物語の概要
■ 作品概要
『坑夫』は、夏目漱石が1908年(明治41年)に発表した長編小説である。実在の青年から持ち込まれた体験談をベースに執筆された、漱石の作品群のなかでも異色を放つリアリズム小説である。 物語の主人公は、恋愛関係のもつれから東京の裕福な実家を飛び出し、自暴自棄になって死に場所を求める19歳の青年である。彼はあてもなく彷徨う途中で怪しげな周旋業者に声をかけられ、足尾銅山へと連れて行かれる。労働者がひしめき合う過酷な鉱山、そして暗国で不気味な坑道という異世界に身を投じた青年が、様々な人間との出会いや過酷な現実に直面しながら、人間としての自己を見つめ直していく姿を描いている。
■ 主要キャラクター
自分(青年): 物語の主人公。東京の良家で育った19歳の青年。二人の女性との恋愛関係に悩み、世間を儚んで家出をした。自死を考えながら彷徨っていたところを騙されるようにして鉱山へ連れて行かれ、肉体労働の過酷さと泥臭い人間に触れることで、次第に生きる感覚を取り戻していく。
長蔵(ちょうぞう): 青年を鉱山へと誘う飯場の抱え人(周旋業者)。自暴自棄になって山中を彷徨っていた青年の弱みにつけ込み、巧みな弁舌で坑夫になるよう勧誘して足尾銅山へと連れて行く、物語の最初の転機を作る人物。
大鳥(おおとり): 青年が配属された飯場で出会う若者。青年と同じく東京のインテリ出身であり、過去の挫折から鉱山に流れ着いた。境遇の似た青年に対して親身になって助言を与え、鉱山という厳しい現実の歩き方を教える先達のような役割を果たす。
安さん(やすさん): 青年が初めて坑内に入る際、案内役を務めたベテランの坑夫。一見すると粗野で恐ろしい外見をしているが、暗黒の坑道を進むなかで青年の心に寄り添い、人間としての温かみや生きるための知恵を授ける重要な人物。
■ あらすじ
東京の裕福な家庭で育った十九歳の青年は、恋愛関係のもつれから逃れるため家を出奔した。あてもなく歩いていた彼は、周旋屋の長蔵に誘われるまま、銅山の坑夫になることを決意する。赤毛布の若者や小僧らと共に険しい山道を越えて飯場へ到着するが、坑夫たちの異様な風貌と過酷な環境に圧倒され、周囲から激しい嘲笑を浴びた。
坑内の見学に向かった青年は、案内人に置き去りにされて暗闇をさまよう。そこで、かつて高等教育を受けながら事情により坑夫へと身を落とした安さんと出会う。安さんは青年の境遇に同情して東京へ帰るよう諭したが、彼の人格に深く感銘を受けた青年は、むしろこの地で踏みとどまる決心をした。
しかし、働き始める前の健康診断で気管支炎と診断され、坑内での過酷な労働は不可能となる。帰る場所を持たない青年が飯場頭に必死に懇願すると、飯場の帳簿をつける「帳付」の仕事が与えられた。こうして青年は、南京米を食べ南京虫に耐える過酷な生活の中、帳付として五箇月間を銅山で過ごし、その後東京へと帰還するのである。
書籍情報
坑夫
著者:夏目漱石 氏
初出:1908(明治41)年「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」
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あらすじ・内容
明治期の文学者、夏目漱石の長編小説。初出は「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」[1908(明治41)年]。前年11月下旬に漱石を訪れた青年が語った足尾銅山での坑夫生活からヒントを得た。入り組んだ恋愛関係から逃れるために家を出た主人公は自滅したいと望み、ポン引きから誘われるままに鉱山へ。坑夫の生活に衝撃を受け、地底では生死の間を彷徨するが、気管支炎の診断を受け、飯場での帳付けを五ヶ月間勤めたのち、鉱山を去る。素材の異質さが際立つ作品。
感想
夏目漱石の『坑夫』は、235ページ、15万文字以上という分量を持ちながら、章の区切りが一切存在しないという異例の長編小説である。どこで一休みしたらよいのか判然としないため、結果としてページをめくる手が止まらず、一気読みを強いられることとなった。
読後に残る感覚は、一言で表すならば「今読んでも非常にキツい物語だった」という重苦しさである。しかし同時に、読者自身の置かれた状況や心境が変われば、全く違う受け止め方や味わいができるかもしれないという、不思議な可能性を秘めた作品でもある。
本作の魅力と、心に残った人間模様をいくつかの視点から振り返る。
自滅を望む青年の逃亡と過酷な現実
東京の裕福な家庭に育った十九歳の主人公は、入り組んだ恋愛関係のもつれから逃れるため、生家を出奔する。すべてを儚み、自暴自棄になって死に場所を求めてあてもなく歩いていた彼は、怪しげな周旋屋の長蔵に誘われるまま、銅山の坑夫になることを決意した。
しかし、赤毛布の若者や小僧といった同行者らと共に険しい山道を越え、ようやく行き着いた飯場で待っていたのは、想像を絶する過酷な世界であった。そこにひしめき合う労働者たちの青黒く骨ばった異様な風貌と、底知れない不気味な環境に、青年は一瞬にして圧倒されてしまう。さらに、育ちの良さが隠せない彼は、容赦ない坑夫たちから「書生ッ坊」と激しい嘲笑を浴び、手痛い現実の洗礼を受けることとなる。この異世界の描写は生々しく、青年の孤立感を際立たせていて息を呑んだ。
暗黒の地底での出会いと生きる決意
物語の前半における大きな山場は、青年が体験する坑内の見学シーンである。案内人に置き去りにされ、一寸先も見えない暗闇の中で生死の間を彷徨う青年の恐怖は、読者にもそのまま伝わってくる。
その絶望の淵で、青年は「安さん」という坑夫に出会う。安さんはかつて高等教育を受けながらも、事情によってこの地底へと身を落とした人物であった。彼は青年の境遇に深い同情を寄せ、こんな場所にとどまるべきではない、東京へ帰るべきだと親身になって諭す。一見すると粗野な坑夫たちの集まりの中で、安さんが見せた知性と誠実さ、そして人間としての温かみは、暗闇を照らす一筋の光のようであった。彼の人格に深く感銘を受けた青年は、安さんの説得に感謝しつつも、むしろこの過酷な地で踏みとどまり、生きてみせるという確かな決心を固めるのである。この二人の魂の交流は、本作の中で最も胸を打つ美しい場面であると感じる。
不条理な運命と「帳付」としての五ヶ月間
しかし、運命は青年の思い通りには進まない。いざ働き始めようとした矢先、身体検査で「気管支炎」との診断が下り、地底での過酷な肉体労働は不可能であると宣告されてしまう。
すでに東京の家を捨て、帰る場所も持たない青年は、飯場頭に必死の思いで懇願する。その熱意が通じたのか、彼には坑内に入る代わりに、飯場の帳簿を管理する「帳付」という仕事が与えられることとなった。 ここからの日常もまた、決して平坦なものではない。壁土のような南京米を食べ、夜は南京虫の襲撃に耐えるという、過酷極まる生活が続く。それでも青年は、その泥臭い現実を生き抜き、帳付として五ヶ月間の月日を銅山で過ごした。そして、この特別な経験のすべてを胸に刻み、最終的に東京への帰還を果たすのである。
総括
『坑夫』は、夏目漱石の他の作品群と比べても、素材の異質さとリアリズムが際立つ異色作である。自滅を望んでいた良家の青年が、最も過酷で社会の底辺とも言える鉱山という異世界にぶつかることで、皮肉にも生の感覚を掴み直していく過程が、章の区切りすら排した緊迫感の中に描かれている。人間関係の不条理さや、極限状態における人間の本質を多角的に描き出しており、読み進めるのがキツいと感じる一方で、人間の持つ奇妙な逞しさに深く考えさせられる、極めて強い印象を残す傑作であった。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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考察・解説
東京からの出奔
『坑夫』における主人公の東京からの出奔は、人間関係の行き詰まりによる煩悶からの逃避と、自滅へ向けた過程として描かれている。この出奔の背景と心理状況については、以下のポイントで考察できる。
二人の少女をめぐる板挟みと煩悶
主人公が家を飛び出した根本的な原因は、二人の少女と親族を巻き込んだ人間関係の深いもつれである。
- 彼は第二の少女に対して済まない約束をもって生まれた身でありながら、第一の少女の態度に翻弄され、どうしても離れることができずにいた。
- 親や親類からも非難され、両立しない感情が五色の糸のこんがらかったように絡み合い、どうにも解決のつかない状況に追い込まれるのである。
自殺の失敗と逃亡という選択
この苦しい人間関係のしがらみから逃れるため、主人公は自分だけをふいと煙にしてしまおうと決心する。
- 最初は自殺を試みるが、実行しようとするたびに恐怖でやめてしまい、自殺ができないなら自滅しようと思い至る。
- しかし、何不自由ない家庭にいては自滅もできないため、まずはその第一歩として逃亡を選択した。
- 逃亡しても苦しいままなら、その時に華厳の滝や浅間山の噴火口などで死のうと、死を遠い目標に据えることで一時的な慰めを得ていたのである。
過去の隠蔽とあてのない放浪
昨夕の夜九時ごろに着の身着のままで東京を飛び出した主人公は、夜通し北へ向かって無目的に歩き続ける。
- 所持金もほとんどない状態であったが、出奔した以上は親の名前や過去の歴史は誰にも語りたくないという強い思いを持っていた。
- そのため、周旋屋の長蔵に身元を深く聞かれなかったことに内心安堵するなど、過去の自分を社会から完全に葬り去ろうとする心理が働いていたのである。
坊っちゃんの虚栄心とその崩壊
中以上の家庭で申し分のない坊っちゃんとして育った主人公は、自分の出奔を一生の大事件や生死の分れ路のように捉え、悲劇の主人公のようなもったいぶった意味付けをしていた。
- しかし、長蔵に騙されて坑夫になることをあっさりと受け入れる赤毛布の若者や、親も家もない野生の小僧といった同行者たちの平然とした態度を目の当たりにする。
- そのうちに、自分の悩みや逃亡がいかに世間知らずで大げさなものであったかに気づかされるのである。
まとめ
総じて東京からの出奔は、自己の煩悶を解決できない未熟な青年が選んだ社会からの逃避であり、その後の過酷な坑夫生活を通じて、彼自身の特権的な自意識が解体されていく物語の出発点として機能しているのである。
坑夫への志願
『坑夫』における主人公の坑夫への志願は、明確な労働意欲や金銭目的からではなく、自滅を求める自己放棄の心理と、他者からの刺激によって生じた虚栄心や意地が複雑に絡み合った結果として描かれている。この心理的プロセスについては、以下のポイントで考察できる。
娑婆気の復活と長蔵の誘い
暗い場所や人のいない場所へ向かってあてもなく歩いていた主人公であるが、茶店で長蔵から声をかけられると、不思議とそちらへ引き寄せられる。
- これを主人公は、人間社会との繋がりを求める娑婆気が残っていたためだと自己分析している。
- 長蔵から働く了簡はないかねと問われ、娑婆の人間である以上は食わなければならないと考えた彼は、具体的な仕事内容も知らないまま、あっさりと働くことを承諾してしまうのである。
死に最も近い天職としての坑夫
長蔵から紹介される仕事が坑夫だと聞いたとき、主人公はそれが最下層の過酷な労働だと知って驚くが、同時に奇妙な嬉しさを感じる。
- なぜなら、日の目を見ない暗い穴の底で鉱石を相手にし、浮世の声を聞かずに済む坑夫の生活は、彼が望んでいた人のいない所に行きたい、自滅したいという目的に最も合致しているように思えたからである。
- 彼は密かに坑夫こそ自分にとっての天職であると直感するのである。
飯場頭による拒絶と反発
銅山の飯場に到着すると、飯場頭の原駒吉から、主人公の風貌を見て教育を受けた者には到底務まらないから帰るようにと親身に説得される。
- しかし、この拒絶が逆に主人公の若さゆえの虚栄心と意地を刺激する。
- 彼は儲けるために来たのではない、帰る家などなく、坑夫になれなければ乞食になるしかないと必死に食い下がる。
- 初めは流れに任せた志願であったが、ここで拒絶されたことでどうしても坑夫になってやるという強い決意へと変化していくのである。
坑夫たちからの嘲笑と野心の芽生え
さらに、飯場の二階で坑夫たちの集団に直面し、彼らから南京米の味も知らない書生っ坊と激しい愚弄と嘲笑を浴びる。
- 社会の最底辺にいる彼らからすら見下されたことで、主人公は激しい恥辱を抱くが、同時に強い反骨心も芽生える。
- 坑夫の中に元書生で教養のある男がいるのを見て、自分もこの社会に首を突っ込み、一人前以上になって成功して見せると、当初の自滅の目的とは矛盾するような野心を燃やすに至るのである。
まとめ
総じて坑夫への志願は、世間から逃避して自滅しようとする未熟な自己放棄から始まりながらも、長蔵の誘惑や飯場頭の拒絶、坑夫たちの嘲笑といった他者からの刺激を受けることで、逆に坑夫として生き抜くという意地と生への執着へと転換していく青年の複雑な心理を見事に浮き彫りにしているのである。
偶然の道連れ
『坑夫』において、主人公が銅山へ向かう途中で出会った赤毛布の若者と小僧という偶然の道連れは、主人公の特権的な自意識を揺さぶり、暗い運命へ向かう道程に奇妙な慰めと現実感をもたらす存在として描かれている。この偶然の道連れについては、以下のポイントで考察できる。
赤毛布の若者への自己投影と虚栄心の解体
宿場町の外れで、周旋屋の長蔵は赤毛布の若者に対し、主人公にしたのと全く同じ言葉と態度で坑夫への勧誘を行う。
- それを見た主人公は、自分が長蔵から特別扱いされていたわけではなく、赤毛布と同じ単なる労働力として扱われていることに気づく。
- 坑夫に成り下がる身でありながら、他人よりも優遇されたいという自身の虚栄心を自覚し、一旦はひどく情けない思いを抱く。
- しかし、いざ赤毛布と並んで歩き出すと、一人で零落するよりも道連れがいる方が慰めになり、かえって彼に親近感を覚えるようになるのである。
野生的な小僧の不気味さと逞しさ
橋の向こうから現れた小僧は、長蔵から与えられた芋を無言で猛烈な勢いで平らげ、無愛想に山の頂を見つめる。
- 小僧はどこへも行かない、帰らないと語り、長蔵の金を儲けさせてやるという誘いに即決で同行を承諾する。
- 主人公は、自分と同じように右へ左へと流されるままに生きる者がいることに驚く。
- 同時に、暗く険しい山道を冷飯草履を鳴らして平然と飛び跳ねていく小僧の姿に、蝙蝠のような不気味さと野生の逞しさを感じ取るのである。
道連れによる特権的自意識の薄れ
主人公は中以上の家庭に育った坊っちゃんであり、自らの出奔を一生の大事件や生死の分れ路のように大げさに捉え、悲劇の主人公のようにどぎまぎしていた。
- しかし、長蔵の誘いに二つ返事で従う赤毛布や小僧の平然とした態度を目の当たりにするうちに、その大仰な自意識は次第に薄れていく。
- 自分よりも彼らの方がよほど逞しく、世の中には根が抜けて流されていく人間がいくらでもいるのだと気づく。
- 道連れが増えることで主人公の心細さも和らいでいったのである。
呆気ない別れと小説にならない現実の神秘
一夜を共に過ごし、雲に包まれた山道を四人だけの世界のように歩き続けた彼らであるが、銅山の飯場に到着するや否や、長蔵は赤毛布と小僧を別の飯場へ連れて行ってしまい、主人公は置き去りにされる。
- その後、銅山内で二度と彼らと顔を合わせることはなかった。
- 主人公はこの纏まりそうで纏らない関係を振り返る。
- 作り上げられた小説にはない、無法則な自然の事実としての神秘と夢幻の趣がそこにあると回想しているのである。
まとめ
総じて偶然の道連れたちは、主人公が自らの未熟さや虚栄心に気づく鏡としての役割を果たすと同時に、人生の行き当たりばったりな現実の奇妙さを象徴する存在として、物語に深い陰影を与えているのである。
銅山の過酷な環境
『坑夫』において銅山の過酷な環境は、単なる肉体的な苦痛にとどまらず、死の危険が日常化し、人間の精神や尊厳までもすり減らしていく極限状態として描かれている。この点については、以下のポイントで考察できる。
暗闇と危険に満ちた坑内への道のり
銅山の坑内は、電車が通る入り口こそ広いものの、奥へ進むにつれて四つん這いにならなければ通れない狭い穴や、腰まで泥水に浸かる道が続く。
- さらに、絶壁に掛けられたぬらぬらと滑る梯子を十五も乗り継いで昇降しなければならず、一歩間違えれば命を落とす危険な環境である。
- ダイナマイトの爆破による轟音と煙硝の臭いが充満しており、常に死の恐怖と隣り合わせの空間として描かれている。
死と直結した過酷な労働
坑内は陸のように地面のない所と称され、掘子たちはすのこと呼ばれる底知れぬ深い穴へ、重い鉱石を投げ込む危険な作業を強いられる。
- 足を滑らせて鉱石と一緒に落ちてしまう恐怖と戦いながら、坑夫たちは日々作業しているのである。
- 生きて出る料簡なら生意気にシキなんかへ這入らねえ方が増しだと脅されるほど、坑夫の労働は過酷で命がけのものとして描かれている。
飯場の劣悪な生活環境
労働を終えた後の飯場での生活も、極めて不衛生で過酷なものである。
- 提供される食事は南京米と呼ばれ、主人公が壁土のような味だと感じるほど不味いものであった。
- さらに、薄汚れた硬い布団には南京虫が大量に潜んでおり、主人公は全身を刺される苦痛で夜も一睡もできないほどの凄惨な体験をするのである。
死の日常化とジャンボー
このような過酷な環境下では逃亡者や病死者が絶えず、日に五、六組の葬式が出る。
- この葬式はジャンボーと呼ばれ、金盥を打ち鳴らし浪花節のような唄をうたって行われる特異なものである。
- 坑夫たちは重病で身動きも取れない仲間を無理やり引きずり起こしてこの葬式の列を見物させたり、病人の不幸を自業自得だと笑い合ったりする。
- 死や不幸が日常化する中で、人間性が麻痺し、冷酷な狂気が蔓延している銅山社会の異常さが浮き彫りになっているのである。
まとめ
総じて『坑夫』における銅山の過酷な環境は、肉体の限界を試すのみならず、死の恐怖と劣悪な生活によって人間の尊厳や正常な感覚を解体していく場として、緻密かつ生々しく描写されているのである。
安さんとの交流
『坑夫』における安さんとの交流は、絶望と恐怖に支配されていた主人公が、教養と深い思いやりを持つ人物との出会いを通して、自滅の願望から生への執着へと転換する重要な契機として描かれている。この安さんとの交流については、以下のポイントで考察できる。
暗闇の坑内における奇蹟的な出会い
初さんに置き去りにされ、迷路のような坑内を彷徨っていた主人公は、小さな作事場で一人の坑夫に出会う。
- その男である安さんは逞しい体格でありながら、上品な言葉遣いや理知的な態度を備えていた。
- 一万人の坑夫たちを理非人情を解さない畜生と思い込んでいた主人公にとって、この教養ある安さんとの遭遇は夏の土用に雪が降った以上の奇蹟のように思われたのである。
安さんの過去の告白と親身な忠告
安さんは、自らが中等以上の教育を受けながらも、過去に女性との間で罪を犯して社会に容れられなくなり、六年間も坑内に身を隠していることを語る。
- 自らを堕落の底に死んで活きてると称する安さんは、主人公が教育を受けた若者であることを見抜き、この場所は人間を堕落させる墓所であると警告する。
- そして、日本のためになる仕事に就くべきだと東京へ帰ることを強く諭し、旅費の援助まで申し出るのである。
旅費の辞退と人格の共鳴
主人公は安さんの忠告に深く感動し、無言のまま涙を流すが、旅費の援助はきっぱりと辞退する。
- それは単に金が不要だったからではなく、安さんの尊敬すべき立派な人格に触れ、不当に好意に甘えることが自らの人格を損ない、乞食と同等になってしまうと感じたからである。
- 安さんもすぐにその意図を察して謝罪し、二人の間には言葉を超えた深い精神的な共鳴が生まれるのである。
生への意志と再生への決意
その夜、主人公は再び安さんの長屋を訪ねる。
- 長崎で高等官をしている兄の話などを聞き、安さんの抱える苦悩に触れた主人公は、安さんを追い詰めた社会への疑問を抱きつつも、彼に強い同情を寄せる。
- そして、絶望的な境遇にありながらも誠実さを失わず生きて働いている安さんの姿に心を打たれる。
- 主人公自身も安さんが生きてる以上は自分も死んではならない、死ぬのは弱いと悟り、死への願望を断ち切って現実を生き抜く決意を固めるに至るのである。
まとめ
総じて『坑夫』における安さんとの交流は、他者への不信や虚栄心に囚われていた未熟な青年が、底辺の環境で思いがけず気高い人格に触れることで自己を見つめ直し、社会へ帰還するための精神的な再生を果たす決定的なプロセスとして重厚に描かれているのである。
帳付としての生活
『坑夫』における主人公の帳付としての生活は、自滅を企てて出奔した未熟な青年が、坑夫としての過酷な肉体労働には挫折しながらも、底辺の社会で明確な役割を獲得し、現実の生を生き抜いていく着地点として描かれている。この点については、以下のポイントで考察できる。
生への執着と帳付という役割の獲得
- 病院の健康診断で気管支炎と診断され、坑夫になる道を絶たれてしまった主人公であるが、もはや以前のように自暴自棄になることはなく、小使でも、掃除番でもいいですから、何でもしますからと親方に必死に懇願する。
- その結果、与えられたのが帳付の仕事であった。
- これは、無筆の多い坑夫たちが草鞋や豆、ヒジキなどの日用品を買った記録をつける事務作業であり、月給四円という待遇ながらも、主人公が銅山で命をつなぐための大切な居場所となったのである。
坑夫たちの態度の急変
- 主人公が台所の片隅に陣取って帳付として働き始めると、周囲の態度は一変する。
- それまで彼を南京米の味も知らねえ書生っ坊と激しく軽蔑し、寄って集って嘲笑していた坑夫たちが、がらりと態度を変え、向こうからお世辞を言うようになる。
- 労働を通じて飯場という社会の中で明確な役割を担い、坑夫たちの生活の勘定に直接関わる立場となったことで、主人公は彼らとの関係性を劇的に逆転させ、再構築することになるのである。
堕落の稽古としての環境への順応
- 坑内での死と隣り合わせの労働こそ免れたが、飯場での生活そのものが過酷であることに変わりはなかった。
- しかし主人公は、壁土のように不味い南京米を食べ、夜は大量の南京虫に食われるという過酷な日常を、自ら堕落の稽古と称して受け入れていく。
- 月給の中から、山へ連れてこられる子供たちに菓子を買ってやるなどの余裕も生まれ、初めは恐怖と絶望しかなかった底辺の環境に完全に順応していくのである。
労働の全うと現実社会への帰還
- 主人公はこの帳付の仕事を五箇月間にわたって無事に勤め上げる。
- しかし、永遠にその場に留まるわけではなく、やがて東京へ帰る決心を固めると、子供に菓子をやることも断然やめにしてしまう。
- 当初は生きて葬られることを望んでいた青年が、底辺の労働を通じて生への執着を取り戻し、最終的に自らの足で東京の現実社会へと帰還を果たして物語は幕を閉じるのである。
まとめ
総じて帳付としての生活は、特権的な自意識や虚栄心を持っていた坊っちゃんが、底辺の環境で与えられた役割を淡々とこなし、他者との関係性を変化させながら精神的な成熟を遂げていく、自己再生の最終プロセスとして描かれているのである。
登場キャラクター
主人公・関係者
自分
物語の語り手であり、中以上の家庭で育った十九歳の青年である。二人の少女をめぐる人間関係に悩み、自滅を企てて家を出奔する。坑夫の仕事に就こうとするが、最終的に飯場の帳付となる。
・所属組織、地位や役職
東京の学生(出奔前)。後に銅山の飯場の帳付。
・物語内での具体的な行動や成果
東京から夜通し歩き、茶店で長蔵に誘われて銅山へ向かう。坑内で安さんから忠告を受け、生きる決意を固める。気管支炎と診断されて坑夫にはなれなかったが、帳付として五箇月間働く。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
当初は死を望んでいたが、労働を通じて生への執着を取り戻し、最終的に東京へ帰還する。
第一の少女
主人公が人間関係で悩む原因となった少女の一人である。主人公に対して丸くなったり四角になったりする態度をとり、彼を翻弄する。
・所属組織、地位や役職
主人公の知人。
・物語内での具体的な行動や成果
主人公に対して態度を変え続け、彼を追い詰める。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
彼女の存在が主人公の出奔の引き金となる。
第二の少女
主人公が済まない約束をもって生まれたとされるもう一人の少女である。主人公の心が第一の少女によって揺れ動くのを恨めしそうに見ている。
・所属組織、地位や役職
主人公の知人。
・物語内での具体的な行動や成果
主人公と第一の少女の関係を見つめ、彼に負い目を感じさせる。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
艶子さん
主人公が家を思い出す際に言及される女性である。
・所属組織、地位や役職
主人公の家族か関係者。
・物語内での具体的な行動や成果
主人公が坑内で自分の惨めな姿を見せたら泣いてくれるだろうと想像する対象となる。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
澄江さん
主人公が家を思い出す際に言及される女性である。色が白く、よく寝る性格とされる。
・所属組織、地位や役職
主人公の家族か関係者。
・物語内での具体的な行動や成果
主人公が自分の姿を見せたら泣くかもしれないと想像する対象となる。主人公のいない家で平生通り食事をして寝ているだろうと推測される。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
道中の人物
長蔵
坑夫を斡旋する周旋屋である。厚い唇と角張った顎を持つ。誰に対しても同じ言葉と態度で坑夫になるよう勧誘する。
・所属組織、地位や役職
周旋屋。ポン引き。
・物語内での具体的な行動や成果
松原の茶店で主人公に声をかけ、銅山へ連れて行く。途中で赤毛布の若者や小僧も勧誘し、一緒に連れて行く。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
銅山の飯場に到着すると、主人公を原駒吉に預けてすぐに立ち去る。
茶店の神さん
松原にある掛茶屋の女将である。口がゆがんでおり、長蔵と親しく話をする。
・所属組織、地位や役職
茶店の女将。
・物語内での具体的な行動や成果
主人公にハエのたかった揚饅頭を勧める。主人公が坑夫になることを長蔵と同意見で勧誘する。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
腐爛目の男
汽車の中で主人公の隣に座った男である。腫物だらけで腐爛目を持ち、痘痕がある。
・所属組織、地位や役職
長蔵の知り合い。山へ行く労働者。
・物語内での具体的な行動や成果
長蔵と山行きの話をする。窓の外へ唾を吐き、それが主人公の顔に飛ぶ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
主人公に嫌悪感を抱かせて席を移動させる。
赤毛布
主人公が道中で出会う若い男である。赤い毛布を身にまとい、茨城の田舎出身とされる。
・所属組織、地位や役職
坑夫志願者。
・物語内での具体的な行動や成果
一膳めし屋から飛び出し、長蔵の勧誘にすぐ応じて同行する。いびきをかいて熟睡し、翌朝は長蔵に揺り起こされる。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
銅山に到着後、主人公とは別の飯場へ連れて行かれる。
小僧
十三四歳くらいの野生的な少年である。冷飯草履を履き、無口で度胸が据わっている。
・所属組織、地位や役職
宿無しの少年。坑夫志願者。
・物語内での具体的な行動や成果
夕暮れの山から一人で下りてきて、長蔵から与えられた芋を無言で平らげる。長蔵の誘いに即決で同行し、暗い山道も平然と歩く。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
銅山に到着後、主人公とは別の飯場へ連れて行かれる。
熊さん
長蔵たちが夜を明かした山中の一軒家の主人である。額が長く脳天まで引っ込んでいる。
・所属組織、地位や役職
草鞋などを売る家の主人。
・物語内での具体的な行動や成果
長蔵に茶と煙草盆を出し、馬や借金の話をする。翌朝は布団の中から長蔵を見送る。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
銅山関係者
原駒吉
銅山の飯場頭である。大きな五分刈りで、額が抜き上がっている。篤実で親切な性格を見せる。
・所属組織、地位や役職
銅山の飯場頭。
・物語内での具体的な行動や成果
主人公が坑夫には不向きだと判断し、帰るよう親身に説得する。主人公の熱意に折れてシキへ入ることを許可し、後に帳付の仕事を与える。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
飯場頭の娘
原駒吉の娘である。年齢は十五六歳とされる。
・所属組織、地位や役職
飯場頭の家族。
・物語内での具体的な行動や成果
主人公が訪ねてきた際、障子を開けて父親を呼び出す。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
飯場の婆さん
飯場で働く小柄な老婆である。活発に動き回る。
・所属組織、地位や役職
飯場の使用人。
・物語内での具体的な行動や成果
主人公を二階の広間へ案内する。食事の世話をし、寝るための布団の場所を教える。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
初さん
主人公をシキへ案内する坑夫である。腕っぷしが強そうで、言葉遣いは乱暴だが、時に親切な一面も見せる。
・所属組織、地位や役職
坑夫。案内人。
・物語内での具体的な行動や成果
主人公に坑夫の装備を着せ、坑内の各所を案内する。垂直の梯子を下りる際などに主人公を急かすが、途中で一人置いて帰ってしまう。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
安さん
高等教育を受けた過去を持つ坑夫である。理知的で上品な言葉遣いをする。
・所属組織、地位や役職
山中組の坑夫。
・物語内での具体的な行動や成果
作事場で迷っていた主人公を助ける。過去の罪のために社会を逃れて六年坑内で働いていると語り、主人公に東京へ帰るよう強く諭す。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
主人公が生きる決意を固める決定的な契機となる。
金州
飯場の二階で寝たきりになっている重病の坑夫である。金公とも呼ばれる。
・所属組織、地位や役職
坑夫。
・物語内での具体的な行動や成果
布団にくるまって寝ているところを、他の坑夫たちに無理やり引きずり起こされ、ジャンボーの行列を見せられる。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
借金のために鼻を抵当に取られたと噂されている。
市
借金に関係して金州と入れ代わったとされる人物である。
・所属組織、地位や役職
坑夫か関係者。
・物語内での具体的な行動や成果
本文中に直接の登場はなく、坑夫たちの会話の中で言及される。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
赤んべんの坑夫
片目が生まれつきの赤んべんで、結膜が充血している坑夫である。
・所属組織、地位や役職
飯場の坑夫。
・物語内での具体的な行動や成果
主人公に出身地を尋ね、愚弄の笑いを漏らしながら隣の坑夫に合図を送る。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
願人坊主の坑夫
赤んべんの坑夫の隣に座っている坑夫である。
・所属組織、地位や役職
飯場の坑夫。
・物語内での具体的な行動や成果
赤んべんの合図を受け、主人公を書生っ坊と呼び、辛抱できないから早く帰れと悪態をつく。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
病院の受附
病院の窓口にいる若い男である。横柄な態度をとる。
・所属組織、地位や役職
銅山の病院の受付。
・物語内での具体的な行動や成果
主人公が提出した姓名の紙片を受け取り、横風な態度で少し待つように指示する。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
医者
黒のモーニングに縞のズボンを穿いた医師である。坑夫と同じような類型の顔つきをしている。
・所属組織、地位や役職
銅山の病院の医師。
・物語内での具体的な行動や成果
主人公の胸や背中を聴診器で診て、鼻をつまんで息の検査をする。気管支炎と診断して証明書を渡す。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
展開まとめ
松原を歩き続ける不安
男は東京を昨夜九時頃に立ち、夜通し北へ歩いて来たため、疲労と眠気に襲われていた。途中で暗闇の神楽堂に上がって少し眠ったが、寒さで目を覚まし、再び松原を歩き続けた。行けども松ばかりが続くため、男は足の重さと前途の見えなさに苦しんでいた。
茶店の男に見られて立ち去る
男は掛茶屋を見つけ、休もうか迷ったが、そこにいた袢天ともどてらともつかぬ男にじろじろと全身を見られた。その視線は素早く、顔から懐、股倉、下駄までを舐めるように動いたため、男は気味悪くなって茶店を通り過ぎた。男は不快感を覚えたが、歩き出すとすぐにその怒りは消え、再び足の重さと行き場のなさを感じた。
暗い場所を求める心境
男は東京へ戻る気もなく、田舎に落ち着く気もなかった。歩く目的もはっきりせず、ただ歩かなければ生きていられないような苦痛に追われていた。明るくも暗くもならない曇った世界の中を進む感覚に苦しみ、いっそ暗い方へ進めば自分の姿も見えなくなり、楽になれるのではないかと考えた。
死を遠い目的とする慰め
男は、いっその事という考えを抱いても以前のように動揺しなかった。華厳の瀑や浅間の噴火口はまだ遠く、すぐ実行するものではないという安心がどこかにあったためである。男は、死を遠くに置いた目的とすることで、目の前の苦痛を少しだけ慰めていた。
茶店の男に呼び戻される
男が暗い方へ向かうように歩いていると、後ろから声を掛けられた。振り向くと、先ほどの茶店の男が笑顔で手招きしていた。男は昨夜東京を出てから人と口を利いておらず、呼び掛けられる資格もないと思っていたため、その笑顔に引かれるように茶店へ戻った。
働く誘いを受け入れる
茶店の男は、男に働く気はないかと尋ねた。男は暗い場所へ行くつもりだったが、人間の方へ引き戻されたことで娑婆気が戻り、食うには働かなければならないと考えた。そのため、働いてもいいと答えた。茶店の男は大変儲かる仕事だと念を押し、男は具体的な内容を聞かされないまま、やる気だと答えた。
茶店に入り饅頭を食べる
男は茶店に入り、どてらの隣に座った。口の歪んだ神さんが妙な臭いの茶を出すと、男は腹が減っていることに気づいた。店先の揚饅頭には蠅が群がっていたが、神さんが木皿に七つほど取って出したため、男はどてらにも勧めた。どてらはためらわずに食べ、男も比較的きれいなものを選んで口にした。饅頭は油と苦い餡の味がしたが、男は飲み込み、どてらは五つを瞬く間に平らげた。
饅頭を食べ続ける男
男は一度食べ始めると汚らしさが気にならなくなり、空腹も手伝って饅頭を次々と食べた。どてらの男も平然と食べ続けるため、男は競争するような気分になり、神さんに頼んで何度もお代わりをした。互いに黙々と食べ進めた結果、男は予想以上の量を平らげた。
儲け話への違和感
どてらの男は男の食欲を面白がりながら、再び儲かる仕事の話を持ち出した。男は働く必要は認めていたが、儲けること自体には関心がなく、神聖な労働なら何でもすると答えた。しかし、どてらの男にはその考えが理解できず、男を不思議そうに笑った。
働いた経験のない身の上
どてらの男に働いたことがあるかと尋ねられた男は、これまで稼いで生活した経験がなく、これから働かなければならない身分だと答えた。神さんもどてらの男も、働く以上は儲けるべきだと繰り返したが、男は反論する気力もなく、ただ静かに聞いていた。
銅山での仕事の提案
やがてどてらの男は、自分が世話をすれば銅山の坑夫になれると説明した。男は坑夫を過酷で下等な労働だと思っていたため驚いたが、どてらの男と神さんは坑夫になれば金が貯まり、将来も開けると盛んに勧めた。
抵抗心を失った男
本来の男なら様々な理屈を並べて反論したはずだったが、この時は過去一年間の苦悩や衝突によって心が疲れ切っており、相手に逆らう気持ちがまったく湧かなかった。働くことさえできれば十分だと考え、仕事の内容や待遇について深くこだわらなくなっていた。
坑夫という仕事への親近感
男は坑夫という言葉に不思議な魅力を感じた。死を考えて家を飛び出し、その後は人のいない場所を求めていた男にとって、地下の暗い坑内で働く坑夫の生活は、自分の求める陰気で孤独な環境に近く思えたのである。そのため男は坑夫にしてもらえるかと尋ねた。
長蔵との約束
どてらの男は、自分が周旋すれば坑夫になれると請け合った。神さんもそれに同意し、男は初めてどてらの男の名が長蔵であることを知った。男は詳しい事情も分からぬまま、長蔵に頼ることに決めた。
茶店を出発する
長蔵はすぐ出発しようと言い、男に忘れ物がないか確認した。男は着の身着のままで家を出ていたため持ち物はなく、饅頭代と茶代を支払って茶店を後にした。神さんは坑夫になって金を貯めたらまた立ち寄るよう声を掛けた。
町へ向かう道中
長蔵に従って歩き出した男は、馬車に乗るかどうか尋ねられても無関心な返事を繰り返した。やがて松原を抜け、人通りの多い繁華な町へ入った。そこは東京と変わらぬ賑わいを見せており、男は地名を知らなかったため長蔵に尋ねた。
家を飛び出した理由の回想
町を歩きながら、男は自らが家を飛び出した経緯を思い返した。ある少女への感情と、別の少女への負い目との間で苦しみ続けた結果、親や親類とも対立し、自分の心をまとめることができなくなっていた。最終的に、自分以外の誰かを変えようとするのではなく、自分自身がその場を去るしかないと悟り、生家を飛び出したのであった。
逃亡と自滅への決意
男は複雑な人間関係から自分だけを消し去ろうと決意していた。しかし自殺は何度試みても恐怖に負けて実行できず、自滅の道を選ぶことにした。そのためには生家を離れる必要があると考え、まず逃亡することを決めた。逃亡後も苦しみが続くなら、その時に改めて自滅や自殺を考えればよいと覚悟していた。
過去を隠したい思い
男は出奔した以上、過去の身分や家族のことを誰にも語りたくなかった。長蔵に身元を尋ねられなかったことを不思議に思いながらも、内心では安堵していた。もし詳しく聞かれていたなら、正直に答えるべきか迷い、困り果てていただろうと感じていた。
停車場への到着
長蔵に連れられて町を進んだ男は、やがて停車場へ到着した。そこで初めて、坑夫になるためには汽車で移動しなければならないことを知った。男は長蔵がどこまで同行するのか疑問に思い、その親切さに不自然さを感じて詐欺師ではないかと疑い始めた。
疑念と再び揺れる心
停車場の入口で男は引き返そうかと迷ったが、その時長蔵に呼び止められた。長蔵は汽車に乗る前に用を足すよう勧め、二人は並んで小便をした。その間に男は、自分には財産も名誉もなく騙し取られるものがないことを思い出し、長蔵への疑念を弱めた。
同行を断ろうとする男
待合所へ入った男は、これ以上世話になるのは申し訳ないとして、一人で行くと長蔵に告げた。しかし長蔵は、そんなに簡単に坑夫になれるものではないと説明し、自分が最後まで同行すると言った。男は礼を述べ、長蔵の厚意を受け入れた。
汽車賃の問題
切符売場が開き、長蔵から汽車賃を持っているか尋ねられた男は初めてその問題に気づいた。饅頭代や茶代を支払ったため手持ちはほとんど残っておらず、返答に窮した末、少しだけあると答えた。長蔵は不足分は自分が補うと言い、財布ごと預かった。
財布を託す
男は高価な鰐皮の財布を長蔵に渡した。長蔵は中身を確かめることもなく受け取り、切符を買いに向かった。男は少ない所持金を知られることを気にしていたが、長蔵は何も言わずに戻り、切符を一枚渡しただけであった。その後、財布についても話題にせず、結果として財布は長蔵の手元に残った。
汽車の中での違和感
汽車に乗ると、男は腫物や痘痕だらけの男の隣を嫌って席を移した。人生を捨てる覚悟で家を飛び出しながらも、そうした生理的嫌悪感は失われていない自分に気づいていた。一方、長蔵は平然とその男と話し始め、その神経の強さに男は驚かされた。
儲け話への不快感
長蔵と痘痕の男は、山へ人を連れて行けば儲かるという話を交わしていた。男はその会話を聞くと不快になり、窓の外へ顔を向けて唾を吐いた。自分が話題にされていることを感じながらも、深く考えようとはしなかった。
睡眠による現実逃避
男はやがて眠気に襲われた。時間の経過を忘れられる睡眠は、煩悶から逃れるための救いのように感じられた。眠っている間だけは苦しみを忘れられるため、そのまま意識を手放した。
目覚めと記憶の奔流
汽車が停車した衝撃で目を覚ました男は、自分が汽車に乗り、坑夫になろうとしていること、生家を飛び出したこと、長蔵と出会ったことなどを一瞬のうちに思い出した。過去から現在までの出来事が激しく頭の中へ押し寄せ、その鮮烈さに自ら驚いていた。
現実への引き戻しと疎外感
男は目覚めた瞬間、自分の立場や境遇を一気に思い出し、言葉では表しきれない嫌悪感に襲われた。周囲の乗客たちが降車の準備で活気づく中、自分だけはその流れに加われず、同じ空間にいながら魂だけが別世界から迷い込んだ幽霊のように感じていた。世間が上向きに動き出すほど、自分は沈み込んでいくような孤立感を覚えていた。
長蔵に促されて下車する
長蔵にここで降りるのだと声を掛けられた男は、ようやく現実へ引き戻されて立ち上がった。心は重く沈んでいたが、身体はまだ動き、長蔵の後について改札を出た。
宿場町で味わった不思議な感覚
停車場を出た男は、広く真っ直ぐに伸びる宿場町の往還を見渡した。その光景はあまりにも明瞭で整然としており、現実でありながら夢のようにも感じられた。魂がまだ現実に馴染み切っていなかったため、目の前の景色を事実としてではなく、この世のものとは思えない幻影のように受け取っていた。
北へ続く山並みへの視線
男は西へ傾く太陽と北方に連なる青い山々を見比べながら、自分たちがさらに北へ向かっていることを理解した。奥深く続く山々は果てしなく広がって見え、その景色は男の目を引きつけ続けていた。
空腹と夕暮れの町
町を歩くうちに、男は再び空腹を覚えた。深い煩悶を抱えていても腹は減るものだと感じながら、飲食店の看板や暖簾に自然と目を向けていた。長蔵も周囲を見回していたため、男はそのうち食事に連れて行かれるだろうと期待しながら歩き続けた。
赤毛布の若者との遭遇
宿場町の外れ近くで、長蔵は酒めしと書かれた店の前に立ち止まった。その視線の先には赤毛布をまとった若い男がいた。長蔵は近づくと、男に対しても働く気はないかねと声を掛けた。
長蔵の仕事を悟る
その様子を見た男は、長蔵が自分だけを特別に見込んでいたのではなく、若い労働力になりそうな者を見つけては同じ言葉で勧誘する仕事をしているのだと理解した。長蔵は誰に対しても同じ態度で働き口を斡旋していたのである。
赤毛布への自己投影
男は赤毛布の若者が自分と同じように勧誘されている姿を見て、自分自身を見ているような気持ちになった。赤毛布と自分は同じ存在であり、長蔵にとっては同じような扱いを受ける対象に過ぎないのだと感じた。そのことが男にはひどく情けなく思われた。
虚栄心への気付き
長蔵が自分を特別扱いせず、赤毛布と全く同じように接していることに対し、男は不満を覚えた。そして、自分が坑夫になろうとしている身でありながら、なお他人より優遇されたいという虚栄心を捨て切れていないことにも気付いていた。
新たな同行者の加入
やがて赤毛布の若者は長蔵の勧誘を受け入れ、男と同じく銅山へ向かうことになった。男はその若者を自分と同じように世間知らずで気の毒な人間だと感じたが、不思議なことに、先ほどまで抱いていた情けなさや不快感はいつの間にか消えていた。
移ろいやすい心への考察
男は、自分の心が現れたり消えたりして定まらないことを改めて感じていた。人は心を一定のものと思い込みがちだが、実際には絶えず変化し続けるものであり、その正体を捉えることは難しいと考えていた。そうした思索を巡らせながら、男は長蔵と赤毛布の若者とともに銅山への道を進んでいった。
赤毛布への親近感
男は赤毛布の若者と並んで歩き始めると、先ほどまで抱いていた不快な気持ちが消えていることに気付いた。若者の話し方や身なりに好感を抱いたわけではなかったが、自分と同じように銅山へ向かう同行者ができたことを心強く感じていた。一人で零落するよりも、誰かと共に進む方が慰めになり、その存在だけで嬉しかったのである。
空腹と芋屋での休息
再び空腹を覚えた男は、思い切って長蔵に腹が減ったと打ち明けた。すると長蔵は近くの芋屋に入り、焼き芋を買ってきて与えた。芋は見た目こそ粗末だったが、男は強い食欲を抱いていたためありがたく受け取った。長蔵が両手いっぱいに抱えた芋を差し出した際には戸惑ったが、ようやく受け取って食べ始めた。
赤毛布の若者とのやり取り
長蔵の手から落ちた芋を赤毛布の若者が拾い、自分のものにすると言ったことで、男はその独特な発音に気付いた。三人は芋を食べながら宿場町の外れへと進み、橋へ差しかかった。
山里の夕景と不安
橋の下では勢いよく流れる川が大きな音を立てていた。夕日が沈み、山々が青黒く染まる光景を見た男は、山が自分たちの上へ覆いかぶさってくるような圧迫感を覚えた。寒さと寂しさも増し、赤毛布の若者がまとっている毛布を羨ましく感じていた。
小僧との出会い
橋の向こうから、一人の小僧が現れた。小僧は物怖じする様子もなく近づいてきたため、男は驚いた。長蔵が声を掛けると、小僧はぶっきらぼうに応じた。長蔵は食べ残した芋を与えたが、小僧は礼も言わず、猛烈な勢いで平らげた。その食べ方を見た男は、自分以上の空腹を感じているのだろうと思い、同情を覚えた。
小僧への不思議な印象
芋を食べ終えた小僧は、黙って山の頂を見つめていた。その姿を見た男は、哀れさと同時に得体の知れない不気味さも感じていた。夕暮れの山や周囲の景色と相まって、小僧には何か特別な因縁があるように思えたのである。
小僧の勧誘
長蔵は小僧に行き先や帰る場所を尋ねたが、小僧はどこへも行かないし帰らないと答えた。そこで長蔵は一緒に来れば金を儲けさせてやると誘った。すると小僧は何のためらいもなく承知した。男はその即決ぶりに驚きながらも、世の中には自分と同じように流されるまま生きる者が少なくないことを知った。
同行者の増加と心境の変化
赤毛布の若者と小僧が加わったことで、男は次第に心細さを感じなくなっていた。これまで自分の出奔を人生最大の出来事のように考えていたが、二人の平然とした態度を目の当たりにするうちに、その大仰な意識は薄れていった。自分よりも彼らの方がよほど逞しく見えたのである。
山道への出発
四人は橋を渡り、川沿いの山道へ入った。長蔵から登り道になるので気を付けるよう言われ、男はその後をついて歩き始めた。やがて全員が無口になり、周囲には川の音だけが響くようになった。
険しい登りと神妙な心境
道は次第に急な登りとなり、岩が突き出した険しい山道へ変わっていった。長蔵と赤毛布の若者は慣れた様子で進み、小僧も暗闇の中を平然と歩いていた。男だけが息を切らし、耳鳴りに苦しみながら後を追った。それでも自ら選んだ道である以上、不平を言うこともできず、黙って歩き続けた。そしてこの時、男は初めて神妙という言葉の意味を身をもって理解したのであった。
神妙な心境への考察
男は山道を歩きながら、自分が神妙な心境に達していることを振り返った。そして人間の心は状況によって変化するものであり、昔の神妙さも今の横着さも自然な姿であると考えた。人は変わらない存在ではなく、環境や経験によって絶えず変化するものだという認識に至っていた。
苦しい山道の行軍
男は疲労で足が棒のようになり、耳鳴りや息苦しさに耐えながら山道を進んだ。長蔵は一定の距離が開くと立ち止まり、男が追いつくのを待っていた。その熟練した振る舞いに男は感心した。赤毛布の若者は長蔵の後ろを機械のようについて行き、小僧はいつの間にか姿を消していた。
小僧への不気味な印象
小僧は冷飯草履を鳴らしながら暗い山道を軽快に進み、その無口さと身軽さが男には不気味に映っていた。男は小僧を蝙蝠のようだと感じ、もし二人きりで山道を歩くことになっていたら恐ろしかっただろうと思っていた。
小僧の失踪騒ぎ
やがて長蔵が大声で小僧を呼んだ。男はその声を聞いた瞬間、小僧が先へ行ったのではなく隠れたのだと感じた。返事はなく、三人は暗闇の中で立ち尽くした。長蔵は少し急げば追いつくだろうと言い、三人は歩みを速めた。
山中の一軒家への到着
しばらく進むと一軒家にたどり着いた。ランプの灯が見え、男は大きな安堵を覚えた。そこには小僧もおり、後になって男は、小僧がわざと返事をせず先回りして待っていたことを知った。
宿代わりの小屋
長蔵は家の中へ入り、しばらくして戻ると、今夜はここへ泊まろうと告げた。男はその言葉を聞いた途端、張り詰めていた緊張が解けた。これまで泊まることすら考えていなかったため、その提案が大きな救いとなったのである。
人間の心の変化への考え
男は、自分がかつて長蔵の言うことに従順だったことを振り返りながら、人間の性格は絶えず変化するものだと考えた。今の自分なら百人の長蔵に引っ張られても動かないだろうが、それもまた自然な変化であり、人間の本質なのだと感じていた。
小屋への入室
男は真っ先に小屋へ入り、続いて赤毛布と小僧も中へ入った。中には独特の臭いが漂っていたが、小僧は気にせず上がり込んだ。長蔵も赤毛布も無頓着であり、男もそれに従った。畳は湿っており、小僧はその上に転がった。
長蔵と主人の会話
やがて主人が茶と煙草盆を持って現れた。長蔵と主人は旧知の仲らしく、馬に関する話を続けた。男たちのことには特に触れず、気軽に会話を交わしていた。
居眠りと目覚め
男は会話を聞きながら居眠りを始めた。何度か目を覚ましたが、そのたびに長蔵と主人の馬の話が続いていた。暗いランプの光の中で主人の特徴的な頭や部屋の様子が目に入り、小僧や赤毛布が眠っている姿も見えた。やがて再び強い眠気に襲われ、男は眠りへ落ちていった。
夜明けと心境の断絶
男は居眠りを繰り返した末に深く眠り込み、夜明けに目を覚ました。昨夜の出来事は覚えていたものの、夜と朝の間に厚い隔たりが生じたように感じられ、自分の経験や感情が遠いものになったように思えた。そして、人の心は状況によって容易に変わるものだと改めて考えていた。
出発準備と赤毛布の寝坊
長蔵と小僧は目を覚まし、男も起き上がったが、赤毛布だけは毛布にくるまったまま熟睡していた。長蔵は何度も声をかけ、肩を揺すってようやく起こした。その後、一行は顔も洗わず朝食も取らないまま出発の支度を始めた。
朝食を取らない仲間たちへの驚き
男は朝食を取らないことに戸惑ったが、長蔵に飯は食わなくてもよいだろうと問われ、好いですと答えた。赤毛布や小僧には同じ質問がなされず、二人とも朝食を当然のように求めていなかった。男は、自分がこれまで知らなかった種類の人間たちと行動を共にしていることを実感した。
熊との別れ
出発前、長蔵は宿の主人である熊に世話になった礼を述べた。熊は布団の中から顔を出し、何も構わなかったと応じ、帰りにも寄るよう声をかけた。一行はそのまま山道へ出発した。
深い山々への道
四人は銅山を目指して山道を登った。周囲には幾重にも山が重なり、都から遠く離れた場所へ来てしまったことを男は実感した。帰ることの困難さと、自ら望んでここまで来た運命の両方を思いながら歩き続けた。
雲に包まれた行軍
やがて山には雲が立ち込め、一行は雲の中を進むことになった。長蔵は雨になると独り言を漏らしたが、誰も返事をしなかった。男は雲に包まれることで世間の目から隠されるような安心感を覚え、自分の存在までも雲の中へ溶け込んでいくように感じていた。
四人だけの世界
雲の中では長蔵や赤毛布、小僧の姿が見え隠れした。四人は互いに離れたり近づいたりしながらも、誰一人口を利かず、ただ急いで歩き続けた。男には、自分たち四人だけが世界に残された存在であるかのように思われ、その光景は深く記憶に刻まれた。
赤い山と銅山の予感
雨が降り始める頃、男は木々の少ない赤い山肌を目にした。その色を見た瞬間、銅を連想し、目的地が近いことを直感した。すると長蔵も、やっと着いたと告げた。
銅山の町への到着
しばらくして一行は町へ出た。そこには新しい銀行や郵便局、料理屋などが並び、山中の景色とはまったく異なる光景が広がっていた。男は現実世界へ引き戻されたような気持ちになった。
銅山入口での確認
橋の上で長蔵は、これが入口であり、いよいよ着いたのだからそのつもりでいなければならないと男に告げた。男は意味を理解できなかったが、好いですと答えた。長蔵は男にだけ繰り返し確認し、赤毛布や小僧には何も尋ねなかった。
シキへの道
橋を渡ると、長蔵は立派な建物を所長の家だと説明し、さらにシキと呼ばれる場所を指し示した。男は意味を理解しないまま後について進んだ。
坑夫たちの住居と異様な顔色
鉄軌沿いを登ると坑夫たちの住む家々が現れた。さらに進むと長屋が立ち並び、その窓や戸口から多くの人々が顔を出していた。男は彼らの青黒く茶色がかった異様な顔色に驚き、シキとは恐ろしい場所だと感じた。
飯場への到着
午後一時頃、一行は飯場へ到着した。長蔵は男をその飯場へ預けると、赤毛布と小僧を連れて別の飯場へ去ってしまった。男はその後二人の消息を知ることがなかった。
赤毛布と小僧への回想
男は後年になって、赤毛布や小僧との短い同行を振り返った。一夜半と半日の間だけ共に過ごし、その後何事もなかったように別れてしまった出来事は、まとまりのある物語にはならないが、だからこそ不思議な趣を持つ記憶として残った。
坑夫志願の談判
飯場に着くと長蔵は飯場頭に対し、この男は坑夫になりたいので使ってほしいと簡単に頼んだ。姓名や身元、経歴などは一切問われず、男が想像していたような手続きもなかった。男はそのあまりの簡単さに驚いた。
飯場頭との対面
飯場頭の原駒吉は、長蔵の話を聞くと、それでは置いておけとあっさり承諾した。男はその無造作な態度に不満を抱いたが、実際には飯場頭が一つの飯場を預かり、坑夫たちの運命を左右する大きな権限を持つ存在であった。
長蔵との別れ
長蔵は原に後を頼むと、赤毛布と小僧を連れて去っていった。その後二度と姿を見せなかったため、男は完全に置き去りにされたことを悟った。炭俵のように扱われた気がして落胆していたが、その直後、原が丁寧な口調で語りかけたことで心境が変わった。
原の親身な忠告
原は、男が生まれながらの労働者には見えないと指摘し、どうしてこんな場所へ来たのかと尋ねた。そして坑夫の仕事は普通の人間には務まらず、教育を受けた者にはなおさら難しいとして、帰るよう勧めた。
男は、自分は金儲けのためではなく、事情を承知の上で来たのだと反論した。若さゆえの虚栄心から強い口調になったが、原はそれを咎めず、真剣に耳を傾けた。
坑夫生活の厳しさ
原は、これまでにも多くの書生が坑夫を志願して来たが、皆すぐに逃げ出してしまったと語った。そして坑夫の仕事は並大抵の者にできるものではないと重ねて説明し、帰ることを勧め続けた。
行き場のない現実
男は原に拒絶されるかもしれない状況に直面し、急に寒さと不安を覚えた。金も持たず、帰る手段もない自分の境遇を思い知らされた。そして長蔵を追いかけて助けを求めることまで考えたが、頼るべき相手は目の前の原しかいないことにも気づいた。
旅費の援助の申し出
原は気の毒に思い、帰る気があるなら相談に乗ろうと申し出た。さらに旅費の心配もいらないとまで言ってくれた。男はその好意に感謝したが、少額の旅費を得ても結局行き場はなくなると考え、その申し出を断った。
坑夫になる決意
男は援助を断る代わりに、自分を坑夫として使ってほしいと頼み込んだ。帰る家もなく、坑夫になれなければ乞食になるしかないと訴えながら説得を続けるうちに、自分でも驚くほど強い決意を抱くようになった。
もともと坑夫になるつもりで家を出たわけではなかったが、山を越えてここまで来た以上、坑夫になることが自分の運命であるかのように感じ始めていた。
原の承諾
男が熱心に頼み続けた結果、原はついに折れた。縁だからやってみるがよいと許し、その代わり苦しい仕事だと警告した。
男はようやく願いが叶ったものの、その直後に原の言葉の重みを感じ、不安も覚えた。
坑夫の階級制度
原は銅山の仕事について説明した。銅山には掘子、シチュウ、山市、坑夫の四種類の仕事があり、坑夫は請負制で高収入を得られる場合もあるが、掘子は下働きで低賃金であった。
男は坑夫になれなかった場合でも掘子になる意思を示した。原はその返事を聞き、翌日シキへ入るための案内人を付けると約束した。
飯場の現実を聞かされる
原は飯場では毎日のように逃亡者が出ることや、病気で死ぬ者が多いことを語った。葬式も頻繁に行われる厳しい世界であると説明したが、男は原の期待に応えようと心に決めた。
飯場の老婆の案内
その後、老婆が現れて男を奥へ案内した。小柄ながら活発な足取りで歩く老婆の姿を見て、男は自分も飯場の生活に合わせて生きなければならないと決意した。
二階の坑夫たちとの遭遇
男が階段を上って二階へ出ると、広大な畳敷きの空間が広がっていた。そこには囲炉裏を囲んで二十人以上の坑夫たちが集まっていた。
その全員が一斉に男へ視線を向けた。男はその顔つきに圧倒された。それは普通の人間の顔ではなく、長年銅山で生きてきた坑夫たち特有の顔であり、その異様な迫力に強い恐怖と萎縮を覚えたのであった。
坑夫たちとの初対面
男が二階へ上がると、囲炉裏を囲む坑夫たちの顔が一斉にこちらを向いた。彼らの顔は肉が削げ落ち、骨ばった獰猛な相貌をしており、長屋で見かけた顔も同じであった。男はその迫力に圧倒されたが、婆さんに促されて囲炉裏の近くまで進み、一人離れた場所に腰を下ろした。
冷たい視線と嘲笑
坑夫たちは終始男を見つめ続け、誰一人として親しく声を掛けなかった。男が寒さを紛らわせるため落ち着かない仕草を繰り返していると、坑夫たちはおいと呼びかけたあと、やに澄ますねえと嘲った。
男が反論しなかったため、坑夫たちは面白がって笑い声を上げた。男は、自分が坑夫社会と普通の社会の狭間に立たされ、どちらにも受け入れられない存在になったように感じた。
出身を尋ねられる
やがて坑夫の一人が男に出身地を尋ねた。男が東京だと答えると、書生崩れだろう、女郎買いで失敗したのだろうなどと勝手な憶測を並べ、書生には坑夫は務まらないから帰れと嘲笑した。
男は黙って耐え続けたが、坑夫たちはその態度を見てさらに面白がった。
元書生の坑夫の忠告
その中で一人だけ、比較的整った顔立ちをした坑夫が真面目に話しかけた。彼は自分もかつて学校へ通っていたが、放蕩の末に銅山へ流れ着いたと語り、ここは儲かる場所ではなく、皆食い詰め者ばかりだと説明した。
そして、自分のようになる前に東京へ帰り、新聞配達でもして暮らした方がよいと忠告した。男はその言葉を真剣に聞いたが、帰る気にはならなかった。
坑夫社会での成功への野心
男は、その坑夫が周囲から一定の敬意を払われている様子を見て、教育を受けた経験がその力の源なのだと考えた。そして自分もこの社会に入り込み、努力を続ければ同じような立場になれるかもしれないと考え、ますます銅山に残る決意を固めた。
親分と兄弟分の掟
坑夫たちは、この世界には親分や兄弟分の関係があり、それを知らずに坑夫になろうとするのは料簡違いだと口々に語った。しかし説明らしい説明はせず、最後は帰れという言葉に終始した。
男は彼らが自分を仲間として受け入れようとしていないことを理解しながらも、黙って耐え続けた。
食事の到着
その緊張した空気の中、婆さんが食事を運んできた。男は前日からほとんど何も食べておらず、飯櫃を見るなり激しい空腹を覚えた。
すぐに飯をよそって食べようとしたが、箸で掴めず不思議に思った。周囲の坑夫たちはその様子を見て大笑いした。
南京米との遭遇
男は茶碗を直接口につけて飯を食べたが、その味は飯というより壁土のようであった。坑夫たちは祭日でもないのに銀米のつもりで食べている、南京米も知らないで坑夫になろうとは料簡違いだと嘲った。
男はどうにか一杯分を飲み込んだが、二杯目は食べる気になれず、糸蒟蒻だけを食べて箸を置いた。それでも嘲笑は止まらなかった。
ジャンボーの来訪
そこへ突然、金属を打ち鳴らす騒々しい音と唄声が近づいてきた。坑夫たちは一斉にジャンボーだと騒ぎ、窓際へ集まった。
男も興味を抱いて窓へ近づいた。石垣の角から紺の筒袖を着た男たちが現れ、金属板を打ち鳴らしながら進んでいた。
病人の金州
その最中、坑夫たちは部屋の隅で寝ていた金州という男を無理やり起こした。布団を剥がされて現れた金州は重病人であり、一人で立つこともできないほど衰弱していた。
二人の坑夫に支えられながら窓際まで引きずられていく金州の姿を見て、男は強い恐怖と哀れみを覚えた。周囲の坑夫たちはそんな彼を囃し立てながら、ジャンボーを見せようとしていたのであった。
ジャンボーの正体
男が窓から見下ろしていると、金盥を打ち鳴らす行列の中に白い布で包まれた早桶が現れた。男はその瞬間、ジャンボーが坑夫や掘子、山市などのために行われる葬式であることを悟った。
経を浪花節のように歌い、金盥を鳴らしながら棺を運ぶ様子に加え、病人の金州まで無理に起こして見物させる光景を目の当たりにし、男はその無邪気さと冷酷さを強く感じた。
金州の扱い
金州は見えたから寝かせてくれと頼んだが、坑夫たちは再び両脇を抱え、布団の場所まで連れ戻した。その直後、空から細かな雨が降り始め、ジャンボーの行列は雨の中を町へ向かって下っていった。
囲炉裏端で交わされる死後の話
窓を閉めた坑夫たちは囲炉裏の周囲へ戻り、ジャンボーの話を続けた。葬式の先には何があるのか、死後の世界にも飯や女がいるのかと語り合う様子は冗談のようであったが、彼らは真剣な顔で未来について論じていた。
男は、死と隣り合わせで生きる彼らが未来や死後を強く意識していることに驚き、人間には未来を保証する宗教が必要なのだと感じた。
金州への容赦ない言葉
その頃、金州は隅で苦しそうに唸っていた。坑夫たちは病気や鼻を抵当に取られたことを話題にし、自業自得だと評しながら笑い合った。
五両の借金のために鼻を抵当に入れたことや、市という人物と入れ替わったことを話しては笑い声を上げる坑夫たちを見て、男は囲炉裏端にいること自体が苦痛になった。
夕暮れと坑内作業者の帰還
外は次第に暗くなり、囲炉裏の炭が赤く輝き始めた頃、電灯が灯った。やがて坑夫たちは食事のために下へ降りて行き、男は金州と二人だけ広間に残された。
しばらくすると、泥だらけで濡れた作業着姿の男たちが次々と上がって来た。彼らは無言で着替え、自分を一瞥しただけで再び下へ降りて行った。中には新前だなと声を掛ける者もいたが、先ほどのような激しい嘲笑はなかった。
疲労と就寝
男が囲炉裏の火を見つめながら様々な思いに沈んでいると、婆さんが現れ、休むように勧めた。布団は一枚三銭で、寒いから二枚必要だと教えられた。
男は戸棚から薄汚れた布団を二枚取り出して横になった。疲労は極限に達しており、寒さや不快感を感じながらもすぐに眠りに落ちた。
南京虫との戦い
しかし眠りは長く続かなかった。全身を何度も刺されて目を覚ました男は、身体中に虫が這っていることに気づいた。
囲炉裏のそばで捕まえた虫を潰して調べると南京虫であった。男は次々と虫を捕まえて潰したが、下の階から聞こえる笑い声や静まり返った広間の様子に、ますます孤独と不快感を募らせた。
眠れぬ夜
再び寝ようとしても南京虫への恐怖が勝り、布団へ戻ることができなかった。下では坑夫たちの笑い声が続き、男は柱にもたれながら時間を過ごした。
立ったり滑り落ちたりを繰り返しながら夜明けを待ち続け、やがて極度の疲労によってその場で眠り込んだ。
雨の朝
目を覚ますと夜は明けていた。窓の外には再び雨が降っており、赤く禿げた山々が濡れながら周囲を取り囲んでいた。
男は銅山の荒涼とした朝の風景を見つめながら、新たな一日を迎えたのであった。
飯場での朝支度
男は雨に濡れた禿山を眺めながら、自分もこれから坑夫として働くのだと思い、人事ではない寂しさを感じた。やがて飯場の者たちが次々に出入りし始めたため、自分も下へ降りて行った。
婆さんに顔を洗う場所を尋ねると素っ気なく指示され、男は台所の近くで顔を洗った。その後、味噌汁を南京米にかけて急いで食事を済ませると、初という坑夫がシキへ連れて行くので早く来るよう告げられた。
坑夫の装備を身につける
男は初から坑夫用の筒袖と股引を渡され、それに着替えた。さらに尻当てのアテシコを腰に結びつけ、鑿と槌を腰へ差し、草鞋を履かされた。
続いて饅頭笠とカンテラも渡され、初の指導を受けながら装備を整えた。こうして男は坑夫として働くための格好になった。
シキへの道中
雨の降る中、男は初に連れられてシキへ向かった。坂道を急いで登るうちに全身が濡れたが、やがて坑道の入口へ到着した。
入口は大きな鉄道トンネルのような形をしており、内部には軌道が敷かれていた。初はここが地獄の入口だと嘲るように言ったが、男は電車も通っているのだから入れると答えた。
坑道への侵入
男は初の後に続いて坑道へ入った。内部は急に暗くなり、足元は泥だらけであった。初はシキの中で大人しくしていないと鉱石を落とす穴へ放り込まれると警告し、生きて出るつもりなら生意気な真似をするなと告げた。
さらに、すのことは鉱石をまとめて下へ落とす穴であり、そこへ投げ込まれたらどうなるか想像してみろと脅した。男はその言葉に少なからず恐怖を覚えた。
第一見張所への到着
坑道を進むうちに坂道を下り、やがて第一見張所へ到着した。そこには電灯の灯る小屋があり、役人たちが勤務していた。
坑夫たちは交替のために集まっていたが、男はまだ見習いにもなっていないため、そのまま初に連れられて先へ進んだ。役人は男に関心を示さなかったが、坑夫たちは無言で男を見つめていた。
狭くなる坑道
見張所を過ぎると坑道は急激に狭くなった。男は頭をぶつけないよう首を縮めながら進んだが、やがて初が突然四つん這いになった。
最初は転倒したのかと思ったものの、実際には坑道が狭くなり、這わなければ通れない場所に差しかかっていたのである。男も諦めて四つん這いになり、冷たい泥や岩へ手をつきながら進んだ。
カンテラへの不安
這い進む途中、天井から落ちる雫がカンテラへ当たり、そのたびに灯がじいと音を立てた。男は灯が消えるのではないかと不安になり、なかなか前へ進めなかった。
しかし初は、カンテラには種油が入っているので雫程度では消えないと笑い飛ばした。男はようやく安心し、再び初の後を追った。
地下深部への下降
二人はさらに奥へ進み、急な坂道を下っていった。男は息苦しさを覚えたが、当初は坑内の空気のせいだと思っていた。
やがて坑道はさらに狭くなり、初は仰向けになって足から先に通路へ滑り込んだ。男もそれに倣おうとしたが、足場が見えず、向こう側が急な坂になっていることを察した。
慎重に身体を動かしたものの、尻餅をつきながら少しずつ前へ進み、狭い坑道を通り抜けようとしたのであった。
初さんとの関係の変化
男は足場を確かめながら穴を抜け、ようやく初さんのいる場所まで降り立った。初さんは傘の化物のようだと男をからかい、男が真面目に返事をすると大声で笑った。この出来事を境に、初さんは以前より幾分親切な態度を見せるようになった。
坑内深部への下降
初さんに促され、男はさらに坑内を下っていった。右へ左へ折れながら段々を降り続けるうちに、浮世から遠く離れたような感覚を覚えた。
やがて五、六畳ほどの広さを持つ作事場へ到着した。男は後になって、そこが鉱脈を掘り広げた作業場であり、坑内にはこうした作事場と坑道が無数に張り巡らされていることを知った。
賽を振る坑夫たちとの遭遇
作事場には三人の坑夫がいた。彼らは丸太に腰掛け、小さな壺と賽を使って遊んでいた。男と初さんが現れると、三人は光る眼で男を見つめた。
男はその視線に圧倒されて立ちすくんだが、初さんが新参者だと説明したため緊張を解いた。初さんはその場に腰を下ろして休憩し、男も隣へ座った。
坑夫たちの会話と男の思索
坑夫たちは新しく来た女や達磨の話などを交わしていた。その中で、シキへ入ればいつ死ぬかわからないという言葉や、銅山には達磨という神がいて金を貯めても必ず戻ってくるという話が語られた。
男は会話を聞きながら、自分の現在の姿を艶子や澄江に見られたらどう思われるだろうかと考えた。気の毒がられるだろうと想像する一方で、坑夫として未熟な姿だけは見られたくないとも感じていた。
ダイナマイトの爆破
突然、坑内全体を揺るがすような大音響が響いた。男は大破裂が起きたのではないかと驚いたが、初さんは驚くなと言って立ち上がった。
やがて煙が流れ込み、煙硝の臭いが充満した。男が不安を口にすると、初さんはダイナマイトだと説明した。坑内で働く以上、それを恐れていては一日も勤まらないと教えられた。
スノコへ向かう道
その後も男は煙の中を進み、狭い坑道や段々を抜けていった。やがて二股の坑道付近で、深い場所へ鉱石が落ちていく音が聞こえた。
初さんはそれがスノコへ鉱石を落としている音だと説明し、せっかくだから見せてやると言って進路を変えた。
スノコの見学
男は掘子たちのいる場所へ案内された。そこには大きな穴が開いており、掘子たちは箕や俵に入れた鉱石を次々と穴へ投げ込んでいた。
初さんにもっと前へ出て覗けと促されたが、男は深い穴を前に恐怖を感じ、足を進められなかった。そこへ掘子が重い俵を抱えて現れ、危険な位置まで進み出た上で見事に穴へ投げ込んだ。
男はその技量に感心し、恐れ入った。初さんは何事も修業が必要であり、掘子の仕事も実際にやってみなければ分からないと説明した。
さらなる地下への挑戦
再び坑道を進み、しばらく下ったところで初さんは立ち止まり、まだ下りるかと男に尋ねた。
男はすでに疲労していたが、ここで弱音を吐けば落第だと感じ、下りると答えた。すると初さんは穏やかに同意し、その代わり少し危険だと告げた。
男の前に現れたのは、ほぼ垂直に切り立った穴に掛けられた長い梯子であった。先がどこまで続いているのかも分からず、深い闇の中へ伸びていた。
垂直坑道の下降
初さんは先に下りるから気をつけて来いと告げ、自ら梯子を下り始めた。男は初さんの姿が見えるうちに下りなければためらってしまうと考え、決心して後を追った。
しかし梯子は狭く、段の間隔も広かったうえ、カンテラが邪魔になり、濡れた段木は滑りやすかった。途中で下を覗くと激しい眩暈に襲われ、死の恐怖を覚えながら必死に梯子へしがみついた。
果てしない梯子との格闘
やがて男は梯子の途中に設けられた狭い足場へ辿り着いた。しかしそこから先には向かい側へ別の梯子が続いており、さらにその先にも同じ構造が繰り返されていた。
男は疲労と恐怖に耐えながら次々と梯子を下り続けた。手足は震え、水は草鞋へ染み込み、カンテラには絶えず雫が落ちた。それでも少しずつ力を振り絞り、十五本の梯子を下り切った末にようやく初さんと合流した。
最深部への到達
初さんは男を労い、もう梯子はないと伝えた。男は安心しながら再び歩き出したが、今度は坑道に溜まった水の中を進むことになった。
水は次第に深くなり、足首から膝、さらに腰まで達した。男は坑内が水没するのではないかと不安を抱いたが、初さんは平然と進み続けた。
八番坑の作業場
男が不安を訴えると、初さんはここが八番坑であり、坑内の最深部であると説明した。そして近くの作事場を見せた。
男が洞穴の奥を覗くと、薄暗い光の中で坑夫たちが作業しており、かあんかあんという音が響いていた。初さんは中へ入るかと尋ねたが、男は寒気を覚えて断った。
作業時間への不安と安心
男はここで働く場合、水の中で何時間働くのかと尋ねた。初さんは一昼夜三交替だから一回八時間だと説明した。
男がさらに不安を見せると、初さんは新参者は二番坑や三番坑で働くのが普通で、よほど慣れなければ八番坑までは来られないと教えた。男はようやく安心し、初さんも得意そうに笑った。
坑内見学の終了
その後二人は高い場所へ戻り、水深も徐々に浅くなった。やがて乾いた坑道へ出ると、男は大いに喜んだ。
初さんは鉱石を集めて運搬する機械も見せようとしたが、男は翌日の仕事に関係ないとして断った。こうして坑内見学は終わり、二人は帰路についた。
疲労による崩壊寸前の休息
帰り道でも梯子の場所へ戻ると、男は極度の疲労で歩けなくなった。初さんは休んでいろと言い残し、どこかへ行ってしまった。
一人残された男はその場へ座り込み、壁にもたれながら意識の薄れる感覚に身を任せた。外界への関心も薄れ、苦悩や煩悶から解放されたような静かな心境に浸った。
死への恐怖による覚醒
しかし意識がさらに薄れていくにつれ、突然死ぬぞ、死んじゃ大変だという思いが心の中に現れた。
男ははっと目を開き、自分が死を恐れていることを痛感した。自分で思い浮かべた警告だったのかもしれないが、その声は確かに耳へ残っていた。
現実への引き戻し
そこへ初さんが戻って来た。男は初さんの姿を見た途端、明日から始まる坑夫生活や自分の置かれた境遇を改めて思い出した。
初さんは休息を終えた男へ、今度は登りだと告げて梯子を登り始めた。男も後を追ったが、登りは下り以上に過酷であった。疲れ切った体で濡れた梯子を握り続けるうち、男は労働の厳しさを痛感し、熱い涙を浮かべながら必死に登り続けた。
梯子の途中での絶望と死への誘惑
男は梯子を登る途中で力尽き、壁もまともに見えないほど視界が霞んでいた。涙が溢れ、焦りと苛立ちが募るなか、いっそ手を離して落ちてしまおうという思いに駆られた。
男は、休息中に経験した死へ近づきながら生へ戻る感覚とは逆に、極度の苦痛と焦燥の果てに死を望む心理状態へ至ったことを振り返り、その精神の変化について考えた。
虚栄心による思いとどまり
手を離しかけた男は、どうせ死ぬならこんな坑内ではなく、華厳の滝のような場所で立派に死にたいという虚栄心を思い出した。
その考えによって自殺を思いとどまり、再び生きて坑外へ出る決意を固めた。坑の先には太陽や山野があり、その先には華厳の滝があると考えながら、必死に梯子を登り続けた。
命懸けの登攀
男は壁から垂れる水や眩暈に耐えながら、見えない手足の感覚だけを頼りに梯子を登った。
生きることと登ることが同じ意味を持つようになり、夢中のまま登り続けた末に、ついに最上部へ辿り着いた。
初さんとの再会
上へ到着すると、初さんが心配して待っていた。男が途中で気分が悪くなっていたと話すと、初さんは翌日の作業は無理だろうと告げた。
しかし男は坑夫になるつもりはなく、坑を出たら華厳の滝へ向かう決意を新たにしていたため、早く上がろうと申し出た。
坑道での置き去り
帰路では初さんが先頭を歩き、坑道の形状に合わせて自在に進んでいった。男も負けまいと後を追ったが、複雑な坑道の中で初さんの姿を見失ってしまった。
しばらくは初さんの歌声を頼りに進んだものの、その声も聞こえなくなり、男は完全に一人で坑内へ取り残された。
迷路のような坑内での彷徨
男は上へ向かう道を選べばいずれ出口へ着くだろうと考え、手当たり次第に坑道を進んだ。しかし複雑な坑道は迷路のようで、同じ場所を行き来しているように感じられた。
焦りと苛立ちが募り、坑そのものが自分を閉じ込めているように思えた。そんな中、鉱石を運ぶ掘子とすれ違ったが、その青白い顔を見て話しかける気を失い、一人で出口を探そうとした。
作事場での出会い
やがて小さな作事場へ辿り着き、一人の坑夫が鑿と槌で鉱石を掘っている姿を見つけた。男は俵の上に腰を下ろして休もうとしたが、坑夫に叱責された。
その坑夫は逞しい体格を持つ男で、新参者かと尋ねた。男が事情を説明すると、坑夫は案内人に置き去りにされたことを知り、自分が出口まで送り届けると約束した。
教養ある坑夫の告白
坑夫は煙草を吸いながら男へ身の上話を始めた。彼はかつて学校で学び、中等以上の教育を受けた人物だった。
二十三歳の時、ある女性との関係から重大な罪を犯し、社会に居場所を失った。自らの行為を正しいと思いながらも制裁を受けることを拒み、逃亡の末にこの銅山へ潜り込み、以来六年間も坑内で暮らしていた。
男への共感
坑夫は、自分もかつて情熱に突き動かされて失敗した経験があると語った。そして男にも深い事情があることを察していると述べ、それを責めるつもりはないと伝えた。
さらに、自分が相談に乗れる立場ではない以上、無理に事情を語らなくてもよいと語りながら、男へ強い共感と同情を示した。
安さんによる説得
安さんは、自身は六年間も坑内で暮らし続けているが、それは自分の事情によるものであり、若く教育を受けた男まで同じようになってはいけないと語った。
坑夫の仕事は人間の墓所のような場所であり、一度踏み込めば堕落から抜け出せなくなると警告した。そして男には親もあり、日本のためになる仕事に就くべきだとして、東京へ帰るよう強く勧めた。旅費がなければ自分が工面するとまで申し出た。
安さんへの感動
男は、それまで坑夫たちを理非人情を解さない存在だと思い込んでいたため、安さんの人格と教養に深く驚かされた。
安さんの言葉は男の心を強く動かし、感謝と感動で言葉を失った。二人はしばらく黙ったまま向かい合い、坑内の深い場所で特別な時間を共有した。
旅費の申し出を辞退
男は安さんの忠告に感謝しつつも、旅費を受け取ることは断った。
それは金が不要だからではなく、安さんの人格を尊敬するあまり、不当に好意に甘えることが自分の人格を損なうように感じたためであった。安さんもすぐにその意図を理解し、失礼したと謝ったうえで旅費の話を取り下げた。
出口までの案内
男が今後については考え直してみると答えると、安さんは坑道の分かりやすい場所まで案内した。
第一見張所付近まで来ると、安さんは別れを告げ、自分はまだ仕事が残っているため坑内へ戻ると話した。そしてまた相談があれば訪ねてくるよう伝えた。
安さんへの思索
一人で坑外へ向かう途中、男は安さんについて考え続けた。
高い教育を受けながら坑夫として生きる安さんの境遇に同情し、社会の中で順当に生きていればもっと出世していたに違いないと思った。また、安さんをここまで追い込んだ社会の在り方にも疑問を抱いた。
さらに、自らを堕落したと言いながらも誠実さを失わず働き続ける安さんの姿に心を動かされ、自分も簡単に死んではならないと決意した。
初さんとの再会
坑外へ戻ると、初さんが待っていた。初さんは男が一人で出てきたことに驚いたが、男は安さんの存在を明かさず、途中で人に道を聞いて出てきたとだけ答えた。
男は、初さんの失態が露見すれば報復を受けるかもしれないと考え、そのことを伏せたのであった。
飯場頭との面談
初さんに連れられて飯場頭のもとへ向かい、八番坑まで見てきたことを報告した。
飯場頭は改めて坑夫として働く意思を確認し、男が残る決意を示すと受け入れた。ただし正式に働くには医師の診察を受け、健康証明を取得する必要があると説明した。
安さんを訪ねる
飯場へ戻ると再び坑夫たちの皮肉や嘲笑に囲まれたため、男は夕食後に山中組の長屋を訪ねた。
安さんは来ることを予想して待っており、部屋へ招き入れた。そこで男は帰るつもりはないことを伝えたが、安さんは呆れながらも、しばらくいる程度にして長居はしないよう忠告した。
安さんとの語らい
二人は再び長く語り合った。安さんには長崎で高等官を務める兄がいることを知り、男は兄弟それぞれの境遇を思って胸を痛めた。
帰り際、安さんは何か相談があればいつでも来るよう声を掛けた。男は月明かりの下を飯場へ戻りながら、身体は疲れていても心は以前より豊かになっていることを感じていた。安さんの存在によって、生きる意志と坑夫として踏みとどまる決意がより強くなっていたのである。
飯場での孤独な夜
男は安さんとの語らいによって気持ちを立て直して飯場へ戻ったが、長屋から聞こえる騒ぎを前にすると再び気が重くなった。安さんのもとへ引き返したい気持ちを抑えながら部屋へ入り、誰もいない二階で休もうとした。
布団を敷いて眠ろうとしたものの、南京虫の被害は前夜以上にひどく、すぐに飛び起きた。後悔しながら柱にもたれ、家族や自宅の六畳間、慣れ親しんだ寝具を懐かしく思い出した。そして安らかに眠れることの尊さを痛感した。
病院へ向かう朝
夜が明けると男は診察を受けるため病院へ向かった。立派な病院の建物を見ながら、荒々しい坑夫たちの世界と文明的な医療施設との不釣り合いさに違和感を覚えた。
道中では晴れた山々や蒲公英の花が目に入ったが、それらの美しさと坑夫たちの暮らしとの落差を感じていた。
診察と気管支炎の宣告
病院では受付や医師から冷淡な扱いを受けた。医師は簡単な診察の後、男に気管支炎であると告げた。
男は肺病につながる病気だと考え、自らの死を強く意識した。そして死も生も同じように感じられる無力感に包まれ、華厳の滝へ行くことも東京へ帰ることも面倒になった。運命に身を任せ、この場所で堕落の修業を続けるしかないと考えるようになった。
親方への嘆願
診断書を持って親方のもとへ向かった男は、病気のため坑夫として働くことが難しいと告げられた。
それでも帰る場所はないとして、小使いや掃除番でもよいから置いてほしいと懇願した。親方はすぐには決められないとしながらも、仕事を探してみると約束した。
虚無の一夜
飯場へ戻った男は、坑夫たちの罵倒や嘲笑にも反応しなくなっていた。彼らは一枚の板に刻まれた像のように見え、感情を動かされることもなかった。
夜になると囲炉裏のそばで過ごし、満天の星や眠る金さん、そして安さんの未来について考え続けた。しかしその思考には感情の起伏がなく、涙も未練も恐怖も失われていた。
帳付の仕事を得る
翌日、親方は新たな仕事を見つけたと告げた。それは飯場で使う帳簿を管理する帳付の仕事であった。
坑夫たちが購入した品物を記録する役目であり、月給四円と食事が支給されることになった。男はそれを受け入れ、こうして鉱山での立場が定まった。
帳付としての日々
男は台所の片隅で帳付の仕事を始めた。すると、それまで軽蔑していた坑夫たちの態度は一変し、男に愛想よく接するようになった。
男自身も南京米を食べ、南京虫に耐えながら暮らし、堕落の世界に慣れていった。また、鉱山へ連れて来られる子供たちに菓子を与えることもあった。
こうして男は帳付として五か月を過ごし、その後東京へ帰ったのである。そして、ここまでが男の鉱山での経験のすべてであった。
夏目漱石の作品





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