物語の概要
本作は異世界戦記ファンタジーに分類される作品である。舞台は「銃と魔法」が並存する世界であり、魔種族を中心とした連合国家 オルクセン王国 と、美と魔法を誇るエルフの国家 エルフィンド王国 との長年の歴史的対立が軸となっている。第2巻では、オルクセンの王 グスタフ・ファルケンハイン が戦略と国家構築を進め、故郷を失ったダークエルフの氏族長 ディネルース・アンダリエル が亡命を経てオルクセンに身を寄せ、王国に属する立場となっていく過程が描かれている。エルフィンドへの宣戦布告が視野に入り、対立が一層深まっていった。
主要キャラクター
- グスタフ・ファルケンハイン:オルクセン王国の王である。オーク族出身でありながら、国をまとめ上げる理知的な統治者として描かれている。
- ディネルース・アンダリエル:ダークエルフ族の氏族長で、エルフィンドの迫害から逃れオルクセンで生き延びた。オルクセン側の軍事的な立場に就く。
- カール・ヘルムート・ゼーベック:オーク族。オルクセン王国軍の参謀本部参謀総長を務める重鎮である。
物語の特徴
本作の魅力は、いわゆる「野蛮なオーク」対「高潔なエルフ」という典型的なファンタジー構図を、完全に逆転ないし再構築している点にある。オルクセン王国は一見“野蛮”と評されるものの、国力・制度・軍制において極めて緻密かつ合理的に描かれており、エルフィンド王国の“平和”が実は抑圧と支配によって成り立っている側面を浮かび上がらせている。
また、国家戦略・兵站・補給・種族間協力といった軍記ものとしての要素が深く描かれており、単なる冒険譚を超えて“国家の戦い”としての重厚な物語が展開している点も他作品と差別化される。
書籍情報
オルクセン王国史 ~野蛮なオークの国は、如何にして平和なエルフの国を焼き払うに至ったか~ 2
著者:樽見京一郎 氏
イラスト:THORES柴本 氏
出版社:一二三書房
レーベル:サーガフォレスト
発売日:2024年6月14日
ISBN:978-4824201867
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あらすじ・内容
ならば戦争だ。ひとつ始めようじゃないか
オークの国オルクセンの王グスタフ・ファルケンハインは、聡明かつ穏健な牡(おとこ)である。だが、オーク族の悲願達成と、自らを頼りとする臣下国民のためならば、ときに狡猾な策をも弄する。それが、今回の対エルフィンド開戦にまつわる「奇策」だった。エルフたちの国――故郷エルフィンドで卑劣な虐殺と迫害の憂き目に遭い、白エルフたちに復讐を誓いオルクセンに身を寄せた黒エルフの氏族長ディネルース・アンダリエルは、今や名実ともに「王のもの」となった。愛する牡との充実した幸福感に包まれる日々は瞬く間に過ぎ、水面下でじわじわと準備を進め牙を研いでいたオルクセンは、ついにエルフィンドに宣戦布告を行うのだった……。圧倒的な筆致でえがく「銃と魔法」の異世界軍記ファンタジー、待望の第2巻登場!!
感想
今巻は、ついにエルフィンド侵攻へ至る「戦争のはじまり」が、本格的に描かれた一冊である。しかも、いきなり戦闘に突入するのではなく、丸々一冊を費やして「そこへ至る準備と積み重ね」を描き切っている点に、まず圧倒された。戦争とは何か、国家とは何かを、物語として真正面から見せにきている巻だと感じた。
物語はまず、グスタフの視点から語られるエルフィンドの歴史像と、その歪みの由来に焦点を当てる。転生者たちが理想と技術を持ち込み、海洋進出から農耕・製鉄まで一気に押し進めてしまった結果として、現在の閉鎖的で他種族を排除する国家が出来上がった、という解釈が提示される。この「善意と理想の果てに、現在のエルフィンドがある」という視点が、単純な勧善懲悪に陥らない厚みを物語に与えていた。グスタフ自身も、オーク王としての責任、異世界人としての記憶、そしてエルフィンドへの哀惜がせめぎ合い、そのうえで「それでも滅ぼさねばならない」と結論する過程が、非常に印象的である。
そのグスタフの決意を、最も近い距離で受け止めるのがディネルースである。故郷を追われたダークエルフとしての矜持と、グスタフの「女」としての幸福。その両方を抱えながら、彼女はグスタフの罪も決断も丸ごと受け止める覚悟を示す。旅団内の噂を「自分が大物を狩ったのだ」と一蹴してみせる場面も含めて、悲劇の被害者としてではなく、能動的に選び取って今の位置に立っている存在として描かれており、物語全体に独特の緊張感をもたらしていた。
物語が進むにつれ、視点はグスタフ周辺から参謀本部や外交の現場へ広がっていく。キャメロットとの会談や覚書のやり取り、イザベラ・ファーレンスが築き上げた諜報と商業ネットワーク、グレーベン少将による対エルフィンド侵攻計画の再構築などが、粛々と積み重ねられていく様子は、ほとんど歴史ノンフィクションのような読み味である。特に、陸だけを見ていた発想を捨て、「海そのものを兵站の大動脈として組み込む」発想に至るあたりは、軍事オタク的な面白さと、物語上のカタルシスが綺麗に噛み合っていた。
並行して描かれる、兵站・産業・技術の側面も忘れ難い。ヴィッセル社による鉄鋼と火砲の増産、コボルト飛行兵という新兵科の誕生、グラックストン環状機関砲の登場、オルクセン全土の鉄道と街道を使い切る動員計画。こうした一つ一つの描写が、「軍隊とは、ある日突然魔法のように出現するものではない」という一文に収束していく構成が見事である。社会全体の積み重ねと、幾多の人間の人生の上に「軍隊」が成立しているのだという視点は、このシリーズならではの重さだと思う。
終盤では、エルフィンド外交書簡事件によって、ついに開戦の引き金が引かれる。エルフィンド側の慢心と視野の狭さが、致命的な一文に結実し、それをグスタフが「大義名分」として利用する展開は、単なる善悪では片付かない苦さがある。グスタフが本心では相手の真意も理解しつつ、それでも自国と民を守るために「悪役」を引き受ける決断をする姿は、読んでいて胸が痛むと同時に、圧倒的な説得力があった。
その一方で、人間族以外からの恨みを買いすぎてきたエルフィンドの行く末についても、考えさせられる。ダークエルフやコボルト、ドワーフに対して長年にわたり積み重ねてきた差別と搾取が、もはや今回の戦争があろうとなかろうと、どこかで爆発するしかない状態だったのではないか――そう思わせる描写が随所にある。今巻は、オルクセン側を美化するのではなく、「エルフィンドの自業自得の側面」「それでもなお、滅ぼすことの罪」を両方描いている点が印象的であった。
最後に、動員令「白銀」が発せられ、海軍が劣勢を承知のうえで出撃し、陸軍各軍も北方へと展開していく流れは、まさに「戦争のはじめかた」を実地で学ばせるような展開である。
ここまで徹底して準備と蓄積を読まされてしまった以上、「この戦争がどのような結果をもたらすのか」を最後まで見届けずにはいられない。グスタフ、ディネルースをはじめとする面々が、次巻以降の本格的な戦闘局面でどのような選択をし、どのような代償を払うことになるのか。期待と同時に、少し怖さすら覚えながら、続巻を待ちたい一冊だった。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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登場キャラクター
展開まとめ
第二部 戦争のはじめかた
第一章 それは恋慕にも似て
エルフィンドの多面的な歴史像
グスタフ・ファルケンハインは、仮想敵国エルフィンドを日々思い続けていた。エルフたちがかつて海に乗り出し、理想郷クレート・ログレスを目指して航海し、到達後になおベレリアント半島へ戻って国を形作ったという伝承を、彼は事実性の高い歴史として受け止めていた。また、三代目女王の時代に狩猟採集から農耕や採鉱、鍛冶へと転換し、三圃式農業や鉄器文化が異様な速さで成立した経緯にも注目していた。
転生者がもたらした繁栄と歪み
エルフィンドには転生者を示す古語が残り、三代目女王を含む元人間が国造りに関与したとされていた。グスタフは、創世期のエルフは無垢な森の妖精のような存在だったが、理想を持つ転生者たちが次々と知識と技術を持ち込み、海洋進出、農耕、鉄器といった文明の全段階を経験させた結果、現在の閉鎖的で他種族を排除する歪んだ姿に変質したと考えるようになった。その過程には悪意よりも理想があったと推測しつつも、今の排他的体制を悲劇として捉えていた。
オークの王としての自覚と開戦決意
本来グスタフは、オルクセン国内の幸福だけを願っており、他国に構う余裕はなかった。しかし聖星教教皇領による指弾やデュートネの侵攻を経験し、理想だけでは国も民も守れないと悟った。転生者である自分が「魔王」と見なされるオークの王として、他種族と共に築いた国を守るためには、エルフィンドを単に打ち破るだけでなく滅ぼし、自国の一部として組み込まねばならないと結論づけた。その決意は国民感情を言い訳にしたものではなく、自身がエルフィンドを欲しているという内心の欲望の告白でもあった。
人間文明の台頭と資源確保の必然
グスタフは三十年ほどで人間諸国が魔種族の能力を科学技術で凌駕し、無線通信、飛行機、強大な火力、冷蔵技術や近代農法を獲得して人口を爆発させると予測していた。頭数が増えにくいが不老長寿に近い魔種族が生き残るには、魔術に加えて人間並み以上の科学力を備え、周辺から畏怖されて手出しされない存在となった上で、自領に閉じこもるしかないと判断していた。そのためには将来の総力戦に不可欠な鉄鉱石、クロム、モリブデンなどの鉱物資源が必要であり、モリム鋼の組成からそれらがベレリアント半島に眠っていると見抜いたグスタフは、エルフィンドを資源ごと手中に収める必要性を確信したのである。
葛藤とディネルースの受容
グスタフは、エルフィンドに対する哀れみや同情を抱きつつも、自国と民と自分自身のために滅ぼさねばならないと自らを説得していた。戦争の責任はすべて自分一人が負うべきだと覚悟を固めたとき、寝台で共に横たわるディネルース・アンダリエルが、怖い顔をしている彼に話すよう促した。彼女は自分はグスタフの女であり、何もかも受け入れると告げ、秘密を持つなと迫った。この言葉に、グスタフは仮面を剥がされる恐怖と感謝の入り混じった感情を抱きつつ、自らの決意と罪を胸の内に抱え続けることになったのである。
第一章 盛夏の外交交渉
盛夏のヴィルトシュヴァインと公使来訪
星暦八七六年盛夏、涼しく過ごしやすいオルクセン首都ヴィルトシュヴァインで、国王グスタフ・ファルケンハインはキャメロット王国外務省駐箚公使クロード・マクスウェルと会談していた。マクスウェルが本国からのエリクシエル剤輸出増要請書簡を届け、グスタフが前向きな返答をした後、話題は二十年前に死去したモーリントン公の回想へと移っていった。
デュートネ戦争の回想と信頼の起点
グスタフは六十年前のデュートネ戦争終盤、アリアンスの最終決戦にオルクセン軍十二万五千が到着し、デュートネ軍の側背を突いて形勢を逆転させた経緯を語った。自らは勝利をモーリントン公の粘り強い布陣と絶妙な間合いの後退に帰しつつ、公から「我らが共に勝った」と返された言葉を紹介し、キャメロット軍を持ち上げることで公使の誇りを刺激していた。この共同戦勝体験が、後のキャメロット・オルクセン修好通商条約締結の精神的な土台となったことが示唆された。
修好条約後の両国関係とオルクセンの地位
モーリントン公は戦後、陸軍総司令官から首相となり、人間族の国として初めて魔種族国家オルクセンと修好通商条約を結んだ。この条約を契機にオルクセンは星欧外交の表舞台に立ち、以後キャメロットにとってグロワール第二帝政国やロヴァルナ帝国を牽制する重要なパートナーとなった。星暦八七六年現在、オルクセンは国家歳入十四億ラングの列商国となり、海外植民地には興味を示さずに余剰資本でキャメロットの外債や企業に投資する一方、石炭や食糧、繊維、さらに刻印式魔術や冷蔵板、エリクシエル剤といった魔術・医薬品を供給する不可欠な交易相手国として位置づけられていた。
グスタフによる外交論と覚書の授与
星欧外交界では、デュートネ戦争から各種条約締結、講和仲介までを経験してきたグスタフが「盟約を違えず、人間族を欺かない王」として長老的存在と見なされており、各国外交官はその雑談を聞くこと自体を重要な情報源としていた。この日もグスタフはマクスウェルに、統治者の性格把握、立派さと誠実さによる「評判」の獲得、本国への事実と私見を分けた定期報告、多数の友誼構築の重要性といった外交官の心得を語ったうえで、「王の名を報告書に添えて説得力を高めよ」と助言した。そして具体的な「土産」として、現時点でオルクセンはエルフィンドとの戦争を望まず、キャメロットによる仲介努力とエルフィンド側の外交改善意思に期待すること、万一開戦してもキャメロット権益を保護し、対グロワール・対ロヴァルナ防備を疎かにせず、人間族諸国家の領土や海外領土には一切興味を持たないことを明記した覚書を渡し、その条件のもとでキャメロットの好意的中立と牽制を期待すると記した。マクスウェルはこれを本国での大きな成果と受け取り、喜色を隠せぬまま辞去した。
覚書外交の真意と開戦準備
マクスウェルの退出後、外務大臣クレメンス・ビューローが現れ、グスタフは覚書が意図通りに受け取られたと報告した。ビューローは、王自らが対外信用を手段として用いる老練さに感嘆し、グスタフを自らの最強の外交手段と評価していた。両者はこのところ各国公使との会談を重ね、オルクセン公使たちも各地で同様の工作を進めており、将来のエルフィンド攻撃に際してオルクセンの背後を外交・軍事の両面で安全にするべく、周到な根回しと牽制を行っていることを確認した。
大義名分とエルフィンドへの間接圧力
グスタフとビューローは、アンファングリア旅団によるシルヴァン川流域虐殺の暴露によってエルフィンドから何らかの公式反応や抗議を引き出し、大義名分を得る算段をしていたが、相手が沈黙を保ち続けている現状を問題視していた。因縁だけでは戦争を仕掛ければ周辺国の信用を失うため、彼らはキャメロットを通じてエルフィンドに外交関係改善の意思表明を求めさせるよう仕向けつつ、周辺国には「喧嘩を売られなければ戦争は考えていない」という姿勢を印象付けていた。こうしてグスタフは、自身の長年の信義と評判すらも寝技的外交の道具として織り込みながら、実際の開戦までに必要な時間と準備を稼ぎつつ、エルフィンド包囲と大義の確立を図っていたのである。
ディネルースとグスタフの関係の変化
アンファングリア旅団の王宮警備勤務が一巡したころ、ディネルース・アンダリエルの日常には大きな変化が生じていた。ディネルースは自らの意思でオルクセン国王グスタフ・ファルケンハインの女となり、互いの不安や困惑を乗り越え、今では肉体的にも精神的にも互いを支え合い、ともに「より高み」を目指す安定した関係に至っていた。
贈り物に表れるグスタフの配慮と日常
グスタフは宝石ではなく、ディネルースの嗜好に即した実用的な贈り物を選んでいた。高性能の野戦双眼鏡、海藻石鹸、香油「不思議な水七九二」などはどれも質が高く、清潔を尊ぶオーク文化とも合致していたため、ディネルースは大いに気に入っていた。また、ヴァルトガーデンの朝市に立ち寄ってから官邸で朝食を取り、その後ヴァルダーベルク衛戍地に登庁するという生活リズムが定着しており、勤務後は官邸に戻ることが日常となっていた。
官邸側の沈黙と信頼できる側近たち
国王副官部や侍従、家政、コックら官邸の人員は、グスタフとディネルースの関係に気づきつつも、外部に漏らさず「ようやく浮名の出た国王」と好意的に受け止めていた。なかでもダンヴィッツ少佐やミュフリング少佐は、グスタフへの忠誠が厚く、余計な詮索を一切しない人物としてディネルースからも信頼されていた。ミュフリングは容貌こそ冴えないが、デュートネ戦争時に危険な戦線を何度も往復し、必ず任務を果たして帰還した伝令であり、その「確実さ」と相手に本気の対応を促す顔つきが評価され、王から重用されていた。
旅団内に広がる噂と誤解
一方、ヴァルダーベルク駐屯のアンファングリア旅団内部では、同族同士の閉じた集団であることもあって、ディネルースとグスタフの関係が噂として広がっていた。決定的なきっかけは、ある朝うなじに残った「痕」をイアヴァスリル・アイナリンド中佐に指摘された出来事であり、それ以降、恋愛関係が半ば確信として受け止められた。旅団員たちはディネルースへの忠誠が厚いため、「種族のために身を捧げている」と重く受け止め、「御労しい」と同情する誤解すら生じていた。ディネルースは自分がどう思われるかは構わないが、グスタフをそのような男だと思わせること、ひいてはオーク族とオルクセンへの不信につながることを看過できないと判断した。
旅団長の宣言と誤解の解消
ディネルースは叱責による統制ではなく、空気を明るく変えつつ誤解を断ち切る方策として、「グスタフ流」に真正面から真実を告げることを選んだ。衛戍地内限定の魔術通信で全員に呼びかけ、「私は獲物を仕留め損なったことはない。仕留められたのではなく、自分の意思で大きな獲物を仕留めたのだ」と宣言し、自らの能動的な選択であることを示したのである。この一言で営内は歓声と喝采に包まれ、噂は「誇らしい武勇談」に書き換えられた。続いてディネルースは、グスタフから贈られた火酒「電撃」を取り出し、イアヴァスリルを呼んで共に飲もうと誘い、腹心との絆を確かめつつ、旅団全体の結束と士気を高める形でこの問題を収束させたのである。
第二章 猛き猪たち
参謀本部訪問とイザベラの役割
星暦八七六年七月四日、アンファングリア旅団閲兵式の日、イザベラ・ファーレンスは派手な馬車でオルクセン国軍参謀本部を訪問した。参謀本部次長兼作戦局長エーリッヒ・グレーベン少将と兵要地誌局長カール・ローテンベルガー少将は、彼女から恒例の「資料」を受け取り、その更新内容と一部の頁を重点的に確認した。資料はエルフィンド王国に関する諜報の最新版であり、グレーベンは以前から希望していた追加調査の結果に、大いに満足を示したのである。
兵要地誌局とファーレンス商会の諜報ネットワーク
兵要地誌局は地図や兵要地誌の作成に加え、星欧諸国の軍事情報を収集する事実上の軍諜報機関となっていた。各国の道路、鉄道、橋、港、衛戍地、要塞、食料生産力などを体系的に把握していたが、国交断絶状態が続くエルフィンドだけは長らく「想像の及ばない空白地帯」であった。ところがファーレンス商会は、キャメロットの海運・貿易・保険市場への深い浸透と格付けビジネスを通じて、エルフィンドと取引する企業や技師、商人を支配下に置き、港湾施設の調査、都市のスケッチ、鉄道線路図や運行距離の計測といった情報を組織的に吸い上げていた。イザベラはそれらを精緻に整理し、継続的に兵要地誌局へ提出し続けた結果、オルクセン側は「エルフィンドの将校以上にエルフィンドを知る」と豪語できるほどの情報優位を獲得していた。
商人としての表の顔と軍との取引
ファーレンス商会は連隊酒保を起点とする小間物商から、デュートネ戦争中の兵站請負を経て急成長し、戦後は兵站局・参謀本部中枢の委託も一手に担う存在となっていた。軍は旧式兵器や輜重馬車の払い下げ、ヴィッセル社製火砲の輸出用モデルの仲介をイザベラに任せ、彼女は兵站業務と輸出入を通じて巨利を得ていた。その一方で、参謀本部の多くは「商売熱心な会長が兵站局と取引しているだけ」と早合点し、彼女の諜報面での貢献を十分には理解していなかった。
対エルフィンド戦争準備と報酬交渉
この日の資料は、グレーベンが特に追加調査を依頼していた箇所を含む内容であり、彼は「夫人の大事業の成果をお目にかける日も近い」と述べ、対エルフィンド戦争の勃発をほのめかした。謝礼については、イザベラが望む「エルフィンドにおけるキャメロット既得権益の保護」について、国王グスタフが戦後も維持を命じていると説明しつつ、代案として旧式化するGew六一小銃七万丁の払い下げを提示した。道洋で人気の高額商品であるため、四千二百万ラング規模の商機として「十分な取引」として示されたが、イザベラは内心、軍側が自分の本当の動機を理解していないと見抜いていた。
イザベラ個人の復讐と「商人の戦争」
参謀本部を後にして馬車に戻ったイザベラは、窓外の街並みを眺めながら、これは単なるビジネスではなく自分の戦争であると自覚していた。かつて夫は、小間物商として誠実に働きながら白エルフの政策によって商売鑑札を奪われ、他のコボルト商人と同様に破滅へ追い込まれた。イザベラは店を潰され夫を奪われた恨みから、長年かけて築いた商業帝国と諜報網を武器に「エルフィンドを必ず滅ぼす」と誓っていたのである。軍人たちが利益や謝礼の枠組みで彼女を測るのに対し、イザベラにとって対エルフィンド戦争は、愛する夫の仇を討つための、商人としての報復戦にほかならなかった。
グレーベンの幼少期と思考法の形成
国軍参謀本部次長兼作戦局長エーレッヒ・グレーベンは、幼少期から一種の「答えの多様性」に魅了されて育った存在であった。両親は成績よりも興味を尊重する教育方針を取り、デュートネ戦争期には高価な金属製兵隊人形一式を買い与えた。グレーベンは裏庭に簡易な地形を自作し、歴史上の会戦や要塞戦を再現しつつ「別のやり方ならどう勝てるか」を繰り返し思考した。その結果、「答えは一つではなく、答えへの到達法も一つではない」という発想法を身につけ、学校の数学でも独自の解法で正答に到達して教師を呆れさせるようになっていた。両親はその独自性を一貫して庇護し、この思考様式が後の作戦立案能力の基盤となった。
軍歴と参謀としての位置づけ
義務教育修了後、グレーベンは士官学校に進み、成績は常に最上位であったが、傲慢かつ不遜で、自分より思考力に劣る教官や上級生を平気で見下す性格でもあった。ただし、下位者の意見でも正しければ採用するというオルクセン軍の風土が彼を排除せず、陸軍大学校と参謀将校課程を経て頭抜けた「答えの質」を示し続けた結果、星暦八七六年時点で最年少少将にして参謀本部次長兼作戦局長の地位に就いていた。参謀総長ゼーベック上級大将は自らの作戦立案能力の不足を自覚しており、軍政・兵站運用に専念するため作戦部門を全面的にグレーベンへ委ね、「あいつさえいれば戦争には勝てる」と公言して強く庇護した。その厚遇と人間的配慮により、グレーベンもまた「ゼーベックのためなら死ねる」とまで語るほどの信頼を寄せていた。
第六号対エルフィンド侵攻計画の骨格
グレーベンは近年、ベレリアント半島の大地図を広げ、兵棋を並べてエルフィンド侵攻作戦計画(第六号計画第五次修正案)を見直し続けていた。同計画は、半島付け根シルヴァン川南岸に約五十万の兵力を展開し、西から東へ三個軍を横一列に並べる構想であった。中央軍は南岸入植地と橋梁群を奪取し、半島南部中央平原でエルフィンド野戦軍に決戦を強要、さらに北方の要塞都市を攻略して山間街道を突破し、首都ティリオン東側の大平原で残存戦力を撃破、首都へ進撃して降伏を迫る役割を担っていた。西・東両軍は側面牽制と中央軍兵站線の防護に重点を置き、特に中央軍に重砲旅団と大鷲軍団主力、前進兵站拠点・軍鉄道部隊など作戦上の資源が集中する構図となっていた。
兵站観と現行計画への根本的疑念
この計画は一見すると兵站面も周到に検討され、半島南岸側の四都市に巨大兵站拠点を設け、そのうち二拠点を中央軍専用とし、鉄道網と輜重馬車を組み合わせて日々の補給を維持する設計であった。だがグレーベンは、自らが重視する兵站概念と計画の方向性に齟齬を感じていた。参謀本部は「進撃路をまず想定し、その背後に兵站線を引きずる」発想に陥っており、兵站が軍に従属して「尾を引きずる」形になっていると見做していたのである。彼にとって兵站とは「進みやすい場所をこそ進撃路に選ばせるもの」であり、軍は兵站という尾の先端にぶら下がって敵を打つ器官に過ぎないという理解であった。その観点から見ると、中央軍に会戦・要塞戦・長距離進撃の全てを背負わせる現行案は、兵站と作戦が逆転した本末転倒だと映っていた。
補給負荷の現実と東西両正面の制約
グレーベンは具体的数値で兵站負荷を検証していた。標準的な一個師団の常続補給品は一日約一六〇トン、軍団で三三〇トン、一個軍全体では一二八〇トンとなり、これを支えるには鉄道貨車編成を日々複数走らせる必要があった。また、兵士の糧食だけでなく軍馬の飼葉と飲用水が膨大であり、騎兵中心のアンファングリア旅団だけで一日四十〜七十トンの飼料と十万リットル超の水を消費する計算であった。これらを踏まえると、中央軍の進撃を支える「動脈」として使えるのは現状の鉄道・街道網に沿った南岸正面しかなく、半島西岸は山脈とフィヨルド状の入り江に遮られて動脈として機能せず、東岸側もシルヴァン川に橋が無く、アーンバンド以遠へ鉄道を延長できないため大規模な兵站線が築けないと判断されていた。そのため、東方軍は国境線付近での側面防護に留められ、より積極的な運用は「兵站的に不可能」とされていた。
現地調達依存への不安と兵站思想の行き詰まり
第五次修正案では、中央軍の食料について現地調達と収穫期の選定により負担を軽減する方針も盛り込まれていたが、グレーベンはこの点にも強い不信感を抱いていた。現地調達は「そこに物資が存在すること」が前提であり、戦争開始時期が収穫期からずれれば成立しない。占領都市の穀倉が空であったり、敵が意図的に焦土戦術を取れば、補給線は容易に破綻する。デュートネ戦争でも同様の例は多く、彼にとって「現地調達任せ」は精緻な兵站思考を放棄する危険な安易策であった。こうして、南岸正面一極集中の構図は、兵站の理念と現実の双方から見て、いつかどこかで致命的に行き詰まると確信するに至っていた。
海上輸送動脈の発見と新構想の立ち上げ
行き詰まりを破る鍵は、ベレリアント半島東岸の地図の再検討から生まれた。アーンバンドから約七十キロ先には大きな商業港が存在し、さらに東岸にはいくつかの港湾都市が点在しており、キャメロット商人の出入りのために鉄道路線が整備され、最終的には首都ティリオンに接続していたのである。地形は狭隘で平野部は少ないものの、港と鉄路という「第二の動脈」が明確に存在している事実に思い至った瞬間、グレーベンは自らを「陸軍であるがゆえに陸だけを見ていた大馬鹿者」と罵倒し、陸・鉄道・街道だけに限定していた兵站発想を根底から改めた。すなわち、海そのものを巨大な兵站動脈として組み込む構想である。
彼はその日のうちに兵要地誌局へ駆け込み、エルフィンド東岸港湾と鉄道網の詳細調査を改めて依頼し、イザベラ・ファーレンスからの追加報告書を待つ一か月半の間、作戦局全参謀を事実上籠城状態に置いて新たな計画立案に着手させた。さらに、フュクシュテルン大通りを挟んだ向かい側にある海軍最高司令部参謀たちも巻き込み、陸軍・海軍合同で「海を動脈とする分進合撃」の具体化作業を開始したのである。こうして、従来の中央軍一極集中案に対抗する、新たなエルフィンド侵攻構想の胎動が始まっていた。
北海の軍港ドラッヘクノッヘンと荒海艦隊
オルクセン北部のフィヨルド地形にあるドラッヘクノッヘン港は、北海「荒海」に面した天然の良港であり、商業港と軍港グロスハーフェンを併せ持つ拠点であった。ここには装甲艦や巡洋艦を中心とした荒海艦隊二十六隻が集結し、北海防衛と通商保護を担っていたが、その規模は大陸有数の陸軍国オルクセンにおいては小所帯であった。
失敗作コルモラン型と鯨衝突事故
砲艦メーヴェは、衝角突撃を主戦法とするコルモラン型砲艦三隻の一隻であり、小型船体に強力な蒸気機関と衝角を詰め込んだ「第一猪突隊」として建造された。しかし実際には、荒い北海には船体が小さすぎ、衝角と魚形水雷発射管が揺れを増幅し、未熟な機関は故障を頻発する欠陥艦であった。北海訓練中、僚艦コルモランが鯨に衝突して機関を破損し、メーヴェが荒天の中で曳航して一晩がかりで帰港する事態となり、乗員は疲労困憊のまま母港へ戻った。
屑鉄戦隊と海軍流の明るさ
度重なる故障と演習遅参により、三隻は沿岸防備用の第十一戦隊に回され、「屑鉄艦隊」と蔑称されるようになった。だが乗員たちは自嘲を込めてその名を自称し、帰港時には他艦からの辛辣な魔術信号や旗旒信号を「無事の帰還を喜ぶ挨拶」と受け取り、大笑いして応じていた。艦を家であり恋人とみなす海軍気質のもと、彼らは欠陥艦を嘆きつつも自分たちの艦を誇り、技量と工夫で「どうにか使い物にする」ことに喜びを見出していた。
海軍戦力への不安とエルフィンド装甲艦
この底抜けの明るさの裏には、対エルフィンド戦が近いとの噂に対する深い不安があった。陸軍が圧倒的戦力に自信を深める一方、海上戦力だけを比べればエルフィンドの優位は明白であり、とくに排水量九一三〇トンを誇る装甲艦リョースタとスヴァルタの二隻は、他国士官から「オルクセン海軍が全滅を賭しても沈められない」と評される化け物艦であった。屑鉄戦隊の笑いと自嘲は、この圧倒的劣勢を前にした海軍全体の鬱屈を振り払うための、最後の盾でもあった。
第三章 戦争計画
作戦計画の位置づけと戦場環境
第六号作戦計画第六次修正は、従来案を大きく改めた対エルフィンド侵攻案であり、ベレリアント半島全域と周辺空海域を戦場と想定していた。半島は山脈と森林、湖沼と河川が多く平野が少ないが、気候は星欧北部と大差なく、冬も比較的温暖で積雪は限定的であった。
敵勢力評価と兵力配備
エルフィンド陸上戦力は最大三七万と見積もられ、その大半は魔術通信と探知能力を備えた白エルフ兵で構成されていた。ただし兵器生産基盤は弱く、小銃や火砲はキャメロット製輸入品に依存していた。海軍は装甲艦二隻を含む小規模ながら高性能艦隊をファルマリア港に集中させていた。オルクセン側は三個軍と総予備を合わせて四六万八千を動員し、メルトメア州各地に司令部を置くこととされた。
第一軍・第二軍・第三軍の役割
第一軍はシルヴァン川東岸の渡渉地から渡河し、架橋と梯団輸送によって一個軍団を前進させ、半島東岸のファルマリア港を奪取する任務を負っていた。ここを敵唯一の海軍根拠地の破壊と、自軍の海上兵站拠点化の双方に用いる構想であり、港湾施設と引込線を利用して鉄道車両と補給物資を大量投入する計画であった。第二軍はシルヴァン川南岸のノグロスト市を占領し、西岸地帯の警戒と側面防護を担い、戦況が許せば西方島嶼アレッセア島などの占領により、鉱山と港湾を含む有利な交渉材料を確保することが目的とされた。第三軍は旧ドワーフ領首都モーリアとパウル橋梁群を押さえ、シルヴァン北岸へ進出したのち、最大穀倉地帯アルトカレ平原と要塞都市アルトリアを攻略し、半島中央山脈を越えてネニング平原へ出る進撃軸と位置づけられていた。
柔軟性を重視した二正面進撃構想
本修正案の眼目は、第一軍と第三軍による二方向進撃の柔軟性にあった。海軍が敵艦隊撃滅に成功した場合、第一軍はファルマリア港から東岸の鉄道路と港群を辿って北上し、第三軍はアルトカレとアルトリアを突破して中央山脈を越え、ネニング平原で合流して敵主力と首都ティリアンを圧倒する構想であった。敵の動員力から見て両軍を同時に拘束することは不可能と判断され、一方が拘束されれば他方が首都方面へ雪崩込む分進合撃の発想が採用されていた。海上兵力撃滅に失敗した場合は、第一軍がファルマリア施設を破壊して後退し、第三軍に予備兵力を集中して従来案通り単独でネニング平原突破を図る予備案も並立していた。
聖地保護と政治的配慮、作戦名「白銀の場合」
作戦地域にはエルフおよび旧ダークエルフの聖地が多数存在し、参謀本部は今後の人口回復を見込みつつ、これらを戦禍から厳重に保護することを各軍に命じていた。また技術と道徳意識が発達した列強諸国の監視を意識し、観戦武官や記者への対応を含め、一兵士に至るまで軍規を徹底することが強調されていた。本計画は国王グスタフの即断で裁可され、陛下は第一軍親率の意向を示すとともに、戦時大本営の編制と作戦名「白銀の場合」を下賜した。計画書は参謀総長ゼーベックと作戦立案の中心である少将グレーベンの連署をもって正式文書とされていたのである。
ラピアカプツェという農業・軍事都市
オルクセン北部メルトメア州州都ラピアカプツェは人口十四万五千の中規模都市であり、工業より農業・酪農・牧羊を中心産業として発展していた。国内最大規模の農業大学と農事試験場を擁し、バロメッツ種羊の改良と羊毛・食肉生産で国防用被服にも寄与するなど、穀倉地帯かつ羊毛拠点として重要な役割を果たしていた。濃厚なビールと羊肉料理は都市の名物となっていた。
軍都としての役割と北部軍司令部
一方でラピアカプツェは、第七擲弾兵師団や重砲旅団、工兵・補給隊が駐屯する軍都でもあった。ロザリンド会戦後、グスタフ王が軍団を八つに整理し各州都を生存競争と開発の中心に据えた結果、州・県・郡に軍組織が根づき、オルクセンは軍事国家として形成されていった。その中枢として北部三州を統括する北部軍司令部が置かれ、猛将アロイジウス・シュヴェーリン上級大将が指揮を執っていた。
闘将シュヴェーリンの知的な素顔
シュヴェーリンは戦場では豪放磊落な闘将として知られていたが、私的な場では慎ましく教養ある勉強家であった。参謀長ブルーメンタール少将に新兵站技術「刻印魔術式物品管理法」などを丁寧に質問し、自らメモして理解に努める姿が見られた。また急速に整備された国境兵站拠点駅群や、その財源として旧式小銃を対外売却した参謀本部の機動力を正しく評価しつつ、関係者への配慮も口にしていた。
読書家としての趣味と「舞台俳優」としての自覚
彼は成人後に文字を学び、兵学書・歴史書のみならずキャメロット文学、とりわけ大劇作家の戯曲を愛読していた。条約調印随員として訪れたキャメロット文化に強い影響を受け、ブレンデッドウィスキーや劇文学を嗜好するようになった。しかし兵の前ではあくまで粗野で豪快な「親父」を演じることを矜持とし、「この世は舞台、生きとし生ける者はみな役者」と語り、自身の教養を隠して士気を高める役割に徹していた。
王への負い目と軍装へのこだわり
シュヴェーリンは過去のロザリンド会戦に関わる出来事からグスタフ王に対する深い負い目を抱き、決して王命を裏切らないと誓っていた。将来戦では略帽着用を命じる王命がある中で、兵の士気を鼓舞する象徴的な軍用兜や派手な軍装をどう扱うかに悩み続けていた。そんな折、王から私信とともに軽い小包が届けられ、中身を読んだ彼は深く感謝し、それを略帽に巻く防塵眼鏡として戦場に持ち込む決意を固めた。その品はやがて来る戦役における彼の軍装の象徴となり、王への忠誠と「役者」としての決意を体現する小道具となったのである。
危険任務募集と奇妙な選考
星暦八七六年初夏、軍所属コボルト向けに「極めて危険な任務・高額手当・体格要件あり」とする募集が全衛戍地で掲示された。応募者は聴力や高所適性、三半規管の強さを測るため、山登りや回転・上下揺れ装置、ブランコ、校舎からの飛び降り試験など、目が回るような身体テストを課され、魔術力の有無はほとんど重視されなかった。選抜の結果、約五十名が合格し、首都南方シャーリーホーフの「陸軍臨時気象観測隊」への配属辞令を受けた。
大鷲軍団とコボルト飛行兵構想
シャーリーホーフは国軍大鷲軍団の本拠地であり、巨大な離発着場と大鷲約五十羽が駐屯していた。大鷲軍団は三角測量式魔術探知や夜間偵察の必要から、装備の増加と大鷲の夜目の弱さに悩んでいた。そこで司令官ラインダース少将は、軽量で数字に強く器用なコボルトを大鷲の首元に乗せ、測定・航法・記録を担当させる構想を提案し、参謀本部の承認を得て今回の募集・選抜に至った。
訓練の定着と待遇・装備の整備
八月下旬には大鷲とコボルトの二人一組による飛行訓練が本格化し、高度測定や地図読解、魔術探知・通信をコボルトが担当することで大鷲は飛行に専念できるようになった。寒さと風への対策として、防寒飛行服・革帽・長靴に加え、小型防塵眼鏡が支給され、これは後にオーク向けにも転用された。さらに大鷲軍団の豊富な肉食配給にコボルトも加えられ、霜降り肉や生ハムなど贅沢な食事と、一回の飛行で六ラング(上限付き)の高額手当が支給されたため、隊員たちは危険を承知で任務に積極的になっていった。
タウベルトとドーラのペア、そして「飛行兵」の誕生
かつて浮橋倒壊事故から救われた元輜重兵フロリアン・タウベルトも応募して選抜され、大鷲将校アントン・ドーラ中尉の相棒となった。二人は階級差をあまり気にせず空中で打ち解け、タウベルトは「コボルト史上初めて空を飛んでいる」と高揚し、大鷲側もその若さと度胸を評価した。選抜・訓練に協力してきたコボルトの学者バーンスタイン=メルヘンナー教授は、参謀本部が彼らに与えた正式呼称が「飛行兵(ピロート)」であると伝えた。これは大鷲を船に喩え、その水先案内人としての役割を込めた名称であり、ラインダースはその響きを気に入った。
メルヘンナー教授の試乗と今後への布石
メルヘンナー教授は今後の選抜・養成法を確立するため、自身も飛行装備を身に着けて体験飛行を希望した。ラインダースは彼女を「メルヘンナー」と名で呼ぶよう求められ、騎士道的礼を尽くして応じたうえで、自らの背に乗せて空へ案内することを約した。こうしてコボルトと大鷲による新たな空の兵科「飛行兵」は、危険と引き換えに高待遇と誇りを得つつ、本格運用へ向けて動き出していたのである。
工業都市ヴィッセンとヴィッセル社の位置付け
オルクセン西部リーベスヴィッセン準州の大河メテオーア川沿いにあるヴィッセンは、人口十万超の工業都市であり、炭鉱・馬車製造・重工業の三企業体、とりわけ鉄鋼・兵器最大手ヴィッセル社によって発展していた。メテオーア川と運河網は首都やグロワール・アルビニー、さらには北星洋へ通じる重要な水運路であった。
ヴィッセル社創業と蒸気船・製鉄への挑戦
ヴィッセル社はデュートネ戦争期、ドワーフ棟梁ヴィーリ・レギンがグスタフ王の依頼で蒸気船を建造したことから始まり、その成功を受けて鉄鋼製造にも参入した。水力と蒸気機関を用いた小さな研究炉から出発し、キャメロット技術を取り込みつつモリム鋼の復活を最終目標に、鋼材・銃身・鋳鋼砲の生産へと段階的に成功していった。
近代化を牽引する巨大企業への成長
八五〇年代以降、ヴィッセル社は鋼製火砲や鉄道車輪・車軸の量産、モリム鋼製砲の開発によって国家機密技術を保有するようになり、国内鉄鋼生産のほぼ全てを担う企業へ成長した。二万名超の従業員を抱え、鉄鋼材料・車両部材・兵器を国内供給するとともに、新大陸や華国への輸出も拡大し、研究部ではモリム鋼の更なる高性能化に取り組んでいた。
レギン親子と工場の日常
魔種族である創業者ヴィーリは会長となった今も工場の隅々を巡視し、自ら鍛工として勤労賞用の精巧な鋼製家具を叩き続けていた。社長に据えられた息子ヴェストは本社で経営を担い、父から「鉄も叩けぬドワーフ」と叱咤されながら鍛えられていた。
参謀本部からの大量発注と戦備増産の察知
星暦八七六年八月末、ヴェストが持ち込んだ国軍参謀本部発注書には、工兵用鉄製架橋舟三百艘の新規注文が記されていた。これは直前の榴弾砲・砲弾大量発注や小銃製造冶具の供給要請、膨大な刻印魔術式金属板注文に続くものであり、ヴィーリは納期前倒しを命じると同時に、参謀本部が臨時軍事会計費を乱用する規模から、デュートネ戦争時を思わせる国家的な戦備増産が始まったと直感した。かつてエルフィンドに滅ぼされたドワーフ国出身の彼にとって、それはグスタフ王を支えつつ祖国を守ろうとする技術者・愛国者としての決意を新たにさせる出来事であった。
リントヴルム岬とベラファラス湾の地理的状況
メルトメア州リントヴルム岬は、巨大な翼竜の上半身のような形状をしたオルクセン最北端の岬であり、ベレリアント半島付け根のベラファラス湾南岸に位置していた。対岸一四キロ先にはエルフィンド領ヴィンヤマル岬と「大灯台」があり、湾奥北側にはエルフィンド最大の商港兼軍港ファルマリアと大河シルヴァン川の河口があった。この海域は豊かな漁場たり得たが、エルフィンド軍艦の出入りが多く情勢が剣呑であるため、オルクセン側漁師は主に岬以南で漁を行っていた。
海洋生物学者を装った二頭のオークの来訪
星暦八七六年八月下旬、首都ヴィルトシュヴァイン大学海洋生物学科所属と名乗るオットー・リーデンブロック教授と、その甥で助手という触れ込みのアクセル・リーデンブロックが、リントヴルム岬近くの漁村に現れた。彼らは鯨類・海豚類・鯱類の回遊を研究していると説明し、宿兼酒場に滞在しつつ、村人と酒席を共にして気さくに交流し、次第に信頼を得ていった。
岬上の観測小屋建設と「研究」活動
やがて首都から干し肉やワイン、缶詰、測量器具、双眼鏡、ロープ、ランプなどの荷が届き、二頭は岬上に小屋を建てるよう地元の大工に依頼した。国の許可書類も提示し、前払いの報酬を示したことで、大工は強風に備えた岩積み基礎と防水焼き板、竈を備えた頑丈な小屋を建てた。二頭は荷を運び入れて小屋に泊まり込み、測量機で海上方位を測り、風向計で風を記録し、双眼鏡で日がな一日海を観察するなど、「鯨類観測」に励んでいるように振る舞っていた。
電信による報告と偽装された情報
数日に一度、甥のアクセルは村の郵便局に赴き、海洋生物学科宛の電報を打った。内容は「ナガス二、スナメリ三、シャチ六、湾内にあり」「スナメリ一、湾外へ出る」など鯨類の動向に見える簡素な報告であり、局員たちはこの海域に多様な鯨類が来ていることに驚いていた。また、彼ら宛の返信電報には「母、症状重し」「病状、変化なし」とあり、親族の闘病をめぐる私事のやり取りとして受け取られていた。村人たちは二頭を気遣い、同情を寄せていた。
漁船を利用した湾内測深と本当の目的
二頭は謝礼を弾んで漁船を雇い、当初は岬周辺、その後はベラファラス湾内まで進出して測鉛を垂らし、水深を測定した。ただしエルフィンド領側水域には足を踏み入れず、周縁部を回るにとどめた。彼らはこれを鯨類の回遊路調査と説明し、その結果も電報として送信したが、その実態は湾内の水深・地形・航行条件を把握する軍事的偵察であった。
偽装の正体と監視対象の実像
実際にはヴィルトシュヴァイン大学に海洋生物学科は存在せず、送信電報は国軍参謀本部兵要地誌局に転送されていた。さらに報告された鯨類の中には、本来この海域に回遊しない種も含まれており、内容自体が偽装であった。小屋での会話から、二頭はエルフィンド海軍艦艇の不活発ぶりや練度不足を論じ、任務の終わりが見えない苦労をこぼしていた。真の身分は、教授を名乗るオークが陸軍測地測量部少佐、甥を名乗るオークが海軍大尉であり、彼らが監視していたのは鯨類ではなく、ファルマリア港を出入りするエルフィンド海軍艦艇の動静であった。
第四章 エルフィンド外交書簡事件
参謀本部の大規模戦争準備
国軍参謀本部では、各兵科監や海軍とも協働し、戦時増産体制、規則改定、兵站整備など膨大な準備作業が進められていた。造兵廠の小銃生産拡張計画、砲弾製造、輜重馬車や鉄道車両の事前発注、野戦電信用物資の確保など、開戦直後に即応できる体制構築が徹底された。また北海沿岸砲台の点検や、起伏や街道を確認する参謀旅行も行われ、実戦を想定した多面的準備が重ねられた。
エルフィンドへの不信と挑発方針
参謀本部はエルフィンドとの戦争が不可避であると判断し、同国の外交姿勢に失望していた。参謀次長グレーベンは挑発によって相手に初弾を撃たせ、大儀名分を得て開戦すべきと考えた。しかし軍事的挑発案は国王グスタフらによって却下され、まず外交的挑発を優先する方針が示された。ただし戦争準備そのものは継続承認され、必要なら王室費や官房機密費を使ってよいと国王が明言したため、グレーベンはさらに戦備を加速させた。
商船徴用計画と義勇艦隊法の適用準備
九月、グレーベンは国有汽船会社社長フォアベルクを参謀本部に招致し、商船一七隻の徴用可能性を確認した。義勇艦隊法に基づき、特定日時に国内港へ集結させることを求め、最短三日から最長二週間で集合可能との回答を得た。フォアベルクは当初困惑したが、オルクセンの「最大の懸案」が近づいているという含意を察し、この依頼を自らの一存で承諾した。彼自身もロザリンド会戦で家族を失っており、決意のこもった協力が示された。
秋のオルクセンと射場への召集
オルクセンは秋を迎え、街路樹のオオマテバシイが巨大なドングリを落とし始めていた。ディネルース・アンダリエルは、参謀長らを伴い第一擲弾兵師団衛戍地シュラッシュトロスを訪問した。これはグスタフ王から「良いものを見せる」と日時指定で命じられた公務であり、現地には王のほか騎兵監ツィーテン上級大将や参謀、技官、ヴィッセル社の技師らが集まっていた。
グラックストン環状機関砲の衝撃
射場に現れたのは、細い銃身を束ねた奇妙な火器であり、上部の弾倉と手回しハンドルを備えた多銃身機関砲であった。発射が始まると小さな連続音とともに弾丸が雨あられと放たれ、標的は瞬く間に蜂の巣となって崩れ落ちた。これはセンチュリースターの医師グラックストンが考案し、オルクセンが製造権を購入して自国の一一ミリ弾仕様に改造した「グラックストン環状機関砲七六年型」であり、その殺傷力にディネルースは戦慄した。
騎兵の終焉と役割転換の宣告
ツィーテンは、この兵器の普及は騎兵という兵科そのものを滅ぼすと嘆いた。グスタフは突撃主体の時代は終わり、騎兵は機動力を生かして繞回・下馬戦闘を行う「乗馬歩兵」とならねば生き残れないと断じたうえで、この機関砲こそ騎兵の防御火力を補う武器になると説明した。そして量産後は六門をアンファングリアの各騎兵連隊に優先配備するとディネルースに命じた。
ツィーテンの辞退と国王の説得
後日、ツィーテンは第二軍司令官就任を辞退したいと願い出た。理由は膝のリウマチと、新兵器や新兵学についていけないという自覚であった。グスタフは邸宅を訪ね、自ら説得にあたった。作戦は参謀が立案し、司令官は上に座って責任を負えばよいと語り、最新知識より統率と覚悟を重視する持論を示したうえで、耳打ちで重大な計画を明かした。ツィーテンはその言葉に打たれ、「這ってでも」従軍すると応じた。
焼きドングリと街路樹に込めた治世思想
帰路、グスタフは突然馬車を停め、露店で焼きドングリと白ワインを買い込み、ディネルースに振る舞った。オオマテバシイの実は毒がなく、焼くとほんのり甘く、白ワインと合わせれば驚くほど滋味深い味となった。グスタフは、街路樹としてこの樹種を一面に植えたのは、飢饉や包囲戦の際の非常食・家畜餌・最貧民の「元手の要らぬ商売」の備えであったと明かした。いまは飢えた民もおらず街路樹の実も拾われないが、それは治世が成功している証だと語る。ディネルースは、藁小屋の時代から民を導いてきた王の一二〇年に及ぶ積み重ねを思い、狭量な感情を捨てる決意を固めた。
予期せぬ「回帰不能点」の到来
星暦八七六年一〇月一三日、オルクセン首都ヴィルトシュヴァインの国王官邸にて、後戻り不可能な転機となる外交事件が発生した。この日、キャメロットのマクスウェル公使と、魔種族研究の大家でありグスタフと私的親交も深いアストン特使が来訪し、エルフィンド女王からグスタフ宛ての封印親書を仲介する役目を担っていた。グスタフは、これを長期的な外交応酬の起点とし、来年夏季の開戦を視野に入れた交渉の材料とする腹積もりであった。
エルフィンド親書の表向きの趣旨
親書はアールブ語とキャメロット語の二通で構成され、時候の挨拶を備えた形式的には整った文書であった。内容は「オルクセンはエルフィンドの内政に干渉しないと文書で確約せよ」という趣旨であり、ダークエルフ大量殺戮については一切言及を避け、抽象的表現で自国の弱点を隠す意図が読み取れた。白エルフ特有の言葉への自信と慢心がにじむ文面であった。
「流域」という語が孕んだ致命的瑕疵
グスタフは二通を読み比べ、末尾近くの一文に重大な問題を見出した。エルフィンド政府は「シルヴァン川流域に関する全ての権利を留保し、オルクセンは二度と干渉するな」と記していたのである。「流域」という語は外交上きわめて危険な地理概念であり、シルヴァン川南岸にはオルクセン領が存在する以上、その「全ての権利留保」は「オルクセン領からも出て行け」と解釈可能であった。しかも、訳や改竄を一切加えずにその読み方を主張し得る文言であり、オルクセンへの最後通牒とすら論じられる内容となっていた。
国王の演技と大義名分の確保
グスタフはエルフィンド側の真意がそこまで敵対的でないことを理解しつつも、この致命的失策を開戦の大義名分とする決心を一瞬で下した。彼は怒りに震える芝居を打ち、「我が領土から出ていけとは、これほど無礼な親書は見たことがない」とアストンとマクスウェルの前で強く非難し、両名に「侮辱的文書」としての認識を刷り込んだ。特使らは顔面蒼白となって文書を確認し、キャメロット本国への報告を急ぐこととなった。二人が退出すると、グスタフはビューローと共に、これで「他国からも疑義を挟まれにくい大義名分を得た」と狂喜した。
戦争決定と暗号「白銀」の発動
直ちにゼーベック参謀総長、海軍最高司令官クネルスドルフ、そしてグレーベンらが官邸に召集された。陸軍は即応可能、海軍も新造艦は未完成ながら季節的には作戦行動が可能と判断し、軍は戦争遂行の保証を与えた。グスタフは「ならば戦争だ」と宣言し、その日のうちに国軍参謀本部は各軍・各師団へ最短の動員電文を発した。その本文はただ一語、「白銀(ジルバーン)」であり、準備され尽くしていた戦時動員計画が最終段階へ移行し、エルフィンド国境へ向けた兵力展開が開始されたのである。
第五章 オークシャン・ソルジャーズ 戦争のはじめかた
魔の一二日間と奇襲構想
オルクセン国軍参謀本部は、動員令発令から戦時編成部隊が指定展開地点への移動を完了するまでの一二日間を「魔の一二日間」と呼び、これを戦争開始に不可避な所要期間として受け止めていた。対エルフィンド侵攻計画「白銀の場合(ケース・ジルバーン)」においても、国内全土から約五〇万の兵を動員し国境地帯に展開させるのに同期間を要すると見積もっていたが、この速度はかつて七〇万を動員するのに四か月を要したグロワール軍と比較しても異常なほど短い水準であった。参謀本部は、この高効率な動員力を前提に、エルフィンドおよび周辺諸国に戦時体制を悟らせないまま国境へ兵力を集結させ、敵側の総動員が整う前に奇襲的開戦を断行するという野心的構想を抱いていた。
外交事件の秘匿と報道管制
開戦の大義名分となった「エルフィンド外交書簡事件」について、オルクセン政府は直ちには国内外に公表せず、開戦と同時に明らかにする方針を決定した。この非公表措置により、国内世論の早期沸騰や義勇兵の殺到、諸外国の過剰反応を避けつつ、奇襲性を保持することを優先したのである。動員は表向き「演習」として実施され、予備役将校や兵たちにも通常の演習動員と説明されたため、出発に際しての歓送パレードや壮行儀式は行われなかった。家族や一部の者は違和感を覚えたものの、多くの国民は平時の演習と同じものと受け止めた。また、各軍管区司令部は「陸軍及び海軍の行動に関する軍機戦略の報道禁止令」を発令し、演習時にも慣例的に用いられてきた報道管制を拡大適用して、部隊移動や鉄道軍事使用の詳細が紙面に載らぬよう統制した。
後備役動員の先送りと秘匿を支える国情
オルクセン軍は、戦時に出征師団の背後に編成される「留守師団」を構成する後備役兵と国民義勇兵の動員を、開戦時まで意図的に行わない方針を採った。後備兵まで動員すれば国民生活への影響が大きく、対外的にも全面戦時体制移行が明白となるため、奇襲性維持の観点から抑制したのである。その一方で、オルクセンは平時から国有倉庫と鉄道駅に糧食を分散備蓄しており、戦前特別の集積行動を取らずとも短期戦備が整う体制を持っていた。鉄道は国有会社が一元管理していたため、軍事輸送に伴う情報統制が容易であり、魔種族国家特有の事情として外国人居住者や旅行者の数も少ないことから、部隊移動の目撃情報が国外に拡散しにくかった。さらにエルフィンドとは国交も人的交流もほぼ皆無であり、種族的外見差から密偵浸透も困難であったため、国境近傍への兵力集結も他国関係と比べて格段に秘匿しやすい状況にあった。
指揮官たちの不安と海軍への重圧
このように周到な準備が整えられていた一方で、「魔の一二日間」に事情を知る上層部の心理は必ずしも平穏ではなかった。作戦の天才と称される参謀本部次長グレーベン少将でさえ、白エルフ側の対応や国際情勢の不測を想像し過ぎるあまり、終始蒼白な面持ちで不安を隠しきれなかった。とりわけ海軍は、戦力面でエルフィンド海軍に劣勢であり、戦力均衡を目指して建造中だった主力新造艦が開戦に間に合わない現実に苦しんでいた。海軍幹部の中には、「この時期にエルフィンドと戦う愚行は誰の発案か」と嘆息する者まで現れたが、陸軍との激しい主導権争いの末、開戦第一撃は海軍が担うことで決着していた。手持ちの既存艦隊で、準備の整っていない敵艦隊に痛打を与えなければ、第一軍や第三軍の陸上作戦計画が根本から狂うことも理解していたため、海軍は短期間で整備・給炭・弾薬補充と乗員召集を完了させるべく、祈るような心境で開戦予定日を待つことになった。
ディネルース出征前夜と王の平常心
この緊張が極度に高まる時期、ダークエルフ戦闘集団アンファングリア旅団長ディネルース・アンダリエルは、部隊の極秘出征開始に先立ち、臣下として国王グスタフに挨拶するため官邸を訪れた。アンファングリア旅団は第一軍隷下として戦闘序列に組み込まれ、エルフィンド国境突破の最先鋒を務める任務を与えられていた。彼女はグスタフから贈られた熊毛帽や銀製騎兵将官服、野戦双眼鏡、火酒入り銀水筒、香油や石鹸など従軍に必要な贈り物を身にまとい、さらに騎兵用として特注された革製腕時計を左手首に装着していた。これらは王が彼女を最前線へ送り出す覚悟と信頼の証であり、ディネルースも白エルフを「喰らい尽くす」決意を新たにしていた。
官邸に着いたディネルースは、執務室ではなく、王が隠れ家のように使う図書室で、グスタフがハウンドのアドヴィンを傍らに本を読んでいる姿を目にした。開戦直前でありながら平時と変わらぬ落ち着きを保つ王の様子に、彼女は思わず吹き出し、「事態ここに至っても変わらぬ我が王ほど頼もしい存在はない」と感嘆した。グスタフはそれに笑みを返し、星欧古来の奇譚集を一冊手渡して「これを持っていけ。読み終わったら棚に返しておいてくれ」と告げた。このやり取りは、互いに生還と再会を疑わないという、言葉少なな確認でもあった。すでに私的な別れと感情の交わし合いは数日前に済ませており、この日ふたりが交わしたのは王と旅団長としての簡潔な儀礼のみであったが、その背後には、一二〇年の治世と数々の改革を重ねてきた王と、その牙として先鋒に立つ戦士との、深い信頼と覚悟が確かに存在していた。
星暦八七六年一〇月一四日と海軍会議
侵攻開始一二日前の星暦八七六年一〇月一四日、エルフィンド外交書簡事件の翌日、既に陸海軍への動員令が発せられていた。海軍本拠地グロスハーフェンでは、荒海艦隊旗艦レーヴェに「各戦隊司令・艦長集合」の信号旗が掲げられ、魔術通信を禁じた上で全指揮官が艦尾の長官公室に集められた。参謀長から事態を知らされた艦長たちは、エルフィンド海軍の優越を熟知しているがゆえに、一様に顔を強張らせたのである。
エルフィンド海軍の脅威と荒海艦隊の決意
彼らが何より恐れていたのは、排水量九一三〇トン、三〇センチ砲塔四門を備えた装甲艦リョースタとスヴァルタという主力二隻であった。対するオルクセン側主力艦レーヴェ級三隻は排水量六二〇〇トン、二八センチ砲を舷側砲郭内に収めた一世代前の構造であり、火力・防御ともに大きく劣っていた。荒海艦隊司令長官ロイター大将はそれでも「国王から宿敵との決戦に招かれたのだ」と言い切り、遠征可能な全艦で出撃し、沿岸防衛を旧式艦と要塞に委ねる方針を示した。作戦内容と緘口令が伝達されたのち、艦長たちは習わしのビールを一気に飲み干し、半ば自暴自棄にも似た陽気さで「やってやる」と昂揚して解散した。ロイターは、もし艦隊が全滅してもリョースタとスヴァルタを道連れに出来ると覚悟を固めていた。
コルモランの新型機関と無煙炭の大量供給
砲艦メーヴェ艦長グリンデマン中佐は会議後、自艦に戻らず、修理中の姉妹艦コルモランが停泊するヴィッセル造船所へ急行した。コルモランは新型の羽根車式蒸気機関を採用していたが、構造未熟と低質炭使用により故障続きであり、このままでは「屑鉄戦隊」の一隻が戦列に戻れない可能性があった。グリンデマンは信頼する機関曹長ホルマンを事前に派遣して実情を把握させており、敵艦に体当たりするその瞬間まで動けばよいと腹を括って、出撃に間に合わせる決意を固めた。翌日には、平時なら一年分に相当する一級無煙炭が鉄道と給炭船でグロスハーフェンへ続々と搬入され、機関科要員たちを歓喜させた。
動員令「白銀」と予備役兵・将校の招集
一方陸軍では、各師団長が暗号電報「白銀」を受信した夜のうちに司令部要員を参集させ、動員目的を秘匿しつつ会計将校に約一六万ラングという擲弾兵師団一個あたりの初期動員費を準備させた。連隊区からは予備役下士官・兵への召集令状が郵便で発送され、必要な行政機関にも通知が行われた。予備役将校もまた通達を受けて軍服と私物を行李に詰め、二〜六日以内に所属連隊へ出頭した。彼らには今回も「演習」と説明され、出征ヘルメットの携行は求められず、略帽での参加が許可されたが、初動訓練は通常より大幅に簡略化され、実動機動演習を前提とした編成だけが急速に進められていった。
軍隊輸送列車と鉄道保守の現場
戦時編成を終えた各部隊は、国有鉄道社の職員と綿密に打ち合わせた上で、特別軍隊輸送列車に乗り込み北方へ移送された。下士卒は多くが貨車、それも無蓋貨車に詰め込まれ、巨躯のオークたちは窮屈な姿勢を強いられた。通信隊や輜重隊のコボルトは辛うじて客車の一部に乗り込んだものの、乗下車の自由はほぼ認められず、停車中も車上で屈伸するだけであった。食事と水・飼料は停車各駅に設けられた貯蔵庫から迅速に配給され、列車の時間厳守のため下車休憩は徹底して禁じられた。この効率的輸送を支えたのが、夜間に膨大な補修作業を行った鉄道保線班である。国有鉄道は路線を特別線から簡易線まで五等級に区分し、軌条高低の許容値や曲線部のスラック、継目管理など詳細な基準を設定していた。若い技師フォークトの指揮のもと、オーク族の線路工たちは歌で調子を合わせながらツルハシで道床を搗き固め、枕木一本ごとに高度を調整した。作業は始発列車の通過前に完了させねばならず、彼らは夜明け近くに焚火を囲んでスコップで焼いたヴルストと卵を食べながら、連日の軍隊列車の行き先表示がいずれも北を示していることに気づき、演習ではない事態の重大さを察しつつも黙していた。
北方兵站拠点への集結と開戦認識
特別軍隊輸送列車が北へ進むにつれ、兵たちは他の軍列車や野戦憲兵、膨大な輜重馬車や天幕群を目にする機会が増え、メルトメア州国境部近郊に入る頃には周囲が軍隊で埋め尽くされていることを悟った。国境五都市には巨大な兵站拠点駅が整備され、列車は次々と兵員・火砲・軍馬・車両・物資を吐き出していった。ここで初めて多くの兵にとって「演習」が「本物の戦争」であることが明白となり、「エルフィンドと戦うのか」という声が自然に上がった。メルトメア州の市民たちは緘口令を守りつつも、自発的に花や軍楽、歓声で兵を見送り、遅れてきた出征の儀礼を静かに形作っていた。兵たちの胸には、興奮と狂喜、畏怖と不安、家族や将来への思いがないまぜとなって去来していた。
四六万八〇〇〇名と軍隊が意味するもの
こうして六本の複線鉄道と支線網をフルに活用して展開されたオルクセン軍の一次動員兵力は、東西約二六〇キロに及ぶ半島国境線に対し約四六万八〇〇〇名という最大規模となった。その内訳には、オーク、コボルト、大鷲、ダークエルフなど多様な種族が含まれ、職業軍人から新任参謀、元教師、屋台商人、博徒、染物職人、歓楽街の下働きに至るまで、各自の生活と過去を背負った個々人がいた。野砲や山砲、弾薬箱、軍馬、輜重馬車にも、それぞれ鉱石や木材としての起源と職工たちの手仕事の履歴がある。物資と人間の膨大な総体が、周到な計画と鉄道・兵站技術によって一つの戦力として制御され、国境に集約されていったのである。軍とは、軍隊とは、決してある日突然どこからともなく出現する魔法の産物ではなく、このような社会全体の積み重ねと動員の結果であることが、ここで改めて示されていた。
一〇月二〇日 国王グスタフの極秘出発
侵攻開始六日前、国王グスタフは官邸の警備をアンファングリア予備兵力による偽装小隊で維持しつつ、裏門から平服で無紋の馬車に乗り出立した。農務省裏の停車場で馬車を乗り換えた後、首都演習場で軍服に着替え、専用列車「センチュリースター号」で北方戦域へ向かった。この前日に大学学長シュタインメッツが強硬開戦を進言したが、彼でさえ動員と戦争決意に気づいておらず、機密保持が完全に機能していることをグスタフは確認して安堵していたのである。
王専用列車とダークエルフ特別警護班
センチュリースター号は展望車、寝台車、食堂車、護衛車、魔術通信車など八両から成る豪奢な専用編成であり、通常は行幸に用いられていた。この列車には、ディネルースが選抜したダークエルフ兵二六名の特別警護班が同乗し、二四時間体制で王を護衛する体制が敷かれた。彼女は王に対し、これらの兵を私的側近に転用すれば自ら王を討つとまで忠告し、王への献身と同時に自分への義理立ての線引きを明確に示していた。
宣戦布告を巡る王と参謀本部の対立と決着
グスタフは出発前に内務・外務大臣と協議し、開戦当日の侵攻二時間前にキャメロット駐在公使を通じてエルフィンドへ宣戦布告を仲介手交させる方針を固めていた。参謀本部は奇襲効果の低下を理由に反対したが、グスタフは騎士道と後世の歴史評価を理由に譲らず、宣戦布告なく攻め込めばオルクセンの汚名になると説得した。そのうえで、外交儀礼や通信手続きから見て二時間では敵全土に情報が行き渡らないと計算し、奇襲性は維持できると判断した。また同時刻に在オルクセン各国公使を召集し、戦争状態と外交書簡事件を公表する予備策も用意した。
一〇月二三日 ラピアカプツェ兵站総監部とカイトの兵站理念
侵攻開始四日前、メルトメア州ラピアカプツェには北部軍司令部の跡地を引き継ぐ形で「白銀」作戦の後方兵站総監部が設置され、国軍参謀本部兵站局長ギリム・カイト少将が兵站総監に就任した。兵站総監部は本土から野戦軍への補給、負傷者と故障兵器の後送、兵站拠点や野戦病院、通信線の維持と防御など、作戦の動脈と静脈を一元的に統制する機関となった。カイトは国有鉄道のダイヤグラムを用いた厳密な列車運行管理と「送り込み過ぎない」方針を徹底し、過剰輸送による詰まりを避ける兵站運用を構築したのである。
刻印魔術式物品管理法の限定導入
カイトは新技術である刻印魔術式物品管理法を全面採用せず、生鮮食料と飼葉類の管理に限定して導入した。貨車の通風枠に冷却・送風機能付きの刻印魔術板を取り付け、輸送中に魔術残滓を帯びた積荷を兵站駅で優先的に荷下ろしできるようにし、倉庫では残滓量と帳簿により消費期限を管理して古いものから前線に送った。また荷下ろしが遅れた場合でも、貨車自体が簡易保管庫として腐敗と廃棄を抑える効果を発揮した。このようにカイトは既存の整理・帳簿制度に新技術を最小限に重ねることで、堅実さを保ちながら兵站効率を引き上げ、「兵站とは組織の力による国力の発揮である」という自らの理念を実践していた。
オルクセン軍兵站の実感と行軍開始
アンファングリア旅団は第一軍所属としてメルトメア州アーンバンド駅に到着し、侵攻開始直前までの宿営地へ前進を開始していた。この兵力展開の過程で、旅団は自前の輜重隊をほとんど使用せずに済むほど、オルクセン軍の兵站が周到に整えられている現実を思い知らされていた。ディネルースら旅団幹部は、行軍一覧表を作成して第一軍第一軍団司令部に提出し、部隊順序、到達予定時刻、宿泊地などを軍団参謀と詳細に打ち合わせ、指定街道に沿って計画的な行軍を行っていた。
街道整備と交通管制による円滑な展開
アンファングリア旅団に割り当てられた街道は、先行した工兵隊により既に補修されていた。狭隘部は拡幅され、路面の凹凸は均され、橋梁は補強が進められており、平野部には輜重馬車の休憩と行き違いを想定した広い待機スペースが用意されていた。これらの地点には専属の野戦憲兵隊が配置され、理由なく他任務に転用することを禁じられたうえで交通整理を一手に担っていた。行軍部隊の大休止地点は村落を中心に指定され、水源へのアクセスと軍馬給水用木樋、飼葉集積、野戦調理馬車隊や野戦釜、製パン中隊・精肉隊などが事前に配置されており、大部隊が通過しても行軍と補給が渋滞なく続行できる体制が整っていた。
水と糧食を支える新装備と輜重馬車の運用
兵と軍馬の飲料水・調理用水は、国軍規格型二〇リットル輸送缶と一〇リットル汎用飲料水缶により運搬されていた。前者はブリキ製の寸詰まりの三角柱形缶でねじ式蓋と持ち手を備え、後者は角の丸い四角柱形のアルミ缶で片留め式蓋を持ち、いずれも輜重馬車に大量積載しやすい形状であった。加えて七五〇リットル水槽車も投入され、手動ポンプと蛇口を備えた専用車両として大量給水を可能としていた。宿営地の村外平野には約三百両もの輜重馬車が整然と横列に並べられ、列ごとに飼葉、糧食など積載内容が整理されて臨時倉庫と野戦厩舎を兼ねて運用されていた。車列間には飼葉供台や野戦調理場が設けられ、到着順に車体を並べることで古い物資から優先的に消費し、空になった車体は輓馬を付け替えて補給輸送に復帰させる仕組みとなっていた。
現地重視の指揮教令とエルフィンド軍との比較
アンファングリア旅団は、街道整備と補給体制のみならず、教令レベルでの思想にも驚かされていた。オルクセン軍は「軍用地図に全幅を頼らず、指揮官自らが現地地形を実景として感得すべし」と定め、先遣将校が実際の水源や地形を確認して行軍・宿営を調整することを求めていた。旅団参謀長イアヴァスリルは、この体系的で隙のない軍制に感嘆しつつ、従来のエルフィンド軍のやり方が個々人の経験に依存した児戯のように思えてしまうほどの差を実感していた。もし虐殺を経ずエルフィンドの民のままオルクセン侵攻の日を迎えていたならば、と想像すると背筋が寒くなる一方で、現在はオルクセンの民としてこの軍制の庇護下にあることを心強く感じていた。
ダークエルフ旅団への特別な配慮と戦化粧の下賜
アンファングリア旅団には、行軍前に国王グスタフ名義の特別な下賜品も届けられていた。白岩を粉砕しアンゼリカ草などの精油を混ぜた戦化粧用顔料が樽詰めで送られ、少量の水で延ばせば従来のダークエルフ族の戦化粧を再現できるようになっていた。これはエルフィンドから持ち出す余裕もなく途絶えていた文化の復活であり、旅団総員は狂喜して受け取った。報告によれば輜重馬車二台分の量があり、ディネルースとイアヴァスリルは「半年から一年は存分に暴れられる」と笑い合い、周到な兵站と文化的配慮を兼ね備えたこの戦役準備に対して、あらためて舌を巻いていたのである。
第六章 白銀は招く
艦隊出港と市民の見送り
侵攻開始十四時間前、オルクセン海軍は汽醸運転を経て一斉に抜錨し、主力二六隻がドラッヘクノッヘン港を出港した。乗組員は白い冬季制服に身を包み、旗艦レーヴェを先頭に湾口へ向かった。海望公園には家族や退役軍人らが自発的に集まり、旗旒信号と戯れ歌で艦隊の武運と生還を祈り、艦側も帽振れと信号・アーク灯で「ありがとう」と応答して士気が高まった。艦隊はベラファラス湾最奥のファルマリア港急襲を目標に進撃した。
陸軍第二軍・第三軍の前進と指揮官の思惑
同日午後、第二軍総司令部クラインファスではツィーテン上級大将が、旧ドワーフ領ノグロスト市を目指す三個師団の前進を見守っていた。各軍団・師団には四日前に口頭のみで詳細作戦が伝達され、開戦まで徹底した秘匿が維持されていた。一方第三軍のシュヴェーリン上級大将は、自ら戦の気配を感じるため司令部を侵攻発起点近傍へ前進させ、旧ロザリンド古戦場の峡谷と荒廃した堡塁を前に、過去の激戦と新たな決戦に複雑な感慨を抱きつつ「麗しの古戦場」と高らかに言い放った。
海軍別動隊と夜間大鷲部隊の出撃準備
日没後、老朽艦主体の第一一戦隊「屑鉄戦隊」は主力戦隊後方からベラファラス湾へ突入し、リントヴルム岬の諜報員が発する魔術誘導波を頼りに断崖すれすれを航行した。問題児コルモランには造船所の技師が乗り込み、揺れる洋上で機関調整に追われていた。同時にアーンバンドでは夜間飛行に特化した「ワシミミズク中隊」八羽が出撃準備を進め、大鷲族とコボルト飛行兵が夜間偵察で第一・第三軍を支援する体制を整えた。ラインダース少将はエルフィンド上空を故郷の空として再び飛ぶ一日を「大鷲の日」と位置づけ、種族史的な意味を強調した。
国王大本営の高揚とエルフィンドへの評価
午後五時過ぎ、アーンバンド駅の御用列車センチュリースター号に置かれた国王大本営には、宣戦布告手交完了と各国への戦争状態宣言完了の報が届き、大鷲偵察からはエルフィンド側に特段の警戒が見られないことも伝えられた。グレーベン少将らは敵の怠慢を嘲笑し、外交・軍事・諜報すべてを怠った国家は自ら滅びを招いたと断じた。
グスタフの一二〇年と「歴史の見え方」への自覚
夜空に葡萄月が昇るなか、グスタフ王とゼーベックはロザリンド会戦から一二〇年に及ぶ準備を回想した。農業・工業・軍備・外交・兵站を積み上げてきたオルクセンの歩みは、グスタフ個人の治世と重なっていた。彼は前世で統計職員かつ家庭菜園を楽しむ平凡な人間だったと自認し、専門知識もなく王として一から学び続けてきたことを振り返る。革新的天才ではないが責任だけは投げ出さなかったという自負を持ちつつ、一二〇年かけて到達した奇襲成功が外部からは「ある日突然、野蛮なオークの国が平和なエルフの国を襲った」としか見えまいという歴史認識上の皮肉を意識していた。
艦隊出港と市民の見送り
侵攻開始十四時間前、オルクセン海軍は夜明けとともに汽醸運転を終え、一糸乱れぬ抜錨作業ののち、主力二六隻がドラッヘクノッヘン港を出港した。艦隊は新調の冬季制服で統一され、冬の冷気のなか微速前進で湾口へ向かった。海望公園には家族や退役軍人ら約一〇〇名が自発的に集まり、旗旒信号と魔術通信で安航と帰還を祈った。艦側も帽振れと「ありがとう」の信号・アーク灯で応じ、戯れ歌が響く中、士気は大いに高まった。艦隊は偽装針路と速度調整を織り交ぜつつ、ベラファラス湾最奥ファルマリア港への強襲に進んだ。
第二軍の秘匿前進とツィーテンの決意
同日午後一時、クラインファスの第二軍総司令部では、ツィーテン上級大将が三個師団の前進を静かに見守っていた。目標は旧ドワーフ領シルヴァン川南岸植民地ノグロスト市であり、その一〇キロ手前の侵攻発起地点まで物理・魔術の両面で探知不能な距離を保って進出する計画であった。作戦詳細は四日前に各軍団・師団長へ口頭のみで伝えられ、記録類は一切禁じられていた。ツィーテンは、戦役をオルクセン最後の戦争にすると語ったグスタフの言葉を想起し、その実現方法をなお測りかねながらも、王への信頼ゆえに開戦の瞬間を揺らぎなく待ち続けていた。
第三軍司令部前進とロザリンド古戦場
午後四時、第三軍司令官シュヴェーリン上級大将は、幕僚の反対を押し切り司令部を侵攻発起点近傍へ前進させた。参謀長ブルーメンタールは野戦司令部施設や通信網、騎兵伝令を先行展開させ、指揮空白を生じさせぬよう手配した。日没直前、シュヴェーリンは防塵眼鏡を略帽に巻いた姿で前線に到着し、険しい稜線と黒い森、氷河地形の渓谷、草に埋もれた旧エルフ堡塁を目にした。そこは多くの戦友と旧王を失い、新たな王を得た地ロザリンドであり、彼は「我が麗しの、気高き古戦場」と芝居がかった台詞で感慨を締めくくった。
屑鉄戦隊の突入とリントヴルム岬の誘導
日没後、第一一戦隊こと屑鉄戦隊の三隻は主力の後続としてベラファラス湾に侵入した。半島中央の山脈により海上は早くも闇に包まれていたが、ヴィンヤマル大灯台が遠方に光っていた。問題艦コルモランにはヴィッセル社の技師が乗り込み、揺れる洋上で機関調整に当たっていたが、船酔い必至の状況であった。艦隊はリントヴルム岬の諜報員が発する魔術誘導波を頼りに断崖すれすれを航行し、地形の影に隠れつつ前進した。岬上では諜報員とコボルト諜報員が艦隊通過に歓喜し、作戦が順調に進んでいることが示された。グリンデマンは本隊突入に同道したい思いを抱きながらも、別任務のため進路を分かつことを自覚していた。
夜間偵察部隊「ワシミミズク中隊」の出撃準備
午後五時、アーンバンド郊外の野戦大鷲離着場では、大鷲軍団五〇羽のうち夜間飛行可能な八羽とコボルト飛行兵八名が集結していた。彼らはワシミミズク中隊として第一軍・第三軍の夜間空中偵察を担当する精鋭であり、昼間には既に国境上空ぎりぎりを飛んでエルフィンド側に特異な動きがないことを確認していた。ラインダース少将は自らも鞍具を付けて海軍上空偵察に向かう準備を整え、背にはメルヘンナー教授を乗せていた。出撃前の訓示で彼は、白銀のシルヴァン川や湖沼など父祖の大鷲が愛した故地の空を再び飛ぶ意義を語り、この一日を「大鷲の日」と位置づけ、オルクセンとグスタフへの感謝と敬意を表明した。
国王大本営の熱気とグスタフの一二〇年
午後五時一五分、アーンバンド中央駅の御用列車センチュリースター号に設けられた国王大本営では、宣戦布告と各国への戦争状態通告完了の報が届き、大鷲偵察や前進部隊からエルフィンド側の無警戒ぶりも続々と伝わっていた。グレーベン少将は奇襲を許す国家の怠慢を罵倒し、領土と国民を守れぬ政権には存在資格がないと断じた。月光差すプラットホームでグスタフとゼーベックはロザリンド会戦からの一二〇年を振り返り、農業・工業・軍備・外交・諜報など国家の積み上げがあって初めて今日の奇襲が可能となったと認識していた。同時にグスタフは、前世では統計職員かつ家庭菜園を楽しむ平凡な人間に過ぎなかった自分が、専門知識に乏しいまま王として一から学び続けてきた苦労と限界を自省していた。そして、一二〇年かけた準備の成果である奇襲が、事情を知らぬ他国や後世の歴史家には「ある日突然、野蛮なオークの国が平和なエルフの国を襲った」としか映らぬであろうという皮肉を口にし、その歴史の見え方まで含めて今回の戦役を意識していた。
シルヴァン川渡河直前の緊張
午後五時四五分、侵攻開始一五分前、アンファングリア旅団はシルヴァン川南岸の渡渉点に集結していた。ダークエルフたちは氏族ごとの戦化粧を施し、一年前とはまるで異なる旗と覚悟を胸に、故郷エルフィンドへ憐憫も慈悲もなく進軍する構えであった。魔術探知の結果、対岸には国境哨所の平常勤務以外の気配はなく、奇襲成功は確実視されていた。
火力と輜重を欠いた橋頭堡維持の危険
大河の渡渉は制約が多く、山砲大隊や輜重馬車は水深と負荷の問題から架橋完了まで渡河不能と判断されていた。先行して渡れるのは猟兵と選抜された騎兵、少数の山砲と機関砲のみであり、本格的な野砲と輜重は工兵隊が大型浮橋を完成させるまで最大八時間を要すると見積もられていた。その間、対岸の旅団主力は火力と補給を大きく欠いた脆弱な橋頭堡として、敵の反撃に耐え続けねばならない状況であった。
屑鉄戦隊による河川遡上と重砲支援計画
この弱点を補うため、参謀本部は海軍との協同で砲艦三隻の河川遡上を決断していた。やがて下流から黒い影が近づき、シルヴァン河口から約八キロ遡上した砲艦が縦隊のまま河川中央のオルクセン側に投錨した。彼らは第一一戦隊「屑鉄戦隊」と名乗り、発光信号で「御用は無きなりや」と呼びかけた。各艦の十二センチ砲は陸軍基準では重砲に匹敵し、三隻で重砲中隊を上回る火力を提供するとともに、降ろした汽艇で浮橋架設作業も支援する手筈となっていた。無茶な夜間遡上ではあったが、新大陸戦史と魔術探知を根拠に可能と判断された支援策であった。
出撃前の儀礼と侵攻命令
侵攻開始二分前、ディネルースは火酒を口に含み、参謀長イアヴァスリルと作戦参謀ラエルノアにも回したのち、自らのサーベルを火酒で清めた。戦いに臨み武器や勲章を火酒で清めるのはダークエルフの伝統であり、彼女はその刃を右肩に構えて時刻を待った。十八時ちょうど、砲艦が一斉に戦闘旗を掲げると同時に、ディネルースはサーベルを振り下ろして対岸を指し、「アンファングリア旅団、前へ」と号令を発した。この瞬間、オルクセン王国が総力を挙げた対外戦争、対エルフィンド戦争がついに開幕したのである。
外伝 首都新聞社 開戦当夜
外務省重大発表の報とザウムの帰社
開戦当夜、オルクセン主要紙オストゾンネの編集部に、記者フランク・ザウムが退社時刻を過ぎて駆け込んだ。編集長は、外務省が今夜重大発表を行うとの情報を受けて記者たちを呼び戻しており、ザウムはその先陣として戻ってきた。外務省詰めの記者からは「雰囲気がおかしい」「何かが起きる」という曖昧な情報しか得られておらず、編集部には不穏な緊張が漂っていた。
軍事的兆候の積み重ねと開戦への確信
ザウムは帰社途中、陸軍省詰めの仲間から「首都大学学長シュタインメッツ大将が軍服姿で陸軍省に現れた」との異例の情報を得ていた。ロザリンド会戦世代の重鎮である彼の軍服姿での来訪は、事実上の現役復帰を示唆するものであった。さらに、ダークエルフ集団亡命以来のきな臭い情勢、ファーレンス商会による南星大陸産硝石の大量購入、アンファングリア騎兵の王宮警護からの不在など、複数の兆候が組み合わさり、編集長とザウムは「戦争の開始」という一点に行き着くと判断した。
号外「戦争」発行とオストゾンネ紙の先陣
編集長は号外一面をザウムに一任し、ザウムは即座に机に向かって原稿執筆を開始した。編集部は外務省、参謀本部担当など記者の配置を指示し、印刷部にも待機を命じた。ザウムはウイスキー入りのコーヒーという陣中見舞いを受けつつ、戦争開始を前提とした論調で原稿を書き上げ、編集長が順次校閲して最新型転輪式印刷機に回した。見出しには大きく「戦争」の二文字が掲げられ、石版画には国王グスタフの肖像が流用された。夜七時頃、外務省からオルクセンとエルフィンドの開戦が正式に伝えられると、ザウムはエルフィンド外交書簡事件とその不誠実な姿勢を糾弾する追記を加え、号外は売り子たちによって市中へ一斉に配布された。社屋前の掲示板にも「戦争!」号外が貼り出され、市民は足を止めて人だかりを作り、結果としてオストゾンネ紙はこの晩に号外を出せた唯一の新聞社となった。
従軍記者志願と報道の役割自覚
ひと段落ついた編集部では、編集長と記者たちがストーブを囲んで紙巻き煙草をくゆらせつつ、今後の対応を語り合った。ザウムは編集長に「従軍記者を戦地に送るべきだ」と迫り、自らを第一号として志願した。彼は近代戦争が前線と銃後を報道で結ぶ総力戦であると理解しており、報道の最前線に立つ覚悟を示した。こうしてフランク・ザウムは、ベレリアント戦争における従軍記者第一陣として戦場へ赴くことが決まり、オストゾンネ紙は戦時報道における主役の一つとして動き出したのである。
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