物語の概要
本作は、魔導技術が存在する架空ヨーロッパ風世界を舞台にした戦記ファンタジーである。第2巻では、ターニャ・デグレチャフ少尉が率いる「ターニャ部隊」こと第二〇三航空魔導大隊がついに誕生し、帝国軍の切り札として数々の戦線へ投入される。帝国と周辺諸国の戦争はさらに激化し、ターニャは己の生存と出世のため、常に合理性を追求しつつも苛烈な戦場に身を置くことになる。
“存在X”との因縁を抱えたまま、ターニャは帝国軍の勝利のため、そして自らの安全のため、過酷な最前線で冷徹に戦略を実行していく。
主要キャラクター
- ターニャ・デグレチャフ
第二〇三航空魔導大隊の指揮官。合理主義者でありながら、結果として鬼神のごとき戦果を上げる戦場の怪物として名を轟かせる。帝国軍の希望でもあり脅威でもある存在。 - ヴィーシャ(ヴィクトーリヤ・イワノーヴナ・セレブリャコーフ)
ターニャの副官。温厚で慎ましい性格だが、ターニャへの忠誠心が強く、部隊運営を支える不可欠な存在となる。現場の空気とターニャの本音を最も理解している人物。 - ゼートゥーア
帝国軍参謀本部の重鎮。大胆かつ冷静な戦略家であり、ターニャら前線部隊を活用することで帝国の戦争を推し進める。 - レルゲン
参謀本部の将校。ターニャを“軍神の化身か災厄か”と警戒しているが、その能力は認めざるを得ず複雑な立場にいる。
物語の特徴
本巻の特徴は、ターニャが単なる前線兵ではなく“指揮官”として戦争の中心に立つ点である。部隊編成、訓練、兵站、戦術と、軍事運用に関する描写がさらにリアルかつ膨大になり、読者に「戦争とは組織と理性の積み重ねである」というテーマを強く提示する。
また、ブラックユーモアと皮肉を交えたターニャの内心モノローグが、壮絶な戦争描写と組み合わさることで独特の読後感を生む。政治・宗教・心理が複雑に絡み合い、帝国の勝利が“希望”ではなく“より深い泥沼”にしか見えない構造も、本作のダークさを際立たせている。
さらに第二〇三大隊の結成により、本作は“個人の戦い”から“軍団戦記”へとスケールアップし、シリーズの方向性を決定づける転換点となっている。
書籍情報
幼女戦記 2 Plus Ultra
著者:カルロ・ゼン 氏
イラスト:篠月しのぶ 氏
出版社:KADOKAWA
発売日:2014年05月31日
ISBN:9784047295698
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あらすじ・内容
最前線にて幼女(バケモノ)は嗤う。
感想
『幼女戦記 2 Plus Ultra』は、ダキア戦役からノルデン戦線、さらにはオース・フィヨルド上陸作戦へと戦場が拡大していく中で、帝国側の電撃戦の快進撃と、その裏側で静かに積み上がる絶望と社会的な崩壊を並列して描いた巻であった。
ターニャと第二〇三航空魔導大隊の戦術的成功が徹底して「正しい」ものとして積み上がる一方で、協商連合・連合王国・共和国側の視点を通じて、その成功がどれほど他者の人生と国家を粉砕しているのかが容赦なく示される構成になっていた。
結果として、本巻は爽快感と胸糞の悪さが同時に残る一冊だと言える。
ターニャ視点:戦争を「仕事」として最適化する冷徹さ
ターニャの行動原理は一貫して「合理的な職務遂行」と「将来の出世」であり、読む側の倫理感情とは意図的にずらされていると感じた。
ダキア戦役において、敵を「実弾演習の標的」と断じて空から蹂躙し、兵器工廠爆撃を「花火」と評する姿は、戦争を完全に抽象化されたシステムとして捉えた発想だと感じた。
その一方で、戦時国際法遵守にこだわり、形式的な警告放送や合法的な威嚇射撃の範囲に収めようとする姿勢も描かれ、冷酷さと自己保身からくる法令遵守意識が奇妙な同居を見せている。
また、北方での戦略論争や兵站評価において、ターニャは参謀本部の意図と方面軍の現場感覚のズレを鋭く嗅ぎ取り、社内政治に翻弄されつつも自分と部下の生存と出世を最大化しようと動く。
ここに「神への反発」とは別ラインの、極めて俗っぽいサラリーマン的あがきが透けて見える点が、本巻のターニャ像の面白さであった。
敵側視点:敗者の視点で積み上がる重さ
本巻の面白さは、アンソン大佐やガーニング中尉、協商連合十人評議会、連合王国・共和国の情報・海軍関係者といった「負けつつある側」の視点が丁寧に挿入されている点である。
勝ち戦の側から見れば「効率的な作戦」「見事な奇襲」として処理される出来事が、敗者側から見ると、「家族を逃がすためにあがく父親の最後の足掻き」であり、「仲間が一瞬で肉片になるトラウマ体験」であり、「間に合わないことを知りながら出撃する海軍」の物語になる。
とりわけ、ガーニングが病院で戦闘の記憶を思い出し、戦友が「ミンチ」になった惨状に押し潰されていく描写は、ターニャたちの戦果がただの数字ではないことを強く印象付けた。
ターニャ視点だけで読んでいると戦争をして人を殺して麻痺してくる感覚を、敵側の恐怖と絶望がわざとリセットしてくる構成であった。
兵站・補給という「十一番目の女神」
現代紙面パートで語られる『十一番目の女神』の議論は、調査している記者は女神を「補給不足の婉曲表現」として合理的に処理し、もう一方は「悪魔じみた存在がいても不思議ではない」と実体説を支持する。
これは、そのまま作中の戦争認識の二重構造に対応していると感じた。
ターニャのような参謀・実務家にとって、戦争の勝敗は兵站と移送能力の問題であり、オース・フィヨルド上陸作戦も「鉄道網と補給線を断つための合理的な一手」である。
しかし、現場の兵士や民間人から見れば、それは「理解不能な破局」「人知を超えた災厄」にしか見えない。
そのギャップが、「女神」「悪魔」という曖昧な言葉に押し込められている点が皮肉だと感じた。
政治・軍事・情報のねじれた三角関係
本巻では、帝国参謀本部・北方方面軍・各国情報部・海軍といった多層の組織が、それぞれの事情と面子と打算で動く様子が細かく描かれている。
帝国側では、ゼートゥーアとルーデルドルフが比較的冷静に長期戦略を描く一方で、北方司令部は目先の勝利と早期決着に囚われ、ターニャの撤退案を感情的に叩き潰した。
連合王国側は、義勇軍派遣というグレーな介入をしながら情報漏洩の影に怯え続け、その結果、帝国側の魔導大隊に一方的に翻弄される。
共和国は共和国で、海峡艦隊の動かし方を誤り、気づいたときには協商連合の後方が焼かれた後である。
誰も「全面的に有能」ではなく、誰も「完全な無能」でもない。
その中で、わずかな判断の遅れやプライドの衝突が、国家単位の破局につながっていく様は、じわじわとした虚しさを残して行った。
ターニャの「合理」と物語の残酷なユーモア
本巻は全体にブラックユーモアが強いと感じた。
ターニャが花火を見るように兵器工廠の爆発を眺めたり、祝勝会の費用を部下や方面軍に押し付けようと画策したりといった、小さな損得勘定が、戦略レベルの大事件と同じテンションで描かれている。
また、臨検か撃沈かで悩んだ末の「威嚇射撃」が潜水艦を半壊させる場面など、法のグレーゾーンに足を突っ込みながら、保身から「合法」を主張しようとするターニャの姿は、滑稽であると同時に現実味もあった。
こうした笑えそうで笑えない皮肉が、物語の読後感を重くしつつも、どこか癖になる要素になっている。
総括:戦争エンタメとしての快感と、あえて残される後味の悪さ
本巻は、作戦レベルでの攻防・戦術の妙・政治と兵站の絡み合いといったミリタリー要素が非常に充実しており、「戦争エンタメ」としての読み味は抜群である。
第二〇三航空魔導大隊の異常な性能と、それを前提にした作戦構想は、純粋に戦記物としても楽しめる。
しかし同時に、アンソンやガーニング、協商連合政府、連合王国・共和国情報部の視点を通じて、「帝国の勝利」が全く祝福されない形で提示され続けることにより、意図的に快哉を叫びにくい構造が心憎い。
その「面白いのに素直に喜べない」感覚こそが、本巻が狙っている不快なリアリティであり、戦争を題材にしたフィクションとしての誠実さでもあると感じる巻であった。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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登場キャラクター
ターニャ・フォン・デグレチャフ
帝国軍の航空魔導士であり、第二〇三航空魔導大隊を率いる少佐である。冷静な打算と合理的な思考で行動し、戦場では徹底した成果主義で部下を動かす立場にいる。
・所属組織、地位や役職
帝国軍第二〇三航空魔導大隊大隊長。参謀本部付き将校。
・物語内での具体的な行動や成果
ダキア戦役で敵航空戦力の不在を利用し、対地襲撃と敵司令部奇襲を実施した。敵司令部を急襲し、将兵を殲滅して指揮系統を断った。ダキア首都上空で兵器工廠への長距離一斉射を指揮し、工廠を誘爆させて兵器生産能力を失わせた。ノルデン戦線では遊撃航空魔導大隊として投入され、敵魔導コマンドと爆撃機を撃退した。七層制御式の長距離砲撃で敵観測拠点を破壊し、敵指揮機能を麻痺させた。オース・フィヨルド揚陸作戦では空挺部隊を率いて沿岸砲台と魚雷陣地の制圧を担当した。ノルデン沖での捜索遊撃任務では、協商連合艦隊を発見し、敵魔導師との交戦で戦果を上げた。参謀会議では兵站難を理由に冬季攻勢に反対し、退却案を提示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
大隊長として各戦線に転戦し、参謀本部の「虎の子」として運用される立場となった。北方攻勢と揚陸作戦の要として空挺戦力を任され、前線と参謀本部の双方から高い期待と負担を受けている。敵側では「ラインの悪魔」などの呼称で恐れられる存在として認識されている。
ヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ
第二〇三航空魔導大隊に所属する魔導士であり、事務処理と指揮補佐の両面でターニャを支える立場にいる。
・所属組織、地位や役職
帝国軍第二〇三航空魔導大隊所属魔導士。大隊の予備指揮官。会計・事務担当。
・物語内での具体的な行動や成果
オース・フィヨルド揚陸作戦では予備指揮官に指名され、指揮系統喪失時の撤退判断を委ねられた。北方駐屯地では祝勝会費用の支出を大隊公庫から行うよう指示を受け、財務処理を担当した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
ターニャから信頼され、前線戦闘だけでなく指揮継承と後方事務を担う人物として位置づけられている。大隊運用における実務面での影響が強い存在である。
ヴァイス
第二〇三航空魔導大隊の将校であり、ターニャの下で中隊指揮や副官的役割を担う人物である。教範を重んじる傾向がありつつも、実戦を通じて柔軟な判断を身につけていく立場にいる。
・所属組織、地位や役職
帝国軍第二〇三航空魔導大隊所属将校。中隊長。ターニャの補佐役。
・物語内での具体的な行動や成果
ダキア戦役で敵歩兵の方陣を対空陣地と誤認し、離脱を命じたが、ターニャの実演により誤認を正された。首都上空の兵器工廠攻撃では状況の好機性を理解し、ターニャの判断を支持した。ノルデン戦線では遊撃大隊の通達を読み上げ、部隊への方針説明を行った。オース・フィヨルド揚陸作戦ではアルベルト砲台制圧の指揮を任され、降下部隊の一角を担った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
当初は教範に縛られた判断が目立ったが、戦闘経験を通じてターニャの戦術観に歩調を合わせるようになった。大隊内での信頼を回復し、副官格として運用される立場に近づいている。
ハンス・フォン・ゼートゥーア
帝国軍参謀本部に所属する少将であり、兵站と戦略全般を担う立場にいる。落ち着いた態度で戦略を組み立て、長期的視点から戦局を見ている。
・所属組織、地位や役職
帝国軍参謀本部所属少将。兵站・戦略担当。
・物語内での具体的な行動や成果
参謀本部食堂でルーデルドルフと二正面戦の対応を協議し、兵站能力の限界を指摘した。オース・フィヨルドへの上陸作戦案を提示し、鉄道網切断による敵後方麻痺を説明した。第二〇三航空魔導大隊を「虎の子」として評価し、北方戦線への派遣を決定した。北方攻勢と揚陸作戦の条件を結びつけ、ターニャの配置先をめぐる選択肢を握っていた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
戦略立案の中心人物として、帝国の大局的な作戦方針に強い影響を与えている。ターニャを高く評価し、危険な任務と引き換えに大きな裁量を与える立場にある。
エーリッヒ・フォン・ルーデルドルフ
帝国軍参謀本部の少将であり、前線作戦の立案と指導を担当する人物である。攻勢的な考え方を持ち、戦機の活用に積極的である。
・所属組織、地位や役職
帝国軍参謀本部所属少将。北方方面軍関係作戦担当。
・物語内での具体的な行動や成果
ゼートゥーアとともに二正面戦を議論し、脆弱な敵を優先して叩く戦略を維持した。オース・フィヨルド上陸作戦で第二〇三航空魔導大隊の投入を要求し、切り札として運用する方針を固めた。ノルデン前線でターニャを迎え、空挺作戦案を説明し、訓練期間を与えると告げた。ターニャに揚陸作戦先鋒任務を与え、軍港での待機と空挺降下を命じた。休暇中のターニャに電話で召集命令を出し、ノルデン沖の捜索遊撃作戦への出動を指示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
前線作戦の実権を握る立場として、各戦線における大規模攻勢や奇襲作戦を主導している。第二〇三航空魔導大隊を積極的に使う姿勢により、ターニャとの関わりが深い人物となっている。
アンソン
協商連合軍の魔導士であり、敗北を経験しながらも昇進した大佐である。祖国の滅びを前に、人を逃がすことを自らの役割として選ぶ立場にいる。
・所属組織、地位や役職
協商連合軍所属魔導士。大佐。オース・フィヨルド防衛指揮官。
・物語内での具体的な行動や成果
敗戦後に大佐へ昇進し、国防省で形式的な祝辞を受けた。街にあふれる志願兵とその家族を見て、祖国の滅亡を予感しながらも、人々を逃がす決意に至った。家族を合州国へ疎開させ、妻と娘メアリーを見送り、港で別れを告げた。オース・フィヨルド防衛任務を与えられ、錬度の低い後備兵を率いて海防態勢を整えた。帝国軍揚陸作戦に対し、湾岸砲台の苦戦と哨戒線沈黙を受けてスクランブル発進を命じ、ターニャ率いる第二〇三大隊と空中戦を行った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
敗北後の昇進に自嘲を抱きつつも、祖国の人々を逃がすという別種の責務を見いだした。短機関銃を娘からの贈り物として受け取り、それを携えて最後の戦いに臨む姿が描かれている。
ガーニング
連合王国系義勇軍に属する魔導士であり、帝国との戦闘で重傷を負った中尉である。戦友喪失の記憶に苦しむ立場にいる。
・所属組織、地位や役職
連合王国系義勇軍所属魔導士。中尉。
・物語内での具体的な行動や成果
ノルデン戦線で帝国第二〇三航空魔導大隊との戦闘に参加し、激しい交戦の末に重傷を負った。戦闘後にピース・ワールド運営の病院で目を覚まし、自身が重傷患者として搬送された事実を知った。戦友や上官が空中で爆散した光景を思い出し、叫び声とともに精神的限界に達した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
戦闘での体験が心的外傷として残り、義勇軍が受けた損害の象徴的存在として描かれている。本人のその後の配置や昇進については、本文内では示されていない。
カゾール評議委員
協商連合の十人評議会に属する評議員であり、アンソンと旧知の関係にある人物である。要人としての立場と個人的な情を両立させようとする姿が描かれる。
・所属組織、地位や役職
協商連合十人評議会所属評議員。
・物語内での具体的な行動や成果
アーネルスネ港で出航前のアンソンに接触し、娘メアリーから預かったケースを渡した。ケースの中身が森林誓約同盟諸州製の短機関銃一式であることを説明し、涙ながらに頼み込んだメアリーの様子を伝えた。家族を疎開させるための船を手配した一方で、アンソンに対して多くを求めていることを詫びた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
協商連合政府の中枢に位置しつつ、前線将校と直接やり取りを行う立場にある。亡命や疎開に関わる決定を下す側として、政治と戦場をつなぐ役割を持っている。
ハーバーグラム少将
連合王国情報機関に属する少将であり、極秘拠点で対帝国戦略と情報工作を指揮する人物である。冷静にリスクを評価しつつも、政治的価値の高い賭けに踏み込む立場にいる。
・所属組織、地位や役職
連合王国情報部門所属少将。情報関係者の指揮官。
・物語内での具体的な行動や成果
帝国揚陸作戦成功の報告を受け、ダキア崩壊に続く戦況悪化に頭を抱えた。特務艦ライタールからの電報を読み、協商連合十人評議会の評議員輸送要請の意味を分析した。仮装巡洋艦ライタールが機密装備を満載している危険性を指摘し、情報保全上の問題を整理した。自らの裁量を超える案件と判断し、第一海軍卿への上申を決めて執務室を訪れた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
対帝国戦略において、亡命政権受け入れなど政治的に微妙な案件を扱う要職にある。情報保全と外交的成果の両方を考慮する立場として、決定過程に強い影響を与えている。
第一海軍卿
連合王国海軍の最高責任者であり、海峡司令部や潜水戦隊を含む海軍全体を統括する人物である。政治と軍事の両面から判断を下す立場にいる。
・所属組織、地位や役職
連合王国海軍省所属。海軍の最高指揮官。
・物語内での具体的な行動や成果
ハーバーグラムから協商連合評議員亡命計画の説明を受け、対帝国牽制としての価値を認めた。特務艦や定期航路船の利用が帝国の監視と臨検リスクの面で不適切であると判断した。評議員輸送手段として潜水艦を用いる方針を示し、洋上移乗という形での救出案を受け入れた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
帝国との全面戦争を見据えつつ、国際法上の問題や外交上の影響も考慮する立場にある。亡命政府樹立をめぐる決定を通じて、連合王国の対外姿勢を方向づけている。
ジェフリー特派員
『十一番目の女神』に関する調査を行った特派員であり、超常現象を退ける立場から戦場の出来事を解釈する人物である。
・所属組織、地位や役職
報道機関所属特派員。軍事関連記事の記者。
・物語内での具体的な行動や成果
軍関係者への取材を通じ、『十一番目の女神』と呼ばれる存在に関する証言の収集を試みた。連合王国が参戦前から極秘裏に義勇軍を北方へ派遣していたとする仮説を提示した。『十一番目の女神』の正体は「補給と兵站の致命的不足」であるとする解釈を示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
超常的解釈を避ける立場から記事を書き、組織批判を避ける婉曲表現としての「女神」概念を提示した。軍事報道における一つの見方として、読者に影響を与える役割を担っている。
アンドリュー特派員
WTN所属の特派員であり、西方戦線の取材経験を持つ記者である。『十一番目の女神』の実体説に近い立場を取る人物である。
・所属組織、地位や役職
WTN所属特派員。戦場取材担当の記者。
・物語内での具体的な行動や成果
西方戦線での補給や訓練状況を取材し、ジェフリーの兵站不足説に懐疑的な意見を示した。戦場の異常さから、悪魔じみた存在がいても不思議ではないと述べ、実体のある「女神」像を支持した。『十一番目の女神』について今後も調査を続けると記事を締めくくった。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
同じ題材に対し異なる解釈を提示することで、読者に複数の見方を提供している。記事の末尾で私生活に触れており、個人的視点を交えた報道姿勢が示されている。
展開まとめ
第壱章 ダキア戦役
統一曆一九二四年九月二十四日 ランシルヴァニア地方トゥラーオ郡帝国軍野外演習場
制空権の確認とターニャの歓喜
ターニャは演習場でダキア侵攻の報告を受け、敵航空戦力との接敵が一切ないと知り、完全な制空権を得た事実に恍惚とした喜びを示した。ノルデンやライン戦線で多くが渇望した航空優勢が、敵航空戦力の不在という形で与えられたことを理解し、これは九月二十四日の最高の誕生日プレゼントであると解釈して神に感謝の言葉を漏らした。周囲の司令部要員は、六十万越境の報告で青ざめる一方で、ターニャの高揚に戦慄していた。
ダキア軍評価と「遅滞戦」命令の反転
参謀本部からレルゲンが持ち込んだ封緘命令は「国境防衛に最適な行動を取れ」という内容であり、ターニャにはダキア軍足止めの遅滞戦が期待されていた。しかしターニャは、ダキア公国軍を訓練不足の前近代的兵農混成軍と分析し、完全武装の近代軍隊がボーイスカウト同然の烏合の衆に遅滞戦しかできぬと見做されることを侮辱と受け取った。事前砲撃も制空戦も行わない敵の姿勢から、これは蛮族に文明の鉄槌を叩き込む実弾演習であり、三個師団規模の先鋒は蹂躙可能だと判断した。
初実戦としての対地襲撃とヴァイスの誤判断
第二〇三航空魔導大隊は訓練を中止して即応出撃し、隊列を組むカラフルなダキア歩兵を上空から三方向包囲で襲撃した。対空火器は乏しく、攻撃は一方的であったが、歩兵が密集し方陣を組み始めると、ヴァイスは教範を過大に重視して「対空陣地」と誤認し、射程外への離脱を命じた。ターニャはこれを敵前逃亡行為と見なし激怒し、ヴァイスに中央への術式射撃を命じて実演させ、方陣が一撃で吹き飛ぶ様を見せて「単発歩兵銃では魔導師の防殻は抜けない」と叩き込んだ。この実弾演習を通じ、帝国の訓練体系が三次元戦争のパラダイムシフトに対応していない現実が露呈した。
敵司令部奇襲と「入国審査」から斬首へ
航空優勢下で戦場を制圧する中、大隊は暗号化されていない強力な平文通信を発する車列を発見し、それが侵攻軍司令部である可能性に行き着いた。ターニャは中隊を率いて接近し、ほとんど抵抗を受けずに幕舎上空へ突入したうえ、武装幼女の姿で入国審査の冗談めかした口上を述べてダキア将兵を硬直させた。その直後、飛びかかった派手な装飾の高位将校をヴァイスに蹴り倒させ、降伏を拒む司令部要員に発砲を命じて殲滅し、ごく少数の高位将校だけを捕虜とした。司令部の書類と機器は戦利品として回収され、救出に来る敵を狙う死体ブービートラップまで仕込まれた。
戦果と首都進撃の決断
上空から俯瞰した戦場では、ダキア軍の街道行軍隊列は多方向からの襲撃により各所に大穴が開き、隊列は乱れ、指揮系統を担う司令部も斬首されていた。ターニャは残敵掃討を友軍第七航空艦隊に委ね、大隊にはさらに前進してダキア首都を目標とすることを命じた。初実戦を終えた兵のうち疲弊した小隊だけを後送し、残りは「もっと前へ」と進撃に参加させた。後に東部軍第十七軍と航空艦隊の来援でダキア前線は崩壊し、死者二千、捕虜多数を出して六十万対七万の戦力差を七万側が蹂躙する戦役が開幕する中、その先陣である第二〇三航空魔導大隊は、ターニャの言葉どおり「蹂躙できないほうがどうかしている」といえる制空支配を実現した。
統一暦一九二四年九月二十五日午前三時十七分 ダキア大公国首都郊外上空
首都上空への無抵抗侵入と「教育」の愉悦
統一暦一九二四年九月二十五日未明、第二〇三航空魔導大隊はダキア大公国首都郊外の夜空に到達し、灯火管制も対空陣地も存在しない無防備な都市上空への侵入に成功した。ターニャ・フォン・デグレチャフは、三次元戦を理解しない「二次元の戦争」に固執するダキア側を、文明と国力の差を経験で叩き込むべき愚者と見なし、自らを「啓蒙する側」として愉悦と全能感を覚えていた。
兵器工廠の発見と部下への再評価
首都上空を進む大隊は、夜間にも煌々と照明が灯された軍需工廠を目標として視認した。高射砲陣地も防護施設も見られない状況に、ターニャはダキア軍の愚劣さを改めて確信する。一方で、副長ヴァイスは状況の好機性を正しく理解し、ターニャの判断を支持する姿勢を見せることで、先刻の失点から名誉を回復しつつあると評価された。
戦時国際法遵守を巡るやり取りと「子供声」の警告
ターニャは第二〇三大隊を「野蛮な集団」と見做されぬため、戦時国際法に従い軍事施設のみを攻撃し、市民生活インフラへの無差別攻撃を避ける方針を示した。そのうえで、国際救難チャンネルによる退避警告の発出を命じるが、奇襲効果の低下を懸念するヴァイスらは難色を示した。最終的にターニャ自身が、幼児そのものの声色で「三十分後に軍事施設を攻撃する」と条文通りの警告を読み上げるが、深夜にラジオを聞く者が少ないこと、内容と声のギャップから「子供の悪戯」と受け取られたことにより、実効性はほぼ皆無であった。この屈辱的な行為は大隊全員から「卑怯」と感じられるほど強烈な違和感を伴い、ターニャ自身の憤懣も極限に達した。
超長距離術式の一斉斉射と兵器工廠の壊滅
警告義務を形式的に履行した後、ターニャは憂さ晴らしも込めて「神の御業」を地上に発現させると宣言し、超長距離用の大規模爆裂術式を展開した。第二〇三大隊四八名は教本的な長距離斉射を行い、カルベリウス兵器工廠に多数の直撃と至近弾を叩き込む。その結果、弾薬と可燃物が山積みされた工廠は連鎖誘爆を起こし、夜空を昼のように照らす巨大な爆発と火柱を生じさせた。ターニャはこの光景を「花火」と評し、満足げに戦果を認定した。
実弾演習としての戦果確認と帰還決定
カルベリウス兵器工廠の壊滅により、共和国がてこ入れしたダキアの兵器生産拠点は一撃で機能不全に陥った。ターニャは、ダキアが実弾演習の標的を提供しただけでなく、訓練後の慰労用花火まで用意してくれたと嘯き、敵を徹底的に侮蔑しながらも戦術的成果に満足する。そのうえで、作戦目的は十分達成されたとして大隊に帰還を命じ、第二〇三航空魔導大隊による世界初の夜間都市空襲は、帝国側の一方的勝利として幕を閉じたのである。
統一暦一九二四年十月二十三日 帝国軍参謀本部第一(陸軍)晚餐室
参謀本部食堂と「常在戦場」の皮肉
統一暦一九二四年十月二十三日、帝国軍参謀本部の晩餐室で、ゼートゥーア少将とルーデルドルフ少将は、代用品だらけの粗末な食事をとりながら戦略協議を行っていた。参謀本部の食堂は「戦時糧食の体験」と揶揄されるほど不味いがゆえに、将校が好んで集まらず、かえって機密性が高い場として活用されていた。二人はその皮肉な利点を理解しつつ、渋々ここで一食を済ませることを日課としていた。
二正面戦と時間の扱いを巡る認識の違い
ルーデルドルフは、帝国が二つの戦線を抱えることは長期的には不利であると認めつつも、時間は「味方にも敵にもなり得る」と判断していた。ダキア戦役で示したように、敵の脆弱部を優先的に叩くべきという戦略方針は変わらないとしつつ、短期的な兵站制約を踏まえた調整を模索していた。一方、兵站・戦略を担うゼートゥーアは、北方ノルデン戦線の鉄道・港湾能力が限界にあることを指摘し、冬季攻勢に必要な物資増強は困難だと述べたが、ルーデルドルフは「代案を持っているはずだ」と半ば確信的に追及した。
海上補給路と上陸作戦のリスク評価
ゼートゥーアは、開戦と同時に貿易が途絶した結果、本国に遊休状態で残る商船を徴発すれば三十万トン規模の輸送力を用意できると明かした。ただし、それは制海権確保を前提とした構想であり、脆弱なシーレーンを抱える帝国海軍に長大な海上補給路を守らせることには大きなリスクがあると懸念を表明した。これに対しルーデルドルフは、多少の損害を甘受してでも敵後方に上陸し連絡線を断てば協商連合は容易に崩壊すると楽観視し、前線作戦担当らしい攻勢的な立場を示した。
協商連合優先か共和国優先かという戦略選好
ゼートゥーアは、協商連合は既に国力的に追い詰められており、放置しても大きな脅威にはなりにくいことから、本来は共和国を優先して叩くべきだと主張した。一方で、戦線数を減らすという観点では協商連合側を崩す戦略にも合理性があると認めるため、両者の間で「兵站負荷はさほど軽くならないが、戦線が整理される」という程度の利得認識が共有されていた。結果として、兵站に致命的な負荷を与えずに戦線縮小が可能ならば、後方を急襲する作戦も容認し得るという合意が形成された。
オース・フィヨルド上陸と鉄道網切断案
ゼートゥーアは、具体案としてオース・フィヨルドへの上陸を提案した。オース市は協商連合の鉄道主要幹線が集中する交通の要衝であり、ここを制圧すれば協商連合側の鉄道網は機能不全に陥ると説明した。防備が堅く沿岸砲台も多いというルーデルドルフの懸念に対し、ゼートゥーアは難度の高さを認めつつも、いったん制圧に成功すれば敵軍は「頭と手足を分断された軍隊」となり、実質的に群衆同然に弱体化すると論じた。ルーデルドルフはこのえげつないが合理的な発想に満足し、作戦の実行を引き受けることを即答した。
第二〇三航空魔導大隊の投入決定
ゼートゥーアは、必要な戦力として何を要求するか問うたところ、ルーデルドルフは迷わず魔導部隊、とりわけ「虎の子」である第二〇三航空魔導大隊の投入を求めた。ダキア戦役で兵器廠への突撃を含む理想的な機動戦を展開した実戦部隊であり、新型装備を受領した増強魔導大隊でもあったためである。大隊長デグレチャフ少佐の癖の強さや扱いの難しさをゼートゥーアは警告したが、ルーデルドルフはノルデン戦経験を持つ魔導指揮官としてむしろ心強いと評価し、戦術的手駒として徹底利用する構えを見せた。
戦勝と粗末な食事に関する自嘲的な乾杯
協議の締めくくりとして、ゼートゥーアは「何か必要なものがあれば言え」と申し出、ルーデルドルフは第二〇三大隊の手配を受けて「勝利」と「食堂の食事が美味しくなること」に杯を掲げた。両者は後者の実現が戦争終結より遅いだろうと苦笑しつつも、「食べられるときに食べておく」という兵隊の原則に従い、不味い戦時糧食を口に運び続けたのである。
第弐章 ノルデンⅠ
統一曆一九二四年十一月四日 協商連合軍国防省第二人事室
敗北の中で昇進するアンソン大佐の絶望
統一暦一九二四年十一月四日、協商連合軍国防省第二人事室で、アンソンは敗北直後にもかかわらず大佐へ昇進させられていた。彼は「敗北して昇進するとは末期である」と自嘲し、形式的な祝辞と答礼をほとんど感情なく交わした。周囲の将校たちも、敗戦がほぼ既定路線となった祖国の現状を理解しており、怒りを燃やすより先に心が摩耗し尽くしていた。街に溢れる愛国的熱狂と志願兵の行進を眺めながら、アンソンの足取りは重く、若者に「死んでくれ」と言うしかない国に仕える自分の境遇を不甲斐なく感じ続けていたのである。
滅びを前にした軍人の葛藤と「人を逃がす」という結論
アンソンは、祖国の若者たちが喜々として戦場へ向かう姿と、それを不安そうに見送る女たちや子供たちの姿を見て、祖国の滅亡が刻一刻と迫る現実を痛感していた。協商連合の敗北はもはや砂時計の砂のように不可避であり、その先にある民族的な破局を想像すると、彼は涙を流すしかなかった。しかし、ふと「祖国が滅ぶとしても、人々の滅びまで容認してはならない」と気づき、発想を転換する。国土や国家は失われても、人々という「種子」が生き延びれば、いつか祖国は再生し得ると理解したのである。彼は、せめて可能な限り祖国の人々を逃がすことこそ、崩壊しつつある国家に仕える軍人が身を捧げるべき大義だと結論づけ、妻や娘を含む民を生かすために、軍内の縁故を用いてでも道を切り開くと固く誓った。
協商連合十人評議会の危機認識と自己責任の自覚
同じ頃、一新された協商連合の十人評議会は、陰鬱な空気の中で帝国との戦局を協議していた。彼らは、本来なら帝国が小国の挑発者を容易に粉砕するであろうことを理解しており、自国が無謀にも帝国を敵に回した現実を痛感していた。共和国の奇襲介入によって一時的に破局は遅れたものの、戦局は好転せず、ダキア大公国は数ヶ月で地図から消え去った。それは、協商連合自身の未来を先取りした悪夢の縮図であり、評議員たちは自らの軽率な選択が招いた事態だと自覚していた。それでも彼らは、地形と天候に頼りながら、持てる知恵の限りを尽くして前線維持に努めていた。
共和国・連合王国からの梃入れとバランス・オブ・パワー
アーバンソール外務評議委員は、久々の「朗報」として、同盟国や列強との連携がようやく動き始めたことを報告した。共和国は、ダキア戦の分析から協商連合後方の脆弱さを危惧しており、協商連合の崩壊後に帝国戦力が自国戦線へ転用されることを恐れていた。連合王国もまた、帝国の大陸支配拡大を望まず、勢力均衡維持のため協商連合の完全崩壊を避けたいと判断していた。その結果、共和国と連合王国を中心に、最低限の援助と海軍面での監視・介入準備が進められており、「協商連合を死なせはしない」という消極的な支援の意志が示されつつあった。
帝国による海上侵攻の脅威と「時間稼ぎ」という唯一の戦略
会議では、これまで帝国軍の後方浸透は魔導部隊と即応師団によりかろうじて鎮火されてきたが、連合王国軍部からは「海からの上陸」が最大の脅威として指摘されていることが共有された。協商連合の海岸線はがら空きであり、帝国軍が限定的な上陸部隊であっても、主力が正面戦で拘束されている状況下では、背後からの一撃で戦線を瓦解させうる、と警告されていたのである。協商連合自身の主力艦は二隻しかなく、海軍単独では防ぎようがないが、連合王国は既に帝国海軍の監視を開始し、必要とあれば共和国艦隊も即時出撃できる態勢が整えられつつあった。評議会は、情けないほど列強依存であることを自嘲しながらも、自らに残された戦略が「時間を稼ぎ、列強の介入が有効となるまで持ち堪えること」しかないと認め、今できる最善としてその方針に全力を傾ける覚悟を固めたのである。
統一曆一九二四年十一月五日 帝都第十四駐屯地講堂
ノルデン転属命令とターニャの不満
統一暦一九二四年十一月五日、帝都第十四駐屯地講堂で、第二〇三航空魔導大隊の将兵が集合する中、ターニャは大隊長として登壇し、部隊にノルデン方面への転属命令が下ったことを通達した。彼女は表面上は落ち着いた声で「実戦で鍛えられた精鋭」と満足げに部隊を眺めつつも、本心では「本来半年は欲しかった鍛錬期間を短縮され、ダキア一発で錬成完了扱いにされた」ことに強い不満を抱いていた。部隊員の装備や動作は見事に整っていたが、ターニャは彼らが旧来の軍隊的常識にまだ染まっており、逆境経験の乏しさという脆さを抱えた集団であると冷静に評価していたのである。
「火と鉄の試練」としての本物の戦争
ターニャは、ダキア戦を「実弾演習」に過ぎないと位置づけ、ノルデンこそが「火と鉄の試練」であり、真の戦争経験の場であると語った。勝ち戦しか知らないエリートほど、ひとたび敗北すると脆く崩壊しやすいと彼女は見ており、将来の逆境に耐えうる精神を部下に植えつける必要を痛感していた。表向きには「皇帝陛下と祖国のために尽くせ」と古典的な訓示を与え、将兵から見事な復唱を引き出して満足を示したが、その裏では「彼らは少なくとも自分の盾にはなる」という実務的・打算的な感情も抱いていた。
遊撃航空魔導大隊としての編制と「馬車馬」扱い
続いてヴァイス中尉からの通達として、第二〇三大隊が「遊撃航空魔導大隊」として編成され、東部・南方出身者を含む混成でありながら、中央から北方司令部付として運用されることが説明された。これは、特定方面軍に属さず参謀本部直轄で内線機動させられる「便利な切り札」として期待されていることを意味した。ターニャはこれを「参謀本部に馬車馬のごとくこき使われる役」と比喩し、「キャロット(人参)は用意されている」と皮肉を込めて語った。部隊員はこの自虐的ユーモアに笑い声を上げつつも、昇進や手当という餌と引き換えに苛烈な運用が求められる現実を理解していた。ヴァイスもまた「タダ飯を食える馬はいない」と補足し、成果を出さねばならない立場であることを部隊に認識させた。
新戦術の実戦検証部隊としての役割とターニャの嘆き
第二〇三大隊には、北方戦線で参謀本部が構想する新戦術を実戦検証する任務が課せられていた。ターニャは、教導隊や技研所属の経歴を買われた結果として、自分たちが「サーカスの猿」のように他部隊の前で見世物としてデモンストレーションをさせられる立場になったと内心で毒づいていた。新戦術の多くは「新奇なだけで当てにならず、大抵は大量の試行錯誤を強要される」と彼女は経験則から理解しており、この北方派遣を「社内力学に振り回された無意味な出張」に等しい不本意な命令とみなしていた。それでも、軍人として表には出さず、夜間長距離機動による集結行動を一八〇〇から開始すると淡々と指示を出した。
協商連合への外部援助と「世界に覗かれる戦場」への自覚
訓示の締めくくりとして、ターニャは北方戦線の政治軍事情勢について部隊に私見を共有した。本来なら大陸軍が抜けた時点で北方戦線は決着していて当然であり、現在の膠着は「共和国や連合王国、さらには中立を装う連邦などの義勇軍・支援による外部介入」が存在する証拠であると分析したのである。彼女は、列強が自国の安全保障と国益に従って協商連合を「まだ壊さない」方向で介入していることに強い苛立ちを覚えつつ、結果としてノルデンが世界から注目される戦場になっている事実を指摘した。そのため第二〇三大隊は、他国の視線に晒されながら帝国の軍事的優位を誇示する「晴れ舞台」に立たされており、失敗は一切許されない状況にあると断じた。
「北方ハイキング」として装われた決死行
ターニャが「世界に覗き見られながら楽しくハイキングを楽しむ」と皮肉を飛ばすと、部下たちはすぐに意図を察し、「最高でありますな」「スキー気分でした」と軽口で応じて場の空気を合わせた。彼らは上官を立てつつ、自分たちが国威発揚と実験運用の双方を担わされた危険な任務に就くことを理解していたのである。ターニャは部隊の反応に満足し、「北方でハイキングといこう」と笑みを作って締めくくり、「解散」を命じた。その微笑の裏には、参謀本部からの期待と懲罰の両方がのしかかる中で、「戦意旺盛な精鋭」として振る舞い続けねばならないという冷たい決意と、心の底から溢れそうになる罵声を飲み込む諦観が横たわっていた。
統一暦一九二四年十一月六日 北方管区クラグガナ物資集積地点防衛前衛部
伸びきった兵站線と「最悪」の迎撃任務
統一暦一九二四年十一月六日、北方管区クラグガナ物資集積地点前衛に展開していた帝国軍ヴァイパー大隊にとって、その日は「最悪」としか言えない状況で始まっていた。大陸軍主力の急な配置転換により北方方面軍の兵站線は伸びきり、再編に手間取った結果、協商連合軍は戦線を立て直した上で帝国側の物資集積地点への連続襲撃を開始していたのである。北方方面軍は猟兵上がりのコマンド部隊や魔導師による襲撃に振り回され、護衛戦力を薄く分散させざるを得ない状況に追い込まれていた。
質を増した協商連合魔導コマンドとヴァイパー大隊の苦戦
ヴァイパー大隊は訓練・戦歴ともに一線級と評価される標準的な帝国魔導大隊であり、当初は数的不利を前提にしても質で押し切る自信を持っていた。しかし現実には、協商連合側の生き残り魔導師に加え、共和国・連合王国・合州国・連邦など列強製の新式宝珠と「義勇魔導師」が投入され、装備・技量ともに大幅に底上げされていた。結果として、敵は統制射撃や乱戦への持ち込みを駆使し、ヴァイパー大隊は局所的数的不利の中で半減する損害を出し、大隊長も部下を庇って重傷を負って指揮不能となった。指揮権を継承した第2中隊長は、前衛壊滅寸前の中で集積地後方への後退許可をCPに上申し、五分の猶予を待つほかない状況に追い込まれた。
爆撃機出現と迎撃不可能な戦術状況
追い詰められた状況にさらに追い打ちをかけたのが、二時方向・高度九五〇〇に出現した爆撃機編隊であった。魔導師にとっては手が届かず、爆撃機にとっては照準可能な「低空」という高度差と、強固な装甲、そこそこの巡航速度を考えれば、二個大隊規模の敵魔導師との乱戦を継続しながら迎撃することは事実上不可能であった。クラグガナの燃料と物資を抱えた集積地が爆撃を受ければ、北方戦線の冬季兵站に致命傷が出ることは明白でありつつも、ヴァイパー大隊は「全滅しても爆撃阻止は無理」という冷厳な判断をCPに告げるしかなかった。
後退命令と「ピクシー」大隊の登場
この絶望的な局面で、CP内部の騒然としたやり取りを挟み、唐突にヴァイパー大隊へ「直ちに後退せよ」との命令が下った。その理由として伝えられたのは、エリアB-3から急行中の大隊規模援軍の存在であり、コールサインは「ピクシー」、かつ指揮官は名の知れたネームドであるという情報であった。中央軍から急派されたこの増援により、ヴァイパー大隊は後退して合流し、その指揮下に入ることを命じられる。前線で地獄を見ていたヴァイパー大隊にとって、それは収穫祭とクリスマスが同時に来たような救いであったが、同時に「なぜ最初から出さない」と文句を言いたくなる理不尽さも伴っていた。さらにCPは戦闘機隊の発進を「無用」と判断しており、制空権奪取をも含めた敵爆撃機への対処は、到着しつつある「ピクシー」大隊に一任されることが示唆されていた。
同時刻 北方方面司令部
参謀本部からの「テダシゴムヨウ」と現場の不満
同時刻、北方方面司令部では、参謀らが戦局図に頭を抱えていた最中に、中央参謀本部作戦参謀次長からの通達が届けられた。文面は「援軍ヲ派遣。テダシゴムヨウ」という極めて簡潔なものであり、北方の高級将校たちは、混乱を押しつけておきながら前線にまで「手出し無用」と指図する中央へ強い不満を覚えていた。彼らは、大陸軍の投入と即時引き抜きで兵站が混乱した経緯を踏まえ、これは恩を売るつもりの上から目線の介入であると受け取っていた。
ピクシー大隊からの「援軍ご無用」と参謀たちの困惑
そこへ、接近中の増援部隊からの入電として「第二〇三遊撃航空魔導大隊、コールサイン・ピクシー」が確認される。だが通信兵が読み上げた内容は「援軍ゴ無用。ヴァイパー大隊ヲ直チニ後退サレタシ」というものだった。北方参謀たちは、二個魔導大隊と爆撃機まで含む敵戦力を、到着したばかりの一個大隊に任せる判断に唖然とし、それは自信というより自信過剰であり、戦闘機隊の発進を含む自前の対処をすべきだと議論する。しかし命令体系上、参謀が独断で戦闘機を上げれば「独断専行」となり、行動には踏み切れずにいた。
ピクシー大隊の異常性能と「規格外の切り札」の露呈
そのとき、警戒中の管制機がピクシー大隊の接近を報告する。機影四八、速度二五〇での編隊接近に加え、高度は七五〇〇、さらに上昇して最終的に高度八〇〇〇に達し、速度は三〇〇に増速していた。これは試験記録級の高度と速度を、実戦編隊で叩き出していることを意味し、参謀たちはデータの誤作動を疑うが、観測装置に異常は確認されなかった。結果として、彼らは第二〇三大隊が従来規格を根本から塗り替える「規格外の切り札」であると認めざるを得ず、その怪物的能力が味方側に存在することだけは、素直に安堵すべき事実であると結論づけていた。
連合王国義勇軍前線司令部
ネームド「ラインの悪魔」の実在確認
連合王国義勇軍前線司令部は、観測兵から「西方で確認されていたネームド『ラインの悪魔』を感知」との報告を受けた。共和国から伝えられていた「デスゾーンを越え、中隊規模を単騎で屠る怪物」といった情報は、これまで戦場伝説として半ば嘲笑されていたが、複数観測手による魔力パターン照合が一致したことで、その実在が疑いようのない事実として受け入れられたのである。
新手大隊と未知の暗号が示した帝国の底力
観測結果は、ラインの悪魔直卒と思しき大隊規模、場合によっては増強大隊規模の新手魔導部隊の接近を示していた。その魔力傾向は北方・西方双方の既存記録とほとんど一致せず、さらに通信傍受を試みても、既存ライブラリにない未知の暗号形式であった。このことから、帝国がまだ対外的に把握されていない予備戦力と新型通信体系を温存していたことが明らかとなり、連合王国側は自らの対帝国諜報の不備を痛感した。
義勇軍の情報収集任務と政治的制約
前線司令部には、帝国軍の戦訓を持ち帰るべく選抜された情報将校や分析官が配されており、本国の旧来ドクトリンと現実の戦場との乖離を修正することが期待されていた。しかし、連合王国本国は消耗を嫌い、義勇軍には戦力温存と時間稼ぎが求められていたため、協商連合や共和国との連携は不完全であり、寄せ集めの混成部隊として動かざるを得なかった。この政治的制約が、彼らの判断と行動の幅を狭めていたのである。
ネームドと大隊の脅威評価と甘い見通し
将校たちは、ラインの悪魔が「中隊を一瞬で吹き飛ばす」存在である可能性を認めつつも、「数は質を制する」として、二個大隊規模の義勇軍側戦力があれば致命的な事態は避けられると高をくくっていた。同時に、新手帝国大隊の高い速度と錬度を脅威と認識しながらも、それを「厄介だが対処可能な対象」と位置づけ、爆撃機による燃料集積地爆撃で最低限の戦果を上げることに期待をかけていた。
観測拠点への長距離魔力砲撃と壊滅
やがて前線からの通信は、「ネームドより高魔力反応発生、魔力砲撃術式急速展開中」と警告した。連合王国側の簡易指揮所は協商連合の隠蔽施設を引き継いだもので、敵との距離は二〇キロ以上あったが、魔導師にとっては決して届かない距離ではなかった。逆探知されたと悟った将兵たちは電源遮断と退避を叫びつつ退避壕へ走ったが、その行動は間に合わず、ラインの悪魔による長距離砲撃によって指揮所は爆砕され、彼らの「話半分」の想定は現実の炎に焼き払われる結果となったのである。
高度九五○○ 集積地点前方交戦地域
敵観測拠点への長距離魔導砲撃
ターニャは高度九五〇〇から七層制御式の魔導砲撃術式を展開し、二八センチ砲並みの威力で協商連合側の観測拠点を砲撃した。魔力観測波の消滅と通信量の激増から、そこが敵戦闘指揮所であり、管制機能ごと吹き飛ばしたと判断した。強力なアクティブ観測波を垂れ流していた敵の運用は、帝国側から見て素人同然の愚策と認識された。
敵管制喪失を前提とした攻勢計画
敵管制を排除したことで、協商連合魔導師は統制を欠いた群衆へと変質したとターニャは見なした。帝国式任務遂行型ドクトリンに基づき、第二〇三航空魔導大隊は最低限の管制支援のみで自律戦闘が可能である一方、敵は集団戦依存ゆえ混乱から立ち直れないと分析する。ターニャはこの優位を利用し、まず敵前衛を押し潰しつつ、爆撃機を撃墜して昇進・優遇を狙う好機と受け止めた。
中隊への任務割り振りとターニャの出世計算
ターニャは第一〜第三中隊に前衛二個大隊の撃破を命じ、自身は第四中隊を伴い後衛および爆撃機への攻撃、その後の挟撃を計画した。ただし内心では、前衛との初戦闘結果を見て敵が想定以上に強ければ「救援」を口実に攻勢を中断し撤退する保険も用意していた。部下には戦闘という「得意分野」で働かせ、自身は人材発掘・運用という形で功績を得て、将来的な後方転進を狙うという打算も語られている。また帰還後の祝賀会費用を「成績最下位中隊長持ち」とすることで、交際費問題も部下の財布で解決しようとしていた。
爆撃機迎撃任務への不満と規律意識
ターニャは爆撃機の撃墜数が戦闘機による撃墜のみ正式スコアとして扱われる規則を知らされ、自らの手柄にならない可能性に落胆する。それでも任務として爆撃機への狙撃的迎撃を受け入れ、「地味で手間がかかるが功績にはなる仕事」と割り切った。通信上のコールサイン違反には厳しく叱責し、ハインリッヒの法則を引き合いに出して小さなミスを放置しない姿勢を示す一方、上級司令部「ホテル」には組織人として従順な応答を行い、体制との摩擦を避ける慎重さも見せていた。
ヴァイパー大隊再編成と援軍到着による戦闘方針の修正
司令部から、損耗して後退したヴァイパー大隊の再編完了と後詰としての投入が可能になったと伝えられると、ターニャは北方方面軍の手際を高く評価し、援軍受け入れを即座に承認した。その上で大隊全体に「援軍が来る」という朗報を共有し、暗に「無理な突撃ではなく、援軍到着を前提とした慎重な戦い方」への転換を促した。戦意旺盛な部下たちの士気を維持しつつ、安全第一と功績確保を両立させる「給料分の仕事」を行う方針で、ターニャは爆撃機迎撃と戦局コントロールに踏み出したのである。
統一曆一九二四年十一月七日
協商連合空襲作戦の崩壊
協商連合側では、爆撃機部隊と随伴魔導師部隊が帝国軍の迎撃を受け、無線は悲鳴と混乱に満ちていた。前衛直掩部隊はピクシー大隊の突撃で突破され、偵察中隊も包囲の危機に陥りながら次々と撃破された。ノーランド管制は作戦中止と第二集結地点への後退を命じたが、部隊は帝国魔導師を振り切れず、爆撃機隊も空中でばらばらにされていった。
ヴァイパー大隊の再編と追撃戦への移行
前衛が食い荒らされる中、帝国側ヴァイパー大隊は再編を完了して戦場に急行した。ターニャ率いるピクシー大隊は残敵掃討に移行し、撤退する協商連合部隊の追撃をヴァイパー側に委ねる形をとった。ターニャは、かつて自隊を苦しめた「怨敵」を任せると告げ、ヴァイパー大隊に遠慮無用の殲滅戦を促した。戦場は、逃走と追撃が交錯する地獄絵図と化し、負傷兵の断末魔が無線越しに響き続けた。
ピース・ワールド病院でのガーニングの覚醒
場面は協商連合領内の連合王国系人道支援団体「ピース・ワールド」運営病院へ移り、ガーニング中尉が白い天井と医療機器の光の中で意識を取り戻した。彼は激しい倦怠感と身体の違和感に包まれ、自室ではない空間にいることだけを認識したが、視界はぼやけ、焦点も定まらなかった。周囲からは中尉と呼ぶ声と軍医の呼び出しが飛び交い、自身が重傷患者として担ぎ込まれている現実だけが徐々に理解されていった。
戦友喪失の事実とトラウマの噴出
ガーニングが状況を尋ねる中、周囲の将校たちは「見事にミンチ」であり、戦闘記録もほぼ全滅という報告を交わしていた。断片的な会話から、彼は自分の大隊が帝国ネームド部隊による歓迎の「花火」と化し、戦友・上官・部下が赤い肉片と血飛沫となって散った事実を思い出す。脳裏に、帝国側の皮肉な台詞とともに血桜のように咲き乱れる爆散光景がよみがえり、彼は絶叫とともに精神的限界を迎えた。軍医は鎮静剤の投与を急ぎ、将校たちは不用意な発言をした部下を怒鳴りつけるが、ガーニングの心には「肉にされた戦友たち」の記憶だけが鮮烈に刻み込まれていた。
第參章 ノルデンⅡ
同日 ノルデン帝国軍司令部某所
暖炉の前で行われる物騒な歓迎
ノルデン前線司令部では、極寒の外とは真逆の暖炉の前で、ルーデルドルフ少将がターニャを迎え入れた。二人は極めて実務的で感情に振り回されないタイプ同士であり、戦場に帰還したターニャを「懐かしの戦場へおかえり」と称して微妙に物騒な歓迎を交わす。
ルーデルドルフは、ターニャのノルデンでの戦果を称賛し、ゼートゥーアが彼女を推挙したことが正しかったと満足げであった。
参謀本部の俊英たちによる“押し付け合い”の結果
ターニャはゼートゥーアに言い含められ、ルーデルドルフの下で“こき使われる覚悟”を固める。参謀本部内部では有能な人材ほど現場へ送り込まれ、さらに仕事が回ってくる構造が見え隠れしており、彼女も例外ではなかった。
空挺作戦案の提示
ルーデルドルフは雑談を切り上げ、ターニャに次の任務を提示する。
それは**「敵防御線への空挺制圧作戦」**であった。
ターニャの部隊(第二〇三大隊)はダキア侵攻での対地攻撃経験こそ豊富だが、敵陣地深部への本格的な空挺強襲は一部要員のライン戦経験に限られていた。
そのためルーデルドルフは即時の実施は命じず、「しばらく訓練に専念せよ。時が来れば酷使する」と、優しさと脅し半々の指示を出す。
ターニャの決意
ターニャは期待に応えるべく、「万全の備えをお約束します」と返答し、待ち受ける空挺作戦に向けて準備を開始することになる。
現代:紙面
軍関係者が語りたがらない“存在”
『十一番目の女神』について取材した記者たちは、軍関係者が異様なほど口を閉ざす場面に直面した。肯定も否定もなく、ただひたすら拒絶する態度である。
とくに退役将官の一人は「軍の恥か」と問われた瞬間、激昂して席を立ち「戦場を知らぬ者には理解できない世界がある」と吐き捨てた。他の退役将校たちも同時に席を立ち、沈黙こそが総意であるかのような緊張が走った。
この反応そのものが、何か“関わってはならない真実”の存在を示唆していた。
北方で初確認された理由と、連合王国の秘密介入
ジェフリー特派員によれば、『十一番目の女神』が連合王国により最初に確認されたのは西方ではなく北方である。しかし戦争末期まで連合王国は西方戦線を主戦場としており、北方の戦闘とは本来無縁だった。
この矛盾の理由として彼が提示した仮説は、連合王国が参戦前から“極秘裏にレガドニア協商連合へ義勇軍を派遣していた”というものだ。宣戦布告なき軍事介入であり、国際法上も政治的にも問題のある行為だった。
魔導師を連隊規模で送り込んだ義勇軍は戦場で甚大な損害を受け、その記録の中で初めて『十一番目の女神』の名が現れる。
女神の正体をめぐる二つの見解
ジェフリー特派員の見解は実務的で、超常現象を切り捨てる。
彼によれば、女神の正体は
「補給と兵站の致命的不足」
という十一文字の婉曲表現であり、組織批判を避けるための語であるという。
しかし記事を書いたWTN特派員アンドリューはこの見方には懐疑的である。西方戦線の取材経験から補給状況はそこまで壊滅的ではなく、訓練水準も最低限は維持されていたと述べる。そして、あまりにも異常な戦場の実態から「悪魔じみた存在がいたとしても不思議ではない」と実体説を支持する。
二人の議論は互いに譲らず、解釈の違いはメディアの立場の違いにも由来するとされる。
結語
アンドリュー特派員は、今後も調査を続けると記事を締めくくる。そして最後に「理解ある妻を持てたことを幸福に思う」と私的な一言を添えた。
統一暦一九二四年十一月十六日 北方方面軍司令部参謀会議室
勝利の陶酔とターニャの撤退案
北方方面軍司令部の参謀会議では、勝利の陶酔がさらなる攻勢志向を生んでいた中、ターニャが戦線後退と消耗回避を提案したのである。彼女は撤退によって兵站負荷を軽減し、春季以降の攻勢準備を整えるべきだと主張し、連隊規模の敵撃退と遊撃戦の実績を背景に発言した。しかし中央派遣の少佐による後退案は場の空気を凍らせ、ウラーゲリ上級大将や参謀たちの不快感を招いた。
兵站の逼迫と越冬をめぐる認識の対立
ターニャは、越冬物資が心許なく、小規模集積地が敵コマンドの襲撃で維持困難になりつつある現状から、冬季攻勢は兵站線がもたないと断じた。これに対し北方軍参謀らは、弾薬二会戦分と三週間分の糧食などが集積済みで短期攻勢は可能と強調したが、ターニャは前線から軽便鉄道が離れれば輸送は人力に頼らざるを得ず、冬季に着実な前進は現実的でないと一蹴した。
早期決着を求める参謀と功績へのすり寄り
作戦参謀とシュライゼ中将は、年越しによる長期戦化と部隊拘束を避けるため早期決着を至上命題とみなし、敵は既に物資不足と情報部が報告していることから、大規模攻勢で一気に敵戦力を粉砕すべきだと主張した。彼らはデグレチャフ少佐の戦果を持ち上げ、第二〇三航空魔導大隊なら補給線防衛にも貢献できると説き、慎重論を和らげようとしたが、ターニャは敵コマンドは歩兵と魔導の混成であり、一中隊撃破では活動低下は見込み難いと冷静に反論した。
西方との比較発言と決裂
やり取りが続く中、ターニャは珈琲を前に、西方では友軍が泥と飢えに苦しんでいたのに対し、北方は恵まれていると皮肉を口にした。この発言は快適な司令部にいる将校たちへの痛烈な批判として受け取られ、シュライゼ中将の怒りは限界に達した。彼はターニャに対し、そこまで言うなら西方へ帰れ、臆病者は北方に不要だと怒鳴りつけた。ターニャは北方軍の総意かと静かに問い返したのち、見事な敬礼とともに失礼するとだけ告げて退出し、誰もそれを止める声を上げることはなかったのである。
ノルデン司令部 ルーデルドルフ少将執務室
ターニャの直訴と「本音」の要求
参謀会議室を追い出されたターニャは、怒りを抱えたままルーデルドルフの執務室に現れ、現状の兵站を考えれば攻勢は無謀であり、なぜ止めないのかと問い質したのである。ルーデルドルフは本音で話せと促したが、ターニャは自分は参謀将校であり、立場上これ以上は述べられないと答え、参謀として許されないほどの罵倒を胸中に抱えていることを暗に示した。
牽制作戦としての攻勢の意味の分析
ルーデルドルフが北方攻勢を牽制作戦として評価せよと向けると、ターニャは助攻としては完璧な時期であると認めつつ、共和国や諸列強の目をノルデンに向けてもライン戦線への影響は小さいと判断した。そのうえで、むしろノルデン自体を戦略目標とする陽動ではないかと推理し、敵戦線後方を扼する空挺作戦準備という自分の任務と結びつけて考え始めた。
「後方上陸作戦」への到達とルーデルドルフの驚愕
ターニャは前線で敵主力を拘束したうえで、後方補給線を断つ上陸作戦という解決策に思い至り、敵後方への大規模揚陸と包囲・兵站遮断を狙う陽動なのではないかと口にした。これはルーデルドルフが少数にしか明かしていない秘策そのものであり、彼はゼートゥーアから聞いたのかと疑ったが、ターニャは自分の発案だと淡々と答えた。彼はその戦略眼に驚嘆しつつ、末恐ろしくも頼もしい士官と評価を固めた。
先鋒任務の付与とゼートゥーアの条件
ルーデルドルフはターニャの案を肯定し、第二〇三航空魔導大隊を揚陸作戦の先遣空挺部隊として軍港で待機させる転属命令を与えた。全軍の先鋒としての役割を期待すると告げられ、ターニャは静かに拝命した。その後ターニャが、腹案があるなら自分に北方攻勢牽制を示唆する必要はなかったのではないかと問うと、ルーデルドルフはそれがゼートゥーアの条件であり、北方が攻勢を選ばなければターニャをラインに送り自分は越冬準備をしていたと明かした。ターニャはそれを理解したとだけ述べて退室したのである。
北方方面軍第七駐屯地(現大隊駐屯地)
帰隊と戦局への不満
ターニャは再配置通達のため第七駐屯地に戻り、ヴァイスの出迎えとコート・珈琲の用意を受けたうえで、参謀会議が時間と予算の無駄であったと内心毒づいた。煙草まみれの会議室や、物資も乏しいのに戦争をしたがる高級将校への嫌悪を思い返しながら、自らのデスクで戦局図に兵站線後退と遊撃防御による北方滞在案を書き込んだものの、その計画は北方軍の全面攻勢案と参謀本部の後方上陸作戦案によって崩壊したと認識した。
上陸作戦構想と北方軍への不信
ターニャは北方戦区全図とフィヨルドの地形を検討し、沿岸砲台は海側には強いが陸上から背後を突かれれば脆いと判断した。空挺部隊の機動力を活かせば、背後からの襲撃には十分な成算があると見て、その戦局予想図を参謀本部宛報告書に忍ばせた。一方で、参謀本部が北方軍の独断的な北進を前提に作戦を組んでいることから、方面軍との連携の歪みと政争めいた思惑を感じ取り、自分がその「ヴィタミンP」争奪戦に巻き込まれることを警戒した。
兵站・予算問題への愚痴
ターニャはヴァイスに自殺願望の有無を尋ねるなど、冬季全面攻勢の無謀さを皮肉交じりに確かめたうえで、冬になれば鉄道も止まり越冬物資をどこから持ち出すのか皆目見当がつかないと断じた。また、自らの配置転換が理由で北方方面軍主計から祝勝会費用の支払いを管轄違いとして拒絶されたことに憤り、貢献に見合う成功報酬を踏み倒されたと感じつつ、大隊公庫からの支出をセレブリャコーフに指示した。
祝勝会の準備と友軍との関係改善
予算のやり繰りを思案していたターニャは、ヴァイスとセレブリャコーフから現地部隊の私費で購入された酒保のアルコール一式を譲り受けたと聞かされ、酒そのものは無料で潤沢にあると知った。自分は軍規と年齢制限で飲めないものの、チキンを用意して大隊に振る舞うことを決め、ヴァイパー大隊への感謝を口にしつつ祝勝会への招待状も出すつもりでいた。そして以前の信仰告白に起因する誤解を解き、自分が「ノーマル」であると印象付けるためにも、友軍との親交を深めようとしていたのである。
統一暦一九二四年十一月二十九日 北洋艦隊母港-艦隊旗艦司令部
出撃前の高揚とターニャの負担
北洋艦隊母港は決戦前の高揚感に包まれ、将兵は出撃を待ち焦がれていた。ターニャはその空気に共感できず、会議室へ向かい、自分たちの空挺降下と沿岸砲台制圧が作戦の成否を左右する要であると資料を確認しながら重圧を自覚していた。
作戦の政治的背景と戦略的位置付け
艦隊司令長官は、北方方面軍攻勢の「支援」という名目で行われる揚陸作戦の全体像を説明した。北洋・大洋両艦隊が封鎖を一部放棄してオース・フィヨルドの敵後方連絡線を叩く戦略的奇襲であり、成功すれば戦局大逆転となる一方、北方軍の面子を立てつつ実務上の責任は参謀本部が負うという政治的妥協の産物であるとターニャは理解した。
砲台制圧任務と権限交渉
オース・フィヨルドが狭隘かつ砲台と魚雷陣地で厳重に防護された要地であることが確認され、艦隊突入前に空挺降下部隊が砲台を無力化する必要があると示された。ターニャは自部隊だけでは砲台制圧と増援迎撃の両立が困難であると指摘し、海兵連隊到着までの増援手配と、状況次第では作戦中止を勧告する権利を求め、最終的に海兵指揮官同意を条件としてその権限を得た。
降下準備と第二〇三航空魔導大隊への託し
数日後、輸送機上でターニャは部隊に対し、夜明け前の滑空接近からの空挺降下で砲台と魚雷陣地を三十分以内に破壊・無力化するよう命じた。ヴァイスにはアルベルト砲台、ターニャ自身はナルヴァ砲台の制圧を担当させ、セレブリャコーフを予備指揮官として指揮系統喪失時の撤退判断を委ね、自分たちを「カナリア」に例えつつも、行くしかない以上は職務を全うすると覚悟して降下を命じた。
アンソン大佐側の防衛と誤算
一方、協商連合側ではオース・フィヨルド防衛を任されたアンソン大佐が、錬度の低い後備兵を抱えつつも海防態勢を整えていた。湾岸砲台交戦と哨戒線沈黙の報告から、彼は潜水艦による小規模奇襲ではなく砲台そのものが集中攻撃されていると悟り、祖国と都市の防衛のために急ぎスクランブル発進を命じた。
空中戦の激化と戦力差の露呈
アンソン大隊は砲台上空でターニャ率いる第二〇三大隊と遭遇し、アンソンはノルデンで因縁を持つ「白銀」の存在を認めて激昂しつつ射撃戦に入った。両軍は大隊規模同士で激しい魔導戦を展開し、ターニャは数的不利を補うため小隊単位の切り込み戦を指示して近接乱戦に持ち込み、帝国側の錬度の優位を活かして徐々に主導権を奪った。
増援到着と帝国側優勢の確定
やがて帝国側連隊規模の増援魔導部隊が到着し、ターニャは制圧継続中であることを報告、増援はターニャ支援と奥地侵攻に移行した。海岸砲台の制圧は進み、敵迎撃部隊は排除可能な規模に抑え込まれ、湾内には帝国輸送艦が姿を現した。ターニャたちは勝利を既成事実として受け止め始め、アンソン大佐の祖国にはこの流れを覆す力がもはや残されていないことが示されていた。
同日共和国-海峡司令部
帝国艦隊の異常な出撃と揚陸作戦の察知
共和国海峡司令部は偵察機からの警報で帝国艦隊の行動を察知し、待望の艦隊決戦の好機と緊張が高まっていた。だが帝国艦隊が輸送船団を伴い北方へ針路を取っていると判明し、将校たちは揚陸作戦による協商連合後方への攻撃と理解して衝撃を受けた。
協商連合崩壊への恐怖と帝国側有利な戦力状況
ダキアに続き協商連合までも脱落すれば共和国への負担が激増すると司令部は危機感を抱いた。海峡艦隊は本来大洋艦隊撃滅を任務としていたが、帝国は北洋・大洋両艦隊を集中させ得るため、主力艦数・艦の新鋭度ともに共和国側は劣勢となり、もはや刺し違える覚悟でようやく戦える程度の望みしか残されていなかった。
全力出撃決断と時間との戦い
帝国艦隊が決戦を避けて揚陸に向かっていると分かると、司令部はリスクを承知で妨害に向かう決断を下した。陸軍魔導師の援軍要請と哨戒機の投入を命じ、動ける艦艇を根こそぎ出す全力出撃を指示し、包囲網崩壊を防ぐため「間に合わせるしかない」と覚悟を固めた。
出撃の遅れと次戦への誓い
しかし、協商連合駐在武官からの報告により、共和国側の行動が既に手遅れであったことが明らかになった。海峡艦隊司令部は自らの遅れを痛感し、今回阻止できなかった帝国艦隊を次こそは叩きのめすと固く誓うしかなかった。
統一曆一九二四年十二月四日 連合王国・ロンディニウム 内緒の某所
帝国揚陸成功と連合王国情報部の重苦しい空気
帝国海軍がオース・フィヨルドで揚陸作戦を成功させた報告が届き、連合王国の秘密拠点では、ハーバーグラム少将を頂点に情報関係者がダキア崩壊に続く戦況悪化に沈鬱な空気に包まれていた。帝国が順調に勝利を重ねる現実に、室内はクリスマス休暇どころではない重さに満ちていた。
協商連合政府からの要人輸送要請の内容と意味
特務艦ライタールからの最優先電報には、協商連合政府が十人評議会の評議員輸送を希望していると記されていた。協商連合側は寄港中のほぼ全ての船舶に支援を求めており、その一隻が偶然連合王国の特務艦だったと判明した。これは、協商連合が亡命政府樹立のため連合王国に頭を下げたことを意味し、帝国への唯々諾々たる屈服を避ける一手として、連合王国にとっても一定の政治的価値を持つ話であった。
情報保全と仮装巡洋艦ライタールの危うさ
ハーバーグラムは、協商連合の雑なアプローチが情報漏洩と士気低下を招く悪手であると評価しつつも、北方戦線で徹底抗戦さえ続けば帝国軍を拘束できる可能性を見ていた。一方で、特務艦ライタールは民間船に偽装した仮装巡洋艦として通商破壊と情報収集に従事しており、武装や機材、機密資料を満載していた。臨検されれば国際法上きわめて不味く、既に危険物を積み込んでいる船にさらに「不味い荷物」を載せるべきかが問題視された。
ハーバーグラムの逡巡と第一海軍卿への上申
協商連合評議員の亡命受け入れは、成功すればダキアでの失敗を上回る成果をもたらし、協商連合領の即時崩壊を防ぐ政治カードとなる一方、失敗すれば外交的・政治的リスクが巨大であった。自らの裁量を超える案件と判断したハーバーグラムは、機密保持に最大限配慮しつつ書類を携えて第一海軍卿の執務室を訪れ、事態の概要と緊急性を直接説明した。
輸送手段の検討と潜水艦利用という結論
第一海軍卿は、亡命政権による対帝国牽制の有効性を認めつつも、特務艦や定期航路船の使用は帝国の監視と難民殺到で目立ちすぎると判断した。ライタールは高速ではあったが哨戒網突破は不確実であり、臨検時には亡命幇助か交戦行為として高い代償を払う危険があった。検討の末、海軍卿は洋上で友軍潜水艦に評議員を移乗させる案を採用する方針を示し、潜水戦隊司令部との協議が必要だと結論づけた。
第肆章 ノルデン沖の悪魔
統一暦一九二四年十二月十日 協商連合アーネルスネ港
協商連合政府崩壊の認識と亡命方針
オース市の陥落と帝国軍の内陸進出により、同時代の人々は協商連合政府の終わりを悟ったが、協商連合の当事者たちはまだ民族と国民の敗北ではないと己を奮い立たせていた。十人評議会は、共和国と連合王国が要人の受け入れに同意したことを受け、全権委任状を持つ評議員を大使として亡命させる方針を協議し、誰を送り出すかを巡って議論を交わしていた。
出撃前の魔導師たちとアンソン大佐の別離
一方、協商連合の魔導師たちは出撃前のわずかな時間に家族との別れを惜しんでいた。アンソン大佐は、戦火を避けて合州国へ疎開する妻と娘メアリーを抱き締め、共に行けないことを詫びた。逼迫した海運事情の中で家族だけでも国外に逃がせたことを幸運だと自分に言い聞かせつつ、家庭にもっと戻るべきだったという悔いと、愛した日常が失われていく現実に胸を締め付けられていた。
娘からの贈り物と短機関銃の正体
別れ際、メアリーは少し早いクリスマスプレゼントとして大きなケースをアンソンに託した。見送りの後、ケースが旧知のカゾール評議委員の手で差し出され、開けてみると中身は森林誓約同盟諸州製の短機関銃一式であった。それは宝珠適合を考慮した高価なモデルであり、マガジンや術弾、整備道具まで揃っていた。銃に刻まれた「AS」はアンソンのイニシャルであり、娘の涙に心を動かされた連合王国人の諜報員が百ポンドの特価で用意した品だと説明され、アンソンはその気遣いと娘の存在を「百人力」と感じていた。
祖国を守る覚悟の確認
カゾール評議委員は、家族を避難させるための船を手配した代わりに無理を頼むことを詫びたが、アンソンは幸せな家庭を持てたことを誇りに思うと告げ、家族の祖国を自らの手で守り抜く覚悟を示した。二人は多くを語らず、頭を下げる者とそれを笑って受ける者として、滅びゆく祖国のために戦い続けるという暗黙の合意を確認していた。
統一暦一九二四年十二月十一日 帝国ライネホテル食堂
会食の充実とターニャの満足
ターニャはライネホテルの食堂で、前菜からメインまで期待を抱かせる上質な料理と、在郷軍人会や地元名士との和やかな交流を楽しんでいた。北方土産の酒も好評で、彼女は場に自然に溶け込みながら有益な関係を築けたことに満足していた。
黒電話の登場と休暇消滅の報せ
しかし、楽しみにしていた白身魚のメインが運ばれる直前、ウェイターが黒電話を持って現れた。受話器の主はルーデルドルフ少将であり、ターニャに直ちに駐屯地へ集結せよという明確な召集命令を伝えた。ターニャは最悪の知らせにうんざりしつつも命令に従い、ウェイターへ厚いチップを支払い席を立った。
名士たちの誤解とターニャの礼節
高額のチップを朗報と勘違いした名士たちは期待を込めて問いかけたが、ターニャは渋い表情で良い知らせではないと返した。彼女は軍令で中座せざるを得ないことを丁寧に詫び、紳士らの武運を祈る言葉を受けつつ会場を後にした。
帰還準備と大隊への召集命令
外套を受け取り車に乗り込むと、ターニャは従卒に急ぎ駐屯地へ向かうよう命じた。同時に演算宝珠で週番士官へ連絡し、休暇打ち切りと即時召集を通達した。週番士官は半休中の将兵をすぐに呼集すると応じ、全大隊の迅速な動員が始まった。
参謀本部の意図への疑念
車中でターニャは、休暇を与えつつ軍港周辺に自分の部隊を足止めしていた可能性や、ルーデルドルフ少将がノルデン視察の名目で現地に滞在している不自然さに思い至った。彼女は参謀本部が何かを徹底して隠蔽しようとしていると察し、召集の裏にある意図を疑わざるを得なかった。
帝国軍第二〇三大隊仮設駐屯地
捜索遊撃命令の発令
帝国軍第二〇三航空魔導大隊は北洋艦隊司令部から捜索遊撃命令を受け、ノルデン沖の海域封鎖を指示された。ターニャは洋上航法能力の乏しさに頭を抱えつつ、地図と通信を手早く整えた。北洋艦隊はすでに巡洋戦艦隊と潜水任務群を出撃させており、大隊はその支援として索敵に従事することになった。
悪天候下での索敵と敵艦隊の発見
大隊は豪雨と暴風の中で索敵を続行したが視界は悪く、友軍潜水艦による誤報が続くなど状況は芳しくなかった。やがて海中で爆発音が響き、探照灯に照らされた複数の艦影が確認される。潜水艦が放った魚雷は全弾早爆し、協商連合艦隊は対潜戦闘に移行した。
魔導大隊と協商連合の初交戦
潜水艦の攻撃で敵の注意が下に向いた瞬間、ターニャらは不意遭遇のまま突入を開始した。艦隊の対空砲火は予想より薄かったが、魔導師との交戦は激しかった。ターニャは急降下の速度を利用し、銃剣で敵魔導師を強襲して撃破。奪取した短機関銃を携えたまま艦隊攪乱へ移行した。
駆逐艦への急降下攻撃
濃厚な対空砲火を避けるため大隊は駆逐艦を標的に選定。ターニャ率いる第一中隊が爆裂式を集中して投射したが、誘爆には至らず艦は辛うじて健在だった。それでも敵海兵魔導師の引きはがしに成功し、艦隊の動揺を誘う役割は果たした。
戦闘結果と離脱判断
大隊は魔導師六名を撃墜したものの、敵艦への決定的打撃には欠けた。自軍も重傷者を出し、ターニャは戦闘継続が得策ではないと判断する。敵艦隊の位置特定という主目的は果たしており、撃滅は後続艦隊に委ねるべきと結論づけた。
帰還要請と受理
ターニャは司令部へ状況を報告し、疲労と負傷者を理由に追跡続行の免除を求める。司令部はこれを了承し、大隊は最寄り基地への帰還を開始した。ターニャは安堵したが、その針路上に予期せぬ事態が待つことをまだ知らなかった。
帝国軍北方哨戒空域-B44
不明潜水艦との遭遇とターニャの苦悩
北方哨戒空域を帰還中のターニャ・デグレチャフ少佐は、不審船報告を受けて調査に向かった。そこで連合王国の漁船母艦ライタール号を確認し、臨検を決断した。だが靄の中でさらに不審な貨客船と国籍不明潜水艦を発見し、潜水艦が潜航を試みたことで状況は急速に悪化した。戦時国際法上、臨検拒否に該当しない潜航への対処には制約が多く、撃沈すれば政治問題となり、逃せば軍内部で責任を問われるため、ターニャは追い詰められた。
法的限界の中での威嚇射撃決断
潜水艦は潜航すれば追跡困難であり、積み荷の重要性を考えても見逃す判断は不可能だった。ターニャは威嚇射撃なら合法の範囲に留まると判断し、中隊に潜水艦至近へ重爆裂式を一五メートル間隔で投射するよう命じた。撃沈は避けつつ臨検を強制するという、ぎりぎりの判断であった。
潜水艦側の混乱と損傷
一方、潜水艦シルティスでは、極秘任務中に帝国軍魔導師接近の報を受け、艦長以下が情報漏洩の疑いに動揺していた。停船命令を無視して潜行を図った瞬間、帝国軍の重爆裂式が至近で炸裂し、艦内は破口と浸水が急速に拡大。艦長は負傷し、副長が指揮を引き継ぐが、電池室の損傷による塩素ガス発生、操舵不能、火災の危険などで潜航継続は不可能となった。
降伏決断と積み荷処分
副長は浮上して降伏するほかないと判断し、同行していた技術士官に積み荷の処分を促した。艦の状態は限界であり、機密保持と乗員の生存を両立させる唯一の選択肢が浮上と処分だった。技術士官はこれを了承し、作業に移った。
統一暦一九二四年十二月十二日 連合王国・ロンディニウム 内緒の場所
帝国軍介入の発覚と情報部の動揺
ロンディニウムの秘密施設では、ハーバーグラム少将が情報参謀らを激しく叱責していた。帝国軍の魔導大隊が北方哨戒線から外れた海域に出現し、連合王国側の計画を一夜で瓦解させたためである。参謀らは偶然と弁明したが、少将は交戦記録に映る帝国軍魔導師達が単一の目標へ迷いなく突入した事実を突きつけ、偶然では説明できないと断じた。
ネームド級魔導大隊の存在が示す意図
帝国軍ネームド部隊は北方戦線に投入されたと判断されていたが、実際には海上で協商連合艦艇を待ち伏せしていた。その動きは、誘導と奇襲が完璧に噛み合ったものであり、潜水艦の雷撃と同時に上空から突撃部隊が降下するという意図的な連携が確認された。前衛艦を無視し、護衛を引き剥がして目標艦へ一直線に向かった動きは、事前情報なしには成立しないと分析された。
情報漏洩の可能性と内部調査の行き詰まり
情報部は暗号解析、内通者、ダブルスパイを徹底的に洗い出したが、いずれも有力な証拠は得られなかった。調査過程で複数のモグラを摘発したにもかかわらず、最重要情報へのアクセス状況は白と判断され、情報参謀らは疲弊していった。協商連合艦隊が共和国艦隊との合流に成功した事実も、偶然説を後押ししたが、戦闘を記録した報告書がその考えを否定した。
攻撃の標的が示した必然性と危機感
報告書には、亡命政権要員が乗った巡洋戦艦の居住区だけに爆裂術式が集中していた事実が記されていた。帝国軍魔導大隊は突入後ただ一撃を加えたのみで即座に離脱し、その帰路が偶然にも連合王国特務艦と潜水艦の会合地点上であった。これら一連の事象は偶然では説明できず、少将は激しい怒りを込めて偶然説を切り捨て、情報漏洩の可能性を改めて突きつけた。
同日 帝国軍参謀本部合同会議室
協商連合艦隊逃亡の報告と参謀らの困惑
帝国軍参謀本部では、協商連合艦艇を取り逃がしたとの報告がもたらされ、陸軍・海軍の参謀らが動揺していた。北洋艦隊は二度接触しながら再捕捉に失敗し、期待されていた決定的な戦果が得られなかった。陸軍側は海軍の不手際を追及したが、海軍参謀は悪天候下での洋上追跡が確率論的に困難であると説明し、経験不足が影響したと認めるように述べた。
ゼートゥーア少将による議論の打ち切りと事後策の模索
陸海軍の不満が膨らむ中、ゼートゥーア少将が無益な糾弾を終わらせ、事後策の検討へ議論を転じた。海軍側は外交手段を活用し、連合王国に中立国義務を履行させて共和国艦隊との合流を阻止する案を提示した。しかし、外務省の見解では連合王国が厳格な武装封印に応じる可能性は低く、実効性は期待できないと判断された。
共和国艦隊合流の不可避性と長期化する戦局の懸念
連合王国領海と共和国領海が接する地域が広いため、逃げ延びた協商連合艦艇が共和国側へ到達することは事実上阻止できないと結論づけられた。これにより協商連合側の抵抗が長期化し、帝国が求める早期降伏の妨げとなる可能性が指摘された。海軍戦力が温存されている状況では、敵国が抗戦継続の正当性を主張しやすくなるためである。
速やかな撃滅方針の確認と増援決定
状況打開のためには協商連合艦艇を可能な限り早期に撃沈するしかないと参謀らは判断した。討ち漏らしが複数存在する以上、部分的な戦果では火種を消し止められず、迅速な掃討が唯一の解決策とされた。北洋艦隊には引き続き撃滅命令が下され、海軍側も増援派遣によって作戦を早期に終結させる方針を確認した。
第二〇三大隊駐屯地-大隊司令部
レルゲン中佐による転属命令の通達
第二〇三大隊司令部で、レルゲン中佐はデグレチャフ少佐に転属命令を伝えた。これはライン戦線で準備されている大規模作戦に向けた援軍措置であり、中央で形式的な軍法会議を受ける必要が付随していた。潜水艦撃沈は不幸な事故として処理される見通しで、中佐は少佐の功績が正当に評価されていると強調した。
ターニャの過剰な自己責任意識と歪んだ完璧主義
しかしデグレチャフ少佐は、敵を逃した事実に強い責任を感じ、名誉挽回の機会と受け止めていた。レルゲン中佐の慰めにも耳を貸さず、過ちは繰り返さないと固執する姿勢を見せた。その戦意は殺意と義務感が極端に凝縮したような異様さを帯び、命令を字句通りに遂行することしか考えていないかのようであった。
会話の齟齬とレルゲン中佐の戦慄
中佐は少佐の行動に問題はなかったと明確に伝えたものの、彼女は全敵艦の撃滅を当然とする覚悟を表明し、会話は根本的に噛み合わなかった。レルゲン中佐は、少佐の価値観が常人から大きく逸脱していると感じ、帝国軍が生み出した戦争狂そのものと戦慄した。
艦隊演習参加の提案と承諾
中佐は少佐の戦意を別方向に逸らすため、北洋艦隊が計画する艦隊演習への参加を提案した。これは裁量の範囲で許される配慮であり、少佐は即座に参加を志願した。中佐は想定通りの返答に安堵しつつ、少佐と部隊の武運を祈って激励を述べた。
別れの言葉と中佐の内心
デグレチャフ少佐は模範的な態度で礼を述べ、中佐は友軍であるはずの彼女に薄ら寒いものを感じながら会談を締めくくった。内心では、異常な狂気を孕んだ彼女の存在に触れた恐れを押し隠し、職務としての義務を果たしたに過ぎなかった。
大隊駐屯地-大講堂
裁定が軽処分に留まりターニャが安堵する
大講堂でターニャ・デグレチャフ少佐は、任務失敗の叱責を覚悟していたが、レルゲン中佐が伝えた参謀本部の通達は単なる事務連絡であった。軍法裁判も形式的な審議に過ぎないと示され、上層部が依然として彼女と大隊を期待していることが明らかとなった。ターニャはその寛大さに安堵し、誰かが自分のために手心を加えたと察した。
配慮を受けたことへの感謝と、期待に応える決意
軽処分で済んだ背景にはゼートゥーア少将の関係者の働きかけがあると考えたターニャは、上官への感謝を胸に刻み、与えられた演習参加の機会で実績を示すと心に誓った。二度目の失敗は許されないと理解し、今回こそ参謀本部からの信頼に応えるべきだと決意を固めた。
大隊への訓示と“期待されている”という現実の提示
召集されていた大隊要員を前に、ターニャはまず自らの失態を自覚しつつ、参謀本部が依然として彼らに期待している事実を強調した。軍は機会を与えたのであり、これは贖罪の機会でもあると述べ、義務と献身が軍人の誉れであると部下に訴えた。部下の意気が沈んでいることを理解したうえで、彼女は意図的に厳しい言葉を用いて士気を鼓舞した。
暴走を避けるための忠誠心アピールと転属告知
ターニャは大隊が国家に忠実な“番犬”であると強調し、統制の取れた軍隊であることを示す必要があると考えた。そのうえで、次の任務がライン戦線であると告知し、反時計回りに戦場を巡る配属替えであると説明した。彼女は自分が独断専行に見られていないかを内心で気にしつつ、部下の前では動揺を見せないよう振る舞った。
海軍との協力任務という朗報
最後にターニャは、大隊が海兵魔導師の任務に協力することになったと伝えた。これはレルゲン中佐からの好意によるものであり、海軍の食事の質が陸軍より良いという“ささやかな朗報”を添えて部下の緊張を和らげようとした。
統一曆一九二五年一月十八日 帝国海軍北洋艦隊司令部付第二演習海域
容易すぎた突入と艦内戦闘の混乱
デグレチャフ少佐率いる第二〇三大隊は接舷強襲を実施し、煙幕を展開して突入した。ターニャは迎撃が異様に薄いことに驚きつつも強襲を継続し、甲板上では水兵らが混乱し転倒する姿が見られた。大隊は防御陣を突破して橋頭堡を確保し、艦内主要区画へ進撃した。海兵隊は水兵の混乱に巻き込まれ対応が遅れた。やがて海兵隊と水兵の増援が編成されたが、第二〇三大隊の挟撃により防衛側は崩れ始め、艦は統制を失った。最終的に抵抗は断念され、演習終了が宣言された。
演習後の講評と海軍側の問題意識
演習終了後、士官らは艦内で総括に臨んだ。統裁官は実戦形式の演習が有意義であったと評価し、海軍は対魔導師戦闘経験の不足を補える機会であったと受け止めた。戦艦バーゼル艦長グレイン大佐は完敗を認め、艦内の損傷の多さに苦言を呈しつつもダメージコントロールの成果を報告した。
対空砲火の脆弱性と増強案の提示
グレイン大佐は接近する魔導師に対し対空砲火が全く当たらなかったことを課題として挙げた。ターニャも同意し、対空火力が根本的に不足していると述べた。さらに、突入側の視点として現状の火線は脅威にならず、迎撃密度を十倍規模で増強すべきと提案した。統裁官もこれに同意し、四〇ミリ機関砲の配備など重層的な防御の必要性を指摘した。海軍士官らは対艦戦闘を重視する既存の発想から副砲撤去には消極的だったが、議論は艦政本部へ回されることになった。
艦内部隊間の連携不足と今後の訓練
ターニャは突入時に感じた海兵隊と水兵の連携不良を指摘し、艦内戦闘の訓練不足を問題視した。海兵隊も訓練不足を認め、再教育の必要性を述べた。ターニャ自身も艦内戦闘経験の不足を認め、合同訓練を望んだ。総括として、演習は双方に改善点を明示し、次の実戦へ向けた重要な経験となった。
第伍章 ラインの悪魔
現代、そして統一暦一九二五年三月のいずこか、
老人が見続ける戦場の記憶
老人は、統一暦一九二五年当時のライン戦線を繰り返し夢に見ていた。泥濘と砲煙に満ちた地獄のような戦場で、G中隊はE中隊の側面援護として前進していた。砲撃は絶えず、泥と死臭が満ちる中、兵士達は壕を掘り、機関銃を据え、ひたすら任務に耐えていた。
砲撃下での絶望と援軍への渇望
共和国軍の砲撃は激烈で、前進中のH中隊は壊滅的被害を受けていた。航空支援は一向に現れず、兵士達は援軍を待ち望みつつ仲間の負傷者を担架で後送していた。砲弾の雨に晒されながらも衛生兵は己の危険を顧みず救助に走り、兵士はその姿に深い敬意を抱いていた。
援軍の符牒と第二〇三航空魔導大隊の出現
絶望の最中、無線に広域符牒が響き、通信兵は援軍到来を叫んだ。届いたのは第二〇三航空魔導大隊による合言葉であり、兵士達は驚愕と安堵に包まれた。ただ、援軍の正体が「死神」と恐れられるデグレチャフ少佐の部隊であることを彼らは知らなかった。
ターニャが率いる支援突撃準備
ターニャ・デグレチャフ少佐は、塹壕戦への嫌悪を抱きつつも支援任務として敵砲兵陣地へ突撃するべく低空高速で前進していた。彼女は誤爆を避けるため指示を徹底しつつ、支援砲撃を続行するよう要求した。友軍上空への曳火砲撃すら意に介さぬ姿勢は、無線を傍受した地上兵に恐怖を抱かせた。
敵魔導師出現とターニャの戦闘開始宣言
敵二個中隊規模の魔導師接近が報告されると、ターニャは即座に第一中隊へ迎撃を指示し、自身が先頭に立つと宣言した。その声音は冷徹で、戦場全体に怒気を帯びた言葉が響き渡った。共和国軍は悪魔を討つべく全力を向け、兵士達は「死神」が牙を剥いた瞬間を確かに感じ取った。
戦場に刻まれた“悪魔”の記憶
老人は、援軍として現れた少佐が戦場を引き裂き、敵味方ともに死を連れてくる存在であったと回想していた。デグレチャフ少佐は勝利をもたらしたが、その背後に残るのは無数の屍であり、兵士達は彼女を畏怖と畏敬のまじる感情で「死神」と呼んだ。
統一暦一九二五年二月二十四日 ベルン郊外 帝国軍軍事裁判所
軍隊における規律と軍法会議の意味
軍は国家の暴力装置であり、統制と規範を絶対条件とする組織であった。ゆえに帝国軍では士官の品行が厳しく求められ、違反は軍法会議の対象となった。しかし戦時下では、名誉よりも義務の遂行が重視されるようになり、その場は政治的思惑の交錯する場所へと変質していた。
外交問題化した事件と法廷の緊張
ターニャによる中立国艦船撃沈は、帝国と連合王国の外交問題を刺激し、軍内部と外務省の思惑が衝突していた。軍は義務を果たした士官を守る姿勢を示し、外務省は政治的配慮として処罰を望む。この対立が法廷の空気を張り詰めたものとし、審理は一触即発の緊張を帯びていた。
審理却下という妥協の結論
判事役は、請求を形式的理由で退ける審理却下を宣言し、法的にはターニャを裁かない方針を明示した。中立国艦船の撃沈は不幸な事故とされ、ターニャは命令に従って行動したため過失はないと認定された。軍の圧力と多数部署の擁護がこの結論を強固にしていた。
外務省の不満とターニャの安堵
外務省は世論の矛先を和らげる生贄を求めていたため、無罪同然の決着に強い不満を示したが、その視線を受けてもターニャは内心で安堵し微笑みを浮かべていた。だが、その表情は周囲に違和感を与え、多くの関係者が動揺を覚える結果となった。
軍事的事情による解放とライン送り
ターニャへの拘禁措置は形式上解除され、彼女は前線に必要な戦力として速やかに送り出されることになった。魔導師不足に苦しむ帝国にとって、戦果を挙げる士官を政治のために失う余裕はなかった。参謀本部は戦力としての期待から、外交担当者らは再発防止と厄介払いの意味で、誰もがターニャのライン戦線送りを支持していた。
国際情勢がもたらす処遇の背景
帝国と連合王国の対立はすでに不可避であり、両国の公式見解こそ事故として処理されていたものの、連合王国内では帝国非難が激しく煽られていた。事件は戦争の口実にも使われ得る情勢であり、個々の士官への処罰は優先事項ではなかった。
“ラインの悪魔”を生む必然
こうしてターニャは政治的妥協の末に前線へ戻され、ゼートゥーアやルーデルドルフの判断も重なり、再び最も過酷な戦場へ送り込まれた。その結果、ライン戦線はさらに地獄と化し、ターニャは“ラインの悪魔”として嘲笑される存在となっていった。
統一暦一九二五年四月五日 ライン戦線
塹壕生活の現実とターニャの観察
ライン戦線の塹壕は泥と砲弾が支配する異常な環境であり、兵士たちは笑顔を失えば精神が崩壊しかねない厳しさを抱えていた。ターニャは娯楽の欠乏や兵站の浪費に眉をひそめ、人材を使い捨てにする戦争構造を冷静に批判していた。魔導師だけは後方で息継ぎが許されるが、その分酷使される現実も理解していた。
補充魔導師到着と“教導任務”という厄介事
補充要員が到着したとの報せを受け、ターニャは損耗のない自隊に補充が来る理由に困惑した。セレブリャコーフから司令部が第二〇三大隊に新人教導を期待しているという噂が伝えられ、戦地での新人研修という最悪の可能性が浮上した。ターニャと部下たちは新兵の扱いに頭を抱えるが、任務とあれば受け入れるしかなかった。
教導方針の確認とターニャの誤解
司令部との協議で、新兵の損耗率が高い理由は促成教育と塹壕環境への不適応だと確認された。ターニャは実戦での段階的な経験こそ必要と主張し、大佐もこれに同意する。しかし両者は“どの程度の実戦を経験させるべきか”について齟齬を抱えたまま話を進めてしまい、結果的にターニャは“新人を実戦投入して鍛えよ”との命令だと受け取った。
新人への訓示とライン戦線の地獄を提示
補充要員の前に立ったターニャは、ライン戦線の実態を墓場と表現して警告し、英雄志望の愚かさと高い死亡率を突きつけた。狙撃兵の餌食になりたい者は勝手にすればよいと述べ、従う者には弾除け程度には役に立てと告げ、新兵たちの反応は恐怖一色となった。
夜襲“ピクニック”作戦の実行
司令部からの急な召集で、新兵を含む各班がブリーフィングへ集められ、ターニャは時間厳守の班と遅刻班に罰と“褒美”を与えた。時間を守れなかった班は最前線の警戒壕送りとなり、厳守した班はターニャ直率の夜襲へ同行させられることになった。目的は“敵兵の拉致”であり、ターニャはこれを遠足と称しつつも極めて危険な任務として指揮した。
夜襲の進行と新兵の恐怖
灰色の迷彩服で泥にまみれながら匍匐前進し、ターニャの合図でシャベルによる無力化が始まった。新兵グランツは恐怖と混乱に呑まれながらも訓練の記憶に従って動き、捕虜確保後の魔導飛行による撤収でようやく生還した。ターニャは平然と行動し、部下たちはその冷徹さに畏怖を深めた。
食中毒による予想外の離脱とターニャの嘆き
翌朝、ターニャは部下ツイーテ・ナイカ・タイヤネンが急な食中毒で戦線離脱した事実を知り、家族宛の正式な通知を書き上げた。戦闘ではなくジャガイモの腐敗で部下を失ったことに強い徒労感を覚えつつも、名誉を守るために傷痍退役として処理されたことに安堵していた。
再教育への決意と現場の改善策
補充兵の損耗率が高い理由を反芻しながら、ターニャは教導任務への姿勢を新たにし、今後も必要な経験を積ませるべく部隊運用を再調整した。補充兵二名の損失は想定内と判断しつつも、戦場全体のリスク管理の甘さを痛感し、前線の脆弱性に危機感を覚えていた。
統一暦一九二五年四月二十八日 帝国軍参謀本部、戦務・作戦合同会議
参謀本部での攻勢計画協議
帝国参謀本部ではライン戦域の攻勢計画を巡る協議が開かれ、高級軍人たちは塹壕戦の膠着と補給線の逼迫に頭を抱えていた。ゼートゥーア少将は海峡突破が連合王国の介入を招き、総力戦に拡大する危険を指摘し、突破よりも敗北回避が最重要と判断していた。
ゼートゥーアとルーデルドルフの提案
ゼートゥーア少将は攻勢計画そのものには賛成しつつ、目的を突破ではなく敵への出血強要に置くべきだと主張した。敵野戦軍の消耗こそが帝国の生存条件であり、瀉血戦術によって共和国の戦争継続能力を削ぐべきだと述べた。この提案は参謀らに衝撃を与えたが、ルーデルドルフ少将が賛同し、前方への脱出という常識外れの作戦概念を提示した。
グランツの夜襲体験と精神的崩壊
一方、後方拠点では前夜の夜襲を経験したグランツが恐怖と嫌悪に苛まれていた。シャベルで敵兵の頭蓋を叩いた衝撃や、仲間が一瞬で砲撃に呑まれた光景は彼を激しく動揺させた。帰還後も吐き気と罪悪感に支配され、捕虜を平然と尋問する先任らの姿に人間性が壊れていくような錯覚を覚えていた。
士官食堂での落差と精神の再起
翌朝、仮設士官食堂での穏やかな空気は、戦場との落差ゆえに彼をさらに混乱させた。それでも食事と習慣により徐々に平静を取り戻し、無意識に講堂へ向かう自分の行動に驚嘆した。休養日であることを知らず登校した彼は、上官らから初戦をよく生き延びたと評され、ようやく戦場の現実を受け入れ始めた。
ターニャの朝と不穏な呼び出し
その頃、ターニャは珍しく整った補給と静かな朝に違和感を覚えていた。食中毒で後送された部下を思い浮かべつつ警戒していたところ、ヴァイス中尉が緊急符牒を携えて駆け込み、即時出頭命令が伝達された。ターニャはこの状況が碌でもない一日の前触れであると悟っていた。
第陸章 火の試練
現代 ロンディニウム
暴動発生と追悼式典の意義
アンドリューは番組でアレーヌ・ロイゲン地方の暴動を紹介し、帝国占領下で市民が蜂起した当時の映像と犠牲者追悼式典を伝えた。復興したカレリアン大聖堂の除幕式は和解の象徴とされ、戦争の悲劇を振り返る場となっていた。
暴動の拡大と帝国軍の迅速な軍事介入
反帝国感情の強い地域での抗議行動が暴動へ発展し、補給線への脅威が懸念された帝国軍は、ゼートゥーアとルーデルドルフの提言により軍隊の直接投入を決断した。帝国は暴動を非正規戦と見なし、戦時国際法に基づき警察権ではなく軍事力での制圧を選択した。
市街地での武力行使と大規模犠牲
魔導師部隊が先遣隊として投入され、市民への攻撃が開始された。証言によれば警告後に無差別射撃や爆撃が行われ、アレーヌ市民の半数が死亡したとされる。市民の多くは逃げ場を失い、カレリアン大聖堂に立てこもって抵抗するしかなかった。
帝国が下した最終勧告と市民側の拒絶
帝国軍は非正規兵による占拠と判断し、捕虜の解放を求めたが市民側は自由を求める集団であるとして応じなかった。共和国軍からの救援を信じた市民の期待は状況をさらに悪化させた。
火災旋風による全面的殲滅作戦の実行
帝国軍は都市突入による自軍の責任を避け、遠距離から砲撃と延焼で市街区画を焼却する作戦を選択した。この行動は後に「アレーヌの虐殺」と呼ばれ、軍内部の記録では実験的意図すら示唆されていた。
帝国軍の思考とジレンマ
ハルバーム教授は帝国軍が軍事合理性に強く傾いた結果、補給線維持と後方安定のため暴動を最優先で排除せざるを得なかったと解説した。前線維持と鎮圧の両立は不可能であり、唯一の予備戦力である魔導師部隊投入は戦略的に必然であったと述べた。
制御を外された軍と解き放たれた衝動
参謀本部は合理性の名のもとに制約を外し、破壊を正当化する環境を作り出した。内部資料の走り書きは、抑えられていた破壊衝動が命令によって解放された様を示し、悲劇の構造を象徴していた。
統一曆一九二五年五月四日 ライン戦線
アレーヌ失陥の衝撃と兵站危機
ライン戦線で軍団長は、共和国軍の迅速な増援とアレーヌ失陥の報告に激しい危機感を抱いていた。鉄道が麻痺すれば前線の補給は即座に断たれ、戦力維持ができない。代替線も存在せず、憲兵隊の失態に将校らは苛立ちを募らせた。後方での暴動により兵力を動かせず、事態は最悪の方向に進んでいた。
戦略研究案の提示と法的欺瞞
参謀団は軍大学戦略研究委員会が提出した、市街地で短時間に敵魔導師を排除する戦術案を提示した。条約違反ではないとされたが、前提は非戦闘員が存在しない都市という架空の状況であった。これは法的手続きにより市街地を敵戦力のみとみなす欺瞞であり、実質的には都市全焼を前提とする火攻策であった。
火災旋風計画の現実味と軍団長の恐怖
作戦は火災旋風を発生させ市街区画を焼却する内容であり、演習場での試行例も存在した。軍団長は、その非人道性と合理性の結合に戦慄しつつも、事態が逼迫した状況では選択肢が乏しいと悟っていた。
ターニャへの緊急召集と後方遮断の報告
一方ターニャは情報将校から、パルチザン蜂起によって後方地域が遮断されたと知らされる。補給線の崩壊は全軍の壊走に直結するため、彼女は深刻な危機を理解した。憲兵隊の失敗により暴動は拡大し、鎮圧可能かどうかも不明であった。
戦況悪化と航空戦力の逼迫
航空艦隊は前線で制空権確保に追われ続け、後方奇襲を阻止する余力を失っていた。共和国軍はすでに橋頭堡確保を狙い、魔導師増援が組織的抵抗に転じる兆候が見られた。状況が遅れるほど凶悪化するのは明白であった。
避けられぬ決断への流れ
参謀本部は純軍事的合理性のみを基準に判断せざるを得なくなり、ついにターニャへ司令官室への召集が下された。誰かの意思ではなく、情勢そのものが帝国を破滅的選択へ追い込んでいた。
統一暦一九二四年四月十三日 第一七研究室(帝国軍軍大学における合同戦略研究会議)
市街戦発生の可能性と政治的制約
帝国軍がライン戦線で反攻の兆しを見せたことで、戦場が共和国領の都市へ移行する可能性が高まった。都市には市民が残留しているため、国際法は非戦闘要員保護を強く要求し、帝国は政治的理由からも彼らを巻き込まぬ制圧が求められていた。しかし、この制約は現実の兵站や国力差を踏まえればほぼ不可能であった。
攻囲戦の不適切性と士官たちの苦悩
教官は包囲と兵糧攻めを選択肢として示したが、参加者はその非現実性を理解していた。都市を長期間囲むには敵の数倍の兵力と膨大な物資が必要であり、帝国の現状では成立しない。戦力集中だけを考えれば防衛に徹する方が理にはかなうが、国力差と多正面作戦の負荷がそれを許さなかった。
ターニャの疑義と議論の転換
ターニャは議論の意味を問うた上で、兵糧攻めが前近代的で近代戦に適さないと指摘した。会議は本来、解決策を見出す場であり、現実的代案を探らぬのは不誠実だと考えていた。彼女は、市街戦を避けるのではなく合法化する方法を検討すべきだと述べた。
国際法解釈を利用した合法化の提案
ターニャは国際法が禁止しているのは明示的な無差別攻撃のみであり、解釈の余地が大きいと説明した。非戦闘要員の保護義務を盾に敵側へ避難民退去を要求し、拒否されれば市民不在と解釈する余地が生まれると主張した。また、敵が最後の市民まで抵抗すると宣言すれば、全住民を民兵とみなし捕虜資格を否定できると述べた。
法の再解釈という結論
ターニャは、法律は解釈と運用でいくらでも形を変えると理解しており、国際法も例外ではないと断言した。帝国が戦時国際法を再解釈することは法理上可能であり、市街戦を実施するための大義名分は創出できると結論していた。
Xday
軍団長の特命とターニャへの任務
軍団長はターニャに対し、後方アレーヌへ浸透した共和国軍魔導師の排除と、続く市街制圧を命じた。アレーヌ陥落は補給線を断つ致命的事態であり、上層部は投降がなければ都市ごと焼却する覚悟を固めていた。ターニャの提示した国際法解釈が、この軍事行動の大義名分として利用されていることも示唆されていた。
大隊への通達と兵士たちの動揺
ターニャは大隊にアレーヌ奪還を告げ、交戦規定を説明した。兵士達は通常任務と理解しつつも、ターニャの一瞬のためらいに不穏を感じる。市街地での降伏勧告は形式的措置であり、拒否されれば掃討戦へ移行することが明言されていた。
共和国側の状況と時間稼ぎの戦術
共和国軍のビアント中佐は、苦境の中でアレーヌ奪還阻止を図るが、帝国魔導大隊の迅速な投入に追い詰められていく。市街戦は長期防衛が困難で、パルチザンを盾にせざるを得ない状況だった。共和国軍は遅延戦闘で帝国の攻勢を妨害しつつ、反攻作戦の成立に賭けていた。
ターニャ大隊の戦闘と市街押し込み
ターニャ大隊は共和国軍の統制射撃を避けつつ前進し、被弾したヴァイスを下げて隊を再編。敵が市街に退くと、ターニャは突入を中止し、上層部の砲爆撃のために敵を市街内部へ押し込むことを優先した。これは自らが虐殺に関与しないための政治的計算でもあった。
降伏勧告と市街殲滅の開始
帝国は形式上の降伏勧告を行い、直後に民兵が捕虜を射殺した映像を得て、殲滅戦への移行が決定された。ターニャは帝国臣民救助を口実に市街殲滅から距離を取ろうとし、その間に砲兵と航空部隊は市街を火災旋風の中に放り込んだ。
グランツの体験する地獄と虚構の崩壊
救助任務にあたっていたグランツは、アレーヌが火の海となる中、帝国軍の攻撃が非戦闘員を巻き込む現実に直面する。虚構の「自分は殺していない」という逃避は、殿軍排除命令を前に崩れ去り、ターニャの冷静な命令遂行に衝撃を受ける。
ターニャの政治的計算と苦悩
ターニャは戦後責任を回避するため、可能な限り法に沿い、直接の殺害行為を避けつつ任務を遂行した。だが市街殲滅の黙認は避けられず、合理性の名の下に大量死が進む現実に内心で嫌悪を抱く。移動中、彼女は人的資本の浪費と科学者の戦死を嘆きつつ、軍の人材管理の欠陥を批判した。
参謀本部への召喚と戦略転換の情報
ターニャは参謀本部への出頭を命じられ、途中でウーガ少佐と合流。彼から、帝国がライン戦線を一度後退させ、敵に出血を強要する策略を準備していると聞かされる。その一環として第二〇三航空魔導大隊が殿軍を任される可能性が示唆され、ターニャは自部隊の壊滅リスクに戦慄した。
ターニャの結論
彼女は合理的に最悪を予期しつつも命令に従うしかなく、次なる戦いに向け備える。政治的疑念と自己保身の計算を抱えながら、軍人として職務を全うする姿勢を崩さなかった。
第漆章 前進準備
統一曆一九二五年五月十日
強行偵察下のターニャの戦闘状況
ターニャ・デグレチャフは敵地奥深くで強行偵察を遂行しつつ、圧倒的な対空砲火と混乱した無線状況に直面していた。強行突入は帝国軍の後退を悟らせないための偽装作戦であり、第二〇三航空魔導大隊は全域に散開して囮としての役割も担っていた。ターニャは生存のために余計な思考を排し、飽和砲撃の中で防御膜と防殻を使い分けながら部下を指揮した。
欺瞞後退作戦の背景と大隊の負担
帝国軍参謀本部は鉄道網の活性化を利用し、攻勢準備の偽情報を流すことで共和国軍を誤認させていた。アレーヌ市の蜂起も報道操作で覆い隠され、共和国側は帝国軍の本意を掴み損ねていた。強行偵察はあくまで後退を隠蔽するための囮であり、大隊は犠牲覚悟で深入りを続けねばならなかった。ターニャは損耗を覚悟しつつも、合理的判断のもと部下の後退支援を実行した。
迎撃部隊接近と任務続行の決断
敵大隊規模の魔導師部隊が急速接近しているとの報告を受け、ターニャは強行偵察中止の“許可”を疑念と共に却下した。撤退の欺瞞を守るには迎撃しか選択肢がなく、後方部隊の安全を守るためにも交戦が必須と判断したのである。ターニャは部隊へ対魔導師戦の準備を通達し、存在Xへの呪詛を胸に抱えながらも指揮官としての任を遂行した。
共和国軍邀撃大隊との夜間交戦
共和国軍側では強行偵察を日常的な騒擾とみなし軽視していたが、この夜は広域魔導ジャミングが索敵網を麻痺させ、初動が遅れた。迎撃部隊は大隊規模の侵入を第三防衛線突破後にようやく感知し、夜間の不利な視界と混乱した指揮系統の中で出撃した。
接近戦による共和国軍第三魔導大隊の壊滅
両軍はほぼ同時に発見・交戦へ移行した。近接戦闘に卓越した帝国軍魔導師が突入して前衛を破砕し、光学式射撃で共和国側の指揮官を次々と撃破。共和国軍は組織的抵抗を維持できず、後衛は前衛の援護もままならず各個撃破された。急加速による離脱も叶わず、生存者は初撃で落とされた数名に限られた。
共和国側の誤認と帝国軍の撤退成功
壊滅は共和国軍司令部の判断をさらに混乱させ、敵侵入部隊捜索に戦力を集中させる結果を招いた。これにより帝国軍の後退作戦は共和国側に察知されず完了した。共和国軍はプロパガンダで戦死者を称揚しつつ、帝国軍の補給線問題を希望材料と誤認していた。
強行偵察をめぐる技術的背景と追加加速装置の誕生
重防御陣地突破の高損耗問題から、帝国軍技術廠は新兵器開発に着手した。シューゲル主任技師が提案したのは、複数ブースターを使った魔導師高速投射装置、いわば「使い捨て超加速ユニット」であった。運動制御はほぼ不可能だが、超音速で迎撃網を突破できる可能性が示され、空挺士官の発想により後方への魔導師投射兵器として用途が再定義された。参謀本部は熱狂的にこれを支持し、量産前の試作20機が完成して作戦計画へ組み込まれた。
作戦『衝撃と畏怖』の形成
ゼートゥーア少将とルーデルドルフ少将は、この新技術を決戦計画へ統合し、敵司令部への直接打撃によって戦線崩壊を狙う第一段階作戦を立案した。これが後に帝国軍が勝利の種と見なす戦略の核心となる。
統一曆一九二五年五月十八日 ライン第二防衛線
静かな夜と戦線再編の影響
ライン第二防衛線では、久しくなかった静かな夜が訪れていた。ヴォーレン・グランツ少尉は当直に就き、砲撃も警報もない平穏の中で珈琲を口にしていた。この静寂は、帝国軍の大規模な戦線後退が成功し、共和国軍が空白地帯の制圧で手一杯になった結果であった。第二〇三航空魔導大隊の面々も、大隊長デグレチャフが休養を命じたほどに束の間の余裕を得ていた。
大隊の再編とグランツの心境
大隊は戦闘の摩耗により補充兵を迎え入れ、書類上は臨時混成第二〇三大隊とされていた。グランツもその一員であり、今ようやく戦場の喧騒から距離を置いた時間を得て、これまで振り返る余裕が生まれていた。珈琲の味に気づくほど心が緩み、塹壕から見上げた夜空は驚くほど新鮮に映った。
ヴァイス中尉の復帰と違和感の共有
復帰したヴァイス中尉が当直を共にし、穏やかな時間を過ごしていたが、双方ともこの静寂に落ち着かなさを覚えていた。大隊は常に前線にあり、静けさそのものが不自然であったからである。グランツは、先任であるヴァイスの言葉から、この違和感が自身だけのものではないと理解した。
第二〇三大隊の起源と過酷な教導
ヴァイス中尉は、かつて自分が東部軍に所属し、二〇三大隊志願時に告げられた文言を語った。それは、生還の保証もない激戦部隊であることを示す厳しい募集文句であった。若かった自分は力量を過信していたが、デグレチャフ少佐の過酷な訓練によって徹底的に叩き直されたと振り返った。雪山訓練、対砲兵訓練、高高度飛行など、死にかけるような鍛錬が日常であり、その体験が現在の大隊の戦闘力を形成していた。
変化した編成方針と中尉の胸中
大隊は当初精鋭主義で編成されたが、戦局の変化に伴い促成栽培的な補充も受け入れる体制へと変わっていた。ヴァイス中尉は、この方針転換には理由があると感じており、上層部が魔導師の数を必要としている兆候だと読み取っていた。だからこそ、新規加入組であるグランツらの成長を見守り、現実を伝えることを自身の責務と考えていた。
統一曆一九二五年五月二十一日 帝国軍参謀本部第一(陸軍)晚餐室
まずい食事と作戦前夜の空気
帝国軍参謀本部の晩餐室では、ルーデルドルフ少将が最前線と同じ食事を支給される建前に従い、味気ないKBrotを不満げに口へ運んでいた。味よりコストと栄養だけを重視した結果だと彼は推測し、皮肉を抱きつつ飲み込んでいた。一方、ゼートゥーア少将は平然と食べており、その諦観が最大の調味料なのかとルーデルドルフは内心で苦笑していた。
作戦準備の完了と二人の緊張
両名は、『衝撃と畏怖』作戦の準備が予定通り進み、発動寸前であることを確認していた。作戦が失敗すれば帝国の命運が尽きるため、ルーデルドルフもゼートゥーアも緊張を隠せず、軍大学以来の軽口を交わしながら互いの心情を認め合った。
前進こそ唯一の道であるという決意
帝国が生き残るには前進しかないと二人は理解していた。作戦が成功しなければ全てが崩壊するが、それでも進むほかに道はなかった。二人は祖国のために道を切り開くと誓い、杯を掲げて勝利を祈念した。
同日。ライン戦線
封緘命令の開封と作戦内容の確認
ライン戦線でターニャは封緘命令の指定時刻を確認し、ヴァイス中尉と共に認証を行った。梱包を切り開くと、参謀本部の透かし入り油紙に印字された命令文が現れ、その内容は前方への打通以外に解決策がなく、力で突破できなければさらに力を注ぎ前進するという方針に集約されていた。ターニャもまた、前へ進む以外の活路は存在しないと理解した。
部隊召集と将校への指示
ターニャは副官に部隊召集を命じ、ヴァイス中尉には書類の確認を指示した。状況伝達と出撃準備は手慣れた手順であり、そのうえで将校たちに作戦の本旨を告げた。踟闘を許さず、ひたすら前進することが唯一の目的であると明確に示した。
前進の強制と決意
ターニャは、生きて足踏みすることすら許されないと宣言し、この機会が最初で最後の好機であると認識していた。ゆえに、部隊には止まることなく、ただ前へ進み続けるよう求めた。
外伝 借りてきた猫
広報任務で孤独な“抵抗”を続けるターニャ
曇天の帝都で、ターニャは三日間にわたり逃げ場のない苦行を強いられていた。後方配置に伴う広報協力のはずが、文化・宣伝局の女性係官たちによる「おめかし」攻勢に晒され、反撃も逃走も許されない状況に追い詰められていた。軍人としての矜持も戦場で鍛えた覚悟も、この場では一切通用しなかった。
衣装・化粧・髪の手入れという容赦なき攻撃
ターニャは到着直後から軍装を剥がされ、フリルのドレスや窮屈なコルセットを着せられ、髪や肌を次々に評価されていった。規定通り整えた髪型すら否定され、配給の櫛を使っていると知った係官は怒りを露わにし、ブラッシングから髪質改善講義まで延々と押し付けてきた。ターニャは焼き鏝まで持ち出される現場に恐怖し、精神的消耗は極限に達していた。
軍装否定と“可憐な愛国者”としての矯正訓練
ターニャが軍装での参加を求めても却下され、女子らしい振る舞いとメイクを強要される日々が続いた。戦場よりも逃げたいと嘆きながらも、軍の命令である以上受け入れるしかなく、彼女は徹底的に自分を押し殺して任務に従った。
強制的な完成形としての挨拶
三日間の屈辱と矯正の果てに、ターニャは完全に作られた姿で挨拶を求められる。ターニャ・デグレチャフは、命令に従う軍人として笑顔を作り、白銀としての自己紹介を絞り出した。
同シリーズ



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