「イランとアメリカ」イランはペルシャの末裔 感想・ネタバレ

「イランとアメリカ」イランはペルシャの末裔 感想・ネタバレ

どんな本?

『イランとアメリカ 歴史から読む「愛と憎しみ」の構図』は、高橋和夫 氏 著の書籍で、朝日新書から2013年3月13日に出版。
この本は、核開発問題が緊迫するイラン、イスラエルとの戦争の可能性、アメリカの中東政策、パレスチナ問題、シリアとの関係など、最新のニュースの背景や中東を理解するための鍵を歴史に求め、政治、宗教、民族問題をコンパクトに解き明かしている。

本書は以下の章立てで構成されている。

  1. イラン核開発疑惑とイスラエル
  2. 「アラブの春」後の風景
  3. イランとアメリカをめぐる中東情勢の構図
  4. ペルシアの栄光と苦難の歴史
  5. 国際政治のはざま (悲劇の連鎖と血染めの白色革命)
  6. 怒涛の1970年代 (イラン革命から米大大使館人質事件まで)
  7. イラン・イラク戦争と国連安保理
  8. 冷戦終結後の中東 (湾岸戦争、九.一一、イラク戦争)

この本は、中東の複雑な問題を理解するための一助となるかもしれない。
ただし、出版から既に数年が経過しているため、最新の情勢については別途確認が必要だと思われる。

読んだ本のタイトル

イランとアメリカ 歴史から読む「愛と憎しみ」の構図
著者:高橋 和夫 氏

gifbanner?sid=3589474&pid=889059394 「イランとアメリカ」イランはペルシャの末裔 感想・ネタバレBOOK☆WALKERで購入 gifbanner?sid=3589474&pid=890497254 「イランとアメリカ」イランはペルシャの末裔 感想・ネタバレ

(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。

あらすじ・内容

核開発問題が緊迫するイラン。イスラエルとの戦争は起こるのか――。アメリカの中東政策、パレスチナ問題、シリアとの関係など最新ニュースの背景や中東を理解するためのカギを歴史に求め、政治、宗教、民族問題をコンパクトに解き明かす。

イランとアメリカ

感想

10年以上前に書かれた本だが、イスラエルとの騒動があったので、再度読んでみた。
本書は、イランとアメリカの複雑な関係性を歴史的背景から描いた本である。
この本では、1953年のモサデク政権のクーデターや1979年のイラン革命、核開発問題など、多くの重要な出来事が取り上げられている。
アメリカとイランの関係は、時に友好的でありながらも、しばしば緊張と対立に見舞われてきた。これらの歴史的出来事は、両国間の現在の政治的な立場に大きな影響を与えている。

本の結末では、オバマ政権下での核合意に向けた努力が描かれ、その過程での困難や交渉の詳細が語られる。
これらの国際的なやりとりがどのようにして行われてきたのか、その背景には何があったのかを理解することができた。
また、現代の政治状況においても、過去の出来事がいかに大きな影響を持ち続けているかが明らかにされる。

本書が提供する歴史的コンテキストにより、中東情勢の複雑さとその流動的な性質を理解する手助けになったと感じていることができた。
また、ペルシャ文明の栄光と苦難を通じて、国際関係における大国の役割と影響力についての議論が促されている。
この本を通じて、イランとアメリカの間に存在する「愛と憎しみ」のダイナミクスを深く理解することが、、
出来たかな?
また読もう(そう言いながら3回目)。

最後までお読み頂きありがとうございます。

gifbanner?sid=3589474&pid=889059394 「イランとアメリカ」イランはペルシャの末裔 感想・ネタバレBOOK☆WALKERで購入 gifbanner?sid=3589474&pid=890497254 「イランとアメリカ」イランはペルシャの末裔 感想・ネタバレ

備忘録


まえがき

イラン人はアメリカに対して強い感情を持っており、その関係は複雑である。かつて多くのイラン人がアメリカに亡命し、親戚を持つ者も多い。しかし、1953年のアメリカとイギリスによるモサデク政権のクーデターはイラン人に深い傷を残した。この出来事は、アメリカへの反感を形成し、同時にアメリカに対する憧れともなっている。1979年のイラン革命以降、アメリカ人はイランに対して強い嫌悪感を持ち続けてきたが、若い世代はこの感情を引き継いでいない。現在、イランとアメリカの最大の課題はイランの核開発である。イランは平和利用を主張し、アメリカは軍事転用を懸念している。この問題に対し、イスラエルのネタニヤフ首相は、イランを現代のナチス・ドイツに例え、強硬な対応を訴えている。しかし、オバマ大統領は選挙の心配がないため、平和的解決に取り組む余地がある。また、イスラエルの国内選挙ではイランの核問題よりも日常生活の問題が国民の関心事であった。交渉は過去の関係やイランの強い歴史意識を考慮せずには進まないが、和解への可能性も残されている。

第 1章
イラン核開発疑惑とイスラエル

ニューヨーク・タイムズ紙が報じたところによると、経済制裁により困窮するイランがアメリカとの核問題に関する直接交渉を提案している。この提案は、2012年アメリカ大統領選挙直前になされ、オバマ政権はこれに応じる意向を示している。また、イランは選挙後の交渉を望んでいる。オバマ政権とイランとの交渉の核心はイランのウラン濃縮問題であり、アメリカは厳しい査察と引き換えに、ある程度の濃縮の容認を認めつつある。テヘランは、核問題以外にも地域問題を議題に含めたい意向だが、アメリカは核問題に焦点を当てたいとしている。

さらに、オバマ大統領は再選後も交渉を継続し、イランとの直接対話に取り組む見込みである。また、オバマ政権はイランに対するサイバー攻撃を含む複数の秘密作戦を進行中であることが報じられている。これにより、オバマ政権のイラン政策が世界の注目を集めている。

アメリカは1997年、クリントン政権期にモジャヘディーネ・ハルクをテロ組織に指定したが、2012年9月にはこの指定を解除した。解除の理由としては、モジャヘディーネ・ハルクの暴力放棄と平和的な手段によるイランの民主化への取り組みが挙げられており、またイランへの強硬な姿勢をアメリカが示す選挙対策であるとも解釈されている。この組織のテロ指定解除により、米国内での資金調達が可能となり、ヨーロッパでのロビー活動も活発に行われている。イランは、アメリカがモジャヘディーネ・ハルクを利用して自国へ介入しようとしていると警戒しており、この指定解除は両国間の猜疑心をさらに深めることとなるだろう。

ネタニヤフ首相とバラク国防相がイスラエル国防軍に臨戦体制に入るよう命令したが、参謀総長のガビ・アシュケナジとモサド長官のメイア・ダガンがこれを拒絶した。彼らは内閣の承認がなく、命令が無謀であると判断したためである。両者は現在公職を退いており、イラン攻撃への反対を公に表明している。アシュケナジは経済制裁と外交交渉を優先すべきだと主張し、ダガンはイラン攻撃の命令が無謀であると批判している。このニュースはイスラエルの選挙前にリークされ、軍と諜報関係者を責任ある存在として国民に印象づけることとなった。バラク前国防相は命令が実施されなかったのは軍の能力不足だと反論している。

第 2章
「アラブの春」後の風景

二〇一一年、チュニジアとエジプトでの政変が発生し、これらの出来事が中東の国際関係に大きな影響を与えた。エジプトのムバラク政権は、イスラエルと密接な関係を維持しており、パレスチナのガザ地区封鎖に協力していた。ムバラク政権の崩壊後、エジプトはイスラエルへの親密な外交政策を維持することが困難になり、カイロのイスラエル大使館襲撃事件などが発生した。また、エジプトとイスラエルの間の「冷たい平和」は、エジプト国民の強い反イスラエル感情を反映していた。

さらに、エジプトの政変は、ガザを実効支配しているハマスにとっても追い風となり、パレスチナの和平プロセスにも影響を及ぼした可能性がある。これらの政変は、アメリカにとってはマイナスの展開であり、対立するイランにとってはプラスの展開と見ることができる。エジプトの新政権は、イランとの国交回復に向けて動き始めているため、これまでの関係が大きく変化している。

イランにとってアラブの春は喜べる状況ではなく、特にシリアの情勢の不安定化はイランにとって大きなマイナスである。シリア内戦の波及は、イランが支援するヘズボッラーやハマスへの影響も考慮する必要があり、シリアが介在しなくなることでこれらの組織との連携が困難になる可能性がある。シリア内戦は、民衆と政府軍との間の武力闘争から始まり、政府軍が国土の広い部分を失った状況にある。アサド政権が支配する地方政権への転化やシリアの分裂が最も可能性の高いシナリオとなっている。

シリアの支配体制はアラウィー派によるもので、バース党独裁体制は実質的にアラウィー派の支配体制と同義である。アサド家は、バシャール大統領とその弟マーヘルの間で意見の対立があるとされ、これが国内の軍事的対応に影響を与えている。

シリアへの経済制裁により、国内経済は深刻な打撃を受けており、特に観光業と石油輸出が大きな影響を受けている。これがさらに国民の生活水準の低下を招き、アサド政権への支持が揺らぐ可能性がある。

一方で、イランはシリア政権を支援し続けており、経済援助や専門家の派遣、監視機器の提供などを行っていると報じられている。しかし、イラン国内ではアサド政権への批判的な意見も出始めており、シリアに対するイランの方針が変わる可能性もある。イランはリスク分散を図る一方で、アサド政権への支持を維持しているが、最終的にどのような外交戦略を取るかは未だ明確ではない。

シリアの内戦はイランとその同盟国シリアにとって大きな挑戦である。シリアでの政治不安は、イランにとって必要に迫られたリスク分散型外交を促進する要因となっている。シリアの不安定化は、イランだけでなく、スンニー派を中心とするサウジアラビアなどの湾岸国にも影響を及ぼしており、これらの国々はシリアの反体制派を支援している。

アサド政権の潜在的な崩壊に対する国際社会の懸念は、次のシリア政権がどのような形をとるか、その未来が不透明であることに由来している。シリアのアラウィー派は過去にムスリム同胞団の蜂起を残虐に鎮圧した実績があり、その行動は多くの人々から恨みを買っている。この歴史が、現在のアサド政権の残虐な行動につながっているとされ、その恐怖心が報復を恐れた弾圧へとつながっている。

武装闘争に関しては、シリアの住民がついに武器を取り始め、政府の弾圧に対して武装抵抗を行っている。この動きはレバノンやイラクからの武器の流入に支えられており、シリア政府は隣国イラクに武装勢力の流入を防ぐ協力を求めている。

国際社会には、アサド政権と大衆の和解を促進する枠組みを作る重要な役割があるが、これを設定するのは困難である。また、アサド政権の未来は、イランの支援に大きく依存しており、イランはシリア政権を支持し続けているが、政治改革を求める声も上がっている。アラブの春は、アメリカとイランを含む多くの国々に大きな影響を与えており、中東の新しい時代の始まりを予感させている。

第 3章
イランとアメリカをめぐる中東情勢の構図

イランの核開発能力が進展し、国際社会はその軍事転用の可能性に懸念を抱いている。イランはウラン濃縮技術を確立しており、これが核兵器製造に転用される恐れがある。この問題に対して、イスラエルやアメリカを含む多くの国々がイランの核兵器保有の可能性に対処しようとしている。特に、イランと敵対関係にあるイスラエルやアメリカは、軍事行動を含む対策を検討している。

さらに、イランの核開発は周辺国にも影響を与えており、トルコやエジプト、サウジアラビアなどが核開発に関心を持ち始めている。これにより、核兵器の不拡散体制に対する挑戦が深刻化している。

国際社会は、イランの核兵器保有を阻止するため、またはイランと共存するための戦略を模索しているが、この状況は中東の安全保障政策にとって重要な課題となっている。これに対する解決策として、軍事行動、外交的手段、またはその他の方法が検討されている。

このように、イランの核開発は世界的な安全保障の問題として重要であり、その進展は今後も多くの国々にとって重要な焦点となるだろう。

第 4章
ペルシアの栄光と苦難の歴史

イラン人は古代から人類の文明を牽引してきたとの自己認識を持つ。現在のイランは、地理的にも広大で、多くの国々と国境を接している。イラン人、またはペルシア人の歴史は、紀元前七世紀にさかのぼり、その後キュロスの下でオリエント全域を統合するペルシア帝国を築いた。キュロスはバビロンを平和的に征服し、征服された市民の生命と財産を保護し、信仰の自由を保障するなど、寛容な政策を展開した。

この寛容な政策は、ペルシア帝国の成功の一因であり、多くの人々がペルシア帝国への服属を選んだ。ペルシア帝国は、商業の発展にも寄与し、安全で先進的な商業ネットワークを築いた。その後、ペルシア帝国はアレキサンダー大王によって滅ぼされるが、その文明はヘレニズム文明を通じて生き続けた。

さらに、紀元前三世紀にはパルチア帝国が、三世紀にはササン朝が興り、これらの帝国はローマ帝国と競い合った。しかし、七世紀にアラブ人の侵攻によってササン朝は滅び、ペルシア人はイスラム教を受け入れ、ペルシア語とイスラム文明の橋渡し役を果たした。このようにペルシア人は、外来の侵略や文化と融合し、その包容力で新たな文明を創造してきた。

イラン人のアイデンティティは、長い歴史と被害者意識に根ざしている。これに、イスラム教シーア派の信仰が加わり、周囲とは異なる独自の意識を強化している。イスラム教はスンニー派とシーア派に大きく分かれ、スンニー派が全体の約九割を占める中、イランはシーア派が大多数である。

預言者ムハンマドの死後、その後継者をめぐる対立がスンニー派とシーア派の分裂を生んだ。スンニー派は初代カリフをアブー・バクルとし、シーア派はアリーが直接の後継者であると主張している。アリーの支持者は「アリーのシーア」と呼ばれ、これがシーア派の名の由来である。アリーが暗殺された後、彼の支持者は正統な指導者はアリーの血筋であるとし、その後のシーア派のイマームはアリーの血筋を引く者とされている。

また、イランがシーア派を選んだ背景には、スンニー派と異なる宗派を選びたいという民族主義があるとされるが、この解釈は歴史的事実に必ずしも支持されていない。シーア派の教義では、十二人目のイマームが現れて正義の世を実現するとされており、この教義を信じるイラン人が多い。

スンニー派の時代、ペルシアではスンニー派が多数派であったことが、オマル・ハイヤームなどの名前からも伺える。しかし、アーノルド・トインビーは、ペルシア人がスンニー派からシーア派に改宗したのは民族主義が背景にあると解釈したが、この見方は必ずしも歴史的事実には支持されていない。

スンニー派ペルシア人がシーア派に改宗したのは、サファヴィー朝の時代である。サファヴィー朝はトルコ系のシーア派遊牧民によって設立され、支配地域の臣民にシーア派への改宗を強制した。この改宗により、シーア派法学者が不足し、レバノンから宗教指導者が多数招かれた。

このサファヴィー朝によるシーア派化政策が、イランをシーア派が政権を掌握している独自の国へと変貌させた。この政策により、イランは長い間シーア派が多数を占める国家となり、近隣のスンニー派諸国とは異なる道を歩んだ。このシーア派の教えは、イラン人の歴史認識と結びつき、外国の侵略に対する被害者意識や独自のアイデンティティを強化する要素となっている。

第 5章
国際政治のはざまで
──悲劇の連鎖と血染めの白色革命

ナポレオンのロシア遠征の後、ペルシアは国際政治に強く影響されるようになった。ナポレオンのインド侵攻計画の一環としてフランス使節団がペルシアを訪れ、これに対抗してイギリスもペルシアに興味を持ち始めた。ナポレオンはロシアとの対立後、ロシア遠征を行い、失敗に終わり、その後のヨーロッパはロシアとイギリスの競争の舞台となった。この競争は「グレート・ゲーム」として知られ、ペルシアもその影響下に入った。

十八世紀末に成立したカジャール朝はロシアとの戦争で敗北し、領土を割譲する羽目になり、イギリスとロシアの間でペルシアは半植民地状態になり、両国から利権を奪われた。特にイギリスは石油開発の利権を確保し、テヘランに巨大な大使館を構えるなど強い影響力を持つようになった。

ペルシアはイギリスとロシアの影響下にあるながらも、第三国との関係を強化する「第三国政策」を採用し、アメリカとの関係を模索したが、イギリスの妨害により大きな成果を上げることはできなかった。その後、レザー・シャーがパフラヴィー朝を創立し、ドイツとの関係を強化する一方で、アメリカとの関係改善を図ったが、石油利権を巡る交渉は頓挫した。

このようにペルシア(後のイラン)は、強国の影響下でのバランスを取りながら独自の立場を保とうと努力し、その過程で国名を「イラン」に変更し、欧州との同起源を主張するなどの独自性を強調した。

第二次世界大戦時、イランは中東全体で見られるドイツへの接近現象の一部であった。しかし、1941年にドイツがソ連に攻撃を仕掛けたことで状況は変化し、イギリスとソ連はイラン侵攻を行い、イランは南北に分割された。この侵略はイランがドイツ寄りであるという口実で行われ、イランのシャーであったレザー・シャーは退位と亡命を余儀なくされた。

イラン占領下での物資輸送が活発化し、アメリカを含む連合国からの支援物資がソ連へと流れることになった。イランはアメリカとの関係を強化し、多数の顧問が招かれ、警察や軍の近代化に貢献した。特に、治安警察の組織化には、ノーマン・シュワルツコフの父親が関与していた。

1946年にソ連がイラン北部の撤退を決定し、イランは南部のイギリス軍と北部のソ連軍の圧力を脱し、石油利権を巡る局面も変わった。しかし、イラン議会はソ連による石油開発利権の批准を拒否し、イランの民族主義が高まる中、石油産業の国有化を求める声が強まった。

このように、イランは第二次世界大戦を通じて大国の圧力と闘いながら、自国の政策と独立を保持しようと努力した。戦後、アメリカとの関係を強化することで、イランは外国の影響力から脱却し、自国の利益を最優先に考える方向にシフトした。

ムハンマド・モサデク政権が1951年に成立し、イランの石油国有化を断行した。これにより、イランでの石油生産を独占していたアングロ・イラン石油会社の資産が国有化され、新たにイラン国営石油会社が設立された。国有化に対する国際石油資本のボイコットと、アメリカの冷淡な対応が政権を苦境に追い込み、最終的に1953年のクーデターでモサデク政権は倒された。

このクーデターは、アメリカとイギリスが中心となり、軍と宗教界の一部が協力した。クーデター成功後、シャーがイランに戻り、アメリカの支援で独裁政権が樹立され、秘密警察が組織された。これはイラン国内の反対派を弾圧するためであった。

クーデターの成功は、アメリカとイギリスが合法的かつ民主的に選ばれたモサデク政権を倒し、外国の内政干渉と見なされ、イラン人の集団的記憶に深く刻まれた。この出来事は、1979年のイラン革命へと繋がる伏線となった。モサデクは、その後も産油国の経済的独立を象徴する存在として記憶されている。

日本外務省はイランとの外交関係を再開し、ムハンマド・モサデク政権との交流を試みたが、モサデクの政権は1953年に没落し、イランの石油産業は再び国際石油資本の支配下に戻った。イランの歴史は侵略と帝国主義の犠牲の連鎖であり、20世紀の新たな出来事としてCIAによるクーデターが加わり、民主化の流れが阻止された。この出来事はイラン人の記憶に深く残っている。

イラン王制は、サヴァックと呼ばれる秘密警察によって支えられていた。シャーの時代には、サヴァックが国民を監視し、反体制派を抑圧した。アメリカはモサデク時代に凍結されていた軍事・経済援助をシャーの政権に注ぎ込み、シャーはケネディ政権から農地改革を求められた。

この改革は「白色革命」として知られ、土地が農民に分け与えられたが、イラン知識層からは真の改革でないと批判された。しかし、この改革によって農民の生活水準は向上し、実際には多くの農民から感謝されていることが報告されている。一方で、バザール商人と宗教界の間の同盟関係により、宗教界も大土地所有者であり、農地改革によって大きな影響を受けた。

ミニコラム

イランのテヘランで開かれた米英ソ首脳会議について述べられている。この会議でスターリンは日ソ中立条約を破る約束をしたとされ、その後の首脳会談で公式政策となった。会議が行われたイギリス大使館のダイニング・ルームは保存されており、筆者が食事をした際、その席がチャーチルのものであったと説明を受けた。また、イギリス大使の息子がロシア大使館とのサッカー試合から遅れて戻ってきたことも述べられている。イギリス大使館は東京のイギリス大使館と比較され、東京の大使館も広大であると説明されている。1900年の義和団事件を教訓に、東京の大使館の壁が増強されたとの情報も含まれている。

第 6章
怒濤の一九七〇年代
──イラン革命から米大使館人質事件まで

一九六三年、アヤトラ・ホメイニはテヘラン南百二十キロメートルの聖都コムの神学校で発生した神学生の殺害事件に抗議し、シャーを非難した。この事件をきっかけに、ホメイニは逮捕されたが、その後釈放され、複数の都市で大規模デモが発生した。このデモにより、シャーは軍隊に発砲を命じ、多数の死傷者が出た。また、イランではアメリカ人顧問団の地位に関する問題があり、シャーはアメリカ人の法的地位を巡る協定を推進し、これが多くのイラン人には主権の売渡しと映ったため、非難の対象となった。これに対してホメイニは強く反対し、影響力を増していった。ホメイニは農地改革については公然とは反対せず、その理由は保守反動のレッテルを避け、民族主義者としての地位を固めるためだった。

一九七〇年代、イランは経済成長を遂げ、「西アジアの奇跡」と称された。この時期、シャーは自信を深め、経済計画を進めたが、一九七三年の第四次中東戦争時には石油危機が発生し、イランは非アラブ国ながら石油輸出を続け、大幅な収入を得た。しかし、この増収は国内の腐敗を深め、シャーは腐敗を政治的に利用した。

一九七四年、ウォーターゲート事件の後、ジミー・カーターが大統領に選ばれ、新たな政治スタイルをアメリカにもたらした。カーターの当選は、ワシントン外の新しい政治家を求めるアメリカ国民の願望を反映していた。カーターはブレジンスキーを国家安全保障問題の補佐官に任命し、外交政策で重要な役割を果たした。

カーター大統領が推進した人権外交は、ソ連の人権抑圧を攻撃する手段として利用された。しかし、この政策はアメリカの同盟国であるフィリピンやイランの独裁政権にも影響を与え、両刃の剣となった。イランでは、人権外交によって反体制派が勇気付けられ、シャーの政権が揺らぐきっかけとなった。一九七七年にはシャーがワシントンを訪問し、その際の催涙ガスの事故がイランで放送され、アメリカがシャーを見捨てるメッセージと受け取られた。

イランではその後、経済の急成長とバブルが続いたが、第一次石油危機以降の急激な「近代化」政策による経済の過熱やその後の急停止が国民生活に大きな影響を及ぼした。これが大規模な失業と不満を引き起こし、反国王デモにつながった。そして、ホメイニを中傷する記事に端を発したデモが激化し、イラン全土で反シャー運動が広がり、革命へと向かった。

カーターの人権外交という理想主義的な政策は、国内外で大きな波紋を投げかけた。アメリカ国内では新しい政治家を求める声が高まり、カーターが大統領に選出される背景となった。しかし、その政策が同盟国の独裁政権にも圧力をかける結果となり、特にイランでは大きな変革のきっかけとなった。

ホメイニは1902年頃、テヘラン近郊のホメイン村で生まれた。法学者の家庭に生まれ、幼い頃に父を失い、伯父に育てられた。イスラム法学を学び、1922年には学問の都コムに移り住み、教鞭を取るようになった。1963年、シャーの政策「白色革命」に反対し、大規模なデモを引き起こし逮捕されたが、後に教団の支持を受けて大アヤトラに昇格した。1964年にはシャーにより国外追放され、イラクのナジャフに移住した。

ホメイニは、イスラム法学者の統治(ヴェラーヤテ・ファギーフ)論を展開し、イスラム法(シャリア)に基づく政治理念を提唱した。この思想はイランにおけるシャー体制の打倒とイスラム法に基づく政治体制の構築を目指すものであった。

1963年のシャーによるデモ鎮圧は、多くの青年に革命の意志を固めさせ、後のイラン革命の原動力となった。この出来事はホメイニを反シャー運動のシンボルに変え、彼の教えや演説は後世のイラン人に大きな影響を与えた。革命後、ホメイニは多くの支持を集め、イランの最高指導者として確固たる地位を築いた。

夏が過ぎると、イランでは数百万のデモ隊がテヘランを含む各都市で抗議を行い、シャーの退陣を求めた。一九六三年、シャーは軍にデモ隊に対する発砲を命じていたが、一九七八年の反シャー運動にはためらいを見せ、大虐殺を命じなかった。国際世論の注目が高まる中、シャーは徹底的な弾圧を避け、また健康問題も影響して迅速な決断ができなかった。

一九七八年、シャーはホベイダを逮捕するなどして民心を懐柔しようとしたが、抗議は収まらず、富裕層は国外へ逃れ始めた。また、ホメイニはイラクからフランスに移住し、そこからシャー批判を続けた。国際通信の利便性の高いフランスから、ホメイニはイラン全土に影響を及ぼした。

冬に入ると公務員もストライキを行い、少数民族も自治を要求し始めた。特にクルド人は、その自治要求を強めた。この運動の最終段階で、石油労働者がストライキを行い、第二次石油危機を引き起こした。シャーの体制は揺らぎ、シャーは退位を余儀なくされた。

バフティヤールが首相に任命されたが、状況は安定せず、ホメイニは帰国して革命勢力による権力の奪取が成就した。イラン軍は中立を宣言し、最終的にバフティヤール政権は崩壊した。この時期、軍内の規律の緩みが中立宣言へと繋がったと推測される。

シャー時代の信頼された軍および治安当局のトップであったファルドゥースト将軍が、革命後もイランに残り、革命政権の諜報機関の初代長官に就任した。これは、シャー政権下での高位将校が処刑される中で、ファルドゥーストだけが逮捕されずに要職に就いたため、彼が早い段階からホメイニ支持勢力と通じていたと推測される。シャーは亡命後、ファルドゥーストの行動について「わからない」と述べたことからも、彼の裏切りに対する不満が感じられる。

革命勢力による権力奪取後の政治情勢は、宗教勢力や非宗教勢力、左翼組織などが互いに権力を争い始めた。特に、クルド人などの少数民族の動きが活発になり、クルド人は自治を要求し、その過程でイラン政府との間に武力衝突が発生した。革命政府はクルド人の武力鎮圧に正規軍を投入し、軍事的な優位を保ちつつも、クルド地域での戦闘に苦戦した。

アメリカ大使館人質事件は、シャーのアメリカ入国と革命政権とアメリカ間の接触が疑念を呼び、学生たちによる大使館占拠につながった。この事件はイランを国際的に孤立させ、革命政府の正統性に影響を与えたが、国内的にはホメイニの支持を集める効果をもたらした。

全体的に、革命後のイランは政治的混乱が続き、複数の勢力が権力を争う中で、ホメイニの指導下で新たな政治体制が確立される過程が進行した。

第 7章
イラン・イラク戦争と国連安保理

冷戦期のアメリカの中東政策には三つの目標があった。第一にソ連の中東進出の阻止、第二に石油の確保、第三にイスラエルの安全保障である。これらの政策はしばしば衝突し、アメリカの外交を複雑にした。特にイスラエルへの支持はアメリカ国内のユダヤ系市民とキリスト教原理主義者によって国内問題とされ、アラブ諸国との関係悪化の要因となった。

イランは、冷戦時にアメリカの中東政策の重要な要であった。ソ連の南下を阻止する地政学的なブロックとして、また石油供給の安定した源として機能した。また、イランはイスラエルと密接な関係を持ち、イスラエルの安全保障に貢献していた。しかし、1979年のイラン革命により、アメリカはこれらの利点を失った。

革命後、イランはイスラエルとの関係を断絶し、アメリカとの関係も悪化した。イランの原油生産の停止は世界経済に大きな影響を与え、ソ連に対する防波堤の役割も弱まった。アメリカは、イランがソ連の影響下に落ちることを防ぐため、積極的な軍事介入を避け、新政権との関係構築を試みたが、成功しなかった。

このように、イラン革命はアメリカにとって重大な外交政策上の失敗であり、中東政策の大きな打撃となった。アメリカはこの革命の結果から立ち直ることが困難であるとされている。

1980年9月22日、イラク軍はイランに対して大規模な軍事行動を開始し、これがイラン・イラク戦争の発端であった。イラク側は、ホメイニ率いる革命政権がイラクのシーア派に対し反乱を呼びかける脅威となっていたため、攻撃を決断した。さらに、イランとイラク間の長年の国境問題もこの戦争の背景にあった。シャットル・アラブ川を巡る領有権争いや、イランの油田地帯にアラブ系住民が多いため、イラクはこの地域を獲得し国力を増すことを狙っていた。

この戦争は、テヘランでの権力闘争や国際的孤立というイランの不利な状況下で始まった。イランの軍事的弱体化と国際的孤立は、イラクにとって有利な条件となった。開戦初期、イランの防衛力は低下していると見られていたが、イラン軍と市民は頑強に抵抗し、イラク軍の予想外の抵抗に遭遇した。

この戦争は、国際社会の反応が鈍く、国際連合安全保障理事会の決議がイランに不利な形で進んだため、イランに対する不信感が深まった。戦争は長期化し、最終的にはイランがイラク軍を領土から駆逐し、和平を求める段階に至ったが、ホメイニは戦争の続行を決断した。

この戦争では、イラクが化学兵器を使用し、国際法に違反したが、国際社会はイラクの行動を公然と批判しなかった。その理由は、イラクのバース党政権の崩壊が中東地域の力のバランスを崩す可能性があったからである。

アメリカが主導するイランへの武器禁輸とイラクへの大規模な兵器売却政策が展開された。フランスとソ連もこれに参加し、特にソ連製のスカッド・ミサイルがイラクに売却され、改良されてイランの首都テヘランまで届くようになった。一九八七年、アメリカの提案により国連安保理決議五九八号が採択され、戦闘の即時停戦と国境線までの即時撤退が求められた。この決議はイラクに有利な内容であり、イランには不利であると見なされた。日本や西ドイツはよりイランに受け入れやすい決議を求めたが、アメリカとアラブ諸国の影響力により、その努力は実を結ばなかった。アメリカはイランが決議を拒否することを期待しており、拒否が制裁を開始する口実となると計算していたが、イランは曖昧な立場をとり、アメリカは制裁を発動する大義名分を失った。この結果、イラクが戦場で失ったものを国連決議の受諾で何の代価も支払わずに取り返す状況が生まれた。

シャーの死後、イランはアメリカがイラクを使って反革命を行っていると考え、両国の交渉は進展しなかった。しかし、イラン・イラク戦争が進む中でイランは圧力を感じ、アメリカとの交渉に応じ、五十二人のアメリカ人人質の解放と引き換えに八十億ドルの資産凍結解除が合意された。この交渉の結果はカーター大統領の任期終了直前に決定され、レーガン大統領の就任式直後に人質が解放された。この出来事は、アメリカ人の意識に深い反イラン感情を残すこととなった。

また、イラン・コントラ・ゲート事件では、アメリカが秘密裏にイランに武器を輸出し、その代金をニカラグアの反政府ゲリラへの資金として使用した。このスキャンダルはレバノンの新聞によって暴露され、大きな問題となった。アメリカはこの武器売却を通じて、レバノンでのアメリカ人人質の解放協力と、イランにおける影響力の維持を目指した。この事件はアメリカ内政にも影響を及ぼし、武器売却から得られた資金がニカラグアのコントラへの支援に回されたことが含まれていた。

第 8章
冷戦終結後の中東
──湾岸戦争、九・一一、イラク戦争

一九八七年の安保理決議五九八号の成立と一九八八年の停戦により、イランの脅威が軽減され、イラクが地域の軍事力として大きく成長した。この期間に冷戦が終結し、アメリカの中東政策の主要目標からソ連の封じ込めが外れ、石油の確保とイスラエルの安全保障の二つの目標に集中することになった。冷戦終結は、米ソ協力によるイランに対する圧力の例として、安保理決議の成立につながり、イランに対する軍事行動を通じて、アメリカは地域での優位を確立した。また、冷戦後の中東政策の変化は、ソ連の影響力の減少と共に、イランとイラクへのアメリカの政策が重要な影響を持つようになった。

クリントン政権下でのアメリカとイランの関係改善は、ハタミ大統領の改革派政策と同時進行していた。クリントン政権はイランとの関係改善に興味を示し、ハタミ大統領の民主的改革と外交政策を評価した。この時期、クリントン政権にはイランに通じる人物が数人存在し、イランとの間接的な対話が行われた。特に注目されるのは、ペルシア語に堪能なジャーナリスト、クリスチャン・アマンプールである。アマンプールはイランを頻繁に訪れ、イランの改革の様子を報道し、ハタミ大統領との独占インタビューも行った。

クリントン政権はハタミ大統領との間に微笑外交を展開し、過去のアメリカのイラン政策の過ちを認め、間接的な謝罪を行った。このようなアプローチは、アメリカとイランの間に新たな対話の道を開いたが、国内の政治的対立や外交政策の限界により、関係改善は限定的なものに留まった。アメリカ国内では、特にイスラエルを支持する層からの反対が強く、イランとの関係改善が選挙に悪影響を及ぼす可能性があったため、さらなる進展は困難であった。

アメリカの外交政策は、冷戦終結後の国内重視派と積極外交派という二つの異なる視点から議論されてきた。クリントン政権は国内問題に焦点を当て、海外介入を避ける政策を採用したが、その後継のブッシュ政権では積極的な外交政策を展開し、世界の警察力としてのアメリカの役割を推進する「ネオコン」の思想が台頭した。特に九月十一日のテロ事件は、テロ組織との戦いと大量破壊兵器の拡散防止をアメリカ外交政策の主要な目標に押し上げた。これらの政策は、中東地域の安定化と直結しており、テロの根絶、大量破壊兵器の阻止、イスラエルの安全保障、石油の確保が中心課題とされた。

また、ブッシュ政権は先制攻撃と中東の民主化を推進し、イラクのサダム・フセイン政権を転覆させるための戦争を行った。この政策はサダム・フセインと大量破壊兵器の脅威を排除することで正当化されたが、戦争後に大量破壊兵器は発見されなかった。さらに、中東に民主主義を導入することで、テロリストを生み出す土壌を排除しようとしたが、これも大きな挑戦となった。アメリカは中東諸国を民主化させることで、自国の理想に近づけようと試みたが、その過程は複雑で予想外の結果をもたらすことが多かった。

第 9章
オバマ政権の中東政策

二〇〇三年三月、アメリカとイギリス軍がイラクを攻撃し、戦争が開始された。この戦争では、わずか数週間でイラクの首都バグダッドが陥落し、フセイン政権が崩壊した。ブッシュ大統領は五月一日に勝利宣言を行った。この時期、イランからアメリカに対して広範囲な提案がなされたが、ブッシュ政権はこれを拒否した。その後、イランの核問題は国際的な焦点となり、安保理による一連の決議が採択されたが、イランはウラン濃縮を続け、国際社会との緊張が高まった。

イランは、核開発を巡る経済制裁の下で通貨リアルが暴落し、経済的に大きな打撃を受けた。その中で、イランとアメリカの間の交渉が行われたが、アメリカはイランの核武装を許さず、必要に応じて軍事力行使の可能性も指摘されている。一方、レバノンではヘズボッラーがイスラエルに対する潜在的な脅威として位置づけられており、イスラエルとイランの間での軍事的衝突の前哨戦としての側面もある。また、イラク内での状況は内戦状態に近く、シーア派とスンニー派の対立が激化していた。この状況はアメリカの対イラン政策にも影響を与えている。

二〇〇六年十一月のアメリカ中間選挙では、イラク戦争の不人気を背景に共和党が大敗し、多数派から少数派へと転落した。この敗北は、イラク戦争継続中のアメリカ兵の死傷者が多数に上る中での選挙であり、歴史的な大敗北となった。その後、ブッシュ大統領は一般教書演説でイラクに二万人を増派すると発表し、これはペトレイアス将軍の要請に基づくものだった。

さらに、ブッシュはイランに対する敵意を強調し、演説でイランを度重なる否定的な文脈で言及した。アメリカの中東政策の焦点がイランに向けられ、イランがイラクのシーア派急進派を支援していると非難した。また、パトリオット・ミサイル部隊の中東派遣も言及され、これはイランの弾道ミサイルからの防衛を目的としていることを示唆した。

この時期のブッシュ政権の動きは、イランを新たな軍事的ターゲットと見なしていると解釈され、イラン非難は、イラク治安回復の失敗をイランのせいにする責任転嫁のためであると見られた。また、ブッシュ政権はイランとの対決を準備しており、イランがアメリカ兵を攻撃しているとの主張を強化していた。この一連の動きは、イランに対する強硬な姿勢をさらに明確にしていた。

ブッシュ政権末期には、アメリカ大統領の三選が憲法上不可能なため、ブッシュは任期中にイラン問題の解決策として軍事行使か外交交渉かを選択する必要があった。激しい内部議論の末、ラムズフェルド国防長官の更迭とゲーツの就任が外交的解決に重きを置く結果となった。ゲーツと多くの軍幹部はイランとの戦争に反対し、その結果、ブッシュ政権はイラン攻撃を行わず、問題をオバマ政権に引き継ぐ形となった。

この背景には、軍人たちが戦争の悲惨さを理解しているため、軍事行動に慎重であったという事実がある。一方で、イスラエルは、アメリカがイランの核問題を軍事的に解決しない場合、単独で対応する可能性を示唆していた。しかし、ブッシュはオルメルト政権のイラン攻撃計画に対して承認を与えなかった。その理由として、攻撃によるイランの報復が駐留アメリカ軍に向けられるリスクを避けたかったからである。

オバマ政権に移行後、オバマ大統領はイランとの対話を進める方針を表明し、イランの核問題に対する新たなアプローチを開始した。その一環として、オバマはイランの新年に合わせてビデオメッセージを送り、相互の敬意に基づく対話を呼びかけた。この方針は、アメリカ・イラン関係に新たな外交の季節をもたらしたが、イスラエルのネタニヤフ首相は引き続きイランの脅威を強調し、必要であれば単独での軍事行動も辞さない構えを見せていた。

オバマ政権の時代にイランのアフマドネジャド大統領との交渉が予測されていたが、2009年の選挙では選挙管理委員会がアフマドネジャドの勝利を発表したにもかかわらず、大規模な不正があったとして反対候補ムサビの支持者がデモを開始した。政府はデモを強制的に鎮圧し、多数が逮捕された。これはアフマドネジャド政権と改革派の対立として知られているが、実際には世代間の対立もある。イラン革命を経て形成された政府の要職には1963年の暴動を目撃した世代が就いているが、アフマドネジャドはそれよりも若い世代で、革命防衛隊で戦った経験がある。彼らは体制に対して批判的であり、革命防衛世代とも呼ばれる。アフマドネジャドの再選後の激しい政治的混乱は、交渉を遅らせ、欧米との妥協案が進展しなかった。これは彼の政権下での内部対立と強硬派の圧力が原因だった可能性がある。その後、トルコとブラジルの調停により一部の濃縮ウランをトルコに移送する案が進められたが、アメリカはこれに懐疑的だった。イランとの交渉の未来は、核能力を一定程度認めつつ、厳しい査察により軍事転用を抑える「ジャパニーズ・オプション」が考慮されているが、この問題は国際社会において依然として解決が求められている。

あとがき

中東に関する本を書くことは、すぐに古くなってしまうという点でパソコンを購入することに似ている。執筆と出版の間ですら、事実が急速に変わるため、中東情勢に関する本はすぐに時代遅れとなり得る。作者は、ミクロな変動ではなくマクロな構造を重視し、大きな絵を問題意識として捉えた。イランとアメリカの関係を振り返る意義は、中東が転機に差し掛かっていることを感じ取るためである。過去の理解から現在を読み解き、未来を予測する試みが、本書の執筆における著者の信念であった。また、編集を担当した中島美奈が、記述の精度を高めるために丁寧で的確な指摘を加え、熱意は丹念さであるとの教訓を著者に与えた。

その他ノンフィクション

6bf795f904f38536fef8a54f53a8a299 「イランとアメリカ」イランはペルシャの末裔 感想・ネタバレ
Nonfiction

Share this content:

こも

いつクビになるかビクビクと怯えている会社員(営業)。 自身が無能だと自覚しおり、最近の不安定な情勢でウツ状態になりました。

コメントを残す

CAPTCHA