「横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか」感想・ネタバレ

「横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか」感想・ネタバレ

どんな本?

横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』は、田崎健太 氏著の書籍で、2024年4月9日にカンゼンから出版された。

この書籍は、Jリーグの歴史上最大の「事件」とも言われる、横浜フリューゲルスの消滅について詳細に語られている。
関係者の初証言を元に、日本サッカー界の「汚点」である「全日空SCボイコット事件」の真相や、日本で最初に本物のクラブチームとなる可能性があった「フリューゲルス」を潰したのは誰だったのかについて迫っている。

本書は以下の章立てで構成されている。

  • プロローグ
  • 第1章 最初の「汚点」――全日空SCボイコット事件 1964-1986
  • 第2章 日本リーグの・アウトサイダー・から「オリジナル10」へ 1987-1992
  • 第3章 ブラジル人トリオ獲得の「裏側」 1993-1994
  • 第4章 「家族的」なクラブの限界 1995-1997
  • 第5章 緩みの象徴「タクシーチケット」 1997-1998
  • 第6章 「ボイコットだけは阻止しなければならない」 1998
  • 第7章 怒りと悲しみを心の底に埋めた男たち 1999
  • あとがき

この書籍は、サッカーファンだけでなく、スポーツ経営や地域社会とスポーツの関わりに興味がある人にもおすすめ。
4年間お待ちしておりました!

お待ち居ておりました。

横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか
著者:田崎健太 氏

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あらすじ・内容

「いつまで選手たちに黙っている気ですか?」
「このままでは危ない。チームが潰れるぞ」


関係者が初証言、Jリーグ31年目にして明かされる”真実”


日本サッカー界の「汚点」――
クラブ消滅の伏線だった「全日空SCボイコット事件」の真相。
日本で最初に本物のクラブチームとなる可能性があった「フリューゲルス」を潰したのは誰だったのか。

横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか

感想

かつて存在したサッカークラブ「横浜フリューゲルス」の歴史と消滅までの経緯を詳細に描いた長編ノンフィクション。

本書は、クラブがどのようにして生まれ、成長し、そしてなぜ解散に至ったのかを赤裸々に語ってあった。
全日空がクラブの主要なスポンサーでありながら、最終的には経済的な理由と内部の対立により、他のチームとの合併が決定される。

はじめは、クラブの前身である「全日空横浜サッカークラブ」がどのようにして始まり、地域社会とのつながりを深めていったかから始まる。初期の苦労や成功、地元のサポーターとの関係構築などが丁寧に綴られていた。
柏レイソルにいた李忠成の父親もこの辺りで出て来たのが印象的だった。

地元で愛されるクラブへと成長する過程でのエピソードは、多くのサッカーファンは共感できるかもしれない。

しかし、クラブが日本リーグ一部への昇格を果たすと、全日空との間での利害の対立が正面化。

全日空側はクラブの更なる商業化を進めようとし、それが地元密着型のクラブ運営とは異なる方向性を示し始める。
このころから、クラブ内部では意見の不一致が生じ、選手やスタッフ間での緊張が高まる。
特に、全日空から出向してきた者達の緩みには目があまった。

終盤に向かって、全日空は経営難を理由にクラブからの撤退を決定。
これにより、フリューゲルスは存続が困難になり、最終的に横浜マリノスとの合併が決定。

合併の過程で、サポーターや地元コミュニティからは大きな反対があり、クラブの歴史に幕を下ろすことに対して悲しみや怒りの声が上がるが、、
今さら感も。。

合併が正式に発表された後も、フリューゲルスの選手たちはプロフェッショナルとしての誇りを持ち続け、最後の試合で見せた力強いパフォーマンスは多くの人々に記憶されることになる。

漫画、俺たちのフィールドを思い出した。
(漫画はJリーグ参入となったので結果が全く違う。)

しかし、その活躍も虚しく、チームは消滅し、選手たちは新たな道を探さざるを得なくなる。

読後感として、この本はフリューゲルスのファンだけでなく、サッカーを愛するすべての人々に、チームと地域社会との深い絆の大切さと、経済的な理由だけで動く企業の冷たさを教えてくれる。

また、自身の中で消化しきれない部分も多く、クラブに関わった人々のリアルな声が心に残る作品であった。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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Nonfiction

備忘録

第1章
最初の「汚点」――全日空SCボイコット事件
1964-1986

サッカーの原型はイギリスの村人たちによる球技であり、そのルールは1863年にロンドンのパブで定められた。
イギリスの産業革命が進む中、世界への進出と共にサッカーも世界中に広がり、リバプールや横浜などの港町に根付いた。

特に横浜では、1859年に外国人居留地が設置された後、イギリス軍とフランス軍が駐屯し、彼らがクリケットやサッカーを始めた。
その影響で、1868年に横浜クリケットクラブが設立され、後にサッカーも競技として加えられた。

このクラブは、1904年に日本人による最初のサッカーの試合が行われた場とされている。
また、1932年には横浜ア式蹴球協会が設立され、その後横浜蹴球協会に改名し、1964年の東京オリンピックでは準々決勝を含む試合が三ツ沢球技場で行われた。

さらに1960年代後半には、西海輝が静岡市生まれの納谷宣雄と共にサッカーショップ「ゴール」を運営し、日本でサッカーカルチャーを育てる基盤を築いた。

正力松太郎は、富山県出身で東京帝国大学を卒業後、警視庁に入り、米騒動の鎮圧や共産党の検挙などで名を挙げた。

1923年の摂政宮狙撃事件の責任を取り警視庁を退職した後、読売新聞を買収し、社長となった。

第二次世界大戦後は、公職追放から復帰し、日本初の民間テレビ局である日本テレビを開局し、さらに国会議員となり、初代原子力委員長を務めた。

サッカーへの関心は少なかったが、多くの外国大使との交流を通じてサッカーの可能性を感じ取り、後楽園競輪場をサッカーの試合に使うよう後楽園スタジアムに働きかけた。

これにより、1962年には日本代表と西ドイツ代表の親善試合などが実現した。
読売クラブの設立にも関与し、クラブの発展に貢献したが、試合を観戦することなく1969年に亡くなった。

全日本空輸がヨコハマサッカークラブに接触したのは、1977年頃で、ロッキード事件の影響で企業イメージの改善と社内士気向上を図る目的があった。

ヨコハマサッカークラブは地域に根ざしたクラブであったが、運営費用の増加と会費頼みの限界から企業との連携が必要とされていた。

1979年にクラブは「全日空横浜トライスターサッカークラブ」に改称され、全日空の支援が始まったが、具体的な支援は限定的であった。

当初は広報予算として少額の資金提供があり、事務所の移転費用や一部運営費が支払われた。

また、クラブの運営に必要な車も提供されたが、その管理は全日空の横浜営業所によって行われていた。

正式な企業名がクラブ名に含まれておらず、全日空の「婚外子」のような存在であったことから、完全な支配ではなく、あくまで部分的なサポートが行われていた。

久田英夫がヨコハマサッカークラブ監督に就任し、全日空との具体的な支援の細部を詰めた。

この時期、クラブは地域リーグでの昇格を目指し、財政的な支援が求められていた。

全日空からは新卒社員選手が加入し、いわば全日空サッカー部の「第一期生」となった。

クラブの改称や新卒選手の加入は、全日空との関係を強化し、運営の安定に寄与する一方で、地元密着型のクラブとしての矜持とのバランスを取る必要があった。

長編ノンフィクション作品を執筆中の著者は、ヨコハマサッカークラブ時代について書くため木口を取材対象として選んだ。

多くの人が木口の連絡先を知らず、ある全日空関係者は彼と関わりたくないと忌避していた。

それでも木口の住所を特定し、接触を試みた著者に、木口は結局会うことを承諾した。
著者は取材を進めながら、自身が子供のころ木口に会っていたことを思い出した。

木口は監督の内野正雄と合わず、1980年シーズンを最後に現役を引退した。

その後は古河電工の横浜事業所で働き、比較的平穏な生活を送っていた。
しかし、李からの電話がきっかけで、サッカーの世界に戻ることになった。

李と共に県リーグのチームを強化しようと試み、李の指導の下でチームは神奈川県一部リーグで優勝し、関東リーグに昇格した。

唐井直も木口同様、早稲田大学卒業後に東芝に勤務していたが、サッカーへの情熱を捨てきれずにヨコハマトライスターに参加。
トライスターは関東社会人サッカーリーグで優勝し、全国地域リーグ決勝大会に進出。

大会では金銭的な動機づけを利用し、日本リーグ二部への昇格を果たした。

この取材と著述の過程で、著者は自身が長年ヨコハマサッカークラブやフリューゲルスと深い関わりを持っていたことを再認識。

書籍では、木口や唐井の経験を通じて、横浜のサッカーシーンの成長とその中での人間ドラマを浮かび上がらせた。

日本リーグ二部への昇格後、横浜側と全日空側の間に亀裂が深まったことが唐井の証言により明らかにされた。

全日空が昇格を祝うパーティを開いた際、地元のスポーツクラブとしての基盤整備よりも表面的な盛り上がりを優先する姿勢に、唐井は不満を持った。

また、全日空の社長が社員の不在を問題視し、企業側がクラブ運営に積極的に関与し始めた。

木口はトライスターに加入初期、サッカーを趣味程度に考えており、地元に根ざしたクラブの理念にも冷淡であったが、次第に他の選手たちの熱意に影響されて本格的に取り組むようになった。

彼はトライスターでの活動を通じて、自らもサッカーに情熱を注ぐように変わっていった。

昇格を祝う全日空のパーティでは、企業側と選手側の間に緊張が生じ、特に社員選手の不在が指摘された。

この事件を通じて、クラブ内での権力争いが顕在化し、木口は選手としてだけでなく、チームの結束力を高める役割を担うことになった。

彼のリーダーシップは選手からの信頼を集め、クラブ内の様々な課題に対処する中心人物となった。

しかし、全日空からの支援が不十分であると感じることも多く、特に練習施設の不足が継続的な問題として挙げられた。

木口はこの状況に対してフランクに不満を表明し、クラブの将来に対する懸念を示した。

彼のコメントは、クラブが直面している資金とリソースの限界を浮き彫りにした。

最終的に、日本リーグ二部での競争を前に、クラブは更なる組織的な改革を求められることとなり、木口はその改革の一翼を担うことになった。

彼の経験と選手としての洞察が、クラブの方向性を定める上で重要な役割を果たした。

全日空スポーツ株式会社が設立され、横浜サッカークラブが日本リーグ一部への昇格を果たした際、内部の対立が顕在化していた。

李と木口の間の対立は表面的には小さなものとされていたが、李はチームの実質的な指揮権を持ち、彼に対する権限が強まることを懸念されていた。

栗本への監督交代が選手には知らされず、フロントによるチーム編成が行われたという。
李は自身の影響力が大きいことを自覚しており、彼を慕う選手も多かった。

八四年のシーズンでは、全日空SCがリーグ二位に入り、得点ランキングでカルバリオと李が上位に名を連ねた。

その後、横浜サッカークラブ1部リーグ昇格記念試合が開催されたが、李はその時点で次シーズンの契約を結んでおらず、パンフレットの集合写真にも含まれていなかった。

彼は出産を控えた家庭の事情で練習に参加しておらず、試合意欲も低かったが、試合ではアシストを記録した。

李は一部リーグ昇格後の変化に対し、自分が築いたものが掻き乱される形となったことに失望し、クラブとの距離感を感じるようになっていた。

彼は自分がクラブを一部まで引き上げたことに誇りを持っていたが、その後全日空側が主導権を握るようになったことで、尊敬されていた立場が変わってしまったと感じた。

結局、クラブ内の微妙な力関係や内部の不和が表面化し、チームの統合失調を深めることとなった。

これにより、李や木口など一部の選手たちがクラブから遠ざかることになり、全日空側は社員選手中心のチーム編成へと舵を切った。

これがさらなる内部の緊張を生み、チームの一体感を損ねる結果となった。

八六年三月二二日、全日空SCは日本リーグ一部最終節において三菱重工業と対戦していた。

この試合では、全日空SCの降格が既に決定しており、李はその日、試合を観戦するために妻とともに観客席に座っていた。

試合前、李は他のチームでプレーする可能性を模索していたが、韓国籍であるため困難を抱えていた。

試合のウォーミングアップ後、木口を含む六人の選手が試合放棄を行った。

これは全日空横浜SCのボイコット事件として知られることになる。

李はこの計画に反対しており、木口に対してその日の計画を事前に知らされていたが、勝ち目のない戦いをやめるよう説得していた。

試合直前には、李が試合放棄に反対する姿勢を示しており、木口は試合をボイコットすることを決定。

木口たちは試合直前に会場を去り、近くの中華料理店で集まっていた。

この行動は、試合を成立させない意図で行われたが、結局はルールに従って最低限の人数で試合が進行された。

この事件により、全日空SCは試合に大敗し、木口たちはサッカー人生を終えることになった。
試合後、関係者たちはその日の出来事を振り返り、苦い思い出として記憶に残した。

第2章
日本リーグの・アウトサイダー・から「オリジナル10」へ
1987-1992

関東地方は雪が舞う寒い朝を迎えていた。この日、アルゼンチンからサンパウロを経由し成田空港に帰国した塩澤敏彦は、30時間の長旅に疲れ果てていた。

成田空港で妻に会う約束をしていたが、大雪で交通が麻痺し、妻は来られなかった。

電話で新聞を読むよう妻に言われ、キオスクでスポーツ新聞を購入すると、自身が関与する全日空SCの選手が試合ボイコットを起こした記事を目にし、衝撃を受けた。

塩澤は1947年生まれで、東京板橋区の城北高校でサッカーを始め、明治大学でサッカーを続けたが、卒業に必要な単位が取得できず一時は留年を覚悟した。

しかし、友人の助けでレポート提出だけで卒業することができた。
トヨタ自動車からの内定を得ていたが、9月入社が認められず、名古屋相互銀行に転職した。

名古屋相互銀行サッカー部では日本リーグに参加していたが、成績は低迷し、最下位が続いた。
その後、サッカー部が休部となり、永大産業へ移籍した。

永大産業では住宅建設業を背景にサッカー部を立ち上げたが、会社の経営悪化に伴い廃部となった。
その後、塩澤はスポーツ用品店を経営し、明治大学サッカー部の指導も行った。

1986年、全日空SCの二部降格が決まり、後任の監督として塩澤が声をかけられた。
塩澤はアルゼンチンで外国人選手を視察し、デフェンソーレス・デ・ベルグラーノからミッドフィールダーのホルヘ・アルベーロを獲得した。

帰国後、全日空SCの一部選手がリーグ最終戦をボイコットしたことを知り、大きな問題に直面した。

処分として、関与選手は無期限の登録停止、全日空SCは3カ月の公式戦出場停止とされたが、8月には処分が明けてリーグに復帰した。

ホルヘを中心にチームを再構築し、監督の塩澤は選手たちの生活面もサポートし、コミュニケーションを重視したチーム運営を展開した。

栗本直は監督としての自己の適性を見つめ直し、育成と選手の発掘に特化した道を選んだ。

全日空スポーツが運営を担う東京ガスの深川サッカースクール立ち上げに携わり、東芝や読売クラブの出身者をコーチとして迎え入れた。

関東の大学を巡り、有望な選手の発掘に努めている。
関東および関西の大学サッカー部からは、特にキャプテンを務める選手に注目し、彼らを中心にチームを形成する計画を立てた。

ボイコット事件以降、栗本は全日空SCの既存の個性的な選手群とは異なる、組織的なチーム作りを目指していた。
彼の戦略は、全日空の日本リーグの枠組みに適合するようにチームを組織することであった。
また、専修大学から入れ替え戦の準備のための合宿に招かれ、慶応大学との試合を分析した経験がある。
その結果、専修大学は慶応大学に敗れてしまった。

1987年4月、東海大学のゴールキーパーと早稲田大学のディフェンダーが全日空SCに加わった。
これらは栗本が招聘した選手である。
さらに、反町康治という選手も加わり、彼は栗本が直接声をかけていたわけではなかったが、栗本とは面識があった。

反町はサッカーを始めたのは小学2年生の時で、家庭はスポーツと無縁であったが、偶然の転勤でサッカーの盛んな静岡に移住したことでサッカーを始めるきっかけを得た。

大学では法学部政治学科に進学し、サッカー部に所属。大学卒業後は、プロのサッカー選手としてではなく、商社や航空業界での職を目指していた。

しかし、全日空SCのコーチからの誘いを受けて、羽田空港の業務部で働きながらサッカー部に所属することになった。

日本代表チームはジーコが所属するフラメンゴやマラドーナが在籍するナポリと対戦し、その後、前田は全日空SCの合宿に参加した。

前田は全日空SCの雰囲気を「適当だった」と振り返り、外国人選手ホルヘの技術に驚いた。
ホルヘは技術が非常に高く、悪条件下でもボールを巧みに扱っていた。

前田の初年度である1988-1989シーズン、全日空SCは前期六位、後期は優勝の可能性があったが、最終的に日産自動車に次ぐ二位でシーズンを終えた。
前田は得点王ランキングで二位となった。

この時期、日本リーグは観客数が減少していたが、1984年頃から危機感を持った関係者が動き出し、茶話会と呼ばれる非公式の集まりが始まった。

ここでは日本サッカーの未来について多くの議論が交わされ、後のJリーグ構想へとつながった。
特に茶話会で出されたアイデアは、プロリーグ化を含む多くの計画に影響を与えた。

川淵三郎は茶話会の活動に参加し、プロリーグ化の議論にも関わったが、日本サッカー界の構造上の問題や困難に直面していた。

結局、日本サッカーリーグ内での活動が難しくなり、川淵は1988年に日本サッカーリーグの総務主事を務めることになる。

彼はプロリーグ化に向けた「第一次活性化委員会」に参加し、プロリーグ構想を進めるための基本方針を設定した。
しかし、この構想は多くの反対に遭い、特に読売クラブの影響力のある人物からの反対が大きな障壁となった。

それにもかかわらず、川淵はプロリーグ化の議論を前に進めるために奔走し、多くの困難を乗り越えていく。

全日空SCには1989-1990年シーズンから、東海大学の岩井厚裕が加入している。

岩井は帝京高校の一学年下の後輩であり、高校時代は有名ではなかったが、ある試合でディフェンダーとして緊急出場し、以降試合に起用されるようになった。

高校卒業後、上下関係が緩やかな東海大学に進学し、最終学年でチームの主将を務めた。
大学卒業後、前田と同じ全日空SCに入団し、日本リーグ一部で活躍した。

一方、前田は1989-1990年シーズンで振るわず、怪我や日本代表との役割の違いに悩まされた。

全日空SCでも南米的な自由なサッカースタイルとは異なり、代表ではより戦術的なサッカーが求められたため、自身のプレースタイルを発揮できずに苦しんだ。

この状況は、代表とクラブでの立場の違いから生じた彼のフラストレーションを反映している。

1990-1991年シーズンからは、加茂周が全日空SCの顧問として加わった。

加茂はかつてヤンマーディーゼルでコーチを務め、日本代表の著名な選手たちとも関わりがあった。

全日空SCは加茂の加入を契機に、より強化されたチーム作りを目指し、彼の下でプロフェッショナルな運営を進めていくことになる。

川淵はプロ化検討委員会と並行して、地方自治体の首長との面会を重ねていた。

最初に横浜市長の高秀と会い、三ツ沢球技場の観客席拡張を要請したが、市民の支持が得られないという理由で拒否された。

しかし、地域密着型スポーツクラブとしての計画を説明すると、高秀はこれを支持した。

一方、神戸市からもプロチームの誘致の申し出があり、全日空SCは神戸への移転を検討したが、高秀からの要請により横浜市に留まることを決定した。

その後、1993年春に開始されるプロリーグ「オリジナル 10」の一員として全日空スポーツが選ばれた。
この中には製造業の企業チームが主で、全日空スポーツのような異色の参加もあった。

プロリーグ検討委員会では、九州にもチームを設けることが求められ、川淵は全日空スポーツに九州地区へのフランチャイズ設置を提案し、これが承諾された。

九州地区では、特に強い高校サッカーチームが多いにも関わらずプロチームが存在しなかったため、この動きは地域のサッカーファンにとって重要な意味を持った。

1991年には、加茂周が全日空SCの練習を頻繁に訪れ、チーム改革に取り組んだ。

彼の方針は、組織的な守備から素早い攻撃への切り替えを重視するもので、選手たちは新しい戦術に適応するために厳しい練習に励んだ。

加茂の指導の下、チームは長期的に強いチームを作る基盤を築いた。

加茂の指導理念は、長期的な視点でチームを強化し、地道な努力で名門チームを作ることに重点を置いていた。
このアプローチは、製造業で見られる長期的な投資と戦略的な計画に類似しており、スポーツクラブの運営と良く合致していた。

第3章
ブラジル人トリオ獲得の「裏側」
1993-1994

前田治は1993年5月15日夜、新横浜プリンスホテルにて横浜フリューゲルスの選手として清水エスパルスとの試合を前にしていた。

この日は、ヴェルディ川崎対横浜マリノスの試合が国立競技場で行われ、その様子をテレビで観戦していた。

国立競技場は約59000人の観客で満員で、Jリーグの開幕の瞬間、感動で前田の頬に涙が流れた。これまでの怪我を乗り越え、開幕戦に参加できることに感謝していた。
しかし、開幕戦前夜は興奮して眠れず、何度も目を覚ました。

翌日、三ツ沢公園球技場では14126人の観客が試合を観戦し、その大部分はエスパルスのサポーターだった。

フリューゲルスは前田の活躍もあり、試合を3対2で勝利し、新たなリーグでの彼の貢献を感じさせる試合となった。

試合中、岩井厚裕はピッチ上での指示が観客の声にかき消されるほどの雰囲気を経験し、チームは身振り手振りでコミュニケーションを取ることでそれを乗り切った。

この初戦の勝利は、加茂周とベルデニックが目指していた戦術が成功し、前田はその期待に応える形で得点を挙げた。

エルシオ・ミネリ・デ・アビラフィジカルコーチは、選手たちが加茂の戦術を理解しているものの、体力が追いつかないことを指摘し、トレーニングを強化した。一方で、ブラジル代表経験のあるエドゥー・マランゴンは、特にフリーキックに関する独特のスキルを持っており、彼の技術は他の選手に大きな影響を与えた。

Jリーグの開幕以来、社会現象となり、前田や他の選手たちは新しいプロフェッショナルサッカーリーグでの競争と展開に直面していた。
この新しいステージは、日本サッカーの発展における重要なマイルストーンとなった。

岩井は1992年4月に全日本空輸を退社し、プロ契約を結んだ。会社での役割が縮小され、サッカーに専念するための動機が増した。

帝京高校の恩師の励ましにより、プロサッカー選手としてのキャリアに踏み出す決心が固まった。

Jリーグの開幕とともに社会的な注目が高まり、岩井は多くの人々からチケットの依頼を受けるようになった。
観客席が以前に比べて目に見えて賑わいを見せたのは、新リーグの人気を象徴していた。

一方で、反町は全日本空輸の社員としての立場を保ちつつプレイを続けていたが、Jリーグでのプロ選手としての活動にも魅力を感じていた。
反町はプロとしての活動を本格化させることを決意し、フリューゲルスでのプレイを続けることにした。

彼は結局、テレビカメラに追われる日々を経験し、さまざまな注目を集めるようになった。
その影響で住んでいたマンション前にファンが集まり、結局引っ越すことになった。

反町のフリューゲルスでの最後の得点は天皇杯決勝で記録された。
出場機会が減少し、チームの中盤が固定される中、反町はボランチで起用されることもあった。

プロ契約がないことで負い目を感じ始め、自分の居場所がないと感じるようになっていた。

そのため、フリューゲルスを辞めることを決意し、加茂に相談したが、試合に出られる保証はなく、移籍を勧められたため、全日空スポーツから退社し、ベルマーレ平塚とプロ契約を結んだ。

加茂は来季のチーム構想にすでに取り組んでおり、新たな選手が加わる予定だったため、反町の居場所がなくなることは避けられなかった。

これにより、フリューゲルスの全選手がプロ契約を結んでいた。
反町のフリューゲルスでの役割は終わり、新たなチームでの挑戦が始まった。

九四年二月一日、全日空スポーツは千代田区霞が関ビルディングから新横浜に移転し、地域密着を図った。
九四年シーズンはオーストラリアキャンプで始まり、二月二七日にはコリンチャンスとの対戦で二点差で敗れた。
リーグ開幕後、清水エスパルスに敗れたが、第二節でジェフユナイテッド市原に勝利。

その後、一連の試合で一度に八連勝を記録し、得点ランキングでもアマリージャが首位に立っていた。

しかし、アマリージャの帰国と退団によりチームは失速し、ファーストステージを五位で終えた。セカンドステージでは主力選手の怪我が重なり、一三勝九敗の記録を残した。

アジア競技大会では、ファルカンが日本代表の監督として試合に臨んだが、準々決勝で韓国代表に敗れ、契約延長が見送られた。

その後、全日空スポーツは来季のチーム編成に向け、エドゥー・マランゴンの後任として新外国人選手を探していた。

この探索は坂本が担当し、彼がブラジルでのサッカー情報を提供していた。
坂本は、来季は大規模な投資をしてチームを再建する方針だった。

九四年二月一日、全日空スポーツは千代田区霞が関ビルディングから新横浜に移転し、地域密着を図った。

九四年シーズンはオーストラリアキャンプで始まり、二月二七日にはコリンチャンスとの対戦で二点差で敗れた。

リーグ開幕後、清水エスパルスに敗れたが、第二節でジェフユナイテッド市原に勝利。

その後、一連の試合で一度に八連勝を記録し、得点ランキングでもアマリージャが首位に立っていた。

しかし、アマリージャの帰国と退団によりチームは失速し、ファーストステージを五位で終えた。セカンドステージでは主力選手の怪我が重なり、一三勝九敗の記録を残した。

アジア競技大会では、ファルカンが日本代表の監督として試合に臨んだが、準々決勝で韓国代表に敗れ、契約延長が見送られた。

その後、全日空スポーツは来季のチーム編成に向け、エドゥー・マランゴンの後任として新外国人選手を探していた。
この探索は坂本が担当し、彼がブラジルでのサッカー情報を提供していた。

坂本は、来季は大規模な投資をしてチームを再建する方針だった。

サンパイオが日本のクラブへの移籍を最初に相談したのは妻であった。彼女は驚き、日本について何も知らないと述べた。

サンパイオ自身も当初、日本に興味がなく、ブラジルで活躍してヨーロッパへ進出するのが一般的だったからである。

特に九四年のワールドカップメンバーに選ばれなかったことが、彼にとって大きな落胆であった。

しかし、環境を変えたいという思いがあったため、エドゥー・マランゴンに意見を求め、ポジティブな返答を受けた。

結局、経済的な理由からフリューゲルスへの移籍を決めた。坂本はサンパイオが他のブラジル人選手と共に移籍を受け入れたことを記憶している。

同時に、全日空スポーツ内では監督選びも大きな議題であり、加茂の後任としてルッシェンブルゴが候補に挙がったが、木村が推薦された。

木村は関西リーグと日本リーグ二部での経験はあったものの、プロ契約の選手を直接指導した経験はなかった。

それにもかかわらず、加茂が彼を推した背景には、恩義か将来的にフリューゲルスに戻る予定があったためかもしれない。

第4章
「家族的」なクラブの限界
1995-1997

フリューゲルスは木村文治の代行監督の下、天皇杯一回戦で二部リーグ相当のJFLのPJMフューチャーズと対戦し、相手に退場者が出る中で辛勝した。
しかし、二回戦で浦和レッズに敗れ、九四年シーズンが終了した。

翌九五年一月、木村が正式に監督に就任し、日本サッカーが世界との関わりを強く意識する年となった。
フリューゲルスは前年の天皇杯優勝クラブとしてアジアカップウィナーズカップに出場し、優勝を果たした。

ブラジルからはジーニョ、サンパイオ、エバイールが来日し、チームに加わった。しかし、シーズンが進むにつれ、三人は期待を裏切り、チームは低迷した。

このため、新しいブラジル人選手、ロドリゴ・バタタが加入し、一時的な改善が見られたが、最終的には監督のシウバがジーニョとサンパイオに自由を与える方針を取り、チームは苦しんだ。

シーズン中盤で木村の休養が発表され、シウバが暫定監督に就任した。チームの強化担当者は日本代表監督の加茂の動向を注視していた。

加茂はアンブロカップの記者会見で初めて自身の去就について言及した。任期は11月までだが、8月には契約の継続か解除かの結論を出す意向を示した。

日本代表監督の評価はサッカー協会内の強化委員会が担当し、最終決定は理事会が行う。日本の最大の目標は1998年のフランスワールドカップ出場権の獲得だった。

隣国の韓国と開催地を争っており、韓国は1994年のワールドカップ出場権を手にしていた。

アジアサッカー連盟から選出される国際サッカー連盟(FIFA)副会長選挙で、韓国の鄭夢準が勝利し、政治力を背景にFIFA理事会での影響力を持つこととなった。

日本代表は翌年からのワールドカップ予選で結果を残す必要があった。

加茂の評価は最終段階にあり、日本は10月にサウジアラビア代表との試合で2勝を挙げた。

幹部会は3時間に及び、最終的に加茂の留任が決定された。

加茂は任期がフランス本大会終了までであると受け止めており、フリューゲルス監督としての復帰交渉も進められていたが、この話は流れた。

坂本はブラジルに戻り、スコラリと契約の詳細を詰めるためポルトアレグレに飛んだが、スコラリの家族が日本行きに反対したため契約が成立しなかった。

その後、パラナ・クルービのオスカル・ヤマトに相談し、オタシリオ・ゴンサルベスを候補として推薦された。
オタシリオはパルメイラスで監督経験があり、ブラジル代表のコーチも務めていた。

坂本はオタシリオに連絡し、日本での監督職を打診した。
オタシリオはポルトセグーロに滞在しており、坂本はそこへ会いに行くことにした。

交渉の結果、オタシリオはフリューゲルスの監督として日本へ来ることが決まり、後に来日して新体制の記者会見が行われた。

Jリーグでプレイすることになった前田浩二は、フリューゲルスの選手たちを最初は距離感を感じるグループとして捉えたが、徐々にチームに溶け込んでいった。

特に、森山佳郎とは地元が同じ九州であることから、すぐに親しくなった。

チームに入ると、ジーニョなどのブラジル人選手と日本人選手間のコミュニケーションの橋渡しを試みた。
シドニーキャンプでは、最初はCチームからスタートし、徐々にAチームまで昇格した。

前田はオタシリオ監督の下で守備の要として期待され、リーダーシップを発揮した。

オリンピック予選では日本代表が活躍し、アトランタオリンピック出場を果たした。
Jリーグでは、フリューゲルスが開幕から連勝を続け、特に防御面での強さが光った。

しかし、途中で怪我に見舞われ、一時期戦列を離れた。
その後、チームは一時的に苦戦しながらも、終盤にかけて再び勝ち点を重ねた。

シーズン終盤、鹿島アントラーズとの直接対決に敗れ、フリューゲルスはリーグ3位に終わった。
このシーズンは選手層の薄さや勝負弱さが露呈する結果となった。

一一月は選手契約の更改期間である。

この時期、選手は次シーズンのプランを確認し、新たなクラブへの移籍や引退などの選択を迫られる。

アトランタオリンピックの日本代表として活躍した前園も、シーズン中に国外移籍を希望しており、彼の周辺は騒がしくなっていた。

しかし、シーズン後の契約交渉でフリューゲルスは前園の要求を拒否し、結局、前園の契約は年明けに持ち越された。

前園はその後、ヴェルディ川崎との契約を結ぶ。
同時に、他の選手もそれぞれの道を選んだ。

また、Jリーグは観客動員数が減少し、多くのクラブが経営困難に直面していた。

特に、フリューゲルスを含むいくつかのクラブは経営危機を迎え、サポーターや地元企業の支援を求めながら生き残りをかけた。

全日空スポーツも経営の難しさに直面し、広告費や宣伝費の削減に迫られた。

九七年シーズンのナビスコカップは三月に始まり、フリューゲルスは予選Eグループに磐田、京都、福岡と入り、三勝二分一敗で二位となり、決勝トーナメントに進出した。

注目はピッチ外のプロモーションで、特に玩具「たまごっち」を観客に配布したことが大きな話題となった。

この施策は一定の観客動員効果を示したが、フリューゲルスの主催試合の観客数は一万人に満たないことが多かった。

シーズン中、大江は全日本空輸に戻るため引き継ぎを行い、クラブ運営の持続可能性について警告した。

Jリーグが開幕し、たまごっちの配布は継続された。
一部の試合では観客動員数が一万人を超えるなど、一定の成果を見た。

ブラジル代表選手サンパイオが国際試合に招集されたこともこの期間の出来事であった。

彼は、ジュビロのドゥンガの推薦により選出され、その後コパ・アメリカのメンバーとしても参加した。

シーズン途中の特別なプロモーションとして、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のポスター配布や、テレフォンカードの抽選が行われ、これが観客動員を大きく促進した。

一部の試合では入場者数が二万人を超え、フリューゲルスはリーグ首位に立つなど、成績も良好だった。

しかし、シーズンの終盤には主力選手のジーニョが移籍すると発表され、チームは一時的に首位から陥落した。
リーグ初優勝に近づきながらも、最終的にはそのチャンスを生かすことができなかった。

第5章
緩みの象徴「タクシーチケット」
1997-1998

マネージャーとしての今泉貴道は、飛行機や宿の手配、地域のサッカー協会との連携、練習場の準備などを行っていた。

特に合宿地には、グラウンドキーパーを呼んで芝の状態を整えることもあった。

広報から転じた彼は、マネージャー業務も試行錯誤しながら行っており、日々勝つための環境を整えることに専念していた。

ホペイロ(用具係)である麻生英雄は、クリーニング代削減のために自分で洗濯を行いたいと要求し、研究心旺盛に業務に取り組んでいた。

彼の後を継いだ山根威信も、ユニフォームやスパイクの管理、特に試合前の準備などを一手に担い、各選手の要望に応じてユニフォームやスパイクを用意していた。

山根は、ユニフォームが汚れやすく漂白や熱湯を使用しての洗浄が必要であったほか、スパイクには選手ごとの好みに応じたクリーム塗布を行っていた。

また、彼の業務は選手たちがスタジアムに入る前に完了しており、試合前には選手からのさらなる要望に対応していた。

このように、フリューゲルスでは今泉や山根などの裏方スタッフが、選手が最高のパフォーマンスを発揮できるようサポートしており、それがチームの強化につながっていた。

佐藤工業は、九七年三月期に売上げ五六四〇億円、営業利益一二九億円、経常利益五三億円と報告しているが、二年前と比較して利益が約半減しており、バブル崩壊後の公共工事減少とリゾート開発の不調が影響していた。

九七年九月には再建計画を発表し、フリューゲルスの撤退も検討されていたが、社長の佐藤嘉剛は撤退しない意思を表明していた。

一二月には役員の変更があり、吉田弘が社長に、反町富信が副社長に就任した。

佐藤工業は、九八年一月に全日空スポーツへの出資比率を四〇パーセントから三〇パーセントに減らし、九九年に撤退すると決定した。

これにより、フリューゲルスを支える責任企業が一つ欠けることとなり、全日空スポーツのみでの運営が困難になった。

全日空スポーツの丸尾紘治郎は、会社自体が倒産の危機にある佐藤工業からの撤退は避けられない事態であると認識していた。

丸尾は、四五年に大阪で生まれ、関西学院大学を卒業後に製造業を経て全日空に入社し、様々な内勤業務を経験した。

九七年六月には関連事業本部業務部長に就任し、関連企業の管理と統括を行っていた。

彼の下で、フリューゲルスは支出の削減と経営の見直しを迫られていた。

ワールドカップ開幕約三ヶ月前の三月五日、全日本空輸の野村吉三郎社長は記者会見で、九八年三月期の最終損益が三二億円の赤字であり、三十年ぶりに株主に配当金を支払わないことを発表した。

成熟企業である全日本空輸が無配を選択したのは経営の悪化が原因である。

野村は二〇〇〇年度の配当復活を目標に掲げ、収益体制の強化策として不採算路線の見直しや航空機購入の見送り、役員報酬の削減を行うとした。

全日本空輸はフリューゲルスへの広告費として赤字補填に年間約一〇億円を費やしていたが、これが問題視されていた。

全日空スポーツへの出向者である山田と中西は、広告費削減の一環として赤字が増えるフリューゲルスに対して経営の立て直しを求めていたが、改善は見られなかった。

このため、全日空スポーツからの撤退が決定され、関連部署の合意を得るための稟議書が書かれた。

その間、フリューゲルスの営業担当として今泉はチケット販売に奔走し、試合当日はチケット売り場で忙しく働いていた。

第6章
「ボイコットだけは阻止しなければならない」
1998

九八年十月上旬、全日空スポーツの手嶋秀人は、社長の山田恒彦と取締役の中西久憲からフリューゲルスがマリノスに吸収合併されるという情報を聞かされた。

これは全日空の決定であり、公式なものではなかったが、内部からの圧力によりフリューゲルスからの撤退が進められていた。

手嶋はこの情報を知ることの重大さにしばらく気づかなかったが、全日空がクラブを継続する意思がないことを感じ取っていた。

これを佐藤工業から出向していた今泉貴道に伝え、彼もこの事実を知っていたが、知らなければ嘘をつかなくて済むと考えていた。

手嶋は出向者として自身の立場が安定しているため、他の選手やスタッフほど動揺はしていなかった。

しかし、チームの未来に対する不安は強く、その夜、マリノスとの合併が報道されるという伝言が手嶋の留守番電話に多数入っていた。

この報道を受けて、フリューゲルスの関係者や選手たちは大きな衝撃を受けた。

選手たちは合併に至る経緯の説明を求めたが、山田と中西からは詳細な説明はなく、選手たちの間で不信感が広がった。

この結果、選手たちの間には諦めと戸惑いが広がり、社会的な影響も大きかった。

一方で、サポーターたちもクラブの存続と合併について激しい感情を抱いていた。

合併が公式に認められた後、サポーターたちはJリーグに現れ、チェアマンの川淵と面会を求めた。

彼らはサポーターとしての権利を訴え、川淵もこれに深く共感し、合併に対する理解を求めたが、選手やファンの中には納得できない声が多かった。

ニュースステーションは、報道と娯楽を融合させた先駆的な番組で、アナウンサー出身で報道経験のない久米宏が司会を務めていた。

彼は権威や権力に阿ることなく、本質を突く能力で番組を人気に導いた。

川淵は番組出演時にフリューゲルスの現状について率直に話す予定であったが、新たなクラブ設立の話もあったため、一部の情報は公開するか迷っていた。

全日空スポーツの山田とマリノスの高坂は合併を進めており、泉信一郎が新クラブの運営を引き継ぐ意向を示していた。

泉はフリューゲルスの名称を使用する条件で、合併後のクラブ名「横浜F・マリノス」にも「F」が含まれることから、全日本空輸は運営資金を提供する予定であった。

しかし、高坂は名称使用に強く反発し、資金提供の理由が無くなることを恐れた。

川淵は生放送でフリューゲルスの名前を使用する新クラブ設立の可能性について言及するか悩んだが、最終的に番組内では言及しなかった。

その後、サポーターが集まり、署名活動を行いながらフリューゲルスの存続を訴えた。試合ではフリューゲルスが大勝し、選手やファンの反発が顕著に表れた。

深夜まで続いた話し合いでは、サポーターと全日空スポーツの役員間で緊張が高まり、合併撤回の可能性も議論されたが、最終的には大きな決断には至らなかった。

翌朝、新聞は合併白紙の可能性を報じたが、その情報は誤報であり、実際には合併は進行中であった。

翌日、フリューゲルスの選手たちは広島県の広島ビッグアーチで試合を行い、2対1で勝利した。

合併の決定により、サポーター同士の結束が強まっており、200人のサポーターがアウェイの試合にも駆けつけた。

選手たちは翌日横浜へ戻り、選手協会の事務局長や顧問弁護士と会議を持った。

前田浩二選手会長は、川淵チェアマンとの対話、全日空からの事情説明、チーム存続の可能性について話し合ったことを明かした。

前田は、以前にキャンプ中に偶然選手会長に選ばれたことを述べ、フリューゲルスでは選手会長が形式的な存在であったと語った。

また、選手たちが合併により突然職を失う可能性に苛立っていたことを明かし、自分が教員としての次の仕事が決まっていることを隠していたと述べた。

一方、選手たちとの最後の会議では、実質的な進展はなく、選手たちは感情的になる一方だったと手嶋は語った。
選手たちは金銭的な保障や将来の不安を主に話し合ったが、本質的な問題解決には至らなかった。

合併報道後、楢﨑正剛をはじめとするフリューゲルスの選手たちは移籍先について様々な噂が流れていたが、多くは事実無根であった。

楢﨑は特に移籍先を考える余裕がなく、フリューゲルスの存続を最優先としていた。

同様に山口素弘も自身がマリノスへ移籍することを否定し、チームの存続に向けた努力を続けていた。

彼らは移籍報道に対し不快感を示しつつ、フリューゲルスの選手としての誇りを持って行動していた。

一方、選手たちはマリノスとの合併が進行する中、自らの将来と若い選手たちのキャリアを心配していた。

特に年俸が高い選手たちは、クラブの負担を減らすために他クラブへの移籍が必要になると考えていた。

リーグ最終戦となる札幌戦では、全日空の飛行機を使わずに自費で北海道に入ることを選手が提案し、試合は4対1で勝利した。

その後、多くの署名が集まり、選手やサポーターはフリューゲルスの存続を強く願っていたが、合併は避けられない現実であった。

この状況の中で、選手たちは全日空に対して公式に謝罪を要求し、交渉を終結するという声明を発表した。

しかし、天皇杯での成功を通じてチームの不当な合併に対する抗議を続けることを決意していた。

全日空スポーツ営業部の今泉は、天皇杯決勝まで現場に同行しなかった。

彼は主にチケットの販売などの裏方作業に従事しており、自分は現場のスタッフではないと考えていた。

決勝が行われる元日の朝、今泉は国立競技場に入った。この日は特に彼の仕事はなく、観戦するつもりだった。

フリューゲルスの選手やスタッフは、決勝当日を都ホテルで迎え、ホペイロの山根は試合の準備を進めていた。

天皇杯での勝利に自信を持っており、フリューゲルスが強敵を相手にしても勝利できると信じていた。

試合当日の朝、選手たちは静かに朝食を取り、監督のエンゲルスは選手たちにリラックスするよう呼びかけた。

決勝は、エモーショナルで重要な試合であり、フリューゲルスは優勝し、大きな喜びと共にチームがなくなることの悲しみを感じた。

勝利後、選手たちはピッチ上で抱き合い、観客も多くの声援を送った。

その夜、フリューゲルスの選手たちは新横浜プリンスホテルで祝勝会を開き、チームとしての最後の夜を過ごした。
選手たちは互いに別れを惜しみながら、新たなスタートに向けて準備を進めていた。

第7章
怒りと悲しみを心の底に埋めた男たち
1999

天皇杯決勝翌日、セザール・サンパイオはブラジルに帰国した。

サンパイオはマネージャーの竹林京介に感謝の意を示すために現金を渡した。その後、クラブハウスでは山根威信が試合で使用されたジャージを洗濯した。

竹林はマリノスへの移籍が決まっていたが、木村文治からの誘いにより京都サンガへの移籍を選んだ。一方、山口素弘は名古屋グランパスへの契約が決まり、移籍した。

楢﨑正剛も名古屋グランパスに加入し、新たな環境でのプレーを開始した。竹林と山口はそれぞれの新しいチームで生活を始め、過去のフリューゲルスとの結びつきを新たな形で続けている。

手嶋秀人は残務処理後、佐藤工業東京支社の営業部に復帰した。
その後、日本サッカー協会専務理事からの連絡を経て、協会の広報部長として働くことになった。

彼は『JFAこころのプロジェクト』を立ち上げ、多くのアスリートが学校を訪れるプログラムを進行させた。

手嶋は横浜フリューゲルスの歴史とその消滅の理由を伝えたいと考え、そのための取材に応じた。

二〇一九年、彼の退職式が行われ、彼は自身がフリューゲルスに所属していたことを語った。

一方、今泉貴道は佐藤工業に復帰し、その後サッカーの仕事には関わらないと決めた。

九九年にはサッカーの仕事を終え、佐藤工業東京支社の土木営業部で働き始めた。

二〇〇二年には会社更生法の適用を申請し、大規模な組織再編に直面した。

今泉はこの困難な時期を乗り越える中で、社員としての責任を果たすことに専念した。

また、フリューゲルスの元メンバーたちは、さまざまな新しい道を歩み始めている。

たとえば、フリューゲルスから派生した『横浜FC』は、多くの元メンバーが関わる新たなクラブとして成立し、J2リーグに昇格するまでに至った。

これらの動きは、フリューゲルスの精神がいかに生き続けているかを示している。

八六年三月二二日、全日空サッカークラブのBチームに所属していた吉野は、西が丘サッカー場で起きたボイコット事件を目撃した。

この事件は、選手が試合を放棄するという形で発生した。

吉野は六五年に横浜で生まれ、サッカーを本格的に始めたのは中学校からで、高校時代にはトップチームにも登録された経験がある。

大学入学後、全日空横浜サッカークラブに改名されたクラブのBチームに加わり、その後の日本リーグ二部昇格による変化に直面した。

全日空がスポンサーとなっても、下部組織への恩恵は少なかったと感じており、多くの先輩たちが全日空の名前が前面に出ることに反発していた。

日本リーグ二部昇格後、FCゴール出身の選手たちが多く戦力外とされ、これがさらに横浜側の怒りを引き起こした。

ボイコット事件は、下部組織にも影響を与え、FCゴールの元メンバーが排除された。
この状況から、吉野はY・S・C・Cという新しいクラブを立ち上げることになった。

このクラブはカルチャーを含む教育的側面を重視し、地域活性化と子どもたちの健全な育成を目指していた。

クラブは社会人リーグからスタートし、順調にランクを上げていき、2011年にはJFLへ昇格し、2014年にはJ3に参加した。

クラブの創設からの歩みは、フリューゲルスの精神を受け継ぎつつ、地元横浜のサッカー文化を育成することを目指していた。

あとがき

ノンフィクション作品の取材と執筆は多くの人との会話を経て進む過程である。

取材者は、もしフリューゲルスの旧横浜側の人々がクラブに戻っていたらどうなっていただろうと考えた。

彼らはクラブとサッカーを深く理解しており、日本代表選手を売却し、若手を中心にチームを再構築していただろう。

李国秀監督は、学業とサッカーの両方で高い水準を要求される桐蔭学園で成功していた経験から、選手に思考力を養う指導をしていただろう。

李の指導は勝利だけでなく、攻撃的なサッカーを重視しており、彼の下で選手たちはブラジルのジョゴ・ボニートに近いスタイルを身につけていたかもしれない。

地域に根差したクラブとして、多くの才能を育成し、Jリーグや欧州へと送り出していただろう。

そして、地元の下部組織からは、将来の日本代表選手も輩出されていた可能性がある。

クラブの消滅は多くの人に影響を与え、クラブを支えた裏方や地域の人々も大きな喪失感を抱いた。

取材者はフリューゲルスがなくなったことについて多くの人に尋ね、その影響を様々な角度から捉えようとした。

Jリーグ発足以来、フリューゲルスが消滅した唯一のクラブとしてその記憶は特別なものであり、今後それに類似した事態が発生しないことを願いつつ、取材を終えた。

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こも

いつクビになるかビクビクと怯えている会社員(営業)。 自身が無能だと自覚しおり、最近の不安定な情勢でウツ状態になりました。

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