物語の概要
本作は、魔導士が存在する世界を舞台とする架空戦記ファンタジーである。国家間の緊張が高まる欧州風の大陸で、合理主義のサラリーマンだった男が幼女ターニャへ転生し、帝国軍の魔導士として戦場に投げ込まれる物語である。社会的システムと戦争の構造を徹底したリアリズムで描きつつ、転生者としての冷徹な思考と軍人としての苛烈な日常が交錯する。第1巻では、ターニャが魔導士として軍に入隊し、前線部隊の中で頭角を現していくまでの経緯が描かれる。
主要キャラクター
- ターニャ・デグレチャフ
元は日本の合理主義サラリーマン。死後、存在Xによって幼女に転生させられた。高い分析力と魔導戦闘能力を持ち、帝国軍航空魔導大隊の中で異常な速度で出世していく。 - 存在X
ターニャを異世界へ転生させた超越的存在。ターニャに「信仰」を強制しようとするが、価値観が一致せず両者は対立関係を続ける。 - レルゲン
帝国軍参謀本部の将校。理詰めで残酷な判断を躊躇なく行うターニャの存在を恐れつつも、その能力を評価している。 - ゼートゥーア
帝国軍の軍務に関わる高官。ターニャの才能を高く評価し、彼女を前線運用の要として利用する。
物語の特徴
本作の特徴は、魔法と軍事学を融合した“異世界ミリタリー”である点にある。戦争の戦略・戦術・兵站・政治構造までを実在の戦史並みに深く描き、そこへ“幼女に転生した合理主義の元サラリーマン”という異常な主人公を投入することで、独特の緊張感とブラックユーモアが生まれている。
また、本作は単なる異世界転生ではなく「宗教・国家・経済・軍事」の複合的テーマが絡み合っており、読者に現実社会への強い示唆を与える構造となっている。
書籍情報
幼女戦記 1 Deus lo vult
著者:カルロ・ゼン 氏
イラスト:篠月しのぶ 氏
出版社:KADOKAWA
発売日:2013年10月31日
ISBN:9784047291737
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あらすじ・内容
戦争の最前線にいるは幼い少女。
感想
合理主義と信仰を戦争小説に叩き込んだ一冊
『幼女戦記 1 Deus lo vult』は、「合理主義者サラリーマンの転生」というライトノベル的な導入を持ちながら、中身は徹底して冷徹な戦争小説であった。
本巻は、北方・西方戦線でのターニャの戦歴にとどまらず、参謀本部・技術局・神域・戦後の取材班といった多層的な視点を織り込み、個人・官僚制・技術・宗教が絡み合う「総力戦の構造」を描き出している点に特徴があった。
合理主義がそのまま化け物の形を取った存在
前世パートでは、主人公は「平等」を建前とする競争社会で、受験戦争と就職活動を合理的に勝ち抜いてきた企業人事課長だった。
彼は「企業は利潤追求団体であり、社会的無能を養う施設ではない」という価値観に疑問を抱かず、リストラ対象者を「無能」と切り捨てる立場に自ら進んで適応していた。
この時点で既に、人間をコストとリソースとして処理する視線が完成していた。
転生後のターニャ・デグレチャフは、この合理主義をそのまま軍隊という環境に持ち込んだ。
安全な後方勤務を目指しつつ、与えられた環境の中で最適解を選び続けた結果が、「銀翼突撃章持ちの幼女エース」「ラインの悪魔」という怪物的評価に直結していた。
本人は「最小リスクで最大の戦功を得て生存と出世を確保する」という一点に忠実であるにもかかわらず、その合理性が「兵を人的資源としか見ない指揮官」「部下を地獄ツアーに叩き込む訓練設計者」として周囲に認識されていく過程が、皮肉に満ちた読みどころであった。
また、軍大学でのターニャは、戦争を新しい視点”世界規模の総力戦”として分析し、「帝国の勝利」を「敗北しないこと」と示した。
ここでも彼女は、愛国心や英雄願望ではなく、純粋な合理性と自己保身の観点から戦略を構想しており、その意味で「最も有能な戦争遂行者」として強い印象を残してしまった。
官僚制と火力主義の地獄絵図
本巻の大部分を占めるのは、北方ノルデン戦区と西方ライン戦線の戦闘描写であるが、単なる戦闘ではなく、「組織と技術が生む地獄」として戦場を描いているのが特徴であった。
帝国軍は「砲兵は戦場の神」「火力主義」といったスローガンのもと、砲兵と航空魔導の連携による面制圧を徹底しており、協商連合・共和国側の視点からは、それが一方的な虐殺として見えて来る。
技術面では、エレニウム九五式試作演算宝珠が象徴的である。宝珠の四核同調は理論上画期的でありながら、実際には暴発・自壊を頻発させる欠陥兵器であり、ターニャはそれを「前任者の屍の上に成り立つ人身御供の職場」と断じる。
技術局と運用部門の対立、「ブレイクスルーへの執着」と「稼働率と整備性」という現場感覚の衝突は、現代の軍需産業や巨大プロジェクトを連想させる。
組織描写でも、参謀本部の作戦会議や軍大学の選考再審議、戦技評議会などを通じて、帝国も共和国も少なくとも上層部の知性そのものは決して低くないことが示されており。
ルーデルドルフやゼートゥーアは戦略的合理性を理解しており、レルゲンもターニャの危険性を理解している。
それでもなお、地政学的制約・政治的思惑・官僚組織の慣性が絡み合った結果、戦争は「誰も本気で勝ち方を知らないまま加速する巨大システム」と化していった。
神学論争を戦争小説に叩き込んだ
本巻のタイトル「Deus lo vult(神はそれを望まれる)」が示す通り、物語の根幹には信仰と神学のテーマが据えられている。
存在Xは、自らを創造主と名乗りながら、人口増加と信仰低下に苛立ち、「赤字」と表現するほど管理コストに疲弊している。
その姿は、全能の神というよりも、採算の合わないプロジェクトを抱えたが利権を持つ巨大企業のようであり、ターニャとの論争は神学というよりビジネスモデル批評に近い。
ターニャは、自身の性欲や欲望すら「設計者の仕様」であると割り切り、信仰を求める神の側に責任を押し返す。
存在Xはそれに逆上し、「信仰なき合理主義者」に対する罰として、極限状況下での転生と「奇跡の強制」を与える。
九五式宝珠の祝福は、技術的ブレイクスルーと宗教的奇跡が強引に接続された装置であり、ターニャが演算宝珠を起動するたびに口から賛美の言葉があふれ出す描写は、信仰が「自由な応答」ではなく「外部から強制されたスクリプト」として機能していることを示してもいる。
興味深いのは、ターニャがこの強制を拒絶するために、教会で意図的に「存在Xへの憎悪」を吐いている点である。表向きは敬虔な信徒でありながら、内面では徹頭徹尾アンチ存在Xとして自己同一性を保とうとする二重構造は、「信仰を強制する神」と「それを歪んだ形で利用する合理主義者」という歪さが浮かぶ。ここに、戦場で敬虔な祈りの言葉を口にしながら空間爆撃を放つ「ラインの悪魔」が爆誕する。
伝説と実像の乖離を意図的に残す構造
本巻はターニャ視点だけでなく、アンソン・スー、ヴィーシャ、レルゲン、ゼートゥーア、ウーガ、さらに戦後の記者アンドリューの視点まで導入することで、一人の人物がいかにして「ラインの悪魔」「十一番目の女神」として神話化されていくかを立体的に描いている。
特にWTN取材班のパートでは、帝国側資料の欠落や矛盾だらけの証言、V600という謎のコードなどが提示され、「歴史としてのターニャ」がいかに断片的な情報から再構成されているかが示される。
読者の自身は、ターニャの内面と第三者の観測結果を両方知っている立場に置かれるため、戦後の伝説がいかにプロパガンダによって形作られているかを理解できる一方で、当事者たちには決して届かない「実像」を把握しているという居心地さを与えられる。
この「情報格差」を意図的に残した構造が、単なる武勲譚ではなく、「語りえない隠された戦争」を扱う長編の導入として機能していると思う。
合理性と狂気の境界線を読者に突き付ける
総じて、本巻は「合理主義」と「信仰」、「官僚制」と「戦場」、「技術の進歩」と「人間の限界」といった要素を高い密度で詰め込みつつ、それを幼い少女の姿をした将校の視点で貫くことで、強烈な違和感と倒錯した中毒性を生み出していると感じた。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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登場キャラクター
ターニャ・デグレチャフ
合理主義的な思考を持つ幼い少女の姿の航空魔導士官である。帝国軍への忠誠を口にしつつも、内心では生存と出世を最優先する打算的な立場を取る。上官や部下との関係では、任務達成を第一とする姿勢から冷徹な指揮官として認識されている。
・所属組織、地位や役職
帝国軍航空魔導師。北方戦区ノルデン戦線所属の少尉。後に第二〇五強襲魔導中隊第三小隊長。さらに軍大学在籍中の中尉となり、参謀本部直轄六〇一魔導大隊編成官に指名される立場である。
・物語内での具体的な行動や成果
ノルデン戦区で単独に近い遅滞戦闘を行い、協商連合魔導大隊の突破を阻止した。ライン戦線では「ラインの悪魔」と呼ばれるほどの戦果を挙げ、短期間で多数の敵機を撃墜した。技術局では九五式試作演算宝珠の唯一の安定運用者として、高高度試験や危険な起動実験を担当した。さらに第二〇五強襲魔導中隊を率いて機動防御戦に参加し、砲兵支援を生かした掃討戦を実行した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
ノルデン戦での功績により銀翼突撃章の授与対象となる評価を受けた。西方戦線での戦果から撃墜数六十超の「ラインの悪魔」として敵国からも災厄とみなされる存在になった。軍大学への最優成績での合格と中尉昇進を果たし、将来の参謀将校候補として上層部から注目されている。九五式運用成功により「奇跡」の担い手として神域側の計画にも組み込まれている。
日本の人事課長の男
日本企業の人事部課長として働いていた合理主義的な会社員である。個人の感情より企業利益を優先する価値観を持ち、部下を効率で評価する立場にあった。存在Xとの対話では、設計者としての神に責任があると主張し、信仰を拒む姿勢を示した。
・所属組織、地位や役職
日本国の企業に勤務する人事部課長である。三十代で両親を上回る収入を得る立場に達していた。
・物語内での具体的な行動や成果
PIP未達成と無断欠勤を理由に部下へ自己都合退職を勧告し、企業は社会的無能を養う場ではないと説明した。駅のホームでリストラ対象者から逆恨みの襲撃を受け、線路に突き落とされる事故に遭った。その後、老翁の姿を取る存在Xの前で目覚め、信仰と倫理を巡る論争を行った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
企業内では部長候補として順調な昇進を見込まれていたが、駅での転落事故により突然の死に直面した。存在Xから信仰心の欠如を理由に、輪廻への強制送還と転生という罰を宣告される対象となった。
存在X
自らを創造主と名乗る超越的な存在である。人類の信仰心の低下と倫理観の欠如に強い不満を抱いている。日本の会社員の男やターニャとの対話では、戒律と信仰の遵守を求める立場を取る。
・所属組織、地位や役職
明確な組織名や階層は示されていない。神々の側に属する存在として描かれている。
・物語内での具体的な行動や成果
日本の人事課長の男の前に老翁の姿で現れ、十戒を示しながら人類の堕落を非難した。信仰心の欠如に対する罰として、男を輪廻へ戻し転生させると宣告した。九五式演算宝珠の危険な実験に介入する計画に関わり、ターニャの宝珠に祝福という形で「奇跡」を付与する方針が示された。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
地上側からは神とも悪魔とも取れる姿勢で認識されている。信仰低下により七十億人の管理に疲弊していると語り、自らの采配で転生や奇跡を決める立場にあることが示されている。
ハンス・フォン・レルゲン
帝国軍参謀本部人事局の叙勲課長である。規律と信賞必罰を重視する官僚的な軍人である一方で、ターニャに対して本能的な恐怖を抱いている。後に作戦局付の高級幕僚として戦局分析にも関わる立場に移る。
・所属組織、地位や役職
帝国軍参謀本部人事局叙勲課長である。後に作戦局付高級幕僚となる。階級は少佐から中佐へ昇進している。
・物語内での具体的な行動や成果
ノルデン戦でのターニャ・デグレチャフ少尉の軍功推薦書を読み、銀翼突撃章授与の妥当性を認めつつも、その人格への嫌悪から決裁に苦悩した。士官学校時代にターニャが候補生を間引く発言をし、抗命者を処刑しかけた経緯を確認し、殺人人形のような資質と判断した。後には「今次大戦の形態と戦局予想」を読み、総力戦という発想に衝撃を受けながらも戦局にそれを重ねて理解を深めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
公正な人事官として勲章授与や軍大学選考の場で重要な役割を担っている。ターニャの軍大学合格再審議では人格面からの反対意見を述べたが、多数派に押し切られた。作戦局付となってからは、総力戦論文の読者として戦争の変質を理解する側に回っている。
ルーデルドルフ准将
帝国軍参謀本部第一部に属する将官である。国防計画プラン三一五を重視し、戦略的柔軟性を失う大規模攻勢に反対する立場を取る。慎重な防衛指向の軍人として描かれている。
・所属組織、地位や役職
帝国軍参謀本部第一部所属の准将である。国防方針プラン三一五の策定に関わる立場である。
・物語内での具体的な行動や成果
協商連合への大規模攻勢と全面動員案に反対し、現地展開済み戦力による追撃で十分と主張した。帝国が列強に囲まれた状況を踏まえ、二正面以上の戦いに備えるためにも集中投入で即応性を失うことの危険を訴えた。後には、デグレチャフを即応魔導大隊長に据える案の検討にも関わり、軍大学での評価を根拠に登用を認めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
参謀本部内で防衛重視派の代表的立場として発言力を持っている。国防計画と実際の戦略運用を結びつける役割を担い、総力戦時代の指導層の一人として位置づけられている。
エーリッヒ・フォン・ゼートゥーア
帝国軍参謀本部戦務参謀次長である。理知的で皮肉を含んだ視点を持つ参謀であり、戦略目標の明確さを重視する立場を取る。ターニャの能力に早くから注目し、重要な任務を与える役割を担う。
・所属組織、地位や役職
帝国軍参謀本部戦務参謀次長である。准将として参謀本部の中枢に位置する。
・物語内での具体的な行動や成果
協商連合への大攻勢案に対し、敵野戦軍撃滅の目的は達成済みであり、これ以上何を得るのかと疑問を呈した。軍大学でターニャと図書室で対話し、世界大戦と総力戦の到来を予測する彼女の意見を聞き、提言メモの内容を検討させた。参謀本部会議では、内線戦略の弱点や即応性の不足を指摘し、即応魔導大隊構想をまとめ上げた。さらにターニャを新編六〇一魔導大隊編成官および大隊長候補として指名した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
戦争の形態変化を最も早く認識した参謀の一人として描かれている。ターニャの登用を強く後押しし、彼女を通じて新しい戦争ドクトリンを試す立場を取っている。
アドルフ・シューゲル
エレニウム工廠の主任技師である。新技術への執着が強く、現場の安全より理論上の性能を優先する傾向がある。ターニャとの関係では、九五式試作演算宝珠の開発責任者として対立する立場にある。
・所属組織、地位や役職
帝国軍兵站総監部技術局所属の技術士官である。エレニウム九五式試作演算宝珠の主任技師である。
・物語内での具体的な行動や成果
宝珠核四機同調という設計により、九五式試作演算宝珠の推進力と出力を大きく向上させた。帝都近郊上空での高高度試験では、一万八千メートル到達を目標に、ターニャへさらなる上昇を要求した。魔力変換固定化実験では安全装置を無効化した九五式を用意し、打ち切り前の最後の実験として危険な起動試験を強行した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
九五式開発により魔導技術を一歩進めた功績を認められているが、同時に多くの事故と予算超過を招いた責任も指摘されている。技術部内の報告では、九五式成功を「神の御業」とする結論に至り、これ以上の開発継続は奇跡への冒涜であるとして中止を受け入れる立場を取った。
ヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ
帝国軍の若い航空魔導師である。温和で真面目な性格でありながら、前線での経験を通じて任務を果たす覚悟を固めている。ターニャにとっては初めての部下であり、後には信頼できる副官となる。
・所属組織、地位や役職
帝国軍幼年学校出身の航空魔導師である。第二〇五強襲魔導中隊第三小隊所属の下士官から、後に少尉へ昇進し、ターニャの副官となる。
・物語内での具体的な行動や成果
ライン戦線への実戦配属で、ターニャのペアとして空を飛び、砲兵支援を受けながら機動打撃任務に参加した。初期には戦場で嘔吐するほど動揺していたが、次第に戦闘中でも動けるようになった。観測手救援任務では、自らの覚悟を示して志願し、ターニャと共に危険な出撃に向かった。後には六〇一編成委員会で副官として書類処理を任され、憲兵動員などの実務でも能力を発揮した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
徴募組出身として劣等感を抱えつつも、ターニャから義務への誠意を評価されている。戦場経験と昇進を通じて、ライン戦線での「ラインの悪魔」の戦いを間近で支える副官として重要な位置を占めるようになった。
アンソン・スー
協商連合軍の航空魔導師中佐である。前線で友軍歩兵の惨状を目撃し、政治家の無能に強い怒りを抱く人物である。部下への責任感が強く、可能な範囲で友軍救援を試みる指揮官として描かれている。
・所属組織、地位や役職
協商連合軍航空魔導師大隊の指揮官である。階級は中佐である。
・物語内での具体的な行動や成果
ノルトラント上空から、帝国軍重砲に蹂躙される自軍歩兵を目撃した。混線した無線状況の中で司令部との連絡を試み、砲兵陣地ではなく観測魔導師の排除を最も現実的な救援策と判断した。観測手追撃の過程で部下が敵の自爆的戦法に巻き込まれる中、被害と戦果のバランスを考えつつ撤退判断を下した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
協商連合側の視点から帝国砲兵の脅威と作戦の失策を示す象徴的な指揮官となっている。政治家への呪詛を口にしつつも、前線で可能な手立てを尽くす現場指揮官として描かれている。
ミシェイル・ホスマン
フランソワ共和国軍の航空魔導中尉である。冷静な状況判断と部隊の存続を重視する指揮官である。帝国軍の未知の強敵「ラインの悪魔」との交戦を通じて、その脅威を痛感する立場に置かれる。
・所属組織、地位や役職
フランソワ共和国第二二八魔導捜索中隊の中尉であり、実質的な指揮官である。
・物語内での具体的な行動や成果
帝国軍の眼と通信線を潰す任務を帯びてライン戦線上空を飛行し、逃走する帝国魔導師を発見して追撃を命じた。高度八千まで上昇してマイク小隊に攻撃を行わせたが、敵の防御膜と空戦機動により小隊が壊滅状態となるのを目撃した。中隊規模の統制射撃を試みるも効果が薄く、短時間で甚大な損害を受けた結果、帰還許可と増援要請を行うしかない状況に追い込まれた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
ライン戦線での敗北を通じて、共和国側が「ラインの悪魔」の実在と脅威を認識するきっかけを作る役割を果たしている。彼の報告と戦闘記録は、後の戦技評議会での脅威評価の材料となった。
アンドリュー(WTN記者)
戦後の統一暦一九六七年に活動する報道記者である。大戦を経験した世代として、断罪ではなく事実確認を目的とした取材を行っている。戦争の真実と「十一番目の女神」およびV600の謎を追う立場にある。
・所属組織、地位や役職
WTNの従軍経験を持つ記者である。編集会議でドキュメンタリー企画を提案する立場にある。
・物語内での具体的な行動や成果
連合王国資料の機密解除文書をもとにダカール沖事件を調査し、陽動作戦の犠牲とみなす仮説を立てたが、資料内容からその仮説が崩れる経験をした。複数戦線で共通する十一文字コードの存在を知り、それを「十一番目の女神」と名付けて追跡した。ライン戦の従軍経験を生かして、その戦場が「悪魔の住むライン」と呼ばれた理由を証言するとともに、帝国側関係者からV600という情報を引き出した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
戦後世代にとって、大戦の異常な出来事を記録し直す役割を担っている。V600と「十一番目の女神」を巡る矛盾と沈黙を前にしながらも、真相解明への執念を持つ語り手として機能している。
ウーガ
軍大学で学ぶ帝国軍の将校である。家庭を持つ身として、戦争と家族の現実の間で揺れる人物である。ターニャとの対話を通じて、自らの進路や軍人としての在り方を見つめ直す立場に置かれる。
・所属組織、地位や役職
帝国軍軍大学に在籍する士官である。既に妻と娘を持つ家庭人でもある。
・物語内での具体的な行動や成果
軍大学での教育を受ける中で、自分が恵まれた環境にあることを自覚し、娘の誕生をきっかけに戦場の現実に向き合うようになった。聖グレゴリウス教会近くのゾルカ食堂でデグレチャフ中尉と再会し、なぜ志願したのかを率直に問いかけた。子供を戦場に送る社会への違和感から、ターニャに軍人を辞めるべきだと述べたが、逆に退役を勧められ、自分が後方で生きることも戦いであるという意見を受け取った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
軍大学内では俊英たちと共に学ぶ一人として描かれている。ターニャとの会話を通じて、前線から離脱するかどうかを真剣に考えるきっかけを得ており、子供世代を戦場に送らないという視点を体現する人物となっている。
展開まとめ
プロローグ
統一暦一九一四年七月十八日 帝都ベアリーン/某所
赤子としての誕生と混濁した自我
意識を持った何かが、暖かく安息に満ちた空間から、刺すような寒さと息苦しさの中に放り出され、赤子として泣き叫びながら誕生したのである。感覚は制御できず、酸素を求める苦痛と混濁した意識のまま、泣く自分をみっともないと感じる歪んだ自意識だけがかすかに残ったのである。
修道院での「ターニャ」としての自覚
やがて灰色の空やぼやけた視界を通じて三年ほどが過ぎ、自我が形を取り戻した存在は、記憶にある山手線のホームとはまるで異なる石造りの建物と修道女たちを認識した。電化製品のない室内とガス灯らしき光源から、二〇一三年の文明社会ではないと理解しつつ、修道女にターニャちゃんと呼ばれスプーンで煮込んだ野菜を口に押し込まれ、自分がターニャという嬰児として扱われている現実に、なぜ自分がこうなったのかと心中で叫んだのである。
西暦一九七一年八月十四日 合衆国
スタンフォード監獄実験が示した人間観
場面は変わり、一九七一年にフィリップ・ジンバルド博士らが海軍省の依頼で行ったスタンフォード監獄実験の説明がなされた。この実験とミルグラム実験は、閉鎖空間で人間が権力に服従し、役割による非個人化によって誰もが収容所の看守にもなり得ることを示し、人間が環境によって本質以上に規定されるという結論に至ったと語られたのである。
「良い子」と競争環境で形成された合理主義者
この人間観を大学で学んだ彼は、違和感よりも納得を覚えた。平等を教えられながらも、身長や運動能力、学力の差という不平等を早くから知り、「良い子」であるべき環境の中で「悪い子」を避けつつ受験戦争を戦い抜いたのである。名門校に進み、本物の天才たちに自惚れを砕かれながらも、脱落への恐怖から勉強と競争を続けた経験が、ルールを守りつつ自由を享受するというシカゴ学派的な合理性への共感につながった。
エリート会社員としての適応と人事課長への昇進
彼は学歴というシグナルを武器に、OB・OGの縁や採用担当者の期待を利用して就職不況を乗り切り、企業の歯車として効率的に働いた。仕事と趣味の余暇を守るためにミスを避け、企業利益に忠実な人材として評価され、三十代で両親に迫る収入を得つつ人事部課長という試金石の地位に到達したのである。働きがいや自分らしさよりも、合理的な報酬と職務遂行を優先する社会の狗としての生き方に、彼は適応していた。
合理主義者がターニャとして直面した理不尽
だからこそ彼は、自分には重要な仕事があり、修道女にターニャちゃんと呼ばれて野菜を食べさせられる理由などないと断じた。抗議しようとした瞬間、頭に鋭い痛みが走り、不愉快な記憶が突如として浮かび上がり始め、合理的に積み上げてきた人生と嬰児ターニャとしての現状との断絶が、彼の意識の中でようやく結びつきかけたのである。
西暦二〇十三年二月二十二日 日本国/東京
リストラ面談と合理主義者の内心
日本の企業で人事課長を務める男は、PIP未達成と無断欠勤を理由に部下へ自己都合退職を勧告していた。企業は利潤追求団体であり社会的無能の扶養組織ではないと考え、泣き喚く社員を無能と見下していた。自分は天才ではないが努力で成績を保ち、部長の後継として順風満帆な人生を歩むはずだと認識していた。
駅での転落と理不尽な死
しかし、整理統合に伴うリストラ対象者の逆恨みを軽視したまま、男は駅で背後から押されホームに転落した。列車が迫る光景を最後に意識は途切れ、その後、老翁のような存在の前で目を覚ました。
存在Xとの対面と三つの可能性
男は老翁を前に、自分が瀕死で医師を認識できていないか、走馬灯を見ているか、胡蝶の夢から覚めていないのかという三通りの可能性を合理的に検討した。存在Xはその思考を読み、人間性の狂った連中だと吐き捨て、男は相手を神ではなく悪魔であると結論づけた。
戒律と信仰を巡る論争
存在Xは創造主を名乗り、十戒を示して人間の堕落を非難した。男は自分は殺人も盗みも偽証もしておらず、性欲も含めた本性は設計者たる神の責任であり、自分は社会規範を守ってきたと反論した。さらに人口増加と信仰低下は設計段階のビジネスモデルの欠陥であり、信仰心は切迫した状況でしか生じないと主張した。
罰としての転生宣告
存在Xは信仰心も倫理観も欠く人間が増え、七十億人の管理で疲弊し赤字だと怒りを募らせた。男がなおも合理主義的に応じた結果、存在Xは解脱を拒み続ける魂へのペナルティとして、男を輪廻に戻し転生させて試すと宣告した。男はその決定を記憶として思い出し、できれば忘れたい過去として抱えていたのである。
第壱章 北辺の空
統一暦一九二三年六月 北方軍管区ノルデン戦区/第三哨戒線
幼女魔導少尉としての北方任務
ターニャ・デグレチャフはノルデン戦区の第三哨戒線上空で、演算宝珠を首から下げた航空魔導少尉として砲撃観測任務に従事していた。協商連合との国境上で高度六千フィートを巡航しつつ、ノルデンコントロールや砲兵大隊ゴリアテ10と交信し、敵歩兵接近と弾着を報告していた。外見は十歳前後の幼女でありながら、軍は魔導適性のみを基準に戦力化しており、ターニャは文字通りのチャイルドソルジャーとして前線に立たされていたのである。
幼児化した身体と魔導技術への適応
前世では恵まれていた体格を持っていたターニャは、女児の小柄な身体に転生したことで銃の反動に耐えられず、格闘訓練でも簡単に投げ飛ばされる無力さを思い知らされていた。その一方で、演算宝珠による世界の数値理解と術式運用には適応し、空を飛びながら魔導で干渉する技能だけは身につけた。肉体的制約を空中戦と魔導技術で補えることが、彼女にとって魔法を便利な道具として受け入れる拠り所となっていた。
国境紛争から全面戦争への転換
ノルデンでは以前から国境警備隊同士の誤射や小競り合いが散発していたが、帝国は準戦時体制に移行せず、ターニャは士官学校出の研修士官として前線で研修を続けさせられていた。やがて政権交代とナショナリズム高揚により協商連合が方針転換し、帝国軍に対して自国固有の領土から二十四時間以内に退去せよとの退去勧告を発する。帝国が半信半疑のまま物資集積と軍団集結を進めるなか、協商連合軍は実際に越境作戦を開始し、帝国も宣戦布告に踏み切ったのである。
圧倒的優位な戦局とターニャの出世計算
国境付近にはもとより軍団規模の国境警備隊が展開しており、さらにターニャらを含む追加軍団が集結していたため、帝国軍は戦力・技術・国力の全てで協商連合を圧倒していた。従軍記者が現地から開戦を実況し、帝国の正当性と強さを喧伝する余裕すらあった。ターニャは、これが一方的な勝ち戦になると判断し、危険で成果も認められにくい北方哨戒が、むしろ安全な空から戦功を稼ぎ後方勤務や中央復帰への足掛かりを得る千載一遇の好機に変わったと計算していた。
砲撃観測の成功と将来への期待
実際に砲兵隊の観測射によって国境を越えた協商連合歩兵は遮蔽物の少ない地形で榴弾の餌食となり、部隊は統制を失って壊走していた。ターニャは面制圧が完了したと判断して報告し、ノルデンコントロールからの指示に従い第二哨戒線へ前進して観測を継続した。電波状況は良好で、空中用無線機の重量だけが無駄に思えるほどであり、彼女は砲撃の効果を淡々と伝えつつ、この戦場で適度に活躍し権力と地位と人脈を獲得していく未来を思い描き、悪くない状況だと密かに満足していたのである。
同日、協商連合ノルトラント上空
協商連合歩兵の虐殺とアンソンの憤り
協商連合軍航空魔導師アンソン・スー中佐は、ノルトラント上空から帝国軍重砲による一方的な砲撃で友軍歩兵が蹂躙される光景を見ていた。遮蔽物のない丘陵地をパレードのように行進していた歩兵と車両は、入念に準備された帝国砲兵陣地の餌食となり、無線には悲鳴と混乱した救援要請が飛び交っていた。アンソンは、ロンディニウム条約で実質的に帝国側国境と承認された暫定非武装地帯を「自国領ハイキング」と喧伝して越境させた自国の政治家を糞ったれと罵り、その愚行のツケを兵士が命で払っている現実に激怒していた。
指揮系統の崩壊と観測手排除という唯一の解
アンソンらが司令部や戦術指揮所に呼びかけても、周波数すら怪しい混線状態で全戦域の指揮系統は事実上崩壊していた。アンソンの大隊は非正規戦で損耗し一時後方に下げられていたため、今回の進駐をいつもの瀬戸際外交と誤解していたが、現場では戦時体制も整えないまま越境したことが致命傷となっていた。辛うじて連絡のついた地上部隊との情報共有により、帝国軍が単独飛行の観測魔導師を複数運用していることが判明し、アンソンは砲兵陣地そのものではなく、砲撃の要である観測手を叩くことが最も現実的な友軍救援だと判断した。
帝国砲兵優位の戦場とターニャの「安全な仕事」
一方、ターニャ・デグレチャフはノルデンコントロールの指示の下、観測機材と無線機を背負って弾着観測を行い、帝国軍団砲兵の曳下射撃や同時着弾射撃の精度を確認していた。帝国は火力主義を掲げる新興軍事大国として最新装備を揃え、砲兵を戦場の神と位置付けていた。ターニャにとってこの任務は、安全な空から勝ち戦を眺め、少ない負担で評価と戦功を稼げる好条件の仕事であり、ノルデン紛争で地味な哨戒ばかりだった経歴を一挙に挽回する千載一遇の機会として受け止められていた。
敵魔導大隊の越境とターニャへの遅滞戦闘命令
砲兵の全力射撃が開始された直後、ターニャの無線にはノイズが走り、管制との交信が乱れた。機器故障を疑った矢先、空域に戦域警報が発令され、協商連合魔導師大隊の越境と多数の術式照射が告げられた。第一警戒線をかいくぐった敵魔導部隊は国境付近に浸透し、ターニャも術式封入弾頭の斉射を辛うじて回避して敵中隊規模が急速接近中と報告した。ノルデンコントロールは彼女に接敵・遅滞戦闘と可能な限りの情報収集を命じ、増援魔導小隊・中隊が到着する数百秒の間、一人で敵を足止めするよう要求した。ターニャは即時離脱を求めたが許可されず、敵前逃亡による軍法会議と銃殺刑を避けるためにも「義務」を果たしたと評価される戦い方を選ぶしかないと悟った。
自爆的戦法が飛び交う空戦と双方の消耗
ターニャは観測用装備を投棄し、干渉式による自己強化で反応速度と瞬発力を極限まで引き上げ、狂気すれすれのテンションで単独の遅滞戦闘に臨んだ。彼女は無線越しに戦意旺盛な独り言を聞かせて上官への自己アピールとしつつ、適度に交戦して撃墜されたふりをして離脱する算段を立てていた。一方アンソンの部隊は敵観測手を追撃する過程で、ラガルド大尉が掩護射撃前提で吶喊して逆に敵の自爆的術式に巻き込まれ、バディのトール中尉も戦闘不能となるなど大きな損害を被っていた。砲列強襲は護衛戦力を想定して断念せざるをえず、アンソンは増援到着までの時間と被害を秤にかけた末、観測手を潰した上で離脱するという最低限の戦果にとどめざるをえない現実に、なお政治家への呪詛を吐き続けていたのである。
統一暦一九二三年 帝都ベルン 帝国軍参謀本部人事局人事課長室
叙勲推薦書を前にしたレルゲンの動揺
帝都ベルンの参謀本部人事局で叙勲課長を務めるレルゲン少佐は、北方から届いた軍功推薦書を読み、手を止めて呻いていた。推薦対象はターニャ・デグレチャフ魔導少尉であり、ノルデン動乱での遅滞戦闘と敵突破阻止、満身創痍での奮戦が現地指揮官らの連名で称えられていた。通常であれば即座に叙勲手続きを進める内容であったが、レルゲンは士官学校時代からターニャを知っていたため、強い嫌悪と違和感を覚えていた。
士官学校で露呈した殺人人形めいた資質
レルゲンはかつて士官学校を訪れた際、幼い少女の外見をしたターニャが演算宝珠を振り回し、候補生を怒号とともに叩きのめす光景を目撃していた。教官からは、ターニャが一号生として二号生に対し無能は間引くと宣言し、実際に野外演習中に抗命した候補生を現行犯として魔導刃で処刑しようとしたと聞かされていた。教官の制止がなければ本当に斬っていたとレルゲンは確信しており、ターニャを言動一致の現実主義者にして、人間としてねじの外れた殺人人形と見なしていた。
銀翼突撃章の異常な重みと評価の義務
推薦内容からすれば、ターニャには帝国でも最も名誉ある勲章の一つである銀翼突撃章が授与される見込みであった。銀翼突撃章は、危機的状況で味方部隊を救った兵にのみ与えられ、多くの受章者が戦死者であることが特徴であった。部隊指揮官の敬意に基づいて推薦されるこの勲章は、他の突撃章や柏葉付突撃章よりも高い評価を受けており、受章者には軍内で大きな権威と影響力が伴うとされていた。レルゲンは信賞必罰の原則から、その功績を無視できないと理解しつつも、ターニャにこれほどの権威を与えることに強い恐怖を抱いていた。
「他に道はない」と答えた幼女への本質的恐怖
レルゲンはターニャの異常性の背景を探るため、孤児院や生い立ちを情報部経由で調査したが、孤児院は平均的で虐待や極端な愛国教育の形跡もなかった。入校時の質疑応答記録には、ターニャが他に道はないと答えていたことが残されており、レルゲンはそれを大量殺人嗜好の合理化ではないかと疑った。ターニャが生来の戦争狂であり、自らの殺戮衝動に最適化された進路として軍を選んだ可能性を否定しきれず、彼女を英雄として讃えつつ前線で戦わせる以外に統制の術がないという結論に追い込まれていた。こうしてレルゲンは、公正な人事官としての義務と、幼女の皮をかぶった化け物への本能的恐怖との間で初めて深刻に引き裂かれていたのである。
同日、帝国軍参謀本部作戦会議室
大規模攻勢案への准将二名の反対
帝国軍参謀本部第一部の作戦会議室では、協商連合への大規模攻勢と全面動員を巡り、重苦しい空気の中で激論が交わされていた。ルーデルドルフ准将は、現地展開済み戦力による追撃で十分であり、戦略的柔軟性を失う集中投入は即応性を損なうと強く反対していた。ゼートゥーア准将も、敵野戦軍の撃滅という目的は既に達成されており、これ以上何を戦争で得るのかと問う形で異議を唱えた。
プラン三一五と帝国の地政学的制約
座長のマルケーゼ侍従武官は両准将の理を無視できず、大攻勢を主張するルートヴィヒ参謀長に見解を求めた。ルーデルドルフは、帝国が列強に囲まれ二正面以上の戦いを常に想定せざるをえない事情を指摘し、鉄道ダイヤに至るまで緻密に組み上げられた国防方針プラン三一五を全面動員で崩すべきではないと訴えた。ゼートゥーアも、防衛計画を危うくする思慮なき大規模侵攻には断固反対であり、軍事行動における明確な戦略目標の欠如を禁忌とみなしていた。
包囲打破の好機としての戦果拡張論
一方でルートヴィヒ参謀長は、周辺列強に動員の兆しが見られない現状を、所与の条件に縛られず大規模攻勢を行える絶好の好機と位置づけていた。協商連合を完膚なきまでに撃滅できれば、帝国を常に苦しめてきた包囲状況の一角を崩し、東部や西方防衛に余裕を生み出せるという未来像が提示され、列席者の一部はそれを長年の地政学的課題を断ち切る千載一遇の機会と受け止めていた。
勝利の果実の活用を巡る視点の相違
ゼートゥーアは、戦果拡張そのものよりも、既に得た勝利の果実をいかに活用するかが問題であると主張し、協商連合を敢えて放置してロンディニウム条約で確定した国境問題をこれ以上こじらせるべきではないと語った。ルーデルドルフは、帝国の目的を国防と位置づけ、既定の防衛計画を狂わせてまで行う攻勢に異議を唱え、帝国は自ら整えてきた舞台と準備の上で戦うべきだと強調した。参謀らは自国防衛戦略の軛を断ち切る誘惑と、唯一の成算ある国防方針を守るべき義務との間で揺れ動きながら、この決断の是非を知らぬまま議論を続けていたのである。
第弐章 エレニウム九五式
クルスコス陸軍航空隊試験工廠上空
魔導工学の発展と新型宝珠の位置づけ
魔導学は宝珠を介した世界干渉を技術として体系化し、航空術式により魔導師を空へと飛翔させる段階に到達していた。宝珠の軍事的有用性は列強共通の認識であり、帝国も先駆者として研究競争に参加し、その成果として新型演算宝珠の試験が行われていたのである。
後方配置の内示とターニャの思惑
北方戦線で負傷し後方へ下げられていたターニャは、昇進に有利な戦功ゆえに再前線配置を恐れていた。彼女に示されたのは、本国戦技教導隊所属と兵站総監部付き技術検証要員という内示であり、事実上の後方勤務かつキャリアにも資する理想的な条件であった。上層部は子供のエースを前線に出す印象を嫌い、彼女を後方の看板兼開発担当に回す意図を示し、ターニャはこれを生存戦略上の好機として受諾した。
九五式試作宝珠の構造と致命的欠点
総監部での任務は、新型演算宝珠の試験であった。エレニウム工廠製九五式試作演算宝珠は核を四つ同調させて推進力を飛躍的に高めた設計であり、小型化にも成功していたが、魔力消費は従来比四〜六倍に及び、同調制御も極めて不安定であった。精密化の結果として遊びがなく、少しの乱れで暴走・出火に至る欠陥品であり、ターニャの手は繰り返す暴発で傷だらけになっていた。
高高度試験と技師シューゲルとの対立
帝都近郊上空一万二千メートルでの高高度試験において、ターニャは低酸素と寒冷下で九五式を運用しながら、魔力消耗と疲労の限界を訴えた。だが主任技師シューゲルは理論上の限界高度一万八千を根拠にさらなる上昇を要求し、実用性と信頼性を重視するターニャと、性能と理論値を盲信する技師との間で激しい応酬が続いた。ターニャは前回高度四千で同調狂いから爆発寸前に至った事例を踏まえ、軍用装備には堅牢さと整備性こそが必要だと主張したが、シューゲルは四機同調という革新性のみを誇示し、現場の危険を顧みなかった。
暴走事故とターニャの決意
口論の最中、再び宝珠核の温度が急上昇し同調が崩壊しかけたため、ターニャは即座に魔力供給遮断と緊急排出を行い、外殻強化により辛うじて爆発を回避した。出力を失った彼女は帝都上空からパラシュート降下を選択し、安全な後方空域ゆえに降着のみへ意識を集中させた。その最中もシューゲルは無線を奪って責任をターニャの集中欠如に転嫁し、欠陥機械を壊すなと怒声を上げたため、ターニャはこの職場を「前任者の屍の上に成り立つ人身御供の現場」と認識するに至った。着地後こそ正式な転属願を提出し、教導隊勤務へ本格的に移ることで九五式の危険な実験から逃れると、彼女は固く心に誓ったのである。
帝国軍兵站総監部技術局
ターニャの転属願と技術局の苦悩
ターニャ・デグレチャフ少尉は、非公式な打診を三度重ねた末に、ついに正式書式に則った転属願と嘆願書を提出した。兵站総監部技術局はこれを受理せざるをえず、管理職たちは対応に頭を抱えた。北方戦線には余裕があり、若い兵士を後方に回す政策上、彼女を別部署に回すこと自体は容易であったが、九五式試作宝珠を辛うじて運用できる唯一の試験要員を手放すのは惜しすぎるという認識が共有されていた。
九五式と魔導技術の成果と代償
会議では、シューゲル主任技師が率いる九五式開発が、宝珠核四機同調という革新的技術によって魔導技術を大きく前進させた点は高く評価された。一方で、試験では重大事故が多発し、ターニャでさえ安定運用できない現状が明らかにされ、開発費も当初予算を大きく超過していた。技術派は魔力固定化・蓄積という夢のブレイクスルーの可能性を理由に継続を主張したが、運用側は継戦能力の低下と稼働率の低さを構造的欠陥とみなし、費用対効果の面から打ち切り・縮小を主張した。
ターニャの分析と選抜理由の再検討
技術局はターニャが提出した試験レポートを精査し、十歳とは思えない練達した分析と「魔力がいくらあっても足りない」という指摘の妥当性を認めた。そのうえで、なぜ多数いる魔導士官の中から彼女だけが成功しているのかを追及し、人事書類を辿ってシューゲル自身が選抜した経緯を確認した。そこには、既存宝珠に慣れておらず、四機同調の違和感を力ずくでねじ伏せない柔軟な素養を持つ者として彼女が選ばれたことが記されており、そのような条件を満たす人材が極めて稀少である事実が浮き彫りとなった。
汎用性の欠如と開発打ち切りへの収束
議論の結果、九五式を次期主力とするには既存魔導師の大規模再訓練と訓練体系の再構築が必要であり、それでも稼働率と信頼性、コストの面から大量配備は現実的でないと結論づけられた。双発版に落とした案も検討されたが、それでも複雑さと稼働率の問題は解決せず、むしろ演算宝珠を二個携行した方が実用的であるとの判断に傾いた。最終的に、同調技術は時期尚早であり、九五式開発は安全機構などのデータを得た段階で縮小あるいは打ち切るべきだとする空気が会議を支配するに至ったのである。
知覚外領域
神々の危機感と信仰低下の分析
神域では、文明発展に伴う信仰心の急激な低下が深刻な問題として議論されていた。過去には災害への介入という恩寵を通じて人間が神を実感していたが、現代では人間社会が自力で災害を乗り越えるようになり、神々は自重した結果として忘れられつつあった。古代から中世、科学の発展へと至る歴史を振り返り、信仰が発展の副産物として失われてきた経緯が整理された。
聖遺物再配備案と「奇跡」計画
智天使は、忘却された信仰を補うため、祈りを教えた上で必要な場所に聖遺物を降ろす案を提示した。既存の聖遺物がただの展示物と化している実態が判明し、必要とされる場に新たな介入を行う方針が採択された。その一環として、神の領域に近づきつつある科学者と接触し、その研究対象に奇跡を与える計画が立てられた。
九五式実験への神の介入決定
神々は、地上でエレニウム九五式の起動実験が行われることを把握し、その場に奇跡をもたらすことを決定した。これにより、ターニャが使用する演算宝珠を祝福し、奇跡を通じて信仰を再興させる狙いが定められる。こうして九五式は、技術検証の対象であると同時に、神々にとって信仰回復の装置としても位置づけられた。
開発打ち切りの内示と危険実験の強行
地上では、ターニャに九五式開発予算の追加中止と将来的な教導隊専念の内示が伝えられ、彼女は欠陥宝珠から解放される希望を見いだしていた。しかし、打ち切り前の最後として、シューゲルが魔力変換固定化実験を強行する。広大な実弾演習場で安全装置を無効化した九五式が準備され、ターニャは危険性を訴えつつも命令により魔力供給を開始せざるをえなかった。
実験暴走とターニャの再召喚
実験中、九五式の魔力係数は急速に不安定化し、魔力暴走と核融解寸前の警報が発せられる。その瞬間、ターニャの意識は再び超常的空間に引きずり込まれ、存在Xと同系列の理知的な存在から、九五式実験に奇跡をもたらすことが主によって認められたと告げられる。相手は、ターニャの演算宝珠を祝福し、神の恩寵を実感させて祈りの言葉を自然に口にさせると説明し、彼女はそれを悪質な洗脳と断じて強く反発した。
呪われた成功と強制的賛美
ターニャの抗議にもかかわらず、存在は一方的に「主の御名を広めよ」と告げて彼女を地上へ送り返した。意識を取り戻したターニャが九五式を起動すると、四核同調は滑らかに成功し、魔力損失も理論値通りという完璧な性能を示した。だが同時に、彼女の口からは主を讃える賛美の言葉が自動的に溢れ出し、自身が奇跡を強制的に信じさせられる呪いを受けたことを自覚する。シューゲルはこれを奇跡として歓喜し、ターニャは呪われた成功の中で、後に共和国の宣戦布告によってこの環境から逃れるまでの経緯を冷静に振り返るに至ったのである。
第參章 ラインの護り
ライン戦線
ターニャの単独出撃と九五式の負担
ライン戦線上空でターニャ・デグレチャフ少尉は、上層部の不手際により単独斥候兼警戒任務として飛行していた。遮蔽物のない空で孤立する危険を理解しつつも命令に従い、呪われた演算宝珠九五式の性能を用いて高度八千まで上昇し、対空砲撃に備え防御膜を展開しながら、接近する敵影を地上管制へ報告していた。
帝国戦略の失策と西方からの奇襲
ターニャは、協商連合への大規模侵攻に戦力を集中し、本国防衛を手薄にした帝国参謀本部の判断を内心で痛烈に批判していた。北方での「予防的一撃」による戦果拡大は周辺諸国を刺激し、フランソワ共和国に帝国西方を強襲させる口実を与えた結果、多正面作戦を避けるどころか西方戦線をサンドバッグ同然の状況へ追い込んでいた。
ブラック職場としての帝国軍への愚痴
教導隊や評価部隊まで前線投入される事態の中で、ターニャは給料以上の危険な仕事を当然視する軍の体質に憤り、労働法や組合の存在を恋しがっていた。高カロリー食や薬物投与で疲労を押し切らされ、さらに精神を信仰心で侵食する九五式に頼らざるをえない状況を、彼女は「神の恩寵」と称されることへの最大級の皮肉として受け止めていた。
共和国捜索中隊の任務とターニャ捕捉
一方、フランソワ共和国第二二八魔導捜索中隊を率いるミシェイル・ホスマン中尉は、奇襲後の戦況下で帝国軍の眼と通信線を潰し、後続の突破を支援する任務を帯びていた。彼は高度八千で逃走する帝国魔導師を「運の悪い哨兵」と見なし、マイク小隊に追撃と排除を命じ、自らも残余戦力で強攻偵察を続行する決断を下していた。
高度八千での交戦とマイク小隊の壊滅
マイク小隊は消耗を承知で高度を上げ、長距離射撃から格闘戦機動へ移行してターニャを包囲しようとした。統制された十字砲火と術式封入弾頭が直撃し爆炎が敵を包んだにもかかわらず、ターニャは進路を乱さず突入し、防御膜で全てを受け切って接近戦に持ち込み、魔導刃で次々と小隊員を仕留めていった。ホスマンは空戦機動と防御の異常な水準に戦慄しつつも、状況が単独の「アンノウン・ネームド」と遭遇したものだと理解した。
中隊規模射撃の無力化とホスマンの撤退要請
ホスマンは残る小隊を反転させ、中距離からの統制射撃でターニャを包もうとしたが、干渉式と爆裂術式を混ぜた弾幕すら彼女の防御膜を貫通できなかった。近接突撃を試みた機も逆に撃ち抜かれ、中隊は短時間で甚大な損害を被る。高度八千への退避が実は戦力分散を狙う欺瞞であったと悟ったホスマンは、これは新型の化け物との遭遇であると判断し、無線で緊急事態を報告しつつ、帰還許可と増援を要請せざるをえない状況に追い込まれたのである。
帝国軍技研工廠審査委員会
九五式の驚異的戦果と運用側の高評価
西方戦役で九五式演算宝珠は実戦投入され、ターニャ・デグレチャフ少尉が単独に近い形で敵中隊をほぼ駆逐する戦果を挙げたと報告された。撃墜・撃破・未確認を含めた戦果は、理論上の性能を実証するものとして参謀将校たちに受け止められ、魔導戦の在り方を変えうる革新的兵器として高く評価されていた。
技術部による欠陥機認定と深刻な事故例
一方で技術部は、九五式を欠陥機であると断じた。四機同調による魔力変換固定化は成功すれば魔力保有限界を事実上消す画期的技術であったが、暴発や回路不備による自壊が恒常的に発生し、工廠内では爆発事故で小隊ごと失われた例もあった。デグレチャフ少尉以外の検証要員では「吹き飛ばない」ことが最大の成果に過ぎないと説明された。
奇跡的成功と再現不能な技術基盤
技術者たちは、デグレチャフ少尉の成功自体が偶然の産物であると報告した。核が魔力暴走で融解しかけた瞬間に干渉波が一致し、暴走した魔力がたまたま絡み合って固定化したと分析されたが、再現性は極めて低く、同様の実験を繰り返せば工廠全体が吹き飛ぶ危険があるとされた。報告書には「神の御業故に成功した」と記され、シューゲル主任技師はこれ以上の開発継続は奇跡への冒瀆であるとして中止を決断していた。
結論としての運用実態とプロパガンダ利用案
審査の結論として、九五式は原理も制御も十分に解明されないまま、理解不能な技術を無理に実用化しているに過ぎないと整理された。量産性も運用要員の確保も見込みが薄く、兵器体系としては不安定であると認識された一方、若くして銀翼突撃章を得たデグレチャフ少尉個人の武勲を前面に押し出し、彼女を象徴として祭り上げる方が国策宣伝には有効であるという意見で締めくくられたのである。
幼年学校 寄宿舎
朝の目覚めとエーリャ
ヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフは、寄宿舎で毎朝エーリャに起こされていた。エーリャは同じ生活を送りながらも背が高く、よく育った体つきで早起きも得意であり、寝床から離れがたいヴィーシャには理不尽に思われていた。それでも、厳格な規律と鬼教官に囲まれた幼年学校生活の中で、彼女は気の良い友人であるエーリャの存在を好ましく感じていた。
実戦配属の決定と故郷への距離感
この日、ヴィーシャとエーリャは実戦部隊への配属が決まっており、すでにライン戦線の補充要員として西方方面軍の宿舎に来ていた。軍服に着られているような新兵でありながら、護国の盾として精勤せよと求められていた。ヴィーシャは帝国の臣民として努めようと考えつつも、故郷が白きモスコーであり、アカの奔流から両親と共に亡命した経歴を思い出し、生粋の帝国軍人としてはどこかしっくりこないと感じていた。一方で、彼女は引き取ってくれた叔母夫婦と日々の糧を与える神に感謝していた。
前線食堂での噂話と銀翼突撃章
前線付近の下士官用食堂で、缶詰と鮮度に欠ける野菜中心の食事にも慣れた二人は、配属先の話題で盛り上がっていた。エーリャは人事官たちの会話を耳にしたと言い、ヴィーシャの配属先小隊には新しい小隊長が来ると告げた。さらに、その小隊は全滅小隊の補充であり、新任小隊長は銀翼突撃章持ちのベテランだと明かした。ヴィーシャは銀翼突撃章の名に驚愕し、生きたままそれを授与される者がいることに人間の凄さを感じていた。
エーリャの任務とささやかな日常
ヴィーシャがエーリャ自身の行き先を尋ねると、エーリャは砲兵隊支援の観測班に配属され、後方で過ごす予定だと笑いながら答えた。ヴィーシャは油断を戒めながらも、友人が比較的安全な任務であることに安堵していた。やがて時間が迫り、急いで食事を終えようとした時、ヴィーシャは自分が取っておいたキャラメルがなくなっていることに気づいた。エーリャは残していたから手伝ったと悪戯っぽく笑い、ヴィーシャはそんな小憎らしい振る舞いも含めて彼女を大切な友人だと感じていたのである。
(数日前)帝都
ターニャの転属と中隊長との邂逅
ターニャ・デグレチャフ少尉は、九五式演算宝珠の試験要員として酷使されていた技研からの転属命令を受け、第二〇五強襲魔導中隊第三小隊長として着任したのである。着任先のシュワルコフ中隊長は幼い外見に驚きつつも銀翼突撃章と戦歴を確認し、ターニャの自信ある応答を受けて指揮官として一定の信頼を寄せた。
機動防御戦への編成と不完全な小隊
シュワルコフ中隊長は、ノルデン方面への主力投入で西方への増援が遅れ、大陸軍の再配置に二週間以上を要する状況を説明し、西方軍が遅延防御から機動防御へ移行したことを伝えた。第二〇五強襲魔導中隊は機動打撃部隊として最前線拠点に固定されつつ機動打撃と防衛支援を担うことになり、ターニャには訓練未修に近い幼年学校上がりの新兵ばかりで構成された第三小隊が与えられた。ターニャは戦力としては自分単独の方がましだと内心で評しつつも、小隊長としての任務を受け入れた。
ヴィーシャの配属と「吸血鬼」としての第一印象
第三小隊に配属されたヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフは、集合時にターニャを病的なまでに白い肌と虚ろな碧眼を持つ「吸血鬼」のような上官として認識した。志願組のクルストとハラルドがC大隊出身であるのに対し、自身は徴募組D大隊出身で居心地の悪さを覚えたが、ターニャから義務への誠意を評価され励ましの言葉を受けた。一方でターニャは、志願した二人に対してセレブリャコーフより後に死ぬなと冷徹な忠告を与え、無能な士官候補生は害悪だと断じた。
再訓練と砲兵を神とする戦場観
着任直後、第三小隊は共和国軍の砲撃を受ける塹壕で基礎技量を再確認され、自分たちがゴミ同然の戦力であると叩き込まれた。反発したクルストとハラルドは前線では面倒を見切れないと判断され後方トーチカの防衛任務に回され、セレブリャコーフだけがターニャのペアとして空を飛ぶことになった。その後の戦闘で彼女は、固定トーチカが砲兵にとっては静止目標にすぎず、機動力を生かして砲兵支援を呼び込みつつ戦うことが生存の鍵であると学び、ターニャとシュワルコフが徹底した火力戦と運動戦の信奉者であると理解した。
砲兵支援下での掃討戦と機動打撃の実戦
機動打撃任務に投入された第二〇五強襲魔導中隊の眼前では、一二〇ミリ級重砲による突破破砕射撃が敵梯団を耕し、人員を過去形に変えていた。ターニャとシュワルコフは観測手と砲兵隊の連携精度を称賛し、砲兵を戦場の神と位置づけた上で崩壊中の敵への側面強襲に移った。セレブリャコーフは、以前は嘔吐していた自分が実戦を通じて動けるようになったことを自覚しつつ、逃走する敵兵を撃つことへの躊躇いだけは拭えないでいた。
戦闘後の急報と観測手救援への志願
戦闘後、休息に入ろうとした第二〇五強襲魔導中隊に、第四〇○三強襲魔導中隊が浸透突破中の敵魔導二個中隊と遭遇し、さらに友軍弾着観測要員が敵魔導師に追われているという急報が届いた。シュワルコフは救援と観測手支援を命じ、中隊は再び出撃準備に入ったが、ターニャは連戦で疲弊し放心しているセレブリャコーフの状態から、九五式を用いても救援は困難であり、部下と救助対象を死なせる無能にはなりたくないと述べ、ツーマンセルを崩す案を飲み込んだ。
ヴィーシャの決意と危険な出撃
しかしセレブリャコーフは、自ら帝国軍人として任務に耐えうると確信すると宣言し、救援任務への志願を申し出た。シュワルコフはその覚悟を認め、ショーンズ軍曹の分隊を付けてターニャと共に救援に向かうよう命じた。ターニャは過保護を戒められつつ命令を受諾し、セレブリャコーフに覚悟を問い質した上で「仕事の時間だ」と出撃を宣言した。
観測手殲滅戦と救援の遅れ
一方、別戦場では帝国魔導師らが敵砲兵無力化を目指し観測手狩りを行っていたが、増援魔導中隊の接近により分散・疲弊した状態で迎撃を強いられていた。観測手撃墜の報が届いたとき、ターニャは救援が間に合わず、すでに敵に近づき過ぎて後退もできない状況となったことを悟り、間に合わなかったなりに任務を遂行するほかないと小隊に告げたのである。
ライン戦線
高高度からの奇襲と中隊の決断
共和国航空魔導中隊は、視界外の超高高度からの攻撃に翻弄され、乱数回避を続けながらも次々と被弾していた。敵は高度一万二千という、通常の航空魔導師の限界をはるかに超える位置から攻撃しており、中隊は戦闘機の可能性すら疑ったが、魔力反応から航空魔導師であると確認した。地上部隊の退却を守るため、中隊は帰還不能の危険を承知で高度八千まで上昇し、敵への総力戦を決意した。
ラインの悪魔との交戦と空間爆撃
敵が登録魔導師「ラインの悪魔」であると判明し、中隊は数的優位を頼みに統制射撃で包囲しようとしたが、ターニャ・デグレチャフは乱数機動と光学デコイでそれを回避した。ターニャは存在Xへの祈りを口にしながらエレニウム九五式を全力稼働させ、戦域全体を巻き込む空間爆撃を発動した。この攻撃は酸素濃度と気圧を急激に変化させ、多くの共和国航空魔導師を酸欠と一酸化炭素中毒で戦闘不能に追い込み、飛行継続すら不可能な状況を生んだ。そのうえでターニャは投降を勧告し、捕虜としての権利保証を宣言した。
ターニャの合理主義と交渉の試み
ターニャは戦争を経済合理性の観点から批判し、本来は互いに利益を分け合う協力関係が最適であると考えていた。帝国軍人としての義務と出世のため、愛国的言辞と信仰を利用しつつも、内心では無益な殺し合いを避けたいと望み、敵に帝国侵犯の理由を問いかけて交渉の糸口を探った。しかし、共和国側は罵声と集中射撃で応じるのみで、理性的な対話は成立しなかった。
戦技評議会による壊滅戦闘の検証
場面は共和国の戦技評議会へ移り、第百六・百七捜索魔導中隊壊滅の経緯が解析される。回収された演算宝珠の記録には、高度一万二千から悠然と飛行し、統制射撃と空間爆破を踊るように回避する小柄な少女の姿が残されていた。技術士官は、単独の魔導師が多重詠唱規模を超える魔力量を発現し、空間座標に干渉しうる規模の現象を起こした事実に戦慄する。近接戦闘では演算宝珠ごと融解させる高火力、遠距離では超長距離精密狙撃で部隊を次々に撃墜した結果、ラインの悪魔はわずか二か月で撃墜数六十超という前例のないスコアを記録していた。
ラインの悪魔という災厄の認定
評議会の将校たちは、映像に映る敬虔な祈りと義務感に満ちたターニャの台詞を確認しつつも、その殲滅力を前にして彼女を災厄と見做した。情報部は既に噂レベルで存在を把握していたが、演算宝珠の記録が高火力で破壊され、実像の分析が進まなかったことを報告する。こうして、ライン戦線における中隊壊滅の事実と、従来の航空魔導戦ドクトリンを無力化しうる「ラインの悪魔」の存在が、共和国上層部に公式な脅威として突き付けられた。
第肆章 軍大学
帝国軍大学選考再審議会
軍大学選考再審議会と異例の再審請求
帝国軍大学第三次考査の再審議会が開かれ、匿名審査で最優評価を得た候補者に対し、人事局課長レルゲン少佐から異例の再審査請求が出された。候補者は軍人遺児であり、推薦者も現場叩き上げの堅物揃いで、軍功・成績・情報部と憲兵隊の調査も全て最優と評されていたため、列席者は誰も問題点を見いだせず、困惑していた。
ターニャの経歴と論文、そして年齢の衝撃
匿名解除で候補者がターニャ・デグレチャフ魔導中尉、弱冠十一歳の「白銀」と判明し、銀翼突撃章保持・六十二機撃墜・教導隊所属などの経歴が明らかになった。さらに士官学校時代の卒業論文「戦域機動における兵站」が鉄道部や野戦将校から絶賛され、戦略レベルの視野を示すものとして評価された。列席者は年齢の異常さに戸惑いつつも、能力面の非の打ち所のなさを認めるしかなかった。
レルゲンの人格疑義と審議会の結論
ゼートゥーア准将が、過去にヴァルコフ准将の軍大学推薦をレルゲンが棄却していた経緯を質すと、レルゲンはターニャを「完成した人格で人間を物として扱う異常な士官候補生」として人格的に危険視していると述べた。現地研修中の秘密作戦関与疑惑や、命令違反者に魔導刃を本気で突き付けた件、指導教官の「異常」との私的メモなどが挙げられるが、多くの将官は主観的評価と判断し、ターニャの軍大学合格を認める一方で、情報部の不透明な作戦運用のみ再調査対象とする結論に至った。
昇進と軍大学入学を喜ぶターニャ
ライン戦線で泥と硝煙にまみれた任務をこなしていたターニャは、中尉昇進と同時に軍大学入学案内を受け取った。軍功推薦による名誉ある形での推薦であり、安全な後方で二度目の大学生活を送りつつ人的資本を高められると判断したターニャは、喜々として入学を受諾した。部下セレブリャコーフも将校課程に推薦されたことで、後顧の憂いなく後方転属に踏み切れた。
軍大学での常在戦場ぶりと周囲の評価
軍大学でのターニャは、日課の訓練を欠かさず、銀翼突撃章を胸にライフルと演算宝珠を携行し続けた。校内では教官の指摘を受けてライフルと予備宝珠を衛兵司令部に預けるものの、本命の宝珠は手元に残し、常在戦場の構えを崩さなかった。その姿勢と戦地帰りの緊張感、下士官を立てる態度から衛兵たちは深い敬意を抱き、一部の新兵だけが外見年齢に惑わされて「態度の大きい餓鬼」と誤解していた。
存在Xへの憎悪と自己防衛としての信仰操作
ターニャは、存在Xに信仰を強制され玩具にされることを恐れ、精神の自立を守るために、休日ごとに教会で像を前に憎悪と呪詛を意図的に涵養していた。エレニウム九五式の呪いによる敬虔な信徒化を避けるため、非生産的と自覚しつつも「存在Xを憎む自分」を維持する行為を不可欠と見なしていた。その一方で、図書館通いに励み、戦訓や概念分析の研究に没頭して自己研鑽を重ねていた。
ゼートゥーアとの邂逅と戦争観の問答
図書室で参謀本部戦務参謀次長ゼートゥーア准将と出会ったターニャは、彼から戦争の行方について意見を求められる。ターニャは、帝国の対共和国優位を認めつつも、連合王国やルーシー連邦が覇権国家の誕生を恐れて借款・武器供与・義勇兵派遣などを通じて介入し、帝国と共和国の共倒れを狙う世界規模の大戦になると予測した。
総力戦への対応策としての消耗戦構想
ターニャは帝国の「勝利」を、敗北せず国防を保つことと再定義し、敵野戦軍の全滅よりも敵人的資源の摩耗を狙う長期陣地戦での防御を提案した。その上で、一撃を放つ余力を保持しつつ、歩兵による防御線維持と航空魔導師による突破浸透・戦場攪乱を組み合わせ、敵の戦争継続能力を物理的限界まで削る総力戦ドクトリンを示した。この現実的かつ攻撃的な構想は、ゼートゥーアに強い興味を抱かせる結果となった。
帝都/参謀本部戦務参謀次長デスク
ゼートゥーア、世界大戦の可能性に震撼する
ゼートゥーアは歴史研究から帝国が変革期にあると感じていたが、軍大学でターニャから受け取った提言メモを読み返すうち、それが世界大戦と総力戦の到来を予測するものと悟り、戦争形態の根本的変質を認めざるをえなくなった。子供同然の士官の言葉を戯言として退けられず、世界を相手に戦う未来を部下に検討させながら、自分が幼い魔導士官を戦争に送り出そうとしている事実に愕然としたのである。
レルゲン、論文「今次大戦の形態と戦局予想」を読む
人事局から作戦局付高級幕僚に昇進したレルゲンは、北方戦線視察の途上でゼートゥーアの論文を渡され、車中で熟読した。そこでは帝国包囲網と列強の思惑から、戦線の連鎖拡大により戦争が世界規模の総力戦へ発展しうることが論じられていた。レルゲンは当初荒唐無稽と感じながらも、西方戦線での弾薬消耗と人的損耗に照らし、国家総動員と人命の「消費」を前提とする戦争像が現実に起こりうると認めざるをえず、説明しがたい違和感に悩まされた。
ターニャの参謀旅行と「攻略不可能」の答え
参謀教育の一環としてターニャは過酷な山岳行軍を課され、女性士官向けの時代遅れの規則により宿泊面では優遇されつつも、魔導師ゆえに重機関銃を担いで登山させられていた。行軍中の戦術問答で教官は、歩兵大隊のみで峻厳な丘陵上の火点を攻略する案を出すよう迫るが、ターニャは兵力損耗と地形条件を踏まえ、参謀の任務は実行可能な最善策の追求であり無謀な突撃は部下の犠牲を徒に積み上げるとして、この案件は攻略を回避すべきであると職務上具申し、その回答が成績に記録されると知って内心苦々しく感じた。
参謀本部会議と即応魔導大隊構想の成立
戦況報告の会議でゼートゥーアは、西方方面軍が辛くも工業地帯を死守し大陸軍の再展開に間に合わせたと説明したが、国内機動の遅延から内線戦略の即応性が想定より低いことを問題視した。戦務と作戦は二正面作戦研究の是非を巡って内線戦略の原則と防衛戦力増強のあいだで議論し、各方面軍の戦功格差や東部軍の不満、人事上の歪みも共有したうえで、東部軍から魔導大隊を抽出して参謀本部直轄の即応魔導大隊とし、航空輸送で全戦域に迅速展開させる実験部隊の新設を承認し、将来の即応軍司令部構想への足掛かりとした。
統一曆一九六七年六月二十三日 ロンディニウム WTN記者室
戦争の真実を求める動機
統一暦一九六七年六月、アンドリューはWTN従軍記者として大戦を経験した同世代と同様に、断罪ではなく事実確認のために戦争の真実を求めていた。帝国側資料は終戦期の混乱で欠落が多く、禁忌に触れたとされる事象も機密のままであった。彼は編集会議でドキュメンタリー制作を提案し、理解ある上司と仲間の協力を得たが、膨大な資料は全体像ではなく混乱だけを増した。
ダカール沖事件の調査開始と仮説の崩壊
比較的早期に機密解除された連合王国資料を基点とし、彼らは大戦後半のダカール沖事件を調査した。第二戦隊全滅を陽動作戦の犠牲と見なし、帝国奇襲の隠蔽に使われたと推測したが、解除文書には連合王国海軍最悪の一日が何者かによって引き起こされたとだけ記され、軍関係者は沈黙した。仮説は一瞬で崩れ、原因は依然不明であった。
謎の十一文字コードとの遭遇
戦史関係者の助言により、複数戦線で共通して現れる十一文字のコードが存在することを知る。彼らはこのコードをタロットになぞらえ十一番目の女神と名付けて調査を進めたところ、その存在は帝国の主要戦闘にほぼ必ず姿を見せていた。最古の記録は大戦二年前の国境紛争で、情報将校やスパイのコードと推測した。
ライン航空戦での異常な存在感
前線経験者の一部は十一番目の女神という呼称に強く反応し、悪い冗談だと表現した。混同の可能性を排除するため統計を行った結果、このコードが最も頻出するのはライン航空戦であった。アンドリューと同僚クレイグは従軍記者としてこの戦場を実際に経験しており、悪魔の住むラインと呼ばれる過酷な状況が事実であったと証言する。兵が数時間後に肉片となる現実、人間性が失われる戦場の狂気は彼の記憶に深く刻まれていた。
帝国側関係者の沈黙と最後の鍵
ライン戦の報告書が未だ機密に覆われているのは、あまりにも異常な事態が次々発生していたためであった。十一番目の女神はその中でも突出した存在感を示し、アンドリューの興味を強めた。しかし帝国軍関係者への聞き取りはNEED TO KNOWの壁に阻まれ、参謀本部勤務の将校一名が匿名でV600という一言だけ告げた後に行方が途絶えた。
アンドリューはこの謎を追う決意を新たにし、狂気の時代に何が起きていたのかを明らかにしようとしていた。
クリューゲル通り三番地 ゾルカ食堂
軍大学教育とウーガの心境の変化
軍大学の教育は戦時編成で短縮されつつも実戦的に厳しさを増しており、ウーガは俊英たちと学ぶ中で自分の恵まれた境遇を自覚していた。両親の理解と良き妻、さらに最近生まれた娘への愛情により、これまで意識的に見ないようにしてきた戦争の現実に向き合わざるを得なくなっていた。
ゾルカ食堂でのデグレチャフ中尉との再会
ウーガは、日曜に通うと聞いていた聖グレゴリウス教会近くのゾルカ食堂でデグレチャフ中尉と会い、席を共にした。軍装に完全に馴染んだ十一歳の中尉は、机に演算宝珠とライフル、新聞と戦争関連記事を広げ、語学教材も兼ねている様子であった。ウーガは同期として率直な本音を聞きたいと考え、なぜ志願したのかと単刀直入に問いかけた。
デグレチャフの出自と「選択肢」の欠如
デグレチャフ中尉は父が軍人で既に亡くなっていること、さらに母の顔すら覚えていない私生児であり、孤児院がなければ野垂れ死にしていたと明かした。孤児には選択肢などほとんどなく、士官学校に入れる学力があっても援助を得る縁もなく、軍人以外の道を現実的に思い描けなかったと語った。
子供を戦場に送る社会への違和感
ウーガは自らも普通の官吏の家庭で育ったことを振り返りつつ、子供である彼女が戦場に立つ現実に耐えられず、軍人は辞めるべきだと言ってしまった。デグレチャフはそれを資質への疑念と受け取り動揺するが、ウーガは彼女の才能を認めた上で、ただ幼い者が戦場に行くこと自体に違和感を覚えるのだと説明した。自分の娘を将来戦場に送るかもしれないという想像は、彼にとって耐え難いものであった。
退役の勧めと立場の逆転
ウーガの戸惑いを見たデグレチャフ中尉は、彼を常識的な人物と評価し、退役を勧めた。戦場を知る良識ある人間こそ前線を離れ、娘を戦場に送らないためにも生きること自体を戦いとすべきだと主張したのである。ウーガは戦友を置いて後方へ下がることは許されないとしつつも、十一歳の中尉の強い論理と信念に反論し切れず、考えておくと答えるに留まった。
デグレチャフの打算と軍大学での位置取り
会話ののち、デグレチャフはウーガが子供の誕生で心理的に揺らいでいたことを冷静に分析し、この説得で彼が軍大学の出世コースから脱落し、自分が百人中十二位という程よい順位を確保できると計算していた。一代限りのフォン称号と参謀将校としての将来を視野に入れつつ、昼食代をウーガに立て替えさせ、その夜は参謀本部の食堂でのもてなしにも期待していたのである。
参謀本部第一(陸軍)晚餐室
参謀本部晩餐室での決定
参謀本部第一晩餐室では会食形式の会議が開かれ、レルゲン中佐はデグレチャフに即応魔導大隊を預ける案に強く反対していた。彼は彼女の好戦性と年齢を理由に危険だと訴えたが、軍大学での評価を根拠にしたルーデルドルフ准将らによって方針は覆らず、新編魔導大隊を与え少佐・大隊長に昇進させることが決定した。
参謀本部会食室でのターニャ人事通達
参謀本部の粗末な食事を囲む席で、コードル大佐とゼートゥーア准将はデグレチャフ大尉に昇進祝いを述べつつ、人事方針を伝えた。デグレチャフは表向きはどの配置でも従う姿勢を示したが、参謀本部付への配属が事実上の既定路線であり、本人もそれを理解して受け入れた。
六〇一魔導大隊編成と編成官任命
ゼートゥーア准将は、デグレチャフを自らの指揮下の参謀本部直轄部隊として扱うと告げ、新編航空魔導大隊の編成官に任命する計画を明かした。編成の功績によって少佐への昇進と大隊長就任を保証し、大隊規模は四十八名まで自由編成、兵員は西方・北方以外から補填されること、駐屯地は南東方面になる見込みであること、編成番号はV600番台・部隊番号は六〇一になることが示された。デグレチャフは周囲の反感を承知しつつ、この厚遇を冷静に受け入れた。
V600の謎と取材班の混乱
戦後の取材で、WTN特派記者アンドリューらは公表資料にV600番台部隊が存在しないことから、その実態を追跡した。九七式演算宝珠の主任技師シューゲルは、V600なる部隊番号は存在しないとしつつ歴史を調べるよう示唆した。軍制専門家の助言により、V600が部隊番号ではなく編成番号であり、運用番号とは別であると判明した。
六〇一編成資料と錯綜する証言
参謀本部戦務課の編成資料を漁った結果、V600のファイルには「六〇一編成委員会」名義の、危険な魔導師部隊を募る詩的な募集文のみが残されていた。その一方で、元魔導師たちは、プロパガンダ用大部隊構想が前線の反発で流れた話や、即応軍構想、あるいは西方・東部方面軍再編の便宜上の呼称など、互いに食い違う証言を語った。取材班は、V600と「十一番目の女神」を巡る多様な噂と矛盾こそが、この戦争の真実のつかみにくさを象徴していると痛感した。
参謀本部編成課
地獄ツアー募集に殺到する志願書の山
参謀本部戦務局編成課第六〇一編成委員会の事務室で、ターニャ・デグレチャフ大尉は机に積み上がった願書の山を前に頭を抱えていた。至難の戦場、わずかな報酬、生還保証なしと露骨に書いた募集要項なら志願者はほぼ来ないと踏み、志願者不足を口実に時間稼ぎをする算段であったが、募集開始一週間で各方面軍から熱烈な志願書が殺到し、前提そのものが崩壊したのである。
戦略的失敗と副官の存在を思い出すターニャ
ターニャは、一人で処理できる量を超えた書類の山と、人員を追加で確保しにくい状況を前に、自らの戦略的失敗を認めざるを得なかった。参謀本部から破格の権限と裁量を与えられたことも気味悪く感じつつ、書類と格闘するうちに、ようやく自分には副官が付けられていたことを思い出し、事務処理要員として使うべく呼び出す決断をした。
セレブリャコーフ少尉との再会と憲兵動員の指示
事務室に現れた副官は、かつてターニャが初めて指揮した部下であるヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ少尉であった。ターニャは昇進を祝いつつ、副官が有能で信頼できると判断し、即座に衛兵司令部経由で憲兵をダース単位で借り受けるよう命じ、山積する書類仕事を切り崩す体制づくりに着手した。
志願者殺到を利用した選抜基準強化への発想転換
志願者リストには本来対象外の西方・北方方面軍の名も紛れ込んでいたが、ターニャは事務ミスとして見なかったことにしようと考えた。当初は手続き上の誤りを口実に再公募して時間を稼ぐ案を思いついたものの、無為と批判される危険を自覚し、方針を転換した。大量の志願者を逆手に取り、極端に苛烈な基準で選抜して最高の部隊を編成し、自身の盾となる兵を時間をかけて鍛え上げることで損害を最小化しようと決意したのである。
帝国軍参謀本部外局第七応接室
東部軍中尉二人と偽りの「第六航空戦隊」行き
アイシャ・シュルベルツ中尉とクレイン・バルハルム中尉は、第六〇一編成委員会の選抜に志願し、ターナー大佐から予定変更として直ちに第六航空戦隊司令部へ向かうよう命じられた。二人は機密保持に配慮しつつ参謀本部付憲兵から軍用車両を借り受け、急行したが、実際にはそれ自体が選抜試験であり、憲兵側は既に十四組目の「騙されて基地へ飛んで帰る志願者」として苦笑しつつ見送っていた。
光学欺瞞を暴けない少尉と試験官たちの失望
二日後、別の若い少尉がV六〇一が宣伝目的のプロパガンダ部隊だと告げられ激昂したが、そのやり取り自体が光学系術式による立体映像と合成音声で構成された偽装面談であった。少尉が退室すると映像は消え、隠れて観察していた将官たちは、相手が光学欺瞞に全く気付かなかった事実に落胆し、魔導師としての認知力不足を厳しく評価した。
東部方面軍の壊滅的合格率と参謀本部の危機感
ターニャ・デグレチャフ大尉は、この試験が教本にも載る基礎的な光学系欺瞞への対処を問うだけだと説明し、中央軍の実戦経験者は半数が見破った一方、東部方面軍の志願二十九組中二十七組が幻影に騙され原隊復帰となったと報告した。合格は中央軍分と合わせても十二名にすぎず、目標の四分の一にも届かない結果に、参謀本部の将校たちは各方面軍の訓練水準と戦争継続能力に深刻な疑念を抱いた。
ターニャの一ヶ月再教育案と方面軍再訓練の決定
この状況に対しターニャは、一月あれば不合格者ですら使える兵に叩き直せると豪語し、大隊編成と再教育を短期間で完了させると宣言した。ゼートゥーア准将は多少手荒でも構わないとしてその案を容認し、試験記録を教導隊にも送付して南方・東方方面軍の再教育を命じた。こうして、第六〇一編成の選抜試験は、志願者ふるい落としにとどまらず、帝国軍全体の戦訓共有と訓練改革の引き金となることが決まったのである。
帝国領アルペン山脈 ツークシュピッツェ演習場
砲兵との合同訓練と極限防衛戦
ヴィーシャら訓練生は、宿舎ごと砲撃で叩き起こされたのち、B・一一三演習域での行軍とポイント移動を命じられた。魔力反応を隠しての行軍中にも観測砲撃が加えられ、第二ポイント到達後には砲兵隊との合同対砲兵防御訓練として拠点防衛戦が開始された。訓練弾と実弾が混ざる三十六時間の釣瓶撃ちの中で、彼らは迎撃と識別に追われ、睡眠もほとんど取れないまま消耗し、多数が脱落した。
行軍・尋問・アルペン行軍での選別
砲撃後も候補生は第三ポイントへの強行行軍を命じられ、時間制限以外の条件が明かされないまま、空からの爆撃や軍用犬を回避しつつ進んだ。到着後には疲労困憊の状態で対尋問訓練が行われ、そののちアルペン山脈に放り出される形でサバイバルと長距離行軍訓練が続行された。雪崩に巻き込まれたヴィーシャはターニャに救出され、罵倒を浴びせられつつもその行動から指揮官としての資質を認めた。過酷な選別を経て候補生は四十八名にまで絞られた。
ターニャの訓練設計と精神汚染への疑念
ターニャは一か月で部隊を潰す口実を得るため、各国特殊部隊の手法を取り入れた高度順応訓練、ヘルウィーク、SERE、一週間の非魔力依存アルペン横断などの連続メニューを合理的に構成していた。さらにエレニウム工廠製九七式「突撃機動」演算宝珠を標準装備させ、問題発生時には開発側に責任を転嫁する算段もしていた。しかし九五式起動中の影響で自らの記憶に抜け落ちが生じ、演説や信仰的言動、首元の古いロザリオの出現などから、ターニャは精神汚染を疑いながらも検査を受ければ指揮官として致命的と判断し、葛藤していた。
編成完了扱いと南東派遣命令
訓練終了後、ターニャは部隊を未完成と認識していたが、参謀本部は四十八名に絞り込まれた時点で編成完了と見なし、南東管区駐屯地への即時展開を命じた。ターニャは連携訓練や戦訓の浸透には半年の錬成が必要と異議を唱えたものの、レルゲン中佐は帝国軍に余裕がなく、訓練不十分な魔導大隊の投入を避けられない戦況であると説明した。命令は覆らず、ターニャは少佐へ昇進した上で大隊長として南東へ向かうことになり、別れ際にダキア語習得を勧められたことで、南東方面にダキアが関わる情勢変化が近いことを察するほかなかった。
統一曆一九二四年九月二十四日 ランシルヴァニア地方トゥラーオ郡 帝国軍野外演習場
高高度訓練と査閲官の驚愕
南東へ配備された二〇三航空魔導大隊は、早期に査閲を受けることになった。ターニャ・デグレチャフ少佐は、大隊に高度八千への上昇を命じ、弱音を吐けば砲撃して撃墜すると無線で冷酷に通達した。兵たちは死の恐怖に晒されながらも高度を維持し、査閲に立ち会ったレルゲン中佐や高級参謀らは、その統制と技量が一か月の急造部隊とは思えない精鋭ぶりであることに驚嘆した。
新型演算宝珠と「人的資源」という発想
技術将校たちは、隊員全員が酸素発生の常駐式を二つ並列起動しつつ乱数回避機動まで行っている事実に衝撃を受けた。それはエレニウム工廠が先行量産した新型演算宝珠によるものと説明され、次期制式採用が確実と思われる性能であった。一方でターニャは候補者の半数脱落を「人的資源にまだ余裕がある」と総括しており、レルゲン中佐は彼女が兵を完全に代替可能な資源として数えていると悟り、その合理性と狂気に戦慄した。
世界大戦の予感とダキア軍侵攻
査閲中、国境からダキア軍団が帝国領を侵犯しヘレルマンシュタットへ向かっているとの緊急報告が届き、査閲は即時中止となった。指揮所は怒号と通信で騒然となり、レルゲン中佐は世界大戦という最悪の展開を想起して背筋を冷やした。そこへ駆け込んだターニャは、帝国が世界を相手取る戦争に追い込まれる理不尽さと、ダキアが世界のために帝国に焼かれに来たと皮肉を吐き捨て、帝国対世界という構図を前提にした憤りを露わにした。
同シリーズ


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