小説「アルプス席の母」2025年本屋大賞第2位 感想・ネタバレ

小説「アルプス席の母」2025年本屋大賞第2位 感想・ネタバレ

物語の概要

本作は、高校野球を題材とした青春小説であり、母と息子の絆を描いた感動作である。主人公・秋山菜々子は、神奈川県で看護師として働きながら、一人息子の航太郎を育てている。航太郎は中学時代、湘南のシニアリーグで活躍し、多くのスカウトから注目を集めていたが、彼が選んだ進路は、甲子園出場経験のない大阪の新興校であった。航太郎の夢を支えるため、菜々子も大阪に移住し、新たな生活を始める。不慣れな土地での生活、厳格な父母会の掟、そして激痩せしていく息子。母と子、それぞれの立場で試練に立ち向かい、夢の実現を目指す姿が描かれている。

主要キャラクター

• 秋山菜々子:主人公。神奈川県で看護師として働くシングルマザー。息子・航太郎の夢を支えるため、大阪に移住する。
• 秋山航太郎:菜々子の一人息子。中学時代に湘南のシニアリーグで活躍し、大阪の新興校に進学。甲子園出場を目指す。
• 香澄:航太郎のチームメイト・陽人の母親。シングルマザーとして菜々子と共に息子たちを支える 。

物語の特徴

本作は、従来の高校野球小説とは一線を画し、母親の視点から物語が展開される点が特徴である。球児たちを支える母親たちの奮闘や葛藤、そして成長が丁寧に描かれており、読者はスタンドから試合を見守るような感覚で物語に引き込まれる。また、父母会の厳格な掟や、選手たちのプレッシャー、監督の苦悩など、野球部を取り巻くリアルな人間模様が描かれている 。

書籍情報

アルプス席の母
著者:早見和真 氏
出版社:小学館
発売日:2024年3月15日
ISBN:978-4-09-386713-9
関連メディア展開:Audible版(朗読:河井春香)
受賞歴:2025年本屋大賞第2位

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あらすじ・内容

秋山菜々子は、神奈川で看護師をしながら一人息子の航太郎を育てていた。湘南のシニアリーグで活躍する航太郎には関東一円からスカウトが来ていたが、選び取ったのはとある大阪の新興校だった。声のかからなかった甲子園常連校を倒すことを夢見て、息子とともに、菜々子もまた大阪に拠点を移すことを決意する。

不慣れな土地での暮らし、厳しい父母会の掟、激痩せしていく息子。果たしてふたりの夢は叶うのか!?

補欠球児の青春を描いたデビュー作『ひゃくはち』から15年。主人公は選手から母親に変わっても、描かれるのは生きることの屈託と大いなる人生賛歌!

かつて誰も読んだことのない著者渾身の高校野球小説が開幕する。

アルプス席の母

感想

『アルプス席の母』は、母親の目線から描かれる高校野球という、これまであまり語られてこなかった視点に光を当てた意欲作であった。
読み進めるうちに、高校野球が単なる青春スポーツではなく、家族とくに“母”という存在の重みと複雑な感情を巻き込んだ、人生そのものの縮図であることに気づかされた。

とりわけ印象に残ったのは、主人公・秋山菜々子が一人息子・航太郎の夢のために神奈川から大阪へ移住し、厳しい父母会や新たな人間関係と向き合いながらも、息子を支え続ける姿であった。
強豪校になろうとするチームにおいて、選手たちの努力と同様に、保護者たちの見えない戦いも存在するというリアルな描写が胸に迫った。

息子がネズミ(離断性骨軟骨炎)を抱えながらも登板を続ける場面では、高校生がそこまでして投げる現実に涙を誘われ。
その一方で、「強豪になろうとするなら裏金なんか使わずに正式な資金を使え」と言いたくなるような、矛盾をはらんだ現実に思わず苦笑もこぼれた。
裏金によって作られた“伝統”が、誰のためのものなのかと考えさせられる構造も実に興味深かった。

菜々子の母としての成長もまた、本作の大きな軸となっていた。
はじめは“関東のよそ者”として浮きがちな存在だったが、香澄という良き理解者に出会い、信頼と友情を築いていく様子は温かく、心に沁みた。
家庭内の問題や地域特有の濃密な人間関係にも巻き込まれながら、母として、ひとりの人間として揺れ動く菜々子の心情が丁寧に描かれていた。

また、航太郎の目まぐるしい成長も大きな見どころであった。
肘の手術、ピッチャーから内野手への転向、最上級生としての役割、そして“補欠”という立場のなかで、自分の役割を自覚し、誇りを持って野球に向き合う姿は清々しく。
母としては不安もあっただろうが、航太郎の「やりきった」姿に、救われた気持ちになった。

さらに読み進めるうちに、航太郎の物語を本人の視点で読んでみたいという気持ちも湧いてきた。それほどに、彼の内面と決断には説得力があり、読者の共感を呼ぶ。
試合に勝つことだけではない、負けることや挫折を通して人は何を得るのか──それを親と子の両面から描き切った本作は、まさに“誰も読んだことのない高校野球小説”という言葉にふさわしい一冊であった。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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登場キャラクター

秋山 菜々子

航太郎の母であり、シングルマザーとして息子を支え続ける存在である。父母会に関与しながらも、息子との絆を最優先に考え続けてきた。
・看護師として働きながら、息子の進路と成長を支える
・希望学園入学後、父母会役員に任命され、内部の人間関係に翻弄される
・航太郎の寮生活を見守るため大阪に移住し、常に近くで支える道を選ぶ
・監督との衝突や裏金問題などを通じて、母としての苦悩と覚悟を深める

秋山 航太郎

物語の中心人物であり、母・菜々子と共に歩む高校球児である。野球に対する真摯な姿勢と、仲間や母親との関係性を通して成長を遂げていく。
・西湘シニアに所属後、希望学園野球部に進学
・和歌山県知事杯決勝で原凌介に投げ勝ち、希望学園から特待生として誘われる
・高校入学後はエースとして活躍するも、肘の故障により投手を辞退し、内野手へ転向
・寮長として後輩を支える一方、控え選手としてもチームを精神的に支える存在となる

秋山 健夫

菜々子の夫で、航太郎の父親。物語開始時にはすでに故人であるが、その存在は母子の精神的支柱として繰り返し想起される。
・航太郎が幼少時に死去
・山藤学園への憧れや野球への情熱の原点となる会話を交わしていた

馬宮 香澄

希望学園野球部員・陽人の母であり、開業医として働く母子家庭の保護者。菜々子の理解者であり、心の支えとなる存在である。
・息子と共に希望学園に関与し、菜々子と懇意にしている
・裏金問題に対し強く反発する一方、最終的には息子のために納得
・週末の語らいや励ましを通じて、菜々子の信頼を得ていく

馬宮 陽人

希望学園の野球部員で、航太郎のチームメイト。先輩との関係に苦慮しながらも、母との信頼関係は強い。
・航太郎と同学年であり、情報交換を通じて母親同士の関係に貢献
・母への連絡などを通して、間接的に菜々子へ情報を届ける

原 凌介

山藤学園のエースであり、航太郎が中学時代から意識してきたライバル的存在である。
・和歌山県知事杯で視察対象となった逸材
・希望学園との決勝戦では主力投手として登板し、菜々子の注目を集める

西岡 宏美

西岡蓮の母であり、父母会内で強い影響力を持つ存在。積極的に他者へ関わりを持ち、主導権を握ろうとする傾向がある。
・希望学園入学時に菜々子へ接触し、連絡先を交換
・父母会の幹部役員就任を菜々子に打診し、実質的に承諾させた
・二年生になってからは佐々木夫妻と対立し、派閥構造の崩壊に関与

西岡 蓮

東淀シニア主将であり、希望学園に進学した後はキャプテンを務める。責任感の強い熱血漢である。
・希望学園に進学後、航太郎のルームメイトとなる
・母・宏美の強い影響を受けながらも、徳を重んじる姿勢を見せる
・物語後半では人間味と年長者らしい配慮が描かれている

佐伯 一成

希望学園野球部の責任者であり、航太郎をスカウトした人物。野球への情熱はあるが、指導方針に対し批判的意見も存在する。
・航太郎を決勝戦後にスカウトし、特待生として迎え入れた
・監督として甲子園出場を狙うも、采配や発言をめぐり保護者と対立する場面も多い
・寄付金問題や会話中の対応により、菜々子との関係が悪化

大竹

航太郎の中学時代の監督。山藤への進学相談を受ける立場だが、当初は信頼されていなかった。
・喫茶店で菜々子と面談し、進学先の選択肢を提示
・共成学院からの特待生打診を伝えるが、最終的に山藤志望を後押し

内田

山藤学園の監督であり、選手たちから尊敬を集める人物。航太郎も憧れを抱いていた。
・和歌山県知事杯の決勝戦を視察に訪れる
・試合後に航太郎の肘の異常に気づき、自己管理の重要性を説く
・「犠牲」という言葉を否定し、選手の人生を尊重する姿勢を示す

前田 亜希子

希望学園三年生の父母会長の妻であり、菜々子にとって相談相手となる存在。過去の自分を語ることで信頼を深める。
・見た目とは異なる経歴を持ち、菜々子と親密になる
・喫煙所での会話を通じて、母としての悩みや葛藤を共有

江波 透子

二年生の保護者で、会計係を務める。父母会の内部構造や派閥の実態を菜々子に伝える役割を担う。
・寄付金の徴収を巡り、菜々子と共に活動
・監督への金銭の手渡し時には同席し、立場の違いに理解を示す

江波 政志

透子の夫であり、監督への金銭手渡しに同席した保護者。冷静に立ち回り、場を取り持つ姿が描かれる。
・監督室でのやり取りに同席し、緊張を和らげる役割を果たす

佐々木 太陽

希望学園野球部二年生であり、新チーム発足時にキャプテンを務めた。強い責任感を持ち、後輩を鼓舞する存在である。
・夏の大会敗退後、保護者や後輩に向けた言葉でチームをまとめた
・チームに対する思いと責任を抱え、心の葛藤をにじませる

裕子

本城クリニックの看護師長であり、菜々子の勤務先の同僚。標準語で接するその姿に菜々子は安心感を覚えている。
・菜々子の悩みに耳を傾け、気持ちを和らげる存在
・香澄とともに食事に同行することもある

本城

大阪の医院に勤務する医師であり、菜々子と航太郎を支援する立場にある。母子家庭出身で、共感的な姿勢を示す。
・航太郎とのキャッチボールを通して親しみを深めた
・菜々子の支えになることを明言し、励まし続けている

田中(希望学園野球部コーチ)

希望学園野球部のコーチであり、父母会との連絡役を担っている。
・入寮初日に父母への見学禁止を通達
・懇親会では父母に対して協力を呼びかけた

佐々木(父母会長)

父母会の新会長であり、佐々木太陽の父親。父母会の実権を握る存在である。
・役員構成においてベンチ入り選手の親を優遇する方針を取る
・寄付金徴収などに関して否定的な姿勢を見せる

展開まとめ

母になりたかった少女への想い

秋山菜々子は、娘と姉妹のように歩く未来を夢見ていた。しかし現実には、十七年前に息子を産み、母としての歩みを続けてきた。ふとした瞬間、もし娘だったらという仮定が胸をよぎり、今の自分と向き合う時間が流れた。

灼熱の甲子園と意識の飛躍

阪神甲子園球場のアルプス席に座る菜々子は、真夏の強烈な陽射しと歓声に意識が遠のいていた。延長十一回、スコアは四対四。周囲の呼びかけでようやく我に返ると、息子・航太郎が出場するとの報に心が揺れた。

伝令としての登場と喜び

ベンチから背番号18をつけた航太郎が飛び出す。甲子園では十八人のみがベンチ入りを許されるため、選ばれなかった仲間たちの声援が響く中、彼は「伝令」としてグラウンドに向かった。仲間に囲まれたその姿に、菜々子は彼の喜びを背中越しに感じ取っていた。

息子の決意と野球との別れ

かつて航太郎は、夏の地方大会前に「野球は高校で終わりにする」と告げていた。野球に人生を捧げることはせず、将来は高校野球の監督を目指す意志を見せた。母として複雑な想いを抱えつつも、菜々子はその成長した姿に心を揺らした。

最後のユニフォーム姿

マウンドで伝令を終えた航太郎が仲間を鼓舞する姿を、菜々子は目を離さず見つめていた。これが最後のユニフォーム姿になるかもしれないという覚悟と共に、その瞬間を目に焼きつけようとしていた。

抑えきれなかった衝動

ベンチへ戻る航太郎を見て、菜々子は思わず彼の名前を叫んだ。父母会の厳格なルールを破ったその行為は、周囲の保護者を驚かせたが、菜々子の心は揺るがなかった。亡き夫の遺影を掲げ、ただただ息子への応援を叫び続けた。

確かなまなざしと母の確信

歓声の中で、航太郎がこちらを振り向いた。声は届かなくとも、菜々子には彼が確かに自分を見たと分かった。涙があふれ、過去の記憶が走馬灯のように蘇った。中学生だった彼が、この高校を選んだ日の記憶が、母の心を強く打った。

進路

進路の相談と夕食の光景

中学二年の秋、航太郎は珍しく父の仏壇に手を合わせたのち、「高校をどうしたらいいか」と母・菜々子に問いかけた。神奈川の小さなアパートで交わされたその会話は、これまで曖昧だった息子の進路に対する初めての言及であった。菜々子は動揺を隠しつつも、丁寧に航太郎の言葉を引き出そうと努めた。

白米に込めた成長の願い

小学生時代、航太郎は「身体を大きくしたい」と言い、炊きたての白いご飯に強い執着を見せた。菜々子は看護師として働きながらも、息子のために毎日炊飯を欠かさず続けた。成長とともにその食欲は増し、中学に上がる頃には身長180センチを超えるようになっていた。

進路の話題と父の不在

菜々子は夫・健夫を失ってから、野球に関する重要な判断を一人で担っていた。監督からも進路についての相談を求められていたが、菜々子はあくまで息子の意思を尊重し、口出しを控えていた。ようやく航太郎の口から出た「山藤に行きたい」という言葉は、菜々子にとって驚きというより確信に近いものであった。

夢の原点と亡き父との約束

幼い頃、山藤学園の強さに圧倒された航太郎は、父とともに「山藤で野球をやりたい」と夢を語っていた。健夫の死を機にその話題は封印されていたが、航太郎の胸には確かにその想いが残されていた。

山藤への壁と母の覚悟

山藤は野球推薦のみで選手を採用し、関西圏の出身者が中心であった。航太郎には縁も情報もない学校であり、どうすれば入部できるのかも不明であった。菜々子は、信頼できないと感じていた監督・大竹に話を持ちかける決意を固めた。

大竹との対話と提示された選択肢

大竹は喫茶店での面談で、航太郎にはすでに複数の高校から誘いがあることを明かした。中でも千葉の共成学院は、三年間の学費・寮費・用具費を全額負担する「完全特待生」として迎えたい意向を示していた。だが、菜々子は航太郎が自ら選んだ山藤への想いを重視し、安易な条件に屈しなかった。

本気の意志とスカウトの可能性

菜々子は大竹に食い下がり、山藤学園の監督が毎年視察に訪れる「和歌山県知事杯」の存在を知る。その大会が、唯一のチャンスかもしれないと考え、そこに懸ける決意を固めた。

息子への報告と新たな目標

菜々子は航太郎に現状と選択肢を丁寧に説明し、山藤に挑戦するためには和歌山大会でアピールするしかないことを伝えた。航太郎は冷静にその情報を受け止め、仮に山藤が叶わなければ、京浜高校への進学を視野に入れると語った。

別れの予感と母の祈り

航太郎は、寮生活によって母と離れて暮らす未来を口にした。菜々子は寂しさを感じながらも、息子の夢を最優先に支える決意を示した。限られた時間の中で、共に過ごす一瞬一瞬を大切にしようという想いが、静かに二人を包んでいた。

和歌山県知事杯への挑戦と仲間への思い

十一月、冬の風が吹き始めた和歌山で、航太郎が所属する西湘シニアは和歌山県知事杯の決勝進出を果たしていた。試合の展開は決して順調ではなかったが、彼の内に秘めた意気込みは並々ならぬものであった。憧れの山藤学園の内田監督が試合を視察に来る可能性、そして大会結果が仲間たちの進路を左右するという事情が重なり、責任感は極限に達していた。大竹監督も「みんなのために頑張れ」と強く発破をかけ、プレッシャーを与えていた。

本調子を欠く中での孤軍奮闘

寒さに弱く調子を崩しがちな航太郎は、和歌山では明らかに本来の力を出しきれていなかった。それでもすべての試合を一人で投げ抜き、大会を勝ち進んだ。予選から接戦が続く中、「下級生も投げさせる」という約束は果たされることなく、彼はチームの命運を一身に背負っていた。その姿は、試合中に感情を表に出すほど切実であり、背番号「1」が誰よりも重く見えていた。

個人よりもチームを背負う姿

かつて仲間の敗北に一人だけ涙を見せず、冷淡だと揶揄された航太郎が、この大会では違っていた。彼は紛れもなくチームの象徴として奮闘し、責任を背負う覚悟を見せていた。大竹の与えたプレッシャーは結果的に彼を奮い立たせ、試合への執念を引き出していたのである。

決勝前夜の衝撃と内田監督の訪問

決勝戦の前夜、航太郎と菜々子は宿舎のロビーで大竹監督に呼び出された。大竹は突然、翌日の試合に山藤学園の内田監督が来場するという情報を明かす。しかし視察の目的は航太郎ではなく、対戦相手・東淀シニアの原凌介と西岡蓮であるという。原は夏の全国大会を制した実力者であり、航太郎もその存在を意識し続けてきた。大竹は、観戦の副産物として航太郎が目に留まる可能性を示唆し、「原より優れた投手であることを証明しろ」と命じた。

二人の静かな時間と母の願い

その夜、菜々子は無言のまま去ろうとする航太郎を呼び止め、外の喫煙所へ誘った。喫煙は菜々子にとって亡き夫・健夫との記憶を繋ぐものであり、航太郎の理解を得るのは難しかったが、言葉ではなく静かな共有の時間が二人を結びつけた。特別な会話はなかったが、その沈黙は深い意味を帯びていた。

航太郎の決意と尊敬への目覚め

沈黙の中、航太郎はふと口を開き、山藤の内田監督が選手やOBから人格者として尊敬されていると語った。その言葉から、大竹への不信感と、内田監督の下で野球をしたいという静かな願望がにじみ出ていた。菜々子はその思いに気づき、笑いながらも励ましの言葉を贈った。

母子の絆と明日への希望

菜々子は「チームのためではなく、自分のために頑張って」と伝えた。それに対し航太郎は、真っ直ぐな眼差しで「悔いのないようにやってくる」と答えた。その言葉には、母の願いと少年の覚悟が詰まっていた。決戦の朝を目前に、二人の間には言葉以上の信頼と決意が確かに存在していた。

決勝戦当日の快晴と盛り上がり

決勝戦当日は雲ひとつない快晴であった。東淀シニアが夏の全国大会優勝校であったこともあり、会場には多くの観客が詰めかけ、異様な熱気に包まれていた。西湘シニアの保護者たちはアウェーの空気を吹き飛ばすように、これまで以上の声援を送った。

航太郎の好投と内田監督の登場

試合序盤、航太郎は完璧な立ち上がりを見せ、三回までランナーを一人も出さない投球を続けた。一方、東淀の原は調子を欠き、西湘が三点を先制した。その頃、観客席のざわめきの中に山藤学園の内田監督の姿が確認され、菜々子は動揺しながらも、その存在に高揚した気持ちを抑えようとした。

終盤の苦境と劇的な勝利

後半に入り、原が調子を取り戻し、航太郎の球威は徐々に落ち始めた。三対二で迎えた最終回、満塁のピンチで原を迎えた航太郎は、最後の渾身のストレートで見逃し三振を奪い、チームを勝利に導いた。歓喜に沸く中、航太郎の視線は内田監督の方へと向けられていた。

内田監督との邂逅と厳しい問いかけ

試合後、菜々子は内田監督の元へ航太郎を連れて行こうとし、航太郎もそれに応じた。挨拶の場面で内田監督は航太郎の肘の痛みに気づき、それを問いただした。航太郎は大会前から痛みがあったことを認めたが、誰にも相談していなかったと述べた。内田は自己管理の甘さを指摘しつつも、「犠牲」という言葉を嫌い、野球のために選手の人生が損なわれるべきではないと説いた。

母子の後悔と誓い

肘の痛みを察してあげられなかったことに、菜々子は後悔の念を抱いた。しかし航太郎は「自分のために無理をしただけだ」と語り、悔いはないと強がって見せた。その思いを受け止め、菜々子はただ黙って彼の背に手を添えた。

佐伯との出会いと新たな誘い

その直後、希望学園の佐伯と名乗る男性が航太郎に声をかけてきた。彼は航太郎の実力を高く評価し、特別特待生としての進学を打診した。希望学園は元女子校であり、共学化してまだ数年の新興校であるが、甲子園出場を目指す本気の体制を整えているという。

西岡の存在と航太郎の決意

佐伯の言葉の中に、決勝戦で対戦した東淀シニアの主将・西岡が同校に進学予定であることが含まれていた。これに大きく心を動かされた航太郎は、迷いなく希望学園への進学をその場で宣言した。佐伯は驚きながらも受け止め、今後の連絡を約束してその場を離れた。

母の戸惑いと息子の覚悟

菜々子は、航太郎の即断が内田監督に断られた悔しさによる衝動ではないかと疑った。しかし航太郎は、希望学園の実力や佐伯の指導に強い関心を抱いており、将来の夢であるプロ入りへの道を見据えていた。特待生枠を用意するほどの期待に応えたいという思いもあり、迷いはなかった。

希望への一歩

航太郎の覚悟は固く、菜々子が制止する間もなく彼は進路を選び取った。佐伯の背中を見送ったあと、菜々子は複雑な感情を抱きながらも、航太郎の背中にこれからの希望学園のユニフォームを重ねていた。希望に満ちた決断の一歩は、冷たい風の中で静かに踏み出された。

希望学園への不信と葛藤

菜々子は、航太郎が希望学園への進学を取り下げることを内心で期待していた。その一方で、自身がその学校に対して否定的な印象を持っていることを自覚した。検索によって得られた希望学園の情報は否定的なものが多く、菜々子の不安を増幅させた。さらに、「全額免除」という特待制度に惹かれている航太郎の様子から、本人の意思が固まりつつあることを感じ取っていた。

不安の増幅と大阪への反感

進学への結論が近づくにつれ、菜々子の苛立ちは募り、逆恨みと知りつつも大阪そのものに対して嫌悪感を抱くようになった。航太郎の希望を尊重したい気持ちはあるものの、彼女は自身の本音を伝えることなく、心中に複雑な想いを抱えていた。

西岡蓮の電話と航太郎の決意

ある日、希望学園の進学内定者である西岡蓮からの電話により、航太郎の進学への意志が一気に強まった。西岡は熱意をもって勧誘し、希望学園には全国から実力選手が集まっていることを語った。航太郎はその言葉に大きな刺激を受け、明るい表情で語るようになった。菜々子は、佐伯が西岡を使って説得させたことに対して複雑な思いを抱いたが、息子の喜びを否定することはできなかった。

母子の大阪訪問の決断

希望学園を実際に見るため、菜々子は航太郎とともに大阪を訪れる決意をした。夜行バスで移動し、現地でレンタカーを借りて羽曳野市を目指した。道中、菜々子は不安を抱えつつも、快晴の空と穏やかな時間が彼女の気持ちを徐々に和らげていった。

街の印象と変化する感情

学校近くの高台から見下ろす街の風景は、菜々子にとって馴染みのないものだった。しかし、青空と桜並木に心を癒された彼女は、「いい街じゃない」と素直に口にした。その言葉に対し、航太郎は突如「池田さんと結婚していい」と語り、母の人生を応援する気持ちを示した。

母の決断と新たな生活への意志

航太郎の言葉に対し、菜々子は池田との関係には答えず、自身の新たな決意を明かした。それは、自分も羽曳野に住み、息子の近くで生活するという選択であった。医療職という自立した立場を活かし、三年間を共に過ごすことを心に決めた。

母子の再出発

その決意に航太郎は呆れたように笑ったが、菜々子は迷いなく行動する覚悟を抱いていた。空から一枚の花びらが舞い落ちる中、母子はそれぞれの未来に向けて静かに歩き出したのである。

母と子の旅立ちと新生活への準備

卒業と引っ越しの日々

菜々子は中学校の卒業式で涙を流し、別れの寂しさは乗り越えたつもりでいた。翌日には荷物を大阪へ送り出し、これまで暮らしたアパートを退去した。リビングの壁に残った航太郎の拳による穴を見て、大家はそれを「未来のプロ野球選手の痕跡」として残すと冗談交じりに語った。温かな別れの雰囲気のなかで部屋の鍵を返却し、母子は新たな生活へと踏み出した。

別れと未練の交錯

アパートの見送りには、航太郎の恋人・恵美と、長年家族を支えてくれた池田も立ち会った。池田とは最後まで踏み込んだ関係には至らなかったが、菜々子にとってその存在は大きかった。池田は菜々子の旅立ちを気遣いながらも、最後に弁当を渡して静かに見送った。恵美もまた、別れを惜しみ涙を浮かべた。

新生活の開始と苦難の洗礼

大阪への移動後、菜々子と航太郎は新居での生活を始めた。だが、鍵の受け取りに不動産業者が遅れた上に、家具の搬入時には家財が雨に濡れ、洗濯機の設備にも不備があった。入居初日から不安と疲労が積み重なり、菜々子は慣れない街で孤独を強く実感した。川沿いに咲く桜を楽しみにしていたが、大雨でその風景すら見えなかった。

新天地での支えと励まし

天候が回復した頃、菜々子は地元の医院での面接に臨んだ。医師の本城は航太郎にも親しみを見せ、駐車場でのキャッチボールを通じて交流を深めた。本城は自らも母子家庭出身であることを語り、航太郎に甲子園での活躍を期待するとともに、菜々子の支えになると約束した。心強い言葉と笑顔に、菜々子は救われた思いを抱いた。

母の涙と息子の旅立ち前夜

入寮を翌日に控えた夜、菜々子は航太郎の好物を並べ、手料理で最後の夕食を用意した。外食を予定していたが、航太郎の「最後は母の料理が食べたい」という希望がきっかけだった。食卓に並ぶ料理を前に、菜々子の涙は止まらなかった。さびしさの質が、夫を失ったときとは異なることに気づき、それを口にした。

不安の共有と母子の対話

涙を見せる菜々子に、航太郎は「寮生活が憂鬱」と本音を明かした。これまで寝起きが悪く、母に頼ってきた自分が、今後は自力で生活することへの不安を抱いていた。菜々子はそれを今さらながら理解し、ただの希望や喜びだけではない息子の心情を受け止めた。

グローブに込められた思い出

買い物中、菜々子は航太郎に必要なものがあるかを尋ねたが、彼はテーピングが切れそうだとしか言わなかった。母のすすめでグローブの購入を提案されたが、航太郎はそれを断った。彼が長く使っていたグローブは、亡き父・健夫が事故に遭う前に買ってくれたものだった。それはただの道具ではなく、父との思い出が宿る大切な品であり、彼はそのことを今まで母に話していなかった。

息子の自立と母の決意

航太郎がグローブに込めた思いを知った菜々子は、改めて自分が何も知らずにいたことを痛感した。同時に、航太郎が父を失って以降、気を張りすぎていたこと、良い子でいようと努めていたことに気づいた。彼のやさしさが、時に母としての無力さを突きつけてくることもあった。

それぞれの覚悟

航太郎は、本城への感謝とともに「母をさみしい思いをさせないでほしい」と頼んだ。それは彼なりの覚悟の表れであった。本城もその言葉を真摯に受け止め、母子それぞれの道を応援する姿勢を見せた。菜々子は、自分たちが周囲の人々のやさしさに支えられて生きていることを実感し、涙ではなく笑顔でその気持ちに応えようとした。

そして新たな朝へ

忙しない日々の中、ようやく少しの安堵を得た菜々子は、旅立ちを迎える朝を静かに待った。息子の成長と、自身の変化をかみしめながら、新しい生活に向けて歩み始めたのである。

出発前の朝と平静の演技

入寮当日、菜々子は昨夜の涙を引きずることなく、凛とした気持ちで朝を迎えた。航太郎も予想に反して早く眠りにつき、朝は普段と変わらぬ様子で過ごしていた。二人は互いに平常心を装いながら、朝食や日課を淡々とこなし、入寮の話題を避けていた。

出発と静かな決意

荷物の多くは前夜のうちに車へ積み込まれており、準備は整っていた。家から学校までの短い道のりで、菜々子は春の陽光とほころび始めた桜に目を留めながら、これまで抱いてきた不安の朝が訪れたことを実感していた。

寮への到着と周囲への違和感

希望学園の野球部寮〈蒼天寮〉に到着すると、全国各地から集まった家族がいた。父親が同行している家庭も多く、母親たちは派手な装いで談笑していた。その様子に菜々子は居心地の悪さを感じ、自身の服装選びに迷った時間が滑稽に思えた。

寮内の様子と西岡家との再会

寮の部屋は清潔で整っており、菜々子の不安はやや和らいだ。そこへ現れたのは、西岡蓮の父であり、息子のルームメイトとなる航太郎を歓迎した。さらに、和歌山で対戦経験のある西岡蓮本人とその母・宏美とも再会した。宏美は親しげに菜々子に接触し、強引に連絡先の交換を求めるなど距離の詰め方に違和感を覚えさせた。

戸惑いと孤独の兆し

宏美の忠告により、菜々子は車を監督専用スペースから移動させたが、周囲との温度差に戸惑いを深めていった。その間に航太郎はミーティングに呼ばれ、菜々子は別れの言葉も交わせないまま立ち尽くしていた。

保護者たちの空気と選手の整列

蒼天寮前に集まる保護者の輪に加わった菜々子は、標準語による自己紹介を揶揄され、地方との文化の違いにさらなる孤独を感じた。やがて選手たちが整列し、真っ赤なジャージ姿で姿を現すと、場の空気は一変した。

監督の厳格な姿勢と別れの瞬間

監督・佐伯は険しい表情で選手に接し、理不尽を耐え抜く覚悟を求める挨拶を行った。その態度に菜々子は反発を覚えつつも、息子の成長を信じるしかなかった。選手たちがグラウンドへ駆け出す中、航太郎だけが菜々子に振り返り、静かにうなずき合った。

父母会の宣言と現実の重み

コーチの田中は、今後しばらくは保護者の見学ができないことを伝え、父母会長・佐々木が登壇した。彼は希望学園の実績を語り、名門校に子を預ける自覚と責任を強調した。配布された十数ページに及ぶ父母会心得を前に、菜々子は自分もまた特殊な世界に足を踏み入れたことを実感した。

新たな日々への不安と覚悟

手渡された資料を眺めながら、菜々子は喉の渇きを覚えた。航太郎だけでなく、自分自身もこの日を境に、これまでとはまったく異なる日々を歩むことになると理解したのである。

入寮後2ヶ月

気詰まりな週末の始まり

菜々子は勤務先の本城クリニックで、看護師長の裕子からため息の理由を尋ねられていた。息子・航太郎との二ヶ月ぶりの再会を控えていたが、気分は晴れなかった。懇親会への不安がその原因である。裕子とは親しい関係にあり、彼女の距離感や標準語に安らぎを感じていた。大阪での生活に慣れつつあったものの、地域特有の半歩近い人間関係に違和感を覚えていた。

思いがけない出会いと気持ちの転換

気が進まないながらも、裕子に誘われ焼き肉店「富久」へ出かける。そこには新たに紹介された馬宮香澄がいた。開業医でありながら親しみやすく、菜々子はすぐに好意を抱いた。香澄もまた母子家庭であり、息子・陽人が航太郎と同じ希望学園の野球部に在籍していたことが明かされ、共通点を通じて心を通わせた。香澄の存在が、菜々子にとって心強い味方となっていく。

希望学園への訪問と不安の兆し

翌日、菜々子はバスで希望学園を訪れた。校内の立派なグラウンドを前に、かつての感動とは異なる威圧感を覚える。現地では母親たちがグループを形成しており、菜々子は香澄の姿を見て安堵するが、西岡宏美に呼び出される。宏美は息子の進路や過去の経緯を打ち明けたうえで、菜々子に父母会の幹部就任を依頼した。菜々子は戸惑いながらも押し切られる形で承諾した。

懇親会での役員選出と周囲の視線

一年生の保護者による懇親会では、宏美が主導して役員の選出が進められた。菜々子も名指しで指名され、やむなく役員に加わった。役員の母親たちは強い意志を示していたが、菜々子にはその場の空気に流されたという感覚があった。宏美は父母会を改革しようと意気込みを語り、それに周囲も呼応していた。

上級生の保護者との確執

懇親会後の三学年合同の集まりで、菜々子は三年生の会長・前田に声をかけられる。前田は関東出身で、同じ境遇の菜々子に共感を示した。彼の妻・亜希子も菜々子を気遣い、心の支えとなる。しかし二年生の保護者たち、とりわけ佐々木会長の妻・美和子らは、菜々子に対して陰湿な態度を取った。些細なことを問題視し、孤立させようとするその態度に、菜々子は理不尽さを覚えた。

痩せ細った息子との再会と焦燥

グラウンドでは航太郎が一年生ながら先発投手を任されていた。しかし、その姿は驚くほど痩せ細っていた。過酷な練習が原因と思われるが、母親としての不安は拭えなかった。懇親会ではコーチの田中が保護者に対して協力を求め、チームの課題や展望を説明した。

役員としての重圧と母親たちの温度差

役員を務めることになった菜々子は、他の母親たちの気迫や熱意に圧倒されながらも、居場所のなさを感じていた。三年生の親たちは優しく接してくれたが、それを快く思わない二年生の母親たちは菜々子を疎外し、細かな点まで責め立てた。グラウンドでの行動に対する苦情や、公共交通の利用に関する非難も浴びせられた。

仲間の存在と新たな決意

厳しい人間関係の中でも、香澄の存在が菜々子の救いとなった。同じ立場にいる者を孤立させないためにも、週末のグラウンド通いを続ける覚悟を固めた。航太郎の変化に胸を痛めながらも、彼を見守るための母としての責任を、菜々子はあらためて強く自覚していた。

香澄との金曜の語らい

七月最初の金曜日、菜々子はいつものように香澄と二人で食事を共にした。裕子が同席することもあるが、最近は二人きりの時間が多かった。香澄は酒を飲めない体質で、もっぱら車で来店し、帰りには菜々子を送っていた。互いに母子家庭で、医療や結婚、息子との関係まで多様な話題を語り合うような間柄になっていた。香澄は国立大学の医学部出身で現在は開業医として働いており、その人柄と生き方に菜々子は深い尊敬の念を抱いていた。

航太郎の快挙と予期せぬ情報

この日、香澄は陽人から聞いたとして、航太郎が夏の大会のベンチ入りを果たし、エースナンバーを与えられたと話した。しかし、菜々子はその事実を何も知らされておらず、驚愕した。香澄によると、陽人は先輩の目を盗んで公衆電話から連絡してきたという。なかにはスマートフォンを寮に持ち込む者もいるらしく、情報の出所には驚くばかりであった。航太郎が連絡してこないことに複雑な感情を抱きつつも、香澄の励ましに菜々子は平静を装った。

真夏のグラウンドと航太郎の雄姿

翌日、菜々子はルールを守るため駅からバスに乗り、希望学園のグラウンドに向かった。強豪校を迎えてのオープン戦が行われており、航太郎は壮園大学附属高校との第一試合で先発を任されていた。入学時よりも明らかに痩せた身体でマウンドに立ち、魂のこもった投球で六回無失点に抑える快投を見せた。三年生の親たちも拍手を送り、母親としての誇りが胸に満ちた。

交差する視線と届かぬ声

試合後、アイシングを施された航太郎がベンチを出てきた。絶好の機会だと思い、声をかけようとしたが、菜々子はためらった。航太郎は鋭い眼光を保ち、誰の呼びかけにも応じることなく無言で立ち去った。その姿には、疲労と追い詰められた様子が色濃くにじんでいた。菜々子は息子の変化に戸惑い、恐怖すら感じながら帰途に就いた。

深夜の電話と告白

翌日は体調不良を理由にグラウンドを欠席し、自宅で静かに過ごしていた。夜更け、深夜一時過ぎに公衆電話からの着信が鳴った。発信者が航太郎であると直感し、通話をつないだ。電話の向こうからは救急車の音が聞こえ、航太郎が屋外にいることがわかった。菜々子は慌てて居場所を尋ねたが、航太郎は混乱しており、明確な返答はなかった。

痛みに耐える息子の本音

やがて航太郎は肘の痛みを訴え、これ以上は投げられないと明かした。コーチに訴えたところ、管理不足と叱責されたという。限界まで耐えてきた末に、航太郎は野球をやめたいと本音をこぼした。その一言を聞いた菜々子は動揺し、電話が切れたあと、思わず車のキーを手に取っていた。息子の苦悩が一気に押し寄せ、菜々子の胸を深く締めつけた。

役員会の夜と前田亜希子との会話

菜々子は、三年生の父母会長の妻である前田亜希子に誘われ、居酒屋の外で二人だけの会話を交わした。亜希子は缶ビールと共に喫煙所へ向かい、昔ヤンキーだったことやタバコを吸い続けていることを明かした。見た目と過去とのギャップに驚く菜々子に対し、亜希子は過去の雰囲気は消せるものだと語った。菜々子もストレスから喫煙していることを打ち明け、二人は親としての重圧や気苦労を共有した。

学年ごとの父母の人間関係と変化

亜希子は、年度ごとの父母の雰囲気の違いについて語り、気の強い上級生の親に反発する形で、自分たちの代は仲良くなったと回顧した。そして、現在の一年生の親たちはより一層厳しく、二年生の菜々子たちはそれに巻き込まれていることを気遣った。菜々子は三年生の親たちに守られてきたことに気づき、感謝と同時に喪失感を抱いた。

夏の敗戦と航太郎の責任感

希望学園は大阪大会三回戦で無名校にコールド負けを喫した。航太郎は肘に故障を抱えながらも登板し、失点を喫して敗戦の決定打となった。彼は試合後に涙を流し、三年生たちは彼を励ました。この敗戦の背景には、監督の佐伯が選手交代を行わなかった判断があった。菜々子は佐伯の焦りが原因と指摘されたことに内心で否定しかけたが、契約年数などの事情を知っていたため、真実を語ることを控えた。

肘の故障の発覚と初期対応

中学時代、航太郎は山藤学園の監督に肘の異変を見抜かれ、診断の結果「離断性骨軟骨炎」であると判明した。医師は手術を推奨し、アメリカの事例も引き合いに出して説明を行ったが、航太郎は即断せず、複数の病院でセカンドオピニオンを得た末、保存療法を選択した。仲間たちとの野球を優先し、最後の大会への出場を望んだためである。

中学最後の夏と選択の結果

春には投手として復帰したものの、最後まで本調子を取り戻せず、チームは早期敗退した。結果的に仲間たちの進路にどの程度影響があったかは不明である。菜々子は、あのとき手術をさせていればと後悔しつつ、当時の決断を否定しきれなかった。

軟骨摘出手術

高校での手術とその後の変化

高校に入り、航太郎は肘の手術を受けた。摘出された軟骨は大きく、菜々子は衝撃を受けたが、手術は成功した。退院後、すぐに大阪へ戻りリハビリを開始する意志を見せた。帰路の新幹線では、透き通った笑顔を浮かべて未来への意欲を語り、「諦めていない」と母に伝えた。

復帰への決意と甲子園への思い

航太郎は、寮に戻り練習を再開する決意を固めていた。菜々子はその熱意に圧倒されながらも、自らも父母会の役員としての責務を全うする決意を新たにした。航太郎は、山藤学園への対抗心やチームへの信頼を語り、自らの代で甲子園出場を目指すと宣言した。

母と息子の決意と絆

最後に菜々子は、母として息子の努力に寄り添い、自身も悔いを残さぬよう努めることを心に誓った。二人は再び歩みを共にすることを確認し、それぞれの目標に向かって進む覚悟を固めた。

高校野球における父母の立場と山藤学園の洗練

高校野球では中学時代と異なり、親の関与は最小限にとどまる傾向がある。山藤学園のような強豪校では、親も一定の距離を保ち、秩序ある応援姿勢を貫いていた。菜々子は、テレビ越しに見る山藤の保護者たちの落ち着いた雰囲気から、前田亜希子の言う「強烈なプライド」の意味を実感した。

新チーム発足と父母会の構成変化

夏の大会を終え、希望学園では新チームが始動した。二年生の佐々木太陽の父が新会長に就任し、ベンチ入りした選手の親たちが中心となって役員構成がなされた。菜々子も一年生の代表として再任されたが、父母会の雰囲気には明らかな変化が生じていた。

二年生母親たちの台頭と派閥の裂け目

三年生の退場によって、これまで表に出てこなかった二年生の母親たちが強い発言力を持つようになった。中でも、佐々木夫妻と宏美の関係には深い溝ができていた。宏美が佐々木の妻・美和子と距離を置き始めたことで、かつての派閥構造が崩れ、父母会内部のパワーバランスが揺らいでいた。

チーム内の実力構成と対立の根源

この夏の大会では一年生から七人がベンチ入りしており、二年生の佐々木太陽にレギュラー番号は与えられていなかった。対して、肘の故障を抱える航太郎と西岡蓮は一年生でありながらレギュラーであった。この状況が佐々木夫妻に不満を抱かせ、特に菜々子への当たりが強まっていた。

練習参加を巡る意見対立と議論の応酬

新たな父母会の会合では、平日練習への参加をめぐり、一年生と二年生の母親たちの間で激しい議論が起きた。一年生の親がこれまで通りの慣習を守ろうとする一方で、二年生側は「過去のやり方は関係ない」として新ルールを主張した。菜々子は冷静に話し合うべきだと提案したが、場の空気を和らげるには至らなかった。

役員の条件を問う菜々子の提案と冷たい反応

菜々子は、役員をベンチ入り選手の親だけで構成する現状に疑問を呈した。メンバー外の親も役員として参加できるべきだという提案に対し、佐々木会長は冷静ながらも否定的な姿勢を示した。父母たちもその意見に同調し、菜々子は内心で強い違和感を抱いた。

江波透子との接近と意外な本音

会計係の引き継ぎを受けるため、菜々子は二年生の江波透子とファミレスで話をした。透子は打ち解けた態度で本音を語り、父母会内でも派閥や見下し合いがあることを明かした。とくに佐々木夫妻に対する苦手意識を抱きつつ、役割を果たしている現実を吐露した。

江波から伝えられた“伝統”の寄付要請

本題として透子が語ったのは、毎年新チーム発足時に行われる八万円の寄付金徴収であった。監督の遠征費などの活動費として用いられるとされ、名目上は非公式なため記録は残さず、電話連絡と手渡しで行うという不透明な慣習であった。菜々子は驚愕しつつも、これが会計係の仕事だと告げられ、断れぬまま電話連絡を始めた。

香澄への報告と怒りの反応

親しい友人である香澄にも寄付の件を伝えると、彼女は強く反発した。香澄は「裏金」と断じ、怒りを露わにしたが、最終的には「陽人のためなら払う」と受け入れた。子を思う気持ちが判断を左右するという現実を、菜々子は身をもって感じた。

母としての矛盾と共感

香澄と菜々子は、母としての複雑な心境について語り合った。自己を犠牲にして子どもを優先する矛盾、息子をかわいく思いながらも突き放せない感情、それら全てが自分のためでもあるという事実に、二人は共感を深めた。

裏金

寄付金徴収の完了と謝罪を拒む姿勢

菜々子は残りの家庭にも連絡を続け、最終的に二家族以外は寄付に同意した。説得できなかった家庭にも透子と共に訪問し、丁寧に説明することで納得を得た。透子は「謝らないように」と助言しており、実際に謝ってしまった経験からそれが自分を惨めにすることを語った。

これからの課題と透子の忠告

透子は、今後さらに困難な局面が訪れることを予感し、次の助言として「何があってもキレるな」と菜々子に伝えた。役員の役割は単なる雑務ではなく、感情との戦いでもあることを二人は痛感していた。

監督への金銭の手渡し

菜々子たちは、保護者からの多くの不満と軽蔑を背に、総額392万円を集め、四つの封筒に分けて佐伯監督に届けた。透子とその夫の政志も同行し、監督室に赴いた。佐伯は丁寧に応対しつつも、封筒の受け取りを一度は拒否した。恒例の儀式のようなやり取りの末、監督は最終的に受け取ることに応じたが、「来年以降はやめてほしい」と釘を刺した。

菜々子の不用意な発言と監督の苛立ち

封筒の受け渡しが成立しかけたそのとき、菜々子が「本当に来年以降はしなくていいのでしょうか」と問いかけたことで空気が一変した。監督はその言葉に反応し、菜々子を問い詰めた。菜々子は謝罪を繰り返すが、佐伯の態度は終始嘲笑的であった。政志が場をなだめようとしたが、菜々子の怒りは一時的に爆発しかけた。

透子の激昂と警告

菜々子の感情が高ぶる中、隣にいた透子がその腕を強くつかんで制止した。佐伯の嫌味が続く中で、透子は菜々子を叱責し、「あんたがキレたら息子まで干される」「監督は絶対の存在」と強く言い放った。菜々子はその剣幕に圧倒され、謝罪を繰り返すしかなかった。

悔しさと苦悩の共有

透子は、自分も昨年同じ屈辱を味わい、息子に泣きついたことを語った。息子から「高校野球の間だけ我慢してくれ」と言われたときの思い出が胸を締めつけていたという。透子の涙交じりの訴えに、政志がようやく介入して彼女を抱きかかえるようにして落ち着かせた。

菜々子の内なる葛藤と覚悟

菜々子は心の底では納得していなかった。監督が絶対的な存在であることは理解していても、自分の正義感を否定することはできなかった。息子・航太郎が「我慢してくれ」と言うようなタイプではないと信じていた。その思いとともに、これまで何度も心に抱いてきた決意がはっきりとした形となって自覚された。

試合当日の静かな覚悟

希望学園は順調に勝ち進み、秋季大阪府大会の決勝に駒を進めた。甲子園への出場権をすでに手にしていたが、相手が山藤学園であるために、誰一人として手を抜こうとする者はいなかった。スタンドには熱気が渦巻き、観客の多くが山藤を応援していたが、希望学園の選手たちは気にせず戦意を燃やしていた。

父母会での孤立と香澄の存在

菜々子は、佐伯との一件以来、父母会内で孤立していた。懇親会の招待すら受けず、役割だけ押し付けられる始末であった。しかし香澄だけは変わらず寄り添い、菜々子の味方であり続けた。二人は中学校の教室のような、排他的で歪んだ人間関係を皮肉りながらも乗り越えようとしていた。

反抗と共闘の決意

佐伯への怒りや父母会の冷遇に対し、香澄は「もっと言い返せばよかった」と菜々子を励ました。二人は互いに裏切らないと誓い、堂々とした態度を取るようになった。香澄の毒舌は健在で、菜々子の中にも覚悟が芽生えていた。

運命の決勝戦と菜々子の視線

試合当日、観客席が興奮で満ちる中、菜々子の目は一人の選手に釘づけになっていた。それは息子・航太郎ではなく、彼が憧れていたライバル投手・原凌介であった。原が山藤のエースとして登場するその姿に、菜々子はまばたきもせず見入っていた。

年末年始の帰省

久々の帰省と母の期待

年末年始、航太郎は九ヶ月ぶりに自宅へ帰省した。母・菜々子は手料理でもてなそうと朝から準備に追われ、息子の帰宅に胸を弾ませていた。一方、航太郎は友人との外出を予定していたが、母の強い希望により夕食は共に過ごすこととなった。

成長した息子との再会

航太郎が帰宅した瞬間、菜々子はその変化に戸惑いを覚えた。身体は一回り大きく、言葉遣いも大阪弁に変わっていた。食卓には好物が並んだが、真っ先に手を伸ばしたのは豚汁であった。家庭の味を懐かしむ様子に成長の証を感じた一方で、親離れの現実に寂しさも募らせていた。

心の距離と沈黙の時間

航太郎は寮生活や学校のことについて多くを語らず、菜々子も踏み込んだ質問を控えていた。電話では最小限の会話に留まり、内心の葛藤を吐露することはなかった。だが、菜々子はあの日、夏にかかってきた一本の電話がずっと心に引っかかっていた。

言葉の壁と母子のすれ違い

食後の会話の中で、航太郎は菜々子が元交際相手と別れたことを知り、申し訳なさそうな様子を見せた。航太郎自身も恋人に振られており、思春期ならではの挫折を共有した。菜々子は航太郎の話し方、特に「おかん」という呼び名に強く反発し、自らのアイデンティティを守ろうとした。

父の影と過去の電話の真相

テレビでドラフト特集を見ていた最中、航太郎はふと「ありがとう」と菜々子に告げた。あの夏の電話で「野球をやめたい」とこぼしたことを菜々子が蒸し返すと、航太郎はついに当時の本音を語った。肘の痛みと、ライバルである原の実力を目の当たりにし、自信を失っていたことが主な理由であった。

野球に対する悔しさと覚悟

中学時代に手術をしなかったことへの後悔や、自分を奮い立たせようと焦っていたことが、結果的に追い詰める原因となった。憧れていた山藤学園の投手陣の実力に圧倒され、自身の未熟さを痛感した夜、救急車の音が亡き父を思い出させ、気持ちを切り替える契機となった。

新年を前にした母子の和解

年が明ける前、航太郎は菜々子にキャッチボールを提案した。理由は焦りではなく、術後初めての一球を母とともに投げたいという思いからであった。菜々子は応じる代わりに、一晩で立ち直った理由を尋ねた。航太郎は、父・健夫を思い出したことで冷静さを取り戻し、もう一度前を向けたのだと語った。

再出発への静かな誓い

高校野球の時間は思っているより短く、最上級生としての一年三ヶ月の大半を航太郎はケガと共に過ごすことになった。しかし彼は、完全な回復を経て新チームに合流するという目標を明確にしていた。その戦いの先には、父との約束である「山藤を倒して甲子園へ行く」という夢が待っている。

健夫の存在と母の感謝

最後に航太郎は再び「おかん」と呼んだが、菜々子はもはや反発しなかった。父・健夫の存在が二人を支えていると実感できたからである。真冬の夜、息子とキャッチボールをしに向かうその瞬間、菜々子の胸には静かな誇りと感謝が芽生えていた。

2年目

夏の大会への期待と意気込み

希望学園野球部は、前年の大阪府大会準優勝や近畿大会ベスト8といった実績を引っ提げ、甲子園出場を目指して夏の大会に挑んだ。選手たちの意気込みも強く、佐伯監督やコーチ陣、OBたちも熱心にサポートした。リハビリを終えた航太郎も全体練習に復帰し、メンバー入りの可能性が取り沙汰されたが、最終的には選出されなかった。本人は前向きに受け止め、チームの成功を願う姿勢を見せた。

予期せぬ初戦敗退

期待が高まる中、希望学園は夏の初戦でまさかの敗北を喫した。相手は公立の古豪であり、秋にはコールド勝ちしていた相手だっただけに、衝撃は大きかった。序盤はリードしていたが、中盤以降に流れを失い、逆転負けを喫した。スタンドの親たちは呆然とし、選手たちは涙に暮れた。

キャプテン太陽の謝辞と決意

敗戦後、キャプテンの太陽は親たちへの謝罪と感謝の言葉を伝え、後輩たちには悔しさをバネに成長してほしいと訴えた。後輩が甲子園に行くことに対して複雑な思いを抱きながらも、その実力を認め、激励の言葉を贈った。航太郎もその場に居合わせ、チームの結束と想いの強さを実感していた。

新チームへの転換と決意

試合後、航太郎は新チームからピッチャーを退き、内野手に専念する意志を母に伝えた。年末に帰省した際には、航太郎が三人のチームメイトを自宅に招き、にぎやかに再会を果たした。菜々子は彼らの様子から、チーム内の関係性や個々の性格に新たな発見を得ることとなった。

子どもたちの関係性と菜々子の偏見の自覚

陽人、西岡蓮、林大成といったメンバーは、それぞれ異なる背景を持ちながらも、分け隔てなく交流していた。航太郎が会話の中心にいて、明るく振る舞う姿に、菜々子は偏見を抱いていた自分に気づかされた。実力や出自にとらわれず、子どもたちは自然体でつながっていた。

西岡蓮の意外な人間性

キャプテンの蓮は、グラウンドで見せる熱血漢とは異なり、家庭的で礼儀正しい一面を持っていた。菜々子がタバコを手にした際には真っ先に擁護し、食事後の片付けも率先して行うなど、年齢以上の配慮を見せた。彼は日頃の行動を「徳を積む」と表現し、自らの信念を実直に語った。

菜々子への評価と警戒心

蓮は、佐伯監督に意見した菜々子の行動を称賛し、「希望学園のお母さんとして誇りに思う」と語った。だが、噂が子どもたちの間にも広がっていた事実に、菜々子は喜びよりも警戒心を抱いた。一方で、蓮の人間的魅力に触れ、モテる存在であると感じた。

母たちと子どもたちの認識の差

香澄の訪問後、菜々子が蓮についての印象を語ると、航太郎と陽人は一斉に否定した。蓮はモテるどころか「いい子ではない」と言い切り、代わりに航太郎の方がファンに人気だと語った。ファンレターが届き、彼女もいるとまで暴露され、菜々子は動揺した。

明かされる子どもたちの恋愛事情

陽人は、航太郎の現在の彼女が一年上の先輩・聡美であると明かした。聡美は菜々子も面識のある礼儀正しい少女で、予想外の相手であった。また、陽人にも恋人がいると知った香澄は驚愕し、二人の成長を実感すると同時に親としての無力感に襲われた。

親の無知と過去の記憶の重なり

菜々子は、健夫の両親と初対面した日の記憶を思い返した。当時、義母が語った「奥手な息子」という言葉は事実とは異なっていた。その記憶と、現在の自分の思い違いが重なり、「親は子どものことを何も知らない」という現実を痛感した。菜々子は知らぬ間に、かつて自分が反発した親の姿と重なっていたのである。

暑さの中の見送りと菜々子の思索

陽人と香澄を見送りながら、菜々子は八月の夜の熱気に包まれていた。来年の夏には航太郎が高校球児でなくなる現実を思い、時の流れの速さを実感していた。甲子園出場の難しさや、監督佐伯への学校からの圧力についても思いを巡らせていた。

母子の会話と変化の兆し

香澄たちを見送った後、航太郎は仏頂面を取り戻していたが、菜々子の誘いでしぶしぶ散歩に同行した。友人の前では「おかん」と呼んでいたが、二人きりになると「お母さん」と改める航太郎の態度に、菜々子は可愛らしさを感じていた。かつての約束を律儀に守る様子が垣間見えた。

成長した息子との距離

河川敷を歩きながら、菜々子は聡美の話題を切り出したが、航太郎は素っ気なくはねつけた。その反応に、もはや中学生ではない航太郎との距離を感じた。高校入学からわずか一年余りで、彼は最上級生となり、菜々子には時間が早く過ぎたように思えた。

ピッチャーをやめる決断

航太郎は肘の痛みが完全に取れたことを明かしつつ、ピッチャーを辞める理由を「実力不足」と断言した。ケガから復帰後の調子は良好だったが、上のレベルでは通用しないと自覚したことで、自らの限界を悟っていた。及川のような後輩の台頭もあり、自身がベンチ入りするには内野手としての道を選ぶべきだと判断していた。

誤解の解消と母の理解

菜々子は「チームのために辞める」という美談を想像していたが、航太郎の説明により、自分のための選択であると理解した。むしろ野球そのものが再び楽しくなったこと、チームへの愛着が強まったことを語る航太郎の姿に、菜々子は納得した。

新たな覚悟と母の励まし

内野手としてまだ力不足だと自覚しつつも、航太郎は手応えと楽しさを感じていた。菜々子はその気持ちを尊重し、全力で取り組むよう励ました。航太郎は関西弁まじりに力強く応え、夜の河原にその声が響いた。最後に投げた石は、この夜で最も遠くへと飛んでいった。

最上級生

補欠としての再出発と家族の支え

新チームの始動と航太郎の立場の変化

希望学園野球部の新体制が始まり、航太郎は最上級生となった。かつてはエースとして期待されていたが、今では控えの内野手に甘んじていた。それにもかかわらず、母・菜々子は父母会の役員を続けており、重責を苦にしていなかった。息子が楽しそうに野球をしていることが、彼女の最大の励みとなっていた。

野球部での役割と寮生活の変化

航太郎は野球部寮〈蒼天寮〉の寮長を自ら志願し、前向きにその任を果たしていた。朝早く起きて起床当番をこなすなど責任を担いながらも、後輩たちに積極的に声をかけ、グラウンド整備にも率先して取り組んでいた。その明るさがチームに良い雰囲気をもたらしていた。

控えとしての充実と内面の変化

ピッチャー時代の重圧から解き放たれた航太郎は、控えという立場を前向きに受け入れていた。試合にはなかなか出場できないものの、仲間たちと一体感を持って野球に向き合っていた。自らムードをつくり、チームの精神的支柱となっていた。

秋の大会と再燃する不安

秋の公式戦が始まり、航太郎は一時的に試合に出場して好成績を残したものの、三回戦以降はベンチから外れた。菜々子はその背景に、昨年の監督との対立が影響しているのではと不安を募らせた。かつて活動費の徴収を巡って対立して以来、監督は彼女を無視するようになっていた。

新たな父母会と明日香との連携

新会計係となった明日香との対話のなかで、活動費の徴収問題をめぐる透明性の欠如が再確認された。明日香は改革に前向きで、伝統の見直しを提案した。菜々子も彼女に共感し、意を決して行動に移す決意を固めた。

寄付金制度の見直しと新体制の成立

父母会長の宏美を交えての話し合いの結果、八万円の徴収制度は廃止され、代わりに一家庭一万円の寄付に改められた。宏美の個人的事情──弟の佑の山藤学園進学──もあり、かつての強硬な姿勢はやや和らいでいた。

決勝戦に向けた高揚と葛藤

大阪府大会の決勝戦では、希望学園が強豪・山藤学園を大差で破った。陽人の活躍に菜々子は素直に喜んだが、ベンチに入れなかった航太郎の姿を見て、複雑な感情を抱いた。親としての期待と現実との乖離に苦しみ、過去の自分の考えを省みた。

控え選手の存在と母親の内省

菜々子は、試合に出られない選手たちとその親の気持ちを想像し、自らの過去の無理解に気づいた。控えであっても真摯に役割を果たす息子の姿に、彼女は誇りと切なさを同時に感じていた。

近畿大会への進出と選出されなかった現実

優勝の勢いを保つため、近畿大会でもメンバー変更はなされなかった。航太郎は登録されず、引き続き控えとしてチームを支えることになった。母・菜々子は息子の悔しさに寄り添いながらも、甲子園出場を信じて応援することを決意した。

試合直前の結束と航太郎の一言

近畿大会初戦を前にしたホテルでのミーティングでは、キャプテン・蓮の言葉で緊張がほぐれた。そこに航太郎が加わり、補欠としての立場を自虐的に交えつつチームを鼓舞した。その姿に仲間たちは笑顔を取り戻し、士気が高まった。

補欠という役割の価値と未来への希望

航太郎の存在は、単なる控えではなく、チームの中心として機能していた。彼の言葉と行動は、メンバー内外の壁を越え、希望学園野球部全体をひとつにした。次の一戦に向け、彼らは確かな結束とともに歩みを進めていた。

暴力の連鎖への懸念と対話

航太郎の世代は、上級生からの暴力を受けていたが、それを当然のこととして受け流していた。菜々子はその無感覚に危機感を抱き、将来加害者になる可能性を懸念した。過去の被害者が加害者になる構造に対し、航太郎は暴力を否定し、自らは繰り返さないと断言した。彼らの代は野球に対する意識が高く、先輩たちのフラストレーションを同情的に受け止めることで、下級生への暴力は生まれなかった。

チームの結束と希望学園での日々

航太郎の世代は実力者が揃い、一般受験で入部した陽人も自然に溶け込んでいた。監督への不信感はあっても、チームには感謝の気持ちが強く、航太郎もこの環境で野球ができたことを誇りに感じていた。創部九年目にして希望学園は大阪府大会を制し、近畿大会に挑む高揚感に包まれていた。

甲子園への距離と敗北の現実

近畿大会初戦では、希望学園は相手を上回る内容で試合を進めながらも、重要な場面で決定打を欠き、1対2で惜敗した。甲子園に届かなかった現実が選手と関係者に重くのしかかり、監督・佐伯の落胆はひときわ深かった。かつて甲子園出場経験がある佐伯にとって、この敗北は大きな挫折であった。

佐伯監督の転機と父母会への接近

敗戦から一ヶ月後、佐伯は初めて父母会への参加を申し出た。市内の居酒屋に集まった保護者たちの前で、彼は過去の指導歴と反省を語った。かつて保護者との距離が近すぎたことでトラブルが発生し、それ以来距離を置いてきたが、自身の指導法に疑問を感じて再び対話を求めたと明かした。

宿敵・山藤学園との因縁と再出発の決意

佐伯は、恩師であり山藤学園の内田監督との対話の中で、信念と柔軟性の両立の必要性に気づいた。その助言を受け、保護者と向き合う覚悟を決めたことを語った。山藤は希望学園にとって長年のライバルであり、その監督と佐伯の師弟関係が明かされたことで、新たな因縁が浮かび上がった。

航太郎への評価と丸刈り制度の廃止

保護者との会合後、佐伯は菜々子に航太郎の投手としての可能性を捨てていないと伝えた。本人の意向を尊重しつつも、夏の大会に向けた選択肢として、再び投手としての練習を提案していた。また、航太郎の提言を受け、長年続いていた丸刈り制度の廃止を決定し、チームの象徴的な変革として実行に移した。

年末の成長と息子との距離

年末年始、航太郎は寮に残り自主練習を続けると菜々子に連絡を入れた。彼の真剣な態度に触れ、菜々子は安堵すると同時に、連帯責任という言葉の残酷さに思いを巡らせた。自らの息子が、あるいは仲間が、夢を絶たれる可能性への恐怖をかみしめながら、ただ無事を願うしかなかった。

大晦日の独白と第二の青春

年越しを一人で迎える菜々子は、亡き夫・健夫への複雑な感情と向き合いながら、航太郎の成長に目を細めた。かつて冷めた目で見ていた青春の風景の中に、自分が飛び込んでいることを実感し、かつてない感情が湧き上がっていた。寒空の下で練習する息子たちのために、彼女は大晦日の夜、ひとり台所に立ち、黙々と米を研いでいた。

三度目の春

春の記憶と別れへの予感

大阪で三度目の春を迎えた菜々子は、かつて越してきた頃の不安と戸惑いを思い出していた。息子の航太郎が中学生だったあの頃と比べて、今は慣れ親しんだ土地となり、勤務先の本城クリニックの仲間たちとも深い絆ができていた。だが、航太郎の高校野球の終わりが近づくなか、菜々子は再び神奈川に戻るべきか悩み始めていた。

本城クリニックでの温かな日々

クリニックの看護師たちや本城先生との日常は、菜々子にとって心の支えとなっていた。とくに裕子の存在は大きく、共に過ごす時間に別れが近づくことへの寂しさが募っていた。大阪での人間関係はいつの間にか地元と呼べるほどの絆に育っており、菜々子は自分の進路を再び選び取る必要を感じていた。

新入生歓迎と父母会の引き継ぎ

希望学園野球部では新入部員とその保護者を迎える式が行われた。監督の佐伯はかつてとは別人のように穏やかで、真摯な挨拶で保護者たちの心を掴んでいた。父母会の説明役として立った菜々子と香澄は、緊張しつつも自らの経験を語り、一年生の保護者たちにエールを送った。菜々子の言葉には自然と拍手が起こり、仲間たちの成長が支えとなっている様子がうかがえた。

成長と変化、そして期待

希望学園野球部は春の府大会で順調に勝ち進み、甲子園未出場ながらも強豪としての評価を得ていた。特に航太郎は背番号16として試合に臨み、伝令としてチームを鼓舞する役割を担っていた。本人はスタメンではなかったが、その存在感は明確であり、選手たちに活力をもたらしていた。

山藤学園との決戦と伝令の役割

決勝戦の相手は全国準優勝の実績を持つ山藤学園であった。緊迫する試合展開の中、七回裏に満塁のピンチを迎えると、航太郎が伝令としてマウンドに立った。彼の言葉に選手たちは笑顔を見せ、直後に華麗なダブルプレーでピンチを切り抜けた。スタンドは歓声に包まれ、航太郎の存在が大きな支えとなっていたことを証明した。

決勝点と歓喜のフィナーレ

試合終盤、馬宮陽人がついに大会初ヒットを放ち、キャプテンの蓮がホームに滑り込んで決勝点を奪取。菜々子は香澄と共に涙を流しながら、その瞬間を抱きしめ合って祝福した。試合を締めくくったのは及川の好投で、希望学園は一対〇の完封勝利を収めた。

勝利の余韻と母の祈り

喜びに沸くスタンドの中、菜々子は静かに思いを巡らせていた。たとえ航太郎が伝令という立場であっても、この勝利の一端を担えたことが何よりも誇らしかった。かつての悩みや不安、息子と共に歩んだ日々を胸に刻みながら、一人でも多くの子どもが「野球をやって良かった」と思えるようにと、密かに祈りを捧げていた。

夏の本命としての自覚と緊張の始まり

希望学園は春の近畿大会で準優勝を果たし、甲子園準優勝校を相手に善戦したことで、大会前から夏の優勝候補と目される存在となった。だが、選手たちの気持ちに慢心はなく、山藤学園同様、日々の練習に力を注いでいた。梅雨入りとともに夏の終わりを意識する空気が漂い、引退メンバーを発表する時期が迫っていた。

引退試合とベンチ入りの狭き門

引退試合のメンバー発表で、航太郎がその対象外であったことに菜々子は安堵したが、同時に残酷な現実を知ることとなった。三年生29人のうち11人が引退メンバーに選ばれ、残る18人で夏のベンチ枠を争うことになったのである。二年生や一年生の有望選手が複数いることから、三年生が全員入れる保証はなかった。菜々子は航太郎の不安と緊張をようやく理解し、仏壇に祈る夜を過ごした。

笑いに包まれた引退試合

八尾市の山本球場で行われた引退試合は、両校の三年生同士によるものであり、演出のすべてが彼らによる手作りであった。試合は白熱し、最終回には劇的な展開を迎えた。主審を務めた航太郎は、サヨナラの瞬間をわざと覆す判定を下し、爆笑と涙に包まれる感動の場面を演出した。佐伯はベンチ外となった三年生へ感謝を述べ、親も含めて会場は感動に満ちていた。

焼き肉屋での偶然の出会い

メンバー発表を前にした夜、菜々子と香澄は焼き肉店「富久」で食事をともにしていた。隣席の少年・耕太郎とその母親との偶然の会話から、耕太郎が航太郎に憧れていることが明らかとなる。少年野球で試合に出られない耕太郎は、航太郎の伝令としての姿に勇気づけられたのだという。名前を告げられた菜々子は、不意に息子の影響力を実感し、喜びと驚きに包まれた。

発表前夜の沈黙と共有する不安

発表当日の夜、菜々子と香澄は連絡を待ちながら河川敷を歩いた。不安と緊張が高まり、言葉少なに互いを励まし合いながらも、心中では互いに結果への葛藤を抱えていた。親としての喜びと同時に、自らの満足を求める気持ちがあることにも気づき、複雑な想いを抱えていた。

電話越しの報告と歓喜の瞬間

ついに二人のもとに着信が入り、菜々子は航太郎から夏のベンチ入りを果たしたとの報告を受けた。背番号は「16」。航太郎は感謝の言葉とともに、父の仏壇に報告したいと語り、菜々子は涙を堪えることができなかった。陽人も「17番」で初の一般入試組からのベンチ入りを果たし、二人の母はそれぞれの電話口で喜びを分かち合った。

再び抱き合う母たちの喜び

電話を終えた二人は再会し、抱き合って涙を流した。高校野球を通して過ごした日々が報われ、息子たちの努力が実を結んだことを心から喜んだ。雨が静かに降り出す中、香澄から漂う焼き肉の匂いすら愛おしく感じるほど、菜々子の胸には温かな感動が広がっていた。

野球引退の決意と仏壇への報告

航太郎は雨天により練習が早く終わったため、予定より早く実家に戻ってきた。仏壇の前で手を合わせ、父・健夫に何かを報告していた。その後、菜々子と向かい合って座り、自身の口から「野球はここまでにする」と語った。高校での野球をやり切ったという満足感とともに、今後は高校野球の監督を目指したいとの意志を明かした。父への感謝の気持ちを込めつつ、父のやり方を否定することで前へ進もうとする姿勢があった。

母との静かな対話と価値観の共有

菜々子は航太郎の決断に戸惑いを見せたが、航太郎は冷静に自分の将来像を語り、野球に対する思いを整理していた。自らの過去を振り返りつつ、かつて仮想敵であった佐伯監督の存在を認め、そのやり方を否定することが自身の使命だと語った。父と息子の関係、指導者のあり方、反発と感謝といった複雑な感情が交錯する会話の中で、航太郎は確固たる意志を示した。

試合前夜の高揚と母の覚悟

試合前夜、菜々子は胸の高鳴りに一睡もできずにいた。これまでの夏を思い返しながらも、今年はこれまでとは違う感情が湧き上がっていた。選手ではない自分がこれほど緊張し、期待する理由は明確にはわからなかったが、母としての思いが自然と高まっていた。

大阪大会での快進撃

希望学園は大阪府大会で圧倒的な強さを見せ、順調に勝ち進んでいった。航太郎も五回戦で代打出場し、ライト前ヒットを放った。その一打に十七年の歩みが凝縮されているように菜々子は感じた。チーム内外でも甲子園進出への期待が膨らむ中、三年生の保護者たちは浮かれることなく冷静に現実を見据えていた。

準々決勝の苦戦と劇的勝利

準々決勝では、明蘭大付属との対戦で苦戦を強いられた。試合は終始リードを許す展開だったが、最終回にキャプテン蓮の満塁ホームランで逆転サヨナラ勝ちを収めた。陽人の好走塁も勝利に貢献し、チームの士気は一気に高まった。

決勝戦への盛り上がりと観客の熱気

決勝戦当日、舞洲スタジアムには観客が詰めかけ、特に希望学園の応援スタンドは異様な熱気に包まれていた。野球部が当たり前のことを大切にし、学校生活でも溶け込む姿勢を見せていたことが、自然な応援へとつながっていた。

蓮と弟・佑の兄弟対決

決勝の相手は山藤学園であり、エースの原ではなく蓮の弟・佑が先発に抜擢された。兄弟対決が注目を集める中、佑は初回から全力で投げ抜いた。希望学園の及川も気迫のこもった投球で応戦し、試合は緊迫した展開となった。

蓮の打席と大成の負傷交代

試合が動いたのは四回、林大成の二塁打からチャンスが広がり、暴投によって先制点が入る。しかし、ホームに滑り込んだ大成が脳しんとうを起こし、担架で運ばれていく。代わって登場したのが航太郎であった。

守備の失策と母の苦悩

ショートの守備に就いた航太郎は、最初の打球でファンブルし、菜々子は強い不安に襲われた。逃げ出したくなる気持ちを、宏美の言葉で押しとどめられ、母としてその場にとどまり見届ける覚悟を決めた。

膠着する試合と投手戦の応酬

原の投球に希望学園は苦しめられ、ヒットはわずか一本。及川も粘り強く投げ続け、両者譲らぬ投手戦が続いた。九回、航太郎は三振し、蓮が最後の望みをかけて打席に立つ。原との壮絶な投げ合いの末、蓮は空振り三振に倒れた。

最終回の攻防と母の祈り

その裏、山藤の攻撃は二死満塁となり、相手の三番打者が大飛球を放つ。打球は三塁後方に上がり、菜々子の願いも虚しく航太郎が捕球に向かう。全視線が航太郎に集まる中、彼は見事にキャッチし、試合を締めくくった。

甲子園

甲子園出場の歓喜と母の思い

希望学園は創部十年目にして悲願の甲子園出場を果たした。歓喜に沸くスタンドの中で、菜々子は静かに息子を見守り、航太郎がウイニングボールを掲げて仲間たちの輪に飛び込む姿を確認してから、ようやく喜びを爆発させた。

母への報告とすべての答え

その夜、航太郎からの電話で改めて優勝の報告がなされ、菜々子の胸に去来していたさまざまな思いにようやく答えが与えられた。航太郎の覚悟と成長を感じ取った菜々子は、心からの祝福と感謝の気持ちを噛み締めていた。

甲子園出場直後の報告と父への想い

優勝直後、菜々子は航太郎がバックスクリーンを見つめていた理由を尋ねた。航太郎は、試合終了の瞬間に父・健夫のことが思い浮かび、真っ先に報告したと打ち明けた。試合直後に吹いた風にも特別な意味を感じた様子であった。

選抜メンバー入りと陽人の落選

航太郎は、甲子園の最終メンバー十八人に選ばれたことを告げた。しかし、その一方で親友の陽人が外されたことも伝え、その声には喜びよりも寂しさが滲んでいた。菜々子は励ましの言葉をかけたが、航太郎は飄々とした口調で応じた。

母への感謝と絆の確認

会話の最後、航太郎はふとした瞬間に母への感謝を口にした。菜々子もこれまでの経験に対する感謝を返したが、それ以上の思いを言葉にできず、ただ「ありがとう」とだけ繰り返した。母子のあいだに通う静かな絆が、言葉以上の深さを持ってそこにあった。

甲子園での登板と衝撃の快投

秋山菜々子は、息子・航太郎が甲子園のマウンドに立つ姿を目の当たりにし、言葉を失っていた。わずか数週間前までベンチ入りすら危ぶまれていた彼が、延長戦のマウンドに立ち、観衆の視線を一身に受けていたからである。延長十二回、タイブレークのピンチに投入された航太郎は、三者連続三振で流れを引き寄せ、続く裏の攻撃でチームはサヨナラ勝ちを収めた。

三回戦での先発抜擢と完投勝利

前試合での好投が評価され、航太郎は三回戦の先発に抜擢された。相手は優勝候補・京浜高校。初回から全力投球を続け、145キロ超の速球を武器に11奪三振を記録した。味方の失策で1点を失ったが、自身は完投勝利を飾り、高校初の完投を果たした。注目を集めた活躍により、スポーツ紙でも大きく取り上げられた。

甲子園準決勝とプロへの気配

準決勝でも航太郎はマウンドに上がり、5回無失点の好投を見せた。チームは敗退したが、彼の評価はさらに高まった。試合後、菜々子は甲子園で航太郎の成長を見届けたことで、一つの物語の区切りを感じつつも、それが終わりではないことを悟っていた。

野球継続への葛藤と決意

航太郎の進路をめぐる親子の対話では、大学で野球を続けたいという彼の意志と、費用面での不安が交錯した。菜々子は不安を隠して背中を押し、航太郎もまた自らの未練と希望を語った。佐伯監督の助力もあり、航太郎は授業料と寮費免除の特待生として東北の大学に進学した。

羽曳野に残るという母の選択

菜々子は航太郎の大学進学後も大阪・羽曳野に残る決断をした。看護師としての職場や親友・香澄の存在がその理由である。かすうどんや地元の食材への愛着も、すでに彼女の生活の一部となっていた。

親友との再会とそれぞれの道

陽人は甲子園のメンバーから外れたことで野球を辞め、受験に専念していた。一方、菜々子は航太郎の帰省に備え、胸の内にさまざまな想いを抱えていた。再会を目前に控え、香澄との電話で緊張と期待が交錯していた。

プロ志望届

プロ志望届提出と指名漏れの現実

大会後、佐伯から航太郎にプロ球団からの興味があると告げられた。菜々子も同席し、育成契約の可能性があると知る。航太郎は佐伯の言葉に背中を押され、プロ志望届を提出した。しかし、ドラフト当日は最後まで名前が呼ばれず、指名漏れに終わった。

進路決定と大学での再出発

プロ入りを逃した航太郎は、特待生として迎えられた東北の大学へ進学した。大学野球の厳しさに直面し、春のリーグ戦ではベンチ入りも叶わなかったが、それでも諦めずに努力を続けていた。

ドキュメンタリーで語られた真意

ドラフトの模様を収めたドキュメンタリーでは、航太郎が自らの言葉で進路や感謝の想いを語った。自分に対して無視しない時間を過ごしたいという抱負は、これまでの苦難と成長の証であった。そして、彼は「アルプス席の母にいいところを見せたかった」と締めくくり、会見場を静寂に包んだ。

母の願いと未来への期待

菜々子はプロを目指す航太郎に、四年後には上位指名でプロ入りするよう激励した。航太郎は笑顔で応じ、新たな決意をにじませた。母と子は、それぞれの立場で再び歩き出していた。

帰省の夜と日常の再会

半年ぶりに帰省した航太郎は、母の淹れたお茶をすすり、録画された甲子園の映像をともに眺めた。かつての出来事を笑い話に変えながらも、母子の絆はより深くなっていた。大学生活のなかで東北弁を身につけた息子に、菜々子は困惑しつつも笑顔を返した。

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こも

いつクビになるかビクビクと怯えている会社員(営業)。 自身が無能だと自覚しおり、最近の不安定な情勢でウツ状態になりました。

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