物語の概要
■ 作品概要
本作は、毎日新聞とnoteで連載された平野啓一郎による長編恋愛小説である。物語は、天才クラシックギタリストの蒔野聡史と、海外通信社に勤務するジャーナリストの小峰洋子の出会いから始まる。婚約者がいる洋子と蒔野は、わずかな逢瀬の中で強く惹かれ合うが、やがてすれ違いが生じ、二人の関係は途絶えてしまう。互いへの愛を断ち切れないまま、それぞれ別の人生を歩むことになった二人の運命の交錯を描きながら、「40代をどう生きるか?」という問いを読者に投げかける、大人の切なく美しい恋物語である。
■ 主要キャラクター
- 蒔野聡史:38歳(物語開始時)の天才クラシックギタリスト。デビュー20周年を迎えた完璧主義の音楽家であり、洋子と出会い強く惹かれていく。
- 小峰洋子:フランスのRFP通信に所属するジャーナリスト。イラクのバグダッドなどで過酷な取材を行う。著名な映画監督イェルコ・ソリッチを父に持つ。
- 三谷早苗:蒔野の担当マネージャー。蒔野の音楽と才能を深く愛し、のちに彼の人生に深く関わることになる。
- リチャード:洋子の婚約者で、アメリカ人の経済学者。後に洋子と結婚し、男児をもうける。
- ジャリーラ:洋子がイラクで出会った現地スタッフ。命の危機に晒されてフランスへ亡命し、洋子の支援を受ける。
■ 物語の特徴
本作は、「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです」という蒔野の言葉に象徴される「過去と未来」の関係性が重要なテーマとなっている。また、単なる恋愛小説にとどまらず、イラク戦争や自爆テロ、東日本大震災、金融危機といった現代の複雑な社会情勢が物語の背景に色濃く描かれている点が特徴である。全編を通じてクラシックギターの楽曲が重要な意味を持ち、生と死、静寂と喧噪といった多様なテーマが重層的に絡み合っている。著者が「ページをめくりたいけどめくりたくない、ずっとその世界に浸りきっていたい」と語るように、読者に深い精神的なよろこびをもたらす作品である。
書籍情報
マチネの終わりに
著者:平野啓一郎 氏
連載:毎日新聞、noteにて連載
発売日:2016年4月8日
関連メディア展開:11月1日公開で映画化が決定しているほか、漫画版(11月2日発売)、オーディオブック、タイアップCD、アパレルブランドとのコラボアイテムなど、幅広い展開が行われている
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あらすじ・内容
「今世紀の最も美しい恋愛小説」と絶賛され、今も幅広い読者に愛され続けるベストセラー!
イラク戦争、難民問題、リーマンショック、東日本大震災、……と、00年代後半から10年代初頭にかけての世界史的な事件を背景に、「天才」ギタリスト蒔野聡史とジャーナリスト小峰洋子との愛と孤独を描き、新聞連載時から異例の反響を巻き起こした長篇。恋愛のみならず、親子愛、師弟愛、友愛、祖国愛など、対立と分断が進む社会の中での人間関係の有り様を、格調高く、優美な文体で描いた。分人主義的な人間観、世界観の美的な成果であり、また『葬送』以来の音楽小説としても歓迎された。60万部超のベストセラーとなり、初の映画化。渡辺淳一文学賞受賞。
感想
読み終えて、まず心に浮かんだのは、「たった四度しか会わなかった相手を、ここまで愛し続けることができるのだろうか」という驚きである。
天才クラシックギタリストの蒔野聡史と、通信社記者の小峰洋子。公演後の出会いをきっかけに、互いに強く惹かれ合っていく二人の姿は、まさに運命という言葉が似合うものだった。
しかし、この作品は単純な恋愛小説では終わらない。
洋子には婚約者がおり、さらに戦地イラクでの壮絶な体験を抱えている。ようやく蒔野との未来を選ぼうと決意した矢先、マネージャーの三谷早苗が送った一本の偽メールによって、二人の人生は大きく狂い始める。
この場面は読んでいて本当にもどかしかった。
ほんの少しだけ言葉を交わせていれば防げた悲劇なのに、人は思い込みや遠慮だけで簡単にすれ違ってしまう。その現実味があるからこそ、胸が締め付けられた。
印象的だったのは、誰一人として完全な悪人ではないことである。
早苗の行動は決して許されるものではない。それでも彼女もまた蒔野を想っていた一人であり、それぞれが自分なりの愛情や正義を抱えながら行動した結果、悲劇が生まれてしまう。その人間臭さが、この作品に深いリアリティを与えているように感じた。
別々の人生を歩み始めた二人も、それぞれ苦しみながら前へ進んでいく。
洋子は離婚を経験し、難民支援という新たな使命を見つける。一方の蒔野も、長いスランプを経て音楽家として再び歩き始める。東日本大震災という現実の出来事が物語に自然と溶け込み、一人ひとりの人生を大きく変えていく描写も非常に印象深かった。
そして何より心に残ったのは、数年後のニューヨークでの再会である。
復帰公演を終えた蒔野が客席に洋子の姿を見つけ、セントラル・パークで再び向き合う場面は、とても静かで、それでいて胸が熱くなる結末だった。
派手な再会ではない。しかし、その静けさが積み重ねてきた年月の重みを感じさせてくれる。
読み終えたあと、蒔野が語っていた「未来は常に過去を変えている」という言葉が、ようやく腑に落ちた。
過去そのものは変わらない。それでも、その後の人生の歩み方によって、過去の出来事の意味や受け止め方は変わっていく。
恋愛小説でありながら、人が生きる時間そのものを描いた作品だったように思う。
派手な展開ではなく、静かな感情の積み重ねで読者を惹きつける、大人の恋愛小説として非常に印象深い一冊であった。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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考察・解説
大人の恋愛小説
『マチネの終わりに』は、大人の切なく美しい恋物語として、数多くの読者や書店員、著名人から絶賛されている大人の恋愛小説である。本作が単なるロマンスを超えて、多くの大人の心を打つ理由には、以下のような重要な要素が挙げられる。
互いに自立し尊重し合う精神的結びつき
物語の主人公である天才クラシックギタリストの蒔野聡史と、国際ジャーナリストの小峰洋子は、出会った当時ともに40歳という一種独特の繊細な不安の年齢に差し掛かっていた。
・二人はそれぞれの厳しいプロフェッショナルの世界で確固たるキャリアを築き上げており、決して相手に依存することはない。
・依存するのではなく、それぞれの世界をしっかりと築き上げるなかで互いを尊重しあう関係と評される。
・知性と深い教養を通わせながら互いを深く理解し合う、成熟した大人同士の結びつきが描かれている。
現実の深刻な困難から目を逸らさない姿勢
若い頃の恋愛とは異なり、大人の恋愛には仕事上の責任や社会的、歴史的な背景が重くのしかかる。
・作中では、蒔野の深刻な音楽的スランプや、洋子がバグダッドで直面したテロによる過酷なPTSD、さらには東日本大震災といった現実の困難が恋愛と複雑に絡み合う。
・困難を無かったことにするのではなく、痛みを麻痺させるわけでもなく、それらから目を逸らさずに進む。
・それらの苦難を内包しながらも、なお人生の素晴らしい瞬間を体感させてくれる作品として高く評価されている。
諦念と喪失を内包しながら生きていく姿
他者の嘘によって決定的なすれ違いを迎えた二人は、結果的に別々の人生を歩むことになり、ある程度の諦めのようなものを抱えることになる。
・しかし、そうした絶望と諦念のあとにも続いていく人生の中で、彼らは過去の傷や喪失を抱えながらも今を生きていく。
・失うものが多くても、新しい自分を手に入れることを諦めないその姿が描かれる。
・大人の現実とロマンチックのバランスを見事に体現している。
恋によって露呈する大人の滑稽さと揺らぎの美しさ
成熟した大人でありながらも、深く人を愛することで冷静さを失い、思い悩む主人公たちの姿も本作の大きな魅力である。
・恋をすると、人は多分大人ではいられなくなる。
・主人公たちがもがく様は、とても滑稽な気もするし、同時にとても美しいという書店員の感想が示す通りである。
・完璧ではない大人たちの人間らしい弱さや揺らぎが、読者の深い共感を呼んでいる。
まとめ
本作を通して読者は、若い頃の恋は自分の代わりに誰かを愛そうとしていたが、年齢を重ねるとともに誰かを愛することで自分自身を愛せるようになっていけるという勇気と希望を受け取っている。単なる恋愛の成就や悲恋を描くにとどまらず、40代をどう生きるか、どう生きればいいのかという普遍的な人生の問いを読者に投げかける点こそが、本作が傑出した大人の恋愛小説として愛され続ける理由だと言える。
蒔野と洋子の出会い
『マチネの終わりに』における蒔野聡史と小峰洋子の出会いは、物語の幕開けであり、以後の二人の人生を決定づける運命的な長い夜として描かれている。サントリーホールでの劇的な邂逅から深夜に及ぶ対話、そして二人が結ばれる契機となったその詳細な経緯は以下の通りである。
サントリーホール終演後楽屋での是永慶子仲介による初対面
2006年の秋、天才クラシックギタリストである蒔野聡史のデビュー20周年記念ツアーの最終公演がサントリーホールで行われた。
・終演後の楽屋において、レコード会社の担当者である是永慶子の紹介を受ける。
・これにより、フランスのRFP通信に所属するジャーナリスト・小峰洋子と出会うこととなった。
ブラームス間奏曲共鳴とグールド引用および幸福の硬貨監督令嬢判明の知的対話
初対面にもかかわらず、二人は瞬く間に心を通い合わせる。そこには、互いの感性が響き合ういくつかの重要なきっかけが存在した。
・音楽的共鳴:洋子がアンコールで演奏された蒔野編曲のブラームスの間奏曲を褒めると、大絶賛された公演の中で実は蒔野自身も唯一満足していたのがその曲であったため、彼は驚きとともに喜びを露わにする。
・知的な対話:蒔野がコンサートが嫌いだと冗談めかすと、洋子はピアニストのグレン・グールドの野蛮な儀式という言葉を引用して応じる。蒔野はその眼差しに、自分が既に深く理解されているような感覚を覚える。
・幸福の硬貨という縁:洋子の父親が、蒔野がギターを深く愛するきっかけとなった映画幸福の硬貨の監督、イェルコ・ソリッチであることが判明し、蒔野を驚かせる。
・20年前の記憶:さらに洋子は、18歳だった蒔野がパリ国際ギターコンクールで優勝した直後のコンサートを母と共に聴いており、自分より年下の少年の圧倒的な才能に嫉妬したと明かす。
バグダッド赴任前美触求愛と祖母転倒庭石構造経由の未来過去改変テーマ提示
運命的な引力を感じた蒔野は、帰ろうとする洋子を打ち上げのスペイン料理店へと誘った。
・洋子は、間もなく治安が極めて悪化しているイラクのバグダッドへ赴任することを明かし、バグダッドに行く前に何か美しいものに触れておきたかったと語る。
・会話の中で洋子が、幼い頃にままごとで遊んでいた庭石で祖母が転倒して亡くなったというエピソードを語る。
・これに対して蒔野は、音楽の構造を例に引きながら、人は変えられるのは未来だけだと思い込んでる、だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんですという、この作品の根幹をなすテーマを彼女に語りかける。
・洋子は自分が理解されたことに瞳を輝かせ、深く共鳴した。
深夜二時半閉店迄の二人会話と薬指婚約指輪内包の孤独光記憶構築
二人は店が閉まる深夜2時半まで二人だけで語り合い、別れ際には互いに名残惜しい眼差しを交わした。
・この日、洋子の左手の薬指にはアメリカ人の婚約者からの指輪が光っていた。
・しかしこの出会いの長い夜は、後に二人が未来に傷つくたびに繰り返し思い返す、孤独な光を放つ特別な記憶となる。
・たった三度しか会うことのなかった二人が、互いの人生を貫くほど深く愛し合うことになる、その圧倒的な引力と知的な交歓が凝縮された、美しくも濃密な一夜として描かれている。
まとめ
蒔野聡史と小峰洋子の出会いを巡る一連の顛末は、サントリーホールの楽屋からスペイン料理店へと舞台を移し、互いの知性と感性を響かせ合いながら、未来が過去を変えるという作品の本質的なテーマを共有した運命的な夜の記録である。ブラームスの間奏曲への共鳴や映画幸福の硬貨を介した奇妙な縁、そしてバグダッド赴任を控えた洋子の孤独に蒔野の言葉が深く突き刺さったプロセスは、二人の間に生じた並外れた引力の強さを示している。最終的に、婚約指輪という現実の障壁を抱えながらも、深夜におよぶ濃密な対話を通じて互いの魂に消えない光を刻み付けた顛末は、たとえその後の人生で決定的なすれ違いと過酷な試練が待ち受けていようとも、本質を突いた知的な交歓によって結ばれた絆の価値は揺らぐことなく、破滅の危機にあっても二人の精神的な錨として機能し続けることを厳密に証明している。
未来が変える過去
『マチネの終わりに』において「未来が過去を変える」という概念は、物語の核心をなす最も重要なテーマの一つである。このテーマは、天才クラシックギタリストの蒔野聡史が初めて小峰洋子と出会った夜に語った言葉に集約されている。蒔野はこれを音楽の構造に例え、最初に提示された主題が展開を経て最後まで見届けられたとき、振り返るとそこに全く違う風景が広がっているように、過去の記憶もその後の出来事によって意味合いが変わってしまうのだと説明した。作中では、この現象が様々な形で描かれている。
悲劇や医師の言葉に見る過去の変容と今後の生き方による救済
人は変えられるのは未来だけだと思い込んでいるが、実際は未来は常に過去を変えているという洞察は、登場人物たちの人生を通じて具体的に示される。
・悲劇による過去の変容:洋子が幼い頃にままごとをして遊んでいた庭石は、当時は楽しい記憶の一部にすぎなかったが、後にその石で祖母が転倒して命を落としたことで、過去の無邪気な記憶残酷で複雑なものへと変わってしまった。
・生き方による過去の救済:イラクでの過酷な体験からPTSDに苦しむ洋子に対し、精神科医は元の自分に戻ろうとするのではなく、体験後の自分を受け容れ可能なかたちで作っていくことが出来れば症状はやがて消えていくと語る。洋子がそれを過去は変えられるということかと受け止めると、医師はあなた自身の今後の生活によって、と肯定した。
父の決断の真相に伴う過去の和解と献辞による悲しい別れの昇華
過去の事実や関係性の捉え方は、その後に明らかになる真実や表現によって劇的な変化を遂げる。
・父との過去の和解:洋子の父ソリッチは、かつて家族を捨てて姿を消したが、のちにそれがマフィアの脅迫から妻と娘を守るための苦渋の決断であったことが明かされる。父が間違ってなかったんだろうと語ったのに対し、洋子は今よ、間違ってなかったって言えるのは、今、この瞬間、わたしの過去を変えてくれた今、と涙ながらに微笑み、父と暮らせなかった孤独な過去が深い愛の証明へと塗り替えられた。
・悲しい別れの昇華:蒔野と洋子は誤解から決定的な別れを迎えるが、のちに蒔野が発表したアルバムのクレジットには、イラク人難民のジャリーラと、その心優しい、美しい友人に捧げるという献辞が添えられていた。洋子はそれを見て、蒔野がこの献辞を添えることで過去を変え、目を背けたくなるような後味の悪さを懐かしい回想にさえ堪える明るい悲しみへと変えようとしたのだと解釈した。
読者や書店員に与えた感銘と今を生きることで変わる過去の見方
この深い洞察は、作中の登場人物だけでなく、本作を読んだ多くの読者や書店員にも強い感銘を与えている。
・ある20代の読者は、あの時こうしていればよかったと過去に目を向けるだけでは前に進めないが、今を生きていくことで苦しい過去の記憶もガラっと見方が変わるという気づきを得たと語っている。
・また、10年苦しんできたうつが、辛くて意味のなかった過去が意味のある過去だったと意識を変えた途端に治ったと語る50代女性の読者もいる。
・変えたい過去は未来に変えることができるし、変えたくない過去さえも未来によっては書き換えられてしまうという書店員の感想が示すように、過去、現在、未来は固定されたものではなく、互いに影響し合いながら溶け合っている。
まとめ
今をどう生きるかで過去の在り方も変えられるというこのテーマは、後悔や喪失感を抱えて生きる大人たちに対する一つの救済のメッセージとなっている。物語の結末で、五年半という長いすれ違いの歳月を経てニューヨークのセントラル・パークで再会し、二人が微笑みを交わしたその今という瞬間によって、それまでの辛い過去もまた、意味のある美しいものへと昇華されていくのである。
戦争の記憶とPTSD
『マチネの終わりに』において、「戦争の記憶とPTSD」は物語の単なる時代背景にとどまらず、主人公・小峰洋子の人生の選択や、蒔野聡史との恋愛の行方に決定的な影響を与える極めて重要なテーマとして描かれている。その詳細な背景と心理的葛藤、および体験の受容プロセスを構成する要素は以下の通りである。
バグダッド自爆テロ遭遇に伴うフラッシュバックと重度心的外傷後ストレス障害発症
国際ジャーナリストである洋子は、イラクのバグダッド赴任中、滞在先のホテルで自爆テロに遭遇し、間一髪で死を免れた。
・帰国後も、あと一つ質問をしていたら自分は死んでいたという事実が彼女の時間をその瞬間に縛り付けることとなった。
・平和なパリの日常に戻っても、地下鉄でアラブ系の男性を見ただけでテロ犯と錯覚して恐慌状態に陥るフラッシュバックを経験する。
・夜ごとテロの悪夢にうなされるなど、洋子は重い心的外傷後ストレス障害であるPTSDに苦しむこととなる。
生存者の罪悪感起因の無意識幸福拒絶と偽装メール受容に伴う愛の排除
洋子の精神的な苦しみの根底には、多数の生命が失われる凄惨な出来事から生還した者が自分だけが助かった幸運を喜ぶのではなく、なぜ自分だけが生き残ったのかと激しい負い目や苦悩を抱いてしまう生存者の罪悪感があった。
・洋子は後に、イラクに残した家族を殺害された難民のジャリーラと悲しみを共有する中で、この感情に向き合うこととなる。
・イラクの悲惨な現実の中に取り残された人々がいる一方で、自分が平和な場所で蒔野との幸福な愛に浸ることに無意識の罪悪感を抱いていた。
・この幸福になってはいけないという抑圧が、PTSDの症状を悪化させていた。
・さらに、蒔野からの理不尽な別れのメール、すなわち実際は中村早苗が偽装した文章を疑いもせず受け入れてしまった。
・結果として無意識に彼との愛を退けてしまったことの要因であった可能性が示唆されている。
長崎被爆母の逃亡負い目とユーゴスラヴィア映画監督父による紛争描写の継承
このテーマは、洋子のルーツにも深く関わっている。
・彼女の母は長崎の被爆者でありながら、その事実や後遺症への不安を隠し続け、被爆地からヨーロッパへ逃げ出したという負い目、すなわち生存者の罪悪感を抱えて生きてきた。
・また、父イェルコ・ソリッチはユーゴスラヴィアの映画監督として、第二次世界大戦やファシズムによる民族紛争の凄惨さをダルマチアの朝日や幸福の硬貨などの映画で描き続けた人物である。
・洋子がジャーナリストとしてあえて危険な戦地へ向かい、被害者の側に寄り添う人類という見地に強いこだわりを持っていたのは、こうした両親が背負う戦争の記憶に深く突き動かされていたからであった。
体験後自分受容の精神科医助言と国際人権監視団体難民局生き直し選択
PTSDの治療にあたり、精神科医は洋子に、元の自分に戻ろうとするのではなくて、体験後の自分を受け容れ可能なかたちで作っていくことが出来れば症状はやがて消えていくと助言する。
・これを洋子は、過去は変えられるという意味だと受け取る。
・これはまさに蒔野が語った、未来は常に過去を変えているという作品のメインテーマと直接結びついている。
・洋子は最終的に、戦争の記憶やトラウマを無かったことにするのではない道を選ぶ。
・国際人権監視団体の難民局で難民問題の制度改善に取り組むという新たな生き方を選択した。
・戦争やテロといった個人の力ではどうにもならない凄惨な記憶に対し、深い傷を抱えながらも体験後の自分を生き直し、過去を意味のあるものへと変えていくプロセスが、本作に大人の文学としての深い厚みを与えている。
まとめ
戦争の記憶とPTSDを巡る一連の顛末は、自爆テロの惨禍から生還した洋子が抱く生存者の罪悪感と無意識の幸福拒絶によって一度は蒔野との愛を失いながらも、両親から受け継いだ戦争の記憶のルーツに向き合い、体験後の自分を生き直すことで過去を昇華させていった壮絶な精神的再生の記録である。フラッシュバックや悪夢に苛まれ、偽装された別れを自罰的に受け入れてしまった危機から、難民局での制度改善という新たな社会的使命へと繋げてトラウマを克服したプロセスは、彼女の人間としての強さと深い倫理観を示している。最終的に、悲惨な過去を消し去るのではなく、今後の生き方によってその意味を変えていく選択をし、長いすれ違いの果てにニューヨークでの再会という今を迎えた顛末は、どれほど個人を打ちのめす戦争やテロの過酷な記憶であっても、本質を突いた現実の受容と未来への前進によって打破され、傷を抱えた大人の人生に真の平穏と輝きが完璧に奪還されることを厳密に証明している。
《ヴェニスに死す》 症候群
『マチネの終わりに』において「《ヴェニスに死す》症候群」は、40代という人生の転換期を迎えた主人公たちが直面する精神的な危機と、そこから生じる芸術や愛への抗いがたい渇望を象徴する重要なキーワードである。日常の重圧や適応への嫌気、そして本来の自己へ立ち返ろうとする彼らの内面的葛藤を構成する要素は以下の通りである。
現実社会適応嫌気と本来自分回帰に伴う中高年破滅的行動の定義
この言葉は、洋子の父である著名な映画監督イェルコ・ソリッチの造語である。
・中高年になって突然、現実社会への適応に嫌気が差して、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動に出ることと定義されている。
・トーマス・マンの小説ヴェニスに死すの主人公アッシェンバッハが、長年の精神的努力による均衡を捨て、美少年タッジオに心奪われて日常を捨て、やがて破滅へと向かった物語になぞらえられている。
バグダッド危険赴任選択と婚約者罪悪感内包の官能渦中自覚
国際ジャーナリストである洋子は、治安が極度に悪化したバグダッドへ二度も赴任するという危険な選択をした。
・父ソリッチはこれを《ヴェニスに死す》症候群だと指摘し、同僚のフィリップもまた、洋子がバグダッドへ来たのは自身のタッジオを求めてのことではないかと推測する。
・後に洋子は、婚約者リチャードへの罪悪感を抱きながらも蒔野との愛に深く溺れそうになる自身を省みる。
・これにより、自身が《ヴェニスに死す》症候群の官能の渦中に呑まれつつあるのかもしれなかったと感じるようになる。
ポップス制作突如中止と洋子精神状態危惧に伴う心中覚悟の共鳴
蒔野聡史もまた、洋子からのメールでこの言葉を知り、現実社会への適応に嫌気が差してという一文をまるで自分自身のことのように受け止める。
・彼が、商業的な成功が見込まれていたポップスアルバムの制作を突然中止し、再びバッハの音楽に取り組もうとした衝動こそ、まさに本来の自分へと立ち返るべくという行動であった。
・さらに蒔野は、トーマス・マンの原作を読み、戦地という極限状態に身を置きながらヴェニスで死なずに帰ってきた洋子の精神状態を深く危惧する。
・PTSDに苦しむ彼女が、破滅的な方法で自らの苦しみを絶とうとするのではないかと恐れた。
・地球のどこかで、洋子さんが死んだって聞いたら、俺も死ぬよとまで告げることとなる。
四十歳独特繊細不安年齢と安易自己破壊回避による自己再構築意義
《ヴェニスに死す》症候群は、四十歳という一種、独特の繊細な不安の年齢に差し掛かった二人の精神を浮き彫りにしている。
・日常の喧騒や社会的責任の重圧から逃れ、真の美や本来の自己、配置された究極の愛を求めてしまう危うさを明示する。
・彼らが破滅の淵を覗き込みながらも、安易な自己破壊に陥ることはない。
・最終的にどのように自己を再構築し、喪失を抱えながら生きていくのかというプロセスが、本作に大人の文学としての深い陰影を与えている。
まとめ
《ヴェニスに死す》症候群を巡る一連の顛末は、40代を迎えた蒔野と洋子が社会的立場や成功の日常に埋没することを拒み、破滅の危険を孕んだ表現の原点や真実の愛へと突き動かされながらも、自己破壊の誘惑を乗り越えて新たな生の均衡を獲得していった成熟の記録である。洋子の過酷な戦地赴任や蒔野のポップスアルバム破棄といった衝動が、互いの孤独や精神的危機を媒介として心中覚責の共鳴へと至ったプロセスは、この症候群が二人の魂に及ぼした引力の凄まじさを示している。最終的に、破滅的な衝動に呑まれることなく、激しいトラップや喪失を内包したまま自身の生活と音楽を再デザインし、ニューヨークでの再会という今を紡ぎ出した顛末は、どれほど人生の転換期において日常を揺るがす絶対的な危機の淵に立たされようとも、本質を見据えた自己の再構築と知的な前進によって打破され、より深い精神的平穏が完璧に奪還されることを厳密に証明している。
音楽的スランプと再起
『マチネの終わりに』における蒔野聡史の「音楽的スランプと再起」は、単なる技術的な不調の克服にとどまらず、一人の芸術家が人生の成熟とともに自らの音楽の在り方を解体し、再構築していく極めて重要なプロセスとして描かれている。そのスランプの始まりから長い沈黙、自己解体を経て新たな境地へと至る詳細な経緯は以下の通りである。
現代の喧騒に対する不快感限界とパリ公演途中演奏停止の絶望的危機
蒔野の音楽的な危機は、2006年のデビュー20周年記念公演の直後から本格化した。
・世間的には大絶賛を受けた公演であったが、彼は演奏後、音楽への不快感と深い疲労に苛まれていた。
・絶え間ない刺激が殺到する現代の喧騒と戦い続けることに限界を感じ、自身の演奏に次なる音楽への瑞々しい気配や未来を見出せないことに孤独と焦燥を抱いていた。
・その結果、進行中だった新作アルバムの制作を突如中止してしまう。
・マドリードで若い天才ギタリストの演奏を聴いて敗北感と世代交代の孤独を痛感し、続くパリのリサイタルでは演奏の途中で突如として音楽を見失い、指が止まってしまうという絶望的な事態に見舞われた。
洋子とのすれ違いおよび手足口病両手爪剥離に伴う一年半ギター不触沈黙
精神的な打撃と肉体的な苦難が重なり、蒔野は芸術家としての生命線とも言える手を傷つけることとなる。
・洋子との悲劇的なすれ違いや、手足口病に感染し両手の爪が剥がれ落ちるといった肉体的な苦難が重なった。
・1年半もの間、ギターに指一本触れられない深い沈黙の期間に陥る。
・この期間、彼はギタリストとしてのキャリアが終わるかもしれないという恐怖と闘うことになった。
武知文昭デュオ誘引恩師解放助言と過去運指撥弦癖点検の簡素デザイン再構築
どん底の状況にあった蒔野に、同世代の演奏家や恩師からの言葉が再起の光をもたらす。
・再起の直接的なきっかけとなったのは、同世代のギタリスト武知文昭からデュオ・コンサートに誘われたことであった。
・脳出血で倒れ不自由な身体となった恩師・祖父江誠一からもっと自由でいいと諭されたことも、彼を長年縛り付けていた完璧主義から心を解放する助けとなった。
・1年半ぶりにギターを手にした蒔野は、そこから3ヶ月に及ぶ過酷な特訓を開始する。
・長年の蓄積として固まってしまった運指や撥弦の癖を一つ一つ点検し、演奏スタイル全体をより簡素に、軽くデザインし直すという、自己の音楽の根本的な解体と再構築に取り組んだ。
東日本大震災静寂共有リサイタルとバッハ無伴奏チェロ組曲全集国際評価
自己解体を経て復活した蒔野は、社会的な大災害や洋子の過去の言葉と向き合うことで、音楽の存在意義を深めていく。
・デュオツアーを成功させて自信を取り戻した蒔野は、東日本大震災の発生を経て自身の音楽の存在意義を改めて問い直す。
・震災直後の横浜での復帰リサイタルで、彼は死者たちの絶対的な沈黙と生き残った観客たちの静寂を共有し、それを一つの音楽へと昇華させる経験をした。
・かつて洋子がバグダッドの戦地で語った、三十年戦争のあとの凄惨な世界で人々はバッハの音楽に慰められたという言葉を反芻し、新たな無伴奏チェロ組曲全集の録音に向かう。
・このアルバムは国際的に高い評価を受け、彼を完全な復活へと導いた。
・かつての一分の隙もない完璧に律せられた世界から脱却し、音楽を自由に泳がせながら一気に高みへと導くような、包容力と客観性を備えた新たな次元へと進化を遂げた。
まとめ
蒔野聡史の音楽的スランプと再起を巡る一連の顛末は、完璧主義の限界と心身の故障による絶望的な沈黙の期間を乗り越え、自己の表現を根本から解体して再デザインし、災厄の世に寄り添う新たな芸術的境地へと到達した壮絶な魂の再生の記録である。パリでの演奏停止や爪の剥離といった絶望から、恩師の助言や震災の静寂、バッハの録音を経てニューヨーク公演での完全な復活へと繋げたプロセスは、彼の音楽家としての圧倒的な資質と成熟を示している。最終的に、完璧なコントロールを捨てて音楽を自由に泳がせる包容力を獲得し、深い喪失の経験を神秘的な大きさと慰藉へと昇華させた顛末は、どれほど芸術家を打ちのめす過酷なスランプや挫折であっても、本質を突いた自己変革と未来への歩みによって打破され、より高次元な表現者としての平穏と輝きが完璧に奪還されることを厳密に証明している。
魂の呼応と再会
『マチネの終わりに』において、蒔野聡史と小峰洋子の関係は単なる恋愛感情にとどまらず、深い精神的な結びつきを示す「魂の呼応」として描かれている。物語の生の軌跡には華やかさと寂寥、歓喜と悲哀が交錯しており、その魂の呼応には美しさがある。第三者の介入による決定的な別離から五年半という歳月を経て、二人の魂の呼応はニューヨークという舞台で再び奇跡的な交錯を果たす。その詳細な経緯と結末を構成する要素は以下の通りである。
過酷現実闘争と空白期間経由の人間的成熟に伴う無意識相互影響
二人は離別していた長い空白期間において、互いに異なる場所で過酷な現実と闘いながらも、無意識のうちに影響を与え合い、共に人間として深い成熟を遂げていた。
・蒔野は深刻なスランプや爪が剥がれるという肉体的な苦難、早苗との結婚や娘の誕生、そして東日本大震災を経て、音楽家としての新たな境地へと到達していた。
・洋子もイラクでの過酷な体験によるPTSD、リチャードとの結婚と離婚、息子ケンの出産を経て、国際人権監視団体で難民問題に取り組むという新たな使命を見出していた。
・それぞれが個人の試練を乗り越えることで、精神的な基盤をより強固なものへと変革させていた。
マーキンホール公演来場と客席視認バッハ演奏および完璧音楽躊躇
ニューヨークのマーキン・コンサート・ホールで開催された蒔野の公演に、洋子は一人の聴衆として密かに足を運ぶ。
・第一部の終わりに客席の奥に洋子を見つけた蒔野は、新しいバッハを誰よりも彼女に聴いてほしかったという喜びに満たされながら演奏する。
・洋子は蒔野の演奏から、彼が深い疑問と慰めを音楽に込めているのを感じ取り、その音楽が彼の現在の人生を力強く肯定していることに心を打たれる。
・しかし同時に、彼女はその完璧な音楽を前にして、自分はもはや一人の聴衆に過ぎないと感じ、彼の完成された生を壊してはならないと再会をためらう。
あなたのために視線伝達と幸福の硬貨演奏に伴うリルケ悲歌情景重畳
アンコールの最後に、蒔野はみなさんのためにという言葉を、本当はあなたのためにと言っているのだと伝えるかのように洋子を見つめる。
・蒔野は二人の縁の曲である幸福の硬貨のテーマ曲を弾き始める。
・この曲は、初対面の夜に互いの絆を意識した曲であり、かつてパリでイラク人難民のジャリーラのために弾き、洋子がリルケのドゥイノの悲歌を朗読した思い出の曲でもあった。
・詩に詠われた、この世界では遂に愛という曲芸に成功することのなかった二人が真の微笑みを浮かべるという情景は、まさに過酷な運命とすれ違いに翻弄された二人の姿と重なり合っている。
セントラルパーク池畔再会と五年半空白超越に伴う真の微笑み交歓幕引き
終演後、セントラル・パークの池の畔で、二人は五年半の歳月を経てついに再会を果たす。
・言葉を交わすよりも先に、二人は互いの姿を見つめ合い、静かに真の微笑みを交わす。
・この再会は、単に失われたロマンスを取り戻そうとするものではない。
・深い傷と喪失を抱えながらも今を懸命に生き抜いた大人同士が、過去のすべてを肯定し昇華させた魂の呼応の究極的な成就として、作品の幕引きを限りなく美しく飾っている。
まとめ
蒔野聡史と小峰洋子の関係を巡る一連の顛末は、偽装メールによる別離や互いの結婚、社会的動乱といった過酷な空白期間をそれぞれが人間的成熟の糧へと変え、ニューヨークの公演における音楽的共鳴を経て、セントラル・パークでの無言の再会と微笑みによって魂の呼応を完全に成就させた大人の純愛の記録である。バッハの演奏を通じた精神的対話や、思い出の幸福の硬貨にリルケの詩の情景を重ね合わせて互いの歩みを肯定し合ったプロセスは、二人の絆が時間の断絶を超越した本質的な強さを持っていることを示している。最終的に、失われた歳月を悔いるのではなく、今という瞬間において過去の悲哀や傷跡のすべてを美しいものへと塗り替え、静かな微笑みの中に真の平穏を完璧に奪還した結末は、どれほど運命に翻弄され引き裂かれた関係性であっても、魂の格調高き呼応と未来への前進によって打破され、至高の調和に満ちた未来が厳密に保障されることを証明している。
登場キャラクター
RFP通信社
小峰洋子
フランスのRFP通信社に所属する記者である。イェルコ・ソリッチを父に持つ。イラクでの取材を経験し、PTSDに苦しむ。蒔野聡史と出会って互いに惹かれ合う。すれ違いの末にリチャードと結婚した。
・所属組織、地位や役職
RFP通信社・記者。後に国際人権監視団体・難民局員。
・物語内での具体的な行動や成果
バグダッドで自爆テロに遭遇し、生還した。ジャリーラのフランス滞在を支援する。後にリチャードと離婚し、国際人権監視団体に就職した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
イラクでの取材後、PTSDを発症する。リチャードとの間にケンドリックをもうけた。離婚後、ジュネーヴへ移住する。
フィリップ
RFP通信社の支局長である。アフリカやイラクの紛争地帯を取材してきた経験を持つ。洋子の上司であり、彼女の精神状態を気遣う存在となっている。
・所属組織、地位や役職
RFP通信社・支局長。
・物語内での具体的な行動や成果
バグダッド支局の勤務ローテーションを導入した。洋子のイラク赴任を切り上げる決定を下す。洋子にジャリーラの両親が殺害されたことを伝えた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
長く紛争地帯の報道に携わっている。
ジャリーラ
バグダッド大学出身の女性である。映像作家を志望している。洋子を姉のように慕う。過激派から命を狙われて亡命を図った。
・所属組織、地位や役職
RFP通信社バグダッド支局・現地スタッフ。後にパリのスーパーの店員。
・物語内での具体的な行動や成果
洋子や蒔野の前で歌手のものまねを披露した。偽造パスポートでフランスへ逃れ、洋子の支援で滞在許可を得る。両親を殺害されて生き残ったことに苦悩した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
イラクからフランスへ亡命する。パリ郊外のスーパーで働くようになる。
木下音楽事務所
三谷早苗(蒔野早苗)
蒔野の担当マネージャーである。勝ち気な性格を持つ。蒔野の音楽を愛し、彼の人生の脇役になることを望んでいる。
・所属組織、地位や役職
木下音楽事務所・マネージャー。
・物語内での具体的な行動や成果
蒔野の携帯電話から洋子へ偽の別れのメールを送信した。蒔野の携帯電話を水たまりに落として壊す。祖父江誠一の介護や蒔野の生活を支援した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
後に蒔野と結婚する。娘の優希を出産した。
五十嵐
木下音楽事務所の若い男性社員である。早苗の後に蒔野の担当となる。
・所属組織、地位や役職
木下音楽事務所・社員。
・物語内での具体的な行動や成果
蒔野の復帰に向けたミーティングに出席した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
レコード会社
是永慶子
レコード会社の社員に該当する。蒔野の担当を務める。洋子と蒔野を引き合わせる役割を果たした。
・所属組織、地位や役職
ジュピター・社員。後に外資のデザイン家電メーカー・PR担当。
・物語内での具体的な行動や成果
蒔野に洋子を紹介した。ポップスのカバー企画を進めるが、蒔野の中止決定により担当を外れる。武知の音源の扱いについて蒔野に相談した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
ジュピターの買収に伴って退社し、転職する。
岡島
レコード会社の社員である。是永の上司に当たる。知識は豊富だが、部下の提案を否定する傾向がある。
・所属組織、地位や役職
ジュピター・社員。
・物語内での具体的な行動や成果
ジュピターの買収話を蒔野に伝えた。蒔野に録音中止の再考を促す。匿名ブログで蒔野や武知を批判した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
匿名ブログの件が発覚し、会社を去る。
野田
三十代の男性社員となっている。情報工学科の出身である。蒔野の新しい担当となる。
・所属組織、地位や役職
グローブ・ミュージック・クラシック部門担当。
・物語内での具体的な行動や成果
蒔野にアルバム完成とネットを利用した企画を提案した。岡島が匿名ブログの管理人であることを見つける。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
音楽配信事業部からクラシック部門へ異動した。
音楽家とその家族
蒔野聡史
クラシックギタリストである。完璧主義の傾向を持つ。洋子と出会い深く惹かれる。
・所属組織、地位や役職
クラシックギタリスト。
・物語内での具体的な行動や成果
洋子に愛を告白し、結婚を申し込んだ。スランプや手足口病の後遺症で一年半ギターから遠ざかる。バッハの再録音を行い、ニューヨークで公演を成功させた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
三谷早苗と結婚する。娘の優希をもうけた。
優希
蒔野と早苗の娘に該当する。
・所属組織、地位や役職
特になし。
・物語内での具体的な行動や成果
特になし。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
二〇一一年十月十四日に誕生する。
祖父江誠一
蒔野の少年時代からの恩師である。礼儀を重んじる人物となっている。蒔野の才能を評価し、熱心に指導した。
・所属組織、地位や役職
ギタリスト・指導者。
・物語内での具体的な行動や成果
蒔野に自由な音楽表現を勧めた。蒔野に早苗を大切にするよう忠告する。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
脳出血で倒れ、麻痺が残る。老人介護施設へ入居した。
響
祖父江の息子である。ヴァイオリニストとして活動している。
・所属組織、地位や役職
ヴァイオリニスト。
・物語内での具体的な行動や成果
特になし。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
カナダを拠点に活動している。
奏
祖父江の娘となっている。中学校の音楽教師をしている。父親の介護を担う立場となっている。
・所属組織、地位や役職
中学校の音楽教師。
・物語内での具体的な行動や成果
倒れた祖父江を発見した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
二人の子供を育てている。
武知文昭
蒔野と旧知のギタリストである。生真面目で実直な性格を持つ。長年蒔野の活動を意識していた。
・所属組織、地位や役職
ギタリスト。
・物語内での具体的な行動や成果
蒔野をデュオコンサートに誘った。蒔野と全国ツアーを行う。実家の仏壇職人を継ぐため演奏活動を引退した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
ツアー終了後に急逝する。
洋子の家族・関係者
イェルコ・ソリッチ
ユーゴスラヴィア出身の映画監督に該当する。洋子の父に当たる。寡黙な性格を持つ。
・所属組織、地位や役職
映画監督。
・物語内での具体的な行動や成果
戦争映画《幸福の硬貨》などを監督した。洋子に過去の経緯を打ち明ける。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
映画学校での指導を辞める。ロサンゼルスに居住している。
リチャード
アメリカ人の経済学者である。洋子の婚約者であり、後に夫となる。合理的な考え方を持つ。
・所属組織、地位や役職
大学の経済学者・銀行の顧問。
・物語内での具体的な行動や成果
イラクから帰国した洋子を空港で出迎えた。洋子のPTSDの回復を支える。ヘレンと不倫し、洋子に離婚を求めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
洋子と結婚しケンをもうける。後に離婚する。
ケンドリック(ケン)
洋子とリチャードの息子となっている。
・所属組織、地位や役職
特になし。
・物語内での具体的な行動や成果
特になし。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
リーマン・ブラザーズ破綻の翌日に誕生する。
クレア
リチャードの姉である。洋子が家族になることを喜んでいた。
・所属組織、地位や役職
特になし。
・物語内での具体的な行動や成果
洋子にリチャードとの復縁を電話で説得した。リチャードと共にパリの空港で洋子を出迎える。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
ヘレン
ブロンドの女性に該当する。金融業界で働いている。リチャードの不倫相手となる。
・所属組織、地位や役職
銀行の職員。
・物語内での具体的な行動や成果
パーティーで洋子と金融危機の責任について議論した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
リチャードと再婚する予定となる。
オルザ
フィリップの知人の女性である。親しみやすく信頼できる性格を持つ。
・所属組織、地位や役職
旅行会社の社員。
・物語内での具体的な行動や成果
パリでジャリーラの世話役を引き受けた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
登場する集団
新日本フィル
管弦楽団に該当する。
・所属組織、地位や役職
オーケストラ。
・物語内での具体的な行動や成果
サントリーホールで蒔野聡史と共演した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
RFP通信社
フランスの通信社となっている。洋子やフィリップが所属している。
・所属組織、地位や役職
報道機関。
・物語内での具体的な行動や成果
バグダッドに支局を置き、イラク戦争の取材を行った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
木下音楽事務所
音楽事務所である。蒔野聡史が所属している。
・所属組織、地位や役職
音楽事務所。
・物語内での具体的な行動や成果
蒔野のコンサートや活動のマネジメントを行った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
ジュピター
レコード会社に該当する。蒔野のCDを多く販売してきた。
・所属組織、地位や役職
レコード会社。
・物語内での具体的な行動や成果
蒔野の新作アルバムの企画を進めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
グローブ・ミュージックに買収される。
グローブ・ミュージック
大規模なレコード会社である。
・所属組織、地位や役職
レコード会社。
・物語内での具体的な行動や成果
ジュピターを買収した。蒔野の新しい担当を配置する。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
赤十字
国際的な人道支援組織となっている。
・所属組織、地位や役職
支援組織。
・物語内での具体的な行動や成果
パリの空港で拘束されたジャリーラを保護し、亡命手続きを支援した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
国際人権監視団体
ニューヨークに本部を置くNGOである。
・所属組織、地位や役職
非政府組織。
・物語内での具体的な行動や成果
難民の人権状況を調査し、各国政府や国連に提言を行った。洋子を採用する。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
ウスタシャ
クロアチアのファシズム政党に該当する。
・所属組織、地位や役職
政党。
・物語内での具体的な行動や成果
映画《幸福の硬貨》の中で、ナチスの傀儡政権を樹立し他民族を迫害する存在として描かれた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
パルチザン
ユーゴスラヴィアの抵抗運動組織である。
・所属組織、地位や役職
武装組織。
・物語内での具体的な行動や成果
映画《幸福の硬貨》の中で、主人公が参加してウスタシャと戦った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
武装勢力
イラクで活動する過激派の集団となっている。
・所属組織、地位や役職
過激派組織。
・物語内での具体的な行動や成果
バグダッドのムルジャーナ・ホテルで自爆テロを起こした。ジャリーラやその関係者を脅迫し、殺害する。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
マフィア
犯罪組織である。民族主義者たちと関係を持つ。
・所属組織、地位や役職
犯罪組織。
・物語内での具体的な行動や成果
映画制作を巡ってイェルコ・ソリッチを脅迫した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
展開まとめ
序
虚構に託された二人の生
語り手は、実在の人物をモデルとする蒔野聡史と小峰洋子を守るため、名前や組織、日付などを変更して物語を書いた。事実の暴露ではなく、虚構をまとわせることで初めて描ける二人の感情生活を、架空の人物として率直に記そうとしていた。
暗い森の中の出逢い
蒔野と洋子が出逢った頃、二人は四十歳を迎え、明るい日常の先に漠然とした不安を抱えていた。正道を踏み外した理由も分からないまま、二人は人生の暗い森へ迷い込み、友情とも愛とも言い切れない強い信頼で結ばれていった。
華やかさと寂しさの呼応
語り手は先に蒔野と知り合い、のちに洋子とも連絡を取ったことで、二人が惹かれ合った理由を理解した。歓喜と悲哀、華やかさと寂しさを併せ持つ二人の魂の呼応には、同情や呆れを越えて憧れを感じさせる美しさがあった。
書くべき物語
二人の関係には最後まで理解できない謎が残り、誰もが容易に共感できる人生でもなかった。それでも語り手は、幻滅の続く現実から逃れるように二人を思い、自分ならどうしたかを考え続けた末、二人について書くべきだと感じて筆を執った。この序文は、物語を書き終えた後に付け加えられたものであった。
第一章 出会いの長い夜
デビュー二十周年記念公演
二〇〇六年、三十八歳のクラシック・ギタリスト蒔野聡史は、国内外で多数の公演を行い、サントリーホールで記念ツアーの最終日を迎えた。新日本フィルと共演したアランフェス協奏曲や三曲のアンコールは高く評価され、観客は総立ちで拍手を送った。この日の録音は後に賞を受けて広く売れたが、蒔野はその後、長い活動休止に入ることとなった。
楽屋での四十分
終演後、蒔野は面会者を待たせたまま、誰にも声をかけさせずに四十分近く楽屋へ籠もった。やがて疲労を冗談でごまかしながら笑顔で現れたが、楽屋には大きな水の空き瓶が転がっていた。関係者はその光景を記憶したものの、蒔野の内面で何が起きていたのかは分からなかった。
小峰洋子との出会い
蒔野は、レコード会社の是永慶子に同行していた通信社記者の小峰洋子に強く惹かれた。洋子がアンコールのブラームスを賞賛すると、それが蒔野自身も唯一満足していた演奏だったため、彼は率直に喜んだ。洋子にはアメリカ人の婚約者がいたが、二人の会話は初対面とは思えないほど自然に続いた。
幸福の硬貨の記憶
洋子は、蒔野がギターを好きになるきっかけとなった映画《幸福の硬貨》の監督イェルコ・ソリッチの娘であった。さらに、十八歳の蒔野がパリで行った演奏を聴いており、その才能に嫉妬したほど強く記憶していた。蒔野はその縁に驚き、洋子への関心を一層深めた。
打ち上げへの誘い
帰ろうとした洋子を、蒔野はもう少し話したいと打ち上げへ誘った。洋子は短時間だけ参加するつもりで承諾し、一行はスペイン料理店へ移動した。蒔野は冗談を交えて場を盛り上げながらも、洋子が笑っているかを何度も確かめ、受け入れられたことに喜びを感じた。
イラクへ向かう洋子
洋子は、間もなく治安が悪化しているイラクへ記者として赴き、四カ月ほど現地で活動する予定だと明かした。危険を承知しながらも、バグダッドへ行く前に美しいものに触れたくて蒔野の公演を訪れたと語った。蒔野は帰国後の公演に招待すると約束し、二人は連絡先を交換した。
父と通じない言葉
洋子は日本語、フランス語、英語などを身につけていたが、父の母語であるクロアチア語を理解できないことに寂しさを感じていた。幼い頃には父とも母とも会話できず、自分は誰の子供なのかと泣いた経験があった。一方、蒔野は幼少期から父とギターを共通言語として育ち、洋子とは対照的な親子関係を歩んでいた。
祖母の命を奪った庭石
洋子は、幼い頃にままごとで使っていた庭石に祖母が転倒して頭を打ち、亡くなったことを語った。三谷は事故と子供時代の思い出を別のものとして捉えたが、蒔野は、その後の不幸によって過去の記憶そのものが変化したのだと理解した。洋子は、自分でも説明できなかった感情を蒔野が言葉にしたことに喜びを示した。
未来が変える過去
蒔野は音楽の主題を例に挙げ、未来の展開を知った後では、最初の旋律も以前と同じには聞こえないと語った。人間の記憶も同様に、未来の出来事によって過去の意味が変わり続けるのだと説明した。洋子は深く共感し、現在の楽しい時間も未来によって変わってしまう可能性に怖さを感じた。
尽きない二人の会話
蒔野と洋子は、店が閉まる深夜二時半まで二人だけで話し続けた。洋子は蒔野が新幹線で人違いをした相手へ本当は謝っていたことを見抜き、蒔野は自分を理解してくれる彼女に強い喜びを感じた。蒔野は公演への失意も見抜かれていると思ったが、この夜の幸福を壊したくないため、それを口にはしなかった。
別れ際の眼差し
二人は連絡を取り合う約束を交わし、洋子は一人でタクシーに乗った。蒔野は、二十年前の自分の演奏を覚えていた洋子の横顔を見送り、二人は後に、朝まで共に過ごすこともできたのではないかと考えた。この夜は、未来に傷つくたびに二人が繰り返し思い返す、特別な記憶となった。
第二章 静寂と喧噪
新作アルバムの中止
二〇〇七年二月、蒔野聡史はレコード会社の是永慶子と話し合い、進行中だった新作《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》の制作を突然中止すると告げた。作品は社内でも好評で、宣伝や公演の準備も進んでいたが、蒔野は嫌になったと繰り返すだけだった。是永は説得を断念し、担当を外れる可能性を残して立ち去った。
三谷早苗の支持
三谷早苗は、音楽家が望まない仕事を続けさせるべきではないと是永への怒りを露わにした。蒔野は自分の都合で企画を止める以上、相手が怒るのは当然だと諭したが、三谷は蒔野が優れた作品を生み出すことだけを考えていると主張した。彼女は公演中止による損害や後処理を承知しながらも、蒔野が音楽に集中するためには必要な判断だと信じていた。
残された時間
翌朝、蒔野はレコード会社から今後の方針を話し合う連絡を受けた。雪に覆われた街を眺めながら、両親の寿命を基準にすれば、自分に残された一年は三十回ほどしかないのではないかと考えた。減り続ける時間を意識したことで、四十歳を目前にした人生は、もはや漠然と長いものではなくなっていた。
静寂への憧れ
蒔野は自宅の窓辺で雪を眺め、静寂の心地よさに浸った。音楽は静寂の美との対決から生まれるという言葉を思い返したが、自分は長年、静寂ではなく社会の喧噪と戦ってきたのではないかと疑った。五感へ絶え間なく刺激が押し寄せる現代では、人間は疲労から逃れられず、完全な静寂は死によってしか得られないように感じられた。
音楽への倦怠
蒔野は、前年の記念公演後に楽屋で大量の水を飲んだ理由が、演奏への不快感にあったと認めた。彼は音楽活動そのものにうんざりしており、その自覚がスランプの始まりではないかと恐れた。思い通りに動く両手にも距離を感じ、長年一体だった肉体が、いつか自分から離反するのではないかと不安を抱いた。
舞台上の予兆
前年のツアーでは、調律の音を鳴らした瞬間に、これまで経験したことのない戦慄が全身を走っていた。無人の会場に消えていく音を聴くたび、聴衆が静寂の中へ解放されることを望んでいるように感じられた。蒔野は音楽に生命の歓喜を求めながらも、その生命自体が日常の喧噪の中で衰弱していると考えていた。
洋子から途絶えた連絡
蒔野はメールを確認したが、バグダッドに滞在する小峰洋子からの返信はなかった。彼女の勤務先が入るホテルで自爆テロが起こり、多数の死傷者が出ていたため、蒔野は既に二度、安否を尋ねていた。返事がないまま不安を募らせ、迷惑になることを恐れながらも、無事を祈る三通目のメールを送信した。
ヴェニスに死す症候群
洋子は最後のメールで、現実社会への適応に嫌気が差し、本来の自分へ戻るため破滅的な行動に出る状態を、父から《ヴェニスに死す症候群》と呼ばれたと記していた。蒔野はその言葉を自分にも重ね、新作を捨てて再びバッハへ向かおうとする衝動に影響していると感じた。洋子の言葉が最後のものになる可能性を考えると、それは自身の人生を縛るほど重いものに思えた。
洋子への思慕
蒔野は、初対面でありながら深い安らぎと知的な刺激を与えてくれた洋子の声を、無性に聞きたいと思った。彼女が四十歳で命を落とす可能性を想像すると、たった一度しか会っていなくても、憧れと親しみは強まっていった。重傷を負ったなら一生支えてもよいとまで考え、自分の感情の高まりに戸惑った。
未来を失った演奏
蒔野はようやく前年の記念公演の録音を聴いた。世間の絶賛ほど悪い演奏ではなく、洋子が褒めたブラームスもまずまずだった。しかし、そこには欠点がない代わりに、次の音楽へ芽吹こうとする気配がなかった。完成された演奏の中に未来を見いだせず、自分が望んでいた高みとは異なる、つまらない山を登っているように感じた。
孤独と洋子の面影
蒔野は、音楽家として初めて、自分の迷いを悟られたくない気持ちと理解されたい思いを同時に抱いた。四十歳を目前にした年齢を意識しながら、別れ際にタクシーの中から見つめ返した洋子の顔を思い出した。
第三章 《ヴェニスに死す》 症候群
自爆テロからの生還
二月二十一日、ムルジャーナ・ホテルで取材を終えた洋子は、七階へ向かうエレベーター内で爆発に遭遇した。自爆テロだと悟った彼女は、武装勢力による占拠を恐れながら支局長のフィリップへ連絡し、その後は閉じ込められたまま祈り続けた。やがて救出されたものの、わずかな時間差で死を免れた事実は、彼女の現実感を揺るがした。
爆発に怯える日常
テロから十日後も、洋子はバグダッドの支局で働いていた。遠方の爆発音にも過敏に反応し、人影に怯えるなど、精神的な動揺は続いていた。現地スタッフのジャリーラと仕事を交わしながら日常を保とうとしたが、フィリップは彼女の状態を気遣っていた。
イラク取材の終了
フィリップは、洋子の精神状態を考慮し、予定されていた次の赴任を取りやめると告げた。洋子は帰国への安堵を感じる一方、任務を最後まで果たせない無力感も抱いた。あと一つ質問していればテロで死んでいた可能性を語ると、フィリップは彼女の責任ではないと慰めた。
戦地で変質した時間
洋子は、戦地では短期間に多くの出来事を経験するため、通常とは異なる時間感覚に陥ると語った。死の恐怖に麻痺することで仕事を続けるフィリップに対し、自分はその麻痺すら受け入れきれず、感受性を保ちながら健康を維持する難しさを感じていた。
父との関係と報道の道
フィリップは、洋子が映画ではなく報道を選んだ背景に、著名な映画監督である父との関係があるのではないかと考えた。洋子はその推測を否定し、父とは既に適度な距離で良好な関係を築いていると答えた。それでも、父の作品と同じく社会の現実を伝えようとする姿勢には、親子の共通点が表れていた。
蒔野への憧れ
洋子は、部屋で《幸福の硬貨》の曲を聴いている理由を問われ、演奏者である蒔野の才能を熱心に語った。彼の才能を、空高く飛び続ける紙飛行機のようだと評し、一緒にいて楽しい人物だと認めた。フィリップから惚れていると指摘されたが、洋子は婚約者リチャードを愛しており、蒔野にはファンとして憧れているだけだと否定した。
武器管理への特集記事
洋子は帰国までの二週間に、三本の特集記事を書き上げた。特にイラクの武器流出と治安悪化の関係を追い、軍や治安機関の解体によって大量の兵器と兵士が社会へ放出された経緯を、ユーゴスラヴィア紛争の事例と比較して論じた。その記事はフランスでも大きな反響を得た。
リチャードの求婚
帰国が決まったことを知ったリチャードは、結婚を早め、旅行や家庭によって洋子を癒やしたいと喜んだ。彼は、世界全体の不幸を一人で背負うことは不可能であり、自分が生きられる環境を選んで幸福を求めるべきだと説いた。洋子は彼の愛情に感謝しながらも、その未来を素直には受け入れきれなかった。
バグダッドへ戻った理由
洋子は、既に一度の赴任で十分な評価を得ていたにもかかわらず、再びバグダッドを志願していた。戦争の現実を正確に伝えたい思いに加え、ユーゴスラヴィア人の父を持つ自身の背景も、その選択に影響していた。しかし、治安も精神状態も悪化し、カウンセラーからは赴任継続を止められていた。
生き残った意味
洋子は、わずか一つの質問をしなかったために生き残った事実を何度も考えた。取材経験は今後の昇進に有利となるはずだったが、それを喜ぶ気にはなれなかった。死なずに帰国した後、自分がどのような人生へ戻るのかを見定められず、未来に暗い不安を抱いた。
バッハに重ねた蒔野
帰国を三日後に控えた夜、洋子は蒔野が演奏するバッハの無伴奏チェロ組曲を聴いた。死の都市で響くその演奏は、彼女の心を受け止め、現実から解放する慰めとなった。洋子は蒔野の笑顔を思い出し、あの夜に朝まで一緒にいたなら、自分の人生は変わっていたのではないかと想像した。
返せないメール
洋子は蒔野に会いたいと明確に思いながらも、安否を尋ねる三通のメールへ返事をしていなかった。無事や感謝を伝えるだけでなく、それ以上の感情を書きたがっている自分を自覚していたためである。フィリップの指摘を意識するうち、蒔野への思いは後戻りできない方向へ進み始めていた。
結婚への迷い
洋子は、帰国後にリチャードと結婚し、子供を持つ未来を考えた。半年後には四十一歳になるため、選択できる時間は限られていた。リチャードとの新しい人生を思い描きながらも、蒔野への思いが芽生えたことで、その決意は揺らいでいた。
第四章 再会
途絶えた連絡
蒔野は、帰国したはずの洋子から三月末まで連絡がないため、彼女への思いを諦めようとした。しかし、音信不通を通して自分が既に洋子を愛し始めていたと悟り、二人は別世界の住人なのだと寂しく受け入れかけた。
長い長いメール
洋子から届いた長文のメールには、返事が遅れた謝罪と、蒔野の三通のメールや音楽に支えられた感謝が綴られていた。洋子は蒔野に語りかけるつもりで、自爆テロから生還した後の心情やイラクの惨状、帰国後の思索を書き上げた。蒔野はその文章に引き込まれ、自分が洋子にとって特別な存在であると感じた。
パリでの再会の約束
洋子は、六月の蒔野の予定が変わっていなければパリで会いたいと記した。蒔野はすぐに返事を送り、予定どおり滞在するため、食事をしながら話の続きをしようと誘った。洋子から届いた喜びに満ちた返事によって、蒔野は彼女に愛されたいという思いを明確に自覚した。
結婚への決意
蒔野は洋子への恋を通して、彼女に値する人間でありたいと願うようになった。婚約者のいる洋子と関係を築くには、彼女が現在の結婚を取りやめ、自分との結婚を選ばなければならないと考えた。これまで結婚に関心がなかった蒔野は、人生で初めてそれを現実的に意識した。
二日間の予定
蒔野はマドリードへ向かう途中のパリ滞在を延ばし、洋子と二日間会う約束をした。洋子は互いの人生を一日ずつ話せると喜びながら、演奏会前である蒔野を気遣った。蒔野は再会を待ち望む一方、自身の音楽的な不調を考え、冷静になる必要も感じていた。
祖父江誠一の忠告
蒔野は、少年時代の恩師である祖父江誠一と共演した。新作の録音中止について尋ねられると、祖父江は内的な理由で作った時間を有効に使おうと考えすぎない方がよいと忠告した。蒔野は、恩師が演奏を通して自分の苦悩を見抜いていると感じた。
レコード会社の買収
ジュピターがグローブ・ミュージックに買収されることが明らかになり、蒔野の録音中止も買収と関係があると噂された。岡島は、新作を商業的に成功させることで蒔野やクラシック部門を守ろうとしていたと説明し、制作再開を求めた。蒔野はその意図に不快感を抱き、返事を保留したままグローブ側との直接交渉を選んだ。
三谷早苗の嫉妬
三谷は、蒔野がパリで洋子に会うため予定を変えたことを察した。以前から蒔野への思いを抱いていた三谷は、二人の再会を想像して不安を募らせた。洋子に会うのかと詰問するように尋ねたことで蒔野の不興を買い、自分の感情と仕事が噛み合わないことに苦しんだ。
父の映画への接近
蒔野は機内で、洋子の父イェルコ・ソリッチが若い頃に撮った戦争映画《ダルマチアの朝日》を鑑賞した。その芸術性に圧倒され、ソリッチの娘である洋子を一層特別な存在として意識した。同時に、彼女の背景の深さを知るほど、自分との距離も感じて不安を強めた。
パリの日常への帰還
洋子は帰国後、パリの街を自由に歩き、入浴や運動を通して日常へ戻っていった。表面上は順調に回復し、選挙報道の仕事にも復帰したが、イラクに残した人々への思いは消えなかった。婚約者リチャードは結婚を進めたが、洋子は曖昧な態度を取り続けた。
リチャードとの関係
洋子は、子供を持ちたいという思いから、信頼できるリチャードとの結婚を現実的に考えていた。二人の関係には穏やかな愛情と肉体的な親密さがあり、人生は滞りなく進んでいた。しかし、蒔野への思いは、その安定した心の中に突然燃え広がった強い火となった。
蒔野への罪悪感
洋子はリチャードの求めに応じながらも、蒔野を考えるたびに罪悪感を抱いた。蒔野へ長いメールを送り、再会を約束してからは、リチャードとの肉体関係を避けていた。蒔野への感情は、まだ何も始まっていないにもかかわらず、既に彼女の選択を左右していた。
パリでの再会
蒔野はパリに到着し、洋子が予約したレストランで再会した。二人は喜びながらも、メールで深い心情を交わしてきたため、実際に向き合うとぎこちなさを覚えた。蒔野は洋子の婚約指輪に落胆しながら、初対面の夜の続きから会話を始めた。
しじみの話
蒔野は場を和ませようとして、知人の女性がペットとして飼っていたしじみを誤って鍋に入れてしまった話をした。洋子は笑いながらも、死と固有名詞の話題がイラクの記憶につながった。蒔野は不適切な話だったと後悔したが、洋子は相手を笑わせようとする彼の思いやりを感じ取った。
天才への複雑な感情
洋子は蒔野の話し方やユーモアに魅力を感じる一方、彼の才能に対する嫉妬や反発が自分の中にもあると認めた。蒔野の理解者であり慰めになれることを幸福に思いながらも、彼にとって自分が本当に特別なのかを疑った。蒔野の愛を受け入れたい思いと、傷つくことへの恐れがせめぎ合っていた。
美と音楽の役割
二人はソリッチの映画をきっかけに、戦争の悲惨さを美によって表現する意味について語り合った。蒔野はイラクで自分の音楽が役に立ったのか疑ったが、洋子は彼のバッハに救われたと断言した。荒廃した世界で音楽が人を慰める力を持つことを洋子が語ると、蒔野は深く心を動かされた。
まだ二回目の関係
蒔野は、自分が他人の心に鈍感かと洋子に尋ねた。洋子は、まだ会うのが二回目だから分からないと答えた。その言葉には、強い思いを抱きながらも互いを十分に知らないという迷いが込められており、蒔野は距離を突きつけられたように感じた。
命を結ぶ約束
洋子が世界の出来事に貫かれる感覚を語ると、蒔野は彼女が死ねば自分も死ぬと告げた。洋子はその言葉を軽率だと拒んだが、蒔野は彼女が自ら命を絶つなら自分も同じ選択をすると一方的に約束した。離れていても彼女を支える方法として、彼は自分の命を差し出そうとした。
結婚を止める告白
蒔野は、洋子の存在が自分の人生を貫いたと告白した。洋子が間もなく結婚すると告げると、蒔野はそれを止めるために来たと答えた。出会った事実も、彼女を愛した自分も、もはやなかったことにはできないと語り、共に暮らし続けたいと願った。
答えられない洋子
洋子は蒔野の告白を望んでいたが、リチャードの子供を妊娠している可能性があったため、気持ちを伝えられなかった。妊娠していればリチャードと結婚し、蒔野への愛を断念するつもりだった。確証を得るまでは、父親の異なる男性に愛を告げることを自分に許せなかった。
マドリードまでの猶予
洋子は、蒔野との結婚や子供を持つ生活を現実的に考えられるのかと尋ねた。蒔野は洋子を愛したこと自体が自分の現実であると答え、彼女の気持ちを求めた。しかし、洋子は返答できず、マドリードから戻るまで時間が欲しいと申し出た。
遠ざかった心
蒔野は強引だったと自嘲しながら、洋子の求めを受け入れた。洋子は告白がうれしかったと伝え、自分が悪いと謝ったが、妊娠の疑いを説明できなかった。蒔野の心を遠ざけたと悟った洋子は絶望したものの、誤解を解くことができないまま、二人は店を出ることとなった。
第五章 洋子の決断
マドリードでの不調
マドリードのフェスティヴァルで、蒔野はいつになく緊張し、演奏も大きな失敗ではなかったものの、ほとんど注目されなかった。その反応の薄さは酷評以上に彼を落ち込ませ、ギターや音楽そのものに飽きたのではないかという不安を抱かせた。さらに、パリで洋子に結婚を止めるよう迫った自分の告白を振り返り、現実的な話を何一つしなかったことを悔やんだ。
若い才能の出現
蒔野は、世界的なコンクールで優勝を重ねる若いポーランド人ギタリストの演奏を聴いた。最初は対抗心を抱いたが、音色や表現、解釈の深さで自分が更新されたと認めざるを得なかった。青年が自分の影響を受けていないらしいことにも衝撃を受け、次世代へ何も残せない孤独と、自分が年長者の側へ移った現実を痛感した。
洋子との未来
蒔野は旧知のギタリストに、洋子との生活を考えてパリへ拠点を移す可能性を相談したが、演奏家としては日本にいた方がよいと諭された。周囲の音楽家が家族を伴っている姿を見て、洋子を妻として紹介する未来を思い描いた。彼女と語り合うことで自分が変わり、ヨーロッパとも出会い直せるのではないかと期待していた。
途切れた演奏
パリに戻った蒔野は、エコール・ノルマルで演奏会を開いた。演奏は最後の曲まで高く評価されたが、洋子が座るはずの席は空いていた。蒔野は《大聖堂》の演奏中、突然音楽を見失い、指を動かせないまま演奏を止めて舞台を降りた。楽屋で確認した携帯電話には、洋子から欠席を詫び、自宅へ来てほしいという伝言が残されていた。
ジャリーラの亡命
洋子は演奏会当日の朝、バグダッド支局で働いていたジャリーラから助けを求められた。彼女は過激派から脅迫され、偽造旅券で亡命を試みた末、シャルル・ド・ゴール空港で拘束されていた。洋子は空港へ駆けつけ、送還されれば命を奪われると訴えながら手続きに付き添った。審理の結果、ジャリーラにはフランス滞在が認められ、洋子は自宅で保護することにした。
洋子の自宅
蒔野は洋子の部屋を訪れ、演奏会を欠席した事情を聞いた。ジャリーラも交えて食事をし、蒔野が冗談を語るうち、彼女の表情には少しずつ笑顔が戻った。蒔野は、命を奪われる寸前だったジャリーラを救うために尽力した洋子を尊敬し、一人の人間が生き続けることによって世界そのものが変わるのだと感じた。
ジャリーラへの演奏
蒔野はジャリーラのためにギターを弾き、《ガヴォット・ショーロ》や《この素晴らしき世界》《やさしく歌って》を演奏した。彼女が笑顔を取り戻す姿を見て、音楽には過酷な状況でも人を楽しませ、慰める力があると再認識した。さらに《トキシック》を弾くと、ジャリーラはものまねを披露し、三人は声を上げて笑った。
幸福の硬貨
ジャリーラの希望で、洋子は父の映画《幸福の硬貨》と、その題名の由来となったリルケの詩を説明した。洋子が《ドゥイノの悲歌》を朗読し、蒔野が映画のテーマ曲を続けて演奏した。演奏を聴いたジャリーラは声を失って泣き、洋子は彼女を抱き締めた。蒔野は、その涙の向こうに、同じように苦しむ無数のイラク人を思った。
婚約解消の報告
ジャリーラが眠った後、洋子は、蒔野がマドリードにいる間にリチャードへ婚約解消を申し入れたと告げた。他に愛する人ができ、その人と生きたいと伝えたのである。蒔野は、自分のために大きな犠牲を払った洋子の覚悟を知り、彼女を抱き締めた。
洋子の決断
洋子は妊娠していないことが分かると、自分の心に従うことを決めた。リチャードはニューヨークから駆けつけ、激しく動揺しながら理由を問い続けたが、洋子の決意は変わらなかった。リチャードに非がないことを理解していたため、彼女は深い罪悪感を抱きながらも、蒔野を愛さなかった自分はもはや存在しないと考えた。
深まる二人の関係
洋子は蒔野の愛を受け入れ、彼の望むすべてを満たしたいという強い衝動に駆られた。二人は長い口づけを交わし、さらに関係を深めようとしたが、眠るジャリーラが悪夢に苦しむたびに中断した。最後には洋子がジャリーラに寄り添ったまま眠り、蒔野もリヴィングで眠りに落ちた。
第六章 消失点
幸福な遠距離恋愛
帰国後の蒔野は、洋子が婚約解消を告げた夜を繰り返し思い返し、食事や演奏を共にした時間に人生でも稀な輝きを感じていた。二人はメールやスカイプで日常の出来事を語り合い、蒔野は世界のあらゆるものが洋子へ伝えるための意味を持つようになったと感じた。
洋子の家族と戦争の記憶
洋子は蒔野に、父ソリッチの空白の九年間や、母の再婚、長崎での被爆体験について語った。母は被爆の事実を隠し続け、戦争から逃れた負い目と後遺症への不安を抱えていた。洋子は、自身が二度もイラクへ赴いた背景にも、両親から受け継いだ戦争の記憶が影響していると認めた。
音楽と愛の不一致
蒔野は洋子との愛に幸福を感じる一方、マドリードやパリでの失敗と若い才能への敗北感に苦しんでいた。音楽は彼の生の根拠であり、恋愛だけでは演奏家としての停滞を埋められなかった。彼はその苦悩を洋子に明かさず、自力で克服しようとしていた。
三谷早苗との亀裂
三谷は、蒔野の不調が洋子との関係によるものだと考え、音楽以外のすべてを引き受けると訴えた。蒔野はその短絡的な見方に苛立ち、彼女へ声を荒らげることが増えた。担当変更も考えたが、自分の音楽に三谷ほど熱心な人間はいないため、関係を切る決断はできなかった。
終わらない婚約解消
リチャードは洋子の新しい恋を一時的な浮気と捉え、すべてを許して結婚しようと求め続けた。家族や友人も復縁を勧め、洋子は婚約指輪や荷物を返せないまま罪悪感を募らせた。蒔野との結婚は互いに了解しているつもりだったが、正式な言葉を交わしていないことが次第に不安となった。
延期された日本行き
洋子は七月に日本を訪れるつもりだったが、仕事と航空便の都合で八月末へ延期された。わずか一カ月の延期にもかかわらず、彼女は二人の未来が永遠に交わらない平行線のように感じられた。東京への転勤も難しく、蒔野との生活のために会社を辞めることまで考え始めた。
洋子のPTSD
猛暑と不眠が続く中、洋子は自爆テロの悪夢やフラッシュバックに苦しむようになった。地下鉄ではアラブ系の青年をテロ犯と重ねて恐慌に陥り、医師からPTSDと診断された。医師は、戦争体験後の自分を受け入れ、新しい生活によって過去の意味を変えていく必要があると助言した。
ジャリーラとの支え合い
洋子はジャリーラを家族のように愛し、彼女を守ることがイラクのために今できる最も確かな行為だと考えていた。同時に、ジャリーラが自分の体験を理解し、正当化してくれる存在であることも認めた。洋子は蒔野に病状を知られれば負担をかけると恐れ、ジャリーラにも口外を厳しく禁じた。
三谷への嫉妬
是永から、三谷が蒔野の人生で重要な脇役になることを望み、彼のためなら何でもすると語っていたと聞かされ、洋子は初めて三谷に嫉妬した。音楽的危機にある蒔野の側で支えているのは三谷であり、自分は何ができるのかと苦悩した。PTSDを隠したのも、弱った自分が蒔野の負担になることを恐れたためだった。
新作への再着手
レコード会社では新担当の野田が、世界中のギター経験者を巻き込む企画とともに、《この素晴らしき世界》の完成を提案した。蒔野は、ジャリーラが演奏を喜んだ姿を思い出し、彼女にアルバムを捧げることで制作への意欲を取り戻した。ただし、自身の演奏に確信を持てないまま注目だけを集めることには抵抗が残った。
再び失われた楽譜
八月の国内公演で、蒔野は再び演奏中に楽譜を見失った。今回は誤魔化したものの、演奏は性急で表面的となり、長年親しんだ曲で二度も異常が起きたことに強い危機感を抱いた。それでも洋子と話す時だけは自然に笑え、ジャリーラのために楽しくギターを弾いた夜を回復の手掛かりにしようとしていた。
恩師の脳出血
洋子が来日する八月二十九日、蒔野は恩師の祖父江誠一が脳出血で倒れたとの連絡を受けた。病院へ急ぐ途中で携帯電話をタクシーに忘れ、洋子と連絡できなくなった。祖父江の手術を待ちながら、蒔野は三谷に携帯の回収を頼んだ。
新宿駅の洋子
三谷は回収した携帯に洋子からの着信があることを知り、新宿駅で蒔野を待つ洋子を見つけた。美しく佇む洋子が蒔野に似合うと痛感し、自分が二人を結び直す脇役であることに耐え難い嫉妬を抱いた。蒔野に会わせたくないという思いが、彼女の理性を押し流していった。
偽りの別れのメール
三谷は蒔野の携帯を使い、洋子との関係によって音楽を失ったため別れたいという偽のメールを書いた。当初は送らないつもりだったが、衝動に負けて送信した。直後に後悔し、送信履歴を消したうえ、携帯を水たまりへ落として故障させた。
届かなかった連絡
病院へ戻った三谷は、携帯を壊したことだけを蒔野に告げた。蒔野は彼女を責めず、洋子への連絡を頼んだが、三谷は祖父江の事情を説明した蒔野のメールを送信したふりをして削除した。そのため洋子には、偽りの別れのメールだけが届いた。
東京での発作
偽メールを読んだ洋子は、蒔野に捨てられたと思い、西新宿のホテルへ向かった。雷とエレベーターの停止をきっかけに、バグダッドの自爆テロを現実のように再体験し、医師の診察を受けた。彼女は、蒔野の音楽家としての不調を知っていたため、自分との関係を断つという内容を真実だと受け止めた。
食い違う二通目のメール
深夜、蒔野は三谷の携帯から連絡したつもりで、祖父江が危機を脱したことや、会えなかった事情を改めて洋子へ送った。洋子にはその前の説明が届いていなかったため、事情を理解するよう求める穏やかな文面を、別れを念押しする残酷な言葉と解釈した。二人は同じ文章をまったく異なる意味で受け取っていた。
長崎への逃避
洋子は蒔野へ時間が必要だと返信し、既に長崎にいると嘘をついて連絡を断った。実際には蒔野と会うことを望みながらも、精神的に不安定な状態で話し合えば壊れてしまうと恐れていた。翌日、一人で長崎へ向かい、携帯電話の電源を切った。
母の過去
長崎で洋子は、母が若い頃から体調不良に悩み、結婚前にソリッチへ被爆による障害や病気の可能性を告白していたことを知った。ソリッチは何があっても妻子を愛すると答えていたが、後に家族を離れていた。母は洋子の健康を何より案じ、子供を望むなら身体を過信しないよう忠告した。
心に残った空白
洋子は実家で、祖母の死につながった庭石を眺め、蒔野を失うことは、彼といる時にだけ生きられた自分を失うことだと感じた。同時に、PTSDに苦しむ姿を彼に見られることへの羞恥も抱いていた。体調を整えてから思いを文章で伝えようと考え、東京で会わずにパリへ戻る決意を固めた。
空港でのすれ違い
蒔野は洋子の態度が急変した理由を理解できず、羽田空港まで会いに行った。しかし洋子は予定を変更しており、姿を現さなかった。蒔野は自分という人間そのものが拒絶されたと考え、今後は自分から連絡せず、洋子からの言葉を待つことにした。
偽りの結婚報告
二週間後、蒔野のもとへ洋子から短いメールが届いた。そこには、かつての婚約者リチャードと復縁し、結婚したとだけ記されていた。
第七章 愛という曲芸
台北の審査員
二〇〇九年夏、蒔野は祖父江の代わりに台北国際ギター・コンクールの審査員を務めた。二年前に二枚のアルバムを発表して以降、表立った演奏活動を止めていたため、その参加は業界でも注目された。蒔野は的確な批評で審査結果に影響を与えたが、演奏家として停滞している自分が他人を評価することに居心地の悪さを感じていた。
一年半の空白
蒔野は旧知の武知文昭に、手足口病で両手の爪が剥がれて以来、一年半もギターに触れていないと明かした。爪が治った後も楽器へ手を伸ばせず、再起できるかどうかも分からない状態であった。祖父江の介護や教室の手伝いを続けながら、演奏家としての生活から遠ざかっていた。
武知との再起
活動に行き詰まっていた武知の話を聞いた蒔野は、二人で演奏することを提案した。具体的な目標があれば、再び練習を始められるかもしれないと考えたためである。武知は申し出を喜んで受け入れ、翌年のデュオ公演へ向けた計画が動き始めた。
早苗との結婚
蒔野は、祖父江の介護や奏の育児を献身的に支えた三谷早苗と結婚していた。洋子との別離後、荒れた生活を立て直そうとする中で、長く自分を愛し続けた早苗こそ現実的に人生を共にできる相手だと考えたのである。蒔野は洋子への愛とは異なる感情に愛という名を与え、早苗へ結婚を申し込んでいた。
消えない洋子の記憶
蒔野は早苗との生活を大切にしようとしながらも、洋子を完全には忘れられなかった。彼女の心変わりの理由を理解できないまま、もっと何かできたのではないかと繰り返し考えていた。台北で武知と話すうちにも記憶が蘇り、今の音楽的な停滞を一層耐え難く感じた。
ニューヨークの洋子
洋子はリチャードと結婚してニューヨークへ移り、息子ケンを育てていた。金融関係者が集う豪華なパーティーでは、経済危機を引き起こした側の人々が富を誇る姿に強い反発を覚えた。リチャードの知人ヘレンと議論する中で、夫も金融業界の理論を支えた一人であることを突きつけられた。
リチャードとの復縁
二年前、パリへ戻った洋子は、空港でリチャードと姉クレアに迎えられた。精神的に疲弊していた彼女は二人の抱擁に安堵し、蒔野への未練を断ち切ってリチャードと結婚する道を選んだ。蒔野から届いていた連絡は読まずに削除し、結婚したことだけを短いメールで伝えた。
ケンの誕生
洋子はPTSDに苦しみながらも、リチャードの支えを受けて生活を立て直した。やがてケンを妊娠し、リーマン・ブラザーズ破綻の翌日に出産した。夫婦は子供の誕生を心から喜び、リチャードは家族を守る父親として育児に励んだ。
金融理論への疑念
洋子はリチャードの論文を読み、個人向け住宅ローンの危険性を不適切な統計で評価していたことに疑問を抱いた。リチャードは、金融技術によって貧しい人々にも住宅資金を供給できると説明していたが、現実には返済不能な債権が世界的な危機を生んでいた。洋子は、彼が業界の実態を知りながら理論的な正当化に加担したのではないかと考えた。
夫婦の対立
洋子は、家族を支えることと夫の行為を無条件に肯定することは違うと訴えた。リチャードは、自分が洋子のPTSDを支えたように、妻にも苦境にある自分の味方でいてほしいと求めた。さらに洋子を冷たい人間だと責め、母親としても温かな愛情に欠けると告げたことで、彼女は深く傷ついた。
ヘレンとの関係
リチャードは、洋子との生活で愛されていないという不安を募らせ、ヘレンとの関係に慰めを求めていた。罪悪感さえ、自分を謙虚に保つための支えとして受け止めていた。やがて彼は不倫を告白し、洋子に離婚を求めた。
祖父江の涙
蒔野は施設入居が決まった祖父江を庭園美術館へ連れ出し、武知との公演に向けて練習を再開すると伝えた。祖父江は涙を流して喜び、自分の教えに縛られず、もっと自由に音楽へ向き合うよう勧めた。さらに、献身的に支えてきた早苗を大切にするよう蒔野へ訴えた。
ギターとの再会
蒔野は長い迷いの末、再びギターを手に取った。演奏は酷い状態であったが、楽器を弾けない苦しみから抜け出したことに安堵した。指先に痛みを感じながらも、舞台へ戻るための第一歩を踏み出せたことに喜びを覚えた。
三カ月の特訓
蒔野は一日十時間前後の練習を三カ月間続け、基礎技術から身体の使い方まで全面的に見直した。単に以前の状態へ戻すのではなく、長年染みついた癖を改め、より簡素で軽い演奏様式を築こうとした。その結果、指は予想以上に動きを取り戻し、復帰への手応えが生まれた。
新しい音楽への模索
蒔野はバッハの楽譜や音楽書を読み、ルネ・シャールの詩にも強く惹かれた。明晰さとは太陽に最も近い傷であるという言葉を、自分の演奏への批評として受け止めた。祖父江のもっと自由でよいという言葉と重ねながら、失ったものを取り戻すだけでなく、新しい表現を探した。
武知とのリハーサル
蒔野の技術的な回復に武知は驚いたが、二人の演奏は当初から噛み合ったわけではなかった。蒔野は武知の編曲や演奏の地味さに物足りなさを感じ、楽譜を積極的に修正した。それでも武知の誠実さと演奏への信頼は揺らがず、二人で舞台を作ることが復帰への支えとなった。
早苗の罪
早苗は、二年前に蒔野の携帯から洋子へ偽の別れのメールを送った罪を隠し続けていた。その行為によって二人が別れ、やがて自分が蒔野と結婚できたことに安堵しながらも、いつ発覚するかと恐れていた。蒔野が愛している早苗は、真実を隠して彼を奪った自分とは別人であるという意識が、彼女を苦しめていた。
献身による贖罪
早苗は罪を埋め合わせるように、蒔野の仕事だけでなく、祖父江の介護や奏の家庭まで支え続けた。自分の行為が蒔野の音楽的な危機を救ったのだと正当化しようとしたが、彼の不調は洋子との別離後にさらに悪化した。蒔野の復帰は、早苗にとって自分の罪が赦されたかのような出来事であった。
復帰前夜の未練
公演前夜、蒔野は映画を見ながら、洋子との愛がわずかな条件の違いで永遠に弾き飛ばされたのではないかと考えた。音楽家としての自信を取り戻しつつあったからこそ、再び自分の演奏を洋子に聴いてほしいという願いが生まれた。しかし、今の生活を守るため、その未練を断ち切らなければならないとも理解していた。
早苗の妊娠
公演当日の朝、早苗は妊娠三カ月であることを蒔野に告げた。蒔野は驚きながらも喜び、早苗と生まれてくる子供を抱き締めた。新しい家族の存在を実感したことで、洋子への思いを今度こそ断ち切り、復帰公演を成功させなければならないと決意した。
第八章 真相
リチャードとの離婚
洋子はリチャードの不倫と再婚の意思を知り、離婚に同意した。最大の問題はケンの監護権であり、二人は弁護士を通して協議し、年間の養育時間を半分ずつ分担することとなった。洋子はケンと過ごす時間が減る寂しさを抱きながらも、離婚後の方がリチャードと良い関係を築ける可能性を受け入れた。
二つの家庭を生きるケン
ケンは洋子の前では日本語、リチャードの前では英語を話し始めていた。洋子は、自分を探して駆け寄る幼い息子を見ながら、リチャードとヘレンの家庭でも彼が育っていく現実に苦しんだ。ケンが寂しがることだけでなく、やがて自分を必要としなくなる可能性にも悲しみを感じた。
ジャリーラの両親の死
離婚後、洋子はフィリップから、イラクに残っていたジャリーラの両親が殺害されたと知らされた。ジャリーラは生き残った意味を見失い、パリで苦しい生活を送っていた。洋子は連絡を怠っていた自分を悔やみ、彼女と再び向き合うことを決めた。
生存者の罪悪感
洋子はジャリーラに、多数の死者が出た出来事から生還した者が、自分だけ助かったことに苦しむ生存者の罪悪感について説明した。長崎で被爆した母の過去も初めて明かし、幸福になることさえ罪悪感につながる場合があると語った。ジャリーラから、蒔野を愛していた頃のPTSDにも同じ心理が影響していたのではないかと問われ、洋子は否定しきれずに考え込んだ。
蒔野の活動再開
洋子はジャリーラへの贈り物を探す中で、三年ぶりに蒔野の近況を調べた。蒔野が二年以上の休止を経て、武知文昭とのデュオで公演活動を再開していることを知り、明るい表情の写真に強い懐かしさを覚えた。二人とも新しい人生を歩み始めるなら、いつか友人として再会できるかもしれないと考えた。
アルバムの献辞
洋子は《この素晴らしき世界》と《アランフェス協奏曲》を購入し、前者のクレジットに、ジャリーラとその心優しく美しい友人へ捧げるという蒔野の献辞を見つけた。別れた直後に書かれたその言葉から、蒔野が二人との記憶を軽く扱っていなかったことを感じた。洋子は、読まずに削除した彼からのメールに何が記されていたのかを改めて考えた。
東京公演への決意
洋子はケンを連れて長崎で夏を過ごした後、東京で行われる蒔野の公演を聴こうと決めた。復縁を求めるのではなく、一人のファンとして演奏を聴き、短く言葉を交わすことで過去を変えたいと考えた。母にケンを預け、完売寸前の当日券を手に入れた。
早苗との再会
会場の近くで、洋子は妊娠中の早苗と再会した。早苗は蒔野と結婚し、女児を身ごもっていると告げた。洋子は、自分がかつて望んでいた蒔野との家庭が別の女性によって実現していることを目の当たりにした。
マルタとマリア
早苗は洋子を喫茶店へ誘い、聖書のマルタとマリアの話を持ち出した。客をもてなすために働くマルタと、イエスの側で話を聞くマリアを重ね、早苗は自分を蒔野の生活を支えるマルタ、洋子を会話だけで心を満たすマリアとして捉えていた。洋子はその比喩そのものが間違っており、自分はただ蒔野を愛していたのだと考えた。
公演への拒絶
早苗は、洋子が客席にいれば蒔野は必ず気づき、再び音楽を見失うため、公演には来ないでほしいと頼んだ。蒔野が一年半もギターに触れられず、二人でようやく復帰まで辿り着いたと訴え、自分の献身を台なしにしないでほしいと迫った。洋子は、早苗の愛が蒔野への信仰に近いものであると感じ、身を引くべきか迷った。
偽メールの発覚
早苗が、洋子には何も悪くないが、関係が始まってから蒔野は音楽を見失ったと口にしたことで、洋子は三年前の別れのメールと同じ表現に気づいた。問い詰められた早苗は、新宿駅で蒔野の携帯から偽の別れのメールを送ったことを認めた。その後の連絡には関与していないと説明し、蒔野を失えば自分の人生には何も残らなかったと弁明した。
洋子の撤退
洋子は早苗の行為を軽蔑しながらも、彼女を激しく責めなかった。現在幸せなのかと尋ね、肯定する早苗に、その幸福を大切にするよう告げた。蒔野と生まれてくる子供の生活を壊さないため、公演のチケットを残して立ち去り、ホテルへ戻ると一人で泣き崩れた。
復帰ツアーの成功
蒔野と武知のデュオツアーは好評を得て、追加公演まで行われた。蒔野は演奏を重ねるごとに調子を上げ、最終公演では長い危機を乗り越えたという自信を得た。観客から良い表情だったと声を掛けられ、独奏での復帰も現実的に考え始めた。
岡島の匿名批判
蒔野と武知を酷評していたブログの管理人が、元ジュピターの岡島であることが判明した。岡島は蒔野の担当を外された恨みから、匿名でアルバムや公演を批判していたと疑われ、発覚後に会社を辞めた。蒔野は後味の悪さを感じたが、武知は岡島を気の毒がった。
武知の引退
ツアー最終日の夜、武知は実家の仏壇職人を継ぐため、演奏活動を終えるつもりだと蒔野に明かした。さらに、長年蒔野の才能を激しく妬み、消えてほしいとまで思っていたことを告白した。それでも共演を通して蒔野の苦しみと才能を理解し、最後に一緒に演奏できたことを喜んだ。
武知の死
ツアー終了から一カ月後、蒔野は武知が亡くなったとの知らせを受けた。表向きは事故とされたが、最後の会話を思い返した蒔野は、自ら命を絶った可能性を察した。もっと強く引き留めるべきだったと自責しながらも、再びギターを手放すことはせず、武知の死を受けて独奏公演へ進む決意を固めた。
早苗の罪悪感
武知の死は早苗にも強い不安を与えた。善良な武知が若くして亡くなる一方、罪を犯した自分が蒔野の妻となり、子供まで授かったことに、運命の不公平を感じた。幸福に囲まれるほど、自分がそれに値しないという思いが強まり、出産前に罪を告白すべきだと考えるようになった。
蒔野の疑念
蒔野は是永から、洋子が別れの前後に重いPTSDを患いながら誰にも明かさず苦しんでいたことを聞いた。東京での態度の急変や長崎へ向かった理由が病状と関係していたのではないかと考え、自分が彼女の苦しみに気づけなかったことを悔やんだ。洋子に謝りたいという思いを抱き、別れの記憶を見直し始めた。
早苗の告白
早苗は出産を目前にして、三年前に偽メールを送った事実を蒔野へ打ち明けた。蒔野は、洋子が助けを求めて来日したにもかかわらず、自分が拒絶したことになっていたと知り、取り返しのつかないすれ違いに苦しんだ。一方で、早苗が罪悪感を抱えながら自分や祖父江を支え続けた年月も否定できなかった。
壊せない現在
蒔野は裏切りを知っても、早苗をただちに憎むことができなかった。既に妻を深く愛し、彼女の嘘がなければ存在しなかった結婚生活と、生まれてくる子供を悪い現実とは断じられなかった。告白するなら最後まで隠し通してほしかったと苦しみながらも、今は子供を第一に考えるよう早苗へ告げた。
優希の誕生
十月十四日、蒔野と早苗の間に女児が誕生した。早苗は二週間考えた末、娘を優希と名づけた。
難民支援への再出発
洋子はニューヨークの国際人権監視団体に採用され、ジュネーヴ支部で難民問題に取り組むこととなった。ジャリーラの家族の死や生活難をきっかけに、個人的な援助ではなく制度そのものの改善に関わろうと決意した。ケンと過ごせない時間を仕事に生かし、自分の生き方を通して異なる価値観を息子へ示そうとした。
蒔野への最後の義務
洋子は、早苗の偽メールと自分の病状を蒔野に伝えて誤解を解くべきか迷った。しかし、早苗の腹にいた子供に罪はなく、蒔野が父親として幸福に生きることを守るべきだと考えた。真相を知らせないことを、蒔野に対する愛の最後の義務と定めた。
父の空白の九年間
ジュネーヴへ向かう前、洋子はロサンゼルスで父ソリッチと会い、《ダルマチアの朝日》後の九年間について尋ねた。ソリッチは、チトー政権の意向に反した映画制作を進めたことで、民族主義者や犯罪組織から脅迫されていたと明かした。妻子へ危害が及ぶことを恐れ、母と話し合った末に家族との関係を断ち、長く潜伏していたのである。
愛による別離
ソリッチは、洋子と母を愛していたからこそ別れたのだと語った。二人が無事に生きてきたことで、自分の判断は間違っていなかったのだろうと考えていた。洋子は、父と暮らせなかった過去そのものは消えないが、今この瞬間に真相を知ったことで、その過去が変わったと涙ながらに伝えた。
第九章 マチネの終わりに
優希の誕生
早苗の告白後、蒔野は妻への怒りや軽蔑と、理解や愛着との間で揺れていた。しかし、優希の誕生によって家族への思いは強まり、その存在を過ちの結果とは考えまいと決めた。娘を世話する静かな時間を愛し、早苗との結婚と現在の生活を肯定しようと努めた。
震災後の家族
東日本大震災の日、蒔野は自宅で被災し、外出していた早苗と優希の無事を確認した。その後、原発事故や余震への不安から、早苗と優希を福岡へ避難させた。独りになった蒔野は家族のいない静けさに寂しさを感じ、自分が以前とは変わったことを自覚した。
復帰リサイタル
蒔野は震災直後に予定されていた横浜公演を中止せず、収益を被災地へ寄付すると発表した。批判を受けて判断に迷ったが、音楽が必要な時だからこそ演奏すべきだと考えた。当日は満席となり、蒔野は死者の沈黙と生者の静寂を一つの音楽へ変える思いで舞台に立った。
武知への追悼
本番前、蒔野は亡くなった武知のことを考え続けた。公演では、武知が好んだラヴェルの曲を独奏用に編曲して演奏し、アンコールではジャリーラに聴かせた曲も取り上げた。演奏を終えた蒔野は、再びバッハへ本格的に取り組む時が来たと感じた。
バッハへの回帰
蒔野は、三十年戦争後に生まれたバッハの音楽について洋子が語った言葉を思い返した。その言葉は、震災後の無力感に抗う力となり、新たな《無伴奏チェロ組曲全集》の録音へつながった。家族を守ろうとしながらも、音楽家としての蒔野は再び洋子の存在を強く意識していた。
ジュネーヴでの洋子
洋子はジュネーヴの人権監視団体で、難民の強制送還や住居問題に取り組んだ。ニューヨークとの往復に苦労したが、国連人権理事会での活動を通じて仕事に充実感を見出した。自信を取り戻したことで、ケンと過ごす時間にも以前以上の喜びを感じるようになった。
震災報道の翻訳
東日本大震災を知った洋子は、海外報道を日本語に翻訳する匿名ブログを始めた。原発事故を含む情報を慎重に選び、紹介した記事は広く共有された。蒔野の公演が批判されていることを知ると、その決断を擁護する記事を書き、音楽家たちの行動に理解を示した。
見えない励まし
蒔野は洋子が運営者とは知らず、そのブログの記事に励まされた。自分の判断を理解してくれる人がいることに慰められた一方、洋子もまた、蒔野本人が記事を読んだとは知らなかった。二人は互いの存在を意識しながらも、正体を知らないまま支え合っていた。
新しいバッハ
二〇一二年、蒔野はロンドンで録音した新しい《無伴奏チェロ組曲全集》を発表した。作品は国内外で高く評価され、フランスの音楽誌で賞を受け、海外のチャートにも入った。蒔野は、旧盤を更新することに震災後の自分の音楽的な意味を込めていた。
テレビの中の洋子
ロンドン滞在中、蒔野はBBCのニュースで国連人権理事会に出席する洋子を見かけた。理知的で情熱を宿した姿に釘づけとなり、彼女が自分とは別の人生を力強く歩んでいることを知った。離婚しているとは思わず、既に遠い存在だと考えながらも、再会への思いを抑えられなくなった。
ニューヨーク公演
新作の評価を受け、蒔野はニューヨークで公演することとなった。洋子の暮らしていた街を意識しながらも、現在の家族を守るため、彼女に連絡すべきではないと言い聞かせた。それでも街を歩く間、無意識に洋子の姿を探していた。
公演を選んだ洋子
洋子は蒔野の新しいバッハを聴き、その音楽に深く感動した。過去の恋愛を越えて、音楽家としての蒔野を改めて尊敬し、早苗にも作品を支えた存在として祝福すべきだと考えた。ニューヨーク公演を知ると、気持ちに区切りをつけるため、客席の奥の席を購入した。
第一部の喝采
蒔野はニューヨークの舞台で、ブローウェルやヴィラ=ロボスなどを多彩に演奏した。かつての完璧さとは異なり、音楽を自由に動かしながら高みへ導く新しい表現が聴衆を魅了した。洋子は、その飛躍を目の当たりにし、自分がもはや特別な存在ではない一人の聴衆に過ぎないと感じた。
客席の洋子
第一部の最後、蒔野は客席の奥に洋子を見つけた。思いがけない再会に立ち尽くしたが、第二部へ戻ると、彼女がまだそこにいることを確かめた。新しいバッハを誰より洋子に聴いてほしかった蒔野は、かつてジャリーラのために演奏した夜の心境を思い出しながら弾き始めた。
バッハが呼び起こした記憶
洋子は蒔野の演奏を聴きながら、二人の出会いや告白、別離、結婚、出産、両親との記憶を次々と思い返した。なぜ二人は別々の人生を歩むことになったのかと問いながら、蒔野が以前よりも深い疑問と慰めを音楽に込めていることを感じ取った。その音楽が彼の現在の人生を肯定していると感じ、再会してそれを壊してはならないと考えた。
幸福の硬貨
公演の最後、蒔野は客席の奥に視線を向け、特別な一曲を演奏すると告げた。洋子に向けた言葉であることを伝えるように彼女を見つめ、映画《幸福の硬貨》のテーマ曲を弾いた。洋子は、その冒頭を聴いた瞬間に感情を抑えきれず、涙を流した。
セントラル・パークの再会
終演後、蒔野はセントラル・パークへ向かった。演奏中に洋子の存在へ気づき、彼女が自分のバッハを聴いた喜びを抱いていた。池の近くのベンチに座る洋子を見つけると、二人は五年半の歳月を経て向かい合い、互いに微笑んだ。
その他フィクション

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