小説「九紋龍  羽州ぼろ鳶組(3)」感想・ネタバレ・アニメ化

小説「九紋龍  羽州ぼろ鳶組(3)」感想・ネタバレ・アニメ化

物語の概要

ジャンル
時代小説・剣戟活劇である。本作は、江戸時代の火消・盗賊との戦いを背景に、町火消という組織の誇りと人情を描く群像活劇である。
内容紹介
江戸に“千羽一家”という凶悪な盗賊一味が侵入し、大規模な火事を起こして押し込み強盗を働く。新庄藩の火消組、「ぼろ鳶」の組頭・松永源吾はこの事態を受け、火付けと強盗を同時に止めようと奔走する。一方、藩主の親戚・戸沢正親が火消削減を宣言し、火消組は存続の危機に立たされる。さらに、町火消の最強と恐れられる“に組”頭・九紋龍が乱入し、混乱は最高潮に達する。ぼろ鳶組は絶体絶命の危機にあっても、盟友たちとともに命運を賭けて奮戦する。

主要キャラクター

  • 松永 源吾:羽州新庄藩火消・ぼろ鳶組の組頭である。本作の中心人物。遠方の鐘の音を聞き分けるという才も持つと伝えられ、藩と町を守るために火消としての誇りを胸に戦う。
  • 戸沢 正親:藩主の親戚。火消削減を言い出す行政的圧力を駆使する存在であり、火消と藩の板挟み・対立軸となる。
  • 千羽一家:盗賊一味である。火事と押し込みを組み合わせた凶悪な犯罪を江戸で仕掛ける。源吾たちの敵対勢力である。
  • “九紋龍”:に組の頭。九頭の龍を身体に刻んだ風体からその名を持ち、町火消最強と恐れられる強者。火事の現場に乱入して大混乱を呼び込む。
  • ぼろ鳶組の仲間たち:一番組頭・魁武蔵、鳥越新之助、加持星十郎、彦弥、寅次郎、源吾の妻・深雪ら。源吾を支え、チームとして火消・闘争に関与する顔触れである。

物語の特徴

本作の魅力は、火事をただの災害ではなく「人為的犯罪」として描き、それを火消という職務と正義感で解決しようとする点である。火消組の誇りや団結、町人との関係性、そして行政権力との軋轢が複雑に絡み合う社会性を持つ。また、“九紋龍”という強敵を投入することで、既存の火消組が己の限界を試されるドラマが生まれる。群像劇としても人物が多く、それぞれが物語のなかで光と影を持ち、立体感をもたらしている。さらに、前巻までの積み重ねがキャラクターへの思い入れを高め、本巻の戦いの重みを引き上げている点も他作品と異なる魅力である。

書籍情報

九紋龍――羽州ぼろ鳶組
著者:今村翔吾 氏
出版社・レーベル 伝社文庫(祥伝社)
発売日:2017年11月
ISBNコード:9784396343750

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あらすじ・内容

喧嘩は江戸の華なり。大いに笑って踊るべし。
最強の町火消と激突!
火事を起こし、その隙に皆殺しの押し込みを働く盗賊・千羽一家が江戸に入った。その報を受けた新庄藩火消・通称〝ぼろ鳶〟組頭・松永源吾は火付けを止めるべく奔走する。だが藩主の親戚・戸沢正親が現れ、火消の削減を宣言。一方現場では九頭の龍を躰に刻み、町火消最強と恐れられる「に組」頭〝九紋龍〟が乱入、大混乱に陥っていた。絶対的な危機に、ぼろ鳶組の命運は!?

九紋龍――羽州ぼろ鳶組

感想

アニメ化されると聞いて、改めて手に取った『羽州ぼろ鳶組』の三巻。今回の敵は、火付け盗賊の千羽一家だ。もし、あの鬼平こと長谷川平蔵がいたら、きっとこんな輩は江戸にはびこることはなかっただろう。まさに鬼の居ぬ間に、とばかりに荒稼ぎを目論む千羽一家を、羽州ぼろ鳶組の源吾が追いかける展開だ。

物語は、千羽一家の火付けを阻止しようと源吾が奔走する姿を中心に描かれる。しかし、事はそう簡単には進まない。そこに現れたのが、タイトルの由来にもなっている、別の火消し組の九紋龍だ。九紋龍の登場によって、事態はさらに混沌としていく。まさに江戸の華、喧嘩の始まりである。

読んでいて強く感じたのは、源吾のひたむきさだ。火消としての使命感に燃え、悪を許さない。そんな彼の姿は、読者の心を熱くする。また、九紋龍の豪快さも魅力的だ。圧倒的な力で悪をねじ伏せる姿は、痛快そのもの。二人の個性がぶつかり合うことで、物語はさらに盛り上がりを見せる。

この作品は、単なる時代小説ではない。火消たちの戦いを通して、人間の強さや弱さ、そして絆を描いている。火事の場面では、手に汗握るような緊迫感がある。しかし、一方で、日常の場面では、ほっと心が安らぐような温かさがある。そんな緩急のついた展開も、この作品の魅力の一つだろう。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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登場キャラクター

松永源吾

新庄藩火消の頭である。現場を重んじ、人命を先に置く信条で動く。深雪の夫であり、仲間を支える核である。
・所属組織、地位や役職
 新庄藩火消一番組・頭である。
・物語内での具体的な行動や成果
 油火の会所で壊し手と水を統べて鎮火へ導いた。
 築地と浅草で即応し、二重円の包囲を敷いた。
 小伝馬町では各隊を束ねて総引き倒しを指揮した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 幕命の制止に抗し、藩の旗を守って出動した。
 佩刀を差し出し、竜吐水の維持を選んだ。

深雪

源吾の妻である。算盤に明るく、勘定と場運びで家と藩を助ける。懐妊中である。
・所属組織、地位や役職
 新庄藩・名代(商人披露目)である。
・物語内での具体的な行動や成果
 入れ札と底値秘匿で談合を断った。
 相場換算を即答し、場を制した。
 大丸との取引を整えた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 「勘定小町」と見抜かれ、信頼を得た。

鳥越新之助

快活な若者である。剣と胆で前に出る。源吾を慕い、場の推進力となる。
・所属組織、地位や役職
 新庄藩火消・頭取並である。
・物語内での具体的な行動や成果
 唐松屋で七名を捕縛し、死者を出さなかった。
 包囲の要所封鎖を担った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 奉行所で弁を立て、辰一の減刑に寄与した。

魁 武蔵

寡黙な実務家である。竜吐水の使い手であり、連携を生む。
・所属組織、地位や役職
 新庄藩火消一番組・組頭である。
・物語内での具体的な行動や成果
 十人水番で持続噴射を実現した。
 水煙で辰一の動きを止めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 給水線の再編で全体の底力を上げた。

加持星十郎

冷静な参謀である。理で戦場を読み、策に落とす。
・所属組織、地位や役職
 新庄藩火消・与力格である。
・物語内での具体的な行動や成果
 二重円の包囲理論を示した。
 喧嘩不介入の裁例を引き、場を収めた。
 青物投入で消炎を早めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 読み違いを自省し、次の策へつなげた。

寅次郎

剛力の壊し手である。正面で受け、道をこじ開ける。
・所属組織、地位や役職
 新庄藩火消・壊し手頭である。
・物語内での具体的な行動や成果
 会所と小伝馬で破却の口を作った。
 辰一との四つで時間を稼いだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 再戦を望み、気を引き締めた。

折下左門

世話役である。藩と火消の橋渡しを務める。
・所属組織、地位や役職
 新庄藩・世話役である。
・物語内での具体的な行動や成果
 正親の任命と沙汰を伝えた。
 教練と出動の段取りを支えた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 家中の結束を促し、場を整えた。

北条六右衛門

藩政の柱である。産業を起こし、借財を縮めた。病に伏した。
・所属組織、地位や役職
 新庄藩・家老である。
・物語内での具体的な行動や成果
 青苧や紅花の振興を進めた。
 披露目の名代を定めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 病後に覚醒し、方針を継いだ。

戸沢正親

御連枝である。若くして胆が据わる。倹約を掲げつつ民を思う。
・所属組織、地位や役職
 新庄藩・御連枝である。
・物語内での具体的な行動や成果
 倹約令を打ち出し、財を引き締めた。
 披露目で作り手の顔を語った。
 幕命の詰問を退けた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 火消出動を後押しし、家中を束ねた。

九紋龍・辰一

に組の豪勇である。守る意地で炎に立つ。過去に家族を失った。
・所属組織、地位や役職
 江戸・に組の頭格である。
・物語内での具体的な行動や成果
 野次馬狩りで掟を通した。
 小伝馬で身を焦がしつつ救出した。
 源吾の託しで決戦に臨んだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 島田への暴行で押込となり、のち減刑となった。
 九頭の刺青に一頭のみ筋彫りを残した。

宗助

義に厚い小頭である。辰一を支え、掟に偏らぬ。
・所属組織、地位や役職
 江戸・に組小頭である。
・物語内での具体的な行動や成果
 混戦で身を張り、民を守った。
 小伝馬で総掛かりを率いた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 内部の疑いを受けつつ信を通した。

卯之助(千眼)/無燈の熊蔵

過去の頭である。千羽の変質を悔い、今は火消の道に生きる。辰一を育てた。
・所属組織、地位や役職
 往時は千羽一家の頭である。
・物語内での具体的な行動や成果
 出雲屋の孤児を引き取り、辰一を育てた。
 罪を認め、探索への協力を申し出た。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 首領を離れ、贖いの生を選んだ。

田沼意次

老中である。海防と実を重んじる。議場を制して主導を握る。
・所属組織、地位や役職
 幕府・老中である。
・物語内での具体的な行動や成果
 造船中止の論を退けた。
 一橋と渡り合い、場を収めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 江戸方への通達で火事対策を促した。

一橋治済

権勢の核である。策を巡らし、田沼と角逐する。
・所属組織、地位や役職
 徳川一門である。
・物語内での具体的な行動や成果
 人事と圧で揺さぶりをかけた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 幕政の綱引きを続けた。

長谷川平蔵

前任の改である。西国の賊を追い、江戸へ警告した。
・所属組織、地位や役職
 火付盗賊改方・前任である。
・物語内での具体的な行動や成果
 千羽一家の手口を書状で伝えた。
 大坂で追い詰めつつも取り逃がした。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 江戸の初動短縮を助言した。

島田政弥

現任の改である。現場で揺れ、後れを取る。
・所属組織、地位や役職
 火付盗賊改方・後任である。
・物語内での具体的な行動や成果
 六本木と日本橋の件で到着が遅れた。
 辰一へ挑発し、殴打を受けた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 押込と減刑の経緯で面子を失った。

下村彦右衛門

大文字屋の当主である。利と矜持で倍値を付ける。
・所属組織、地位や役職
 大文字屋・当主である。
・物語内での具体的な行動や成果
 全品の倍値買いを宣言した。
 長谷川の急報を届けた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 過日の恩に報い、関係を開いた。

柴田七九郎

火消見廻である。詰問で圧を掛けるが退いた。
・所属組織、地位や役職
 火消見廻組である。
・物語内での具体的な行動や成果
 幕命違背を追及した。
 正親の切り返しで退去した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 貸与と挿げ替えの話を暴かれた。

清水陣内

加賀鳶の棟梁である。大兵力で口を押さえる。
・所属組織、地位や役職
 加賀藩火消・頭である。
・物語内での具体的な行動や成果
 東南北の要を固めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 在来勢を束ね、戦力を補った。

大音勘九郎

加賀鳶の大頭である。中央突破を担う。
・所属組織、地位や役職
 加賀鳶・大頭である。
・物語内での具体的な行動や成果
 竜吐水隊を率いて火元を叩いた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 総引き倒しに合わせて圧を掛けた。

柊与市

仁正寺藩の男である。投擲で援けた。
・所属組織、地位や役職
 仁正寺藩火消である。
・物語内での具体的な行動や成果
 “大銭”で辰一の動線を作った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 翼隊の一つを預かった。

山路連貝軒

学の人である。記録の門を開いた。
・所属組織、地位や役職
 町の学者である。
・物語内での具体的な行動や成果
 日記と写しを供し、奉行所の照会を助けた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 探索の後押しで糸口を生んだ。

善平

行商である。小さな気づかいで家を助けた。
・所属組織、地位や役職
 市中の行商である。
・物語内での具体的な行動や成果
 水府と刻みを届けた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 十日の再訪を約した。

闇猫の儀十

千羽一家の頭である。影に潜み、所在は不明である。
・所属組織、地位や役職
 千羽一家・首領である。
・物語内での具体的な行動や成果
 江戸での押し込みの黒幕と目される。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 未捕縛であり、探索が続く。

展開まとめ

序章

半鐘と篠長の混乱

大坂南堀江の両替屋「篠長」の千吉は半鐘に飛び起き、奉公人を叩き起こして銭を蔵へ運ぶ段取りを指示した。左官に蔵を塗り込めさせる算段まで整えていたが、家内は動きが鈍く、お清は激しく泣き続けていた。千吉は風車であやしつつ、金目の物の集積を急いでいたのである。

左官を装った襲撃

勝手口に左官の弟子を名乗る男が現れ、千吉が戸を開けた直後に襲撃が始まった。名乗った儀上は初老で目つきが鋭く、背後には多数の影が控えていた。千吉は頭部を打たれて倒れ、屋内では奉公人が次々と斬られていったのである。

千吉の最期

千吉は土間を這いながら妻子の助命と引き換えに銭を差し出す意思を示した。儀上は恨みではないと言い放ち、楽しみながら稼いでいると述べたうえで、お房とお清は無残に殺された。千吉は風車を握りしめたまま背から刺され、視界が薄れる中で壊れた玩具を見つめ続けて息絶えたのである。

平蔵の焦燥と出動の遅れ

一方、平蔵は大坂東町奉行所で与力の点呼の緩慢さに苛立っていた。かつて江戸で火付盗賊改方を率いた経験から初動の重要性を説いたが、上役の指示待ちで動きが鈍った。直前に千羽一家の一味を捕えて今宵の犯行を掴んだものの、標的は聞き出せず、半鐘が鳴り響く中でようやく出立したのである。

千羽一家の手口と追跡

千羽一家は夜更けに火をつけて人心を攪乱し、その隙に盗みを働くやり口で野分に似たりと恐れられていた。かつては人を傷つけぬ鮮やかな盗みであったが、時期を境に凶悪化し、首領の所在は杳として知れなかった。平蔵は京都から追跡して大坂潜伏を突き止め、配下を率いて臨んでいたのである。

篠長の惨状と悔恨

平蔵らは道を誤りながら火元に到着したが、同心の報せでは賊は三十名規模で、出くわした者は皆返り討ちに遭っていた。篠長の屋内は奉公人が撫で斬りにされ、若い妻は幼子を抱いたまま刺殺され、幼子は踏みつけられて圧死していた。入口には背から一突きで倒れた千吉が壊れた風車を握って横たわっていた。平蔵はこの禍々しい悪を取り逃がした悔恨に震え、燃え上がる火の見櫓と遠くの悲鳴を前に、今ここに松永がいてくれればと歯を噛み締めて空を仰いだのである。

第一章 鶴の住む町

老中会議の緊張と田沼の一喝

江戸城での老中・若年寄の評定は、弁財船「鳳丸」の座礁責任を巡って田沼意次への詰問に傾いた。田沼は肩を揉みつつ悠然と応じ、糾弾の背後に一橋門内の意向があると見抜いて一座を叱咤した。保身に汲々とする幕閣の姿勢を嘆き、場の主導権を奪い返したのである。

造船と対外危機認識

田沼は蝦夷地を窺う露西亜船の頻出を挙げ、海防と交易・技術導入の必要性を強調した。鳳丸の失敗をもって造船中止を願う提案を「悪手」と断じ、海国の自覚を欠く議論を退けた。禁制や体面に固執する論法を嫌い、結果で語る姿勢を示したのである。

黒幕への直談判

評定翌日、田沼は一橋治済の邸を訪ねた。豪奢な設えの一室で対座すると、一橋は老中操作の関与を否定し、言を左右に変えつつ田沼の隠居を仄めかした。田沼は昨年の大火と花火師秀助の事件に触れ、尻尾切りを常套とする一橋の策動を暗に示して牽制した。

寓話「狸の鶴退治」

田沼は獣を貪り力を継ぎ接ぎして化け物「鶴」と化した狸と、それを毒で屠った老狸の作り話を語った。毒の手立ては「思案中」と含みを持たせ、一橋の野望を照射する寓意で応じた。権勢の寄せ集めで肥大化した力を、智謀で制す意思表明であった。

火消論と新庄藩評

話題は近頃の火事へ移り、一橋が嘲った出羽・新庄藩戸沢家の方角火消を、田沼は「炎を憎み、人のために愚直に働く火消の鑑」と断じて擁護した。見栄えより実を取る評価を示し、大火を未然に防いだ実績を根拠に信を置く姿勢を明瞭にしたのである。

対立の明文化と幕政の行方

一橋は新庄藩の役目免除を示唆するも、田沼は「諦めの悪い頭が困難を越える」と切り返して、現場重視・海防重視・腐敗排除の三本柱を暗示した。鳳丸失策の責を梃に権勢が揺らぐ情勢下で、田沼と一橋の確執は明文化し、幕政の主導を巡る角逐が本格化したのである。

夫婦のやり取りと小言

松永源吾は風邪で寝込んでいた。深雪は看病しつつも、夜更けの酒席を咎め、吉原疑惑まで持ち出して軽く釘を刺した。源吾は弁解し、噂の出所が新之助であると知って舌打ちしたが、深雪の機嫌は粥支度で和らいだのである。

魁武蔵の来訪と“ぼろ鳶”の誇り

新庄藩火消一番組組頭の武蔵が見舞いに現れ、教練や面々の所在を簡潔に報告した。武蔵は町回りで住民に備えを促しており、界隈への溶け込みを進めていた。新庄藩の粗末な羽織から生まれた渾名“ぼろ鳶”は、今や親しみと信頼の符号であり、装いが新調されても呼び名は生き続けていたのである。

流行り病と懐妊の報

武蔵は熱病の流行を告げ、弱者の死亡例を案じた。深雪は身重であることが既知で、三人は冗談を交えつつも健康を気遣った。翌日、源吾は快復し食欲も戻った。

折下左門の急報と六右衛門の病

世話役の折下左門が到来し、北条六右衛門が江戸入り途上で高熱に倒れ、国元へ引き返したと報じた。六右衛門は青苧・紅花・漆蠟の振興や籠細工販路拡大で財政再建を進め、借財返済も半ばに至っていた人物である。道具更新の件も彼の裁可待ちであり、不在は藩政と江戸での商談に大きな支障を生む状況であった。

御連枝・戸沢正親の名代任命と幕府の介入

六右衛門の代役として、御連枝の戸沢正親が江戸へ入る旨が伝えられた。正親は才気煥発ながら気儘で、素行に問題を抱える人物と説明された。しかも任命は幕府の命であり、田沼意次の非番日に決した後、既成事実として通されたと左門は示唆した。深雪は田沼の関与を明確に否定し、左門も同調したのである。

拝謁準備と自制の要請

源吾・鳥越・加持は御城使格として拝謁に臨む手筈となり、左門は「頭に血が上るな」と自制を求めた。源吾は胸中に不満を抱えつつも、新庄藩に溶け込ませてくれた左門への配慮から、当面は事を荒立てぬ腹を固めたのである。

夜半の半鐘と出動

江戸の夜を破る太鼓と半鐘に、松永源吾は即座に起き上がり、深雪に羽織を受け取って上屋敷へ向かった。湿気が多く延焼が遅いとの見立てで、無理を押さず迅速に現場判断へ移ったのである。

上屋敷の集結と指揮系統

教練場には新庄藩火消が素早く参集した。寅次郎の大音声、彦弥の軽口、星十郎の冷静な報。鳥越新之助は「麻布宮村町・有馬兵庫頭下屋敷」を火元と高声で宣し、魁武蔵は既に竜吐水二機を率いて先発していた。源吾は私情を排し、全体の統率を取り戻したのである。

火元へ疾走と情勢把握

一行は徒歩で急行し、星十郎は周辺の八丁火消の布陣と風向を即断で共有した。新庄藩は方角火消として城防衛を第一義とし、管轄を越えても必要な場へ向かう作法を貫く方針を再確認したのである。

応援配置と主役不要の哲学

現地周辺は諸家の火消で飽和しており、源吾は消し口争奪を避け、玄蕃桶の補給線で最前線を援護する策を取った。誰が消し止めてもよい、人命最優先という信条が運用に徹底されたのである。

屋根上観測と魁武蔵の働き

彦弥が軽業で屋根に上がり、門の安全と火勢の収束を確認。武蔵の竜吐水は火の「弱み」を先読みして放物線を描き、門火を次々と削いだ。十人連携の水番体制は武蔵が編み出した布陣であり、継続噴射を支えたのである。

父となる不安と仲間の応答

屋根上で源吾は、いつ命を落としてもおかしくない役目ゆえの不安を洩らした。彦弥は己と牙八の孤児としての来歴を引き、子を遺さぬ覚悟を促す言葉で受け止めた。源吾は覚悟の固まりを自認しつつ、家族を想って心を締め直したのである。

逆走する火消一団という違和感

善福寺の向こうで、火元に背を向けて北西へ急ぐ火消装束の一団を二人は視認した。潰走でも引き上げでもない不自然な急ぎ足は説明がつかず、彦弥は「見逃す」体で軽口を交えたが、源吾は胸中に小さな棘を残した。

鎮火間際の俯瞰

小雨のような水飛沫が宙を舞い、炎は完全に囲繞され縮小の一途を辿った。門は保全され、鎮火宣言は間近であった。源吾は援護線の機能と諸家の連携に満足しつつ、先ほどの逆走の影だけを心に留めたのである。

女天下デーと買い出しミッション

有馬家火事の翌朝、松永源吾は遅起き。ところが深雪が「女天下の日」を宣言し、居間を“領地化”。食事も男が用意、買い出しも任務――という上方風の風習に乗せられ、源吾は渋々承諾。食材スポット(中丸屋・浜将・棒手振りの茂平)をメモしつつ出陣する。

藩ぐるみの女天下、助っ人は鳥越新之助

出入り口まで占拠され庭から出る羽目に。道すがら新之助と合流し、彼の家でも女天下が発動中だと判明。新之助は食にうるさく、源吾の“参謀”として買い出し同行へ。

不穏な影:火盗改の疾走と島田政弥

道中、半鐘も太鼓も無いのに火付盗賊改方の大部隊が疾走。先頭の島田政弥(平蔵の後任)と遭遇し、源吾は皮肉を返す。島田は「火事ではなく押し込み」とだけ告げて走り去るが、新之助の勧誘は即断られてバツの悪い空気に。

六本木・光専寺裏の皆殺し

六本木町の現場へ寄ると、商家「朱門屋」で一家・奉公人合わせて十八名が惨殺。若い火盗が嘔吐するほどの凄惨さ。島田は沈痛な面持ちで「全員だ」とだけ漏らし現場を去る。源吾の胸中には、昨夜“火元へ逆走した火消一団”の違和感が再燃する。

それでも台所へ:不器用ななめろう

帰宅後、深雪は女天下の取り止めを申し出るが、源吾は気丈に続行。真鯵をおっかなびっくり捌き、味噌・酒・芹・紫蘇・生姜で“なめろう”に挑戦(米は炊き忘れ、指も少し負傷、味噌汁は塩っ辛く)。それでも深雪は「美味しいです!」と満面の笑みで平らげ、源吾は不器用な愛情に救われる。

第二章 龍出る

拝謁:戸沢正親の“倹約令”

皐月五日着の御連枝・戸沢正親(十七)に拝謁。正親は「実入り増・倹約徹底」を掲げ、新庄藩火消への大鉈を宣言――鳶の俸給半減、道具費は五箇年差し止め、さらに方角火消は岸和田藩岡部家へ移譲する意向を示す。折下左門は「民を守る火消を無駄と断ずるのか」と正面から異議。正親は江戸火消制度や新庄藩の越境出動の実情まで把握しており、準備された論法で押し切った。

松永家の評定:怒りと不安

松永源吾の家に主だった面々が集まる。鳥越新之助は激昂、彦弥も苛立ち、寅次郎でさえ顔を紅潮。俸給半減と支出凍結は、人員流出か粗悪装備による殉職増か――新庄藩火消の瓦解に直結する。加えて、北条六右衛門は高熱と意識混濁で回復目処が立たず、このままなら正親が実権を握り続ける恐れが濃い。

星十郎の仮説:黒い手

加持星十郎は二筋を提示。
一、世間知らずで御しやすい御連枝を“誰か”が江戸に送り込み、籠絡しようとしている。
二、六右衛門の病そのものが仕組まれたもの。
正親が国許育ちにもかかわらず、新庄藩火消の越境行動や方角火消の要点を熟知していた不自然さが、その疑念を後押しする。名指しは避けつつ、面々の脳裏に浮かぶ顔は一つだ。

揺らぐ基盤、それでも

六右衛門不在、御連枝の強権、財の締め上げ――三重苦で内輪揉めの火種さえ見える。だが松永源吾は歯を見せて笑い、「俺たちは柔じゃねえ。目の前の火を消すだけだ」と皆を支える。方角火消の旗が折られても、人命最優先の矜持は折れない――その一点で、場はかろうじて結ばれた。

半鐘の合奏、日本橋・元大工町と見抜く

八日の宵、太鼓と半鐘の乱打。松永源吾は音の方向・強弱・風を聴き分け、日本橋南・元大工町と即断。上屋敷に急行し、ろ組の力量を勘案して“後方支援寄り”の構えで人員の集結を待つ判断を下す。

拝み刀の乱入:戸沢正親の制止と応酬

参集の最中、御連枝・戸沢正親が侍を伴い「芝周辺のみ守れ」と出動制止。源吾は「出て不要ならそれで良い、救える命があるかもしれぬ」と真っ向から返す。正親は幕府側から呼び出されている事実をあっさり認め、「嵌められはせぬ、利用する」と老獪さを覗かせるも、「誉れでは飯は食えぬ」「全ては救えぬ」と冷徹。源吾は「だから行く」とだけ告げ、出動を決断。

“ぼろ鳶”の名で道が割れる

碓氷に跨った源吾を先頭に、新庄藩火消一同が突進。武蔵が最前で道を切り開くが、人波は濁流。そこで武蔵が敢えて「ぼろ鳶組だ! 消してやる、道を開けろ!」と吠えると、野次馬が一斉に端へ退き、声援が渦になる。

火元:会所の大火、油の臭い

現場は町の会所。隣家との間隔はあるが、火の粉は雪のごとく舞い、十六方延焼の危険。先着のろ組が南北東を押さえるも、場にはむせる油臭。武蔵は「備蓄油が燃えている」と見立て、竜吐水だけでは力不足と判断。源吾は「西側の家を軒並み潰す」と壊し手投入に踏み切ろうとする。

北から鳴り渡る摺鉦――“に組の鉦吾”

指示を出さんとした刹那、北側で数十の摺鉦が一斉に鳴動。「に組の鉦吾」と見て取れる異様な合図――現場の主導権と戦術が、次の瞬間に大きく揺れる気配であった。

に組の鉦吾と異常な“野次馬狩り”

北側から一斉に摺鉦――に組の総掛かりの合図。現れたに組は消火ではなく野次馬を縄で捕縛し始め、老若男女をひと所に固めていく。ろ組が制止に入るも、に組は力でねじ伏せた。

ぼろ鳶、救出優先で乱戦へ

松永源吾は「火は後だ、皆を助けろ」と切り替え、配下は救出のために殴り込み。寅次郎は二人をぶん回し、彦弥は飛び蹴り、星十郎は負傷者の応急、鳥越新之助は関節を極めて次々制圧。ろ組も息を吹き返し、混戦となる。

“九紋龍”降臨

に組の新手が突入、先頭に臙脂の巨躯――九紋龍の辰一。長半纏の下は裸、剛体に龍の刺青。立ちはだかる火消を塵のように払い、角材も素手でへし折る怪力。源吾は「一旦退くぞ」と判断するが、新之助は食い下がる。

寅次郎VS辰一――撞木反り

寅次郎が正面から四つに組むも、押し込みは止まり、逆に辰一は股下に手を差し入れて“撞木反り”。四十五貫の寅次郎が宙に舞い、源吾が下敷きになりかけて受け止めるのがやっと。辰一は「用事を終えたら俺が消す」と嘯き、野次馬の捕縛を続行する構え。

屋根上の挑発と竜吐水の逆手

彦弥が屋根から投石で陽動するが、辰一は怪鳥の跳躍で屋根へ。彦弥を掴んで地上へ放り投げる。星十郎の合図で武蔵の竜吐水が会所火勢へ噴射、発生した水煙で辰一の肌を焼くことに成功――が、辰一は標的を星十郎へ切替え、猪突猛進。

宗助の割り込みと“侠”

そこへに組の宗助が身を挺して遮り、「この者たちには借りがある、収めてくれ」と直訴。辰一は宗助を殴り飛ばすが、宗助は「侠は曲げられぬ」と立ち上がり続ける。やがて辰一が「この持ち場はに組が預かった。百数えるまでに荷まとめて帰れ」と宣告、ろ組の竜吐水を炎中へ投げ入れ火勢を一時抑えるという乱暴な“技”。

苦渋の撤退

宗助は土下座の勢いで「命に懸けて野次馬の無事を約束する。今の御頭は止められない」と懇願。源吾は初めて“火を残して退く”決断を下し、新庄藩火消は悔しさを呑んで後退。武蔵は竜吐水を睨みながら、寅次郎と彦弥は憤怒、星十郎は被害確認、新之助は歯噛み――“龍”が出た夜、ぼろ鳶は敗走を選んだ。

眠れぬ夜と朝の苛立ち

源吾は二晩続けて満足に眠れず、寅の正刻前に目覚めて以降も憤懣を抑え切れなかったのである。深雪は身重を案じられて家事を控えようとする源吾に従い、火鉢や雨戸の扱いを任せた。煙草を求めた源吾は葉が尽きかけて咳き込み、内田屋への買い出し案を示した深雪に大丈夫だと返して朝をやり過ごしたのである。

善平の来訪と水府の補充

行商の善平が訪れ、源吾は常用の水府を求めて代金を支払った。善平は顔の傷を見て血止め代と称し刻みを一摘み添えた。白粉などの小間物を勧めるも深雪は家計を引き締めると断り、善平は十日後の再訪を告げて去ったのである。

野次馬騒動の顛末の報告

未の初刻、宗助が来訪し、会所火事での一件を報告した。辰一率いるに組は四半刻で鎮火し、捕らえた野次馬を辰一が順に説諭して解放したという。火盗改の島田が中止を命じて揉めたが、辰一は意に介さずやり切ったと伝えられ、源吾はあいつは自分を不死身と勘違いしていると怒りを新たにしたのである。

九紋龍辰一の実像と目的不明

宗助は五日前に御頭から府下すべての火事に出向き野次馬を捕えろとの下知が出たが、真意は配下にも示されていないと明かした。辰一は父がに組頭であった経緯から火消となり、数々の制裁歴を持つ一方で個人の力量は群を抜く存在で、九紋龍など異名も多い。新之助は理の通じぬ龍のようだと警戒を述べ、皆がその強さを認めつつも目的の不明さに不気味さを感じていたのである。

新庄藩の内情と猶予の沙汰

左門は正親から源吾の人物を質された経緯を語り、当家の火消ぶりを見届けるまで猶予するとの沙汰があったと伝えた。眞鍋幸三の切腹と鳥越蔵之介の最期で壊滅した新庄藩火消の過去が想起され、今は六右衛門の快癒を祈りつつ本分に邁進するほかないと結論したのである。

再戦の誓いと各人の決意

夕刻、頭五人と左門が集い、源吾は得た情報と辰一像を共有した。彦弥は必ず借りを返すと激昂し、寅次郎は次は油断しないと再戦を望んだ。星十郎は藩内の人事不安を憂慮し、左門は止めようがないと頭を抱えたが、場の総意は辰一への報復と備えで一致したのである。

源平鍋の夕餉と家則

深雪の合図で食事となり、松永家の食卓は銭取りの掟どおり勘定の用意がなされた。左門は女天下で家事の重みを知り自ら料理を作ると宣し、場に一時の和みが生まれた。深雪が供した鍋は人参と大根のおろしを昆布出汁で割った紅白渦の源平鍋で、京極家中由来と明かされた。今回は源氏勝利にちなみ代金はただとされ、ただし見返せと深雪は促した。香り立つ鍋を味わいながら、源吾は次なる挽回を心に誓い、場は一時の安堵と決意に包まれたのである。

日本橋の皆殺しと“火事囮”の仮説
訓練後、寅次郎と星十郎は日本橋で商家・菱屋の一家と使用人が皆殺しにされた件を伝えた。火盗改は厳重な箝口令を敷き、密かに探索を進めていたが、達ヶ関が谷町として不在を不審に思い訪ねた折に情報を得た経緯である。六本木町事件と同日同時刻に発生しており、星十郎は「火事を囮に目を逸らし、押し込みを遂行する統率ある盗賊団の仕業」と結論づけたのである。

平蔵からの伝馬と“千羽一家”の手口
そこへ深雪が伝馬での急使を届け、長谷川平蔵の書状が披見された。文は、三十年来、畿内を中心に十九ヶ国で同様の所業を重ねる盗賊団“千羽一家”の存在を告げるものであった。まず離れた地に放火して注意を逸らし、その隙に富商へ押し込み、金品を掠めた上で一族・使用人を皆殺しにする――という冷酷な定型が記されていた。平蔵は大坂で追い詰めながらも取り逃がし、千羽一家が箱根を越えたと報告。江戸で事を起こす兆しと見て、「一刻も早い鎮火こそ敵の動きを鈍らせる」と助言を寄せたのである。

江戸方の脆弱と現場の重圧
書状は田沼意次と後任の島田にも通達済みであるが、現下の火盗改の手並みでは心許ないことが行間に滲む。源吾側は「府下のどこで火が出ても神速で消し止める」という至難を担う覚悟を固めたが、新庄藩では正親が“様子見”を続け、さらに九紋龍辰一が現場を荒らす懸念も残る。ゆえに、島田が千羽一家を捕縛するまでの間、正親を宥め、辰一を出し抜きつつ、全域即応の消火体制を維持するという、息の詰まる綱渡りが課題として突き付けられたのである。

結語:対処方針の一点集中
星十郎は手口の一致から日本橋・六本木町を同一犯行と断じ、寅次郎も達ヶ関の情報を裏付けに据えた。方針は明快である――“火を早く消す”。千羽一家の囮戦術を無効化する唯一の対抗策として、江戸中の初動消火を極限まで短縮し、押し込みの遂行余地を奪うことに全力を傾ける決意が、場の総意として固まったのである。

第三章 競り火消

山路家の日記調査と仮説の確認
源吾・新之助・星十郎は、山路連貝軒の厚意で山路家の日記を精査し、千羽一家の江戸期の活動実態を洗い直した。新之助は記録の高速読解で要点を記憶し、星十郎は年代別に着目箇所を抽出して、江戸帰還に合理的動機があるかを探ったのである。

江戸期“千羽一家”の素行差と現在との断絶
江戸で名を上げた当初の千羽一家は、夜陰の忍び込みや内通を用いた窃盗を主とし、殺しを避け、困窮者に施しを与えたという義賊めいた風聞すら残していた。これに対し近年の西国各地では放火で目を逸らし、押し込みの上で一族郎党を皆殺しにする冷酷な手口へ変質しており、質的断絶が明瞭であった。

寛保二年「出雲屋」押し込みの再検証
寛保二年の「出雲屋」事件を丹念に読み解く中で、新之助は元文五年の引き札に「一家十人」とある点を思い出し、記録上の「生存者なし」との齟齬に着目した。奉行所は「丁稚一名所在不明=内通者」と判断していたが、売り文句との照合から、実際は二名の生き残りがいた可能性が示唆されたのである。

奉行所記録への当たりと山路の後押し
星十郎は奉行所記録の照会を提案し、源吾は自らの伝手で当たる段取りを決めた。山路は室を開放したまま「急げ」と背中を押し、さらに奉行所との橋渡しを取り計らうと申し出て、実地で学を活かせと星十郎を激励した。

築地方面の火太鼓と出動
源吾は異常聴力で火太鼓を察知し、方角と距離から築地方面の火事と断定した。に組の越境介入が再来すると見て、一同は即応体制のまま現場へ走った。暮色の縹を背に、星十郎が先陣を切り、新之助と源吾が追う形で、競り火消の幕が上がったのである。

築地出火と先着競争
源吾は教練場から即時出動し、碓氷に跨って先頭で疾駆した。風は東寄りで、火太鼓の早期探知の利を活かして“先に消す”方針を徹底したのである。

南小田原町「小谷屋」火災の現場判断
現場は乾物商「小谷屋」で、避難は概ね完了していたが延焼の恐れが高かった。源吾は星十郎に状況口述を命じ、四半刻以内の鎮火を目標に設定。武蔵は四式竜吐水四機で四方を包囲し、隣家の延焼防止ではなく火元直撃の“先掛け”を選択したのである。

配置転換と資機材の即席拡張
八丁火消・町火消には給水支援を要請し、新庄藩側は玄蕃桶増員で連続給水を維持。寅次郎・彦弥・新之助は荷車類をかき集め、星十郎の指示で青物の大量調達(万代・富菜屋ほか)に走った。新之助は市中切絵図の記憶を活用して調達経路を最短化したのである。

“青物投げ入れ”の消炎策
星十郎は青菜・大根・茄子・蕪・胡瓜等を火中に投入させた。含水量の高い青物から発する水蒸気が下から火勢を削ぎ、竜吐水の実効を底上げする理である。経験則として“八百屋火災は回りが遅い”を科学的に裏打ちし、武蔵の号令と相俟って火勢は急速に萎んだのである。

鎮火と失火原因の確認
梁柱は黒く罅割れたが種火は徹底的に潰され、鎮火は成った。小谷屋主人は息子の煙草火の不始末を認め、源吾は人命無事を良しとしつつ再発防止を諭した。さらに“干し芋の再開”を半ば冗談めかして励まし、主人の表情を和らげたのである。

に組接近と待機判断
新之助の見張り隊は北方から接近するに組を確認しつつ衝突回避で後退。源吾は本件が千羽一家との無関係な失火であると見立てたうえで、なお“待つ”ことを選択した。に組の動向と付け火の余波を見極めるため、現場統制を維持して次手に備えたのである。

九紋龍の来襲と“野次馬”偏重
砂埃を上げて臙脂の半纏の一団が到着し、先頭に辰一が姿を現した。辰一は鎮火済みの火場には興味を示さず、執拗に“野次馬”の所在のみを追及した。源吾は違和感を覚え、目的が消火ではなく群衆の拘束にあると看破したのである。

一触即発から乱闘へ
挑発を交わす中、寅次郎が達ヶ関への侮蔑に激昂して辰一を投げ、全隊の乱闘に発展した。新之助は鞘打ちで辰一の膝を崩し、彦弥は機動戦で翻弄、源吾は体当たりで割って入った。辰一の刺青には九頭のうち一頭だけ筋彫りが残り、異様な未完の印象を与えたのである。

民を盾に取る暴威と新之助の選択
辰一は自軍の町火消を新之助へ投擲し、新之助は即座に刀を捨てて抱き留めた。致死を避けるための選択が隙となり、源吾は身を挺して間合いを切るが、形勢はなお逼迫した。

火盗改の介入と“喧嘩続行”の理屈
島田率いる火盗改が到着し制止を命じる。辰一は島田の襟を掴んで恫喝、場は凍り付いた。ここで星十郎が「公事方御定書における喧嘩不介入の通例(無礼打ち関連判例)」を引き、介入の不当性を畳み掛けたため、島田は一旦退いたのである。

出雲を巡る挑発と決定的破綻
島田が「縄張り越えの無念晴らし」や「実父ではない」等の出雲絡みの挑発を口にしかけた刹那、辰一は激昂して島田を殴打。火盗改は抜刀して包囲し、に組は茫然自失。辰一は抵抗を解き、縄を幾重にも掛けられて連行された。

謎めいた遺言と不吉な静寂
退場の間際、辰一は源吾に「火喰鳥。いかなる小火でも容赦するな。府下のどこであってもな」と言い残し、千羽一家を仄めかす応答をしかけて火盗に遮られた。野次馬を払った後の火場には両火消のみが残り、祭りの後のような空虚さの中、源吾の胸には出雲と辰一の素姓、そして“囮火”の連鎖を示唆する重苦しい不安だけが濃く残ったのである。

宗助の夜訪と辰一拘留の報せ
夜更け、源吾宅を宗助が密かに訪れ、辰一が小伝馬町の牢に繋がれたことを告げた。宗助自身はに組内で「新庄藩火消と通じている」と疑われ、出動を禁じられていた。辰一の異変を訴え、「何かに取り憑かれたようだが、それでも信じている」と訴える宗助に、源吾は静かに頷いた。

宗助の回想と辰一の過去
宗助は、辰一が江戸払いとなった過去を語る。新米だった自分が放火浪人を追い詰めた際、浪人が暴れ出し町人を斬りつけ始めた。そこへ辰一が現れ、浪人を一撃で殺したのである。その裁きで辰一は江戸払いを受け、のちに宗助の父・宗兵衛がに組を支えたが、大火の際に殉職。恩赦で辰一が復帰した経緯を明かした。宗助は、辰一が捕縛される際に源吾へ告げた「府下のいかなる小火も容赦するな」という言葉の真意を託した。

星十郎の講義と坪内奉行の裁定
翌日、源吾邸に火消一同が集まり、星十郎が島田を追い払った際に引用した「公事方御定書」の背景を解説した。南町奉行・坪内定鑑が遺した“喧嘩次第”の裁定――
一、喧嘩とは意地で争うもので刀を用いるな。
二、遺恨を残さずやり切れ。余人の介入を許すな。
三、身分を問わず公平。
四、男が女、若が老に手を上げるは許すまじ。
五、喧嘩は江戸の華、大いに笑って踊れ。
――この放胆な条文に一同は笑い、幕府が隠蔽した理由を理解した。

辰一の素性と“出雲”の謎
源吾らは、辰一が島田の発言「無念を晴らそうと縄張りを出た」「出雲――」に激昂した理由を検討した。辰一が“千羽一家”に関与していた可能性を探るも、年齢的に無理がある。江戸育ちで訛りもなく、ただ一言「かんか」という聞き慣れぬ語が残された。皆が首を傾げる中、深雪の機転でその語が“乾貨”――俵物三品(煎海鼠・干鮑・鰭鰭)を意味する商用語であると判明した。辰一がそれを知る背景に、かつての奉公や出雲との交易が絡む可能性が浮かぶ。

卓袱料理の食卓と江戸っ子の気質
深雪が長崎由来の卓袱料理を振る舞い、珍味の数々に皆が舌を巻いた。話題は自然と辰一へ戻り、彼の暴挙を責めつつも“火消の外圧には結束する”という江戸っ子の連帯意識が芽生えていく。源吾は「男は馬鹿だが、火消はもっと馬鹿だ」と笑い飛ばしながらも、辰一の残した「全ての小火を許すな」という言葉の意味を胸に刻んでいた。

浅草方面に出火、即応出動
予の刻過ぎ、太鼓と半鐘。松永源吾は新庄藩火消を招集し、上野寄り浅草方面と聴き定めて北進。

店火消と武家火消がひしめく大火勢
阿部川町・墨屋「染床」が火元。戸田・酒井・大久保・松平(伊豆・内記)・立花ほか武家火消、町火消二百八十九のを組、さらに店火消が数百。に組は頭不在で出動せず。

“火付け=千羽”の疑念、星十郎の包囲理論
伊達家火消の「外壁から出火=火付け濃厚」証言を受け、加持星十郎が二重円(内円=火元集中/外円=避難圏)を提示。狙点は“内円の外〜外円の内”の帯域と断じ、橋・街道を要所封鎖。
— 寅次郎:浅草御門・新シ橋
— 武蔵:吾妻橋(竜吐水で幅狭め)
— 新之助:新寺町筋
— 彦弥:西側半里の高所警戒

空振りのまま鎮火、そして火盗改の到着
火勢は四半刻で弱まり、のち鎮火。見回り中、島田弾正が龕灯隊で到着し詰問。星十郎が経緯と田沼意次・長谷川平蔵の線を織り交ぜて説明し、いったん矛を収めさせる。

痛恨の報:札差一家皆殺し
島田が告げる――近隣の札差が襲撃され、主人・家族・使用人計十一名皆殺し、少なくとも二百両が消失。新庄藩火消は四方封鎖を敷くも、千羽一家はその網の外縁か内側の死角をすり抜けた可能性。星十郎は沈痛、源吾は隊を励ましつつ種火潰しを続行。

月が隠れ、光が止む
亀灯の光も動きを止め、湿った夜気だけが残る。松永源吾・鳥越新之助・武蔵・寅次郎・彦弥・加持星十郎は、千羽一家の機動と殺戮の重さを噛みしめるばかりであった。

帰途の失意と自責
浅草の失態により新庄藩火消は肩を落として帰還。星十郎は自らの読み違いに苦しみ、源吾は千羽一家への怒りと「救えたはずの命」を守れなかった自責で腸が煮えくり返っていた。

正親の急襲と“竜吐水を売れ”
屋敷前で正親が待ち受け、「国元・西里村の疫病対策の薬代に充てる」として竜吐水の即時売却を命令。六右衛門不在の財政逼迫を突きつけ、「六右衛門頼みの思考」を家中全体が患っていると痛烈に示した。

源吾の決断:刀を差し出し、道具は守る
源吾は竜吐水の死守を選び、自身の佩刀「長綱(近江守忠綱門)」を差し出す。これは深雪の父・月元右膳が授けた業物で、「いざという時は売れ」という戒め付きの一振り。源吾は“火消の命綱”を売るくらいなら自分の刀を金に替える覚悟を見せた。

米か命か――正親との応酬
正親が「人は米なくして生きられぬ」と迫れば、源吾は「米だけでも生きられぬ」と応酬。火消の責務(人命と町の安全)と藩政(財政救済)のせめぎ合いを、真正面からぶつけ合った。

猶予の付与と家中の自省
正親は熱を宿した眼差しで「今暫しの猶予」を与え、「新庄の民を裏切るな」とだけ告げて去る。火消衆は疲労と敗北感に沈む一方、六右衛門への“依存”という自らの甘えを恥じ、己らの足で立つ覚悟を改めて胸に刻んだのである。

第四章 余所者

豪雨の翌日、重い集会
大雨で一息つくも、浅草での失策が尾を引き、源吾宅に武蔵・新之助・寅次郎・彦弥・星十郎が集合。星十郎は憔悴しきり、「必ず答えを出す」と臨む。

星十郎の結論:“千羽一家は火消に紛れていた”
二重円の仮説自体は正しい。誤算は“侵入時刻”。千羽一家は火付け後に現れるのではなく、最初から火消装束で夜番として街内に潜入していたと推理。火元=集結点を利用して空白帯へ移動し、標的(札差)を急襲した、と断ずる。

道具に化ける運び屋:竜吐水と玄蕃桶
戦利品(二百両級)をどう運ぶか——火消なら不自然でない竜吐水・玄蕃桶を流用し、二重底などで隠匿。さらに鎮火後は“羽織・半纏の裏返し”で返り血を隠し、堂々と撤収する手口だと示す。

宮村町の既視感、そして“野次馬狩り”の真意
麻布・宮村町の時、纏のない“火消風の一団”が火元から離れていった件がこの仮説に合致。加えて、辰一の異様な“野次馬狩り”は、急襲隊ではなく“火元の見張り役”を炙り出す狙いだったと判明。辰一はやはり千羽の術中を知っていた。

“出雲”の謎、核心へ
新之助が閃く——島田の挑発に出た「出雲」は、江戸での最後にして初の皆殺し“出雲屋”事件のこと。山路連貝軒の口添えで奉行所記録を当たる段取りを確認。出雲屋“生存者二名”仮説に、現下の連続押し込みが繋がり始める。

藩財政の締め付けと、各人の覚悟
一方で正親は女中半減、他藩との会合圧縮など容赦ない倹約策を推進。源吾は「外から見える無駄でも、現場にしかわからぬ必要がある」と諭しつつ、いずれ自分たちも“何かを差し出す覚悟”が要ると腹を括る。
寅次郎は「皆で少しずつ切り詰め」を提案するが、星十郎は「人は誰かに任せがち」と現実を指摘。それでも彦弥は「女中を守るためなら俺はやる」と飄々と宣言し、張り詰めた空気に一瞬の笑いが戻る。

締め:守るべきもののために
千羽一家の“火消偽装”という絡繰りが見えた今、出雲屋の真相を糸口に一気に詰める——その決意を分かちつつ、源吾は「本当に大切なものを守るための犠牲」を静かに胸に据えるのだった。

山路のもとで記録を確認する
源吾と星十郎は山路を訪ね、山路が奉行所から書き写してきた記録に目を通した。記録は一家八名が惨殺され、三歳の末息子が行方不明であることを伝えており、記録に記された生存者の年齢が捜索中の人物と符合していたため、二人はその関連性を確信した。星十郎は生き残った三男の行方を問うたが、山路は卯之助が引き取ったと答え、その情報を受けて事態の重大さが改めて認識された。

千羽一家の手口と嘗役の存在
源吾と星十郎は千羽一家が上方から来て短期に荒稼ぎしつつ移動を繰り返すこと、そして嘗役という下見役を用いて押し込みに適した商家や豪農の間取りや奉公人の数まで帳面に記して首領に報告していることを確認した。そのため、千羽一家は新たな土地でも迅速に犯行を行えており、火消に紛れる悪党を炙り出すのが難しい事情が明らかになった。山路らは朝明けには再び動く可能性があると見て、警戒と段取りを急ぐことにした。

卯之助との再会と辰一の背景
源吾は卯之助を訪ね、かつて火消で頭角を現した千眼の卯之助と再会した。卯之助は出雲屋の惨状を発見し、幼い辰一を引き取って育てていた経緯を語った。辰一はかつて一家を皆殺しにされた被害者の一人であり、その後卯之助に育てられたが、辰一の体躯や刺青などから出雲屋の倅であるとの疑念が上がった。卯之助は辰一を実の子ではないと認めつつも、実子同然に思っていると述べ、辰一の心に復讐心が残っていることを示唆した。

真相の告白と源吾の決意
卯之助は語るうちに自身がかつて無燈の熊蔵と名乗って千羽一家を率いていた過去を告白した。千羽一家が変質し、出雲屋襲撃の際に多数を惨殺したのは裏切りや乗っ取りが原因であり、卯之助はその暴挙を悔いて火消に身を置き、千羽一家の動きを監視してきたと告白した。源吾は卯之助の告白を受けて激しく動揺したが、辰一を復讐の道に生かすのではなく救うべきだと考え、卯之助に辰一を救うことを約束して卯之助の懺悔と願いを受け止めた。

出動前夜の集結と策の共有
源吾は新庄藩火消全員を教練場に集め、千羽一家との衝突が避けられぬ状況を説明した。篝火が焚かれる中、源吾は卯之助に関する件を他言無用としつつ、次なる火付けへの対応策を語った。その内容はあまりにも奇抜であったため、多くが渋面を浮かべたが、武蔵や寅次郎、彦弥、新之助らは笑い交じりに賛同した。星十郎は源吾の構想を戦略に落とし込み、地図を用いて攻防の要点を解説した。千羽一家が長く留まらぬ特性を踏まえ、次の襲撃が最後の大仕事になると予測し、火消一同は決戦に備えた。

出動の刻と深雪の支度
翌々日の夜、江戸に太鼓が鳴り響き、源吾は深雪と共に出動した。深雪は眠れぬほど緊張しており、源吾に脇差を渡して支度を整える。火消侍は火災時に刀を差さぬことが許されていたが、深雪は心配して帯を締め直そうとした。源吾は微笑み、鳶口を腰に差して「これで十分だ」と応じ、出立した。

教練場の緊張と正親の来訪
教練場にはすでに火消たちが集まり、闘志を滾らせていた。新之助が鳶丸を連れて来て叱られ、場が一瞬和んだ後、江戸の火事を告げる報せが届く。現場は神田橋御門近く三河町。そこへ藩の正親と家老児玉金兵衛が現れ、幕府から出動禁止の命が下ったと伝える。正親は御老中や若年寄の意向を述べ、従えば五十年賦で金子の貸付を受けられるとしたが、源吾は「将軍家より新庄の民が重い」と真っ向から拒絶した。

正親の出自と新庄の民の誇り
正親は自身が正室の子でなく妾腹の出であることを語り、母が領民を慈しみ、「民を蔑ろにしてはならぬ」と教えたことを明かした。幼少期に母を亡くした正親は城を抜けて村々を巡り、民と交流を重ね、「亀様」と親しまれていたという。源吾は正親の心情を理解しつつも、「余所者」との言葉に胸を刺され、自らも新庄の貧民たちの姿を思い出した。六右衛門と共に見た飢えに耐える民の姿、そして「新祭」に託された希望の記憶が脳裏に蘇る。

新庄の魂と源吾の誓い
源吾は「余所者であるからこそ、人を想い希望を捨てぬ男でありたい」と訴え、正親は感情を抑えきれず涙を滲ませた。火消たちは次々と源吾に賛同し、俸給を半減、または家禄を返上してでも民のために働くと誓う。正親は感極まり、涙ながらに「新庄の民に代わり礼を言う」と深く頭を下げた。

決戦への出動と誇りの継承
幕命を無視すれば改易も覚悟せねばならぬと正親は告げたが、すぐに「町人風情に負けるとは武士の恥」と叫び、「借りを返してこい」と命じた。火消一同はこれを号令と受け、「喧嘩に参る!」と鬨の声を上げる。武蔵を先頭に教練場を飛び出し、源吾は馬・碓氷に跨って最後尾から続いた。背に受けた正親の声は、新庄の男たちの誇りそのものであった。

第五章 江戸の華

新庄藩火消の進軍と江戸の反応
源吾は配下を追い抜き、先頭に立って駆け抜けた。正親の覚悟を受けた今、もはや迷いはない。かつて正親を罵倒した彦弥ですら、「なかなか粋な若様じゃねえですか」と笑いながら走り、六右衛門に続くもう一人の「真の領主」を認めるに至っていた。金兵衛もまた、最初は止めに入っていたが、最後には鳶たちと共に鬨の声を上げていた。皆の胸にあるのは「新庄の民を守る」という同じ想いであった。

江戸の町人もまた、火事と押し込みの関係に気付き始めていた。火を止めることが即ち盗賊を牽制する最良の手段だと知れ渡り、信心深い者の中には「火の魔物が暴れている」と恐れる者さえいた。町人らは「ぼろ鳶組だ!」という声に歓声を上げ、火消たちに道を開けて応援した。源吾は笑顔で応じ、深雪の腹に宿る子を思いながら、「坊、お父の言うこと聞いていろよ」と声を掛けた。幼子が「ぼろ鳶も頑張って!」と返し、野次馬から笑いが起こった。

に組の停滞と宗助の憤り
火元へ向かう途中、通塩町に差し掛かった源吾は、に組の火消たちが動かずに町角に立っているのを見つけた。星十郎が「風は北東から東へ変わり、いずれここにも延焼が及ぶ」と告げる。そこへ言い争う声が聞こえたため、源吾は馬を止めてその場へ向かった。に組の小頭・宗助が仲間たちと口論していた。宗助は「辰一の意思を汲んで消火に加わるべきだ」と主張したが、他の火消たちは「御頭の命なくして動くべきではない」と掟を持ち出し、動こうとしなかったのだ。

源吾はその場に割って入り、「辰一はお前らを頼ってねえ」と言い放つと、場の空気が凍りついた。「屁のつっぱりにもならねえ藁人形火消」と挑発され、に組は激昂したが、源吾の次の言葉に息を呑んだ。「辰一が大人しく捕まったのは、お前らを守るためじゃねえのか」。その一喝に、彼らは唇を噛みしめて黙り込んだ。宗助は涙を堪えながら天を仰ぎ、辰一の真意を噛みしめるように立ち尽くした。

分かれ道と任務の再確認
星十郎が追いつき、源吾に策の最終確認を求めた。源吾は即座に「お前を信じている」と答え、星十郎は息を整えながら説明を続けた。御頭の要望は三つ。
一に「火を消し、誰も死なせぬこと」。
二に「火元に火消も野次馬も近づけぬこと」。
三に「その中から千羽一家を炙り出すこと」。

それは矛盾を孕んだ難題であったが、星十郎は既に一と二の策を整えており、三も源吾の案に従うと述べた。寅次郎と彦弥は拳を合わせ、「やってやろうぜ!」と士気を上げる。

御頭の離脱と決意
そこへ星十郎が新たな伝令を伝える。「急遽、御頭より四つ目の要望がありました。御頭はこれより組を離れ、指揮は鳥越様に」。これには新之助が「自分だけ逃げる気か」と口を尖らせたが、すぐに皆が悟った。源吾がどこへ向かうのか。誰もが察し、笑みとともに背中を押した。

源吾は馬首を返し、仲間たちに一言だけ残した。「任せちまって悪いな。俺は、あの日の俺を救いに行く!」。碓氷はその心を感じ取ったかのように嘶き、夜の江戸を駆け抜けた。鬣が風に揺れ、源吾の瞳には燃え上がる火の色と、過去への決意が映っていた。

折下左門の遅参と正親の大号令
正親が源吾らを見送った直後、折下左門が駆け込んだ。左門は諫言のため主だった家臣を起こして回っていたが、時すでに遅しであった。正親はむしろそれを評価し、上・中・下屋敷の家臣すべてを緊急招集するよう命じ、事態を「お家の一大事」と規定したのである。

ぼろ半纏の支給と「入れ替え」の布石
家臣・中間小者まで続々と集結し、正親は継ぎはぎだらけの火消半纏を一同に着用させた。これは見目を揃えるためではなく、「教練場に火消が残っている」という外観を作る策であった。正親は新庄弁を織り交ぜて空気を和ませ、命令は簡潔に「全員、急げ」で統一した。

火消見廻・柴田七九郎の来訪と詰問
やがて火消見廻組の柴田七九郎が供回りを連れて来訪し、「幕命違背」と詰問した。正親は「本物の火消はここにいる」と惚け、外へ出たのは「他家」と煙に巻いた。柴田は家紋「九曜」を根拠に詰めるが、正親は九曜は諸家が用いると受け流し、場の主導権を握り続けた。

機知の一撃:「鳥越はこの者だ」
柴田が「頭取並・鳥越を出せ」と迫ると、正親は鳶丸の頭に手を置き「これが鳥越新之助」と言い切った。露骨なはぐらかしで柴田を激昂させつつ、正親は即座に反転して叱責し、言葉で上位を奪い返したのである。

貸与工作と「当主挿げ替え」提案の暴露
正親は、柴田が先に持ち掛けた「方角火消を辞せば金子を貸す」申し出の裏で、「当主・戸沢孝次郎を隠居させ、正親を当主に挿げ替える」という不穏な一言があった事実を暴露した。これを「上意」と偽装した嫌疑を突き、必要ならば上様へ直訴し、「虚妄ならば柴田の謀反」と断じた。

切り札:京極佐渡守の立会い
正親はあらかじめ第三者の立会いを布石として用意しており、それが京極佐渡守であると明かした。柴田は戦慄して沈黙し、証言の客観性が担保されたことで反論の余地を失った。

決別の宣言と追い返し
正親は「当家の喧嘩は当家のみで決する」と明言し、貸与と挿げ替えの話を正式に断った。柴田は蹌踉と退去し、場は新庄側の完全勝利に終わった。折下左門は涙ながらに謝意を述べ、家中は正親の胆力と用意周到さに結束を新たにしたのである。

に組への失望と決意の進路変更
源吾はに組の依存体質を不甲斐ないと断じ、自律して火と向き合う覚悟の欠如を危惧した。頭が独断で背負い込む構図の危うさを省みつつ、己が過去に闇を断った時と同様に、辰一自身の手で決着をつけさせねば真の救いは来ないと悟り、小伝馬町の牢屋敷へ向かったのである。

牢屋敷での直談判と石出帯刀の裁断
小伝馬町に到着した源吾は、江戸の危機を掲げて切り放ちを迫った。牢役人は拒んだが、囚獄の長・石出帯刀が現れ、昨年の冤罪収監で面識のある源吾の意図を測った。石出は「辰一の牢から火の粉が入った」との“面妖”を合図に三日帰還条件の切り放ちを許可した。政に牢を弄ばれる不快を滲ませつつも、実直に非常措置を下す老練であった。

再会の一撃と核心の一言
獄丁に囲まれて現れた辰一は、源吾を「火喰鳥」と呼んで拳を放つも、源吾は正面から受け止めた。源吾は卯之助に会った事実と「お前を助けてくれと泣いていた」と伝え、辰一の強張った面を一瞬で緩ませた。源吾はそこから卯之助の過去を察したが、辰一は認めず、ただ「唯一の火消」として守ろうとする心を露わにした。

役目の託宣と出立
源吾は「お膳立てはした、片をつけろ」とだけ告げ、辰一に本懐を託した。辰一は舌打ちで応じつつも、阿修羅の体躯で鎖を断たれた龍の如く歩を進める。源吾は碓氷に跨り、徒歩の辰一と並走する形で火元へ向かった。目的はただ一つ――火を滅し、焔を弄ぶ千羽一家を止めることであった。

火元二町を空にする策
新之助が場を宥め、寅次郎ら壊し手が火元半径二町から火消を物理的に排除。星十郎の第一・第二の策(火元封鎖と住民退去)が発動し、万組は武蔵の伝手で北側から避難誘導を完了する。

加賀鳶が火元を制圧
清水陣内が到来。加賀鳶八百が東・南・北の口を押さえ、火元は大頭・大音勘九郎率いる五百が竜吐水で叩く段取り。周囲の火消はひとまず安堵する。

「大喧嘩」で千羽をふるい出す
源吾の挑発で数百人規模の乱闘に雪崩れ込み、千羽一家の紛れを一網打尽にする“祭り”を起こす。彦弥の指笛合図で、逃げ腰の二重菱の半纏を発見。辰一が人波を割って急襲・確保するが、口は割れず。

小伝馬町で火薬爆発、二度目の火付け
南空に火柱。千羽は三河町失敗の“つなぎ”を嫌い、用意していた小伝馬町の火付けを起動。界隈の火消は西口に集結中で戦力は空白、火薬で一気に延焼の恐れ。

狙いは十二町の“金脈”――唐松屋
星十郎が動揺の揺れから「柳原岩井町—本船町」直線の十二町帯に標的ありと看破。新之助が即座に西陣織の大店・唐松屋と特定、避難に走る。見張りは気絶。

に組の総掛かり、辰一の進路
遠音の摺鉦で鉦吾の合図――に組が辰一不在のまま小伝馬町へ総掛かり。無謀と吐く辰一に、源吾は平手一閃。「お前をまだ牢にいると思ってるからだ」と叱咤。辰一は無言で屋根伝いに東へ疾走。

総力戦への号令
源吾は家も組も越えて結集を呼びかける。「事は逼迫している。力を貸してくれ!」――策の最終段、乱戦で炙り出しつつ、加賀鳶と在来戦力を束ねて小伝馬町の火と千羽の本命・唐松屋を同時に抑える決戦へ。

唐松屋での警告と孤立
新之助は唐松屋に駆け込み、火付盗賊の襲撃が迫ることを告げて退去を促した。だが主人は疑念を抱き、新之助を一味と誤解する。事態の逼迫を悟った新之助は刀を抜き、主人の鬢をかすめて斬り落とした。「殺すならとっくにやっている」と静かに告げると、恐怖した主人は使用人を連れ屋敷を後にした。残された新之助は「御頭にまた叱られる」と苦笑しながら、千羽一家を迎え撃つ覚悟を決めた。

偽火消の侵入と戦闘開始
やがて七人の男たちが火消の装いで屋敷に侵入する。新之助は竈の確認すらせぬ不自然な動きを見抜き、「下手な芝居はやめてはどうです」と告げた。男たちは一斉に刃を抜き、屋敷は瞬く間に戦場と化す。新之助は微笑みを浮かべながら応じ、「悪人は似たような言葉ばかり吐く」と皮肉を放って構えた。

鮮烈な居合と七人斬り
飛びかかる刃を迎え撃ち、新之助は一歩踏み込んで指を斬り落とし、続く一人の腿を裂いた。板間を駆け上がり、脇差を閃かせて敵の喉を断つ。柱を背にしたまま顎に掌底を叩き込み、男はその場に崩れた。算盤や文鎮が飛び交う帳場では、投擲の隙を衝いて顎を撃ち抜き、一人を無力化する。

大小二刀の連続居合
残る二人が刀を投げて来た。新之助は脇差を納め、「殺さずに上手く斬れるか」と呟き、大小を入れ替えて同時に抜いた。脇差が一人の鼻を斬り裂き、次の瞬間、もう一人の手首が飛んだ。鮮血が舞い、静寂が戻る。居合の速さと正確さを極めた二刀の連撃であった。

戦いの終幕と自嘲
倒れた七人のうち、気絶する者、血を流し呻く者ばかりとなる。新之助は脇差を収め、「死にたくなければ大人しくして下さい」と声を掛け、止血の準備に移った。己の無謀を悟りつつも、「また御頭に拳骨だな」と苦笑しながら静かに息を吐いた。

に組の出陣と宗助の決断
小伝馬町の爆音を聞くや、宗助は迷わず走り出した。に組の火消たちはわずかに躊躇したものの、宗助の号令と共に総掛かりの鉦が鳴り響き、全員が火元・亀井町を目指した。牢屋敷までわずか二町。轟音が続く中、宗助は「御頭を助けるぞ!」と叫び、命を賭して炎の海へ突入した。

不退の血脈と牢屋敷前線
燃え盛る牢屋敷を前に宗助は、「四番小組は壁となり火を防げ! 他は御頭を探せ!」と指揮を執る。父・宗兵衛が炎に呑まれても退かず町を守った姿を思い出し、「不退の血」を呼び覚ました。鳶口を振るい、仲間とともに燃え上がる家々を打ち壊し火除地を広げるが、熱波と煙が肌を焼く。水の支援もなく、皆が雀斑のような火傷を負っていた。

辰一の帰還と衝突
「御頭!! 早く逃げてくれ!」と叫ぶ宗助の前に、突如辰一が現れる。「誰が助けろと頼んだ」と叱責する辰一に、宗助は食ってかかり「俺はあんたの駒じゃねえ!」と胸ぐらを掴んだ。辰一は静かに言葉を返すが、宗助は涙混じりに「だからあんたも頼れ!」と叫ぶ。その声に押され、辰一はついに一歩前へ踏み出した。

に組の覚醒と総掛かりの再燃
辰一は「ここで止めねえと死人が出る」と言い放ち、配下から半纏を受け取る。九頭の龍が浮き上がる刺青を背に、「辛い時は俺を見ろ」と吼え、炎の中へ突入した。宗助の合図で鉦吾の鉦が再び轟き、に組総掛かりの火消たちは火の壁へ立ち向かう。仲間が水を浴びせ、半纏を焦がしながらも一歩も退かぬ。

炎中の竜、辰一の奮戦
辰一は角材を両手に掴み、火柱を薙ぎ払い梁を打ち落とす。燃える家屋を破壊し尽くす姿はまるで項羽のごとく豪壮であった。「御頭に続け!」と宗助が叫び、配下が喊声を上げて続く。

亀井町の悲報と新たな使命
その最中、若者が妻の行方を叫んだ。「お春がいない!」――妻は元岩井町の家にいたが、火の手はすでに亀井町に達していた。若者の言葉に辰一は立ち上がり、「亀井町のどこだ」と問う。南の千代田稲荷通りの長屋と聞くと、「宗助、ここを任せる」と言い残して焔の奔流へと走り去った。

御頭の背を見送る者たち
誰も止めなかった。辰一が命じたからではない。初めて「頼む」と言われた意味を胸に刻み、に組の火消たちはそれぞれの持ち場で炎に立ち向かった。宗助は鳶口を握り直し、御頭の背を見送りながら、「不退」の二文字を心に刻んで再び炎へと歩を進めた。

炎への突入と過去への回帰
辰一は角材と臙脂の長半纏だけを手に、火の粉を浴びながら猛進した。瓦が崩れ、熱が肌を刺す。痛みを感じながらも、それはかつて味わった絶望に比べれば些末なものに過ぎなかった。かつての名は藤吉――富商・出雲屋の倅として生まれたが、贅沢とは無縁の暮らしであった。

出雲屋の悲劇と孤独な生還
父は慈悲深く、困窮する者には金を与え、病人には薬を届け、身寄りのない子を支えた。家族はその徳を誇りにし、穏やかな日々を送っていた。しかしある夜、幼い辰一が厠に行こうと母を起こしたとき、惨劇は起こった。母は咄嗟に辰一を竈の中へ押し込み、その直後、屋敷に悲鳴がこだました。灰の流れと微かな息の気配を最後に、すべてが燃え尽きた。救い出されたとき、家族はすでに亡くなっていた。

千眼の卯之助との出会い
絶望の果てに拾ってくれたのが、茶屋の主人・卯之助であった。新しい名を「辰一」と授けられ、以後その名で生きることとなった。成長した辰一は、家族を殺した千羽一家の名を突き止める。彼らは「義賊」とも呼ばれていたが、出雲屋襲撃を境に凶行に走り、火付けと殺戮を繰り返していた。そして、三つの弟の遺体だけが見つからなかった。辰一は復讐と弟の捜索を生涯の目的とした。

火消の道を志す若き決意
卯之助は視力を失いながら火消を志した異色の男であった。辰一がその背を追い、火消の道を望んだとき、卯之助は「命を粗末にするな」と激しく反対した。だが辰一は譲らず、最終的に卯之助は「他に任せるよりは」と教えを許した。十八を過ぎる頃には「に組に辰一あり」と府下に名を轟かせ、怪力と俊敏さを併せ持つ火消として人々に慕われた。

人々に慕われ、守る者となる
救い出した母子に涙ながらに感謝され、大工に頼られ、子どもたちには憧れの的とされた。辰一は「俺は復讐のために火を消す」と心に刻みながらも、次第に「周囲を守る」存在へと変わっていった。喧嘩に負けた仲間の代わりに敵を叩き伏せ、理不尽に虐げられた町人を庇って牢に入ることもあった。その「守る」という範囲は日を追うごとに広がり、いつしか「に組の辰一」として恐れられ、崇められる存在となった。

龍の刺青と誓いの象徴
己の家族の数と等しい九頭の龍を躰に刻み、一頭だけは筋彫りのまま残した。最後の一頭に色を入れてしまえば、もう弟と会えないような気がしたからである。辰一は火事の度に家を空けるが、目を悪くした卯之助のもとへ頻繁に顔を出し、寂しさを紛らわせていた。

封じられた真実の日記
ある日、留守の卯之助の家で、辰一は忘れられた日記帳を見つける。幼い頃から読みたいと願ったそれを、酒の勢いで開いてしまった。書かれていたのは、卯之助の過去――辰一の家族の惨劇に繋がる、恐るべき秘密であった。辰一は無言で木箱から古い日記を取り出し、全てを読み終えると、静かに元へ戻した。その内容を誰にも語らぬと心に決め、墓場まで持っていく覚悟を固めたのである。

沈黙の誓いと空の朱
「何も変わらねえさ」
そう呟いた辰一の頭上には、朱をぶちまけたような夕空が広がっていた。真実を知ってもなお、復讐と火消の宿命からは逃れられない己を悟りながら、その赤をただ見上げ続けていた。

炎の迷宮と絶叫
辰一は黒煙の中を突き進み、「お春!」と声を枯らして叫んだ。熱気は肌を裂き、火の粉が口に飛び込む。それでも走り続ける。長屋の通りは焔の洞窟と化し、人の気配などあり得ぬ地獄であった。だが、微かに「助けて!」という女の声が届く。奇跡のような応答に息を呑み、辰一はその声の主を求めて炎の中へ駆け込んだ。

決死の救出と背中の炎
声の主はお春であり、奥には気絶した老女がいた。戸口を塞ぐ火を背で受け止め、辰一は二人を抱きかかえる。焦げる刺子の匂いと皮膚が焼ける音が混ざり合う。お春は怯えながらも婆を離さず、辰一は「残された者の方が辛い」と静かに告げた。火は唸り声を上げ、嘲笑うように襲いかかるが、辰一は舌打ちして踏み込み、二人を庇いながら外へ飛び出した。

火中を走る守護の背
視界は赤黒く染まり、道は見えない。だが立ち止まれば即死が待つ。二人を抱え、倒壊する家々の隙を縫って走る辰一の肩には、瓦や梁が次々と落ちた。額を裂かれ、血が右目を覆う。お春は「婆様だけでも」と叫ぶが、辰一は「軽々しく言うな」と一喝し、なおも前へ進む。

己を削りながらの護り
炎に囲まれ、逃げ場はない。辰一は最強と呼ばれながらも、結局はただの人間である。屋根が崩れ、重みに耐えながら、お春と老女を守る姿勢を崩さなかった。痛みと血に霞む視界の中で、辰一はふと過去を思い出す。卯之助――親父が見た景色も、きっとこのように赤く歪んでいたのだろう。

炎の中の約束
「負けるな。亭主を一人にするな」
辰一はかすれる声でお春を励ました。お春は涙を流しながらも、老女を引きずり少しずつ前へ進む。その姿に、辰一は幼き日の自分を見た。崩れ落ちる屋根を背に受け、膝を折らずに耐える。その体勢は絶妙な均衡を保っていた。

龍と鳳凰、火の邂逅
「行け!!」
最後の力を振り絞って叫び、お春を見送る。両目は霞み、炎の中の彼女の姿が赤い雪洞のように滲む。焔の揺らめきはまるで炎の鬼たちが談笑しているかのようであった。
「残念だな。喰われるのはてめえらのほうだ」
辰一は笑った。轟音と共に水煙が上がり、火の海に飛び込む水柱が立ち昇る。鳳凰のごとく炎を裂いて突進する影――仲間たちの突入である。地を睨みながら、辰一の背の龍は微かに笑みを浮かべた。

救出と再編成
源吾は、崩落寸前の屋根を支える辰一を救い出し、お春と婆を配下に託して退避させる。寅次郎が身を差し入れて屋根を落とし、武蔵が水線を切り開いて帰路を確保。瀕死の辰一はなお「千羽」を問うが、源吾は「鳥越が向かっている」と告げる。

火消の総力戦へ
「あの場にいた火消全員が動いている」――源吾の一言に、辰一は初めて“群れとしての火消”を実感する。に組の宗助も合流し、遅滞しつつも消し口を一町退けて持ちこたえたと報告。辰一はねぎらい、源吾と肩を並べて火勢と対峙する。

布陣と指揮
源吾は小伝馬上町での決戦を宣言。竜吐水を一線に並べ、水番は五列の人柱で給水、余剰戦力は左右から挟撃。纏師と団扇番は屋根へ、梯子番は下支援。壊し手には南北十九軒の破却を命じ、柊与市(仁正寺藩)と星十郎にそれぞれの翼を預ける。

中央の大店、鉄壁の構え
正面の大店は大黒柱に梁・小屋筋違い・火打梁・頭繋ぎまで噛み合う剛構造。通常の「抜き」では崩れないと見た源吾は、彦弥に屋根からの解体を指示。力不足を自覚する彦弥に代わり、辰一が飛ぶ。与市の“凪海”の大銭投擲が手に吸い付き、辰一は屋根上で垂木を断ち切る。

総引き倒し
屋内外に張られた綱を数百の火消が握り、源吾の「引け!!」で一斉牽引。屋敷が悲鳴を上げて傾き、土埃が白煙を呑み込む中、辰一は斜めの屋根を駆け降りて跳躍、転がり着地。源吾が手を差し出し、辰一は「てめえは不死身だよ」と応じる。

勝鬨と鎮圧の最終局面
最後の壁が倒れ、竜吐水と手桶の水が休みなく浴びせられる。誰も野次馬はいない――そこにいるのは火消だけ。子どものまま大きくなった悪童のように肩を叩き合いながら、彼らは地獄をわずか一歩手前で食い止めた焔に“様見ろ”と啖呵を切り、源吾は笑って水番の列へ駆け戻った。

無死の鎮火と朝陽
寅の下刻に鎮圧完了。辰一が救ったお春と婆は命に別状なし、唐松屋も無事。新庄藩火消もに組も抱き合い、夜明けの陽を仰ぐ。

煤にまみれた誇り
羽織も半纏も真っ黒だが、源吾は「ぼろ鳶組だからよ」と笑う。に組と肩を並べての帰路は、子どもじみた張り合いと軽口が絶えない。

往来の喝采
大工や町の女房衆が声を掛け、彦弥が返して笑いの渦。に組にも野次と温かな声援が飛ぶ。辰一は無言のまま、口の端だけを上げて歩く。

裏返しの凱旋
死人なしの“祝儀帰り”。源吾の合図で新庄藩火消が、辰一の号令でに組が、それぞれ羽織・半纏を裏返す。鳳凰も九紋龍も翻り、江戸は祭りの余韻に包まれた。

第六章 勘定小町参る

縁側での安息と新之助の奮戦

源吾は火事後の疲労を癒すため縁側で休息していた。深雪が洗濯と掃除に勤しむ中、新之助の勇敢な行動を思い返す。新之助は唐松屋を守るため自ら残り、襲撃した千羽一家七名を全員捕縛したが、一人も殺さなかった。その活躍に島田も言葉を失い、源吾は息子の成長を喜びつつも、無茶をする性分に苦笑していた。

辰一の妻と仲間たちの噂話

火消仲間の会話から、辰一に若い妻がいることが明らかになり、源吾は驚愕した。辰一は恥じらいながら語り、宗助たちは笑いを堪えていた。また源吾が深雪に尻に敷かれているという噂も囁かれ、仲間たちは面白がった。源吾は否定しつつも、深雪の健気な姿を見て、彼女への愛情を新たに感じていた。

辰一の処分と卯之助の決意

辰一は島田に暴行した罪で押込百日の処分を受けたが、減刑となった。これは火災後に囚獄へ戻った誠意と、新庄藩および新之助の弁護によるものである。新之助は奉行所で島田を痛烈に批判しつつも、辰一の功績を正当に訴えた。その後、卯之助が出頭し、千羽一家を生み出した罪を自ら認め、探索への協力と共に死をもって償う覚悟を示した。だが頭領・闇猫の儀十は見つからず、一家はなお健在であった。

残された憎しみと新たな光

千羽一家壊滅の願いが叶わず、辰一には未練が残るものの、仲間と妻の存在が支えとなっていた。源吾は、彼の心にもようやく安らぎが芽生え始めたと感じていた。雪解けのように恨みが少しずつ薄れていくことを信じたのである。

御家老の覚醒と新たな任務

左門が訪れ、六右衛門が目を覚ましたと報告する。だが特産品の公開買い付けの期日は迫り、家老の回復を待つ余裕はなかった。江戸や博多から豪商が集う大事な商談を延期すれば、二度と機会を得られぬ状況である。六右衛門の文には代役の指名が記されており、それが誰かと問う源吾に、左門は静かに手を差し出した。その指先が示すのは源吾自身であり、深雪もまた自分を指して応えたのである。

名代指名への動揺と覚悟

源吾は六右衛門の文で、商人披露目の場における名代が深雪であると知り、狼狽していた。左門は御家老の深慮として深雪起用に同意し、新之助は成り行きを面白がった。深雪は藩命に従うと明言し、品目の実物確認、各地の取引値、米相場の調査を指示して準備に入った。源吾が家事を担おうとするも、深雪は妻と母の本分を崩さず、夜まで資料を読み込み、翌日に備えて休息を取った。

披露目開幕と商人側の出方

当日、左門の進行で青苧、紅花、漆蠟、籠などの見本が並び、商人たちは寡黙に品を吟味した。若い上方訛りの男が軽口で称賛しつつも、目は笑っておらず底意を隠していた。六右衛門不在は既知で、与し易しと見る空気が漂う中、深雪が名代として登場すると、一座は嘲りを交えつつ女子に務まるのかと牽制した。

入れ札方式と底値秘匿による談合封じ

深雪は競りを用いず、竹簡による入れ札で最高値落札とする方式を告げた。さらに商品ごとの底値を秘匿し、底値未満は無効、底値以上の最高値に卸すと明言した。これにより初値共有と事前談合の効力を断ち、買い叩き防止と真の需要選別を同時に図ったのである。

相場計算の公開と場の制圧

商人が牽制的に紅花の相場を口にすると、深雪は金一匁=銀十四匁四十二文=銭九百七十五文と換算を示し、しかも当家の最上紅は相場金一匁に銀四匁上乗せで取引されると断じた。細分発注の問いにも即座に応じ、二百十四匁五分七厘に対する金銀銭の具体換算を即答してみせ、場の楽観と侮りを一掃した。

身元露見と竹簡採用の公正宣言

上方訛りの男は深雪が月元右膳の息女であると見抜き、巷間の勘定小町であると明言した。竹簡の意図を問われた深雪は、紙札では差し替えや箱内破棄など不正の余地があるため、痕跡が残り改竄が困難な竹簡を採ると説明し、新庄藩が厳正を期す覚悟を示した。

大文字屋の正体と新庄の顔の提示

男は大文字屋・下村彦右衛門と名乗り、場を驚愕させた。続いて御連枝の戸沢正親が進み出て身分を伏せ、籠や紅花の作り手である百姓の来歴と日常を語り、領民の顔を商品の背後に浮かび上がらせた。これにより品は数値のみならず人の営みの結晶として位置付けられた。

倍値宣言と商戦の再定義

正親の語りに頷いた彦右衛門は、すべての品に相場の倍値を書き入れると宣言し、才覚でなお利を出すのが自家の商いであると締めくくった。商人たちは言葉を失い、深雪の制度設計と相場掌握、正親の人心把握、大文字屋の矜持が重なり、披露目は新庄優位の規律と物語性の下で再定義されたのである。

大丸の一括買いと倍値の理由

竹簡を用いるまでもなく、大丸が全品の引き取りを申し出て場は収束した。残った下村彦右衛門は段取りを金兵衛と詰め、青苧・紅花・漆蠟はいずれも染織に不可欠で今後逼迫すると見立て、相場倍でも構わぬと断言した。籠については店内演出と端切れ商いの導線として活用する意図を語り、大丸の革新的な商法と宣伝術に接続させたのである。

緊張の弛緩と互いの所作

深雪は大役を終えて安堵の色を見せ、源吾が寄り添って気遣った。彦右衛門は深雪の勘定と設計を称え、作り手の心を客へ届けるという自家の旗標を重ねて賞賛した。正親は新庄の民の手抜きなき仕事ぶりを胸を張って語り、領民への目配りが評価の土台となっていた。

長谷川からの文と過日の恩義

彦右衛門は懐中の書状を源吾に渡し、長谷川から託された急報であると明かした。さらに昨年の大火で大丸江戸店の奉公人が新庄藩火消の人橋に救われたことを述懐し、相場倍値には過日の礼も含むと説明した。源吾は自分たちの働きが人を救った事実を知らされ、気恥ずかしさを覚えつつも胸を撫で下ろしていた。

勘定小町へのかつての縁談

談笑の折、彦右衛門は若き日、飯田町で噂の勘定小町に一目惚れし、父を通じて縁談を申し込んで玉砕した過去を打ち明けた。深雪はかすかに記憶をたどり、源吾は驚愕した。彦右衛門は未練を誇張することなく、古い恋心に区切りを付けるように爽やかに語り、今回の取引を「良き商い」と結んで一同に丁重に頭を下げた。

取引の結語と長期関係の予感

最終的に大丸は全品を相場倍で引き取り、作り手の顔が見える新庄の品と勘定設計の厳正さに敬意を示した。深雪の制度設計と場の掌握、源吾と正親の支え、そして大丸の応答が嚙み合い、披露目は礼節と実利を両立させた形で幕を閉じ、長く続く関係の端緒が築かれたのである。

帰路と小諸屋への誘い

披露目会の成功を終えた後、源吾は藩邸からの帰り道で深雪を連れて小諸屋へ行こうと誘った。疲労を労うための提案だったが、深雪は気落ちした様子を見せた。正親の助力で成り立ったことを悔やんでいたのである。源吾は冗談を交えながら気をほぐし、深雪に笑顔が戻ると、安堵の表情を浮かべた。

夫婦の軽口と心の絆

源吾は照れ隠しに軽口を重ね、深雪もそれに応じて笑った。互いを茶化し合う穏やかなやり取りの中に、長年連れ添った夫婦の信頼が滲んでいた。深雪は夫を「飯田町の火喰鳥」と呼び、源吾も「飯田町の勘定小町」と返す。周囲の目を気にせず笑い合う二人の姿は、戦火や職務に追われる日々の中で見つけた小さな安息であった。

過去の縁談と現在の幸福

源吾はふと、深雪がかつて大丸の彦右衛門との縁談を断って自分の許へ来たことを思い出し、複雑な感情を抱いた。裕福な商家の妻となっていれば苦労もなかったはずだと自嘲気味に語るが、深雪は「旦那様の匂いがする家が好き」と静かに答えた。その一言に源吾は胸を打たれ、家へ帰る決意を新たにした。

帰宅と穏やかな結び

源吾は「今日だけは自分が夕餉を作る」と言い、深雪も笑みを浮かべてそれを受け入れた。二人は並んで市中を歩き、八百屋の呼び込みや豆腐売りの声、風鈴の音に包まれる。人々の喧騒に混じりながら、夫婦の笑い声が夕暮れの街へと溶けていった。炎と混乱の中を生きてきた二人にとって、その穏やかな帰り道こそが、確かな幸福の証であった。

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こも

いつクビになるかビクビクと怯えている会社員(営業)。 自身が無能だと自覚しおり、最近の不安定な情勢でウツ状態になりました。

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