Lorem Ipsum Dolor Sit Amet

Sea summo mazim ex, ea errem eleifend definitionem vim. Ut nec hinc dolor possim mei ludus efficiendi ei sea summo mazim ex.

Nisl At Est?

Sea summo mazim ex, ea errem eleifend definitionem vim. Ut nec hinc dolor possim mei ludus efficiendi ei sea summo mazim ex.

In Felis Ut

Phasellus facilisis, nunc in lacinia auctor, eros lacus aliquet velit, quis lobortis risus nunc nec nisi maecans et turpis vitae velit.volutpat porttitor a sit amet est. In eu rutrum ante. Nullam id lorem fermentum, accumsan enim non auctor neque.

Risus Vitae

Phasellus facilisis, nunc in lacinia auctor, eros lacus aliquet velit, quis lobortis risus nunc nec nisi maecans et turpis vitae velit.volutpat porttitor a sit amet est. In eu rutrum ante. Nullam id lorem fermentum, accumsan enim non auctor neque.

Quis hendrerit purus

Phasellus facilisis, nunc in lacinia auctor, eros lacus aliquet velit, quis lobortis risus nunc nec nisi maecans et turpis vitae velit.volutpat porttitor a sit amet est. In eu rutrum ante. Nullam id lorem fermentum, accumsan enim non auctor neque.

Eros Lacinia

Sea summo mazim ex, ea errem eleifend definitionem vim. Ut nec hinc dolor possim mei ludus efficiendi ei sea summo mazim ex.

Lorem ipsum dolor

Sea summo mazim ex, ea errem eleifend definitionem vim. Ut nec hinc dolor possim mei ludus efficiendi ei sea summo mazim ex.

img

Ipsum dolor - Ligula Eget

Sed ut Perspiciatis Unde Omnis Iste Sed ut perspiciatis unde omnis iste natu error sit voluptatem accu tium neque fermentum veposu miten a tempor nise. Duis autem vel eum iriure dolor in hendrerit in vulputate velit consequat reprehender in voluptate velit esse cillum duis dolor fugiat nulla pariatur.

Turpis mollis

Sea summo mazim ex, ea errem eleifend definitionem vim. Ut nec hinc dolor possim mei ludus efficiendi ei sea summo mazim ex.

汝、暗君を愛せよ1巻の表紙画像(レビュー記事導入用)

小説「汝、暗君を愛せよ」転生しら王でした?感想・ネタバレ

物語の概要

本作は異世界転生×政治×戦記のライトノベルである。お飾り社長としての人生に嫌気が差した男が自ら命を絶つも、異世界で若き王――グロワス13世 として転生する。彼が受け継いだ王国は巨額の赤字財政と列強の干渉、革命の気配に悩まされており、己より有能な重臣や妃候補の令嬢たちに囲まれながらも、無力な異世界人としての限界と戦い続けねばならない。左様、彼は“暗愚な君主”として生き延びるしかないのだが、玉座に在るという役割を全うしようとする。国家の命運を賭けた政治・外交・内政の綱渡りが、本作の主軸となっている。

主要キャラクター

  • グロワス13世(主人公)
    かつてお飾り社長だった現代男が異世界の王として転生した人物である。政治・軍事・外交を総合的に処理する必要に迫られ、しばしば“暗君(暗愚な君主)”として自己を評するが、玉座と王国を守ろうと奮闘する。

物語の特徴

本作の魅力は、“暗君”という否定的なレッテルを逆手に取りながらも、苛烈な政治状況を戦い抜く王の姿を描く点にある。異世界転生ものにありがちなチート能力や戦闘無双ではなく、赤字財政、列強の圧力、国内革命の気配といった現実的な政治課題がまともに立ちはだかる。主人公は特殊技能を持たない凡人でありながら、王としての判断と責務を全うするために苦悩し、策略と妥協を積み重ねていく。

書籍情報

汝、暗君を愛せよ
著者:本条謙太郎 氏
イラスト:toi8  氏
出版社:ドリコム(DREノベルス)
発売日:2025年8月6日
ISBN:978-4-434-36211-8

ブックライブで購入 BOOK☆WALKERで購入

(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。

あらすじ・内容

ぼくは王として生きる。この豪華な地獄に。
 お飾り社長としての人生に嫌気がさして自ら命を絶った「ぼく」は、異世界の若き王の中へと転生する。しかし彼の王国は巨額の赤字財政と列強の干渉に悩まされ、国内には革命の気配すら漂い始めていた。
 政治的影響力を無視できない妃候補の令嬢たちと、自分よりも明らかに有能な重臣たちに取り巻かれ、無力な異世界人たる彼にできることはあまりに少ない。だが、何とか“上手くやらなければ”生き残れない。
「ぼくの名は、暗愚な君主の1人として残るだろう。永遠に」
 それでもなお、彼は玉座に在り続ける。かつて“投げ捨てた”役割を今度こそ全うするために。

汝、暗君を愛せよ

感想

本書は、転生者でありながら「弱さを引き受ける覚悟」を真正面から描いた、かなり苦くて誠実な一冊であった。
読後に残るのは爽快感ではなく、「確かにこれは豪華な地獄だ」という納得であった。

この作品の面白いところは前世の記憶を取り戻した後の変化が、能力や知識ではなく「態度」に表れている点であった。
特に印象的なのが、食事の場面だ。食べ方が変わり、零したことを周囲に謝っただけで驚愕される。
その反応から逆算される「以前の暗君っぷり」が、説明なしでもはっきり伝わってくる。
このささやかな変化が、主人公が本当に別人になったことを雄弁に語っていた。

主人公が転生した世界の情勢はツミな状態だった。
巨額の赤字財政、納税しない半独立状態の諸侯、周辺の列強の干渉、市民革命の気配。
どれか一つでも重いのに、それが全部そろっていた。
確かにここは宮殿の王座であり、同時に逃げ場のない豪華な地獄であった。
前世で三代目の造園会社の社長として役割に押し潰され、自ら命を絶った主人公が、再び「投げ捨てた役割」を拾い直さなければならない皮肉は、かなりきつかった。
逃げた現実以上に豪華だが危険な来世。
本当に地獄だわ。

主人公グロワスは終始、自分を暗君だと認識し、上手くやり過ごすために必死でもがいていた。
簡単な道や派手な理想論を選ばず、前世を反面教師にしながら、一つ一つ自分で向き合う。
その姿勢が、突然の方針転換を訝しんでいた妃候補の令嬢や有能な重臣たちの態度を、少しずつ変えていく過程が丁寧に描かれていた。

人間関係の描写も本作の大きな魅力である。言葉が足りず、誤解を生み、思惑がすれ違う場面は何度もある。それでもグロワスは、人を道具として扱わず、相手を「個人」として認識しようとする。その姿勢は特に女性陣との関係性に強く表れており、情にも精神的にも弱いことを自覚したうえで、それでも背負おうとする姿は、愛と呼んで差し支えないものに感じられた。

主人公の情けなさが、ここまで好意的に映る作品も珍しい。強くない。賢くもない。だが、自分の弱さを理解し、それを誤魔化さない潔さがある。一度すべてを諦めてしまったからこそ、異世界で「暗君として生きる」ことを選んだ覚悟が、行動の端々から伝わってくる。

大きな決断を下したグロワスの先に、世界がどう動いていくのかはまだ分からない。だからこそ続きが気になるし、正直に言えば幕間をもっと読みたいとも思った。
総じて本作は、英雄譚でも成り上がりでもなく、「逃げなかった人間の再挑戦」を描いた物語である。華やかさの裏にある重さを、じっくり噛みしめたい読者にこそ勧めたい一冊であった。

最後までお読み頂きありがとうございます。

ブックライブで購入 BOOK☆WALKERで購入

(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。

登場キャラクター

グロワス十三世(イレン)

サンテネリ王国の国王である。前世の記憶をもつため、宮廷の作法と政治の力学を冷めた目で見ている。家宰や令嬢たちと距離を取りつつ、裁可役として国家の転換を受け入れていく立場である。
・所属組織、地位や役職
 サンテネリ王国、国王。正教の守護者として扱われる立場である。
・物語内での具体的な行動や成果
 御前会議で外交方針の転換と帝国との和解を裁可した。
 近衛軍の縮小と国軍統合の方針を承認した。
 暗殺未遂ののち、事件を「事故」として収める方針を命じた。
 官製メディアの必要を意識し、自分が文章を書く決断をした。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 病後に言動が変わり、臣下が「意図を読めない王」として警戒する状態になった。
 帝国第一王女を正妃に迎える婚姻を進め、国体の象徴としての重みが増した。

ブラウネ・エン・フロイスブル

フロイスブル侯爵家の長女である。理性と規律を重んじ、王を観察して判断する立場である。父マルセルの意向を受け、王の近くへ出仕する。
・所属組織、地位や役職
 フロイスブル侯爵家、令嬢。のちに光の宮殿で王の世話にあたる役目を負う。
・物語内での具体的な行動や成果
 茶会で王の変化を目撃し、動揺しつつ対応した。
 襲撃事件後、黒衣で出仕し「侍る」と宣言した。
 王が追い詰められた場で「あなた」と呼び、王を個人として扱った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 王の命令により、宮殿での常駐に近い立場へ移った。
 王の言い訳を許さない姿勢を示し、王の行動を縛る圧力になった。

マルセル・エネ・エン・フロイスブル

フロイスブル侯爵であり家宰である。王権の中枢として国政を回してきた人物である。王の回復後は再び実務の中心に戻る。
・所属組織、地位や役職
 サンテネリ王国、家宰。フロイスブル侯爵家当主である。
・物語内での具体的な行動や成果
 王の更迭や復帰を「運命」として受け止めた。
 襲撃事件後、王の怒りを引き出すために挑発したと語った。
 娘ブラウネの出仕を既成事実化し、王の撤回を封じた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 王の下命で、家宰としての責任と家族の安全を同時に背負う状態になった。

フェリシア

マルセルの側妻である。侍女から側妻になった来歴をもち、宮廷の含意を読む。正妃付き女官長として火種消しを担う。
・所属組織、地位や役職
 フロイスブル家、側妻。のちに正妃付き女官長となる。
・物語内での具体的な行動や成果
 王の「世話」の言葉を最悪に取る夫を止め、侍女としての出仕へ解釈を転じた。
 小宴で正妃の言葉を言い換え、場の凍結を回避した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 王の判断で正妃側の実務責任者に据えられ、後宮の調整力が増した。

ゾフィ・エン・ガイユール

ガイユール公爵家の令嬢である。明るく物怖じしない性格である。王を「お兄さん」として見てきた過去があり、病後の王の変化で感情が揺れる。
・所属組織、地位や役職
 ガイユール公爵家、令嬢。王の後見下にある存在として扱われる。
・物語内での具体的な行動や成果
 夜会で王に接近し、首飾りの話題で距離を詰めた。
 時計の場に同席し、月齢表示の時計に歓声を上げた。
 シュトロワに残り、見聞を広めて王へ報告する意欲を示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 父の要請により、王の庇護下にあることが政治的に周知される方向へ動いた。

ザヴィエ(ガイユール大公)

ガイユール家の現当主である。王を危険な存在と見なし、手綱で制御する発想をもつ。娘ゾフィの養育を政治の道具として設計した。
・所属組織、地位や役職
 ガイユール公爵家、当主。外様諸侯の筆頭格である。
・物語内での具体的な行動や成果
 ゾフィを深窓にせず、多様な人と接する方針で育てた。
 娘の変化を読み違え、再度王と話す必要を思案した。
 王に「後見」を求め、政治取引の材料として使った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 国内関税撤廃の合意など、税制改革の入口で王と結ぶ立場になった。

メアリ・エン・バロワ

バロワ家の令嬢である。近衛軍の誇りを背負い、軍務への志が強い。王の病後の態度で、自分が「記号」ではなく「高官」として扱われたと感じる。
・所属組織、地位や役職
 バロワ伯爵家、令嬢。近衛軍の系譜に連なる立場である。
・物語内での具体的な行動や成果
 夜会や時計の場で警戒を続け、職人の手元も監視した。
 襲撃時に止血し、のちに布をほどいて王の呼吸を戻した。
 近衛軍縮小に反発し、父の問いで考えを改めていった。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 襲撃事件の責任感から自死を図ったとされ、周囲が監視する状態になった。
 王のもとで「王様係」に近い部署へ置かれ、宮殿内での存在感が増した。

内務卿クレメンス・エネ・エン・プルヴィユ

内務を担う高官である。治安と行政を所管し、秘密警察も扱う。世論と反発の芽を「芯」として警戒する。
・所属組織、地位や役職
 サンテネリ王国、内務卿。治安と地方行政の責任者である。
・物語内での具体的な行動や成果
 反発はあるが組織的動きはないと王に報告した。
 介入の可能性も含め、数日内に状況整理を申し出た。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 王の命で背後関係の調査を担う立場となり、政治の要になった。

財務監モンブリエ

財務を統括する高官である。婚姻費用が出せない現実を会議で告げ、政権の弱点を露呈させた。
・所属組織、地位や役職
 サンテネリ王国、財務監。国庫と支出の管理者である。
・物語内での具体的な行動や成果
 婚姻の費用がないと報告し、会議を葬式の空気にした。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 財政危機の「口火」を切る役となり、政策設計の前提を決めた。

海軍卿

海軍の統括者である。海外拡張と海軍再建を強硬に主張し、王と衝突した。
・所属組織、地位や役職
 サンテネリ王国、海軍卿。海軍の最高責任者である。
・物語内での具体的な行動や成果
 拡張路線の放棄に反発し、停滞は死だと迫った。
 陸軍卿への登用案を示され、熟考の時間を求めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 陸海統合の長期設計で、職位を保ったまま陸軍を見せる案の対象となった。

近衛軍監

近衛軍を統括する高官である。襲撃事件の場に居合わせ、王の方針に従う立場となる。
・所属組織、地位や役職
 サンテネリ王国、近衛軍監。近衛軍の監督者である。
・物語内での具体的な行動や成果
 襲撃後の執務室会議に参加し、事故処理の方針を共有した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 失態の責任が連鎖し得る立場として、王の怒りの対象に含まれた。

デルロワズ公ジャン

国軍の実権を握る公爵である。統合軍の将来像を王から提示され、剣の持ち主として期待される。
・所属組織、地位や役職
 デルロワズ公爵家、当主。国軍の中枢を担う。
・物語内での具体的な行動や成果
 王と会食し、近衛統合の条件を聞き取った。
 王から統合軍全体を託す青写真を示され、反逆の危険も含めて問答した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 陸軍卿就任の先延ばしに苛立ちを抱えつつ、国家の剣として位置づけられた。

ピエル・エネ・エン・アキアヌ(アキアヌ大公)

王族の親戚筋にあたる大公である。貧民救済を掲げつつ、再開発の実利も語る。王に旧市街を見よと迫る。
・所属組織、地位や役職
 アキアヌ大公家、当主。反王家勢力の核として扱われる。
・物語内での具体的な行動や成果
 貴族の使命を説き、王に旧市街の視察を求めた。
 立ち退きを私兵で行ったと語り、現実の暴力を示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 自前の新聞を持つとされ、世論形成で王家に先行している存在となった。

母后マリエンヌ

王の母である。息子の身体を案じる母として接し、王の罪悪感を刺激する。信徒として喜捨にも心を痛める。
・所属組織、地位や役職
 サンテネリ王国、母后。王家の一員である。
・物語内での具体的な行動や成果
 王の怪我の回復を喜び、祈りを捧げた。
 傷病兵の負担に胸を痛め、財政難も理解した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 正妃来訪を控えた宮中で、側妃文化への距離感が火種になり得る立場である。

大僧卿

正教側の高位聖職者である。喜捨を求め、戦争の傷病兵問題を示す存在である。
・所属組織、地位や役職
 正教、大僧卿。宗教権力の代表である。
・物語内での具体的な行動や成果
 喜捨の要望を出し、傷病兵の収容負担を背景に示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 信仰と政治の両面で、王家に圧力をかけ得る位置にいる。

アナリース(正妃アナリゼ・エン・ルロワ)

帝国エストビルグ家の第一王女である。婚姻により改名して正妃となる。接触文化の違いで硬直し、宮廷では誤解の火種になる。
・所属組織、地位や役職
 エストビルグ家、第一王女。のちにサンテネリ王国の正妃である。
・物語内での具体的な行動や成果
 儀礼の接触に強く身をこわばらせた。
 小宴で帝国作法の言い方をし、場を冷やしかけた。
 女官長の言い換えを受け、即座に修正した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 婚姻そのものが国体維持の中核となり、国内政治の軸として扱われる。

ゲルギュ五世

エストビルグ国王である。皇女の肖像画を贈り、和解の象徴を演出した。
・所属組織、地位や役職
 エストビルグ家、国王。
・物語内での具体的な行動や成果
 皇女アナリースの肖像画を贈り物として送った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 婚姻と和解の象徴を供給する側として、外交の重みを持つ。

アブラム・ブラーグ

王家御用達の時計師である。王の呼び出しを受けて宮殿へ来る。帝国由来の部品が地雷になりかける。
・所属組織、地位や役職
 時計職人。王家御用達の立場である。
・物語内での具体的な行動や成果
 見本の懐中時計を五つ提示し、王と令嬢たちの注文に応じた。
 部品の出自を口ごもり、王の姿勢で恐怖が和らいだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 王の周囲に大貴族が並ぶ現場を見て、客層の重さを突きつけられた。

グロワス十二世

先代王である。戦争を数字として処理する姿勢が語られる。
・所属組織、地位や役職
 サンテネリ王国、先代国王。
・物語内での具体的な行動や成果
 戦争を抽象化して遂行した存在として、母后との対比で語られた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 過去の政治姿勢が、現王の自己理解の材料になっている。

襲撃した女性(氏名不明)

王を短剣で刺そうとした人物である。単独犯とされ、戦争と未払いで全てを失った経緯が示される。
・所属組織、地位や役職
 所属は不明である。
・物語内での具体的な行動や成果
 庭園で王へ接近し、短剣で刺そうとした。
 取調中の「事故」で死亡したと報告された。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 王の「神聖不可侵」の建前を現実として破り、宮廷の恐怖を引き出した。

展開まとめ

【第一話】王のルーティン

異世界での覚醒と日常の始まり
サンテネリ王国の王として目覚めてから約二か月が経過していた。毎朝決まった時刻に起床し、侍従に見守られながら身だしなみを整え、形式と作法に縛られた王としての一日が始まっていた。宮殿での生活は過剰なほど厳格であり、些細な行動にも意味と評価が付随していた。

朝食と宮廷社会の空気
朝食に向かう廊下では、多くの貴族が列を成し、挨拶と請願を浴びせてきた。小食堂と呼ばれる部屋での食事は形式的で、会話もなく、王として孤立した立場を象徴していた。食事の完食は義務であり、拒否は許されなかった。

御前会議と国家の現実
午前中から御前会議が開かれ、外交・内政・財務など日替わりの議題が議論された。特に財務の日は厳しく、王国は深刻な赤字と膨大な債務を抱えており、その責任は王自身に帰属していた。現代日本での経験はほとんど役に立たず、状況を理解し聞き続けることしかできなかった。

茶会と人間関係の調整
午後の休憩時間は実質的な業務の延長であり、フロイスブル侯爵令嬢ブラウネとの茶会が行われた。彼女の献身的だが距離を保った態度に対し、王は慎重に感謝と評価を示し、誤解や軋轢を生まないよう言葉を選んで応対した。宮廷では些細な振る舞いが派閥や評価に直結していた。

個別会談と政治の力学
夕刻には貴族や平民代表との個別会談が続き、税負担と権利を巡る対立が表面化した。貴族と平民の双方が正当性を主張し、その調整役として王の判断が求められていたが、実際には既定路線を承認する役割に近かった。

夜の会食と次代への視線
夜にはガイユール公爵家を招いた会食が行われ、その後、公爵令嬢ゾフィと面会した。まだ若い彼女の率直さと活力は、王にとって癒やしであると同時に、宮廷内の派閥関係を意識させる存在でもあった。

判子係としての覚悟
王は自らを改革者ではなく、優秀な臣下に委ねる判子係と位置づけていた。完成された組織を無理に変えれば破滅を招くと理解し、虚無感に耐えながら傍観を選ぶ覚悟を固めていた。前世での後悔を胸に、今回はできる限り害を及ぼさない生き方を選び、静かに眠りについた。

【第二話】暗君とブラウネ

ブラウネの出自と教育
ブラウネ・エン・フロイスブルはフロイスブル侯爵家の長女として生まれ、宰相家宰マルセルを父に持つ立場で育った。長女が代々「ブラウネ」を継ぐ家風のもと、思慮と厳密さ、果断を重んじる価値観を叩き込まれていた。

新王への不信と政策への断絶
ブラウネは即位したグロワス十三世を好まなかった。正教教義の徹底と海外領土拡張という相反する政策を熱狂的に掲げ、魔力を根拠に階層秩序を固定しようとする姿勢は時代錯誤に映った。破綻寸前の財政と艦隊・陸軍の弱体化を知る彼女には、亡国に向かう確信すらあった。

宰相失脚と召喚の衝撃
新王治下で父は面罵され出仕停止となり、ブラウネは婚姻候補から外れたことに安堵していた。しかし王が病から回復すると王家の使者が父を召喚し、家中は亡命すら視野に騒然となった。父は忠節を選び、娘に薬の瓶を託して出立し、夕刻に無事帰還した。

父の告げた評価と再出仕
帰還した父は陛下は名君となられると震える声で告げ、次の茶会にブラウネの出仕を望むと伝えた。父は自分の目も耳も信用ならないとして、彼女に見聞のすべてを報告するよう求めた。

茶会で露わになった王の変化
久々に対面した王は甘味を好む点など外見上は変わらなかったが、菓子を丁寧に食べ、零した滓に対して零してしまったと呟き、従僕にも謝意を示した。さらに肩肘張らぬ世間話を促し、自身の懐中時計の意匠を誇らしいと語って彼女に渡した。かつてなら排外的に断じたであろう背景を持つ時計職人の品を称える言葉は、ブラウネの認識を揺さぶった。

困惑と動揺の確信
ブラウネは突飛な問いに即答できず、次回までの課題とする形で応じた。王は謝罪し彼女の寛容さを褒め、失敗を許してくれると述べた。ブラウネは王が変になられたと感じ、目を見開いたまま小さく頷き返すしかなかった。

【第三話】王の謝罪

謝罪が日課となった立場
グロワス十三世は、王という立場になっても謝罪から逃げられない現実を自覚していた。社長時代も含め、揉め事の鎮静や説得のために頭を下げる場面は多く、謝罪は相手次第で効き目が変わる諸刃の剣だと理解していた。そこでグロワス十三世は、本気で謝る場合と形だけ謝る場合の二基準を作り、効果よりも自分の誠実さを守るために使い分ける姿勢を固めていた。

過去の所業を引き受ける矛盾
グロワス十三世が謝っているのは、現状の混乱を招いた過去の王の行動であった。ただし本人の感覚では、それは二か月以上前にこの身体の主がやったことであり、自責と他責が同居する不条理な謝罪になっていた。特に家宰フロイスブル侯爵を更迭した件では一の態度で謝罪し、侯爵の警戒が残りつつも一定の信頼を得たと感じていた。

海軍卿との対立と現実の提示
この日の相手は海軍卿であり、過去に語られた海軍再建と海外領拡張の大望が反故にされたことへの憤りをぶつけられた。グロワス十三世は、大望自体を否定せず国が先細る危機感は共有しつつも、財政と実利の観点から新大陸領の損切りと海軍再建の困難を示した。海軍卿は停滞は死だとして決断を迫り、アングランの脅威を引き合いに強硬に主張した。

面子が効かない相手への切り替え
グロワス十三世は、家宰や財務監に現実を教えられたと突き返し、語気を強めて応じたが、海軍卿は動じなかった。頭を下げる価値も通じにくい相手だと判断したグロワス十三世は、論争の決着ではなく局面転換を選び、陸軍卿逝去による空席という現実を話題に移した。

栄転に見せかけた封じ込め人事
グロワス十三世は海軍卿の忠誠と手腕を評価すると述べ、陸軍卿への登用を提案した。陸軍卿は海軍卿より格上の地位であり、名誉としては破格である一方、家職化した陸軍に外様を落下傘で入れる危険も孕んでいた。提案を受ければ現実への妥協を引き出せ、拒めば理想主義者として対話が無意味になるという見立てのもと、グロワス十三世は人事で事態を収めようとした。

脚本化された謝罪と暗君の自覚
海軍卿は熟考の時間を求め、グロワス十三世は浅慮で心労を与えたとして頭を下げ、海軍卿も王国のために考えると応じて退出した。だが一連の筋書きは事前に家宰と組んだものであり、主導したのは家宰であった。グロワス十三世は自分が何もしていない事実を認め、暗君としてそれを受け入れていた。

【第四話】王の夜会

「ちょっとしたパーティー」という嘘
グロワス十三世は、現代で見たハイブランドの「用途が謎なスーツ」を思い出しつつ、この世界でも「ちょっとしたパーティー」という言葉が信用ならないと痛感していた。シュトロワ新市街の宮殿パール・ルミエや、ガイユール家の巨大な別邸など、規模感が人間の感覚を平然と裏切ってくる中で、今夜の夜会も参加者五百人規模でありながら「小規模扱い」されていた。

ガイユール大公の誘導と三人の令嬢
若者たちの騒がしい輪から逃げたがっていたグロワス十三世は、主催者ガイユール大公に連れられ、令嬢たちの集まる一角へ向かった。そこにはフロイスブル侯爵令嬢ブラウネ、ガイユール公爵令嬢ゾフィ、そしてバロワ伯爵令嬢メアリが揃っていた。三者はそれぞれ、国政の大黒柱たる譜代筆頭、外様諸侯の筆頭、そして近衛軍を握る王家直属の暴力装置という立場を背負う家の代表であり、配置として美しすぎるほど政治的であった。

近衛軍とバロワ家の重み
語り手はサンテネリに「国軍」と「近衛軍」という二重の軍があることを整理し、近衛軍が王家の私兵として王命にのみ従う危険な装置であると認識していた。その近衛軍を家職として率いるバロワ家の令嬢メアリは、マッチョイズムが強い社会で例外的に軍務の中枢に関わる存在であり、容姿も雰囲気も「仕事ができる」方向に振り切れた圧を帯びていた。

社交の地雷原と首飾り事件
グロワス十三世は、現代の感覚でセクハラや権力勾配を恐れ、会話や距離感に過剰なまでに神経を使っていた。しかし夜会の空気は意外に緩く、ゾフィが首飾りを見せる流れで、彼の手を包み込むという接触まで起きた。語り手は内心で「逮捕」と騒ぎつつも、メアリもブラウネも表面上は微笑でやり過ごし、ここが単なる恋愛イベントではなく「観察と評価の場」であることが一層はっきりした。

和気藹々の裏にある集団戦
令嬢たちは仲良く談笑していたが、語り手はそれを額面通りに受け取らなかった。敵意は露骨に出さず、味方を増やして集団戦で勝つのが現実であり、そのための手段は結局「相手が利益と感じるものを与えること」だと割り切っていた。そして制度上もっとも“得な味方”にされる存在は王である以上、グロワス十三世自身が絶えず欲望と弱点を探られていると理解していた。

置物になりたい王の自己矛盾
グロワス十三世は、探り合いと仲間作りから逃れる唯一の道として「置物」になることを夢想した。ただし完全な無能の置物は排除されるため、責任を押し付けられるサンドバッグとしての“微かな価値”が必要だという、救いのない結論に行き着いた。酒が好きなのは、対価や後腐れを伴う「色」と違って、罪悪感なしに一時的な逃避をくれるからだと整理していた。

翌日の最悪の予告
夜会の余韻と自己分析の末、グロワス十三世は定例会議へ向かったが、そこで「帝国」から正妃候補が来るという話が現実味を帯びて降ってきた。彼はそれを祝福ではなく、戦争とセットで持ち込まれる政治的爆弾として受け止め、元気な肝臓とは裏腹に胃痛を覚えていた。

【第五話】暗君とゾフィ

公爵号とガイユール家の「国家内国家」
中央大陸の公爵家は「かつて王家級の独立勢力」か「王家の近親」であることが条件であり、ガイユール家は両方を満たす最大級の名門であった。諸民族のうねり後期に成立したガイユール公領を起源に、ルロワ家との戦争と婚姻政策で独立性を削がれつつも、言語文化の差異を残す独立色の強い地域として生き延びた。宮廷官職を持たないのも「家臣化」を避けるためであり、その距離が交易と金融で蓄えた富と自由を守っていた。

ザヴィエの危機感と「手綱」の発想
現当主ザヴィエは、新王グロワス十三世を王太子時代から観察し、若さ・野心・宗教的熱狂が揃うことを最悪の組み合わせと見なしていた。野心は領土拡張に向かい、宗教熱は妥協を拒む。常識不足のまま賭博的政策に突っ込めば、矛先がガイユールに向く危険すらあるため、彼は王を「手綱で制御すべき対象」として捉えていた。

ゾフィの養育方針と父への敬慕
ザヴィエはゾフィを深窓の令嬢にせず、身分を問わず多様な人々と接させ、将来は夫を「操縦できる聡明さ」を持たせようとした。その結果、ゾフィは天真爛漫で物怖じしない性格を得ると同時に、世界を見せ守ってくれる父を強く敬慕するようになった。成長の過程で幼い執着は消えたが、「父のような包容力を持つ男性」への嗜好だけが残った。

王太子グロワスとの四年間と、見えてきた未来
ゾフィは十歳で王太子グロワスと出会い、年に数回だけ会える「お兄さん」として好意的に接してきた。だが十四歳になる頃には、結婚が政治であることを理解し、「自分が王妃になるかもしれない」という未来が現実味を帯びる一方、王子の虚勢や観念的な言動に物足りなさも感じ始めていた。それでも受け入れた上で、どう立ち回るかを考える段階に入っていた。

病後の王の変化と、茶会での決定的な体験
王が病から回復した後、ゾフィは見舞い名目でシュトロワへ向かい、夜会の一週間ほど前に茶会へ招かれた。そこで王は、彼女が自分で選んだ「鳥の首飾り」を見たいと言い、家宝ではなく「個人の宝物」に価値があると説いたうえで、装飾のない金の懐中時計を示して自分の好みを堂々と開示した。征服や偉大な王の話に戻らず、ゾフィの話を聞き、相槌し、茶を勧め、笑い、彼女の言動そのものを楽しんだ。

ゾフィの高揚と不安、そして父に見せない沈黙
ゾフィは「ガイユールの姫」ではなく「ゾフィという一人の娘」を見られた感触に新鮮な喜びを覚え、話が止まらないほど心を開いた。だが帰りの馬車で、王が以前と別人のように大人びていることに気づき、今度は自分の振る舞いが子どもっぽかったのではないかと耳が熱くなる不安も抱えた。帰ったら母に「殿方と話す秘訣」を聞こうと考える時点で、感情の質が政治から恋情寄りにズレ始めていた。

ザヴィエの読み違いと、公妃の苦笑
ザヴィエは娘の変化を長年観察し、「心が通じ合うのは難しくとも上手く折り合うだろう」と踏んでいたが、今回のゾフィは父にほとんど語らず、心ここにあらずの短答に終始した。ザヴィエは「拗れた」「勘気を被ったかもしれない」と危機を疑い、再度王と話す必要を思案する。だが公妃は、ゾフィが自分には大量に報告したと明かし、父親には話しにくいことがあると笑う。ザヴィエはそこで、自分が娘の感情の領域に踏み込めていない現実を突きつけられた。

【第六話】王としんどい会議

会議という儀式と、不安の確認行動
語り手は会議嫌いが多数派である現実を踏まえ、会議の本質が「議論」ではなく「事前に詰めた結論の発表と確認」にあると捉えた。上の人間が不安ゆえに部下の顔を見て安心したがる構図を、携帯をポケットで確かめる癖になぞらえた。国も会社も神経で繋がった身体ではなく、失くすのが怖い“携帯”に近い存在であり、語り手は会議中ずっと懐中時計に触れて心を落ち着けていた。

御前会議の構図と、王がやることの少なさ
執務の間には家宰フロイスブル侯爵を筆頭に、財務監・外務卿・陸軍副卿・海軍卿・近衛軍監・内務卿らが勢揃いし、国の中枢が集結した。語り手は、かつてなら表情を読んで腹の探り合いをしていたはずだが、今は忠誠も信頼も求めず「国が回ればそれでいい」と割り切っていた。会議の三時間はほぼ儀式であり、王の役目は最後に「王の命令として裁可する」一言を言うことだけであった。

国是の転換の決定
裁可の結果、サンテネリ王国は長年の外交方針を転換し、帝国との和解と共闘、さらに王の結婚を決めた。仇敵である帝国は諸王国の連合体で、形式上は選出制だが実態はエストビルグ家の世襲であり、サンテネリは百年単位で帝国内の継承争いに口を出して揺さぶってきた。今回の転換は、帝国側の多数の王国の一つであるプロザン王国の動きが発端となった。

メアリとの茶会と、王の「無力の自覚」
会議後、語り手は近衛軍のバロワ伯爵令嬢メアリを招いて茶会を開き、決定の是非を問われる。メアリは「常道はエストビルグと結んでプロザンを囲むが課題が多い」と婉曲に疑義を示し、語り手は自分が押し切られたわけではなく納得していること、そして「無力の自覚を持てる者は少しだけましになる」と踏み込んで返した。背景には、王が豹変すれば立案者が近衛軍に処刑されかねないという恐怖があり、語り手は彼らがそれを抱えたまま案を進めたこと自体を凄いと評価した。

近衛軍縮小の痛みと、メアリの忠誠の噴出
和約は国軍縮小に繋がり、さらに近衛軍も十年単位で国軍へ統合して実質解体していく方針となった。メアリはバロワ家の誇りとして近衛を守ってきた歴史を語り、寂しさを滲ませたが、続けて王の決断を「民に身を委ねる勇敢さ」として称え、正教の守護者としての王に誇りを表明した。語り手はその賛辞を“褒め言葉の形をした責任の念押し”として受け取りつつ、王だけが無傷で妻まで得ることへの後ろめたさを冗談で紛らわせた。

話題転換と、メアリの意外な素顔
語り手は夜会で聞いた噂を切り出し、メアリの趣味が手芸で、黒い子犬のぬいぐるみを作っていると知る。バロワ家の紋章が黒犬であり、始祖マリー女公が黒犬を好んだ逸話にも触れ、歴史トリビアで距離を詰めた。語り手は本気で作品を見たがったが、踏み込み過ぎたと自制し、懐中時計で時間を確かめて茶会を締めた。

和約と婚約の確定、そして「出費が嫌」
サンテネリは帝国と中央大陸史上初の全面和約を結び、グロワス十三世は帝国エストビルグ家長女アナリースと婚約した。婚礼は彼女が十八歳になる二年後であり、その間にできることは少ないが、戦争回避こそが最大の価値であると語り手は結論づけた。サンテネリと帝国の同盟が周辺国プロザンや海の向こうのアングランを刺激しないことを願い、何より「もう出費は嫌だ」と現実的な本音で締めた。

【第七話】暗君とメアリ

近衛軍とバロワ家の起源
第九期半ば、女王マルグリテに仕えた平民出自とされる女マリーが戦功で頭角を現し、非公式親衛隊を率いる女官となった。彼女がバロワの地に封じられたことを起点に、バロワ家は八百年にわたり王家の剣として近衛軍を支え続けた。近衛軍は国軍と切り離された「王だけの軍」であり、王族警護、儀仗、貴族の捕縛や鎮圧、対外戦争での最前線投入まで担う精強の象徴であった。

バロワの女に課された実像
バロワ家では女も軍務に就くとされるが、実際に戦場へ赴くことはなく、幼少から武芸も仕込まれなかった。彼女たちの本質的役割は「王の最も近くにいる女性」として側妃となり、血縁で王家と近衛軍の忠誠を固定する点にあった。王家は近衛の背信を恐れず、近衛は王家を害しにくいという、相互利益の構造が形成されていた。

メアリの志と、叶わない戦場
メアリ・エン・バロワは始祖マリーの名を継ぐ者として戦場での軍功を望み、自主的に教練と軍学に励み優秀な成果を示した。しかし近衛軍が出る規模の戦争が六年間起きず、彼女は父の下で副官として奉職するに留まった。自分に求められているものが「側妃要員」であると理解しつつ、納得できず、将として戦えるはずだという自負を抱き続けた。

王太子の一言が残した呪い
メアリ二十歳、王太子十六歳で出会い、好戦的な王太子に彼女は好感を持ち、共に戦う未来を夢想した。だが王太子が酔って「戦は男の仕事、おまえは宮殿におれ、余が守ってやる」と言い放ったことで、彼女は自分が戦う主体として見られていない現実を突きつけられた。演習での転倒一つで中止と手当が優先される扱いも重なり、彼女は「兵は自分の指揮では本当に動かない」ことを薄々悟りながらも、受け入れまいともがいた。

王の暴走と、近衛の破綻寸前
王の崩御後、グロワス十三世は治世初年をエストビルグ攻略準備に費やし、予算据え置きで近衛を倍増せよと命じた。経理にも携わるメアリには無理筋が明白であり、父が各省と折衝して苦しむ姿を見て、組織の痛みに溜飲を下げる感情すら霧散した。王の無理が父の無理と同型であると悟ったためである。

病からの回復と、王の別人化
王が倒れて回復すると、言動は「余」から「私」へ変わり、好戦的野望も消えた。決定的だったのは、人を区別しない態度である。召使いから家宰まで同列に扱い、メアリも側妃候補ではなく一人の部下として接した。軍政の意見を求められることが「軍の高官として見做された証」となり、彼女は肩肘を張る必要を失い、女性的装いにも抵抗が薄れ、王への近侍が再び好きになった。

近衛軍縮小案への反発と、父の戦場の教え
近衛軍縮小と国軍統合の案を聞いたメアリは裏切りと感じ、父に詰め寄ったが、父は「近衛軍は誰のためにある」と問い返し、王が自分の剣と盾を手放す理由を考えさせた。父は戦場で兵を動かす唯一の方法は「戦列の頭に立って敵へ駆ける覚悟を見せること」だと語り、兵に死ねと命ずるなら自分も死ぬ自覚の上で行えと諭した。その教えからメアリは、王がサンテネリの窮状を自覚し、国軍だけでなく近衛にも手を付けることで「聖域を作らない」と示し、国軍を従わせる覚悟を見せたのだと理解へ傾いた。

再編後の行き先と、選択の先送り
近衛は即時解体ではなく数年かけて国軍に合同し、名は一部隊として残る見込みとなった。指揮系統上はデルロワズ公爵家の傘下に入る可能性が示され、父はメアリに「軍に残すか、嫁に行くか」を提示した。メアリは「近衛がすぐには変わらない」ことを確認したうえで選択を先送りし、嫁ぐなら“女としても有能さとしても自分を見てくれる相手”を望むようになった。

茶会で確かめた王の正体と、恋ではなく自覚
和約決定後、王から茶会に招かれたメアリは、王が自分の政策の意味、手放すものの重要性、手放される側の恐怖まで理解し、それを告げるに足る存在として自分を扱うことを実感した。二年前に受けた「宮殿におれ」という呪いが、同じ男の成長によって解かれていく感覚があった。趣味の手芸を興味深く聞かれ、ぬいぐるみを見せることを恥じたのは、王が「バロワの女」という記号ではなく現実の男になり、彼女もまた王を現実の男性として見始めたからである。メアリは、嫁に行くという選択肢が現実的に“悪くない”ものになったと自覚した。

【第八話】王のお買い物

「オフ」が消える構造
語り手は「オフ」を身体拘束ではなく、仕事の不安を頭から追い出せる時間だと定義し、立場が上がるほどそれが消えると述べた。社長が一日中「大丈夫かな」と不安に侵食されるのと同様、王もまた日常の些事にまで統治の責任が染み込み、精神の平衡を保つには没入できる趣味が必要だと結論づけた。

時計趣味の発火とブラーグ召喚
語り手は愛用の懐中時計が王家御用達の時計師アブラム・ブラーグの作だと知り、装飾のない金無垢ケースやギヨシェ彫りの文字盤を評価しつつも、ムーブメントが見えないことに耐えられなくなった。店へ行く希望は侍従長に握り潰され、深夜に職人を叩き起こす事態を避けるため「急ぎではない」と念押ししたうえで、宮殿へブラーグを呼ぶ段取りとなった。

貴婦人同伴という地獄の買い物
当日、語り手の趣味話を嗅ぎつけたゾフィ、ブラウネ、メアリが同席する流れとなった。ゾフィは同好の士として便乗し、ブラウネは家宰の娘として情報網で参加し、メアリは「軍に時計は必須」と言い立てて同行を取り付けた。語り手は本来一人で孤独に時計を選びたかったが、断れない政治事情により“王の買い物”が社交の場へ変質した。

王の場回しと職人の震え
語り手はブラーグを丁重に迎え、三人の身分を紹介して場を整えた。フロイスブル侯爵家、ガイユール公爵家、バロワ伯爵家の名に、ブラーグは露骨に動揺し、王の客層の重さを突きつけられた。語り手自身は「ここは金持ちマウントの場ではない」と割り切り、時計談義は自分の流儀で貫く姿勢を固めた。

マニア談義と帝国部品の地雷
語り手は針の青焼きの歩留まりや造形の重要性など、職人の核心を突く質問を投げ、ブラーグの表情を一気に明るくさせた。さらに文字盤素材の話から、部品が帝国由来だとブラーグが口を濁し始めるが、メアリが「陛下は政と技術を峻別する」と助け舟を出し、王も「良い物は良い」と明言して職人の恐怖を鎮めた。かつての王の対帝国感情が、市井にはまだ残っている現実も示された。

見本提示と、近衛の警戒
ブラーグは「陛下のため」として見本の懐中時計五つを提示した。メアリは職人の手元を凝視し、万一の武器取り出しに備えるように警戒を続けた。語り手はブラウネへ見どころを解説しようとするが、ゾフィが王の腕を掴んで月齢表示の“顔つき月”に歓声を上げ、場は一気に騒がしくなった。語り手は全員を巻き込んで体験を共有することで沈静化を図り、次回は必ず一人で買うと心に誓った。

側妃制度の圧と、買い物が政治になる理屈
語り手は貴婦人たちのふとした能面のような表情に精神を削られ、王の買い物が常に政治になる現実を痛感した。一夫一婦制の偉大さを噛みしめつつ、この世界の側妃制度が王朝の安定に寄与してきた事実も理解していたため、安易に否定すれば和約体制そのものが揺らぐ危険を自覚した。

二つの注文と、ペアルックの成立
最終的に語り手は懐中時計を二つ注文し、一つは裏蓋をガラス張りにしてムーブメント鑑賞を可能にした。もう一つは現代知識を使う“自分のための仕掛け”として選び、国家には何ら貢献しないと割り切った。さらにゾフィ、ブラウネ、メアリも同じ懐中時計を注文し、語り手は内心「ペアルック扱いするな」と叫びつつ、表向きは「絆ができた」と微笑んで受け入れ、納品を楽しみにする結末となった。

【第九話】王の儚い夢

「うさんくささ」の正体
語り手は、若手経営者の会で見た「欲望むき出しの自慢」と「耳当たりのいい道徳」が同居する空気を思い出し、その嘘くささの源泉を考えた。王として「民を慈しむ」理念は共有しているが、支配層が把握できる“民”はせいぜい平民の富裕層までであり、路地裏で死にかける貧民は「観念」としてしか捉えられないと断じた。善意そのものより、現実を理解できないのに理解した顔で語る構図が、胡散臭さを生むと整理した。

アキアヌ大公ピエルの熱弁
語り手の前で、王族の親戚にあたるピエル・エネ・エン・アキアヌが、貧民救済と貴族の使命を熱弁した。彼は「民無くして王無し」「貴族は民の護り手」と道徳を掲げ、王に旧市街を見よと迫った。語り手は理屈としては肯定しつつ、葡萄酒を飲みながら毒にも薬にもならない返答で受け流し、演説に酔う人間の厄介さを観察した。

道徳から金儲けへ、矛盾のない切替
語り手が旧市街の土地取得の意図を問うと、ピエルは屋敷群をまとめて再開発し、富裕平民が金を落とす場を作ると語った。立ち退きは私兵で行い、不法占拠者は追い出したと平然と言い切った。語り手は、農業の大規模化が穀物供給を改善する一方で、零細農が潰れて元農民が軍と都市へ流入し、戦場で消耗するか無産市民として滞留する構造を連想した。

「誰が恨まれるか」という残酷な答え
追い出された貧民が恨む相手はピエルではなく王になる、と語り手は結論づけた。貧民も王も互いを「観念」としてしか捉えられず、国が治まらない責任は王へ集約される。ゆえに有能な統治者は怒りのはけ口として貴族を生贄にし、さらに富裕市民と無産市民の対立軸を作って分割統治するが、その実行には繊細さと暴力装置が要ると理解した。近衛軍を手放す決断は、そうした力技を自分は選べないという自己認識と結びついた。

改革案の行き先が「議会」である恐怖
行き詰まり打開として、富裕平民に国政参加の道を開き資金も引き出す案が流行していると語り手は述べた。しかしそれは、商業活動の保証のために法を整備し、立法機関としての議会を作ることに直結し、王権と貴族権力を定義して制限する流れを不可避にする。さらに正教由来の身分制の根拠が「魔力」にあるのに、その前提が崩れつつあるため、「王は神聖不可侵」の根拠が問われ始めれば、気づきが連鎖して止まらなくなる危険を予感した。

学びの無力感と、現実逃避の衝動
語り手は、歴史教育が視点を遠景化していく感覚を思い出しつつ、自分はこの世界で制度設計を担う才も教育も足りず、思いつきは明後日の方向へ飛ぶだろうという徒労感に沈んだ。その結果、現実の問題を剣と魔法で倒せる“魔王”のような単純な敵を欲しがり、王位を譲って冒険へ逃げる妄想を膨らませた。だが妄想内の「姫」「男装の騎士令嬢」「宰相の娘」「妹感ある大貴族の娘」といった要素は現実にも揃い始めているのに、倒せる相手としての魔王だけが欠けていると自嘲して終えた。

【第十話】王の美術鑑賞

「展覧会」という名の国家行事
語り手は光の宮殿で絵画展を開いた。タイトルは『ルロワ王宮の光と闇』で、帝国協賛と「皇帝の娘」初公開を大々的に掲げたが、会場は要するに自宅であった。五つの大広間が巨大絵画で埋まり、家族連れも混ざる中、語り手は接待用広間の大椅子に座り、いつもの宮廷メンバーに囲まれて儀式の開始を待った。

婚約の象徴としての肖像画
帝国大使が恭しく進み出て、エストビルグ国王ゲルギュ五世からの贈り物として、皇女アナリースの肖像画が披露された。会場は歓声に包まれたが、それは絵の出来より「サンテネリとエストビルグの和解」という政治的意味への反応であった。語り手は至近で肖像を見て、アッシュブラウンの髪と鳶色の瞳、意志の強そうな微笑みから、真面目な委員長タイプだと評しつつ、正妃として迎える現実を受け止めた。

「王族は美形が多い」理屈の解説
語り手は側妃制度の仕組みを引き合いに、嫡流に多様な血が入りやすく、身分要件が緩い側妃には美貌が強く求められるため、結果的に王族の容姿が整う傾向があると説明した。加えて栄養と清潔が確保され発育が良い点も理由に挙げ、中央大陸には入浴習慣が根付いていると補足した。

大使との外交トークと“本番”の予告
語り手は大使に対し、婚姻の喜びと両国の親密化を言葉にして儀礼を締め、大使は退場した。ここからが本番として、婚約ニュースが一か月ほどかけて全国へ浸透し、国民反発が起こり得ることを想定した。帝国への敵視感情や戦争体験、排他的な国民性を踏まえ、支持率調査があれば政権が落ち込むだろうと自嘲しつつ、それでも和約を進めた覚悟を再確認した。さらに、アングランが必ず大陸を攪乱しプロザンを焚きつけると見立て、敵が敵であり続ける地政学を苦々しく語った。

内務卿との庭園散策と治安の現実
午後、語り手は光の宮殿の庭園を内務卿クレメンス・エネ・エン・プルヴィユと歩いた。内務卿は反発は避けられず摘発は日々あるが、まだ酒場の愚痴程度で組織的動きはないと断言し、思想の“芯”が生まれて組織化する事態を最も警戒していると示した。内務卿は地方行政やインフラ、文教に加え、秘密警察まで所管し、主だった人物の所在と行動を把握していると語り、アングランの介入可能性も含めて数日内に状況を整理して説明すると申し出た。

「開放的な王」と服装フィルター
庭園は国立公園のように比較的自由に出入りでき、貴族だけでなく平民の富裕層も憩っていた。ただし入場の実態は服装が身分証として機能し、上質な仕立ての服を着られる者だけが自然に選別される仕組みであった。語り手は、遠くから挨拶されれば大声で返すだけで済む距離感を心地よく感じつつ、この庭園開放が「王は国民の父」というイデオロギーの産物であり、危険が少ないのは来園者が上澄みだからだと理解した。

世論調査ごっこと自虐
語り手は、いずれ日陰でくつろぐ来園者に“政策転換への不安”を尋ねる世論調査ごっこをしてみたいと想像し、翌日の新聞が「市民の七割が不安」などと煽る未来を思い描いた。最後に、そんな見出しが出たら総辞職だろうかと皮肉を添え、王の仕事が美術鑑賞にすら政治を連れてくる現実を滲ませた。

【第十一話】王の身体

魔力という“説明装置”
正教は魔力を「人を従える力」と定義し、身分秩序を支える根拠にしてきた。魔力は獣欲を抑える力でもあり、他者を働かせる力であり、自分を律する自制心でもあると整理される。戦争の場面では「逃げたい獣欲」を抑え、上官が下官を死地へ向かわせることまで魔力の体系に組み込まれていた。だが魔力は証明できず、建前として薄れつつも、千年単位で刷り込まれた感覚だけが残り続けている。

「王の身体は神聖不可侵」という爆弾
王の魔力は身体に蓄えられ、傷を負えば“漏れる”というイメージが根強く、王への加害は国家への加害と直結する。語り手自身もそれを理屈では方便と理解していたが、社会心理としては今も生きていると示される。

庭園での襲撃と“不可侵”の破綻
秋の庭園散歩中、上質な服装の小柄な女性が「陛下」と叫びながら接近し、短剣で刺そうとした。語り手は反射で刃を素手で握りしめ、両手を深く切る。激痛の中でも妙に冷静で、騒ぎを最小化し執務室へ戻る指示を出した。メアリは震えながら大判布で止血し、語り手は「ただの切り傷だ」と落ち着かせようとした。

“事故”として処理したい政治的理由
執務室には家宰マルセル、内務卿、近衛軍監が集まる。語り手は公的対応を最小にし「事故」として収めたいと述べる。大逆未遂にすると、警察と近衛の失態、ひいては家宰の責任となり解任や更迭が連鎖する。さらに民衆側では「王の身体が害された=国家が害された」と感情が暴走し、外交転換で不安定な空気に血なまぐさい公開処罰が混ざれば、都市全体が制御不能になり得るからであった。

忠誠の儀式が引き起こした王の爆発
家宰は「責任を取って解任されたい、引退したい」と言い出し、ついには「公的な死を」とまで願い出る。語り手はそれを責任放棄と受け取り、怒りが噴出した。王としての節度を投げ捨て、叫び、脅し、感情のままに命令を重ねる。
最終的に語り手は「事故として処理」「内務卿は背後を洗え」「辞任も自害も認めない」と命じ、さらに家宰と近衛軍監に対し、娘であるブラウネとメアリを光の宮殿へ出仕させろと要求する。実務上は自分の手が不自由で世話が必要という名目だが、実態は彼らを踏みとどまらせるための人質に近い衝動であった。

冷めた後の痛みと後悔
会議が終わると手の痛みがぶり返し、語り手は蒸留酒で酔い潰れようとする。だが酔えない。今回の件で「王の身体は神聖不可侵」が宮廷人にも民衆にも建前ではないと理解し、メアリが危険な立場に置かれることにも遅れて気づいた。さらに、三人が事前に“死を口にする筋書き”を共有していた可能性まで感じ取り、政治家の怖さに胃が痛む。

二人の令嬢への罪悪感と自己矛盾の自覚
メアリは当事者として自責を抱え、ブラウネも父の事件として負い目を背負い、光の宮殿で暮らすことになる。語り手は「世話をさせろ」と言い放った自分の浅はかさを恐れ、巨大な負い目を抱えた二人と同居して平静でいられる自信がないと認める。
そして決定的に、語り手は自分の怒りが不当だと断じる。かつて自分も責任から逃げるように死を選ぼうとした過去があり、似た行為を口にする者を責める資格はないと理解してしまった。酔って意識を消したいのに酒が回らず、ただ自己嫌悪だけが残った。

【第十二話】暗君とフロイスブル家

家宰マルセルの来歴と“運命”の受け止め方
家宰マルセル・エネ・エン・フロイスブル侯爵は、譜代の名門フロイスブル家の次男として生まれ、兄の早世で家督を継いだ。先代王が晩年に政務不能となり、王太子も未成年だった時期には、実質的に国政を回した中心人物でもあった。新王グロワス十三世の即位後は、王の過剰な親政と理想先行に諫言で対抗したが容れられず、冷遇と更迭を「そういう運命」として淡々と受け入れていた。

王の“変化”と、臣下が感じた別種の恐怖
王が不予から回復して呼び戻されると、グロワスは謝罪し「助けてほしい」とまで言ってマルセルを復帰させた。以後、和約や軍改革など大方針が討議ベースで進み、王も「理解した上で命じる」と言うようになる。だが会議中は置物のように黙し、個別の場では鋭い質問で理解力を露呈させるため、臣下たちは「全て理解した上で黙って観察する絶対権力者」という疑心暗鬼に取り憑かれていく。

襲撃事件の報告と、家族が凍りつく理由
襲撃と“事故処理”の方針を屋敷で語り終えると、家族は血の気を失う。「王の身体は神聖不可侵」という感情が彼らにも生きており、本来なら大逆として極刑が当然だという感覚があるからだ。マルセル自身は、最悪でも自分が毒杯で片付く程度と読んでいたが、昨日の場では「王の御心が知りたい」という衝動が勝ち、あえて挑発し、王の感情を引き出そうとしたと告白する。

“世話”の多義性が生む暗澹
しかし王が口走った「ブラウネを出仕させよ」「世話をさせよ」が、父にとって最悪の方向へ転がる。侍女と下女は似て非なる地位であり、とりわけ「世話」には隠語として性行為を含み得る。王が娘を辱める意図を持つのではないかという恐怖が、マルセルの胸を真っ黒にした。

フェリシアの逆転の発想
側妻フェリシアは、王の言葉が直截な“遊び女にせよ”ではない点を突き、むしろ「侍女として王の傍に上げよ」と解釈し直す。自身が侍女から側妻になった来歴を物語として語り、ブラウネに「姫であると同時に王の侍女になれ」と命じる。さらに、侍女姿を嗤う者がいれば家宰として潰すと宣言し、夫に娘を守れと釘を刺した。

光の宮殿での“責任の取り方”
翌朝、マルセルは光の宮殿へ赴き、王は昨夜の無礼を詫びる。だがマルセルはあえて「昨日の下命を果たすため」と押し切り、控え室に待たせたブラウネを呼び入れる。王は焦り、言い訳を重ね、傷は小刀の不注意だと虚偽まで口にするが、マルセルは丁寧に遮って既成事実化を進めた。

黒衣のブラウネと、王への無言の拘束
ブラウネは装飾を捨てた上質な黒衣で現れ、膝をつき「全身全霊で侍る」と宣言する。王が弁明しようとしても、彼女は「不便でしょう。今後は私がお世話する」と断固として繰り返す。青い瞳は言外に告げていた。王を逃がさない、と。

【第十三話】王と王様係

起床前から始まる“監視”と、王の居心地の悪さ
グロワス十三世は毎朝、目覚ましが鳴る直前に目が覚め、寝室のどこかに佇むブラウネとメアリの気配を感じ続けていた。旧来の世話係だった侍従たちは姿を消し、代わりに身分の高い二人の令嬢が「最も無防備な寝起き」を見守る形となり、王は羨望どころか強烈な心理的圧迫を覚えていた。侍従長に担当変更を申し出ても「規則」で退けられ、階層を飛ばした命令が通らない現場の硬直も王を苛立たせた。

メアリの自罰願望と、王の限界反応
王は本人たちに直接負担を伝える決意を固められないまま一週間が過ぎ、特にメアリは言葉を誤れば自死に直結しかねない危うさを抱えていた。実際、襲撃事件後にメアリは拘束され、短銃で自殺を図ったとされ、周囲は寝ずの番で再発防止に追われた。翌日の面会でメアリは「罪人に厳罰」「死を賜りたい」と繰り返し、さらに「背後関係はない。自分のことだ」と言い切って、警護失敗の責任として自らの死を求めた。王は言葉を探しきれず、衝動的に「ならば私も死ぬ。共に死ぬか」と投げ、心が折れる感覚に沈んだ。

窒息発作と、“二度救われた”実感
王は大判布を外せないまま息苦しさに襲われ、過呼吸に似た発作を起こした。メアリは刹那に飛びかかり、覆い被さるように大判布をほどいて王の呼吸を取り戻させた。涙も鼻水も抑えられない彼女は理性の体裁すら手放し、王の胸に顔を押し当てて震え続けた。王は彼女が眠り落ちた頃合いに、止血と呼吸の二度、自分を救ったのだと小声で告げ、軽率な接触がさらなる問題を呼ぶと自制した。

“仕事を作る”という現代的な解決策
王は家宰に相談し、ブラウネとメアリのために新部署を新設した。名目上は秘書的役割だが、実務の中核であるアポイントや書類は従来どおりベテラン侍従侍女が担い、「ベテラン→王様係→王」という伝言の層を一枚増やす形で、二人を“仕事がある状態”に置いた。身の回りの介助は熟練の侍従が行い、王は入浴は自力で済ませるなど線引きを明確にした。

休憩時間のはずが“職場居座り”になる矛盾
王は二人が休みなく働く状態を避けるため、昼から午後を休憩時間とし趣味に充てるよう配慮した。だが結果として、二人は王の茶の間で編み物や手芸、おしゃべりに時間を使い、執務室の隣から「陛下が……」「まぁ!」と噂話めいた声が漏れて、王の動悸を煽った。居室に戻るよう促したくても、侍女部屋に入れれば周囲の気苦労が激増し、結局は貴賓室を二つ用意して侍女や従者ごと住まわせることになった。

“怪獣頂上決戦”としてのお茶会と、王の自覚
王の茶会では、招かれる相手も大貴族の令嬢であり、給仕に入るブラウネとメアリもまた同格の大貴族の娘であるため、表面上は上品な友好の挨拶が交わされつつ、空気は緊張を孕んだ。王はこの状況が「実質勤務」になり得ることを理解し、彼女たちを傍に置くこと自体が労務上も心理上も危ういと自覚しながら、それでも安全と体面と政治的地雷の回避のために、不得手な“仕事を作る”処理を選び取った。

【第十四話】王と国家

“新書”で国家を回す恐怖
グロワス十三世は、御前会議や高官の説明を「新書を読む」感覚で受け止め、政治・軍事・経済・文化まで概要だけは掴めるようになっていた。しかし理解は輪郭に留まり、設計図を引けるほどの実務感覚も、方向性を決め切る信念も足りないと痛感していた。にもかかわらず家臣は王に「ビジョン」を求め、王はその要求が最も危険な期待だと感じた。

“国体維持政策”としての婚姻と、愛妾に見える現実
王の結婚は私情ではなく国体維持そのものであり、相手が帝国エストビルグ家の姫である以上、当事者の感情を無視して遂行される政治行為になった。同時に、ブラウネとメアリを光の宮殿に住まわせ、侍女給与以上の費用を宮廷費で賄う形は、貴族社会から「そういう関係」と解釈されやすい。王はそれを否定できず、自分の行為が国内外に向けた政治メッセージとして消費される現実を受け入れた。

ゾフィの“後見”が意味するもの
ガイユール大公ザヴィエは、十五歳の娘ゾフィをシュトロワに残す不安を理由に、王の庇護下にあることを周知したいと迫った。ゾフィ本人は窮屈さを否定し、シュトロワで見聞を広めて王に報告する意欲を示したが、その明るさは政治の枠組みによって形作られている面もあった。王は大仰な言葉で後見を引き受け、これは内定として即座に広め、対価を得る段取りへ移った。

税が“もう一つの巨大問題”として立ちはだかる
王が次に直面した本丸は税制改革であった。軍縮が支出削減なら、税は収入増の手段であり、避ければ維持はできても発展はない。サンテネリでは直接税(収穫税・財産税)と、多種の間接税が並立し、さらに直轄行政区と「国の中の国」である地方行政区が混在して税制が割れ、国内関税まで発生して流通を阻害していた。間接税は徴税請負人が国に一括納付し、代わりに徴収権と免税特権を得る仕組みで、請負権を担保に債券を発行し、集めた資金で国家に貸し付ける構造まで形成されていた。改革は他者の懐に手を突っ込む行為で、やり方を誤れば殺し合いになると王は理解した。

“国内関税撤廃”という第一歩と、国家への再編
王は統一税制の確立と徴税請負制の改正を目標に置きつつ、軍事で地方を潰す案は内乱と列強介入を招くため不可能だと判断した。そこで「気づいたら変わっていた」に持ち込む漸進策として、ガイユール公領との国内関税撤廃を最初の一歩に据え、ゾフィ後見の政治取引と結びつけて合意を得た。目的はサンテネリを「ルロワ家の拡大体」から、諸侯が心から「我が国」と思える国家へ作り替えることであり、その過程では家宰職を含む既得権の配分変更が避けられないと王は理解した。

象徴になりたい王と、言えない線引き
王は最終的に自分が“国民統合の象徴”へと退く未来を望みつつ、現状では皆の背中を押すしかできない立場にいた。ゾフィについては光の宮殿への同居を拒み、無役で放置する非現実、宮廷費の体面、そして十五歳という年齢が孕む決定的な問題を理由に、当面は実家に住まわせる妥協を選んだ。政治が全てを規定する世界で、王は「理想のご婦人」がいても自由に動けない現実を、苦い自嘲と共に抱え続けた。

【第十五話】王の重荷

暗殺未遂の結末と、消えない罪悪感
暗殺未遂から一月が経ち、グロワス十三世の手はほぼ完治した。犯人は単独犯とされ、戦争で息子を失い、軍への納入代金の未払いで家業も破産した末、全てを失った女性であった。彼女は王を刺して自ら死ぬために宮殿へ来たと結論づけられ、取調中の「事故」で既に亡くなったという報告がなされた。王は彼女の人生を何一つ覚えていない自分を責め、これは政治ではなく、救われなかった一個人の絶望であると痛感した。

重荷を抱えたままの日常と、崩れる平静
王は内務卿を下がらせ、夕刻のアキアヌ大公との会食を前に葡萄酒を求めた。給仕に現れたのはブラウネであり、王は独りになろうとしたが、彼女はその場を離れなかった。震える手から葡萄酒を零し、取り繕う王の姿を前に、ブラウネは「あなた」と呼びかけ、王を国王ではなく一人の人間として扱う覚悟を示した。

責任から逃れられない者同士の対話
王は自らが王であるがゆえに、誰かを恨むことも、責任を転嫁することもできない存在だと吐露した。ブラウネは、全てを決められる王と、何一つ決められない自分との差を語り、王がその重荷を自覚し引き受けていることこそが勇気であり、真に勇敢な者だけが背負えるものだと断じた。彼女は、かつて王の不用意な言葉によって自分も死の淵に追い込まれていた事実を明かし、それでもなお王を恨まず、付き従う意志を示した。

フロイスブル家の由来と“勇者”の系譜
ブラウネは自家の秘史として、フロイスブル家初代ブラウネが、反逆者として処刑された軍人ユニウス・エン・デルロワズに仕え、その家訓が「勇者の下で槍を振るえ」であったことを語った。思想家として名高いユニウスと、彼を忘れなかったマルグリテ女王の逸話は、勇気と責任を引き受ける者の系譜として王の胸に重く響いた。

理解されることの救いと、新たな重み
ブラウネは、威勢の良い言葉だけを吐く過去の王ではなく、責任を背負う現在の王にこそ侍りたいと告げ、自らも背負ってほしいと願った。王は初めて深く理解される感覚を知り、それが何も解決しないと分かりながらも、大きな救いであると感じた。夜、会食の記憶も曖昧なまま、身体に残る熱と鼓動の高鳴りを自覚し、王は自分が生身の感情を取り戻しつつあること、そしてその感情すらまた新たな重荷になることを理解していた。

【第十六話】王と軍

一年の観察と、見えない亀裂への恐怖
グロワス十三世はサンテネリに現れてから一年近く、能動的に動けないまま周囲の説明を“新書”のように受け取り続けたに過ぎないと自嘲した。表面上は閣僚も諸侯も協調しているが、それは拡大すれば山と谷だらけの世界が潜むはずであり、王はその深部を体験できていない不安を抱えていた。

三つ巴の政治地形と、軍縮が生む緊張
サンテネリの勢力は、王家中枢の与党、王権と敵対し得るアキアヌ大公中心の反王家勢力、そして外様諸侯の核であるガイユール大公勢力に大別された。血縁では王家とアキアヌが近いが政治的には対立し、ガイユールは王権奪取の野心が薄いのに歴史的因縁で与党に取り込めないという、危うい均衡が成立していた。王は外征を捨て軍縮を進めることで、アキアヌの倒閣シナリオを肩透かしにしつつ、近衛解体という常識外れの選択で、かろうじて破局を遅らせていた。

“正しい改革”が即死につながる現実
王は本来なら国軍を王権に直結させ、近衛を核に国軍を吸収し、反抗貴族を削いで上から近代化するのが定石だと理解していた。しかし貴族たちは有能で、拙い強行は貴族会の拒否や「重病死」につながると見抜いていた。さらにアキアヌを冤罪で排除すれば独立の連鎖が起き、国が分裂する未来が容易に想像できた。王は、暗君として生き残ることすら難しいと悟り、家宰が過去の自分を必死に止めていた意味を思い知った。

デルロワズ公との会食と、見せつける“政権の相似形”
夕食会には国軍の実権を握るデルロワズ公ジャンが招かれ、王はメアリとブラウネを左右に据えた。二人の貴婦人は互いに火花を散らし、ジャンはそれを観察した。王はこの配置そのものが政権構造の縮図であり、ジャンに“王の周囲の力学”を理解させる意図があった。

近衛統合の条件と、メアリを手放さない宣言
夜更け、王はジャンと軍の話に入り、近衛軍は予定通り王国軍と統合すると断言した。ただしメアリは手放さず、バロワ家との結びつきを軸に近衛の一体性を残したまま、王国軍の指揮下に置く構想を示した。ジャンはその意図を即座に読み取り、統合軍の中核に黒針鼠と近衛の二枚看板が立つ未来を受け止めつつ、陸軍卿就任を先延ばしされる苛立ちを抑えて応じた。

陸海統合という長期設計と、反逆への備え
王はさらに、海軍卿の職位を保ったまま陸軍を見させる恒久的な“国軍一元化”を語り、将来的にジャンへ統合軍全体を託す青写真を示した。ジャンは「任せすぎではないか」「自分が背けば危険だ」と問い、王は「私に背くのは構わないが、サンテネリに背くか」と返したうえで、王を国家そのものとみなす発想を捨て、王は冠に過ぎず“身体”は国家だと再定義した。

王が求めた剣の持ち主
王は、ジャンにデルロワズ公領の主ではなく、サンテネリ王国という“身体”が握る剣になってほしいと願った。自分は暗君であり、考えるのは有能な者たちの仕事だと繰り返し、王権を守るためではなく国家を生かすために軍を組み替えるという、危うくも現実的な方向性だけを示して会談を締めた。

【第十七話】王と家族

結婚という政治イベントと、先に死にそうな疲労感
グロワス十三世は日本で結婚を経験しないまま死んだが、サンテネリでは王として結婚を避けられないと理解していた。結婚そのものより、周辺に付随する面倒、とりわけ「嫁姑」じみた政治摩擦を想像して早くも消耗していた。日本で見た祖母と母の不仲の記憶も、その予感を補強していた。

母后マリエンヌの“個人としての優しさ”
母后マリエンヌは、王の健康を国事として監視するのではなく、息子の身体を案じる母として接した。怪我の回復を喜び、祈りを捧げ、王はその無垢な心配に救われる一方で、優しさを向けられるほど罪悪感と責任感が増していく感覚を抱えた。

オルリオ家の正妃適性と、宗教権力の現実
マリエンヌの実家オルリオ家は「王家のスペア」として家格は高いが実力は小さく、王権に過度な外圧を与えない“理想の正妃実家”であった。サンテネリが国内婚を好む背景には、強大な外戚が政治に影を落とす危険がある。さらにサンテネリは正教の守護国家であり、イレン教区と大僧卿は信仰者であると同時に老練な政治主体でもあった。王はその構造を冷静に見つつ、宗教的な空気に完全には馴染めない自分を意識していた。

喜捨と傷病兵が突きつける“戦争の請求書”
大僧卿から喜捨の要望が出た背景には、戦争で溢れ返る傷病兵の収容負担があった。マリエンヌは財政難を理解して無理強いせず、それでも信徒として胸を痛める姿勢を崩さなかった。王は、父グロワス十二世が人を数字へ抽象化して戦争を遂行したのに対し、母は人を人として見てしまう善性を持つと整理し、自身がその両極を継いだがゆえに精神が煮詰まりやすいと自覚した。

一年後の結婚と、“火種”の投下
王は「大きな行事」として一年後に控える結婚を意識しつつ、母后の無聊を慰める名目で、ブラウネとメアリに母后訪問を提案した。ここには王妃がエストビルグ家から来る予定であること、そして母后が側妃文化を理解しながらも正教的価値観から積極的には好まないことが影を落としていた。過去の自分が側妃たちを嫌悪し、空気を読んだ彼女たちが宮殿を退去した経緯も、宮中の温度を冷やしていた。

メアリの辞退と、ブラウネの“侍女”という救済策
メアリは母后に会うことを辞退しようとした。暗殺未遂で王が負傷した件への自責、そして息子を傷つけた近衛として母后にどう見られるかの恐怖が理由であった。王は「女だから戦の責任外」という価値観で諭すことができず、近衛の矜持を傷つけかねないと分かっていた。そこでブラウネが「侍女として二人で参る」と立場を整え、王もその言葉に乗ることで、メアリの逃げ場と尊厳を同時に守った。

女たちの結束が示す未来の構図
ブラウネとメアリは対立関係を孕みつつも、この場面では密やかに団結し、母后から“心の守り方”まで学ぶと宣言した。王はその結束の意味を考え、母后の言葉「山に登るものは山に、海に潜るものは海に生きよ」を思い出す。それは“地元が一番”という教えであり、他国から来る王妃に対してサンテネリの女たちが結束する前触れにも見えた。王は、来年確実に揉めそうな火種を、すでに手の中に抱えていると悟った。

【第十八話】王の選択

婚姻費用ゼロという地獄の報告
御前会議で財務監モンブリエが「婚姻の費用がない」と告げ、閣僚一同が葬式ムードになった。王は怒りはせず、むしろ式典縮小自体は個人的に歓迎できるが、宴会・祝賀金・国威の体裁が絡むため政治的爆発物だと理解した。家宰マルセルは臨時課税や徴税請負人組合による資金調達を示唆するが、時期的に民心を燃やす最悪手になり得ると王は危惧した。

世論時代の到来と、官製メディアの必要性
王は内務卿に「有望な書き手」の探索を確認し、政府が自前メディアを持たない欠陥を問題視した。識字率上昇と新聞の普及により、商家・官僚・学生などが“世論”を形成し始めている。アキアヌ大公は既に自前の新聞を持つ。王は官報だけでは読まれないと理解しつつ、最も知られた名である自分が“実際に書く”ことで、読み物としての吸引力を作ろうと決めた。

「吝嗇」を「慈愛」に変換する政治設計
王は婚姻を質素化し、宴会を削る一方で祝賀金は必ず出す方針を示した。ただのケチに見せないため、これを「民への慈愛」として意味づけし、アキアヌ型の“体感できる善政”を模倣する必要を感じた。家宰は「言葉ではなく実感」が要ると指摘し、王はより派手で分かりやすい“身を切る”演出を探る。

旧城シュトゥール・エン・ルロワを差し出す決断
王はルロワ家興りの地である旧城を手放し、王家の宝物も売却し、負傷兵の療養・生活施設へ転用する構想を打ち出した。兵は祖国の剣であり、剣はふさわしい鞘に収めるべきだとして、教会の施しに依存してきた傷病兵支援を国家業務へ移管し、財源は国庫とする方針を描いた。さらに貴族には課税ではなく「寄付」という名目で負担を求め、将来的には正規徴兵も導入していく青写真を示した。

家宰の反発と、改革の危険性の自覚
家宰は王の案を理想論として「その道をゆけば国が破綻する」と強く反発した。王は治安維持費や傭兵費用、野盗討伐など既存コストとの比較計算を求め、教会への支出減も含めて再試算させる。王は“何もしないために何かをする”覚悟を固め、アキアヌ大公への根回しも必要だと見据えた。

メアリへの失言と、涙で露呈した誤解
午後の根回しとして王はメアリと二人で茶をし、デルロワズ公との関係強化を狙う。軽い雑談で「メアリも先方を気に入ったようだ」と伝えると、メアリは涙を流し「それが陛下の思し召しなら従う」と受け取り、王が自分を政略結婚の駒として差し出すのだと誤解した。王の意図は妹の縁談の仲介だったが、言葉不足が致命傷になった。

「手放さない」という王の宣言
王は隣に座り、手を取り、デルロワズ側に縁組打診があった事情を説明した上で、メアリを手放さないと告げた。選択できない立場の者に意思確認を迫るのは卑怯だとして、責任は王が負うと決め、「王はあなたを手放さない」と繰り返した。メアリは「言葉が不足し、短慮で傲慢だ」と叱責しつつも、王に自分の価値を言語化するよう求めた。

価値の提示と、最後の一言
王はまず政治的価値として、メアリに兵士であることを望まないが、培った経験を借りてより良い国家選択を重ねたいと述べ、軍に関わる助力を求めた。メアリはなお「他には」と問う。王は濁さず、個人としての欲望を認め、「女として、欲しい」と告げた。

【第十九話】王の決意

負債の現実と「国は潰れない」の含意
サンテネリ王国の負債は「年間収入の十年分」に達し、しかも海外の金融資本家への債務比率が高い上に、資産が乏しいという危険な構造であった。国家は企業のように簡単に倒産しないが、債権者救済を名目に戦争を招く可能性はあり得ると王は理解した。サンテネリ自体は人口と排外性により粘り強く戦えるが、破綻と戦争が進めば滅びるのは国ではなく王自身だと結論づけた。

最悪ルートの整理と外部脅威の見立て
王は「財政破綻→戦争→敗戦→退位→暗殺」を最悪ルートとして想定し、回避策を三つに整理した。財政破綻を避けて自転車操業を続ける、破綻しても戦争に勝つ、または暗殺する価値もない存在になる道である。大規模戦争の相手はアングラン・プロザン・エストビルグに限られるが、アングランは陸軍力が弱く直接侵攻しづらい。プロザンは大義名分が薄く、むしろサンテネリはエストビルグに引っ張り出される形で戦争に巻き込まれる可能性を警戒すべきだと見定めた。結果として当面は「すぐ滅びない」からこそ借金が回るという皮肉を噛みしめた。

革命の兆候と、時代の鋳型からの逃げられなさ
中央大陸に市民革命の前例はないが、富裕平民と中間層の増加、都市下層の膨張、宗教的身分秩序の正統性低下、貴族の弱体化など、兆候は積み上がっていると王は捉えた。王自身は人の本質的平等という感覚を捨て切れず、旧来の世界観に強い違和感を抱く一方で、自分もまた時代の枠にはめられた普通の人間であり、完全には時代を超えられないと自覚した。その齟齬はいずれ表面化し、溺れずに流される技術が必要だと腹を括った。

権力と不正への嫌悪、そして「保険」
王はブラウネとメアリへの執着を「常識を言い訳にして拘束している」として内心嫌悪し、さらに今後も政略のために他国の姫君と関係を持たされる未来を見据えた。相手もまた別の枠組みで育ち、出産装置としての役割を当然視しているという相互の“鋳型”を理解しつつ、衝突が避けられないことを認める。失敗時の保険として、王は内務卿に「人道的な処刑装置」の開発を命じ、自分の最期すら合理化しようとした。

自死の衝動と、選ばないことの意味
光の宮殿の二階から外を眺め、葡萄酒に酔った王は一瞬「飛び降りたらどうなるか」と確かめたくなる衝動に襲われる。しかし高さが足りず即死できない現実と、背負った責任がそれを止めた。大学時代に読んだ思想から「世界から去らない選択をした者は世界を引き受けた」という考えを想起し、死を選ばない以上、自分はこの世界とサンテネリを認めたのだと結論する。ゆえに王は、生きること自体によって国家を背負う義務を負ったのだと自らに言い聞かせた。

【第二十話】王と正妃

異世界の結婚式と「意思」の感覚
イレンは現世で結婚式に数多く出席し、スピーチも得意だった記憶を辿りつつ、異世界で自分の婚礼に立っている現実を噛みしめた。正教が結婚を「天地開闢から定まった運命」と宣言する甘美さに一瞬救われかけるが、それは当人たちの意思を無価値化する思想でもあると感じ、彼は「両性の合意」を建前だけでも守りたいと考えた。

正妃アナリゼの硬直と文化のズレ
エストビルグ第一王女アナリースは改名して正妃アナリゼ・エン・ルロワとなったが、儀礼で手を握られただけで鳥肌が立つほど硬直していた。イレンは敵意と早合点しかけたが、彼女は単に接触文化の乏しい環境で育ち、サンテネリの距離感に驚いただけだと判明する。素直すぎる受け答えは、裏を読むのが常態の宮廷では危険であり、彼は「翻訳役」が必要だと悟った。

フェリシア招致と後宮の火種消し
イレンは家宰の妻フェリシアを正妃付き女官長に据えることを即断し、翌日に呼び寄せた。目的は作法の完璧さではなく、アナリゼの意図を周囲に翻訳し、サンテネリ流の振る舞いを命令ではなく助言で教えられる存在の確保であった。ブラウネやメアリが若く、初対面の齟齬から冷戦に発展する危険をイレンは強く警戒し、場当たりではなく火種を先に踏み消す方針を固めた。

宴席の一撃と、女官長の危機管理
歓迎の小宴で、アナリゼが「令嬢たち」を帝国作法の感覚で呼びつける形になり、会場が凍りついた。イレンが介入するより早く、フェリシアがわざと周囲に聞かせる形で「こちらへいらして下さいませ」と言い換えを指導し、アナリゼも即座に修正した。ブラウネとメアリも明るく受け、イレンは「正妃が我が国文化を尊重して学んできた」と賛美する演出に全力で乗り、破局を回避した。

中傷ビラと世論戦の開始
翌日、アナリゼを「東の田舎娘」と嘲る告発ビラが出回り、背後は利害からアングランが濃厚だと内務卿は見立てた。内務卿は誤解解説と賛美記事の配布、噂の流布で対抗策を即実行し、イレンはさらに母后を前面に出して「国母が正妃を可愛がる」長期キャンペーンを構想した。対外的な恫喝は証拠不足で危険なため、アングランには外務卿経由で確実に釘を刺す方針とした。

帝国大使バダンとの腹芸と牽制
イレンは帝国新大使バダン宮中伯を私室応接に招き、メアリをあえて給仕に入れて相手の情報収集力と配慮を測った。バダンはメアリを即座に識別し、丁重に持ち上げ、宮廷力学を熟知していることを示した。会話でイレンは「アナリゼの学びを快く思わぬ勢力が帝国側にもいるのでは」と婉曲に探り、バダンは否定しつつも必要な情報を返した。最後にイレンは「私はアナリゼを好ましく思う。貴国も誠実でありたいものだ」と釘を刺し、皇帝へ確実に伝わる形で圧を残した。

夜の訪問と、言葉の壁を越える試み
イレンは能動的に正妃居室を訪れ、帝国侍女たちへの歓迎も示した。アナリゼは「廊下が綺麗、鏡が多い」と真顔で語り、会話は途切れがちだったが、イレンは彼女の恐怖と努力を理解し、感謝を伝えるために手を握る許可を求めた。そこから話題が腕時計に移り、アナリゼは「召使いになりたいのか」と純粋に問うてしまう。イレンは傷つきつつも、時計を「怠けたがりの獣欲を抑えるための魔力増幅器具」という屁理屈で救済し、彼女はそれを「王の証」と受け取って笑顔を見せた。イレンは腕時計を外して渡し、次は彼女の好きなものを教えてほしいと告げ、関係を“会話”で育てる道筋を作った。

【第二十一話】暗君と帝国とアングラン

バダンの酷評と「暗君」認定
帝国大使バダン宮中伯は、グロワス十三世を「外交のお遊びに興じる若者」と切り捨てた。夜会の失態を口実に帝国側が譲歩を迫られる局面で、王が抗議や圧力に踏み切らず「帝国内の反和約派の探り」で終わらせた点を、弱さと臆病さの証拠として見た。王とは国家そのものであり、王が出てくるなら重い決定があるはずなのに、それが無かったという失望であった。

帝国の狙いは「対プロザン戦へ引きずり込む」
バダンは、サンテネリ王が重い決断を下せないと確信し、ならば帝国の本業である対プロザン戦にサンテネリを巻き込むのは容易だと踏んだ。問題は開戦の是非ではなく「いつやるか」だけになった、と冷徹に整理している。サンテネリは先王の流血への反動で外に目を背け、止める家臣もいないので、王は“遊び”に付き合っているうちに流されるという読みであった。

アングランの政治体制と「王は対岸」
場面はアングランへ移り、同国は貴族合議と内閣決定が国家行動となる異質な国制として描かれた。首都ランデネムでは王宮と首相宮が河を挟んで対峙し、王は象徴的に「対岸の存在」で、実権は首相宮に集中している。首相アルバ公爵は報告書を読み、サンテネリが変わったと断じる。

アングランの“仕掛け”不発と、サンテネリの変質
アングランが流した工作は不発に終わり、アルバ公爵は「彼らは足下を見るようになった」と評価した。王が民衆に直接呼びかける官報、増える政治寸評、背後に政府の意思を感じる新聞群。かつて階層が分断されていたサンテネリ社会が、統治側が庶民の評判を無視できない方向に混交し始めていると分析される。

「好戦的」ではなく「危険な綱渡り」
秘書官は若い王の思いつきで矛盾が増えたのだろうと見るが、アルバ公爵は否定し、むしろ王は危険な橋を渡っていると指摘した。貴族の懐に手を入れる一方で近衛軍を手放す、権力の源泉を捨てるような動きが、卵を割らずに中身を取り出すような“本来不可能”に近い離れ業だという比喩で語られた。通常なら近衛解体は貴族の伸長と政権奪取に繋がるはずだが、各大公家も大きく動かず、寄付という名の実質課税も受け入れている点が不気味であった。

背後の絵描きと、読めないサンテネリ
アルバ公爵は、貴族同士を噛み合わせて均衡を取りつつ、第三の力として平民層を取り込もうとしていると見た。突出か妥協かの二択で、先王は「強い王」を演じ突出したが、新王は妥協の道を選び、その背後に絵を描く者がいる可能性すら示唆された。だが少なくとも、その絵を受け入れて綱渡りをする度胸は王にある。

最大の脅威はサンテネリという結論
帝国は安定、プロザンは拡張という目的が読みやすいのに対し、サンテネリは落とし所が見えない。アルバ公爵は、円熟の皇帝、脂の乗ったフライシュ三世、若いグロワス十三世という並びを見ても、「与しやすいはずのサンテネリが一番怖い」と感じる。帝国もプロザンもやる気だが、サンテネリがどう出るかだけが読めず、だからこそ繊細な対応が必要だと締めた。

【第二十二話】王と戦争

「戦争を知らない」王の自己紹介
語り手であるグロワス十三世は、自分が戦争を年号と映像でしか知らないと認めたうえで、国軍の交戦決定権と全面指揮権を渡された現状を「正気の沙汰ではない」と捉えた。しかも今さら勉強しても、この世界の戦争は現代感覚とかけ離れすぎていて役に立たないと割り切った。

サンテネリ軍の実態:横領が基本の“連隊国家”
軍の中心単位は連隊で、連隊長が領民や流れ者を集め、国から渡された金を兵の給料に回す建前になっていた。しかし現実は中抜きが常態化し、監察制度も買収され、特に「国の中の国」では効きが悪い。階級も細かく整備されず、連隊長と士官が貴族、下士官と兵が平民という身分構造がそのまま軍の構造になっていた。士官は名誉担当で突撃の先頭に立つが、そもそも実戦が起きにくいので普段は威張るだけ、という冷笑的な観察が入った。

戦争は“しょぼくて深刻”な消耗戦
会戦のような派手な決戦より、砦を囲んで控えめに砲撃し、頃合いで明け渡させて進軍する流れが多い。砲弾も「撃ったことにして横流し」という、国家規模のサボりと犯罪がシステム化されていた。だが“しょぼい”のに人は死に、砦は壊れ、修復コストが積み上がり、擦り傷の出血が止まらないように国力が削れていくため、双方が限界を感じると講和に向かう。

規律を作れる中核部隊と「数の暴力」
例外的に複雑な行動が可能な部隊として、デルロワズ公の中核軍(黒針鼠)や王の近衛軍が挙げられた。どちらも領民基盤と世襲の将校団があり、目的意識を持って集まるため強い。ただしサンテネリが大陸で暴れ回れた理由は、精鋭だけでなく“その他の分厚い兵数”があったからで、最終的に物を言うのは数だという現実論に落ちる。

王が戦場にいる意味と、プロザンが強い理由
王が出ると貴族連隊長が命令に従いやすくなる。司令官(同格貴族)に従うのは屈辱でも、王に従うのは忠義で面子が立つからだ。ところが大国は親征しないので、逆に小国プロザンは王が実質総司令官として統制でき、国土の小ささもあって強い。グロワス十三世がフライシュ三世に憧れてしまう心理も、ここで自嘲気味に説明された。

傭兵という“派遣戦力”と国内治安の恐怖
遠征は補給と脱走で破綻しやすく、遠方の戦いは傭兵を雇う方が合理的になる。ただし高い。さらに大きい理由として、国内に大量の武装集団を常在させる危険が語られた。サンテネリ軍の多くは社会から鼻つまみ者扱いで、略奪も起きる。軍も生きるために略奪せざるを得ず、根本原因は国が直接雇用して待遇保証できない財政構造にある、と結論づけた。

対プロザン戦の誘いと、サンテネリの立場転換
プロザンがエストビルグに難癖を付け、シュバル公領を軍事占領し、エストビルグは会戦で大敗して小競り合いが続いている。これまでエストビルグが本気を出せなかったのは、サンテネリが背後から刺す恐れがあったからだ。しかしアナリゼ皇女との婚姻で両国が接近し、プロザンは挟撃のリスクを意識する状況になった。フライシュ三世はその可能性を低く見つつも、王太子と文通するなど手は打っていた。

外務卿ベルノーと「誠意を示さない」帝国を利用する発想
定例閣議後、王は外務卿ベルノー・エネ・エン・トゥルームを招き、バダン宮中伯からの正式打診を聞く。王は自分の態度が弱腰に見えたことを理解しつつ、国家間では損害が生じた側が誠意を示すべきだと整理した。にもかかわらず帝国が誠意を示さないのは、短期利益を最大化したいバダンのプレイヤー気質ゆえだと見抜き、それならこちらも後ろめたさなく動ける“道義的フリーハンド”を得たと冷徹に喜んだ。

王の戦略:小規模参戦で泥沼を維持し、国内改革を優先
王はプロザンに積極関与しないと決めた。軍は出すが国境を軽く侵す程度で、エストビルグの戦いを「軽く援助」するに留め、プロザンが弱りすぎないよう調整する。理想はエストビルグとプロザンが争い続ける状態であり、エストビルグが勝ちすぎればアングランが介入すると見て、その場合はサンテネリがそちらに乗る腹づもりまで示した。サンテネリの最優先は戦争ではなく、国内統合・軍制改革・財政健全化である。

「置物」になって暗君として退く
王は数か月後に大権を内閣へ委任し、アキアヌ大公を首班にガイユール大公やデルロワズ公を含む正式内閣を発足させる予定だと語った。王権で「国の中の国」を破壊吸収できないなら、諸大公に主役を譲り、サンテネリを「彼らの国」にして自分は正真正銘の暗君として名を残す。アナリゼの夫として義理の実家を助けたい気持ちはあるが、王国はもはやルロワ家の私領ではないのでできない。文句は内閣へどうぞ、という皮肉で締めた。

【第二十三話】王の委任

委任と委譲の違い
王は「委譲」でもよいと考えたが、周囲は「委任」を求めた。委譲は退位とルロワ朝の終わりを意味し、変化が大きすぎるからである。委任であれば、王が全権を保持したまま臣下に預ける形となり、「大がかりな人事異動」程度として受け止められ、反発が広がりにくかった。

反対者は家宰とアキアヌ大公であった
強く反対したのは二人である。家宰フロイスブル侯爵(マルセル)は、外様諸侯の参入でルロワ家の権威が落ちることを恐れ、年単位で討論が続いた。もう一人はアキアヌ大公ピエルであり、王が早い段階で構想を打ち明けた相手だった。

旧城での会談と「王の器」問答
王は旧城を負傷兵宿舎へ転用する件で、形だけでも話を通すためピエルを旧城に呼び、昼食と酒をともにした。ピエルは転用に感傷を抱かず、むしろ大量の兵士と年金が生む消費を見て乗り気であった。
酔いが回ったころ、王は「王の器」の有無を問い、自分にそれがあるかを尋ねた。ピエルは一瞬で警戒し「自分は謀反人か」と確認したが、王は逮捕の意図も能力もないと告げ、率直な評を求めた。ピエルは「器はない」と断じ、理由を「兵を潜ませていなかったから」と答えた。答え次第で逮捕する腹なら器がある、と言い返し、政敵としての警戒と逃げ筋を同時に立てた。

王位の誘惑と現状の限界
王は「腹を括った王なら何でもできる」として、アキアヌ大公領を滅ぼす覚悟があれば処刑すら可能だと示した。だがピエルは、それは覚悟ではなく国を滅ぼす暗愚だと切り返し、現在のサンテネリに体力がない現実を突きつけた。王は自分に器がないからこそ舵取りを他者に任せたいと語り、アングランのような仕組みを目指すと明かした。

ピエルの恐れと王の挑発
ピエルは、王は国家の唯一の柱であり、権力を渡す試みは王朝交代や弑逆の連鎖に繋がりかねないと警告した。一方で王は制度化による受け皿を主張し、ピエルを掣肘する第三者も交えればよいと説いた。
ピエルが「その立場を引き受けても自分に利点がない」と問うと、王は「国を動かす責任から逃げるな」と挑発し、ピエルが批判だけを続ける矛盾を抉った。これは王の苛立ちの噴出でもあり、最大の力と富を持ちながら野党気取りでいる姿勢が気に食わなかったのである。ピエルは衝突の末に折れ、即答は避けつつ「考える時間がほしい」と述べ、最後は場を切り替えて飲み直した。王はこの切り替えの早さを「器」に結びつけ、同時に豹変の速さへの警戒も強めた。

側妃たちへの告知と、関係の再確認
王は実権を手放す話をブラウネとメアリにも伝えた。これは条件変更を黙るのは卑怯だという考えからであり、別れを切り出されても仕方ないと覚悟していた。
ブラウネは「陛下が陛下である限り側にいる」と応じ、王の冗談(歳費制限で贅沢できない)にも、むしろ大判布を締めて世話を焼けるのが嬉しいと軽やかに返した。柔らかいが前提条件を外さない姿勢が描かれた。
メアリは一度「不要宣言」と誤解しかけたが、王が望みと彼女の望みを分けて言い直すと態度を改めた。彼女は自分に政治的価値はないが、助けたい一心でいると述べ、すでに二度救っているから三度目も必要になると断言した。王の過去の独り言が彼女の生を支えていたことが明かされ、甘さを含みつつも、彼女の硬質な忠誠が強調された。

【第二十四話】王の旅

王の外遊が面倒すぎる現実
語り手は出不精で好奇心も薄く、本来は宮殿の外に出たがらない立場であった。だがエストビルグから正妃が来る前に、国家内国家(ガイユール)を統合できるかの「肌感」を掴む必要があり、自ら出向く行幸を決めた。行程はシュトロワからバロワ、デルロワズを経てガイユールへ至る王国心臓部の巡回で、随行は妃格のブラウネ、メアリ、主賓のゾフィ、そして内務卿・財務監ら大物に加え護衛兵約五百という大所帯となった。

妃の同乗という地雷原
初日は語り手が「一人旅気分」を満喫してしまい、女性陣が冷えた空気を放った。王と妃は同乗が基本で、誘わないのは政治的メッセージになる不文律だと内務卿に諭され、語り手は一人ずつ誘って事態を収めた。以後、馬車内は賑やかになり、語り手は「王は地雷原を歩く」と痛感した。

近衛軍閲兵と“国軍化”の構想
バロワでは近衛軍を閲兵し、兵役が領民にとって安定職になっている仕組みと、国軍統合でそれが変わっていく未来を見た。デルロワズでは黒針鼠の本拠「針鼠の巣」を視察し、兵器工廠・士官教育・研究を段階的に国立化して「家職」を国家の枠に移す構想を描いた。語り手は演説の定型句の順番を「民・大地・王」に変え、王の軍から民の軍へという意志を小さく刻んだが、同時に自分の胆力不足も自覚していた。

ゾフィの“始まりの地”と意志の宣言
夜、ゾフィは広場へ散歩に誘い、ここがかつてガイユール侵攻の出発点だったと語った。彼女は歴史の敗者側直系としての現実味を抱えつつ、運命ではなく選択だとする語り手の言葉を受け止め、「意志を持つことを許してほしい」と問うた。語り手はそれを肯定し、彼女が子どもから大人へ移る瞬間を見守る姿勢を明確にした。

ガイユール入城と統合の危うさ
玄関都市ロワイヨブル、続く首府リーユは熱狂的歓迎に包まれ、ガイユール方言や都市の繁栄が“異国感”を強めた。リーユは運河で三経済圏の結節点を握る「国の中の国」であり、常備軍を持たない代わりに傭兵と対岸アングランとの結びつきで抑止力を持つ、王国にとって厄介で魅力的な存在として描かれた。ザヴィエ大公は独立の選択肢も踏まえた上で「積極的に王国の一部となる」道を選び、入閣も内定していた。

護衛軍内乱未遂と“王の演説”
入城当夜、近衛と黒針鼠が酒場の諍いから宿営地で銃を手に対峙する騒ぎが起きた。語り手は現場に出て、近衛に「王を知らぬのに何故忠誠を誓う」と突きつけ、「私がサンテネリなのではない、サンテネリが私なのだ」と土地と人を守れと叫んだ。黒針鼠には「デルロワズ公の私兵か、国軍か」を迫り、兵権は王にあると明言して同一指揮系統を叩き込んだ。反応は薄かったが、「王が仲裁に来た」という事実が鎮静の効力となり、酒を振る舞って収束させた。

リーユでの告白と“両方を愛せ”
公式日程後、ゾフィと運河沿いを歩き、語り手は王権を手放し置物になる構想を説明し、ゾフィが王との関係では自由だと告げた。ゾフィはそれでも「好きだ」と断言し、それが恋愛の甘さではなく政治的決断として提示された。彼女は父ザヴィエの評価「王として戴くに値する方だ」を引き、語り手に「鳥の首飾りの自分」と「宝玉石の自分」という相反する姿の両方を受け止めてほしいと求めた。語り手はそれを彼女の意志と認め、「私とシュトロワに来てくれ。共に暮らそう」と受け入れ、彼女は無言で腕に抱きついた。

【第二十五話】暗君とガイユールとデルロワ

ガイユール大公ザヴィエの「王」観と違和感
ガイユール大公ザヴィエは、ロワイヨブルの夜に近衛とデルロワズ兵の間へ立ち、喉が枯れるほど演説するグロワス十三世を目撃し、当代の王が歴代のサンテネリ王と質的に異なると確信した。王は本来、理解を求めず命ずるのみで神格化されるべき存在だが、グロワス十三世は状況を理解したうえで過程まで語り、他者の理解を求める繊細さを見せていた。ザヴィエはそれを王権にとって致命的とも評しつつ、王が自分の危うさを自覚し、あえて王権を棚上げする新政権構想に踏み込む点に、逆説的な「王の器」を見た。

ゾフィの問いと、婚姻が持つ政治的な重し
ザヴィエは、娘ゾフィが「命令を聞きに来た」のではなく、決断の材料として助言を求めてきたことに動揺した。彼は個人としてのグロワス十三世を悪くないと感じながらも、王として釣り合うかを測り直した末、ロワイヨブルの夜の演説が兵の存在意義を「領」から「国」へ書き換える力を持つと理解した。新政権後に混乱の調整役を背負うのは王ではなく実務側であり、だからこそガイユール大公女を妻とする事実が王にとっても周囲にとっても「重し」になると考えた。

王が描いた布石と、ガイユールが抱える詰み筋
ザヴィエは、王が各勢力との縁を姉妹や縁談で丁寧に組み替え、最後に残るピースがガイユールであると見抜いた。さらにゾフィが「陛下は私の選択を尊重する」と語ったことで、ゾフィが望むのに父が反対すれば王が圧をかけ得る構図、逆に父が望むのにゾフィが拒めば家庭内で説得を迫られる構図が浮かび、どちらもガイユールの立場を不安定にすると読んだ。結局、絵を描いているのは家宰でもアキアヌでもなく、若い王自身だと結論し、ザヴィエはゾフィの望みに賛同して王への奉仕を許した。

デルロワズ公ジャンの評価と恐怖
デルロワズ公領の主であり王国軍元帥でもあるジャン・エネ・エン・デルロワズは、王が約束を守り、さらにバロワ家次女との縁談まで整えたことで、個人的にも王と結び付いた。即位当初は若い王が軍を消耗品のように扱うと危ぶんだが、不予以来の変化によって、王が分析の細部に溺れず「大きく掴み、大きく舵を取る」術を心得た存在だと認め、仕えるに値する王だと判断した。

国軍統合がもたらす栄光と破滅の二択
一方でジャンは、王が近衛を吸収して国軍を混合体に変え、デルロワズ家の私兵という建前を実態へ塗り替えようとしている点に、朧気な恐怖を抱いた。短期的にはデルロワズ家の利となるが、長期的には軍が家の手を離れ、重職の独占が崩れ、家の「当然」が失われる未来が見えたからである。それでも新政権に参加しなければ発言権を失い、政府に従属するだけになるため、ジャンは当事者として改革に加わる道しか選べなかった。王の方向性が正しければサンテネリは「国」を背負う本物の軍を得て大陸軍へ至るが、誤れば権益侵害で貴族が反発し、平等思想が先鋭化し、財源不足で兵制改革が頓挫して王権が崩れ、グロワス十三世は呪われる亡国の王となる危険もまた示された。

地に落ちて死なば

三年生き残った王の自己採点
正教新暦一七一五年、グロワス十三世は治世三年を迎えたと独白し、異世界で王として三年生き延びた事実を「偉業」だと位置づけた。機能不全の専制国家に放り込まれて統治せよと言われても普通は無理だと自嘲しつつ、自分が生き残れた理由を整理しようとした。

生存理由① 権力ではなく王権の権威
彼がまず挙げたのは、ルロワ王家が長い歴史で積み上げた「王はサンテネリそのもの」という常識の強さであった。国家に不可欠な装置として王が見做され、個人は極端に言えば誰でもよいが、彼自身は先王と正妃の嫡子という血統の正統性で圧倒的に守られていると認識した。

生存理由② 譜代官僚の優秀さと“無害さ”
次に彼は、家宰や内務卿ら譜代が非常に優秀で、しかも積極的に害そうとせず支えてくれる幸運を挙げた。彼らが守りたいのは王権であり、その王権を毀損するほどの「危険物」ではないと見做されているからこそ、生かされているのだと自己分析した。王として有能というより、少なくとも致命的に有害ではないという評価で延命している点に、皮肉と安堵が混じっていた。

生存理由③ 女性たちと義務としての愛
彼は自分が繊細で、常に作り笑いの裏で怯えていると認めたうえで、この世界の構造そのものに好悪の違和感があると吐露した。その苦痛を和らげたのが女性たちの存在であり、彼は彼女たちに想いを捧げられて王として生きていると感じていた。ゆえに返礼として愛したいのではなく、王として「愛さなければならない」と自らに課し、個人の感情と王の義務が絡み合う重さを示した。

聖句の引用と、自己犠牲の政治哲学
彼は「一粒の麦」の聖句を引き、自分は文字通り一度地に落ちて死んだ存在だと語った。そのうえで、サンテネリにおいて自分の身を“種”として、善きものや豊かな実りをもたらせるかを自問した。ただし国家の変化は生前に結果が出ず、歴史の善悪も相対的であるため、結局は自分の価値観に従って選び続けるしかないと結論づけた。

臆病な歩みと暗君の矜持
彼は「より善いと感じる方」へ進むと誓うが、臆病ゆえに震えながら、すり足で進むと宣言した。それでも「暗君にも矜持はある」と締め、自己評価の低さを抱えたまま、王としての意志だけは捨てない姿勢を明確にした。

『視ること: ゾフィ』

視線という権力と無意識の回避
グロワス十三世は、視線そのものが周囲に意味を伝えてしまう王の立場を自覚していた。意図せず視線を向けただけで「王の関心」と解釈されるため、彼は無意味さを示す対象として壁や天井を見る癖を持っていた。それは視覚情報を断つための、消極的で防御的な選択であった。

絵画観をめぐる対話の始まり
茶室で待機していた彼のもとにゾフィが現れ、壁画を見つめる姿から絵画への関心を読み取った。グロワス十三世は、特定の作品ではなく、筆致や細部から描き手の意志を感じ取ることに楽しみを見出していると語った。サンテネリにおいて絵画が芸術ではなく実用品として扱われている現状が、両者の会話の前提として浮かび上がった。

「正確さ」とは何かという問い
ゾフィは絵の価値を「似姿」としての正確さに置いていたが、グロワス十三世は人物画における正確さの定義そのものを疑問視した。熟練の画家と自分が同時にゾフィを描いた場合を想定し、外見の再現では画家に及ばずとも、その人の在り方や内面であれば自分の方が描けるかもしれないと述べた。

目に見えないものを描くという価値
彼は執務室に飾られた「女王戴冠」の絵を例に挙げ、写実的ではなくとも、マルグリテ女王の本質を伝えている点で「正確」であると評価した。ゾフィもまた、絵が人の怖さや本質を伝え得ることに気づき、目に見えないものを描く意義を理解していった。

ゾフィの問いと、王の答え
ゾフィは冗談めかして、自分ならどんな姿を描くのかと問いかけた。グロワス十三世は、彼女の美ではなく、聡明さと思いやりを描くと答え、夫の拙い話を楽しんで聞く心優しい妻の姿を示した。その言葉を受けたゾフィは、彼の腕に身を寄せ、深く頷いた。

真心としての視線
その仕草は単なる社交的反応ではなく、ゾフィ自身の真心からのものだと、グロワス十三世には感じられた。無意味さを示すために向けていた視線は、いつしか一人の人間を「視る」行為へと変わっていたのである。

同シリーズ

汝、暗君を愛せよ1巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
汝、暗君を愛せよ

その他フィクション

フィクションの固定ページのアイキャッチ画像
フィクション(novel)あいうえお順
フルメタル・パニック! 3巻の表紙画像(レビュー記事導入用)

小説「フルメタル・パニック! 3 揺れるイントゥ・ザ・ブルー」感想・ネタバレ

フルメタル・パニック! 2巻
フルメタル・パニック! 4巻

物語の概要

本作はSFミリタリーライトノベルであり、「学園もの」と「軍事もの」を両立させたシリーズの第3巻である。世界最強の兵士である《ミスリル》所属の兵士 相良宗介 は、護衛対象の高校生 千鳥かなめ と共に、日常と非日常の境界を揺らしながら戦いと日常生活を往復している。第3巻では、宗介がかなめを誘って訪れた南の島での“夏休み”が、甘くない冒険と危険なテロ事件に発展し、猛毒兵器や残忍な敵が二人を追い詰める。テロの裏に潜む巨大な陰謀を追いながら、戦闘・逃走・協力関係が極限状況下で展開される。

主要キャラクター

  • 相良宗介
    主人公である《ミスリル》所属の特殊兵士。戦闘技能・戦術構築能力に優れ、護衛任務のため高校生活へ潜入しながらも、危険な戦闘状況に即応する最強クラスの兵士である。
  • 千鳥かなめ
    宗介の護衛対象であり物語のヒロイン。平凡な高校生として生活していたが、宗介の護衛によって非日常へ巻き込まれる存在。《ウィスパード》と呼ばれる特殊能力が物語の中核に関わる可能性を秘める。
  • テレサ・“テッサ”・テスタロッサ
    《ミスリル》の指揮官の一人。冷静な判断力と部隊運用能力を備え、宗介たちを支援する役割を果たす。

物語の特徴

本作の魅力は、SFミリタリーアクションと青春的要素が同時進行する点にある。単なる戦闘ストーリーではなく、護衛対象であるヒロインと兵士の信頼関係、日常生活の混乱、そしてテロ・陰謀という硬派な展開がミックスされている。第3巻では特に“南の島での一見平穏な休暇が命がけの戦いに変わる”という構成が秀逸で、読者に緊張と安堵の両方を味わせる構造となっている。また、戦闘描写のみならず、心理面や人間関係の駆け引きを重視している点が他の軍事系ライトノベルとの差別化ポイントである。

書籍情報

フルメタル・パニック! 3 揺れるイントゥ・ザ・ブルー
Full Metal Panic
著者:賀東 招二 氏
イラスト:四季童子  氏
出版社:KADOKAWA
レーベル:ファンタジア文庫
発売日:2000年2月14日
ISBN:9784040711188

ブックライブで購入 BOOK☆WALKERで購入

(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。

あらすじ・内容

「ふたりだけで、南の島へ行こう」宗介からの誘いにかなめは…!?
うだるような夏。ちょっとした冒険もなく、ロマンスもなく、ひたすら生徒会の雑務に追われる千鳥かなめの夏休みは、そのひと言で激変した。「ふたりだけで、南の島へ行こう」世界最強の戦争ボケ男・相良宗介らしからぬ突然の誘い! 戸惑いながらもかなめはときめきを隠せない。だが、それは甘酸っぱいひと夏の出来事であるわけもなく、命がけのスリルと恐怖への特急券であったのだ! 危険な化学兵器解体所を襲った“猛毒”と呼ばれる朱い鋼鉄の悪魔が、宗介とかなめを追いつめていく! テロ事件の裏に潜む巨大な陰謀! そしてふたりに、残忍な殺人鬼は迫っていた!! お待たせっ! 超人気シリーズ、ファン待望の書き下ろし長編。

フルメタル・パニック!揺れるイントゥ・ザ・ブルー

感想

シリーズの中でも緊張感と感情の振れ幅が最も大きい一冊であり、軍事アクションと人間関係の転換点がはっきりと刻まれた巻であると感じた。

物語は、夏休みにもかかわらず生徒会の雑務に追われる千鳥かなめの鬱屈から始まる。そこに投げ込まれる、相良宗介の「ふたりだけで、南の島へ行こう」という一言は、あまりにも不器用で、あまりにも宗介らしくない。その違和感こそが、今回の出来事が単なるバカンスでは終わらないことを強く予感させていた。実際、かなめが連れて行かれた先で待っていたのは、甘酸っぱい非日常ではなく、トゥアハー・デ・ダナン占拠事件という極限状況であった。

トゥアハー・デ・ダナンが敵に占拠されてからの展開は、アクション作品として非常に出来が良い。もっと多くの犠牲が出てもおかしくない状況が続き、閉鎖空間である潜水艦という舞台が、緊張感を何倍にも増幅させている。ASが暴れ回れる格納庫を備えた潜水艦のスケール感には、改めて驚かされ、「こんなものが海の底を動いている」という設定そのものが強い迫力を持っていた。

今回の敵役であるガウルンの存在感も際立っている。生きていたという事実そのものが不穏であり、壊れ切った悪役としての振る舞いは、場面ごとに空気を一段冷やす力を持っていた。理屈も交渉も通じない狂気が、潜水艦という逃げ場のない場所に放り込まれることで、常に「最悪」が視界の端にちらつく。この緊迫感が、トゥアハー・デ・ダナン占拠以降の物語を最後まで引っ張っていたように思う。

しかし本巻の核心は、単なる占拠事件の解決ではない。事件の渦中で描かれる、かなめと宗介のすれ違いと、その乗り越え方にこそ強く心を引かれた。宗介はこれまで、かなめの隣にいる理由を「任務」という言葉で整理してきたが、今回の出来事を通じて、それだけでは説明できない感情があることを自覚していく。その気付きは小さく、劇的な告白があるわけでもないが、だからこそ重みがあった。

かなめの側も同様である。守られる存在でありながら、宗介の内面の変化を敏感に感じ取り、彼が自分をどう見ているのかを真剣に考えるようになる。本巻を読み終えた時点で、二人の思いの方向性ははっきりと定まり、「護衛対象と護衛者」という関係にはもう戻れない地点に立ったと感じられた。特に、宗介が「任務だからではない」と自覚できたことは、今後の関係性を大きく変える決定的な一歩である。

総じて本巻は、シリーズ前半の一つの山場であり、軍事アクションとしての完成度と、ラブコメでは済まされない人間関係の深化が同時に描かれた一冊である。トゥアハー・デ・ダナン占拠という極限状況の中で、銃やAS以上に重要なものが何であるかが静かに浮かび上がる。その余韻が強く残り、次の物語で二人がどのような距離感で進んでいくのか、自然と続きを手に取りたくなる巻であった。

最後までお読み頂きありがとうございます。

フルメタル・パニック! 2巻
フルメタル・パニック! 4巻

ブックライブで購入 BOOK☆WALKERで購入

(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。

登場キャラクター

学校関係

千鳥かなめ

高校二年生であり、生徒会の雑務に追われていた人物である。相良宗介の常識外れな発想に反発しつつも、行動の端々で彼に巻き込まれていった。テレサ・テスタロッサとは同年代の友人として接点を持ち、艦内では部外者としての居心地の悪さも味わっていた。
・所属組織、地位や役職
 高校の生徒であり、生徒会の作業を担っていた。
・物語内での具体的な行動や成果
 文化祭ゲート費用の異常に気づき、現場で宗介と衝突した。
 宗介の提案で遠出に同行し、〈トゥアハー・デ・ダナン〉へ乗艦した。
 艦内の非常事態では、艦長室の金庫からユニヴァーサル・キーを回収した。
 TAROSと同調し、艦の制御系と接続した状態に至った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 艦内では「過去に多くの命を救った」として乗員の敬意を受けた。
 ウィスパードとして狙われる立場であると説明を受けた。

ミスリル

相良宗介

〈ミスリル〉のSRT要員であり、現場判断を優先する性格であった。千鳥かなめの護衛と作戦任務が重なり、感情の処理が遅れて衝突も起こした。ARX-7〈アーバレスト〉の運用では、機体が「SGTサガラ」を条件にする異常性を背負っていた。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉SRTの軍曹であった。
 ARX-7〈アーバレスト〉の担当者であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 千鳥かなめをメリダ島へ連れて行く任務に就いていた。
 飛行中にかなめを同伴させ、海上へ跳躍して潜航乗艦を実施した。
 作戦ブリーフィングで、未知AS「ヴェノム」破壊任務を一任された。
 艦内の非常事態では、かなめの救出と敵対者の排除に動いた。
 格納庫でガウルン搭乗機と対峙し、最終局面の戦闘へ踏み込んだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 ラムダ・ドライバが宗介の搭乗でのみ駆動した。
 護衛任務の重圧が行動と判断に影を落とした。

テレサ・テスタロッサ

強襲揚陸潜水艦〈トゥアハー・デ・ダナン〉の艦長であり、若年ながら指揮権を握っていた。艦内では公平さを崩せない立場を自覚し、私情を抑えて行動していた。千鳥かなめには最高機密の一部を説明し、危険を直視させる役割も担っていた。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉の大佐であり、〈トゥアハー・デ・ダナン〉艦長であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 〈パサデナ〉への接近試験を指揮し、帰還航行を進めていた。
 事態B20cを化学兵器施設の占拠と断定し、進路変更を命じた。
 艦内パーティを実施し、士気維持の場を作った。
 かなめにウィスパードと共振の危険を説明し、口外禁止を求めた。
 艦内の乗っ取りでは、発令所で対抗手段の実行に踏み切った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 順安事件での操艦が評価され、クルーの見方が変わった。
 艦の制御に関わる機密を把握する数少ない人物として扱われた。

リチャード・マデューカス

〈トゥアハー・デ・ダナン〉の副長格として、艦内秩序と実務を支えていた人物である。テッサの若さに反発していた過去を持ち、順安事件以降に評価を改めた。艦内の異変では判断の遅れが致命域に近づく形となった。
・所属組織、地位や役職
 〈トゥアハー・デ・ダナン〉の中佐であり、副長級の立場であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 艦長の体調を気遣い、発令所運用を補佐した。
 隔壁封鎖と酸素遮断の局面で、後部への確認指示を出そうとした。
 緊急浮上後は、積荷固定の規律徹底を再確認した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 艦内の評価軸が艦長中心へ移った過程を内心で整理していた。

クルツ・ウェーバー

SRT要員であり、軽口と行動力を併せ持つ人物である。相良宗介をからかいながらも、状況の核心では身体を張った。艦内の非常事態では、裏切り者と対峙しつつ宗介を前へ押し出した。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉SRTの軍曹であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 艦内パーティで司会を務め、場を強引に回した。
 宗介の言動を非難し、拳で制裁して軌道修正を促した。
 艦内の異変では宗介と合流し、銃声の方向へ走った。
 グェンとの対峙で負傷しつつも時間を稼いだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 宗介に対して、謝罪と救助を優先させる圧力をかけた。

マオ

SRT要員であり、現場での判断と切り替えが早い人物であった。かなめには艦長の立場の重さを説明し、別の角度から現実を示した。艦内の混乱では、負傷状態でも前線に介入した。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉SRTの隊員であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 作戦編成で爆弾処理班の一員となった。
 かなめに艦長の公平性と制約を説明した。
 グェンとの場面で投擲により戦局を反転させた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 作戦後に軽傷として搬送される描写があった。

アンドレイ・カリーニン

作戦の説明と統制を担う立場にあり、情報の整理を優先した人物である。未知ASの脅威を前に、命令違反を厳罰と断言した。テッサに対しても責任感を見せていた。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉の少佐であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 作戦ブリーフィングで敵勢力と基地状況を説明した。
 未知AS「ヴェノム」への交戦回避命令を強調した。
 宗介に破壊任務が集中する構図を提示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 命令体系の中核として、現場に強い制約を課した。

ノーラ・レミング

〈アーバレスト〉担当の技術士官であり、装備の説明と整備方針を示した人物である。ラムダ・ドライバの不明点を率直に認め、宗介の適性を「結果」から評価した。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉の少尉であり、技術士官であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 〈アーバレスト〉の塗装変更と隠密仕様を進めた。
 ラムダ・ドライバの構成要素と未解明点を説明した。
 駆動条件が宗介依存である事実を示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 機体の予備部品が限られる制約を共有した。

ゲイル・マッカラン

SRTの大尉であり、作戦上の編成で中心に置かれた人物である。艦内パーティではビンゴの当選者として場の焦点になった。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉SRTの大尉であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 作戦編成で突入班の担当になった。
 艦内ビンゴで一等賞に当選し、テッサの形式的なキスを受けた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 作戦指示の引き継ぎ元として名前が挙がった。

デジラニ

ソナー員として状況報告を担い、艦の試験運用の実態を軽口混じりに語った人物である。米軍艦艇への接近監視が演習である点を示した。
・所属組織、地位や役職
 〈トゥアハー・デ・ダナン〉の軍曹であり、ソナー員であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 〈パサデナ〉の浮上傾向を報告した。
 接近試験の経緯をテッサへ説明した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 試験結果として静粛性に課題が残る判断へ繋がった。

ゴールドベリ

艦医として千鳥かなめの状態を確認し、安全対策用のプレートを渡した人物である。動力源に関わるリスクを簡潔に説明した。
・所属組織、地位や役職
 〈トゥアハー・デ・ダナン〉の大尉であり、艦医であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 かなめの検査結果を「問題なし」と判断した。
 被曝確認用のプレートを手渡した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 艦の安全対策の一端を補強する役となった。

カスヤ・ヒロシ

厨房を預かる立場であり、かなめの様子を見て干渉を避けた人物である。宗介の探索にも協力し、かなめの位置情報を伏せた。
・所属組織、地位や役職
 〈トゥアハー・デ・ダナン〉の上等兵であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 かなめの落ち込みを察し、無理に関わらなかった。
 宗介に対して「見ていない」と答え、時間を稼いだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 艦内の人間関係の摩擦を増やさない立ち回りをした。

AI〈ダーナ〉

艦の中枢にあるAIとして、回線受信や航法、警告を淡々と出力した存在である。乗っ取りでは「艦長」として扱われ、命令系統の争点になった。
・所属組織、地位や役職
 〈トゥアハー・デ・ダナン〉の運用AIであった。
・物語内での具体的な行動や成果
 タスキング受信を告げ、電文転送を行った。
 魚雷接近を警告し、戦術表示を更新した。
 艦長側の命令で囮射出などの手順を実行した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 「誰が艦長か」という支配の象徴として利用された。

AI〈アル〉

〈アーバレスト〉と直結するAIとして、ラムダ・ドライバ駆動条件を表示した存在である。宗介依存の表示が消せず、運用上の制約となった。
・所属組織、地位や役職
 ARX-7〈アーバレスト〉のAIであった。
・物語内での具体的な行動や成果
 「SGTサガラの搭乗が必要」という条件表示を出した。
 無理な処置で凍結する挙動が示された。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 機体の異常性を裏づける根拠として扱われた。

バニ・モラウタ

ウィスパードであり、ラムダ・ドライバ搭載機を作った人物として語られた。知識の引き出しが危険である例として、末路が説明された。
・所属組織、地位や役職
 所属は明示されず、〈アーバレスト〉開発の関係者として扱われた。
・物語内での具体的な行動や成果
 ラムダ・ドライバ搭載機の製作者として言及された。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 「ささやき」に踏み込み、発狂して自死したと説明された。

米海軍

キリィ・B・セイラー

攻撃型原潜〈パサデナ〉の艦長であり、短気で対立を起こしやすい人物であった。未知目標への執着を抱き、判断を攻撃に寄せていった。
・所属組織、地位や役職
 米海軍攻撃型原潜〈パサデナ〉の中佐であり、艦長であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 正体不明コンタクトS15の回避行動を命じた。
 司令部命令に苛立ちつつ、待ち伏せ方針へ落とし込んだ。
 〈トイ・ボックス〉と判断した目標へ魚雷攻撃を決断した。
 安全深度解除を指示し、再攻撃準備へ進んだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 誤認を含む強い確信が、交戦エスカレーションの要因になった。

マーシー・タケナカ

〈パサデナ〉の副長として補佐に回り、艦長の暴走を現実面から支えた人物である。噂話として「トイ・ボックス」を口にし、状況理解の枠組みも与えた。
・所属組織、地位や役職
 米海軍攻撃型原潜〈パサデナ〉の大尉であり、副長であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 ソナー解析と状況整理を艦長へ補足した。
 「トイ・ボックス」の噂を艦長へ共有した。
 攻撃判断の局面で確認と補助を行った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 艦長の衝動を止め切れず、攻撃行動に同乗した。

エド・オルモス

ペリオ共和国の戦場に投入された米軍側AS搭乗者として登場した。赤いASにより圧倒され、交戦の末に死亡した。
・所属組織、地位や役職
 米軍側の二等軍曹であった。
 M6A3〈ダーク・ブッシュネル〉の搭乗者であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 海岸で撤退機動を取りつつ交戦した。
 通常兵器が通じない相手を前に抵抗を続けた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 未知兵器の脅威を示す犠牲として描かれた。

武装勢力・敵対者

ガウルン

敵対勢力の中心人物として動き、赤いAS〈ヴェノム〉の搭乗者であると明かされた。艦内では乗っ取りを実行し、酸素遮断やミサイル発射で危機を拡大した。宗介とかなめへの執着を示し、最終局面でも自爆を選択した。
・所属組織、地位や役職
 武装勢力側の指揮者であった。
 〈コダールi〉および赤いAS〈ヴェノム〉の搭乗者であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 ベリルダオブ島で米軍部隊を壊滅させた。
 艦内でAI〈ダーナ〉を利用し、艦の制御を掌握した。
 酸素遮断を脅しとして使い、実行に移した。
 〈ハープーン〉対艦ミサイルの発射を命じた。
 格納庫で宗介と交戦し、自爆を選んだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 右脚を失った過去が示され、義足の描写があった。
 生還への執着が薄く、破滅を選ぶ傾向が強調された。

クラマ

ガウルンの協力者として登場し、通信で得た情報を伝える役を担った。〈ミスリル〉介入の見通しを報告し、ガウルンの歓喜を引き出した。
・所属組織、地位や役職
 ガウルン側の協力者であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 〈ミスリル〉が本格介入する可能性を伝えた。
 宗介とかなめが同じ艦にいる可能性を示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 情報伝達により、敵側の行動方針を後押しした。

グェン

敵側の内通者として動き、艦内で宗介とクルツを牽制した。作戦編成では狙撃班に入っていたが、後に銃で味方を止める立場へ転じた。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉SRT要員として登場した。
 後に裏切り者として行動した。
・物語内での具体的な行動や成果
 艦内通路で宗介とクルツに拳銃を向けた。
 買収を口にし、寝返りを促した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 内部崩壊の直接要因として機能した。

ダニガン

敵側の実行役として艦内でかなめを追跡し、暴力で支配しようとした人物である。最終的に厨房でかなめと宗介により排除された。
・所属組織、地位や役職
 ガウルン側の戦闘員であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 艦内でかなめを捕まえ、逃走を強要して追い詰めた。
 厨房でかなめへ致命傷を狙う動きを見せた。
 宗介の突入後に交戦し、死亡した。
・地位の変化, 昇進, 影響力, 特筆事項
 かなめの生存本能と状況対応を引き出す存在になった。

ゴダート

艦内運用の一部を担う人物として名前が出た。タートルのコントロールを任され、収容手順の中核を担当した。
・所属組織、地位や役職
 〈トゥアハー・デ・ダナン〉側の要員であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 無人艇「タートル」のコントロールを担当した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 艦の収容手順の成立に関与した。

その他

リャン

艦内の異変を示す場面で、死亡していた事実が発見された人物である。拘束具の抜け殻とともに状況悪化の証拠になった。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉側の一等兵として言及された。
・物語内での具体的な行動や成果
 第一状況説明室で死体として発見された。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 艦内が訓練ではないと確信させる材料になった。

ヤン

艦内の揉め事を止める役として登場し、状況説明も担った人物である。クルツの行動意図を宗介へ補足した。
・所属組織、地位や役職
 伍長として登場した。
・物語内での具体的な行動や成果
 クルツの暴力沙汰を制止した。
 クルツの真意を宗介へ説明した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 内部の衝突が致命傷にならないよう抑える役割を持った。

展開まとめ

プロローグ

夏休みの終わりと千鳥かなめの虚脱感

夏休み終了を目前にした高校二年生の千鳥かなめは、友人たちがそれぞれ充実した時間を過ごす中、文化祭準備に追われる自分の現状に虚しさを募らせていた。生徒会室は冷房故障で使えず、体操服姿で廊下に寝そべりながら予算書類を確認する日々を送っていた。

異常な入場歓迎ゲートの請求書

文化祭資料の中で、かなめは入場歓迎ゲート制作費が約百五十万円に達していることに気づいた。その異常さに憤り、資材置き場へ向かう。

要塞のようなゲートと相良宗介の主張

現地で目にしたのは、金属フレームと装甲板で構成された要塞同然の構造物だった。責任者の相良宗介は、治安維持と抑止効果を目的とした保安施設だと説明し、武装テロへの備えまで想定していた。かなめは常識外れの発想と予算浪費を強く非難する。

マーキング装置の誤作動

口論の最中、かなめがゲート内部を通過したことでマーキング装置が作動し、赤い塗料を全身に浴びてしまう。宗介は冷静に装置の機能を説明するが、かなめの感情は限界に達する。

怒りから悲哀へ

塗料まみれになった自身の姿と、空虚な夏の終わりが重なり、かなめは深い悲しみに沈む。宗介を張り倒した後、自分の青春が何も残らず終わろうとしていることを嘆いた。

突然の旅行の誘い

かなめの話を聞いた宗介は、数日間の遠出を提案する。南の島へ二人きりで行くという予想外の誘いに、かなめは戸惑いながらも、最終的に承諾した。

1:トイ・ボックス

米海軍潜水艦〈パサデナ〉での異常探知

八月二五日、マリアナ諸島近海を航行中の米海軍攻撃型原潜〈パサデナ〉は、正体不明の新たなコンタクトS15を探知した。艦長キリィ・B・セイラー中佐は休憩直前だったが、正体不明の目標を前に持ち場を離れられず、発令所で指揮を執ることになる。

艦長と副長の衝突

副長マーシー・タケナカ大尉は冷静に状況を補佐するが、短気なセイラー艦長と口論になり、発令所ではいつもの衝突が繰り返される。しかしS15の解析が進むにつれ、艦内は緊張感を増していった。

国籍不明の巨大潜水艦の可能性

ソナー解析により、S15は二軸スクリューを持つ大型艦である可能性が示されるが、既存データには該当せず、ロシアの弾道ミサイル潜水艦とも一致しなかった。国籍も目的も不明な存在として、〈パサデナ〉は追跡を検討する。

異常な急接近と衝突回避

S15は突如、至近距離まで接近し、衝突寸前の状況となる。セイラー艦長は緊急回避行動を命じ、〈パサデナ〉は激しい旋回と潜航で衝突を回避した。艦内は大混乱に陥るが、最悪の事態は免れた。

謎の消失

衝突を免れた直後、S15は突如としてソナーから完全に消失した。機器故障の可能性も検証されたが、異常は確認されず、目標は痕跡すら残さなかった。

幽霊潜水艦「トイ・ボックス」の噂

タケナカ副長は、この現象が「トイ・ボックス」と呼ばれる幽霊潜水艦の噂と一致すると語る。音もなく現れ、音もなく消え、どの高性能艦も追跡に失敗しているという存在であった。

世界的脅威の示唆と報告決断

もしその潜水艦が核兵器を搭載していれば、世界規模の破滅を引き起こしかねない。事態を重く見たセイラー艦長は司令部への報告と浮上を決断し、指揮を副長に委ねて発令所を後にした。

艦長の私的な決意

去り際、セイラー中佐は「トイ・ボックス」の艦長への強い敵意を胸に抱き、その正体と再会を強く望むのだった。

同時刻強襲揚陸潜水艦〈トゥアハー・デ・ダナン〉

テッサの悪寒と発令所の状況

テレサ・テスタロッサ大佐は発令所で突然悪寒を覚え、マデューカス副長に気遣われたが、空調のせいだとして受け流した。〈トゥアハー・デ・ダナン〉の発令所は広く、各部署のクルーが専門任務に就き、隣室のソナーや通信部門とも連携する体制にあった。

〈パサデナ〉への接近と演習の実態

ソナー員デジラニ軍曹は、米軍潜水艦〈パサデナ〉が浮上しつつあることを報告し、〈デ・ダナン〉が背後に張りついていた事実を軽口混じりに語った。テッサは相手に申し訳なさを示しつつも、演習相手が乏しい事情から、米軍艦艇を相手に接近・監視・回避の試験を行っている現状を受け入れていた。試験結果として、通常推進での静粛性には調整の余地があると判断された。

帰還航行の開始と高性能艦の描写

整備基地のあるメリダ島へ戻るため、電磁流体制御をパッシブにし、通常推進を再始動して前進原速で航走を開始した。可変ピッチ・スクリューが形状を変え、静粛性と効率を最適化しつつ、巨大な船体はほとんど音を立てずに前進した。テッサは日本の漁船操業海域での事故を避けるため、ソナー室に特定方位の警戒を指示した。

艦内の変化とテッサの評価

マデューカスは、当初は若年のテッサが艦長であることに反発していたクルーが、今では評価を一変させた経緯を回想した。四か月前の順安事件での操艦が決定打となり、彼女の技量と度胸が艦内に浸透した結果、艦は彼女を中心に据えた独特の秩序を帯びるようになっていた。

千鳥かなめの来訪予定と相良宗介への含み

テッサは基地帰還後に誕生パーティを予定し、翌日に千鳥かなめをメリダ島へ招くよう相良宗介軍曹へ依頼していたことを語った。マデューカスは、テッサが宗介の話題で声を弾ませたことを見逃さず、必要なら彼を遠ざける判断も視野に入れ、艦長周辺への「妙な虫」を警戒していた。

タスキング受信と進路変更命令

航走開始から一時間後、マザーAIが回線E2のタスキング受信を告げ、電文が転送された。テッサは帰還中止と進路南下を命じ、マデューカスに電文を回した。最優先命令では、区域L6-CWで事態B20cが発生し、現任務を中止して陸戦隊搭載後、指定海域へ五〇〇時間以内に進出・待機することが指示されていた。

事態B20cの正体と新たな戦争の予感

目的地は南方のペリオ諸島であり、テッサはB20cを化学兵器貯蔵施設が武装グループに襲撃・占拠された事態だと即座に断定した。爆破されれば住民と観光客に甚大な被害が及び、国家が消滅しかねないと見積もった。米軍による鎮圧が想定される一方で、状況次第では〈ミスリル〉の介入が不可避となり、テッサは再び戦争になると覚悟を口にした。

八月二六日 一三三〇時(日本標準時間)

移動中の相良宗介の困惑

相良宗介は、〈ミスリル〉西太平洋基地メリダ島へ向かう途中、双発ターボプロップ機の機内で千鳥かなめの不機嫌さに焦っていた。出発時のかなめは上機嫌で、セスナ機で八丈島へ向かう段階までは旅行に期待していたが、八丈島で宗介が目的地を〈ミスリル〉基地と明かし、さらにテレサ・テスタロッサ大佐がかなめに会いたがっていると説明した途端、かなめは黙り込み、無言のまま態度を硬化させた。

不機嫌の表面化と通信呼び出し

宗介が不満の有無を尋ねても、かなめは皮肉を返し、距離を置くように窓へ視線を向けた。宗介は副操縦士からメリダ島経由の連絡を受け、操縦室で同僚クルツ・ウェーバー軍曹と通信する。そこで事態に伴う待機命令が出ており、宗介も可及的速やかに航行中の〈トゥアハー・デ・ダナン〉へ乗艦せよと告げられた。

かなめ同伴の許可と宗介の決断

宗介は、メリダ島に到着できないためヘリでの合流が不可能だと判断し、かなめをどうするか悩んだ。するとクルツから、テッサの伝言として、かなめがよければ艦に同伴させてよいとの許可が伝えられる。宗介は特殊な乗艦方法を伴う点を踏まえつつも、安全性は高いと考え、かなめも連れて行くと決めた。

千鳥かなめの誤解と失望

一方のかなめは、旅行が二人きりの特別な出来事になり得ると悩みつつも、次第に楽しみに気持ちを切り替えていた。しかし八丈島での説明により、今回が宗介の任務の都合で自分が「届け物」のように扱われているのだと理解し、強い脱力と惨めさを覚えて不機嫌になっていた。

目的地変更と水着への着替え指示

宗介はキャビンに戻り、予定変更としてテッサがメリダ島にいないこと、彼女のいる船へ同行してほしいことを告げる。かなめは無関心を装って了承するが、宗介は操縦室との往復を続けて準備を進めた。やがて宗介は水着の有無を確認し、急いで着替えるよう指示する。かなめはトイレでワンピース水着に着替え、戻ると宗介は私服の上からウェットスーツを着ていた。

装備装着と緊迫したタイムリミット

宗介はかなめに完全防水の袋へ手荷物を詰めるよう命じ、さらに頑丈なベルトと金具の付いた装備を装着させた。操縦室側では燃料不足でやり直しができない状況が示され、時間制限の中で宗介はかなめと自分を金具で連結し、二人を固定した。

機外への跳躍と落下

副操縦士がハッチを開けると強風が機内に吹き込み、眼下に海面だけが広がる状況となる。宗介は風向きを確認し、かなめに行くぞと告げ、飛行中の機体からかなめごと機外へ飛び出した。かなめは恐怖で叫ぶが、風音で声はかき消され、空と海だけの視界の中を落下する。

パラシュート展開と着水準備

強い衝撃の後にパラシュートが開き、二人はゆっくり降下する。宗介は着水直前にパラシュートを切り離すため、息を大きく吸うよう指示し、かなめは泣きたい気持ちのまま従った。パラシュートが切り離され、二人は固まったまま海へ落下し、海水と気泡に包まれた。水は覚悟していたほど冷たくなかった。

八月二六日 〇六三八時(グリニッジ標準時)

着水音の探知と減速指示

西太平洋、深度三〇メートルの〈トゥアハー・デ・ダナン〉発令所で、ソナー員が人間サイズの着水音を探知し、方位三七、距離約五〇〇ヤードと報告した。テレサ・テスタロッサ大佐は予定通りだとして針路維持と三ノットへの減速を命じ、収容作業の準備を進めた。

無人艇「タートル」による収容手順

テッサは有線操縦式小型無人艇「タートル」を宗介たちへ向かわせ、ゴダートにコントロールを任せた。タートルは通信機器と光学センサーを備え、AS技術応用で静粛に泳ぐ「泳ぐ潜望鏡」として海上偵察にも使える装備であった。宗介たちは潜水具を付けてタートルにつかまり、潜航中の艦まで曳航され、ハッチ横付け後に気密室を通じて収容される手筈であった。

水面の混乱とテッサの判断

ところがソナー員は、着水した人間が水面で暴れ、激しい水音と悲鳴があるとして溺水の可能性を報告した。濡れたパラシュートが絡んで溺れる事故が想起され、発令所は緊張する。テッサはダイバー待機を指示しかけたが、ソナー員が叫び声の内容を伝えるため音声をスピーカーに回した。

日本語の罵声と救助中止

高性能ソナーが拾った声には、宗介が千鳥かなめに首を絞められかけるようなやり取りと、かなめの激しい罵倒が混じっていた。日本語を理解できないクルーが戸惑う中、テッサは状況を察し、放っておいてよいと不機嫌気味に判断した。

潜航乗艦と艦影との遭遇

騒動の末、かなめは慣れない潜水用具を装着させられ、宗介とともにタートルにつかまって海中へ潜った。海中には巨大な〈トゥアハー・デ・ダナン〉が待っており、かなめは滑らかな曲線と圧倒的な巨体に驚愕し、海中に横たわる黒い山のようだと感じた。

気密室での解放と過去の乗艦の示唆

宗介に導かれ、かなめは船体中央付近の小ハッチから円筒形の気密室へ入った。海水が排出されるとマウスピースから解放され、かなめは潜水艦に乗るとは聞いていないと抗議した。宗介は以前にも乗艦経験があると告げ、当時はもっと手荒で、かなめは意識を失っていたと説明した。

テッサとの再会と乗艦許可

床ハッチから甲板へ降りると、通路でカーキ色の制服を着たアッシュ・ブロンドの少女が待っていた。千鳥かなめは彼女をテッサと呼び、テッサは久しぶりだと微笑して、千鳥かなめの乗艦を許可すると告げた。こうして、かなめは〈トゥアハー・デ・ダナン〉への二度目の乗艦を果たした。

八月二六日 一六二五時(ペリオ標準時)

ベリルダオブ島の戦場化

ペリオ共和国ベリルダオブ島の化学兵器解体基地は、夜の珊瑚礁を照らす爆炎と銃撃音に包まれていた。攻撃ヘリは撃墜され、海面に激突して四散し、戦闘艇は炎上、黒煙が立ちこめていた。島の波打ち際には、アメリカ海軍SEAL所属のAS、M6A3〈ダーク・ブッシュネル〉が大破して擱坐しており、その周囲には金属片と高分子ゲルの血液が散乱していた。

鎮圧作戦の崩壊

鎮圧作戦に投入された部隊は混乱に陥り、無線には被弾報告、救援要請、仲間の死を告げる叫びがあふれていた。だが、それらは次第に絶望的な悲鳴へと変わっていった。原因はただ一つ、正体不明の赤色ASの存在であった。

エド・オルモス二等軍曹の孤立

生き残ったエド・オルモス二等軍曹は、自身の〈ダーク・ブッシュネル〉で海岸を疾走していた。分隊の僚機二機はすでに撃破され、いずれも精鋭の操縦兵であったにもかかわらず、赤色のAS一機によってあっさりと屠られていた事実に、オルモスは恐怖と混乱を隠せずにいた。

赤色のASとの交戦

突風とともに敵機は姿を現し、オルモスは反射的に回避しながらロケット弾と40ミリ砲弾を撃ち込んだ。至近距離での爆発と連続射撃にもかかわらず、敵機は無傷で現れた。暗赤色の細身のASは、未知の機種でありながら、禍々しい力を感じさせる存在だった。

嘲笑と圧倒的性能

赤色のASは外部スピーカーで哄笑し、弾切れを皮肉る言葉を投げかけた。オルモスは最後の抵抗としてハンドガンを撃ち放ったが、弾丸は透明な障壁に阻まれて弾け飛んだ。敵機は指を銃口のように向け、「バーン」と告げた直後、不可視のエネルギーを放った。

最後の瞬間

その力は装甲を無視してコックピットを貫通し、〈ダーク・ブッシュネル〉と搭乗者を内側から爆散させた。オルモスは、何が起きたのか理解する間もなく命を落とした。こうして鎮圧チーム最後のASは沈黙し、機体の正面装甲には、傷一つ残されていなかった。

要するに、米軍精鋭部隊は、理屈の通じない怪物に蹂躙されたというわけだ。戦争という言葉が、また一段と重くなる展開である。

戦闘後の損害確認と勝敗

敵の残存部隊が敗走し、戦闘が終結すると、ガウルンは点呼を行った。配下のASは十機中一機が撃破、一機が左腕を喪失し、歩兵の損害は戦死六名、負傷十名であった。決して軽い損害ではないが、相手が世界屈指の実力を誇るアメリカ軍特殊部隊であったことを考えれば、むしろ幸運と評価できた。一方で敵側はAS十二機が全滅し、ヘリや戦闘艇も半数が破壊され、多数の死体が島に残された。

化学兵器貯蔵庫への移動

ガウルンは自ら操る赤色のASを化学兵器貯蔵庫まで歩かせた。外壁は流れ弾で崩れ、猛毒弾頭を扱う施設とは思えない惨状であったが、彼は意に介さなかった。機体を降着姿勢にして地上へ降り、義足となった右脚の感触を確かめるように立ち尽くした。

〈コダールi〉と過去の因縁

赤色のASは『設計案1058』、通称〈コダールi〉であり、欠陥の多かった旧型『設計案1056』の改良機であった。旧型は四か月前、北朝鮮の山中で〈ミスリル〉の白いASとの戦闘で失われ、その際にガウルンは右脚を失っている。彼はその因縁を思い出し、暗い笑みを浮かべた。

クラマとの合流と新情報

そこへクラマと呼ばれる男が現れ、通信で得た情報を伝えた。〈ミスリル〉が潜水艦で強襲部隊を積み込み、監視ではなく本格的に介入する可能性が高いという内容であった。それを聞いたガウルンは、敵が用意された餌に食いついたと愉快そうに笑った。

新たな餌と歪んだ歓喜

さらにクラマは、ガウルンが執着する二人が同じ潜水艦に乗っているかもしれないと告げた。ガウルンは心底楽しそうに反応し、彼女だけは死なせないと語った。計画上の不満が解消される可能性に、彼は異様な喜びを見せる。

不吉な締めくくり

ガウルンは最後に、事故というものは起きるものだと呟いた。その言葉は軽く投げられた冗談のようでありながら、これから起こる惨事を予告する、不穏な余韻を残していた。

2: 深海パーティ

八月二六日 0八0七時(グリニッジ標準時)

医務室での再会と微妙な空気

かなめは医務室で毛布にくるまり、検査後のココアをすすっていた。久しぶりに会ったテッサは制服姿で引き締まり、以前のラフな格好とは違い「艦長」らしさが際立っていた。艦医ゴールドベリ大尉は「問題なし」と太鼓判を押し、宗介は扉前で直立して待機した。かなめは宗介への怒りと疲労をにじませつつ、テッサとの会話の“実務的すぎる”雰囲気に、かえって胸のざわつきを抑えきれなかった。

艦内案内の準備と「安全のお守り」

テッサは宗介を主格納庫へ先に行かせ、かなめを艦内案内へ誘導した。かなめは着替えの途中で鏡に映る自分を見て妙に張り合い、すぐに我に返って平服へ着替えた。出発前にゴールドベリ大尉から、中性子被曝で色が変わるプレートを渡される。テッサは動力源がパラジウム・リアクターであり、万一に備えた安全対策だと説明し、はぐれないよう注意した。

狭い通路と艦の静粛性

艦内通路は狭く、低い天井にパイプやケーブル、水密扉が並び、かなめが想像した「SF的な通路」ではなかった。航行中のはずなのに機関音も振動もほとんどなく、潜水艦のステルス性が騒音を徹底的に嫌うためだとテッサは語った。テッサは説明中によそ見をしてパイプに肩をぶつけ転び、艦の構造を設計者らしく細部まで言い訳するが、かなめからは「危なっかしい艦長」に見えた。

人気のない艦内と不安

通路では乗員をほとんど見かけず、すれ違った若い乗員も会釈せず避けるように去った。かなめは部外者として歓迎されていないのではと落ち着かなくなる。テッサは英語に切り替える前置きをし、分厚い水密扉の向こうへかなめを導いた。

主格納庫の“敬礼”サプライズ

扉の先は明るく広い格納庫で、装備や兵器が整然と並び、左舷側には約二百人の乗員が三列で整列していた。さらにAS六機も人間同様に並び、その中には宗介の白い機体もあった。マデューカスが大声で号令をかけ、全員がかなめに向けて敬礼した。かなめは突然の主役扱いに言葉を失い、視線の集中に狼狽したが、それは過去の事件で多くの命を救った彼女への最大限の敬意であった。

騒ぎと称賛、そして本音

儀礼が崩れると、乗員たちは拍手や歓声で一気に茶化し始め、かなめは妙な居心地の悪さを覚えた。マデューカスは、結果よりも「困難な状況で何をしたか」が重要だと語り、かなめに誇りを持てと諭した。テッサも同意し、これからささやかなパーティを開くと告げた。

深海パーティの理由

かなめは軍艦で宴会など不謹慎ではと戸惑うが、目的地まではまだ時間があり、そもそも別の理由で予定されていたとテッサは明かした。今日は「この子」の一歳の誕生日であり、その祝宴が深海で開かれようとしていた。

八月二六日 一三三五時(グリニッジ標準時)

深海パーティの始まり

〈トゥアハー・デ・ダナン〉は就役からちょうど一年を迎えていた。本来はメリダ島基地で祝われる予定だったが、急な作戦のため艦内で簡素なパーティが開かれることになった。主格納庫の一角に即席の会場が設けられ、弾薬ケースを利用したテーブルや装飾されたM9が横断幕を掲げ、祝宴の雰囲気を演出していた。

ビンゴ大会とクルツの暴走

テッサの短いスピーチの後、司会役を買って出たクルツ・ウェーバーがビンゴ大会を開始した。三等賞は故障したレーダー部品、二等賞は基地の将校用居住区の空室使用権という微妙な賞品だったが、一等賞として突然「テレサ・テスタロッサ艦長のキス」が発表され、会場は一気に騒然となった。テッサは完全に想定外の事態に動揺するが、クルツは強引に進行を続けた。

緊張の抽選と結果

宗介がリーチを宣言したことで会場はさらに盛り上がり、テッサも内心では激しく動揺する。しかし最終的にビンゴを引き当てたのはゲイル・マッカラン大尉であり、宗介ではなかった。落胆と安堵が入り混じる中、テッサは覚悟を決め、形式的にマッカランの頬へ軽くキスをする。会場は拍手と冷やかしで包まれ、宴会は無事(?)成立した。

宴の加速とかなめの存在感

その後は演奏と歌で完全に宴会モードへ突入し、かなめは周囲に押される形で歌唱を披露する。最初は遠慮がちだったが、次第にノリに乗り、テッサまで巻き込んで熱唱し、クルーたちの喝采を浴びた。かなめは短時間で艦内の空気を掴み、乗員たちと自然に打ち解けていった。

宗介の距離感と内省

格納庫の隅で宗介は一人、かなめたちの様子を眺めていた。彼女の社交性と人を惹きつける力を、戦闘技術よりも価値のある才能だと感じる一方で、自分自身の不完全さを意識してしまう。彼女が遠い存在に思え、思わずため息を漏らす宗介を、クルツがからかうが、宗介は素っ気なく否定した。

束の間の平穏と迫る戦い

騒音厳禁の潜水艦での宴は本来なら危険行為だが、周囲に敵影はなく、作戦前の不安を紛らわす時間として許容されていた。明日になれば再び緊張が支配し、戦闘が始まることを誰もが理解している。それでもこの瞬間だけは、暗雲を忘れたかのように、かなめとクルーたちは音楽と歓声に身を委ねていた。

八月二六日 一五一七時(グリニッジ標準時)

中央発令所の冷気

格納庫の祝宴と対照的に、中央発令所は数字と図表だけが整然と並ぶ無機的な静けさに支配されていた。戻ったテッサを待っていたマデューカスとカリーニンは、米軍特殊部隊の奇襲が失敗し、状況が悪化していると報告した。占拠犯はフランス製AS八機など装備が妙に充実し、要求内容だけが稚拙で、テッサは陽動の可能性を疑った。さらに情報部の追加報告で、米軍ASが「正体不明の赤いAS一機」に全滅させられた事実が判明し、順安で交戦した機体と同型だと確信する。ラムダ・ドライバ搭載の可能性が濃厚となり、テッサは宗介に〈アーバレスト〉とラムダ・ドライバについて、把握している範囲すべてを説明させる方針へ切り替えた。

パーティ後のマオとの会話

片付け中、マオはかなめに声をかけ、テッサと宗介の関係に触れつつ、テッサが航海中に「恋する乙女」になれない理由を語った。艦長として部下に死を命じうる立場である以上、部下の前では公平さを崩せず、特定の誰かへの好意を表に出せないのだと説明した。かなめは同い年の少女が背負う責任の重さを実感し、その残酷さに思いを巡らせたところで、当人のテッサに呼ばれ艦長室へ向かった。

艦長室と艦の素性

テッサは艦の構造と出自を説明し、〈デ・ダナン〉がロシアで建造途中に廃棄されかけた船体を入手し、自分たちが再設計と改修で完成させた艦だと明かした。艦長室は質素だが、かなめの荷物が運び込まれており、ここで寝泊まりするよう告げられる。かなめが写真立てに手を伸ばすとテッサが過剰に止め、そこに宗介に関わる私物があると察したかなめは複雑な感情を抱いた。

ウィスパードの告白

テッサは本題として「ウィスパード」を持ち出し、自分も同じ存在であると明言した。ウィスパードは“存在しない技術”に繋がる知識を得うるが、多くは成長とともに「ささやき声」によって知性が加速し、かなめ自身も理数系の成績の異常で兆候が出ていたと自覚する。さらにテッサは、条件が揃うとウィスパード同士が「共振」し、領域を介して思考を共有すると説明し、それは便利ではなく危険だと釘を刺した。紅茶にミルクを混ぜる比喩で、共振が自己同一性を壊す恐れを示した。

〈アーバレスト〉とバニの死

テッサは〈アーバレスト〉がラムダ・ドライバ搭載機であり、それを作ったのがウィスパードのバニ・モラウタだったと語った。しかし「ささやき」に踏み込む行為は共振以上に危険で、知識を引き出すたびに乗っ取られかねないという。バニはその結果、発狂して自殺したと明かされ、艦長室は沈黙に沈んだ。

狙われる理由と影の護衛

テッサはウィスパードが狙われる現実を説明し、ガウルンの背後にラムダ・ドライバ搭載ASを建造できる組織があり、彼らは既にウィスパードを確保している可能性が高いと推測した。〈ミスリル〉はかなめを孤立無援にしないため、護衛を付けているが、それは宗介だけではないと告げる。かなめが動揺すると、テッサは宗介が囮の役割を担っていることを冷静に認め、かなめは怒りかけるが、テッサは「誰のためか」を考えろと語気を強めて押し返した。宗介が危険を知りつつ黙って任務を引き受けている事実が、かなめの胸を熱くし、同時に自己嫌悪を呼び起こした。

友人としての和解と秘密の誓約

張り詰めた空気は、テッサが宗介への想いをあえて挑発的に語ることでほどけ、二人は笑い合う関係に戻った。最後にテッサは、この話が〈ミスリル〉でも「存在しない事実」とされる最高機密であり、上層部の禁令に逆らって話した重大な違反だと明かす。かなめの父が国連の要職である点も含め、政治的事情で黙らされていたが、危険の放置はできないと判断したのだという。かなめは口外しないと即答し、二人は友人として握手した。

艦内見学と空気の変化

翌朝、かなめは宗介とクルツに艦内を案内され、ソナー室の海の音や兵器類の見学を楽しんだ。宗介はASの操作を危険として強く止め、かなめは前夜の秘密を一切漏らさず普段通りに振る舞った。しかし昼を過ぎた頃、艦内の人影が減り、格納庫も静まり、緊張が広がり始める。理由を問うかなめに、宗介は艦が作戦海域へ近付き、もうすぐ実戦が始まると告げた。

3:水圧、重圧、制圧

八月二七日 一八五七時(現地時間)

八月二七日一八五七時、〈トゥアハー・デ・ダナン〉はペリオ諸島の北東数十キロの海域へ到達していた。海上は穏やかで、夕日に照らされた珊瑚礁の南洋は絵のように美しく輝いていた。

しかし水面下では、その美しさを食い破るように、巨大な船体が赤い光と薄闇の境目を滑っていった。黒いシルエットはナイフやサメを思わせ、優雅で滑らかな曲線の内側に殺戮と破壊の機能を秘めた存在として描かれた。もし全貌を見た魚がいたなら、本能的に逃げ出すだろうという不吉な暗喩が重ねられる。

その艦内では、外の静けさとは裏腹に、戦闘準備が着々と進行していた。

八月二七日 一四三六時(グリニッジ標準時)

八月二七日一四三六時、〈トゥアハー・デ・ダナン〉第一状況説明室にて作戦ブリーフィングが開始された。集められた戦闘員は三三名。作戦前のため、全員がラフな野戦服姿であったが、出撃時には迷彩服や操縦服へと切り替わる予定であった。

作戦概要と敵勢力

カリーニン少佐は前置きなく、米軍の化学兵器解体基地が武装グループ〈緑の救世軍〉によって占拠された事実を告げた。基地はペリオ諸島ベリルダオブ島に存在し、老朽化した神経ガス弾頭を大量に保管している。武装グループは観光産業排除と自然保護を名目に、毒ガス拡散を盾に脅迫を行っていた。

敵勢力は通常型AS九機と自走式対空砲五輛に加え、極めて危険な未知の第三世代型AS一機を保有していることが判明する。この機体はパラジウム・リアクターを動力とし、高度な静粛性と電磁迷彩を備え、米軍特殊部隊を全滅させた存在であった。

未知のAS「ヴェノム」

問題の機体は便宜的に「ヴェノム」と呼称された。通常兵器がほぼ通用せず、遭遇時は交戦を避けて撤退せよという命令が下される。その異例の指示に隊員たちは動揺するが、カリーニンは命令であることを強調し、違反は厳罰に処すと断言した。

ヴェノムの破壊任務は、〈アーバレスト〉を操るサガラ軍曹に一任される。宗介は冷静にこれを受け入れるが、その失敗が作戦全体の破綻と味方全滅につながると明言され、重圧を一身に背負うこととなった。

宗介に課された重責

宗介はこれまで数多の危険な任務を経験してきたが、今回の任務は「自分一人の死」では済まされないものであった。〈アーバレスト〉と千鳥かなめの存在が、彼に失敗を許さない立場を与えていたのである。逃げ場のない重圧の中でも、宗介は感情を表に出さず、「了解しました」と静かに応答した。

部隊編成と突入計画

作戦は水中からの潜入で開始され、撤収はヘリで行う。AS六機は三チームに分けられ、突入班、狙撃班、爆弾処理班が編成された。突入班はマッカラン大尉とサガラ、狙撃班はウェーバーとグェン、爆弾処理班はマオとダニガンが担当する。その他のSRT要員は歩兵分隊長として待機することが決定され、詳細な指示はマッカランから引き継がれた。

こうして、〈デ・ダナン〉は静かな海の下で、破滅的な脅威を制圧するための準備を整えていった。

八月二七日 一六二一時(グリニッジ標準時)
〈トゥアハー・デ・ダナン〉 主格納庫

主格納庫での準備と機体の変貌

ブリーフィング後、宗介は主格納庫へ向かい、〈アーバレスト〉担当の技術士官ノーラ・レミング少尉と打ち合わせを行った。ARX-7〈アーバレスト〉は一晩でダークグレーに塗装され、白い装甲の目立ちやすさを抑える応急的な隠密仕様となっていた。機体はM9同様に人間に近い体型を持ち、柔軟な関節と長い手足、放熱ユニットなど独特の外観が神秘的な印象を強めていた。

ラムダ・ドライバの構成と「分からなさ」

レミング少尉は、ラムダ・ドライバが主に三要素で構成されると説明した。第一はコックピットに搭載されたTAROSであり、搭乗者の神経パルスを読み取り特殊信号へ変換するらしいが、詳細は不明であった。第二は小型冷蔵庫ほどの中核モジュールで、虹色の光束を収めたシリンダーから成るとされるが、機能は解明できていなかった。駆動時には莫大な電力を消費し、予備コンデンサーを必要とし、AI〈アル〉と直結しているにもかかわらず、解析しても関係性が掴めなかった。第三は骨格系で、M9系素材の芯に特殊構造材が鋳込まれ、電気によって内部パターンが変化するが、それが何を意味するかは結局分からなかった。結論として、ラムダ・ドライバは「分からないこと尽くし」の装置であった。

「SGTサガラ」依存という異常性

〈アル〉は起動時に必ず「ラムダ・ドライバの駆動には“SGTサガラ”の搭乗が必要」と表示し、他者を拒否はしないものの、別の操縦者では決して駆動しなかった。表示を消す試みや初期化は失敗し、無理な処置をすると〈アル〉は凍結するという。つまり、宗介の存在そのものが駆動条件になっている異常な状態であった。

技術士官の見立てと宗介への言葉

レミング少尉は、ラムダ・ドライバが「精神力のような何か」を増幅する装置ではないかと推測した。装置を作った人物はすでに死亡しており、詳しく知る者は艦長テッサくらいだとされる。さらに、機体は新規建造が不可能で、予備部品も限られており、次に損傷すればM9部品の流用も視野に入るという制約が明かされた。

それでもレミング少尉は、宗介がぶっつけ本番で二度も駆動に成功した事実を根拠に、宗介には素質があると述べ、「神様がくれたプレゼントだ」と皮肉めいた励ましを与えた。宗介はそれを受け取りつつも、機体の不気味な特別性を改めて突き付けられる形となった。

八月二七日 一六五五時(グリニッジ標準時)
〈トゥアハー・デ・ダナン〉厨房

作戦前の空白と不安

八月二七日一六五五時、〈トゥアハー・デ・ダナン〉の厨房にいた千鳥かなめは、艦内見学にも飽き、強い手持ち無沙汰を感じていた。宗介たちは会議に呼ばれて姿を消し、テッサも朝からほとんど発令所に詰めきりで、かなめは完全に取り残された状態であった。作戦終了後に帰投するまでは艦内で過ごすしかなく、気晴らしとして厨房で調理の手伝いを始める。

艦内放送と戦闘配置

調理を続ける中、艦内放送でテッサが作戦海域進入と第二戦闘配置を告げた。艦自体は戦闘を行わないが、影のように行動するという指示が淡々と伝えられる。放送直後、戦闘配置のベルが鳴り、クルーたちは一斉に持ち場へ散っていった。コックの説明により、戦闘に出るのは特別対応班SRTであり、その中に相良宗介が含まれていることを、かなめは改めて意識する。

宗介を探して

不安に駆られたかなめは厨房を飛び出し、待機室や艦内各所を探し回った末、主格納庫にたどり着いた。そこではすでに武装を終えたASの前で、宗介が技術者と真剣な打ち合わせをしていた。漆黒の操縦服に身を包み、作戦準備に没頭する宗介は、かなめの存在にまったく気付いていなかった。

距離を感じる瞬間

クルツやマオに声をかけられるも、格納庫は出撃直前の緊張状態であり、マオは婉曲に退去を促した。かなめは小さな疎外感を覚えつつ、その場を後にする。振り返った先でクルツが手を振り、マオが詫びる仕草を見せるが、宗介は最後までこちらを見なかった。

残された思い

遠ざかる格納庫を背に、かなめは宗介が世界で最も遠い場所にいるように感じる。これが見納めではないと自分に言い聞かせながらも、胸に残る不安と寂しさを振り払えず、静かにため息をつくのだった。

八月二八日 四○五時(現地時間)
ペリオ諸島 ベリルダオブ島

夜明けの激突

八月二八日四時五分、朝焼けに染まるペリオ諸島ベリルダオブ島で戦闘が始まった。燃えさかる炎の向こうから、二機の〈ミストラルⅡ〉が姿を現し、左右に分かれて高速で接近しながら牽制射撃を繰り返した。

宗介の迎撃判断

相良宗介は凡庸な回避行動を選ばず、〈アーバレスト〉をその場にひざまずかせた。敵の狙いが射撃動作の封殺と次の一手への布石であると見抜き、敢えて動かず反撃に専念した。牽制射撃の中、ショット・キャノンを構えて発砲し、一機を撃破、続けて爆散させた。

近接戦闘とHEATハンマー

弾切れの直後、残る一機が接近戦を仕掛けてきた。敵はHEATハンマーを使用し、爆発を伴う一撃を振るう。宗介は爆風を利用して後退し、武器を即座に判別したうえで接近。〈アーバレスト〉は敵の攻撃をかわし、単分子カッターで制御系を切断し、四機目の撃破を果たした。

戦況の整理

無線には各隊から次々と報告が入った。敵ASと対空砲はほぼ排除され、歩兵は鎮圧、人質も安全を確保された。作戦は順調に進んでいたが、ただ一つ、最大の脅威である赤いAS――ヴェノムだけが姿を見せていなかった。

ヴェノムの出現

捜索の呼びかけの直後、マオからの報告が入る。ヴェノムは基地北東の最も高いビルの上に、ECSも使わず堂々と立っていた。ひし形の頭部、鋭い赤い一つ目、大型のガトリング砲を携えたその姿は、禍々しい存在感を放っていた。

再会の宣告

外部スピーカーから響いた声を聞いた瞬間、宗介は敵の正体を悟る。その声は、かつて倒したはずの男――ガウルンのものだった。赤いASは無骨なガトリング砲を構え、挑発的に名を呼びかける。戦闘は新たな局面へと突入した。

4: ヴェノムがまわる

八月二七日 二○一五時(グリニッジ 標準時)
〈トゥアハー・デ・ダナン〉 主格納庫

帰投と安堵の気配
八月二七日二〇一五時、〈トゥアハー・デ・ダナン〉主格納庫では、作戦を終えたヘリとASが次々と収容された。戦闘員たちは疲労をにじませつつも、生きて戻れた安堵を浮かべていた。千鳥かなめは格納庫の入口でそれを見守り、全員が無事であることを感じ取っていた。マオは軽傷で医務室へ運ばれ、致命的な損害は出ていないことが告げられた。

宗介の沈鬱
相良宗介も無事に帰投していたが、その様子は明らかに落胆していた。視線は床を彷徨い、かなめの存在にも気づかないほど覇気を失っていた。宗介は自らの「ミス」を口にし、仲間に合わせる顔がないと吐き捨てる。死者が出ていないにもかかわらず、彼はラムダ・ドライバを使いこなせなかったこと、〈アーバレスト〉が肝心な場面で操縦者を裏切ったと感じたことに苛立ちを募らせていた。

すれ違いと衝突
かなめは宗介を気遣おうとするが、宗介はその思いを受け止められず、苛立ちをぶつけてしまう。自分に押し付けられた役割や厄介事への不満を並べ立て、護衛任務すら重荷であるかのように語った。かなめは深く傷つき、言い返しながらもその場を去る。二人の間には、戦場以上にどうしようもない距離が生まれていた。

拳による制裁
かなめが去った後、宗介は鬱々とした思考に沈む。そこへクルツが現れ、突然、宗介を殴り倒した。クルツは、作戦で思うように戦えなかった苛立ちをかなめに八つ当たりした宗介を激しく非難する。英雄気取りで独り相撲を取るな、と容赦なく言い放ち、ヤン伍長に止められてその場を去った。

残された重さ
殴られた痛みと血の味を感じながら、宗介は自分がかなめを泣かせた事実にようやく思い至る。作戦は成功し、任務としては問題なかった。それでも、彼の胸に残った重圧と後悔は消えなかった。拳の痛みは新鮮だったが、心の澱は晴れないまま、宗介は格納庫に立ち尽くしていた。

八月二七日 二○一五時(グリニッジ 標準時)
〈トゥアハー・デ・ダナン〉 主格納庫

主格納庫 帰投直後の光景
八月二七日二〇一五時、〈トゥアハー・デ・ダナン〉の格納甲板にヘリが揃って降り、フライト・ハッチが閉じられた。切り離されたASは各スポットへ歩いて膝をつき、ヘリはローターを畳んで牽引され、整備兵とデッキ・クルーが固定や武器弾薬の除装に追われた。千鳥かなめは格納庫入口で落ち着かずに立ち、戦闘帰りの隊員たちの疲労と安堵を見て「全員無事なのか」と確かめようとしていた。

マオの搬送と宗介の落胆
マオが担架で運ばれてきて、かなめは咄嗟に心配するが、艦医ペギーは転倒程度で大丈夫だと告げた。かなめが見送った直後、相良宗介が立っているのに気づき、彼の無事に安堵する。しかし宗介は返事もせず、小型電気トラクターに座り込み、視線を床に彷徨わせて覇気がなかった。艦内では潜航アラームが鳴り、格納庫は人影が薄くなって静まり返っていった。

「ミス」とラムダ・ドライバへの苛立ち
かなめが待機室へ戻らないのかと問うと、宗介は「ミスをした」とだけ言い、操縦服を脱ぎ始めた。死者がいないなら良いではないかとかなめが言うと、宗介は語気を強め、マオは一歩間違えば死んでいたと断じる。続けて宗介は、ラムダ・ドライバの曖昧さにうんざりしていること、〈アーバレスト〉が肝心な場面で操縦者を裏切ると感じていることを吐き出し、あれは兵器ではなくまじないだと罵った。

「ソースケらしくない」への反発と護衛任務の刺さり方
かなめは疲れているのではと気遣い、「らしくない」と言うが、宗介は「軽々しく『らしい』と言うな」と押し返す。四か月前の事件以降、ガウルン、赤いAS、そしてかなめの護衛など厄介事ばかりで自分向きではないと語り、かなめはそれを「迷惑」と受け取って強い衝撃を受けた。かなめが「頼んだわけじゃない、ならやめればいい」と言うと、宗介は「俺にしかできない任務だ」とだけ返し、荒涼とした目で「疲れているのは君の方だ」と突き放し、部屋に戻れと命じた。かなめは会釈もせず力なく去った。

鬱屈の残留とクルツの拳
かなめが去っても宗介は床を睨み、不安と慷慨に沈んだ。ガウルンが生きていること、艦内にいること、〈アーバレスト〉、マオ、ラムダ・ドライバ。見通しの立たなさが頭を重くしていた。そこへクルツが現れ、宗介の左頬に不意打ちの拳を叩き込み、宗介は転げ落ちて口の中を切る。ヤン伍長が止める中、クルツは宗介を「大活躍できなかったから女に八つ当たりした」と罵り、「あんな子を泣かせるな」と怒鳴った。

拳の痛みが突きつけた事実
宗介はその瞬間になって、かなめを傷つけたことに思い至る。クルツは作戦の結果そのものは成功だと整理し、あのASの不確かさも織り込み済みだったと言い残して去った。ヤンは、クルツは励ますつもりでからかおうとしていたが会話を立ち聞きして激昂したのだと説明する。宗介は血を拭い、殴られた痛みと血の味の新鮮さを噛みしめつつも、気分は晴れないままだった。

八月二八日 ○一一〇時(グリニッジ標準時)
西太平洋
アメリカ海軍潜水艦〈パサデナ〉

〈パサデナ〉に下った曖昧な命令
八月二八日〇一一〇時、西太平洋を哨戒中のアメリカ海軍潜水艦〈パサデナ〉には、久方ぶりに艦隊司令部から命令が届いた。その内容は、十二時間以内に近海を通過する可能性がある謎の存在「トイ・ボックス」を探知し、発見できた場合は追尾して可能な限りのデータを収集せよ、というものであった。ただし積極的な行動は控え、ひたすら息を潜めよという、責任だけ重く具体性に欠ける指示であった。

艦長セイラーの苛立ち
〈パサデナ〉艦長キリィ・B・セイラー中佐は、その命令書を読み終えるや否や握り潰し、露骨な不機嫌さを示した。以前、至近距離ですら見失った相手を、半径一〇〇キロという広大な海域で探せという指示は、現実的とは言い難かった。セイラーは司令部自身も成功を期待していないのだろうと皮肉混じりに受け止めていた。

副長との軽口と過去話
副長タケナカ大尉は比較的気楽な態度で、他艦が南方に駆り出されている中、この艦だけが外れた海域に置かれている点を指摘する。セイラーはそれを聞きながら、唐突に少年時代の草野球の思い出を語り始めた。無能な選手ノビーを冷遇していたという、どこか陰湿でどうでもいい昔話であり、タケナカは容赦なくそれを「しょうもない」と切り捨てた。

不毛な口論と結論
その一言をきっかけに、二人は激しい口論と取っ組み合いを始め、周囲の士官に制止される始末となった。無駄な言い争いの末、最終的には艦を変温層の境界に静止させ、「トイ・ボックス」を待ち伏せするという、消極的かつ退屈極まりない方針に落ち着いた。

退屈なはずの十二時間
こうして〈パサデナ〉は、見つかるはずもない標的を待ちながら、十二時間をやり過ごすことになった。少なくともその時点では、艦内の誰もがそれを単なる暇潰しの任務だと考えていた。しかし、その予想が裏切られることになる兆しが、この静かな時間の先に潜んでいた。

八月二八日 〇四三一時(グリニッジ標準時)
〈トゥアハー・デ・ダナン〉 厨房

厨房の隙間に閉じこもる千鳥かなめ
八月二八日〇四三一時、〈トゥアハー・デ・ダナン〉の厨房では、新品の電子レンジとオーブンの間にある暗い隙間に、千鳥かなめがしゃがみ込んでいた。人一人分の肩幅ほどの狭い空間は、殻に閉じこもるには都合が良く、かなめは膝を抱えて陰鬱な感情に沈み込んでいた。宗介との口論が頭から離れず、怒りや失望、悲しみが入り混じり、自分の存在そのものが疎ましく思えてならなかった。

護衛任務からの解放を望む思い
かなめは、翌日になったらテッサに頼み、相良宗介を護衛任務から外してもらおうと考えていた。護衛を別の人物に変えるか、任務自体を打ち切ってもらうかはどうでもよかった。迷惑そうな顔をされながら傍にいるくらいなら、離れた方がいい。それ以上「お荷物」だと思われたくないという感情だけが、彼女の中に残っていた。

カスヤ・ヒロシの気遣い
厨房を預かるカスヤ・ヒロシ上等兵は、かなめの様子を察し、あえて干渉せずにいた。数時間前、宗介が彼女を探しに来た際も、彼は気を利かせて「見ていない」と答えている。疲れ切ったかなめは、その場でうとうとと浅い眠りを繰り返し、目覚めるたびに思考の迷路へと戻っていった。

立ち去りの決断
やがて見かねたカスヤは、学術書を手にかなめへ声をかけ、食事や休息を勧めた。かなめはそれを拒み、艦長室に戻ることにも気が進まないと告げる。誰かと顔を合わせること自体が重荷だったのである。最終的に、困ったように微笑むカスヤの様子を見て、かなめは自分がここでも邪魔になっていると感じ、のろのろと立ち上がって厨房を後にした。

〈トゥアハー・デ・ダナン〉 主格納庫

不審な火災訓練と隔壁の封鎖
主格納庫には「第二機関室で火災、訓練である」という放送に叩き起こされた乗員が雪崩れ込み、手順自体は完璧だったが、不平と倦怠が濃かった。宗介は状況に違和感を覚えた。艦内には重要な捕虜がいて、周囲に敵性艦がいるかもしれないのに、テッサがこんな火災訓練をするはずがないからである。宗介が千鳥かなめの所在を探しても誰も知らず、後部へ向かおうとする宗介は中尉に止められた。訓練上「後部は有毒ガスで全滅」扱いで、水密扉を閉める命令が出たためである。宗介は命令に従うべきだと理解しつつ、扉の向こうにかなめがいる予感に抗えず、閉じる隙間へ滑り込んだ。

クルツとの合流と異変の確信
薄暗い後部通路で宗介はクルツ・ウェーバーと合流した。クルツも避難訓練の異常性を感じており、マッカラン不在、さらにマオが病室から消えたという情報まで掴んでいた。二人は武器も情報も乏しいまま、閉鎖された水密扉だらけの艦内を走り、発令所方面の銃声へ向かった。

ガウルンの乗っ取りと酸素遮断
実際には火災訓練はガウルンの罠であり、乗員を前部格納庫に集めて隔壁をロックさせ、後部の発令所を孤立させていた。発令所ではテッサとかなめ以外のクルーが手錠と鎖で拘束され、ガウルンはAI〈ダーナ〉を「艦長」として扱わせて艦の制御を掌握した。テッサが「格納庫のASで隔壁を破れる」と牽制すると、ガウルンは生活空気供給を逆流させ、前部の酸素を止めると脅し、実行に移した。完全自動モードの艦運用は不効率と事故リスクが高く、艦全体がいずれ破綻することも示された。

テッサの賭けとかなめへの“押し付け”
テッサは〈ダーナ〉を奪還する唯一の手段として、中央コンピュータ室「聖母礼拝堂(レディ・チャペル)」で艦と同化し制御を直接操作する案に至った。しかし実行には艦長室の金庫から「ユニヴァーサル・キー」が必要で、テッサ本人は逃走も戦闘も不可能だった。そこでテッサは“共振”による無言の意思伝達で、かなめに金庫の鍵と暗証番号を書いた紙片を渡し、ユニヴァーサル・キー回収とレディ・チャペル到達を託した。かなめは「とんでもないことを押し付けられた」と直感しつつ、事態は待ってくれなかった。

発令所での発砲とかなめの脱出
ガウルンがかなめの手元を疑った瞬間、テッサは隠していた小型拳銃(ワルサーTPH)でガウルンを掠め撃ちし、続けて出口のグェンへ発砲して隙を作った。かなめは躊躇なく駆け出し、ダニガンに服を引き裂かれながらも驚異的なバランスで逃走し、銃弾を浴びせられても止まらず通路へ消えた。残されたテッサは弾切れとなり、ガウルンの暴力と脅迫を受ける立場に戻った。

艦長室での鍵回収と“見てはいけない写真”
かなめは追跡をやり過ごし、靴もパーカーも捨てて裸足で艦長室へ辿り着いた。テッサの合鍵で入室し、金庫を暗証番号で開いて「UNV刻印のユニヴァーサル・キー」を入手する。だが金庫奥の写真立てを見てしまい、テッサと宗介が並ぶ写真に強く動揺した。自分は部外者で、ただのお荷物だという感覚が再燃し、なぜここまでして動いているのか分からなくなりながらも、かなめは自動的に行動を続け、鍵を持ってレディ・チャペルを探す決意だけは捨てなかった。

ミサイル発射と前部クルーの酸欠
ガウルンはテッサへの「ペナルティ」として、浮上して近傍の米海軍フリゲート艦を探知させ、〈ハープーン〉対艦ミサイルを発射する命令をAIに与えた。テッサが必死に止めても間に合わず、ミサイル発射音は前部格納庫にも届いた。同時に前部では酸素供給が止められ、乗員は頭痛と息苦しさで倒れ始め、マデューカス中佐も判断力を失っていった。隔壁封鎖から三〇分で事態は致命域に入り、救援も指揮系統も機能しないまま艦全体が崩壊へ向かい始めた。

マデューカスの遅すぎた決断
マデューカス中佐は、発令所から返事が返らず、AIが「待機せよ」としか言わない状況に、ようやく“慎重すぎた”と気付いた。隔壁閉鎖から三〇分が経過し、もはや悠長に様子見している時間はないと判断し、後部へ人員を送って状況確認しようとした。ところが前部では酸素供給が止められており、頭痛と息苦しさで乗員が次々に倒れ始め、命令を出す本人の身体すら言うことを聞かなくなる。OBAマスク着用や手動パネル操作、M9で隔壁を破る指示が口から途切れ途切れに出るが、最後は膝から崩れ落ちて意識が沈む。本人は理解していないが、酸欠で全滅しない程度に“まだ生かされている”のは、かなめの用心深さが作戦の鍵を運んでいるからであるという皮肉が添えられている。

米原潜〈パサデナ〉が攻撃を確信する
同時刻、別海域の攻撃原潜〈パサデナ〉は、友軍フリゲート艦へのミサイル攻撃を探知した。発射主体は「トイ・ボックス」だと判断され、しかもそれが理性的な軍事行動ではなく、味方を平然と撃つ“狂った敵”の振る舞いに見えるため、艦内は一気に戦闘モードへ切り替わる。艦長は血気にはやって戦闘配置を命じ、実弾のADCAP魚雷準備を怒鳴り散らす。結論は単純で、見つけ次第沈めるしかない。こうして〈パサデナ〉は殺意の塊みたいな勢いで、まともに戦える状態にない〈デ・ダナン〉へ接近していく。人間の思い込みって便利だよな。一回「敵だ」判定が出ると、全員が正義の顔で引き金を引く準備を始める。

〈トゥアハー・デ・ダナン〉後部第四甲板

迷子のかなめと、ダニガンの「遊び」
かなめは後部第四甲板で完全に迷子になり、扉と行き止まりだらけの艦内を地下迷宮みたいにさまよっていた。物音に怯えながら進むうち、真正面からダニガンに捕まる。腕を掴まれ、片腕で投げ飛ばされ、扉が開いた拍子に船室へ転がり込む。ダニガンは銃ではなくナイフを持ち、捕獲ではなく“いたぶる遊び”としてかなめに逃走を強要し、子供みたいな笑顔で追い詰めていった。

宗介とクルツの合流失敗、グェンの裏切り
遠方で悲鳴を聞いた宗介とクルツは、第一状況説明室でリャン一等兵の死体と拘束具の抜け殻を発見し、異常事態を確信して第四甲板へ急ぐ。しかし階段付近でグェンが現れ、9mm自動拳銃で二人を牽制する。宗介たちは武器がなく、クルツの鉄パイプしかない。クルツは自分が囮になると決め、宗介に「かなめを助けろ、ちゃんと謝れ」と押し出し、宗介が階下へ突っ走る。

厨房の死闘と“おろしがね”の逆転
かなめは食堂から厨房へ追い込まれ、包丁や道具を投げても通じず、壁際で首を掴まれ、ナイフで喉を切られかける。だが最後の瞬間、手に掴んだのは武器ではなくABS樹脂のおろしがねだった。それをダニガンの顔面に叩きつけ、左顔面の皮膚が剥けるほどの損傷を与えて動きを止める。直後に宗介が突入し、ダニガンは拳銃で反撃するが、宗介は冷蔵庫のドアを盾にしつつ包丁を投げて隙を作り、最後は蹴り倒して決着をつけ、ダニガンは絶命する。人間、最終的には台所用品でも勝てる。文明の利器ってすごいな。

「お荷物じゃない」と「ひとりで平気じゃない」
助け起こされたかなめは、身体より胸が痛いと感じつつ、自分が危険を冒して動き回っていた理由を掴む。「あたしは、お荷物なんかじゃない」と泣きながら言い切る。宗介は不器用に謝罪し、かなめが何度も宗介を救ってきた事実を認め、「君がいるから、俺はいまここにいる。だから『ひとりでも平気』だなどと言わないでくれ」と告げる。かなめは宗介の手の温かさに触れ、関係が最悪のまま終わらなかったことが、ようやく現実になる。

新しい“音”と、魚雷の脅威
その直後、艦内に金属が船体に当たるような甲高い音が響く。宗介はそれを攻撃ソナーの音だと判断し、どこかの潜水艦が〈デ・ダナン〉に魚雷を撃とうとしていると告げる。救出劇の直後に、今度は艦ごと沈むかもしれない話が来る。人生って、本当に空気読まない。

USS〈パサデナ〉

〈パサデナ〉が“獲物”を捉える
USS〈パサデナ〉は、〈デ・ダナン〉こと“トイ・ボックス”が再び深海へ潜り、北へ増速している航走音を捕捉した。針路は北、速度は約30ノット、距離は約4マイル。しかも以前のような滑らかな機動ではなく、事故寸前だった数日前と比べても明らかに騒音が大きく、艦の動きが荒れている。〈パサデナ〉側から見ると、「これは手負いで制御を失ってる」としか思えない状況で、攻撃判断を後押しする材料になった。

攻撃原潜の“正しい仕事”、ADCAP魚雷
〈パサデナ〉は攻撃ポジションへ滑り込み、アクティブ・ソナーで目標位置を確定する。搭載するADCAP(Mk46系の最新モデル扱いの魚雷)が、雷速60ノット超・炸薬約300kg級という「当たれば終わり」性能であるため、撃てば沈むという確信がある。艦内は緊張し、副長タケナカが「マジですか」と確認するが、艦長セイラーは「逃せばこちらが殺られる」と断言し、交戦を決める。

一本目を撃つ理由がいやらしい
セイラーは容赦無用で3番発射管からまず1本だけ発射する。圧縮空気で射出された魚雷は気泡の尾を引いて突進。ここが一番いやらしいポイントで、1本目で相手に回避機動を強要し、数分遅らせて2本目を撃って“逃げた先に刺す”二段構えにする算段だ。優しさゼロ、効率100%。軍隊って感じがする。

タイムリミットが発生する
計算上、1本目の魚雷が“トイ・ボックス”に到達するまで約6分。つまり〈デ・ダナン〉側は、ガウルンの暴走と艦内の内乱に加えて、「6分以内に魚雷回避か対処をしないと全員まとめて海の藻屑」という、ありがちな最悪イベントが確定した。

〈トゥアハー・デ・ダナン〉中央発令所

中央発令所:魚雷接近、詰みかける
〈ダーナ〉が「方位291.8、水中に高速スクリュー音。魚雷1基、接近中」と淡々と告げ、海図には魚雷マークがじりじり迫る様子が映る。残り5分もない。超電導推進が使えず、振り切りは不可能で、命中すれば巨艦でも沈む見込みとなった。テッサはガウルンに操艦権の返還を迫るが、ガウルンは「沈むなら豪勢な自殺だ」と笑い、そもそも生還への執着がないことが露呈する。結果、ガウルンは深度1500フィートへの無茶な潜航を命じ、艦は限界深度を越えて圧壊寸前へ落下していった。

艦内:内憂外患の地獄が同時進行する
一方でクルツは、裏切ったグェンに通路で追い詰められる。グェンは「500万ドルで潜水艦まるごとだ、寝返れ」と金で釣り、クルツは悪趣味な冗談で拒絶し、消火器で即席の煙幕を作って接近戦に持ち込む。しかしグェンは拳銃とナイフ両方に長け、クルツは負傷して膝をつく。そこへメスが飛び、グェンの首筋と胸を刺す。投擲の主はマオで、朦朧とした下着姿のまま現れ、クルツの接近戦センスを酷評しつつ状況を把握できていない様子を見せる。魚雷の探信音が迫り、クルツは「カメラがねえ」と悪態をつきながら絶望する。

レディ・チャペル:TAROSの中枢と“別人”のかなめ
宗介はかなめが言った「レディ・チャペル」に心当たりを見つける。それは第三甲板奥の黒塗り“機密区画”で、宗教施設のない艦内方針から「聖母礼拝堂」だと推測される。到着した部屋にはASコックピットのような構造物があり、《転送と応答「オムニスフィア」/System103…》の刻印があった。宗介はそれがTAROSだと気付き、かなめは「アーバレストのTAROSより旧式」「ラムダ・ドライバではなく艦の制御系に接続」と言い当て、別人のように落ち着いた口調で理解を進める。そして宗介に「今度は、わたしを助けに来てくれますか?」と微笑み、主導権がかなめ側へ移っていく。

発令所:テッサが“復活”し、魚雷を外す
圧壊領域まで残り100フィート、背後には魚雷。発令所は騒音と警告で地獄絵図だったが、ガウルンが「面舵いっぱい、囮も撒け」と叫んだ瞬間、正面スクリーンが一瞬ブラックアウトする。直後、テッサが顔を上げると、瞳には絶望がなく、冷徹な意思と静かな自信が宿っていた。彼女は〈ダーナ〉に「合図で対抗手段1番2番を深海モードで射出」と命じ、〈ダーナ〉は「アイ・マム」と応答する。テッサは極限まで魚雷を引き付け、合図と同時に囮を射出、続けて緊急ブローを指示し、バラストを高圧空気で強制排水して急浮上する。突発的な機動とノイズで魚雷は目標を見失い、囮へ突進して直下で炸裂する。衝撃は凄まじくテッサも叩きつけられるが、それでも艦は風船やロケットのように舞い上がり、生存の目をこじ開けた。

USS〈パサデナ〉

〈パサデナ〉:外しやがった、という衝撃
セイラー艦長は「避けた、だと!?」と吐き捨て、部下の報告で“緊急ブローで急速浮上中”だと知る。魚雷の探知円錐から逃げるには、ぎりぎりまで引き付けて急激に動くしかないのに、あの巨体でそれをやり切ったのが信じられず、セイラーは艦長の度胸を罵倒混じりに称える。タケナカ副長も唖然とし、「とんでもない度胸だ」と認める。

残る現実:二本目はまだ生きている
問題は“感心してる暇がない”ことだった。遅れて発射する前提だった二本目の魚雷が、まだ『トイ・ボックス』に向かって走っている。命中まで残り3分。人間が感動に浸る時間は、魚雷のスケジュール表には載っていない。

〈トゥアハー・デ・ダナン〉

〈トゥアハー・デ・ダナン〉の主導権奪還
緊急浮上によって艦は海面へ飛び出し、甚大な衝撃を受けながらも船体は耐え切った。発令所では、テレサ・テスタロッサが主導権を完全に取り戻し、艦の各システムは彼女の意思に呼応するかのように正常化していった。これは〈ダーナ〉の制御ではなく、別系統からの直接制御によるものであった。

千鳥かなめとTAROSの完全同期
千鳥かなめは〈トゥアハー・デ・ダナン〉最深部のTAROSと完全に同調していた。彼女は艦の制御系と精神的に接続し、動力炉やバラスト、艦内構造を自らの身体の一部として認識していた。ラムダ・ドライバはその力の一形態に過ぎず、艦とのシンクロもまた「オムニ・スフィア」の応用であると理解していた。

発令所への突入とガウルンの逃走
左舷側の扉から相良宗介が発令所へ突入し、ガウルンと銃撃戦となった。ガウルンは被弾しながらもテレサを盾に取り、混乱に乗じて右舷側から逃走した。宗介は追撃を試みるが、艦の制御回復と迫る第二の魚雷への対応を優先し、発令所に残る判断を下した。

第二魚雷の接近と回避の成立
米軍潜水艦〈パサデナ〉から放たれた二本目のADCAP魚雷が接近するが、魚雷は一定深度以上へ浮上できない安全設定が施されていた。〈トゥアハー・デ・ダナン〉の緊急浮上により、魚雷は目標を捕捉できず、艦の周囲を旋回するのみとなった。この設定を事前に見抜いたテレサの判断により、艦は完全に撃沈を免れた。

生還と決着への覚悟
危機を脱した発令所では、クルーが艦の制御を再開し、テレサは気絶したまま保護された。宗介は彼女の無事を確認した後、逃走したガウルンを追うため艦内を駆け出した。この対峙が最終局面に近いことを、宗介は直感的に悟っていた。

USS〈パサデナ〉

USS〈パサデナ〉の追撃決断
二本目の魚雷も回避されたことで、セイラー艦長は激昂した。〈トゥアハー・デ・ダナン〉が魚雷の安全深度設定を読んでいた可能性、あるいは偶然である可能性を副長が示唆するが、艦長はそれを一蹴した。

安全深度解除と再攻撃命令
セイラーは魚雷の安全深度制限を解除し、再度の攻撃を命令した。一番および二番発射管への注水が指示され、即時発射準備に入る。これは、友軍誤射のリスクを承知の上での判断であり、〈パサデナ〉がもはや慎重さを捨てたことを意味していた。

浮上による攻撃態勢への移行
追加の魚雷を発射するため、〈パサデナ〉自身も浮上を開始した。これは位置を晒す危険な行動であるが、それでもなお〈トゥアハー・デ・ダナン〉を沈める意志が撤回されていないことを示している。

〈トゥアハー・デ・ダナン〉

格納庫の被害とマデューカスの復帰
緊急浮上の衝撃で主格納庫は凄惨な状態になり、多くの乗員が床に叩きつけられて負傷した。だが機体や弾薬類は厳重に固定されていたため最悪の大惨事は免れ、マデューカス中佐は「積荷固定の規律」を改めて徹底しようと決意した。隔壁扉や空気供給など艦機能も、誰かの介入で急速に復旧していった。

ガウルンの脱出と「赤いAS」への到達
ゴダートとの通話で、ガウルンが左肩を負傷しつつ逃走した事実を掴んだマデューカスは、格納庫で不審な東洋人兵士が赤いAS〈ヴェノム〉へ駆け寄るのを目撃した。兵士は熟練の手つきでジェネレーターを接続し、周囲をサブマシンガンで牽制して搭乗する。〈ヴェノム〉は起動し、拘束ワイヤーを引きちぎって立ち上がった。

格納庫での決戦開始
格納庫近傍には弾薬庫や魚雷発射室、燃料貯蔵など危険物が集中しており、下手に対戦車兵器を撃てば艦そのものが吹き飛ぶ。そこへARX-7〈アーバレスト〉が起動し、宗介がガウルンと格納庫両端で対峙する構図が成立した。宗介は恐怖と喪失を直視しつつも「絶対に許さない」と殺意を明確にして踏み込んだ。

単分子カッター戦の加速とラムダ衝撃波
互角に見える機体性能の中で、勝負を決めるのは搭乗者のセンスと殺意となった。宗介は〈ヴェノム〉の装甲を裂き、膝蹴りで壁に叩きつけるなど優勢に進めるが、ガウルンはラムダ・ドライバの指向性衝撃波「指鉄砲」を放つ。〈アーバレスト〉は対抗機能で内部損傷を防ぎ、宗介は思考を捨てて殴打で押し切り、敵機のセンサーを破壊し、左腕駆動系も潰した。

ガウルンの自爆とエレベーターの罠
追い詰められたガウルンは「自爆」を選び、〈アーバレスト〉に全身を絡めて離れない。さらに二機を載せたエレベーターが上昇し、嵐の中でフライト・ハッチが自動開放される。発令所には丸文字で《心配しないで、すべては幸せになるよ》と表示され、誰かが自爆を看破して“甲板に運ぶ”手を打ったことが示された。

蒸気カタパルトで強制射出
甲板先端まで這って捨てに行く時間は足りない。そこで宗介は蒸気カタパルトの射出台を利用し、ワイヤーガンで射出台のフックに絡め、さらにワイヤーを〈ヴェノム〉に巻き付けて「出せ」と叫ぶ。射出台の爆発的加速で二機は先端へ叩き出され、宗介側はワイヤーガンのアンカーが甲板に残って命綱となる一方、ワイヤーガンを持たない〈ヴェノム〉は嵐の海へ落下し、直前で300kg爆薬の大爆発を起こして消えた。

かなめの“同調”と帰還
かなめはTAROSを介して艦と一体化し、艦の機能を直接復旧させていた。フライト・ハッチの閉鎖、再潜航準備、高圧空気充填の進行など、艦の「息吹」を感じ取りつつ、超電導推進が復帰すれば〈パサデナ〉の魚雷も振り切れると見通す。彼女は領域から離脱し、聖母礼拝堂で目を覚ますが、以前なら忘れていたはずの“仕組み”や“力”の理解が、今回はまだ残っていた。

USS〈パサデナ〉

USS〈パサデナ〉:追撃失敗と艦内の空気

ソナー員は『トイ・ボックス』が急速に遠ざかっていると報告した。深度は約500、速度はおそらく50ノット超であり、〈パサデナ〉の魚雷では捕捉できない見込みだった。つまり、完全に逃げられた状況であった。

タケナカ副長はその結論を端的に引き取り、「逃がした」と認めたうえで、敵艦の性能を「すごい船」と評した。

セイラー艦長は落胆し、ADCAPを4発も撃ちながら成果が出なかったことを「バカ丸出し」と自嘲する。するとタケナカは「仕方ない。だってバカなんだから」と突き放すように言い切り、艦長の怒りを直撃した。

セイラーは逆上してタケナカに掴みかかり、周囲の乗員が慌てて制止に入った。

エピローグ

喪失と帰結

死者と責任の所在
死者は四名であった。裏切りに関与したダニガンとグェンに加え、マッカラン大尉とリャン一等兵が命を落とした。マデューカス中佐らは「事態の規模を考えれば二名の戦死で済んだのは奇跡」と評したが、艦長テッサの心情は沈んだままであった。彼女は結果の重さを自ら引き受け、強い自責を抱いていた。

内通者の余波
事件を知ったカリーニン少佐もまた深い責任を感じていた。内通者が自らの管理下にあったSRT要員から出たこと、そして副官を失ったことが彼を追い詰め、彼は密かに何かを決意した様子であった。その中身は、この時点では誰にも知られなかった。

点呼と不在の名
メリダ島基地到着後、恒例の点呼が行われた。テッサは全員の名を暗記しており、地下ドックを歩きながら一人ずつ呼名した。マッカラン大尉とリャン一等兵の名には「パトロール中です」と返答がなされ、冷酷な事実だけが残った。裏切り者の名は、SRTにもPRTにも存在しなかった。

別れの儀式
遺体は基地から移送され、同僚に担がれて棺が送り出された。遺族には民間警備会社勤務中の事故死として通知され、詳細は伏せられた。テッサは遺族へ手紙を書くことすら許されず、それがこの道の掟であると理解していた。かなめは、この出来事を通じてテッサの背負う重さを知った。

慰めの瞬間
かなめに促され、宗介はテッサのもとへ向かった。誰もいない通路で言葉を交わしたのち、テッサは宗介の胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。かなめはその光景を遠くから見届け、静かに身を引いた。

三十分の逃避
東京行きの便まで残りわずかの時間、宗介はかなめを基地北部の海辺へ連れ出した。彼が差し出したのは釣り竿であり、そこは彼だけが知るという秘密の釣り場であった。時間は三十分。成果は何もなかったが、二人は並んで糸を垂らし、短い静けさを共有した。

小さな結び
魚は一匹も釣れなかった。だが、その三十分は、嵐の後に訪れた確かな休息であった。宗介は、かなめと共にいることで自分が前へ進めると語り、かなめは笑ってそれを受け止めた。喪失の重さを抱えたまま、物語は静かに幕を下ろした。

フルメタル・パニック! 2巻
フルメタル・パニック! 4巻

同シリーズ

フルメタル・パニック! 1巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
フルメタル・パニック! 1の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
フルメタル・パニック! 2巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
フルメタル・パニック! 2の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
フルメタル・パニック! 3巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
フルメタル・パニック! 3の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。

外伝

フルメタル・パニック!Family 1巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
フルメタル・パニック! Familyの表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
フルメタル・パニック!Family 2巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
フルメタル・パニック! Family 2の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
フルメタル・パニック!Family 3巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
フルメタル・パニック! Family 3の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。

その他フィクション

e9ca32232aa7c4eb96b8bd1ff309e79e 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレ
フィクション(novel)あいうえお順

戦国小町苦労譚18巻の表紙画像(レビュー記事導入用)

漫画「戦国小町苦労譚 19巻 上杉臣従」感想・ネタバレ

物語の概要

本作は戦国時代を舞台とする歴史ファンタジー・時代コミックである。現代日本から戦国時代にタイムスリップした歴女・静子が、織田信長の配下として農業改革や戦略立案を通じて歴史を変えていく姿を描く。第19巻では、信濃の上杉家が織田家への臣従を申し出るという重大な情報がもたらされ、それを受けて謙信が大軍を率い、織田信長のいる岐阜城へと赴く展開が描かれる。静子の周囲では越後の命運が揺れ、戦国の勢力図が大きく動く。

主要キャラクター

  • 綾小路静子(あやのこうじ しずこ)
    本作の主人公である歴女の女子高生。戦国時代にタイムスリップし、現代知識を武器に織田信長の元で活躍する。農業・政治・戦略あらゆる領域で才覚を発揮し、信長の評価を高めている。戦国の混沌を生き抜き、越後の動きにも深く関与する存在である。
  • 織田信長
    戦国時代屈指の戦国大名。静子の能力を評価しつつ、時に大胆な戦略を採る人物。上杉家臣従の申し出を受け、新たな局面に直面する。
  • 上杉謙信
    越後の戦国大名。織田家との関係を再構築するため、臣下の礼を取るべく岐阜城へ進軍する。戦略眼と武勇を兼ね備えた存在として物語に登場する。

物語の特徴

本作の魅力は、“戦国時代のリアルな歴史描写”と“現代知識を持つ異邦者の活躍”という二つの軸を鮮やかに融合している点である。静子が農業・経済・戦略といった現代的知識を駆使し、戦国大名たちの行動に影響を与えることで、歴史の常識が変容していくという構造が醍醐味である。

第19巻は越後・上杉家と織田信長の関係という大きな歴史的節目を描き、戦国の命運を賭けた“臣従の礼”という政治的事件が物語の中心となる。単なる戦闘描写にとどまらず、外交・情報戦・人間ドラマが重層的に描かれており、歴史ファンにも読み応えのある構成となっている。

書籍情報

戦国小町苦労譚上杉臣従19
著者:沢田一 氏
原作:夾竹桃  氏
キャラクター原案:平沢下戸  氏
出版社:アース・スター エンターテイメントアース・スターコミックス
発売日:2025年12月12日
ISBN:978-4-8030-2233-9

ブックライブで購入 BOOK☆WALKERで購入

(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。

あらすじ・内容

目を見張らんばかりの大邸宅に引っ越した静子。
引っ越しの慌ただしさが落ち着いた頃、
静子を訪ねてきた与六。
与六が持参したのは謙信からの手紙。
そこに書かれていたのは、
上杉家が信長の配下に入るという申し出だった!
間もなくして多勢を率いた謙信が、
臣下の礼を取るため信長のいる岐阜城へ──。
「小説家になろう」発人気時代小説コミカライズ、
越後の命運揺れる第19巻!!

戦国小町苦労譚⑲ 上杉臣従

感想

侵略してきた武田を退け、その武田と敵対していた上杉が自主的に織田に臣従する。
この一手で、織田家の天下が事実上固まったと感じさせたが、まだ西には毛利、東には北条がいる状態。
あくまでも天下統一が見えただけで、実際はまだまだコレから。
それは織田信長も感じているようで、本人も自身を自制するシーンが散見された。

本巻で強く印象に残るのは、軍事だけでなく貨幣の主導権を織田が握り、日本の経済が織田中心へ傾く布石が打たれた事であった。
数百年前に貨幣を中国から輸入して、鐚銭が出回っていたこの時代。
その貨幣を紙幣に変えて、経済から日本を統一する。
その中心に若い女性の静子がいるという構図は、この物語の特徴ともいえる。

一方で、その「特徴」が全員に歓迎されるわけではない点が、この巻を単なる祝祭に終わらせない。
織田家の内側ですら、静子の存在に納得する者と、割り切れない者がいる。
合理と感情、先見と不安が交錯し、同じ結果を見ていても評価が分かれる。その温度差が、物語に緊張を与えていたが静子の周りには彼女の理解者しか居ないので本人が嫌な思いをすることが無いのが救いであった。

上杉の臣従は、織田家の天下統一への意味では極めて合理的であった。
だが、それが人の心まで整えてくれるわけではない。
謙信が臣下の礼を取る場面に漂う空気は、勝者と敗者の単純な図式ではなく、時代が一段階進んでしまったと感じさせた。
静かであるが、重い礼。

静子という存在もまた、称賛だけで包まれない位置に立った。
彼女の判断が正しかったことは、結果が証明している。それでも、その正しさが周囲の価値観や誇りを削っていく事実は消えない。
静子が中心にいるからこそ、歪みもまた彼女から広がっていく。その描かれ方が、このシリーズらしい構図であった。

総じて本巻は、「天下統一が見えた」瞬間を描きながら、同時に「ここからが面倒だ」と告げる巻であった。
戦国が終わりに近づくほど、人は割り切れなくなる。
織田の覇道が確定的になった今、その中心に立つ静子が、どれだけの理解と反発を背負って進むことになるのか。その先を見届けずにはいられない一冊であった。

そう言えばこの後に上杉謙信は禁酒させられるんだよな…
あの酒宴の笑顔は最初で最後になるのか…(遠い目)

最後までお読み頂きありがとうございます。

ブックライブで購入 BOOK☆WALKERで購入

(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。

登場キャラクター

近衛静子

近衛家に連なる立場で、織田信長のもとで政と現場の両方に関わる人物である。自分の思いつきだけで動かず、報告と確認を重ねて物事を進める。信長や周囲から能力を注目され、標的としても見られている。

・所属組織、地位や役職
 近衛家の人物である。織田方の政策や整備事業に関与する立場である。
・物語内での具体的な行動や成果
 信長の茶室で、南蛮の奴隷を買った件の調査状況を報告した。
 新居の屋敷を拠点として、来客対応と政務の場を整えた。
 月一回の試験的な休日制度を提案し、尾張近郊の整備事業で導入させた。
 信長に対し、信用にもとづく貨幣の仕組みを説明した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 信長から十万石の話を告げられ、規模の大きさに動揺した。
 本願寺側から「鍵を握る人物」として名指しされ、弱点を探られる対象になった。
 信長の激怒の場で発言が通り、意見を述べる立場として描かれた。

織田信長

織田方の頂点に立ち、戦と政の判断を一手に握る人物である。感情を見せる場面はあるが、結論は統治者として出す。静子の提案を聞き、使える形に落としこもうとする。

・所属組織、地位や役職
 織田家の当主である。軍の総大将として出陣した。
・物語内での具体的な行動や成果
 静子を茶室に呼び、南蛮の奴隷の件を問いただした。
 静子の移住祝いとして十万石を与える案を示した。
 本願寺と和睦を結び、条件提示で主導権を握った。
 上杉家の臣従文書を確認し、使者の与六に直接問い質した。
 新通貨の構想に関心を示し、発行の時機を判断した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 武田を討った戦果を前提に、褒賞が威信に関わると述べた。
 親族に強い怒りを向け、半年の猶予を与える判断を下した。
 上杉景勝と直江兼続を尾張に留める決定を下した。

与六

上杉家の家臣で、使者として近衛静子のもとに現れた人物である。軽口をたたくが、任務を最優先にしようとする。文書を届けたあと、人質に近い形で留め置かれた。

・所属組織、地位や役職
 上杉家の家臣である。織田方への使者である。
・物語内での具体的な行動や成果
 連絡なしで静子邸を訪れ、対面の場を作らせた。
 上杉謙信の臣従を示す正式な降伏文を差し出した。
 岐阜城で信長の問いに答え、決断が熟考の末だと述べた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 臣従が破られた場合の覚悟を問われ、自分の命を差し出す意志を示した。
 静子邸に留め置かれ、保護と人質の両方の意味を持つ立場になった。

上杉謙信

越後の大勢力を率いる武将であり、織田方に臣従する決断をした人物である。形式だけではなく、存続のための選択として頭を下げる。信長の前で儀礼を行い、情勢を決定的に動かした。

・所属組織、地位や役職
 上杉家の当主である。越後の勢力を率いる。
・物語内での具体的な行動や成果
 精鋭五千を率い、春日山城を出立して岐阜へ向かった。
 岐阜城で臣下の礼を取り、織田への臣従を所作で示した。
 静子邸の宴に一行で参加し、静子に礼を尽くしてあいさつした。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 臣従によって、越後の立場が大きく変わった。
 反織田勢力に衝撃を与え、情勢が織田優位へ傾く引き金になった。

足満

上杉謙信の行軍に同行し、現場で即断する人物である。神仏への恐れを示さず、障害物は排除する姿勢を貫く。近衛前久とは遠慮のない関係として描かれる。

・所属組織、地位や役職
 上杉謙信の同行者である。側近の一人である。
・物語内での具体的な行動や成果
 道をふさいだ神輿を障害物と判断し、崖下へ落とした。
 兵が動けない状況で行軍を再開させ、隊を前へ進めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 神罰をおそれる周囲と対比され、異端的な印象を残した。
 謙信に、目的のために切り捨てる現実を突きつける役になった。

近衛前久

足満と並走し、皮肉と軽口を交わす人物である。足満の態度を当然として受け止め、関係の近さが示される。謙信の同行者として行軍に加わる。

・所属組織、地位や役職
 上杉謙信の行軍に同行する人物である。
・物語内での具体的な行動や成果
 道中で足満と会話を続け、緊張の中でもやり取りを保った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 足満との遠慮のない友誼が、謙信の内省を引き出す材料になった。

濃姫

静子の新居に祝いとして訪れる人物である。静子を観察し、女の場の空気を読んで動く。要求の裏に、静子を孤立させない意図を持っていた。

・所属組織、地位や役職
 織田信長の周辺にいる人物である。
・物語内での具体的な行動や成果
 新居祝いとして大量の鯛を持ちこみ、静子を困らせた。
 静子の秘蔵の甘味を食べ尽くし、そのまま屋敷を去った。
 静子についての妬みや同情の流れを分析し、考えを巡らせた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 静子への高度な要求が、孤立回避の策でもあったと示した。
 信長の兄の子を静子の養子にする話題を出し、波紋を生んだ。

前田慶次

静子の馬廻衆として警備にあたる人物である。場の緊張を読んで、空気を崩すようなふるまいも見せる。警備の報告役としても動く。

・所属組織、地位や役職
 静子の馬廻衆である。警備の担当である。
・物語内での具体的な行動や成果
 宴が大きくなる見通しを口にし、状況を受け入れさせた。
 屋敷内で不審者を捕らえ、静子へ報告した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 静子邸が警戒と統制を要する場になったことを示す役回りになった。

可児歳三

静子の馬廻衆として動く人物である。騒ぎにのまれず、即応できる配置を取る。準備を淡々と進める姿が描かれる。

・所属組織、地位や役職
 静子の馬廻衆である。警備に関わる。
・物語内での具体的な行動や成果
 宴の拡大を見越し、すぐ動ける形で配置についた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 場の安全を支える一員として、裏方の軸になっている。

森長可(勝蔵)

静子の馬廻衆として動き、警備体制の引きしめを意識する人物である。前田慶次と同じ馬廻衆であるが、血縁ではない。療養場面で上半身裸の描写がある。

・所属組織、地位や役職
 静子の馬廻衆である。警備の担当である。
・物語内での具体的な行動や成果
 宴が大きくなる兆しを見て、警備の厳格化を意識した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 前田慶次と兄弟ではなく、血のつながりもないと明言された。

明智光秀

静子邸の夜の場で、来客対応に追われる人物である。屋敷の外れで小間使いの珠を叱責する。静子の制止でその場を収める。

・所属組織、地位や役職
 織田方の人物である。静子邸で来客対応を担う。
・物語内での具体的な行動や成果
 職務を外れた珠を見つけ、仕事中であると叱った。
 静子の言葉を受け、叱責を終えて場を離れた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 静子が屋敷内の人の動きにも口を出せる立場だと示す対比になった。

静子邸で働く小間使いである。仕事中に職務を離れ、猫と遊んでいた。光秀に叱られ、深く謝罪した。

・所属組織、地位や役職
 静子邸の小間使いである。
・物語内での具体的な行動や成果
 職務を離れて猫とたわむれ、光秀に見つかった。
 叱責を受け、あわてて謝罪した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 屋敷が大勢の来客を抱え、規律が求められる場だと示す材料になった。

武藤喜兵衛(真田昌幸)

養子として武藤家を継ぎ「武藤喜兵衛」と名乗った後、兄たちが戦死したため真田家に戻り「真田昌幸」を名乗る。
大藤城で敗北した事実が明言される。敗戦は個人の失策ではなく、武田側全体の敗北として整理される。

・所属組織、地位や役職
 武田陣営の人物である。
・物語内での具体的な行動や成果
 大藤城で敗北したと語られた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 敗北が戦全体の帰結として扱われ、これ以上の流血回避の判断につながった。

上杉景勝

上杉家の人物として、人質受け入れの対象になった。信長の決定で尾張に留め置かれる。場面は簡素で、形式的なやり取りのみが描かれる。

・所属組織、地位や役職
 上杉家の人物である。
・物語内での具体的な行動や成果
 尾張に留まる場で名を述べ、受け入れの手続きが進んだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 同盟保証のための人質として扱われる立場になった。

瑠璃

尾張の技術町で、絨毯の技術を伝える人物である。異国での経験をもとに、現場で実地指導を行う。おだやかな態度で教え、評価を得ている。

・所属組織、地位や役職
 尾張の技術町で指導にあたる人物である。
・物語内での具体的な行動や成果
 織機の前で職人に絨毯づくりを教えた。
 作業の進みを安定させ、現場の評価を得た。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 教える者として定着し、技術伝承の中心になっている。

弥一

金属加工の工房で働く職人である。口数は少ないが、基本技術を周囲に示す。奴隷時代との比較で、今の待遇を肯定する発言をする。

・所属組織、地位や役職
 金属加工の職人である。工房の作業者である。
・物語内での具体的な行動や成果
 基本の技を惜しまず見せ、日常的に技術共有を行った。
 会話で、今の働き方が昔より良いと述べた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 技の共有を通じて、現場の底上げに関わっている。

紅葉

尾張農園で温室の植物を管理する人物である。ニームを育て、記録をこまかく付ける。成功だけでなく失敗も残す姿勢を持つ。

・所属組織、地位や役職
 尾張農園の作業者である。植物管理を担う。
・物語内での具体的な行動や成果
 温室でニームを栽培し、成長の変化を観察した。
 栽培記録を続け、小さな変化も残すと説明した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 記録の意義が評価され、作業が継続される流れになった。

虎太郎

静子邸の書庫で翻訳を担う人物である。語学に通じ、電子辞書を補助にして作業を進める。静子と地動説を話題にし、観測と実証の話へ進む。

・所属組織、地位や役職
 静子邸の書庫で翻訳作業を担う人物である。言語学者としての経歴がある。
・物語内での具体的な行動や成果
 西洋由来の書物を翻訳し、区切りのよい所まで進めた。
 静子と縁側で地動説について対話し、歴史的経緯を説明した。
 観測機材の必要性を共有し、研究の継続に意欲を示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 静子から今後の協力を求められ、翻訳と研究の軸として位置づけられた。

展開まとめ

九十一幕 新居

信長邸・茶室での対面

1573年4月、静子は新居に移って間もなく、信長の茶室へ呼び出され、献茶の席に入った。信長は南蛮の奴隷を購入した件について静子の調査結果を尋ね、静子は足満が素性調査を徹底したこと、今後も継続して注視すると報告した。

引っ越し祝いと破格の加増案

信長は静子の移住完了を確認し、祝いとして「10万石を与える」と告げた。静子は新居が十分であるとして辞退しようとしたが、信長は近衛家と静子個人に5万石ずつ与える計算であると説明した。
ここで作品は、石高の概念とその換算価値(現代評価で100億円以上に相当)を提示し、静子が受領不可能な規模であることが描かれた。

加増の理由と管理体制

信長は、武田を討った功にふさわしい褒賞を与えなければ自身の威信に関わると述べ、静子に広大な領地を与える意図を示した。また、土地管理の補佐官も派遣する予定であるとし、静子が適切に活用することを期待した。

静子の困惑と茶席の締め

信長は静子が領地をどう使うか楽しみだと語り、茶が冷める前に飲むよう促した。静子は圧倒的な加増案に動揺しつつ茶を口にした。

尾張への帰還と与六の独白
与六は尾張へ向かう道中、尾張を離れてから一年が経過したことを振り返っていた。道は以前より整備され、人や荷の往来も増えており、静子の施策による変化が目に見える形で現れていた。与六はこれを「静子殿の仕事」であると認識していた。

道中での気の緩みと自制
与六は静子の着任祝いとして酒盛りをしたい気持ちを一瞬抱いたが、自身に課された重要な任務を思い出し、軽率な行動を戒めた。軽口を叩きつつも、気を引き締めて尾張へ向かう姿が描かれた。

新居への帰還と拠点の完成
京での用事を終えた静子は新居へと戻った。そこには本殿・裏殿・側殿を中心とした大規模な屋敷が完成しており、堀と城壁に囲まれた構造は城郭拠点と呼べる規模であった。新居は居住、政務、来客対応、生産、警備を兼ね備えた複合施設として整備されていた。

屋敷機能の多層化と管理負担
本殿は信長も使用する公的空間、裏殿は静子と侍女たちの生活空間、側殿は織田家武将や信長専用の宿泊施設として区分されていた。敷地内には衛兵詰所、厩舎、家畜施設、畑、ビニールハウスが配置され、自給と生産を前提とした構造となっていた。一方で、五万石の追加加増により、静子は管理体制の再構築が不可避であることを痛感していた。

濃姫の来訪と引っ越し祝い
新居には濃姫が引っ越し祝いとして訪れた。濃姫が贈った祝いの品は大量の鯛であり、桶に詰められたその数は常識的な消費量を大きく超えていた。静子はその物量に強い衝撃を受け、対応に頭を抱えることとなった。

秘蔵の甘味と日常の侵食
一方で、濃姫は静子の屋敷に滞在する中で、静子が秘蔵していた甘味を次々と口にしていった。それらは祝いの品ではなく、静子が個人的に保管していたものであったが、濃姫は悪びれる様子もなく食べ尽くした。

濃姫の退場と静子の困惑
甘味を食い尽くした後、濃姫はそのまま屋敷を去った。残された静子は、大量の鯛と空になった甘味を前に、新居で始まる新たな日常が平穏とは程遠いものであることを改めて思い知らされていた。

静子邸への来訪者
静子が新居での生活を整えていた折、使者の来訪が告げられた。現れたのは上杉家の家臣・与六であり、彼は事前の連絡もなく静子邸を訪ねてきた。静子はその無遠慮さに疑問を抱きつつも、遠路を考慮して対面の場を設けた。

最重要任務を抱えた与六の動揺
与六は食事を勧められても「最重要任務が先である」と辞退したが、腹の音がそれを裏切った。結果として膳が用意され、与六は任務を優先しようとしつつも、場の流れに従い話を続けることとなった。

差し出された降伏文書
与六は本題として文書を差し出した。それは上杉謙信が織田家に臣従することを示す正式な降伏文であった。静子は文面を慎重に読み込み、その内容が駆け引きではなく、覚悟を伴った決断であることを理解した。上杉家が戦わずに頭を下げるという選択は、戦国の常識から見ても異例であった。

岐阜城での報告と信長の判断
文書は岐阜城へ届けられ、織田信長の前でその内容が確認された。信長は即座に使者を呼び出し、与六に直接問い質した。与六は「御実城様の熟考の末の決断である」と答え、家臣としての立場を崩さなかった。

臣従の覚悟と人質の意味
信長は与六に対し、約定が破られた場合の覚悟を問うた。与六は迷いなく自らの命を差し出す意志を示し、その姿勢は臣従が形式ではなく現実のものであることを裏付けた。与六はそのまま静子の邸に留め置かれ、保護と人質の両義的な立場に置かれることとなった。

静子の受け止め方
静子は、上杉謙信が武名や誇りよりも越後の存続を選んだ結果であると受け止めた。敗れてから降るのではなく、価値を保ったまま頭を下げるという判断は、冷酷でありながら合理的であった。ここで描かれるのは戦の勝敗ではなく、為政者が下した「選択」の重さである。

独座する信長の内省
広い座敷に独り座した信長は、静かに思考を巡らせていた。背を向けた構図と無言の間によって、外部との対話はすでに終わり、判断の段階に入ったことが示されている。

武田討伐の達成
信長の独白として、「武田を倒し」という認識が示される。これはすでに成し遂げた事実として扱われており、誇示ではなく、冷静な戦果確認として描かれている。

上杉の動向への評価
続けて「上杉までをも配下に治めたか」という言葉が浮かぶ。ここでの上杉は、完全制圧ではなく、臣従という形で勢力下に収めつつある段階として認識されている。

満足ではなく、未完の自覚
信長は小さく歯を鳴らし、「未だだ」「未だ未だ」と自らに言い聞かせる。大きな成果を得ながらも、それを最終地点とは捉えていない姿勢が強調される。この場面では歓喜や嘲笑は描かれず、むしろ覇業が途上にあるという自己認識が前面に出ている。

九十二幕 知己 

上杉謙信の降伏が各地に波及
上杉謙信の降伏は、各方面に大きな衝撃を与えた。作中では複数の有力者の反応が示され、特に反織田勢力の中核である本願寺が強く動揺した様子が描かれている。上杉という大勢力の臣従は、情勢が決定的に織田優位へ傾いたことを意味していた。

和睦を申し入れる勢力の出現
信長のもとには、和睦を申し入れる動きが届く。岐阜城の描写とともに、対立を続けるよりも従属を選ぶ勢力が現れ始めたことが示され、戦局が「戦う段階」から「整理される段階」へ移行しつつあることが強調される。

独座する信長の冷静な評価
信長は広間に独り座し、上杉の件を受けて現状を見渡す。「くっくっく」「大慌てだな」と語るが、それは勝利に酔った笑いではなく、敵勢の動きを冷静に見下ろす観察者としての反応である。「臣下の礼も済んでおらぬ」という言葉からも、彼が形式や順序を重視していることが分かる。

時間を得たことへの認識
信長は、和睦を受け入れることによって「奴らに時間を与えることになる」と理解した上で、それでもなお選択肢として成立すると判断している。ここでは感情的な快楽や嘲弄は描かれず、政治的・戦略的な視点のみが前面に出ている。

次を見据える視線
最後に描かれる山並みの遠景は、信長の関心がすでに次の局面へ向かっていることを象徴している。上杉の降伏は通過点に過ぎず、覇業はまだ途上であるという認識が、静かな余韻として残されている。

春日山城出立と上洛行
上杉謙信は精鋭五千を率いて春日山城を発ち、岐阜へ向かう。形式上は織田家への臣下の礼を取るための行軍であるが、謙信自身は信長と本願寺の和睦を全面的には信じ切っていなかった。そのため、行軍には足満や近衛前久といった側近が同行している。

道中に生じる違和感と軽口
行軍の途上、謙信は漠然とした違和感を覚えていた。一方で足満と近衛前久は並走し、皮肉と軽口を交わす。足満は常に苛立ちを隠さず、前久はそれを面白がるようにからかう。この二人の関係は険悪に見えて、実際には遠慮のない友誼に基づくものであった。

神輿による進路妨害
道を塞ぐように神輿が置かれているのを一行は発見する。神輿は神が鎮座するものとされ、兵たちは神罰を恐れて足を止める。ここで行軍は一時停滞し、緊張が走る。

足満の判断と実行
迷いなく動いたのは足満であった。足満は神輿を神聖視せず、障害物として即断する。「捨ててしまえ」という判断のもと、神輿を道から排除し、崖下へ落とす。兵たちはその行動に動揺するが、足満は一瞥もくれず行軍を再開する。

神威への恐れと対比
周囲の兵や武将が神罰を畏れる中、足満だけは神仏に対する恐怖や敬意を一切示さない。その態度は異端的であり、同行者たちに強い印象を残す。一方で近衛前久は、その姿勢を当然のものとして受け止めていた。

謙信の内省
足満と前久のやり取りを見た謙信は、彼らの関係を眩しげに見つめる。利害や立場を超えて本音で言葉を交わせる友の存在を、謙信は羨ましく感じていた。自身にはそうした友がいないという自覚が、静かに胸をよぎる。

行軍の継続と覚悟
障害を排した一行は、再び西へ進む。神威も世俗的な評判も切り捨て、目的のために進むという姿勢が、足満の行動を通じて明確に示された。謙信はその現実を受け止めた上で、岐阜へ向かう覚悟を新たにする。

新静子邸周辺の植生確認と静子の感覚

静子は新静子邸周辺で、カカオ、コーヒー、ライチ、マンゴスチンなどの植生を確認していた。いずれも順調に育っているものの、自生地と比べて生育速度が大きく変わらない点に違和感を覚え、環境要因やストレスが成長に影響している可能性を考え始める。木の香りや空気に触れながら、戦や鉄砲とは無縁だった日々を思い出し、静子は一時的な安堵を得ていた。

与六の合流と日常への引き戻し

静子が森の中で思索に沈んでいると、与六が合流する。与六は静子の立場を気遣い、無防備な外出を咎めつつも、軽い調子で会話を交わす。静子は与六の指摘に渋々同意し、二人のやり取りは新静子邸での穏やかな日常を象徴するものとなっていた。

新築祝いが宴へと変質する兆し

静子は新築祝いを「軽く」済ませるつもりでいたが、屋敷には祝儀の品が次々と集まり、事態は想定外の方向へ進む。倉には贈答品が積み上がり、表向きは控えめな祝いであっても、周囲の認識はすでに大規模な祝宴であった。

馬廻衆の動きと警備の現実

前田慶次、可児歳三、森長可(勝蔵)の三名は、静子の馬廻衆として動いていた。宴の規模拡大を察した勝蔵は警備体制の厳格化を意識し、歳三は即応可能な配置を取る。一方、慶次は場の緊張を察しつつも、それを意図的に崩すような振る舞いを見せ、結果として場の空気を和らげていく。

上杉勢来訪と宴の不可避性

上杉勢の来訪が確定すると、静子はもはや内輪の祝いでは済まないと悟る。警備は一段階引き上げられ、邸内は厳戒態勢に入るが、それでも宴を避ける選択肢は存在しなかった。慶次は「どうせ大宴会になる」と笑い、歳三は淡々と準備を進め、勝蔵は全体を引き締める役に徹する。

軽い祝いのはずだったという静子の独白

静子は当初「軽く祝うだけ」と考えていた自分の見通しの甘さを内心で認める。新静子邸を中心に人と物が集まり、彼女の意思とは無関係に状況が動いていく現実を前に、静子は静かに覚悟を固めるのであった。

信長と本願寺の密約成立

1573年5月、信長は本願寺と和睦を結んだ。武田討伐を終えた直後の判断であり、表情からは迷いのなさがうかがえた。この和睦は単なる停戦ではなく、信長側が主導権を握った上での条件提示であった。

本願寺での条件協議

本願寺では、織田から提示された和睦条件が検討された。条件は各地の道路整備や経済発展への出資であり、表向きは双方に利益がある内容であったが、実質的には織田の影響力を各地に浸透させるものであった。

通貨発行権という異質な要求

協議の中で、織田家が通貨発行権の承認を求めていることが明らかとなった。当時流通していた通貨は劣化が進み、限界を迎えていたとはいえ、通貨発行は国家権力の根幹に関わる異例の要求であり、本願寺側はその真意を測りかねていた。

織田の狙いへの疑念

本願寺側は、織田が領土拡張や賠償金を求めてこなかった点に違和感を覚えた。武力による正面突破ではなく、経済と制度から支配する意図があるのではないかという疑念が共有される。

武田滅亡と上杉の従属

信長は武田を一日にして葬り、戦わずして上杉を従わせたと語られる。その結果を前に、本願寺側は織田の手法が従来の戦国の常識から外れていることを再認識する。

鍵を握る人物の存在

議論の中で、織田の背後に「鍵を握る人物」が存在することが示唆された。武力でも外交でも説明がつかない一連の動きの中心に、特定の存在がいる可能性が浮上する。

近衛静子への注視

その人物として名前が挙がったのが近衛静子であった。全てにおいて優れた能力を持つ存在として認識され、本願寺側は彼女を軽視すべきではないと判断する。

弱点を突く方針の決定

織田家を正面から武力で攻めることは不可能と結論づけられ、本願寺は方針を転換する。近衛静子を重点的に注視し、弱点を突き崩すことで状況を打開する策が選ばれた。

九十三幕 歓迎

岐阜城での対面と時代背景の提示
1573年6月、岐阜城。重厚な城郭描写とともに、舞台が織田信長の本拠であることが明示される。城内では家臣団が整然と列座し、異例の来訪を迎える緊張感が支配していた。

上杉謙信の登場と空気の変化
上杉謙信は正装で姿を現し、堂内の視線を一身に集めた。その表情は厳しく、感情を抑えたものであり、この場が儀礼ではなく政治的決断の場であることを示していた。

信長と謙信の沈黙の応酬
信長は上座に座し、謙信を静かに見据える。言葉は最小限で、互いの力量と覚悟を測る沈黙が続く。両者の視線の交錯が、この会見の本質が対等な交渉ではなく、歴史の転換点であることを強調する。

謙信の決断と臣従の所作
謙信は畳に手をつき、深く頭を下げる。形式上の臣従を示す明確な所作であり、この瞬間をもって越後の立場が決定的に変化したことが示された。「またひとつ大きく歴史が動いた」というモノローグが、その重みを言語化する。

日本列島図による勢力構造の可視化
地図描写によって、織田の支配が越後にまで及んだことが示される。これにより、日本の中心に織田・徳川・上杉の壁が成立し、三国が連なる構造が成立したことが示唆された。

信長の勢いと時代の加速
信長の勢力はここからさらに加速すると語られる。一向宗などの反信長勢力は、もはや個別の抵抗では対抗できない局面に追い込まれつつあることが、旗印や構図によって暗示される。

謙信の内面と覚悟の強調
謙信は「騙るなかれ」と自らに言い聞かせるような表情を見せる。これは屈服ではなく、時代を見据えた選択であることを示す描写であり、武人としての矜持が完全に失われたわけではないことが示されている。

儀式の完了と新秩序の成立
臣従の儀が終わり、場は静かに収束する。派手な歓声や祝賀は描かれず、淡々とした空気の中で、新たな秩序が成立したことだけが確定事項として残された。

尾張・新静子邸の全景

尾張に築かれた新静子邸の全景が描かれ、山と田畑に囲まれた広大な敷地と、大規模な屋敷構えが示される。静子の拠点が並の屋敷ではないことが視覚的に強調される。

来客の到着と静子の迎え

静子は来客を笑顔で迎え入れ、丁寧な挨拶を交わす。新居披露の場として、正式に客を迎える雰囲気が整えられている。

上杉謙信一行の参加

上杉謙信が家臣を伴って姿を見せ、静子に対して礼を尽くした挨拶を行う。場は内輪の集まりという枠を越え、名だたる武将が集う宴へと変化していく。

屋敷への感嘆と宴への期待

客たちは屋敷の立派さに感心しつつ、自然と料理や酒の話題へと移っていく。静子のもてなしへの期待が率直な言葉として交わされる。

大規模な酒宴の始まり

宴は次第に人が増え、広間には多くの武将が集まる大規模な酒宴となる。酒と料理が次々と運ばれ、場は一気に賑やかさを増していく。

宴の盛り上がり

会場では杯が交わされ、笑い声と掛け声が飛び交う。酒が足りないと不満を漏らす声や、さらに料理を求める声が上がり、宴は勢いを増していく。

静子の対応と距離感

静子は宴に完全には沈み込まず、騒ぎすぎないように釘を刺しつつも、多少の酒には付き合う姿を見せる。主催者として場を制御しながらも、空気を壊さない立ち位置を保っている。

馬廻衆による警備

宴の裏では、静子の馬廻衆である前田慶次、可児歳三、森長可(勝蔵)が警備に当たっている。騒がしい宴の最中でも警戒を怠らず、場の安全を支えている。

静子邸の静かな夜と甘味の時間

夜の静子邸はすでに宴の喧騒を離れ、建物の外観だけが静かに描かれる。静子は一人で甘味の時間を楽しんでおり、用意していたのはクサイチゴを使ったショートケーキであった。酸味のあるクサイチゴをジャムにし、生クリームと合わせたもので、静子自身が「最高」と感じる出来栄えである。

ケーキは来客用として多めに作られており、並んだホールケーキを前に静子は作り過ぎたことを自覚する。それでも食欲は止まらず、もう一つ手を伸ばそうとした瞬間、頭の中でふくよかな自分の姿が想像され、思わず踏みとどまる。

最後は屋敷全体を俯瞰する描写とともに、静子が小さく「だめだめ……」と自制する場面で締めくくられ、宴の余韻や権力構造の示唆ではなく、完全に私的で日常的な静子の姿が描かれている

女子衆の集まりと静子不在の違和感
静子邸の一角では女子衆の集まりが開かれていたが、当の静子は姿を見せていなかった。集まった女性たちはその不在を当然のように受け止めつつも、静子の立場や振る舞いについて率直な意見を交わしていた。場は落ち着いているものの、静子を巡る評価と距離感が静かに浮かび上がっていた。

女の役割と静子の異質さ
女の務めとは何かという話題の中で、婚姻し子を成し家を支えることが当然とされる価値観が示される。一方で静子は、武田を倒し政にも功績を挙げながら、その枠組みに当てはまらない存在として語られた。女子衆の視点では、静子は有能であるがゆえに、かえって扱いに困る存在でもあった。

濃姫の独白と観察
場面は濃姫の専用の部屋へ移り、濃姫は静子について静かに考えを巡らせていた。静子は誰にも成し得ない成果を挙げ続けているが、それゆえに妬みや陰口、失礼な扱いを受けかねない立場にあると認識している。濃姫はその現状を冷静に分析していた。

感情の変化と静子への評価
濃姫は、以前よりも静子への妬みの声が減ってきていることに気づいていた。同時に、同情が集まり、場の空気が和らぎつつあることも理解している。静子という存在が、周囲の感情を変化させていることを濃姫は感じ取っていた。

要求の意図と狙い
濃姫は、静子に対して無茶とも思える高度な要求を繰り返してきた理由を振り返る。それは静子を追い詰めるためではなく、彼女が女社会の中で孤立しないための策でもあった。濃姫自身、その狙いが伝わったかどうかを静かに考えていた。

軽口と本音の境界
濃姫は「考えすぎだ」と自らを制しつつも、静子の反応を面白がる余裕を見せる。冗談めかした仕草の裏には、静子の身を案じる現実的な判断があった。静子を守るために策を巡らせていることが、さりげなく示される。

養子の話題と新たな波紋
最後に、信長の兄の子を静子の養子にするという話が示される。この一言により、静子の立場が個人の問題ではなく、家と社会を巻き込むものになりつつあることが明確になった。場の空気は一変し、次の展開を予感させて締めくくられる。

夜の静子邸と人の気配

夜の静子邸では宴が続いており、多くの来客が集まっていた。屋敷の広さと賑わいから、この場が私邸でありながら半ば公的な集会の場として機能している様子が描かれていた。明智光秀はその場で来客に声を掛けられ、対応に追われていた。

珠の油断と光秀の叱責

その頃、屋敷の外れでは小間使いの珠が職務を離れ、猫と戯れていた。そこへ光秀が現れ、仕事中であることを忘れている珠を厳しく叱責した。珠は慌てて謝罪し、他の小間使いが皆働いていることを指摘され、自身の失態を自覚した。

静子の介入と場の収拾

叱責の場に静子が現れ、光秀に制止を求めた。珠は深く詫び、静子は状況を受け止めつつ、その場を収めた。光秀は静子の言葉に応じ、叱責を終えて場を離れた。

慶次の登場と警備の報告

その後、警備を担当していた前田慶次が現れ、静子に報告を行った。屋敷内で不審者を捕らえたことが伝えられ、静子は事態を把握した。宴の裏で、屋敷がすでに警戒と統制を必要とする場になっていることが示されていた。

九十四幕 恩義

密書の確認と捕縛者の正体

静子は慶次と共に牢を訪れ、捕縛されている女の存在を確認した。慶次が差し出した文書によって、その女が重要な情報を握っていることが示唆されるが、静子自身は感情を表に出さず、静かに状況を受け止めていた。

武藤喜兵衛と武田陣営の敗北

話題は武田陣営の現状へと移り、武藤喜兵衛が大藤城で敗北したことが明言された。この敗戦は個人の失策ではなく、戦そのものが武田側の敗北であったと整理され、これ以上の流血を避けるための判断であったことが語られた。

真田家の立場と内部対立

真田家は武田家に従うべきだという主張があったものの、実際には反対派と大揉めしていた状況が示された。真田昌幸は主を強く諫めた結果、現在の立場に追い込まれたことが示唆され、家中の不安定さが浮き彫りになった。

捕縛された女の役割

牢に囚われた女は、真田家の反対派に属する間者であり、争いの中で重要な役割を担っていた存在であった。彼女は責を一身に負わされる立場にあり、その命が政治的判断の材料となっていることが示された。

静子の判断と距離感

静子は首級や即断即決を求められながらも、それを拒み、自身の判断で事を進める姿勢を示した。感情的な同情や敵意ではなく、状況全体を見据えた冷静な対応であり、慶次もまたその判断を静かに受け止めていた。

新居完成と一件の収束

最終的に、静子邸の新築祝いが無事に終わったことが描かれ、この一連の出来事はいったんの区切りを迎えた。捕縛者の処遇や真田家の問題は未解決の余地を残しつつも、表向きの混乱は収束した状態で幕を閉じている。

人質受け入れの正式決定

信長は上杉家との同盟関係の保証として、上杉景勝と直江兼続を尾張に留める決定を下した。二人は酒宴などを伴わない簡素な場で名を述べ、信長は形式的なやり取りのみでこれを了承した。この場面では歓待や私的交流は描かれず、政治的判断として淡々と処理されている。

尾張・技術町への場面転換

時代は天正元年六月中旬。舞台は尾張の技術町へ移る。ここでは絨毯の製作現場が描かれ、職人たちが実際に手を動かしながら技術を吸収している様子が示された。作業は地道であり、華やかな演出はない。

瑠璃による絨毯技術の共有

瑠璃は織機の前に立ち、かつて異国で培った経験をもとに、職人たちへ実地で指導を行っていた。彼女は威圧的な態度を取らず、丁寧で穏やかな対応を心がけており、その姿勢が周囲から好意的に受け止められていた。ここでは「教える者」と「学ぶ者」の関係が落ち着いた日常として描かれている。

技術伝承の評価と安定

職人たちは瑠璃の指導を高く評価し、作業の進捗も安定していることが示された。苦労の過去に触れる台詞はあるものの、感傷的な回想には踏み込まず、現在の成果に焦点が当てられている。

金属加工職人・弥一の紹介

場面は金属加工の工房へ移り、弥一が登場する。弥一は寡黙ながらも確かな腕を持つ職人として描かれ、基本技術を惜しみなく周囲に示していた。日常的な指導の積み重ねが、自然な技術共有につながっていることが強調されている。

労働環境と価値観の対比

弥一は作業後の会話の中で、奴隷時代と比べれば現在の待遇は雲泥の差であると語った。長時間労働ではあるが、自らの意思で働き、報酬を得られる現状を肯定的に受け止めている姿が描かれている。

尾張農園での紅葉の仕事

舞台は尾張農園へ移り、紅葉が温室内で植物を管理する様子が描かれた。紅葉はインド原産のニームを栽培しており、栽培記録を几帳面に付けていた。植物の成長過程を観察し、数値や変化を書き留める姿勢が強調されている。

ニームの特性と実験目的

ニームは害虫忌避効果を持つ植物として説明され、化学農薬に頼らない農業の可能性を探る対象として扱われていた。成功例だけでなく失敗も含めた記録が重要であると紅葉は理解しており、慎重かつ真面目に作業へ向き合っていた。

記録の意義と継続

紅葉は記録の細かさについて指摘される場面で、自身の判断ではなく将来の参考のためであると説明した。小さな変化も残す姿勢が評価され、作業は今後も継続されることが示唆されて締めくくられる。

静子邸書庫と虎太郎の役割

静子の邸内にある書庫では、虎太郎が大量の書物に囲まれながら翻訳作業を担っていた。虎太郎は語学能力に優れ、この時代の文法や語法の揺れにも対応できる存在として、静子の持ち込んだ電子辞書を補助に用いながら翻訳を進めていた。虎太郎は言語学者として翻訳を生業としてきた経歴を持ち、フランス語を中心にスペイン語やギリシャ語にも通じていた。

翻訳作業の進展と知識の蓄積

虎太郎の翻訳は順調に進み、区切りのよいところまで作業を終えたことで、静子に進捗を示す場面が描かれた。西洋由来の書物が机上に積み上がり、虎太郎自身もこれほど多くの珍しい書物を扱える機会を喜ばしいものとして受け止めていた。翻訳という行為そのものが知的探究であり、単なる作業ではないことが強調されていた。

地動説をめぐる対話の始まり

縁側で静子と虎太郎は地動説について語り合った。虎太郎は、太陽が動かず地球が回っているという考え方が逆だと言えば驚かれる時代であることを踏まえつつ、静子の理解力に驚きを見せた。静子はその概念を自然に受け止め、「地動説」という言葉を口にすることで、会話の核心に踏み込んだ。

古代から近代への天文学史の整理

虎太郎は、天体が地球の周囲を回るという考えが近代まで常識であったこと、紀元前2世紀のアリスタルコスが地動説を提唱していたこと、そしてコペルニクスにより再び理論として整理された経緯を説明した。当時最新の観測技術や計算方法によって検証が進んだ一方で、宗教的世界観との対立が問題を生んだ点にも言及していた。

科学の進歩と実証への意志

静子は理論だけでなく実証の重要性を示し、時間はかかるものの観測機材を手配する意志を明確にした。虎太郎は静子がすでに多くを知っていることに内心驚きつつも、その提案を前向きに受け止めた。望遠鏡の性能が課題であることも共有されるが、それでも科学の進歩を早めたいという静子の姿勢が印象づけられていた。

管理と役割分担への現実的な視点

会話の締めくくりでは、静子が虎太郎に対して今後の協力を求め、虎太郎も翻訳と研究の継続に意欲を示した。一方で静子は管理職としての負担の大きさを自嘲気味に語り、理想と現実の両立に向き合う姿を見せて場面は終わっている。

尾張近郊の整備事業と休日制度の導入

1573年6月下旬、尾張近郊では街道整備を中心としたインフラ整備が進められていた。従事者の負担軽減を目的として、静子の提案により月一回の試験的な休日制度が導入される。現場では当初戸惑いも見られたが、休日前後の楽しみや慣れを口にする者も現れ、制度は一定の効果を示していた。

前例のない制度と静子の評価

明治以前の日本において明確な休日制度は存在せず、この試みは極めて異例であった。休み明けの疲労や夜の騒がしさといった問題点も語られるが、労働者の生活安定と生産性維持を目的とする施策として、静子の判断は受け入れられていた。

岐阜城での報告と異変

静子は制度の報告のため岐阜城を訪れる。休日制度は概ね順調に機能しており、報告自体は簡潔に済む内容であった。しかし、城内では異様な緊張感が漂っており、最近は上機嫌であったはずの信長が、激しい怒りを露わにしていた。

九十五幕 愚息

信長の激怒と抜刀

静子が居合わせた場で、信長は刀を手にし、明確な殺意を示すほどの激怒を見せる。その矛先はその場にいた人物に向けられ、「その首、刎ねてくれる」と断言するほどであった。

静子の制止

事態を前に、静子は恐怖を覚えながらも信長の前に立ち、「お許しを」と叫んで制止に入る。場面は緊迫した空気のまま続き、静子の行動がこの衝突にどう影響するかは描かれないまま幕を閉じる。

信長の激怒と岐阜城の緊張

信長は岐阜城において激怒しており、刀を手にして親族に斬首を示唆するほど感情を荒らげていた。畳は乱れ、倒れ込む者もおり、場はすでに制止寸前の状況であった。静子はその場に居合わせ、事態の深刻さを即座に理解した。

静子の諫言と信長の制止

静子は恐怖を抑えつつ、「過度なお怒りはお体に障る」と信長に進み出て諫言した。信長は即座に反応し、静子に邪魔をするなと一喝するが、最終的には刀を納め、場の殺気は一応収束した。この場面では、刀を持っているのが信長本人であることが明確に描かれている。

親族への処断予告と猶予

信長は怒りを抑えつつも、問題を起こした親族に対し、状況が改善されなければ親子の縁を切ると明言した。ただし即断は避け、期限として「半年」を与える判断を下した。この猶予は情ではなく、統治者としての最終判断として示されている。

静子の立場と発言の重み

静子は恐怖に震えながらも、その場に留まり、信長の言葉を受け止め続けた。信長もまた、静子の存在を排除せず、結果的にそのまま話を続ける姿勢を見せた。このやり取りにより、静子が単なる報告役ではなく、意見を述べる立場にあることが視覚的に示されている。

伊勢開発の遅延と信長の苛立ち

話題は伊勢へと移り、信長は伊勢の開発が遅れている現状に強い不満を示した。信長はすでに伊勢の海運を掌握しており、尾張と伊勢を結ぶ街道整備が進まないことを問題視していた。

遅延の原因と現場の混乱

伊勢および尾張では、戦の影響で作業が停滞し、工事の遅れが積み重なっていた。信長自身も本心では勢力を抑え込みたいが、現実的には足を取られ続けている状況であることが示される。

静子への問いかけと次の段階

信長は状況を整理したうえで、静子に対して今後についての意見を求める姿勢を見せた。静子は一度は「本日は休日制度の報告を」と切り出すが、信長はそれを後回しにし、より根本的な問題について話を進めようとするところで場面は締めくくられる。

岐阜城での謁見と信長の激怒

静子は報告のため岐阜城を訪れたが、信長は珍しく苛立ちを露わにしていた。刀を手にし、近頃上機嫌だった様子とは一転した空気が漂っていた。
信長は静子の説明に耳を傾けつつも、その内容が直感的に理解しがたいものであることを率直に示し、「この後どう展開するのか」と問いを投げかけた。

貨幣と信用の関係についての説明

静子は、金銀そのものを使わずに経済を回すという考えが誤解されやすいことを認めたうえで、金の発生と信用の仕組みについて説明を始めた。
中世ヨーロッパでは金細工職人が金を預かり、預かり証を発行していたこと、その預かり証が市中で流通し、物やサービスとの交換に使われるようになった経緯が示された。

預かり証の流通と信用創造の発生

預かり証は金そのもの以上に流通し、やがて実際には存在しない金額分の証書が使われ始めた。
金細工職人は、すべての預かり証が同時に金へ引き換えられないことに気づき、預かっていない金まで貸し出すようになった。
この瞬間に、信用を背景とした「お金」が生み出されたことが示される。

現代銀行制度との接続

静子は、この仕組みが現代の銀行と本質的に同じであると説明した。
銀行は通帳に数字を記すだけで貸付を行い、理論上は無限に信用創造が可能だが、実際には制度と管理によって制限されている。
日本政府が円を発行する際も、手続きは異なるが、同様に「無から生み出される」構造であることが語られた。

信長の理解と評価

信長は、この仕組みが机上の空論ではなく、既に異世界や現代で行われてきた現実であることを認識した。
金の裏付けを必要としない信用による貨幣創造に強い関心を示し、「面白い」と評価した。

新通貨構想と具体策

静子は、いきなり紙幣を発行するのは無理があるとし、まずは金銀を用いた新貨幣の鋳造を提案した。
同時に銀行制度を整備し、信用を段階的に育てることで、安定した通貨供給を目指す方針が示された。
偽造防止のため、紙幣への切り替えを将来的に宣言する構想も語られた。

経済拡大への展望

貸付によって事業者が活動を拡大し、借金を返せば再び貸付が行われる循環が生まれることで、織田領内の民間事業が活性化する見通しが示された。
さらに、中央銀行的な立場で信長自身が通貨発行権を行使すれば、経済発展の速度は飛躍的に高まると静子は述べた。

信長の最終判断

信長は慎重さを求めつつも、新通貨発行の時機が到来していることを理解した。
質の悪い永楽銭が市場から駆逐されつつある現状を踏まえ、「今こそ新通貨発行の時」と結論づける場面で、この一連の説明は締めくくられる。

七月の穏やかな日常

天正元年七月、静子は領内で比較的穏やかな日々を過ごしていた。狼と戯れ、畑仕事に励み、教育や政務を担う者たちも成長を見せていた。信長から一定の裁量を任されていることで、静子の精神的負担は軽減され、束の間の平穏が描かれる。

夏の暑さと体調の異変

夏の暑さの中、静子は作業を続けるが、ほどなく体に異変を覚え、発熱と倦怠感に見舞われた。周囲は異変を察知し、静子を休ませる判断を下す。これは重病ではなく、疲労と暑さによる一時的な症状であった。

前田慶次と森長可の描写

療養の場面では、馬廻衆の前田慶次と森長可(勝蔵)が上半身裸の姿で登場する。両者は武闘派として並び立つ存在であるが、兄弟ではなく、血縁関係もない。単に同じ馬廻衆として行動を共にしているに過ぎない。

戦の気配と信長の判断

穏やかな時間の裏で、情勢は確実に戦へと傾いていた。信長は浅井・朝倉との対決を見据え、決断の時が近いことを示唆する。私情や評判ではなく、あくまで武として、そして政として動く覚悟が語られる。

時代の転換点

信長は「これからは上様の時代」と語り、既存の秩序が終わり、新たな時代が始まることを明確にする。周囲はその言葉の重みを理解し、静子もまた、自身が再び戦に関わる段階へ入ったことを自覚する。

嵐の前の静けさ

最後に描かれるのは、完全な決起ではなく、あくまで直前の静けさである。冷やす、休む、備えるという日常的な行為の中に、これから始まる大きな動乱の気配が重ねられていた。

織田軍の布陣と総大将信長

天正元年七月下旬、織田軍は軍勢を整え、明確な戦時体制へと移行していた。信長は自ら総大将として前面に立ち、軍の結束と覚悟を示す姿を見せていた。その威圧的な存在感は、周囲の将兵に対し、今回の戦が容易なものではないことを無言のうちに示していた。

浅井・朝倉との対峙と戦意の表明

織田方では、浅井・朝倉との決戦を視野に入れ、長期戦も辞さぬ構えが取られていた。戦を終わらせるための準備が進められ、信長はこの戦いに明確な終止符を打つ意思を固めていた。兵の動員や陣の展開からも、消耗戦を覚悟した本気の布陣であることがうかがえた。

静子の動向と兵站への関与

静子は軍中にあって、戦闘そのものではなく、兵站や補給に関わる立場として行動していた。戦場の最前線に立つことはないものの、軍の継戦能力を支える存在として重要な役割を担っていた。戦が長引く可能性を前提に、補給面での準備が進められていたことが示唆されている。

出陣命令と織田軍の前進

最終的に織田軍は出陣を開始し、馬廻衆を含む兵が整然と進軍する。静子もまた、その流れの中で軍と共に前へ進む立場に置かれていた。戦いが不可避であることを前提に、織田軍は一斉に行動を開始し、決戦へと向かう段階に入ったのである。

同シリーズ

戦国小町苦労譚 シリーズ

漫画

戦国小町苦労譚 11巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 11巻の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 12巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
漫画「戦国小町苦労譚 越後の龍と近衛静子 12巻」の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 13巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 乱世を照らす宰相 13の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 14巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 乱世を照らす宰相 14の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 15巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 治世の心得(15)の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 16巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 忍び寄る影 16の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 17巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 忍び寄る影 17の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚18巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 忍び寄る影 18の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚18巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 忍び寄る影 19の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。

小説版

戦国小町苦労譚 1巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 1 邂逅の時の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 2巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 2 天下布武の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 3巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 3 上洛の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 4巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 4 第一次織田包囲網の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 5巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 5 宇佐山の死闘と信長の危機の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 6巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 6 崩落、背徳の延暦寺の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 7巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 7 胎動、武田信玄の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 8巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 8 岐路、巨星墜つの表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 9巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 9 黄昏の室町幕府の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 10巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 10 逸を以て労を待つの表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 11巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 11 黎明、安土時代の幕開けの表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 12巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 12 哀惜の刻の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 13巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 十三、第二次東国征伐の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 14巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 14 工業時代の夜明けの表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 15巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
『戦国小町苦労譚』15の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 16巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
『戦国小町苦労譚』16の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 17巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
『戦国小町苦労譚』17の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 18巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
『戦国小町苦労譚』18の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。

その他フィクション

e9ca32232aa7c4eb96b8bd1ff309e79e 漫画感想(ネタバレ)「戦国小町苦労譚 17 風林火山(81話~85話)」
フィクション(novel)あいうえお順