物語の概要
■ 作品概要
『虞美人草(ぐびじんそう)』は、夏目漱石の初期を代表する長編小説である。1907年(明治40年)に発表された本作は、複雑に絡み合う男女の恋模様と、明治という時代の転換期における知識人たちの葛藤を描いた群像劇である。物語は、厳格な小野さんとその許婚である藤尾、そして藤尾に翻弄される甲野さんや宗近といった登場人物たちの交流を軸に展開する。華やかな東京を舞台に、理想と現実、利己心と自己犠牲が交錯する世界観が、漱石特有の鋭い人間観察と流麗な文体によって描き出されている。
■ 主要キャラクター
小野清三:物語の中心となる人物の一人。学問的才能に恵まれているが、優柔不断で現実的な打算と理想の間で揺れ動く青年である。
藤尾:小野さんの許婚。類まれな美貌と教養を持つが、極めて傲慢で虚栄心が強く、周囲の人々を翻弄する運命的な女性である。
甲野欽吾:小野さんの友人。世俗的な成功に背を向け、内にこもるような精神性を持ち、藤尾の魅力に苦悩しつつも、自らの信念を貫こうとする。
宗近一:甲野の友人。快活で正義感が強く、物語の中では常識的かつ健全な精神の持ち主として、混迷する人間関係に介入していく。
■ 物語の特徴
本作は、漱石が教職を辞し、朝日新聞社に入社して作家専業となってから執筆された最初の長編である。最大の特徴は、その非常に意識的な文体と構成にある。初期作品に見られる技巧的な美文が際立っており、後の簡素な文体へと向かう漱石の作風を知る上で非常に興味深い。また、登場人物たちの心理描写が非常に緻密であり、特に藤尾という人物像に象徴される「自己愛」と「破滅」のテーマは、近代的な自我を追求し続けた漱石文学の核心の一つといえる。他作品と比較して、よりドラマチックで悲劇的な結末を迎える点も、本作が読者を惹きつける大きなポイントである。
書籍情報
虞美人草
著者:夏目漱石 氏
初出:1907年(明治40年)『朝日新聞』連載
(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。
あらすじ・内容
明治期の文学者、夏目漱石の長編小説。初出は「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」[1907(明治40)年]。1907年、漱石は小説家として生きる決意を固め、東京帝国大学を辞職して朝日新聞社に入社した。この作品は入社後はじめての新聞連載小説。誇り高い自我を持つヒロイン藤尾は親の決めた相手ではない男と結婚しようとするが、義理の兄が道義を守らせるために画策する。誇りを傷つけられた藤尾は自殺する。藤尾に象徴される近代文明を批判した作品とされるが、「悪」としての藤尾の人気は連載当時から高く、虞美人草ドレスという商品まで現れる社会現象となった。
感想
本作を読んでまず感じたのは、後味の悪さです。
登場人物たちはそれぞれに考え、悩み、選び取っているはずなのに、その選択が少しずつ破滅へ向かっていく。読んでいて気持ちのよい物語ではありませんでしたが、その不快感こそが強く印象に残りました。
特に印象的だったのは、宗近と甲野欽吾の対比です。
宗近は現実へ踏み出していく力強さを持っています。一方の甲野は、どこか世の中から距離を取り、思索の中に沈んでいる人物です。
同じ時代を生きていても、二人の世界の見方は大きく違います。その違いが、会話や行動の端々からにじみ出ていて興味深く感じました。
また、藤尾の存在感も非常に強く残ります。
彼女は美しく、気品がありながら、同時に危うさも感じさせる人物です。小野の心を揺さぶり、周囲の人間関係を少しずつ狂わせていく姿には、惹きつけられるものがありました。
ただし、藤尾だけが悪いとは言い切れません。
小野の弱さもまた、この物語の大きな軸になっています。
成功したい気持ち、過去を捨てきれない迷い、藤尾への執着、小夜子への後ろめたさ。そのどれもが中途半端なまま残っているため、彼は自分で自分を追い詰めていきます。
読んでいて感じたのは、小野の優柔不断さは決して他人事ではないということです。
人はいつも正しく決断できるわけではありません。自分に都合のよい未来を選びたいと思いながら、過去の責任からも逃げきれない。その弱さが、非常に生々しく描かれていました。
終盤に向かうにつれて、縁談や金時計をめぐる駆け引きは一気に緊張感を増していきます。
誰も完全な悪人ではないのに、誰も完全には誠実でいられない。
その結果として起こる破局には、やりきれなさが残りました。
特に金時計が象徴するものは印象深いです。
名誉や成功、家の都合、人間の欲望。そうしたものが一つの物に凝縮されているようで、それが壊される場面には強い意味を感じました。
読んでいて感じたのは、本作が描いているのは恋愛の悲劇だけではないということです。
明治という時代の中で、新しい価値観と古い価値観がぶつかり合い、その中で人間が少しずつ歪んでいく。
その苦しさが物語全体に漂っていました。
最後に残るのは、すっきりした感動ではありません。
むしろ、人間の弱さや見栄、執着を見せつけられたような重さです。
けれど、その重さがあるからこそ、本作は読後もなかなか頭から離れませんでした。
華やかな人間関係の裏にある醜さや弱さまで描き切った、非常に苦い読後感の残る一冊でした。
最後までお読み頂きありがとうございます。
(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。
考察・解説
叡山への登山
『虞美人草』における「叡山への登山」は、物語の序盤において、宗近と甲野という対照的な二人の青年の性格、思想、そして生きる世界の違いを鮮やかに浮き彫りにする重要なエピソードである。この登山の展開とそこに込められた意味合いについては、以下のポイントで考察できる。
無計画な登山の始まりと二人の性格
宗近と甲野の叡山登山は、登山口もルートも曖昧なまま始まる無計画なものであった。
- 四角い体格で豪放な宗近は、山はあすこに見えているんだから歩けば着くと強気に言い放つ。
- 一方、細身の甲野は、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか見当がつかんじゃないかと不満を漏らし、計画ばかりで実行しないことを宗近にからかわれる。
- 現実の世の中へ無鉄砲にでも飛び込んでいこうとする宗近と、理屈っぽく行動をためらう甲野という、二人の鮮やかな対比が示されている。
春の京の情景と雅号の議論
二人は大原女に道を尋ね、危うい丸木橋を渡って本格的な山道へと入っていく。
- 宗近がむやみに歩いて若狭の国へ出てしまうよと甲野に皮肉られるほどの道中であった。
- 途中で薪を背負った女とすれ違った際、宗近は八瀬の女だから八瀬女だと勝手に決めつけるが、甲野は大原女と呼ぶ方が詩的で雅だと主張する。
- 学士や外交官といった肩書も、結局は人間が勝手につけた雅号に過ぎないという議論になり、二人の軽妙でありながら知的な関係性が描かれている。
疲労と甲野の動の哲学
急坂を登るうち、ついに甲野は疲労して草むらへ仰向けに倒れ込み、反吐が出そうだとこぼす。
- なぜかとからかう宗近に対し、甲野はすべての反吐は動くから吐くのだよ、俗界万斛の反吐皆動の一字より来ると独特の哲学を語る。
- これは、動けば苦しみや俗世のしがらみに巻き込まれるのだから、動かぬ方がよいという甲野の厭世的な態度を表している。
- さらに甲野は、空を仰ぎながら、俗世や因果から離れていっそ化石になりたい、あるいは死んで見たいとまで思い詰める死生観を見せる。
頂上からの絶景と二人の世界観の分水嶺
伝教大師以来の歴史を閉じ込めたような深い杉林を抜け、天狗の座と呼ばれる場所まで登り詰めると、木々の隙間から近江の湖が光って見える。
- 宗近がその景色を奇麗だと素直に楽しむのに対し、甲野はまるで夢のようだと超然と呟き、下界の事物を退屈だらけだと評する。
まとめ
この登山のエピソードを通して、春の世界を豪快に楽しみながら現実の近江の野へと下っていく宗近の世界と、高い暗い場所からうららかな春の世を寄り付かずに遠く眺めようとする甲野の世界とが、全く異なるものであることが象徴的に示されているのである。
甲野と宗近
『虞美人草』における甲野と宗近は、物語の中心となる極めて対照的な二人の青年であり、彼らの性格、思想、そして生きる世界の違いが本作の重要なテーマを形作っている。この二人の対比と関係性について、以下のポイントで考察する。
無計画な行動力と理屈っぽい厭世観
物語序盤の叡山登山の場面で、二人の根本的な気質の違いが鮮やかに示される。
- 四角い体格の宗近は、山はあすこに見えているんだからと無計画に歩き出そうとする豪放な現実主義者である。
- 一方、細身の甲野は、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか見当がつかんと不満を漏らす理屈っぽい性格を持っている。
- 急坂で疲労した甲野は、俗界万斛の反吐皆動の一字より来ると語り、動けば苦しみや俗世のしがらみに巻き込まれるのだから動かない方が良いという、極めて厭世的で哲学的な態度を見せる。
- 頂上から近江の湖を見下ろした際にも、宗近がその景色を素直に楽しんで現実の野へと下っていくのに対し、甲野は高い場所から春の世を寄り付かずに遠く眺めようとするという、二人の生きる世界の違いが象徴的に描かれている。
第一義の解釈をめぐる思想的対立
保津川下りの舟の中で、二人は人間の本質的な活動である第一義について議論を交わす。
- 宗近は急流を下る快感に歓喜し、自然は第一義で活動しており人間もそうあるべきだと楽天的に主張する。
- しかし甲野は、自然を見本と感じるのは人間の内側にある第一義を自然に投影しているからだと返す。
- さらに甲野は、本当の第一義とは血を見ないと出て来ないと語る。
- 人間は軽薄であり、血を見るような過酷な状況で初めて本性が剥き出しになるという、人間の暗部を見据えた深い洞察を示している。
危機への対処と真面目の実行
物語の終盤、小野と藤尾、そして小夜子をめぐる複雑な恋愛や結婚問題が佳境に入った際、二人の問題解決へのアプローチは決定的に分かれる。
- 甲野は、母や藤尾の欲望を満たし双方の堕落を防ぐため、自分が悪者になって家も財産もすべて藤尾に譲り、家を出るという自己犠牲的で受動的な解決を図ろうとする。
- これに対して宗近は、甲野の決断を聞いて涙を流し、気が狂ったかと激しく引き留め、自分の妹であり甲野の真の理解者である糸子を連れて行ってくれと熱烈に懇願する。
- さらに宗近は、優柔不断で逃げ腰になっていた小野に対しても、真面目になるのは今だ、真面目とは実行の二字に帰着するのだと真正面から説得し、小野に小夜子への責任を果たさせる。
- 最後には、怒り狂う藤尾の前で自ら金時計を大理石の煖炉に叩きつけて破壊し、自らの精神と第一義の活動を見せつけるという、極めて直接的で劇的な行動に出るのである。
悲劇と喜劇の交歓
藤尾の死後、甲野は日記に悲劇は喜劇より偉大であると記す。
- 人々は金や恋愛といった喜劇に熱中して死や道義を忘れるが、悲劇は人間に死の存在を突きつけ、道義の実践を強いるからこそ偉大なのだという重厚な思索である。
- 甲野はこの一節をロンドンへ旅立った宗近に送るが、宗近からの返事はここでは喜劇ばかり流行るという極めて簡潔で楽天的なものであった。
まとめ
このように、思索に沈み悲劇的な世界観を持つ甲野と、現実に根ざし喜劇的な明るさを持つ宗近は、最後まで全く異なる世界に住みながらも、互いの欠落を補い合い、深く信頼し合う無二の親友として描かれている。
藤尾と小野
『虞美人草』において、藤尾と小野の関係は、虚栄心と支配欲に満ちた我の強い女と、華やかな未来を渇望する優柔不断な青年との、危うくも破滅的な恋愛として描かれている。二人の関係性と展開については、以下のポイントで考察できる。
華やかな未来を求める小野と男を神聖なる玩具とする藤尾
小野は、暗い生い立ちから抜け出し、恩賜の銀時計を得るほどの成功を収めた青年である。
- 彼にとって世界は色の世界であり、美しい生活を実現するためには金が必要だと考えている。
- そのため、美貌と財産を兼ね備えた藤尾との結婚を、自身の成功を彩る理想の未来として渇望している。
- 一方の藤尾は、自分を愛する男を神聖なる玩具として弄ぶことに喜びを感じる我の強い女性である。
- 自分に反発しない我のない小野を選び、彼が自分を崇拝し服従する姿を見て自尊心を満たそうとするのである。
藤尾の心理操作と翻弄される小野
物語の前半、藤尾はクレオパトラの最期を描いた本を読みながら、小野を巧みに翻弄する。
- 藤尾は自らの袖を翻して小野に紫色のクレオパトラの幻影や妖しい香りを意識させ、私には嫉妬がありますよと冷たく言い放つ。
- また、因縁のある金時計を小野の胸に当てて、こうすると引き立ちますよと誘惑しつつ、すぐに外してしまうなど、小野の心を自由に操る。
- 小野は詩的な空想に逃げ込もうとするが、藤尾の現実的な情念と駆け引きの前に常に圧倒されている。
過去の出現と藤尾のプライド
順調に見えた二人の関係は、小野の恩師である孤堂とその娘の小夜子が上京したことで揺らぎ始める。
- 小夜子という過去から逃れ、藤尾という未来を急ごうとする小野であったが、彼の優柔不断さが事態を悪化させる。
- 決定的な転機は、夜の博覧会で訪れる。藤尾は、自分に黙って小夜子と親しげに同席している小野を目撃してしまう。
- 小野を完全に自分の支配下にある玩具だと信じていた藤尾にとって、これは激しい屈辱と嫉妬を引き起こす出来事であり、彼女のプライドは深く傷つけられる。
- 藤尾は小野に冷たく当たり、彼の方から頭を下げて謝罪してくるのを待ち受けるのである。
小野の決断と藤尾の悲劇的な結末
小野は藤尾と大森へ行く約束をしていたが、友人の宗近から激しい説得を受ける。
- 宗近から真面目になれと諭された小野は、ついに虚飾を捨て、恩人である孤堂と小夜子に対する責任を果たす決意を固める。
- 甲野家へ乗り込んできた怒り狂う藤尾に対し、小野は大森へ行かなかったことを謝罪し、小夜子は私の未来の妻に違いないと明言する。
- さらに、今日までの私は全く軽薄な人間であった、今日から真面目な人間になると告げ、藤尾との関係を完全に断ち切る。
まとめ
愛をゲームとして操り、小野を支配していると信じていた藤尾は、この予測せぬ拒絶によって絶対的な侮蔑と屈辱を受ける。そして、砕かれた金時計とともにその場に崩れ落ち、ついには命を落とすという悲劇的な最期を遂げるのである。
紫色の恋
『虞美人草』における紫色の恋は、小野が藤尾の妖艶さや激しい気性をシェイクスピアの描くクレオパトラになぞらえて表現した言葉であり、二人の間に漂う危険で破滅的な関係性を象徴する重要な概念である。この紫色の恋については、以下のポイントで考察できる。
クレオパトラの幻影と紫の象徴性
小野は、シェイクスピアのアントニーとクレオパトラについて語る中で、クレオパトラが古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、紫色のクレオパトラが眼の前に鮮やかに映って来る、剥げかかった錦絵のなかから、たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ると表現している。
- 藤尾自身も春の昼の静寂の中へ鮮やかな紫を落としたような女と描写されている。
- 紫色は藤尾が持つ人を惹きつける魔力や妖艶さ、そして抗いがたい情念を象徴する色として機能している。
- 藤尾が自らの長い紫の袖を翻すと、小野の脳裏にはクレオパトラの妖しい香りが立ち込め、彼はたちまち藤尾のペースに引き込まれてしまうのである。
九寸五分の短刀に例えられる激しい情念
小野は紫色の恋の本質を、そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息の恋ではなく、暴風雨の恋、暦にも録っていない大暴雨の恋、九寸五分の恋であると定義づける。
- それは穏やかで感傷的な愛情ではなく、刃物のように鋭く、命がけの危険を伴う激しい恋である。
- 藤尾が九寸五分の恋が紫なのかと尋ねると、小野は九寸五分の恋が紫なのではなく、紫の恋が九寸五分なのだと返し、さらに恋が怒ると九寸五分が紫色に閃ると語る。
- ここで小野は、クレオパトラがアントニーの結婚の知らせを聞いた際の激しい感情を、紫が嫉妬で濃く染まった状態として語り合っている。
詩的空想と現実の支配の交錯
詩人である小野にとって、紫色の恋やクレオパトラの話題は、好画題であり好詩料、すなわちロマンチックで美しい空想の世界の出来事であった。
- しかし、我の強い藤尾は、その空想を単なる物語で終わらせず、私には嫉妬がありますよと冷たく言い放つ。
- 小野の空想を現実の情念や駆け引きの場へと引きずり下ろすのである。
- 小野は詩の国に遊ぼうとするが、藤尾の現実的な支配欲や心理操作の前に常に圧倒され、翻弄され続ける。
まとめ
総じて紫色の恋という対話は、小野の華やかで詩的な空想と、藤尾の虚栄心や支配欲、そして嫉妬という人間の暗く激しい情念が入り交じる様子を描き出している。そして、この恋が怒ると九寸五分が紫色に閃るという言葉通り、後に藤尾が小野と小夜子の姿を目撃して激しい嫉妬と屈辱に駆られ、命を落とすという破滅的な悲劇へ突き進んでいく物語の結末を、見事に暗示していると言える。
過去と未来
『虞美人草』において、過去と未来は、主人公の一人である小野の内的葛藤と、彼を巡る二人の女性(過去の女である小夜子と未来の女である藤尾)との対比を通して、物語の根幹をなすテーマとして描かれている。この過去と未来の様相については、以下のポイントで考察できる。
暗い過去の隠蔽と華やかな未来への渇望
小野にとって過去とは、孤独で暗い生い立ちであり、思い出したくないものである。
- 京都時代に恩師である孤堂から援助を受けた恩義はあるものの、東京で成功を収めつつある彼にとって、その記憶は古びた黴臭い匂いを放つものでしかない。
- 彼が渇望する未来は、博士論文の完成、金時計、そして美貌と財産を持つ藤尾との結婚によって彩られる華麗な色の世界である。
- 小野は過去の節穴を塞ぎ、蕾んだ薔薇のような華やかな未来だけを見つめることで、現実の不安から逃れようとしていた。
過去の夢を抱く小夜子と変貌した小野
孤堂と共に上京してきた小夜子は、小野にとって決定的な過去の象徴として現れる。
- 小夜子は、五年来の小野への想いを、命よりも明らかな過去の夢として抱き続けていた。
- しかし、東京で再会した小野は、金縁眼鏡や口髭を蓄え、立派な紳士へとすっかり変貌していた。
- 小野が未来へ向かって性急に自己を作り変えたのに対し、小夜子は私は昔の通りで、ちっとも変っていないそうですと語り、二人の間にある決定的な時間と価値観の断絶が残酷に浮き彫りになる。
迫り来る過去と逃げ込む未来
小野は、孤堂から小夜子との結婚を迫られることで、完全に切り捨てたはずの過去に追いつめられる。
- 過去は暗夜を照らす提灯の火のごとく揺れて来る、動いてくるものとして小野に迫る。
- 優柔不断な小野は、過去からの重圧(恩義と義理)と真っ向から対決できず、藤尾という未来の袖へ逃げ込もうとする。
- しかし、過去を清算しないまま未来を手に入れようとした小野の軽薄さは、最終的に藤尾の嫉妬と怒りを買い、破滅的な悲劇を引き起こす原因となる。
無一物から始まる真の未来
一方、小野とは対照的に、過去のしがらみを断ち切って新たな未来へ向かうのが甲野と宗近である。
- 甲野は、自分を縛る家督や財産という過去からの遺産をすべて藤尾に譲り、本来の無一物から出直す決意をする。
- 宗近もまた、外交官試験に合格し、古い洋服を脱ぎ捨ててこれからだ、僕もこれからだと未来へ踏み出す。
- 二人は、利害や虚栄といった表面的な過去のしがらみを捨て、真面目(第一義の実行)に生きることで、初めて確固たる未来を築けることを示している。
まとめ
総じて『虞美人草』における過去と未来は、過去を誤魔化して虚飾の未来を急ごうとした小野と藤尾が破綻を迎え、過去への執着やしがらみを捨てて真面目に現在を生きようとした甲野や宗近が新たな未来を開くという、対照的な人間の生き方を鮮やかに描き出している。
虚栄と道義
『虞美人草』における虚栄と道義は、登場人物たちの生き方の対立と、物語の結末における悲劇的な哲学を通して、本作の根幹をなすテーマとして描かれている。このテーマについては、以下のポイントで考察できる。
色の世界と虚栄の喜劇
小野は色の世界に生き、博士号や恩賜の金時計、そして美貌と財産を持つ藤尾との結婚といった華麗な未来(虚栄)を渇望していた。
- 一方の藤尾も、自尊心と虚栄心から小野を神聖なる玩具として弄ぶことに喜びを感じていた。
- 甲野の日記によれば、金や恋愛、名誉といった日常の争いはすべて喜劇であり、死の存在を忘れた人々は贅沢になって大胆に振る舞い、道義を蹂躙して大自在に跳梁するようになる。
- 小野と藤尾の恋愛は、まさに道義を犠牲にした虚栄の喜劇であった。
真面目の要求と道義の主張
この虚栄の喜劇に対し、宗近は小野へ真面目になれと強く迫る。
- 宗近にとって真面目とは実行の二字に帰着するものであり、小野が過去の恩人である孤堂や小夜子への責任から逃げず、それを実行に移すことこそが真面目(道義の実践)であった。
- 孤堂先生もまた、博士号などの利益のために小夜子を捨てようとする小野の態度を非難する。
- 自分は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だと強く道義を主張している。
虚栄の崩壊と道義の実行
宗近の説得により、小野はついに虚栄を捨て、今日から真面目な人間になると藤尾に別れを告げ、小夜子を未来の妻だと明言する。
- 宗近もまた、藤尾の虚栄心と支配欲の象徴であった金時計を大理石の暖炉に叩きつけて破壊し、これも第一義の活動の一部分だと宣言した。
- 自らの愛とプライドが完全に打ち砕かれた藤尾は、その屈辱に耐えきれず、虚栄の毒を仰いで斃れたと表現される悲劇的な死を遂げるのである。
まとめ
藤尾の死後、甲野は日記に悲劇は喜劇より偉大であると記している。
- 人々が道義を犠牲にして楽しむ喜劇が限界に達したとき、悲劇は忽然として人々に死の存在を突きつけ、ふざけた者たちの襟を正させる。
- 道義の実践は人間にとってもっとも困難なものであるが、悲劇は人々にその実践を強制する。
- 人生の第一義は道義にありとの命題を脳裏に樹立する力を持つがゆえに偉大なのだと、甲野は結論づけているのである。
悲劇による悟り
『虞美人草』の結末部において、藤尾の死という悲劇をきっかけに甲野が日記に記した思索は、悲劇による悟りという本作の哲学的テーマを総括する重要な部分である。この悲劇による悟りについては、以下のポイントで考察できる。
喜劇に溺れる人々と死の忘却
甲野の日記によれば、金や恋愛、職業など、人々が朝から晩まで身心を労する問題はすべて喜劇に過ぎない。
- 人々はこの喜劇的な日常に熱中するあまり、いかにして生を解釈せんかという煩悶を忘れてしまう。
- 生の隣にある死の一字を念頭に置かなくなるのである。
- 死を忘れた人々は贅沢で大胆になり、道義を蹂躙して大自在に振る舞うようになると甲野は指摘している。
悲劇による死の顕現
道義の観念が極度に衰え、社会が維持しがたくなった時、突然として起るのが悲劇である。
- 悲劇が偉大なのは、単に人を死に至らしめる終結だからではない。
- 忽然として生を死へと変え、人々が忘れていた死という絶対的な陥穽を不用意に突きつけるからである。
- これにより、死の領域に入り込むことを知ったふざけた者たちは、急に襟を正すことになる。
道義の実践の強制と悟り
悲劇の真の力は、死を突きつけることで人々に道義の必要性を悟らせる点にある。
- 甲野は、道義の実践は他人には便宜であっても自己には不利益となるため、人間にとって最も困難なものだと考えている。
- しかし悲劇は、人々にその実践を強制する。
- 人生の第一義は道義にありという命題を脳裏に樹立する力を持つがゆえに偉大なのだと結論づけているのである。
自然の制裁と本来の面目への逢着
甲野自身は、この来るべき藤尾の破滅という悲劇をとうから予想していたが、あえて手を出して防ごうとはしなかった。
- それは不親切からではなく、小手先の介入では人間の深い業を変えることはできないと知っていたからである。
- 人間の手出しよりも偉大な自然の制裁を親切に感受させることが目的であった。
- 石火の一拶に本来の面目に逢着せしむる、すなわち一瞬の衝撃で人間の本来の姿を悟らせるためであったと、甲野は自らの傍観の理由を語っている。
まとめ
総じて『虞美人草』における悲劇による悟りは、虚栄や欲望といった喜劇的な日常に溺れる人間が、破滅的な悲劇を通して生の隣にある死に直面し、そこから人生の根幹たる道義を再発見し実践へと向かうプロセスとして重厚に描かれているのである。
登場キャラクター
甲野家
甲野欽吾
細身で長身な体格を持つ皮肉屋の哲学者である。俗世や因果から離れて天地に溶け込みたいと願う思想を持っている。藤尾の異母兄であり、母を偽物だと見なしている。
・所属組織、地位や役職
甲野家の長男。家督相続人。
・物語内での具体的な行動や成果
宗近とともに叡山へ登り、京都を旅行する。自らの財産と家督をすべて藤尾に譲って家を出ると宣言する。最後に母から謝罪を受けて和解し、家に残る事を決める。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
神経衰弱と見なされていたが、最終的に母の心を解きほぐす。悲劇に関する哲学的な日記を書き残す。
甲野藤尾
黒髪で目を惹く容姿を持つ気位の高い女である。男を翻弄して自分に従わせる事を好む。小野を愛の対象として見定めている。
・所属組織、地位や役職
甲野家の娘。二十四歳。
・物語内での具体的な行動や成果
小野を誘惑し、金時計を見せびらかして心をもてあそぶ。小野が博覧会に小夜子といた事を知って激しく嫉妬する。宗近の前で小野から小夜子を妻にすると告げられ、侮蔑の表情を浮かべる。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
金時計を宗近に壊された後、床に倒れ込んで急死する。
甲野の母
穏やかな外見の裏に鋭い気性を隠し持つ女性である。藤尾の実母であり、欽吾の継母にあたる。世間体を重んじる傾向が強い。
・所属組織、地位や役職
甲野家の母。
・物語内での具体的な行動や成果
欽吾が家督を継ぐ事を嫌がる態度に不満を抱く。小野を藤尾の婿に迎えようと目論む。欽吾から本心を指摘されて自分の過ちを認め、涙を流して和解する。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
藤尾の死後は悲嘆に暮れる。
宗近家
宗近一
四角い体格をした豪放磊落な青年である。気さくで一本調子な性格を持つ。甲野とは対照的に現実世界を快活に生きている。
・所属組織、地位や役職
宗近家の長男。外交官志望。
・物語内での具体的な行動や成果
甲野を叡山や嵐山への旅行に連れ出す。外交官試験に合格した事を家族に報告する。小野を説得して真面目になるよう促し、小夜子との結婚を決意させる。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
藤尾の前で金時計を叩き割る。外交官としてロンドンへ渡る。
宗近糸子
丸顔で穏やかな気質を持つ女性である。家庭的で素直な性格をしている。甲野に対して密かな好意を寄せている。
・所属組織、地位や役職
宗近家の娘。一の妹。
・物語内での具体的な行動や成果
兄の着物を縫いながら軽口を交わす。藤尾と対話し、自身の家庭的な価値観を示す。兄から甲野が家を出ると聞いて涙をこぼす。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
甲野から純粋さを評価され、良き理解者として扱われる。
宗近の父
大らかで善良な老人である。古道具の収集や植物の栽培を趣味としている。
・所属組織、地位や役職
宗近家の当主。
・物語内での具体的な行動や成果
甲野の母と面会し、一と藤尾の結婚について語り合う。一が外交官試験に合格した事を知って大いに喜ぶ。孤堂の家を訪ねて破談の慰問を行う。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
井上家
井上孤堂
昔堅気で義理人情に厚い老人である。小野が京都にいた時代の恩師にあたる。
・所属組織、地位や役職
小野の恩師。小夜子の父。
・物語内での具体的な行動や成果
小夜子を伴って京都から東京へ移住する。小野に対して小夜子との結婚を強く迫る。浅井から破談の申し入れを受けて激怒する。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
病に伏せり、咳と熱に苦しめられる。
井上小夜子
色白で控えめな女性である。小野に対する思いを五年間抱き続けている。東京の環境に馴染めず孤独を感じやすい。
・所属組織、地位や役職
孤堂の娘。
・物語内での具体的な行動や成果
父とともに上京し、小野と再会を果たす。小野の心が自分から離れていくのを感じて悲しむ。浅井が持ってきた破談話を聞き、襖の陰で涙を流す。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
宗近の家へ呼ばれ、小野から未来の妻として藤尾に紹介される。
友人・関係者
小野清三
美や華やかな生活を重んじる詩人である。優柔不断で気が弱い。恩義と自らの野心の間で激しく揺れ動く。
・所属組織、地位や役職
大学の卒業生。博士論文を執筆中。
・物語内での具体的な行動や成果
孤堂から結婚を迫られ、浅井に破談の使者を頼む。藤尾の美しさに惹かれて誘惑に乗る。宗近に説得されて真面目に生きる事を誓う。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
かつて天皇から恩賜の銀時計を授与されている。最終的に小夜子を妻にする決断を下す。
浅井
無遠慮で図太い性格の男である。世間の事情に擦れており、物事を深く考えない。小野の京都時代からの旧友である。
・所属組織、地位や役職
小野の友人。
・物語内での具体的な行動や成果
小野から十円を借りる見返りに、孤堂へ破談を伝えに行く。孤堂に激怒されて驚き、引き返す。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
黒田
朦朧とした様子で眠たげにしている書生である。
・所属組織、地位や役職
宗近家の書生。
・物語内での具体的な行動や成果
宗近の家で甲野と糸子に茶や菓子を運ぶ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
集団・その他
大原女
薪を背負って歩く女性である。
・所属組織、地位や役職
大原の女性。
・物語内での具体的な行動や成果
宗近に叡山へ向かう細道を教える。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
八瀬女
粗朶の束を頭に載せて歩く女である。呑気な顔をしている。
・所属組織、地位や役職
八瀬の女性。
・物語内での具体的な行動や成果
山道で宗近や甲野とすれ違う。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
船頭たち
自然と一体になって働く逞しい男たちである。
・所属組織、地位や役職
保津川の船頭。
・物語内での具体的な行動や成果
甲野と宗近が乗った舟を操り、岩を避けて急流を下る。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
給仕
乗客の対応にあたる従業員である。
・所属組織、地位や役職
夜汽車の給仕。
・物語内での具体的な行動や成果
夜汽車の車内を時々通り抜ける。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
下女
むやみに笑って愛嬌を振りまく女性である。
・所属組織、地位や役職
小野の下宿の下女。
・物語内での具体的な行動や成果
小野へ手紙や浅井の来客を知らせる。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
お手伝いの婆さん
孤堂の家を手伝う年配の女性である。
・所属組織、地位や役職
井上家の手伝い。
・物語内での具体的な行動や成果
孤堂と小夜子の不在時に留守番をする。洋灯の芯を斜めに切る癖がある。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
巡査
群衆の整理にあたる人物である。
・所属組織、地位や役職
警察官。
・物語内での具体的な行動や成果
博覧会の夜に橋の上で弓張提灯を掲げ、群衆を誘導する。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
按摩
杖を頼りに歩く人物である。
・所属組織、地位や役職
按摩。
・物語内での具体的な行動や成果
電車の合間を縫って恐る恐る道を渡る。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
茶屋の小僧
臼を挽きながら笑っている少年である。
・所属組織、地位や役職
茶屋の従業員。
・物語内での具体的な行動や成果
街頭で臼を挽く作業をしている。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
旗振
埃まみれの衣服を着ている人物である。
・所属組織、地位や役職
旗振り。
・物語内での具体的な行動や成果
街頭に立って作業をしている。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
乗客たち
互いに顔を見合わせている人々の集まりである。
・所属組織、地位や役職
夜汽車の乗客。
・物語内での具体的な行動や成果
京都から東京へ向かう夜汽車に乗っている。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
弥次馬
土手の上を走る人々である。
・所属組織、地位や役職
群衆の一部。
・物語内での具体的な行動や成果
いろいろな旗を担いで走る。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
善男子
イルミネーションに集まる男性たちである。
・所属組織、地位や役職
博覧会の見物客。
・物語内での具体的な行動や成果
家を空けて博覧会のイルミネーションを見に集まる。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
善女子
イルミネーションに集まる女性たちである。
・所属組織、地位や役職
博覧会の見物客。
・物語内での具体的な行動や成果
善男子とともにイルミネーションを見るために集まる。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
群衆
驚くことを求めて博覧会に集まる人々の波である。
・所属組織、地位や役職
一般の市民。
・物語内での具体的な行動や成果
不忍池の橋の上で密集し、互いに押し合いながら歩く。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
展開まとめ
一
無計画な登山の始まり
宗近と甲野は、叡山を目指して歩いていた。しかし、どこから登るのか、どこを通るのかさえ曖昧なままだった。
四角い体格の宗近は、山が見えているのだから歩けば着くと豪放に言い放った。一方、細身の甲野は、行程も分からずに登る無計画さへ不満を漏らしていた。
宗近は、計画ばかりで実行しない甲野をからかい、甲野は逆に、無茶苦茶に歩き回る宗近へ呆れていた。二人の性格は、登山の最初から鮮やかな対照を見せていたのである。
山道と春の京
二人は北へ伸びる山道を進んでいった。山は左右から迫り、谷川の音が折れ曲がるたびに響きを変えていた。
途中では大原女や牛ともすれ違った。京の春は、牛の尿が尽きぬほど長閑で静かだと感じられていた。
やがて二人は、大原女から聞いた細道を辿り、丸木橋を渡って本格的な登山路へ入った。宗近は若狭まで出ても構わないと豪語し、甲野は地理も知らずに歩く無鉄砲さを皮肉っていた。
景色と人生観
登るにつれて高野川や菜の花畑が遥か下へ広がり、春霞の中へ遠山が薄紫に浮かんでいた。宗近は、その景色を見ていつの間にか高く登っていたことへ驚いていた。
すると甲野は、人間も知らぬ間に堕落したり悟ったりするものだと答えた。昼が夜になり、若者が老人になるように、変化とはいつの間にか訪れるものなのだと語ったのである。
その後、二人は年齢を言い合いながら軽口を叩き合った。宗近は豪放だが気さくであり、甲野は皮肉屋ながら静かな知性を漂わせていた。
八瀬女とのすれ違い
坂道では、薪を背負った女とすれ違った。宗近は、その姿を画のようだと感嘆していた。
甲野が大原女だろうと言うと、宗近は八瀬の女だから八瀬女だと勝手に決めつけた。しかし甲野は、大原女と呼ぶ方が雅で詩的だと主張した。
そこから二人の会話は、「雅号」という概念へ移っていった。立憲政体や忠孝信悌、さらには学士や外交官までも、結局は人間が勝手に付けた雅号に過ぎないと宗近は笑っていた。
甲野の疲労と哲学
急坂を登るうち、甲野はついに草むらへ仰向けに倒れ込んだ。宗近がからかうと、甲野は反吐が出そうだと答えた。
しかし甲野は、反吐とは動くから吐くのだと言い、俗界万斛の反吐皆動の一字より来ると、冗談とも本気ともつかぬ哲学を語った。
さらに甲野は、動けば苦しみや俗世へ巻き込まれるのだから、動かぬ方がよいという態度を見せていた。一方の宗近は、そんな甲野へ呆れながらも見捨てず、陽気に声を掛け続けていた。
甲野の死生観
宗近が先へ進んだ後、甲野は草の上へ横たわりながら、空を見つめていた。
甲野は、俗世や因果から離れ、天地そのものへ溶け込みたいと願っていた。生きている限り人間は不要な苦しみを背負わされる。ならば、いっそ化石になりたい、あるいは死んでしまいたいとまで考えていたのである。
死とは万事の終わりであり、同時に始まりでもある。人間の営みとは、結局墓へ向かうために積み重ねられているだけではないかと、甲野は厭世的な思索へ沈んでいた。
しかし結局、甲野はまた歩き始めた。見たくもない叡山を見に行き、登山の苦しみを身体へ刻まねばならない現実から逃げ切ることは出来なかったのである。
杉林と叡山の荘厳
やがて二人は深い杉林へ入った。杉は幾重にも空を覆い、伝教大師以来の歴史をそのまま閉じ込めているようだった。
杉の根は岩を裂き、天然の階段のように山道を横切っていた。甲野は息を切らしながら、その自然の階を登っていった。
その先で宗近が声を上げ、甲野を呼び止めた。杉の隙間からは、近江の湖が鏡のように光っていたのである。
湖は霞と春色の中へぼんやりと広がり、白帆が夢のように静止していた。宗近は、その景色をただ「綺麗だ」と楽しみ、甲野は「夢のようだ」と呟いていた。
対照的な二人の世界
宗近は、春の世界を豪快に楽しみながら山を下り、近江の野へ出て行こうとしていた。
一方の甲野は、高く暗く静かな場所から、春の世を遠く眺め続けていた。現実へ積極的に飛び込む宗近と、俗世から距離を置こうとする甲野。二人は同じ山を登りながら、全く異なる世界を生きていたのである。
二
紫の女・藤尾
藤尾は、春の昼の静寂の中へ鮮やかな紫を落としたような女として描かれていた。黒髪には玉虫貝の簪を挿し、深い瞳は見る者の心を奪う魔力を備えていた。
その眼差しは、春を支配するほど強く、覗き込んだ者を二度と俗世へ戻れなくする危険さを帯びていた。藤尾は単なる美人ではなく、人の精神を呑み込む妖しい存在として現れていたのである。
クレオパトラ朗読
藤尾は膝の上へ書物を広げ、クレオパトラの最期を読む場面へ没頭していた。
そこには、愛する者と共に墓へ隠されたいと願うクレオパトラの嘆きと誇りが語られていた。藤尾は、その悲劇的で妖艶な物語へ強く惹かれていたのである。
一方、小野は藤尾の横顔や唇、わずかな視線の動きに心を奪われていた。藤尾がただ一度ちらりと眸を動かしただけで、小野は既に勝負が決してしまったと感じていた。
藤尾による心理操作
藤尾は「小野さん」と呼び掛けながら、すぐには用件を言わなかった。小野は会話を繋げねばならぬ不安へ追い込まれ、完全に藤尾の呼吸へ引き込まれていた。
藤尾は、先ほどまで相手の存在を忘れていたかのような態度を取り、小野をさらに動揺させた。小野は、自分が眼中にないように扱われることで、逆に強く意識せざるを得なくなっていたのである。
藤尾は沈黙や視線、言葉の間を巧みに操り、小野の心を自由に翻弄していた。
紫色のクレオパトラ
小野は、シェイクスピアの描くクレオパトラについて語り始めた。彼にとってクレオパトラは、古びた錦絵の中から紫色に燃え上がって浮かび出る存在だった。
すると藤尾は、自らの長い袖を小野の目前で翻した。その瞬間、小野の脳裏にはクレオパトラの妖しい香りが立ち込めた。
小野は、紫の恋とは暴風雨の恋であり、九寸五分の短刀のような激しい恋だと語った。藤尾は、それを面白がるように聞き返しながら、小野をさらに深みへ引き込んでいった。
嫉妬と年齢の探り合い
藤尾は、クレオパトラの嫉妬について話を進めながら、やがて自分自身の年齢へ話題を誘導した。
小野は答えに窮しながらも、藤尾へ若さと可愛らしさを感じていた。藤尾は二十四歳であり、小野より三つ年下だった。
しかし藤尾は、自分が老いたら嫉妬深くなるかと問い掛け、小野をさらに困惑させた。小野が曖昧な返答しか出来ない中、藤尾は「私には嫉妬がありますよ」と冷たい声で断言した。
その一言は、詩的空想へ逃げ込んでいた小野を、一気に現実へ引き戻したのである。
清姫と安珍になぞらえる藤尾
藤尾はさらに、清姫が蛇になった年齢や安珍の年齢を話題にした。
やがて藤尾は、小野へ「あなたは安珍のよう」と言い放った。小野が、自分は逃げないと返すと、藤尾は「私は清姫のように追いかけますよ」と笑った。
その言葉は、冗談めきながらも危険な情念を帯びていた。藤尾の放つ紫色の稲妻のような気配は、小野の胸を深く射抜いていたのである。
現実へ引き戻される二人
二人だけの世界が成立しかけた時、玄関で母親の帰宅する音が響いた。
張り詰めていた空気は崩れ、藤尾は何事もなかったように「母が帰って来たのです」と言った。小野も平静を装い、互いに感情を外へ出さぬまま日常へ戻っていった。
二人は、自分たちの間に危うい感情が存在することを理解しながらも、それを明言する事はなかったのである。
母親との会話と甲野の話題
藤尾の母は、小野へ礼を述べながら、藤尾が子供っぽく我儘だと語った。さらに、兄の甲野についても、哲学ばかりで身体が弱く、宗近に無理やり旅行へ連れ出されたのだと説明した。
藤尾は、甲野が特別なのだと冷静に言い切っていた。
また、以前、甲野の本を庭へ投げ捨てた話まで持ち出され、小野は藤尾の激しい気性を改めて知ることになった。
金時計の駆け引き
その後、藤尾は座布団の下から金時計を取り出した。鎖を揺らしながら、小野の胸元へ合わせ、「こうすると引き立ちますよ」と言って見せた。
母親も似合うと笑い、小野は状況を理解出来ぬまま翻弄されていた。
藤尾は「上げましょうか」と流し目で尋ねたが、小野が答えられずにいると、「じゃ、止しましょう」と言って再び時計を外した。
その一連の所作は、小野を誘惑し、翻弄し、そして寸前で手を引く、藤尾特有の危うい遊戯だったのである。
三
雨宿の宿と対照的な二人
京都には春雨が静かに降り続いていた。宿の二階では、宗近が貸浴衣の上へ丹前を重ね、寒い京都を眺めながら胡坐をかいていた。
一方、甲野は駱駝の膝掛を掛け、空気枕へ頭を沈めて寝転がっていた。宗近が京都は寒いと言えば、甲野は眠い所だと答え、終始気怠げだった。
宗近は甲野を気楽にさせるため苦労していると語るが、甲野は素っ気ない返事しか返さなかった。二人の温度差は、雨の宿の中でも鮮明だった。
襖絵と哲学談義
宗近は金紙貼りの襖へ描かれた筍を見ながら、意味不明な絵だと笑っていた。
すると甲野は、意味があるからこそ謎なのだと返した。そこから話は哲学へ移り、宗近は哲学者とは意味のないものを必死に考える存在だとからかった。
さらに宗近は、ゴルディアスの結び目の話を持ち出した。アレクサンダーが結び目を断ち切ったように、人間には「それならこうするばかりだ」と割り切る決断力が必要だと主張していた。
しかし甲野は、「都合」ほど卑怯なものはないと答え、簡単な合理性へ従う態度を嫌悪していた。
春雨の京都
雨は下京にも上京にも静かに降り注いでいた。寺町では寺へ、祇園では桜へ、金閣寺では松へ降る雨だった。
古い都は、糠雨によってさらに侘びた景色を帯びていた。鬼のいなくなった羅生門の跡にも、昔と変わらぬ春雨だけが残っていた。
その静かな京都の宿で、甲野は横綴じの日記帳を開き、鉛筆で断片的な文章を書き始めた。
甲野の日記と思索
甲野は「一滴の雨粒が塔の角から落ち、老若男女を問わず人々を惨殺する」と書き出した後、さらに宇宙や人間についての思索を綴っていった。
彼にとって、この世は全て謎だった。親も兄弟も妻も、さらには自分自身でさえ完全には理解出来ない存在だったのである。
人は解けない謎を抱えたまま老い、苦しむために生きている。そして妻を持つことは、新たな謎を引き受け、その謎からさらに新たな苦悩を増やす行為だと考えていた。
甲野は、全ての疑問を解くには自分自身を捨てるしかないと感じていた。しかし、単なる死では無能過ぎるとも書き残していた。
隣家の琴
その頃、隣家からは琴の音が聞こえていた。宗近は籐椅子へ座り、ぼんやりとその音色を楽しんでいた。
甲野は、形や音とは物の本体ではなく、本体を捉えた時に初めて意味を持つものだと考えていた。そして、それを象徴と呼んでいた。
しかし宗近は理屈抜きで、ただ琴が上手いと感じていた。二人は同じ音を聞きながら、全く異なる受け取り方をしていたのである。
琴の主の噂
宗近は、隣家の琴の主を実際に見たと語った。障子へ凭れながら庭を見ていたその女は、美人だったという。
宗近は、その女を藤尾より少し劣るが、糸子より美しいくらいだと評していた。甲野は特に興味を示さなかったが、宗近はしきりに縁側へ出て見ろと誘っていた。
さらに宗近は、こうした京都の雰囲気は小野に似合うと笑っていた。小野なら障子が開くまで待ち続けるだろうとからかっていたのである。
酔っ払い論
宗近は、文学者は霞に酔って本体を見ようとしないと批判した。甲野は、それに対して哲学者は塩水に酔ったようなものだと返した。
さらに宗近は、自分は叡山を若狭まで突き抜ける「夕立の酔っ払い」だと笑った。二人は互いを酔っ払いになぞらえながら、自分たちの生き方の違いを冗談めかして語り合っていた。
甲野の笑いと宗近の理解
甲野がふと淋しげに笑うと、宗近は急に真面目になった。
その笑みは劇的なものではなく、かすかに浮かんではすぐ消える淡い表情だった。しかし宗近は、その一瞬の中に甲野の人生そのものが滲んでいるように感じ取っていた。
甲野という人間は、派手な激情ではなく、かすかな陰影の中でこそ理解出来る存在だったのである。
家督と藤尾の問題
やがて話題は、藤尾と家督の問題へ移った。
宗近は、家を藤尾へ譲れば済むのではないかと言うが、甲野は自分が立ちん坊になるだけだと答えた。そもそも家を継いでも継がなくても、自分は根無し草のような存在だと考えていたのである。
さらに宗近は、甲野がはっきりしないから藤尾も嫁に行けないのだろうと指摘した。しかし甲野は、藤尾は「行かれない」のではなく「行かない」のだと断言した。
そこには、藤尾という女の強烈な意志と、甲野自身の複雑な感情が滲んでいた。
叔父の遺品と金時計
二人は最後に、外国で亡くなった叔父の遺品について話し始めた。
その中でも話題になったのは、ロンドンで買った金時計だった。鎖には柘榴石が付いており、幼い頃から藤尾のお気に入りの玩具だったのである。
宗近は、その時計を形見として欲しいと語った。甲野も、本来は宗近へ渡されるはずの物だと認めていた。
しかし同時に甲野は、今頃その時計を藤尾がまた玩具として握っているかもしれないとも口にした。宗近は、それでも構わないと笑っていた。
四
色の世界に生きる男
甲野の日記には、小野について「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」と記されていた。さらに「生死因縁無了期、色相世界現狂癡」とも書かれていた。
小野は、世界を色彩と美によって捉える男だった。理屈や本質よりも、華やかさや感覚によって人生を進もうとしていたのである。
暗い出自と孤独
小野は暗い境遇に生まれた。私生児だという噂すらあり、幼い頃から人に虐げられていた。学校では苛められ、犬にまで吠えられていた。
父は既に亡く、帰る家もない。小野は人の世話になりながら生きるしかなかった。
その姿は、水底に漂う藻のようだった。波に揺られながらも逆らわず、ただ運命に従って動いている存在だったのである。
孤堂による援助
京都では、井上孤堂が小野を支えていた。孤堂は着物を誂え、学費を出し、書物まで与えていた。
小野は祇園の桜を巡り、知恩院の勅額を見上げ、都会の文化へ触れるようになった。水底の藻だった小野は、ようやく水面近くまで浮かび上がってきたのである。
東京での成功
東京は、小野にとって目の眩むような世界だった。人々は目まぐるしく動き、立ち止まる暇もない。
しかし小野は考え込まず、その流れへ身を任せて進んでいった。周囲からは秀才、有望だと評価され、やがて恩賜の銀時計まで授かるようになった。
浮かび上がった藻は、ついに白い花を咲かせたのである。しかし、その根が存在しない事にはまだ気付いていなかった。
小野の美学
小野にとって世界とは「色の世界」だった。形式や道義よりも、美しく華やかなものに価値を見出していた。
机には花が活けられ、窓の外には柳が揺れ、ハンケチにはヘリオトロープの香が残る。小野は、そうした繊細で美しい世界に生きていたのである。
彼は、世の中で形や本体ばかりを論じる者たちを軽蔑していた。美を味わえぬ者は、皿ばかり眺めて料理を食わぬようなものだと考えていたのである。
過去と未来への執着
小野は、自分の過去を暗く陰鬱なものとして振り返っていた。しかし、その暗闇の中にも一つだけ紅く揺れる記憶があった。
その紅は、かつての憧れであり、今では遠く褪せかけているものだった。小野は未来へ進む事で、その暗い過去を振り切ろうとしていた。
現在の小野にとって未来とは、咲きかけた薔薇だった。その薔薇を完全に開かせる事こそ、自らの成功だと信じていたのである。
博士論文と藤尾への欲望
小野は博士論文を書こうと決意していた。博士という肩書は、彼にとって最も美しい成功の象徴だった。
未来を覗けば、金色に輝く「博士」の文字が見える。その傍には金時計があり、鎖には赤い柘榴石が揺れている。そして、その側には藤尾が立って手招きをしていた。
小野にとって、博士号も金時計も藤尾も、全ては一枚の華麗な絵の中へ収まる成功の象徴だったのである。
タンタロスの苦悩
しかし小野は、自分がタンタロスのような存在でもあると感じていた。
手を伸ばせば届きそうな果実や水が、決して掴めない。藤尾も、博士号も、未来の栄光も、近づくほど遠ざかる気がしていたのである。
時には藤尾が冷たい眼差しで自分を拒絶し、金時計が空から落ちて砕け散る幻想すら見えていた。
孤堂からの手紙
そんな折、下女が手紙を持ってきた。差出人は井上孤堂だった。
小野は、封を裏返す事すらためらった。中身の見当がついていたからである。知りたくない現実を前に、亀が甲羅へ閉じこもるように躊躇していた。
しかしついに封を切ると、そこには孤堂が娘の小夜を連れて東京へ移住するという知らせが書かれていた。
さらに孤堂は、小夜の将来についても上京後に相談したいと書いていた。それは暗に、小野と小夜との結婚問題を意味していたのである。
過去に追われる小野
手紙を読み終えた小野は、過去の臭いが蘇ってくるように感じていた。
これまでは未来へ進み続ける事で、暗い過去を遠ざけられると思っていた。しかし今、その過去が逆に自分へ迫って来ていたのである。
小野は部屋の中を歩き回り、落ち着きを失っていた。華やかな未来だけを見ていたはずの男が、再び暗い過去へ引き戻され始めていた。
浅井との会話
そこへ京都以来の友人・浅井が訪ねて来た。浅井は博覧会や露西亜料理の話をしながら、小野を気楽に誘った。
しかし浅井はすぐ、井上家の娘が東京へ来る話を持ち出した。さらに、小野が結婚するのだろうと当然のように言った。
小野は曖昧に否定し、事情があると誤魔化していた。しかし浅井の言葉によって、小野自身も逃げ切れない現実を突き付けられていたのである。
浅井が帰った後、小野の足は自然と甲野の家へ向かっていた。
五
天竜寺の静寂
甲野と宗近は天竜寺へ足を踏み入れた。山門をくぐった瞬間、古い時代の緑が左右から迫り、空気そのものが俗世と切り離されたように感じられていた。
石畳は自然石を整然と並べたもので、二人の足音だけが静かに響いていた。その先には木賊葺の大きな伽藍がそびえ、堂宇は重厚な翼を広げるような姿を見せていた。
甲野は、その建築が容易に壊れぬ構造を備えていると感心した。宗近は、それをアリストテレスの「理形」に適った造りだろうと冗談めかして語っていた。
さらに宗近は、夢窓国師のような人物がいるからこそ、こうした場所に価値が生まれるのだと言った。単なる観光ではなく、そこへ精神が宿っている事が重要だと感じていたのである。
夢窓国師と宗近の思想
宗近は、夢窓国師のような存在を単なる歴史上の人物としてではなく、今なお伽藍そのものに生きている精神として捉えていた。銅像などより、こうした建築として残る方が遥かに価値があると語っていたのである。
一方、甲野は境内の景色を見ながら、「ちっとも曲っていない」と評した。そこには明快で迷いのない世界が広がっているように感じられたのである。
宗近は、それは自分の性格に似ているから気持ちが良いのだろうと笑った。夢窓国師が自分に似ているのだと言い放つ豪胆さは、宗近らしい態度だった。
蓮池での休息
二人は蓮池へ渡された石橋で腰を下ろした。苔むした石、水辺の枯蓮、静かな池面が、春の古寺らしい風景を形作っていた。
宗近は煙草の燃え残りを池へ捨てたが、甲野は夢窓国師ならそんな事はしなかったと静かにたしなめた。宗近は、それだけ夢窓国師が自分より下等なのだと笑っていた。
会話はやがて外交や国家へ及び、宗近は北京駐在の外交官になって天下国家を動かしたいと語った。甲野は、自分一人すら持て余しているのに国家など考えられぬと冷淡だった。
国家観の対立
宗近は、日本という国家を考えぬ甲野を我儘だと批判した。これまで冗談混じりだった会話は、この時初めて真剣な色を帯びていた。
しかし甲野は、日本と露西亜の戦争ではなく、人種と人種の争いなのだと返した。アメリカ、インド、アフリカを引き合いに出しながら、日本も結局その大きな流れの中にあると見ていたのである。
宗近は、誰でも死ぬのだから国家のために尽くすのは当然だと考えていた。一方の甲野は、人間は知らぬ間に殺されているのだと厭世的に答えていた。
さらに甲野は、本堂を再建した峩山和尚の話を引きながら、人間の意志だけで巨大な事業を成し遂げられるものではないと感じていた。
嵐山の春と京女
その時、山門の向こうを嵐山へ向かう人々が絶え間なく通り過ぎていった。赤や青の衣が入り乱れ、春の嵯峨を鮮やかに染めていた。
宗近は京女の華やかさに見惚れ、天下の大勢さえ忘れていた。京都の女たちは、まるで都踊りを日常のまま生きているようだったのである。
しかし甲野は、都踊りほど飾られると人間味が消え、むしろ京人形に近づくと語った。危険なのは、淡粧して活動する現実の女だと感じていたのである。
第一義の思想
二人は、人間の「第一義」について語り合った。宗近は、自分たちは第二義や第三義ではなく、もっと上等な部分で生きているのだと冗談交じりに言った。
しかし甲野は、本当の第一義とは血を見た時に現れるものだと語った。人間は軽薄であり、血によって初めて本性が剥き出しになると考えていたのである。
その言葉へ答える代わりに、甲野は売店の茶碗を見つめ始めた。宗近は突然その袖を引き、茶碗を土間へ叩き落として砕いてしまった。
甲野は壊れた破片を眺めながら、「こうだ」と呟いた。宗近は、茶器などひねくれた道具に過ぎず、壊してしまえばよいのだと笑っていた。
琴の女との邂逅
その直後、宗近は以前宿で見かけた「琴を弾く女」を発見した。しかし甲野が茶碗へ気を取られている間に、その女は通り過ぎてしまった。
宗近は残念がりながらも、あの女は京人形ではなく東京の女だと説明した。さらに、その側にいた黒い羽織の老人は父親に違いないとも語った。
甲野は女を見損ねた事を惜しみつつも、既に色の世界そのものへ飲み込まれていく春の嵐山を眺めていた。
保津川下り
二人は嵯峨から丹波行きの汽車へ乗り、亀岡へ出た。そして保津川下りの舟へ乗り込んだ。
舟は底が浅く、四人の船頭が竿や櫂を操っていた。黒々とした節くれ立つ腕や、藤蔓で補強された櫂は、荒々しい自然と一体化していた。
やがて舟は急流へ滑り込んだ。岩をかすめ、渦へ飛び込みながら、矢のように川を下っていく。宗近は、その激しさへ歓喜していた。
宗近は、夢窓国師よりこちらの方が偉大だと笑った。自然そのものが第一義で活動しているように見えたのである。
甲野は、自然を見本として感じるのは、結局人間の内側にある第一義を自然へ投影しているからだと語った。人間が自然を翻訳しているのであり、その逆ではないという考えだった。
保津川を下る舟は、やがて嵐山近くへ辿り着いた。二人は再び、花と京人形のような女たちに満ちた色の世界へ戻っていったのである。
六
糸子という女
糸子は、薄鶯色の襟元から蘭の花の香が静かに漂うような女として描かれていた。丸顔にはわずかな愁いが宿り、穏やかで家庭的な気質を備えていた。
しかしその性格は、藤尾とは対照的だった。藤尾が鋭い一本の針のように相手を刺し抜く女だとすれば、糸子は五本の指を同時に差し出すような曖昧さを持っていたのである。
藤尾は相手を一直線に射抜く。対して糸子は、優しく、遠慮がちで、何を指しているのか定まらない。その違いが、二人の会話そのものを戦争へ変えていた。
女同士の駆け引き
藤尾は主人役として糸子を迎えた。会話は表面上穏やかだったが、その実態は互いの内側を探り合う戦争だった。
糸子は、父が忙しいため外出出来ないと控えめに答えた。すると藤尾は、春は一年に一度しか来ないのだから、もっと外へ出るべきだと促した。
さらに藤尾は、「死ねば今年ぎりではないか」と言葉を差し込んだ。しかし糸子は、その意味を深く受け取らず、ただ笑って受け流した。
藤尾は、相手を墓の向こう側へ連れて行こうとしていた。しかし糸子は、墓の向こう側など考えた事もない家庭的な女だったのである。
家庭的な女への軽蔑
糸子は、兄が嫁を貰えば自分も外へ出歩くだろうと話した。男の生活を支えるために存在する事を当然と考える、典型的な家庭的女性だった。
藤尾は内心でそれを軽蔑していた。女の眼や袖、詩や歌は、鍋や炭取のような実用品ではないと考えていたのである。
美しい女とは、美しい世界を漂う影そのものである。そこへ「実用」の二字を被せる事は、女への侮辱に等しかった。
結婚話を巡る攻防
やがて藤尾は、一さん――宗近の結婚話を持ち出した。糸子は、嫁に来る人がいればいつでも貰うだろうと答えた。
藤尾は、どこか心当たりはないのかと探りを入れる。糸子は、「私の姉さんのつもりで探してください」と言った。
しかし藤尾は、「あなたの方が姉さんよ」と即座に切り返した。その瞬間、糸子の頬には思わず感情の色が浮かび、藤尾は内心で勝利を確信していた。
藤尾にとって会話とは、ただの雑談ではなく、相手の感情を暴き出すための戦場だったのである。
小野の来訪
そこへ小野が現れた。小野は過去に追われ、未来へ逃げ込もうとしている最中だった。
藤尾は、小野の顔色が悪い事へ気付いた。糸子も純粋に心配したが、藤尾はすぐ論文執筆のせいだろうと話を作った。小野も、それに乗るしかなかった。
藤尾は、小野が卒業時に銀時計を貰ったのだから、今度は論文で金時計を取るのだと冗談めかして言った。小野は微笑するだけだった。
宗近の話題と京都の女
会話は、京都へ旅立った宗近と甲野の話へ移った。宗近は京都から絵葉書を送り、「京都の女はみんな綺麗だ」と書き添えていた。
さらに宗近は、隣家で琴を弾いていた女は糸子より美人だが、藤尾よりは劣るとも書いていた。
藤尾は、その言葉へ得意さと照れを入り混ぜたような表情を浮かべた。小野と藤尾の視線も、再びそこで交わった。
しかし糸子には、その視線の意味までは理解出来なかった。
蔦屋の名と小野の動揺
糸子は、宗近たちが泊まっている「蔦屋」という宿について尋ねた。
その瞬間、小野は激しく動揺した。蔦屋という名が、彼の過去と結び付いていたのである。
藤尾は気付かぬまま、春雨の日に隣家から琴が聞こえる宿の情景を語り始めた。
裏二階、加茂川、霞む東山、遠くに見える五重塔――藤尾は詩のような風景を夢想し、小野へ同意を求めた。
詩と現実の衝突
しかし糸子は、五重塔がどうするのかと素朴に尋ねてしまった。
藤尾にとって、それは詩の世界を壊す言葉だった。五重塔に実用性を求めるような感覚は、美の世界そのものを壊す行為だったのである。
糸子は慌てて取り繕ったが、藤尾の不機嫌は消えなかった。そこで小野は、詩の命は事実より確かなものだと語り、藤尾へ同調した。
その言葉は真理ではあったが、同時に糸子を傷付けるものでもあった。小野は、自分の保身と藤尾への配慮から、無意識に糸子を切り捨てていたのである。
春雨の終幕
藤尾はさらに、隣家の庭や琴の音について語ろうとした。空は次第に暗くなり、辛夷の花の間へ細い雨糸が見え始めていた。
やがて春雨は本降りとなった。糸子は、話の空気に耐え切れなくなったように立ち上がり、「大変面白かったわ」と言い残して帰っていった。
藤尾と小野、糸子の間に漂っていた緊張は、春雨と共に静かに崩れていったのである。
七
京を離れる夜
春の遊興を終えた甲野と宗近は、帰京のため夜汽車へ乗り込んだ。古寺や神社、静かな森に包まれていた京都の一日は、ようやく倦怠を帯びた夕暮へ沈んでいった。
星さえも眠たげに空へ溶け込み、過去の記憶が静かな闇の奥から動き始めていた。
作者はここで、人にはそれぞれ異なる世界があると語る。怒り、恋、道義、欲望――人は各々の因果を中心に、自分だけの円を描いて生きている。そして異なる世界同士が交差する時、悲劇や運命が生まれるのである。
甲野と宗近、小夜子と孤堂。四人の世界は、この夜汽車の中で再び交錯しようとしていた。
夜汽車の中の甲野と宗近
車内では、宗近が京都の人間は皆この汽車で博覧会へ向かうのだろうと笑っていた。甲野は、あれほど閑静な京都にも生まれる者と死ぬ者が存在するのだと呟いた。
宗近は、蔦屋の隣家に住む親子――琴を弾く女とその父親についても話し始めた。あの静かな親子が東京へ引っ越すらしいと語る。
甲野は、その娘もいずれ嫁へ行くだろうと独り言のように漏らした。宗近は当然のように肯定したが、甲野は窓の外の暗闇を見つめたままだった。
二人は速度の話や京都の電車の鈍重さを語り合いながらも、それぞれ異なる思索の中へ沈んでいた。
小夜子の夢
一方、小夜子は、父・孤堂と共に同じ夜汽車へ乗っていた。
小夜子にとって、小野への想いは五年前から抱き続けた明るい夢だった。その夢は、命よりも鮮明であり、長い年月を経ても色褪せていなかった。
車は東へ走り続ける。小夜子は、その夢を胸に抱えたまま、やがて現実と夢が重なる瞬間へ近付いていると感じていた。
孤堂は、そんな娘の夢には気付かぬまま、過去をぼんやり振り返っていた。老人にとって過去とは、人も草木も曖昧に溶け合った遠い景色になっていたのである。
小野の思い出
孤堂は、小夜子へ、京都へ来た頃の話を始めた。五年前、亡き妻と共に嵐山へ出掛けた記憶、小野が団子を食べていた思い出などが語られた。
さらに孤堂は、小野が昔は青白い顔でおどおどしていたが、今では立派になったと語った。銀時計を授かったのも、人の世話をした甲斐があったからだと満足していたのである。
その話を聞きながら、小夜子の胸の中では、小野への夢がさらに鮮やかになっていた。
やがて孤堂は眠り、小夜子もまた、小野が新橋へ迎えに来てくれるだろうという期待を抱きながら眠りへ落ちていった。
富士山の朝
夜明け、列車の窓からは富士山が姿を現した。
白雪を頂いた巨大な山は、紫や藍の襞を幾重にも重ねながら、圧倒的な姿で空へ聳えていた。宗近は興奮し、富士こそ人間の理想だと語った。
しかし甲野は、駱駝の毛布を被ったまま冷淡だった。富士より叡山の方がいいとまで言い、宗近から呆れられていた。
二人の価値観の違いは、雄大な富士を前にしても変わらなかったのである。
朝食と東京への接近
孤堂と小夜子は弁当を広げながら、小野が宿を探してくれているだろうかと話していた。孤堂は、小野なら当然用意しているだろうと気軽に答えていた。
一方、甲野と宗近は食堂車へ移動し、ハムエッグを食べながら再び琴の女について語り始めた。
宗近は、これほど何度も偶然出会うのだから、小説ならここから恋愛事件が始まるところだと笑った。
しかし甲野は、それほど単純な関係ではないと言った。情交以外の何か別の因縁があるように感じていたのである。
さらに甲野は、あの女は嫁に行くのだろうかと、妙に真面目な口調で呟いていた。
新橋での交錯
列車はついに新橋へ到着した。
宗近は、先ほど走って行ったのは小野ではなかったかと甲野へ尋ねた。しかし甲野は気付かなかったと答えた。
四人の小世界は、停車場へ辿り着いた事で一度ばらばらに分かれていく。しかし、それぞれの運命はまだ完全には切れていなかったのである。
八
静かな母子の対話
夕暮の庭には浅葱桜がぼんやりと霞み、室内には静かな春の空気が満ちていた。火鉢の傍には甲野の母が端然と座っていたが、その穏やかな外見の裏には鋭い気性が潜んでいた。
そこへ藤尾が現れ、無言のまま母の向かいへ座った。しばらく二人は言葉を交わさず、鉄瓶の鳴る音だけが部屋へ響いていた。
やがて藤尾は、兄が帰って来ても何も変わらないのだと語った。母も、甲野は生涯あの調子なのだろうと苛立ちを露わにしていた。
甲野への不満
母は、甲野が家督を継ぐのを嫌がりながら、独立するだけの行動も取らない事へ強い不満を抱いていた。
哲学ばかり語り、卒業後二年も部屋で寝転がっているだけだと嘆き、顔を見るたび癇癪が起こるとまで言っていた。
さらに母は、甲野が「財産は藤尾へやり、自分は流浪する」と周囲へ語っている事にも腹を立てていた。それでは、まるで自分たちが甲野を追い出そうとしているように見えるからである。
藤尾は、兄が遠回しな言葉しか使わないため、何を考えているのか周囲に伝わらないのだと冷たく評していた。
藤尾の結婚問題
母は、二十四歳になった藤尾が未だ嫁へ行かない事にも焦りを感じていた。
しかし甲野は、藤尾に母の世話をさせたいと言いながら、自分では何も決断しない。藤尾は、その煮え切らぬ態度へ強い苛立ちを抱いていた。
さらに藤尾は、いっそ宗近が糸子を貰ってしまえばよいのだと口にした。母は、宗近自身にその気があるのか疑問視していたが、藤尾は糸子の側には十分その意思があると見抜いていた。
金時計の因縁
話題はやがて、叔父の形見である金時計へ移った。
母によれば、宗近の父はかつて「この時計を宗近へやる。ただし藤尾が欲しがって付いて行くかもしれないが、それでもよいか」と冗談半分に言った事があるという。
しかし藤尾は、その話を馬鹿らしいと切り捨てた。そして時計は自分が貰うと断言したのである。
文庫の底にしまわれた時計の鎖には、赤い柘榴石が妖しく光っていた。その光は、藤尾を強く引き寄せていた。
立ち去り際、藤尾は「あの時計は小野さんへ上げてもよいでしょうね」と言い残した。母の返事は聞こえなかったが、その言葉には藤尾自身の感情がはっきり滲んでいた。
宗近家の賑やかな夜
一方、宗近家では明るい洋灯が灯り、先ほどまでの陰鬱な空気とは対照的な賑やかな会話が続いていた。
宗近の父は、叡山について熱心に語り始めた。東塔、西塔、横川など延暦寺の構造を説明し、宗近と甲野へ、ただ登っただけでは叡山を理解した事にはならないと説いていた。
宗近は、若狭まで行く所だったなどと冗談を飛ばし、場を笑わせていた。糸子も笑みを浮かべ、宗近の父は終始上機嫌だった。
甲野と宗近の対照
宗近の父は、叡山の修行僧たちの話をしながら、今の学生は贅沢だと語っていた。
宗近は、坊主ですら夜中に坂本へ蕎麦を食べに下山するのだから、自分たちが怠け者扱いされるのは不当だと笑っていた。老人も大声で笑い、一座は終始和やかだった。
しかし甲野だけは、その賑やかな場の中でも孤立していた。周囲は彼を普通の青年として扱うが、甲野自身は、誰一人として自分や母の本心を理解していないと感じていたのである。
結婚への圧力
宗近の父は、甲野が煮え切らないせいで藤尾も困っているのだと率直に指摘した。女は年頃を逃すと大変なのだから、早く身を固めるべきだと言う。
さらに宗近に対しても、そろそろ嫁を貰わねばならないと語った。宗近は、外交官試験に落第したからまだ駄目だと笑っていたが、父は本気で結婚を考えていた。
糸子は、そんな会話を聞きながら胸を重くしていた。甲野が「嫁を貰うくらいなら十二年叡山へ籠る方がましだ」と内心で考えている事を、彼女は敏感に察してしまったのである。
賑やかな笑い声の裏側で、それぞれの思惑と感情は静かに擦れ違い続けていた。
九
過去の夢と現実の衝突
小夜子は、長年抱き続けてきた夢が現実によって崩れ始めている事を痛感していた。かつて懐に秘めていた小野への想いは、珠のように鮮やかだった。しかし、その夢を東京という現実へ持ち出した瞬間、往年の輝きは失われ始めていたのである。
小夜子は「過去の女」であり、抱いているのもまた「過去の夢」だった。過去に生きる者と、現在を生きる者との間には二重の隔たりがあり、もはや簡単には交わらないのである。
一方、小野もまた過去に追われていた。捨て去ったはずの過去は、夢の塵を払いながら再び彼の前へ現れようとしていたのである。
東京の家と小夜子の劣等感
小夜子と孤堂が移り住んだ東京の家は、狭く貧しく、京都の静けさとは程遠い住居だった。
煤けた天井、雨漏りの痕、隣家の声が筒抜けの塀、貧弱な庭。小野が世話してくれた家ではあるが、彼自身も内心では下卑た住まいだと感じていた。
そして小野は、こんな家ではなく、辛夷や葉蘭が似合うような上品な住まいを夢見ていた。その瞬間、彼の脳裏には藤尾の家が浮かんでいたのである。
しかし小夜子は、その家を「好い家」と信じ、純粋に感謝していた。その素朴さは、小野にとって哀れであり、同時にどこか見下したくなる対象でもあった。
変わってしまった小野
小夜子は、五年ぶりに再会した小野の変化へ強い衝撃を受けていた。
金縁眼鏡、背広、品の良い胴衣、口髭、恩賜の銀時計。昔の貧しい書生だった小野は、既に洗練された紳士へ変わっていたのである。
しかしその変化は、自然な成長というより、過去を押し潰して無理に現在を作り上げたような変化だった。小夜子には、自分がその世界へ到底届かない存在になってしまったように思われた。
小野は依然として親切だった。新橋へ迎えに来て、車を手配し、住居まで探してくれている。だが、その親切さが逆に小夜子との距離を決定的にしていた。
京都の記憶と一瞬の接近
小野は、話題を京都へ向けた。嵐山や大悲閣、小督の局の墓など、昔二人が共有していた記憶を語り始めたのである。
その時だけ、小夜子は昔の小野へ近付けた気がした。雑沓の少なかった昔の嵐山、静かな京都――それらを語る小野は、確かに過去の小野だったのである。
しかし目の前にいるのは、やはり現在の小野だった。金縁眼鏡も口髭も、過去の夢とは異なる現実を突き付けてくる。小夜子は、せっかく蘇りかけた昔話を自ら断ち切り、黙り込んでしまった。
小夜子の美と小野の鈍感さ
小夜子が俯き、耳朶や頬の線が淡く陰る姿は、作者にとって極めて美しい情景として描かれていた。
もし小野がその美へ気付いていれば、過去へ飛び戻っていたかもしれない。しかし小野は真正面に座っており、その繊細な美を理解出来なかった。
その代わり、小野の意識には藤尾の袖の香が濃く残っていた。紫色の幻想は、小夜子の静かな魅力を覆い隠してしまっていたのである。
別れと小夜子の孤独
小野は「また来ます」とだけ言い、帰ろうとした。小夜子は何か言おうとするが、言葉にならない。
小野は急かされるように去っていき、小夜子だけが取り残された。離れていく者には未練も会釈もないように見え、小夜子は強い孤独を感じていた。
その後、小夜子は部屋へ戻り、琴の音を聞きながら京都の日々を思い返していた。春雨の京都、琴の音、小督の曲。あの静かな世界こそ、自分に相応しい場所だったのである。
東京は、小夜子にはあまりにも激しく、時代遅れの自分は完全に取り残されていると感じていた。
孤堂の帰宅
やがて孤堂が帰宅した。東京の埃っぽさを嘆きながらも、どこか楽しげに買って来た座布団を広げていた。
孤堂は、小野が立派になった事を素直に喜んでいた。しかし小夜子は、「私は昔の通りで、少しも変わっていないそうです」と静かに漏らした。
孤堂には、その言葉の重さが理解出来なかった。彼は、小野が論文で忙しいから落ち着かないだけだと慰め、小夜子へもっと話をすれば良かったのだと諭していた。
しかし小夜子は、口を利けぬよう育てられた自分が、なぜ今さら話せと言われるのかと、内心で深く傷付いていた。
博士論文と絶望
孤堂は、小野が近々博士論文を提出するのだと誇らしげに語った。
しかし小夜子には、博士号も銀時計も無意味だった。小野が自分から遠ざかっていく象徴にしか思えなかったのである。
琴を弾こうと言われても、小夜子にはもうその気力がなかった。琴も京都も過去の世界であり、自分自身もまた過去の人間になってしまったのだと感じていたのである。
十
謎の女の到来
作者は藤尾を「謎の女」と呼び、その存在を妖しいものとして描いていた。
謎の女は、鳥を雀に、雀を鳥へ変えてしまうように、世界の秩序そのものをかき乱す存在だった。近づく者を鍋の中へ入れ、杉箸で静かに掻き回すように翻弄するのである。
その正体は金剛石のようだった。激しく光るが、どこから光っているのか分からない。見る角度によって全く違う表情を見せ、人を惑わせる存在だったのである。
しかし、その危険さは露骨ではなかった。二十世紀の都会に生きる藤尾は、愛嬌や親切という形をまといながら、静かに人間関係を掻き混ぜていたのである。
宗近の父との対話
宗近の父は、藤尾の母を快く迎え入れていた。老人は大らかで善良であり、藤尾の母が抱える計算や意図には気付いていなかった。
藤尾の母は、深々と頭を下げ、欽吾や藤尾が世話になっている事への礼を丁寧に述べていった。その礼儀正しさは過剰なほどだったが、宗近の父はただ困惑するばかりだった。
話題は桜や嵐山、京都旅行へ移っていった。宗近の父は終始朗らかで、嵐山の花や羊羹の話などを陽気に続けていた。
しかしその一方で、藤尾の母は徐々に会話を甲野の結婚問題へ誘導していった。
甲野の病と母の苦悩
藤尾の母は、欽吾には朋友が一人もおらず、病気のせいで陰鬱になっていると語った。宗近だけが唯一欽吾を外へ連れ出してくれる存在なのだと持ち上げていた。
さらに母は、欽吾が家督を嫌がり、結婚も頑として拒み続けている事を嘆いた。自分は継母だから強く言えず、このままでは死んだ夫にも顔向け出来ないと涙混じりに訴えていた。
宗近の父は、その話を真面目に受け止めていた。欽吾へもっと穏やかに話してみようかと提案し、問題を解決しようと考え始めていたのである。
しかし藤尾の母は、自分から頼んだと思われれば欽吾が激怒すると言い、さらに相手を迷わせていった。
藤尾と宗近の縁談
やがて藤尾の母は、本題を静かに持ち出した。
宗近と藤尾なら気心も知れており、宗近家としても安心出来るだろうと話を進めたのである。宗近の父も、それなら亡き叔父も喜ぶだろうと乗り気になっていった。
しかし藤尾の母は、欽吾が今のままでは藤尾を嫁に出しても不安だと語り、結論を急がせながらも完全には決断しない態度を取り続けていた。
作者は、このように相手へ自分の望みを言わせ、自然に話を進める藤尾の母のやり方を「謎の女」の技法として描いていたのである。
宗近と糸子の明るい世界
一方、二階では宗近と糸子が全く別の空気を作っていた。
明るい部屋には盆栽や縫物が並び、糸子は穏やかに裁縫をしていた。宗近は寝転びながら冗談を飛ばし続け、二人は軽妙な兄妹らしい会話を交わしていた。
宗近は、父が高価な盆栽ばかり買い込む事を笑い、糸子はそれを楽しげに受け流していた。会話には毒がなく、互いへの親愛だけが漂っていた。
糸子は兄の着物を縫い、宗近は博覧会へ連れて行ってやると約束していた。二人の世界は、藤尾や小野のような緊張とは無縁の、家庭的で穏やかな空間だったのである。
糸子の藤尾評
しかし糸子は、藤尾については冷静だった。
宗近が藤尾を好いている事を見抜きながらも、「藤尾さんは駄目よ」とはっきり言ったのである。藤尾は、学問が出来て、名誉と信用を持つ男を好む女だと見抜いていたからだった。
糸子は、小野の名を挙げた。優等生で銀時計を授かり、博士論文まで書いている男こそ、藤尾の好む相手なのだと説明したのである。
宗近は、落第した自分では不名誉だと笑い飛ばしていた。しかし糸子は、宗近が気楽過ぎるのだと半ば本気で心配していた。
金時計と未来
宗近は、亡き叔父の金時計を自分が貰う約束になっていると語った。
糸子は、その話を聞いた瞬間だけ不安そうに俯いた。しかし宗近が大丈夫だと言うと、再び安心したような笑みを浮かべていた。
宗近は、外交官試験に受かって外国へ行ったら、糸子へ土産を買ってやると軽口を叩いていた。糸子も、それを笑いながら聞いていた。
二人の間には、恋愛でも策略でもない、自然で温かな兄妹愛が流れていたのである。
琴の女の話
宗近は最後に、京都で出会った「琴を弾く美人」の話を持ち出した。嵐山でも夜汽車でも偶然出会い、東京まで同じ列車で帰って来たのだと面白がって語っていた。
糸子は最初嘘だと笑っていたが、宗近は「因縁だ」と冗談めかして続けた。さらに甲野が、その女は嫁へ行くのだろうかと真剣に心配していたとも話した。
しかし最後には、「全部作り話だ」と笑って締め括った。糸子もまた、安心したように笑っていた。
十一
文明と博覧会
作者は、文明社会に生きる人々を「刺激に麻痺しながらも、さらに刺激を求め続ける存在」として描いていた。
文明の民は、日々の忙しさと退屈に苦しみながら、新しい刺激を求めて博覧会へ集まる。色彩、光、装飾、イルミネーション――それらは疲れ切った精神を無理に跳ね起こすための道具だったのである。
人々は「あっと驚く」事によって、自分がまだ生きていると確認しようとしていた。博覧会とは、文明そのものを刺激へ変えた巨大な空間だったのである。
夜桜とイルミネーション
上野では、散り残った桜と夜の灯が溶け合っていた。雨と風に散り急いだ花々の後を、イルミネーションの光が埋めていく。
その光景を見て、糸子は「あら」と驚きの声を漏らした。藤尾は「夜の世界は昼の世界より美しい」と静かに答えていた。
宗近、欽吾、藤尾、糸子の四人は、不忍池の畔に立ちながら幻想的な光景を見つめていた。
台湾館や外国館、三菱館の灯は夜空を埋め尽くし、宗近は「まるで竜宮だ」と興奮していた。
詩と俗の応酬
しかし藤尾は、宗近の「竜宮」という表現を「俗だ」と切り捨てた。
宗近は、形容はうまく当たれば俗になるのだと笑い、甲野は「詩は実際から外れるものだ」と応じた。藤尾は「実際より高いから」と補足した。
四人は同じ景色を見ていながら、それぞれ全く違う感性で受け止めていたのである。
やがて三菱館の赤い光を見て、藤尾は「冠に紅玉を嵌めたよう」と形容した。宗近はそれを「天賞堂の広告みたいだ」と俗へ引き戻し、甲野は「ローマ法王の冠」や「クレオパトラの冠」と別の幻想へ繋げていた。
水面の幻想
糸子は、空よりも水面の方が美しいと気付いた。
不忍池の静かな水面には、イルミネーションが逆さに映り込んでいた。赤や金の光が黒い水を染め、橋や電灯が長い列となって浮かび上がる。
四人はその光景へ視線を集めた。幻想的な夜景は、人間の現実や感情までも呑み込むような美しさを放っていたのである。
小野と小夜子の苦しい行進
その頃、小野は孤堂と小夜子を連れ、人波に押されながら橋を渡っていた。
橋の上は身動きが取れないほど混雑していた。巡査が左右へ人を誘導しても、群衆は波のように押し寄せ続ける。
小夜子は夢の中にいるような不安を覚え、孤堂も文明の波に潰されるような恐怖を感じていた。しかし小野だけは、比較的得意になっていた。
小野にとって、博覧会を楽しむ大衆は「当世」の人間だった。そして自分こそ、その最先端に立つ存在だと思っていたのである。
しかし同時に、小野は失意も感じていた。時代遅れの孤堂と小夜子を伴って歩く事で、自分まで過去の人間と見なされる気がしていたのである。
文明への恐怖
橋を渡り切った孤堂は、東京という場所そのものへ恐怖を抱いていた。
どこからこれほど人が湧いて来るのか分からない。文明の勢いそのものが恐ろしいと感じていたのである。
一方、小野はそんな孤堂を見ながら笑っていた。文明の中心に立つ自分を誇らしく感じていたからである。
しかし小夜子は疲れ切っていた。人混みと東京の空気は、彼女のような「過去の人間」にはあまりにも重過ぎたのである。
運命の再会
その後、宗近たちは茶屋へ入った。そこには偶然、小野たちも席を取っていた。
宗近が小野へ気付き、甲野へ合図を送る。藤尾はすぐに察したが、何事もないように振る舞っていた。
糸子は振り返り、小野の隣に座る小夜子を見つけた。白い糸のような髭を垂らした孤堂もそこにいた。
糸子は「あら御連があるのね」と無邪気に言った。しかし甲野も藤尾も、何も説明しなかった。
藤尾の動揺
宗近は、小夜子を「別嬪だろう」と糸子へ話しかけた。
糸子が「うつくしい方ね」と答えると、藤尾は低い声で「ええ」とだけ返した。その返答には、肯定しながらも拒絶するような冷たさが滲んでいた。
宗近は面白がりながら、京都での出来事を話しかけようとした。しかし藤尾の視線は鋭く宗近を射抜いていた。宗近は気付かないまま、冗談を続けていたのである。
甲野は終始静かだった。だが、その静けさがかえって緊張を深めていた。
藤尾の胸に残る言葉
四人が茶屋を出た後も、藤尾は正面だけを見つめて歩いていた。まるで感情を誰にも見せまいとしているようだった。
その藤尾へ向かって、甲野は再び「驚くうちは楽がある。女は仕合せなものだ」と言った。
その言葉は、藤尾の胸に嘲笑の鈴のように鳴り続けていた。藤尾は、小野と小夜子の存在によって、自分の感情が揺さぶられている事を否応なく自覚させられていたのである。
十二
文明の詩と小野の理想
小野は、文明社会における詩とは貧困や質素の中にあるものではなく、富や贅沢、美しい生活の中に存在すると考えていた。
金剛石、葡萄酒、琥珀の盃、華麗な衣装――それら文明の装飾こそ詩であり、詩人はその世界を実現するために金を必要とすると信じていたのである。
そのため小野は、藤尾との結婚を現実的な希望として考えていた。藤尾には財産があり、自分の理想とする文明的生活を支える力があるからである。
しかし同時に、小野は孤堂と小夜子への恩義も忘れていなかった。孤堂の世話を十分にするためにも、早く藤尾と結婚しなければならないと、自分の中で理屈を組み立てていた。
過去の再来への焦燥
小野は、過去を切り離したつもりでいた。だが、京都から現れた孤堂と小夜子によって、その過去が再び目前へ押し寄せて来た。
未来を待ちながら穏やかに構えていた小野は、急に追い立てられるような不安を覚える。藤尾との関係を一刻も早く固めなければならないという焦りが、次第に強くなっていたのである。
四、五日藤尾に会っていない事すら、小野には危険に思えた。恋の綱は、会わなければ縮まらない。しかも、その隙に別の感情が入り込むかもしれないと恐れていた。
小夜子の訪問
小野が藤尾のもとへ向かおうとした時、小夜子が訪ねて来た。
海老茶色の着物姿で現れた小夜子は、小野を見るなり戸惑いを隠せなかった。一方の小野も、突然の再会に動揺していたが、表面上は落ち着きを保っていた。
二人は部屋へ入り、昨夜の博覧会の話を始める。小夜子は人混みに疲れ切っていたが、小野は表向き親切に応じていた。
しかし小夜子の内心では、小野の態度に苦しみが募っていた。東京が好きか嫌いかという問いですら、自分の人生を左右する相手から無責任に投げかけられる事が辛かったのである。
すれ違う二人
孤堂は、小夜子へ買い物を頼み、小野と一緒に勧工場へ行かせようとしていた。
しかし小野は、急ぎの用事があると言って断った。そして自分が後で買って届けると提案し、小夜子を帰してしまった。
小夜子は落胆しながら去っていく。せっかく並んで歩ける機会だったにもかかわらず、二人の距離は最後まで縮まらなかったのである。
藤尾の愛情観
その頃、藤尾は縁側で物思いに沈んでいた。
藤尾にとって恋愛とは、相手を迷わせ、苦しませ、自分へ従わせる事によって成り立つものだった。愛される事には絶対の自信を持ちながら、相手を愛する資格については考えた事がなかった。
小野は、自分を崇拝し、従順に付き従う存在として理想的だった。藤尾は、小野を「神聖なる玩具」として扱っていたのである。
だが昨夜、博覧会で小夜子と親しげに座る小野を見た事で、その支配が崩れ始めた。藤尾は激しい嫉妬と屈辱を抱えていた。
藤尾と欽吾の対話
欽吾は、縁側で沈む藤尾へ声を掛けた。
藤尾は、昨夜甲野から言われた「驚くうちは楽がある」という言葉を逆にぶつける。しかし欽吾は平然としていた。
欽吾は、楽の多い人間ほど危ういと語り、藤尾を見下ろすように静かに話した。藤尾は、その態度に強く苛立っていた。
さらに欽吾は、小野が相変わらず来るのかと尋ねた。藤尾は激しく反応したが、欽吾は淡々としていた。
その温度差は、兄妹の価値観の決定的な違いを示していたのである。
謎の女の思惑
藤尾の母は、欽吾を信用していなかった。
欽吾は血の繋がらない子であり、財産を藤尾へ譲ると言っている事すら、本心かどうか疑っていたのである。
母にとって理想なのは、藤尾へ相応しい名誉と学問を持つ婿を迎え、自分と藤尾が華やかな生活を送る事だった。その意味で、小野は申し分のない相手に見えていた。
しかし財産問題が絡む以上、簡単に事は進まない。母は六畳間で延々と思案を重ねていた。
小野の来訪と緊張
やがて小野は甲野家を訪れた。門前では甲野と出会い、昨夜藤尾も博覧会へ行っていた事を知らされる。
小野は動揺したまま藤尾の部屋へ向かった。藤尾は既に主導権を握っており、小野の焦りを見抜いていた。
小野は何とか話題を探そうとするが、藤尾は冷たく受け流す。やがて藤尾は、自分も博覧会へ行っていた事を明かし、「奇麗な人間もだいぶ見ました」と意味深に言った。
小野はなおも誤魔化そうとしたが、藤尾は「昼間もイルミネーションがありますか」と言い放ち、小野と小夜子が昼間に会っていた事を見抜いていると示した。
その瞬間、小野の言い逃れは完全に崩れ去ったのである。
十三
静かな甲野家への来訪
宗近家を訪れた甲野は、静まり返った屋敷の玄関へ立っていた。広い家には人気がなく、杖の音だけが虚しく響いていた。
やがて障子が開き、現れたのは糸子だった。二人は顔を見合わせ、糸子は慌てたように視線を逸らした。
糸子は父が謡の会へ出掛けていると伝え、甲野を座敷へ案内した。甲野も散歩帰りで疲れた様子を見せながら、そのまま座敷へ上がっていった。
広過ぎる座敷とぎこちない対話
座敷は広く、二人の距離は六尺も離れていた。黒田が茶や煙草盆を運び込み、機械的に二人の間を取り持つ。
しかし黒田が去ると、再び静寂が戻った。
甲野は昨夜の博覧会について尋ねる。糸子は疲れなかったと笑いながら答え、さらに「面白かった」と無邪気に話し始めた。
その「面白かったもの」とは、小野と美しい女が並んでいた光景だった。糸子は、それをどこか興味深そうに語っていたのである。
糸子の無邪気さ
糸子は、小野と小夜子の関係を深く疑っているわけではなかった。ただ「美しい人だった」と純粋な感想を抱き、それを素直に話しているだけだった。
甲野は、そんな糸子の様子を見ながら応対していた。糸子の感情には打算や嫉妬がなく、自然な愛嬌だけがあったのである。
作者は、糸子を「海を知らぬ金魚」のように描いていた。外の荒々しい感情や駆け引きを知らず、穏やかな世界の中だけで生きている存在だったのである。
小さな花の発見
話の途中、甲野は縁側の外に咲く小さな花へ目を向けた。
糸子には見えなかったその花は、露に濡れながら、ひっそりと春の終わりに咲いていた。糸子が近寄って初めて、その小さな花は視界へ入ったのである。
甲野は、その花を「昨夜の女のような花だ」と評した。小夜子の儚く静かな美しさを、甲野だけは感じ取っていたのである。
しかし糸子には、その意味が分からなかった。ただ不思議そうに甲野を見返していた。
甲野の糸子評
甲野は糸子へ、「あなたは気楽でいい」と真面目に語った。
糸子は、それが褒め言葉なのかも分からないまま、素直に受け答えする。甲野は、その無垢さにどこか救われるような感覚を抱いていた。
さらに甲野は、「そのままでなくては駄目だ」と繰り返した。糸子の純粋さは、今の世ではむしろ貴重なものだと感じていたのである。
しかし糸子自身は、もっと利口になりたいと考えていた。藤尾のようになれたら良いのにと、本気で羨ましがっていたのである。
藤尾への警戒
そんな糸子へ向かい、甲野は突然真面目な口調になった。
藤尾のような女は今の世に多過ぎる、気を付けないと危ないと警告したのである。
さらに甲野は、「藤尾が一人出ると、昨夜のような女を五人殺す」とまで言った。
糸子は、「殺す」という強い言葉に怯え、表情を変えた。しかし、その意味するところまでは理解出来なかった。
甲野は、藤尾のような女が他人の感情や人生を踏み潰してしまう危険性を見抜いていたのである。
恋と変化
甲野はさらに、「動くと変わる」と語った。
恋をすると変わる。嫁に行くと変わる。だから糸子には、このままでいて欲しいと願っていたのである。
糸子は顔を赤くし、俯いてしまった。甲野の言葉をどう受け取ればよいのか分からず、ただ静かに羞じらっていた。
甲野は、「嫁に行くのはもったいない」とまで言った。
その言葉には、恋愛や欲望に染まっていない糸子の純粋さを守りたいという、甲野なりの切実な感情が込められていたのである。
十四
往来での宗近との遭遇
小野は、紙屑籠と洋灯台を抱えながら往来を急いでいた。そこへ宗近が後ろから声を掛ける。
宗近は、小野の歩き方を「片足が新で片足が旧のようだ」と評した。急いでいるのに地面を踏みしめていないような、不安定な様子を見抜いていたのである。
小野は、頼まれ物だから仕方ないと笑って取り繕う。しかし宗近は遠慮なく紙屑籠を奪い取り、自分で提げながら冗談を続けていた。
その気軽さは、小野にとって眩しくもあり、同時に苦しいものだった。
小野の後ろめたさ
小野は、宗近へ強い負い目を抱いていた。
宗近が藤尾へ好意を持っている事を知りながら、自分はその裏で藤尾との関係を進めている。表向きは「許嫁を奪った」訳ではないとしても、事実上宗近の望みを断ったのと同じだと感じていたのである。
しかも宗近は、その事を苦にする様子もなく、小野へ以前と変わらぬ態度で接して来る。冗談を言い、議論をし、気軽に付き合って来るのである。
その無邪気さが、かえって小野を苦しめていた。
学問と行為の議論
二人は並んで歩きながら、学問や文学について語り合った。
宗近は、本ばかり読んで何も行動しない学者を皮肉った。学者とは、本を飲み込んでは紙屑籠へ吐き出す鵜のような存在だと笑ったのである。
さらに文学者についても、「奇麗な事を吐く割に、奇麗な事をしない」と批判した。
小野は表向き笑って応じていたが、その言葉は内心へ鋭く刺さっていた。藤尾と小夜子の間で揺れ、嘘を重ねている自分自身が、その批判へ重なって見えていたからである。
小夜子の話題
宗近は、昨夜小野と一緒にいた女――小夜子について話を始めた。
京都の宿屋で琴を弾いていた事、嵐山で団子を食べていた事、東京まで同じ汽車で来た事などを、無邪気に並べ立てていく。
小野は平静を装いながら応じていたが、内心では強く動揺していた。宗近がどこまで知っているのか分からなかったのである。
しかし宗近は、深く追及する訳ではなかった。ただ偶然の縁を面白がっているだけだった。
宗近への羨望
別れた後、小野は一人で歩きながら宗近について考えていた。
宗近は学問も出来ず、詩趣も解さない。しかし、あの露骨で率直な態度は、自分には到底真似出来ないものだった。
宗近の前に立つと、小野は常に圧迫を感じる。それは威圧ではなく、自然体の強さだった。宗近は意図して他人を押さえ付けている訳ではない。ただ思うままに振る舞っているだけで、結果として他人を圧倒してしまうのである。
小野は、そんな宗近を初めて「羨ましい」と思った。今の苦しみの中では、宗近のような一本調子の性格こそ幸福に見えたのである。
孤堂との再会
小野は孤堂の家へ向かった。
孤堂は体調を崩しており、床を離れて小野を迎えた。年老いた身体はさらに衰え、咳き込む様子も痛々しかった。
それでも孤堂は、小野へ親しげに話しかける。昨夜の博覧会を喜び、小夜子も楽しんでいたと語った。
その優しさが、小野にはますます辛かった。
若いうちの事
咳き込みながら、孤堂は「何でも若いうちの事だ」と呟いた。
老いさらばえた孤堂の姿を見ながら、小野は「若いうちは二度と来ない」と痛感していた。若いうちに決めた事が、生涯を決定してしまうのである。
そして自分は今、藤尾を選ぶのか、小夜子との約束を守るのか、その決断を迫られているのだと改めて思い知らされていた。
小夜子との結婚話
やがて孤堂は、本題を切り出した。
自分が死んだ後、小夜子が一人残されるのは不憫だと語り、小野との約束を改めて確認しようとしたのである。
小野は、博士論文が終わるまでは待って欲しいと曖昧に答え続けた。しかし孤堂は、具体的な時期を何度も問い詰める。
ついには、「結婚してから論文を書けばいい」とまで言われ、小野は返事に窮してしまった。
東京と京都の価値観の差
孤堂は、小野の収入なら十分家庭を持てると考えていた。
しかしそれは、京都時代の質素な感覚によるものだった。小野にとって、書物や洋服、生活そのものは、既に「文明的な自己」を支える不可欠な要素になっていたのである。
孤堂には、その都会的な価値観が理解出来ない。小野もまた、それを説明出来なかった。二人は同じ言葉を使いながら、全く違う世界を見ていたのである。
猶予の願い
最後に小野は、「もう二三日待って欲しい」と頼んだ。
孤堂は安心したように頷き、小夜子へもそう話しておくと言った。小野はようやくその場を辞そうとする。
しかし玄関で孤堂は再び呼び止めた。東京へ出て来たのは、小夜子の事を早く片付けたいからだ、その意味は分かるだろうなと念を押したのである。
小野は帽子を脱ぎ、恭しく頭を下げた。
朧夜の苦悩
外へ出ると、夜は朧に包まれていた。
小野は、優柔不断な自分自身を責め続けていた。宗近のように割り切れず、浅井のように冷静にもなれない。双方へ気兼ねし、双方へ情を引かれ、どちらへも決断出来ないのである。
そして最後には、浅井へ孤堂との交渉を頼もうと考え始めていた。自分では到底断り切れないからだった。
十五
小野が羨望した甲野の書斎
小野は欽吾の書斎を訪れ、その部屋の整った造りに強い羨望を抱いていた。南向きの仏蘭西窓からは日差しと風が入り、洋風の机や本棚が静かに並ぶ空間は、学問に没頭するには理想的な環境だった。
小野は、このような書斎で好きな本を読み、好きな時に研究し、好きな人と語り合えればどれほど幸福かと考えていた。博士論文を書き、大著述を残せるだけの頭脳は自分にあると信じていたが、下宿暮らしや義理人情に振り回される現在の生活では到底不可能だと感じていたのである。
また、自分より才能が劣ると見なしている欽吾が、この恵まれた環境を持ちながら活用していない事にも複雑な感情を抱いていた。
欽吾の孤独な思索
その頃欽吾は、窓を閉ざした薄暗い書斎で一人読書をしていた。
彼はレオパルジの言葉を書き写し、人間同士が互いに欺き合う事について考えていた。また、人は悪意によって争うより、善意によって協力した方が容易に目的へ到達できるという文章を読み、人間社会の在り方を静かに思索していた。
しかし欽吾自身は、現実世界から心を切り離し、学問と思索だけに生きようとしている。実生活への執着を捨てながらも、母や妹との関係を完全には断ち切れず、その中途半端さに疲弊していた。
父の肖像画への嫌悪
書斎には、亡き父の肖像画が掛けられていた。
欽吾は、その眼に見つめられるたびに父の存在を強く意識していた。父はまだ生きられる年齢であり、外国赴任中に急死した事を欽吾は悔やんでいた。もっと話したかった事、聞きたかった事があったのである。
しかし同時に欽吾は、その肖像画を鬱陶しく感じてもいた。父を思い出すたび、自分の現状を見せたくないという羞恥と後ろめたさが湧き上がるからだった。
父は現実的な人物であり、今の欽吾の生活や思想を理解しないだろうと考えていた。だからこそ欽吾は、肖像画を見る事自体を嫌悪するようになっていた。
母と藤尾の密談
一方、日本間では母と藤尾が小声で話していた。
二人は、欽吾へ小野との縁談をどう切り出すか相談していたのである。母は、欽吾が財産を藤尾へ譲ると言いながら実際には決断しない事に苛立っていた。藤尾もまた、欽吾が曖昧な態度を取り続けるせいで、自分たちが困った立場に置かれていると感じていた。
さらに二人は、宗近との縁談を断った件についても確認していた。母は、宗近の叔父には既に断りを入れており、宗近が外交官試験に受からない限り問題にはならないと考えていた。
しかし藤尾は、宗近側へ十分に意思が伝わっていない可能性を気にしていた。
欽吾への説得
やがて母は書斎へ向かい、欽吾と向き合った。
母は、身体を丈夫にするためにも結婚を考え直して欲しいと説得する。しかし欽吾は、自分が藤尾から見縊られている以上、世話を焼けば喧嘩になるだけだと静かに答えた。
母は、藤尾を可哀想に思って欲しいと頼み込み、さらに藤尾の縁談について相談を持ち掛ける。
そこで欽吾は、家も財産もすべて藤尾へ譲るつもりだと明言した。自分は法律上の相続人であるが、実際には何も必要としていないのである。
しかし母は、それでは亡き夫へ申し訳が立たないと訴えた。欽吾は、どうすれば良いのかと逆に問い返し、二人の間には深い隔たりが浮き彫りとなった。
小野との縁談の承認
母は本題として、小野を藤尾の婿にしたいと欽吾へ告げた。
欽吾は静かに了承する。しかし同時に、宗近の方が小野より母を大切にすると指摘した。
母は、それでも藤尾の意思を優先するしかないと説明する。欽吾は、その返答を聞いて藤尾を呼ばせた。
藤尾と欽吾の対立
藤尾が現れると、欽吾は家と財産をすべて譲ると告げた。その代わり母の世話を任せると言う。
さらに欽吾は、宗近へ嫁ぐ気はないのかと問い掛けた。藤尾は即座に拒絶し、自分は小野を選ぶのだと明言する。
欽吾が、小野より宗近の方が優れていると暗に示すと、藤尾は激しく反発した。
藤尾は、小野は高尚な詩人であり、趣味と愛を理解した人格者だと熱弁する。そして宗近を評価する欽吾には、小野の価値など決して理解できないと断言した。
欽吾は、それ以上反論しなかった。ただ静かに「では小野にするさ」と答えるのみだった。
十六
宗近の父と古道具趣味
叙述は甲野家を離れ、宗近の家へ移った。
宗近の父は、古道具屋から買って来た祥瑞の煙草盆を前に満足そうに煙草を吸っていた。甕のような奇妙な形をした煙草盆を自慢し、薩摩焼の鉢や仏見笑の薔薇などについても得意げに語っていた。
宗近は、そんな父の趣味を笑いながらも適当に相槌を打ち、相変らず気軽な調子で応じていた。
外交官試験合格の報告
宗近は、自分が外交官試験へ合格した事を父へ報告した。
父は大いに喜び、もっと早く言えば良かったのにと笑う。しかし宗近自身は、西洋行きにもさほど熱意を持っておらず、外国では人間が「表」と「裏」の二重構造を求められると皮肉っていた。
文明社会では、外面だけが洗練される一方、内部はますます醜くなると語り、現代人は生きながら八つ裂きにされるようなものだと評した。
父もまた、日本社会も同じだと同意し、表と裏の乖離が進んでいる事を認めていた。
藤尾との縁談の話題
話題はやがて結婚へ移った。
父は、外国へ行く前に身を固めた方が良いと勧める。宗近は、外交官の妻には藤尾のような女性が適していると答えた。
すると父は、かつて甲野の父との間で藤尾を宗近へ嫁がせる話があった事を語る。そして最近、甲野の母とその件について話したとも明かした。
しかし甲野家側の返答は曖昧で、宗近が外交官試験に合格したら考えると言いながら、欽吾が家を出ると言い出したため、藤尾を養子にする必要が生じるかもしれないという説明だった。
宗近は、その理屈を聞いて呆れ返る。欽吾が家を出るなど馬鹿げているし、もし本当にそうなったとしても、藤尾を嫁に出せば良いだけではないかと考えたのである。
宗近の決意
父の説明を聞いた宗近は、自分で事態を整理すると言い出した。
まず欽吾へ結婚する気があるか確認し、それから藤尾との縁談について白黒を付けるつもりだった。自分の事は自分で片付けるのが当然だと考えていたのである。
さらに宗近は、もし欽吾が結婚する気になれば、妹の糸子を欽吾へ嫁がせても良いのではないかと提案した。父もそれを了承する。
こうして宗近は、糸子へ直接話を聞くため中二階へ向かった。
糸子への結婚話
宗近は勉強中の糸子をからかいながら、年齢や嫁入りの話題を切り出した。
糸子は最初冗談半分で応じていたが、宗近が本気で結婚話を進めようとしていると知ると、急に動揺を見せ始めた。
宗近は、自分が藤尾を娶るためだけではなく、糸子自身の幸福も考えているのだと説明する。そして欽吾なら財産が無くても構わない、自分も父も反対しないと語った。
しかし糸子は、欽吾は財産や家を必要としていない人だと擁護し、周囲がそれを「病気」扱いする事へ反発した。
宗近は、糸子が欽吾を深く理解し、信頼している事に気付き始める。
糸子の涙
宗近は最後に、欽吾へ嫁ぐ気があるのか真正面から問い掛けた。
すると糸子は突然涙を流し始めた。宗近が驚いて理由を尋ねても、糸子は「御嫁には行きません」と繰り返すばかりだった。
しかしその理由は、欽吾を嫌っているからではない。欽吾は自分から結婚を望むような人物ではないと理解しており、無理に結婚させてはいけないと考えていたのである。
宗近は、ならば自分が欽吾へ承知させると請け負う。欽吾に「うん」と言わせる責任は自分が持つと断言した。
それでも糸子は、不安げに涙を流し続けた。
宗近は、そんな妹を慰めながら、下で父の謡が始まったのを聞き、中二階を下りて行った。
十七
浅井への依頼
小野と浅井は郊外の断橋まで歩いて来ていた。麦畑と鉄道を見下ろしながら雑談を交わす中で、小野は浅井へ金を貸す約束をする。
その代わりとして、小野は井上先生との縁談を断る役目を浅井へ依頼した。井上から突然結婚話を迫られ、自分では恩義のある相手へ強く断り切れないからである。
小野は、自分には井上の娘へ対して明確な責任は存在しないと主張した。世話になった恩は返すつもりだが、それと結婚は別問題であり、博士論文を書いている今の自分には到底受け入れられないと語る。
浅井は軽い調子でその役目を引き受けた。小野は、浅井の無遠慮さと強引さなら破談を持ち込めると理解した上で利用しようとしていたのである。
また小野は、もし井上側が苦情を言っても逃げ切れるよう既に準備を整えていた。翌日には藤尾と大森へ遊びに行く約束までしており、その後なら多少問題が露見しても関係は切れないと計算していたのである。
甲野家へ向かう小野
浅井と別れた後、小野は甲野家へ向かった。
その頃、宗近は甲野の書斎を訪れていた。欽吾は相変わらず机へ向かい、幾何模様を延々と描き続けている。宗近は、部屋の空気が悪いと言って仏蘭西窓を大きく開け放ち、春の光と風を室内へ入れた。
さらに宗近は、自分が外交官試験へ合格し、近く洋行する事を報告する。しかし欽吾は大きな反応を見せず、静かに祝いの言葉を返すだけだった。
甲野の異様な反応
宗近が甲野の母へ報告しようかと尋ねると、欽吾は即座に「廃すが好い」と止めた。
さらに欽吾は、母へ話すくらいなら亡き父の肖像へ話してくれと言う。父は死んでいても、生きた母より確かな存在だと語ったのである。
宗近は、その異様な言葉へ強い違和感を抱く。しかし欽吾は平然としており、むしろ父の肖像の方へ深い信頼を寄せていた。
池越しの四人
二人は書斎を出て庭を歩き始めた。
植込みの陰から池の方へ差し掛かった瞬間、新座敷から藤尾の高い笑い声が響く。視線を向けると、そこには並んで立つ小野と藤尾の姿があった。
藤尾は、小野へ金鎖を掛けながら、よく似合うと笑っていた。春景色の中へ溶け込む二人は、一幅の活人画のようだったのである。
宗近は思わず動こうとする。しかし欽吾は即座に宗近を押し戻し、「黙って」と囁きながら書斎へ引き返した。
藤尾への見切り
書斎へ戻ると、欽吾は窓と戸を閉ざして宗近を座らせた。
そして静かな口調で、「藤尾は駄目だよ」と告げる。糸子の方がよほど人を見る目がある、藤尾は軽薄な跳ね返り者だと断言したのである。
その直後、外から藤尾が戸を叩き、高笑いを残して去って行く。欽吾は冷ややかに「うちやって置け」と言い放ち、相手にしようともしなかった。
宗近もまた、ついに藤尾への未練を捨て始めていた。金時計も廃してしまうと言い、外交官としての新しい道へ進もうとする。
欽吾の告白
やがて欽吾は、自分が家も財産もすべて藤尾へ譲った事を打ち明けた。
宗近は驚愕する。しかし欽吾は、財産などあればあるほど累になるだけだと平然としていた。
さらに欽吾は、母は自分へ「出て行くな」と言いながら、実際には出て行って欲しいと思っているのだと語る。世話をして欲しいと言う一方で、本心では世話になりたくない。表向きと内実が完全に逆転しているのだと見抜いていたのである。
だからこそ欽吾は、自分が悪者になって家を出る事で、母と藤尾の望みを叶えようとしていた。自分が犠牲になれば良いと考えていたのである。
宗近の涙
宗近はついに耐え切れなくなり、欽吾へ「気が狂ったか」と叫んだ。
しかし欽吾は、気違い扱いされる事など承知の上だと静かに答える。宗近の眼からは涙が零れ落ちた。
宗近は、なぜもっと早く相談してくれなかったのかと責める。しかし欽吾は、相談したところで状況は変わらないと考えていた。
そして欽吾は、自分が家に残れば双方が堕落する、だから出て行くしかないのだと繰り返した。
糸子への懇願
宗近は、ならば自分の家へ来てくれと頼む。しかし欽吾は、それでは何も解決しないと拒絶した。
そこで宗近は、涙ながらに糸子の事を語り始めた。
糸子だけは欽吾の価値を正しく理解している、日本中が欽吾を誤解しても、糸子だけは違うのだと訴える。学問も才気もないが、誠実で正直で、金が無くても堕落しない尊い女だと力説した。
そして宗近は、家を出ても構わない、流浪しても構わないから、どうか糸子を連れて行って欲しいと懇願する。自分は妹へ責任を持って請け合ってしまったのだと涙ながらに叫び、欽吾の肩を強く揺さぶった。
十八
小夜子への破談通告
小夜子は浅井と父・孤堂先生へ菓子を運びながら応対していた。浅井は小夜子の成長を眺めつつも、これから彼女の結婚話を壊す役目を果たそうとしていたが、その重大さを深く理解してはいなかった。
孤堂先生は病に苦しみ、熱や咳に悩まされていた。小夜子は父の様子を細かく気遣いながら世話を続けていたが、浅井は病状へほとんど関心を示さず、季節の若葉の話などを口にするだけだった。
やがて浅井は本題へ入り、小野には小夜子と結婚する意思がないと告げた。博士号取得を優先したいこと、法律上の正式な契約は存在しないこと、代わりに金銭的援助を行う意志があることなどを、小野の代理として淡々と説明したのである。
孤堂先生の激怒
孤堂先生は浅井の説明を聞くうち、次第に怒りを露わにした。小野の悪口を言いに来たのかと浅井を鋭く叱責し、人の娘を博士号と引き換えに扱うような真似は許されないと怒鳴る。
さらに、法律上の契約より徳義上の契約を重んじると断言し、長年世話をしてきた恩義を金で返そうとする態度を侮辱だと非難した。
襖の向こうでは、小夜子が泣きながら話を聞いていた。孤堂先生は、小夜子は五年来小野を夫と思い続けてきたのだと語り、突然破談を告げられて平然と別の相手へ嫁げるような女ではないと訴えた。
浅井は初めて事態の重さを理解し始め、小野へ再度話してみると約束する。しかし孤堂先生は、嫌がる相手へ頭を下げて結婚してもらうつもりはないと語り、小野自身が来て直接断るべきだと言い切った。
小野の葛藤
一方その頃、小野は下宿で一人苦悩していた。藤尾と大森へ行く約束を交わしていたが、その約束を履行することへ強い不安と後ろめたさを覚えていたのである。
小野は、小夜子と孤堂先生の姿を想像するたび、自分が関係を断ち切れば彼らの生活が闇に沈むように感じていた。浅井へ破談を任せたのも、自分では想像力に耐え切れず直接言い出せなかったからであった。
それでも小野は、想像力を押し殺して藤尾との約束を果たそうとしていた。しかし心は揺れ続け、煙草を吸いながら迷い続ける。そこへ宗近が突然訪ねて来た。
宗近による説得
宗近は、小野を責め立てるのではなく、「真面目になれ」と語り始めた。人間は人生で一度は真剣に生きなければならない時がある、自分の弱さを直さなければ一生不安のまま終わると説いたのである。
宗近は、真面目とは口先ではなく実行だと語った。小野の弱さを認めつつも、小夜子を捨てるのではなく正面から向き合えと迫る。
その言葉を受けた小野はついに決意し、小夜子と結婚する、自分が悪かったと認めた。さらに孤堂先生と小夜子へ直接謝罪へ向かうと宣言したのである。
宗近は既に父を孤堂家へ向かわせており、小野へは小夜子を連れて甲野家へ来るよう求めた。そして藤尾の前で、小夜子を未来の妻だと明言しろと命じた。
孤堂家での和解への動き
宗近の父は孤堂家を訪れ、破談を止めるため説得を試みていた。
孤堂先生は怒りながらも、小夜子へ因果を含めて言い聞かせたと語る。しかし小夜子は涙を流し続け、孤堂先生もまた熱を出して床へ伏していた。
そこへ小野からの手紙が届き、小夜子を宗近家へ呼ぶ段取りが整えられる。孤堂先生はまだ不信を抱きながらも、宗近父子の誠意を受け止め始めていた。
甲野家での決別
その頃、甲野は書斎で大量の書類や日記を焼き捨てていた。さらに亡父の肖像画を壁から外し、家を出る準備を進める。
母は世間体を理由に引き止めるが、甲野は世間など構わないと冷静に答えた。母が「残された側が困る」と訴えても、甲野は動じない。
そこへ糸子が迎えに現れた。糸子は欽吾を無理に引き止める必要はないと主張し、本人が出たいのなら出してやるべきだと語る。母は世間への義理を繰り返すが、糸子にはその理屈が理解できなかった。
藤尾との対決
やがて宗近、小野、小夜子が甲野家へ到着する。小野は藤尾との約束を破り、大森へは行かなかった。
そこへ怒り狂った藤尾が帰宅する。藤尾は小野へ、なぜ約束を破ったのか問い詰めた。
宗近は小夜子を前へ出し、「これが小野の未来の妻だ」と紹介する。小野も、自分は軽薄だったが今日から真面目になる、小夜子を捨てることは出来ないと藤尾へ告げた。
藤尾は激しい侮蔑と怒りを露わにし、持っていた金時計を宗近へ投げ渡した。宗近はそれを煖炉へ叩きつけて破壊し、自分は恋愛感情ではなく、人間として正しい行動をしたのだと宣言した。
最後に藤尾は怒りと屈辱に耐え切れず、その場へ崩れ落ちた。
十九
藤尾の死
激しい雨が去った後、藤尾は死んでいた。
部屋には散った春の名残のような静けさが漂い、藤尾は北枕で横たわっている。紫の絹紐は既に捨てられ、黒髪だけが乱れて白い敷布へ広がっていた。
顔立ちはなお美しかったが、驕りに満ちていた眼は永遠に閉じられていた。枕元には、宗近によって砕かれた金時計が置かれている。潰れた七子模様と曲がった鎖が、かつての虚栄と情熱の残骸のように残されていた。
また、銀屏風には虞美人草が描かれていた。赤や紫の花が銀地の中へ咲き乱れるその姿は、まるで藤尾自身の運命を象徴しているようであった。
甲野家の沈鬱
藤尾の部屋では線香が絶えず焚かれていた。香煙は静かに漂い、部屋全体を死の気配で満たしていた。
母は襖越しに藤尾の亡骸を気に掛け続け、折々泣き崩れる。宗近は、こうなった以上欽吾へ家に残ってもらうしかないと説得していた。
母は、自分の不行届がすべての原因だったと嘆き続ける。藤尾を死なせ、欽吾にも見放されたと考え、未来への不安に取り乱していたのである。
欽吾による母への告白
欽吾は、静かな口調で母へ真実を語り始めた。
母は藤尾へ家と財産を与えたかったのだろう、自分が家にいるのを快く思っていなかったのだろう、と淡々と指摘する。さらに、小野と藤尾の関係を深めるため、自分を京都へ追いやった事も見抜いていた。
しかし欽吾は、母を責め立てるために話しているのではなかった。偽の子だ、本当の子だと区別せず、当たり前に接してくれれば良かったのだと語る。そして、嘘や策略をやめれば、自分は家を出る必要など無かったのだと静かに告白した。
母はついに自分の過ちを認め、これからは欽吾たちの意見を聞いて悪い所を直すと涙ながらに約束した。
欽吾もまた、家へ留まる事を受け入れた。
小野の訪問
やがて小野が蒼白い顔で甲野家へ現れた。
藤尾の死を前にした小野は、もはや以前の軽薄さを失っていた。線香の煙が漂う中、小野は静かに部屋へ通される。
その後、藤尾の葬式は滞りなく執り行われた。
欽吾の日記と悲劇論
葬式の夜、欽吾は日記へ長い文章を書き残した。
欽吾は、悲劇とは単に死によって終わるから偉大なのではなく、生から死へ人間を突然転落させる力を持つから偉大なのだと論じる。人は普段、喜劇的な問題――金や恋愛や名誉ばかりを追い掛け、生と死という根本問題を忘れている。しかし悲劇は、その忘れ去られた死を突き付け、人間へ道義を思い出させるのである。
欽吾は、道義とは他人には容易に求められても、自分自身には極めて困難な実践だと考えていた。そして悲劇は、人へその実践を強制するが故に偉大なのだと結論づけた。
また、社会の多くの活動は結局「喜劇」に過ぎないとも語る。財産、職業、恋愛、学問など、人々が日々争う問題はすべて生の内部に留まる問題であり、死を忘れた結果に過ぎないのである。
しかし道義を忘れた社会は、やがて悲劇によって制裁を受ける。悲劇によって初めて、人は生の隣に常に死が存在していた事を悟り、道義の必要を再認識するのだと欽吾は記した。
宗近への送付
二か月後、欽吾はこの悲劇論の一節を倫敦にいる宗近へ送った。
それに対する宗近の返事は簡潔だった。ここでは喜劇ばかり流行る――その一言だけが記されていたのである。
夏目漱石の作品





Share this content:


コメント