物語の概要
■ 作品概要
本作は、平野啓一郎の小説家生活20年目のタイミングで刊行された長編小説である。物語は、弁護士の城戸章良が、かつての依頼者である谷口里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受けるところから始まる。宮崎に住む里枝は、離婚を経て故郷に戻り「谷口大祐」という男と再婚して幸せな家庭を築いていたが、彼が林業の作業中に事故死してしまう。ところが、一周忌のあとに訪ねてきた大祐の兄によって、亡くなった夫が「谷口大祐」とはまったくの別人であったことが判明する。城戸は里枝から依頼を受け、彼女が愛した「ある男」の正体を追うことになるが、その調査の過程で、戸籍を交換し過去を変えて生きる人々の過酷な真実に行き当たる。上質なミステリーの要素を持ちながら、「私とは何か」「人はなぜ人を愛するのか」という人間存在の根源を問う文学作品である。
■ 主要キャラクター
- 城戸章良:主人公の弁護士。在日三世という自らの出自や、東日本大震災以降の妻との関係悪化といったアイデンティティの不安を抱えながら、見知らぬ「ある男」の調査に深くのめり込んでいく。
- 谷口里枝(武本里枝):城戸の依頼者。宮崎県の文房具屋の一人娘。幼い次男の死と離婚、実父の死という不幸を乗り越え「大祐」と再婚したが、彼の死によって、愛した夫の素性が全くの嘘であったという残酷な現実に直面する。
- 「ある男」(原誠):「谷口大祐」と名乗り、里枝と結婚した男。その正体は、かつて一家惨殺事件を起こした死刑囚・小林謙吉の息子である。殺人犯の息子という過酷な境遇から逃れるため、他人の戸籍を手に入れて別人として生きていた。
- 本物の谷口大祐(曾根崎義彦):群馬県の伊香保温泉にある老舗旅館の次男。家族(特に兄)との不和や、父への生体肝移植を巡る苦悩から家を飛び出し、自らの戸籍を原誠に譲り渡して失踪した。
- 谷口恭一:本物の谷口大祐の兄。弟の死を知らされて宮崎を訪れ、遺影を見て別人であることを指摘し、事態の発端を作った。
- 後藤美涼:本物の谷口大祐の元恋人。城戸の調査に協力する中で、彼と親しく言葉を交わすようになり、城戸が密かに惹かれる存在となる。
■ 物語の特徴
本作の最大のテーマは「愛」と「人間的な優しさ」であり、「過去が偽りであったとしても、その人を愛した事実は真実と言えるのか」という問いを読者に投げかける点が大きな魅力である。また、単なる個人間のドラマにとどまらず、在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチや差別、死刑制度、戸籍制度の危うさといった現代の日本社会が抱える複雑な課題が、物語の背景として自然かつリアルに織り込まれている。社会の不条理によって自分の人生を捨てざるを得なかった男たちの姿を通し、「私を私たらしめているものは何か」というアイデンティティの揺らぎを描き出した、思索に満ちた傑作である。
書籍情報
ある男
著者:平野啓一郎 氏
初出:『文學界』2018年6月号 note
単行本発売日:2018年9月28日(のちに文庫化)
受賞歴:読売文学賞を受賞。
関連メディア展開:2022年11月18日に映画化され公開(出演:妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝ほか。監督:石川慶)。この映画は日本アカデミー賞で最優秀作品賞を含む8部門を受賞した。また、2025年8月にミュージカル版の開幕が決定しているほか、オーディオブック化、および英語、中国語、韓国語、フランス語圏など多数の言語での翻訳出版が展開されている。
(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。
あらすじ・内容
常に「現代」を直視し、その最先端で思考し続けてきた著者のデビュー20年目の到達点!
弁護士の城戸は、愛児と夫とを立て続けに失ったかつての依頼者から、死んだ夫が、実はまったくの別人だったという奇妙な相談を受ける。
調査を始めた彼は、次第に明かされる謎の男の生への共感から、自らのアイデンティティをも激しく揺さぶられてゆく。
――前作の「過去は変えられる」という主題を引き継ぎつつ、現代人の生の困難と希望を、哲学的な含蓄に富んだ、繊細な筆致で描ききって大きな感動を呼んだ。過去に翻弄された大人たち、未来を生きようとする子供たちを見つめる作者の眼差しは優しい。累計40万部突破の傑作。読売文学賞受賞。
感想
読み終えて、まず頭に浮かんだのは、「人は戸籍を変えれば、本当に別の人生を生きられるのだろうか」という問いである。
物語は、夫を林業事故で亡くした里枝が、一周忌の日に衝撃の事実を知らされるところから始まる。兄から「写真の男は弟ではない」と告げられ、愛した夫がまったくの別人だったと知る展開は、静かな導入にもかかわらず強烈なインパクトがあった。
自分が一緒に暮らしてきた相手は誰だったのか。
その疑問が読者にもそのまま突きつけられ、気がつけば夢中でページをめくっていた。
依頼を受けた弁護士・城戸章良が「ある男」の正体を追っていく過程は、ミステリーとしても非常に読み応えがある。
戸籍売買に関わる人物や、谷口大祐の過去を知る人々への聞き込みを重ねるたびに、真実が少しずつ浮かび上がっていく構成は見事だった。
そして辿り着いた結末は、単なるどんでん返しでは終わらない。
「ある男」の正体は、一家惨殺事件を起こした死刑囚の息子・原誠だった。
自分では決して選ぶことのできない出生によって人生そのものを否定され続け、戸籍を買ってまで別人として生きようとした彼の選択には、善悪だけでは語れない切実さを感じた。
印象的だったのは、この作品が「正体探し」を目的としていないことだ。
本当のテーマは、「人は何によって自分であると言えるのか」という問いなのだと思う。
調査を進める城戸自身も、在日三世という出自や、冷え切った夫婦関係など、自らのアイデンティティに迷いを抱えている。事件を追うほどに、自分自身の存在まで問い直されていく姿は非常に印象深かった。
また、里枝の存在も忘れられない。
たとえ夫が別人だったとしても、一緒に暮らした日々や交わした言葉、子どもを育てた時間までが嘘になるわけではない。
「戸籍」と「人生」は必ずしも一致しない。
そんな当たり前でありながら重い事実を、この作品は静かに描いているように感じた。
読み終えたあとも、「人は過去で決まるのか」「名前とは何か」「本当の自分とは何か」といった問いが心に残り続ける。
ミステリーとして最後まで読ませる面白さを持ちながら、人間の尊厳やアイデンティティを深く描いた、非常に印象深い一冊であった。
最後までお読み頂きありがとうございます。
(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。
考察・解説
人間存在の根源
『ある男』において「人間存在の根源」というテーマは、物語全体を貫く最も重要な核であり、自己のアイデンティティと他者への愛という二つの側面から深く掘り下げられている。私とは何かという問いや死生観を掘り下げながら、最大のテーマである愛へと到達するその詳細な経緯は以下の通りである。
血筋による絶望逃亡と在日三世の存在不安に伴うアイデンティティの根底的揺らぎ
私たちは通常、人種や国籍、家族関係、学歴や職歴、そしてこれまでの過去の経験の積み重ねが私という存在を規定していると信じて生きている。しかし、本作では戸籍の売買や交換という事象を通じて、その前提が根底から覆される。
・ある男の正体であった原誠は、凶悪な殺人犯である小林謙吉の息子として生まれた。
・彼は自分の体に父親と同じ血が流れていることに耐えきれず、自らの肉体を気持ち悪い着ぐるみのように忌み嫌い、二度の自殺未遂を起こすほどの絶望を抱えていた。
・誰からも注目されずにただ平凡に生きるために、自らの忌まわしい過去を捨て、赤の他人の過去である戸籍を生きるという過酷な選択を余儀なくされた。
・また、この謎を追う弁護士の城戸自身も在日三世としての出自を持つ。
・東日本大震災後の日本社会に渦巻くヘイトスピーチや排外主義に直面し、理不尽に自らの存在が脅かされる存在の不安に深く苦悩している。
・彼らの姿を通して、私だと信じていた私とは一体何者なのかという人間存在の根源的な不確かさが提示される。
偽り過去内包の谷口大祐穏やか優しさと三年九ヶ月幸福時間にみる愛の真実
私という存在が不確かなものであるならば、愛する人の過去がすべて嘘だったとわかった時、その人を愛した事実や共に過ごした時間さえも嘘になってしまうのかという問いが生まれる。
・里枝が愛した谷口大祐の過去はまったくの偽りであった。
・しかし、彼が里枝や子供たちに向けた愛情、決して声を荒らげない穏やかな優しさは、嘘をついてまで手に入れたかった普通の生活への切実な渇望と、彼自身の純粋な心から生まれた本物であった。
・城戸が、亡くなられた原誠さんは里枝さんと一緒に過ごした三年九ヶ月の間に初めて幸福を知ったのだと思う、彼はその間本当に幸せだったでしょうと結論づけた。
・その愛の時間は確かな真実であったのである。
過去経歴牢獄超越の美涼言葉提示と他者関わり合い経由の愛の再構築希望
物語の終盤、城戸が、過去が赤の他人のものだとわかったとして二人の間の愛は、と問うたのに対し、本物の谷口大祐の元恋人である美涼は明確な答えを示す。
・わかったってところから、また愛し直すんじゃないですか、一回愛したら終わりじゃなくて、長い時間の間に何度も愛し直すでしょう、と答えた。
・この言葉が象徴するように、本作が描く人間存在の根源とは、人は過去の経歴や血筋といった変えられない事実という牢獄に永遠に閉じ込められるわけではないという希望である。
・他者との関わり合いの中で、何度でも自己を見出し、愛を構築し直すことができる。
・存在の揺らぎや不条理な現実から目を背けるのではなく、それらを抱えたまま人間的な優しさの可能性を探求する点に本作の意義がある。
まとめ
人間存在の根源を巡る一連の顛末は、凶悪犯の血筋から逃れるために他人の戸籍を余儀なくされた原誠の絶望や、出自による存在の不安に苦悩する城戸の心理を描きつつ、偽りの過去を越えて紡がれた三年九ヶ月の真実の愛や、何度も愛し直すという意志によって人間の救済を証明した文学的探求の記録である。名前や経歴が嘘であっても里枝たちへ注がれた穏やかな優しさを本物とし、変えられない事実の牢獄から人間を解放して自己の再構築へと導いたプロセスは、アイデンティティの不確かさと愛の絶対的な確かさを示している。最終的に、過酷な現実や差別の不条理を抱えながらも、他者との純粋な関わり合いと優しさによって何度でも愛を構築し直せるという希望を提示し、失われた生の輪廻の中に確かな平穏を完璧に奪還した顛末は、どれほど社会的な属性や過去の呪縛によって存在が揺るがされようとも、本質を突いた人間的信頼と愛の更新によって打破され、新しい自己として生きる未来の可能性が厳密に証明されている。
愛と優しさ
『ある男』において、「愛」と「人間的な優しさ」、そして「過去と愛」の関係は、物語全体を貫く最も重要な核であり、自己のアイデンティティと他者への愛という二つの側面から深く掘り下げられている。愛する人の過去がすべて嘘だったとわかったとき、その人を愛した事実や共に過ごした時間さえも嘘になってしまうのかという根源的な問いを軸に描かれる、その詳細な経緯は以下の通りである。
偽り過去内包の原誠穏やか優しさと美涼言葉提示による何度も愛し直す希望
里枝が愛した夫である谷口大祐の過去はまったくの偽りであり、彼の正体は死刑囚の息子である原誠であった。しかし、彼が正体を隠してまで手に入れたかったのは、誰からも注目されずに平凡に生きるという普通の人生であった。
・彼が里枝と過ごした三年九ヶ月の結婚生活の中で見せた、決して声を荒らげない穏やかさと家族への思いやりは純粋で誠実な本物であった。
・城戸は、亡くなられた原誠さんは里枝さんと一緒に過ごした三年九ヶ月の間に初めて幸福を知ったのだと思う、彼はその間本当に幸せだったでしょうと結論づけている。
・過去が偽りであったとしても、その間に注がれた優しさと愛の時間は確かな真実であったことが示されている。
・過去が偽りだとわかった場合の愛の行方について、本物の谷口大祐の元恋人である美涼は、わかったってところからまた愛し直すんじゃないですか、一回愛したら終わりじゃなくて長い時間の間に何度も愛し直すでしょう、と語る。
・他者との関わりの中で関係性を築き直していく人間の愛の力強さが表現されている。
悠人金魚飼育の祖母相互慰問と父親願望理解にみる家族間の温かい優しさ
作中では、血の繋がりの有無や喪失を越えた、家族間の不器用で温かい優しさも描かれる。
・里枝の長男である悠人は、祖父の死後、寂しそうにしている祖母を慰めるために金魚を飼い始める。
・一方で祖母の側も、祖父を亡くして寂しそうな悠人のために金魚を飼っているのだと思っていた。
・里枝は、自分の知らないところで自分の愛する者同士が愛し合うという関係性が築かれていることに、ふしぎな喜びと救いを見出している。
・また悠人は、亡き夫が自分に優しかったのは、自分が父親にしてほしかったことを僕にしてたんだと思うと理解し、他者の悲しみを思いやる深い優しさを見せている。
ボランティア寄付の社会的優しさと身内優先妻香織批判に伴う優しさ射程亀裂
城戸の直面する葛藤を通して、愛や優しさの限界と困難さも描かれる。
・城戸は東日本大震災後、見知らぬ自主避難者を助けるためのボランティア活動に熱心に取り組み、国境なき医師団やユニセフにも寄付を行うなど、社会的な優しさを持っている。
・しかし妻の香織は、目の前の我が子や親しいママ友には愛情深い良い母親であるものの、見知らぬ他人の不幸には無関心であり、家庭を後回しにして赤の他人のために時間と金を使う夫の行動を偽善として批判する。
・城戸自身も、自分が努めて親切であろうとするのは自身が無害な普通の日本人だと証明しようとするためではないか、社会への関心も白々しい優等生的なものではないかという自己嫌悪と向き合う。
・誰に対してどこまで優しくなれるのかという優しさの射程の違いが、夫婦関係の深刻な亀裂を生む様子がリアルに描かれている。
・それでも城戸は、過酷な宿命を背負った原誠の人生に深く同情し、不憫な里枝のために調査を投げ出さない優しさを持ち続けていた。
現在好感過去包摂の城戸自問と真実過去異同に伴う存在崩壊不安の超克
愛における過去の意味と、その過去が偽りであったときの揺らぎについて、城戸の思考を通じて多角的にアプローチされる。
・城戸は、現在が過去の結果だというのは事実だろう、つまり現在、誰かを愛し得るのはその人をそのようにした過去のお陰だ、と自問する。
・さらに、僕たちは誰かを好きになる時その人の何を愛してるんですかね、出会ってからの現在の相手に好感を抱いてそのあと過去まで含めてその人を愛するようになる、とも語っている。
・実際に里枝も、夫が語る谷口大祐としての孤独や家族との軋轢といった過去に深く共感し、愛情を深めていった。
・しかしその過去が赤の他人のものだとわかった時、真実の過去と異なっていたならその愛は何か間違ったものなのだろうか、意図的な嘘だったならすべては台なしになるのかという深刻な疑念が生まれる。
・ずっと信じていた愛する人の過去のすべてが嘘だとわかったとき、その人の存在や愛し合った事実さえも嘘だったと感じ、自分がバラバラになって崩れていくような不安にとらわれるのである。
・本作は、過去という変えられない事実に縛られるのではなく、存在の揺らぎを抱えながらも他者と向き合い、愛し直すことができるという人間の可能性と希望を美しく描き出している。
まとめ
愛と人間的な優しさ、そして過去の在り方を巡る一連の顛末は、凶悪犯の血筋という凄惨な過去から逃れるために他人の戸籍を生きる選択をした原誠の軌跡と、それを追う城戸の葛藤を通じ、過去の経歴がたとえ偽りであっても現在進行形で紡がれた三年九ヶ月の愛の営みは確かな本物であり、人は何度でも愛を更新し構築し直せるという救いを提示した人間賛歌の記録である。名前や過去の真実性が揺らいだとしても、里枝や悠人たちに注がれた穏やかな優しさや金魚を巡る家族の相互配慮を真実の絆とし、社会的な優しさの射程の違いに苦悩しながらも他者の不条理な宿命に寄り添い続けたプロセスは、愛の不確かさと同時に人間が持つ優しさの絶対的な価値を示している。最終的に、過去という牢獄に人間を縛り付けるのではなく、現在の出会いから何度でも愛し直すという力強い意志を美涼の言葉を通じて明示し、存在の不確かさを抱えたまま生きる大人たちの未来に確かな平穏を完璧に奪還した顛末は、どれほど不気味で苛烈な過去の呪縛によって関係性が脅かされようとも、本質を突いた人間的信頼と現在の愛の誠実さによって打破され、他者と繋がりながら新しく生き直す輝かしい未来の道が厳密に証明されている。
城戸のアイデンティティ
『ある男』において、主人公である弁護士・城戸章良の「アイデンティティの揺らぎ」は、物語を牽引するもう一つの重要な軸として描かれている。彼はある男の過酷な人生を追う過程で、自らの存在意義や抱える不安と深く向き合うことになる。その出自に伴う存在の不安、家庭内の孤立、別人への羨望と陶酔、そして再生に至る詳細な経緯は以下の通りである。
帰化在日三世の過去と排外主義ヘイトスピーチ直面に伴う存在の不安
城戸は在日韓国・朝鮮人の三世として生まれ、高校時代に両親とともに日本国籍に帰化をした。
・若い頃は自身がマイノリティであることによる差別をほとんど経験せず、その出自を深刻なスティグマとして意識することなく生きてきた。
・妻の香織と結婚する際、義父から在日といっても三代も経てれば立派な日本人だと歓迎された時も大きな反発は抱かなかった。
・しかし、東日本大震災を契機に彼のアイデンティティは激しく揺さぶられることとなる。
・過去に関東大震災で起きた朝鮮人虐殺の事実を意識するようになり、さらに昨今の極右的な排外主義やヘイトスピーチの台頭に直面した。
・ある時、過去に担当した事件を理由にインターネット上で在日認定され、家族の情報まで晒されるという激しい中傷を受ける。
・城戸は、自分が懸命に築き上げてきた弁護士、良き夫・父親という多面的なアイデンティティが在日という一つの属性に乱暴に還元され、この社会から不条理に存在を否定される恐怖と息苦しさを感じるようになる。
自主避難者法的支援に対する偽善非難とルーツ隠蔽拒絶による夫婦関係断絶
社会的な不安に加えて、家庭内の不和も城戸を追いつめていく。
・震災後、城戸は自主避難者の法的支援などのボランティア活動に熱心に取り組むが、家族の安全を第一に考える妻の香織からは妻子を置いて他人の世話を焼くことを偽善と非難される。
・また、香織は我が子を偏見から守るために城戸のルーツを隠したがるようになり、夫婦間の対立は深まり、深刻な断絶へと至った。
・城戸自身も、自分の親切心が善良で無害な普通の日本人だと証明しようとするためのものではないかという自己嫌悪に陥る。
・自分が本当に社会のためを思っているのか確信を持てなくなっていった。
宮崎バー見知らぬ他人振る舞いと谷口大祐名乗り経由の強烈解放感陶酔
こうした中年の実存的な危機と存在の不安の直中にいた城戸にとって、過去を完全に捨て去り谷口大祐という赤の他人として生き直した原誠の数奇な人生は、自らの息苦しい現実からの逃避の対象として強く心を惹きつけるものであった。
・実際に城戸は、出張先の宮崎のバーで、見知らぬバーテンダーに対して自らを谷口大祐と名乗る。
・彼の悲劇的な過去を我が事のように語るという行動に出た。
・名前を失い、完全に見知らぬ他人として振る舞うことに、彼は強烈な解放感と眩暈のするような陶酔を覚えた。
・それは、一度しかない人生の中で別人として生き直したいという切実な願望の表れでもあった。
息子颯太時間共有の人生愛着自覚と小林謙吉息子生涯整理による夫婦対話前進
しかし、城戸は最終的に、原誠のように自分の過去や今の生活を捨てることはできないと悟る。
・休日に息子の颯太と過ごす中で、自分がこの人生を赤の他人に譲り渡すことなど絶対にできないと、今の人生への強い愛着を自覚する。
・ある男の正体が小林謙吉の息子である原誠だと突き止め、その過酷な生涯を一つの物語として文章に整理し直す過程で、城戸自身の内面もまたバラバラだったものが一つに練り上げられていくような感覚を得る。
・そして、妻にある男の調査にのめり込んでいた理由と、現実逃避であった自分の弱さを正直に打ち明け、夫婦関係を立て直すための対話へと踏み出した。
まとめ
城戸章良のアイデンティティの探求を巡る一連の顛末は、帰化出自に対する差別的中傷や家庭内の深刻な断絶といった中年期の実存的危機に直面し、一時的に他人の名を騙る現実逃避の陶酔を経験しながらも、最終的には現在の生活への愛着を再自覚し、他者の過酷な生涯を整理するプロセスを通じて自己を再構築した人間的再生の記録である。排外主義社会の息苦しさから原誠の人生へ羨望の眼差しを向け、別人として振る舞う解放感に揺れながらも、息子との絆を錨として自らの弱さと向き合い夫婦の対話へと回帰したプロセスは、彼の倫理的な誠実さと内面の成長を示している。最終的に、固定された血筋や過去に縛られることなく、傷ついた他者や関係性と向き合い、現在の出会いから再び愛し直すことによって自己を形作っていくという希望を明示し、実存の不安を抱えたまま生きる人々の未来に確かな平穏を完璧に奪還した結末は、どれほど不条理な社会の属性によってアイデンティティが揺るがされようとも、本質を突いた内省と対話の更新によって打破され、自らの人生を新しく生き直す輝かしい未来の道が厳密に証明されている。
原誠の壮絶な半生
『ある男』において、「ある男」の正体であった原誠の半生は、自分の力ではどうすることもできない血や過去の呪縛に苦しみ抜き、他人の人生と入れ替わることでしか平穏を得られなかった、極めて壮絶なものとして描かれている。死刑囚の息子としての過酷な幼少期から、ボクシングを通じた自己嫌悪との闘い、戸籍交換、そして宮崎での最期に至る経緯は以下の通りである。
殺人犯父親の凄惨事件起因といじめ迫害および養護施設育ちの路上生活
原誠は1975年に生まれた。
・彼が10歳の時、父親の小林謙吉が強盗殺人・放火事件を起こし、一家3人を惨殺する。
・殺された子供は誠の遊び仲間でもあった。
・父親が死刑囚となったことで誠は母親の旧姓である原を名乗り転校するが、行く先々で人殺しの子として知れ渡り、過酷ないじめや迫害に遭う。
・親族宅をたらい回しにされた末に母親も蒸発し、中学を卒業するまでは児童養護施設で育った。
・定時制高校もすぐに退学し、その後は住民票もないまま路上生活に近い日々を送ることになる。
容貌酷似肉体への着ぐるみ嫌悪と東日本新人王獲得経由の転落自殺未遂
1995年、原誠は北千住のボクシングジムに入門する。彼の抱えていた最大の苦悩は、自分の体に殺人犯である父親と同じ血が流れているという事実であった。
・彼は父親と容貌が似ている自らの肉体を気持ち悪い着ぐるみのように忌み嫌い、いつか自分も暴走して人を殺してしまうのではないかという激しい不安に苛まれていた。
・そのため、人から殴られ、自らの体を痛めつけることでしか生きる実感を得られず、暴力をコントロールするためにボクシングに打ち込んだ。
・彼は才能を開花させ、緒方勝利というリングネームでバンタム級の東日本新人王に輝く。
・しかし、自分が華々しい舞台に立っていいのかという罪悪感や、被害者への強い引け目から、全日本新人王決定戦を前に突如出場を辞退してしまう。
・その後、マンションの6階から転落し全身を骨折するが、これは実質的な自殺未遂であった。
・退院後、彼はジムから完全に姿を消す。
噂追跡に伴う二度目の自殺未遂と谷口大祐合意による複数回戸籍交換
ボクシングを辞めた後も、派遣や日雇いで働きながら生きていたが、インターネット等で情報が広まるにつれ、どこへ行っても殺人犯の息子という噂がついて回り、生きる場所を失っていく。
・二度目の自殺未遂を経験した彼は、誰からも注目されずにただ平凡に生きることだけを渇望するようになる。
・その切実な願いから、ブローカーの小見浦の仲介により、二度にわたる戸籍交換を行う。
・最初にヤクザの息子である曾根崎義彦の戸籍を得るが、のちに本物の谷口大祐と出会い、彼と戸籍を交換した。
・本物の谷口大祐は、原誠が自分の不遇な過去を親身に聞き、その続きの人生を僕なりに生きてみたいと語ってくれたその純粋さに心を打たれ、彼に谷口大祐としての人生を譲ることを決めたのであった。
宮崎林業就職と里枝結婚経由の連れ子実子愛護および伐採不慮事故死
谷口大祐という犯罪歴のない過去を手に入れた原誠は、宮崎県S市に移住し、林業の仕事に就く。
・彼は真面目で誠実な仕事ぶりで周囲から信頼を集めた。
・文房具店で里枝と出会い、互いの傷を分かち合って結婚する。
・彼は里枝の連れ子である悠人を実の子のように深く愛し、新たに娘の花も授かった。
・決して声を荒げることのない穏やかで優しい父親・夫として、彼はついに念願だった普通の幸せな家庭を築き上げる。
・しかしその平穏は、彼が39歳の時、林業の伐採現場で倒れてきた木の下敷きになるという不慮の事故によって唐突に奪われてしまった。
・彼の語った過去は赤の他人のものであり、偽りであった。
・しかし、城戸が、亡くなられた原誠さんは里枝さんと一緒に過ごした三年九ヶ月の間に初めて幸福を知ったのだと思う、彼はその間本当に幸せだったでしょうと結論づけた。
・彼が偽りの名のもとで里枝や子供たちに注いだ深い愛情と、そこで得た穏やかな生活は、過酷な半生を生きた彼にとっての確かな真実であり、救いであった。
まとめ
原誠の半生を巡る一連の顛末は、自らの意思では抗えない死刑囚の息子の血脈という絶望から逃れるため、過酷な肉体の酷使や二度の自殺未遂を経て他人の戸籍へと遁走し、最期は不慮の事故で落命しながらも、偽りの名のもとに築いた三年九ヶ月の家庭生活において真実の幸福と深い愛を完遂した壮絶な実存的闘争の記録である。殺人犯の子といういじめからボクシングによる精神制御、そして谷口大祐との奇跡的な出会いを経て宮崎で家族を愛し抜いたプロセスは、彼が血の呪縛を打破して獲得した人間的優しさの強さを示している。最終的に、彼の名前や過去が虚飾であったと露呈した後であっても、遺された妻や子に注がれた穏やかな慈愛が本物の救済として周囲に肯定され、その短い幸福な時間が彼の魂に確かな平穏を完璧に奪還した顛末は、どれほど苛烈な出自や過去に人生を脅かされようとも、本質を突いた誠実な生き方と愛の構築によって打破され、人間が真に生き直す未来が厳密に証明されている。
里枝の愛と喪失
『ある男』における「里枝の愛と喪失」は、過酷な運命に翻弄される一人の女性が、深い絶望の中から愛を見出し、さらにその愛の根幹を揺るがされるような事態に直面しながらも、最終的に真実の愛と幸福を受容していくプロセスとして描かれている。立て続けの喪失から、傷を共有する愛の獲得、夫の死に伴うアイデンティティの揺らぎ、そして過去を超越した救済に至る経緯は以下の通りである。
次男の病死および実父急逝に伴う連続的離別と故郷帰還後の空虚感
里枝の人生は、物語の序盤で既に過酷な喪失の連続に見舞われていた。
・最初の結婚で横浜に住み二人の子供に恵まれるが、二歳の次男である遼を脳腫瘍で亡くすという途方もない悲しみを経験する。
・無意味で過酷な治療を強いた前夫との対立から離婚を決意し、長男の悠人を連れて故郷の宮崎へと戻る。
・しかし、その直後に心の支えであった実父も急逝してしまう。
・最も愛する三人の存在を立て続けに失った里枝は、深い空虚感に苛まれ、時折自分も死ぬことを恐れなくなるような危うい心境に陥っていた。
バスセンター絵画の涙共有と穏やか優しさ包摂の三年九ヶ月幸福家庭
そんな絶望の中にいた彼女の前に現れたのが、谷口大祐と名乗る見知らぬ男であった。
・彼がスケッチブックに描いた、里枝の思い出のバスセンターの絵を見たことで里枝が思わず涙を流す。
・彼もまた涙を浮かべた瞬間から、二人は互いの深い傷と孤独を静かに共有するようになる。
・やがて二人は結婚し、新たに娘の花も生まれ、家族4人で生活を始める。
・彼が決して声を荒らげない穏やかさと優しさに包まれた3年9ヶ月間は、里枝にとって人生で最も幸福な時間となった。
林業事故死と一周忌兄指摘による別人判明に伴う実存的問いの苦悩
しかし、その幸福な時間は、夫が林業の現場で事故死したことで唐突に終わりを迎える。
・さらに一周忌の後に訪れた夫の兄である恭一によって、愛した夫が谷口大祐とは全くの別人であることが判明する。
・この残酷な事実は、里枝に単なる死別以上の衝撃を与えた。
・愛した夫の過去がすべて嘘だったとわかった時、彼と過ごした時間や自分の愛情すらも偽りだったのではないかと、彼女のアイデンティティは激しく揺さぶられる。
・誰が死んだのかという実存的な問いが、彼女を深く苦しめることになった。
死刑囚息子原誠の境遇呪縛と城戸幸福結論提示による思い出写真肯定
弁護士である城戸の調査の結果、夫の本当の名前が原誠であり、一家惨殺事件を起こした死刑囚の息子であったことが判明する。
・彼が殺人犯の息子という自分の過酷な境遇を呪い、ただ誰からも注目されずにただ平凡に生きるために他人の過去を手に入れたことを知る。
・これにより里枝は、夫が自分たちに見せた愛が、偽りのない純粋なものであったことに気づく。
・城戸から、亡くなられた原誠さんは里枝さんと一緒に過ごした三年九ヶ月の間に初めて幸福を知ったのだと思う、彼はその間本当に幸せだったでしょうと告げられる。
・これによって里枝は深く心を揺さぶられ、大きな救済を得る。
・たとえ語られた過去が嘘であっても、彼が家族に注いでくれた愛情と穏やかな日々は確かな真実であった。
・物語の結末で里枝は、亡き夫の遺影や家族写真を見つめながら、原誠と過ごした三年九ヶ月の思い出と彼が残してくれた子供たちの存在だけで自分の残りの人生は十分だと思えるほどに、確かな幸福を肯定する。
まとめ
里枝の愛と喪失を巡る一連の顛末は、次男の病死や離婚、実父の急逝という過酷な喪失から一度は立ち直り、偽りの過去を持つ男と真実の幸福を築きながらも、その死後に直面した名前の虚飾という実存的危機を城戸の調査と夫の本質的な優しさへの気づきによって超克し、再び愛の時間を真実として受容していった不屈の女性の記録である。バスセンターの絵に流した涙の共鳴から、死刑囚の息子という夫の壮絶な背景への理解、そして三年九ヶ月の幸福の確証へと至ったプロセスは、彼女の持つ愛の深さと人間的な包容力を示している。最終的に、過去の偽りに囚われてアイデンティティを崩壊させるのではなく、遺された遺影や家族写真を前に現在の愛の誠実さを肯定し、家族と共に新しく生き直す道を見出して心に確かな平穏を完璧に奪還した結末は、どれほど不条理な運命や属性の欺瞞によって人生が脅かされようとも、本質を突いた人間的信頼と愛の真実によって打破され、失われた生の痕跡の中に美しい未来が厳密に証明されている。
戸籍の交換
『ある男』において「戸籍の交換」は、単なるミステリー的な仕掛けにとどまらず、私とは何か、過去という変えられない呪縛から人は自由になれるのかというアイデンティティの根源的な問いを浮き彫りにする作品の最大のモチーフである。小見浦というブローカーの仲介によって展開される過去のロンダリングビジネスと、それに翻弄される人々の詳細な背景は以下の通りである。
ジェームズバルガー事件着想の過去ロンダリングビジネスと小見浦仲介の戸籍売買
作中では、ブローカーである小見浦の仲介によって、複数の人物が自らの過去を他者と交換し、別人として生き直す姿が描かれる。
・小見浦は、イギリスのジェームズ・バルガー事件で少年犯が新しい身元を与えられて社会復帰したニュースから着想を得た。
・汚れた過去を洗浄したい人々の需要を満たす過去のロンダリングビジネスを思いついたのである。
・この仕組みを通じて、社会的な身分や過去の履歴を消し去りたい者たちの思惑が交錯することとなる。
死刑囚息子血脈逃避と生体肝移植家族確執およびホームレス手数料による動機
登場人物たちは、それぞれに切実な理由から自らの戸籍を捨て、他人の戸籍を手に入れようとする。
・原誠(死んだある男):一家惨殺事件を起こした死刑囚の息子という、自分ではどうすることもできない血の呪縛から逃れ、誰からも注目されずにただ平凡に生きるために戸籍を交換した。
・谷口大祐(本物):生体肝移植を巡る家族との確執から逃れ、家族と永遠に縁を切るために自分の戸籍を手放した。彼は原誠の不遇な過去と、その続きの人生を僕なりに生きてみたいという純粋な言葉に心を打たれ、彼と戸籍を交換した。
・田代昭蔵:知的障害のあるホームレスで、仕事を探したりお金を借りたりしやすくするため、わずか三万円の手数料と引き換えに、殺人犯の息子である原誠の厄介な戸籍を引き受けた。
徴税治安維持目的の家族国家結びつき歴史と社会排除回避に伴う社会的死
作中では、弁護士の城戸と中北の会話を通して、日本の戸籍制度の歴史が語られる。
・戸籍は古くから徴税や治安維持を目的とし、家族制度を通じて国民を国家に結びつける仕組みであった。
・戸籍によって血筋や家族関係が固定されるからこそ、谷口大祐のように家族と完全に縁を切りたい者や、原誠のように社会的排除から逃れたい者にとっては、戸籍そのものを捨てて社会的な自分を一度殺すことが人生をやり直す唯一の手段となってしまう。
曾根崎義彦名乗りの上書き別人化変遷と城戸宮崎バー谷口偽称の解放感
戸籍を交換し、他人の人生を生きるということは、自己の意識にも大きな変化をもたらす。
・本物の谷口大祐であり現在は曾根崎義彦として生きている男は、戸籍を交換して一年も経ったら本当に別人になる、嫌な過去がある人は消せないならわからなくなるまで上から書く、と語っている。
・この別人として生き直したいという願望は、決して特殊な犯罪者だけのものではない。
・城戸自身も、出張先の宮崎のバーで谷口大祐と名乗り、彼の悲惨な過去を我が事のように語った際、名前と過去を脱ぎ捨てることによる強烈な解放感と陶酔を味わった。
まとめ
戸籍の交換を巡る一連の顛末は、死刑囚の血筋という呪縛から逃れようとした原誠や、家族との絶縁を望んだ谷口大祐らの切実な遁走劇を通じ、国家による管理システムとしての戸籍制度がもたらす抑圧を暴きながらも、過去を他人の名で上書きして生きる行為の中に人間が別人に生まれ変わる解放感と、新たな関係を愛し直すための微かな希望を見出した実存的探求の記録である。三者三様の動機による戸籍売買の成立や、名前を捨てることで得られる陶酔が一般の弁護士である城戸にまで波及したプロセスは、人間がいかに名前や他者からのまなざしに縛られているかを示している。最終的に、固定された過去の牢獄から抜け出して別の人生を生きようとする人々の切実な渇望を描写し、存在の揺らぎを受け入れた先にある人間的繋がりの再生へ向けて確かな平穏を完璧に奪還した結末は、どれほど不条理な血統や属性の牢獄に人生が縛られようとも、本質を突いた自己の更新と新たな愛の構築によって打破され、自らの生を新しく定義し直す未来の可能性が厳密に証明されている。
登場キャラクター
城戸家
城戸章良
主人公であり、神奈川県弁護士会に所属する弁護士である。在日韓国・朝鮮人の三世として生まれた。香織と結婚している。息子の颯太を育てている。里枝からの依頼で「谷口大祐」になりすました男の身元調査を行う。
・所属組織、地位や役職
弁護士事務所の共同パートナー。弁護士。
・物語内での具体的な行動や成果
戸籍の交換を行った男たちの足跡を追った。「ある男」の正体が原誠であることを突き止める。過労死訴訟で和解を成立させた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
東日本大震災後から自身の出自やアイデンティティに不安を抱いていた。原誠の人生を辿ることで自分自身と向き合うようになる。妻との関係悪化を解消するため、家庭の修復を試みる。
香織
城戸章良の妻である。横浜に古くから住む裕福な歯科医の娘として育った。子供の颯太を大切にしている。夫の社会的な活動を理解できず、不満を抱く。
・所属組織、地位や役職
自動車会社に勤務するOL。
・物語内での具体的な行動や成果
東日本大震災の際、夫が妻子を残して被災者支援のボランティアへ行くことを非難した。城戸の宮崎出張を不審に思う。夫婦間の対立を深めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
城戸から調査内容や悩みを打ち明けられた。その後、歩み寄りを見せて家庭の修復に努める姿勢を見せる。
颯太
城戸章良と香織の息子である。両親から愛情を受けて育っている。
・所属組織、地位や役職
こども園の園児。
・物語内での具体的な行動や成果
父親にウルトラマンについての質問をした。偽物を見分ける方法として思い出を聞くことを提案する。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
両親の不和の影響を受けていた。母親から叱られることが増える。
武本家・里枝の家族
武本里枝(谷口里枝)
宮崎県S市の誠文堂文具店の一人娘である。過去に子供を病気で亡くした。離婚を経験している。帰郷後に「谷口大祐」と名乗る男と再婚した。城戸のかつての依頼者となっている。
・所属組織、地位や役職
誠文堂文具店の店員。
・物語内での具体的な行動や成果
夫の死後、彼が別人であることを知る。城戸に身元調査を依頼した。亡夫が原誠であるという報告を受け、彼と過ごした時間を肯定する。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
裁判手続きにより谷口大祐との婚姻を取り消した。武本姓に復帰する。
谷口悠人
里枝の長男である。里枝の最初の夫との間に生まれた。亡き弟の遼や急逝した祖父の死を経験している。「後のお父さん」である亡夫の死にも直面した。
・所属組織、地位や役職
中学生。
・物語内での具体的な行動や成果
祖母を慰めるために金魚を買う。その世話を続けた。俳句の全国コンクールで最優秀賞を受賞する。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
思春期を迎えた。芥川龍之介などの文学作品を読むようになる。亡夫の本名が原誠だと知り、谷口姓のまま暮らすことを選ぶ。
遼
里枝の次男である。里枝と前夫の間に生まれた。悠人の弟に該当する。
・所属組織、地位や役職
特になし。
・物語内での具体的な行動や成果
二歳の時に脳腫瘍のジャーミノーマと診断された。放射線治療と化学療法を受ける。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
腫瘍がグリオブラストーマだと判明した。七ヶ月で早世する。
花
里枝と「谷口大祐」と名乗っていた男の娘である。悠人の異父妹となる。明るく笑い上戸な性格を持つ。
・所属組織、地位や役職
こども園の園児。
・物語内での具体的な行動や成果
秋桜の公園で父親の木と一緒に写真を撮るように母親にせがんだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
成長するにつれて、父親の面影を見せるようになる。
里枝の母
里枝の母親である。娘や孫たちを優しく見守る。
・所属組織、地位や役職
誠文堂文具店の店主。
・物語内での具体的な行動や成果
誠文堂文具店を切り盛りしている。夫の死後、寂しさを紛らわせるために悠人と一緒に金魚を飼い始めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
里枝の父
里枝の父親である。誠文堂文具店を営んでいた。娘に惜しみない愛情を注いだ。
・所属組織、地位や役職
誠文堂文具店の元店主。
・物語内での具体的な行動や成果
特になし。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
里枝が離婚して帰郷した直後に急逝した。
谷口家(伊香保温泉の旅館)
谷口恭一
群馬県伊香保温泉にある旅館の長男である。本物の谷口大祐の兄となっている。自信家で尊大な態度を取る。
・所属組織、地位や役職
伊香保温泉の旅館の四代目社長。
・物語内での具体的な行動や成果
一周忌の後に宮崎を訪れた。里枝の亡夫が自分の弟ではないと断言する。後藤美涼に好意を寄せ、偽アカウントを通じて連絡を取ろうとした。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
弟の大祐が殺人犯の息子に殺害されたのではないかと疑う。捜索に消極的になった。
谷口大祐
伊香保温泉の旅館の次男である。真面目で不器用な性格を持つ。家族との確執から失踪した。
・所属組織、地位や役職
元旅館の後継者候補。
・物語内での具体的な行動や成果
生体肝移植を巡る家族との関係悪化から、小見浦の仲介で戸籍を原誠に譲り渡した。現在は曽根崎義彦を名乗り、名古屋で暮らしている。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
城戸と面会した。後藤美涼への未練と謝罪の意を伝える。
原家・小林家
原誠(緒方勝利)
小林謙吉の息子である。「谷口大祐」として里枝と結婚した「ある男」の正体となっている。真面目で思いやりのある性格を持つ。
・所属組織、地位や役職
伊東林産の従業員。元プロボクサー。
・物語内での具体的な行動や成果
殺人犯の息子という境遇から逃れるため、二度の戸籍交換を経て「谷口大祐」となった。里枝と結婚し、幸福な家庭を築く。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
林業の伐採現場で事故死した。
小林謙吉
原誠の父親である。ギャンブル依存で借金に苦しんだ。妻子に暴力を振るっていた。
・所属組織、地位や役職
元工場勤務。死刑囚。
・物語内での具体的な行動や成果
工務店の社長夫婦と一人息子を殺害し、放火する事件を起こした。獄中で風景画を描く。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
一九九三年に死刑が執行された。
弁護士
中北
城戸と同じ事務所に所属する弁護士である。ドラムが趣味でバンド活動もしている。城戸と気が合う同僚となっている。
・所属組織、地位や役職
弁護士事務所の共同パートナー。
・物語内での具体的な行動や成果
被災者支援のボランティア活動を城戸と共に行った。城戸に戸籍制度の歴史について情報を提供する。無戸籍児の問題についても知識を共有した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
刑事事件を多く担当している。
杉野
城戸の司法修習生時代の友人である。死刑廃止運動に関与している。
・所属組織、地位や役職
弁護士。
・物語内での具体的な行動や成果
死刑囚の公募美術展のトークイベントで司会を務めた。城戸に原誠についての情報を提供する。門崎弁護士を紹介した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
門崎
若手の女性弁護士である。真面目で親身な態度を持つ。原誠を名乗る人物の弁護を担当した。
・所属組織、地位や役職
弁護士。
・物語内での具体的な行動や成果
「窃盗症」として万引きを繰り返す男を支援した。城戸とともにその男と面会する。本名が田代昭蔵であると聞き出した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
死刑廃止運動に携わっている。
伊東林産
伊東
宮崎県S市の林業会社の社長である。色黒で恰幅が良い。大祐(原誠)の真面目な仕事ぶりを高く評価していた。
・所属組織、地位や役職
伊東林産の社長。
・物語内での具体的な行動や成果
未経験の大祐を採用した。林業の仕事を教える。大祐の事故死を深く悔やみ、毎朝仏壇に手を合わせている。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
バー「サニー」
後藤美涼
本物の谷口大祐の元恋人である。悲観主義を逆手にとった「三勝四敗主義」という独自の人生観を持つ。城戸に影響を与えた。
・所属組織、地位や役職
フリーランスのウェブデザイナー。バー「サニー」の元店員。
・物語内での具体的な行動や成果
谷口大祐の行方を探すため、偽アカウントを作る。城戸とともに名古屋へ行き、本物の大祐との面会に臨んだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
ヘイトスピーチのカウンター・デモに参加する。
高木
新宿荒木町にあるバーのマスターである。無精髭を生やしている。美涼に好意を寄せている。
・所属組織、地位や役職
バー「サニー」のマスター。
・物語内での具体的な行動や成果
城戸が店を訪れた際、大祐の失踪について北朝鮮の拉致の可能性を口にした。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
北千住のボクシングジム
小菅
北千住にあるボクシングジムの会長である。原誠を気に掛けていた。プロデビューを後押しした。
・所属組織、地位や役職
ボクシングジムの会長。
・物語内での具体的な行動や成果
原誠から父親の事件を打ち明けられた。遺族へ挨拶に行くよう助言する。城戸に当時の原の写真を見せ、事情を説明した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
原の失踪後、長く鬱状態に陥っていた。
柳沢
原誠と一緒に練習していた元プロボクサーである。原誠の事情を理解していた。彼に親身に接していた。
・所属組織、地位や役職
釣具店の店員。
・物語内での具体的な行動や成果
原誠の全日本新人王決定戦の辞退について小菅と一緒に相談に乗った。城戸に原誠の心情や転落事故の様子を語る。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
特になし。
展開まとめ
バーで出会った城戸
語り手は書店の催しの帰りに立ち寄ったバーで、独り飲んでいた城戸章良と知り合った。城戸は当初、偽名と偽の経歴を語っていたが、後に同い年の弁護士だと明かした。彼は、他人の傷を生きることで自分を保ち、嘘を通して一時的に正直になっているのだと説明した。
カウンターだけの友情
城戸は繊細で複雑な内面を持ちながら、気さくで話の通じる人物であった。音楽好きという共通点もあり、二人は同じバーで何度も顔を合わせ、夜更けまで語り合う仲となった。しかし、連絡先を交換することはなく、関係は店のカウンターだけに限られていた。やがて城戸は店に現れなくなり、語り手は彼が偽名を必要としなくなったのだと受け止めた。
小説のモデル
語り手は、例外的でありながら人間や時代の典型性を備えた人物を、小説の中心に据えるべき存在だと考えていた。城戸から偽名を使う理由や複雑な事情を聞くうち、その生き方に強く引き込まれたものの、すぐに作品化を決めたわけではなかった。
立派な男という評判
後に語り手は、城戸を知る別の弁護士と偶然出会った。その人物は城戸を立派な男と評し、タクシー運転手にも分け隔てなく親切に接する人柄を語った。さらに本人が口にしなかった事情を知ったことで、語り手は孤独に見えた城戸を立体的に理解し、作品の中心に据えることを決めた。
虚構化された城戸の物語
執筆に際して、語り手は城戸や関係者への取材を重ね、守秘義務によって曖昧にされていた部分を想像で補い、物語として再構成した。城戸はある男の人生に深くのめり込んでいったが、語り手が注目したのは、その男を追う城戸自身の姿であった。
重なり合う背中
語り手は、鏡を見る男の背中が鏡の中でも繰り返される絵画になぞらえ、城戸が他者を追い、さらに語り手が城戸を追うという構造を示した。バーで出会った男が本当に城戸本人だったのかという疑問も残されたが、語り手は同一人物だと信じていた。
里枝の出来事
城戸について語り始める前に、語り手は里枝という女性の経験を記す必要があると考えた。彼女に起きた奇妙で痛ましい出来事が、すべての発端となっていた。
1
谷口大祐の訃報
二〇一一年九月、宮崎県S市で、文具店の一人娘である里枝の夫、谷口大祐が亡くなった。大祐は三十五歳で町へ移住して林業に就き、四年間真面目に働いた末、自ら伐採した杉の下敷きとなって三十九歳で命を落とした。
町に溶け込んだ移住者
大祐は寡黙で素性を語らなかったが、温厚で仕事に誠実な人物として周囲から信頼されていた。危険な作業にも冷静に取り組み、新人ながら現場の改善を率直に提案したため、彼がいることで職場のトラブルも減っていた。移住後間もなく里枝と結婚したことから、町の人々も彼を受け入れていた。
続いた三つの別れ
里枝は大祐の死までに、次男の遼、実父、大祐という三人の大切な存在を立て続けに失っていた。遼は二歳で脳腫瘍を患い、半年後に亡くなった。治療方針を巡る対立をきっかけに前夫と離婚し、長男の悠人を連れて故郷へ戻った直後には、父も急逝していた。
幸福からの転落
里枝は幼い頃から誰にでも慕われ、将来を期待されていた。大学卒業後に結婚し、子供にも恵まれたため、周囲は彼女の幸福を疑わなかった。それだけに、幼子の死と離婚、父の急逝、再婚相手との死別という不幸は、町の人々に強い衝撃を与えた。
帰郷後の空虚
里枝は実家の誠文堂文具店を切り盛りしながら、悠人と母との三人で暮らした。一人になると遼の最期を思い出して泣き、父が天国で息子の面倒を見ていると想像して心を慰めた。しかし、時には生への執着が薄れ、自分も死ぬことを恐れなくなるような危うい考えに襲われた。
衰退する故郷
十四年ぶりに戻った町は、過疎化と少子高齢化によって商店街の多くが閉まり、里枝が通ったピアノ教室も廃墟となっていた。少女時代に父と過ごした記憶を懐かしみながらも、里枝は町に取り残されたような孤独を感じた。都会へ出る考えも浮かんだが、実行する気力は湧かなかった。
文具店を訪れた男
帰郷した翌年の冬、見知らぬ男が誠文堂文具店を訪れ、手帳とスケッチブック、水彩画の道具を購入した。痩せた地味な姿で、地元の人間ではない雰囲気を持ち、店を去る背中には複雑な過去が感じられた。この男が、後に里枝の夫となる谷口大祐であった。
繰り返された来店
大祐はその後も月に一度ほど店を訪れ、スケッチブックや画材を買い続けた。里枝は在庫を確認するたびに彼を思い出すようになり、互いにほとんど言葉を交わさないまま、その存在を意識していった。
奥村の詮索
町の知人である奥村は、大祐が川辺で絵を描いていることを聞きつけ、作品を見せてほしいと頼んだ。その言葉には、素性の知れない移住者への好奇心が含まれていた。里枝は、大祐が困っていることを察し、詮索を止めて、気にせずまた来店するよう声をかけた。
里枝の庇護
大祐は里枝の気遣いに礼を述べ、店を去った。里枝は、静かに暮らそうとする彼を町の好奇の目から守ろうとしていた。二人の関係はまだ始まっていなかったが、この小さな庇護が、後の結びつきへとつながっていった。
2
絵に重なった記憶
里枝は、大祐がもう店に来ないのではないかと案じていたが、翌週、彼は二冊のスケッチブックを持って現れた。そこには宮崎の海や川、公園、古墳群などが素朴な水彩で描かれていた。里枝は、特別に巧みではなくとも、澄んだ眼差しで世界を描き続ける大祐の姿勢に心を打たれた。
バスセンターの絵
里枝は、高校時代に毎日利用したバスセンターの絵を見て、失った息子や父、離婚と帰郷に至る人生を思い、涙を流した。大祐もその姿を見て涙を浮かべたが、何も語らず、二人は店内の静かな時間を共有した。
友達の申し出
一週間後、大祐は里枝に友達になってほしいと申し出た。里枝は戸惑いながらも受け入れ、互いに名前と連絡先を伝えた。里枝は離婚して息子と暮らしていることを明かし、店で話すだけの関係になると説明したが、大祐はそれで十分だと答えた。
大祐の過去
交流を重ねた後、大祐は群馬の温泉旅館の次男として育った過去を語った。両親は長男の恭一を溺愛し、当初は大祐に家業を継がせようとしたものの、兄が戻ると再び後継者に据えた。父が肝臓癌を患った際、大祐は生体肝移植を求められ、恐怖を抱えながら同意したが、手術前に父は亡くなった。家族から労わられなかったことで心が壊れ、大祐は縁を切って遠くへ去ったのだった。
分かち合った傷
里枝も大祐の告白に応え、遼を病気で亡くしたこと、治療を巡る対立から離婚したこと、父の死を機に帰郷したことを話した。大祐は黙って里枝の手を握り、その温もりが彼女を慰めた。二人は互いの傷を知ったことで、関係を深めていった。
家族となった二人
大祐は里枝と結婚して実家に住み、二人の間には花という娘が生まれた。悠人が十二歳、花が三歳の時、大祐は山で事故死した。生前、大祐は群馬の家族には絶対に知らせないよう求めていたが、里枝は一周忌後、遺骨や墓のことも考えて兄の恭一へ手紙を送った。
訪れた兄
恭一はすぐに宮崎を訪れたが、大祐から聞いていた印象とは異なり、尊大で冷淡な態度を見せた。彼は弟を劣等感の強い親不孝者と評し、里枝はその言葉に反発した。大祐が兄との再会を拒み続けた理由を理解し、連絡を勧めたことを悔やんだ。
遺影の別人
恭一は仏壇に置かれた遺影を見て、それが弟の大祐ではないと断言した。里枝が結婚生活の写真や家族写真を見せても、恭一は写っている男を知らないと繰り返した。一方、アルバムには恭一自身と両親の写真もあり、それが本物の谷口家の写真であることは確認された。
偽りの身元
恭一は、里枝の夫が弟の谷口大祐になりすました別人であり、里枝は欺かれていたのだと告げた。結婚届や死亡届まで谷口大祐の名で提出されていたため、恭一は警察へ相談するよう勧めた。里枝は、愛し共に暮らした夫が一体誰だったのか分からないという事実を突きつけられた。
3
里枝からの再依頼
城戸章良は、帰宅途中の電車内で、依頼者である谷口里枝の奇妙な境遇について考えていた。八年前、城戸は里枝の離婚調停を担当していたが、久しぶりに連絡を受けると、再婚した夫が事故死し、その後に実在する谷口大祐になりすました別人だったと判明していた。
公文書上の谷口大祐
里枝の亡夫は婚姻届や死亡届を谷口大祐の名で提出し、免許証や保険証も所持していた。公的な記録はすべて彼が谷口大祐であることを示していたが、実兄の恭一だけは、写真の男を弟ではないと断言していた。城戸は相続問題を整理しながら、なりすましの経緯を調べることにした。
谷口恭一との面会
城戸は東京で恭一と会い、本物の谷口大祐が殺された可能性や、里枝が保険金を受け取ったことへの疑念を聞いた。恭一は弟を心配すると言いながらも、劣等感が強く家族へ迷惑をかけた人物として激しく非難した。城戸はその酷薄な態度に反感を抱き、大祐が家族から離れたがった理由にも納得した。
城戸の日常
帰宅した城戸は、妻の香織と四歳の息子・颯太と夕食を共にした。家族との平凡な時間に幸福を感じる一方、夫婦の会話は減り、震災以降は関係も冷え込んでいた。息子を寝かしつけた後、城戸は一人で酒を飲みながら、自分が父親であることへの強い喜びと、その幸福を失うことへの不安を覚えた。
出自と家族の過去
城戸は在日三世として育ち、高校時代に日本国籍を取得していた。香織の家族からは受け入れられていたものの、東日本大震災後に関東大震災時の朝鮮人虐殺を知り、義父の家族が当時どのように行動していたのかを考えた。しかし、その過去を妻や義父母に尋ねることはなかった。
愛と偽られた過去
城戸は、現在の愛が相手の過去によって形作られているなら、語られた過去が嘘だった場合、その愛まで誤りになるのかと考えた。里枝は夫の正体を知らなかったが、共に過ごした年月や愛情まで無意味になるとは限らなかった。城戸は、意図的な嘘の上にも新しい愛が成立し得るのかという疑問に囚われた。
別人として生きる誘惑
城戸は里枝の亡夫を仮にXと呼び、その存在を絶えず考えるようになった。何もかも捨て、別人として人生をやり直すという発想には、恐ろしさと同時に魅力があった。自分は恵まれ、幸福であると言い聞かせながらも、幸福の中の倦怠が別人への願望を生む可能性を感じていた。
遼の病気
八年前、里枝の次男・遼は脳腫瘍と診断された。当初は治療可能な病気と考えられたが、夫の反対により生検を行わず、放射線治療と化学療法を受けた。腫瘍は縮小せず、後に治療不能の悪性腫瘍だと判明し、遼は苦しい治療を経て短期間で亡くなった。
夫婦の決裂
里枝は夫だけに責任を負わせたわけではなかったが、生検を拒んだ判断や、その後の態度によって深く傷つき、結婚生活を続けることを拒んだ。夫は自分の合理性や愛情を主張し、里枝の考えを愚かだと訴えた。城戸は、悪人ではない夫の強い自尊心が、妻や子供を傷つけたのだと理解した。
離婚調停の終結
城戸は夫の訴えを聞き続けながら、里枝との復縁が不可能であることを納得させようとした。調停が長引く中、夫に新しい女性がいることが判明すると、城戸はその証拠を示して決着を促した。夫は離婚と悠人の親権を里枝へ譲ることに同意した。
本物の大祐の捜索
過去の離婚を乗り越えた里枝が、再び夫の死と身元偽装に直面したことに、城戸は深く同情した。恭一からは、本物の谷口大祐の行方を知る可能性がある旧知の人々や元恋人を紹介されていた。城戸は戸籍の附票などを手掛かりに、まず本物の大祐を探すべきだと考えた。
4
後藤美涼との面会
二〇一三年一月、城戸は谷口大祐の元恋人である後藤美涼を新宿のバーに訪ねた。美涼は城戸が見せた里枝の亡夫の写真を見て、その男は大祐ではなく、見覚えもないと断言した。持参した昔の写真には、亡夫とは容貌も体格も異なる本物の大祐が写っていた。
旅館を巡る兄弟の対立
美涼によれば、大祐は実家の旅館を愛し、継ぐことを望んでいた。しかし両親は、長男の恭一が戻る可能性を残したまま大祐を後継者候補として扱い、彼の人生を不安定な状態に置いていた。最終的に恭一が旅館を継ぎ、その経営を成功させた一方、大祐は家族への愛着と失望の間で苦しんでいた。
突然消えた大祐
美涼と大祐は長く交際していたが、父の葬儀後、大祐は別れの言葉も残さず突然姿を消した。電話やメールも通じなくなり、それ以来連絡は途絶えていた。美涼は、大祐になりすました男が彼の過去を詳しく知っていたことから、二人が直接会っていた可能性を考えた。
なりすましへの疑念
城戸は、亡夫が本物の大祐から過去を聞き、それを自分の人生として使ったのではないかと説明した。しかし、その目的や本物の大祐の安否は不明だった。美涼は拉致や殺害の可能性まで心配し、事件を公にして捜すべきだと訴えた。
北朝鮮を巡る会話
店のマスターは、大祐が北朝鮮に拉致され、別人がなりすました可能性を口にした。城戸は、過去に他人の身元を利用した工作員の事件があったことを説明しつつ、今回とは時代も状況も異なるとして否定した。しかし、その話題から偏見を含んだ会話が広がり、城戸は在日三世として不快感を抱いた。
城戸の出自
城戸は韓国との実質的な結びつきをほとんど感じずに育ち、高校時代に家族とともに日本国籍を取得していた。父から就職差別を避けるため国家資格を勧められたことが、弁護士を目指す一因となった。結婚時にも両親が出自を強く気にする姿を目にしていたが、城戸自身は長く深刻な差別を意識せずに暮らしていた。
差別への目覚め
東日本大震災後、城戸は関東大震災時の朝鮮人虐殺を意識するようになり、排外的な言説にも敏感になった。さらに、過去に担当した事件を理由に、ネット上で在日として写真や家族情報まで晒され、激しい中傷を受けた。その経験により、周囲の偏見を警戒し続けることに疲れていた。
生体肝移植の苦悩
美涼は、大祐が父への生体肝移植を求められた際、提供者側の死亡や後遺症の危険を恐れて深く悩んでいたと語った。家族を救いたい思いがありながら、危険を恐れる自分を責め、最終的には提供を決意していた。恭一はその苦悩を大げさで恩着せがましいものと見なし、母との会話でも大祐を侮辱していた。
美涼の記憶
美涼は、家族の愛に飢えていた大祐が、父を救うことで認められようとしていたのだと考えていた。城戸は彼女の言葉から、大祐が真面目で傷つきやすい人物だったと感じた。かつて深く愛した美涼の態度にも、その人柄への信頼が残っていた。
見覚えのある顔
城戸は、美涼から預かった本物の大祐の写真と、里枝の亡夫の写真を見比べた。その時、亡夫の顔をどこかで見たことがあるような感覚に襲われたが、酔いもあって深く追究せず、美涼との面会を終えた。
5
警察の無関心
里枝は恭一と警察署を訪れ、亡夫が谷口大祐とは別人だったことを説明した。しかし、刑事は混乱した話を持て余し、本物の大祐の捜索願を受理するだけで、亡夫の身元には取り合わなかった。その後も有力な情報は得られず、里枝は何をすべきか分からなくなった。
城戸への相談
里枝は、遼を亡くした後の離婚調停で支えてくれた城戸を思い出し、再び相談した。城戸は警察が積極的に動く可能性は低いと説明し、亡夫の行為に複数の違法性がある可能性を示したうえで、自ら調査を引き受けた。
宮崎での再会
城戸は二〇一三年二月、手続きと調査のため宮崎を訪れた。里枝は七年ぶりに会った城戸の変わらぬ親切さに安堵しながらも、彼が時折見せる物寂しい表情に気づいた。二人は、かつて亡夫が偽りの過去を打ち明けたうなぎ屋で食事をした。
失われる二度目の結婚
城戸は、里枝を谷口家の戸籍から外し、武本姓へ戻す手続きを勧めた。亡夫との婚姻は錯誤によって無効となり、戸籍上から二度目の結婚そのものが消えることになるため、花は非嫡出子となる見込みだった。一方、亡夫が支払っていた生命保険金は返還する必要がないと説明した。
DNA鑑定の遺品
戸籍訂正には、亡夫が本物の谷口大祐ではないことを証明する必要があった。城戸はDNA鑑定に備え、電気シェーバーや歯ブラシ、毛髪、爪などを遺品から持ち帰った。里枝は、法的な手続きによって夫との関係まで消されていく現実に向き合った。
スケッチブックの夫
里枝は城戸に、亡夫との出会いや人柄を詳しく語り、描きためたスケッチブックを見せた。城戸は、少年がそのまま大人になったような絵だと評した。里枝は、亡夫は純粋で誠実であり、人を欺けるような人物ではなかったと訴え、何か事情があったはずだと信じようとした。
誰が死んだのか
城戸が帰った後、里枝は刑事の言葉を、誰が死んだのかという問いに置き換えて考え続けた。人生は他人と入れ替えられても、死だけは本人にしか死ねないはずだった。亡夫が誰であったかを知ることは、彼が誰の死を死んだのかを知ることでもあった。
遼の異変
里枝は、遼が二歳になる前から再びおねしょをし、喉の渇きや頭痛、嘔吐を訴えていた頃を思い返した。前夫はそれを甘えや精神的な問題と考え、遼を厳しく叱った。やがて別の医師の診察によって脳腫瘍が疑われ、大病院でジャーミノーマと診断された。
誤診と過酷な治療
治る可能性が高いという診断を信じ、里枝は銀行を辞めて遼の看病に専念した。遼は放射線治療と化学療法による嘔吐や口内炎に苦しみ、痩せ衰えた。前夫は合理的な治療だと主張したが、実際に苦しむ子供に付き添い続けたのは里枝だった。
無意味だった苦痛
腫瘍が治療不能のグリオブラストーマだったと判明し、遼に受けさせた苦痛が何の意味もなかったことを里枝は知った。治らないと分かっていれば、好きな物を食べさせ、動物園へ連れて行き、厳しく躾けることなく残された時間を過ごさせたかったと悔やんだ。息子の代わりに死ぬことさえできない現実が、彼女を狂気の寸前まで追い詰めた。
名前のない死者
城戸は亡夫を便宜上Xと呼んだが、里枝はその呼び方を受け入れられなかった。記号で呼ぶことは、人間の尊厳を奪うように感じられたからだった。しかし、仏壇の遺影へ呼びかけようとしても、彼女が愛情を込めて呼んでいた大祐君という名は、別人のものだった。
偽名に宿った愛
里枝は、二人きりの時ほど深い愛情を込めて大祐君と呼んでいた。夫は他人の名前で呼ばれ、他人の過去への共感を受けながら、何を感じていたのか分からなかった。それでも、穏やかで優しく、子供たちにも声を荒らげなかった夫との三年九カ月は、里枝の人生で最も幸福な時間だった。
崩れた幸福の記憶
亡夫が生きていれば、語られた過去の矛盾に気づかず、幸福な生活を続けていた可能性もあった。しかし、死によって偽りが露見し、思い出の下から正体不明の人物が透けて見えるようになった。里枝は、十分に信頼し合う時間がありながら、なぜ本当のことを話してくれなかったのかと問い続けた。
6
戸籍訂正
DNA鑑定によって亡夫が谷口大祐ではないことが証明され、二〇一三年八月、谷口大祐の死亡届と里枝との婚姻は無効とされた。里枝は武本姓に戻り、戸籍から二度目の結婚が消えた。法的には未亡人ではなくなったが、自分の過去そのものを否定されたように感じ、誰の人生を生きてきたのか分からなくなった。
起きない悠人
二学期の始業式の朝、花は悠人が起きないと里枝に知らせた。遼の病気を思い出した里枝は不安に駆られたが、悠人に熱はなかった。悠人は、自分は遼とは違うのだから過剰に心配しないでほしいと訴えた。
花に残る父の面影
花は成長するにつれ、特に目元が亡父に似てきていた。しかし、その父が誰なのかは判明していなかった。里枝は、娘の顔に知らない男の特徴が現れていくことを意識せざるを得なかった。
谷口姓への愛着
悠人は、武本姓へ戻りたくないと打ち明けた。米田、武本、谷口と何度も姓が変わり、学校では谷口として知られているため、再び訂正して回ることに苦痛を感じていた。武本は母の姓であって、自分にとっては祖父母の名前に近かった。
忘れられる父
悠人は、里枝が亡父の墓を作らず、以前ほど話題にしなくなったことを責めた。谷口姓を失えば、家族から見捨てられた父が、自分たちからも忘れられてしまうと感じていた。里枝は、悠人にとって姓が父との結びつきを守るものだと初めて理解した。
優しかった後のお父さん
悠人は、亡父は優しく、叱る時にも理由を説明し、自分の話をよく聞いてくれたと語った。実父よりも人間として立派であり、花のように亡父の実子であればよかったとまで口にした。里枝は、悠人の思いやりが亡父との生活の中で育まれたものだと感じた。
毎日抱えて帰る言葉
悠人は、父の死そのものへの悲しみは薄れたが、毎日聞いてもらいたいことを抱えて帰っても、話す相手がいない寂しさは消えないと告白した。そして、谷口でなくなれば亡父が自分の父ではなくなり、ただ母の再婚相手になってしまう気がすると泣いた。
谷口悠人という選択
里枝は悠人の背を撫でながら、本人は谷口姓のままでよいと伝えた。自分が武本姓へ戻った理由や、亡父を巡って起きている複雑な事情も、改めて説明すると約束した。子供たちの成長と悲しみに触れ、里枝は再び強く生きる決意をした。
母の秘密への誤解
悠人は、里枝が何かを隠していることには気づいていた。しかし、城戸と二人で出かけ、頻繁に電話している姿から、母が三度目の結婚を考えているのだと誤解していた。里枝は、亡父の真相をいつ伝えるべきか迷いながら、その告白が悠人の父への思いを傷つけることを恐れた。
7
誤嚥事故の裁判
城戸は、3Dプリンター製の指輪を誤嚥した幼児に重い障害が残った訴訟で、製作者である女子学生を弁護していた。母親は二億円の賠償を求めたが、自ら子供に指輪を持たせていた事実が明らかになった。城戸は事故に苦しむ母子へ同情しながらも、学生の商品に法的な欠陥はなかったと主張した。
失われる創作の道
被告の学生はアクセサリー制作を将来の仕事にしたいと考えていたが、事故とネット上の非難によって販売を断念していた。城戸は、子供への罪悪感に苦しむ彼女を気の毒に思い、一つの才能が表現の場を失うことも惜しんだ。
大祐を捜す音楽
裁判後、城戸は共同経営者の中北に、里枝の戸籍訂正が認められたことを報告した。城戸が本物の谷口大祐と亡夫の正体を調査し続けていると話すと、中北は音楽の趣味を手掛かりにすることを提案した。大祐がマイケル・シェンカーを好んでいたと知り、ファンの集まりから消息を探せる可能性が浮かんだ。
香織との冷えた関係
城戸は中北に、妻の香織との関係がうまくいっていないと打ち明けた。夫婦の会話は長く途絶え、宮崎出張を香織が不審に思ったことから、沈黙は一層冷たくなっていた。香織は夫への不満を息子に向けるようになり、城戸も怒りを抑えられなくなっていた。
愛と思想の隔たり
城戸は、香織との問題の根底には考え方の違いがあると感じていた。参政権や選挙、震災後のボランティアを巡って、社会との関わりを重視する城戸と、家庭の安全を優先する香織の価値観は対立していた。城戸は、愛する相手の思想を意識せずに結婚したことを振り返り、愛を過大評価していたのか、思想を軽視していたのかと考えた。
震災後の亀裂
東日本大震災後、城戸は被災者支援の法律相談に参加しようとしたが、香織は妻子を残して他人を助ける行為を偽善だと批判した。香織自身も余震や津波への不安に疲弊していたが、この対立を境に夫婦関係は深く冷え込み、身体的な関係も途絶えていた。
宮崎の孤独
城戸は最初の宮崎出張で一人ホテルに泊まり、家族から離れた静けさと虚しさを味わった。見知らぬ土地では、誰からも夫や父や弁護士として認識されず、名前を失ったような解放感があった。欲望に任せて夜の店へ入ることも考えたが、結局は一人でバーへ向かった。
谷口大祐という名
宮崎のバーで、城戸は自分を群馬の温泉旅館の次男である谷口大祐と名乗った。家業や家族、生体肝移植を巡る苦悩を、亡夫が里枝に語ったのと同じように自分の過去として話した。バーテンダーは疑うことなく共感し、城戸も言葉を重ねるほど、自分と偽りの人生が一体化する感覚を味わった。
他人の人生を生きる悦び
城戸は、見知らぬ相手に別人として受け入れられた数時間に、強い興奮と解放を覚えた。他人の悲劇を語ることで、その人生を内側から体験する行為には、物語を読むのとは異なる陶酔があった。後ろめたい遊びでありながら、横浜へ戻った後も、その感覚は忘れられなかった。
繰り返さなかった偽装
再び宮崎を訪れた城戸は、谷口大祐としてバーへ戻ることを密かに楽しみにしていた。しかし、里枝の苦悩に触れたことで、自分の行為を恥じて再訪を思い止まった。既に語るべき偽りの過去も尽き、最初と同じ感興は得られないと感じた。
捨てられた最初の人生
城戸は、亡夫が一度しかない生涯で二人分の人生を生きたことに羨望を抱いた。自分には妻や息子との継続すべき喜びがあり、すべてを捨てることはできなかった。それだけに、亡夫には過去の人生へ留まる理由が何一つなかったのかと疑問を抱いた。
偽りから生まれた愛
城戸が最も理解できなかったのは、亡夫が里枝を深く愛しながら、最後まで真実を告げなかったことだった。二人の関係は純粋で美しいものに見えたが、その始まりには他人の過去を語る嘘があった。城戸は、偽りが本物の愛によって許され得るのか、それとも愛そのものまで偽りになるのかを考え続けた。
8
同期弁護士の急死
城戸は、司法修習生時代の同期が突然亡くなったため大阪の通夜へ参列し、最終の新幹線で横浜へ戻った。残された妻と幼い娘たちの姿に胸を痛め、自分が今亡くなれば、颯太に死の意味を説明することさえできないと考えた。城戸は、自分はまだ死ねず、死にたくないと痛感した。
存在の不安
城戸は、震災後から続く心の揺らぎを存在の不安と捉えた。若い頃には何者になるべきかを考えていたが、弁護士や夫、父親としての人生が積み重なった今は、これまでの生き方でよかったのか、どのような人間として死ぬのかを問い直していた。
颯太に残る父の記憶
城戸は、三十三年後に颯太が自分と同じ年齢になることを考えた。その時まで生きていたいと願う一方、自分が既に亡くなっていた場合、息子の記憶にどのような父親として残るのかを思った。震災以来、日常がいつ突然断ち切られてもおかしくないという感覚が強まっていた。
排外主義への恐怖
関東大震災時の朝鮮人虐殺や、近年の排外的なデモを思い、城戸は法秩序が失われた時、自分が朝鮮人として暴力の対象になる可能性を考えた。現在の平穏な社会でも、誰かが急に思い立てば命を奪うことはできるという考えに至り、強い眩暈と息苦しさに襲われた。
里枝の言葉
発作のような苦しさに耐えながら、城戸は里枝から言われた、いい人だという言葉を思い出した。自分が敵と見なされた時、彼女がその人柄を証言してくれるだろうか、その言葉が敵意を止める力を持つだろうかと考えた。しかし、彼女にまで危害が及ぶ可能性も思い浮かべた。
自主避難者への支援
東日本大震災後、城戸は中北らと被災者への法律支援に参加した。主に原発事故を恐れて子供と避難した母親たちや、住環境に問題を抱えながら転居を制限されていた自主避難者の相談を担当した。家族との再会を望みながら、夫婦関係が壊れて離婚する事例にも接した。
香織の優しさの範囲
香織は颯太や親しい人々には深い愛情を注ぐ一方、見知らぬ他人の苦境には強い関心を示さなかった。城戸が寄付や支援を続けることも、以前は弁護士らしい態度として受け止めていたが、次第に家族の時間や金を他人に費やす行為として不満を抱くようになった。
家族を残す支援
震災当時、香織は幼い颯太と自分を余震の続く自宅に残し、避難中の母子を助けに行く城戸の行動を理解できなかった。城戸は社会性や公共性を理由に説明したが、香織には、家族を優先せず他人を支援する姿勢が過剰で趣味的なものに映っていた。
変わった夫婦
香織は出産後、家庭以外への関心を失い、震災後はその傾向をさらに強めていた。城戸に対し、なぜ仕事と家庭だけでは満足できず、他人のために行動しなければならないのかと問うた。香織は自分ではなく夫の方が変わったと考えており、城戸も出会った頃の自分を思えば否定できなかった。
善良さへの疑念
城戸は、自分が他人に親切にするのは、善良で無害な人間だと証明したいからではないかと疑った。社会への関心には優等生的な面や、自身の薄情さへの後ろめたさが含まれている可能性も認めた。それでも、行動のどこまでが偽善で、どこまでが本心かを分けることには意味がないと考えた。
家庭を戻す決意
城戸は、震災後の不安を抱えているのは香織も同じであり、もっと話し合って夫婦関係を立て直すべきだと思い直した。しかし、避けていた一つの可能性にも向き合った。香織は既に自分を愛しておらず、二人の関係は、城戸が仕事で接してきた離婚寸前の夫婦と見分けがつかない状態にあるのかもしれなかった。
9
美涼からの誘い
二〇一三年十月、美涼は横浜美術館の展覧会へ城戸を誘った。二人は以前からフェイスブック上で交流を続けており、美涼が城戸の投稿に反応するたび、城戸はそのささやかなやりとりを意識するようになっていた。
大祐になりすましたアカウント
美涼は本物の谷口大祐を捜すため、彼の名でフェイスブックのアカウントを作り、大祐になりすまして投稿していた。恭一の発案によるものだったが、城戸は奇妙で効果も乏しい方法だと感じた。投稿には昔の写真や音楽の趣味が再現され、美涼が記憶する大祐の人格が映し出されていた。
大阪まで続いた大祐の足跡
恭一は、大祐がかつて住んでいた大阪のアパートを訪ねた。所有者は写真を見て、そこに暮らしていたのは本物の大祐であり、里枝の亡夫には見覚えがないと証言した。大祐は大阪を去った後に亡夫と出会い、身元を奪われた可能性が強まったが、その後の転居先は判明しなかった。
恭一と美涼の因縁
偽アカウントで交わされる会話から、城戸は恭一が以前から美涼に好意を抱いていたと察した。兄弟の間には、美涼を巡る過去の感情があったらしく、恭一が捜索を提案した背景にも、弟への思いだけではないものが感じられた。
大祐として愛した記憶
城戸は宮崎のバーで谷口大祐になりすました際、かつて美涼を愛していた男として彼女のことを語っていた。その数時間の体験以後、美涼への意識は微妙に変化し、彼女を前にすると秘密を抱えたような羞恥と動揺を覚えるようになった。
三歳の記憶
二人は、三歳児の視点から自宅の居間を再現した作品を共に楽しんだ。巨大な家具の中で向かい合うと、幼い頃へ戻ったような親密さを感じた。美涼は作品内の母親の背中に寂しさを見出し、城戸は自分には見えなかったものを捉える彼女の感性に感心した。
城戸の出自
幼少期の家庭について尋ねられた城戸は、自分が在日三世であり、高校時代に日本国籍を取得したことを自然に打ち明けた。日本の典型的な家庭とは少し異なる記憶を語り、多様な出自や経済状況を持つ人々にとって、普通の家庭という表現自体が問い直され得ると話した。
偏見への嫌悪
美涼は、以前のバーでマスターが口にした中国人や韓国人への偏見を不快に感じていたと明かし、近年のヘイトスピーチも強く非難した。城戸は、他人事ではない彼女の率直な嫌悪に触れ、心に残っていた緊張が解けるのを感じた。
一つに括られる人間
城戸は、在日という出自が強調されることで、人間の多面的な部分が無視される苦しさを語った。差別だけでなく、同じ出自を理由に連帯を求められることにも違和感があり、弁護士や日本人など、一つの属性だけで自分を定義されることを拒んでいた。美涼はその考えに強く共感した。
三勝四敗主義
美涼は、人生は三勝四敗程度でよいという自身の考えを語った。最初から世界に期待しすぎなければ、小さな幸運にも喜べるため、真の悲観主義者は明るいのだと説明した。城戸はその考えに感銘を受け、自分とは異なる新しい視界を得た。
当事者という立場
城戸は、排外的な運動に反対する必要は感じながらも、自ら現場へ出向くことには抵抗があると語った。在日であることだけを理由に行動を求められることにも疑問を抱き、差別を放置している日本社会全体の問題として考えるべきだと述べた。
城戸の代わり
美涼は、城戸が行きたくないのなら、自分が代わりに差別へ抗議する場へ行くと申し出た。城戸は思いがけない言葉に感激と戸惑いを覚えたが、美涼は自分の意思だと笑った。その日を境に、二人の交流は以前よりも親密になっていった。
10
無戸籍者の可能性
里枝から依頼を受けて十カ月以上が過ぎても、城戸は亡夫の身元を突き止められずにいた。そんな中、東日本大震災の被災者支援を続ける中北から、出生届が出されず、行政に存在を把握されていない無戸籍者の話を聞いた。城戸は、亡夫が無戸籍者だった可能性を考えた。
存在しない生と死
無戸籍者は、日本国籍を得る条件を備えていても、公文書上は誕生していない存在として扱われていた。震災で亡くなっても、その死を行政が把握できない場合があった。亡夫が無戸籍者で、本物の谷口大祐が彼と身元を交換していたなら、大祐も現在は公的に存在しない人物となっている可能性があった。
大祐の安否への不安
城戸は、戸籍を失った大祐が殺害されていても、身元不明者として処理される可能性を考えた。亡夫が大祐を手にかけていたとは思いたくなかったが、その疑いが事実なら、かろうじて生活を支えている里枝は耐えられないのではないかと案じた。
戸籍制度の歴史
城戸と中北は、戸籍が古くから徴税や治安維持、宗教統制、徴兵のために個人を管理してきた制度であることを話し合った。その一方で、制度の外に置かれた者や、徴兵などから逃れるために身元を偽る者も存在していた。城戸は、戸籍が家族との結びつきを強制するからこそ、大祐はそれを捨てたかったのかもしれないと考えた。
重い過去からの逃亡
中北は、亡夫が無戸籍者でなければ、重大な犯罪歴などを隠すために身元を変えた可能性を指摘した。公的に追跡される過去を持つ者にとって、犯罪歴のない谷口大祐の身元は価値があった。城戸はその推測を否定できず、調査の方向を見直した。
戸籍交換の事件
城戸は過去の裁判記録を調べ、年齢や婚姻歴を偽るため、二人の男が合意の上で戸籍を交換した事件を発見した。その交換には仲介人が関わっており、手数料を取って他にも複数の身元交換を斡旋していた。事件が起きた二〇〇七年は、大祐が大阪を去り、亡夫が宮崎へ現れた年と一致していた。
横浜刑務所の小見浦
城戸は、戸籍交換を仲介した小見浦が横浜刑務所に服役していると知り、面会を申し込んだ。小見浦は愛想よく振る舞いながら、相手を試し、支配しようとするような不穏さを漂わせていた。城戸の顔を見ると、在日であることを見抜いたと一方的に告げ、城戸を強く不快にさせた。
伊香保温泉の次男
小見浦は関係のない奇妙な話を続け、質問をはぐらかした。しかし、城戸が谷口大祐の写真を見せると、伊香保温泉の次男だと言い当てた。さらに、二人が行ったのは単なる戸籍交換ではなく、汚れた過去を洗い流す身元のロンダリングだったと語った。
情報と引き換えの要求
小見浦は、亡夫の身元について知っていることを示唆しながら、雑誌や経典の解説書を差し入れるよう要求した。城戸を在日らしくない在日だと評し、それ自体が在日らしさだと嘲るように笑った。城戸は怒りを抑えられないほど傷ついたが、情報を得るため再び会う必要を感じた。
繰り返された面会
城戸は要求された品を差し入れ、二度、三度と面会した。しかし、小見浦は露悪的な昔話や金儲けの自慢を続け、肝心の亡夫については何も明かさなかった。城戸が問い詰めると、突然会話を打ち切り、その後は手紙にも応じなくなった。
小見浦からの絵葉書
しばらくすると、小見浦から雑誌の写真を写した絵葉書が何通も届いた。城戸は、その稚拙な絵の背後に、過去の被害を誰かに聞いてもらいたい孤独があったのではないかと考えた。やがて観音像の絵が送られてきたため、城戸は再度の面会を申し込んだ。
曽根崎義彦の名
小見浦からの返書には、城戸への侮辱的な呼びかけと、マヌ・ケーという意味不明の言葉が記されていた。続いて送られた絵には、谷口大祐と並んで曽根崎義彦という名が隠されていた。城戸と中北は、その名が亡夫の本名ではないかと考えたが、小見浦は確認の手紙にも面会の依頼にも応じなかった。
11
秋桜の古墳群公園
十月最後の日曜日、里枝は母、悠人、花と古墳群公園へ秋桜を見に出かけた。花は、自分の名を亡夫がこの公園の風景から付けたため、そこをはなちゃんの公園と呼んで喜んでいた。一方、悠人は外出を渋り、近頃はゲームをやめて芥川龍之介などの文学作品を読みながら自室に籠もることが増えていた。
祖母と悠人の金魚
悠人は祖父の死後、寂しそうな祖母のために、納屋に眠っていた水槽を洗い、金魚を飼い始めていた。祖母もまた、悠人を慰めるための金魚だと思っており、二人は互いの孤独を思いやっていた。悠人はその後も世話を欠かさず、里枝は息子の優しさを亡夫と共に喜んだ記憶を思い返した。
悠人の抱える空虚
秋桜を眺めながら、里枝は、弟と祖父、亡夫を立て続けに失った悠人の心を案じた。悠人は金魚の世話や妹への気遣い、読書によって、言葉にできない寂しさの中で自分を保とうとしているように見えた。里枝は母親として何をすべきか考えながら、亡夫が生きていて相談できればと願った。
死者を待つ未来
里枝の悲痛さは時間とともに薄れつつあったが、代わりに静かな寂しさが深く染み込んでいた。死を恐れながらも、父や遼が先に待っていると考えることで慰められた。特に遼には、無意味な治療で苦しめたことをいつか謝りたいと思っていた。
亡夫の不明な名前
城戸から調査の進展を知らされていたものの、亡夫の本名はまだ分かっていなかった。真相を知ることへの恐れはあったが、夫が誰だったのかが判明しなければ、里枝自身の過去も曖昧なままであった。悠人も、父の死を放置しているように見える母へ、言葉にしない不満を抱いていた。
芥川龍之介の造花
里枝は悠人に読んでいた本について尋ねた。悠人は芥川龍之介の作品にある、造花の鬼百合が自らの美しさを誇る場面を説明した。里枝にはその面白さが理解できなかったが、息子が何に関心を持っているのか知りたいと伝えたことで、悠人はわずかに笑顔を見せた。
家族それぞれの桜
悠人は、亡夫と家族で公園の桜を一本ずつ自分の木として選んだことを思い出させた。亡夫の死後、悠人の木は父の木より立派に花を咲かせたが、そのことを父の墓前で伝える機会はなかった。里枝は今年の花見にも家族を連れて来ず、父の墓も作らないままであった。
父の名を巡る告白
亡夫の木の前で、悠人は今年も墓を作らなかったことを責めた。里枝はこれ以上曖昧にできないと考え、亡夫が谷口大祐という本名ではなく、実在する他人の名前を使っていたことを明かした。死後に本物の大祐の兄が訪れ、別人だと判明したのだと説明した。
崩れた父の過去
悠人は、自分の谷口姓が何なのか、父が語った伊香保温泉の家族との過去も嘘だったのかと混乱した。里枝は、それらも本物の谷口大祐の人生だったらしいと答えた。亡父がなぜ嘘をつき、何をしていたのかという問いには、里枝にも答えられなかった。
父の木の家族写真
事情を知らない花は、父が木の中に隠れて家族を待っているのだと話し、木の前で写真を撮ってほしいと頼んだ。祖母と花に促され、悠人も並んだが、笑わずに里枝を見つめ続けた。里枝も家族と並んだものの、どのような表情を作ればよいのか分からなかった。
12
過労死訴訟の遺族
城戸は、過労死した若者の両親と横浜地裁で今後の方針を確認した。父親は勝敗ではなく、息子が死に至った理由を知りたいと訴え、城戸の支えで正気を保てたと感謝した。城戸はその言葉に心を動かされながら、共に進むことを約束した。
颯太への怒鳴り声
香織の出張中、颯太は朝の支度を嫌がり続けた。仕事に遅れそうになった城戸は感情を抑えられず、靴下を投げ、息子の頭を叩くようにして怒鳴った。怯えて泣き止んだ颯太を見て、城戸は自分の中にも暴力性があることを思い知った。
揺らぐ父親への信頼
城戸は、妻の叱責から颯太を庇い、優しく話を聞くことで良い父親であろうとしてきた。しかし、母子関係の悪化を根本から解決せず、息子を慰めるだけの態度は欺瞞だと感じていた。今回の行為によって、自分も境遇次第では子供を傷つける親になり得るという恐怖を抱いた。
崩れゆく夫婦
城戸と香織は、長い結婚生活の中で会話も身体的な接触も失いつつあった。香織は夫への感情を抑える代わりに颯太へ激しく当たり、城戸も妻との対話を避けていた。離婚を考えながらも、互いへの愛情が完全に消えたとは言い切れず、関係を立て直す方法を見つけられなかった。
息子との帰り道
夕方、颯太は城戸の姿を見ると笑顔で駆け寄った。二人は手を繋いで帰り、颯太はウルトラマンが口を動かさずに声を出せる理由を尋ねた。何事もなかったように父へ話しかける息子の姿に、城戸は朝の行為への後悔を深めた。
父親からの謝罪
帰宅後、城戸は颯太を膝に乗せ、朝に大声を出したことを謝った。仕事に遅れそうだった事情を説明し、翌日からは二人で時間どおりに準備しようと約束した。颯太は素直に頷いたが、城戸は抱きしめる行為さえ、暴力の後に優しくする加害者の振る舞いと重ねずにはいられなかった。
偽物を見分ける思い出
就寝前、颯太は自分と全く同じ偽物が現れても、本物を見分けられるかと尋ねた。城戸は、家族旅行など二人だけの思い出を尋ねれば分かると答えた。颯太は安心したが、城戸は他人の過去を身につけた亡夫のことを無意識に重ねていた。
香織からのメッセージ
颯太を寝かしつけた後、城戸は一人でクリスマスツリーを飾った。そこへ香織から、颯太の様子を気遣う連絡が届いた。城戸は久しぶりに感じた妻の明るさを喜び、夫婦関係を立て直せる可能性をわずかに感じた。
美涼への思い
城戸は、美涼に明確な好意を抱いていることを認めていた。彼女とならどのような家庭を築けただろうと想像したが、現在の生活を壊して関係を進めるつもりはなかった。美涼の三勝四敗主義を思えば、衝動的にすべてを捨てる行為は、彼女の現実的な生き方とは正反対だった。
平凡な亡夫という推測
城戸は、亡夫も重大な犯罪者ではなく、人生の倦怠から別人になろうとした平凡な男だった可能性を考えた。人は思い出によって自己を形作るなら、他人の思い出を身につけることで、その人物になれると考えたのかもしれなかった。
曽根崎義彦の手掛かり
小見浦が示した曽根崎義彦という名前は、調べても存在を確認できなかった。城戸は亡夫への疑念を強める一方、谷口大祐も身元を交換して構わないほど過去を捨てたかったのではと考えた。調査を終えて家庭に向き合うべきだと思い始めたが、二週間後の出来事によって、亡夫の正体へ再び近づくこととなった。
13
死刑囚の美術展
クリスマスを控えた雪の日、城戸は友人の弁護士・杉野が関わる死刑囚の美術展を訪れた。死刑制度には反対していたが運動には距離を置いており、今回は小見浦から届いた絵葉書をきっかけに、死刑囚が描く絵そのものへ関心を抱いていた。
死刑を待つ者の表現
会場には、冤罪を訴える絵や死刑への恐怖を図案化した作品、動物や風景を穏やかに描いたものまで、多様な作品が並んでいた。城戸は、死刑囚たちが絵によって、犯罪者という一面だけではない自らの存在を世界に残そうとしているように感じた。
存在を告げる芸術
城戸は、芸術には、自分の中にある悲しみや愛、憎しみがここに存在すると告げる広告のような性質があると考えた。国家によって存在を消されようとする死刑囚にとって、絵は肉体とともに失われる人格の一部を外部へ残す手段に見えた。
小見浦の模倣
展示の中には、政治的な文句と女性のヌードを組み合わせた作品や般若心経の写経があった。その構図は小見浦が城戸へ送った絵葉書と酷似していた。城戸は、小見浦がこの死刑囚の作品を意図的に模倣し、自分が意味に気づかないことを嘲っていたのではないかと考えた。
見覚えのある風景画
城戸は、穏やかな野山や桜、古い町角を描いた稚拙な風景画に、どこか見覚えを感じた。それは放火殺人事件で死刑となった小林謙吉の作品だったが、すぐには記憶の正体をつかめなかった。
替え玉保険金殺人
講演では、小見浦が模倣したヌード画の作者が、ホームレスの男性を別人の身代わりとして殺し、保険金を得ようとした事件の犯人だと説明された。城戸は、他人の身元で死なされた被害者の話から、谷口大祐になりすました亡夫を思い出した。
亡夫と同じ筆致
城戸は、小林の風景画が亡夫のスケッチに似ていることに気づいた。携帯に保存していた里枝の家で撮影した絵と見比べると、描かれた場所は違っていたが、その素朴な筆致は酷似していた。ただし、小林は既に刑を執行されており、亡夫本人ではあり得なかった。
小見浦の暗示
城戸は、小見浦が絵葉書に谷口大祐と曽根崎義彦の名を記し、死刑囚の作品を模倣した意味を考えた。単なる戸籍交換ではなく、小林謙吉や替え玉殺人事件に関係する何かを知らせようとしていた可能性が浮かんだが、推測はまだ形にならなかった。
被害者を欠いた展示
質疑応答では、犯罪被害者の家族を取材する川村修一が、死刑囚の表現だけを称賛し、奪われた被害者の才能や人生を顧みない展覧会は欺瞞的だと強く批判した。城戸も被害者の存在が語られないことに違和感を抱いており、その問いは必要だったと感じた。
死刑囚の創作する権利
杉野は、被害者感情と法的権利を分けるべきだと答え、死刑という身体刑に反対し、生きている者の最低限の活動として創作の権利を擁護した。城戸は杉野の法的説明を理解しつつも、感情を表さない態度が川村の怒りを深めることにも納得した。
小林謙吉の顔
散会後、城戸は風景画の前で小林謙吉について検索した。画面に表示された小林の顔は、亡夫と同一人物ではなかったが、明らかに似ていた。城戸は、その顔を見た瞬間、亡夫の正体へつながる推測に至り、彼こそが探し続けていた男だと確信した。
14
原誠の経歴
城戸は杉野から、小林謙吉の息子・原誠について聞いた。原誠は父の殺人事件後に母と転居し、児童養護施設を経てプロボクサーとなったが、失踪後は職を転々とし、万引きを繰り返して服役していた。犯罪者の子供という噂に苦しみ続けた経歴は、亡夫が過去を捨てた理由と重なるように思われた。
横浜刑務所の接点
原誠が服役していたのは、小見浦と同じ横浜刑務所だった。城戸は、小見浦が原誠を知り、身元交換に関与していた可能性を考えた。さらに、里枝の亡夫こそ本物の原誠であり、服役していた男は別人ではないかという推測を立てた。
入れ替わった原誠
城戸は、亡夫が小林謙吉と顔立ちや絵の筆致で似ていたことから、小林の実子だと考えた。一方、門崎が支援していた原誠は身長や風貌が亡夫と異なり、知的障害もあった。門崎は、弱い立場の人物へ犯罪者の息子という過去を押しつけたのなら、亡夫の行為は許されないと指摘した。
二度の身元交換
城戸は、服役していた男の本名が曽根崎義彦であり、本物の原誠が彼と戸籍を交換した後、谷口大祐とも身元を入れ替えたのではないかと推理した。亡夫は最終的に谷口大祐として里枝と暮らし、本物の大祐は曽根崎義彦の名を使っている可能性があった。
原誠を名乗る男
城戸は門崎の仲介で、原誠を名乗る男と面会した。男は戸籍上は城戸と同年齢だったが、実年齢以上に老け、元プロボクサーとは思えない風貌だった。城戸が曽根崎義彦の名を出すと否定し、自分は原誠だと強く主張した。
田代昭蔵の告白
小見浦の名を出され、門崎から真実を話すよう促された男は、本名が田代昭蔵であると告白した。ホームレス生活から抜け出し、仕事や借金を得やすくするため、三万円を受け取って原誠の戸籍と交換していた。小見浦が仲介し、本物の原誠とも会ったが、亡夫の写真の男は知らないと断言した。
崩れた推理
城戸の推測とは異なり、田代は曽根崎義彦ではなかった。亡夫が本物の原誠である可能性は残ったが、曽根崎義彦の正体は再び不明となった。門崎は、自分が原誠の生育歴や父の犯罪を前提に行ってきた支援が、別人に向けられていたことに衝撃を受けた。
小見浦への再接近
城戸は、小見浦の絵葉書の意味を理解したと手紙に書き、再度の面会を求めた。小見浦はすぐに応じ、年末の横浜刑務所で城戸と向き合った。城戸は田代との面会を告げ、本物の原誠が他人に自らの過去を押しつけたのかと尋ねた。
小見浦の罵倒
小見浦は城戸が何も理解していないと嘲り、手紙や推理を執拗に罵倒した。さらに、城戸が詐欺師である自分を見下しながら、過去の被害話だけは信じたことを指摘し、その判断の甘さを嘲笑した。城戸は腹を立てつつも、相手の言葉に正しさが混じるため反論しきれなかった。
小見浦ではない男
小見浦は、城戸が自分を小見浦憲男本人だと疑わないことこそ最大の誤りだと明かした。戸籍交換を仲介してきた自分だけが身元を変えていないと考える理由はないと語り、現在の名も他人のものである可能性を示した。
亡夫への警告
面会の終わりに、小見浦は亡夫について、人殺しの子供に過ぎないつまらない男だと告げた。城戸が亡夫に特別な期待を寄せていることを見抜き、家族がいるなら深く関わらない方がよいと警告した。
15
表面上の正月休み
城戸一家は例年通り、香織と城戸それぞれの実家で年末年始を過ごした。夫婦は家族の前では自然に会話し、颯太も三人で眠れることを喜んだ。しかし城戸は、離婚すれば親権を巡って争い、双方の両親や颯太を傷つけることになると考え、そこまで関係が悪化しているはずはないと思おうとした。
北千住のボクシングジム
年明け、城戸は原誠がかつて所属していた北千住のボクシングジムを訪ねた。会長の小菅と元選手の柳沢に亡夫の写真を見せると、二人は一目で原誠だと認めた。昔の写真にも同じ人物が写っており、城戸は里枝の夫が小林謙吉の息子・原誠だったことを確信した。
ボクサーだった原誠
原は一九九五年春、ジムの外から練習を眺めた後、ふらりと入会していた。口数は少なく、繊細で警戒心が強い一方、洞察力と腹の据わったところがあり、運動神経にも優れていた。練習に打ち込み、会長に勧められてプロボクサーとなった。
緒方勝利という名
原は父の事件を知られることを恐れ、目立たないリングネームを望んだ。柳沢と電話帳を開いて決めた緒方勝利という名で試合に出場し、東日本新人王を獲得した。城戸は、その名を巡って原が笑っていたと聞き、経歴だけだった彼の姿に初めて生身の温かさを感じた。
殺人犯の息子としての幼少期
原は父の事件後、親族宅を転々とし、母も失踪したため施設で育った。転校先では父が友人を殺したことを知られていじめられ、中学でも孤立した。定時制高校を退学した後は、住民票もないまま路上生活に近い日々を送っていた。
父親への憎悪
原は父の小林謙吉を激しく憎み、獄中から届く手紙も読んではいたが、面会には行かなかった。父の謝罪は被害者より自分の苦しみを訴えるものに見え、息子に良い思い出を忘れないでほしいと求める態度にも反発していた。
父に似た身体
原は父親と容貌が酷似していることを苦しんでいた。自分の体に父と同じ血が流れ、いつか暴力を制御できなくなるのではないかと恐れ、愛される資格すらないと感じていた。自分の体を傷つけ、殴られることでその嫌悪を鎮め、ボクシングによって暴力を制御しようとしていた。
新人王辞退の苦悩
東日本新人王となって注目された原は、全日本新人王決定戦への出場を辞退したいと申し出た。父の事件が公になる恐れだけでなく、自分が華やかな場所へ立つことへの罪悪感や、父に殺された友人への後ろめたさを抱えていた。
遺族との対面
小菅は、原自身の人生を生きるべきだと励まし、気になるなら被害者遺族へ挨拶に行くよう勧めた。しかし原はその重圧に耐えられず、柳沢とのロードワーク中、公園で地面に伏して激しく泣いた。柳沢は、原に責任はなく、遺族を傷つける可能性もあるため行かなくてよいと伝えた。
転落事故と失踪
その後、原は自宅マンションの六階から転落し、全身に重傷を負った。本人は事故だと説明したが、柳沢は、死ぬつもりではなく、すべてから逃れようとしたのではないかと考えていた。新人王決定戦への出場は不可能となり、原は退院後、ジムから姿を消した。
普通の人間への願い
小菅は原をチャンピオンにして人生を変えてやろうとしていたが、柳沢は、原が望んでいたのは成功ではなく、誰にも注目されず普通に静かに暮らすことだったと語った。城戸は、その普通という言葉に込められた切実な憧れを受け止めた。
里枝との幸福
柳沢は、里枝と写る晩年の原が、ボクサー時代より穏やかで優しい顔になっていることに安堵した。原が恐れていたように誰かを傷つけることなく人生を終え、最後に幸福を得られたことを喜んだ。城戸も、原は里枝や子供たちと暮らしたことで、確かに幸せだったと答えた。
16
原誠の生涯の再構成
城戸は北千住のボクシングジムで得た証言をもとに、この一年余りの調査記録を原誠の生涯として整理した。里枝への報告を目的としていたが、散在していた情報を言葉にすることで、消えかけていた原誠という人物が再び形を持って現れるように感じた。
曾根崎義彦を挟んだ交換
小見浦は二〇〇六年頃から、過去を捨てたい者たちの身元交換を仲介していた。城戸は、原誠が直接田代昭蔵と戸籍を交換したのではなく、最初に曾根崎義彦という別人と交換し、その後、原誠の戸籍を得た人物が田代と入れ替わったのだと考え直した。
谷口大祐の現在
原誠は曾根崎義彦としてしばらく暮らした後、何らかの理由で谷口大祐と再び戸籍を交換し、谷口大祐として里枝と出会った可能性があった。その推測が正しければ、本物の谷口大祐は現在、曾根崎義彦の名で生きているはずだった。ただし、その後も交換を重ねておらず、生存していることが前提であった。
恢復される一人の人間
城戸は、原誠が生前には消そうとしていた過去も、死後に彼を愛する者が理解するためには、可能な限り拾い集めるべきだと考えた。それは火葬場で遺骨を一片でも多く拾おうとする行為に似ていた。調査をまとめるうち、原誠だけでなく、城戸自身の不安定な内面も一つにまとまる感覚があった。
調査の終わりと寂しさ
城戸は調査が終わりに近づいていることを感じ、家庭に向き合うべき時期だと理解しながらも、強い寂しさを覚えた。北千住の公園で地面に伏して泣いた原誠の姿を繰り返し想像し、その痛みを自分も経験したかのように感じていた。
小林謙吉の破綻
小林謙吉は貧困と父親の暴力の中で育ち、自身も妻子へ暴力を振るい、やがて賭博と借金で生活を崩壊させた。金を断られたことに逆上して一家三人を殺害し、放火した事件は残虐だったが、城戸には、彼を犯罪へ至らせた環境や要因そのものは決して特異ではなく、ありふれた不幸の連鎖に見えた。
死刑制度への疑問
城戸は小林の責任を否定しなかったが、国家が彼の悲惨な生育環境を放置した末、法秩序からの逸脱だけを理由に死刑で排除することに疑問を抱いた。社会の失敗を逸脱者の存在ごと消すことで処理する態度は欺瞞であり、殺人を否定する国家自身が殺人を行うべきではないと考えていた。
香織との死刑を巡る対立
以前、香織から自分と颯太が殺された場合でも死刑に反対するのかと問われた城戸は、国家が応報感情に従うのではなく、被害者支援によって責任を果たすべきだと答えた。香織は、その考えを血の通わないもののように受け取り、夫婦関係を壊しかねないため議論は打ち切られていた。
犯罪者になる子供
颯太を迎えに行った城戸は、無邪気に遊ぶ子供たちの誰かが将来、人を殺す可能性を考えた。小林謙吉もかつては幼い子供であり、成人後の責任だけでは、それ以前に受けた遺伝的・環境的影響を切り離せないと感じた。努力できること自体も、人や出来事に恵まれた結果ではないかと考えた。
恭一との対立
城戸は谷口恭一に原誠の身元を報告し、本物の大祐を捜すための協力を求めた。しかし恭一は、殺人犯の息子である原が大祐を殺した可能性を疑った。城戸は原の人柄や身元交換の事情から否定したが、恭一はそれを証拠のない妄想だと退け、二人は感情的に対立した。
原誠への信頼の揺らぎ
電話を切った後、城戸は、父の犯罪を生育環境から理解しようとしながら、同じ環境に育った原誠の犯罪可能性を否定する自分の論理に矛盾を感じた。原誠は父に似た容貌と絵の才能を持ち、自らも父の暴力を繰り返すことを誰より恐れていた。しかし、その恐怖を理由に彼を危険人物と見做す社会こそが、原誠から原誠として生きる道を奪ったのではないかと考えた。
17
美涼のカウンターデモ
深夜、城戸はヘイトスピーチを扱うテレビ番組で、美涼らしき女性がカウンターデモに参加している姿を目にした。以前、美涼は城戸の代わりに参加すると語っており、その約束を実行したらしかった。城戸は、自分の言葉が彼女の中に残っていたことを喜びながら、危険な場へ関わらせたことに複雑な思いを抱いた。
当事者への距離
城戸は、在日を特別な存在として理想化したり、一つの属性で括ったりする姿勢を嫌っていた。自身も在日でありながら、その問題への距離を測りかねており、理性から公共の問題へ関わる自分の態度には、どこか白々しさがあると感じていた。
虐殺の記憶と恐怖
関東大震災時の朝鮮人虐殺を思い、城戸は将来の大災害で同じ暴力が繰り返される可能性に怯えた。弁護士や父親としての人格とは無関係に、出自だけで自分や家族が殺される光景を想像し、過去の被害者と強く同一化した。同時に、日本国民として加害の歴史を引き受ける立場にもあると考えた。
自らの不在への気づき
城戸は、美涼が在日を美化したからではなく、その存在が脅かされているため行動したのだと理解した。排外主義を放置する日本人こそ動くべきだと語った自分が、現場へ行かずにいたことを自覚し、再び具合を悪くした。
香織との対話
寝室から戻った香織は、颯太にヘイトスピーチの映像を見せたことを責めた。さらに、城戸の出自を理解した上で結婚したが、颯太を差別から守るため、本人には成長してから話す約束だったと確認した。城戸は離婚を切り出されることを恐れながら、結婚生活を続けるために話し合いたいと告げた。
原誠の人生
城戸は、浮気ではなく、一年以上にわたって原誠の身元と人生を調べていたことを明かした。死刑囚の息子としていじめや孤独に苦しみ、ボクサーを経て身元を変え、最後には里枝と家庭を築いた原の生涯を、初めて一つの物語として香織に語った。
他人の人生への逃避
香織から原誠の人生が自分にとって何なのかと問われ、城戸は、他人の人生を調べることで現実から逃避していたのだと答えた。震災や排外主義、家庭の問題を直接考えると身体が拒絶するが、原の人生を通せば、自分の苦悩にも間接的に触れられた。
カウンセリングの提案
香織は、城戸に専門家へ相談することを勧めた。城戸も夫婦だけでは解決できないと認め、香織にも相談を求めたが、彼女は自分は周囲に話しているため大丈夫だと答えた。城戸は、颯太への叱責を減らしてほしいという願いも伝えた。
愛想を尽かされたくない思い
城戸は、香織とうまく暮らし続けたいこと、自分を愛さなくなったのではないかと長く悩んでいたことを率直に告げた。香織は悪い方向へ考えすぎだと答え、二人は久しぶりに冗談を交えながら笑った。城戸は妻の表情に喜びを見出し、関係を戻せる可能性を感じた。
互いへの生存確認
香織は、城戸が自ら命を絶つようなことを考えていないかと不安を示した。城戸は颯太もいるためあり得ないと否定したが、妻の心にも同じ危機がよぎったことがあるのではないかと心配した。最後に香織は、家庭では元気でいることを条件に原誠の調査を続けてもよいと告げ、城戸も互いに何かあれば話すことを求めた。妻が去った後、城戸は胸に溜めていた息をようやく吐き出した。
18
過労死訴訟の和解
城戸が担当した過労死訴訟は、居酒屋チェーン側が八千二百万円の支払いと再発防止策を受け入れて和解した。城戸は遺族から感謝されたが、息子を失った両親の今後を思うと、勝訴を心から喜ぶことはできなかった。
美涼から届いた手掛かり
城戸は原誠の調査を終わらせるため、本物の谷口大祐の発見を望んでいた。久しぶりに連絡した美涼から、偽の谷口大祐名義のフェイスブックアカウントへ、Yoichi Furusawaを名乗る人物が削除を求める警告を送っていたと知らされた。美涼は、その不器用な文面から本人が関わっていると感じていた。
恭一の拒絶
谷口恭一は、小林謙吉の事件を知ると原誠への嫌悪を強め、弟が危険な世界へ自ら踏み込んだのだから自業自得だと突き放した。城戸は捜索への協力を諦めたが、中北からは、美涼が元恋人を追う危険な人物である可能性も考えるべきだと指摘された。
代理人への連絡
城戸はYoichi Furusawaが、本物の谷口大祐か、現在の名である曾根崎義彦の関係者だと推測した。美涼や恭一の名を伏せ、亡くなった谷口大祐の妻の代理人として、S・Y氏に伝えたいことがあるという慎重なメッセージを送った。
深夜の返答
翌朝、相手から警戒に満ちた返信が届いた。城戸が本物の弁護士か、S・Yとは誰か、偽アカウントを誰が管理していたのかと問い返してきたため、城戸は映像通話で自分の身元を示し、本人との面会を求めた。
暗い画面の声
午後十一時過ぎ、Yoichi Furusawaから連絡が入り、映像を切ったまま通話が始まった。相手の声は不自然に変えられ、怯えと猜疑心が滲んでいた。曾根崎義彦の代理人かと尋ねると素直に認めたが、その反応から、城戸は相手自身が谷口大祐である可能性を強く感じた。
亡夫の結婚と死
城戸は、谷口大祐を名乗っていた男性が三年前に事故死し、妻子を残していると伝えた。相手は結婚していたことに驚き、妻の職業や城戸がどこまで事情を知っているかを執拗に確認した。城戸は、詳しい説明は曾根崎本人との面会で行うと答えた。
美涼への謝罪
相手は突然、美涼と会ったことがあるかと尋ね、彼女が元気かを気にしていると告げた。そして依頼人からの伝言として、謝りたいと伝えてほしいと頼んだ。また、谷口恭一には連絡先を絶対に知らせないよう求めた。
大祐への確信
通話を終えた城戸は、相手が本物の谷口大祐だとほぼ確信した。美涼への強い未練を感じる一方、かつて自分が大祐になりすまして彼女との恋を語ったことを恥じ、嫉妬に似た感情まで覚えた。
再会への決意
城戸から話を聞いた美涼も、相手は間違いなく大祐だと断言した。謝るなら直接会ってほしいと伝えるよう頼み、自分も面会への同行を望んだ。大祐は当初拒んだものの、最終的に美涼の同席を受け入れ、三月最初の土曜日に名古屋で会うことになった。
19
名古屋へ向かう二人
城戸と美涼は、本物の谷口大祐に会うため、隣り合った座席で名古屋へ向かった。城戸は髪を切った美涼を意識しながらも、いつも通りに振る舞い、互いの近況を語り合った。
サニーを辞めた理由
美涼は、店主から本気で言い寄られるようになり、店の客たちとの会話にも馴染めなくなったため、バーを辞めていた。城戸が彼女のカクテルを惜しむと、美涼は今度どこかへ一緒に飲みに行こうと誘ったが、城戸はその言葉が持つ可能性を意識しながら受け流した。
恭一の執着
美涼は、恭一が偽アカウントを続けた本当の目的は、弟を捜すことよりも自分との連絡を保つことだったと話した。高校時代から恭一に好意を寄せられており、美涼が不器用で軽んじられがちな大祐を選んだことが、兄弟の不和を深めたのだと考えていた。
大祐の我慢と爆発
美涼の記憶する大祐は、からかわれても笑って受け流しながら、限界に達すると突然感情を爆発させる人物だった。周囲には唐突に見えても、本人は長く耐えていたのであり、生体肝移植を巡る家族との対立にも同じ性格が影響していたと考えられた。
兄弟の競争心
美涼は、恭一が自分と大祐の関係を受け入れられなかった背景には、弟への軽蔑や性的な嫉妬があったと語った。城戸は、男同士の競争が相手への欲望を強めることがあると説明しながら、自分自身も美涼を巡って谷口兄弟に屈折した感情を抱いていることを隠した。
美しさが招く苦労
美涼は、自分の容姿を嫌ってはいないものの、それが望まない好意や軽い扱いを招き、人生を悪い方向へ導いてきたと感じていた。相手の振る舞いを拒めば、隙を見せた自分が悪いと責められることにも疲れていた。
一年間の片思い
美涼は、この一年ほど妻子のある知的で紳士的な男性を好きだったと打ち明けた。彼が店へ来るのを待ち、投稿に反応し、自分から食事へ誘うほど惹かれていたが、相手から特別な関心を感じられず、不倫も望まなかったため、最近になって諦めることを決めていた。
告白の相手への疑念
城戸は、美涼の好きな男が自分によく似ていることに気づきながら、彼女の言葉をそのまま受け止めようとした。美涼が気持ちを伝えたのかと尋ねると、彼女は答えずに微笑み、城戸もそれ以上踏み込まなかった。
他人の人生への共感
美涼は、原誠がなぜ大祐の経歴まで自分のものとして語ったのかを疑問に思った。城戸は、原が大祐の傷に共感し、他人の物語を通してしか自分の孤独を慰められなかったのではないかと説明した。それは城戸自身が原の人生を追いながら、自分と向き合ってきたことにも重なっていた。
混ざり合った人生
二人は、昔の大祐、原誠が演じた大祐、これから会う本物の大祐という複数の人生について考えた。城戸は、人が別人の人生を引き継ぐことの不可能さを語ったが、美涼は、原誠はすでに原誠だけでも大祐だけでもない存在になったと捉えていた。
何度も愛し直すこと
城戸は、過去が他人のものだったと判明した時、それまでの愛はどうなるのかと問いかけた。美涼は、真実を知った時点から再び相手を愛し直せばよく、人は長い時間の中で何度も愛し直すものだと答えた。城戸はその考えに強く心を動かされ、この一年、美涼の価値観から影響を受けてきたことを悟った。
名古屋駅を前にした衝動
名古屋への到着が近づくと、城戸は美涼と会うのも最後になるかもしれないと惜しんだ。妻との関係を立て直す決意と、美涼が片思いを諦めたという言葉を守るべきだという理性の一方で、このまま二人でどこかへ行きたいという衝動が一瞬だけ湧き上がった。
差し出された手
城戸は互いにもう若くなく、関係を進めても良い結果にはならないと考え、先に席を立った。美涼へ手を差し出すと、彼女は笑顔で握り返し、その手を借りて立ち上がった。二人はそれ以上の意味を口にせず、谷口大祐との面会へ向かった。
20
名古屋の喫茶店
城戸は美涼と昼食を済ませた後、先に一人で曾根崎義彦との待ち合わせ場所へ向かった。喫煙席で待っていた男は、十年以上前の写真より老けていたが、間違いなく本物の谷口大祐だった。城戸は、原誠が彼を殺していなかったことに安堵した。
曾根崎義彦としての現在
大祐は、今は曾根崎義彦と呼んでほしいと求めた。戸籍を交換して土地や人間関係を離れれば、一年ほどで元の名を他人事のように感じるようになり、消せない過去は別人の過去を重ねることで見えなくしていくのだと説明した。
暴力団員の息子の人生
曾根崎義彦は山口県出身の暴力団員の息子であり、大祐はその経歴を引き継いでいた。職場では出自を隠していたが、一度だけ暴力団の名を明かして相手を黙らせた経験から、危険な家に生まれながら堅気に生きる自分という像に自信を得ていた。
小見浦による戸籍交換
大祐は小見浦の仲介で原誠と戸籍を交換したと認めた。当時は複数回の交換を重ねる者も珍しくなく、犯罪歴のない谷口大祐の戸籍は人気があった。原も最初に曾根崎義彦となったが、その人生や交換相手を気に入らず、次に大祐の戸籍を求めたのだった。
原誠への好意
大祐は谷口家と縁を切ることを望みながらも、前科や財産目当ての相手を避けていた。原と会い、自分の過去を親身に聞き、その続きを懸命に生きたいと言われたことで、この人物なら人生を譲ってよいと思った。二度しか会わなかったが、純粋で優しい原を好ましく感じていた。
原誠の二度の自殺未遂
原は、ボクシングをしていたことや二度自殺を図ったことを大祐に話していた。ボクシングジム時代の転落も、本人は自殺未遂として語っており、その後は飲食店や派遣の仕事を続けていたが、父親の事件がネットで広まるにつれて働きにくくなっていた。
借り物の人物像
大祐は、本物の曾根崎義彦とは直接会っていなかったため、原誠を基礎に暴力団員の息子としての自分を作り上げていた。原のボクシング歴も自分の過去へ取り込み、今の曾根崎義彦という人格を形作っていた。
原誠の死と戸籍の復活
城戸は原が林業の事故で亡くなったことを伝えた。大祐は原を気の毒に思いながらも、谷口大祐という存在が消えたことには安堵した。しかし、死亡届が取り消され、自分が戸籍上は生存する行方不明者に戻っていると知ると、露骨に不快そうな表情を見せた。
里枝との家庭
城戸は、原が里枝と結婚し、子供たちと幸福な家庭を築いたことを説明した。大祐は、自分が宮崎へ行っていれば里枝と結婚していたのかもしれないと想像し、原の人生を羨んだ。早く亡くなったことを惜しみつつ、自分は交換を誤ったのかもしれないと後悔した。
谷口家との断絶
城戸が母親との再会や遺産について触れると、大祐は激しく拒絶した。たとえホームレスになっても谷口家には戻らず、戸籍上の扱いにかかわらず谷口大祐は死んだままでよいと断言した。
美涼だけへの未練
大祐は、元の人生で唯一忘れられない存在が美涼だと語った。死ぬ時に見舞いへ来てほしいのも彼女だけであり、今も昔の交際を頻繁に思い出していた。しかし、その語り方には下品さがあり、城戸は兄の恭一と似た欲望や、別人として生きた末の精神的な荒廃を感じた。
再会からの退席
美涼が間もなく到着すると知った城戸は、二人の再会に同席することをやめた。大祐が変わるのか、美涼が傷つくのか、それとも再び愛し直すのかは分からなかったが、その場を見ることには耐えられないと感じた。
原誠との最後の握手
店を出る前、城戸は大祐と握手した。その荒れた手の感触を確かめながら、七年前に原誠も曾根崎義彦としてこの男と会い、新たな谷口大祐の人生を受け取って、同じように握手して別れたのかもしれないと想像した。
21
調査報告書の完成
谷口大祐から戸籍交換の経緯を聞いた城戸は、一年三カ月に及んだ調査を整理し、里枝へ渡す報告書を書き上げた。原誠についてなお知りたいことは残っていたが、調査には区切りをつける必要があると感じていた。
夫婦関係の改善
城戸は香織に勧められて一度だけカウンセリングを受けた。香織自身は足を運ばなかったものの、話し合いの後は颯太への叱責が減り、家庭を立て直そうと努めていた。城戸も妻の負担を理解し、感謝しながら協調しようとしていた。
スカイツリーから水族館へ
家族三人は颯太の希望でスカイツリーを訪れたが、長い待ち時間を知り、水族館へ行き先を変えた。颯太は展示への反応にむらがあり、サメを怖がる一方、ペンギンの水槽には興奮した。城戸は群れの動きを眺めるうちに妻子を見失い、出口で颯太から迷子だと笑われた。
家族三人の乾杯
昼食では、三人で東京の景色を眺めながら飲み物を掲げた。城戸がビールを飲んで漏らした感想を颯太が真似し、香織と共に笑った。城戸は、穏やかな妻と息子を前に、自分は今も幸福なのだと感じた。
譲り渡せない人生
城戸は、今の人生を他人へ譲れば、その人物は自分よりうまく生きるのだろうかと考えた。原誠が大祐の人生を美しく生きたことを思いながらも、颯太を誰かへ譲る想像には耐えられなかった。その思いから、自分の人生への強い愛着を自覚した。
新しく生き直す現在
城戸は、自分が別人から城戸章良の人生を譲り受けたと考えれば、その幸福に感動するはずだと思った。一瞬ごとに他人から人生を受け取るように、新鮮な気持ちで現在を生きられる可能性を感じた。
成長した颯太
隣席の乳児を見た城戸は、五歳になった颯太の成長を実感した。同時に、里枝が幼い子供を失った悲しみを思い、自分には同じ喪失を到底耐えられないと感じた。
香織へのメッセージ
香織のスマートフォンを操作した際、城戸は彼女の上司から届いた、前夜を示す言葉とハートの絵文字を含むメッセージを偶然目にした。城戸はすぐに画面から消し、送り主の名も記憶から消えるものとして扱った。
なかったことにした疑念
香織が戻ると、城戸は何も見なかったように振る舞い、さらにビールを注文した。妻の上司との関係を問いただすことなく、颯太の食事を手伝い、家族の穏やかな時間を守る方を選んだ。
かかる日のひととき
窓の外には鮮やかな青空が広がっていた。城戸は、何かの小説で読んだ言葉が梶井基次郎のものだったと思い出しながら、この平凡で幸福な休日のひとときを静かに受け止めた。
22
宮崎へ向かう空
城戸は宮崎へ向かう飛行機の中で、颯太から以前尋ねられたナルキッソスの物語を読むため、『変身物語』を開いた。原誠の調査を終える前に、里枝へ直接報告し、自分なりの区切りをつけようとしていた。
ナルキッソスと出生の水
城戸は、ナルキッソスが河の神による暴力から生まれたことを知り、水面を見つめ続けた意味を出生の過去と重ねて考えた。自分を見れば両親の事件まで見ざるを得ず、その過去から逃れることも戻ることもできない姿に、原誠の苦悩を重ねた。
ナルキッソスとエコー
自分の姿しか愛せないナルキッソスと、自分の言葉を持てないエコーは、異なる孤独に閉じ込められていた。それでも死の間際には、嘆きと別れの言葉を交わした。城戸は、自分の体から抜け出したいと願ったナルキッソスに、別人となって愛されようとした原誠の姿を見た。
変身を迫られた人々
『変身物語』に描かれた者たちは、悲しみや暴力、追跡や喪失によって別の姿へ変えられていた。城戸は、小見浦を通じて戸籍を交換した者たちも、追い詰められた末に別人へ変身し、ある者は幸福を得て、ある者はさらに転落したのだと考えた。
伊東林産への訪問
宮崎に到着した城戸は、里枝との面会を翌日に控え、原誠が働いていた伊東林産の社長・伊東を訪ねた。原がどのような場所で暮らし、働いていたのかを自分の目で確かめたかった。
山林を巡る仕事
伊東は城戸を車に乗せ、林業の現場へ案内した。国有林の伐採や所有者不明の山を狙う盗伐、機械化された作業などについて語り、危険な現場は事故と採算の両面から避けていると説明した。
谷口大祐の事故
伊東は、原誠を谷口大祐として記憶しており、その死を今も悔いていた。事故が起きたのは断り切れず引き受けた条件の悪い現場であり、木の倒れる方向は熟練者でも読み切れなかった。伊東は毎朝仏壇に手を合わせ、自責の念を抱き続けていた。
林業での才能
原は一年半ほどで仕事を覚え、真面目で判断力があり、細身ながら体力にも恵まれていた。機械の操作もこなし、昼休みには素朴な絵を描いていた。伊東は、その絵には原の生まれつきの性格が表れていたと懐かしんだ。
借り受けた剣道の記憶
原は子供の頃に剣道をしていたと伊東に話していたが、それは本物の谷口大祐の過去だった。城戸は、原が経歴だけでなく、幼少期の習い事まで自らの人生として引き受けていたことに静かな驚きを覚えた。
雨の杉林
伊東が電話で離れた間、城戸は雨に霞む杉林を一人で眺めた。一本の木が山で五十年育ち、建材としてさらに五十年生きるという話を思い、原がこの長い時間の中で何を考えて働いていたのかを想像した。
家族へ帰る日々
城戸は、原の心を占めていたのは過去ではなく、仕事を終えて里枝と子供たちのもとへ帰ることだったのではないかと考えた。長い不遇の末に得た家庭で、子供を寝かしつけながら、自分は幸福だと強く感じていたに違いないと思った。
雨の中の原誠
遠くを歩く作業員を一瞬、原誠と見間違えた城戸は、もし本人がいたなら何と声をかけるかを考えた。二度の自殺未遂を経て、生きるために別人として生き直したことを理解していると伝えたかった。
初めて向き合った原誠
城戸の想像の中で、原は立ち止まって振り返り、微笑んだ。これまで背中や横顔ばかりを追ってきた城戸は、初めて正面から彼と向き合えたように感じた。そして、原誠とは本当に会ってみたかった男だったのだと気づいた。
23
悠人への報告
城戸の報告を受けた里枝は、父の過去を悠人にどこまで伝えるべきか迷った。既に偽名だったことは話していたため、最終的には城戸がまとめた資料を本人に渡し、今すべてを知るかどうかを悠人自身に選ばせた。
成長する花
花は前歯が抜けそうなことを喜び、明るく笑いながら日々成長していた。里枝は、以前の口癖が消えていくほど娘が変化していることに驚きつつ、父を早くに失っても変わらず朗らかな性格であることを救いに感じていた。
母の知らない悠人
里枝は、思春期を迎えた悠人を子供扱いせず、一人の人間として尊重しようとしていた。息子には自分の知らない内面があり、父母のどちらとも異なる人物へ成長していることに、驚きと喜びを覚えていた。
芥川龍之介の少年
里枝は、悠人に教えられた芥川龍之介の『浅草公園』を読み、父親とはぐれた少年が泣く場面で涙を流した。悠人が父の正体を知らされる前からこの作品に惹かれていたことから、無意識に父との隔たりを感じ取り、自分の寂しさを本を通して母に伝えようとしていたのではないかと考えた。
文学という救い
悠人は、桜の木に残された蝉の抜け殻を詠んだ俳句で全国コンクールの最優秀賞を受けていた。里枝は、抜け殻が内側から飛び去った蝉の声を聞くという発想に、弟や父を失った悠人の思いを感じた。文学は、母親にも教えられなかった苦しみの乗り越え方として、悠人自身が見つけた救いだった。
原誠との出会い直し
城戸の報告によって、里枝は亡夫の本名が原誠だったと知った。しかし、長く大祐君と呼んできた人物を、すぐに誠君と呼び直すことはできなかった。それでも写真を見つめるうち、彼はいつか本当の名で呼ばれ、過去も含めた自分の全体を愛してほしかったのではないかと感じた。
父親の罪と夫の痛み
里枝は、小林謙吉の凶悪な事件が自分の家族につながっていたことに動揺した。しかし、原自身は罪を犯しておらず、彼が谷口大祐の不幸を自らの過去として語ったのも、本当の傷を知ってほしかったからではないかと考えた。原因を偽っていても、彼の痛みそのものは確かだった。
花へ受け継がれた血
原が父親から受け継いだものを恐れていたと知り、里枝は花が将来その事実に悩む可能性を考えた。自分は殺人者の血を気味悪いとは感じなかったが、最初から原の過去を知っていたなら、その人生まで引き受けて愛せたかどうかには答えを出せなかった。
三年九カ月の幸福
城戸は、原誠が里枝と暮らした三年九カ月で初めて幸福を知り、その時間こそが彼の人生のすべてだったのだろうと伝えた。里枝は、城戸がこの言葉を直接届けるために宮崎まで来たのだと悟り、夫が確かに幸せだったという事実に心を揺さぶられた。
父親の優しさ
報告書を読み終えた悠人は、父が罪を犯していなかったことを確認し、その境遇をかわいそうだと受け止めた。そして、父が自分に優しかったのは、幼い頃に父親からしてほしかったことを自分にしていたからではないかと考えた。里枝は、それだけでなく、父が悠人自身を心から愛していたのだと答えた。
悠人の涙
悠人は突然、母に謝りながら泣き出した。里枝も共に泣き、父の名や家族のこれからについて話した。名字は武本のままとし、原の遺骨は遼や祖父と同じ墓に納める方向で考えることになった。
花を守る約束
悠人は、花には今すぐ父の過去を話さず、成長するまで守るべきだと考えた。里枝は気丈に妹を思いやる息子の姿に成長を感じ、互いに辛い時には話すことを約束した。
遺された家族の幸福
悠人が部屋へ戻った後、里枝は遺影と家族写真を見つめた。原は既に亡くなり、二人の子供は大きくなっていた。それでも、原と過ごした三年九カ月の思い出と、そこから続いていく子供たちの人生だけで、残りの人生には十分だと思えるほど、里枝自身も幸福だった。
その他フィクション

Share this content:


コメント