的な事情も絡んでおり、祝言が遅れたことへの不満や、その夫からの圧力も存在していた。景彰は責任を取る形で待遇を整えているが、それはあくまで実務的な配慮であった。

泰山による見抜き

泰山は景彰の言動から、本当に想いを寄せる相手が別に存在することを見抜いた。景彰が懐に大切にしまっている品こそが、本命へ渡すためのものであると指摘され、景彰は一瞬動揺を見せた。

贈り物に込められた想い

景彰はその品を渡したい相手がいることを認めつつも、相手がなかなか姿を見せないため渡せずにいると語った。その言葉には、単なる贈り物以上の意味を含んだ感情が滲んでいた。

話題の回避と行動の継続

泰山の追及を受け流すように、景彰は話題を兄の話へと逸らし、朝食の場へと向かうことを選んだ。自身の内心を明かすことなく、平静を装ったまま行動を続けたのであった。

3 玲琳、書を読む

正体を隠したままの安堵と不安

玲琳は客室に戻ると、朝餉の場で父に正体を見破られなかったことに安堵した。しかし慧月が食堂に現れなかったことを気にかけ、体調を案じていた。さらに冬雪が侍女たちに連れ去られ、過剰なもてなしを受けている様子にも不安を抱いていた。

冬雪への期待と密かな思惑

侍女たちが冬雪を高く評価している様子から、玲琳は彼女が黄家にとって重要な存在として見込まれていることを察した。そして冬雪と景行の相性の良さを踏まえ、二人が結ばれることを密かに望んでいた。自身の将来が長くない可能性を意識し、黄家の未来を案じる思いも含まれていた。

逗留中の方針と焦燥

玲琳たちは数日休養し、天候が回復してから黄山で夜光花を採取する方針を立てていた。しかし雨によって予定が遅れることに焦りを覚え、入れ替わりを早く解消したいという思いが強まっていた。

文献庫への独断行動

玲琳は医学的な手掛かりを求め、屋敷内の文献庫へ単独で向かった。そこには医学書や各種文献が豊富に揃っており、慧月の体調改善につながる知識を探そうと考えたのである。

尭明との遭遇と互いの思惑

文献庫には尭明が先に訪れており、彼もまた玲琳のために医学書を密かに調べていた。玲琳に気付かれぬようごまかす一方で、玲琳は彼の無理を案じて休息を促した。両者は互いを気遣いながらも、その思いを完全には明かさなかった。

軽口と意地の張り合い

やがて二人は互いの無茶を指摘し合い、軽口を交えながら意地を張り合う形となった。書物の取り合いや知識の競い合いを通じて、幼なじみとしての距離感が浮き彫りとなった。

静かな読書の時間

最終的に二人は大量の書物に囲まれ、背中合わせで読書に没頭した。雨音の中、それぞれが目的を抱えながらも、静かな時間を共有する形となったのである。

静かな読書空間と心の安らぎ

玲琳は尭明と背中合わせで読書を続ける中、不思議な安らぎを感じていた。会話がなくとも孤独はなく、彼が前に立って導くのではなく、背後から静かに支えてくれていることに気付く。その距離感の変化に、以前とは異なる優しさと存在感を見出していた。

夜光花の手がかりと新たな発見

読んでいた書物から、夜光花に該当する「白幻露花」の存在を見つけた。霧深い場所に一夜だけ咲く花であり、気を巡らせる効能を持つとされていたが、雨に弱く、条件を満たさなければ開花すらしないことも判明する。連日の雨により採取の難しさが増していると理解し、玲琳は焦りを募らせた。

危険な行動を察する尭明

玲琳が密かに山へ向かおうと考えた瞬間、尭明はそれを見抜き制止した。彼は特別な力ではなく、玲琳を案じる気持ちからその危険を察していた。無茶を重ねる玲琳を咎めながらも、その根底には強い思いやりがあった。

優しさに触れた内面の揺らぎ

玲琳は尭明の言葉に心を打たれ、自身の行動を詫びた。彼は過去の出来事を悔やみつつも、玲琳が元気に振る舞う姿を喜んでいると語る。その不器用な優しさに触れ、玲琳の心は大きく揺れ動いた。

隠してきた真実への葛藤

自身の死期が近いことを隠してきた玲琳は、このままではいずれ大きな悲しみを与えると理解しつつも、告げることへの恐怖と迷いに苦しんでいた。優しい相手であるほど、その告白は重くのしかかると感じていた。

辰宇の来訪と場の転換

そこへ辰宇が現れ、狩りへの誘いを伝えたことで場の空気は切り替わった。尭明はそれに応じ、玲琳にも同行を問うが、彼女は休息を理由に残ることを選んだ。涙を隠すためでもあった。

孤独を求める決意

尭明たちを見送った後、玲琳は祠堂へ向かう決意を固めた。人目のない暗い場所でのみ、自身の弱さと向き合うことができると考えたためである。誰にも見せぬ涙を抱えながら、静かに行動を開始した。

4 玲琳、語らう

祠堂での再会

慧月は静かに過ごすため祠堂に足を運んでいたが、そこに玲琳も現れた。玲琳は涙の跡に気付き、誰が原因かと問い詰めようとするが、慧月は自分自身の問題であると強く否定し、これ以上の詮索を拒んだ。

互いを尊重する距離感

玲琳は未練を見せつつも、慧月の意志を尊重して深く追及することを控えた。ただし、慧月のためなら誰であっても排除する覚悟を示し、その過剰な献身は変わらなかった。慧月はそれに呆れつつも受け入れ、二人の間には言葉にしない信頼関係が築かれていた。

軽口とやり取りによる心の緩和

玲琳は奇抜な発想で慧月の過去を探ろうとし、慧月はそれに激しく突っ込んだ。やり取りを重ねるうちに、慧月の沈んでいた心は次第に軽くなり、祠堂に来た当初の重苦しさは和らいでいった。

祠堂での供養と案内

玲琳の提案で二人は共に祠堂に祈りを捧げ、その後、後殿へと移動した。そこには静秀や一族の功績者だけでなく、乳母や友人、動物に至るまで多様な位牌が祀られており、黄家の慣習に縛られない気質が示されていた。

静秀と輝宏の位牌に宿る想い

後殿には玲琳の母・静秀と主治医である輝宏の位牌が並べられていた。輝宏は玲琳のために薬の毒味を重ねた末に命を落とした人物であり、玲琳はその死を自分の責任として受け止めていた。

漂う重苦しい感情と玲琳の内面

慧月は位牌の周囲に重く淀んだ気配を感じ、それが侍女たちの悲しみや恨みに由来するものだと理解した。玲琳はそれを否定せず受け入れ、自らもまたその感情を背負っている様子を見せた。

慧月の気付きと葛藤

玲琳の語る過去を聞きながら、慧月は彼女が自分自身を愛していないどころか、責め続けている存在であると気付いた。しかし、その思い込みを変える言葉を見つけることはできず、無力感を抱いた。

前向きな転換と新たな行動

重くなった空気を払うように、玲琳は廂房の探索を提案した。慧月もまた、すぐに答えを出せない問題に向き合うには時間が必要だと考え、彼女の後に続くことを選んだ。

廂房の異様な空間との遭遇

慧月は玲琳に連れられて廂房へ足を踏み入れると、呪物や古文書、武器や雑多な品が無秩序に積み上げられた異様な光景に驚愕した。そこは祭具や家系資料だけでなく、怪しげな骨董や農具まで混在する混沌とした空間であった。

呪具収集の背景と皇后の思い

玲琳は、これらの品々が皇后によって集められたものであり、すべては病弱だった自分を救うための試みであったと説明した。しかし実際には衛生面などの理由で使用は見送られ、最終的には無効と判断された結果、廂房に放置されるに至ったのであった。

慧月の認識と潜む本物の存在

慧月はそれらを単なるがらくたと断じつつも、一部に強い力を宿した品が混ざっていることを見抜いた。特に血錆びた短刀には異質な気配を感じ取り、触れることで術に影響が出る危険性を察知し、玲琳に強く制止した。

陰陽と入れ替わりの理の説明

玲琳の問いに応じ、慧月は入れ替わりの術に関わる陰陽の理を説明した。魂の偏りや均衡の不安定さが術の発動と維持に関わること、また男女の関係によってその均衡が変化することを語る中で、自らの発言に羞恥を覚え、動揺を見せた。

廂房からの離脱と偶然の発見

場の気まずさを断ち切るため慧月は廂房から離れようとするが、最後に手にした桐箱の中から、玲琳の幼い頃の手習いの紙束を見つける。それは玲琳の人となりを示す私的な痕跡であり、慧月は興味深くそれを眺めた。

玲琳の過去と母への劣等感

玲琳はその手習いを恥じる様子を見せ、自身の書が母・静秀に及ばないことを理由に隠していたと明かした。そこには母を基準とする評価に縛られてきた過去が表れていた。

慧月の違和感と侍女たちへの疑念

慧月はその話を受け、玲琳が母の影を背負わされ続けていることに強い違和感を抱いた。侍女たちの愛情が玲琳本人ではなく、母の再現を求める形になっていることに疑問を呈し、玲琳自身の個性が軽視されている現状を指摘した。

玲琳の本質への評価

慧月は、玲琳は母とは異なる存在であり、その豪胆で自由な性格こそが本来の姿であると断言した。そして幼い頃の手習いにこそ彼女らしさが表れていると評価し、母の模倣ではない価値を認めた。

玲琳の動揺と内面の揺らぎ

慧月の言葉を受けた玲琳は、これまでの努力を否定されたように感じながらも、不思議と心が救われたような感覚に包まれていた。母に恥じぬよう生きてきた自負と、それでも許されたような安堵が入り混じり、感情の揺れを抑えきれずにいた。

秘密の手記の存在を明かす

玲琳は平静を装いながら、自分らしい字で書いた手記を別の場所に隠していることを初めて口にした。それは誰にも見せたことのない過去の葛藤であり、軽い話題のように装いながらも、実際には深い意味を持つ告白であった。

軽口の応酬と関係の深まり

慧月はその手記に強い興味を示し、見せるよう迫るが、玲琳は笑ってはぐらかした。互いに軽口を交わしながらも、そのやり取りには親密さと信頼が滲み、二人の関係がより深まっていることが示されていた。

玲琳の内心に芽生えた想い

慧月の存在を見つめながら、玲琳は彼女を特別な存在として強く意識していた。自分の内面を照らしてくれる存在として深い愛情を抱きつつも、いずれ別れが訪れることを自覚しており、その矛盾に胸を締め付けられていた。

慧月を救うための決意

慧月の体調を案じた玲琳は、彼女の助けとなるため白幻露花の採取を決意した。雨が止んだ今夜こそが好機であり、周囲の目を避けて単独で行動することを考えていた。

夕餉前の静かな決意

二人は夕餉の話題を交わしながら屋敷へ戻るが、その裏で玲琳は密かに行動の機会を見定めていた。慧月を気遣う言葉をかけつつも、自らは危険を承知で動く覚悟を固めていた。

5 玲琳、山に登る

宴の最中に抜け出す決意

狩りの後の宴は盛大かつ長時間に及び、屋敷中が無礼講の賑わいに包まれていた。玲琳は客人として振る舞いながらも、慧月の体調を案じ続けていた。そして侍女たちの注意が他へ向いた隙を突き、酔い覚ましを理由に席を立ち、密かに行動へ移った。

祠堂から山へ向かう準備

玲琳は祠堂へ向かい、母に軽く礼を尽くした後、廂房へ移動した。そこで動きやすい古着に着替え、薬草籠や鍬、火種などを整え、夜の山へ向かう準備を整えた。秘密基地へ通い慣れているため、単独でも問題ないと判断していた。

密かな外出の発覚

誰にも見つからぬはずの行動であったが、門扉に手をかけた瞬間、鷲官長・辰宇に呼び止められた。辰宇は玲琳の行動を見抜いており、夜の山に単独で向かう危険性を厳しく指摘した。玲琳は言い訳を試みるも通じず、目的を問われることとなった。

白幻露花を求める理由

玲琳は白幻露花が雨によって効力を失うことを知り、今夜中に採取しなければならないと説明した。しかし辰宇は、危険を冒す必要はないと反論し、待つべきだと諭した。それでも玲琳は、慧月のために一刻も早く行動したいという焦燥を抑えられなかった。

死期の告白と切実な想い

議論の中で、辰宇は玲琳の死期が近いことを見抜いていたと明かした。玲琳は動揺しながらも、その事実を他者に伏せるよう懇願する。そして、残された時間の中で大切な人のために何かを成したいという強い想いを吐露した。今この瞬間の幸福が尊いからこそ、何かを残したいと願っていたのである。

同行の申し出

玲琳の切実な言葉を受け、辰宇はしばし思案した後、単独行動を禁じるという立場を保ちながらも、自ら同行することを提案した。武官が付き添うのであれば麓までの行動は許容範囲であると判断したのである。

山への出発

玲琳はその提案に喜び、即座に同意した。こうして辰宇は薬草籠を持ち、玲琳の案内のもと夜の山へ向かうこととなった。危険と隣り合わせでありながらも、大切な人のために行動する決意が、二人を動かしたのであった。

辰宇への感謝と最後の決意

玲琳は山道を進みながら、辰宇が自分の行動を咎めず、さらに死期の秘密を守ってくれたことに深い感謝を抱いていた。これが最後の無茶であると自覚しつつ、友のために行動できる今この時間を、人生最後の貴重な機会として噛み締めていた。

秘密基地での白幻露花の採取

玲琳はかつての秘密基地へ到達し、そこに咲く白幻露花を発見した。荒れた墓地のような場所であったが、迷いなく花を採取し、必要量を大きく上回る量を確保することで、慧月の回復に十分であると安堵した。

墓への複雑な感情

その場所が墓であることを辰宇に問われた玲琳は、そこがよく知る相手の墓でありながら、大嫌いな相手でもあると語った。祈りを捧げるでもなく、ただ撫でるに留めるその態度には、複雑な感情が滲んでいた。

辰宇の過保護とすれ違い

水を汲みに行こうとする玲琳を辰宇が制止し、自ら代わりに向かう姿に、玲琳は彼の心配性を感じ取った。一方で辰宇は慧月との関係を否定し、距離を取ろうとする様子を見せ、二人の認識には微妙なすれ違いがあった。

過去の記憶の掘り起こし

一人残された玲琳は、墓の傍らの巨木の根元を掘り返し、幼い頃に埋めた箱を取り出した。その中には、手記や小物など、かつての自分の弱さや未練が詰め込まれていた。玲琳はそれらを見つめ、自らの歩んできた時間と向き合った。

現在の宝物と覚悟

玲琳は過去の品々に加え、最近得た大切な思い出も心に刻んでいることを再認識した。持ち運べるものは限られているが、思い出そのものは失われないと自らに言い聞かせ、静かに覚悟を固めていた。

雨の到来と不穏な兆し

その矢先、月が雲に隠れ、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。やがて雨脚は強まり、玲琳の周囲を包み込むように夜の雨が広がっていった。

雨の接近と辰宇の葛藤

辰宇は水を汲みに向かう途中、迫る雨の気配とともに過去の記憶を呼び起こされていた。玲琳の無理な笑顔に違和感を覚えつつも、彼女を思いやるあまり危険な洞穴へ足を踏み入れた自身の判断に迷いを抱いていた。

洞穴での記憶の再燃

洞穴に入った辰宇は、湿った地面や暗がりの空間により、かつての裏切りや流血の記憶を鮮明に思い出した。金切り声や血の光景が重なり、雨の夜の山という状況が彼の精神を強く揺さぶっていた。

豪雨の中での撤退判断

水を汲み終えた辰宇は、急速に強まる雨を察知し、玲琳に避難を促した。安全な経路を選びながら慎重に下山を試みるが、雨脚はさらに激しくなり、状況は急速に悪化していった。

土砂崩れの発生と救助行動

頭上の異音を察知した辰宇は、瞬時に玲琳を突き飛ばして回避させた。その直後、大量の土砂が崩れ落ち、辰宇自身は直撃を受けて土中に埋没した。玲琳はかろうじて直撃を免れたが、土砂の影響を受けていた。

埋没状態での状況把握

辰宇は土中に閉じ込められながらも、負傷状況を冷静に確認した。左腕に深い傷を負っていたが、岩によってわずかな空間が確保され、呼吸は可能であった。しかし、土と岩が絡み合った状況は脱出を極めて困難にしていた。

玲琳による救出の試み

玲琳は辰宇の声を頼りに位置を特定し、必死に土砂の除去を試みた。しかし岩は重く、容易には動かず、無理に動かせばさらなる土砂の流入を招く危険があった。彼女は焦りながらも状況を分析し、空気の通り道を確保する必要性を理解した。

意識の低下と過去の影の再来

時間の経過とともに辰宇の意識は徐々に薄れ、雨音と閉塞した空間が過去の記憶をさらに呼び起こした。暗闇と狭さへの恐怖、過去の名と出来事が交錯し、精神的にも追い詰められていった。

闇への逃避

耐え難い状況の中で、辰宇は外界の闇よりも、自ら目を閉じることで得られる闇を選んだ。抗う力を失いかけながら、意識は静かに沈み込みつつあった。

6 玲琳、救出する

辰宇の本名と母の出自

辰宇の母アレイナは、玄家北領よりさらに北にある雪深い国・臘楚の出身であった。彼女は奴隷として詠国に連れて来られた後も、自国の文化や血筋こそが優れていると信じ、詠国を見下し続けていた。周囲には「阿蓮」と呼ばれていたが、息子には常に母国風の名で自らを呼ばせ、異国の誇りを失わなかった。

被支配の現実を否定するアレイナの思考

臘楚の民が困窮によって自ら詠国へ流入していたことや、詠国側が彼らを歓迎していなかった事実すら、アレイナは都合よく捻じ曲げて解釈していた。自分たちは略奪され、辱めを受けた側であるという物語に執着し、奴隷としての現実を認めようとしなかった。

皇帝との関係と皇子誕生の背景

ある宴で歌声を武器に皇帝・弦耀の寝所に入り込んだアレイナは、その後、男児を産んだ。しかしそれは、皇帝が周囲の圧力や思惑を牽制するために選んだ行動であり、寵愛の証ではなかった。五家の血を引かぬその子は皇宮に迎えられず、母子は玄領の外れへ追いやられたが、アレイナはそれすら特別な寵愛の結果だと受け取っていた。

玉座への妄執と息子への期待

アレイナは、自分が産んだ男児こそが次期皇帝になると本気で信じていた。特に息子が受け継いだ碧眼を誇り、その青を美の象徴として愛し、「シェイン」と呼んで宝物のように扱った。息子が詠国で「辰宇」と呼ばれるようになっても、彼女がその名を使うことはなく、幼い辰宇にとって自分の名はあくまで「シェイン」であった。

溺愛と暴力が交錯する母子関係

アレイナは、息子を猫かわいがりし、言葉や文字を教え、揃いの服を着せて寝食を共にした。一方で、機嫌を損ねれば酒に溺れ、怒鳴り、時には容赦なく息子を殴った。だが傷つけてしまうと今度は涙を流し、自分を悪い女だと責めながら強く抱きしめた。愛情と暴力、理想と錯乱が絶えず入れ替わる母のもとで、辰宇は母を否定できず、ただ彼女を慰める言葉を返し続けた。

母だけが世界だった幼少期

幼い辰宇にとって、母は世界のすべてであった。アレイナがどれほど感情を揺らし、矛盾した言葉を吐き、乱暴に振る舞っても、彼は母を悪くないと受け止めた。その言葉を聞くたび、アレイナは息子を抱きしめ、自分には彼だけが必要だと繰り返した。辰宇にとってもまた、その腕の温もりと密着した感触は、当時は心地よいものであった。

孤立した屋敷での生活

辰宇とアレイナは、雪深い玄領の片隅で十年近く、外界から隔絶された生活を送っていた。広大な屋敷に住むのはほぼ母子二人のみであり、数名の使用人が遣わされてはいたが、アレイナは彼らとの交流を禁じていた。そのため辰宇は密かに使用人の仕事を手伝い、詠国の言葉を学ぶことで外界との接点を保っていた。

外の世界への憧れ

使用人が連れてくる子どもたちは、辰宇にとって眩しい存在であった。彼らは笑い合い、触れ合い、自由に遊び回っていた。孤独な環境で育った辰宇にとって、その姿は温かな灯のように映り、無意識に手を伸ばしたくなるほどの魅力を持っていた。しかし、交流を試みるたびにアレイナが割って入り、彼を引き戻したため、友情が育まれることはなかった。

母への依存と自己抑制

辰宇は母にとって唯一の存在であり、その期待に応えるため自らを抑えていた。詠国語を流暢に話せるようになっても母の前では隠し、臘楚の言葉を使い、母の望む姿を演じ続けた。母の機嫌が安定すれば暴力も減るため、彼にとってそれは自然な選択であった。

感情の揺らぐ母と支える息子

アレイナの感情は日々激しく揺れ動き、悲嘆と怒りの間を行き来していた。辰宇はそんな母を受け入れ、抱きしめ返し、否定することなく寄り添った。母にとってもまた、息子だけが唯一の支えであり、互いに依存し合う関係が形成されていた。

金品と欲望の価値観

月に一度、皇帝からの使者が金品を届けると、アレイナは豪奢に着飾り迎え入れた。彼女は浪費を繰り返し、多くの品を購入しては短期間で使い切った。欲しいものはすべて手に入れるべきだと説き、欲望を肯定する価値観を辰宇に植え付けようとした。

「欲すること」の教え

アレイナは、欲しいものは遠慮せず手に入れるべきだと繰り返し教えた。しかしその一方で、辰宇が自ら意思を示す機会は与えられず、実際に欲望を表明する経験はほとんどなかった。辰宇はその矛盾を理解しきれぬまま、いつか欲しいものができたら手を伸ばそうと心に刻んでいた。

穏やかな時間の裏にある閉塞

金品を前に機嫌よく笑い、愛情を向けてくる母の姿は、辰宇にとって心地よいものであった。しかしその穏やかさの裏側には、外界との断絶と、母子だけに閉じた世界が存在していた。その環境が、後の辰宇の内面に深く影響を与えていくこととなる。

玄家からの使者の来訪

辰宇が十歳になったある雨の日、玄家の使者が屋敷を訪れ、辰宇を第二皇子として王都で養育する可能性を告げた。突然の話にアレイナは動揺しつつも、その真意を測りかねていた。使者は辰宇を連れ出し、資質を見極めるための対話を試みた。

沈黙による選択

使者の問いに対し、辰宇は詠国語を理解しながらも一切口を開かなかった。それは母と共に生きる道を選ぶための判断であった。詠国語を話せば王都へ連行されると考え、あえて沈黙を貫いたのである。

母の裏切りと激昂

しかし結果を知ったアレイナは激怒し、辰宇を罵倒して暴力を振るった。彼女にとって息子は野望を叶える手段に過ぎず、その機会を逃したことが許せなかった。辰宇はここで、母の愛情が自己中心的なものであったことを悟った。

閉じ込めと絶望

アレイナは辰宇を衣装棚に閉じ込め、暗闇と孤独の中に突き落とした。外では使者と母の会話が続き、母が皇后や皇太子に対して呪詛を行っていた事実が明かされていった。辰宇は閉ざされた空間の中で恐怖と混乱に支配された。

母の最期

使者はアレイナの罪を断じ、その場で剣により処刑した。血に染まる光景を、辰宇は衣装棚の隙間から目撃することとなった。母は最期まで息子に救いを求めることなく、恨みを残したまま息絶えた。

生存の理由と新たな枷

その後、使者は辰宇を殺さなかった理由を明かした。詠国語を話さず、野心を示さなかったため条件から外れたからであると告げ、沈黙し欲を持たぬよう命じた。辰宇は生き延びたものの、何も望まず振る舞うことを強いられる存在となった。

感情の喪失と刻まれた記憶

母の死を目の当たりにしても、辰宇の心には感情が湧かなかった。空虚だけが残り、恨めしげな母の死に顔が強く刻み込まれた。彼はその場で長く動けず、降り続く雨の中で静かに崩れ落ちていったのである。

母の死後の処理と新たな身分

辰宇は母の死後すぐに玄領の中位貴族に引き取られ、アレイナの死は失踪として処理された。過去の十年間も改ざんされ、辰宇は奴隷仲間に育てられた孤児という設定に置き換えられた。これにより陰謀は隠蔽され、辰宇も罪人の子として扱われることは避けられたが、その出自ゆえに周囲から距離を置かれる存在となった。

居場所を求める適応と自己抑圧

辰宇は生き延びるため、臘楚に由来する要素を削ぎ落とし、詠国人として振る舞うことを選んだ。瞳を伏せ、髪型や話し方を変え、存在感を消そうと努めたが、その美貌や才能が逆に注目を集め、嫉妬や崇拝の対象となってしまった。その結果、居場所を得られず転居を繰り返す生活が続いた。

漂流するような人生

人々の評価は一貫せず、好意も侮蔑も気まぐれに変わり続けた。辰宇はどこにも定着できず、頼るべき母の存在も失い、自身のアイデンティティすら見失っていた。詠国人でも臘楚人でもない曖昧な立場の中で、ただ流されるように日々を過ごすしかなかった。

玄冰凌との出会い

十三歳のとき、辰宇は玄冰凌という男に引き取られた。冰凌は武に秀でた人物ではなかったが、自然体で辰宇に接し、特別視も拒絶もしなかった。その態度は辰宇にとって初めてのものであり、徐々に長く滞在できる環境が形成されていった。

砦での生活と仲間との関係

辰宇は砦での監視業務を手伝い、やがて同年代の少年たちとも関わるようになった。彼らに受け入れられたかに見えたが、その関係は表面的なものであり、実際には利用や嘲笑の対象でしかなかった。宴に招かれた際、その本音を知った辰宇は静かに場を去り、自らの立場を改めて認識することとなった。

疲弊と自己認識

辰宇は仲間との関係が打算に過ぎなかったことを受け入れつつも、それを悲しみとしては捉えなかった。ただ、居場所を求め続けることに疲れを感じ、自身が何者でもない存在であることを再認識したのである。

冰凌の言葉と転機

その夜、冰凌と再び向き合った辰宇は、彼の不器用ながらも一貫した努力の姿勢に触れた。結果が出なくとも続けるという考えや、青い瞳を肯定する言葉は、辰宇の内面に変化をもたらした。自らを無理に削ぎ落とす必要はないと気付き、焦らず積み重ねる生き方を受け入れるようになった。

学びへの決意

これまで拒んでいた学坊への通学を決意し、辰宇は新たな一歩を踏み出した。異質であることを隠すのではなく、時間をかけて調和を見出す道を選んだのである。

学坊での新たな生活の開始

学坊での生活は辰宇にとって予想以上に適したものであった。早朝に鍛錬を終えた後は学びに集中し、同年代の生徒たちと机を並べる日々を送った。問題児とされる集団に属しながらも、過剰な干渉を受けない環境は、これまで他者の視線に苦しんできた辰宇にとって心地よいものであった。

学問への没頭と成長

辰宇は詠国語や算術、戦術、武術といった基礎を着実に身につけていった。臘楚語にも通じた学師の存在は理解を助け、両言語を併用した学びにより知識を深めていった。周囲が脱落していく中でも、辰宇は学問に真摯に取り組み続けた。

冰凌の支えと親愛の芽生え

冰凌は辰宇の学びを喜び、文具を用意し、成果を褒め、学業を優先するよう勧め続けた。砦の任務を一人で担いながらも負担を押し付けることはなく、その善意は一貫していた。辰宇はその姿に触れるたび、胸に温かな感情が芽生えるのを感じていた。

信頼への葛藤

しかし辰宇は、その感情を素直に受け入れることができなかった。これまでの経験から、他者への期待や信頼は裏切られるものだと考えていたためである。養父の善意もいずれ変わるかもしれないという恐れが、心を閉ざさせていた。

関係の変化と穏やかな日々

それでも二人の関係は少しずつ変化していった。軽口を交わしながらも距離は縮まり、辰宇の言葉遣いも以前より柔らかいものとなっていった。互いに大きな衝突もなく、穏やかな時間が積み重ねられ、辰宇の生活は安定したものへと変わっていった。

心の変化の兆し

辰宇は自覚しないまま、冰凌との関係の中で少しずつ変わり始めていた。完全に心を開くことはなかったものの、他者とともに過ごすことへの拒絶は薄れ、孤独だけに支配されていた日々から、静かな変化が訪れていたのである。

国境情勢の悪化と砦への復帰

辰宇が十五を迎えた頃、臘楚の動きが活発化し、国境は緊張状態に陥っていた。越境や略奪が相次ぎ、玄領側も警戒を強化したことで、辰宇は学坊を離れて砦勤務に復帰することとなった。複数の分隊が集結し、砦は物々しい警戒体制に入っていた。

疑心暗鬼と内通者疑惑の発生

膠着状態が続く中、警備の隙を突いた襲撃が繰り返され、隊内には疑念が広がった。やがて互いを内通者と疑う空気が蔓延し、臘楚的な外見を持つ辰宇はその疑いを向けられやすい立場となった。寝床を荒らされ、「誅奸肅営」と記された紙を残される事件まで発生し、辰宇は排除対象として名指しされる状況に追い込まれた。

冰凌の決意と辰宇の動揺

冰凌はこの状況に怒りを示し、独断で臘楚の偵察に向かう決意を固めた。辰宇はこれを止めようとしたが、養父の強い意思に驚きつつも、その行動が自分を守るためであることに戸惑いと温かな感情を抱いた。しかし同時に、それを信頼や情として受け入れることを拒み、理性で否定し続けた。

裏切りと罠の露見

冰凌を追って森へ入った辰宇は、洞穴で不意打ちを受け、痺れ薬によって動きを封じられた。冰凌は辰宇を内通者に仕立て上げるため、証拠となる品々を洞穴に配置し、警邏隊に対して虚偽の報告を行った。これにより辰宇は完全に裏切り者として扱われ、逃げ場を失った。

襲撃と崩落による生き埋め

その直後、臘楚の襲撃が発生し、戦闘の混乱の中で洞穴が崩落した。辰宇は岩と土砂に押し潰され、生き埋めとなる。かろうじて呼吸の隙間は確保されたものの、身動きは取れず、極めて危険な状態に陥った。

見捨てられる絶望

戦闘後、警邏隊は辰宇の存在を把握しながらも、内通者として救出を放棄した。助けを求める声は届いたにもかかわらず、隊は撤収を優先し、辰宇は完全に見捨てられた。これにより、彼の中で他者への不信と孤独の記憶が再び強く呼び起こされた。

玲琳の声と救いの兆し

絶望の中で、辰宇のもとに玲琳の声が届いた。彼女は必ず戻ると告げ、救出を誓ってその場を離れた。これまで誰も振り返らなかった人生の中で、初めて差し伸べられた確かな意思を伴う言葉であり、それは辰宇にとって僅かながらも救いの兆しとなった。

生還と戦後処理の現実

辰宇は洞穴から自力で脱出し、数日をかけて砦へ帰還した。戦いはすでに終結しており、臘楚側は撃退されていたが、警邏隊は鬱憤のはけ口として捕虜への拷問と徹底的な内部調査を行った。その結果、内通は辰宇とは無関係であり、長年にわたって冰凌が情報を流していた事実が発覚した。

冰凌の裏切りの発覚と断罪

冰凌は臘楚の女と通じており、砦の軍備を合図によって伝えていたことが明らかとなった。逃亡後、国境付近で捕らえられ処刑され、辰宇が帰還したときにはすでにその首は晒されていた。これにより、これまで辰宇に向けられていた疑いは完全に覆された。

評価の反転と虚構の名誉

辰宇は一転して無実の被害者、さらには功績を立てた者として扱われるようになった。見殺しにした部隊は処罰され、新たな小隊長は辰宇に謝罪し、功績として王都への召集や褒賞を約束した。しかし、その態度の変化はあまりにも露骨であり、状況に応じて価値が反転する現実を辰宇は冷ややかに受け止めた。

信頼の否定と心の固定化

冰凌の裏切りと周囲の変節を経て、辰宇は「信じれば裏切られる」という確信を強く抱くようになった。誰かに期待し手を伸ばすこと自体が誤りであると認識し、以後は感情を抑え、他者との距離を保つ生き方を選んだ。王都に上がり、皇帝や尭明と対面しても心は動かず、形式的な関係のみを築くにとどまった。

現在へと繋がる心境

こうした過去の積み重ねにより、辰宇は他者への期待を完全に断ち切っていた。玲琳が去っていく気配を感じたときも、それを当然のこととして受け入れ、自らの最期を静かに迎えようとしていた。

玲琳による救出の開始

しかし、玲琳は戻らなかったのではなく、救出のための手段を整えて戻ってきていた。まず呼吸の通り道を確保し、辰宇に道具を使わせて呼吸を維持させると、位置を特定して土砂に手を差し入れた。そして渾身の力で岩を持ち上げ、外気と光を取り戻させることに成功した。

差し出された手と転機

視界に広がった夜空の下、玲琳は泥にまみれながらも力強く手を差し出し、生き延びることを促した。これまで誰にも掴まれることのなかった辰宇の手に、初めて確かな救いとして差し伸べられたその手は、彼の固定化した認識を揺るがす決定的な瞬間となった。

7 慧月、問い詰められる

宴席から離れた景彰の違和感

宴は夜更けても収まらず、むしろ熱気を増していた。景彰は酒の席を離れ、回廊で夜風に当たりながら冷静さを取り戻そうとしていたが、その中で慧月の様子に違和感を抱いた。これまでなら感情豊かに反応していた彼女が、今夜は終始静かで、視線すら合わせなかったためである。

慧月の変化への戸惑い

景彰は、怒りでも体調不良でもない、どこか距離を置くような慧月の態度に戸惑った。これまでのように軽口を叩いたり触れたりすれば反応が返ってくるはずなのに、それすらできない雰囲気があり、柔らかな拒絶を受けているように感じていた。

贈り物に込めた思いの自覚

ふと取り出した腕輪を前に、景彰は自身の行動を見つめ直した。南天の花を意匠としたその品には、慧月を思う複雑な感情が込められており、それが単なる詫びの品では済まない意味合いを持つことに気付く。軽い土産のつもりであったはずが、婚礼品にも通じる重さを帯びていることに動揺した。

想いの自制と葛藤

景彰は、自身の感情が慧月の立場や努力を損なう可能性に思い至り、それ以上踏み込むことを自制した。彼女は雛女としての役目を背負っており、自分の軽率な行動がそれを乱すことを強く恐れたためである。その結果、想いは表に出されることなく、内に押し留められた。

入れ替わり解消への焦り

最終的に景彰は、この状況を打開するには入れ替わりを解消するしかないと考えた。慧月本人に対して正しく向き合うためにも、現状の歪んだ関係を早く終わらせる必要があると判断し、その思いを胸に宴席へ戻ろうとした。

宴席を離れた尭明と景行の語らい

景彰が回廊へ去ったのと同じ頃、尭明は景行とともに広間から縁へ移動し、酒を酌み交わしていた。黄家の使用人たちはすでに主賓への給仕よりも宴そのものを楽しむほうへ傾いており、宮中ではありえぬほど砕けた空気が広がっていたが、尭明はその気安さを心地よく受け止めていた。景行は相変わらず豪放に酒を勧め、尭明は冬雪や辰宇をあえて宴席から逃がしたことを見抜かれながらも、無理に女性や気の進まぬ客を付き合わせる気はないと示していた。

辰宇への評価と尭明の悔恨

景行が辰宇の無愛想さを話題にすると、尭明は辰宇には可愛げも人間味もあると擁護した。辰宇は過酷な生い立ちを経ながらも、冗談を受け止めたり人をからかったりする余地を失っておらず、そのこと自体が稀有だと尭明は感じていたのである。そのうえで尭明は、辰宇ともっと早く出会い、兄として庇い育てられなかったことを悔いていた。幼い頃に弟の存在を知っていながら、何もできなかった過去が、酒の苦さとともに胸中に蘇っていた。

景行の警戒と玲琳を巡る牽制

尭明がそれを兄弟愛だと言い切る一方で、景行は自分もまた玲琳への兄妹愛から警戒していると告げた。景行にとって玲琳は、亡き母に代わって絹秀に育まれた存在であり、自身も第二の父のような気持ちで見守ってきた相手であった。そのため、辰宇が玲琳に本気で執着を見せるなら排除も辞さないと明言したのである。もっとも景行は、そうした牽制を表向きは軽妙に包みながらも、自分は尭明を推していると笑って締めくくり、主君である尭明には人を信じる立場にいてほしいと考えていた。

玲琳の不在に気づいた二人

酒を飲み交わした後、尭明はふと玲琳の姿が見えないことに気づいた。景行もまた、景彰の姿は先ほどまで確認していたが、玲琳については半刻ほど見ていないと気づき、二人はさすがに不自然な不在だと判断した。女性の離席を細かく詮索するのは無粋であるが、玲琳は目を離すと事件に巻き込まれる実績を持つため、ただの離席では済まぬ可能性が高かった。こうして景行に促される形で、尭明は玲琳の所在を確かめるべく、その場を立ち上がった。

玲琳不在を受けた捜索の開始

景彰は尭明と景行に声を掛けられ、玲琳の姿が長時間見えないことを知らされた。侍女には厠に行くと伝えていたものの、あまりに戻りが遅く、単独で夜光花の採取に向かった可能性も疑われていた。三人は過去の前例から事態を軽視せず、それぞれ分担して捜索に当たることを即座に決めた。

祠堂への到達と足跡の発見

景彰は玲琳の行動傾向から祠堂を候補と定め、燭台を手に夜の敷地へ向かった。雨が降り始めた中、祠堂の地面には辰宇と思われる足跡と、それに重なる小さな女の足跡が残されており、景彰はここに玲琳が来た可能性を確信した。主殿に入ると灯りはついていたが姿は見えず、さらに奥へと進むこととなった。

廂房での異様な気配

後殿を確認した景彰は、隣接する廂房から人の気配を感じ取り、不審に思いながら慎重に接近した。物置である廂房に玲琳がいる理由は不明であり、念のため足音を殺して中を覗くと、苛立った声が響いていた。

慧月の姿を確認

室内には確かに玲琳の身体があったが、そこにいたのは玲琳本人ではなく、その身体に入っている朱慧月であった。苛立ちを露わにしながら棚を探る様子は、普段の玲琳とは明らかに異なっており、景彰は状況の異変を認識した。

廂房への侵入と神器処分の決意

慧月は侍女たちを退室させることで単独行動の機会を作り、祠堂の廂房へと忍び込んでいた。目的は、入れ替わりを強制的に解除しかねない霊力を持つ短刀を処分することであり、その危険性から強い焦りと恐怖を抱いていた。神器に触れれば自身の術が断たれる可能性があるため、穢れを付与して力を弱めるか、隠匿することで対処しようと考えていた。

短刀落下と景彰の出現

短刀に毛皮を被せて処理しようとした矢先、手元が狂って刃が床に落ち、慧月は恐怖と苛立ちを募らせた。その直後、背後から景彰に声を掛けられ、動揺のまま対峙することとなった。咄嗟に道術のためと取り繕うが、景彰は矛盾を見抜き、短刀の性質にも気付いて追及を強めた。

入れ替わり遅延の疑念と追及

景彰は慧月の体調や過去の様子から、気が枯渇しているという説明に疑問を抱き、実際には入れ替わりを意図的に引き延ばしているのではないかと指摘した。慧月は言い逃れを試みるも追い詰められ、虚勢を張って現状を楽しんでいると主張したが、その言葉は自身の本心を覆い隠すものに過ぎなかった。

腕輪の提示と感情の崩壊

景彰は慧月のために用意した腕輪の存在を明かし、元の体に戻るよう促した。その言葉に触れた瞬間、慧月の感情は決壊し、涙を流しながら自制を失った。自身が望んでいたものと、背負っている現実との間で揺れ動く心が露わとなった。

玲琳の死期の告白

追い詰められた慧月は、ついに入れ替わりを解消できない理由を明かした。玲琳の体には死期が迫っており、入れ替わっている間だけ健康でいられるため、原因が判明するまで延命を図っているのだと告げた。この告白に景彰は絶句し、即座に危険な行為をやめるよう強く訴えた。

衝突と自己否定の発露

景彰は慧月の自己犠牲を否定し、元の体へ戻るよう迫ったが、慧月は自身の意思で選んだ行動だと反発した。さらに感情の高まりの中で、自らを黄玲琳であると断言した瞬間、体に異変が生じた。

激痛と崩壊、そして呼びかけ

宣言と同時に、慧月の体は内側から焼かれるような激痛に襲われ、立つこともできず崩れ落ちた。呼吸もままならない状態に陥る中、景彰は必死に呼びかけ続け、その声により慧月はかろうじて意識を繋ぎ止めた。

8 玲琳、星を見上げる

救出後の疲労と安堵

玲琳は土砂崩れから辰宇を救出した後、大樹にもたれて疲労を滲ませていた。辰宇もまた全身を泥に覆われ負傷しており、互いに無事を確認し合う中で、玲琳は自らの責任を詫びた。だが辰宇は、自分が雛女に救われた状況に複雑な感情を抱いていた。

機転による救出の経緯

玲琳は辰宇の救出にあたり、まず空気の通り道を確保することを最優先とした。薬草籠にあった筆を加工して筒を作り、顔付近に差し込んで呼吸を確保し、さらに鍬と竹を用いててこの原理で岩を動かした。この一連の判断と行動により、辰宇は自力で脱出できる状態に至った。

裏切りへの認識と諦念

辰宇は玲琳に対し、助けに戻ってきたこと自体が予想外だったと語った。これまで一度背を向けられた相手が再び振り返ることはなかったため、そういうものだと認識していたのである。その言葉から、彼が積み重ねてきた裏切りの経験と、他者への諦念が明らかとなった。

玲琳の共感と自己認識

玲琳は辰宇の言葉に共感し、自身もまた似た経験を持つと語った。誰かに拒絶されたとき、怒りよりも納得が先に立ち、心が静まり返ってしまう感覚を説明し、それを「相手の欲に負けた」と表現した。欲の強さこそが人を動かし、無欲な者は抗えないという認識を示した。

欲を持つ者への憧憬

玲琳は、強い欲を持ち感情を露わにする慧月の在り方を思い出し、その激しさを美しいものとして捉えていた。自分には足りないその力を、他者から分け与えられることで初めて実感し、生きることの温度を感じ取っていた。

共闘の提案と関係の変化

玲琳は辰宇に対し、これまで負け続けてきたが次は勝とうと語り、不当な扱いを受けたなら自分が助太刀すると申し出た。これは同じ傷を持つ者同士としての連帯であり、彼を守る意思の表明でもあった。

再出発と揺れる心

雨が止み、月が顔を出したことで下山を決意する玲琳は、辰宇に手を差し伸べた。しかし辰宇はその手を取ろうとせず、伸ばしてよいのかと迷いを見せた。彼の中で、他者に手を伸ばすことへの躊躇と変化の兆しが同時に現れていた。

欲という概念の受容と世界の再構築

辰宇は玲琳の語った「欲」という概念を受け入れることで、これまで抱えてきた疑問に一つの答えを見出した。母や養父の行動も、強い欲に基づくものと理解できたことで、理不尽に見えていた世界に輪郭が生まれたのである。憎しみでも許しでもなく、ただ負けた事実を受け止めればよいという認識は、辰宇の心に静かに定着していった。

玲琳への共感と心の揺らぎ

玲琳が同じような傷を抱えながらも笑い、助太刀を申し出たことは、辰宇に強い衝撃を与えた。これまで無縁であったはずの感情が呼び起こされ、彼の内にあった空虚が揺らぎ始めた。彼女の言葉と在り方は、辰宇にとって眩しく、同時に抗いがたい引力を持つものとなっていた。

欲望の自覚と葛藤

辰宇は、これまで戒めてきた「欲すること」を再び意識し始めた。過去に手を伸ばした願いが裏切りによって砕かれてきた経験から、望むこと自体を否定してきたにもかかわらず、それでもなお玲琳を求める感情が湧き上がる。その想いは抑えがたく、彼自身にとっても明確な「本物」であると認識された。

手を取る決断と関係の転機

玲琳に手を差し出され、辰宇は逡巡しながらもその手を取った。これまで伸ばすことを拒んできた手を受け入れた瞬間は、彼にとって大きな転機であった。玲琳は負傷した辰宇を気遣い、細やかに支えながら下山を促し、その行動は彼に対する明確な意思を示していた。

犠牲と優先の選択

玲琳は辰宇の治療を優先するため、自身の過去の宝物や採取した薬草の大半を置き去りにした。これは彼を守るという選択であり、その行為は辰宇に強く印象付けられた。

月光の中での静かな歩み

不安定な天候の中、わずかな月明かりを頼りに二人は山を下った。玲琳は空を見上げ月の光を語り、辰宇はその姿を見つめ続けていた。やがて山門付近で景行と合流するまで、二人は静かに歩みを進めていった。

エピローグ

激痛の消失と異変への気付き

慧月は激しい苦痛から解放された直後、荒い呼吸と咳に襲われながらも次第に落ち着きを取り戻した。直前まで全身を焼かれるような痛みや圧迫感、不気味な幻覚に苛まれていたが、それらはある瞬間を境に唐突に消失していた。景彰に名を呼ばれた直後であることに気付き、慧月はその因果に疑問を抱いた。

名と苦痛の関係の発見

慧月はこれまでの経験を辿り、「黄玲琳」として自身を強く認識した瞬間に苦痛が発生し、「朱慧月」として呼ばれた瞬間にそれが消えるという共通点に気付いた。過去の入れ替わりの直後や体調不良の場面もすべて同様の現象が伴っていたことから、この異常は偶然ではなく一貫した法則に基づくものだと確信した。

呪いの正体の理解

その法則から慧月は、この現象が病ではなく「名」に紐づいた呪いであると結論付けた。すなわち「黄玲琳」という存在として定義されたときに発動する、魂に刻まれた呪いである。外見や表層では判別できないほど深く刻まれており、過去に浄化を受けてもなお残り続けていたことから、極めて古く強力な呪いであると推測された。

呪いの起源への恐怖

慧月は、この呪いが幼少期どころか誕生時にまで遡る可能性に思い至り、強い恐怖を覚えた。魂の根幹に関わるほど深く刻まれた呪いは容易に取り除けるものではなく、その存在自体が玲琳の人生を根底から縛っていることを示していた。

皇后・黄絹秀の出現

そのとき、廂房へと近付く足音と灯りが現れ、慧月と景彰の前に黄絹秀が姿を現した。威厳を備えたその存在は場の空気を一変させ、二人の行動を問いただすことで、新たな局面の到来を示唆した。

特典SS『下戸』

宴席での冬雪の葛藤

冬雪は黄家屋敷での宴に参加する中、酒に弱い自身の体質に強い劣等感を抱いていた。本家の者たちが皆酒豪であるため、自分だけが飲めないことが場の興を削ぐのではないかと危惧し、無理にでも飲むべきか迷っていた。

景行の価値観と黄家の気質

その不安に対し景行は、酒に強い者が弱い者を軽んじることはないと断言した。むしろ黄家の人間は、弱い者を可愛がる気質を持つと語り、酔って崩れる姿に愛着を覚えるとまで述べた。その価値観は、冬雪の抱いていた武闘的な強弱観とは異なるものであった。

誤解と新たな危機の芽生え

冬雪は自分がそのような「可愛げのある酔い方」をしないと説明し、酒を避ける判断を固めた。しかしそのやり取りにより、景行は逆に冬雪の酔態に興味を抱き、いずれ試してみようと考えるに至った。結果として冬雪の回避は、新たな危険の種を生む形となった。

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