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フィクション(Novel)幼女戦記読書感想

小説「幼女戦記 13 Dum spiro,spero ―上―」感想・ネタバレ

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幼女戦記13の表紙画像(レビュー記事導入用) フィクション(Novel)

幼女戦記 12巻レビュー
幼女戦記 まとめ
幼女戦記 14巻レビュー

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物語の概要

■ 作品概要

本作は、第一次世界大戦期の欧州を彷彿とさせる異世界を舞台にした架空歴史戦記ファンタジーである。 第13巻のあらすじ: ・連邦軍は戦争を終わらせるための大規模な戦略攻勢である「黎明」の発動に向けて、着々と準備を積み上げていく。 ・迎え撃つ帝国は未だにその致命的な脅威に気がついておらず、残された時間はあまりにも乏しい。 ・この国家的な窮地に、帝国軍で唯一、全縦深同時攻撃という全面攻勢の恐ろしさを理解しているターニャ・フォン・デグレチャフだけがその兆候に気がつく。 ・帝国司令部の機能不全が重なる中、ターニャは事態に対処するために命令の偽装を伴う禁断の「独断専行」を決意する。 ・一方、帝国軍参謀本部の全権を握るゼートゥーア大将による、世界を騙す敗戦処理プログラム「払暁」の端緒がついに開始される。

■ 主要キャラクター

ターニャ・フォン・デグレチャフ: サラマンダー戦闘団を率いる航空魔導中佐。徹底した合理主義者であり、規律を守る模範的な軍人であったが、帝国の機能不全と連邦の壊滅的な攻勢を前に、自らの生存をかけて命令偽装という最大の規則違反(独断専行)へ踏み出す。

ハンス・フォン・ゼートゥーア: 帝国軍参謀本部の全権を握る大将。帝国が純軍事的に完全勝利することは不可能であると冷徹に見定めている。世界を欺きながら国家をソフトランディング(軟着陸)させるための壮大な敗戦処理プログラム「払暁」を本格的に起動させる。

■ 物語の特徴

本作の魅力や特徴、他作品との差別化要素は以下の通りである。
・模範的軍人の「規則違反」という熱い対比:
これまではマニュアルや規律を絶対視し、上層部に従うことで保身を図ってきたターニャが、生存のための合理的判断として「命令を偽装して独断で戦う」という最大のタブーを犯す過程が克明に描かれている。彼女の愛国心という皮肉な建前と、現実主義的な決断が合致するドラマが大きな魅力である。
・圧倒的な軍事理論による絶望と戦略:
連邦が発動する攻勢「黎明」は、歴史上のソ連が誇る全縦深同時攻撃理論をベースにした、質量と綿密な計画による恐るべき包囲殲滅戦である。トリッキーな局地戦術だけでは抗いきれない圧倒的な物量の恐怖が描かれ、それに立ち向かうための極限の戦略眼が展開される。
・敗戦処理へ向けた地政学サスペンス:
「いかに勝つか」ではなく「いかに最悪の敗北を避けるか」というテーマがさらに掘り下げられている。軍事・政治・外交の不全を暴きながら、国家そのものを店じまいさせようとするゼートゥーアの怪物的な知略は、他に類を見ない重厚な読書体験をもたらす。

書籍情報

幼女戦記 13 Dum spiro,spero ―上―「命ある限り、希望はある」
著者:カルロ・ゼン 氏
イラスト:篠月しのぶ  氏
出版社:KADOKAWA
発売日:2023年8月30日
ISBN:9784047368194

(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。

あらすじ・内容

幼女、独断専行を決意す。
連邦の戦略攻勢『黎明』。
この発動に向けて、連邦は着々と準備を積み上げていく。
迎え撃つ帝国は未だそれに気がついていない。
帝国軍に残された時間は、あまりにも乏しい。

この窮地に帝国軍では、ただ一人。ターニャだけが気が付く。
故に、世界は目にするのだ。
黎明があれば、払暁あり、と。

ゼートゥーアというシステムが、世界を騙す端緒がついに始まる。
その引き金を引いたのは、幼女の皮をかぶった怪物である。

幼女戦記 13 Dum spiro,spero ―上―

感想

読み進める中で最も強く揺さぶられたのは、登場人物たちが次々と尋常ならざる「覚悟」をガンギマリさせていく、その狂気的なまでの熱量である。連邦軍の圧倒的な包囲攻勢により、東部戦線はいよいよ破滅的な崩壊の危機に直面していた。これまで何度も死線を越えてきた帝国だが、今回は文字通り国家そのものの命脈が尽きかねない、最大のターニングポイントを迎えている。

今巻において特に不気味さを際立たせているのが、連邦の怪人・ロリヤの存在だ。自ら「大魔王」の覚悟を固め、世界を欺く敗戦処理を目論むゼートゥーア大将。そんな怪物的な知性を持つ大将すら、ロリヤは自らの内に秘めた狂気的な執念でもって欺いてみせる。大将の予測を狂わせ、連邦の戦略攻勢「黎明」の真の破壊力とタイミングを隠蔽したロリヤの執念には、ただただ背筋が凍るような恐ろしさを覚えた。

この絶望的な崩壊の波を食い止めるため、ついに主人公のターニャもまた、自身の「覚悟」を決めることとなる。驚くべきは、彼女が選んだ手段の苛烈さだ。これまで徹底的な合理的保身と規律遵守をモットーにしてきたターニャが、なんと命令の偽装と独断専行という、軍律上絶対に許されない博打を敢行する。成功して野戦軍を救ったとしても、下手をすれば銃殺刑に処されかねないこの捨て身の決断は、彼女の生存への執念と、一労働者としての限界を超えた悲壮な凄みを湛えていた。また、その博打に同行することを決意するサラマンダー戦闘団の部下たちとの信頼関係にも、深く胸を打たれる。

大将から一線の魔導師に至るまで、誰もが退路を断ち、己の信念を極限まで尖らせて戦場に対峙している。その誰もが「覚悟をガンギマリ」させている様子は、泥沼の戦争がもたらす極限の心理描写として、本作の大きな魅力と言えるだろう。戦術的な勝利だけでは覆らない大局の中で、彼らがいかにして「生」を掴み取ろうとするのか、その必死の足掻きから目が離せない。

東部戦線の崩壊という暗雲が垂れ込める中、ターニャの命がけの博打がどのような結末を迎えるのか。次なる「下巻」の嵐を前に、期待と興奮が最高潮に達する、圧倒的な読み応えの一冊であった。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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幼女戦記 12巻レビュー
幼女戦記 まとめ
幼女戦記 14巻レビュー

考察・解説

ゼートゥーアの変貌

『幼女戦記』シリーズを通して、ハンス・フォン・ゼートゥーア大将の変貌は、単なる一軍人の闇堕ちではない。極限の総力戦がもたらした必然であり、一人の人間が国家というシステムそのものへと変質していく恐怖の過程として描かれている。その変貌の軌跡を、以下の段階に分けて整理する。

善良な准将からの堕落と邪悪な組織人の自任

・かつての彼は、「名誉と道理を知る善良なゼートゥーア准将」であった。
・しかし、帝国が戦略的に敗北必至となる中で、彼は必要という冷酷な論理に奉仕するようになる。
・国家の破綻を最小限に抑える店じまいのため、その最大の障害となった親友ルーデルドルフ大将を冷徹に暗殺した。
・自らを「善良な個人で、邪悪な組織人」と定義して非情な決断を下す変貌を遂げている。

倫理の放棄と世界の敵への飛躍

・やがて彼は、戦後の国際秩序における連邦の単独覇権を阻止するため、道徳や倫理を完全に投げ捨てる。
・避難民を利用した兵站攻撃など、人道主義の弱点に付け込む卑劣な戦術を白昼堂々と実行するようになった。
・自ら進んで世界の敵という歴史的悪役を演じる。
・彼は自らを「必要だけを信奉する邪悪なゼートゥーア大将へ堕している」と客観的に自覚している。

人間からシステムそのものへの融合

・『幼女戦記 13』において、彼の変貌はさらに常軌を逸した次元に到達する。
・外務省のコンラート参事官は、ゼートゥーアが単なる国家の一部ではなく、いつの間にか人の皮をかぶったシステム、ひいては戦争遂行システムそのものへ融合、変質している事実を見抜いた。
・中立国の名誉領事からも、ゼートゥーアが倒れたら帝国はどうなるのかと問われるなど、諸外国からもゼートゥーア=帝国として認識され始めている。

忠誠心の喪失と国家の手札化

・ゼートゥーア自身も、数年前の自分が見れば今の自分を相手に決闘沙汰を起こすだろうと、自己の人間性の残滓を自嘲している。
・ついに彼は、帝室や祖国へ忠誠を誓った「善き帝国軍人」としての価値観すら失うに至った。
・軍事という手段のみに頼るのではなく、国家や帝室をも含めたすべてを生き残るためのオプションとして盤上に放り込む怪物として完成した。

まとめ

ゼートゥーアの変貌とは、沈みゆく帝国を「最良の敗北」へと導くという狂気的な目的のため、一人の人間が理性と人間性を極限まで削ぎ落とし、ついには世界を欺いて国家そのものを代替する冷酷なシステムへと羽化していく、悲壮かつおぞましい過程と言える。

連邦軍の戦略攻勢

『幼女戦記 13』における連邦軍の戦略攻勢(コードネーム「黎明」)は、帝国軍の得意とする戦術的な小細工を一切許さず、圧倒的な物量と組織力によって帝国軍主力の完全撃滅を狙った、軍事的合理性の極致とも言える大規模作戦である。その全容と帝国にもたらした絶望的な危機について、以下の通り整理する。

作戦の目的と「600キロ案」の採用

連邦共産党から軍へ要求されたのは、戦争を終わらせる一撃であった。立案者であるクトゥズ大将は、確実に勝利できる200キロ進撃案と、帝国軍主力の完全撃滅を狙う600キロ進撃案を用意した。

最終的に採択された600キロ案の実態は以下の通りである。
・砲兵と航空戦力による面制圧により、敵の防衛線を徹底的に破壊する。
・第一梯団が突破し、停止することなく進撃を続ける無停止進撃を行う。
・第一梯団が疲弊した際は、第二梯団がそれを追い越して進撃を引き継ぎ、衝撃力を絶え間なく連続させる。
・孤立した帝国の防衛拠点(ストロングホールド)は、後続の予備隊が包囲して無力化する。

このように、波状攻撃と包囲殲滅を組み合わせた壮大な殲滅戦が計画された。

連邦の思想:「小細工には付き合わず、鉄と血で圧殺する」

帝国軍のゼートゥーア大将は、戦術レベルの卓越した機動や詐術で局面を覆すことを得意としていた。しかし、連邦のクトゥズ大将は、どこで戦うかは連邦が決める、どう戦うかも連邦が決める、と宣言し、帝国の得意な土俵には一切上がらなかった。

連邦軍が採用したアプローチや新戦術は以下の通りである。
・全縦深同時攻撃、無停止進撃、機械化波状攻撃といった、単純で王道ながらも圧倒的な暴力の奔流を投入した。
・帝国の得意とする各個撃破や機動防御を封じ、防衛システムを面ですり潰した。
・航空魔導師としての適性が低い者たちを大量動員して防殻を展開させ、歩兵を支援する強力な移動要塞(自動車化地上魔導連隊)として運用する新戦術を導入した。

完全な戦略的奇襲(帝国の致命的な誤断)

帝国軍の上層部は、連邦軍も消耗しているため、本格的な反攻は早くても春季(泥濘期明け)であると予想していた。この予想を前提に、帝国は戦略予備をイルドア方面に転用し、東部では越冬態勢に入っていた。

しかし、連邦軍は周到な準備を進めていた。
・連合王国情報部すら欺くほどの徹底した情報統制と偽装を敢行した。
・帝国側の裏をかき、統一暦1928年1月に冬季攻勢を発動した。

結果として、帝国軍は最悪のタイミングで完全な戦略的奇襲を受けることとなった。

帝国軍ドクトリンの致命的欠陥

連邦軍の全面攻勢が始まった際、帝国軍の東部方面軍は、過去 of 成功体験に基づく内線戦略の教義に囚われてしまった。

帝国軍が陥った機能不全は以下の通りである。
・各部隊は、自分の持ち場こそが敵の主攻点であると誤認した。
・防衛拠点で敵を受け止め、持ちこたえていれば友軍の機動部隊が反撃してくれると信じて陣地に籠もる選択をした。
・全戦線が主攻である黎明の前では、陣地に籠もることは自ら包囲されることを意味していた。

第一波に耐えたとしても、無傷の第二梯団、第三梯団が次々と押し寄せるため、野戦軍の大半が前線で拘束、殲滅され、帝国は防衛線を再構築する時間すら得られずに崩壊する運命にあった。

ターニャの気付きと反逆の決断

独自の威力偵察によって連邦軍の冬季攻勢の準備に気付いたターニャ・フォン・デグレチャフ中佐だけが、この全縦深同時攻撃の真の恐ろしさと、陣地防衛に固執する東部方面軍の判断が自殺行為であることを直感した。

彼女が下した超法規的な決断の経緯は以下の通りである。
・野戦軍の全滅、すなわち帝国の敗北を回避する唯一の手段は、今すぐ全軍を後退させて空間を犠牲にし、敵の衝撃力を受け流すことだけであった。
・しかし、一介の中佐である彼女には東部方面軍全体を動かす権限も、正規の手続きを踏む時間的猶予もなかった。
・結果としてターニャは、ゼートゥーア大将の過去の防衛計画メモと専用暗号、およびレルゲン大佐の名義を利用した。
・ゼートゥーア大将名義の全面後退命令を偽造して東部方面軍司令部へ発信するという、銃殺刑に直結する禁断の決断(叛逆)を下すに至った。

まとめ

連邦軍の戦略攻勢「黎明」は、属人化された戦術の卓越に依存する帝国軍に対し、システム化された巨大な暴力の奔流で対抗した、大軍による正しい戦争の完成形である。ゼートゥーア大将の読みを完全に外し、帝国のドクトリンの死角を突いたこの一撃は、ターニャに軍律違反という究極の選択を強いるほどの絶望的な破滅をもたらそうとしていた。

帝国軍の防衛計画

『幼女戦記 13』における帝国軍の防衛計画は、長年の成功体験に基づく内線戦略と拠点防衛を前提として構築されていた。しかし、連邦軍の全く新しい戦略攻勢である全縦深同時攻撃を前にして致命的なシステム不全を起こし、崩壊の危機に直面することになる。帝国軍の防衛計画の実態と、その限界、そして破滅を回避するための極端な対抗策は以下の通りである。

伝統的なドクトリン:内線戦略と拠点防御

・帝国軍の防衛計画の根幹は、伝統的な内線戦略に基づいている。
・これは、敵の攻撃を強固な陣地(ストロングホールド)で受け止めて敵を拘束し、その間に機動部隊が来援して反撃に転じ、決戦で勝利するという思想である。
・帝国軍はこの戦い方に特化しており、各級指揮官は自分の持ち場を守り抜けば味方が助けに来るという阿吽の呼吸と、自律的な判断を重んじる委任戦術を徹底的に教育されていた。

防衛計画の致命的な死角:戦略的後退の欠如

・伝統的なドクトリンは自陣営の内線で戦う分には最強であったが、最大の弱点はプランB、すなわち失敗時の代替案の欠如であった。
・勝利を前提としすぎている帝国軍には、戦略的な次元で空間と引き換えに時間を稼ぐ、つまり全軍を大きく後退させるという発想自体が欠落していた。
・各部隊は戦術的な後退はできても、戦略的に戦線を放棄して大きく下がるという概念を持っていなかったのである。

ゼートゥーア大将の極秘計画「払暁」

・東部方面軍の司令部が春以降の敵攻勢を予想して越冬態勢に入る中、ゼートゥーア大将だけは連邦軍の冬季攻勢の可能性を予見していた。
・彼は連邦軍の戦略攻勢「黎明」に対するカウンターとして、極秘に「払暁」という名の防衛計画(防衛計画第四号)を策定し、金庫に封緘して残していた。
・彼はこの計画の機密性を極度に重んじ、敵に準備状況を悟られないよう徹底的に秘匿していた。

計画の崩壊と連邦軍の罠

・連邦軍が100キロ以上の全戦線で同時に攻撃を仕掛ける全縦深同時攻撃(黎明)を開始すると、帝国軍のドクトリンは最悪の形で裏目に出る。
・猛烈な砲撃を受けた帝国の各前線部隊は、自分たちの担当地域こそが敵の主攻点であると誤認し、マニュアル通りに陣地に立て籠もって死守し、救援を待つという選択をしてしまう。
・しかし、全戦線が主攻である連邦軍の波状攻撃の前では、陣地に籠もることは自ら包囲殲滅の袋のネズミになることを意味していた。
・結果として、帝国軍の正しい反応こそが、連邦軍の罠に嵌まる自殺行為となってしまった。

ターニャの偽造命令による全面後退の強行

・このままでは野戦軍主力が陣地ごとすり潰され、帝国が崩壊すると見抜いたターニャ・フォン・デグレチャフ中佐は、正規の防衛計画や手続きを無視する暴挙に出る。
・彼女はゼートゥーア大将の過去の防衛計画メモと専用暗号を悪用し、ゼートゥーア名義の偽造命令を東部方面軍司令部に発信した。
・その偽造された防衛計画の核心は、既存の防御陣地に拘泥せず、直ちに全戦線を戦略次元で後退させ、空間を犠牲にして敵の衝撃力を受け流すという、死守命令の禁止であった。

まとめ

帝国軍の本来の防衛計画は、過去の成功体験という呪縛によって硬直化していた。国家の全滅を防ぐためには、本来は規律を重んじるはずのターニャが、銃殺刑を覚悟でゼートゥーア大将名義の命令を偽造し、強引に戦略的撤退へ方針を転換させるしかなかったのである。この防衛計画の不全は、硬直化した組織が直面する破滅と、それを打破するための超法規的措置の必要性を浮き彫りにしている。

戦場における合理性

『幼女戦記 13』において、戦場における合理性とは、国家のドクトリンや個人の生存戦略が激しく衝突し、極限状況下では平時の常識やルールすらも破壊する両刃の剣として描かれている。物語では、連邦軍、帝国軍、そしてターニャそれぞれの合理性が交錯し、致命的な結果をもたらす。

連邦軍の合理性:システムと物量による王道の暴力

・連邦軍の戦略攻勢「黎明」を立案したクトゥズ大将は、帝国軍が得意とする小細工や奇襲といった戦術的な土俵には一切乗らないという合理性を貫いた。
・彼が選んだのは、百キロ単位 of 戦線を全縦深同時攻撃し、無停止進撃と機械化波状攻撃で面制圧するという、単純かつ教科書的な暴力の奔流であった。
・また、連邦軍は魔導師を空を飛ぶエリートではなく、防殻を展開できる頑丈な歩兵(自動車化地上魔導連隊)として割り切って大量投入するという、新たな軍事的合理性を見出した。

帝国軍の合理性の限界:成功体験の呪縛

・帝国軍は伝統的に、内線戦略と現場指揮官の裁量を重んじる委任戦術を、極めて合理的なシステムとして機能させてきた。
・しかし、この属人的で自国内での防衛に特化した組織文化は、総力戦の大消耗によって限界を迎えていた。
・連邦軍の全戦線同時攻撃を受けた際、帝国軍の各前線部隊は、自分たちの持ち場こそが主攻点であると誤認した。
・彼らは、陣地を死守して機動部隊の反撃を待つという、過去の合理的な判断を下してしまった。
・戦略的後退の概念を持たない彼らにとって、これまでの正しい反応は、結果的に自らを包囲殲滅の罠に陥れる自殺行為となった。

ターニャの合理性:冷酷な現実と緊急避難の決断

・ターニャ・フォン・デグレチャフ中佐は、自身を平和で文明的な合理主義者と自負しているが、戦場では残酷な軍事的合理性に直面する。
・バルク大橋の防衛戦では、連邦軍が自軍の補給拠点ごと帝国軍を重砲で吹き飛ばそうとするのを目の当たりにし、かつて帝国軍が行ったアレーヌ市への砲撃と同じ論理だと理解しつつも、その理不尽さを嫌悪した。
・さらに、連邦軍の黎明攻勢による帝国軍全滅の危機を唯一見抜いた彼女は、全軍の即時戦略的後退こそが唯一の合理的な生存策だと判断した。
・しかし、正規の命令系統を通すという組織的合理性にこだわれば、時間的猶予が尽きて破滅することは明白であった。
・その結果、ターニャは己の生命と未来を守る自己保身という究極の合理的判断に基づき、ゼートゥーア大将の名義を偽造するという軍律違反(叛逆)を緊急避難として決断するに至る。

まとめ

戦場における合理性とは、決して単一の正解ではない。連邦軍が王道の暴力で帝国の合理性を粉砕したように、ある状況での最適解が別の状況では命取りになる。ターニャの決断は、平時のルールや手続き的正当性を捨ててでも生き残るという、総力戦の極致における狂気的なまでの合理性の追求を示している。

ターニャの独断専行

『幼女戦記 13』において、ターニャ・フォン・デグレチャフ中佐が下した独断専行は、連邦軍の戦略攻勢「黎明」による帝国軍野戦軍の完全な包囲殲滅を回避するため、上官の名を騙り、軍令を偽造して東部方面軍全体を戦略的後退へと強制的に動かした、前代未聞の叛逆とも言える軍律違反行為である。その背景と決断に至るまでのプロセスは、以下の要素に集約される。

連邦軍の奇襲と帝国軍ドクトリンの致命的欠陥

・連邦軍は冬季に全戦線で同時に攻撃を仕掛ける戦略攻勢「黎明」を開始した。
・帝国軍は敵の本格反攻を春以降と読み違えて越冬態勢に入っていたため、完全な奇襲を受ける形となる。
・猛烈な砲撃を受けた東部方面軍の各部隊は、従来のドクトリンに従い、自分の持ち場を死守して機動部隊の反撃を待つという拠点防衛の選択をした。
・しかし、全縦深同時攻撃と波状攻撃を前提とする連邦軍の前では、陣地に籠もることは自ら包囲されすり潰されるだけの自殺行為であった。

時間切れの危機と正規ルートの限界

・野戦軍の全滅、ひいては帝国の敗北を回避する唯一の道は、既存の防御陣地に拘泥せず、直ちに全戦線を戦略次元で後退させ、空間を犠牲にして敵の衝撃力を受け流すことだけであった。
・しかし、一介の中佐であるターニャには東部方面軍全体を動かす権限はなかった。
・参謀本部やゼートゥーア大将を経由して正規のルートで意見具申や説得を行えば、官僚機構の処理や通信の混乱によって時間がかかりすぎ、その間に野戦軍は壊滅して手遅れになってしまう状況であった。

緊急避難としての命令偽造の決意

・善良で規則を重んじる組織人を自負するターニャにとって、命令の偽造は銃殺刑に直結する禁断の逸脱行為であった。
・しかし、帝国が滅びて自身の生命や財産、キャリアが失われ、自由のない全体主義国家である連邦の支配下に落ちることは絶対に許容できなかった。
・ターニャは、この暴挙を隣家が火事になったからホースを引っ張り出す程度の緊急避難であると自己正当化し、自身の未来を守るための自己防衛として腹を括った。

偽造のロジックと事後承認への布石

・東部方面軍を騙して動かすため、ターニャは、ゼートゥーア大将がかつて東部方面軍の金庫に残した防衛計画(第四号)のメモと、自身の部隊が保持していたゼートゥーア大将直属護衛部隊としての専用暗号を悪用した。
・これに、事前に権限を委託すると明言していたレルゲン大佐の名義を補強として加え、ゼートゥーア大将名義の「死守命令の禁止」と「全面後退」を命じる偽造命令を発信した。
・同時に、失敗すれば銃殺刑となるこの行為を、過去のアメリカ海軍におけるブルース・マッカンドレスの事例のように、結果的に合理的であったと事後に追認させるための段取りを整えた。
・ターニャはグランツ中尉を超長距離飛行の将校伝令として帝都へ飛ばし、ゼートゥーア大将へ直接事情を説明させるという布石を打った。

責任の単独引き受けと部下たちの同意

・ターニャは部下であるヴァイス少佐、セレブリャコーフ中尉、グランツ中尉に対し、この命令偽造が完全な独断専行であり、全責任は自分が負うため部下には一切責任を負わせないと宣言した。
・このターニャの覚悟と、軍が全滅の危機にあるという論理的説明を前に、当初は正規の手続きを踏むべきだと激しく反対していたヴァイス少佐もついに納得した。
・部下たちは一丸となって彼女の叛逆を支える決意を固めた。

まとめ

ターニャの独断専行は、平時のルールや手続き的正当性に拘泥していては破滅を免れない極限の総力戦において、合理的な現実主義者が自己保身と生存のために選んだ究極の「合理的な狂気」と言える。

帝国軍組織の構造的欠陥

『幼女戦記 13』において、帝国軍組織の構造的欠陥は、長引く総力戦によって限界に達し、連邦軍の戦略攻勢「黎明」の前に国家崩壊の危機を招く決定的な要因として描かれている。その欠陥は、過去の成功体験に基づく硬直化と、エリート前提の属人的なシステムに集約される。帝国軍が抱える致命的な組織的欠陥について、以下の通り整理する。

内線戦略への過度な依存とプランBの欠如

・帝国軍の防衛ドクトリンは、伝統的に「自分の庭」で戦う内線戦略に特化している。
・これは、前線の強固な陣地で敵を受け止めて拘束し、その間に機動部隊が来援して反撃に転じるという思想である。
・この戦い方において帝国軍は最強であったが、最大の弱点は失敗時の代替案であるプランBが欠落していることであった。
・各級指揮官は「持ち場を守り抜けば味方が助けに来る」と教育されているため、戦略的に後退して空間と引き換えに時間を稼ぐという発想自体を持っていなかった。
・そのため、連邦軍が百キロ単位の全戦線で同時攻撃を仕掛けてきた際にも、帝国軍は「自分の持ち場こそが主攻点だ」と誤認し、マニュアル通りに陣地に籠もって死守する選択をしてしまい、結果として自ら包囲殲滅の罠に陥ってしまった。

少数精鋭主義と委任戦術の限界

・参謀本部の作戦立案能力は極端な少数精鋭主義に支えられており、作戦は大枠のみで細部は実行者の裁量に委ねる委任戦術を前提としている。
・いちいち上司が細部を監督せずとも、各指揮官が阿吽の呼吸で大目標のために自律的に動くこの仕組みは、平時や気心の知れたエリート間では最強のシステムであった。
・しかし、総力戦によって人的消耗が激化し、新兵や速成士官を泥縄式で補充しなければならない現状では、この高度な相互理解を前提とした組織文化は機能不全を起こしている。
・優秀な管理職が現場のプレイヤーを兼任して無茶なフォローをして回るという、属人的で過酷な運用が常態化しており、組織としての持続性を失っていた。

魔導師へのマルチロール強要と兵科運用の硬直化

・帝国軍は航空魔導師に対し、あらゆる任務をこなせる万能性であるマルチロールを要求して憚らない。
・そのため、育成に多大な時間を要し、総力戦下では補充が追いつかず常に定数割れと過労に悩まされている。
・一方で連邦軍は、航空適性の低い魔導資質持ちを「防殻を展開する頑丈な歩兵」と割り切り、大量動員して自動車化地上魔導連隊を編成するという発想の転換を行った。
・帝国軍は「魔導師は空を飛んでこそ」という固定観念に縛られており、単機能で育成が容易な形に基準を落として戦力化するという柔軟な対応ができない構造になっている。

官僚主義と縄張り争いの蔓延

・組織の縦割りや官僚主義も、迅速な対応を阻害している。
・参謀本部直属のサラマンダー戦闘団が東部方面軍司令部付近に展開した際、所属の違いによる縄張り意識から、執拗な敵味方識別の照会を受けるなど無駄な手続きを強いられた。
・また、アレクサンドラ皇女の最前線視察という政治的な意向に対し、現場の危険性を認識しつつも制度上正面から拒絶できないなど、宮中や上層部との間にも硬直した関係が存在している。

まとめ

帝国軍の構造的欠陥とは、かつて機能していたエリート主義や高度な戦術的裁量が、総力戦という巨大な消耗戦に適合できなくなったことにある。現場の属人的な努力で戦略的失敗を補うことには限界があり、システム化された連邦軍の大軍による暴力の前に、帝国軍の旧態依然とした組織構造は野戦軍全滅の危機を招くことになった。

魔導師兵科の限界と変質

『幼女戦記 13』において、魔導師兵科は「空を舞う少数精鋭のエリート」から、総力戦の大消耗に適応するための「地上を這う消耗品」へと変質していく過渡期、すなわち「魔導師の黄昏」として描かれている。その限界と変質の実態は、以下の要素に集約される。

航空魔導師の完成と総力戦における限界

・近代魔導技術を実用化した帝国軍において、魔導師は火力、防御力、機動力を兼ね備え、歩兵並みの補給で済む便利な万能の痛み止めとして重宝されてきた。

・当初は飛べる歩兵として想定されていたが、帝国軍が飛べるなら色々やれと無茶を要求した結果、あらゆる任務をこなす究極のマルチロール兵科である航空魔導師として完成した。

・しかし、航空魔導師は高度な適性と長期間の教育が必要であり、総力戦による激しい損耗に補充が全く追いつかない。

・すべての魔導師に万能性を求める帝国の運用思想は、人的資源の枯渇によって完全に限界を迎えていた。

・さらに帝国は資源不足から、機動性を犠牲にして防御力のみを強化した訓練用改修宝珠(一〇五式)を実戦投入せざるを得ないなど、兵器の質的低下も深刻化している。

連邦軍による飛べない魔導師の再発見

・消耗戦の果てに、帝国と連邦は飛べない魔導師でも魔導師であるという事実に直面する。

・特に連邦軍は魔導師=航空魔導師という固定観念にとらわれず、航空適性の低い魔導資質持ちを大量動員して宝珠を持たせ、自動車化地上魔導連隊として編成する構想へ至った。

・これは空を飛ぶことを諦め、防御膜や防殻による装甲と、歩兵火器以上の火力を持った強い歩兵(移動砲兵)として機械化部隊に随伴させる運用である。

戦略的合理性と新たな脅威

・ターニャら熟練 of 航空魔導師から見れば、魔導反応を垂れ流し、防殻すら満足に展開できず地上を逃げ惑う連邦軍の促成魔導師は単なる鴨(カモ)でしかない。

・しかし、一般の歩兵からすれば、小銃弾を弾き戦車並みの火力を持ち歩く彼らは極めて厄介な脅威となる。

・何より、連邦軍の最低限の機能だけを詰め込んで大量動員するという割り切った運用は、育成が容易で数を揃えやすいという点で、戦略的には極めて合理的であった。

・ターニャは、この発想の転換が数に劣る帝国にとって致命的な脅威になり得ると危機感を抱いている。

帝国軍内部での運用変質

・帝国軍側でも、ヴァイス少佐の発案により、魔導資質を持つ歩兵に簡易型の一〇五式を装備させ、大量の魔導反応をわざと垂れ流すことで敵の索敵網を飽和させるデコイ(陽動)としての運用が考案された。

・ターニャもこの着想を高く評価し、即座に実証実験を行っている。

まとめ

魔導師兵科の限界と変質とは、戦術レベルでの個人の卓越した技量(マルチロール)への依存が総力戦の物量と消耗の前に破綻した結果である。兵科の存続を賭け、魔導師は誇り高き空のエリートから、欺瞞のための囮や、機械化部隊の盾となる地上兵力の一部という、より泥臭く合理的な姿へと否応なく姿を変えつつある。

幼女戦記 12巻レビュー
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幼女戦記 14巻レビュー

登場キャラクター

帝国

ターニャ・フォン・デグレチャフ

善良な合理性の信奉者を自負する魔導師である。ゼートゥーア大将の意図を正確に読み取り、部下の安全や自身のキャリアを重視する。連邦軍の「黎明」がもたらす破局を唯一見抜いた存在となる。

・所属組織、地位や役職
 帝国軍参謀本部直属、第二〇三航空魔導大隊指揮官。サラマンダー戦闘団の指揮官。中佐。
・物語内での具体的な行動や成果
 連邦軍の全面攻勢に対し、帝国軍のドクトリンが致命的な結果を招くことを看破した。軍主力全滅の危機を回避するため、ゼートゥーア大将名義の偽造命令による全軍の即時後退を立案し、発令した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 銃殺刑のリスクを承知の上で、軍の指揮系統を揺るがす命令偽造という決断を下した。

ハンス・フォン・ゼートゥーア

帝国の作戦指導を担う冷徹な戦略家である。自己を暴力装置として特化させ、必要とあらば世界の敵となる覚悟を固めている。帝国というシステムそのものへ変質しつつあると評される。

・所属組織、地位や役職
 帝国軍参謀本部、戦務参謀次長(作戦参謀次長と実質的な参謀総長役を兼任)。大将。
・物語内での具体的な行動や成果
 連邦軍の冬季攻勢の発動時期を読み違えた失策を自覚した。宮中新年会へ出席し、人々の不安を和らげるため勝利を確信する軍人を演じきった。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 帝国軍において実質的な全権を掌握している。

グランツ

第二〇三航空魔導大隊の魔導将校である。上官の命令に忠実であり、非常時でも状況を理解する柔軟さを持つ。

・所属組織、地位や役職
 帝国軍、第二〇三航空魔導大隊。中尉。
・物語内での具体的な行動や成果
 夜間挺身偵察において、連邦軍の大規模車列を発見した。ターニャから偽造命令の事後承認を得るため、帝都のゼートゥーアのもとへ超長距離飛行による伝令を命じられた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 かつてゼートゥーア直属護衛部隊を務めた経験から有効な専用暗号を保持しており、ターニャの命令偽造計画において重要な役割を担うこととなった。

ヴァイス

ターニャを補佐する副長である。真面目で規則を重んじる軍人であり、部下の指導も適切に行う。

・所属組織、地位や役職
 帝国軍、第二〇三航空魔導大隊副長。少佐。
・物語内での具体的な行動や成果
 簡易型宝珠を多数展開して魔導反応のデコイとする偽装戦術を立案した。ターニャの命令偽造計画に最初は反対したが、最終的に同意して協力を誓った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 ターニャ不在時には戦闘団の指揮を任されている。

セレブリャコーフ

ターニャの副官である。事務処理能力に優れ、上官と深い信頼関係を築いている。

・所属組織、地位や役職
 帝国軍、第二〇三航空魔導大隊副官。中尉。
・物語内での具体的な行動や成果
 実証実験中に詳細なメモを作成し、そのまま報告書として提出可能な水準に仕上げていた。ターニャの命令偽造計画にいち早く同意を示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 ライン戦線時代からターニャとペアを組み続けている。

コンラート

帝国外務省の高級官僚である。皮肉屋でありながら、現実を直視する冷静な視点を持つ。

・所属組織、地位や役職
 帝国外務省、参事官。
・物語内での具体的な行動や成果
 宮中新年会で中立国外交官を巧みに牽制した。ゼートゥーアから「黎明は近い。されど、払暁あり」と書かれたナプキンを手渡された。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 ゼートゥーアが単なる軍人ではなく、帝国システムそのものへ変質していることに気づき戦慄した。

ルーデルドルフ

ゼートゥーアの良き友人であった。強引な性質を好む傾向があった。

・所属組織、地位や役職
 帝国軍参謀本部、作戦参謀次長。大将。
・物語内での具体的な行動や成果
 故人であり、本編での直接的な登場はしていない。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 彼が遺した葉巻をゼートゥーアが愛用している。

トルム

帝国に代々在住する旧大陸貴族である。帝国国籍を持たないが、帝国と運命共同体的な立ち位置にある。

・所属組織、地位や役職
 名誉領事。侯爵。
・物語内での具体的な行動や成果
 宮中新年会でコンラートを私室に招き入れた。ゼートゥーアが倒れた後、帝国がどうなるのかという疑問を提示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 彼の発言が、コンラートへゼートゥーアの異常性を自覚させる契機となった。

トルムの妻

トルム名誉領事の妻である。上品な態度で夫の行動を補助する。

・所属組織、地位や役職
 記載なし(トルム名誉領事の妻)。
・物語内での具体的な行動や成果
 新年会でコンラートに対し、自領の紅茶を勧めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 夫とともにコンラートを宮中の私室へ案内した。

ウーガ

鉄道輸送などを担当する後方部門の優秀な軍事官僚である。レルゲンとともにゼートゥーアを補佐している。

・所属組織、地位や役職
 帝国軍、大佐。
・物語内での具体的な行動や成果
 サラマンダー戦闘団の東部再展開にあたり、車両の手配や移送実験の手続きを行った。東部方面軍からの緊急通信をゼートゥーアの執務室へ持ち込んだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 ターニャの部隊への兵站支援を約束している。

レルゲン

参謀本部のエリート軍人である。軍の現状を熟知し、ターニャの実力を高く評価している。

・所属組織、地位や役職
 帝国軍参謀本部、作戦課長。大佐。
・物語内での具体的な行動や成果
 ゼートゥーアの威圧感が薄れていることに恐怖を感じていた。サラマンダー戦闘団の便宜を図るため、自らの名義を使用することをターニャに許可した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 皇女の視察を阻止する目的で、ターニャへ連邦軍の脅威を強調する報告書の作成を依頼した。

ヨハン・フォン・ラウドン

厳格な性格の老軍人である。かつてゼートゥーアの上司であった。

・所属組織、地位や役職
 帝国軍東部方面軍、司令官。大将。
・物語内での具体的な行動や成果
 東部方面軍司令官として着任し、現地の引き締めやパルチザン掃討を行った。連邦軍の攻勢開始時に消息不明となった。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 予備役から現役復帰し、ゼートゥーアの指名で東部方面軍司令官に就任した。

アレクサンドラ

皇帝の末女である。真面目で義務感が強い。

・所属組織、地位や役職
 第二十三親衛近衛連隊、連隊長。陸軍大佐。皇女。
・物語内での具体的な行動や成果
 最前線の視察を強く希望した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 彼女の意向を軍は制度上拒絶できず、ターニャの戦略偵察のきっかけを生み出した。

ヴュステマン

補充魔導中隊を率いる若手将校である。真面目な気質で、状況を客観的に報告する能力を持つ。

・所属組織、地位や役職
 帝国軍、第二〇三航空魔導大隊の中隊長。中尉。
・物語内での具体的な行動や成果
 後方エリアのパルチザン鎮静化と街道整備の状況を報告した。連邦軍の機械化魔導部隊に対する襲撃で先陣を務めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 ターニャから一人前の指揮官として評価されている。

アーレンス

サラマンダー戦闘団の機甲部隊指揮官である。

・所属組織、地位や役職
 帝国軍、サラマンダー戦闘団の機甲部隊指揮官。大尉。
・物語内での具体的な行動や成果
 戦車隊の整備不良に対処するため後方に残った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 稼働可能な戦車が3両まで減少しており、前線での運用が困難になっている。

メーベルト

サラマンダー戦闘団の砲兵部隊指揮官である。物資調達能力に長けている。

・所属組織、地位や役職
 帝国軍、サラマンダー戦闘団の砲兵部隊指揮官。大尉。
・物語内での具体的な行動や成果
 ターニャ不在時の留守指揮官を務めた。東部方面軍司令部の主計からココアを手配し、部下に振る舞った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 極端な弾薬不足に苦心している。

トスパン

サラマンダー戦闘団の歩兵部隊指揮官である。指示を正確に実行する能力を持つ。

・所属組織、地位や役職
 帝国軍、サラマンダー戦闘団の歩兵部隊指揮官。中尉。
・物語内での具体的な行動や成果
 宿営地を普通の村落に見せかける入念な偽装工作を行った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 グランツと協力して訓練計画を立案するなど、指揮官として成長している。

シューゲル

エレニウム工廠の主任技師である。

・所属組織、地位や役職
 エレニウム工廠、主任技師。
・物語内での具体的な行動や成果
 九十七式突撃機動演算宝珠を開発した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 直接の登場はないが、彼の開発した宝珠がターニャたちに運用されている。

ロメール

帝国軍の将軍である。

・所属組織、地位や役職
 帝国軍、将軍。
・物語内での具体的な行動や成果
 直接の登場はしていない。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 ターニャがかつて彼のもとで過酷な勤務を経験したことを回想している。

皇帝

帝国の最高権力者である。

・所属組織、地位や役職
 帝国、皇帝。
・物語内での具体的な行動や成果
 アレクサンドラ皇女の現地視察を許可する発言をした。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 彼の発言により、皇女の視察が勅命として扱われることになった。

皇弟

現皇帝の弟である。

・所属組織、地位や役職
 第三親衛師団、師団長。
・物語内での具体的な行動や成果
 直接の登場はない。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 アレクサンドラ皇女が所属する部隊の上官にあたる。

連邦

クトゥズ

連邦軍の戦略攻勢を主導する将軍である。平凡な人物を装いながらも、手堅く確実な作戦を立案する。

・所属組織、地位や役職
 連邦軍、大将。
・物語内での具体的な行動や成果
 戦略攻勢「黎明」の立案者として、二百キロ進撃案と六百キロ進撃案を提示した。ゼートゥーアの策略を警戒し、予備兵力の重要性を主張した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 彼の計画は党中央から高く評価され、六百キロ進撃案が採用された。

ロリヤ

連邦の秘密警察を束ねる高官である。軍の作戦を後方から強力に支援する。

・所属組織、地位や役職
 連邦、内務人民委員部トップ。
・物語内での具体的な行動や成果
 帝国軍の機甲師団がイルドア方面で越冬中であるという諜報情報を提供した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 軍の作戦を妨害せず側面支援を行うという、連邦の権力構造において異例の協力体制を築いている。

書記長

連邦の最高指導者である。戦略的な決断を下す権限を持つ。

・所属組織、地位や役職
 連邦、共産党書記長。
・物語内での具体的な行動や成果
 最高司令部での会議において、クトゥズの六百キロ進撃案を承認した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 軍事作戦の最終決定権を握り、連邦の意思を決定づけた。

連合王国

ハーバーグラム

連合王国情報部の幹部である。冷静に国際情勢を分析する。

・所属組織、地位や役職
 連合王国情報部、部長。
・物語内での具体的な行動や成果
 連邦軍の戦略攻勢「黎明」の存在を把握し、帝国軍がそれを察知できていないと分析した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 連邦の独走を警戒しつつも、帝国軍への警告を行わない決定を下した。

ジョンソン

連合王国の情報部員である。上司であるハーバーグラムとともに行動する。

・所属組織、地位や役職
 連合王国情報部、部員。
・物語内での具体的な行動や成果
 連邦軍の欺瞞工作を評価し、帝国軍への情報リークを提案したが却下された。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 連邦が戦略的勝利を収めるだろうと予測した。

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展開まとめ

第零章 プロローグ

統一暦一九二八年一月十五日 参謀本部

ゼートゥーアの歓喜

統一暦一九二八年一月十五日、参謀本部にいたハンス・フォン・ゼートゥーア大将は、かつてないほどの高揚感に包まれていた。

新年以降、閉塞感と重圧に押し潰されそうになりながらも、帝国のため参謀将校として戦い続けてきたゼートゥーアは、この瞬間ついに活路を見出したのである。彼は自らを「大魔王ゼートゥーア」と称するに等しい覚悟で、世界全体を敵に回してでも帝国を存続させようとしていた。

その中で掴み取った希望は細い糸のようなものであったが、それでも破局へ向かう状況を覆し得る最後の一手であると確信していた。

己の失策への自覚

ゼートゥーアは、現在の危機を招いた原因が自身の判断ミスにあることを認めていた。

彼は連邦軍の戦略攻勢の時期を読み違え、さらにアライアンスから連邦への物的支援を過小評価していた。その結果、帝国は破滅寸前まで追い詰められていたのである。

それでもなお、崖際で奇跡のような可能性を掴み取れたことに、ゼートゥーアは神意とも人智ともつかぬ感慨を抱いていた。神に見放されたわけではないと考えつつも、その言葉を素直に信じられない現実への皮肉も滲ませていた。

グランツ中尉への異様な寛容

最前線から戻ったグランツ中尉は、ゼートゥーアの異常な上機嫌に困惑していた。

ゼートゥーアは、中尉の疲弊した表情を見ても怒ることなく、むしろ優しく肩を叩き、休息や酒まで勧めるほど寛容な態度を見せた。普段は参謀将校へ苛烈な要求を突きつける彼にしては異例の振る舞いであり、その歓喜の大きさがうかがえた。

一方のグランツ中尉は、帝国存亡の危機の中で突然笑い始めた上官を見て、ゼートゥーアが正気を失ったのではないかと本気で危惧していた。

世界に勝てるという確信

グランツ中尉の反応を見たゼートゥーアは、ようやく自分が浮かれ過ぎていたことを自覚した。

それでも彼は、自分は壊れていないと笑いながら語り、中尉からもたらされた知らせへ深い感謝を示した。そして、その情報によって、自分は世界を相手に勝てると確信できたのだと断言した。

長く苦悩し続けてきたゼートゥーアにとって、その瞬間は心の底から笑えるほどの歓喜の時であった。

戦後

東側による公式評価

東側陣営は、連邦軍による戦略攻勢「黎明」を、同盟諸国を救援するための正当な犠牲であったと位置付けていた。

一九二七年末、帝国軍は「アライアンス南方」で軍事活動を活発化させ、連邦軍主力を誘引しようとしていた。東側はこれをゼートゥーアによる罠だと理解しつつも、同盟国を見捨てることは国際信義と民主的連帯に反すると判断したのである。

その結果、連邦軍は戦略的犠牲を覚悟した上で、一九二八年一月に戦略攻勢「黎明」を発動した。帝国軍の激しい抵抗によって大きな損害を被ったものの、ゼートゥーア率いる帝国軍を押し込み、アライアンス南方へのさらなる圧力を不可能にしたと評価していた。

そのため東側では、この戦いを戦術的苦戦を伴った戦略的勝利として位置付けていた。

東側内部での疑念

一方で東側内部では、帝国軍の対応速度に対する強い疑念が広がっていた。

連邦軍の「黎明」は完全な戦略的奇襲であるはずだったにもかかわらず、帝国軍は即座かつ柔軟に対応したのである。軍事専門家たちは、事前情報なしでの対処は不可能だと分析し、情報漏洩の可能性を疑っていた。

さらにゼートゥーアが「がら空きの東部」という状況を意図的に作り出し、連邦軍を誘い込んだのではないかとの見方も浮上していた。しかし、実際には情報漏洩の証拠は見つからなかった。

そのため、一部ではゼートゥーアを悪魔のような存在と捉える声すら上がっていた。また、西側から情報が流れた可能性も疑われていた。

西側による公式評価

西側陣営は、「黎明」を連邦軍の独断専行による失敗として認識していた。

西側の見解では、一九二七年末の時点で帝国軍はアライアンス南方へ戦略予備を集中させており、ゼートゥーア自身も南方へ意識を向けていた。その状況下で、連邦軍はアライアンスとの調整もなく、一九二八年一月に「今次大戦の幕引き」を掲げて攻勢を開始したのである。

奇襲自体には成功したものの、ゼートゥーアの激しい反撃によって連邦軍は衝撃力を失い、得られた成果もわずかな領土に留まった。

そのため西側は、この戦いを戦術的勝利に見えて実際には戦略的敗北だったと結論付けていた。

西側内部でのゼートゥーア評価

西側の非公式見解では、ゼートゥーアの戦略眼に対する畏怖が強く語られていた。

イルドア南部で行われた一連の不可解な軍事行動は、連邦軍を焦らせて「黎明」を発動させるための大規模な陽動作戦だったのではないかと考えられていたのである。

もし最初から連邦軍の衝撃力を削ぐことのみを目的としていたならば、それは極めて高度な戦略的才能の証明であった。

西側では、一九二七年末から一九二八年初頭にかけての戦争は、「黎明」を誘発したゼートゥーアの策謀と、それに対する帝国軍の「払暁」によって決定付けられたと認識されていた。

そのため、多くの者がゼートゥーアは全てを見通していたのではないかと考えており、彼が国際情勢へ与えた影響力の大きさに恐怖を抱いていた。

統一曆一九二八年一月二十一日 バルク大橋

連邦軍砲撃下での防衛戦

ターニャ・フォン・デグレチャフ中佐は、連邦軍が構築した塹壕を占拠した直後から、激しい砲撃に晒されていた。

連邦軍は、自軍の陣地跡ごと帝国軍降下部隊を砲撃で潰そうとしており、塹壕は絶え間なく重砲弾に耕されていた。ターニャは砲弾の飛翔音だけで着弾地点を察知できるほど戦場に適応していたが、それでも戦場に慣れるという事実そのものへ嫌悪感を抱いていた。

彼女は、文明的な思考や平和への願いすら戦場では贅沢品であり、生き残ること以外を考える余裕など存在しない現実を痛感していた。

新兵たちへの叱咤

ターニャは砲撃で地面に伏せたまま動けなくなっている新兵たちを見て、彼らを無理やり前進させていた。

参謀本部によって数合わせとして送り込まれた若い兵士たちは、戦場経験が浅く、恐怖で動けなくなっていた。ターニャは、彼らが未来ある人的資源であると認識していたからこそ、死にたくなければ動けと叱咤し、尻を蹴飛ばしながら前進を促した。

連邦軍工兵隊が築いた塹壕は堅牢であり、皮肉にも元の所有者である連邦軍の砲撃に対しても一定の防御力を発揮していた。その様子を見ながら、ターニャはライン戦線と同じ構図だと苦笑していた。

敵後方への降下作戦

ターニャたちは、敵補給線上の要衝であるバルク大橋周辺へ降下し、補給拠点を制圧していた。

これはゼートゥーアが推進する三次元立体作戦の一環であり、航空魔導師による大規模空挺作戦であった。師団規模の航空魔導師部隊を敵後方へ投入し、補給線を遮断することで連邦軍全体を窒息させる構想である。

軍事的合理性は明白だったが、現場にいるターニャにとっては極めて過酷な任務であった。増援も救援も存在せず、補給拠点を制圧した後は、敵重砲と歩兵の猛攻を耐え続けなければならなかったのである。

合理性と残酷さへの嫌悪

ターニャは、この作戦が極めて合理的である一方、同時に理不尽でもあると感じていた。

連邦軍は、自軍の補給拠点ごと砲撃で吹き飛ばすことを躊躇わず、補給物資や設備すら犠牲にして帝国軍降下部隊を潰そうとしていた。ターニャは、その徹底した合理性に対し、かつて帝国軍がアレーヌ市へ砲撃を行った時と同じ構図だと理解していた。

軍事的合理性がある以上、自国領であっても砲撃対象になる。理解はできても、文明人としては残酷だと感じずにはいられなかったのである。

壕で見つけた援助物資

激しい砲撃の最中、ターニャは壕の底で瓶入り炭酸飲料を発見した。

それは合州国から連邦へ送られた援助物資であり、連邦軍兵士が備蓄していた物だった。周囲では弾薬や燃料、食糧までもが砲撃で吹き飛ばされ、戦場はクレーターと残骸だらけの地獄と化していた。

そんな中でもターニャは、せめて資本主義の味くらい楽しむべきだと考え、副官のセレブリャコーフ中尉へ飲料を勧めた。だが、その直後に榴弾が炸裂し、瓶は破壊され、中身は壕の底へぶちまけられてしまった。

戦争への嫌悪

ジュースを台無しにされたターニャは、共産主義者には分配精神がないと皮肉を飛ばしつつ、新しい瓶を開けて副官と飲み始めた。

空には絶え間なく砲弾と照明弾が飛び交い、近いうちに煙幕弾による突撃支援まで始まるだろうと予測していた。戦場は泥と砲撃と死体に満ち、優雅さとは無縁の地獄であった。

その中でターニャは、戦争そのものを心底嫌悪していた。同時に、その戦争を楽しげに推進するゼートゥーアのような上官についても、どうかしていると感じていた。

第壱章 斜陽

統一暦一九二八年一月一日 帝都

宮中新年会への出席

統一暦一九二八年一月一日、帝都では宮中新年会が開かれていた。

外務省参事官コンラートは、高級官僚としての義務から不本意ながら出席していた。戦時下にもかかわらず、豪奢な宴が開かれている現実に嫌悪感を抱きながらも、官僚として社交をこなしていたのである。

同じくハンス・フォン・ゼートゥーア大将も、新年会への出席を余儀なくされていた。彼は帝国の現状を誰より理解していたため、国家の命脈が尽きかけている最中に開かれる華美な宴へ強い不快感を覚えていた。しかし同時に、人々の不安を払拭するためには、こうした催しも必要であると理解していた。

帝国を演じるゼートゥーア

新年会場は、戦況とは正反対の華やかさに満ちていた。

煌びやかなドレス、宝石、シャンデリア、上質な酒、笑い声。そこには戦争の影を忘れさせる空気が広がっていた。ゼートゥーア自身も完璧な第一種礼装と勲章を纏い、理想的な帝国軍大将として振る舞っていた。

しかしその実態は、帝国中が抱える不安を抑え込むための演技であった。人々は彼へ勝利を求め、救済を期待していた。ゼートゥーアは、自らが希望を象徴する存在として振る舞うしかないことを理解していたのである。

勝利への期待を向けられるたび、彼は笑顔で応じ、「我々の勝利に」と乾杯を掲げ続けていた。

コンラートによる外交戦

コンラートは会場内で、中立国外交官たちがゼートゥーアへ接近していることに気づいていた。

彼らは帝国の実務責任者であるゼートゥーアから情報を探ろうとしており、コンラートは外交官として彼らを牽制し始めた。シャンパンを巡る軽妙な会話の裏で、双方は帝国の物資事情や戦況を探り合っていた。

その後、コンラートはゼートゥーアと合流し、形式的な挨拶と乾杯を交わした。ゼートゥーアはナプキンへ「黎明は近い。されど、払暁あり」と書き残し、コンラートへ手渡した。

その言葉には、連邦軍の攻勢と、それに対する帝国側の反撃への確信が込められていた。コンラートは、その短い言葉からゼートゥーアの異様な覚悟を感じ取っていた。

トルム名誉領事の疑問

その後、コンラートはトルム名誉領事夫妻に招かれ、宮中の私室へ案内された。

トルム夫妻は帝国国籍を持たない旧大陸貴族でありながら、帝室と深い関係を持つ特殊な立場の存在であった。彼らはコンラートへ、ゼートゥーア本人ではなく、「ゼートゥーアの後」について尋ねた。

最初、コンラートは後継人事の話だと考えていた。しかしトルム名誉領事が本当に問いたかったのは、ゼートゥーアが倒れた時、帝国そのものがどうなるのかという問題だった。

その問いを受けた瞬間、コンラートは外部の人間が既にゼートゥーアを「帝国そのもの」と見始めている現実に気づかされたのである。

システム化したゼートゥーア

外務省へ戻ったコンラートは、衝撃のあまり酒を煽りながら思考を整理していた。

彼はターニャ・フォン・デグレチャフ中佐の異常性については、まだ「理解不能な天才」の範疇で捉えていた。しかしゼートゥーアは違っていた。

コンラートは、ゼートゥーアが単なる優秀な軍人ではなく、「人の皮を被ったシステム」へ変質していると悟ったのである。

本来、人間は国家システムの一部にはなれても、システムそのものにはなれない。だがゼートゥーアは、参謀本部を支点として帝国そのものへ融合し始めていた。

そして世界までもが、「ゼートゥーア=帝国」と認識し始めていたのである。コンラートは、その異常性へ恐怖しながらも、それが帝国を救う可能性にもなり得ると感じていた。

ゼートゥーアの疲弊と覚悟

新年会を終え、参謀本部へ戻ったゼートゥーアは、人目のない部屋でようやく疲労を露わにした。

彼は葉巻を燻らせながら、自分自身が参謀本部と融合し、帝国の戦争遂行システムそのものになりつつあることを自覚していた。

総力戦の継続によって国家と軍の境界は溶解し、参謀本部が帝国を代替する存在になり始めていた。その中心にいるゼートゥーア自身も、もはや帝国や帝室へ忠誠を誓う一軍人ではなくなっていたのである。

彼は、自分が世界を欺くための「象徴」になろうとしていることを理解していた。帝国を守るためには、軍事だけでなく、敗北すら利用し、あらゆる手段を選択肢へ組み込まねばならないと悟っていた。

そしてゼートゥーアは、自らが世界の敵となる覚悟を固めながら、それでも勝たねばならないと静かに決意していた。

第弐章 砂上の楼閣

ドキュメンタリー『ゼートゥーア大将の決断/再現映像』

戦後に発見されたゼートゥーアのメモ

戦後、大戦研究には多くの謎が残されていた。特に東部戦線に関しては資料の散逸が激しく、関係者証言も食い違いが多かった。

そんな中、元帝国外務高官の金庫から一枚のメモが発見された。資料整理を依頼されたロンディニウム大学研究チームによって見出されたそれは、ゼートゥーア大将直筆のメモだったのである。

以前から、新年会の席上でゼートゥーアが外務官僚へ何らかのメモを渡したという証言自体は知られていた。しかし、その内容は不明であり、単なる挨拶程度だろうと軽視されていた。

ところが、実際に発見されたメモには「黎明は近い。されど、払暁あり」と記されていたのである。筆跡やインク、ナプキン紙に至るまで徹底的な鑑定が行われ、偽造の証拠は確認されなかった。

「黎明」と「払暁」の意味

この短い文章は、後世の研究者に衝撃を与えた。

「黎明」は連邦軍による戦略攻勢の名称であり、「払暁」はそれに対抗する帝国軍防衛作戦の通称だったからである。

従来、「払暁」は連邦軍の奇襲を受けた後、ゼートゥーアが緊急立案した防衛計画だと考えられていた。そのため、「黎明」と「払暁」の名称の類似も偶然と解釈されていた。

しかし、新年会の時点でゼートゥーア本人が既にその言葉を書き残していたとなれば、彼は事前に連邦軍の攻勢を察知していた可能性が浮上したのである。

連邦軍攻勢を誘導したゼートゥーア

再現映像では、統一暦一九二八年一月二日、参謀本部での会議が描かれていた。

ゼートゥーアは、連邦軍が冬季攻勢へ出ると断言していた。帝国軍がイルドア方面へ大規模な人員・物資移動を行ったことで、東部戦線に隙を見せていたからである。

彼は、泥濘期前のこの瞬間しか連邦軍に好機は存在しないと分析していた。そして、その好機を利用するよう、わざと帝国側の脆弱さを演出していたのである。

ゼートゥーアは、自分自身が連邦軍の背中を押したのだと語り、敵軍を意図的に誘導していることを隠そうともしなかった。

時間との勝負

しかしゼートゥーアは、帝国側にも時間的余裕がないことを理解していた。

もし連邦軍が今攻勢へ出なければ、春季までに圧倒的物量を整えた上で本格侵攻してくる可能性が高かった。その場合、帝国防衛線は耐え切れない。

だからこそ、今この瞬間に攻勢を仕掛けてもらわなければ困ると彼は考えていたのである。

そのため、防衛計画「払暁」は徹底的に秘匿されていた。待ち構えていることを悟られれば、連邦軍が動かなくなる可能性があったからである。

新年休暇の意味

ゼートゥーアは会議の最後、参謀将校たちへ短い休暇を与えた。

従来の研究では、この判断は「連邦軍はまだ動かない」と帝国側が誤認していた証拠と解釈されていた。しかし新説では逆に、ゼートゥーアが攻勢時期を正確に読み切っていたからこその余裕だったと考えられている。

彼は、近く決戦が訪れることを理解しつつも、「私ある限り、帝国はまず負けん」と断言していた。

そして共産主義者へ、イデオロギーを超越する現実を再び教えてやると語り、自らの勝利への確信を示していた。

統一暦一九二八年一月二日 参謀本部

連邦軍攻勢への不安

参謀本部では、東部へ再派遣されるサラマンダー戦闘団の指揮官たちを前に、ゼートゥーア大将が現状認識を語っていた。

彼は、連邦軍による冬季攻勢の可能性は低いと分析しつつも、完全には否定できないと認めていた。イルドア方面へ大規模な兵力転用を行ったことで、東部には明確な隙が生じている以上、連邦軍がそこを狙う可能性は常に存在していたのである。

ゼートゥーアは、連邦軍はイルドアでの敗北によって慎重になっていると語り、勝算が確実になるまでは動かないだろうと推測していた。しかし同時に、もし敵が乾坤一擲の賭けに出れば、帝国は極めて危険な立場に置かれるとも理解していた。

東部防衛計画への懸念

ゼートゥーアは、防衛計画の徹底秘匿を命じていた。

東部在任時に封緘していた計画は、あくまで研究段階の概略に過ぎず、本格的な防衛計画としては不十分だった。そのため、敵へ帝国軍の準備不足を悟られる前に計画を整えなければならなかったのである。

ターニャは、ゼートゥーアが具体策を明示しないことへ違和感を覚えていた。しかし彼は、「私ある限り帝国はまず負けん」とだけ告げ、共産主義者へ再び現実を教えてやると断言した。

その疲弊した様子を見たターニャたちは、ゼートゥーアが極限状態にあることを感じ取っていた。

参謀たちの違和感

会議後、レルゲン大佐とウーガ大佐は、ターニャを茶席へ誘った。

そこで二人は、最近のゼートゥーアが「怖くない」と感じることへ不安を抱いていると打ち明けた。以前のゼートゥーアには、人間離れした威圧感や恐怖が存在していた。しかし今は、それが薄れているのである。

ターニャも、東部情勢について語るゼートゥーアから、かつての鋭さが微妙に失われている印象を受けていた。

ウーガは、その原因を過労だと推測していた。ゼートゥーアは作戦参謀次長、戦務参謀次長、さらに実質的な参謀総長役まで兼任し、イルドアでは最前線で指揮まで執っていた。その上、宮中新年会では帝国軍の顔として各方面との折衝まで行っていたのである。

帝国軍組織の欠陥

茶席では、帝国軍組織そのものの問題点についても議論が交わされた。

レルゲンは、帝国軍参謀本部が極端な少数精鋭主義で成り立っていると説明した。帝国軍は、現場指揮官の裁量と能力を重視する「委任戦術」に特化しており、詳細なマニュアルよりも、指揮官同士の阿吽の呼吸へ依存していた。

平時や内線戦略では極めて有効な仕組みであったが、総力戦による人的損耗が激化した現状では限界が露呈していた。大量動員された新任士官や即席指揮官たちへ、帝国軍特有の組織文化を十分教育できていなかったのである。

そのため、組織全体が属人的運用へ過度に依存する状況となっていた。ゼートゥーア自身が前線へ赴き続けた理由も、その欠陥を補うためだった。彼自身が現場へ出て直接意図を示さなければ、組織が機能しなくなりつつあったのである。

疲弊する帝国軍

レルゲンとウーガは、帝国軍全体が人的・物的に限界へ近づいていることも明かした。

イルドア方面の精強な機甲部隊は例外であり、多くの部隊では戦車充足率すら定数の六割程度しかなかった。魔導師部隊も補充が困難で、慢性的な消耗状態に置かれていた。

ターニャは、帝国軍が優秀な人材へ依存しすぎており、組織としての持続性を失いつつあることを理解していた。総力戦という巨大消耗戦の中で、従来型の少数精鋭主義が限界へ達していたのである。

東部再派遣への裏工作

その後、レルゲンは本題を切り出した。

ゼートゥーアが東部戦線指揮系統から離れたことで、サラマンダー戦闘団や第二〇三航空魔導大隊の扱いが不安定になる可能性が高まっていたのである。

そのためレルゲンは、自分の名義を使ってよいとターニャへ伝えた。必要であれば、参謀本部名義で兵站や命令系統へ横槍を入れても構わないとまで許可したのである。

さらに、東部の現場情報を最優先でゼートゥーアへ直通報告する体制も整備された。東部情勢が危機的である以上、現場情報の即時共有が必要だと判断されていた。

休暇を与えない帝国軍

ターニャは、サラマンダー戦闘団が極度に酷使されており、休暇消化率の低さを人事部から警告されていると訴えた。

するとレルゲンは、その場で「軍務上の必要性により一切を免責」と書類へ署名し、ウーガも人事部との調整を引き受けた。

しかしターニャにとって、本当に必要なのは免責処理ではなく、実際に休ませることだった。

それでも帝国軍には、その余裕すら存在していなかったのである。

統一暦一九二八年一月三日 モスコー/最高司令部

連邦最高司令部での黎明作戦会議

モスコーの最高司令部では、書記長や内務人民委員ロリヤ、軍首脳らを集めた戦略会議が開かれていた。

会議の議題は、戦略攻勢「黎明」の最終目的であった。立案者であるクトゥズ大将は、軍としては「確実な勝利」を目指す二百キロ進撃案と、「帝国軍主力の完全撃滅」を狙う六百キロ進撃案の双方を準備済みだと説明した。

二百キロ案の堅実性

二百キロ案は、帝国軍防衛線を局所的優勢で突破し、比較的小さな損害で戦線を押し戻す計画だった。

連邦軍は夏から継続的に兵力と物資を秘匿集結させており、砲兵と航空戦力を一点集中投入することで、帝国軍前線を徹底破砕する準備を整えていた。

クトゥズは、この案であれば失敗はあり得ないと断言した。帝国軍の槍先を折り、防衛線を後退させるだけなら、連邦軍の圧倒的物量による平押しで十分実現可能だったのである。

六百キロ案という決戦構想

一方の六百キロ案は、単なる押し返しではなく、帝国軍主力の完全撃滅を目的とした大規模殲滅戦だった。

この作戦では、第一梯団が敵防衛線を突破後、停止せずそのまま深部へ突進し続けることが前提となっていた。敵の孤立陣地は後続部隊へ任せ、突破部隊は面制圧のみを継続する。

さらに、第一梯団が疲弊すれば第二梯団が追い越して前進を継続し、その後は補給を終えた第一梯団が再度前進するという、連続的衝撃力による突破構想が組み込まれていた。

クトゥズは、これは奇策ではなく、平凡で王道的な物量運用の積み重ねであると説明していた。

六百キロ案の危険性

しかし、六百キロ案には重大な危険も存在していた。

長距離進撃では補給線が極度に伸張し、突破部隊が一度でも停止すれば、帝国軍へ再編の時間を与えてしまう。ゼートゥーアのような敵は、その僅かな隙を利用して戦略レベルで反撃してくるとクトゥズは警戒していた。

そのため、彼は第三梯団まで用意できれば理想だと主張したが、現実には戦力も物資も既に限界まで絞り出されていた。仮に六百キロ案が失敗した場合、連邦軍は最低半年以上、大規模攻勢を再開できない可能性すらあった。

ロリヤによる諜報優位の提示

ロリヤは、連邦側が帝国軍情勢を極めて詳細に把握していると説明した。

帝国機甲師団の大半はイルドア方面で越冬中であり、東部への本格移送は最短でも二月以降になると報告されていた。さらに、多くの機甲師団は慢性的定数割れ状態で、戦力充足率も低下していた。

ロリヤは、ゼートゥーア自身が連邦軍の冬季攻勢能力を過小評価した結果、イルドアへ戦力を集中投入したのだと分析していた。つまり、「黎明」は高確率で戦略的奇襲になり得るという認識だったのである。

クトゥズの警戒

しかしクトゥズは、依然としてゼートゥーアを最大の脅威として警戒していた。

彼は、ゼートゥーアが兵站線攻撃や空挺による斬首戦術を得意としていることを指摘し、最悪の場合、連邦軍補給拠点が直接襲撃される可能性もあると懸念していた。

ロリヤは、帝国軍魔導師戦力は定数割れ状態であり、大規模空挺を実施する余力はないと反論したが、クトゥズは「戦場には霧がある」として油断を戒め続けた。

サラマンダー戦闘団帰還への動揺

ロリヤは続けて、サラマンダー戦闘団がイルドアから帝都へ帰還済みであることを明かした。

その報告を聞いたクトゥズは、このタイミングで東部へ再投入される可能性に即座に反応し、苦悶の表情を浮かべた。

ゼートゥーアが万が一に備えて、すでに対策を進めていることを悟ったためである。ロリヤは、一個戦闘団程度では戦局を左右できないと語ったが、クトゥズはなお警戒を緩めなかった。

六百キロ案の採択

最終的に、書記長は六百キロ案を採択した。

連邦軍は、新型戦車、新型戦闘機、新型演算宝珠を投入し、戦略攻勢「黎明」による帝国軍主力撃滅へ全力を賭けることとなった。

ただし、現場では新型装備の熟成不足も問題視されており、連邦軍自身もまた、極限の綱渡りを行おうとしていたのである。

統一暦一九二八年一月二日 夕刻 帝都

新兵器一覧への失望

イルドア方面から帰還したターニャ・フォン・デグレチャフ中佐は、宿舎で副長ヴァイス少佐から引き継ぎを受けていた。

その中で渡された「新兵器一覧」を確認したターニャは、新型戦車、新型駆逐戦車、新型突撃砲、新型演算宝珠などを見て大きくため息を漏らした。

彼女は、新兵器による一発逆転を狙う軍上層部の発想自体を理解しつつも、現実逃避に近いと感じていた。新型戦車は機械的信頼性に問題を抱え、駆逐戦車は巨大すぎて運用性に欠けていた。突撃砲だけは一定の評価を与えたものの、そもそも帝国軍が敵トーチカへ攻勢をかけられる状況ではないと冷静に分析していた。

一〇五式演算宝珠への危機感

特に問題視されたのは、一〇五式「防護演算宝珠」であった。

次世代宝珠開発が頓挫した結果、軍は訓練用宝珠を改修した一〇五式を実戦投入しようとしていたのである。防御性能を重視した結果、速度、運動性能、高度性能、操作性の全てが低下しており、ターニャは実戦投入に強い危機感を抱いていた。

さらに問題は資源不足だった。連邦式の堅牢な宝珠を模倣したくとも、帝国には必要資源そのものが不足していたのである。ターニャは、帝国軍がついに「性能追求」ではなく「生産性」を優先せざるを得なくなった現実を痛感していた。

魔導師運用思想の限界

ヴァイス少佐は、一〇五式の性能低下を踏まえ、魔導師を歩兵として運用する原点回帰案を口にした。

ターニャはそれを古典的発想だと笑いながらも、現状を考えれば極論としては合理性もあると認めていた。しかし現代戦では魔導反応探知技術が発達しており、魔導師は地上にいても発見されやすい。

その議論を続ける中で、ターニャは「普通の歩兵でよいのではないか」という結論へ一瞬到達してしまった。そしてその瞬間、自分たち魔導師戦力そのものが時代遅れになりつつある可能性へ気づき、危機感を覚えていた。

ヴァイス少佐の発想

その後、ヴァイス少佐は一つの着想を打ち明けた。

魔導資質を持つ大量の兵士へ簡易型一〇五式を配備し、膨大な魔導反応を意図的に発生させることで、敵索敵網を飽和させるという構想だった。

ターニャは即座に、その狙いが陽動と偽装による奇襲支援であると見抜いた。初見では敵精鋭ですら本物の魔導師戦力規模を誤認する可能性が高く、極めて有効な欺瞞手段になり得ると判断したのである。

新年早々の強制演習

ターニャは思い立つや即座に実証実験を決定した。

新年休暇中であるにもかかわらず、待機中の士官や訓練兵を強制招集し、一個大隊規模の候補生と教練部隊を演習場へ投入したのである。

第二〇三航空魔導大隊士官たちによる索敵実験の結果、反応は分かれた。ヴュステマン中尉は二個中隊規模程度と誤認し、グランツ中尉は大隊規模と認識したが恐怖感は薄いと評価した。

一方、セレブリャコーフ中尉は、敵戦力の規模も正体も判別しづらく、不気味な違和感があると報告した。ターニャは、その「わからなさ」こそが欺瞞戦術として極めて有効だと判断していた。

戦術的工夫と戦略的絶望

ヴァイスの案を評価したターニャは、ゼートゥーアへ提供できる「手品の種」が一つ増えたと喜んでいた。

しかし同時に、これはあくまで戦術次元の小手先に過ぎず、戦略的敗勢を覆すものではないという冷徹な認識も抱いていた。

現場がどれほど創意工夫を重ねても、国家全体の戦略的失敗を永遠に補填し続けることはできない。帝国軍は既に限界を超えており、イルドア戦役を経た今、その衰退は覆い難いものとなっていた。

ターニャは、努力の先に将来性が存在しない現実へ強い虚無感を抱き、自分が斜陽産業に従事している感覚を覚えていた。

部下たちとのやり取り

実験後、ターニャは報告書作成を部下たちへ押し付け、自分は休暇に入ろうとしていた。

新年休暇を潰されたグランツ中尉は泣きそうな顔で抗議したが、ターニャは「終わったら休め」と平然と言い放った。軍人に労働基準法など適用されないという認識を当然視していたのである。

その中でセレブリャコーフ中尉は、飛行中に既に詳細なメモをまとめており、そのまま報告書として提出可能な水準に仕上げていた。ターニャは彼女の要領の良さを高く評価し、官僚機構では「楽をするための効率化」が重要だと語っていた。

短い休暇

最後にターニャは、東部再派遣前のわずかな時間を使い、セレブリャコーフ中尉を珈琲へ誘った。

東部戦線へ戻れば再び過酷な戦場が待っている。その前に帝都の日常を少しでも味わおうとしていたのである。

第参章 前夜

魔導師という万能兵器

魔導師とは、本質的に「便利な万能の痛み止め」のような存在だった。

火力、防御力、機動力を兼ね備え、しかも運用負担が軽い。宝珠の整備と技能維持こそ必要であるものの、それ以外は歩兵並みの補給で運用可能であり、食料さえあれば長距離行軍もこなせた。

車両のように燃料や整備へ大きく依存せず、故障も少ない。そのため、魔導師は国家にとって極めて使い勝手の良い暴力装置として重宝されていたのである。

航空魔導師誕生までの経緯

近代魔導技術を最初に実用化した帝国軍は、「宝珠とライフル」を組み合わせた魔導師部隊を編成した。

当初、魔導師は「飛べる歩兵」程度に認識されており、海兵隊や狙撃兵のような精鋭歩兵としての運用が想定されていた。飛行能力も、あくまで「便利な機能」の一つに過ぎなかった。

しかし帝国軍は、その飛行能力を徹底的に酷使した。飛べるなら色々できるはずだと考え、輸送、偵察、襲撃、突破、迎撃などあらゆる任務を押し付けたのである。

結果として、魔導師は空を主戦場とする「航空魔導師」へ変質していった。今日では、魔導師と言えば航空魔導師を指すほど、その概念は定着していた。

総力戦との相性の悪さ

だが、航空魔導師には致命的な欠点が存在していた。

高度な教育と適性が必要であり、誰でもなれる兵科ではなかったのである。戦前の小規模戦争であれば問題にならなかったが、大戦による総力戦環境では深刻な問題となった。

魔導師は常に不足していた。育成しても、補充する端から戦死していく。しかも資質依存が強いため、補充そのものが困難だった。

新人を急造して前線投入すれば、教育不足によって損耗率がさらに悪化する。航空魔導師という兵科は、総力戦による大規模消耗と決定的に相性が悪かったのである。

「飛べない魔導師」という再発見

東部戦線で消耗を続けた帝国軍と連邦軍は、やがて一つの事実へ辿り着いた。

飛べない魔導師でも、魔導師ではあるという事実である。

航空魔導師適性が不足していると見なされていた人材層も、見方を変えれば十分に軍事利用可能だった。特に連邦軍は、帝国ほど航空魔導師運用へ固定観念を持っていなかったため、この発想へ柔軟に到達できた。

彼らは魔導師を「強化歩兵」として再定義したのである。歩兵並みの汎用性、騎兵以上の機動力、限定的ながら砲兵を代替可能な火力。そして補給負担は歩兵並みという、極めて便利な存在だった。

地上魔導連隊構想

連邦軍は理論的試行錯誤の末、一つの最適解へ到達した。

航空適性の低い者たちを大量動員し、宝珠を装備させ、自動車化地上魔導連隊として運用する構想である。

これは縦深突破戦術における強力な突破兵力となり得た。航空魔導師ほどの性能はなくとも、大量投入による突撃兵力としては極めて有効だったのである。

魔導師という兵科を総力戦へ適応させる、一つの進化形でもあった。

魔導師兵科の黄昏

しかし、その構想が芽吹いた場所は、既に煉獄と化した戦場だった。

総力戦の消耗は、魔導師という兵科そのものの存在意義すら揺るがしていた。航空魔導師は人的資源不足によって維持困難となり、地上魔導師構想もまた、大量消耗戦の中で新たな犠牲を生み出そうとしていた。

こうして戦争は、「魔導師」という兵科自体の存続を問う段階へ到達していたのである。

統一暦一九二八年一月六日 東部戦線/前線上空

東部戦線への帰還

ターニャ・フォン・デグレチャフ中佐は、東部戦線上空で哨戒飛行を行いながら、イルドア戦線との違いを実感していた。

イルドアでは、軍事合理性ですら政治へ奉仕させられる複雑な戦場だった。しかし東部戦線は違った。そこは国家存亡を賭けた純粋な主戦場であり、「戦って勝つか、敗れるか」だけが全ての世界だったのである。

だからこそ、政治的配慮に悩まされることは少なかった一方、帝国の実力では決定的勝利が困難であり、「敗北を先延ばしにする」ことしか現実的目標になり得ない状況でもあった。ターニャは、その現実を冷静に理解していた。

九十七式への愛着

高度九千メートルでの哨戒飛行中、ターニャは九十七式突撃機動演算宝珠の性能へ改めて感嘆していた。

九十七式は、エレニウム工廠とシューゲル主任技師による傑作であり、熟練者が扱う限り極めて優秀な性能を発揮した。飛行時の安定性と機動性能は、精密な高級スポーツカーのような感覚すら与えていた。

しかし、その裏側では量産性の悪さと運用難易度が深刻な問題となっていた。不良率は極めて高く、わずかな誤差でも戦闘加速中に宝珠核が爆発する危険を抱えていたのである。

熟練者依存という欠陥

九十七式を安全に運用するには、膨大な飛行経験が必要だった。

最低でも八百時間、理想的には二千時間近い飛行訓練が求められていたが、総力戦下の帝国軍にはその余裕が存在しなかった。そのため、有望な新人魔導師が高価な宝珠ごと事故死する事例が後を絶たなかった。

ターニャは、自分たち第二〇三航空魔導大隊が使いこなせているからこそ、この欠陥兵器が現役でいられるのだと理解していた。そして上層部が、その「成功例」に幻想を抱き、さらに無茶な要求を重ねることへ苦笑していた。

自分は神ではないという自覚

セレブリャコーフ中尉は、ターニャがしばしば常識外れの判断を行うことから、神のような存在だと冗談交じりに語った。

しかしターニャは、自分はあくまで人間だと否定した。存在Xのような超越存在とは違い、自分は自由市場を愛する普通の市民でありたいという意識を変わらず持ち続けていたのである。

異様な静けさ

だが、穏やかな飛行時間が続くほど、ターニャの不安は強まっていった。

東部戦線であるにもかかわらず、敵影が全く存在しなかったのである。無線傍受も少なく、有線通信も静かで、空にも地上にも戦争の気配が乏しかった。

ターニャは、高度を上げて魔導反応を意図的に露出し、敵を誘い出そうとした。しかし、それでも連邦軍側から一切反応はなかった。

東部戦線の常識ではあり得ない静寂だったため、ターニャは敵そのものよりも、この異常な平穏さへ強い不気味さを感じていた。

東部方面軍への不信

東部方面軍司令部は、「双方が戦力回復に努めている結果としての静穏状態」と説明していた。

しかしターニャは、その説明を完全には信用していなかった。ゼートゥーアが派遣したヨハン・フォン・ラウドン大将が、現地の緩んだ空気を早急に引き締める必要があると考えていたほどである。

ターニャ自身も、平穏という言葉を聞くほど逆に疑念を強めていた。経験豊富な軍人ほど、「静かすぎる戦場」の危険性を理解していたのである。

地上部隊との交流

飛行中、ターニャたちは地上の友軍部隊から制帽を振る歓迎を受けた。

二人は空戦機動によって返礼し、その後も友軍陣地を確認しながら飛行を続けた。しかし、どこまで進んでも異常は存在しなかった。

その静けさは、ゼートゥーアの予測通り、連邦軍側も消耗している結果なのかもしれないとターニャは考え始めていた。

新年休暇への未練

飛行中、ターニャは本来なら帝都で新年休暇を過ごしたかったと愚痴を漏らした。

参謀本部は東部再展開を急かし、ターニャ自身も部下たちの休暇を潰して概念実証実験を行っていた。軍隊という組織が、戦争を理由にあらゆる労働倫理を踏み潰していることへ改めて苦々しさを感じていたのである。

その一方で、副官のセレブリャコーフは「敵側も同じように、こちらが帝都で休暇を満喫してくれる方が都合が良かったはずだ」と語った。

ターニャは、その言葉に納得しつつも、なお不気味な静寂への警戒を解かなかった。

敵陣への威力偵察

最終的にターニャは、「新年の挨拶」と称して敵陣への威力偵察を決断した。

敵が出てこないなら、自分たちから踏み込むしかない。そう判断したターニャは、セレブリャコーフ中尉と共にさらに前方へ進出していった。

連邦軍『公称:前進観測拠点』/野戦航空基地司令部

『黎明』作戦の秘匿

連邦軍は大規模攻勢『黎明』に向け、徹底した機密保持を行っていた。

しかし重要なのは、攻勢そのものを隠すことではなく、「いつ開始するか」を秘匿する点にあった。連邦軍は以前から大反攻を公言し、演習や即応訓練を繰り返すことで、いつ攻勢が始まってもおかしくない状況を演出していたのである。

そのため、前線兵士ですら本当の開始時期を知らされていなかった。一方で、「前進観測拠点」と呼ばれる平野部の施設では、司令官と政治将校だけが真実を理解していた。そこは表向き観測拠点だったが、実態は航空隊進出用の野戦航空基地だったのである。

帝国軍偵察への警戒

基地司令官は、接近してくる帝国軍魔導師ペアに強い警戒感を抱いていた。

観測機器は充実しており、帝国軍が高高度から偵察を行っていることは明白だった。司令官は表向き平静を装っていたが、内心では「帰ってくれ」と祈るほど焦っていた。

特に、敵が司偵級の高性能魔導師ペアである可能性を認識したことで、基地の秘匿が破られる危険性を強く意識していたのである。

連邦軍の現場事情

観測機材の整備状態は深刻だった。

レンドリース機材の補修部品不足が慢性化しており、識別ライブラリの破損まで発生していた。観測担当者は機材不良を報告することへ怯えていたが、政治将校は逆に「問題を隠す方が危険だ」と断言した。

連邦軍では、魔導関連の報告を正確に上げることが重視されており、隠蔽や虚偽報告こそ重大問題とされていたのである。政治将校は、現場を守りつつ情報を上層へ伝える姿勢を明確に示していた。

帝国軍の威力偵察

ターニャは敵を炙り出すため、大規模な空間爆破術式を使用した。

空間爆破は本来、実戦では非効率な術式だった。発動準備に時間がかかり、術式干渉が巨大なため遠距離から容易に察知されてしまうからである。

しかし今回は、その「目立つ」という欠点を逆利用し、敵へ反応を強制するために使われた。ターニャ自身も効果には期待しておらず、単なる威力偵察の一環として使用していた。

連邦軍要撃部隊の異常

空間爆破を受け、連邦軍は要撃部隊を発進させた。

しかし、その反応は極めて鈍重だった。魔導反応は弱く、防殻展開も確認できなかった。ターニャとヴィーシャは、敵が防御膜しか展開していない可能性を疑い始める。

通常の航空魔導師なら、防殻は最低限の装備だった。防御膜だけで実戦へ出るなど、自走砲が装甲なしで戦車戦へ挑むようなものだったのである。

さらに、敵部隊は密集飛行を行い、上昇速度も異常に遅かった。ターニャは、敵が促成育成された未熟な魔導部隊である可能性へ至った。

促成魔導部隊の壊滅

連邦軍の新編魔導部隊は、実態として「飛べるだけ」の兵士たちだった。

魔導資質を持つ者を大量動員した結果、最低限の訓練しか受けていない新兵がそのまま前線投入されていたのである。彼らは防殻展開すら満足にできず、空中で姿勢維持するだけでも精一杯だった。

その状況で、帝国軍最精鋭のターニャとヴィーシャのペアへ挑んだ結果、牽制用爆裂術式一撃で中隊は全滅した。

本来、爆裂術式は近年の重装甲化した魔導師相手には牽制程度の威力しか持たないはずだった。しかし防殻を展開していない敵には致命的だったのである。

敵のあまりの脆弱さに、ターニャ自身すら戦闘中に困惑していた。

連邦軍司令部の衝撃

地上から戦闘を観測していた司令官と政治将校は、壊滅結果へ言葉を失った。

最新宝珠を与えたはずの魔導中隊が、帝国軍の牽制術式だけで全滅したのである。司令官は、敵ペアがネームド級の熟練魔導師であると理解しつつも、それ以前に味方側の育成と運用の破綻を痛感していた。

政治将校も、魔導師運用を理解しない軍政側の問題を指摘した。しかし同時に、「敵の得意分野で戦う必要はない」と割り切り、数と運用で対抗するしかないと結論づけていた。

帝国軍側の分析

帰投中、ターニャは敵の質的低下を認識していた。

人的資源を浪費し続けた結果、連邦軍は防殻すら展開できない水準まで魔導師の質が低下していたのである。一方で、敵の戦意そのものは依然として極めて旺盛だった。

ターニャは、自分ならあの装備と練度で戦場へ出たくないと感じつつも、それでも戦う連邦兵の執念深さを脅威視していた。

東部戦線の猶予期間

ターニャは、連邦軍にも再建時間が必要だと分析していた。

イルドア方面では帝国軍が港湾施設を破壊しており、アライアンスからの増援と補給は当面制限される。加えて、東部戦線の敵部隊も質的低下を見せていた。

そのため、帝国軍上層部が「しばらく大攻勢は起きない」と判断したこと自体には一定の合理性があった。

ただし、その猶予期間は永遠ではない。ターニャは、夏までの時間を使って兵員補充と再訓練を徹底し、防衛線を整備する必要性を強く認識していた。

東部方面軍との軋轢

サラマンダー戦闘団は参謀本部直属部隊であり、東部方面軍とは所属が異なっていた。

そのため、司令部周辺では敵味方識別確認が過剰に厳格化されており、ターニャは官僚主義の復活を嫌悪していた。

東部方面軍はサラマンダー戦闘団を「有力だが扱いづらい戦略予備」と見なしており、使いたいが責任は負いたくないという空気を漂わせていたのである。

ボロボロの戦略予備

サラマンダー戦闘団の実情は深刻だった。

駐屯地は放棄村落を流用した粗末な施設であり、戦車隊は整備不足で実戦可能車両が三両しか残っていなかった。歩兵部隊も新兵教育で手一杯となっており、即応可能な戦力は限定的だった。

それでもターニャは、時間を使って部隊再建を進めるしかないと判断していた。歩兵訓練、補給集積、新兵教育、物資調達を徹底し、来るべき次期攻勢へ備えようとしていたのである。

新たな不穏な兆候

その後、参謀本部と東部方面軍の双方から、不審な機械化部隊に関する情報が届いた。

航空偵察では、機械化部隊から濃厚な魔導反応が確認されていた。ターニャは、連邦軍が機械化部隊と魔導部隊を組み合わせた奇襲運用を試みている可能性を疑う。

もしそれが事実なら、連邦軍の春季攻勢すらあり得る。ターニャは悪い予感を抱きながらも、第二〇三航空魔導大隊全力による威力偵察出撃を決断した。

第肆章 蹉跌

統一暦一九二八年一月七日 連邦

統制経済下の連邦社会

統一暦一九二八年一月七日、連邦では戦時体制の長期化によって社会全体が疲弊していた。

政府は統制経済を徹底していたが、慢性的な物資不足は深刻化しており、都市住民は日々の生活維持にも苦労していた。配給制度は機能不全を起こし始め、現場では不足分を補うための非公式取引まで横行していた。

それでも連邦政府は、革命国家としての理念と総力戦体制を維持し続けていたのである。

前線優先による民生圧迫

連邦では軍需生産が最優先されていた。

工場は昼夜を問わず稼働し、鉄道輸送も軍事物資へ集中投入されていた。その結果、民需物資の流通は後回しとなり、市民生活は著しく圧迫されていた。

寒冷地であるにもかかわらず暖房用燃料すら不足し、住民たちは極寒の中で配給列へ並び続けていたのである。

政治将校制度の維持

連邦軍では依然として政治将校制度が強く機能していた。

軍内部では思想統制が重視され、現場指揮官も政治部門の監督を受けていた。政治将校たちは士気維持と規律統制を担っていたが、同時に軍内部へ強い緊張感も生み出していた。

ただし、現場では単純な恐怖政治だけではなく、実務能力を持つ政治将校も増加しており、単なる粛清機関とは異なる側面も形成されつつあった。

人的資源の限界

連邦軍は膨大な人的資源を保有していたが、その消耗速度は異常だった。

継続的な大攻勢と消耗戦によって、熟練兵や将校層は急速に失われていた。補充兵は大量投入されていたものの、訓練期間短縮によって練度低下が深刻化していた。

特に航空魔導師部隊では、防殻展開すら不完全な未熟兵が前線投入される状況となっており、量的優位だけでは埋められない問題が露呈していたのである。

工業力への過信

連邦上層部は、自国工業力への強い信頼を持っていた。

大量生産によって損耗を補い続ければ、最終的には帝国を圧倒できるという思想が根底に存在していたのである。そのため、現場で発生する損害も「必要経費」として処理される傾向が強かった。

しかし実際には、熟練兵や士官の損失は単純な数で代替できず、部隊全体の質的低下を招いていた。

現場と中央の認識差

前線では危機感が強まっていた。

現場指揮官たちは、訓練不足兵士の大量投入や補給遅延によって戦力低下を実感していたのである。一方、中央では依然として「連邦は持久戦で勝利できる」という楽観論が根強かった。

この認識差は、戦局悪化とともに徐々に拡大していった。

帝国軍への警戒

連邦軍は帝国軍の質的優位を強く警戒していた。

特にターニャ率いる第二〇三航空魔導大隊の存在は、前線で半ば伝説化していた。連邦兵たちは、少数で現れて圧倒的戦果を上げる帝国軍精鋭に強い恐怖を抱いていたのである。

そのため、連邦軍は数的優位をさらに拡大し、機械化戦力や航空戦力との連携によって質的差を埋めようとしていた。

新戦術模索の始まり

連邦軍内部では、新たな戦術研究が進められていた。

従来型の正面突撃だけでは帝国軍精鋭へ対抗できないと判断され始めていたのである。そのため、機械化部隊と魔導部隊を組み合わせた高速突破戦術や、局地的優勢を形成する集中運用思想が模索されていた。

それは後の大規模攻勢へ繋がる試行錯誤でもあった。

連邦国家の執念

社会全体は疲弊していたが、連邦国家そのものは依然として戦争継続能力を失っていなかった。

膨大な人口、広大な国土、継続する工業生産、そして革命国家としての強固な精神統制が存在していたからである。

帝国軍が局地戦で優勢を維持していても、連邦は倒れず、むしろ長期戦へ国家全体を適応させつつあった。

第伍章 黎明

統一暦一九二八年一月九日 東部方面軍司令部応接室

皇女視察計画への困惑

統一暦一九二八年一月九日、東部方面軍司令部の応接室で、ターニャはレルゲン大佐からアレクサンドラ皇女による前線視察計画を伝えられ、強い困惑を覚えていた。

ラウドン大将不在の応接室は、戦地とは思えないほど整えられていたが、そこで語られた内容は極めて危険なものだった。皇女は軍上層部との懇談ではなく、最前線の現実を直接視察したいと望んでいたのである。

前線視察の危険性

ターニャは現場の立場から、皇女の視察を明確に危険だと断言した。

東部戦線では連邦軍パルチザンの活動が激化しており、討伐中隊ですら戦車を含む反撃によって半壊する状況が発生していた。拠点一つの掃討にも大規模戦力投入が必要となっており、後方の安全ですら保証できない状態だったのである。

そのためターニャは、皇女を前線へ連れ出すより、ラウドン大将による接待の方が遥かに安全だと主張した。

自治評議会への不信

ターニャは東部後方情勢について、帝国軍上層部の楽観論を否定した。

ゼートゥーア主導の自治評議会は、一応は帝国へ協力していたものの、実際には連邦軍パルチザンとも暗黙の停戦関係を築いていたのである。ターニャはこれを三角関係に例え、自治評議会は帝国を本命としつつも、帝国敗北時に備えて連邦側との保険も維持していると分析した。

帝国軍が完全勝利を保証できない以上、自治評議会が日和見へ走るのは当然であり、その結果として連邦パルチザン勢力が帝国支配地域内で温存され続けているのだと指摘した。

宮中の強硬姿勢

レルゲン大佐は、参謀本部も皇女視察を止めたいと考えていると明かした。

しかし今回は参謀本部ではなく宮中の強い意向であり、正面から拒絶することは制度上困難だったのである。さらにアレクサンドラ皇女は戦況報告書を丹念に読み込む性格であり、軍全体が「連邦軍の大攻勢は早くても春」と判断している点を根拠に、安全だと認識していた。

ゼートゥーアですら、危険性を訴える説得に失敗していた。

参謀本部の意図

レルゲン大佐は、前線から「適切な報告書」が届くことを望んでいると示唆した。

連邦軍による差し迫った脅威を強調する内容が望ましいという、半ば政治的な依頼だったのである。しかしターニャは、参謀本部直属部隊の報告は軍内部で字句通り受け取られる危険があると警告した。下手な報告は、実際の戦略判断へ悪影響を及ぼしかねなかったからである。

そのためターニャは、虚偽報告ではなく、正確な戦略偵察結果のみを提出すると返答した。

戦略偵察任務の開始

レルゲン大佐はターニャの提案を受け入れ、ゼートゥーアとラウドンへ戦略偵察の必要性を上申すると決めた。

こうしてターニャ率いるサラマンダー戦闘団には、新たな戦略偵察任務が与えられたのである。ターニャは戦闘団指揮所で士官たちへ任務内容を説明し、東部方面軍の前提へ囚われない自由な視点による情勢確認を求めた。

偵察の本質

ヴュステマン中尉は、偵察部隊が純粋な観測役なのか、それとも分析まで行うのかを質問した。

ターニャは、自分たちは単なる「眼」ではなく、「鼻」であり「猟犬」でもあると説明した。見た情報を分析し、上層部へ届けることも任務に含まれていたのである。

同時にターニャは、露骨な敵地偵察は相手へ警戒心を与える危険があると指摘した。そのため、まずは友軍戦線周辺を巡回し、敵側偵察活動の増減を観察することで、連邦軍側の動向を逆探知しようとしていた。

敵意図を探る戦い

ターニャは、軍事とは自軍の意図を隠し、敵の意図を探る行為であると認識していた。

そのため、敵偵察活動の頻度や変化自体が重要な情報となるのである。敵の偵察が急増した地点は攻勢準備の可能性を示し、逆に活動が消えた地域にも別の意味が存在し得た。

こうしてターニャは、皇女視察問題を発端としながらも、東部戦線全体の異変を探る本格的な戦略偵察へ乗り出していった。

統一曆一九二八年一月十二日 東部宿営地上空

偵察飛行と粗末な宿営地

第二〇三航空魔導大隊による魔導中隊単位の査察兼偵察は、長距離飛行を伴うものだった。だが、参謀本部直属として酷使され慣れた彼らにとって、飛行・索敵・交戦・追撃をこなすことは最低限の要求水準に過ぎなかった。

その一方で、彼らの宿営地は極めて粗末だった。廃村同然の集落を利用した簡素な宿舎であり、トスパン中尉による懸命な野戦構築によって、辛うじて全員が屋根の下で休息を取れる程度に改善されていたのである。

防御施設は最低限だったが、代わりに偽装効果は高かった。上空から見ても再建途中の普通の村にしか見えず、ターニャですら識別に苦労するほどだった。

各中隊からの報告

ターニャが帰還すると、戦闘団主要指揮官たちは納屋を利用した指揮所へ集結していた。

メーベルト大尉は、東部全域で航空優勢は概ね維持されており、連邦軍側も越冬体制に入っているように見えると報告した。各地の前線でも威力偵察は行われていたが、敵の抵抗は限定的だったのである。

グランツ中尉も、侵入してきた敵魔導中隊を追い払った程度で、大規模戦闘は発生していないと説明した。敵は帝国軍を感知するとすぐ反転し、追撃を試みても消極的な反応しか見せなかった。ただし、防空砲火だけは標準以上に強化されていた。

ヴァイス少佐も同様の印象を述べ、前線全体が静穏状態にあるとの認識を共有した。

後方地域の異変

一方、ヴュステマン中尉からは後方地域に関する報告がもたらされた。

自治評議会と野戦憲兵隊による共同掃討作戦が成功し、複数のパルチザン拠点が制圧されたというのである。さらに街道整備事業や住民動員も進み、交通路の安全性は大幅に改善されていた。

自治評議会系部隊は積極的に帝国軍へ協力し、地元の土地勘を利用した案内や支援を行っていた。結果として、帝国軍は比較的小規模な被害で掃討戦を進められるようになっていたのである。

ターニャの違和感

しかし、その報告を聞いたターニャは強い違和感を抱いていた。

自治評議会は本来、帝国と連邦を天秤にかけながら立ち回る存在だった。それにもかかわらず、急に帝国へ誠実な協力を見せ始めたことが不自然に感じられたのである。

実際、報告内容はあまりにも都合が良すぎた。後方地域は安定し、防衛線は整備され、敵は再編中。ラウドン大将の着任によって方面軍も引き締まり、状況は改善一色に見えていた。

それでもターニャは、本能的な不信感を拭えなかった。全てが順調すぎること自体が、むしろ詐欺のように感じられていたのである。

通信傍受への注目

ターニャはセレブリャコーフ中尉へ命じ、パルチザンと連邦軍当局の通信傍受記録を確認した。

暗号自体は解読できていなかったが、交信量には大きな変化がなかった。掃討作戦中に多少活発化した程度であり、連邦側が大規模行動を準備している兆候は読み取れなかったのである。

理屈の上では、敵は再編中であり、帝国側が主導権を握っているように見えた。しかしターニャは、その「理屈通り」に進みすぎている現状こそが不気味だった。

連合王国情報部の分析

同時期、連合王国情報部では、連邦軍による大規模戦略攻勢「黎明」の兆候を掴んでいた。

ハーバーグラム部長とジョンソンは、最近の東部情勢を分析し、連邦軍が帝国へ「春まで安全だ」という幻想を見せようとしていると結論づけた。

自治評議会の帝国協力も、実際には連邦側による浸透工作の成果だと判断されていた。親帝国派を掃討戦へ積極投入することで消耗させ、その裏で親連邦派を拡大させる構図だったのである。

さらに、連邦軍は連合王国情報部すら欺く徹底した秘匿体制を敷いており、「黎明」は完全な戦略奇襲として準備されていた。

帝国への評価

ハーバーグラム部長は、ゼートゥーアとラウドンによる東部方面軍テコ入れを警戒しつつも、帝国側は連邦軍攻勢を完全には把握できていないと分析していた。

特に、皇族視察計画が進行している時点で、帝国軍全体としては危機感が不足している可能性が高かった。ジョンソンも、帝国は戦争だけは上手いと思っていたが、今回ばかりは敵の欺瞞へ引っかかっているのではないかと疑念を抱いていた。

そして連合王国情報部は、連邦軍「黎明」が重大な戦果を挙げる可能性を高く見積もっていたのである。

統一暦一九二八年一月十三日 東部/サラマンダー戦闘団駐屯地

違和感の増大

レルゲン大佐から依頼された「忖度過剰な報告書作戦」は、本来なら皇女視察に問題がないことを確認するための偵察活動に過ぎなかった。

しかし、ターニャは東部方面軍の偵察結果を突き合わせるほど、強烈な不安を覚え始めていた。あまりにも全てが帝国側の願望通りに進みすぎていたのである。敵は静穏、後方は安定、防衛線は整備中。理想的すぎる状況そのものが、逆に不気味だった。

挺身偵察の決断

ターニャは違和感を払拭するため、自ら敵後方へ挺身偵察へ赴く決断を下した。

ヴァイス少佐は危険性を理由に反対したが、ターニャは「熊の腹を開いてでも確認したい」と述べ、自身の目で現場を確かめる必要を強調した。

また、今回はヴィーシャではなくグランツ中尉をペアに指名した。セレブリャコーフ中尉とは息が合いすぎているため、異なる視点を持つ人材が必要だと判断したのである。

夜間侵入飛行

ターニャとグランツは二機編隊で出撃し、夜間の連邦勢力圏へ侵入した。

彼らは魔導反応を極限まで抑え、地形追随による超低空飛行を実施した。通常の偵察機ならまず飛ばない高度だったが、それによって敵偵察網の死角を突き進んでいったのである。

その最中、ターニャは地表へ違和感を覚えた。雪原に見える地帯が、実際には白色塗装された街道だったのである。

隠蔽道路の発見

地上へ降りて確認した結果、そこには明確な人工構築物が存在していた。

雪景色に偽装された軍用道路であり、空中偵察からは容易に判別できない巧妙な偽装だった。奥地にまで整備されている以上、大規模兵站線の存在を意味していた。

ターニャは、この規模の道路が存在する以上、敵輸送活動を監視する必要があると判断し、その場で監視拠点を構築した。

大規模車列の出現

ほどなくして、灯火管制下の大規模トラック車列が出現した。

車列規模は夜間でも把握できるほど巨大であり、しかも車両状態は驚くほど良好だった。酷使されるはずの輸送車両が適切に整備されていたのである。

さらに周囲には軍用犬を伴う警戒班まで展開されており、航空偵察だけでは絶対に掴めない厳重な警戒体制が敷かれていた。

ターニャは、ここまで統制された夜間輸送を実施できる時点で、連邦軍の準備水準が想像以上だと悟った。

春季攻勢ではない可能性

当初、ターニャは「早期春季攻勢」の可能性を疑っていた。

しかし、敵集結規模と補給準備を目の当たりにしたことで、さらに恐ろしい可能性へ至る。これは局地集結ではなく、東部全域規模の展開なのではないか、と。

つまり、春を待たず、冬季攻勢そのものが始まろうとしている可能性だった。

ターニャは、その想像へ至った瞬間、吐き気すら覚えていた。

全面攻勢の開始

帰還したターニャは、即座に魔導大隊全力による長距離威力偵察を命じようとした。

だが、その直後、通信要員から緊急報告が入る。連邦軍がA集団全戦域で全面攻勢を開始したのである。

それは単なる局地反攻ではなく、政治目的を伴う本格的戦略攻勢だった。しかも帝国軍は、実質的に奇襲を受けた状態だったのである。

誤断への理解

ターニャは、自室へ駆け込みながら事態分析を始めた。

ゼートゥーアは「最悪でも春季攻勢」と想定していた。しかし現実には冬季攻勢が始まった。これは敵の戦力と兵站能力を根本的に見誤っていたことを意味していた。

さらに連邦軍は、自治評議会や東部方面軍経由の情報を巧妙に操作し、ゼートゥーアへ届く前提情報そのものを歪めていた。

結果として、帝国軍は「間違った情報から、間違った結論」を導き出し、越冬態勢へ移行した状態で戦略奇襲を受けることになったのである。

破滅的戦況の認識

ターニャは、現在の帝国軍防衛態勢が極めて危険だと悟った。

東部防衛線は広大すぎる戦線に対し薄く、予備兵力も不足していた。ライン戦線時代のような多層防御陣地は構築されておらず、各地に穴が存在していた。

その状態で、もし連邦軍が「全縦深同時攻撃」「無停止進撃」「機械化波状攻撃」「包囲殲滅」を実施した場合、帝国軍は防御構想そのものを完全に外されることになる。

ターニャは、自軍がレイピアによる局地突破を想定していたのに対し、敵は巨大なギロチンを振り下ろそうとしているのだと理解した。

絶望的現実

唯一の対抗策は、航空優勢と機動打撃力を前提としたエアランド・バトル的防衛だった。

しかし現在の帝国軍には、それを実現できる航空戦力も機甲戦力も存在しなかった。航空管制すら怪しく、魔導部隊も消耗によって劣化していたのである。

しかも帝国軍は、防衛線へ籠もって反撃を待つ構えを取っていた。それは、敵による縦深突破と包囲殲滅に対して最悪の態勢だった。

ターニャは、自分たちが「完全に間違った戦争」を始めようとしている現実を理解し、乾いた笑いを漏らすしかなかった。

統一暦一九二八年一月十三日 連邦首都モスコー

ロリヤによる黎明支援

ロリヤは、戦略攻勢「黎明」の成功のために全力を尽くしていた。

冬季攻勢そのものに多くの反対意見が存在する中、彼は一貫して国益を掲げ、攻勢準備を強力に後押ししていたのである。その努力は皮肉でも誇張でもなく、純粋に連邦勝利を目指したものだった。

軍主導を認めた秘密警察トップ

ロリヤ自身は軍人ではなく、「黎明」作戦立案の中心人物でもなかった。

作戦そのものはクトゥズ大将主導で進められており、ロリヤが直接関与した部分は、情報網の整備やパルチザンとの連携支援などに限られていた。彼はあくまで助演役であり、主役は軍だと明確に認識していたのである。

しかし、秘密警察トップであるロリヤが「軍の足を引っ張らない」だけでも、連邦軍にとっては極めて異例かつ巨大な支援だった。

連邦の権力構造では、秘密警察による干渉や内部対立が常態化していた。その中でロリヤは、軍を妨害せず、むしろ効率的な側面支援を徹底していたのである。

異常なまでの協力体制

ロリヤによる後方支援は、連邦の常識からすれば異常事態だった。

秘密警察が身内同士の権力争いを行わず、軍へ積極協力しているという状況は、本来なら考え難いものだったのである。情報提供、治安維持、パルチザン工作、情報統制など、ロリヤは軍事作戦を支えるために全機構を動員していた。

もしターニャがその実態を知れば、驚愕するほどだった。帝国側の認識では、連邦内部には常に政治闘争と非効率が存在するはずだったからである。

黎明開始への歓喜

そして、一月十三日。

ついに戦略攻勢「黎明」が始まった。長く準備され、秘匿され、支え続けられてきた攻勢が現実となった瞬間だった。

ロリヤは、その瞬間を心から待ち望んでいた。

彼は歓喜と興奮の中で、「黎明」「夜明け」「始まりだ」と叫び、連邦による反攻開始を祝福したのである。

同日 帝都

参謀本部の日常

帝都にはまだ新年の余韻が残っていたが、参謀本部だけは別世界だった。

膨大な実務に追われる軍人たちは、既に正月気分など失っており、日々の業務へ忙殺されていた。特にゼートゥーア大将直属の高級副官たちは、前例のない規模の業務を抱え込み、大佐級将校ですら常に走り回る状態となっていたのである。

そのため、通信室から血相を変えて飛び出してきたウーガ大佐の姿すら、周囲には「また緊急案件か」としか受け止められなかった。

東部方面軍からの凶報

ウーガ大佐は、震える手で東部方面軍から届いた緊急通信を抱え、ゼートゥーアの執務室へ駆け込んだ。

一方のゼートゥーアは、いつも通り冷静だった。彼は落ち着いた態度で通信文を受け取り、整った表情を崩さず内容へ目を通していた。

そして、ウーガへ感謝を告げた後、感情を隠すように静かに背を向けた。

それは本来、頼もしい参謀将校の振る舞いだった。しかしウーガには、その背中が違って見えていた。そこにいたのは、国家を支える怪物ではなく、過酷な現実によって打ちのめされた一人の老人だったのである。

ゼートゥーアの悟り

通信文を読んだ瞬間、ゼートゥーアは全てを理解していた。

彼は、自らの戦略判断が根本から破綻していたことを悟ったのである。連邦軍はまだ戦力回復途上にあり、本格攻勢には最低でも四カ月、あるいは半年程度必要だと見積もっていた。だからこそ、東部から戦力を抽出してイルドア方面へ投入するという危険な賭けへ出ていたのである。

その判断は、残された時間を繋ぐための「最低限の保険」だった。帝国には既に余裕がなく、細い蜘蛛の糸のような猶予期間へ必死にしがみついていたのである。

しかし現実には、連邦軍は冬季攻勢「黎明」を発動した。

つまりゼートゥーアは、「まだ時間がある」という前提そのものを読み違えていたのである。

崩れ去る前提

ゼートゥーアは、東部から戦力を抜いても、まだ持ちこたえられると考えていた。

だが、その前提は連邦軍の攻勢開始によって完全に崩壊した。帝国軍は越冬態勢へ移行しており、防衛準備も不十分なまま奇襲を受ける形になったのである。

彼が必死に繋ぎ止めようとしていた「あと数カ月」という猶予は、存在していなかった。

ゼートゥーアは、その事実を一瞬で理解し、自らの失策を噛み締めていた。そして、信じ難い現実を前に、「ありえん」と呟くしかなかったのである。

解説

【MIA】

MIAとは「Missing in Action」の略称であり、戦闘中行方不明を意味する軍事用語である。

軍事上は「生死未確認」の扱いとなるが、実際には戦死している可能性が極めて高い場合が多い。戦場では遺体回収や確認が不可能な状況も多く、確認不能のまま「行方不明」として処理されるのである。

創作作品では「実は生きていた」という再登場の伏線として使われやすいが、現実ではそのまま帰還しないケースが大半である。

そのため、MIA通知とは「死亡確認はできないが、おそらく戻らない」という極めて重い意味を含んだ報告だった。

【エアランド・バトル】

エアランド・バトルとは、冷戦期にアメリカ軍が構想した統合作戦ドクトリンである。

当時、ソ連軍は大量の機甲部隊による縦深突破戦術を重視しており、もし全面戦争となれば、西側は数的不利な状態で欧州戦線を戦わねばならなかった。

そのためアメリカ軍は、「敵の先頭部隊だけを防いでも押し潰される」という前提から発想を転換した。

具体的には、陸軍と空軍を密接に連携させ、前線で敵を食い止めつつ、航空戦力によって後方の予備兵力、補給線、指揮系統を徹底攻撃する構想だった。

つまり、敵前衛だけでなく「後続部隊が前へ出られない状況」を作り出し、縦深全体を分断・麻痺させることで、大規模機械化攻勢を崩壊させようとしたのである。

単なる防衛戦ではなく、高機動戦と航空優勢を組み合わせた「縦深打撃による機動防御」という点が特徴だった。

作中でターニャが言及しているのは、まさに連邦軍の大規模機械化突破に対抗するためには、本来こうした高度な陸空統合作戦が必要だったという意味である。

第陸章 叛逆

統一暦一九二八年一月十四日 東部

連邦軍「黎明」の思想

連邦軍の戦略攻勢「黎明」は、帝国軍との「付き合い」を拒絶する思想によって構築されていた。

立案者クトゥズ大将は、帝国軍が得意とする局地的反撃や戦術的奇襲へ付き合う必要はないと断言していた。帝国軍が小細工を仕掛けるなら、大兵力によって正面から圧殺すればよいという発想である。

そのため連邦軍は、「どこで戦うか」「どう戦うか」「いつまで戦うか」の全てを自軍側で決定することを重視した。戦場の主導権を完全掌握し、帝国軍へ反応する余地そのものを与えない構想だったのである。

組織戦としての黎明

「黎明」は単なる物量任せの攻勢ではなかった。

連邦軍は徹底して組織戦を追求し、砲兵、航空隊、機械化部隊、補給部隊、政治指導までもを一体運用していた。共産党から軍へ与えられた命令も、「戦争を終わらせる一撃」を実現せよという一点のみだった。

連邦軍は、そのために必要な人事と準備を積み重ねていた。無神論国家である彼らにとって、祈りとは徹底した事前準備そのものだったのである。

クトゥズの確信

クトゥズ大将は、「黎明」の全容を理解した者なら、その恐ろしさを認めざるを得ないと確信していた。

彼は、もしゼートゥーアが本当に噂通りの頭脳ならば、「黎明」を理解した瞬間、絶望するだろうと語っていた。なぜなら、この攻勢は戦術的妙技を競う戦争ではなく、「正しく準備された大軍」が徹底的合理性によって敵を潰す戦争だったからである。

クトゥズは、帝国という問題すら「鉄と血」で解決可能だと信じていた。

全縦深同時攻撃の開始

連邦軍は、東部全域で一斉砲撃を開始した。

重砲群とロケット砲群が、第一線だけでなく第二、第三抵抗線、砲兵陣地、補給線、通信線、予備陣地に至るまで徹底攻撃を実施したのである。

さらに航空優勢を活用し、砲撃圏外となる地点まで航空攻撃を加えることで、帝国軍防御体系全体を面として破壊していった。

続いて機械化部隊が複数波状攻撃を実施し、攻勢限界まで突破を継続する構想が展開された。

それは単なる突撃ではなく、「暴力の全てを計画へ奉仕させる」近代戦争の完成形に近いものだった。

帝国軍ドクトリンの宿痾

一方、帝国軍は過去の成功体験に従って行動していた。

帝国軍士官たちは、「敵攻勢を拠点で受け止め、その間に機動部隊が反撃する」という戦術思想を徹底教育されていたのである。内線戦略を成立させるため、各士官は積極行動と局地反撃を無意識レベルで叩き込まれていた。

そのため、砲撃を受けた各部隊は、自分たちこそ敵主攻点だと認識した。

「ここを守れば友軍反撃が成立する」と、誰もが当然のように考えていたのである。

しかし現実には、連邦軍の「黎明」では全戦線が主攻だった。

帝国軍は、「一点突破」という従来戦争観から抜け出せず、面全体で同時圧殺されるという概念そのものを理解できていなかったのである。

東部方面軍司令部の混乱

東部方面軍司令部では、凄まじい混乱が発生していた。

通信室には全戦線から「敵砲撃」「航空攻撃」「通信途絶」「機甲突破」の報告が殺到し、誰も全体像を把握できなかった。

さらに最悪なことに、視察へ出ていたラウドン大将とも連絡が途絶した。

「爆死した」「生存している」「襲撃を受けた」など矛盾した報告が飛び交い、司令部機能そのものが麻痺状態へ陥っていたのである。

世界初の戦争様式

帝国軍高級参謀たちは、「全戦線で主攻勢を受けているなどあり得ない」と困惑していた。

彼らにとって攻勢とは、選択と集中による一点突破だったからである。戦線全域を同時圧殺するという発想は、誰も経験していなかった。

しかし「黎明」は違った。

それは個人技ではなく、システムによって敵全体を破壊する「組織力の戦争」だった。砲兵、航空隊、機械化部隊、補給、情報、全てが一体化し、「面」で敵を押し潰していたのである。

帝国軍の誤認

帝国軍各部隊は、それでも従来通りの対応を選択した。

「陣地で耐えれば反撃部隊が来る」と信じ、持ち場死守を決断したのである。包囲されても、いずれ友軍が救出すると当然視していた。

しかし、その判断こそが連邦軍の狙いだった。

帝国軍が陣地へ固執し、戦線全域で拘束されれば、連邦軍機械化部隊は後方深くまで突破可能となる。帝国軍の「正しい反応」そのものが、「黎明」の罠だったのである。

唯一理解していた者

東部方面軍司令部も、各前線部隊も、まだ自分たちが何へ直面しているのか理解できていなかった。

ただ一人、ターニャ・フォン・デグレチャフ中佐だけが、「黎明」が従来戦争とは全く異なる戦争様式であることを理解していたのである。

同日 東部方面/サラマンダー戦闘団指揮所

東部方面軍司令部の崩壊危機

サラマンダー戦闘団指揮所では、ターニャ・フォン・デグレチャフ中佐が友軍通信を傍受し、東部方面軍司令部が深刻な混乱へ陥っていることを把握していた。

ラウドン大将が行方不明となり、司令部はなおも陣地防衛命令を維持していたのである。ターニャは、その判断が致命的だと即座に理解した。連邦軍の攻勢は単なる第一波に過ぎず、防御陣地へ固執すれば帝国軍は波状攻撃によって完全に磨り潰されると見抜いていた。

連邦軍の攻勢構造の理解

ターニャは、連邦軍が実施している攻勢を、過去の赤軍による縦深突破作戦と同種のものだと認識した。

冬季攻勢という常識外れの行動も、泥濘期到来前の凍結路面を利用することで機械化部隊の高速前進を可能とする合理的選択だと理解していた。また、帝国軍自身がパルチザン掃討によって整備した交通路すら、敵の進撃路へ転用されていると推測した。

さらに、越冬態勢に入っていた友軍部隊は位置を完全把握され、徹底攻撃を受けている一方、自分たちのように最近展開した部隊のみが把握を免れているとも判断した。

正規手続きでは間に合わない現実

ターニャは、帝国軍が生き残る唯一の道は即時の戦略的後退しかないと結論づけた。

敵の衝撃力を戦略縦深で受け流し、後退しながら敵の連絡線へ航空攻撃と阻止攻撃を加える以外に活路はないと分析したのである。しかし、彼女には全軍へ命令する権限が存在しなかった。

東部方面軍司令部を説得するにも時間が足りず、帝都のゼートゥーア大将を経由して正式命令を出させるにも遅すぎる。組織的手続きそのものが、破滅を加速させる状況になっていた。

命令偽造という禁断の発想

追い詰められたターニャは、ゼートゥーア大将名義で命令を偽装する構想へ到達した。

東部方面軍金庫には、かつてゼートゥーアが作成した「全面後退」を含む防衛計画メモが存在していることを思い出したのである。さらに、自分たちはイルドア戦役でゼートゥーア直属護衛部隊として専用暗号を受領しており、その暗号はまだ有効である可能性が高かった。

この暗号とレルゲン大佐の名義を組み合わせれば、「本物」と誤認させる命令を東部方面軍司令部へ送信できると確信した。

ターニャの葛藤

しかし、命令偽造は明白な軍律違反であり、発覚すれば銃殺刑は避けられなかった。

ターニャは、自分が善良で誠実な組織人であり続けようとしてきたことを自覚していたからこそ、軍律への正面対決に強い葛藤を抱いていた。だが、何もしなければ帝国は敗北し、自身もまた全体主義国家の支配下で破滅すると理解していた。

そのため彼女は、これを「叛乱」ではなく「緊急避難」だと自分へ言い聞かせ、帝国と自身の未来を守るために禁断の手段を選ぶ決意を固めた。

側近たちへの告白

ターニャは、ヴァイス少佐、セレブリャコーフ中尉、グランツ中尉を指揮所へ呼び出し、自らの計画を明かした。

彼女は、帝国軍東部方面軍が包囲殲滅の危機にあること、今すぐ後退しなければ共和国軍と同様に野戦軍を失うことを説明した。ライン戦線で帝国軍自身が実行した「斬首戦術」と同じ事態が、今度は帝国側へ向けられていると説いたのである。

ヴァイス少佐は当初、正規手続きを踏むべきだと激しく反対した。しかし、ターニャは「二カ月後には前線が五百キロ後退している」とまで断言し、野戦軍喪失が国家崩壊へ直結すると説明した。

部下たちの同意

ターニャは、自分が全責任を負うと明言した。

命令偽造も独断専行も全て自分一人の責任であり、部下には一切責任を負わせないと断言したのである。必要ならば、自分に脅迫されたと証言してもよいとすら語った。

その覚悟と論理を前に、最初にグランツ中尉が協力を決意した。続いてセレブリャコーフ中尉も同意し、最後にはヴァイス少佐も観念して支援を約束した。

偽命令発令計画

ターニャは、グランツ中尉へ超長距離飛行による将校伝令を命じた。

彼には帝都へ飛び、ゼートゥーア大将へ事情を直接説明させる役割が与えられた。同時に、東部方面軍司令部へはゼートゥーア大将名義による暗号命令を発信し、「全面後退」「死守命令禁止」「戦略縦深利用」を命じる計画を始動させた。

これは、後からゼートゥーア本人による追認を得ることで、命令偽造を「必要な独断専行」へ変える賭けでもあった。

帝国救済への決意

ターニャは、自分たちだけで帝国を救うのだと部下へ宣言した。

サラマンダー戦闘団は本来再編途中であり、即応可能なのは魔導大隊程度しか存在しなかった。それでもターニャは、機動力を優先して魔導部隊中心で戦う方針を決定した。

さらに、東部方面軍司令部への空挺降下まで想定し、自軍地上戦力は司令部防衛名目で温存させることを決めた。友軍崩壊へ巻き込まれることを避ける意図もあったのである。

そしてターニャは、なおも最悪の可能性――第二梯団だけでなく第三梯団すら存在する可能性――を考慮しながらも、絶望するにはまだ早いと部下たちへ告げた。

息がある限り希望はあるとして、帝国を救うための戦いへ踏み出したのである。

解説

【ブルース・マッカンドレス】

ブルース・マッカンドレスは、アメリカ海軍の通信士官であった。

戦闘中、砲撃によって提督・旗艦艦長・幕僚の大半が戦死するという異常事態が発生したため、彼は戦死した提督の名義を用いて命令を発令し、艦隊の指揮系統維持を試みた。

本来であれば、上官名義を用いた命令発出は重大な規則違反と見なされかねない行為であり、裁判沙汰になる可能性すらあった。

しかし最終的には、その独断が戦局維持に必要な合理的措置だったと評価され、処罰ではなく名誉勲章授与という形で顕彰された。

本編においてターニャ・フォン・デグレチャフが思い浮かべていたのは、この「非常時における独断専行が、結果次第では追認されうる」という前例であった。

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