物語の概要
ジャンル:
青春ラブコメディである。クラスのリア充カーストの頂点に君臨する主人公・千歳朔と、その周囲に集うヒロインたちの葛藤や成長を瑞々しく描く群像劇の第6巻である。
内容紹介:
夏祭りにおいて、朔は柊夕湖との“偽装カップル”を演じることになる。その噂が広がる中、不良グループに絡まれる事態や、夕湖に好意を寄せる成瀬智也から思いがけず相談を受けるなど、波乱含みの展開が続く。さらにある出来事によって、朔と明日風の関係性に疑問が生じ――ふたりはどう応えるのかが焦点となる一冊である。
主要キャラクター
- 千歳 朔(ちとせ さく):本シリーズの主人公かつリア充カーストの頂点に立つ男子。周囲を惹きつける魅力を持ちながら、他者の心の揺れにも繊細に応える人物である。
- 柊 夕湖(ひいらぎ ゆうこ):朔から“正妻ポジション”と呼ばれるヒロインで、本巻では偽装カップルの提案者となり、自身の気持ちと向き合う重要な立場を担う。
物語の特徴
本作の魅力は、「リア充である主人公が、自らの立場を活かしつつも他者への配慮と成長を両立させている点」にある。軽やかに描かれる青春の中に、友人への責任・恋心への葛藤・自分の想いとの折り合いといった重層的なドラマを織り込むことで、単なるコメディを超えた深みが際立っている。
書籍情報
千歳くんはラムネ瓶のなか 6
著者:裕夢 氏
イラスト:raemz 氏
レーベル/出版社:ガガガ文庫/小学館
発売開始:2021年8月19日
9784094530223
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あらすじ・内容
私を見つけてくれて、ありがとう
すべては変わってしまった。
唐突に、劇的に。どうしようもないほど残酷に。
けれど、ひとりで塞ぎ込む時間を、彼女は与えてくれなかった。
「あの日のあなたがそうしてくれたように。今度は私が誰よりも朔くんの隣にいるの」
――1年前。まだ優空が内田さんで、俺が千歳くんで。
お互いの“心”に触れ合ったあの日。俺たちの関係がはじまったあの夜を思い出す。
優空は言う。
「大丈夫、だいじょうぶ」
月の見えない夜に無くした何かを、また手繰りよせられるというように。
……俺たちの夏は。まだ、終わらない。
感想
今作は、唐突に、そしてどうしようもなく残酷にすべてが変わってしまった夏休み、そんな状況から始まる物語である。孤独に塞ぎ込もうとする朔に、ヒロインである優空が寄り添うことを決意する姿が描かれた第六弾だ。
一年前、優空と朔の関係が始まったあの夜。その出来事が、今も二人の関係に深く影響を与えていることがわかる。衝撃を受け、動揺し、葛藤しながらも、ヒロインたちは自分なりのやり方で懸命に朔を支えようとする。その姿には、心を揺さぶられる思いがした。特に、不器用だったあの子が秘めていた真意が明らかになる場面は、深く心に残った。
傷ついた朔を大切に思う人たちは、彼が孤独になることを許さない。これまで言えなかった本音をぶつけ合い、どうにかみんなで乗り越えようとする結末は、読んでいて胸が熱くなった。夕湖の一件を通して、それぞれが自分の気持ちと向き合う中で、不器用ながらも仲間を気遣う友情には、本当にグッとくるものがあった。特に、健太の意見は的を射ており、物語に深みを与えていたと感じる。
また、優空が朔に救われた過去のエピソードは、二人の絆の深さを改めて感じさせてくれる。夕湖の告白の真意には複雑な気持ちを覚えるものの、彼女の覚悟には痺れるものがあった。ラストシーンでは、衝突した仲間たちが本音でぶつかり合い、前へと進んでいく姿が描かれており、読後感は非常に爽やかだ。
夕湖の告白を退けたことで、チーム千歳の絆に危機が迫る中、優空との過去を振り返る朔が自身の本質に迫る今巻。まさに、青春の香りがむせかえるほどのエモくて尊い物語である。
「ビー玉の月、沈む玉の手が伸びる先は。」というフレーズが示すように、今作は、朔が過去と向き合い、未来へと進むための重要な一歩となるだろう。なぜ断ってしまったのか、なぜ拒絶したのか。改めて告白の本心に触れ、仲間の助けと激励に背を押され、もう一度絆を結び直す。
前半戦の締めくくりとして相応しい、圧倒的な感情の大嵐に襲われるような面白さだった。ぜひ、何も聞かずに、読んでみて確かめてほしい。後半戦の行方が非常に楽しみである。次巻も必ず読みたい。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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登場キャラクター
主要キャラクター
千歳朔
自己嫌悪と向き合いながらも他者の痛みに即応して寄り添う存在であった。夕湖の公開告白を断ったのち、孤立と惰性の夏へ傾きかけたが、仲間と「手放さない」約束を重ねて再起の端をつかんだ。
・所属・立場
藤志高校二年生。
・主な行動・出来事(本更新範囲)
河川敷で優空のサックスに救われた/自己罰を否定して「馬鹿な真似はしない」と約した/明日風に経緯を語り受け止められた/祖母宅を訪ねて原風景と「ご縁」を再確認した/祭り前に優空の指切りを受け、三人の対話に臨んだ。
・変化・影響
「誰かの誠実まで背負う」歪みを自覚し、選べない現在を言語化して保留する誠実へ舵を切った。
内田優空
「普通」を生き抜くための自己規則を抱えていたが、朔との対話で再定義に至り、いまは自分のためにわがままを選べる存在へ変化した。
・所属・立場
藤志高校二年生。バスケ部。
・主な行動・出来事
サックス演奏で朔を支え、「自己罰の否定」を明言した/過去(母の失踪)と“普通”の呪いを語り、家族と和解した/台所と食事で朔の日常を立て直した/お盆中に夕湖宅を三度訪ね、最終的に祭りで三者対話を主導した/「手を繋いでいよう」を提案して三人の結び目を保全した。
・変化・影響
受け身から主導へ転じ、関係調律者として物語の軸を獲得した。
柊夕湖
明るさと正面突破で関係を進めるが、公開告白後は痛みと向き合いながら自省に踏み込んだ。
・所属・立場
藤志高校二年生。バスケ部。
・主な行動・出来事
失恋の夜を海人の伴走で帰宅/母の抱擁で立ち直りの端を得た/一年分の懺悔(屋上の“告白未満”〜公開告白の動機)を語った/朔への観察に基づく「好き」を具体で証明した。
・変化・影響
三角関係の均衡を自ら壊し、「終わらせる告白」で舞台を整え、以後は“可能性を自分で選ぶ”主体へ移行した。
西野明日風
外側から見守る位置に痛みを抱えつつ、言葉で救いを差し出す存在であった。
・所属・立場
藤志高校三年生。
・主な行動・出来事
朔の報告を受け「つらいね」で受容/祖母の家への誘いで朔を原点に導いた/「愛を知らぬ月」の比喩で朔の課題を指摘した。
・変化・影響
当事者ではない疎外を自覚しつつ、“離れて暮らす覚悟はあっても、離れる覚悟はない”という独白が、物語の張力を強めた。
七瀬悠月
冗談と本気の揺らぎの中で、他者の痛みに寄り添う術を選び直した。
・所属・立場
藤志高校二年生。
・主な行動・出来事
自責に沈む夜、陽を夕食へ誘って並走した/朔宅での手料理(カツ丼)で気力を戻した。
・変化・影響
“形式の美しさ”より“等身大の支え”を重んじる姿勢へ。
青海陽
努力の論理が通じない恋に怯えながらも、並走する強さを示した。
・所属・立場
藤志高校二年生。元野球部。
・主な行動・出来事
河川敷で練習を続け、悠月と互いを支え合った/朔に「仲間に頼れ」と伝えた。
・変化・影響
“けじめの宣言”を保留しつつ、見守る覚悟を固めた。
浅野海人
真っ直ぐさで友を支え続け、失恋も正面から受け止めた。
・所属・立場
藤志高校二年生。野球部。
・主な行動・出来事
失意の夕湖に伴走し告白、丁重に断られて受容した/朔とは握手で和解へ。
・変化・影響
怒りの矛先を収め、関係修復の端を担った。
間宮和希
静かな観察者として要所でブレーキとアクセルを配した。
・所属・立場
藤志高校二年生。
・主な行動・出来事
朔の閉塞を指摘し再起を促した/健太の叱咤を受け共に腹を括った。
・変化・影響
理性的支柱としてグループの再結束に寄与した。
サブキャラクター
山崎健太
真っ直ぐな叱咤で停滞を破った。
・所属・立場
藤志高校二年生。
・主な行動・出来事
河川敷で水篠の本音を聞き、後に朔と和希を涙ながらに叱咤した。
・変化・影響
「できるかではなく意志」を突き付け、再始動の火種となった。
水篠涙人
表には出さぬ恋を静かに処理した。
・所属・立場
藤志高校二年生。
・主な行動・出来事
悠月への秘めた想いと“その瞬間に失恋した”心情を健太に告白した。
・変化・影響
誰も間違っていないという合意形成に寄与した。
柊琴音
明るさと率直さで娘を受け止める若き母であった。
・所属・立場
夕湖の母。
・主な行動・出来事
失恋直後の夕湖を抱き留め、否と是の両面から励ました/お盆の来客(優空)を迎え入れ、対話を支えた。
・変化・影響
“家”の温度で物語を下支えした。
岩波蔵之介(蔵セン)
軽口と実務で若者の夏を運営した。
・所属・立場
藤志高校教員。
・主な行動・出来事
夏勉の運営、焚き火場の示唆、BBQの段取りなど。
・変化・影響
「折り目は自分以外からもつけられる」という示唆が余韻を残した。
奥野先輩
遅すぎた告白の悔いを後輩へ託した。
・所属・立場
藤志高校三年生。
・主な行動・出来事
明日風への失恋談を語り、朔に時間の重さを伝えた。
・変化・影響
“あっという間”の感覚を朔に刷り込んだ。
西野の祖母
原風景と「ご縁」の哲学で若者を包んだ。
・所属・立場
明日風の祖母。
・主な行動・出来事
迎え火で二人を迎え、食卓と昔話を分かち合った。
・変化・影響
“端を離さなければ繋がる”の言葉が朔の決意を補強した。
亜十夢
陽の気遣いで朔と野球を楽しませた後輩であった。
・所属・立場
地域の野球仲間。
・主な行動・出来事
公園でのミニゲームに参加し、汗をかく時間を提供した。
・変化・影響
重たさを一時的に洗い流す役割を果たした。
展開まとめ
プロローグ 私の普通
平凡な日常への自己認識
語り手は自らを特別でも劣ってもいない存在と捉え、友人関係においても深い結びつきはなく、ほどほどに頼られる程度であった。特別に好かれることもなく嫌われることもなく、毎日は密やかに過ぎていった。刺激を求めず孤独を避け、普通であることこそ幸せだと自分に言い聞かせていたのである。
心を閉ざす姿勢
語り手は自分の心を透明な壁で囲み、他人と心を触れ合わせないようにしていた。泣きじゃくる幼い自分を偽りの笑顔に閉じ込めながら、普通という言葉の陰に息苦しさを抱えつつ、それを隠して生きていた。
出会いと変化の契機
ある日、教室で一人の男子に出会った。初対面にもかかわらず、彼は語り手の心の奥へ踏み込み、閉ざしていた引き出しを勝手に開けた。第一印象は嫌悪であったが、その夜、彼に見つけてもらったことで、本当は望んでいなかった普通という生き方や大切にしたかった記憶を思い出すきっかけとなった。
願いの芽生え
彼の存在は語り手にとって真っ暗闇を照らす光となった。小指に絡めた約束のような記憶を思い出しながら、語り手は特別や恋人でなくてもよい、ただ困ったときに最初に名前を呼ばれる存在であれればよいと願った。普通にそばにいられることこそ望みであった。
五章 散らばる涙色の万華鏡
藍に沈む帰路と音色の救い
夕暮れが藍に移ろう帰り道で、千歳朔は自己嫌悪と後悔に絡め取られていたが、内田優空のサックスが一曲、あるいは幾曲か響き、静かに感情の奔流を受け止めた。演奏の終わりに残る一音が朔を現実へ引き戻し、朔は涙の跡を拭って礼と別れを告げる決心を固めたのである。
優空の微笑と「いつもどおり」への誘い
朔が言葉を探す中、優空はふわりと微笑み、いっしょに帰ろうと告げ、晩ご飯の買い出しを提案した。朔は柊夕湖への負い目から断ろうとしたが、優空は理屈の上では朔に負い目はないと指摘しつつも、同時に朔と夕湖の双方に怒っていると本心を明かした。
自己罰の否定と約束の確認
朔が「傷つけた分だけ自分も傷つく」方向に傾くと、優空はそれは夕湖が望む姿ではないと断じ、朔の自己罰がかえって夕湖をさらに苦しめると諭した。朔ははっとして誤りに気づき、馬鹿な真似はしないと約束した。優空は「さよならは言わせない」と加え、今は自分が隣にいると明言して朔を支えた。
「別件」の同行と静かな主張
朔が一人で食事を済ませると伝えると、優空は「別件」として同行を宣言し、どうしても嫌なら追い出してよいとまで言い切った。朔は親友を振り切ってまで来た優空を無下にできず、ためらいながらも歩を合わせた。朔は満天の星に祈るように、誰かが夕湖のそばにいてくれることを願った。
夕湖の失恋の痛みと孤独な帰路
一方、柊夕湖は裏道を泣きながら歩き続け、化粧が崩れるほどに嗚咽し、なぜ告白したのかと自問し続けた。千歳朔の「ばいばい」に心を裂かれ、二学期以降の「いつも」が失われる現実を受け入れられず、朔の特別になるのは自分ではないと突き付けられて崩れ落ちそうになったのである。
教室での分岐と「選んだ」背中
教室では朔が出て行った後、内田優空が涙を堪えながらも迷いなく鞄を掴み、夕湖の脇を駆け抜けて朔の後を追った。夕湖はその背中に、優空がすでに朔の隣にいると「選んだ」事実を悟り、膝をつくように気力を失った。
海人の伴走と八つ当たりの告白
海人が夕湖を家まで送ろうと申し出て、使っていないタオルを差し出し、話しかけないと約したうえで後ろから付き添った。やがて夕湖は海人が朔を殴ったことを責め、朔の居場所がなくなると非難したが、海人は夕湖を余計に傷つけたと謝罪した。夕湖は八つ当たりであると自覚しながらも涙を止められず、海人の優しさに支えられた。
もしも、の仮定となお残る本心
夕湖は、最初に好きになったのが海人であれば不安も嫉妬もなく「好き」を叫べたかもしれないと一瞬想像したが、それでも朔を求めてしまう自分を嫌悪し、なお朔の名を胸に抱いた。海人は空元気で支え続け、夕湖は彼の胸で泣きながら、心の底では優空が朔のそばにいることを願った。
東公園の夜と七瀬悠月の自責
七瀬悠月は教室での出来事を反芻しながら、青海陽のシュート練習を眺めつつ自分を最低だと責め続けていた。千歳朔への恋を、夕湖の告白が叶うかもしれない瞬間に打ち砕かれる恐怖を味わい、妄想してきた未来の数々が砂の城のように崩れ落ちたと悟った。唇を奪うなどの卑近な近道も一瞬よぎったが、結局は踏み出す勇気がなかった自分の臆病さを認め、勝率を計算してきれいに決めようとする癖が判断を遅らせたと総括した。
「終わらない恋」の錯覚と夕湖の尊さ
朔が心に他の女の子がいると明言した瞬間、悠月はそれが自分かもしれないという甘い夢想に浸った。しかし夕湖のこぼれる涙と強がりの笑顔の尊さに直面し、目の前の痛みに寄り添えない自分のさもしさを痛感した。そのうえで、内田優空が朔を迷いなく追った背中を見送るしかなかった自分を省みて、泣き崩れる夕湖の背をさすりながら心中で謝罪を重ねた。
青海陽の視点――勝敗のない恋への恐怖
青海陽は練習という接点が消えた未来に怯え、努力すれば報われると信じてきた競技の論理が恋に通用しない現実に直面した。自分にないものを多く備えた夕湖への嫉妬と、朔との関係を前に進めるための「けじめ」を告げる機会を逃した悔いが胸を占めた。髪、化粧、所作、勉強、料理などいくらでも変える覚悟を並べ立てつつも、告白というぶっつけ本番に踏み出せない臆病さを自認し、夕湖の真っ直ぐさと強さを称えた。
並走するふたりの夜と小さな支え
陽は、自身が観客のように蚊帳の外へ追いやられた感覚を抱えつつも、疲弊しきった心身でボールを追い続けた。やがて悠月が現れ、夕食に誘うことで陽の心を引き戻した。ふたりは芝に寝転んで空を仰ぎ、言葉少なに手を強く握り合い、それぞれの痛みを分かち合った。
山崎健太の逡巡と水篠の告白
山崎健太は帰路で、朔が悪者のように教室を去ったことへの違和感を抱いた。水篠と連れ立って歩く中で、朔の行いを一概に責められないとする自身の思いを言葉にし、朔に救われた過去を思い返した。河川敷で缶を手に腰を下ろすと、水篠は悠月への秘めた想いを明かし、ヤン高で悠月が朔の彼女だと叫んで立ち向かった姿に心を奪われ、その瞬間に自ら失恋したと語った。
誰も間違っていないという結論
水篠は朔の葛藤も夕湖の想いも海人の怒りも、それぞれに正しさがあると整理し、責める気にもなれないと断じた。健太は、朔の棘ある言い回しが悠月の哀しげな顔に由来する配慮だったと知り、ふたりは冗談を交わして緊張を解いた。最後に水篠は、みんなが複雑な感情を抱えながらも各々の選択をするだろうとだけ告げ、夜風の中で行く末を見守る姿勢を示した。
河川敷の余韻と“小さな恩返し”の願い
山崎健太は水篠の本音を聞き終え、せめてもの恩返しがしたいと胸に刻む。
夜の台所――朔と優空の日常が刺す
千歳朔の部屋。包丁と鍋の音、SUPER BUTTER DOG『サヨナラCOLOR』。内田優空と買い物をして帰ってきた“いつもの風景”が、柊夕湖を泣かせた直後であるほどに胸を締めつける。夕湖は無事帰れただろうか――電話したくてもできない自制が朔を苛む。
風呂場の崩落
優空に促されて入浴した朔は、冷水を浴びながら嗚咽を堪えきれない。海人の拳の痛みより、夕湖を十秒で突き放せる相手ではないと悟る痛みが深い。それでも「終わりではなく始まりに」と自分に言い聞かせ、前を向く“けじめ”を決める。
“今夜のお月さま”――オムライス
風呂上がり、甘いケチャップの匂い。優空が差し出したのは母の記憶が宿るオムライス。「ふたりのために。これが今夜のお月さま」。一口ごとにこの部屋へ滲む夕湖の痕跡(食器、カップ、ランチョンマット、ドライヤー)が胸を刺し、朔は静かに泣きながら食べ続ける。優空は音量を少し上げ、言葉を添えず寄り添う。
“泊まる”という宣言
片付けの手順まで身についた“ふたりの習慣”をなぞったのち、優空は「このまま泊まってく」と告げる。朔は動揺するが、優空は「やましい気持ちはない」「今度は私が誰よりも朔の隣にいる」と真っ直ぐに言い切る。朔は反論を手放し、優空が風呂に入るあいだ外へ出る。
新月の呼び出し――西野明日風
七瀬悠月と青海陽からのメッセージには応じられない朔のスマホに、「西野明日風」から着信。「月が綺麗ですね」から始まる会話。新月なのに軽口が戻らない朔の変化を明日風は見抜き、「知らないまま置いていかれるほうがつらい」と胸の内を明かす。かつて“何も告げられずに野球を再開した君を見かけた”痛みを重ね、「君の言葉で聞かせて」と促す。
告白の顛末を語る夜、そして“つらいね”
朔は夕湖との四日間と今日の決断を、飾らず明日風に語る。受け止めた明日風は言葉を選びあぐね、「つらいね」とだけ寄り添う。電話口のBUMP OF CHICKEN『embrace』が小さく流れ、朔は“言葉にならない沈黙ごと受け止められた”ことで、ほんの少しだけ救われる。
西野明日風の独白――疎外と恐怖の自覚
西野明日風は通話を切った直後、千歳朔の異変を察しつつ、自分が物語の外側にいる疎外感と嫉妬を吐露した。クラスメイトではない自分には「選ぶ資格」すらなく、失敗すれば関係が途絶するという恐怖に震え、「もし朔が柊夕湖を受け入れていたら、さよならの電話になっていた」と最悪を想像した。その一方で、都会と故郷を往復しながら続く甘い未来を無意識に夢見ていたことに気づき、「離れて暮らす覚悟はあっても、離れる覚悟はなかった」と結論した。心の中で「行かないで」と叫びつつ、最後に「泣いている君にオムライスを作ったのは誰?」と胸中で問いかけた。
朔の帰宅と優空の滞在――日常の手触りで支える夜
朔は一時間ほど外で気持ちを整えたのち帰宅し、パジャマ姿の内田優空に迎えられた。ふたりはブラックコーヒーを手にソファで向き合い、優空は「朔が横になるまで見張る」と同席を申し出た。朔が琴音との会話を回想し「いられるだけはいると約束したのに破ってしまった」と漏らすと、優空は「関係を変えようとしたのは夕湖」と宥めたが、やがて「なのに、私、夕湖ちゃんのことっ」と声を震わせ、ラジオの音量を上げて感情を飲み込んだ。朔は寝室にソファを運び込み、窓を開けて夏の風を入れ、ふたりで眠れぬ夜を過ごす準備を整えた。
柊夕湖と母の夜――否と是の抱擁
夕湖は海人に家まで送られ、母に抱きとめられたのち入浴して身支度を整え、リビングで葡萄ジュースを受け取った。四日間の出来事と告白の顛末をすべて吐露すると、母はまず「恋のステップとしては大間違い」と明け透けに指摘したうえで、「だからこそ誇りに思う」「大切な人を大切に想える子でいてくれてよかった」と告げた。夕湖が「嫌な女ではないか」と問うと、母は「答えはあなたの心にいる人たちが教えてくれる」と返し、夕湖はソファで泣き続けた。
“川の字”の語らい――記憶でつなぐ三人
就寝前、優空は「夕湖ちゃんの話をしよう」と提案し、「出会わなきゃよかったなんて目を逸らさないように、三人でお泊まりしているみたいに」と微笑んだ。朔は「今日は川の字だな」と応じ、ふたりは夕湖の可笑しさと気遣いを具体例で語り合った(「うっちーだけずるーい」「朔だけずるーい」などの拗ね方、朔の不調期に送り続けた向日葵や月のメッセージ、弁当のおかずをさりげなく分ける配慮等)。語りながら、ふたりは「海人や夕湖と完全に元どおりには戻らないかもしれない」「友達という関係も何ひとつ変わらずにはいられない」と現実を受け入れつつ、真夜中の静けさに「きれいな飴玉を拾い集める」ように哀しみを沈め、また並んで夕暮れを歩ける日を祈りながら目を閉じた。
六章 月の見えないふたりぼっち
優空の努力と孤独
内田優空は幼少期から努力を積み重ね、成績上位を維持してきた。しかしその動機は勉強好きではなく、家族を安心させるためであった。友人関係は徐々に疎遠になり、やがて「物静かな優等生」という役割を背負うことで周囲と透明な壁を隔て、普通であることに安らぎを求めていた。
高校入学と柊夕湖との出会い
藤志高校入学後、優空は新入生代表として注目され、すぐに優等生扱いされた。ホームルームでクラス委員長を決める際、柊夕湖が彼女を推薦する。周囲は賛同し、優空は受け入れざるを得なかった。内心では穏便さを選んだものの、負担を感じていた。
千歳朔の介入
その場で千歳朔が異議を唱え、優空の心情を代弁するような言葉を発した。結果として委員長は朔が務め、副委員長は夕湖となった。優空は助けられた一方で、心の奥に踏み込まれたような不快感を覚え、朔に対して強い反発を抱いた。
翌日の和解と対立
翌日、夕湖が謝罪し、優空は彼女を受け入れて関係を修復した。しかし朔に対しては複雑な感情を抱き続けた。感謝を伝えようと思いながらも素直になれず、「あまり好きじゃない」と思わず口にしてしまった。朔はそれを笑って受け流し、夕湖も同意して軽く流したが、優空の心は大きく揺さぶられた。
心の葛藤
優空は朔の存在に苛立ちと戸惑いを覚える。彼は他人の心に自然と踏み込んでくる人物であり、これまでの「普通で安全な生活」を乱す存在であった。優空は自らの感情を制御できず、強い嫌悪を表明するに至った。
柊夕湖との交流の拡大
柊夕湖は内田優空に頻繁に声をかけ、買い物や家族への紹介を提案した。優空は戸惑いながらも、柊夕湖の純粋さを認めつつ、これ以上関係を深める気はなかった。だが、LINEでのやり取りや会話は続き、優空は少しずつ心を動かされていった。
千歳朔との応酬
千歳朔は優空にしつこく話しかけ、時に挑発的な言葉を投げかけた。優空は冷たくあしらい続けたが、朔は意に介さず接触を重ね、互いに皮肉を交えたやり取りが続いた。弁当や勉強の話題でも軽口を交わし、優空は苛立ちながらも興味を覚え始めた。
岩波教師の示唆
放課後、岩波教師から千歳朔にプリントを渡すよう頼まれた優空は、不本意ながら教室に向かった。その際、岩波教師から「千歳と似ている」と告げられ、優空は強く否定しつつも動揺した。
階段での事故と救出
重い紙束を抱え階段を上る途中、優空は足を滑らせ転落しかけた。千歳朔が咄嗟に抱きとめ、身を挺して支えたことで大事には至らなかった。優空は恐怖と混乱のなか、朔の真剣な言葉「人生は自分のものだ」に心を突き動かされた。
心の変化と眼鏡の決断
朔の助言と行動に揺さぶられた優空は、自らの眼鏡を壊したことを機にコンタクトへと変える決意をした。柊夕湖や千歳朔から外見を褒められ、内面にも小さな変化が芽生えた。これまでの苛立ちは薄れ、朔を意識する気持ちが少しずつ混じり始めた。
野球部での朔の姿
夏休み、優空は音楽室から野球部の練習試合を眺めた。試合に出られずグラウンドの隅で黙々と走り続ける朔の姿を見て、その必死さと真摯さに胸を打たれた。思わず声援を送った優空は、彼に対する感情の変化を自覚し始めた。
柊夕湖とのやりとりと距離感
内田優空は柊夕湖とLINEを交換して以降、日常が少し賑やかになった。柊は買い物や外出、家族紹介など積極的に誘うが、優空は一線を引き、クラスメイトとしての関係を保とうとした。夕食の誘いでも千歳朔がいるため断り、親密さを深めることを避けた。
千歳朔との応酬
優空は朔に対して冷淡な態度を貫いた。朔は愛想笑いをやめた姿勢を評価し、嫌いだと言われても会話を続けた。弁当作りを話題にされたときも反発するが、内心では朔に本音を打ち明けたらどうなるのかという興味が芽生えていた。
岩波教師の依頼
七月、放課後に岩波教師から朔への伝言とプリント運びを頼まれた優空は、しぶしぶ引き受けた。岩波は二人が似ていると示唆し、優空は強く否定しつつも気にかかる思いを抱いた。
階段での事故と救出
重い紙束を抱えて階段を上がる途中、優空は足を滑らせ転倒しそうになる。朔が現れて体で支え、下敷きとなって救った。恐怖と衝撃の中、優空は朔の体温を感じ、眼鏡を失ったまま混乱した。
朔の言葉と優空の動揺
朔は好かれていないと知りつつ放っておけなかったと告げ、内田さんの人生はあんたのもんだと語った。優空の心臓は高鳴り、複雑な感情に揺れ動いた。朔が立ち去ろうとしたとき、優空は思わず名前を呼び、眼鏡の有無を尋ねてしまった。朔はそっちのほうがいいと答え、優空はコンタクトを作る決意をした。
変化の兆しと夏休み
翌日から優空は外見の変化を柊に褒められ、朔からも眉間のしわを指摘された。夏休みを迎え、朔との応酬は続いたが、もやもやした感情は和らぎ、新しい感覚へと変化していった。柊からメイクや手入れを教わり、少しずつ変わる日常を受け入れるようになった。
野球部での朔の姿
八月、音楽室で練習中に優空は窓から野球部の試合を見た。朔の姿が見えず探していると、隅で走り続ける彼を発見する。試合に出られず孤独に走り続ける姿に胸を打たれた優空は、思わず頑張れ千歳くんと叫び、熱い感情を覚えた。
河川敷での対話のはじまり
優空は河川敷で千歳から缶飲料を受け取り、取り乱した際に私のせいだと言った理由を問われた。千歳は無理に聞き出さず、雑談でもよいと寄り添う姿勢を示し、優空は最初で最後のつもりで母の話を語る決意を固めたのである。
母の記憶と「普通」の教え
優空の母は穏やかで音楽に長け、幼い優空にピアノやフルートを奏でて寄り添っていた。努力が思うように実らないときも大丈夫だいじょうぶ、普通でいいと諭し続け、家庭では料理や家事を丁寧にこなし、平凡で温かな日常を築いていた。父からは若き日の母がコンクール入賞歴を持つと聞かされ、より高い力量を感じさせる独奏の一面もあったが、母本人は普通に楽しく弾ければいいと語っていた。
母の失踪と家族の崩壊
小学四年のある夜、門限破りで帰宅した優空は、母が家を出て戻らない事実を父から知らされた。母の口癖だった普通でいいに背く突然の不在は、優空に深い喪失と否認をもたらし、涙をこらえて理由を求めても答えは得られなかった。以後、父は多くを語らず、家族は三人で生きる現実を受け入れるほかなかった。
優空が抱いた誓いと恐れ
時を経て優空は、哀しみののちに怒りを経験し、母の普通の言葉は自己正当化だったのかという疑念に苛まれた。やがて優空は父と弟を二度と傷つけないと誓い、勉学に励み、対人関係で波風を立てず、はめを外さず、問題の芽を避ける生き方を選んだ。さらに、大切な人を作れば再び喪失が訪れる恐怖から、他者との距離を保とうとし、千歳に対しても関わらないでくださいと告げて礼を述べ、関係の幕引きを図ろうとした。
千歳の叱咤と呼びかけ
千歳はばかじゃねえのと強い言葉で遮り、いつまで九歳の可哀想な女の子でいるつもりだと優空の自己固定化を指摘した。優空が反発して千歳の恵まれた家庭を決めつけ非難すると、千歳は筋合いならあるさと優空の手を取り、ついてきなと歩き出した。
千歳の素性の開示
千歳は優空を自宅のマンションに連れて行き、家族の気配のない部屋と一人用の寝室を見せ、両親が離婚し自分は中学時に一人暮らしを選んだこと、連絡は取ろうと思えば取れることを淡々と告げた。境遇が似たもの同士として、お節介を焼くだけの筋合いはあると微笑み、優空に過去の告白を悔やませない配慮を示した。
共通点と相違の再認識
優空は思わず笑い、千歳の雑なくくりに違いを返しつつも、その過去の差配が自分を軽くするための差し出しであると理解した。千歳は自身の痛みを道具にせず、ただ優空の現在を支えるために提示したのであり、優空は彼の強さと優しさを認めた。
続きへの合意と小さな実務
千歳が話の続き、するかと促すと、優空ははいと応じたうえで、まず部屋を片づけてもいいかと申し出た。千歳は面目ないと頭をかき、二人は散らかった室内を前に、対話の続きを始める準備を整えたのである。
散らかった部屋と小さな音楽
優空は千歳の部屋で空容器の廃棄、食器洗い、簡単な清掃、洗濯物の整理、冷蔵庫の賞味期限切れの処分を行い、コーヒーを淹れて腰を落ち着けた。千歳は気まずさを隠すように正座で待ち、ラジオからは「エリーゼのために」が流れ、幼い頃に母と練習した記憶が優空に蘇ったのである。
「普通」の再定義と崩れる自己規則
優空は自らの生き方が歪であると認め、九歳の自分が作った矛盾だらけの規則と母の「普通」という呪文に縛られてきたと告白した。千歳は、普通とは毎日学校へ行き、友を作り、時に喧嘩し仲直りし、勉強も部活も時にはさぼり、オシャレを楽しみ、気になる相手に恋をすることだと平明に言い切った。その言葉は優空の心底に願っていた像と重なり、長年の自己規則にひびが入った。
「頼られない寂しさ」への気づき
千歳は家族なら話してくれないもどかしさもあると指摘し、優空は母の失踪後に抱えた問い――どうして頼ってくれなかったのか――を自分自身がいま繰り返していると悟った。千歳は親も勝手に生きるのだから、子もまた自分として生きるべきだと背を押し、あんたは内田優空だと名指した。この一言が優空の自己像を揺り動かした。
「もうひとりの家族」になる提案
千歳は過去を消すことはできないが、これからの思い出をいっしょに作れると述べ、互いの欠けた穴を埋め合う友達になろうと提案した。優空は涙ながらに同意し、差し出された手を強く握った。
父への告白と長い独り相撲の終結
優空はベランダから父に電話し、母の失踪の日から今日までの胸中と今後の生き方を丁寧に伝えた。父は気づけなかったことを繰り返し詫び、これからは家事や料理を分担するから好きに生きてほしいと応じ、弟も自分でどうにでもすると笑って受け止めた。優空は長い独り相撲が終わったと実感した。
初めての来訪者と「泊まる」決断
部屋へ戻ると千歳が上半身裸で現れ、優空は慌てたが、千歳の家に上げた女の子は自分が初めてだと知って胸を高鳴らせた。優空は父の了承も取り、今夜は泊まると宣言した。コンビニで必要品を揃え風呂を済ませ、深夜には並んでアイスカフェオレを飲みながら語らった。
暮らしへの介入と握手の約束
部屋の惨状と食生活の偏りを見た優空は、通いで食事を作ると申し出た。千歳は茶化しつつもそれを受け入れ、食材の買い出しを手伝うと約した。優空は誰かに迷惑をかけ、かけられながら生きろという千歳の言葉を引き合いに出し、今夜だけははめを外すと笑った。最後に千歳は手を差し出し、優空は任されたと答えてその手を強く握り返した。
並んで眠る準備と小声の続き
就寝の段になり、朔は自分はソファで寝るから優空はベッドを使えと言い、二人はソファを寝室に運び込み顔が見える配置に整えた。緊張を抱えた優空は毛布の匂いに動揺しつつも、まだ話したいと応じ、夜更けの対話を続けた。
母の言葉は嘘ではなかったのかという視点
朔はいなくなった事実が過去の言葉を嘘にするとは限らないと指摘し、優空が普通の幸せを求めたのは母を否定するためでもあったのではと問いかけた。優空は許せない感情の奥で母を好きな気持ちが残っている自覚に至り、揺れ動いた。
野球への愛と未練の整理解説
朔は硬球を芯で捉えた瞬間の快感を語り、辞める決断の重さを認めつつ、野球が大好きだった時間は自分そのものだったと告白した。その姿勢が、許せないが大好きでもあるという優空の矛盾を受け止める枠組みとなった。
母の思い出の列挙と肯定
促されて優空は、絵本を読む声、整った身なり、台所で奏でるように料理をする所作など、母の好きだった点を次々に語った。心のなかに母が生き続けていると気づいた優空は、いまの表情のほうがいいという朔の言葉に背を押され、大好きでしたと涙ながらに結んだ。
明日への決意の更新
優空は九歳の自分に縛られず、柊と語り合い、身なりを楽しみ、水篠や浅野とも改めて向き合い、父と弟と迷惑をかけ合いながら生きると胸中で誓った。自分の人生を自分のために、と心に刻んだ。
夜更けの見守りと静かな祈り
朔の寝息を確かめた優空は、三日月形のライトに他者の気配を見いだしつつも、今夜だけは朔の隣にいたいという満ち足りた感情を自覚した。汗を拭い、冷暖房を調整し、眠る頭を撫でながら大丈夫だいじょうぶと心内で繰り返し、今度は私があなたの心を見つけると誓った。
オムライスの朝と通学路の光
翌朝、優空はオムライスを作り、朔は美味いとうなずいて平らげた。優空はアイロンなしのシャツで家を出て、河川敷を並んで歩く心地よさに徒歩通学を決めた。
教室での呼び名と輪への加入
登校後、優空はおはよう、夕湖ちゃんと呼びかけ、柊は歓喜して手を握った。朔の軽口を挟みつつ、水篠と浅野も加わり、即席の掛け声で拳を合わせた。優空はガラス越しだった世界に実際の照れと可笑しみを伴って踏み込み、こういうのでいいと実感した。
季節の転回と独白の変調
時は巡り、優空は再び同じ毛布の中で月のない夜を見送った。眠る朔を気遣いながら、かつての言い訳はもはや通用しないと自覚しつつ、それでもいまはそばにいたいという想いを受け入れた。夕湖と語ろうという約束を胸に、朔の隣で大丈夫だいじょうぶとそっと撫でる行為で、自らもまた救われていた。
七章 繋ぐ迎え火、結ぶ送り火
惰性の夏と途切れる気配
夕湖の告白を断った千歳朔は、睡眠と食事と読書とトレーニングだけを繰り返す惰性の夏を送っていた。七瀬と陽からの気遣いの連絡に短く応じつつ、和希や健太、海人や夕湖からは音沙汰がなく、孤立の手前で均衡を保っていた。
台所の灯と日常の再開
優空が毎夕訪れて食事を作り続け、千歳朔は冷やし中華の味加減や具材を言葉少なに選ぶだけで、夕湖の話題は互いに避けた。それでも彼女の献立が暮らしの輪郭を取り戻させ、砂利道のように躓く心を細く支えた。
お盆の気づきと誘いの電話
八月十二日、優空が家族行事で帰ったのち、千歳朔はお盆の境目を思い出し、明日風から祖母を訪ねようという電話を受けた。ためらいを洗い流すように身を整え、祖母の好物を土産に持つことを決め、過去と現在と未来に向き合う決心を固めた。
青田波の駅と祖母の迎え火
えちぜん鉄道で降り立った田園の駅は青田が波打ち、祖母の家の玄関先では迎え火が静かに燃えていた。祖母は面差しを確かめるように千歳朔を撫で、明日風の成長を喜んだ。家の匂いと道具の配置が幼い記憶を呼び起こし、夏の原風景が鮮明に蘇った。
縁側がくれた安らぎの記憶
仏間で手を合わせ、精霊馬に目を留めたのち、二人は縁側で風鈴と蚊取り線香の音と匂いに身を浸した。幼い頃、最初の一人泊まりの不安を、明日風と遊ぶ心地よさが溶かした記憶が重なり、千歳朔は誘いへの感謝を口にせずとも噛みしめた。
田舎の食卓と伝わる味
夕餉には梅干し、たくあんの煮たの、煮魚、味噌汁、ほうれん草のおひたし、黄色いたくあん入りのポテトサラダが並び、千歳朔はソースを垂らす母の食べ方を明日風に伝えた。三人は味の記憶を手繰り合い、笑い合いながら家族の現在にも触れた。
枝折りの昔話と子どもたちの性分
祖母は松の枝を折った日の出来事を挙げ、千歳朔も明日風も相手を庇って叱責を分け合おうとした昔の気質を褒めた。二人は照れながらも、その根っこが変わっていないことを悟った。
ご縁という名の導き
明日風が祖母の孤独を案じると、祖母は人の縁は自分から切らぬ限り続くと答え、先に逝った祖父とも、離婚した両親とも、ご縁は夢と思い出と連絡の中で繋がっていると語った。どちらか一方が端を握り続ければ繋がりは途切れないという言葉に、千歳朔は夕湖と海人への想いを胸中で確かめた。
迎え火と送り火の間で交わす約束
暮色が橙に傾く頃、三人はまた来ると交わし、結び目を確かめるように門を出た。千歳朔は下した決断を背に、過去と現在とこれからを繋ぐ端を離さないと心中で繰り返し、迎え火の余燼の向こうに、送り火へと続く道筋を見いだしていた。
遠回りの道と移ろう景色
祖母宅を後にした千歳朔と明日風は、懐かしい田舎道を歩いた。田畑や川は思い出のまま残っていたが、かつて明日風の家があった場所には新しい家が建っており、時の流れを痛感した。思い出の細部はすでに曖昧で、変化のなかに儚さを覚えた。
初恋の面影と胸の痛み
明日風は初恋の朔兄が後輩の君となり、いまは誰かの好きな人でありながら傷ついていると語った。詩人吉野弘の「夕焼け」を引き合いに出し、千歳朔が本心を誰にも語っていないことを見抜いた。問い詰められた千歳朔は沈黙し、心を隠したまま立ち尽くした。
愛を知らぬ月の比喩
明日風は、千歳朔が愛されることに慣れすぎて愛し方を知らないのではないかと告げた。愛を避け、無償で振りまくだけの存在として、ラムネ瓶に沈んだビー玉の月だと形容した。その言葉は心を鋭く刺し、千歳朔は返す言葉を失った。
別れの夕暮れと胸の余韻
明日風はそれ以上を語らず、夕陽を背に歩み去った。千歳朔は彼女の影を追いながら、夏の終わりを告げる迎え火の煙に揺れる思いを抱いた。えちぜん鉄道で福井駅に戻り、父親に迎えられた明日風と別れた後も、胸には彼女の言葉が重く残った。
優空との電話と心の揺らぎ
帰宅した千歳朔に優空から電話があり、食事の確認を口実に声を聞きたいと告げられた。優空は自分の問題と前置きしつつも、最後に大丈夫と言ってほしいと求め、千歳朔はそれに応じた。通話を終えた後も明日風の指摘と優空の声が交錯し、千歳朔の心は定まらなかった。
七瀬の来訪と揺れる気配
翌日、玄関を訪れた七瀬は晩御飯を作ると申し出た。エプロン姿で台所に立つ彼女を前に、千歳朔は軽口を控え、似合っていると無難に伝えた。七瀬はソースカツ丼を振る舞い、千歳朔はその味に感嘆した。だが笑い合いながらも、胸の奥には夕湖や優空への負い目が疼き、正しい言葉を選び損ねた切なさが残った。
ベランダでの会話と夕湖の消息
食後、千歳朔と七瀬悠月はベランダに出てサイダーを飲み、部活や仲間の話を交わした。七瀬は夕湖に連絡を試みたが既読もつかず、ただ海人とは会っているらしいと聞き、朔は安堵した。
七瀬の本音と助言
七瀬は形式や美しさに囚われてきた自分たちを振り返り、朔に意地を張り違えないよう伝えた。初めての手料理をカツ丼にしたのは元気を取り戻してほしかったからであり、それこそが自分らしさだと語った。朔はその想いに心を打たれた。
優空からの夜の電話
七瀬を送った帰り道、優空から電話が入り、料理に軽い嫉妬を示しつつも冗談を交わした。最後に優空は今日は大丈夫と告げ、落ち着いた声で通話を終えた。朔はその変化を受け止めた。
陽の訪問と亜十夢の登場
お盆最終日、陽が訪ねてきて自分では力になれないと悩み、代わりに亜十夢を連れてきた。三人は公園で野球をし、全力の打席と投球を繰り返し汗を流した。陽なりの気遣いに朔は救われた。
夕立のなかでの言葉
突然の夕立に打たれながら朔と陽は笑い合い、陽はたまには仲間に頼ってもいいと告げた。仲間だからこそ強さも弱さも分かち合えると説き、朔の背中を叩いて励ました。朔はその言葉に重みを感じた。
優空の決意と夏の終わり
その夜、再び優空と電話でやり取りし、陽の行動を共有した。優空は翌日からまた食事を作りに行くと告げ、最後に私は手離さないと強い言葉を残した。朔はその響きを胸に刻み、夏の終わりを迎えた。
海人の告白と夕湖の決断
お盆明け、夕湖は毎日のように訪れる海人と公園でアイスを食べた。海人は入学式の日から夕湖を好きだったと語り、これまでの支えと共に気持ちを告白した。夕湖は感謝と罪悪感に揺れつつも、最後は朔でなければ駄目だと涙ながらに断り、海人の胸で泣いた。海人は失恋を受け止め、気まずいのは自分も同じだと笑った。
朔を訪ねる和希と健太
数日後、朔の部屋に和希と健太が訪れ、三人でマックを食べながら近況を語った。朔は優空や明日風、七瀬、陽との出来事を正直に話し、和希はこのままではいけないと問いかけた。朔は夕湖と海人を傷つける懸念から動けないと答えた。
健太の叱咤と朔の本心
健太は涙を浮かべて朔と和希を叱責し、理屈に逃げて諦める姿勢を「らしくない」と指摘した。かつて朔に教わった言葉を返し、できるかではなく意志が大切だと迫った。朔は本心ではまた皆と仲よくしたいと打ち明け、和希と共に一本取られたと苦笑した。健太の真っ直ぐな言葉が、再び歩み出すきっかけとなった。
優空の変化と提案
翌日、優空はこれまでの不安定さから一転し、吹っ切れた様子で朔のもとを訪れた。和希と健太が来た話を聞き、どこかうれしそうに目を細めた。夕食を終えて河川敷を歩いていると、優空は「お茶していかない」と切り出した。
河川敷での約束
コンビニで飲み物を買い、ふたりで腰を下ろす。優空は「ひとつお願いがある」と告げ、小指を差し出して指切りを求めた。朔は応じ、優空の願いを聞くと誓う。そこで優空は「明日、一緒にお祭りに行ってほしい」と伝えた。かつての浴衣での約束を持ち出し、今こそ行くべきだと示した。
優空の決意と朔の応答
優空は夕湖や仲間たちの姿に触発され、このままでは駄目だと語った。そして「八月二十四日は夏のクリスマスイブ」と表現し、大切な一日を共に過ごしたいと願った。朔はその思いを受け止め、「わかった、行こう」と答える。優空は満面の笑みを浮かべた。
朔の内心の決意
朔は祭りの後に優空へ伝えようと心に決めた。自分よりも自分自身のこと、そして夕湖のことを優先してほしいと。そして自分もまた、この状況に終止符を打つ覚悟を固めた。川面に映る月を見上げながら、朔は祈るように手を結んだ。
八章 優しい空
優空の支度と揺れる決意
内田優空は下着の上から浴衣を羽織り、芍薬柄に菫色の帯をアネモネ結びにして身支度を整えたのである。姿見に映る自分に母の面影を感じ、寂しさよりも温かさが勝ったことを喜び、千歳朔を想った。伸ばしてきた髪を指先で丁寧に整え、巾着に貝殻を忍ばせて玄関に向かったが、下駄を前に指先が震えたため、胸に手を当て深呼吸して外へ出たのである。
神社での再会と祭りの始まり
千歳朔は神社の鳥居前で優空を待ち、浴衣姿の優空と合流した。優空は帯の不安を打ち明けつつ喜びを見せ、朔は当たり障りのない称賛を口にした。二人は射的やスーパーボールすくいを楽しみ、狐のお面を買い、ラムネを三本手にした。優空は袖を押さえながら一本を自分で選び、朔の支払いの申し出を受けつつも一本は自分で買うとし、やや不自然な行動を見せたのである。
夕湖の出現と対話の提案
屋台を離れた優空は祈るような面持ちで鳥居を見つめ、朔を導くように歩みを進めた。鳥居の傍らには夕湖が佇み、朔と優空は驚愕ののち、優空が凜として三人に秘めた言葉があると告げ、互いのために隠してきた想いを語る場を持とうと提案したのである。
お盆初日―優空の単独訪問と琴音の謝意
時をさかのぼり、優空はお盆初日に家事を済ませて夕湖の家を訪ねた。迎え火を焚く琴音に声をかけると、琴音は状況を把握したうえで夕湖の行動を謝罪し、同時に娘の選択を親として嬉しくも思ったと伝えた。しかしその日は夕湖が会うことを避け、優空は時間を置く判断を自ら正当化しつつ帰路についたのである。
二日目―インターホン越しの本音の共有
翌日、優空はインターホン越しに夕湖と対話した。優空は自分も弱さを抱えていると明かし、二人の関係が親友に至った契機は互いの弱さを分け合ったことだと指摘した。夕湖は動揺しつつも受け止め、優空は翌日に再訪するが、それを最後の呼びかけにすると予告したのである。
三日目―雨の中の対面と一時の受け入れ
お盆最終日、優空は再訪し、突然の雨に全身ずぶ濡れになりながらも玄関先で夕湖と対面した。夕湖は優空を家に招き入れ、琴音とともに風呂と着替えを用意した。入浴中も扉越しの会話が続き、優空は前夜の「最後」の意味を明確にし、絶交を意図したものではなく呼びかけの区切りであると説明したのである。
優空の宣言と猶予の提示
優空は扉に手を当て、夕湖が語らず逃げ続けるなら、これからは自分が朔の隣に立つと明言した。正妻の座を自ら降りるなら自分が繰り上がるという比喩で切迫を伝え、なお待つ意志を示して家を後にした。優空は玄関前で窓を見上げ、夕湖の
再会への不安と対話の提案
内田優空は、夕湖が祭りに来た事実に安堵しつつも、黄昏を逃せば関係は戻らないという確信に怯えていた。鳥居の陰に立つ夕湖を前に涙を堪え、話をしようよと手を取り、三人で歩き出したのである。
静かな場を求めて養浩館へ
祭りの喧噪を避け、三人は神社から歩いて養浩館へ向かった。入園後、池を囲む遊歩道を巡り、縁側に腰掛けた。夕陽と風が落ち着きを与える中、優空は話題の口火を切り、まず千歳朔に柊夕湖へ問いたいことはないかと促したのである。
告白の“場”を問う優空
優空は夕湖が朔へ告白した理由を問い、さらに、なぜ皆の前で行ったのかと不自然さを指摘した。万一の不成立が友人関係や朔に与える影響、他の女子の感情への配慮を挙げ、夕湖が成功を見込んでいたのかを問い質したのである。
夕湖の逡巡と“あの日”への示唆
夕湖は浴衣の袖を握り震え、優空はその手を取りながら、あの日の出来事が関係しているのではないかと促した。優空は自分も一緒に背負うと語り、夕湖に事実を語るよう求めたのである。
夕湖の回想―優空への関心と朔の存在
柊夕湖は、委員長決めの件をきっかけに優空へ興味を持ち、言葉を選び人を傷つけまいとする優空の話し方に惹かれたと振り返った。朔と向き合う優空だけが素の表情を見せていたことを見抜き、二学期に優空を食事へ誘い、朔なら優空の殻を破れると期待したのである。
“翌日”の違和と芽生える嫉妬
優空が初めて夕湖と呼ばれ、柔らかい笑みを見せた翌日、夕湖は朔との距離が一気に縮んだ違和を覚えた。昼休み、朔が優空の手作り弁当を食べている事実と、母のいない境遇を分かち合う二人の“特別な繋がり”に直面し、嫉妬に戸惑い自己嫌悪に沈んだのである。
屋上での牽制と優空の否定
放課後、夕湖は朔から鍵を借りて優空を屋上へ連れ出し、好きな人の有無を問い、自らは朔だと明かした。優空は逡巡の末にいないと答えた。直後に朔が現れ、夕湖は勢いのまま朔への好意を“告白未満”として伝え、返事は要らないから気持ちだけ受け取ってほしい、関係は友達のままでと条件を添えたのである。
“告白未満”の合意と自己矛盾
朔はそれが正式な告白でない以上断れないとして受け止め、三人で帰ることになった。夕湖は、優空の力になろうと朔を押し出した自分が、同時に優空を牽制する形になった事実を自覚し、卑怯さに泣きつつも、拒絶されなかった安堵に微笑むという矛盾を抱えたまま心を震わせたのである。
夕湖の懺悔と隠してきた動機
千歳朔と内田優空は、柊夕湖の告白の経緯を一年分さかのぼる懺悔として黙って聞き続けたのである。夕湖は、屋上での“告白未満”の宣言から今日に至るまで、三人の関係の均衡に甘え、他の女子の想いを塞いでしまったと自責し、終わらせるために皆の前で告白したのだと涙ながらに語った。優空は慰撫しながらも、あの場を選んだ理由を確かめ続け、朔はその執拗な問いに戸惑いながら、やがて意図を理解したのである。
三角形の崩れと“終わらせる告白”の理由
夕湖は、二年進級後に江藤悠月と日野陽が朔と距離を縮め、三人の“きれいな三角形”が崩れたと自覚したと明かした。花火大会の夜に見た光景や、夏勉での問いかけに誰も本音を示さなかったことが決定打となり、朔や優空、仲間の“特別”を守るために、自らの恋を公の場で終わらせる必要があったと述べたのである。
優空の読みと朔の告白
優空は、ふたりきりなら朔が帳消しにしてしまうから皆の前で幕引きにしたのだと夕湖の意図を言語化した。そのうえで優空は朔に、断るときの曖昧な言葉の真意を問うた。朔は一度は沈黙を選んだが、友の言葉を思い出し、自らの不誠実と弱さをさらけ出したのである。朔は、心のなかに夕湖という大きな存在が育っていた一方で、同じ重みで大切に想う他の女子もいるため、どの気持ちに恋の名を与えるべきか決められないと告げた。
“選ぶ権利”という逆照射
朔が自責に傾くと、優空は自分だけが選ぶ側だという傲慢を戒め、恋を選ぶ権利は当事者全員にあると指摘した。嫉妬や不快は恋した側が引き受ける感情であり、まだ誰とも付き合っていない段階では、朔が他者の恋の誠実・不誠実まで背負う必要はないと諭したのである。朔が夕湖の行動を不誠実と断じて自己罰に走る構図を反転させ、当人たちが望むかぎり待つことも、追いすがることも、それ自体が誠実であり得ると示した。
“手を繋いでいよう”という提案
優空は、誰かのために恋を終わらせる必要はないと断じ、好きを隠す勇気と伝える勇気のどちらも各人の選択だと位置づけた。そのうえで、互いを想い合いながらすれ違うのは駄目だとし、三人の手を重ねさせて、いつか自分のために恋と向き合える日まで手を繋いでいようと提案したのである。朔と夕湖はその温かさに揺れつつも、救われる感覚を覚えた。
問いの矛先が優空へ
しかし夕湖は、このまま終われないと声を上げ、優空自身の気持ちはどこにあるのかと真正面から問うた。次の瞬間、優空の頬にひとしずくの涙が落ち、三人の関係は新たな岐路へ踏み出した
優空の涙と告白の始まり
内田優空は自らの涙に戸惑いながらも、夕湖と朔の前で語り始めたのである。花火の日に浴衣を着られなかった悔しさを埋めるように菫色のマニキュアを整え、三人で向き合う場に臨んだ心模様を吐露した。優空は、屋上で夕湖に好きな人を問われたとき本心を偽ったと明かし、朔に救われた夜から彼を一番に考えようと決めていたが、恋なのか感謝なのかが判別できず、ふたりを言い訳にして身を引こうとしたと語ったのである。
親友同士の衝突と本音の応酬
柊夕湖は優空の自己否定を遮り、優空は選んだはずだと怒りを露わにした。優空が教室を飛び出した夕暮れ、迷わず朔を追ったのは一番を選んだからだと責めたのである。対して優空は、夕湖が告白を皆の前で行った動機に受け入れられる可能性を隠していないかと突き返し、互いに後付けや隠蔽を指摘し合い、感情が決壊した。やがて夕湖は、わざと厳しい言い方をしたのは優空に我慢を背負わせないためだと泣きながら謝罪し、ありがとうを重ねて優空を抱きしめた。優空も、夕湖は私の一番ではないと震えながら本心を明かし、親友であり続けたい願いと恐れを言葉にした。ふたりは傷つけ合っても受け止め合えると確かめ、涙が涸れるまで抱きしめ合ったのである。
朔の自省と“選べない今”の確認
千歳朔は、優空が一年前から決意を抱えていた事実に打たれ、誰かを選ぶ準備が自分にはなかったと悟った。三人は涙のあとに並んで縁側に座り、何も決まっていない現状を苦笑しつつ受け入れたのである。
夕湖の“好き”の証明
夕湖は朔の胸に手を当て、ひと目惚れだけでは一年半の片想いは続かないと告げ、朔の仕草、嘘をつくときの癖、夜更けの電話の声色など、日々見てきた具体を重ねて、格好よさも情けなさもひっくるめて千歳朔が好きだと伝えた。美化ではなく観察に裏づけられた愛情であると示し、朔は過去の先入観を恥じ、ただ礼を述べたのである。
優空の“わがまま”宣言
優空は、朔を一番にして自分を後回しにする生き方へ戻りかけていた誤りを認め、これからは少しわがままになりたいと、夕湖と朔の手を取って笑った。朔は涙声で応じ、三人の結び目を保ったまま池面を見つめたのである。
朔の結論と“青い糸”の約束
朔は、夕湖の告白をなかったことにしないと前置きし、恋と向き合うのは自分のためでもあると明言した。いま夕湖とは付き合えないと改めて伝えつつ、約束はできないが、もしこの先いつか夕湖への想いに恋と名づけられたら、そのときは自分から好きだと伝えると告げた。夕湖は任せてと応じ、可能性があるかぎり自分の恋を自分で選ぶと宣言したのである。
優しい空の下で
揺らぐ水面は三人の心のように不確かで透明であった。沈む夕陽がやがて朝陽へと巡るように、三人は赤く染まる前の青い糸をそれぞれの手で握り、いつか自分のために恋と向き合う日まで、結び目をたしかに保つのだと静かに誓ったのである。
三人の合意と祭りへの合流
養浩館を後にした千歳朔、内田優空、柊夕湖は祭りへ戻ることにしたのである。道すがら、優空は浴衣の感想に対する朔の無難な返答を咎め、夕湖も同調した結果、朔は似合っていると率直に褒め直したため、優空は戸惑いながらも嬉しげに受け止めたのである。
仲間の集合と再接続
神社の鳥居前に着くと、七瀬、陽、和希、健太、明日姉、海人が待っていた。これは優空が事前に声をかけ、三人の対話が進むと信じて段取りしていたものである。夕湖は悠月と陽に抱きついて謝罪を重ね、優空は朔にお面を見せて既に小さなデートを済ませたと茶化し、場の空気は和らいだのである。
わだかまりの清算
朔は七瀬にエプロンの件で素っ気なくしたことを詫び、家庭的というより撮影のようだったと照れ隠しの軽口で補ったため、七瀬は呆れながらも笑って受け入れた。朔と海人は握手で和解しかけたが、朔は左手で軽く脇腹を小突き、これで手打ちだと冗談めかして締めたのである。和希と健太もそれを見届け、互いの気遣いに短く感謝を交わした。
祭りの時間を共有する進展
一行は綿菓子、りんご飴、焼きそば、かき氷、クレープ、ベビーカステラ、ラムネを皆で買い分け合い、公園へ移動して手持ち花火に興じた。夕湖がLOVEの文字を描き、七瀬と陽が駆け回り、優空と明日姉が並んで火花を眺めた。表面上はいつもの賑わいを取り戻したが、視線や距離感、声の温度には、三人が一歩進んだ事実が滲んでいたのである。
夏の余白と約束の余韻
祭りの終盤、線香花火を輪になって灯し、また来年と誰かがつぶやいた。火玉が落ちるまで見届けた一同は、それぞれの胸にそれぞれの誰かを閉じ込めながら、赤く染まる前の青い糸をそっと握り続けると心に決め、八月最後の夜を静かにたたんだのである。
エピローグ あなたのフツウ
特別になりたい願いと気づき
内田優空は特別になりたいと願いながらも、それが叶わないと理解していた。特別扱いされることを嫌がりながら、同時に特別扱いされたいと望んでいたために矛盾を抱えていたのである。やがて求めていたのは特別ではなく、当たり前の隣であることに気づいた。
望んでいた日常の形
優空が本当に欲しかったのは、共に帰り道を歩き、寄り道で会話し、名前を呼び合うといった日常であった。すでにその願いは手の中にあり、彼女がなりたかった「特別」は実際には普通のことであった。
支える存在への決意
優空は親友のように、大切な人が頑張るときは背を支え、迷うときは叱り、泣くときは寄り添い、孤独な夜は手を握って隣にいることを願った。月のように、常にそばで照らす存在であろうと決意した。
「フツウ」としての在り方
優空は宝物のように大切にされなくてもよいと考えた。彼女の願いは、特別ではなく、ただ大切な人にとっての「普通」であることであった。
エピローグ あなたの特別
恋心の芽生えと止められぬ想い
柊夕湖は一歩下がって慎ましくあろうとしながらも、心は半歩寄り添い、隣にいるのは自分でありたいと願っていた。夕暮れの教室で迷わず追いかけた瞬間から解き放たれた恋心は、二度と閉じ込めることができなかったのである。
母への理解と譲れぬ想い
夕湖は自らの胸に芽生えた想いを通して、かつて家を出た母の気持ちの一端をわずかに理解した。許すことはできず、同じではないが、何か譲れない一番があることだけは実感したのである。
親友に導かれた決意
親友にきっかけを与えられたように、夕湖もまたいつか胸に秘めていた想いをすべて注いで、朔と向き合いたいと願った。自分だけを見つめてもらい、心のなかに在り続け、繋いだ手を離さない未来を求めていた。
特別であることの願望
夕湖は、月が見えない夜には抱きしめて寄り添える存在として、普通ではなく、ただひとりの特別でありたいと願ったのである。
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