物語の概要
ジャンル:
シスターバイオレンス・クライムスリラーである。暴力を趣味とする女性が、ヤクザの一人娘の護衛を命じられることで、裏社会の深淵へと引き込まれていく物語である。
内容紹介:
新道依子(しんどう いこ)は、喧嘩しか取り得のない若き女性である。しかし、ある日突如として暴力団「内樹會(うちきかい)」に連れて来られ、組長の娘・尚子(しょうこ)の送迎と護衛役を命じられる。依子は気の合わない生活を強いられる中で、次第に尚子という人物と、その背後にある深い秘密へと触れていくことになる。
主要キャラクター
- 新道依子(しんどう いこ):本作の主人公。暴力を”趣味”とする素行から、ヤクザの屋敷で護衛に仕立てられた人物である。内に秘めた正義感で尚子との関係を築いていく。
- 内樹會組長の娘・尚子(しょうこ):依子が護衛する、組長の一人娘。外面は無気力な優等生だが、背後には複雑な家庭事情と自己抑制が潜んでいる。
物語の特徴
本作の魅力は、“暴力を宿命的に体現する女性”という意表を突く主人公像と、女性同士の絆を緻密に描く「魂の伴侶(ソウルメイト)」としての関係性にある。暴力描写は過激かつ鮮烈であるが、それを通した登場人物間の人間性の浮き彫りが、本作をただの”バイオレンス小説”に留まらせない知的深みとする。さらに、日本初の快挙として「ダガー賞 翻訳部門」を受賞した点は、国際的な評価の証である。
書籍情報
ババヤガの夜
著者:王谷 晶 氏
発売日:2023年5月9日
ISBN:978-4-309-41965-7
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あらすじ・内容
暴力を唯一の趣味とする新道依子は、関東有数規模の暴力団・内樹會会長の一人娘の護衛を任される。二度読み必至、血と暴力の傑作シスター・バイオレンスアクション、ついに文庫化。
世界最高峰のミステリー文学賞
英国推理作家協会賞(ダガー賞)翻訳小説部門
ノミネート作
世界が息を呑んだ最狂のシスター・バイオレンス・アクション!
ロサンゼルス・タイムズ「この夏読むべきミステリー5冊(2024年)」選出
デイリー・テレグラフ「 スリラー・オブ・ザ・イヤー」選出
「クライム・フィクション・ラバー」最優秀翻訳賞(編集者選)受賞
感想
表紙から想像するニューヨークの喧騒とは裏腹に、日本の極道を舞台にした物語であった。
しかし、よくある任侠ものとは一線を画し、義理人情よりも暴力がむき出しになっている点が特徴的だ。
登場人物は皆どこか歪んでおり、マトモな人間は一人もいないと言っても過言ではないだろう。
そんな世界に現れたのが、主人公の新道依子だ。彼女は暴力を振るうことに躊躇がなく、その強さを見込まれて内樹會会長の一人娘の護衛をすることになる。
あれがスカウトという表現が正しいのかはさておき、彼女の登場から物語は一気に加速していく。
文字数が7万字と普通の本より短く、読み進めるうちに、物語の構成に少し戸惑う部分もあった。特に終盤は時系列が入り乱れ、一時的に混乱してしまったのは事実だ。しかし、最終的には全てのピースが綺麗に収まり、納得のいく結末を迎えることができた。
本作で特に印象に残ったのは、やはり暴力描写の生々しさである。しかし、ただ暴力的なだけでなく、その背景にある人間の感情や社会の闇が垣間見える。暴力は単なる手段であり、登場人物たちの心の奥底にある渇望や絶望を映し出す鏡のような役割を果たしているのだと感じた。
『ババヤガの夜』は、暴力と狂気が渦巻く世界で、一人の女性が己の強さを武器に生き抜く姿を描いた作品だ。読み終えた後、しばらくはその世界観から抜け出せなくなるような、強烈な印象を残す一冊だった。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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登場キャラクター
新道依子
暴力団に拉致され、内樹會の屋敷に囚われた女性である。強靭な体力と格闘技術を持ち、犬に対して特別な感情を抱く。柳に従属を強要され、内樹尚子の護衛を命じられた。尚子との関わりの中で互いの孤独を共有し、逃亡を共にするようになった。
・所属組織、地位や役職
内樹會に囚われ、柳の監視下に置かれた護衛役。
・物語内での具体的な行動や成果
多数の暴力団員を打ち倒す格闘能力を発揮した。尚子の護衛を強制され、襲撃から彼女を救った。柳との戦闘で勝利し、尚子と共に屋敷を脱出した。数十年にわたる逃亡生活を送り、偽名を使い分けて潜伏を続けた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
暴力団の道具として扱われたが、尚子と絆を築き、最後は宇多川との決着に臨んだ。
内樹尚子
内樹源造の娘であり、古風な美貌を持つ少女である。厳しい規律に縛られ、父に異常な監視を受けて育った。婚約者として宇多川をあてがわれたが、新道依子に救われ、共に逃亡する道を選んだ。
・所属組織、地位や役職
内樹會会長の娘。父の意向で護衛付きの生活を強いられた。
・物語内での具体的な行動や成果
依子を護衛に指名され、当初は反発したが、次第に心を通わせた。襲撃事件で依子を庇い、父を弓で撃った。依子と共に逃亡し、男装して各地を転々とした。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
父の監視下から脱出し、逃亡生活を送る中で「斉藤正」と名乗り、男として生きる決意をした。
柳(柳永洙)
内樹源造の補佐役であり、刺股や犬を用いて依子を制圧した。韓国系の混血であることを明かし、裏社会での立場に執着していた。依子に対し支配と誘惑を繰り返し、最後は彼女と戦った。
・所属組織、地位や役職
内樹會の幹部であり、会長・源造の補佐。
・物語内での具体的な行動や成果
依子を捕縛し、護衛役に任じた。宇多川や源造との橋渡し役を担い、依子に「女になれ」と迫った。最終的に依子と戦い、敗北した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
内樹會内部で重要な立場にあったが、裏社会の不信と孤独を抱えていた。
内樹源造
内樹會の会長であり、尚子の父である。妻と若頭マサに裏切られた過去を持ち、尚子を異常なまでに監視した。暴力と恐怖で支配する一方、娘の護衛役として依子を選んだ。
・所属組織、地位や役職
内樹會会長。暴力団組織の頂点に立つ人物。
・物語内での具体的な行動や成果
依子を脅迫して護衛役にした。尚子に接近した者を罰し、右手を切断した証拠を示した。最終的に尚子に弓で撃たれ、父としての支配を失った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
組織の長として圧倒的な権力を持っていたが、家族の裏切りと娘の反発により崩壊した。
宇多川剛
豊島興業の組長であり、拷問を好む異常者である。尚子の婚約者とされ、依子に殴打され重傷を負った。復帰後は薬物に溺れ、残酷な行為を計画した。
・所属組織、地位や役職
豊島興業組長。尚子の婚約者として設定された人物。
・物語内での具体的な行動や成果
依子に襲撃されて重傷を負った後、尚子や依子を痛めつけようとした。追跡を続け、老境に至っても執念を燃やした。最終的に二人との戦いで敗れ、濁流に呑まれた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
異常な拷問趣味を持ち、恐怖の象徴であったが、最終的には執念もろとも終焉を迎えた。
斉藤芳子
逃亡後の依子が用いた偽名の一つである。正と共に夫婦を装い、平穏な生活を続けた。取材により顔が晒され、再び追われる立場となった。
・所属組織、地位や役職
潜伏先での偽名。主婦として暮らした。
・物語内での具体的な行動や成果
正と共に事故現場で人命救助を行い、報道に映された。襲撃を迎撃し、宇多川と再会した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
逃亡の中で夫婦を装ったが、正体を隠す生活に限界を感じていた。
斉藤正
逃亡後の尚子が用いた偽名である。男装し続け、次第に「正」として生きることを選んだ。芳子と共に夫婦として過ごし、追跡から逃れ続けた。
・所属組織、地位や役職
潜伏先での偽名。工場労働や接客業に従事した。
・物語内での具体的な行動や成果
芳子と共に救助活動に関わり、報道されて顔が知られた。宇多川との最終決戦に臨んだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
逃亡の中で「男」としての生き方を選び、最後までその立場を貫いた。
展開まとめ
1
拉致と屋敷への到着
甲州街道を走る白いセダンには血の匂いが充満しており、後部座席には長髪の女が男たちに挟まれたまま意識を失いかけていた。セダンはフォードの黒い車を追走し、やがて世田谷の高い石塀に囲まれた邸宅へ入った。邸内には日本庭園と五重塔があり、男たちが待ち構えていた。女は石畳に投げ出され、黒スーツの男とその配下に取り囲まれた。
女の反撃
女は傷だらけの身体でありながら突如暴れ、数人の男を次々と打ち倒した。頭突きや蹴りで男たちを戦闘不能にし、さらに群がる白シャツの男たちを打ち破った。やがてドーベルマンが放たれ、女は倒された上で多数の男に押さえ込まれた。
暴力団の支配
女は四本の刺股で拘束され、縁側に現れた年配の男に対面した。男は内樹源造という組長であり、黒スーツの柳はその補佐であった。免許証から女の名が新道依子と判明した。依子は水を浴びせられたのち、柳から「今日から屋敷で働け」と脅され承諾した。
従属の強要と抵抗
依子は衣服を脱がされ、肉体を晒すよう強いられたが、柳にジーンズを叩きつけ、短刀を奪おうとした。しかし柳に組み伏せられ、再び刺股で押さえ込まれた。柳はドーベルマンの命を盾に依子を従わせ、彼女は命令に従うと答えた。
邸宅での説明と過去の経緯
依子は柳から屋敷の説明を受け、ここが内樹會会長の邸宅であることを知らされた。彼女は過去に新宿で酔った男たちを次々に撃退した末に襲撃を受け、柳に捕らえられた経緯を思い返した。逃亡は可能であったが、犬の悲痛な鳴き声を思い出し、行動を起こせなかった。
内間源造との会見
依子は内樹源造に呼ばれ、護衛の仕事を持ちかけられた。依子は拒否したが、源造は娘・尚子を紹介し、彼女の護衛を依頼した。尚子は古風な美貌を持つ少女であり、周囲の男たちは彼女を直視せず異様な緊張を見せた。
護衛任務の強制
源造は以前の護衛が尚子に手を出そうとしたため罰したと語り、その証拠として腐敗した右手を見せた。依子は強制的に尚子のボディガードに任じられた。部屋を出た後、柳は依子に対し、断れば犬と共に殺すと脅迫した。依子は不本意ながら任務を受け入れざるを得なかった。
屈辱と従属の確認
柳は依子に衣服と化粧を整えるよう命じ、抵抗すれば処刑すると警告した。依子は不快感を抱きながらも沈黙し、任務に従わざるを得ない立場に追い込まれていた。
目覚めと空腹
新道依子は物置部屋で目を覚まし、全身の痛みを確認した。食事も風呂も与えられず放置されていたため強い空腹に襲われていた。屋敷の中を歩き、離れから漂う焼き魚の匂いに導かれて食事場へ向かったが、白シャツの男たちに睨まれた末、お嬢様・尚子の朝食を運ぶよう命じられた。
尚子との初対面
依子は尚子の部屋に盆を届けたが、尚子は冷たく突き放した。依子が食事を横取りすると尚子は驚き、さらに顔を見て嫌悪をあらわにした。紅茶を浴びせ、カップを投げつけて侮蔑を示したが、依子は抵抗せずに従った。
送迎の開始
依子は送迎用の車を与えられ、尚子を学校へ送り届ける役目を負った。門からの距離が理由で叱責されるなど尚子の態度は高慢であったが、依子は皮肉を交えつつも運転手として行動した。尚子の生活は習い事で埋め尽くされ、休日もなく、依子はその異常な規律に驚きを覚えた。
お菓子と家庭観
帰りの車中、尚子は料理教室で作ったフロランタンを取り出し、菓子作りや母親の務めについて語った。依子が自らの親を知らないと告げると、尚子は沈黙し居心地の悪さを示した。屋敷に到着すると尚子は焼き立ての菓子を依子に押し付け、自室に戻った。
依子の葛藤
依子は食事を得て買い物で衣服や薬を揃えながら、逃亡の可能性を考えた。しかし過去に飼っていた犬の記憶と柳の脅しが頭をよぎり、踏み切れなかった。仕方なく任務をこなしつつ体調を整えることを決め、内間會での新しい生活に身を置いた。
離れでの生活と異物感
新道依子は離れでの食事に混ざるようになり、白シャツたちの当番制で作られる飯にありついた。下っ端の生活は規律正しく、刑務所や少年院のようであった。堅気にもなれそうな真面目さを見せつつも、その内側には暴力を求める熱源が潜んでいた。依子は異物扱いされながらも柳の部下という扱いで咎められずに過ごしていた。
西との衝突
犬の世話をする西が依子に絡み、尚子からもらった菓子を盗みだと罵って床に叩き落とした。さらに依子の食事を麦茶で汚すと、依子は激怒して西を吊り上げ、失禁させて気絶させた。以後、直接の挑発は減ったが、周囲の視線はさらに冷え込み、依子は孤立を深めた。
犬舎での安らぎ
依子は犬舎に通い、ドーベルマンのシェリーら五頭の犬と接することで心を落ち着けた。警戒していた犬も次第に依子を受け入れ、特にシェリーは好奇心を示した。依子は犬に笑う感情があるのか思いを巡らせ、祖父の言葉に疑問を抱いた。
柳との会話
犬舎で柳と出会い、依子は彼から内樹源造の妻と若頭マサの失踪について知らされた。十年以上前に源造はマサに裏切られ、妻と共に失踪された過去があり、探偵を雇って今も行方を追っているという。尚子が母親に酷似しているため、源造は徹底的に警戒し、男を近づけないようにしていた。柳はこの事情にうんざりし、愚痴をこぼした。
信頼と諦念
柳は依子が余所者だから本音を漏らしたと語り、この業界では信用が欠如していると吐き捨てた。依子はそれを聞き流し、世の中すべてが同じだと達観を示した。柳はそれを面白がり、諦めこそが肝心だと告げて立ち去った。
2
雨の訪れと夫婦の暮らし
芳子は雨に気付き、洗濯物を取り込んだ。隣室では斉藤正が新聞を読んでおり、二人は以前よりも柔らかくなった関係で穏やかな日々を過ごしていた。質素ながらも平穏な生活に満足し、若い頃とは違うが身の丈に合った暮らしを営んでいた。
事故の発生
買い物に出かけた帰り道、二人の目の前で白いミニバンが蛇行して衝突した。車内には意識を失った男性と少女がおり、車体からは煙が上がり炎上の危険が迫っていた。芳子と正は携帯電話を持っていなかったが、放置できず救助に向かった。
救出劇
正は助手席から少女を抱え出し、芳子はブロックで窓を割って男性を引きずり出した。直後に車は爆発し、二人は間一髪で炎を逃れた。少女は泣き出し、男性も呻き声を上げた。
野次馬と撮影
近くに集まった若者たちは救助を手伝わず、スマートフォンで撮影するばかりであった。別の女性たちが消防や警察に通報したが、さらに若い男が近寄り芳子と倒れた男性を撮影し始めた。正が制止しようとしたが無視され、芳子は必死に正に映るなと叫んだ。パトカーのサイレンが近付く中、二人は人だかりに囲まれながら冷たい雨に濡れて震えていた。
3
尚子の問いかけと衝突
送迎の車中で尚子は新道依子に「何者か」と問い詰め、女のボディガードは信じられないと批判した。依子は反発し、尚子自身に興味はないと突き放す言葉を口にした。尚子は感情を抑えきれず涙を流し、車を降りようとしたが依子に制止され、激しい口論の末に泣き崩れた。
喫茶店での対話
依子は尚子を慰めるため喫茶店に連れて行き、二人は初めて腹を割った会話を交わした。尚子はコーヒーを飲んだ経験がなく、父に禁じられてきたことを打ち明けた。依子は祖父母との変わった暮らしを語り、祖母から聞かされた鬼婆の物語を話した。尚子は自らも鬼婆のように自由でありたいと願い、母の服や装いを強制される現状への不満を吐露した。依子は彼女の束縛された境遇に同情を覚えたが、尚子はそれを見下しと受け取り、反発を見せた。
食事と回想
屋敷に戻った依子は大量に食事を摂り、祖父に厳しく鍛えられた過去を思い出した。武道ではなく喧嘩としての暴力を教え込まれ、天稟があると告げられた記憶が蘇った。暴力は依子にとって娯楽であり、生きる糧であった。
襲撃と尚子の介入
風呂に入り眠気を覚えた依子は薬を盛られていたと気付きながら意識を失い、部屋で複数の男たちに襲われた。動けない依子の前に尚子が現れ、怒声で男たちを追い払った。尚子は依子に座布団を掛け、震える手を握りながら「怖くない」と強がりを見せた。依子は尚子に初めて敬意を抱き、その笑顔に深い悲しみを見た。
部屋住みの不在と尚子の動揺
翌朝、新道依子は離れで異様な空気を感じた。西を含む部屋住みの姿が消え、隅田も強張った表情で金を渡すのみで口を閉ざしていた。尚子の朝食を運ぶと、彼女は震えながら新道を気遣い、女にとって最大の屈辱だと憤った。言葉を失いながらも怒りと悲しみを示す姿に、新道は逆に怖さを覚えた。
柳の提案と素性の告白
台所で食事をしていた新道は、柳に襲撃の件を冷やかされつつも心配の言葉を受けた。柳は自身の本名が柳永洙であると明かし、混血の苦悩を語りつつ新道に女になるよう迫った。新道は罵倒で応じたが、柳は裏社会でこそ評価されるのだと説き、自分と共に生きろと誘った。新道は反発したが、苛立ちの正体を掴めず胸に釣り針のような違和感を抱いた。
内樹會会長からの呼び出し
やがて新道は内樹源造に呼び出され、昨夜の件について謝罪を受けた。源造は、尚子が現場を見つけたため重く見ており、手打ちとして漆箱を与えた。中には六本の陰茎が詰め込まれていた。新道は内心で拒絶を覚えつつも、尚子が背後にいる気配を感じ、感謝を述べて受け取った。
漆箱の廃棄と宇多川の存在
新道は柳と共に離れに戻り、漆箱を生ゴミのバケツに捨てた。柳はその残虐な処置を行ったのが宇多川という男で、豊島興業の親分であると明かした。宇多川は拷問を好む異常者で、相手が誰であれ痛めつけることを楽しむという。新道は尚子の母や元若頭の行方に思いを馳せ、彼らも捕まれば同じ末路になると想像した。
衝撃の婚約者
柳は最後に、宇多川が尚子の婚約相手であると告げた。新道はその事実に言葉を失い、暗い現実を突き付けられた。
4
事故からの帰還と動揺
芳子と正は事故現場から逃れ、ずぶ濡れのまま帰宅した。服を着替えた二人は疲労で畳に倒れ込み、言葉を交わせなかった。芳子の脳裏には女児の泣き声と父親の蒼白な顔が焼き付き、血と緊張の匂いが蘇った。平穏な日々は薄氷の上に成り立っていたと痛感し、自らが平凡に老いることを許されない宿命かもしれないと感じた。
暗闇の中の対話
数時間後に目覚めた二人は、雨戸を閉め切った暗い茶の間で向かい合った。正は「余計なことをした」と謝罪したが、芳子は過ぎたことを悔やむ必要はないと返した。正はこの街で落ち着いて暮らせていたことを惜しみ、芳子も心中に葛藤を抱えながらも言葉を飲み込んだ。
報道の侵入
突然、外から光が差し込み、ドアを叩く声が響いた。地元放送局の取材班が斉藤夫妻を探していたのだ。テレビをつけると、ニュース番組で救出劇の映像が流れ、芳子と正の顔が鮮明に映し出されていた。外では人の声と車の音が響き、家の周囲を記者たちが取り囲んでいた。
逃走か停滞かの選択
芳子と正は再び逃げるべきか悩んだ。これまでと同じく身元を捨て、別の土地で一から生活を始めるしかないことは理解していた。しかし芳子は「一生逃げ続けるのか」と自問し、正に「そろそろ疲れちゃったな、逃げるの」と告げた。その言葉に正は涙をこらえきれず、二人の未来は暗闇の中で揺らいでいた。
5
雨の日常と尚子との交流
新道は尚子の送迎や稽古の付き添いを続ける中で、以前よりもやりがいを感じ始めていた。尚子と喫茶店で過ごす時間が増え、新道は自身の北の大地での過酷な修行や家族の思い出を語り、尚子も耳を傾けた。一方、尚子は家族や婚約者のことをほとんど語らず、表面的な話に終始したが、時折見せる無邪気な笑顔に新道は彼女の素の一面を感じ取った。
名前をめぐる会話とささやかな自由
尚子は「お嬢さん」と呼ばれるのを嫌い、「尚子さん」と呼ばれることを受け入れた。新宿の喫茶店では、尚子が「この景色をお婆さんになっても覚えている」と語り、束の間の自由を大切にしようとしていた。
婚約者との遭遇と暴力
しかし帰り際、尚子が見知らぬ男に腕を掴まれ、新道は衝動的に男を殴り飛ばした。その男は尚子の婚約者であり、豊島興業組長・宇多川剛であった。男は重傷を負い、事態は一気に広まった。
内樹の追及と柳の苦悩
内樹の書斎に集められた新道、柳、尚子の前で、内樹は責任を追及した。柳は自らの不手際を詫びたが、新道は「自分の責任だ」と庇った。それでも内樹は連帯責任を強調し、柳を追い詰めた。
宇多川の狂気
そこへ退院直後の宇多川が現れ、包帯で顔を覆いながら薬物で正気を失った様子を見せ、尚子や新道を残酷に痛めつける計画を語った。尚子は必死に許しを請い、自分が代わりになると懇願したが、宇多川は取り合わなかった。
母の発見と新たな命令
その時、探偵事務所の大学生が現れ、尚子の母と芳子が関東に潜伏していると報告した。内樹は激昂し、柳に二人を生け捕りにするよう命じた。柳は新道の同行を求め、内樹は「裏切れば一族郎党を皆殺しにする」と脅迫しながら許可を与えた。
――こうして、新道は否応なく尚子の母と芳子を捕えるための行動に駆り出されることになった。
6
避難勧告と待機
芳子と正は、豪雨に伴う避難情報が流れるテレビをつけたまま部屋に潜んでいた。県営住宅の周囲は床下浸水が始まり、住民の多くは避難していた。二人は常に移動できるよう荷をまとめ、身軽な服装で待機していた。報道により「お手柄ヒーロー夫婦」として顔が晒され、逃げ場を失っていたが、豪雨を機に動く決意を固めていた。
襲撃者の侵入
外に現れた不審なヘッドライトを警戒していると、突然窓ガラスが破られ、黒い服の男が刃物を手に侵入してきた。正は外へ逃げるよう叫び、芳子はマグライトを駆使して侵入者を迎撃した。フラッシュ点滅で目を眩ませ、ナイフを持つ腕を打ち砕き、さらに肘と顔面を叩きつけて無力化した。続けて現れたもう一人の男も、拳と蹴りで倒し、瞬く間に制圧した。
宿敵との再会
外に出た芳子――新道依子の前に、黒いアルファードから老人と若い男が降り立った。痩せ細った老人は宇多川であり、人工声帯を用いて「ころしてやる」と告げた。新道は懐かしさを滲ませつつも「もう昭和ではない、止めにしないか」と語りかけたが、宇多川は尚子を執拗に求め、怒りに満ちた言葉を吐き続けた。
宇多川の執念と対峙
宇多川は尚子を「俺のもの」と罵り、逃げられたことで自分の人生が狂ったと叫んだ。彼の合図で武器を持った複数の男が車から現れ、新道に迫った。宇多川の執念は衰えることなく、尚子の行方を問い詰める。
戦いの幕開け
新道は挑発的に「今のあの人を知りたい?」と告げ、男たちの注意を引きつけた。直後、彼らの一人の腿に、闇を切り裂くように放たれた黒い矢が突き刺さった。新たな戦いの幕が切って落とされたのである。
7
新道の任務と覚悟
新道は群馬へ向かい、柴崎政男と内間由紀江を捕らえるよう命じられていた。成功しても利き腕を落とされる条件付きであり、約束も反故にされることを予期していた。彼女は新聞紙で即席の防具を作り、ボールペンを武器代わりに準備した。やがて、己が暴力を求める異物であると自覚し、戦いと死に向かう覚悟を固めた。
内樹の暴行と新道の怒り
物音を察知して尚子の部屋に駆け込むと、父である内樹が尚子を暴行していた。新道は激しい怒りに駆られ、ボールペンを内樹の喉に突き立てた。しかし巨体の内樹は反撃し、新道を力で押さえ込み食いちぎろうとした。新道は眼球へ指を突き込み脱出を図るも苦戦する。
尚子の矢と父殺し
決定的瞬間、尚子が弓を放ち、父・内樹の腹を貫いた。新道が叫ぶと尚子は我に返り、父を撃った自覚に混乱した。新道は彼女の手を取り逃走を決意する。
柳との対決
ガレージで柳と遭遇した新道は、尚子を抱えて対峙した。柳は空手やテコンドーを交えた攻撃を繰り出し、激闘となる。新道は頭突きや蹴りで反撃し、最終的にボールペンを柳の頬に突き刺した。柳は匕首を渡し、自殺に使えと告げた上で、自身は家族と下関に逃げると宣言した。
決別と逃走
柳は尚子を連れて逃げるよう勧めたが、新道は「誰かの何かとして生きるのは無理」と拒んだ。尚子は「母に似ているか」と問うて柳を動揺させた後、笑顔を見せた。二人はシビックで屋敷を脱出し、尚子は「地獄に落ちる」と呟きながら髪を切り落とし、窓から投げ捨てた。髪と共に金と真珠のネックレスが砕け、決別の象徴となった。
8
逃亡の始まりと尚子の決意
新道と尚子は、雨の中シビックを捨てて逃亡を開始した。新道は尚子を守るため、服や靴を盗み与え、地下鉄で京都へ向かうことを提案した。尚子は修学旅行の経験がなく、奈良や京都に行きたいと口にした。二人は手を取り合い、逃亡生活一日目を踏み出した。
偽名での潜伏生活
数年後、新道は「千波真子」、尚子は「まこと」と名乗り、工場勤めやホテルの洗い場で働いていた。尚子は髪を切り、男装を続けていた。互いに似た偽名を用い、呼び間違いに備えていた。逃亡生活は五年目を迎え、二人は各地を転々としながら生活を維持していた。
関係性の変化と逃亡十年目
新道は「芳賀かおり」、尚子は「カオル」として都市で働き、尚子はバーテンダーとして客に溶け込んでいた。彼らは夫婦や姉弟など、その時々で装いを変え、正体を隠した。関係は「家族」「恋人」「友人」といった枠には収まらず、名付けられない絆に変化していた。十年が過ぎ、尚子は「斉藤正」と名乗ることを決め、男として生きる覚悟を示した。
二十年目の仮初の家庭
新道は「芳子」、尚子は「正」となり、広島で職人と古女房のように暮らしていた。人々からは自然と夫婦と見られ、平凡な日常を装って逃亡を続けた。互いを愛してはいないが憎みもしない、その距離感が共存を可能にしていた。二人にとって生活は「逃亡」であり、愛憎を超えた存在であった。
四十年後の再会と決着
年月が過ぎ、二人は老境に達していた。宇多川とその手下が追手として現れるが、尚子は矢で応戦し、仲間を次々と倒した。新道は四十年ぶりに暴力を解放し、歓喜を覚えた。二人は宇多川に引導を渡し、追撃を断ち切ろうとした。しかし、宇多川は最後に拳銃を放ち、新道の太腿を撃ち抜いた。その直後、山から土砂崩れが起こり、全員を襲う濁流が迫ってきた。
9
海沿いの道を進む二人
秋のように高い空の下、人気のない海沿いの道を新道依子はカートを押して歩いていた。カートの中には負傷した内間尚子が座り、左足を木切れやテープで固定していた。波の音と海風が二人を包み、歩みは北へと向かっていた。
鬼婆になる未来への語らい
依子は祖母から聞いた鬼婆の話を語り、森の小屋で犬や猫を飼い、呪いをかけながら過ごす未来を思い描いた。尚子はその話に笑い声をあげ、二人は「鬼婆になる」という約束に希望を託した。依子は自分が人間ではなく鬼婆として生きるために、この力と衝動を持って生まれたのだと悟った。
静かな別れ
依子が語り続ける中、尚子からの返事はなくなった。呼びかけても応えはなく、依子は波音にかき消されるような声で尚子を呼び続けた。太陽は二人の血と泥の足跡を照らし、波は寄せては返し、永遠のように同じ動きを繰り返していた。
その他フィクション

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