Lorem Ipsum Dolor Sit Amet

Sea summo mazim ex, ea errem eleifend definitionem vim. Ut nec hinc dolor possim mei ludus efficiendi ei sea summo mazim ex.

Nisl At Est?

Sea summo mazim ex, ea errem eleifend definitionem vim. Ut nec hinc dolor possim mei ludus efficiendi ei sea summo mazim ex.

In Felis Ut

Phasellus facilisis, nunc in lacinia auctor, eros lacus aliquet velit, quis lobortis risus nunc nec nisi maecans et turpis vitae velit.volutpat porttitor a sit amet est. In eu rutrum ante. Nullam id lorem fermentum, accumsan enim non auctor neque.

Risus Vitae

Phasellus facilisis, nunc in lacinia auctor, eros lacus aliquet velit, quis lobortis risus nunc nec nisi maecans et turpis vitae velit.volutpat porttitor a sit amet est. In eu rutrum ante. Nullam id lorem fermentum, accumsan enim non auctor neque.

Quis hendrerit purus

Phasellus facilisis, nunc in lacinia auctor, eros lacus aliquet velit, quis lobortis risus nunc nec nisi maecans et turpis vitae velit.volutpat porttitor a sit amet est. In eu rutrum ante. Nullam id lorem fermentum, accumsan enim non auctor neque.

Eros Lacinia

Sea summo mazim ex, ea errem eleifend definitionem vim. Ut nec hinc dolor possim mei ludus efficiendi ei sea summo mazim ex.

Lorem ipsum dolor

Sea summo mazim ex, ea errem eleifend definitionem vim. Ut nec hinc dolor possim mei ludus efficiendi ei sea summo mazim ex.

img

Ipsum dolor - Ligula Eget

Sed ut Perspiciatis Unde Omnis Iste Sed ut perspiciatis unde omnis iste natu error sit voluptatem accu tium neque fermentum veposu miten a tempor nise. Duis autem vel eum iriure dolor in hendrerit in vulputate velit consequat reprehender in voluptate velit esse cillum duis dolor fugiat nulla pariatur.

Turpis mollis

Sea summo mazim ex, ea errem eleifend definitionem vim. Ut nec hinc dolor possim mei ludus efficiendi ei sea summo mazim ex.

小説「オルクセン王国史 2 第二部 戦争のはじめかた」感想・ネタバレ

物語の概要

本作は異世界戦記ファンタジーに分類される作品である。舞台は「銃と魔法」が並存する世界であり、魔種族を中心とした連合国家 オルクセン王国 と、美と魔法を誇るエルフの国家 エルフィンド王国 との長年の歴史的対立が軸となっている。第2巻では、オルクセンの王 グスタフ・ファルケンハイン が戦略と国家構築を進め、故郷を失ったダークエルフの氏族長 ディネルース・アンダリエル が亡命を経てオルクセンに身を寄せ、王国に属する立場となっていく過程が描かれている。エルフィンドへの宣戦布告が視野に入り、対立が一層深まっていった。

主要キャラクター

  • グスタフ・ファルケンハイン:オルクセン王国の王である。オーク族出身でありながら、国をまとめ上げる理知的な統治者として描かれている。
  • ディネルース・アンダリエル:ダークエルフ族の氏族長で、エルフィンドの迫害から逃れオルクセンで生き延びた。オルクセン側の軍事的な立場に就く。 
  • カール・ヘルムート・ゼーベック:オーク族。オルクセン王国軍の参謀本部参謀総長を務める重鎮である。

物語の特徴

本作の魅力は、いわゆる「野蛮なオーク」対「高潔なエルフ」という典型的なファンタジー構図を、完全に逆転ないし再構築している点にある。オルクセン王国は一見“野蛮”と評されるものの、国力・制度・軍制において極めて緻密かつ合理的に描かれており、エルフィンド王国の“平和”が実は抑圧と支配によって成り立っている側面を浮かび上がらせている。
また、国家戦略・兵站・補給・種族間協力といった軍記ものとしての要素が深く描かれており、単なる冒険譚を超えて“国家の戦い”としての重厚な物語が展開している点も他作品と差別化される。

書籍情報

オルクセン王国史 ~野蛮なオークの国は、如何にして平和なエルフの国を焼き払うに至ったか~ 2
著者:樽見京一郎 氏
イラスト:THORES柴本  氏
出版社:一二三書房
レーベル:サーガフォレスト
発売日:2024年6月14日
ISBN:978-4824201867

gifbanner?sid=3589474&pid=889458714 小説「オルクセン王国史 2 第二部 戦争のはじめかた」感想・ネタバレブックライブで購入 gifbanner?sid=3589474&pid=889458714 小説「オルクセン王国史 2 第二部 戦争のはじめかた」感想・ネタバレbls_21years_logo 小説「オルクセン王国史 2 第二部 戦争のはじめかた」感想・ネタバレ gifbanner?sid=3589474&pid=889059394 小説「オルクセン王国史 2 第二部 戦争のはじめかた」感想・ネタバレBOOK☆WALKERで購入 gifbanner?sid=3589474&pid=890540720 小説「オルクセン王国史 2 第二部 戦争のはじめかた」感想・ネタバレ

(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。

あらすじ・内容

ならば戦争だ。ひとつ始めようじゃないか
オークの国オルクセンの王グスタフ・ファルケンハインは、聡明かつ穏健な牡(おとこ)である。だが、オーク族の悲願達成と、自らを頼りとする臣下国民のためならば、ときに狡猾な策をも弄する。それが、今回の対エルフィンド開戦にまつわる「奇策」だった。エルフたちの国――故郷エルフィンドで卑劣な虐殺と迫害の憂き目に遭い、白エルフたちに復讐を誓いオルクセンに身を寄せた黒エルフの氏族長ディネルース・アンダリエルは、今や名実ともに「王のもの」となった。愛する牡との充実した幸福感に包まれる日々は瞬く間に過ぎ、水面下でじわじわと準備を進め牙を研いでいたオルクセンは、ついにエルフィンドに宣戦布告を行うのだった……。圧倒的な筆致でえがく「銃と魔法」の異世界軍記ファンタジー、待望の第2巻登場!!

オルクセン王国史 ~野蛮なオークの国は、如何にして平和なエルフの国を焼き払うに至ったか~ 2

感想

今巻は、ついにエルフィンド侵攻へ至る「戦争のはじまり」が、本格的に描かれた一冊である。しかも、いきなり戦闘に突入するのではなく、丸々一冊を費やして「そこへ至る準備と積み重ね」を描き切っている点に、まず圧倒された。戦争とは何か、国家とは何かを、物語として真正面から見せにきている巻だと感じた。

物語はまず、グスタフの視点から語られるエルフィンドの歴史像と、その歪みの由来に焦点を当てる。転生者たちが理想と技術を持ち込み、海洋進出から農耕・製鉄まで一気に押し進めてしまった結果として、現在の閉鎖的で他種族を排除する国家が出来上がった、という解釈が提示される。この「善意と理想の果てに、現在のエルフィンドがある」という視点が、単純な勧善懲悪に陥らない厚みを物語に与えていた。グスタフ自身も、オーク王としての責任、異世界人としての記憶、そしてエルフィンドへの哀惜がせめぎ合い、そのうえで「それでも滅ぼさねばならない」と結論する過程が、非常に印象的である。

そのグスタフの決意を、最も近い距離で受け止めるのがディネルースである。故郷を追われたダークエルフとしての矜持と、グスタフの「女」としての幸福。その両方を抱えながら、彼女はグスタフの罪も決断も丸ごと受け止める覚悟を示す。旅団内の噂を「自分が大物を狩ったのだ」と一蹴してみせる場面も含めて、悲劇の被害者としてではなく、能動的に選び取って今の位置に立っている存在として描かれており、物語全体に独特の緊張感をもたらしていた。

物語が進むにつれ、視点はグスタフ周辺から参謀本部や外交の現場へ広がっていく。キャメロットとの会談や覚書のやり取り、イザベラ・ファーレンスが築き上げた諜報と商業ネットワーク、グレーベン少将による対エルフィンド侵攻計画の再構築などが、粛々と積み重ねられていく様子は、ほとんど歴史ノンフィクションのような読み味である。特に、陸だけを見ていた発想を捨て、「海そのものを兵站の大動脈として組み込む」発想に至るあたりは、軍事オタク的な面白さと、物語上のカタルシスが綺麗に噛み合っていた。

並行して描かれる、兵站・産業・技術の側面も忘れ難い。ヴィッセル社による鉄鋼と火砲の増産、コボルト飛行兵という新兵科の誕生、グラックストン環状機関砲の登場、オルクセン全土の鉄道と街道を使い切る動員計画。こうした一つ一つの描写が、「軍隊とは、ある日突然魔法のように出現するものではない」という一文に収束していく構成が見事である。社会全体の積み重ねと、幾多の人間の人生の上に「軍隊」が成立しているのだという視点は、このシリーズならではの重さだと思う。

終盤では、エルフィンド外交書簡事件によって、ついに開戦の引き金が引かれる。エルフィンド側の慢心と視野の狭さが、致命的な一文に結実し、それをグスタフが「大義名分」として利用する展開は、単なる善悪では片付かない苦さがある。グスタフが本心では相手の真意も理解しつつ、それでも自国と民を守るために「悪役」を引き受ける決断をする姿は、読んでいて胸が痛むと同時に、圧倒的な説得力があった。

その一方で、人間族以外からの恨みを買いすぎてきたエルフィンドの行く末についても、考えさせられる。ダークエルフやコボルト、ドワーフに対して長年にわたり積み重ねてきた差別と搾取が、もはや今回の戦争があろうとなかろうと、どこかで爆発するしかない状態だったのではないか――そう思わせる描写が随所にある。今巻は、オルクセン側を美化するのではなく、「エルフィンドの自業自得の側面」「それでもなお、滅ぼすことの罪」を両方描いている点が印象的であった。

最後に、動員令「白銀」が発せられ、海軍が劣勢を承知のうえで出撃し、陸軍各軍も北方へと展開していく流れは、まさに「戦争のはじめかた」を実地で学ばせるような展開である。
ここまで徹底して準備と蓄積を読まされてしまった以上、「この戦争がどのような結果をもたらすのか」を最後まで見届けずにはいられない。グスタフ、ディネルースをはじめとする面々が、次巻以降の本格的な戦闘局面でどのような選択をし、どのような代償を払うことになるのか。期待と同時に、少し怖さすら覚えながら、続巻を待ちたい一冊だった。

最後までお読み頂きありがとうございます。

gifbanner?sid=3589474&pid=889458714 小説「オルクセン王国史 2 第二部 戦争のはじめかた」感想・ネタバレブックライブで購入 gifbanner?sid=3589474&pid=889458714 小説「オルクセン王国史 2 第二部 戦争のはじめかた」感想・ネタバレbls_21years_logo 小説「オルクセン王国史 2 第二部 戦争のはじめかた」感想・ネタバレ gifbanner?sid=3589474&pid=889059394 小説「オルクセン王国史 2 第二部 戦争のはじめかた」感想・ネタバレBOOK☆WALKERで購入 gifbanner?sid=3589474&pid=890540720 小説「オルクセン王国史 2 第二部 戦争のはじめかた」感想・ネタバレ

(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。

登場キャラクター

展開まとめ

第二部 戦争のはじめかた

第一章 それは恋慕にも似て

エルフィンドの多面的な歴史像

グスタフ・ファルケンハインは、仮想敵国エルフィンドを日々思い続けていた。エルフたちがかつて海に乗り出し、理想郷クレート・ログレスを目指して航海し、到達後になおベレリアント半島へ戻って国を形作ったという伝承を、彼は事実性の高い歴史として受け止めていた。また、三代目女王の時代に狩猟採集から農耕や採鉱、鍛冶へと転換し、三圃式農業や鉄器文化が異様な速さで成立した経緯にも注目していた。

転生者がもたらした繁栄と歪み

エルフィンドには転生者を示す古語が残り、三代目女王を含む元人間が国造りに関与したとされていた。グスタフは、創世期のエルフは無垢な森の妖精のような存在だったが、理想を持つ転生者たちが次々と知識と技術を持ち込み、海洋進出、農耕、鉄器といった文明の全段階を経験させた結果、現在の閉鎖的で他種族を排除する歪んだ姿に変質したと考えるようになった。その過程には悪意よりも理想があったと推測しつつも、今の排他的体制を悲劇として捉えていた。

オークの王としての自覚と開戦決意

本来グスタフは、オルクセン国内の幸福だけを願っており、他国に構う余裕はなかった。しかし聖星教教皇領による指弾やデュートネの侵攻を経験し、理想だけでは国も民も守れないと悟った。転生者である自分が「魔王」と見なされるオークの王として、他種族と共に築いた国を守るためには、エルフィンドを単に打ち破るだけでなく滅ぼし、自国の一部として組み込まねばならないと結論づけた。その決意は国民感情を言い訳にしたものではなく、自身がエルフィンドを欲しているという内心の欲望の告白でもあった。

人間文明の台頭と資源確保の必然

グスタフは三十年ほどで人間諸国が魔種族の能力を科学技術で凌駕し、無線通信、飛行機、強大な火力、冷蔵技術や近代農法を獲得して人口を爆発させると予測していた。頭数が増えにくいが不老長寿に近い魔種族が生き残るには、魔術に加えて人間並み以上の科学力を備え、周辺から畏怖されて手出しされない存在となった上で、自領に閉じこもるしかないと判断していた。そのためには将来の総力戦に不可欠な鉄鉱石、クロム、モリブデンなどの鉱物資源が必要であり、モリム鋼の組成からそれらがベレリアント半島に眠っていると見抜いたグスタフは、エルフィンドを資源ごと手中に収める必要性を確信したのである。

葛藤とディネルースの受容

グスタフは、エルフィンドに対する哀れみや同情を抱きつつも、自国と民と自分自身のために滅ぼさねばならないと自らを説得していた。戦争の責任はすべて自分一人が負うべきだと覚悟を固めたとき、寝台で共に横たわるディネルース・アンダリエルが、怖い顔をしている彼に話すよう促した。彼女は自分はグスタフの女であり、何もかも受け入れると告げ、秘密を持つなと迫った。この言葉に、グスタフは仮面を剥がされる恐怖と感謝の入り混じった感情を抱きつつ、自らの決意と罪を胸の内に抱え続けることになったのである。

第一章 盛夏の外交交渉

盛夏のヴィルトシュヴァインと公使来訪

星暦八七六年盛夏、涼しく過ごしやすいオルクセン首都ヴィルトシュヴァインで、国王グスタフ・ファルケンハインはキャメロット王国外務省駐箚公使クロード・マクスウェルと会談していた。マクスウェルが本国からのエリクシエル剤輸出増要請書簡を届け、グスタフが前向きな返答をした後、話題は二十年前に死去したモーリントン公の回想へと移っていった。

デュートネ戦争の回想と信頼の起点

グスタフは六十年前のデュートネ戦争終盤、アリアンスの最終決戦にオルクセン軍十二万五千が到着し、デュートネ軍の側背を突いて形勢を逆転させた経緯を語った。自らは勝利をモーリントン公の粘り強い布陣と絶妙な間合いの後退に帰しつつ、公から「我らが共に勝った」と返された言葉を紹介し、キャメロット軍を持ち上げることで公使の誇りを刺激していた。この共同戦勝体験が、後のキャメロット・オルクセン修好通商条約締結の精神的な土台となったことが示唆された。

修好条約後の両国関係とオルクセンの地位

モーリントン公は戦後、陸軍総司令官から首相となり、人間族の国として初めて魔種族国家オルクセンと修好通商条約を結んだ。この条約を契機にオルクセンは星欧外交の表舞台に立ち、以後キャメロットにとってグロワール第二帝政国やロヴァルナ帝国を牽制する重要なパートナーとなった。星暦八七六年現在、オルクセンは国家歳入十四億ラングの列商国となり、海外植民地には興味を示さずに余剰資本でキャメロットの外債や企業に投資する一方、石炭や食糧、繊維、さらに刻印式魔術や冷蔵板、エリクシエル剤といった魔術・医薬品を供給する不可欠な交易相手国として位置づけられていた。

グスタフによる外交論と覚書の授与

星欧外交界では、デュートネ戦争から各種条約締結、講和仲介までを経験してきたグスタフが「盟約を違えず、人間族を欺かない王」として長老的存在と見なされており、各国外交官はその雑談を聞くこと自体を重要な情報源としていた。この日もグスタフはマクスウェルに、統治者の性格把握、立派さと誠実さによる「評判」の獲得、本国への事実と私見を分けた定期報告、多数の友誼構築の重要性といった外交官の心得を語ったうえで、「王の名を報告書に添えて説得力を高めよ」と助言した。そして具体的な「土産」として、現時点でオルクセンはエルフィンドとの戦争を望まず、キャメロットによる仲介努力とエルフィンド側の外交改善意思に期待すること、万一開戦してもキャメロット権益を保護し、対グロワール・対ロヴァルナ防備を疎かにせず、人間族諸国家の領土や海外領土には一切興味を持たないことを明記した覚書を渡し、その条件のもとでキャメロットの好意的中立と牽制を期待すると記した。マクスウェルはこれを本国での大きな成果と受け取り、喜色を隠せぬまま辞去した。

覚書外交の真意と開戦準備

マクスウェルの退出後、外務大臣クレメンス・ビューローが現れ、グスタフは覚書が意図通りに受け取られたと報告した。ビューローは、王自らが対外信用を手段として用いる老練さに感嘆し、グスタフを自らの最強の外交手段と評価していた。両者はこのところ各国公使との会談を重ね、オルクセン公使たちも各地で同様の工作を進めており、将来のエルフィンド攻撃に際してオルクセンの背後を外交・軍事の両面で安全にするべく、周到な根回しと牽制を行っていることを確認した。

大義名分とエルフィンドへの間接圧力

グスタフとビューローは、アンファングリア旅団によるシルヴァン川流域虐殺の暴露によってエルフィンドから何らかの公式反応や抗議を引き出し、大義名分を得る算段をしていたが、相手が沈黙を保ち続けている現状を問題視していた。因縁だけでは戦争を仕掛ければ周辺国の信用を失うため、彼らはキャメロットを通じてエルフィンドに外交関係改善の意思表明を求めさせるよう仕向けつつ、周辺国には「喧嘩を売られなければ戦争は考えていない」という姿勢を印象付けていた。こうしてグスタフは、自身の長年の信義と評判すらも寝技的外交の道具として織り込みながら、実際の開戦までに必要な時間と準備を稼ぎつつ、エルフィンド包囲と大義の確立を図っていたのである。

ディネルースとグスタフの関係の変化

アンファングリア旅団の王宮警備勤務が一巡したころ、ディネルース・アンダリエルの日常には大きな変化が生じていた。ディネルースは自らの意思でオルクセン国王グスタフ・ファルケンハインの女となり、互いの不安や困惑を乗り越え、今では肉体的にも精神的にも互いを支え合い、ともに「より高み」を目指す安定した関係に至っていた。

贈り物に表れるグスタフの配慮と日常

グスタフは宝石ではなく、ディネルースの嗜好に即した実用的な贈り物を選んでいた。高性能の野戦双眼鏡、海藻石鹸、香油「不思議な水七九二」などはどれも質が高く、清潔を尊ぶオーク文化とも合致していたため、ディネルースは大いに気に入っていた。また、ヴァルトガーデンの朝市に立ち寄ってから官邸で朝食を取り、その後ヴァルダーベルク衛戍地に登庁するという生活リズムが定着しており、勤務後は官邸に戻ることが日常となっていた。

官邸側の沈黙と信頼できる側近たち

国王副官部や侍従、家政、コックら官邸の人員は、グスタフとディネルースの関係に気づきつつも、外部に漏らさず「ようやく浮名の出た国王」と好意的に受け止めていた。なかでもダンヴィッツ少佐やミュフリング少佐は、グスタフへの忠誠が厚く、余計な詮索を一切しない人物としてディネルースからも信頼されていた。ミュフリングは容貌こそ冴えないが、デュートネ戦争時に危険な戦線を何度も往復し、必ず任務を果たして帰還した伝令であり、その「確実さ」と相手に本気の対応を促す顔つきが評価され、王から重用されていた。

旅団内に広がる噂と誤解

一方、ヴァルダーベルク駐屯のアンファングリア旅団内部では、同族同士の閉じた集団であることもあって、ディネルースとグスタフの関係が噂として広がっていた。決定的なきっかけは、ある朝うなじに残った「痕」をイアヴァスリル・アイナリンド中佐に指摘された出来事であり、それ以降、恋愛関係が半ば確信として受け止められた。旅団員たちはディネルースへの忠誠が厚いため、「種族のために身を捧げている」と重く受け止め、「御労しい」と同情する誤解すら生じていた。ディネルースは自分がどう思われるかは構わないが、グスタフをそのような男だと思わせること、ひいてはオーク族とオルクセンへの不信につながることを看過できないと判断した。

旅団長の宣言と誤解の解消

ディネルースは叱責による統制ではなく、空気を明るく変えつつ誤解を断ち切る方策として、「グスタフ流」に真正面から真実を告げることを選んだ。衛戍地内限定の魔術通信で全員に呼びかけ、「私は獲物を仕留め損なったことはない。仕留められたのではなく、自分の意思で大きな獲物を仕留めたのだ」と宣言し、自らの能動的な選択であることを示したのである。この一言で営内は歓声と喝采に包まれ、噂は「誇らしい武勇談」に書き換えられた。続いてディネルースは、グスタフから贈られた火酒「電撃」を取り出し、イアヴァスリルを呼んで共に飲もうと誘い、腹心との絆を確かめつつ、旅団全体の結束と士気を高める形でこの問題を収束させたのである。

第二章 猛き猪たち

参謀本部訪問とイザベラの役割

星暦八七六年七月四日、アンファングリア旅団閲兵式の日、イザベラ・ファーレンスは派手な馬車でオルクセン国軍参謀本部を訪問した。参謀本部次長兼作戦局長エーリッヒ・グレーベン少将と兵要地誌局長カール・ローテンベルガー少将は、彼女から恒例の「資料」を受け取り、その更新内容と一部の頁を重点的に確認した。資料はエルフィンド王国に関する諜報の最新版であり、グレーベンは以前から希望していた追加調査の結果に、大いに満足を示したのである。

兵要地誌局とファーレンス商会の諜報ネットワーク

兵要地誌局は地図や兵要地誌の作成に加え、星欧諸国の軍事情報を収集する事実上の軍諜報機関となっていた。各国の道路、鉄道、橋、港、衛戍地、要塞、食料生産力などを体系的に把握していたが、国交断絶状態が続くエルフィンドだけは長らく「想像の及ばない空白地帯」であった。ところがファーレンス商会は、キャメロットの海運・貿易・保険市場への深い浸透と格付けビジネスを通じて、エルフィンドと取引する企業や技師、商人を支配下に置き、港湾施設の調査、都市のスケッチ、鉄道線路図や運行距離の計測といった情報を組織的に吸い上げていた。イザベラはそれらを精緻に整理し、継続的に兵要地誌局へ提出し続けた結果、オルクセン側は「エルフィンドの将校以上にエルフィンドを知る」と豪語できるほどの情報優位を獲得していた。

商人としての表の顔と軍との取引

ファーレンス商会は連隊酒保を起点とする小間物商から、デュートネ戦争中の兵站請負を経て急成長し、戦後は兵站局・参謀本部中枢の委託も一手に担う存在となっていた。軍は旧式兵器や輜重馬車の払い下げ、ヴィッセル社製火砲の輸出用モデルの仲介をイザベラに任せ、彼女は兵站業務と輸出入を通じて巨利を得ていた。その一方で、参謀本部の多くは「商売熱心な会長が兵站局と取引しているだけ」と早合点し、彼女の諜報面での貢献を十分には理解していなかった。

対エルフィンド戦争準備と報酬交渉

この日の資料は、グレーベンが特に追加調査を依頼していた箇所を含む内容であり、彼は「夫人の大事業の成果をお目にかける日も近い」と述べ、対エルフィンド戦争の勃発をほのめかした。謝礼については、イザベラが望む「エルフィンドにおけるキャメロット既得権益の保護」について、国王グスタフが戦後も維持を命じていると説明しつつ、代案として旧式化するGew六一小銃七万丁の払い下げを提示した。道洋で人気の高額商品であるため、四千二百万ラング規模の商機として「十分な取引」として示されたが、イザベラは内心、軍側が自分の本当の動機を理解していないと見抜いていた。

イザベラ個人の復讐と「商人の戦争」

参謀本部を後にして馬車に戻ったイザベラは、窓外の街並みを眺めながら、これは単なるビジネスではなく自分の戦争であると自覚していた。かつて夫は、小間物商として誠実に働きながら白エルフの政策によって商売鑑札を奪われ、他のコボルト商人と同様に破滅へ追い込まれた。イザベラは店を潰され夫を奪われた恨みから、長年かけて築いた商業帝国と諜報網を武器に「エルフィンドを必ず滅ぼす」と誓っていたのである。軍人たちが利益や謝礼の枠組みで彼女を測るのに対し、イザベラにとって対エルフィンド戦争は、愛する夫の仇を討つための、商人としての報復戦にほかならなかった。

グレーベンの幼少期と思考法の形成

国軍参謀本部次長兼作戦局長エーレッヒ・グレーベンは、幼少期から一種の「答えの多様性」に魅了されて育った存在であった。両親は成績よりも興味を尊重する教育方針を取り、デュートネ戦争期には高価な金属製兵隊人形一式を買い与えた。グレーベンは裏庭に簡易な地形を自作し、歴史上の会戦や要塞戦を再現しつつ「別のやり方ならどう勝てるか」を繰り返し思考した。その結果、「答えは一つではなく、答えへの到達法も一つではない」という発想法を身につけ、学校の数学でも独自の解法で正答に到達して教師を呆れさせるようになっていた。両親はその独自性を一貫して庇護し、この思考様式が後の作戦立案能力の基盤となった。

軍歴と参謀としての位置づけ

義務教育修了後、グレーベンは士官学校に進み、成績は常に最上位であったが、傲慢かつ不遜で、自分より思考力に劣る教官や上級生を平気で見下す性格でもあった。ただし、下位者の意見でも正しければ採用するというオルクセン軍の風土が彼を排除せず、陸軍大学校と参謀将校課程を経て頭抜けた「答えの質」を示し続けた結果、星暦八七六年時点で最年少少将にして参謀本部次長兼作戦局長の地位に就いていた。参謀総長ゼーベック上級大将は自らの作戦立案能力の不足を自覚しており、軍政・兵站運用に専念するため作戦部門を全面的にグレーベンへ委ね、「あいつさえいれば戦争には勝てる」と公言して強く庇護した。その厚遇と人間的配慮により、グレーベンもまた「ゼーベックのためなら死ねる」とまで語るほどの信頼を寄せていた。

第六号対エルフィンド侵攻計画の骨格

グレーベンは近年、ベレリアント半島の大地図を広げ、兵棋を並べてエルフィンド侵攻作戦計画(第六号計画第五次修正案)を見直し続けていた。同計画は、半島付け根シルヴァン川南岸に約五十万の兵力を展開し、西から東へ三個軍を横一列に並べる構想であった。中央軍は南岸入植地と橋梁群を奪取し、半島南部中央平原でエルフィンド野戦軍に決戦を強要、さらに北方の要塞都市を攻略して山間街道を突破し、首都ティリオン東側の大平原で残存戦力を撃破、首都へ進撃して降伏を迫る役割を担っていた。西・東両軍は側面牽制と中央軍兵站線の防護に重点を置き、特に中央軍に重砲旅団と大鷲軍団主力、前進兵站拠点・軍鉄道部隊など作戦上の資源が集中する構図となっていた。

兵站観と現行計画への根本的疑念

この計画は一見すると兵站面も周到に検討され、半島南岸側の四都市に巨大兵站拠点を設け、そのうち二拠点を中央軍専用とし、鉄道網と輜重馬車を組み合わせて日々の補給を維持する設計であった。だがグレーベンは、自らが重視する兵站概念と計画の方向性に齟齬を感じていた。参謀本部は「進撃路をまず想定し、その背後に兵站線を引きずる」発想に陥っており、兵站が軍に従属して「尾を引きずる」形になっていると見做していたのである。彼にとって兵站とは「進みやすい場所をこそ進撃路に選ばせるもの」であり、軍は兵站という尾の先端にぶら下がって敵を打つ器官に過ぎないという理解であった。その観点から見ると、中央軍に会戦・要塞戦・長距離進撃の全てを背負わせる現行案は、兵站と作戦が逆転した本末転倒だと映っていた。

補給負荷の現実と東西両正面の制約

グレーベンは具体的数値で兵站負荷を検証していた。標準的な一個師団の常続補給品は一日約一六〇トン、軍団で三三〇トン、一個軍全体では一二八〇トンとなり、これを支えるには鉄道貨車編成を日々複数走らせる必要があった。また、兵士の糧食だけでなく軍馬の飼葉と飲用水が膨大であり、騎兵中心のアンファングリア旅団だけで一日四十〜七十トンの飼料と十万リットル超の水を消費する計算であった。これらを踏まえると、中央軍の進撃を支える「動脈」として使えるのは現状の鉄道・街道網に沿った南岸正面しかなく、半島西岸は山脈とフィヨルド状の入り江に遮られて動脈として機能せず、東岸側もシルヴァン川に橋が無く、アーンバンド以遠へ鉄道を延長できないため大規模な兵站線が築けないと判断されていた。そのため、東方軍は国境線付近での側面防護に留められ、より積極的な運用は「兵站的に不可能」とされていた。

現地調達依存への不安と兵站思想の行き詰まり

第五次修正案では、中央軍の食料について現地調達と収穫期の選定により負担を軽減する方針も盛り込まれていたが、グレーベンはこの点にも強い不信感を抱いていた。現地調達は「そこに物資が存在すること」が前提であり、戦争開始時期が収穫期からずれれば成立しない。占領都市の穀倉が空であったり、敵が意図的に焦土戦術を取れば、補給線は容易に破綻する。デュートネ戦争でも同様の例は多く、彼にとって「現地調達任せ」は精緻な兵站思考を放棄する危険な安易策であった。こうして、南岸正面一極集中の構図は、兵站の理念と現実の双方から見て、いつかどこかで致命的に行き詰まると確信するに至っていた。

海上輸送動脈の発見と新構想の立ち上げ

行き詰まりを破る鍵は、ベレリアント半島東岸の地図の再検討から生まれた。アーンバンドから約七十キロ先には大きな商業港が存在し、さらに東岸にはいくつかの港湾都市が点在しており、キャメロット商人の出入りのために鉄道路線が整備され、最終的には首都ティリオンに接続していたのである。地形は狭隘で平野部は少ないものの、港と鉄路という「第二の動脈」が明確に存在している事実に思い至った瞬間、グレーベンは自らを「陸軍であるがゆえに陸だけを見ていた大馬鹿者」と罵倒し、陸・鉄道・街道だけに限定していた兵站発想を根底から改めた。すなわち、海そのものを巨大な兵站動脈として組み込む構想である。

彼はその日のうちに兵要地誌局へ駆け込み、エルフィンド東岸港湾と鉄道網の詳細調査を改めて依頼し、イザベラ・ファーレンスからの追加報告書を待つ一か月半の間、作戦局全参謀を事実上籠城状態に置いて新たな計画立案に着手させた。さらに、フュクシュテルン大通りを挟んだ向かい側にある海軍最高司令部参謀たちも巻き込み、陸軍・海軍合同で「海を動脈とする分進合撃」の具体化作業を開始したのである。こうして、従来の中央軍一極集中案に対抗する、新たなエルフィンド侵攻構想の胎動が始まっていた。

北海の軍港ドラッヘクノッヘンと荒海艦隊

オルクセン北部のフィヨルド地形にあるドラッヘクノッヘン港は、北海「荒海」に面した天然の良港であり、商業港と軍港グロスハーフェンを併せ持つ拠点であった。ここには装甲艦や巡洋艦を中心とした荒海艦隊二十六隻が集結し、北海防衛と通商保護を担っていたが、その規模は大陸有数の陸軍国オルクセンにおいては小所帯であった。

失敗作コルモラン型と鯨衝突事故

砲艦メーヴェは、衝角突撃を主戦法とするコルモラン型砲艦三隻の一隻であり、小型船体に強力な蒸気機関と衝角を詰め込んだ「第一猪突隊」として建造された。しかし実際には、荒い北海には船体が小さすぎ、衝角と魚形水雷発射管が揺れを増幅し、未熟な機関は故障を頻発する欠陥艦であった。北海訓練中、僚艦コルモランが鯨に衝突して機関を破損し、メーヴェが荒天の中で曳航して一晩がかりで帰港する事態となり、乗員は疲労困憊のまま母港へ戻った。

屑鉄戦隊と海軍流の明るさ

度重なる故障と演習遅参により、三隻は沿岸防備用の第十一戦隊に回され、「屑鉄艦隊」と蔑称されるようになった。だが乗員たちは自嘲を込めてその名を自称し、帰港時には他艦からの辛辣な魔術信号や旗旒信号を「無事の帰還を喜ぶ挨拶」と受け取り、大笑いして応じていた。艦を家であり恋人とみなす海軍気質のもと、彼らは欠陥艦を嘆きつつも自分たちの艦を誇り、技量と工夫で「どうにか使い物にする」ことに喜びを見出していた。

海軍戦力への不安とエルフィンド装甲艦

この底抜けの明るさの裏には、対エルフィンド戦が近いとの噂に対する深い不安があった。陸軍が圧倒的戦力に自信を深める一方、海上戦力だけを比べればエルフィンドの優位は明白であり、とくに排水量九一三〇トンを誇る装甲艦リョースタとスヴァルタの二隻は、他国士官から「オルクセン海軍が全滅を賭しても沈められない」と評される化け物艦であった。屑鉄戦隊の笑いと自嘲は、この圧倒的劣勢を前にした海軍全体の鬱屈を振り払うための、最後の盾でもあった。

第三章 戦争計画

作戦計画の位置づけと戦場環境

第六号作戦計画第六次修正は、従来案を大きく改めた対エルフィンド侵攻案であり、ベレリアント半島全域と周辺空海域を戦場と想定していた。半島は山脈と森林、湖沼と河川が多く平野が少ないが、気候は星欧北部と大差なく、冬も比較的温暖で積雪は限定的であった。

敵勢力評価と兵力配備

エルフィンド陸上戦力は最大三七万と見積もられ、その大半は魔術通信と探知能力を備えた白エルフ兵で構成されていた。ただし兵器生産基盤は弱く、小銃や火砲はキャメロット製輸入品に依存していた。海軍は装甲艦二隻を含む小規模ながら高性能艦隊をファルマリア港に集中させていた。オルクセン側は三個軍と総予備を合わせて四六万八千を動員し、メルトメア州各地に司令部を置くこととされた。

第一軍・第二軍・第三軍の役割

第一軍はシルヴァン川東岸の渡渉地から渡河し、架橋と梯団輸送によって一個軍団を前進させ、半島東岸のファルマリア港を奪取する任務を負っていた。ここを敵唯一の海軍根拠地の破壊と、自軍の海上兵站拠点化の双方に用いる構想であり、港湾施設と引込線を利用して鉄道車両と補給物資を大量投入する計画であった。第二軍はシルヴァン川南岸のノグロスト市を占領し、西岸地帯の警戒と側面防護を担い、戦況が許せば西方島嶼アレッセア島などの占領により、鉱山と港湾を含む有利な交渉材料を確保することが目的とされた。第三軍は旧ドワーフ領首都モーリアとパウル橋梁群を押さえ、シルヴァン北岸へ進出したのち、最大穀倉地帯アルトカレ平原と要塞都市アルトリアを攻略し、半島中央山脈を越えてネニング平原へ出る進撃軸と位置づけられていた。

柔軟性を重視した二正面進撃構想

本修正案の眼目は、第一軍と第三軍による二方向進撃の柔軟性にあった。海軍が敵艦隊撃滅に成功した場合、第一軍はファルマリア港から東岸の鉄道路と港群を辿って北上し、第三軍はアルトカレとアルトリアを突破して中央山脈を越え、ネニング平原で合流して敵主力と首都ティリアンを圧倒する構想であった。敵の動員力から見て両軍を同時に拘束することは不可能と判断され、一方が拘束されれば他方が首都方面へ雪崩込む分進合撃の発想が採用されていた。海上兵力撃滅に失敗した場合は、第一軍がファルマリア施設を破壊して後退し、第三軍に予備兵力を集中して従来案通り単独でネニング平原突破を図る予備案も並立していた。

聖地保護と政治的配慮、作戦名「白銀の場合」

作戦地域にはエルフおよび旧ダークエルフの聖地が多数存在し、参謀本部は今後の人口回復を見込みつつ、これらを戦禍から厳重に保護することを各軍に命じていた。また技術と道徳意識が発達した列強諸国の監視を意識し、観戦武官や記者への対応を含め、一兵士に至るまで軍規を徹底することが強調されていた。本計画は国王グスタフの即断で裁可され、陛下は第一軍親率の意向を示すとともに、戦時大本営の編制と作戦名「白銀の場合」を下賜した。計画書は参謀総長ゼーベックと作戦立案の中心である少将グレーベンの連署をもって正式文書とされていたのである。

ラピアカプツェという農業・軍事都市

オルクセン北部メルトメア州州都ラピアカプツェは人口十四万五千の中規模都市であり、工業より農業・酪農・牧羊を中心産業として発展していた。国内最大規模の農業大学と農事試験場を擁し、バロメッツ種羊の改良と羊毛・食肉生産で国防用被服にも寄与するなど、穀倉地帯かつ羊毛拠点として重要な役割を果たしていた。濃厚なビールと羊肉料理は都市の名物となっていた。

軍都としての役割と北部軍司令部

一方でラピアカプツェは、第七擲弾兵師団や重砲旅団、工兵・補給隊が駐屯する軍都でもあった。ロザリンド会戦後、グスタフ王が軍団を八つに整理し各州都を生存競争と開発の中心に据えた結果、州・県・郡に軍組織が根づき、オルクセンは軍事国家として形成されていった。その中枢として北部三州を統括する北部軍司令部が置かれ、猛将アロイジウス・シュヴェーリン上級大将が指揮を執っていた。

闘将シュヴェーリンの知的な素顔

シュヴェーリンは戦場では豪放磊落な闘将として知られていたが、私的な場では慎ましく教養ある勉強家であった。参謀長ブルーメンタール少将に新兵站技術「刻印魔術式物品管理法」などを丁寧に質問し、自らメモして理解に努める姿が見られた。また急速に整備された国境兵站拠点駅群や、その財源として旧式小銃を対外売却した参謀本部の機動力を正しく評価しつつ、関係者への配慮も口にしていた。

読書家としての趣味と「舞台俳優」としての自覚

彼は成人後に文字を学び、兵学書・歴史書のみならずキャメロット文学、とりわけ大劇作家の戯曲を愛読していた。条約調印随員として訪れたキャメロット文化に強い影響を受け、ブレンデッドウィスキーや劇文学を嗜好するようになった。しかし兵の前ではあくまで粗野で豪快な「親父」を演じることを矜持とし、「この世は舞台、生きとし生ける者はみな役者」と語り、自身の教養を隠して士気を高める役割に徹していた。

王への負い目と軍装へのこだわり

シュヴェーリンは過去のロザリンド会戦に関わる出来事からグスタフ王に対する深い負い目を抱き、決して王命を裏切らないと誓っていた。将来戦では略帽着用を命じる王命がある中で、兵の士気を鼓舞する象徴的な軍用兜や派手な軍装をどう扱うかに悩み続けていた。そんな折、王から私信とともに軽い小包が届けられ、中身を読んだ彼は深く感謝し、それを略帽に巻く防塵眼鏡として戦場に持ち込む決意を固めた。その品はやがて来る戦役における彼の軍装の象徴となり、王への忠誠と「役者」としての決意を体現する小道具となったのである。

危険任務募集と奇妙な選考

星暦八七六年初夏、軍所属コボルト向けに「極めて危険な任務・高額手当・体格要件あり」とする募集が全衛戍地で掲示された。応募者は聴力や高所適性、三半規管の強さを測るため、山登りや回転・上下揺れ装置、ブランコ、校舎からの飛び降り試験など、目が回るような身体テストを課され、魔術力の有無はほとんど重視されなかった。選抜の結果、約五十名が合格し、首都南方シャーリーホーフの「陸軍臨時気象観測隊」への配属辞令を受けた。

大鷲軍団とコボルト飛行兵構想

シャーリーホーフは国軍大鷲軍団の本拠地であり、巨大な離発着場と大鷲約五十羽が駐屯していた。大鷲軍団は三角測量式魔術探知や夜間偵察の必要から、装備の増加と大鷲の夜目の弱さに悩んでいた。そこで司令官ラインダース少将は、軽量で数字に強く器用なコボルトを大鷲の首元に乗せ、測定・航法・記録を担当させる構想を提案し、参謀本部の承認を得て今回の募集・選抜に至った。

訓練の定着と待遇・装備の整備

八月下旬には大鷲とコボルトの二人一組による飛行訓練が本格化し、高度測定や地図読解、魔術探知・通信をコボルトが担当することで大鷲は飛行に専念できるようになった。寒さと風への対策として、防寒飛行服・革帽・長靴に加え、小型防塵眼鏡が支給され、これは後にオーク向けにも転用された。さらに大鷲軍団の豊富な肉食配給にコボルトも加えられ、霜降り肉や生ハムなど贅沢な食事と、一回の飛行で六ラング(上限付き)の高額手当が支給されたため、隊員たちは危険を承知で任務に積極的になっていった。

タウベルトとドーラのペア、そして「飛行兵」の誕生

かつて浮橋倒壊事故から救われた元輜重兵フロリアン・タウベルトも応募して選抜され、大鷲将校アントン・ドーラ中尉の相棒となった。二人は階級差をあまり気にせず空中で打ち解け、タウベルトは「コボルト史上初めて空を飛んでいる」と高揚し、大鷲側もその若さと度胸を評価した。選抜・訓練に協力してきたコボルトの学者バーンスタイン=メルヘンナー教授は、参謀本部が彼らに与えた正式呼称が「飛行兵(ピロート)」であると伝えた。これは大鷲を船に喩え、その水先案内人としての役割を込めた名称であり、ラインダースはその響きを気に入った。

メルヘンナー教授の試乗と今後への布石

メルヘンナー教授は今後の選抜・養成法を確立するため、自身も飛行装備を身に着けて体験飛行を希望した。ラインダースは彼女を「メルヘンナー」と名で呼ぶよう求められ、騎士道的礼を尽くして応じたうえで、自らの背に乗せて空へ案内することを約した。こうしてコボルトと大鷲による新たな空の兵科「飛行兵」は、危険と引き換えに高待遇と誇りを得つつ、本格運用へ向けて動き出していたのである。

工業都市ヴィッセンとヴィッセル社の位置付け

オルクセン西部リーベスヴィッセン準州の大河メテオーア川沿いにあるヴィッセンは、人口十万超の工業都市であり、炭鉱・馬車製造・重工業の三企業体、とりわけ鉄鋼・兵器最大手ヴィッセル社によって発展していた。メテオーア川と運河網は首都やグロワール・アルビニー、さらには北星洋へ通じる重要な水運路であった。

ヴィッセル社創業と蒸気船・製鉄への挑戦

ヴィッセル社はデュートネ戦争期、ドワーフ棟梁ヴィーリ・レギンがグスタフ王の依頼で蒸気船を建造したことから始まり、その成功を受けて鉄鋼製造にも参入した。水力と蒸気機関を用いた小さな研究炉から出発し、キャメロット技術を取り込みつつモリム鋼の復活を最終目標に、鋼材・銃身・鋳鋼砲の生産へと段階的に成功していった。

近代化を牽引する巨大企業への成長

八五〇年代以降、ヴィッセル社は鋼製火砲や鉄道車輪・車軸の量産、モリム鋼製砲の開発によって国家機密技術を保有するようになり、国内鉄鋼生産のほぼ全てを担う企業へ成長した。二万名超の従業員を抱え、鉄鋼材料・車両部材・兵器を国内供給するとともに、新大陸や華国への輸出も拡大し、研究部ではモリム鋼の更なる高性能化に取り組んでいた。

レギン親子と工場の日常

魔種族である創業者ヴィーリは会長となった今も工場の隅々を巡視し、自ら鍛工として勤労賞用の精巧な鋼製家具を叩き続けていた。社長に据えられた息子ヴェストは本社で経営を担い、父から「鉄も叩けぬドワーフ」と叱咤されながら鍛えられていた。

参謀本部からの大量発注と戦備増産の察知

星暦八七六年八月末、ヴェストが持ち込んだ国軍参謀本部発注書には、工兵用鉄製架橋舟三百艘の新規注文が記されていた。これは直前の榴弾砲・砲弾大量発注や小銃製造冶具の供給要請、膨大な刻印魔術式金属板注文に続くものであり、ヴィーリは納期前倒しを命じると同時に、参謀本部が臨時軍事会計費を乱用する規模から、デュートネ戦争時を思わせる国家的な戦備増産が始まったと直感した。かつてエルフィンドに滅ぼされたドワーフ国出身の彼にとって、それはグスタフ王を支えつつ祖国を守ろうとする技術者・愛国者としての決意を新たにさせる出来事であった。

リントヴルム岬とベラファラス湾の地理的状況

メルトメア州リントヴルム岬は、巨大な翼竜の上半身のような形状をしたオルクセン最北端の岬であり、ベレリアント半島付け根のベラファラス湾南岸に位置していた。対岸一四キロ先にはエルフィンド領ヴィンヤマル岬と「大灯台」があり、湾奥北側にはエルフィンド最大の商港兼軍港ファルマリアと大河シルヴァン川の河口があった。この海域は豊かな漁場たり得たが、エルフィンド軍艦の出入りが多く情勢が剣呑であるため、オルクセン側漁師は主に岬以南で漁を行っていた。

海洋生物学者を装った二頭のオークの来訪

星暦八七六年八月下旬、首都ヴィルトシュヴァイン大学海洋生物学科所属と名乗るオットー・リーデンブロック教授と、その甥で助手という触れ込みのアクセル・リーデンブロックが、リントヴルム岬近くの漁村に現れた。彼らは鯨類・海豚類・鯱類の回遊を研究していると説明し、宿兼酒場に滞在しつつ、村人と酒席を共にして気さくに交流し、次第に信頼を得ていった。

岬上の観測小屋建設と「研究」活動

やがて首都から干し肉やワイン、缶詰、測量器具、双眼鏡、ロープ、ランプなどの荷が届き、二頭は岬上に小屋を建てるよう地元の大工に依頼した。国の許可書類も提示し、前払いの報酬を示したことで、大工は強風に備えた岩積み基礎と防水焼き板、竈を備えた頑丈な小屋を建てた。二頭は荷を運び入れて小屋に泊まり込み、測量機で海上方位を測り、風向計で風を記録し、双眼鏡で日がな一日海を観察するなど、「鯨類観測」に励んでいるように振る舞っていた。

電信による報告と偽装された情報

数日に一度、甥のアクセルは村の郵便局に赴き、海洋生物学科宛の電報を打った。内容は「ナガス二、スナメリ三、シャチ六、湾内にあり」「スナメリ一、湾外へ出る」など鯨類の動向に見える簡素な報告であり、局員たちはこの海域に多様な鯨類が来ていることに驚いていた。また、彼ら宛の返信電報には「母、症状重し」「病状、変化なし」とあり、親族の闘病をめぐる私事のやり取りとして受け取られていた。村人たちは二頭を気遣い、同情を寄せていた。

漁船を利用した湾内測深と本当の目的

二頭は謝礼を弾んで漁船を雇い、当初は岬周辺、その後はベラファラス湾内まで進出して測鉛を垂らし、水深を測定した。ただしエルフィンド領側水域には足を踏み入れず、周縁部を回るにとどめた。彼らはこれを鯨類の回遊路調査と説明し、その結果も電報として送信したが、その実態は湾内の水深・地形・航行条件を把握する軍事的偵察であった。

偽装の正体と監視対象の実像

実際にはヴィルトシュヴァイン大学に海洋生物学科は存在せず、送信電報は国軍参謀本部兵要地誌局に転送されていた。さらに報告された鯨類の中には、本来この海域に回遊しない種も含まれており、内容自体が偽装であった。小屋での会話から、二頭はエルフィンド海軍艦艇の不活発ぶりや練度不足を論じ、任務の終わりが見えない苦労をこぼしていた。真の身分は、教授を名乗るオークが陸軍測地測量部少佐、甥を名乗るオークが海軍大尉であり、彼らが監視していたのは鯨類ではなく、ファルマリア港を出入りするエルフィンド海軍艦艇の動静であった。

第四章 エルフィンド外交書簡事件

参謀本部の大規模戦争準備
国軍参謀本部では、各兵科監や海軍とも協働し、戦時増産体制、規則改定、兵站整備など膨大な準備作業が進められていた。造兵廠の小銃生産拡張計画、砲弾製造、輜重馬車や鉄道車両の事前発注、野戦電信用物資の確保など、開戦直後に即応できる体制構築が徹底された。また北海沿岸砲台の点検や、起伏や街道を確認する参謀旅行も行われ、実戦を想定した多面的準備が重ねられた。

エルフィンドへの不信と挑発方針
参謀本部はエルフィンドとの戦争が不可避であると判断し、同国の外交姿勢に失望していた。参謀次長グレーベンは挑発によって相手に初弾を撃たせ、大儀名分を得て開戦すべきと考えた。しかし軍事的挑発案は国王グスタフらによって却下され、まず外交的挑発を優先する方針が示された。ただし戦争準備そのものは継続承認され、必要なら王室費や官房機密費を使ってよいと国王が明言したため、グレーベンはさらに戦備を加速させた。

商船徴用計画と義勇艦隊法の適用準備
九月、グレーベンは国有汽船会社社長フォアベルクを参謀本部に招致し、商船一七隻の徴用可能性を確認した。義勇艦隊法に基づき、特定日時に国内港へ集結させることを求め、最短三日から最長二週間で集合可能との回答を得た。フォアベルクは当初困惑したが、オルクセンの「最大の懸案」が近づいているという含意を察し、この依頼を自らの一存で承諾した。彼自身もロザリンド会戦で家族を失っており、決意のこもった協力が示された。

秋のオルクセンと射場への召集
オルクセンは秋を迎え、街路樹のオオマテバシイが巨大なドングリを落とし始めていた。ディネルース・アンダリエルは、参謀長らを伴い第一擲弾兵師団衛戍地シュラッシュトロスを訪問した。これはグスタフ王から「良いものを見せる」と日時指定で命じられた公務であり、現地には王のほか騎兵監ツィーテン上級大将や参謀、技官、ヴィッセル社の技師らが集まっていた。

グラックストン環状機関砲の衝撃
射場に現れたのは、細い銃身を束ねた奇妙な火器であり、上部の弾倉と手回しハンドルを備えた多銃身機関砲であった。発射が始まると小さな連続音とともに弾丸が雨あられと放たれ、標的は瞬く間に蜂の巣となって崩れ落ちた。これはセンチュリースターの医師グラックストンが考案し、オルクセンが製造権を購入して自国の一一ミリ弾仕様に改造した「グラックストン環状機関砲七六年型」であり、その殺傷力にディネルースは戦慄した。

騎兵の終焉と役割転換の宣告
ツィーテンは、この兵器の普及は騎兵という兵科そのものを滅ぼすと嘆いた。グスタフは突撃主体の時代は終わり、騎兵は機動力を生かして繞回・下馬戦闘を行う「乗馬歩兵」とならねば生き残れないと断じたうえで、この機関砲こそ騎兵の防御火力を補う武器になると説明した。そして量産後は六門をアンファングリアの各騎兵連隊に優先配備するとディネルースに命じた。

ツィーテンの辞退と国王の説得
後日、ツィーテンは第二軍司令官就任を辞退したいと願い出た。理由は膝のリウマチと、新兵器や新兵学についていけないという自覚であった。グスタフは邸宅を訪ね、自ら説得にあたった。作戦は参謀が立案し、司令官は上に座って責任を負えばよいと語り、最新知識より統率と覚悟を重視する持論を示したうえで、耳打ちで重大な計画を明かした。ツィーテンはその言葉に打たれ、「這ってでも」従軍すると応じた。

焼きドングリと街路樹に込めた治世思想
帰路、グスタフは突然馬車を停め、露店で焼きドングリと白ワインを買い込み、ディネルースに振る舞った。オオマテバシイの実は毒がなく、焼くとほんのり甘く、白ワインと合わせれば驚くほど滋味深い味となった。グスタフは、街路樹としてこの樹種を一面に植えたのは、飢饉や包囲戦の際の非常食・家畜餌・最貧民の「元手の要らぬ商売」の備えであったと明かした。いまは飢えた民もおらず街路樹の実も拾われないが、それは治世が成功している証だと語る。ディネルースは、藁小屋の時代から民を導いてきた王の一二〇年に及ぶ積み重ねを思い、狭量な感情を捨てる決意を固めた。

予期せぬ「回帰不能点」の到来
星暦八七六年一〇月一三日、オルクセン首都ヴィルトシュヴァインの国王官邸にて、後戻り不可能な転機となる外交事件が発生した。この日、キャメロットのマクスウェル公使と、魔種族研究の大家でありグスタフと私的親交も深いアストン特使が来訪し、エルフィンド女王からグスタフ宛ての封印親書を仲介する役目を担っていた。グスタフは、これを長期的な外交応酬の起点とし、来年夏季の開戦を視野に入れた交渉の材料とする腹積もりであった。

エルフィンド親書の表向きの趣旨
親書はアールブ語とキャメロット語の二通で構成され、時候の挨拶を備えた形式的には整った文書であった。内容は「オルクセンはエルフィンドの内政に干渉しないと文書で確約せよ」という趣旨であり、ダークエルフ大量殺戮については一切言及を避け、抽象的表現で自国の弱点を隠す意図が読み取れた。白エルフ特有の言葉への自信と慢心がにじむ文面であった。

「流域」という語が孕んだ致命的瑕疵
グスタフは二通を読み比べ、末尾近くの一文に重大な問題を見出した。エルフィンド政府は「シルヴァン川流域に関する全ての権利を留保し、オルクセンは二度と干渉するな」と記していたのである。「流域」という語は外交上きわめて危険な地理概念であり、シルヴァン川南岸にはオルクセン領が存在する以上、その「全ての権利留保」は「オルクセン領からも出て行け」と解釈可能であった。しかも、訳や改竄を一切加えずにその読み方を主張し得る文言であり、オルクセンへの最後通牒とすら論じられる内容となっていた。

国王の演技と大義名分の確保
グスタフはエルフィンド側の真意がそこまで敵対的でないことを理解しつつも、この致命的失策を開戦の大義名分とする決心を一瞬で下した。彼は怒りに震える芝居を打ち、「我が領土から出ていけとは、これほど無礼な親書は見たことがない」とアストンとマクスウェルの前で強く非難し、両名に「侮辱的文書」としての認識を刷り込んだ。特使らは顔面蒼白となって文書を確認し、キャメロット本国への報告を急ぐこととなった。二人が退出すると、グスタフはビューローと共に、これで「他国からも疑義を挟まれにくい大義名分を得た」と狂喜した。

戦争決定と暗号「白銀」の発動
直ちにゼーベック参謀総長、海軍最高司令官クネルスドルフ、そしてグレーベンらが官邸に召集された。陸軍は即応可能、海軍も新造艦は未完成ながら季節的には作戦行動が可能と判断し、軍は戦争遂行の保証を与えた。グスタフは「ならば戦争だ」と宣言し、その日のうちに国軍参謀本部は各軍・各師団へ最短の動員電文を発した。その本文はただ一語、「白銀(ジルバーン)」であり、準備され尽くしていた戦時動員計画が最終段階へ移行し、エルフィンド国境へ向けた兵力展開が開始されたのである。

第五章 オークシャン・ソルジャーズ 戦争のはじめかた

魔の一二日間と奇襲構想

オルクセン国軍参謀本部は、動員令発令から戦時編成部隊が指定展開地点への移動を完了するまでの一二日間を「魔の一二日間」と呼び、これを戦争開始に不可避な所要期間として受け止めていた。対エルフィンド侵攻計画「白銀の場合(ケース・ジルバーン)」においても、国内全土から約五〇万の兵を動員し国境地帯に展開させるのに同期間を要すると見積もっていたが、この速度はかつて七〇万を動員するのに四か月を要したグロワール軍と比較しても異常なほど短い水準であった。参謀本部は、この高効率な動員力を前提に、エルフィンドおよび周辺諸国に戦時体制を悟らせないまま国境へ兵力を集結させ、敵側の総動員が整う前に奇襲的開戦を断行するという野心的構想を抱いていた。

外交事件の秘匿と報道管制

開戦の大義名分となった「エルフィンド外交書簡事件」について、オルクセン政府は直ちには国内外に公表せず、開戦と同時に明らかにする方針を決定した。この非公表措置により、国内世論の早期沸騰や義勇兵の殺到、諸外国の過剰反応を避けつつ、奇襲性を保持することを優先したのである。動員は表向き「演習」として実施され、予備役将校や兵たちにも通常の演習動員と説明されたため、出発に際しての歓送パレードや壮行儀式は行われなかった。家族や一部の者は違和感を覚えたものの、多くの国民は平時の演習と同じものと受け止めた。また、各軍管区司令部は「陸軍及び海軍の行動に関する軍機戦略の報道禁止令」を発令し、演習時にも慣例的に用いられてきた報道管制を拡大適用して、部隊移動や鉄道軍事使用の詳細が紙面に載らぬよう統制した。

後備役動員の先送りと秘匿を支える国情

オルクセン軍は、戦時に出征師団の背後に編成される「留守師団」を構成する後備役兵と国民義勇兵の動員を、開戦時まで意図的に行わない方針を採った。後備兵まで動員すれば国民生活への影響が大きく、対外的にも全面戦時体制移行が明白となるため、奇襲性維持の観点から抑制したのである。その一方で、オルクセンは平時から国有倉庫と鉄道駅に糧食を分散備蓄しており、戦前特別の集積行動を取らずとも短期戦備が整う体制を持っていた。鉄道は国有会社が一元管理していたため、軍事輸送に伴う情報統制が容易であり、魔種族国家特有の事情として外国人居住者や旅行者の数も少ないことから、部隊移動の目撃情報が国外に拡散しにくかった。さらにエルフィンドとは国交も人的交流もほぼ皆無であり、種族的外見差から密偵浸透も困難であったため、国境近傍への兵力集結も他国関係と比べて格段に秘匿しやすい状況にあった。

指揮官たちの不安と海軍への重圧

このように周到な準備が整えられていた一方で、「魔の一二日間」に事情を知る上層部の心理は必ずしも平穏ではなかった。作戦の天才と称される参謀本部次長グレーベン少将でさえ、白エルフ側の対応や国際情勢の不測を想像し過ぎるあまり、終始蒼白な面持ちで不安を隠しきれなかった。とりわけ海軍は、戦力面でエルフィンド海軍に劣勢であり、戦力均衡を目指して建造中だった主力新造艦が開戦に間に合わない現実に苦しんでいた。海軍幹部の中には、「この時期にエルフィンドと戦う愚行は誰の発案か」と嘆息する者まで現れたが、陸軍との激しい主導権争いの末、開戦第一撃は海軍が担うことで決着していた。手持ちの既存艦隊で、準備の整っていない敵艦隊に痛打を与えなければ、第一軍や第三軍の陸上作戦計画が根本から狂うことも理解していたため、海軍は短期間で整備・給炭・弾薬補充と乗員召集を完了させるべく、祈るような心境で開戦予定日を待つことになった。

ディネルース出征前夜と王の平常心

この緊張が極度に高まる時期、ダークエルフ戦闘集団アンファングリア旅団長ディネルース・アンダリエルは、部隊の極秘出征開始に先立ち、臣下として国王グスタフに挨拶するため官邸を訪れた。アンファングリア旅団は第一軍隷下として戦闘序列に組み込まれ、エルフィンド国境突破の最先鋒を務める任務を与えられていた。彼女はグスタフから贈られた熊毛帽や銀製騎兵将官服、野戦双眼鏡、火酒入り銀水筒、香油や石鹸など従軍に必要な贈り物を身にまとい、さらに騎兵用として特注された革製腕時計を左手首に装着していた。これらは王が彼女を最前線へ送り出す覚悟と信頼の証であり、ディネルースも白エルフを「喰らい尽くす」決意を新たにしていた。

官邸に着いたディネルースは、執務室ではなく、王が隠れ家のように使う図書室で、グスタフがハウンドのアドヴィンを傍らに本を読んでいる姿を目にした。開戦直前でありながら平時と変わらぬ落ち着きを保つ王の様子に、彼女は思わず吹き出し、「事態ここに至っても変わらぬ我が王ほど頼もしい存在はない」と感嘆した。グスタフはそれに笑みを返し、星欧古来の奇譚集を一冊手渡して「これを持っていけ。読み終わったら棚に返しておいてくれ」と告げた。このやり取りは、互いに生還と再会を疑わないという、言葉少なな確認でもあった。すでに私的な別れと感情の交わし合いは数日前に済ませており、この日ふたりが交わしたのは王と旅団長としての簡潔な儀礼のみであったが、その背後には、一二〇年の治世と数々の改革を重ねてきた王と、その牙として先鋒に立つ戦士との、深い信頼と覚悟が確かに存在していた。

星暦八七六年一〇月一四日と海軍会議

侵攻開始一二日前の星暦八七六年一〇月一四日、エルフィンド外交書簡事件の翌日、既に陸海軍への動員令が発せられていた。海軍本拠地グロスハーフェンでは、荒海艦隊旗艦レーヴェに「各戦隊司令・艦長集合」の信号旗が掲げられ、魔術通信を禁じた上で全指揮官が艦尾の長官公室に集められた。参謀長から事態を知らされた艦長たちは、エルフィンド海軍の優越を熟知しているがゆえに、一様に顔を強張らせたのである。

エルフィンド海軍の脅威と荒海艦隊の決意

彼らが何より恐れていたのは、排水量九一三〇トン、三〇センチ砲塔四門を備えた装甲艦リョースタとスヴァルタという主力二隻であった。対するオルクセン側主力艦レーヴェ級三隻は排水量六二〇〇トン、二八センチ砲を舷側砲郭内に収めた一世代前の構造であり、火力・防御ともに大きく劣っていた。荒海艦隊司令長官ロイター大将はそれでも「国王から宿敵との決戦に招かれたのだ」と言い切り、遠征可能な全艦で出撃し、沿岸防衛を旧式艦と要塞に委ねる方針を示した。作戦内容と緘口令が伝達されたのち、艦長たちは習わしのビールを一気に飲み干し、半ば自暴自棄にも似た陽気さで「やってやる」と昂揚して解散した。ロイターは、もし艦隊が全滅してもリョースタとスヴァルタを道連れに出来ると覚悟を固めていた。

コルモランの新型機関と無煙炭の大量供給

砲艦メーヴェ艦長グリンデマン中佐は会議後、自艦に戻らず、修理中の姉妹艦コルモランが停泊するヴィッセル造船所へ急行した。コルモランは新型の羽根車式蒸気機関を採用していたが、構造未熟と低質炭使用により故障続きであり、このままでは「屑鉄戦隊」の一隻が戦列に戻れない可能性があった。グリンデマンは信頼する機関曹長ホルマンを事前に派遣して実情を把握させており、敵艦に体当たりするその瞬間まで動けばよいと腹を括って、出撃に間に合わせる決意を固めた。翌日には、平時なら一年分に相当する一級無煙炭が鉄道と給炭船でグロスハーフェンへ続々と搬入され、機関科要員たちを歓喜させた。

動員令「白銀」と予備役兵・将校の招集

一方陸軍では、各師団長が暗号電報「白銀」を受信した夜のうちに司令部要員を参集させ、動員目的を秘匿しつつ会計将校に約一六万ラングという擲弾兵師団一個あたりの初期動員費を準備させた。連隊区からは予備役下士官・兵への召集令状が郵便で発送され、必要な行政機関にも通知が行われた。予備役将校もまた通達を受けて軍服と私物を行李に詰め、二〜六日以内に所属連隊へ出頭した。彼らには今回も「演習」と説明され、出征ヘルメットの携行は求められず、略帽での参加が許可されたが、初動訓練は通常より大幅に簡略化され、実動機動演習を前提とした編成だけが急速に進められていった。

軍隊輸送列車と鉄道保守の現場

戦時編成を終えた各部隊は、国有鉄道社の職員と綿密に打ち合わせた上で、特別軍隊輸送列車に乗り込み北方へ移送された。下士卒は多くが貨車、それも無蓋貨車に詰め込まれ、巨躯のオークたちは窮屈な姿勢を強いられた。通信隊や輜重隊のコボルトは辛うじて客車の一部に乗り込んだものの、乗下車の自由はほぼ認められず、停車中も車上で屈伸するだけであった。食事と水・飼料は停車各駅に設けられた貯蔵庫から迅速に配給され、列車の時間厳守のため下車休憩は徹底して禁じられた。この効率的輸送を支えたのが、夜間に膨大な補修作業を行った鉄道保線班である。国有鉄道は路線を特別線から簡易線まで五等級に区分し、軌条高低の許容値や曲線部のスラック、継目管理など詳細な基準を設定していた。若い技師フォークトの指揮のもと、オーク族の線路工たちは歌で調子を合わせながらツルハシで道床を搗き固め、枕木一本ごとに高度を調整した。作業は始発列車の通過前に完了させねばならず、彼らは夜明け近くに焚火を囲んでスコップで焼いたヴルストと卵を食べながら、連日の軍隊列車の行き先表示がいずれも北を示していることに気づき、演習ではない事態の重大さを察しつつも黙していた。

北方兵站拠点への集結と開戦認識

特別軍隊輸送列車が北へ進むにつれ、兵たちは他の軍列車や野戦憲兵、膨大な輜重馬車や天幕群を目にする機会が増え、メルトメア州国境部近郊に入る頃には周囲が軍隊で埋め尽くされていることを悟った。国境五都市には巨大な兵站拠点駅が整備され、列車は次々と兵員・火砲・軍馬・車両・物資を吐き出していった。ここで初めて多くの兵にとって「演習」が「本物の戦争」であることが明白となり、「エルフィンドと戦うのか」という声が自然に上がった。メルトメア州の市民たちは緘口令を守りつつも、自発的に花や軍楽、歓声で兵を見送り、遅れてきた出征の儀礼を静かに形作っていた。兵たちの胸には、興奮と狂喜、畏怖と不安、家族や将来への思いがないまぜとなって去来していた。

四六万八〇〇〇名と軍隊が意味するもの

こうして六本の複線鉄道と支線網をフルに活用して展開されたオルクセン軍の一次動員兵力は、東西約二六〇キロに及ぶ半島国境線に対し約四六万八〇〇〇名という最大規模となった。その内訳には、オーク、コボルト、大鷲、ダークエルフなど多様な種族が含まれ、職業軍人から新任参謀、元教師、屋台商人、博徒、染物職人、歓楽街の下働きに至るまで、各自の生活と過去を背負った個々人がいた。野砲や山砲、弾薬箱、軍馬、輜重馬車にも、それぞれ鉱石や木材としての起源と職工たちの手仕事の履歴がある。物資と人間の膨大な総体が、周到な計画と鉄道・兵站技術によって一つの戦力として制御され、国境に集約されていったのである。軍とは、軍隊とは、決してある日突然どこからともなく出現する魔法の産物ではなく、このような社会全体の積み重ねと動員の結果であることが、ここで改めて示されていた。

一〇月二〇日 国王グスタフの極秘出発

侵攻開始六日前、国王グスタフは官邸の警備をアンファングリア予備兵力による偽装小隊で維持しつつ、裏門から平服で無紋の馬車に乗り出立した。農務省裏の停車場で馬車を乗り換えた後、首都演習場で軍服に着替え、専用列車「センチュリースター号」で北方戦域へ向かった。この前日に大学学長シュタインメッツが強硬開戦を進言したが、彼でさえ動員と戦争決意に気づいておらず、機密保持が完全に機能していることをグスタフは確認して安堵していたのである。

王専用列車とダークエルフ特別警護班

センチュリースター号は展望車、寝台車、食堂車、護衛車、魔術通信車など八両から成る豪奢な専用編成であり、通常は行幸に用いられていた。この列車には、ディネルースが選抜したダークエルフ兵二六名の特別警護班が同乗し、二四時間体制で王を護衛する体制が敷かれた。彼女は王に対し、これらの兵を私的側近に転用すれば自ら王を討つとまで忠告し、王への献身と同時に自分への義理立ての線引きを明確に示していた。

宣戦布告を巡る王と参謀本部の対立と決着

グスタフは出発前に内務・外務大臣と協議し、開戦当日の侵攻二時間前にキャメロット駐在公使を通じてエルフィンドへ宣戦布告を仲介手交させる方針を固めていた。参謀本部は奇襲効果の低下を理由に反対したが、グスタフは騎士道と後世の歴史評価を理由に譲らず、宣戦布告なく攻め込めばオルクセンの汚名になると説得した。そのうえで、外交儀礼や通信手続きから見て二時間では敵全土に情報が行き渡らないと計算し、奇襲性は維持できると判断した。また同時刻に在オルクセン各国公使を召集し、戦争状態と外交書簡事件を公表する予備策も用意した。

一〇月二三日 ラピアカプツェ兵站総監部とカイトの兵站理念

侵攻開始四日前、メルトメア州ラピアカプツェには北部軍司令部の跡地を引き継ぐ形で「白銀」作戦の後方兵站総監部が設置され、国軍参謀本部兵站局長ギリム・カイト少将が兵站総監に就任した。兵站総監部は本土から野戦軍への補給、負傷者と故障兵器の後送、兵站拠点や野戦病院、通信線の維持と防御など、作戦の動脈と静脈を一元的に統制する機関となった。カイトは国有鉄道のダイヤグラムを用いた厳密な列車運行管理と「送り込み過ぎない」方針を徹底し、過剰輸送による詰まりを避ける兵站運用を構築したのである。

刻印魔術式物品管理法の限定導入

カイトは新技術である刻印魔術式物品管理法を全面採用せず、生鮮食料と飼葉類の管理に限定して導入した。貨車の通風枠に冷却・送風機能付きの刻印魔術板を取り付け、輸送中に魔術残滓を帯びた積荷を兵站駅で優先的に荷下ろしできるようにし、倉庫では残滓量と帳簿により消費期限を管理して古いものから前線に送った。また荷下ろしが遅れた場合でも、貨車自体が簡易保管庫として腐敗と廃棄を抑える効果を発揮した。このようにカイトは既存の整理・帳簿制度に新技術を最小限に重ねることで、堅実さを保ちながら兵站効率を引き上げ、「兵站とは組織の力による国力の発揮である」という自らの理念を実践していた。

オルクセン軍兵站の実感と行軍開始

アンファングリア旅団は第一軍所属としてメルトメア州アーンバンド駅に到着し、侵攻開始直前までの宿営地へ前進を開始していた。この兵力展開の過程で、旅団は自前の輜重隊をほとんど使用せずに済むほど、オルクセン軍の兵站が周到に整えられている現実を思い知らされていた。ディネルースら旅団幹部は、行軍一覧表を作成して第一軍第一軍団司令部に提出し、部隊順序、到達予定時刻、宿泊地などを軍団参謀と詳細に打ち合わせ、指定街道に沿って計画的な行軍を行っていた。

街道整備と交通管制による円滑な展開

アンファングリア旅団に割り当てられた街道は、先行した工兵隊により既に補修されていた。狭隘部は拡幅され、路面の凹凸は均され、橋梁は補強が進められており、平野部には輜重馬車の休憩と行き違いを想定した広い待機スペースが用意されていた。これらの地点には専属の野戦憲兵隊が配置され、理由なく他任務に転用することを禁じられたうえで交通整理を一手に担っていた。行軍部隊の大休止地点は村落を中心に指定され、水源へのアクセスと軍馬給水用木樋、飼葉集積、野戦調理馬車隊や野戦釜、製パン中隊・精肉隊などが事前に配置されており、大部隊が通過しても行軍と補給が渋滞なく続行できる体制が整っていた。

水と糧食を支える新装備と輜重馬車の運用

兵と軍馬の飲料水・調理用水は、国軍規格型二〇リットル輸送缶と一〇リットル汎用飲料水缶により運搬されていた。前者はブリキ製の寸詰まりの三角柱形缶でねじ式蓋と持ち手を備え、後者は角の丸い四角柱形のアルミ缶で片留め式蓋を持ち、いずれも輜重馬車に大量積載しやすい形状であった。加えて七五〇リットル水槽車も投入され、手動ポンプと蛇口を備えた専用車両として大量給水を可能としていた。宿営地の村外平野には約三百両もの輜重馬車が整然と横列に並べられ、列ごとに飼葉、糧食など積載内容が整理されて臨時倉庫と野戦厩舎を兼ねて運用されていた。車列間には飼葉供台や野戦調理場が設けられ、到着順に車体を並べることで古い物資から優先的に消費し、空になった車体は輓馬を付け替えて補給輸送に復帰させる仕組みとなっていた。

現地重視の指揮教令とエルフィンド軍との比較

アンファングリア旅団は、街道整備と補給体制のみならず、教令レベルでの思想にも驚かされていた。オルクセン軍は「軍用地図に全幅を頼らず、指揮官自らが現地地形を実景として感得すべし」と定め、先遣将校が実際の水源や地形を確認して行軍・宿営を調整することを求めていた。旅団参謀長イアヴァスリルは、この体系的で隙のない軍制に感嘆しつつ、従来のエルフィンド軍のやり方が個々人の経験に依存した児戯のように思えてしまうほどの差を実感していた。もし虐殺を経ずエルフィンドの民のままオルクセン侵攻の日を迎えていたならば、と想像すると背筋が寒くなる一方で、現在はオルクセンの民としてこの軍制の庇護下にあることを心強く感じていた。

ダークエルフ旅団への特別な配慮と戦化粧の下賜

アンファングリア旅団には、行軍前に国王グスタフ名義の特別な下賜品も届けられていた。白岩を粉砕しアンゼリカ草などの精油を混ぜた戦化粧用顔料が樽詰めで送られ、少量の水で延ばせば従来のダークエルフ族の戦化粧を再現できるようになっていた。これはエルフィンドから持ち出す余裕もなく途絶えていた文化の復活であり、旅団総員は狂喜して受け取った。報告によれば輜重馬車二台分の量があり、ディネルースとイアヴァスリルは「半年から一年は存分に暴れられる」と笑い合い、周到な兵站と文化的配慮を兼ね備えたこの戦役準備に対して、あらためて舌を巻いていたのである。

第六章 白銀は招く

艦隊出港と市民の見送り

侵攻開始十四時間前、オルクセン海軍は汽醸運転を経て一斉に抜錨し、主力二六隻がドラッヘクノッヘン港を出港した。乗組員は白い冬季制服に身を包み、旗艦レーヴェを先頭に湾口へ向かった。海望公園には家族や退役軍人らが自発的に集まり、旗旒信号と戯れ歌で艦隊の武運と生還を祈り、艦側も帽振れと信号・アーク灯で「ありがとう」と応答して士気が高まった。艦隊はベラファラス湾最奥のファルマリア港急襲を目標に進撃した。

陸軍第二軍・第三軍の前進と指揮官の思惑

同日午後、第二軍総司令部クラインファスではツィーテン上級大将が、旧ドワーフ領ノグロスト市を目指す三個師団の前進を見守っていた。各軍団・師団には四日前に口頭のみで詳細作戦が伝達され、開戦まで徹底した秘匿が維持されていた。一方第三軍のシュヴェーリン上級大将は、自ら戦の気配を感じるため司令部を侵攻発起点近傍へ前進させ、旧ロザリンド古戦場の峡谷と荒廃した堡塁を前に、過去の激戦と新たな決戦に複雑な感慨を抱きつつ「麗しの古戦場」と高らかに言い放った。

海軍別動隊と夜間大鷲部隊の出撃準備

日没後、老朽艦主体の第一一戦隊「屑鉄戦隊」は主力戦隊後方からベラファラス湾へ突入し、リントヴルム岬の諜報員が発する魔術誘導波を頼りに断崖すれすれを航行した。問題児コルモランには造船所の技師が乗り込み、揺れる洋上で機関調整に追われていた。同時にアーンバンドでは夜間飛行に特化した「ワシミミズク中隊」八羽が出撃準備を進め、大鷲族とコボルト飛行兵が夜間偵察で第一・第三軍を支援する体制を整えた。ラインダース少将はエルフィンド上空を故郷の空として再び飛ぶ一日を「大鷲の日」と位置づけ、種族史的な意味を強調した。

国王大本営の高揚とエルフィンドへの評価

午後五時過ぎ、アーンバンド駅の御用列車センチュリースター号に置かれた国王大本営には、宣戦布告手交完了と各国への戦争状態宣言完了の報が届き、大鷲偵察からはエルフィンド側に特段の警戒が見られないことも伝えられた。グレーベン少将らは敵の怠慢を嘲笑し、外交・軍事・諜報すべてを怠った国家は自ら滅びを招いたと断じた。

グスタフの一二〇年と「歴史の見え方」への自覚

夜空に葡萄月が昇るなか、グスタフ王とゼーベックはロザリンド会戦から一二〇年に及ぶ準備を回想した。農業・工業・軍備・外交・兵站を積み上げてきたオルクセンの歩みは、グスタフ個人の治世と重なっていた。彼は前世で統計職員かつ家庭菜園を楽しむ平凡な人間だったと自認し、専門知識もなく王として一から学び続けてきたことを振り返る。革新的天才ではないが責任だけは投げ出さなかったという自負を持ちつつ、一二〇年かけて到達した奇襲成功が外部からは「ある日突然、野蛮なオークの国が平和なエルフの国を襲った」としか見えまいという歴史認識上の皮肉を意識していた。

艦隊出港と市民の見送り

侵攻開始十四時間前、オルクセン海軍は夜明けとともに汽醸運転を終え、一糸乱れぬ抜錨作業ののち、主力二六隻がドラッヘクノッヘン港を出港した。艦隊は新調の冬季制服で統一され、冬の冷気のなか微速前進で湾口へ向かった。海望公園には家族や退役軍人ら約一〇〇名が自発的に集まり、旗旒信号と魔術通信で安航と帰還を祈った。艦側も帽振れと「ありがとう」の信号・アーク灯で応じ、戯れ歌が響く中、士気は大いに高まった。艦隊は偽装針路と速度調整を織り交ぜつつ、ベラファラス湾最奥ファルマリア港への強襲に進んだ。

第二軍の秘匿前進とツィーテンの決意

同日午後一時、クラインファスの第二軍総司令部では、ツィーテン上級大将が三個師団の前進を静かに見守っていた。目標は旧ドワーフ領シルヴァン川南岸植民地ノグロスト市であり、その一〇キロ手前の侵攻発起地点まで物理・魔術の両面で探知不能な距離を保って進出する計画であった。作戦詳細は四日前に各軍団・師団長へ口頭のみで伝えられ、記録類は一切禁じられていた。ツィーテンは、戦役をオルクセン最後の戦争にすると語ったグスタフの言葉を想起し、その実現方法をなお測りかねながらも、王への信頼ゆえに開戦の瞬間を揺らぎなく待ち続けていた。

第三軍司令部前進とロザリンド古戦場

午後四時、第三軍司令官シュヴェーリン上級大将は、幕僚の反対を押し切り司令部を侵攻発起点近傍へ前進させた。参謀長ブルーメンタールは野戦司令部施設や通信網、騎兵伝令を先行展開させ、指揮空白を生じさせぬよう手配した。日没直前、シュヴェーリンは防塵眼鏡を略帽に巻いた姿で前線に到着し、険しい稜線と黒い森、氷河地形の渓谷、草に埋もれた旧エルフ堡塁を目にした。そこは多くの戦友と旧王を失い、新たな王を得た地ロザリンドであり、彼は「我が麗しの、気高き古戦場」と芝居がかった台詞で感慨を締めくくった。

屑鉄戦隊の突入とリントヴルム岬の誘導

日没後、第一一戦隊こと屑鉄戦隊の三隻は主力の後続としてベラファラス湾に侵入した。半島中央の山脈により海上は早くも闇に包まれていたが、ヴィンヤマル大灯台が遠方に光っていた。問題艦コルモランにはヴィッセル社の技師が乗り込み、揺れる洋上で機関調整に当たっていたが、船酔い必至の状況であった。艦隊はリントヴルム岬の諜報員が発する魔術誘導波を頼りに断崖すれすれを航行し、地形の影に隠れつつ前進した。岬上では諜報員とコボルト諜報員が艦隊通過に歓喜し、作戦が順調に進んでいることが示された。グリンデマンは本隊突入に同道したい思いを抱きながらも、別任務のため進路を分かつことを自覚していた。

夜間偵察部隊「ワシミミズク中隊」の出撃準備

午後五時、アーンバンド郊外の野戦大鷲離着場では、大鷲軍団五〇羽のうち夜間飛行可能な八羽とコボルト飛行兵八名が集結していた。彼らはワシミミズク中隊として第一軍・第三軍の夜間空中偵察を担当する精鋭であり、昼間には既に国境上空ぎりぎりを飛んでエルフィンド側に特異な動きがないことを確認していた。ラインダース少将は自らも鞍具を付けて海軍上空偵察に向かう準備を整え、背にはメルヘンナー教授を乗せていた。出撃前の訓示で彼は、白銀のシルヴァン川や湖沼など父祖の大鷲が愛した故地の空を再び飛ぶ意義を語り、この一日を「大鷲の日」と位置づけ、オルクセンとグスタフへの感謝と敬意を表明した。

国王大本営の熱気とグスタフの一二〇年

午後五時一五分、アーンバンド中央駅の御用列車センチュリースター号に設けられた国王大本営では、宣戦布告と各国への戦争状態通告完了の報が届き、大鷲偵察や前進部隊からエルフィンド側の無警戒ぶりも続々と伝わっていた。グレーベン少将は奇襲を許す国家の怠慢を罵倒し、領土と国民を守れぬ政権には存在資格がないと断じた。月光差すプラットホームでグスタフとゼーベックはロザリンド会戦からの一二〇年を振り返り、農業・工業・軍備・外交・諜報など国家の積み上げがあって初めて今日の奇襲が可能となったと認識していた。同時にグスタフは、前世では統計職員かつ家庭菜園を楽しむ平凡な人間に過ぎなかった自分が、専門知識に乏しいまま王として一から学び続けてきた苦労と限界を自省していた。そして、一二〇年かけた準備の成果である奇襲が、事情を知らぬ他国や後世の歴史家には「ある日突然、野蛮なオークの国が平和なエルフの国を襲った」としか映らぬであろうという皮肉を口にし、その歴史の見え方まで含めて今回の戦役を意識していた。

シルヴァン川渡河直前の緊張

午後五時四五分、侵攻開始一五分前、アンファングリア旅団はシルヴァン川南岸の渡渉点に集結していた。ダークエルフたちは氏族ごとの戦化粧を施し、一年前とはまるで異なる旗と覚悟を胸に、故郷エルフィンドへ憐憫も慈悲もなく進軍する構えであった。魔術探知の結果、対岸には国境哨所の平常勤務以外の気配はなく、奇襲成功は確実視されていた。

火力と輜重を欠いた橋頭堡維持の危険

大河の渡渉は制約が多く、山砲大隊や輜重馬車は水深と負荷の問題から架橋完了まで渡河不能と判断されていた。先行して渡れるのは猟兵と選抜された騎兵、少数の山砲と機関砲のみであり、本格的な野砲と輜重は工兵隊が大型浮橋を完成させるまで最大八時間を要すると見積もられていた。その間、対岸の旅団主力は火力と補給を大きく欠いた脆弱な橋頭堡として、敵の反撃に耐え続けねばならない状況であった。

屑鉄戦隊による河川遡上と重砲支援計画

この弱点を補うため、参謀本部は海軍との協同で砲艦三隻の河川遡上を決断していた。やがて下流から黒い影が近づき、シルヴァン河口から約八キロ遡上した砲艦が縦隊のまま河川中央のオルクセン側に投錨した。彼らは第一一戦隊「屑鉄戦隊」と名乗り、発光信号で「御用は無きなりや」と呼びかけた。各艦の十二センチ砲は陸軍基準では重砲に匹敵し、三隻で重砲中隊を上回る火力を提供するとともに、降ろした汽艇で浮橋架設作業も支援する手筈となっていた。無茶な夜間遡上ではあったが、新大陸戦史と魔術探知を根拠に可能と判断された支援策であった。

出撃前の儀礼と侵攻命令

侵攻開始二分前、ディネルースは火酒を口に含み、参謀長イアヴァスリルと作戦参謀ラエルノアにも回したのち、自らのサーベルを火酒で清めた。戦いに臨み武器や勲章を火酒で清めるのはダークエルフの伝統であり、彼女はその刃を右肩に構えて時刻を待った。十八時ちょうど、砲艦が一斉に戦闘旗を掲げると同時に、ディネルースはサーベルを振り下ろして対岸を指し、「アンファングリア旅団、前へ」と号令を発した。この瞬間、オルクセン王国が総力を挙げた対外戦争、対エルフィンド戦争がついに開幕したのである。

外伝 首都新聞社 開戦当夜

外務省重大発表の報とザウムの帰社

開戦当夜、オルクセン主要紙オストゾンネの編集部に、記者フランク・ザウムが退社時刻を過ぎて駆け込んだ。編集長は、外務省が今夜重大発表を行うとの情報を受けて記者たちを呼び戻しており、ザウムはその先陣として戻ってきた。外務省詰めの記者からは「雰囲気がおかしい」「何かが起きる」という曖昧な情報しか得られておらず、編集部には不穏な緊張が漂っていた。

軍事的兆候の積み重ねと開戦への確信

ザウムは帰社途中、陸軍省詰めの仲間から「首都大学学長シュタインメッツ大将が軍服姿で陸軍省に現れた」との異例の情報を得ていた。ロザリンド会戦世代の重鎮である彼の軍服姿での来訪は、事実上の現役復帰を示唆するものであった。さらに、ダークエルフ集団亡命以来のきな臭い情勢、ファーレンス商会による南星大陸産硝石の大量購入、アンファングリア騎兵の王宮警護からの不在など、複数の兆候が組み合わさり、編集長とザウムは「戦争の開始」という一点に行き着くと判断した。

号外「戦争」発行とオストゾンネ紙の先陣

編集長は号外一面をザウムに一任し、ザウムは即座に机に向かって原稿執筆を開始した。編集部は外務省、参謀本部担当など記者の配置を指示し、印刷部にも待機を命じた。ザウムはウイスキー入りのコーヒーという陣中見舞いを受けつつ、戦争開始を前提とした論調で原稿を書き上げ、編集長が順次校閲して最新型転輪式印刷機に回した。見出しには大きく「戦争」の二文字が掲げられ、石版画には国王グスタフの肖像が流用された。夜七時頃、外務省からオルクセンとエルフィンドの開戦が正式に伝えられると、ザウムはエルフィンド外交書簡事件とその不誠実な姿勢を糾弾する追記を加え、号外は売り子たちによって市中へ一斉に配布された。社屋前の掲示板にも「戦争!」号外が貼り出され、市民は足を止めて人だかりを作り、結果としてオストゾンネ紙はこの晩に号外を出せた唯一の新聞社となった。

従軍記者志願と報道の役割自覚

ひと段落ついた編集部では、編集長と記者たちがストーブを囲んで紙巻き煙草をくゆらせつつ、今後の対応を語り合った。ザウムは編集長に「従軍記者を戦地に送るべきだ」と迫り、自らを第一号として志願した。彼は近代戦争が前線と銃後を報道で結ぶ総力戦であると理解しており、報道の最前線に立つ覚悟を示した。こうしてフランク・ザウムは、ベレリアント戦争における従軍記者第一陣として戦場へ赴くことが決まり、オストゾンネ紙は戦時報道における主役の一つとして動き出したのである。

同シリーズ

e8ec4840d0fc50abac582aedd6d80b7d 小説「オルクセン王国史 2 第二部 戦争のはじめかた」感想・ネタバレ
オルクセン王国史~野蛮なオークの国は、如何にして平和なエルフの国を焼き払うに至ったか~
cdcd467d15ff83dd26b43162b451b515 小説「オルクセン王国史 2 第二部 戦争のはじめかた」感想・ネタバレ
オルクセン王国史~野蛮なオークの国は、如何にして平和なエルフの国を焼き払うに至ったか~ 2

その他フィクション

e9ca32232aa7c4eb96b8bd1ff309e79e 小説「オルクセン王国史 2 第二部 戦争のはじめかた」感想・ネタバレ
フィクション ( Novel ) あいうえお順

小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレ

物語の概要

本作はSFミリタリー・ライトノベルに分類される作品である。旧シリーズ『フルメタル・パニック!』の物語から約20年後、主人公の相良宗介が家庭を持ち、「普通の家族としての日常」を築こうとする一方で、依然として軍事的任務やスパイ的戦闘に巻き込まれてゆく展開が描かれている。第3巻では、宗介・妻の千鳥かなめ・高校生の娘・相良夏美・小学生の息子・相良安斗という“相良家”の日常に、かつての上司であるテレサ・テスタロッサが依頼を携えて再登場し、家族と任務が融合したドタバタと緊張のミッションが始まった。

主要キャラクター

  • 相良宗介:元エリート傭兵であり、現在は家族と平穏な生活を望む父親。だが、戦闘技能・駆動兵器操縦の腕前は健在である。
  • 相良(千鳥)かなめ:宗介の妻であり、かつての戦場を共有したパートナー。現在は家庭を支えつつ、夫の“普通ではない”日常を知る者でもある。
  • 相良夏美:宗介とかなめの娘。高校生ながら父親ゆずりの戦闘素質と鋭い観察力を持つ。家族の中で“普通”ではない環境に育っている。
  • 相良安斗:宗介とかなめの息子。小学生ながら高いIT能力・ハッカー的才能を有し、家族の戦いに巻き込まれる才児である。
  • テレサ・テスタロッサ:宗介のかつての上官であり、本巻にて相良家の日常に“任務”を持ち込む刺客・協力者として登場する。宗介・かなめ・子どもたちを巻き込む鍵人物である。

物語の特徴

本作の魅力は、「戦場の傭兵」という過去を持つ主人公が、“家族”というテーマのもとで日常と非日常を行き来する点にある。戦闘・兵器・スパイ活動というミリタリー要素と、妻・子ども・家庭という家族ドラマ要素が融合しており、旧シリーズとはまた異なる“戦う父親・夫としての宗介”の姿が描かれている。
さらに本巻では、かつての上官テレサの登場という“過去の因縁”が提示され、家族としての絆と任務としてのチームワークが交錯する展開が読者の興味を引く。加えて、子どもたちの成長や家庭内のドラマも意識されており、単純な軍事アクションに留まらない物語構成が差別化要素となっている。

書籍情報

フルメタル・パニック! Family
著者:賀東 招二 氏
イラスト:四季童子  氏
出版社:KADOKAWA
レーベル:ファンタジア文庫
発売日:2025年11月20日
ISBN:9784040758879

gifbanner?sid=3589474&pid=889458714 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレブックライブで購入 gifbanner?sid=3589474&pid=889458714 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレbls_21years_logo 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレ gifbanner?sid=3589474&pid=889059394 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレBOOK☆WALKERで購入 gifbanner?sid=3589474&pid=890540720 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレ

(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。

あらすじ・内容

テレサ・テスタロッサが『Family』シリーズに登場!

宗介とテッサ、まさかの夫婦(役)に!?
衝撃づくしの「フルメタ」新シリーズ、待望の第三弾!!

「今日は皆さんに頼みたいことがあって来ました」
家族そろってドタバタな生活を続ける宗介たちの前に現れたのは……宗介の元上官にして、かなめの恋の好敵手でもあったテレサ・テスタロッサ。そんな彼女(テッサ)が持ち込んだ依頼とは――
「あら。ずいぶん他人行儀ですね。わたしたち夫婦ですよ?」
――テッサが“宗介の妻”を演じ、偽物の四人家族としてギャングたちのパーティに潜入すること!? ※かなめは蚊帳の外!
宗介とテッサ、約20年ぶりの急接近。さらに、偽装家族として二人に同行する夏美と安斗にもトラブルが襲い掛かり……?
エーゲ海のリゾート島を舞台に、仮初の相良家が暴れ回る!!

フルメタル・パニック! Family3

KADOKAWAanime

感想

テスタロッサが「Family」シリーズに本格参戦し、宗介とまさかの“夫婦役”を演じるところから始まる一冊である。エーゲ海のリゾート島を舞台にした潜入作戦と、その後の日常パートがゆるくも濃くつながっていき、戦い・家族・人間関係というシリーズの持ち味がぎゅっと詰まっていた。

物語はまず、真夏の日比谷の牛丼屋での再会から動き出す。宗介たちがいつものように庶民的な食事を楽しんでいるところへ、テッサが現れて「頼み事がある」と切り出す。食欲がないと言いながら水ばかり飲み、タブレットの操作を誤って牛皿だけでなく鮭や卵焼き、豚汁まで頼んでしまうポンコツぶりが相変わらずで、その場違いな淑女感とのギャップも含めて、序盤から笑わされる。食後、車内で明かされる依頼の内容が、「ギャングのボス・ダディッチのパーティーに“偽装家族”として潜入し、顧客リストを奪う」というものだと分かった瞬間、読んでいて一気にワクワクが高まった。

そこから舞台はエーゲ海の超高級リゾート島へ移る。百万円クラスのヴィラが並ぶ風景に、宗介が「作り物めいて見える」と違和感を覚えるくだりは、ゲリラ時代の記憶を持つ彼ならではの視点で印象的である。サヴィル・ロウ仕立てのスーツに身を包み、オードトワレをまとって身支度を整えていく宗介の姿には、「昔の宗介とは少し違う大人の男になったのだな」という感慨もあった。

パーティー会場に到着してからの流れも、時系列で追うと非常に滑らかだ。入口で安斗・夏美と合流し、テッサが宗介のネクタイを直しながら自然に腕を組み、夫婦らしく振る舞う。その一方で、海上の漁船からかなめが通信で口出しを続け、テッサと宗介の距離が近づくたびに「必要以上にいちゃつくな」と釘を刺す構図が楽しい。かなめが直接参加できない事情と、それでも「本妻」として遠隔から監視し続ける立ち位置が、シリーズらしい三角関係の妙をうまく活かしていると感じた。

社交パートでは、テッサの外交力とかなめの情報支援で、宗介がしぶしぶながらも「PMC経営者」としてそれなりに場をこなしていく流れがきちんと描かれている。リンゼイ夫妻との会話など、宗介は内心では「今すぐ首を折れる」とか物騒なことを考えているのに、表面上は真面目に話を合わせているギャップが面白い。そして、ダディッチ本人と初対面し、あくまで冗談交じりに挨拶を交わしつつも、頭の中では何通りもの制圧プランをシミュレートしているあたりに、「宗介はやっぱり宗介だ」と再確認させられた。

一方で、夏美と安斗の“子ども組”の動きも、時間の流れに沿って丁寧に描かれている。まず安斗が、高級フィンガーフードに飽きて「バーガーキングがいい」とぼやきつつ、バゲットだけを食べ続ける。そこに、同じようにバゲットをかじる少女――のちにダディッチの娘イリーナだと判明する――が現れ、「そっちも子供だろ」と返して怒らせる一連のやり取りは、最悪の初対面としてありありと頭に残った。続く夏美サイドでは、ドラゴが差し出すデザートを何度も丁寧に断り、ついにはつま先を踏んで押し返してしまう展開があり、兄妹そろってボスの息子・娘を怒らせてしまうあたりが非常にこの作品らしい。

ヴィラに戻ってからの「夫婦同室問題」も、実際の時系列に沿って振り返ると緊張と笑いが絶妙に交差している。ダディッチ側の車両が赤外線カメラで寝室の人数まで監視している可能性が浮上し、「別々の部屋で寝ると不自然になる」という現実的な事情が発生する。かなめは作戦中止を主張し、テッサは「一緒に寝るだけ」と応じ、チャットでの感情のぶつかり合いが続く。かなめの露骨な嫉妬と不安、それを「かわいい」と面白がるテッサ、そしてその間に挟まれ戸惑う宗介という構図が、三人の関係性をよく表していた。

さらに、安斗の独断行動として、マーク9ドローンによる偵察と電柱へのテルミット弾設置が入り、そこからの停電発生、書斎への全員集合、USBメモリによるデータ奪取と露見、そして一気に武力制圧へなだれ込む流れは、時系列で追うと非常にスムーズで読み応えがある。中でも、女装させられた安斗が登場し、女性陣が容赦なくスマホで撮影大会を始める場面は、表紙の宗介の女装と合わせて、思わず笑ってしまった。こうした「絵として強い」シーンを惜しみなく入れてくるところが、本作のサービス精神の旺盛さだと思う。

停電を利用したデータ奪取が成功した直後、隠しカメラの映像からテッサと夏美の動きが暴かれ、宗介がため息一つで一気に警備を制圧するくだりも、時系列上のクライマックスとして非常に気持ち良い。ダディッチ一家をも巻き込んだ脱出戦、ハマー・リムジンでの強行突破、ドローンとAS〈アズール・レイヴン〉を駆使した追撃戦の制圧まで、一連のアクションが連続して描かれており、「潜入もの」と「メカアクション」が見事に融合していた。

このギリシャ編の合間や終盤で印象的だったのは、テッサが自分の恋心を一度きちんと整理し、「相良夫妻は大切な友人だ」と言葉にしていく過程である。夏美とのジョギング中に語る、宗介へのかつての想いと、かなめへの敗北宣言をさらりと笑いながら話す姿は、大人になったテッサの一面として心に残った。

物語の後半では、舞台を日本に戻し、二話目の中心人物としてかつての用務員・大貫善治が登場する。まず、吉祥寺の焼き鳥屋での同級生との飲み会から、陣代高校の近況とともに「大貫さんは十年前に突然辞めた」という情報がもたらされる。ここまでは静かなノスタルジーなのだが、その直後、神保町の駐車場で高級車から降りてきた初老の紳士が、あの大貫さん本人であり、しかも人気作家「久遠アキト」だったと判明する流れが、非常にドラマチックで印象的だった。

夏美が久遠アキトの熱心なファンになっていることも相まって、サイン会のシーンは時系列的にも感情的にも大きな山場になっている。緊張で固まりそうになる夏美が、宗介から教わった「銃撃戦前の対処法」で呼吸を整えるくだりは、戦闘技術が日常の場面にも活かされているのが面白く、同時に父の教えが彼女の支えになっていることが伝わってきて、ほほえましかった。

そこから久遠邸訪問へと話が進み、大貫さんの「売れっ子作家」としての現在と、「創作の意味を見失いつつある」本音が語られる。そして、バハルニスタン情報部の急襲、原稿タブレットを破壊されたことでのブチ切れ、歯で弾丸を止めるという人間離れした覚醒ぶりが描かれるわけだが、この落差が強烈で、思わず唖然とさせられた。用務員時代の穏やかな姿を知っている読者であればあるほど、この変貌は衝撃的であり、だからこそ印象に残る。

また、この大貫エピソードの中で挟まれる、宗介の「過去のやらかし」エピソード――「一番高い服で来い」と言われて、ポンタくんの着ぐるみアーマーを着てきてしまう話――も、時系列的には高校時代の回想として自然に差し込まれている。確かに価格的には高いから間違ってはいないのだが、「それは服ではなく着ぐるみだろ!」とツッコミを入れずにはいられない発想で、宗介らしいズレたセンスがよく出ていて笑ってしまった。

結果的に、大貫さんは自作原稿を一度失いながらも、記憶を頼りに書き直し、以前よりも良い出来だと評されるまでに復活する。その背後には、七日間かけて身の回りの世話をし続ける夏美の献身もあり、彼女の「クリエイターへの憧れ」が時系列を追う中で徐々に高まり、少し危うい方向に振れていく様子も、読者としてはヒヤヒヤしながら見守ることになった。

このように時系列に沿って振り返ると、『Family3』は、ギリシャ編の潜入作戦から日本の日常パート、そして用務員だった大貫さんの覚醒エピソードまでが、ひとつながりの流れとして丁寧に積み上げられていることがよく分かる。冒頭の「テッサが宗介の妻を演じる」という衝撃的なシチュエーションから始まり、宗介の天然ボケぶり、テッサとかなめの複雑な感情、大貫さんの「歯で弾丸を止める」狂戦士ぶりに至るまで、どの場面もその前後の流れがしっかりしているからこそ、印象が強く残ったように感じる。

総じて、『フルメタル・パニック! Family3』は、エーゲ海のリゾート島で暴れ回る仮初の相良家と、日本に戻ってからの「平凡ではない日常」の積み重ねを通して、このシリーズらしい笑いとスリル、そして人間関係の厚みを堪能できる一冊だった。テッサの成長と整理された恋心、大貫さんの“覚醒”と創作への再起、そして相変わらずズレた宗介の言動。それらが時系列の流れに沿って積み上がることで、読後には「ちゃんと一巻の物語を読み終えた」という満足感が強く残った。

最後までお読み頂きありがとうございます。

gifbanner?sid=3589474&pid=889458714 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレブックライブで購入 gifbanner?sid=3589474&pid=889458714 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレbls_21years_logo 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレ gifbanner?sid=3589474&pid=889059394 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレBOOK☆WALKERで購入 gifbanner?sid=3589474&pid=890540720 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレ

(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。

登場キャラクター

相良宗介

家族とともに危険な任務に関わり続ける元戦闘要員である。
現在は定職を持たず、兵器リポートや戦術分析などの在宅仕事を請け負っている。
家族に対しては保護と自立支援の両方を意識し、かなめとの関係では配慮と遠慮が入り混じった態度を取っている。

・所属組織、地位や役職
 元ミスリル関係者であり、現在はフリーの軍事コンサルタント的な立場である。
 かなめの系列会社のオフィスビルを仮住まいとしている。

・物語内での具体的な行動や成果
 エーゲ海マコニシ島ではPMC経営者「ジョウスケ・サガワ」として潜入し、社交界で人脈を広げてダディッチへの接近に成功した。
 顧客データ奪取が露見した際には、警備隊長と護衛を瞬時に制圧し、ダディッチを人質として屋敷から脱出する戦術を選択した。
 防弾ハマーでの突破では運転と指揮を兼ね、追撃と銃撃の中で家族とダディッチ家を無傷で港まで運んだ。
 東京ではバハルニスタン関係車両の尾行を受けたが、バルダーヌと連携して追跡を振り切り、地下鉄移動で安全確認を徹底した。
 久遠アキトとの再会では、高校時代の縁を尊重しつつも、娘の危うい憧れに強い不安を抱く姿を見せた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 名目上は無職に近い立場であるが、家族と周囲の戦闘・防衛行動の中心として実質的な指揮役となっている。
 ダディッチ一家からは命の恩人として見られ、その後の保護方針にも関わる位置に立っている。
 夏美からは「無敵の父」として見られながらも、「弱さを抱えつつ踏ん張る人」としての側面も理解され始めている。

千鳥かなめ

高い情報処理能力と指揮能力を持つ相良家の実質的な司令塔である。
家族への愛情が強く、とくに子どもを危険から遠ざけることを最優先に考える。
テッサに対しては、友人としての信頼と、宗介をめぐる嫉妬や独占欲が複雑に入り交じっている。

・所属組織、地位や役職
 複数の企業を束ねる経営者的立場にあり、「タイドリー・カヌム」として実業界でも知られている。
 エンタメ企業のオフィスフロアを家族の仮住まいとして管理している。

・物語内での具体的な行動や成果
 マコニシ島作戦では沖合の漁船から映像・音声を一括監視し、相手のプロフィールや行動を即時にフィードバックして社交を支援した。
 ダディッチ邸の書斎侵入では、暗証番号の取得とネットワーク状況の把握を行い、停電時のUSB侵入のタイミングを指示した。
 作戦途中の情報から、ダディッチ家が組織内で粛清対象になる可能性を読み取り、家族同伴での脱出案を受け入れた。
 バハルニスタン関係者の動きについては、各国情報機関の典型的な行動として分析し、自陣の対応方針を指示した。
 久遠アキトとの再会では、用務員時代の生活を踏まえて会話を組み立て、二十年ぶりとは思えない距離感で交流を再開した。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 軍事作戦と民間事業の両面で相良家を支える中枢として機能しており、国内外の組織から注目を集めている。
 宗介との関係では、テッサとの「夫婦ごっこ」に対し強い独占欲と不安を表明しつつも、自らの感情を言語化して共有する段階に達している。
 ダディッチ一家の長期保護を自ら申し出るなど、危険を引き受ける決断力も示している。

相良夏美

相良家の長女であり、戦闘と機械操作の両方に高い適性を持つ高校生である。
父を理想視しつつも、親の弱さや限界も理解し始める年頃にあり、家族の中で思想面の変化が最も大きい存在である。
作家やアーティストへの憧れを強く抱き、久遠アキトに対しては読者以上の献身を示している。

・所属組織、地位や役職
 学生であり、同時にAS〈アズール・レイヴン〉の実質的な操縦者である。
 家族の作戦では戦闘要員と偵察要員を兼ねる立場である。

・物語内での具体的な行動や成果
 マコニシ島では「マミ」として潜入し、ダディッチ邸の書斎に入り込んでPCへのUSB挿入を実行した。
 停電発生後にはダディッチ家と警備隊が集まる中で状況を取り繕い、その後の制圧戦では背後から護衛を絞め落とすなど近接戦闘もこなした。
 港では〈アズール・レイヴン〉に戦闘搭乗し、非殺傷兵装で港周辺の武装勢力を迅速に制圧した。
 アラスカではヘラジカとヒグマを相手に単独で行動し、「確信が持てないなら撃たない」という判断と、最終的な仕留めの結果を自ら受け止めた。
 久遠アキト邸では、原稿の価値を強く肯定し、再執筆期間中の家事全般を一手に引き受けた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 〈アズール・レイヴン〉の操縦においては、父よりも新世代機への適性が高いと評価されている。
 父を「無敵」と見る子どもの視点から、「弱さを抱えつつなんとかする人」と見る理解へと意識が変化している。
 久遠アキトへの感情は、家族から「恋に近い」と受け取られるほど強くなっており、今後の人間関係に影響を与えつつある。

相良安斗

相良家の長男であり、直接戦闘を好まないが、高度なドローン運用と状況分析に優れた少年である。
冷静な判断を好み、家族の中では一歩引いた視点から戦況を見ようとする傾向がある。
イリーナとの関係では、反発と連帯の両方が混ざった複雑な立場に置かれている。

・所属組織、地位や役職
 学生であり、相良家のドローン運用担当である。
 マーク9やマーク10といったドローン群の実戦運用者である。

・物語内での具体的な行動や成果
 マコニシ島ではマーク9を無断離陸させ、ダディッチ邸の偵察と電柱へのテルミット弾設置を行い、後の停電の前提条件を整えた。
 ダディッチ兄妹の盗撮用ドローンをサンダルで撃墜し、その録画から相手の監視意図を読み取った。
 屋敷脱出時にはマーク9で屋上・外周の敵位置をマーキングし、ハマーの進路選定と追撃牽制を支援した。
 女装させられた際には精神的なダメージを受けつつも、場の空気を崩さない形でやり過ごした。
 市ヶ谷のバーガーキングでは、マーク10で両親の襲撃状況を確認し、戦力評価から自分たちの避難不要と判断した。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 ドローン運用能力により、家族の作戦に欠かせない技術支援役となっている。
 テッサからは「完璧すぎて少し心配」と評されるほど落ち着いた行動を見せている。
 イリーナとの関係は、ゲームとやりとりを通じて続いており、国境を越えた個人的なつながりになりつつある。

テレサ・テスタロッサ

宗介とかなめにとって旧知の少女であり、現在は情報・作戦立案を担う側に立つ女性である。
仕事では合理的で冷静な判断を行う一方、かなめに対しては強い敬意と親愛を向けている。
宗介への感情は過去の恋慕を経て整理されており、今は夫婦への複雑な憧れとして残っている。

・所属組織、地位や役職
 国際的な軍事・情報組織に関わる立場にあり、多忙な任務を指揮する位置にいる。
 ダディッチ案件では作戦全体の依頼者兼コーディネーターである。

・物語内での具体的な行動や成果
 牛丼屋で宗介一家に作戦を持ちかけ、マコニシ島の通信事情とダディッチの顧客データ構造を説明した。
 マコニシ島パーティでは「マーサ=テッサ」として宗介の妻役を務め、社交界での会話と人脈形成を主導した。
 リンゼイ夫妻や他の参加者との会話では、かなめからの情報支援を受けつつ自然な社交を展開し、宗介のぎこちなさを補った。
 停電後の書斎ではUSBコピー完了を確認し、自らメモリを回収したうえで、その直後の露見にも即応した。
 脱出後はダディッチ一家の護送計画を整え、自らはヘリで離脱しつつ、部下を残して保護体制を継続させた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 作戦全体を評価し、一〇〇点中七〇点という自己評価を下すなど、結果を冷静に測る立場になっている。
 かなめとの関係では、嫉妬や泣き言を「かわいい」と受け止める側に回っており、感情の立ち位置が過去と変化している。
 宗介との「夫婦ごっこ」を終えた後も、三人との距離を適切に保とうとする姿勢が描かれている。

イゴール・ダディッチ

セルビア系実業家を名乗るが、実態は麻薬や武器密売、資金洗浄などを行う犯罪組織のボスである。
家族への情を持ちながらも、組織運営では冷酷な判断を行う人物である。
豪奢な生活に慣れているが、その生活が家族にとって負担になっていることには鈍い面がある。

・所属組織、地位や役職
 麻薬・武器密売・資金洗浄を収益源とするギャング組織の長である。
 表向きはセルビア系の「実業家」として振る舞っている。

・物語内での具体的な行動や成果
 マコニシ島の高級リゾートで休暇を取りつつ、パーティを主催して各国の富裕層と交流していた。
 パーティでは宗介と軽い冗談を交わし、PMCへの警戒と興味を同時に示した。
 停電と顧客データ奪取の露見後には、組織内の報復を恐れて家族同伴での避難を懇願した。
 屋敷脱出時には、自身が盾となることで部下の発砲を抑える場面もあった。
 港への逃走中には、部下の裏切りぶりに言及しつつも、防弾ハマーの性能だけは率直に認めていた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 顧客データを押さえられたことで、組織内での立場は大きく揺らぎ、命と引き換えに情報提供者となる道を選んでいる。
 その後は相良家とテッサに保護され、日本の住宅街に家族で移り住む生活へと移行している。
 田中一郎の隣人となり、「困った時はイチローを頼れ」という形で新たな縁を持つ存在となっている。

ヴァレリア・ダディッチ

ダディッチの妻であり、家族の生活に不満と疲労を抱える女性である。
過去の庶民的な時間を大切な思い出としており、現在の豪華な生活を必ずしも望んでいない。
子どもたちに対しては、危険な環境から遠ざけたいという思いを持っている。

・所属組織、地位や役職
 ダディッチ家の妻として、組織ボスの家庭を支える立場である。

・物語内での具体的な行動や成果
 マコニシ島では夫との口論で「昔の海水浴場の方が良かった」と語り、今の生活への違和感を露わにした。
 高速ボートや車の配置など、屋敷の設備情報を宗介たちに伝え、脱出戦術の決定に協力した。
 停電後の混乱では、子どもたちを守りつつ、ハマー・リムジンに同乗して脱出に応じた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 夫が情報提供者となった結果、自身も犯罪組織の標的となり、家族そろって相良家の保護対象となっている。
 夫婦関係は不満と依存が混ざった状態にあり、逃走中の車内でもその歪みが会話として表面化している。
 日本での新生活では、以前よりも静かな生活への転換が期待されている立場である。

ドラゴ・ダディッチ

ダディッチ家の長男であり、父の影響を強く受けた少年である。
プライドが高く、自分の立場や権勢を誇示しようとする傾向がある。
夏美に対しては、最初の衝突から対抗心と興味を抱く関係になっている。

・所属組織、地位や役職
 ダディッチ家の息子であり、将来的な後継候補と見なされている。

・物語内での具体的な行動や成果
 パーティ会場で夏美にデザートを差し出し、自分の立場を示す発言をしたが、繰り返し断られて気分を害した。
 ダディッチ邸では夏美を娯楽室に案内し、ビリヤードやダーツで勝負を挑んだが、技量差で完敗した。
 四階書斎に夏美を通した際、目の前で暗証番号を入力したことで、結果的に侵入作戦に協力する形になった。
 夏美から二度投げ飛ばされて失神し、その後も不用意な接触で再度失神するなど、身体能力の差を見せつけられた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 組織内での形式的な地位は高いが、実務や戦闘面では未熟さが目立っている。
 USB侵入と停電騒ぎを通じて、家族と共に組織から切り離され、相良家に保護される立場となった。
 夏美に対する感情は敗北感と興味が混ざった状態であり、今後の関係に含みを残している。

イリーナ・ダディッチ

ダディッチ家の長女であり、甘やかされた環境で育った少女である。
安斗に対しては、最初の口論から強い反発と関心を抱くようになった。
自分のプライドを守るため、相手の弱みを握ろうとする行動を取ることがある。

・所属組織、地位や役職
 ダディッチ家の娘であり、父の権勢のもとで生活している。

・物語内での具体的な行動や成果
 パーティ会場で安斗に話しかけたが、ぶっきらぼうな対応をされ、怒ってその場を去った。
 兄とともにドローンを使って相良家のヴィラを盗撮し、「弱み」を探そうとしていた。
 自分の部屋のバルコニーに着陸したマーク9を発見し、それを材料に安斗の立場を握ろうとした。
 安斗をクローゼットに連れ込み、服を脱ぐよう命じることで主導権を取ろうとした。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 父の失脚と共に自身も保護対象となり、相良家の庇護のもとで生活することになっている。
 その後も暗号化チャットや画像送信を通じて安斗との連絡を続けており、国境を越えた個人的関係を維持している。
 甘やかされてきた生活からの転換が今後の課題となる立場である。

田中一郎

古書店でアルバイトをする高校生であり、一見すると平凡な生活を送っている青年である。
しかし、相良家やダディッチ家との縁を通じて、日常の外側にある世界へ徐々に引き込まれている。
状況への理解と受け止め方には、ある程度の順応力が見られる。

・所属組織、地位や役職
 高校生であり、古書店のアルバイト店員である。

・物語内での具体的な行動や成果
 夏休み終盤に帰宅した際、隣家の取り壊しと新築住宅への引っ越しを目撃した。
 新しく越してきたダディッチ一家から挨拶を受け、翻訳アプリ越しの会話で彼らの正体を察した。
 「困った時はイチローを頼れ」と言われる状況を、自分なりに理解して返答した。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 表向きは平凡な学生だが、危険な過去を持つ一家の隣人という立場になっている。
 相手の冗談めいた脅しを受け流せる程度には、特殊な状況への耐性を身につけつつある。
 本人の自覚とは裏腹に、「平凡ではない日常」の入り口に立っている存在である。

バルダーヌ

相良家の護衛として活動する戦闘要員である。
任務外では派手な服装を楽しむ一面があり、夏美からのお下がりの服を着る場面もある。
地形や都市構造への理解が深く、運転技術と相まって追跡回避で高い能力を発揮している。

・所属組織、地位や役職
 相良家の護衛チームの一員であり、運転と警護を担当する。

・物語内での具体的な行動や成果
 吉祥寺からの帰路では黒いSUVを運転し、首都高上での尾行にいち早く気づいた。
 外苑で高速を降りた後、四谷周辺の地形や暗渠、小公園を利用したルート取りで追跡車を撒いた。
 ドローンによる追尾にも対処し、車載妨害装置で敵ドローンを制圧した。
 久遠邸周辺に所属不明の分隊が展開した際には、即座に宗介へ連絡して警戒を促した。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 相良家の都市部での移動と安全確保において、不可欠なドライバー兼護衛として位置づけられている。
 護衛としての職務を果たしながらも、私生活では家族からの私服を楽しむ柔らかい側面も持つ。
 今後も市街戦・追跡回避の場面で重要な役割を担うと見込まれる。

大貫善治/久遠アキト

陣代高校の元用務員であり、現在は人気恋愛小説家「久遠アキト」として活動する人物である。
表向きは温厚で控えめな中年男性だが、内面には創作への強い執念と、理性から外れた戦闘性を抱えている。
宗介とかなめにとっては、高校時代からの恩人に近い存在である。

・所属組織、地位や役職
 かつては陣代高校の用務員であり、現在はベストセラーを持つ小説家である。
 市ヶ谷・砂土原に自宅兼仕事場を構えている。

・物語内での具体的な行動や成果
 用務員時代から新人賞に応募し続け、退職後に作家として成功して邸宅を構えるまでになった。
 久遠アキト名義でサイン会を行い、夏美にとって「一生の宝物」となるツーショット写真を残した。
 バハルニスタン情報部隊の急襲では、当初は恐怖で縮こまっていたが、原稿を破壊されたことで狂戦士として覚醒した。
 九ミリ弾を前歯で受け止める異常な耐久と膂力で敵兵を次々と戦闘不能にし、宗介が制止しなければ多数が死亡していた状態を作り出した。
 翌朝には狂戦士化の記憶を失っていたが、原稿喪失だけを知ると、七日間かけてより良い形で書き直しに成功した。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 用務員から人気作家への転身により、生活と社会的地位は大きく変化している。
 創作への虚無感に悩んでいたが、原稿喪失と再執筆を通じて停滞を突破し、創作意欲を取り戻している。
 夏美からは作品と人格の両面で強く慕われる存在となり、相良家にとっても新たな重要人物として位置づけられている。

ヤスール・ザクメット

バハルニスタン軍情報部の大尉であり、相良家とかなめを狙う工作員である。
職務に忠実だが、相手の実力差を正しく測れない一面がある。
任務遂行のためには一般住宅への急襲もいとわない姿勢を見せている。

・所属組織、地位や役職
 バハルニスタン軍情報部の大尉であり、実動部隊の指揮官である。

・物語内での具体的な行動や成果
 サイン会のSNS投稿から宗介と夏美の写真をAI監視で拾い、居場所を特定した。
 工事業者を装った分隊を率いて久遠邸を急襲し、大貫を人質に取って宗介たちの武装解除を迫った。
 庭の盆栽を蹴り倒し、執筆中の原稿データを保管したタブレットを破壊したことで、大貫の逆鱗に触れた。
 狂戦士化した大貫により部隊が壊滅し、自身も銃弾を撃ち尽くした後に泣き叫ぶほど追い詰められた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 今回の作戦は失敗に終わり、自身と部隊の無力さを露呈する結果になっている。
 宗介の介入がなければ即死していた可能性が高く、敵でありながら命を救われた立場となっている。
 バハルニスタン側の動きが、今後も相良家を取り巻く脅威として続くことを示す役割を担っている。

小野寺孝太郎

宗介の高校時代の同級生であり、現在は都立高校の教師をしている男性である。
仕事と飲み会文化に疲れを感じつつも、教師としての責任を果たそうとしている。
宗介や風間との再会で、学生時代からの縁を改めて意識する立場となっている。

・所属組織、地位や役職
 都立高校の教員であり、学年主任を務めている。

・物語内での具体的な行動や成果
 吉祥寺の焼き鳥屋で宗介と風間と再会し、陣代高校の現状や教育現場の変化を語った。
 大貫善治が十年ほど前に突然退職し、ひっそりと学校を去ったことを宗介に伝えた。
 坪井元校長が八王子市議として三期目を務めていることなど、母校の人事の近況を共有した。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 教師として学年主任を任される立場になっており、学校運営の一部を担っている。
 短期ローテーション制などの制度により、学校への愛着を持つ教員が減っている現状に直面している。
 宗介にとっては、過去と現在をつなぐ情報源となる貴重な存在である。

風間信二

宗介の高校時代の同級生であり、会社員とVTuber活動を両立している男性である。
インターネット文化に精通し、副業としての配信活動を続けている。
同年代の中では、新しい働き方を実践する側に立っている。

・所属組織、地位や役職
 会社員であり、個人VTuberとしても活動している。

・物語内での具体的な行動や成果
 吉祥寺の飲み会で宗介と孝太郎に近況を語り、VTuberとして登録者一万一千人目前であることを報告した。
 仕事と配信活動の両立状況を共有し、新しい働き方の一例として二人に印象を与えた。

・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 VTuberとして一定の登録者を持ち、発信力を持つ立場になっている。
 宗介との再会を通じて、学生時代からの人間関係を維持し続けている。
 今後、ネット上での影響力が増す可能性を持つ人物である。

展開まとめ

第七話 ギリシャ エーゲ海 ドデカネス諸島の超高級ヴィラ

超高級リゾートと宗介の違和感

宗介はエーゲ海を望む超高級ヴィラに滞在していた。寝室やバスルームがいくつもある別荘が一泊百万円級で並ぶ光景を前にしつつ、手入れが行き届き過ぎた景色を作り物めいていると感じていた。ゲリラ時代に見たアフガニスタンやビルマでの自然の光景と比べ、このリゾートに白々しさを覚えていた。

パーティへの支度と変化した自分

安斗から会場到着の連絡を受けた宗介はバスルームで身支度を整えた。サヴィル・ロウ仕立ての高級スーツにオードトワレをまとい、鏡の前で糸屑を取りながら、大人の男としての所作を身に付けた自分の変化を自覚した。一方で、自家用ジェットや高級リゾートを当然のように受け入れつつあることに、自身の「庶民」意識との乖離と欺瞞を感じていた。

シーザーホール到着と家族との合流

無人電動カートでシーザーホールへ向かった宗介は、重武装の警備が配置された荘厳な会場に到着した。入口近くでは、ネイビージャケット姿の安斗と、水色のイブニングドレスを着た夏美、そして妻役を務めるテッサが待っていた。宗介は夏美の大人びた装いを褒め、テッサからも素敵だと評されるが、彼女には敬語が抜けず、どこか他人行儀な距離が残っていた。

テッサとの偽装夫婦とかなめの監視

テッサは宗介のネクタイを直し、自然に腕を取りながら夫婦らしく振る舞った。その様子を夏美と安斗が撮影し、母であるかなめに見せると言い出す。宗介が慌てる中、左耳のイヤホン越しに、沖合の漁船からかなめの声が届き、芝居としての夫婦役は認めつつも、必要以上にいちゃつくなと釘を刺した。かなめは護衛チームとともに質素な服装で待機しつつ、夏美のドレスや安斗の飲食内容にまで細かく指示を出し、テッサに子どもたちの写真を撮るよう頼んでいた。

牛丼屋での依頼の回想

宗介は、四人が会場に入っていく流れの中で、事の発端を思い出していた。真夏の日比谷の牛丼屋でテッサが現れ、皆に頼み事があると切り出した際、かなめはろくでもない用件だと即座に拒否した。家族が牛丼を食べ始める中、テッサは食欲がないと言いながら水ばかり飲み、最低限の牛皿と漬物だけを頼もうとしてタブレット操作を誤り、鮭や卵焼き、豚汁まで追加してしまった。場違いな淑女らしい外見と、どこか抜けた失敗ぶりを見せる彼女に、宗介は苦笑しながらフォローしていた。

牛丼屋から移動し、テッサの本題へ

食事を終えた一行はテッサの依頼を聞くために車へ移動した。テッサが誤注文した料理は、ほとんど夏美が平らげてしまった。皇居を回る広い車内で、テッサは家族に飲み物を勧めつつ、ついに本題を切り出した。

ギャングのボス「ダディッチ」の情報

テッサが示したのは、セルビア系実業家を装うギャングのボス、イゴール・ダディッチの情報であった。麻薬、武器密売、資金洗浄などを主な収益源とする犯罪組織の長であり、裏社会では名の知れた人物である。かなめは顔を見た瞬間に不機嫌になり、過去の社交の場で会ったことがあると指摘した。

狙いは顧客データの奪取

テッサの目的は、ダディッチが持ち歩くオフラインPCに保存された顧客リストの奪取であった。島の通信事情が不安定で高速回線が使えない状況に陥れば、デバイスの遠隔認証手順が省略され、その一瞬が侵入の好機となると説明した。

マコニシ島の特殊事情と侵入難度

ダディッチが休暇を過ごすマコニシ島はセレブ用リゾートだが、政治的事情や領有問題のため光ファイバーが未整備で、通信が脆弱な環境にあった。テッサは島の地形と施設の写真を見せ、この島でのみ侵入のチャンスがあると語った。

家族の構成が“武器”になるという理屈

ダディッチは家族と部下を大切にする気質があり、家族連れの客には警戒を緩める習性があった。さらに、彼の家族構成と宗介一家のそれが偶然にも似通っている点をテッサは指摘した。強力な戦闘能力と電子戦技術、ドローン運用に長けた家族など、他に存在しない、と断言した。

かなめの強い拒否と家族の説得

かなめは、自分たちが常に命を狙われている現状を踏まえ、子供を危険に晒す作戦など論外だと強硬に拒んだ。しかし宗介、夏美、安斗の三人は悪党を放置するわけにもいかないと一応の理解を示し、かなめだけが激しく難色を示した。

かなめが“使えない”理由

問題の本質は、かなめの顔がダディッチに割れている点だった。過去に社交の場で接触があり、彼女が現れた時点で計画は破綻する可能性が高かった。つまり、かなめ本人が同行すること自体が不可能だった。

代案として浮上した“母親役の差し替え”

安斗と夏美が、かなめの代わりにテッサが「母親役」を務めれば良いのではないかと提案した。その瞬間、テッサは深く思案し始め、かなめは即座に全力で拒否した。宗介だけが状況を把握できず、ぽかんとしたまま残される形となった。

PMC経営者ジョウスケ・サガワとしての偽装

宗介はアメリカ人PMC経営者「ジョウスケ・サガワ」としてパーティに参加していた。子供は前妻との間のマミとアスト、後妻は大学で音響学を教えるマーサ=テッサという設定であり、前妻死亡設定はかなめの病気を連想させるため離婚に修正されていた。会場は劇場を改装した大ホールで、家族はそれぞれアクセサリー型カメラを装着し、沖合の漁船にいるかなめが映像と音声を監視していた。

リンゼイ夫妻との社交と宗介のぎこちなさ

テッサはかなめの無線による情報支援を受けつつ、食品大手リンゼイグループのオーナー夫妻に接触した。ガーデニングやテニスの話題で老婦人の興味を引き、さらに宗介を「軍出身のPMC経営者」と紹介することで会話を広げた。宗介はPMCへの偏見を持つ元海軍パイロットの夫に対し、悪質業者の実態を例に出して誠実さを示し、短時間で「ジョー」「スタン」と呼び合う仲になった。テッサとかなめのフォローにより、宗介は苦手な社交をどうにかこなしていった。

ネットワーク拡大と主催者ダディッチとの初対面

リンゼイ夫妻の紹介を通じて、宗介とテッサは造船大手、中国人実業家、言語学者など国際的な参加者たちと次々に縁を結んでいった。かなめが通信で相手のプロフィールを要点だけ伝えることで会話は弾み、宗介は庶民感覚からすれば理不尽なほど簡単に巨大なビジネスチャンスが転がり込む社交界の現実を実感した。その最中、主催者であるギャングのボス、イゴール・ダディッチが現れ、宗介は軽い冗談を交えつつ応対したが、内心では今すぐ首を折る戦闘プランばかり思い描いていた。その危険な衝動はテッサとかなめに見抜かれ、無線でたしなめられた後、宗介は細君ヴァレリアを含む簡単な挨拶を済ませてダディッチと別れた。

「夫婦」演技とかなめ・テッサの複雑な感情

ダディッチの部下が遠目から観察している状況を受け、テッサは宗介に密着して熱い抱擁を演じ、角度によっては接吻しているように見える距離まで顔を寄せた。宗介は指示どおり演技に徹したが、その様子はカメラ越しにかなめにも伝わり、「本当にキスしたら泣く」と嫉妬混じりに釘を刺される。テッサはかなめの反応を「かわいい」と評し、いじめて楽しむような口ぶりを見せ、かなめは半泣きで罵倒しつつも応酬した。宗介は二人の感情の交錯と高度な関係性に戸惑い、ただ芝居を続けるしかなかった。

高級料理に馴染めない安斗とダディッチの娘との遭遇

一方、会場の片隅では安斗が高級フィンガーフードに辟易し、トマトソースをつけたバゲットだけをつまみながら「バーガーキングのワッパーが食べたい」と嘆いていた。夏美は鹿肉料理を気に入って豪快に食べていたが、安斗には野生肉は「硬くてまずい」としか感じられなかった。そのとき、赤いドレスを着た同年代の少女が隣に現れ、同じようにバゲットを食べながら話しかけてきた。安斗はぶっきらぼうに「そっちも子供だろ」「あっち行け」と返し、少女を激怒させたが、その姿から彼女がダディッチの娘イリーナであると気づく。しかし謝罪を求められても「知るか、バカ」と言い放って立ち去り、重要人物との初対面を最悪の形で終えてしまったのである。

夏美とドラゴの衝突

夏美は安斗の口に合うデザートを探して会場を歩き回ったが、高級志向の菓子ばかりで成果を得られなかった。自分とクララ・マオの社長令嬢としての立場を思い出しつつ、チョコレートにもアルコールが強く効いていることにうんざりしていたところ、ダディッチの息子ドラゴがプディングやケーキを差し出してきた。しかし夏美は味が好みでないこともあり、繰り返し「結構です」と退けた。プライドを傷つけられたドラゴが 名乗りと影響力をほのめかすように引き止めると、夏美はそれを脅しと受け取り、「他を当たって」と言い放ち、つま先を踏んで胸を軽く押してバランスを崩させ、その場を離脱した。その後、イリーナと口論していた安斗と合流し、互いに「やらかした」と認め合った。

帰路の違和感とドローンを巡る父子のやりとり

四人は自動カートでヴィラへ戻ったが、夏美も安斗も浮かない表情で、好物のカップ麺にも乗ってこなかった。宗介は人混みと慣れない環境に疲れたのだと推測しつつ、テッサと夜風の中で会話した。安斗は警備確認のためドローン「マーク9」の使用を提案したが、宗介はギャングの縄張りでは通信妨害や各種センサーによる対ドローン防御が常態化していること、マーク9のECSが電力を大量消費して飛行時間が短いことを理由に却下した。

赤外線監視と「夫婦同室」問題

ヴィラでトランプとカップ麺の時間を過ごした後、かなめから「問題発生」の報が入った。ダディッチ側のバンがヴィラ近くに停車し、清掃車両を偽装した車体から赤外線カメラらしきセンサーが突き出ているというのである。これにより寝室の人数配置まで監視される可能性が浮上し、「夫婦」が別々の部屋で寝ていれば不自然さを招く状況になった。宗介とテッサが同じ寝室・同じベッドを使わざるを得ないという結論に達し、三人だけのチャットで協議が始まった。

かなめの嫉妬とテッサの「上級者」的感情

かなめは「作戦中止」と即断し、テッサは「一緒に寝るだけ」と反論した。かなめは「ソースケはあたしのなの」とストレートな独占欲と不安を連投し、宗介はその文字越しの涙ぐんだ様子を想像して強く胸を締め付けられた。一方テッサは、かなめの嫉妬と泣き言を「かわいい」と受け取り、泣き顔写真を要求するなど、からかいと憧憬が入り混じった反応を見せた。宗介は、テッサの根底には自分への好意だけでなく、かなめへの深い敬愛や憧れが渦巻いているのではないかと推測し、その高次元な感情の在り方に困惑した。三人のチャットは「作戦中止」を巡って平行線のまま続き、夜の帳の下で小さな文字の応酬だけが延々と続いていったのである。

安斗の独断偵察と停電トラップ

安斗は、宗介とテッサが主寝室でチャットを続け、夏美が自室で本を読んでいる隙に、マーク9ドローンをこっそり飛ばすことにした。荒事を好まない安斗は、銃撃戦に発展する前に偵察と準備を終えておきたいと考え、スーツケースからマーク9を離陸させ、ECSを切り替えながらダディッチ邸へ接近した。屋上の衛星アンテナや警備配置を確認したうえで、二本の電柱の電線に遠隔テルミット弾を設置し、いざとなれば屋敷の電力を遮断して高速回線を止められる状態を整えたのである。

ダディッチ一家の実情と双方向のドローン監視

偵察中、安斗は主寝室でのダディッチ夫妻の口論を目撃した。ダディッチは豪奢な生活で家族を満たしているつもりだったが、妻ヴァレリアは「もうたくさんだ」と倦み、庶民的な海水浴場での思い出に戻りたいと訴えていた。続いてドラゴとイリーナの部屋を覗くと、兄妹がドローン操作アプリでどこかのヴィラを監視しており、それが相良家の滞在するヴィラであると安斗は察した。ドラゴは夏美(マミ)への仕返しのため「弱み」を探そうとし、イリーナも安斗(アスト)への怒りを口にしながら、兄妹で子ども部屋を盗撮していた。

マーク9喪失とギリギリの処置

ドローンの指向性マイクが兄妹の会話を拾う中、安斗は自室バルコニーに出て、接近してきたダディッチ側のドローンにサンダルを投げつけて撃退した。その様子に兄妹は慌て、盗み見が父に知られれば大目玉だと怯える。録画は確保できたものの、マーク9側のバッテリー残量が尽きかけ、安斗は海上に落とす余裕もなく、咄嗟にイリーナの部屋のバルコニーにある室外機上へ着陸させたまま通信を途絶させてしまった。植木と鎧戸の陰に隠れて即座には見つからないものの、いずれメイドか庭師に発見される危険な「置き土産」となった。

偽装夫婦喧嘩と別寝室作戦

一方、宗介とテッサは、赤外線カメラによる寝室監視への対処として、わざと夫婦喧嘩を演じることにした。事前に子どもたちにはメッセージで芝居の旨を通知し、主寝室ではテッサがヴァレリアへの嫉妬を理由に日本語で大声を上げ、宗介が拙い甘言でなだめる「痴話げんか」を展開した。そのうえで「気分が悪いから隣で寝る」とテッサが隣室に移り、夫婦別寝室に見えても不自然にならない理由付けを作った。宗介はかなめに一対一のチャットで報告し、かなめは気遣いに礼を述べつつも、自分の感情の揺れを打ち明けた。

かなめの本音と「お返し」の画像

チャットの中でかなめは、「嫌だけれど完全に嫌でもない」「自分がその場にいれば受け入れられそうだ」といった、共振能力に絡む含みのある本音をほのめかしたが、宗介には真意が理解できなかった。その後、かなめは「恋しい」と言葉を添えつつ、自撮り画像を送って宗介を悶えさせた。ささやかな露出を含むきわどい写真は、離れた場所からの「お返し」として宗介の理性を揺さぶり、さらに「これで本当におしまい」ともう一枚を追加して、夜のチャットは甘くもじれた余韻を残して終わったのである。

テッサとのジョギングと過去の恋心の整理

翌朝、夏美はテッサとジョギングに出かけた。テッサは運動不足を自嘲しつつも、実際にはちゃんと走れる体力を見せた。休憩中、テッサは「友達の少ない自分にとって相良夫妻は貴重な友人である」と語り、かつて宗介に好意を抱き、かなめと「取り合っていた」と噂される件を「子供のじゃれ合い」と軽く流した。しかし同時に、宗介を「強くて優しい」と評した自分より、宗介を「弱いけど、なんとかする奴」と見抜いたかなめの方が本質を理解していたと認め、自分の完敗だったと笑って振り返った。

夏美の父母への認識の変化

テッサの語りから、夏美は父が「無敵の伝説的傭兵」であるだけでなく、「弱さを抱えつつも踏ん張る人間」として母に支えられてきたことを理解し始めた。父と母の間には、娘でも踏み込めない深い絆があると痛感し、自分には「父の弱さ」を口にすることなど到底できないと感じる。それでもテッサは「娘が父を無敵だと信じられるのは幸せなことだ」と肯定し、夏美はこれまでの認識が守られてきたことに安堵しつつ、同時にいつまでもそれに甘えてはいけないという自覚も芽生えた。

作戦の意義とダディッチ邸訪問の決断

一方で、ダディッチのPCにある顧客データの重要性が改めて整理された。ダディッチ本人よりも、その背後で彼を神輿として担ぐ犯罪ネットワーク全体の資金と人の流れを把握・制御することこそが目的であり、そのデータを密かに押さえれば、派手な武力行使なしに組織を長期的に弱体化させ、多くの人命を危険から遠ざけられると判断されていた。そのリスクとメリットを天秤にかけたうえで、夏美と安斗を伴ってダディッチ邸に赴く方針が維持された。

ダディッチ家との対面と男同士の愚痴大会

夕方、宗介たちはラフな私服でダディッチ邸を訪問した。古い海辺の邸宅を改築した館で、ダディッチ夫妻と息子ドラゴ、娘イリーナが改めて紹介される。子供同士は前夜のいざこざのせいでぎこちなく、ダディッチはそれに気づかぬまま「年の近い子同士で遊べ」と子供部屋へ送り出した。テッサとヴァレリアは屋上テラスへ向かい、宗介とダディッチは玄関脇のミニバーで二人きりになる。宗介は前夜の「嫉妬深い妻」との痴話げんか芝居を踏まえ、自分も家庭の不満を抱える夫として話を合わせることで距離を縮めようとするが、ダディッチは酒をあおりながら「浮気もせず働いているのに、妻は疑ってばかりだ」と延々と愚痴をこぼし続け、ビジネスの本題にはなかなか入らなかった。

イリーナのゲームと安斗の内心

その頃、二階では安斗がイリーナの部屋でTVゲームの相手をさせられていた。夏美はドラゴに呼ばれて別室へ移動し、安斗はイリーナと二人きりになる。用意されたのは、出来が微妙で既に流行遅れの対戦格闘ゲームであり、イリーナはガチャ押しで時々技を出しては得意げに「どう?」と見せつけるが、実力は低かった。恐らく周囲の大人たちが「ボスの娘」に気を遣って接待プレイしかしてこなかった結果であり、安斗はその甘やかされた環境を見抜きつつも、面倒さと居心地の悪さを噛みしめることになった。

イリーナによる弱み握りとドローン回収

安斗はイリーナの部屋で旧作格闘ゲームに付き合いながら、バルコニー上のドローン「マーク9」の回収機会をうかがっていた。イリーナを化粧直しに向かわせた隙に、植木鉢を足場にして室外機上の機体を回収しリュックに収納したが、その様子をイリーナに目撃された。イリーナはそれを「自分を覗いていた」と勝手に解釈し、父に告げない代わりに「言う通りにする」よう安斗をクローゼットに連れ込み、服を脱ぐよう命じて主導権を握った。

夏美とドラゴの勝負と「任務」意識

一方、夏美はドラゴに娯楽室へ案内され、ビリヤードとダーツで連勝したうえ、果物ナイフをダーツ盤の中心に投げ刺して戦闘訓練の一端を示した。ドラゴの対抗心を感じつつも、機嫌を取って協力を得るより、放置されて屋敷内探索を優先する方が作戦上有利であると判断した。

書斎の発見と暗証番号の取得

夏美は母かなめと通信しながらイリーナの部屋を確認し、その後、ドラゴの案内で誰も寄りつかない四階の「書斎」に入った。ドラゴが目の前で入力した暗証番号「七二一三」を隠しカメラ越しにかなめが記録し、室内の書棚と共に机上のノートPCを確認した。夏美は本棚の趣味に感嘆しつつも、背後から肩に手を置かれた瞬間に護身反応でドラゴを投げ飛ばし、失神させてしまった。

衛星回線問題と一時撤収の判断

かなめとテッサは、衛星回線全停止のタイミングが二十時以降になることを把握し、今は高速回線を完全には遮断できないと判明した。夏美は失神したドラゴをソファに寝かせて待機したが、目覚めたドラゴが再び夏美の胸を掴んだため、反射的にもう一度投げて再失神させてしまう。状況の収拾が難しいと判断したかなめは、夕食会をキャンセルして一度ヴィラへ戻り、夜間に宗介が単独潜入する案へ切り替える決定を下した。

停電とUSB侵入によるデータ窃取開始

宗介の潜入リスクを懸念して代案を模索していた矢先、屋敷が突然停電し、テッサはルーター停止の好機と判断した。かなめの指示で夏美は書斎のノートPCに専用USBメモリを挿入し、外部高速回線が使えない状態を利用して内部ネットワークへの侵入を開始した。インジケーターの黄色点滅を合図に、大容量の暗号化顧客データの吸い上げが始まり、約十分間の転送完了を待つ段階へと作戦は移行したのである。

停電の発生と書斎への集結

宗介は停電を安斗によるテルミット爆弾使用と推測し、作戦上は有効だが警備強化という悪影響も自覚していた。警備隊は安全確保のため家族と客全員を四階書斎に集め、書斎ではドラゴが気絶しており、夏美は「本を見ていたら急に倒れた」と説明してその場を取り繕っていた。

安斗の女装騒動と時間稼ぎ

イリーナの部屋から連れ出された安斗は、彼女のコーディネイトによる完璧な女装姿で現れ、テッサとヴァレリアが思わず撮影会を始めるなど場は一時和やかな混乱に包まれた。安斗本人は宗介にしがみついて視線を避け、宗介は「どんな格好でもお前はお前だ」と励ました。宗介と夏美は、その間にダディッチを本棚側に誘導し、USBメモリ挿入中のノートPCから視線を逸らすよう時間を稼いだ。

隠しカメラによる露見と即時武力行使

USBのコピーが完了しテッサがメモリを回収した直後、警備隊長は隠しカメラ映像を提示し、夏美のUSB挿入とテッサの回収行為を指摘して追及した。形式的な言い逃れが通用しないと判断した宗介は、ため息をついた直後に警備隊長と護衛二人を電光石火で制圧し、夏美も背後から一人を絞め落として書斎内の武装勢力を無力化した。その上でダディッチに銃を向け、人質としての同行と脱出への協力を強要した。

ダディッチ一家同伴脱出という方針転換

ダディッチは、顧客データを奪われた時点で組織内の敵対派により家族が報復対象になると即座に読み、家族も含めた避難を懇願した。宗介も、彼だけを連れ去れば妻子が処分・蹂躙される危険を認識し、テッサと目配せのうえ「大所帯で脱出する」方針へ転換した。夏美にはサブマシンガンを持たせて殿を任せ、かなめは通信越しに葛藤しつつも状況を了承した。安斗はドローン「マーク9」の無断運用を白状したが、宗介は叱責よりも偵察支援を優先し、屋敷内外の敵配置把握に活用した。

屋敷内制圧と脱出経路の選定

宗介は五階から降りてきた敵二名を階段上で制圧し武装を回収、さらに二階の敵もダディッチを盾にすることで発砲を躊躇させつつ、格闘で無力化して一階へ到達した。テッサの盗聴とドローン映像から、敵残存戦力は約二十名、一階・二階・屋上・外周に分散していると判明した。また地下の船着場には高速ボートがあるものの整備中で使用不能であり、さらに地形的にかなめの漁船を近づけると入江両岸から一方的に狙撃されるリスクが高いと判明したため、屋敷正面から車で港へ向かう案に収束した。

防弾ハマー・リムジンによる強行突破

ヴァレリアの情報により、車寄せに防弾仕様のハマー・リムジンがあることが判明し、一行はこれを脱出手段とした。宗介はダディッチを前面に立てて一階ホールの敵三名を威圧し武装解除させ、武器は夏美が分解して封じたのち、全員をハマー後部に乗せた。外周の部下たちは上層部から発砲許可を得てサガラ一家ごとダディッチを排除しようと銃撃したが、ハマーは重装甲で小銃弾をまったく通さず、宗介はその車体と出力を活かして妨害車両やフェラーリを押し退けながら街路へ突入した。

追撃戦とドローン運用・逃走ルートの確保

狭い起伏の多い街路でハマーはバス並みの取り回しの悪さに苦しんだが、テッサが敵通信と地形を踏まえて進路を指示し、安斗のマーク9が上空から敵車両や重火器持ちの位置をマーキングして安全ルートを捻出した。走行中、一度サンルーフからドローンを回収してイリーナと協力して素早くバッテリー交換を行い、再び上空偵察と電撃兵装で追撃勢力を牽制した。車内ではダディッチ夫妻が部下の裏切りぶりに口論しつつも、ハマーの防弾性能だけは認めるなど、夫婦関係と組織のひずみも露呈した。

港到達前の状況と夏美の単独行動

一行は銃撃を浴びながらも港近くまで到達したが、リゾート港は人通りと船の出入りが多く、開けた地形ゆえに銃撃戦を続ければ民間人への被害とこちらの防御困難が避けられない状況に直面した。宗介が逡巡する中、夏美は「自分の出番」として防弾サンルーフを開けて車外に躍り出て、宗介の制止を振り切った。その直後、アークジェット特有の噴射音とともにAS〈アズール・レイヴン〉が姿を現し、夏美を車上から回収する形で次の行動へ移行しようとしていた。

港上空での〈アズール・レイヴン〉戦闘搭乗と制圧戦

夏美は無人状態の〈アズール・レイヴン〉に車の屋根から空中回収され、そのままコクピットへ滑り込み、クララと共同研究してきた「戦闘搭乗」システムの実証に成功した。AIに戦闘モードを指示すると、機体は非殺傷設定で港上空二百メートルから敵の位置情報を共有し、腕部内蔵の40ミリグレネードによるトリモチ弾で港周辺の武装勢力を次々と拘束していった。発泡ウレタンで固まった敵が桟橋から海に落ちた際には救助してヨット甲板に投げ上げ、防弾車や小屋に籠もった敵も車両ごと・屋根ごと制圧したうえ、水着女性を人質にした相手は安斗のドローン「マーク9」の電気銃支援で無力化した。

ASへの適性と夏美の感覚

夏美は〈アズール・レイヴン〉のアジャイル・スラスタを「自分の手足」のように扱い、空を飛ぶ感覚をバイクやパラグライダーに近い娯楽として楽しんでいた。一方、宗介は第三世代ASの経験は豊富ながらスラスタ機には直感的に馴染めず、自ら操縦ランクを落ちたと評する実直さを見せていた。テディの「桁が一つ違う」というツッコミも含め、父の実力と世代差が描かれ、その対比の上に、いまは夏美が〈アズール・レイヴン〉の実質的な操縦者となっている構図が示された。

港での合流と家族・テッサ・ダディッチ家の再会

港周辺の敵勢力が掃討されると、宗介たちとダディッチ一家はハマーを降りて桟橋を走り、そこへかなめの漁船が接岸した。かなめは安斗を抱きしめて無事を確認し、女装姿も「可愛いから平気」と受け入れた。ダディッチはかなめの正体を「タイドリー・カヌム」と見抜き、実業界での名と現在の立場の距離に驚愕するが、かなめは悪党への嫌悪をあらわにしつつ宗介の「本当の奥様」であることを宣言した。夏美は上空から母とテッサが並ぶ光景を見下ろし、明るく振る舞う二人の笑顔の陰に微かな遠慮や複雑さを感じ取り、「大好きだがどこか遠く小さく見える母」という感覚を抱いた。

作戦結果の整理と豪華ヨットでの脱出

結果的に作戦は派手な銃撃戦・カーチェイス・AS投入を伴い、「秘密裏のデータ窃取」という本来の目的からは外れたものの、ダディッチが身の安全と引き換えに組織情報の提供を約束したことで、テッサは一〇〇点満点中七〇点程度の成果と評価した。一行は汚れた漁船を嫌がるダディッチの要望を容れ、彼所有の派手な豪華ヨットでマコニシ島から退去し、〈アズール・レイヴン〉搭載コンテナ船とテディたちの漁船を伴ってエーゲ海をクルーズする形になった。途中、ギリシャ沿岸警備隊に臨検を受けるも、テッサが事前の「鼻薬」と無線交渉で難なく回避した。

テッサの離脱とナポリへの護送計画

洋上での小休止ののち、テッサは自分の多忙さを理由にヘリで離脱することを告げ、部下二人を残してダディッチ一家をナポリの「隠れ家」まで護送するようかなめたちに依頼した。かなめとテッサの別れは、普段のオンライン連絡を反映したようなそっけないやり取りにとどまり、最後にテッサはホイストで引き上げられる直前、宗介に「夫婦ごっこ、どきどきしました」と耳打ちして去っていった。

洋上の夜と宗介・かなめの関係の描写

ヘリが去り静けさが戻ると、宗介は甲板最上段でかなめを抱きしめ、任務と「夫婦ごっこ」の余韻と後ろめたさを紛らわせるように、短時間だけの逢瀬を求めた。人目の少ないデッキでの行為は結局三分では済まず、十分以上に及んでバルダーヌに気づかれかけ、キャビンへ降りた後も軽い悪ふざけでかなめの声を引き出してしまい、眠っていた夏美と安斗が一瞬目を覚ます場面もあった。最終的にはそのことで我に返り、その夜はそれ以上の行為を控えたことで、夫婦の親密さと家族への配慮が同時に描かれた。

隠れ家での新たな問題発生

ダディッチ一家をナポリの隠れ家へ移送した直後、隣室で火災が発生していたことが判明した。火はすでに消し止められていたが、偶然か故意か判断できず、追手の関与も否定しきれなかった。南仏マルセイユの別隠れ家へ向かおうとしたが、そちらはテロ疑惑で便が欠航となり、利用が不可能となった。さらに別案として提示されたブダペストの隠れ家もセルビア勢力圏に近く、ダディッチの組織と接触する危険が高いと判断され、選択肢から外された。

ヨーロッパ脱出判断とかなめによる保護申し出

オンラインで状況を共有していたテッサに対し、かなめは「ヨーロッパは危険が多い」と経験を踏まえて警告した。ミスリル時代の失敗も思い返され、欧州圏を避けたい意向が強まった。テッサは北米案を提示したものの複雑な背景が懸念されたため、最終的にかなめが「自分の管理下で預かる方が安全」と判断し、保護を引き受けることになった。

平凡な高校生・田中一郎の平凡でない帰宅

夏休みが終わりに近づいたころ、田中一郎は古書店でのアルバイトを終えて帰宅した。自宅には外壁に弾痕が二つ残っていたが本人以外は気づかず、隣家は例の「変な一家」退去後に取り壊され、新築の2×4住宅が完成していた。夏休み中は空き家だったが、夕方に引っ越しトラックが到着し、一郎は新住民を確認した。

ダディッチ一家の引っ越しと再会

引っ越してきたのは見知らぬ外国人一家で、濃い顔にアロハの父、胸元の派手な母、美男子の息子、美少女の娘という派手な面々だった。彼らは翻訳アプリ越しに一郎へ挨拶し、自分たちが「ダディッチ」であると名乗った。さらに「困った時はイチローサンを頼れと誰かに言われた」と説明し、名前の出所を問われると「言うと殺さなければならない」と冗談とも本気ともつかぬ返答をした。

平凡から離れていく一郎の日常

一郎はその言い回しから事情を察し、「お元気そうで」と返す余裕を見せた。こうした対応を自然に行える時点で、彼の生活がもはや“平凡”ではなくなりつつある事実に、本人だけが気づいていなかった。

第八話 東京都千代田区富士見町のオフィスビル15階

高校同期との再会と近況報告

九月の宵、吉祥寺の焼き鳥屋で小野寺孝太郎と風間信二、宗介の三人が久々に再会し、酒と食事を楽しんでいた。孝太郎は都立高校の教師として学年主任も務め、旧来型の飲み会文化や仕事の疲れがにじむ近況を語った。信二は会社勤めをしつつVTuber活動を継続しており、登録者が一万一千人に迫る状況を報告した。宗介は定職はなく、兵器リポートや戦術分析などの在宅仕事を引き受けていると説明した。

陣代高校の変化と懐旧

話題は母校・陣代高校に移り、新校舎への建て替えや都の方針による教員の短期ローテーション制によって、学校への愛着を持つ教師が減りビジネスライクな職場になった現状が語られた。美術の神楽坂先生(現・水星先生)が結婚していたことや、元校長の坪井が八王子市議になり三期目を務めていることも判明し、二人は驚きを示した。宗介は、わずか一年に満たない在学期間であっても、知った顔が校内から消えていく寂しさを覚えた。

用務員・大貫善治の消息と宗介の感慨

宗介はかつて世話になった用務員・大貫善治の消息を気にかけ、現在も勤務しているかを問いただした。しかし孝太郎の話では、大貫は十年ほど前に突然退職し、見送りもごく少人数でひっそりと学校を去っていたことが判明した。行き先は不明だが、年齢を考えれば田舎に引っ込み静かに暮らしているだろうという推測にとどまり、宗介は安堵と物寂しさの入り混じった感情を抱いた。

護衛車での帰路とバルダーヌとの会話

飲み会がお開きとなり、宗介が吉祥寺駅北口から出ると、護衛の黒いSUVが迎えに現れた。運転役のバルダーヌは、夏美のお下がりという露出度の高い私服を着ており、宗介はその派手さに驚きつつ、夏美が肌の露出を好む理由を、鋭敏な感覚器としての肌を隠したがらない性質と結びつけて理解した。家族はかなめの系列会社オフィスを仮住まいとしており、宗介はそこへの帰路についた。

首都高での尾行とバハルニスタン勢力の特定

首都高速に乗った直後、バルダーヌは尾行車三台の接近を察知した。クラウン、メルセデス、レクサスの防弾セダンであり、友好的でない勢力の追跡と判断された。宗介は車載カメラの映像をラストベルトたちに送信し、同時にかなめと連絡を取り、オフィスビルで食事中の家族の警護レベルを引き上げさせた。分析の結果、一台目助手席の男がバハルニスタン大使館駐在武官と特定され、追跡車両は同国関係者である可能性が高いと結論づけられた。

市街地での追跡回避とバルダーヌの地理感覚

都心部で銃撃戦を避けたい宗介の意図に沿い、バルダーヌは外苑出口で首都高を降り、四谷周辺の住宅地に車を進めた。休日の散歩で地形を研究していた経験と、暗渠やすり鉢地形に詳しい趣味を活かし、一方通行の逆走寸前のすり抜けや小公園のショートカットを駆使することで追跡車を翻弄した。目立たないコインパーキングに車を入れると、追跡車はそのまま通過し、さらに敵ドローンも車載の妨害装置で制圧され、追跡は完全に断ち切られた。

宗介の単独離脱と帰還

追跡を振り切った後、宗介はバルダーヌに車を北へ走らせるよう指示し、自身は曙橋駅から単独で地下鉄に乗り込んだ。新宿方面行きに一度乗った後、丸ノ内線への乗り換えで四ツ谷に戻り、さらにJRで飯田橋へ向かう迂回ルートを取ることで、尾行の有無を慎重に確認した。かなめの配下のAIシステムと自らの経験・勘の双方が「追跡なし」と判断し、宗介はオフィスビルの仮住まいへ安全に帰還できる見通しを得たのである。

オフィスビルでの仮住まいと家族のキャンプ生活
宗介は飯田橋近くのオフィスビル最上階に戻り、かなめが所有するエンタメ企業フロアを一家の仮住まいとして使っていた。大会議室にはテントとタープが張られ、狙撃対策とプライバシー確保を兼ねた簡易キャンプ空間が形成されていた。虫のいない室内キャンプに安斗は上機嫌であり、家族もこの生活を楽しんでいた。

バハルニスタンの動きと相良家の対応
宗介はかなめやラストベルトと合流し、先ほど追跡してきた車列が中央アジアの独裁国家バハルニスタン関係者であるとの報告を受けた。かなめの能力を独占しようとする各国情報機関の典型的な動きと判断し、宗介は隣国情報部の旧知に照会を依頼する一方、ラストベルトには通常手順による牽制と対処を任せた。

大貫善治の消息をめぐる会話
旧友との再会の話題から、宗介は高校時代に世話になった陣代高校用務員・大貫善治の所在を尋ねた。かなめは辞職の事実を初めて知り、興信所で探す案を口にしたが、宗介は「ひとの人生だ」として干渉を控えるべきだと諭し、二人は複雑な寂しさを抱えつつ話を終えた。

夏美のサイン会準備と親子の機微
翌日、夏美は神保町で行われる久遠アキトのサイン会に備え、スパで身支度を整え、テント前でかなめに化粧を教わりながら入念におしゃれをしていた。安斗は茶化しつつも距離を取り、宗介は「きれいだ」と声をかけるが、夏美は父からの言葉を素直に受け取れず、かなめの評価には微笑みを見せた。かなめは夏美の作品談義に楽しげに相槌を打ち、母娘の親密な時間が流れた。

神保町への本の受け渡しと駐車場トラブル
サイン会会場で並ぶ夏美から、デビュー作『愛と情熱の生えぎわ』初版本を持ってきてほしいと連絡が入り、宗介は単独でSUVを駆って神保町へ向かった。周辺のパーキングは満車続きで時間を浪費し、ようやく空いた区画に入ろうとした瞬間、アストンマーティンが横入りしてスペースを奪い、宗介は思わず抗議に出た。

大貫善治=久遠アキトという再会
高級スーツ姿で現れた初老の男は、かつての用務員・大貫善治本人であった。二十年ぶりの再会に互いに驚く中、編集者らしき男が駆け寄り、大貫を「久遠アキト先生」と呼び、サイン会場へ急がせた。宗介は、大貫が人気作家となっていた事実と、偶然が重なって生まれた再会の奇跡に言葉を失いながら、その背中を見送った。

夏美の極度の緊張と父の支援
宗介は駐車を片付けて急ぎサイン会会場へ向かい、六階イベントスペース前の階段に並ぶ夏美を見つけて初版本を手渡した。夏美は憧れの作家を目前にして極度に緊張し、呼吸もままならない様子であったが、宗介に教わった「銃撃戦前のトンネルビジョン対策」の深呼吸と動作を実行し、どうにか心を落ち着けて列に残った。

大貫=久遠アキトの正体と両親の驚き
宗介は一階でかなめと合流し、駐車場で出会った大貫善治が実は恋愛小説家・久遠アキトであり、売れっ子作家としてサイン会に臨んでいると説明した。かなめは、大貫の住み込み部屋に古い文庫本が山積みであったことや、鯉の名前を映画女優から取っていた過去を思い出しつつも、その変貌ぶりに驚愕した。二人は、夏美が若い作家像を想像していることを承知しつつ、あえて事前には告げず、現実を自分の目で受け止めさせることにした。

サイン会後の法悦状態とツーショット写真
やがてサイン会を終えた夏美が降りてくると、頬を上気させ瞳を潤ませた、これまで見たことのない表情で「思ったより年上だったが素敵だった」と語った。夏美は久遠に撮ってもらったツーショット写真を「一生の宝物」として両親に見せ、肩を抱かれダブルピースをする自分の姿に恍惚としていた。その光景に、宗介とかなめは「大貫さんが素敵」という評価自体と、写真から漂う妙な危うさに動揺した。

喫茶店での再会と世代を超えた敬愛
宗介は編集者にショートメールを送り、サイン会終了後に面会を依頼したところ、久遠側からも会いたいとの返事を得た。一家は神保町の書店街を巡って時間を潰し、再び裏手の喫茶店で大貫と再会した。かなめと大貫は二十年ぶりとは思えぬ気安さで、高校当時から続く掛け合いを再開し、大貫は用務員時代から新人賞に応募していたことを打ち明けた。対照的に夏美は、母の軽口をたしなめつつ、久遠の作品を真剣に礼賛し、写真を宝物と宣言し、作品への質問をこれからも直接聞けることに感激していた。

娘の恋するような眼差しと招待の成就
大貫は市ヶ谷・砂土原に構えた自宅への訪問を提案し、一同をお茶に招いた。夏美は一人でも行くと強く主張し、宗介は娘を単独で行かせることを断固拒否した上で、自分たちも同行する方向に持っていった。その間、宗介とかなめはショートメールで密かに意見を交わし、夏美が五〇歳以上年上の老人に対して、かなめが昂ぶっている時と酷似した「恋する女の顔」を向けていることに宗介は激しく戸惑い、早々に頭を冷やさせるべきだと危機感を募らせていた。

久遠邸の訪問と宗介の動揺
一行は神楽坂近くの坂の途中にある久遠アキトこと大貫の邸宅を訪ねた。外堀を望む古いが造りの良い家で、中庭には手入れされた松や盆栽が並んでいた。用務員時代との落差に宗介は「人生大逆転だ」と感じる一方、自身の妥協や停滞を意識させられ、林水との再会時と同様の居心地の悪さを覚えていた。

作家としての成功と虚無感の告白
リビングで大貫は、図書室付きの高校と住み込み用務員の生活も充実していたと振り返りつつ、今は締切に追われる日々で、盆栽も業者任せになっていると語った。読者の顔色や「分かりやすさ」、キャラクターへのヘイト管理に縛られ、「いま書いている原稿もくだらない」と零し、創作の意味を見失いつつある内心を打ち明けていた。

夏美の熱烈な擁護と過剰な献身宣言
書庫を見学していた夏美は階下に戻ると、大貫の新作を「ドライブ感と切なさが炸裂した傑作」と熱弁し、転生でもない学園ものの奇抜な構成や人物描写を絶賛したうえで、作品を卑下しないよう懇願した。さらに「住み込みで身の回りの世話をしてもよい」「先生のためなら抱かれてもいい」とまで言い出し、宗介は娘を五十歳以上年上の作家に差し出すような言葉に目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けた。かなめは「アーティストへの憧れは彼氏とは別腹」と軽く受け止めたが、宗介は未知の感情に翻弄されていた。

バハルニスタン情報部の急襲と人質化
その最中、護衛のバルダーヌから家周辺に所属不明の一個分隊が展開しているとの緊急連絡が入り、直後に工事業者風の武装集団が窓や出入口を破って突入した。宗介と夏美は即座に二人を制圧したものの、大貫が一人に捕まって人質となり、武器を捨てて時間稼ぎに移行した。指揮官はバハルニスタン軍情報部大尉ヤスール・ザクメットであり、二人を写した「銃構えポーズ」のサイン会客のSNS投稿をAI監視で拾い、尾行と急襲に至った経緯が明かされた。

盆栽破壊への落胆と原稿喪失による覚醒
ザクメット一派は庭の盆栽を蹴り倒しており、大貫は一度は「なにもできない」と縮こまって許しを請い、往年の狂気を失ったように見えた。ところがザクメットが執筆中の長編原稿を保存したタブレットを尻で壊し、さらに銃弾を撃ち込んで完全破壊すると、大貫は態度を一変させた。四百字詰め六百枚弱の「傑作になるはずだった唯一の原稿」を踏みにじられたと語り、償いを問い詰めながら一歩前に出ると、至近距離から撃たれた九ミリ弾を前歯で受け止め、舌の上で弄んで見せた。常識外れの光景にザクメット隊は恐怖し、大貫は「八つ裂きで眠れ」と呟き、狂戦士としての本性を解放しようとしていた。

狂戦士化した大貫の暴走と宗介の制止
大貫が狂戦士化した結果、ザクメット一味は壊滅寸前となり、多くが骨折や打撲で戦闘不能となった。宗介が必死に動きを制限しなければ、彼らは即死していたほどであった。ザクメット自身も銃弾を撃ち尽くして泣き叫び、最後は宗介に庇われて真っ二つにされる寸前で助かった。護衛チームとの誤戦闘も危険なところだったが、どうにか回避された。やがて大貫は宗介を敵と誤認し、宗介は二十年前の強敵相手に本気で死を覚悟したが、夏美が両手を広げて割って入り、説得するように声をかけると、大貫は大怪獣のように二階へ戻り眠りについた。

邸宅の被害と翌朝の大貫の反応
大貫邸のガラスや盆栽、ドアなどは破壊され、宗介たちは弁償と謝罪を行った。翌朝、大貫は狂戦士化の記憶を全く失っており、唯一原稿が消失した事実だけを知ると、必死の形相で古いノートPCを開き、思い出を頼りに書き直しを開始した。彼は「記憶があるうちに」と叫びながら七日間にわたり集中執筆を続け、皮肉にも原稿の停滞が打開され、以前より良い仕上がりになったと後に語られた。

夏美の献身と宗介の困惑
大貫の再執筆期間中、夏美は食事・洗濯・掃除まで一切を引き受け、身の回りを甲斐甲斐しく世話した。宗介は行きがかりから止めることができず、この献身を黙認するほかなかった。六日目の夕食時、安斗が「姉ちゃん、最近急に色っぽくなった」と言い出すと、宗介は動揺して声を荒らげてしまった。夏美が狂戦士化した大貫を見つめて「お父さんより強いなんて」と呟いたことが頭をよぎり、宗介は複雑な心境に陥った。そんな夫を見ながら、かなめはおかしそうに笑っていた。

appendix

テッサの予想外の来訪
母と姉、父が外出して留守番中の安斗のもとへ、テッサが警戒網をすり抜けて突然現れた。護衛のサンダーは彼女を知らず驚愕する。テッサは東京(実際には大宮)でのダディッチ関連業務を終え、帰国前に挨拶に来たが、部屋には安斗しかおらず落胆した。

イリーナとの連絡と安斗の愚痴
話題はイリーナの近況に移り、安斗は彼女から大量の画像や動画が送られてくる状況を嘆く。監視を避けるためゲーム内アカウントで暗号化チャットしていることを明かし、テッサはその抜け道に驚く。また、安斗は家庭の“ファストフード禁止”への不満を漏らし、昼食を求めて二人は外へ出る。

二人の外出と揺れるテッサの感情
近くのバーガーキングで食事を取り、安斗は日本での生活や友人関係を語る。テッサは冗談めかしつつも安斗への好意をにじませ、年齢差を理由に恋愛対象にはできないと告げるが、親密な言動を交える。安斗は照れながらも距離を取りつつ応じた。

市ヶ谷で発生した襲撃と安斗の判断
そこへサンダーが駆け込み、市ヶ谷で宗介・かなめ・夏美が襲撃を受けていると報告。防弾SUVが店前に到着する。避難を促されるが、安斗はマーク10ドローンで状況を把握し、敵戦力が一個分隊規模であり両親が対処可能と判断する。さらに店の環境を分析し、避難は不要と結論づけた。サンダーも従い、テッサは安斗の冷静さに複雑な感情を抱く。

安斗の平然とした態度とテッサの不安
安斗はワッパーに戻り、サンダーとのやりとりを気にかけるテッサに笑顔を見せる。テッサは「完璧すぎて少し心配」と呟きつつ、彼の平然とした態度を見守っていた。

第0・五話 アラスカ州ユーコン川流域の丸太小屋

ヘラジカ狩りの逡巡
相良夏美はアラスカの雪原で、一二〇メートル先のヘラジカを狙っていた。角度も枝も悪く、急所に確実に命中する自信がない。父に教わった「確信が持てないなら撃つな」という教えが頭をよぎり、衝動を抑え続けた。五時間以上追跡した末に理想的な射角が訪れたものの、身体が固まり撃てず、獲物は稜線の彼方へ去った。夏美は徒労感と空腹を抱えながら帰途についた。

丸太小屋での孤独な生活
父が遠方へ買い出しに出ている間、夏美は無人の丸太小屋でひとり過ごしていた。暖炉を焚き、家族から届いたメッセージに返信し、裸族めいた気晴らしをしながら食事と読書を楽しむ。誰もいない環境に恐怖はなく、むしろ静寂を満喫していた。

発電機の燃料補給と異変の兆し
眠る前に発電機の点検を思い出し、裸にダウンジャケットだけを羽織って外に出た。補給を終えたところで隣の倉庫から不自然な物音が響く。扉は閉まっているのに、壁の合板が強引に破られ、大人が通れる裂け目ができていた。夏美はデリンジャーピストルを構え、音の主を確認しようとした。

ヒグマとの遭遇と死の危機
裂け目から現れたのは巨大なヒグマだった。熊よけスプレーを忘れたことを悔やむ暇もなく、夏美は反射的にコンテナの扉で身を守り、内部へ吹き飛ばされた。ヒグマは異常な力で食料を荒らし、容赦なく迫る。夏美は二発の弾を至近で撃ち込んだが致命傷には至らず、弾切れとなり絶体絶命となる。

不可解な生還
ヒグマは夏美を襲いかけたものの、直前で動きを乱し、壁にぶつかりながら外へ走り去った。理由は不明であった。恐怖と痛みに震えながら、夏美は腰が抜けて立ち上がれず、下半身を曝け出したまま冷たいコンテナの床にしばらく座り込んでいた。

武装と状況整理
倉庫での襲撃から生還した夏美は、いったん家へ戻り戸締まりを行った上で衣類を整え、三〇八口径ライフルと三五七マグナムのリボルバー、手斧とナイフを準備した。父の武器には手を触れず、装填を終えると精神が落ち着きはじめた。ヒグマは倉庫を自分の領分と認識し、再来襲の可能性が高いと判断した。

父への報告を拒んだ理由
宗介から「異常はないか」とメッセージが届き、夏美はヒグマについて書こうとしたが、途中で止めた。これは自分とヒグマとの問題であり、助けを求めれば自分が証明したいものが台無しになると感じたためである。最終的に「異常なし」と返信し、単身でヒグマを追う決意を固めた。

ヒグマの追跡開始
倉庫周辺の痕跡を確認し、足跡が西へ向かっていることを掴む。雪に残った血痕から、デリンジャーの二発目がヒグマにダメージを与えていると判断した。林に続く足跡を慎重に追い、月明かりだけを頼りに深い闇へ踏み込んでいく。ここで引き返す選択肢は夏美にはなく、相手を確実に仕留める意志しかなかった。

闇の中の対峙と死骸の発見
林の奥で足跡は不自然なほど明瞭になり、夏美はヒグマが“止め足”を使って追跡を欺こうとしていたことを悟る。濃厚な獣臭が漂い、至近距離に生体反応を感じつつ後退したとき、暗がりから巨大な影が現れた。しかし影は襲わず、呼吸の気配すらない。近づくとヒグマはすでに死亡しており、左目から後頭部にかけて潰れていた。デリンジャーの一撃が致命傷となったのだ。夏美はとどめを撃たず、「ごめんなさい」と涙をこぼしながら帰路についた。

隠蔽と父の帰宅
夜明けまで倉庫の片付けと足跡消しに追われ、わずかに眠った後も周囲の整理を続けた。夕暮れ前、宗介が大量の物資を積んで帰宅する。夏美は倉庫の被害を「クズリの仕業」と偽り、襲撃を黙って通した。宗介は北方でヒグマが目撃されたと聞いたことをのんきに伝えるのみで、事態には気づかない。コーヒーを淹れる夏美を見て、宗介は「大きくなったか」と呟き、夏美は黙ってそのカップを差し出した。

同シリーズ

c502e72e37d59677d2c90c9525bf9643 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレ
フルメタル・パニック! Family
c128b3ebcd58105204a4993abf57c8e2 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレ
フルメタル・パニック! Family 2
244a24459033c2e511597981482fc15f 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレ
フルメタル・パニック! Family 3

その他フィクション

e9ca32232aa7c4eb96b8bd1ff309e79e 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレ
フィクション(novel)あいうえお順

小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ

物語の概要

本作は異世界ファンタジーに分類されるライトノベルである。主人公のノールは、すべての職業(クラス)において「才能なし」と評価され、最低ランクの冒険者として日々雑用をこなしていた。だが、彼が鍛え続けた唯一のスキル「パリイ」によって圧倒的な強さを秘めており、物語が進むにつれてその真実が明らかになっていく。11巻では、〈魔導皇国〉の皇帝が開いた宴席で突如異変が発生。王都・クレイス王国の国王以下が意識を失う中、唯一難を逃れた “見えない剣士” 幽姫 レイ が王国最大の危機を救おうと動き出す展開が描かれている。

主要キャラクター

  • ノール:12歳時に「全てにおいて才能なし」と判定された冒険者志望の少年。山籠りの修行でパリイを極め、最低ランクながら実は無自覚な最強の力を持つ。
  • リンネブルグ・クレイス(リーン):クレイス王国の第一王女。14歳にしてあらゆる能力に秀でており、ノールに助けられたことを契機に彼を「先生」と呼び慕う。
  • イネス・ハーネス:クレイス王国の騎士で、特殊な防御能力「神盾」を用いてリーンを護る。21歳。
  • ロロ:魔族の少年。生い立ちが不明で弾圧の対象となった幼少期を経験しており、物語の中で重要な存在となる。

物語の特徴

本作の魅力は、「才能なし」と評された主人公が唯一鍛え続けた「パリイ」という防御技を極めることで“無自覚な最強”として立つという逆転構図にある。さらに、主人公のギャップ――能力を自覚せず雑用をこなす日常から強敵への対峙へ――が読者に強い魅力を与えている。王国・魔導皇国・魔族など多勢力が交錯する世界設定、加えて11巻では宴席を起点とした暗謀・危機が描かれ、王国バトル・宮廷サスペンス・能力発現ものが融合した物語となっている。
また、メディア展開としてアニメ化も果たしており、ライトノベル×コミカライズ×アニメというクロスメディア展開も差別化要素である。

書籍情報

俺は全てを【パリイ】する ~逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい~ 11
著者:鍋敷
イラスト:カワグチ 氏
出版社:アース・スター エンターテイメント
発売日:2025年11月14日
ISBN:978-4-8030-2219-3

gifbanner?sid=3589474&pid=889458714 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレブックライブで購入 gifbanner?sid=3589474&pid=889458714 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレbls_21years_logo 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ gifbanner?sid=3589474&pid=889059394 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレBOOK☆WALKERで購入 gifbanner?sid=3589474&pid=890540720 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ

(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。

あらすじ・内容

見えない剣士
【幽姫】レイ、参上!

『魔導皇国』の皇帝ミルバを迎えた
宴の席で突如異変が…

国王以下全員が意識を失う中
現れたエルフの兄弟

唯一難を逃れた【幽姫】レイは
クレイス王国最大の危機を救えるのか!?

俺は全てを【パリイ】する ~逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい~ 11

感想

今巻もまた、ノールの【パリイ】無双ぶりが存分に味わえる一冊であった。どんな理不尽な攻撃もひょいと受け流してしまう姿は、相変わらず読んでいて爽快である。その一方で、周囲の人物たちの心情や立場も丁寧に掘り下げられ、物語全体のスケールと厚みが一段と増した巻でもあった。
物語はまず、魔導皇国デリダスの皇都にそびえる黒鉄の塔で、幼い皇帝ミルバが退屈をこぼす場面から始まる。歴代皇帝のしがらみを背負いながらも、自らを「案山子」と認識したうえで国の礎になる覚悟を決めている姿には、年齢不相応の重みがあった。そのミルバが、再びの家出でクレイス王国領内へと姿を消し、ランデウスがクレイス王に協力を仰ぐ流れが、今巻全体の発火点になっている。
一方、クレイス王国側では、ノールが相変わらず工場の広場で「砂の巨人と俺」の武勇談を語り、子どもたちと大人たちを笑顔にしていた。その語りを見込んで、印刷ギルドが本として出版しようと持ちかけてくるくだりは、ノールが「話芸」としても王都の一部になりつつあることが感じられて楽しい。そんな日常の延長線上に、小柄な少女として現れたミルバが、祖父デリダスの暴走を詫び、同時に命を救ってくれたノールへ感謝を伝える場面は、前巻までを読んできた身として胸に来るものがあった。
今巻で何より印象的なのは、新たな護衛役として本格的に登場した【幽姫】レイである。誰からも存在を認識されにくい恩寵ゆえに、「壁のシミ」扱いされてきた過去を持ちながら、それでも黙々と任務を果たしてきた姿が描かれる。そんなレイが、初対面から当たり前のように自分を見て、声を聞いてくれるノールに出会った瞬間の喜びと戸惑いは、とても微笑ましく、同時に切なくもあった。剣の腕も確かで、【隠聖】カルーと【剣聖】シグに認められている実力派でありながら、本人は極度に自己評価が低いというギャップも魅力的である。
その裏では、イネスが「光の盾」の恩寵を失って自分の存在意義を見失い、ロロはロロで、魔鉄鋼を押し続ける過酷な鍛錬に身を投じていた。イネスに何も返せていないという負い目と、「ノールのように在りたい」という憧れが、ロロを前へ前へと押し出している。ララへの餌やりと、シレーヌとの穏やかな時間、竜から「さっさと子孫を作れ」と直球で言われて真っ赤になるくだりなど、シリアスと日常がうまく噛み合っていて、世界全体が生きている感覚が心地よい。
中盤では、ミルバの希望で王立魔導具研究所を見学し、【魔聖】オーケンと対面する流れが、物語の「世界設定」側を大きく押し広げていく。『生体言語論序』という古い著作を軸に、「血に刻まれた言葉」の仮説や、戦争の裏にいた行商人ルードの存在が語られ、長耳族と世界の空白地帯にまつわる謎が一気に深まる。単純な勧善懲悪ではなく、「知られたくない情報」を徹底して消しに来る存在としての長耳族の姿は、不気味さとスケールの大きさを兼ね備えていた。
そして宴の夜、ミルバやノールたちが顔を揃えた小さな店での気楽な食事会が、一転して大事件の舞台となる。『精霊王の香炉』から立ちのぼる霧が王都全体を包み込み、人も獣もすべて眠りに落ちていく描写は、静かであるがゆえに恐ろしい。その中で、幽霊のような存在であるレイだけが眠りを免れ、ただ一人、長耳族の兄弟に立ち向かう展開が本当に熱い。見えない女としての利点と弱点を併せ持つレイが、「しのびあし」で自分自身すら見失いかけながらも、命を賭けて香炉を狙い続ける姿には、今巻一番の見せ場が用意されていたと感じる。
そこへ、まるで英雄のようなタイミングでノールが現れる。頭上から迫る、触れたものを微塵に分解する黒い球体を、黒い剣の切っ先でそっとなぞりながら「【パリイ】」して消し飛ばす場面は、本当に反則級のかっこよさであった。長耳族の兄弟が「理念物質」の力に戦慄し、読者側も「これはもう反則では?」と思いつつ、それでも笑ってしまう。ここでもノールは「ただ出来ることをやっただけ」という顔をしており、その飄々とした在り方も含めて、やはり魅力の核はぶれていない。
精霊王の香炉が破壊され、兄エルフが戒律違反の代償として結晶のように崩れ去り、弟がノールへの復讐に生涯を捧げると宣言して姿を消す結末は、今後の長耳族編への不穏な予告編のようである。王都は奇跡的に人的被害を免れたものの、四カ国首脳会議が招集され、「長命者の里」が雲の上に浮かぶ楽園であるという真実が明かされる流れは、物語全体がいよいよ「世界規模の決戦」へ向けて動き始めた印象を強く残した。
そんな大事件の合間合間に、イネスやリーンがそれぞれの場所で不安と向き合い、レインが妹を守るために厳しい決断を下し、長命者の里ではルードやレメクたちの事情も描かれる。敵側にも長い時間を共に過ごしてきた兄弟の情があり、それが読者にとって「完全な悪」として割り切れない重さを与えている点も、今巻の印象深いところである。
そして電子書籍特典の「【幽姫】レイの読書日和」が、戦いの裏側にあるレイの日常をそっと見せてくれる。古びた書店で「本好きの幽霊」と噂されながら、誰にも気づかれずに本を買い、喫茶店のテラス席で静かに読書を楽しむ姿は、とても愛おしい。宝飾店での「怪盗騒ぎ」以来、気軽に買い物もできないレイにとって、本屋と喫茶店だけが、ささやかな居場所になっていることがよく伝わってくる。誰にも見えないがゆえに、代金だけを置いて消えてしまう不器用さも含めて、「ああ、この人は本当に幽姫なのだな」と納得させられる一編であった。
なお、宴の席で料理に顔を埋めて寝ていた人々が、結局無事だったのかどうかは、読者として少し心配である。だが、彼らの頭上で見えない女と長耳族、そしてノールの【パリイ】が飛び交っていたことを思うと、気づかないまま日常に戻れたのは、ある意味で一番の幸運かもしれない。
今巻全体を通して、ノールの安定した【パリイ】の爽快感に加え、【幽姫】レイの魅力、皇帝ミルバの存在感、長耳族という新たな脅威と世界の広がりが、見事に噛み合っていたと感じる。誰にも見えないはずの影の薄い人が、誰よりも世界の命運を左右する戦いの中心にいたことも含めて、面白さは今巻も太鼓判である。長耳族の里編がどう展開し、ノールの【パリイ】がどこまで通用していくのか、次巻が待ち遠しい。

最後までお読み頂きありがとうございます。

gifbanner?sid=3589474&pid=889458714 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレブックライブで購入 gifbanner?sid=3589474&pid=889458714 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレbls_21years_logo 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ gifbanner?sid=3589474&pid=889059394 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレBOOK☆WALKERで購入 gifbanner?sid=3589474&pid=890540720 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ

(PR)よろしければ上のサイトから購入して頂けると幸いです。

登場キャラクター

クレイス王国・魔導皇国側

ノール

【パリイ】の恩寵を持つ旅の男であり、戦いでも日常でも他者を守る行動を取り続ける語り部である。褒賞や名誉に関心は薄いが、人々の生活と平穏を重んじる姿勢が一貫している。

・砂の巨人撃破やサレンツァ家の体制崩壊、商業自治区との国交回復など、多数の事件で中心的な役割を果たす。
・王都では舞台で『砂の巨人と俺』を語り、印刷ギルドから出版依頼を受けるほどの人気語り手となる。
・長耳族兄弟との戦闘では黒い剣で迷宮遺物級の黒球や言霊を【パリイ】し、理念物質を無効化できる存在として認識される。

リンネブルグ

クレイス王国王女であり、理想の母レオーネの姿を追い求めながら、自分の弱さと向き合っている若い女性である。表向きは明るく振る舞うが、内心では恐怖と罪悪感を墓前で吐露している。

・王女としてノールやイネスと共に前線に立ってきたが、長耳族襲撃後は兄から討伐への参加を禁じられる。
・イネスの危機を思い返して胸を痛め、自分だけが弱さを見せてしまうことへの後ろめたさを抱える。
・王妃レオーネの墓前で、母のように強くありたいという願いと、成長できていない自覚の間で揺れ動く。

レイ

隠密兵団副団長であり、【幽姫】の二つ名を持つ女性である。恩寵の影響で他者からほとんど認識されず、長年「見えない女」として孤立してきた。

・【隠聖】カルーと【剣聖】シグに才を認められ、隠密と剣技の双方で高い技量を持つ。
・ノールの護衛役として任命され、王都襲撃時にはただ一人眠りから免れ、長耳族兄弟に単身で挑む。
・「しのびあし」を用いて自分の存在を極限まで薄め、精霊王の香炉破壊の決定打を担うことで、自身の恩寵を受け入れ直す。

イネス

【神盾】の称号を持つ女性であり、これまで恩寵「光の盾」で国と民を守ってきた守護者である。忘却の巨人との戦いで恩寵を失い、自身の存在意義を見失っている。

・幼少から「呪い」と感じながらも恩寵を扱う訓練を続け、ようやく誇りとして受け入れた経歴を持つ。
・忘却の巨人に力を奪われた後、クレイス王から静養を命じられ、【神盾】の称号と待遇は維持されたまま長期休養に入る。
・ノールやレイとの再会を通じて、生きて戻った事実や他者の支えに目を向けようとするが、喪失感と虚無はなお強く残る。

ロロ

レピ族の少年であり、魔導具研究所の助手としても『戦士兵団』の鍛錬でも頭角を現しつつある存在である。共感力の高い心と強い向上心を併せ持つ。

・超重量金属『魔鉄鋼』を自ら付与した塊に押し続ける過酷な鍛錬を日課とし、剣技でも【剣士兵団】随一の実力に達する。
・ララの給餌やララ用食器の相談など、魔竜との実務的な付き合いをこなしつつ、王都の好景気にも関わる。
・恩寵を失ったイネスを支えられなかった悔しさから、「ノールのように揺らがない在り方」を目標に成長を続ける。

シレーヌ

【雷迅】の異名を持つ女性であり、雷撃の弓と機動力を武器とする戦士である。ロロと共に過ごす時間を通じて、彼への好意と信頼を深めている。

・砂の巨人戦では飛空艇からの戦闘に参加し、その後もララの給餌や王都での実務に関わる。
・サレンツァ遠征中にロロと料理や水遊びを共にし、そのひたむきさと優しさに惹かれていると自覚する。
・ララとの会話では、竜から「子孫を作れ」と唐突な助言を受けて動揺しつつも、ロロとの現在の関係を大事にしようとする。

ララ

【厄災の魔竜】と呼ばれる巨大な竜であり、ノールを「愛しい主人」と呼ぶ存在である。尊大な価値観を持つが、約束や礼を重んじる面もある。

・王都北方の『竜の餌場』で、ロロとライオスの作るコース料理を前菜からデザートまで順番に味わう習慣を身につける。
・王都の上空から流れてくる匂いでノールの所在を感じ取り、そこに混じる「嫌いな匂い」から危機の接近を察知する。
・人間を「弱く寿命が短い種」と見なしつつ、ロロとシレーヌには好意的であり、二人の子孫には特別な便宜を図ると宣言する。

メリジェーヌ

【司書】の二つ名を持つ魔導具技師であり、研究所の案内役や神託の玉の運用を担う女性である。冷静な分析と好奇心を併せ持つ。

・神託の玉を調整してクレイス王とランデウスらの会談を支え、四カ国間の連絡手段としても活用する。
・王立魔導具研究所では技師として勤務し、ロロの才能やオーケンの研究を近くで見守る。
・私生活ではロロとシレーヌの関係を観察しつつ、自身とマリーベールには当分縁がなさそうだと冷静に自己評価する。

マリーベール

聖女としての立場を持つ女性であり、セインの過剰な診療に悩まされている人物である。甘い物で心身の負担を解消しようとする傾向がある。

・王都の好景気の中で、新店が増えた菓子店や喫茶店を巡り、ケーキを楽しむ時間を確保する。
・貸切レストランではメリジェーヌと共にシレーヌを問い詰め、ロロとの関係をからかい混じりに確認する。
・四カ国や長耳族の大きな動きからは一歩引いた位置で、医療と日常の維持に関わる。

オーケン

【魔聖】と呼ばれる高名な魔導具技師であり、王立魔導具研究所の創設者である老人である。若き日の冒険と研究が、現在の長耳族問題にもつながっている。

・「生体言語論序」を著し、血に刻まれた言葉という仮説を提示するとともに、長命者の里に関する冒険譚を残す。
・長耳族の里を実際に訪れ、帰還後にその存在を吹聴した結果、関わった国や街が跡形もなく消える事態を経験する。
・四カ国会議では、長耳族を「触れてはならぬ災い」と位置づけ、なおその情報を共有することで連合の進路を決めさせる。

カルー

【隠聖】の二つ名を持つ隠密兵団の長であり、影から王都防衛を支える人物である。冷静な自己評価と、厳しい現実認識を持つ。

・王都中心部への長耳族侵入を許した件を「隠密兵団の失態」と認め、責任を引き受ける姿勢を示す。
・六聖がそれぞれ長耳族と接触経験を持つ事実を明かし、襲撃が必然的な帰結であると分析する。
・王妃レオーネに関する情報開示を提案しつつも、王の強い拒否を受けて以後は口を閉ざす。

ラシード

商業自治区サレンツァの新領主であり、現場感覚と打算を併せ持つ若い統治者である。メリッサとの結婚を経て、新体制を動かしている。

・レインとの再会では短刀を抜いて喉元を狙い、護衛なしで動く危険性を実地で示す。
・リゲルとミィナを秘書と護衛として同行させ、若い人材に機会を与えることを自らの方針とする。
・長耳族にかつて政治中枢を乗っ取られた経験から、クレイスとノールに全力投資することが商業自治区の延命策と判断する。

アスティラ

ミスラ教国の教皇であり、ハーフエルフとして生まれながら、自身の出自について何も覚えていない女性である。素直な物言いと高い信仰心を持つ。

・幼少期の記憶が完全に抜け落ちており、森に一人で放り出されていた時点から人生が始まっている。
・長耳族という語をオーケンから初めて聞き、自分の見た目が似ていると指摘されたことで「ハーフエルフ」と呼ばれるようになる。
・四カ国会議では、ノールやリーンへの恩義から、クレイスを見捨てず共に進む判断をティレンスと共に表明する。

ティレンス

ミスラ教国側でアスティラを支える立場にある人物であり、教皇の側近として行動する男性である。

・アスティラと共に飛空挺でクレイス王都を訪れ、四カ国会議に出席する。
・クレイス王国やノールとの関係を踏まえ、ミスラ教国として連合に加わる判断を支持する。
・アスティラの出自と長耳族の情報を受け止めつつ、彼女の精神的な支え役を務める。

ミルバ

魔導皇国デリダスの幼い皇帝であり、高い才覚と強い責任感を持ちながら、自分を「案山子」として利用される象徴だと冷静に理解している存在である。先帝デリダス三世の暴走を身内の責として受け止めつつ、ノールやクレイス王国に対しては礼を尽くし、国の未来を自らの犠牲と引き換えに支える覚悟を固めている。

・魔導皇国デリダス第四代皇帝として、十機衆やランデウスに支えられながら国政の中心に立つ。
・市井での労働や空からの視察など、何度も塔を抜け出して民の生活を自分の目で確かめようと行動する。
・クレイス王国との技術交流や四国会議への参加を通じて、戦争後の国交回復と協力関係の構築に大きな影響を及ぼす。

ランデウス

魔導皇国十機衆の長であり、先帝打倒を企てた過去を悔いながら、現在はミルバの後見人として皇国を支える重責を担う武人である。自らの罪と責任を直視しつつ、ミルバの資質を高く評価し、その身を守ることを第一に行動する。

・魔導皇国の軍事と政治の実務を統括する立場として、対外折衝や議会工作を引き受ける。
・ミルバのたび重なる「家出」に振り回されながらも、騒ぎを外部に漏らさぬよう秘密裏に捜索を指揮する。
・クレイス王国との技術交流や四国会議では、魔導皇国をクレイスと運命共同体と位置づけ、協調路線を明言する。

クレイス王

クレイス王国の王であり、豪放な人柄と同時に、家族と臣下を深く案じる一面を持つ統治者である。酒席での失態を認め、王都襲撃に何も対処できなかった自分を厳しく省みている。

・王都と周辺諸国を治める君主として、長耳族襲撃後に四カ国首脳会議を招集し、連合対応を主導する。
・イネスやリーンを危険な任務に送り出したことを悔やみつつ、彼女たちを娘のように思っていると打ち明ける。
・王妃レオーネの秘密を子どもたちに伝えるかどうかで葛藤しながらも、長耳族との関わりから守ろうと決意する。

レイン

クレイス王国の王子であり、実務と外交を担う冷静な調整役である。妹リンネブルグやイネスを気遣いながらも、国益と安全を優先する厳しい判断を下す。

・四カ国会議の召集や各国首脳との連絡を取りまとめ、連合結成の実務を進める。
・イネスとリーンに対しては、長耳族との戦いから距離を取らせ、避難と生存を最優先とする役目を命じる。
・ラシードやノールとの関係を通じて、戦場だけでなく外交と内政の現場でも信頼を得ている。

レオーネ

クレイス王国の元王妃であり、リンネブルグにとって理想の母として記憶されている女性である。現在は故人であり、その行き先と過去には長耳族と関わる秘密があると示唆されている。

・王妃として王と子どもたちの中心にいたが、物語の時点では王宮を去り、墓標だけが残されている。
・リーンとよく似た姿で肖像画に描かれ、王がその前で過去の約束を反芻する対象となる。
・長耳族と関わる「避けて通れない話題」としてカルーから言及されるが、詳細はなお伏せられている。

長耳族・長命者の里関係者

ルード

長命者の里に属する行商人を名乗る男であり、人の記憶や認識を操作する働きかけを行う存在である。議会からの信任と叱責を繰り返し受ける立場にある。

・デリダス三世のもとを訪れた後、皇帝の軍事傾倒が急速に進んだことから、魔導皇国戦争の裏に関わっていると推測される。
・忘却の巨人の損失と理念物質未回収の責任を問われ、メトスとレメク派遣後も、再度の回収任務とレメク捜索を命じられる。
・アーティアの記憶処理にも関わる立場にあり、彼女との私的な関係と職務との間で距離を取っている。

メトス

長耳族の兄であり、弟レメクを導いてきた落ち着いた性格の男性である。自然の摂理や歴史に通じ、冷静な視点を持つ。

・レメクと共に故郷の湖畔で釣りをしながら、人類の歴史や長耳族の起源について語る。
・精霊王の香炉を携えて王都襲撃に参加し、レイの攻撃から香炉を守る盾となる。
・ノールの黒い剣の破片で同族を傷つけたと判定され、戒律の発動により塩の結晶のように変質して崩壊する。

レメク

長耳族の弟であり、人類を「愚かで短命な種」と見なす苛烈な価値観を持つ青年である。兄への信頼は深いが、行動は激情的である。

・理念物質と光の盾の使い手を回収する任務の主力として、王都襲撃に参加する初仕事を任される。
・精霊王の香炉と言霊の力で王都全体を眠らせ、「凍れ」「潰れろ」などの言葉だけで大規模な現象を引き起こす。
・兄の崩壊をノールのせいだと受け取り、戒律と務めを捨てて個人的な復讐者となることを誓い、姿を消す。

アーティア

長耳族の女性であり、ルードの実家に住む親族である。長く働くことができず、家で趣味に没頭して暮らしている。

・最近「娘がいる夢」を見るようになり、家庭を持つ幸せな情景を語るが、周囲からは妄想と受け取られている。
・ルードからメトスの死とレメク失踪の報告を受け、悲しみを抱えながらも彼の出立を受け入れる。
・議会から、記憶が完全には消えていない存在として認識されており、処理対象としてルードに託されている。

ザドゥ

長命者の里に属する隠密の男であり、ルードと行動を共にする実務担当である。感情を表に出さず、任務遂行を優先する。

・里の外でルードと再合流し、理念物質の所有者の始末と諸任務に同行する。
・表舞台には出ず、情報収集や潜入など、裏方としての役割を担う。
・議会の方針に従って動き、個人的な感情や意見をほとんど語らない。

長命者の里議会

長耳族の里を統治する集団であり、長老たちによる合議で方針を決める統治機構である。地上の歴史に対して長い時間軸で介入してきた。

・理念物質回収の失敗と忘却の巨人の損失を重く受け止め、メトスとレメクを派遣した経緯を再検証する。
・失踪者の発生が過去に大規模な地上浄化を招いた歴史を踏まえ、即時浄化ではなく慎重な手作業対応を選択する。
・ルードに再任務を与え、理念物質の回収とレメク捜索、アーティアの記憶処理を通じて、里への脅威の芽を摘もうとする。

展開まとめ

211 黒鉄の塔

退屈する皇帝ミルバとランデウスの懺悔
魔導皇国デリダスの皇都中央にそびえる黒鉄の塔の最上階で、幼い皇帝ミルバは退屈さを漏らしていた。十機衆の長ランデウスは、民の目を気にして軽率な発言を慎むよう諫め、自らが先帝打倒を企てた過去を悔いたが、ミルバは祖父の失脚は祖父自身の愚かさの結果であり、ランデウスの責任ではないと断じて感謝を述べた。

ミルバの才覚と「案山子」の自覚
ランデウスは、学者たちを論破する知性と社交性を備えたミルバを、国を導くにふさわしい皇帝と評価していた。ミルバは一方で、自分が生まれと血統ゆえに象徴として利用される案山子にすぎないと理解しつつ、国の礎となる覚悟を受け入れていた。その諦念と責任感こそが、ランデウスにとって「王たる資質」であった。

皇帝失踪騒動の前歴
ミルバは過去に何度も塔から姿を消していた。最初は市井の子供たちと路地で遊びながら、民の生活を知るのが為政者の務めだと説いた。次はパン工房で見習いとして働き、小麦一粒の重みを知らねば良い政治はできぬと主張した。さらに自作の飛行魔導具で皇都上空を滑空し、民の生きた表情を見てこそ血の通った政治ができると語ったが、いずれも行き先を告げぬ「脱走」となり、ランデウスたちを混乱させてきた。

衣装替え部屋からの再脱走
公務が一段落した後、ミルバは窮屈な衣装に疲れたと告げ、侍女を断って一人で衣装替え部屋へ入った。様子に不信を覚えたランデウスが禁を破って扉を蹴破ると、室内にはミルバの姿はなく、隠し扉と縄梯子が設けられていた。そこには、急用で外出するが捜すなと念を押し、用意した食事は侍女たちに無駄なく食べさせよと書かれた花柄の置き手紙が残されていた。ランデウスはまたもや出し抜かれたことを悟って頭を抱えつつ、外部には秘密にしたままミルバ捜索に向かう決意を固めた。

212 謁見の間にて

ミルバ失踪とクレイス王の協力表明
クレイス王国の謁見の間で、【司書】メリジェーヌが神託の玉を調整し、クレイス王とレイン王子が魔導皇国のランデウスと会談した。ランデウスはミルバの再度の失踪と、今回はクレイス領内に入った形跡があると報告し、協力を要請した。クレイス王はこれを家出と受け止めつつ協力を約束し、ただし過度に叱責しないよう求めた。

レピ族の子供たちとイネスの休養方針
会談終了後、王とレイン王子はサレンツァで保護したレピ族の子供たちが記憶を失っている件を確認した。【癒聖】セインの治療で会話は可能になったが過去の記憶は戻らず、イネスの恩寵も回復していないと報告された。王はイネスが責任を抱え込み過ぎていることを案じ、【神盾】の称号は維持したまま手厚い休養と支援を与えるよう命じた。

ノールへの評価と長耳族の不穏な動き
王は、旅の途上で人々を救いサレンツァ家の体制崩壊と砂の巨人撃破、商業自治区との国交回復まで成し遂げたノールの功績を「英雄の伝記」と評し、褒賞を拒む相手にどう報いるか思案していた。レイン王子は、砂の巨人事件の背後にいた長耳族の黒衣の男と、黒い剣のみを狙った行動を報告し、現在その剣はノールが常時携行していると説明した。王は恩人が狙われている状況を放置できぬとし、護衛の必要性を確認した。

【幽姫】レイの登場と護衛任務の付与
王子が護衛役として【幽姫】レイを呼ぶと、彼女は既に謁見の間にいたが、生来の恩寵により誰からも存在を認識されず、王と王子はしばらく気づかなかった。レイが【存在強化】の首飾りを稼働させてようやくその姿が朧げに認識され、王と王子はその異常な隠密性に舌を巻いた。レイは【隠聖】カルーに諜報の才を、【剣聖】シグに剣技を認められた人物であり、王は正式にノールの身辺警護を命じた。レイは命を受けつつ、自分と勘違いされていた壁や風については何も言わず、そのまま誰にも気づかれぬまま退出した。

213 出版依頼

ノールの新作『砂の巨人と俺』と広がる人気
ノールは工場の資材の山を即席の舞台にして、新作の土産話『砂の巨人と俺』を語り、黒い剣で砂の巨人の腕を砕き、飛空艇に乗る【星穿ち】リゲルや【雷迅】シレーヌの活躍を織り込みながら実際の戦いを脚色して説明した。子供たちは身振り手振りに歓声を上げ、大人たちもヤジを飛ばしつつ聞き入り、星形の砂糖菓子までよく売れるなど、ノールの話芸は王都の娯楽として定着しつつあった。

印刷ギルド企画室長アカリの出版提案
話の後、同僚の紹介で印刷ギルド企画室長アカリが現れ、広場での語りを書き起こした原稿と、ギルドが手掛けた挿絵入り冒険活劇本をノールに見せた。アカリは「これは実際に先生が見聞きした話だ」という定番の書き出しまで忠実に再現したと説明し、ノールの物語を子供から大人まで楽しめる本として出版したいと申し出た。ノールは金銭には無頓着ながら提案自体を面白がり、条件の詳細は後日に詰める形で出版を承諾した。

皇帝ミルバの来訪と謝罪・感謝の言葉
人々が散った後、小柄な少女が現れ、黒い剣と魔竜の噂とノール本人を見比べて物足りなさそうに評価した。そこへリーンが現れ、その少女が魔導皇国の第四代皇帝ミルバであり、先帝デリダス三世の孫であると明かした。ミルバは祖父の暴走でクレイス王国に与えた迷惑について、身内としての責と血筋に連なる者の義務を口にしながら深々と頭を下げ、同時にノールが祖父の命を救ってくれたことへの個人的な感謝も述べた。ノールがデリダス三世の近況を案じると、ミルバは塔で空を眺めて過ごす弱り切った姿を伝え、二度と愚かな過ちには至らぬだろうと語った。

【幽姫】レイの合流と不可視の護衛
その最中、ノールは白髪の女性からの視線を感じ、幽霊の類を疑うが、相手は生身の人間であり、自分だけに姿も声も認識できると知って安堵した。女性は感極まって涙を流し、自分が隠密兵団副団長レイであり、上からの命でノールの身辺警護を任されたと名乗った。レイは生来の恩寵により他者からほとんど認識されず、行き交う人々やミルバ、リーンにも姿が見えない存在であったが、ノールだけははっきりと認識できたため、彼女は強い喜びと戸惑いを覚えた。リーンは王都にはイネスと似た恩寵を持つ人物がいると聞いていたことからレイの素性に合点し、レイは自分を壁のシミ同然とみなしてよいと卑屈に言いつつも、陰からノールを守る役目を受け入れた。

イネスの不調と見舞いへの同行
リーンはもともと、恩寵と力を失ったことに責任を感じ塞ぎ込んでいるイネスのために、ロロに栄養のつく料理を作ってもらおうと市場へ向かう途中であったことを説明した。ミルバは自分の用件は急ぎではないとして配慮を促し、リーンは王都案内を兼ねてミルバを市場へ誘い、ノールもロロとイネスの様子を見に行きたいと同行を申し出た。こうしてノール、ミルバ、リーン、目に見えにくい護衛役レイという構成で一行は市場での買い物を済ませ、リーンの家へと向かうことになった。

214 消えた恩寵

失われた恩寵とイネスの喪失感
イネスは自室の窓際で何度も恩寵の再発現を試みていたが、掌が淡く光るだけで、かつての「光の盾」は二度と現れなかった。商業自治区で「忘却の巨人」に呑まれた際、その力は巨人へ移し替えられ、巨人が討たれた時に共に消失したとオーケンやメリジェーヌは推測していた。幼少から「呪い」とまで感じつつも、自らを縛ってきた力を扱うべく努力を重ね、その力を国と民のために使う存在としてようやく誇りを抱くに至っていたイネスは、その根幹が突然失われたことで、安堵と罪悪感と虚無が入り混じった感情に囚われていた。守護者として寄せられていた信頼も、自身の存在意義も同時に失われたのではないかという思いが、彼女を屋敷の中に閉じこもらせていた。

レイン王子の訪問と「静養せよ」という勅命
レイン王子がイネスの部屋を訪れ、クレイス王からの伝言として「しばらく静養に徹せよ」との勅命を伝えた。恩寵が戻らなくとも【神盾】の称号と待遇は据え置きであり、今回の件をイネスの失敗ではなく、派遣を決めた側の責任と認めた上で、「誰にでも充足期間は必要だ」として長期休養を命じたのである。イネスは力を失った自分が称号を持ち続けることに戸惑いを示したが、王子は自責を戒め、国として回復を支える意志を示した。しかし、恩寵の回復見込みは薄いと知らされているイネスには、もはや国に必要とされていないのではないかという思いが消えず、今後の自分の姿を想像することもできないまま、屋敷の中を彷徨う日々が続いていた。

ミルバの訪問とノールの見舞い
そこへリンネブルグが「遠方から会いたいと言う客人」を伴って訪れ、忍びで王都に来ていた魔導皇国皇帝ミルバを紹介した。ミルバは噂に聞く【神盾】イネスを興味深げに観察し、イネスは皇帝の突然の来訪に驚きながらも、儀礼を避けたいというミルバの意向を受け入れた。続いてノールも現れ、イネスの体調を案じて市場で買い求めた「マンドラゴラもどき」の根を土産として差し出した。イネスが恩寵喪失を詫びると、ノールは「身体が無事ならよかった」と素直に答え、イネスが思っていたほど重く受け止めていない様子を見せた。その軽さに一瞬戸惑いながらも、イネスは死地から生還できた事実に目を向けるべきだと自分を納得させ、互いの助力を「お互い様」として受け入れた。

レイとの共感と恩寵への複雑な感情
イネスが部屋の隅に視線を向けると、隠密兵団副団長レイの存在を感じ取り、彼女の名を呼んだ。レイは驚きつつ、自身が持つ「誰にも認識されない」恩寵のせいで、これまでほとんど誰とも普通に会話できなかったことを思い出し、イネスにも姿と声を感じてもらえることを喜んだ。イネスは同じ恩寵持ちであった経験から、以前よりレイの存在を捉えやすくなったと説明し、現在の自分に代わってノールの護衛を託した。レイは恩寵を半ば「呪い」と感じてきた一方で、必ずしも悪い面ばかりではないと語り、イネスの力も戻ることを願っていると静かに伝えた。イネスは短く同意を返しながらも、消えた力を前に複雑な思いを募らせた。

ロロの変化と皆での食事の約束
ノールは屋敷にいるはずのロロの姿が見えないことを不思議に思い、イネスに所在を尋ねた。イネスは、サレンツァから戻って以来ロロが訓練場での鍛錬、魔導具研究所の助手、レストランの手伝いと多忙な毎日を送っていることを説明し、夕方には戻るはずだと答えた。リンネブルグは、ミルバの来訪を機に皆で一緒に食事を取ろうと提案し、イネスにも参加を呼びかけた。ミルバも賑やかな食事を楽しみにし、ひとまず父との面会などの用事を済ませた後、再びここに戻る段取りが決まる。来訪者たちが部屋を後にすると、イネスは再び静かな部屋に一人残され、整えられた庭園を眺めた後、何をするでもなく天井を仰ぎ目を閉じた。恩寵を失い、役割を見失ったままの空白が、なお彼女の中に重く横たわっていた。

215 戦士の訓練場

魔鉄鋼を押し続けるロロの過酷な鍛錬
王都の『戦士兵団』訓練場において、ロロは家一軒ほどもある黒い金属塊に両腕と額を押し当て、早朝から一瞬も休まず押し続けていた。周囲の団員たちはその様子を呆れと畏怖を込めて見守り、試しに手を貸した者は数秒で青ざめて崩れ落ちた。この金属はオーケン特注の超重量金属『魔鉄鋼』であり、ロロ自身が「触れただけで死ぬほど辛い負荷」がかかる付与を施した代物であった。日が昇り切る頃には団員たちは各自の持ち場へ戻り、訓練場にはロロと『戦士兵団』団長【盾聖】ダンダルグ、そこへ現れた【剣聖】シグのみが残った。

背負わされた重荷と周囲の懸念
ダンダルグとシグは、滝のような汗と血の混じる水溜まりの中でなお魔鉄鋼を押し続けるロロを見つめ、その切迫ぶりに不安を覚えていた。ロロは『聖ミスラ』の記憶を唯一受け継ぎ、レピ族の子どもたちの問題も抱えているとシグは指摘し、その重圧は計り知れないと語った。ダンダルグは、サレンツァから帰還して以来、ロロの鍛錬が自分を痛めつけているようにしか見えないとこぼし、見ていられない思いを吐露した。

ロロの本心と「ノールのように在りたい」という夢
二人の会話を聞いたロロは訓練を中断し、「自分は重荷を背負い込むタイプではない」と否定した上で、恥ずかしそうに鍛錬の動機を語った。表向きの目標は「ノールのようになりたい」というものだが、それは単に腕力を求めるのではなく、「どれほど理不尽や天変地異のただ中にあっても態度が揺らがず、いつも変わらず人に優しくできる存在」への憧れであった。自分の共感能力は「都合の良い時に寄り添える程度」のお手軽な優しさに過ぎず、ノールの在り方とは質が違うとロロは自己評価していた。

イネスへの想いと甘え方を覚えた少年
ロロにはもう一つの理由もあった。大切な人、すなわち恩寵を失い落ち込むイネスが辛そうにしている時に、何も力になれなかった自分が悔しく、そのために強くなりたいと考えていたのである。イネスから多くを与えられながら、まだ何も返せていないという負い目もロロを突き動かしていた。ダンダルグは、イネスは見返りを求めていないだろうと諭しつつも、ロロが「自分がそうしたいからそうする」と頑固に言い切る姿を見て、子どもが大人に甘えて成長するものだと認め、甘えを受け止める立場に回ることを受容した。

急成長するロロと、教えられる側に回る大人たち
ロロが再び魔鉄鋼に向き合うと、金属塊はわずかに初期位置からずれており、その成果が目に見えて現れ始めていた。シグは、ロロの剣術が今や【剣士兵団】でも並ぶ者のない水準に達し、毎日ギルバートとの模擬戦をこなしていることを明かした。当初は才能面で劣るように見えたが、王都六兵団を見渡しても比肩する者がいないほどの意志と努力の質が、ようやく結果として追いついてきたと評価した。ダンダルグは、ノールが魔族たちを王都に住まわせると宣言した頃には想像もつかなかった展開だと振り返り、今やノールもロロも自分たちが「教官」であるはずの側に教えを与えてくる存在だと苦笑した。

魔鉄鋼を押し込む力と制御不能な成長
シグが視線を向ける先では、ロロが魔鉄鋼の塊を一歩また一歩と押し進めていた。その光景にダンダルグは目を剥き、あの重量は自分でもきついと叫びながら、勢い余って訓練場の壁を突き破りかねない危険に気づく。ロロは重すぎて急停止できないと答え、ダンダルグは慌てて反対側から飛び込んで両手で金属塊を押さえつけた。必死に踏ん張る団長の苦悶を横目に、シグはかつての少年ノールと重なるロロの姿に既視感を覚えながら、静かに笑いを漏らした。

216 好きな匂いと嫌いな匂い 1

貸切レストランと王都の好景気
メリジェーヌとマリーベールは、貸切表示のある行きつけの店に予約客として案内された。王都は謎の篤志家の出現と諸国との交流拡大で空前の好景気となり、新店が急増していた。マリーベールは過剰な診療を押し付けるセインへの愚痴をこぼしつつ、ケーキでストレスを発散していた。

ロロとシレーヌの関係を巡る詰問
遅れて合流したシレーヌに対し、メリジェーヌはサレンツァ遠征中の「進展」を執拗に尋ねる。シレーヌは否定しつつも、ロロと一緒に料理をしたことやプールで庇われたことを思い出し、彼の「優しさ」「ひたむきさ」に惹かれていると赤面しながら告白する。その反応から、メリジェーヌは二人の関係がすでに深く固まっていると悟る。

客観的に見たロロという“超優良物件”
メリジェーヌは冷静に、ロロが美少年で成長中の体格、魔導具研究所のエースとしての腕前と収入、誠実で気が利き料理も上手という高スペックであり、王からの信任も厚い存在だと整理する。『レピ族』への偏見も薄れつつある今、ロロは客観的に見て非常に魅力的な相手だと戦慄混じりに再認識する。

ララの餌と“竜用食器”という無茶振り依頼
そこへロロが現れ、ララへの餌やりのために大量の木箱を荷車に積み始める。ライオスはララの好みに合わせた「前菜」「メイン」「デザート」付きのコース料理を大量に用意しており、今後は竜用の頑丈な食器を魔導具研究所に依頼したいと申し出る。メリジェーヌは軽率に了承したものの、【厄災の魔竜】の牙と爪に耐える食器の要求が常識外れであることに気づき、内心で悲鳴を上げる。

ロロとシレーヌの距離と残された二人の自嘲
ロロはララのもとへ向かうため、荷車の安定を頼んでシレーヌと共に店を出ていく。窓越しに、荷車を挟んで並んで歩く二人の背中が自然に馴染んで見え、メリジェーヌは今後は外野が余計に干渉せず二人のペースに任せようと判断する。一方で店内に残ったのはケーキを貪る聖女と研究話に戻る司書だけであり、自分たちには当分ああした眩しい関係は訪れそうにないと苦笑しつつ、メリジェーヌは竜用食器という新たな難題へ思考を切り替えた。

217 好きな匂いと嫌いな匂い 2

竜の餌場と優雅な食事
王都北方の森を切り開いて造られた『竜の餌場』で、ロロは魔竜ララのために大量の料理を丁寧に並べていた。ララはかつて木箱ごと噛み砕いていたが、ライオスの根気強い指導により、前菜から順に一品ずつ味わって食べるようになっていた。色とりどりの料理を数十人分ほどおやつのように平らげ、最後に巨大なイチゴタルトのデザートを堪能したララは、満足げに喉を鳴らして横たわった。

記憶を失った子どもたちと、今の幸福
給餌を終えたロロとシレーヌは岩に腰掛け、竜を眺めながら近況を語り合った。シレーヌがサレンツァの子どもたちのことを問うと、ロロは「身体は回復したが、過去の記憶は何も戻っていない」と説明した。自分のことも覚えていないと告げつつ、ロロは「あの頃の記憶は辛いことばかりだったから、忘れたままでいい」と受け止めていた。その一方で、今はララの餌やりやシレーヌと一緒に過ごす時間など、決して忘れたくない現在の幸福があると穏やかに語った。

ララとの対話とノールへの揺るぎない愛情
ロロの通訳を介して、シレーヌはララと会話を交わした。ララはシレーヌの矢の連射を「面白い曲芸」と称賛し、再演を期待していることを示した。さらに、ララは竜らしい尊大さを保ちながらも、ノールのことを「愛しい主人」と呼び、王都を見渡せるこの餌場を気に入っている理由が、風に乗ってノールの匂いが届く場所であるためだと明かした。自ら会いに行くことは「傲慢」として良しとせず、主人に求められるまで何百年でも待つと語る姿に、シレーヌはララの健気さと一途さを感じ取った。

竜の価値観と“子孫を作れ”という助言
ララはロロとシレーヌを「そこそこ気に入っている」と評価しつつも、人間たちを「弱く寿命が短い種」と断じ、「さっさと子孫を作れ」と唐突な助言を投げかけた。子どもができたら贔屓してやるとまで言うララの発言に、シレーヌは真っ赤になり動揺し、ロロも苦笑しながら「こっちにはこっちの事情とタイミングがある」となだめていた。ララは不満げにそっぽを向きつつも、二人を話し相手として好意的に受け入れている様子を見せた。

“嫌いな匂い”と王都への不穏な視線
穏やかな時間がしばし流れた後、ララは突然立ち上がり、大地を震わせながら天に向かって咆哮した。その声は岩場に亀裂を走らせるほどの轟音であり、ロロは咄嗟にシレーヌに耳を塞ぐよう警告した。興奮したララの視線はまっすぐ王都へと向けられており、「主人の匂いに、自分が一番嫌う匂いが混じっている」と告げた。肉眼で見る限り王都の空は穏やかであったが、二人はただならぬ胸騒ぎを覚え、ララを宥めながら急ぎ王都へ戻る決意を固めた。

218 魔導具技師の技術交流 1

神託の玉によるランデウスの謝罪
リーンの自邸の一室で、ノールたちはミルバと共にリーンの父を訪ね、部屋中央に据えられた魔導具『神託の玉』を通じて魔導皇国のランデウスと対面したのである。メリジェーヌが魔導具を起動すると、黒い鎧を纏ったランデウスの幻影が現れ、ミルバ捜索に尽力した一行に深々と頭を下げて謝意を述べた。さらに彼は、たまたまミルバを保護したノールを認めると驚きを示し、再度の助力に対する感謝と「国として必ず埋め合わせをする」との言葉を伝えた。ノールは礼を固辞しつつ、以前関わった老人の処遇を気遣い、「あまり苛烈な扱いはしないでほしい」と申し添えた。

ミルバの無断外出と“国交の私的交流”という落としどころ
続いてランデウスとミルバは、今回の無断外出の責任の所在を巡って互いに自分が罰を受けるべきだと主張し合った。ミルバは行動の主体は自分であるとして「帰国後の処罰は甘んじて受ける」と言い、ランデウスは後見人としての責任を理由に自らが矢面に立つべきと主張した。そこでリーンの父が仲裁に入り、「今回の訪問を“両国の国交回復を見据えた私的な技術交流・親善訪問”として公式に整理してはどうか」と提案したのである。これにより、誰かを処罰する必要のない筋道が立つと判断され、ランデウスもこれを受け入れて、議会に対してミルバの滞在を正規の形で承認させる段取りを引き受けた。

戦争の記憶と滞在のリスクへの配慮
ランデウスは本来、ミスラ教国との戦争を引き起こした側として、王都訪問には慎重であった事情も明かした。戦禍の記憶による怨恨はまだ完全には癒えておらず、時期を誤ればミルバの身に危険が及ぶこと、さらに騒動が起こればクレイス王国側の負担が大きくなることを重く見ていたのである。ミルバもその点を認め、自身の浅慮を詫びた。対してリーンの父は、ミルバ滞在中の安全はクレイス側が責任を持つと約束し、「訪問の歓迎は本心であり、むしろ良い交流の機会だ」と受け止めた。こうして、数日の王都滞在と無事な帰国を前提とした穏当な妥協点が成立したのである。

酒宴の約束とノールの“酔わない体質”
神託の玉の通信が終わると、リーンの父は改めてミルバに滞在を歓迎し、今晩の会食の準備について語った。会場は、ロロが働く馴染みの小さなレストランであり、飾り気はないが料理の味は折り紙付きであると自慢したうえで、自らも久方ぶりに酒席に同席する意欲を見せた。そしてノールに対し、「内々の酒宴らしく飲み比べをしてみないか」と提案し、屋敷の倉庫に眠る年代物の酒をすべて持ち出すようレインに命じた。
一方ノールは、申し出自体は受けつつも、内心では飲み比べがあまり良い結果にならないことを理解していた。かつて職場の同僚たちとの勝負で、どれほど強い酒を飲んでも一切酔わない体質を発揮し、酒豪たちを次々と打ち負かしてきた経緯があったためである。その原因は自らの【ローヒール】が体内の酒精を別の無害な物質に変えてしまうことにあると推測されており、仲間の介抱や二日酔い治療には役立つが、自身が酒の酔いを楽しむことはほぼ不可能であった。

ミルバの希望と魔導具研究所への招待
夜の会食まで時間があることから、リーンの父はミルバに王都見学を勧め、「希望があればどこへでも案内する」と申し出た。これに対しミルバは、今回の訪問目的の一つとして「魔導具研究所の見学」を希望し、特に【魔聖】オーケンと直接会って話がしたいと明かした。自国がかつてクレイスに戦争を仕掛けた立場である手前、技術の中枢である研究所の見学を願い出ることには躊躇があったが、後学と交流のためどうしても譲れない願いとして示したのである。
リーンの父はこの希望を快く承諾し、研究所所属のメリジェーヌに案内役を、さらにリーンにも施設の解説役を命じた。メリジェーヌはオーケンがちょうど工房にいることを確認し、訪問準備を引き受けた。ミルバは重ねて礼を述べ、技術交流への期待を口にした。

ノールの同行と“技術交流”への第一歩
見学の段取りが整う中、ノールもまた「特に用事があるわけではないが、研究所という場所を一度見てみたい」と同行を申し出た。リーンの父はこれも当然のように歓迎し、リーンにノールの案内も任せることで話をまとめた。こうして、ミルバとクレイス王国側の魔導具技師たちとの直接交流、そしてノールも含めた一行による魔導具研究所訪問が決まり、夜の酒宴までの時間を活かした“技術交流の第一歩”が踏み出されることとなった。

219 魔導具技師の技術交流 2

王立魔導具研究所の内部構造と案内
一行は王都の『王立魔導具研究所』を訪れ、古めかしい外観に反して内部が広大であることを知ったのである。建物は地上よりも地下部分が主であり、螺旋状の通路の両側には多数の工房が並び、職員たちが魔導具の製作や実験に勤しんでいた。天井には人工照明として設置された“天窓”があり、地下でありながら自然光のような明るさと時間の移ろいが再現されていた。案内役のメリジェーヌは、この研究所の運営を担う技師であり、ロロがここで助手として働いていること、そして研究所の多くが地下に増築され、奥には迷宮と繋がる一部立入制限区域が存在することを説明した。リーンも幼少期からこの場所に通っており、内部構造に精通している様子を見せた。

ミルバの技術的関心とオーケンとの初対面
ミルバは、魔導皇国が衰退して以降、大陸における魔導具研究の中心がクレイス王国であると認識しており、一人の魔導具技師として学ぶ必要性から、この研究所の創設者である【魔聖】オーケンとの面会を強く望んでいた。案内一行が地下奥の工房に辿り着くと、そこには草原のような穏やかな空間と、大きな作業台で作業を続ける老人オーケンの姿があった。メリジェーヌは彼を「生ける伝説」と紹介し、ミルバは自らを魔導皇国デリダス第四代皇帝と名乗って敬意を示した。オーケンはミルバを「かの老皇帝の孫娘」と認識し、その飾らない物言いと生意気さに親近感を覚え、身分に囚われない遠慮のないやり取りがすぐに成立した。

稀覯本『生体言語論序』と“血に刻まれた言葉”
ミルバはオーケンの前に一冊の古びた大部の本を置き、それが『オーケン著:生体言語論序』であると明かした。この書は既に出版から二百年以上が経過しており、王立図書館の閉架書庫やオーケンの私蔵本でしか見られない稀覯本であった。ミルバは幼少期に祖父の書棚からこの本を譲り受け、まず付録の冒険譚に惹かれ、その後六歳頃に本編の内容を理解したと語った。リーンは本の内容を要約し、この世界のあらゆる生命には「血に刻まれた言葉」とも呼べる情報が書物のように織り込まれており、それが親から子へと受け継がれる仮説が記されていたと説明した。オーケン自身は、若気の至りで書いた神経質な文章と武勇伝混じりの構成を苦笑しつつ振り返ったが、好事家であった老皇帝がその実験手法などを参考にしていたことを知り、内心で相手の目利きを評価した。

戦争の黒幕としての“ルード”と記憶の食い違い
話題はやがて、魔導皇国が戦争を起こした経緯へと移った。ミルバは、祖父が正気のまま侵略戦争を始めたとはどうしても思えず、身内びいきと自覚しながらも「誰かに手引きされた」と考えていることを打ち明けた。その鍵を握るのが、行商人を名乗る男ルードであり、彼の来訪を境に祖父が軍事へ異常なほど傾倒したと説明したのである。ルードに接した者たちは、彼が去った後、それぞれ外見や印象の異なる証言をし始め、記憶内容も不自然に食い違っていた。ミルバは、祖父も同じように記憶や認識を操作され、本来の人格から乖離していったのではないかと推測した。オーケンも老皇帝の元々の印象を「誇大妄想癖のある夢想家」としつつ、戦争に執着する人物像とのギャップを認め、そうした器用で陰湿な干渉を行える存在として「奴ら」が関わっている可能性を示唆した。またサレンツァでも、同じ名を名乗る商人を中心に記憶の齟齬や不自然な忘却が発生していたことが語られ、ミルバが単身で家出し、真相を探ろうとしている理由が明らかになった。

長耳族の里への推理とオーケンの否定
ミルバがさらに踏み込んで尋ねたのは、『生体言語論序』巻末の冒険譚に記された「全員が信じられないほど長寿の不思議な里」の記述であった。透き通った小川の底に宝石のような石が敷き詰められ、荘厳な建物と調和の取れた景観が「楽園」としか呼びようのない地として描かれていたこの里は、著者が二度訪れ、二度目には長期滞在したと記されていた。ミルバは、この描写を“長耳族の里”と結びつけ、オーケンが既にその里を訪れているのではないかと推理し、「その推測は正しいか」と真正面から問いかけた。しかしオーケンはしばし沈黙ののち、「その仮定は間違っておる」と答えたのである。彼によれば、あの里の描写は人の興味を惹くために他者から聞いた話を寄せ集めて脚色した作り話であり、若気の至りによるフィクションであって実体験ではないと明言した。これにより、ミルバの期待は肩透かしに終わったが、オーケンは遠方から訪ねてきたこと自体には深く感謝し、宴席を控える一行に「何も力になれず済まぬ」と詫びつつも、温かい言葉と菓子でもてなし、笑顔で送り出したのである。

220 眠る王都

宴の支度と気軽な集まり
ノールはリーンに案内され、家族行きつけの小さな店での食事会に向かった。店内にはリーンの父やミルバ、ロロらが集い、形式張らない宴として始まった。ララが「嫌な匂い」を感じた件はレインが王都周辺の警戒を手配し、場はひとまず和やかな空気に戻った。

料理人たちとの再会
ノールは給仕に立つロロやシレーヌと再会し、店主であり教官の夫ライオスとも挨拶を交わした。ノールが訓練場の設備を大金で弁償した件もあり、教官との関係は以前より穏やかになっていた。ロロはレイも正式な客として席に招き、皆が料理と会話を楽しみ始めた。

リーンの父の本音と後悔
リーンの父は年代物の酒を開け、ノールと杯を酌み交わしながら、イネスの恩寵喪失を自分の命令のせいだと悩むリーンを案じていると打ち明けた。彼はリーンとイネスを共に娘のように思い、二人を危険な任務に送り出したことや、王都を去った妻の代わりに自分が去るべきだったのではないかと後悔をにじませた。

王都を包む眠りの異変
語らいの最中、リーンの父が突然テーブルに突っ伏し、店内の人々も次々と奇妙な姿勢のまま深い眠りに落ちた。窓の外では濃い霧が王都を覆い、不自然な明るさを放っている。異常を悟ったノールも強烈な眠気に襲われ、黒い剣に手を伸ばそうとしたところで床に倒れ、周囲の変化に動揺する女性の姿を最後に意識を失った。

221 幽姫レイ

王都を覆う眠りとレイの孤立
宴の最中、精霊王の香炉の霧が王都全体を包み、客も兵士も動物すらも深い眠りに落ちたのである。幽霊のような存在であるレイだけが影響を受けず、眠るリーンやミルバを揺さぶるが目覚めさせられず、異常事態を一人で自覚することになった。

長耳族兄弟の来訪と目的
店に長耳族の兄弟が現れ、精霊王の香炉の効果を確認しつつ、黒い剣=「理念物質」とその「器」である光の盾の使い手を回収する計画を語った。二人は里の年長者やルードへの不満を漏らしながらも、今回の任務で一気に評価を得ようとしていた。

見えない女としてのレイと初交戦
レイは唯一自分を認識できる可能性のあるノールを起こそうとして失敗し、誤って後頭部を黒い剣に打ちつけてしまう。兄弟はその場でノールの出現と「見えない女」の存在を察し、精霊王の香炉の影響を受けないレイを理念物質由来の補助機能と推測した。レイはオブスカートで斬りかかるが、斬れたのは幻影のみであり、実力差を痛感する。

広場での追走と精霊王の香炉への斬撃
レイは街へ飛び出して広場へ誘導し、存在強化のイヤリングを外して自らの「見えなさ」を試しながら、エルフの視認能力を撹乱した。隙を突いて精霊王の香炉を狙い一太刀を浴びせるが、男は身を挺して器を守り、さらに「治れ」の一言で身体も衣服も血痕も完全に修復してしまう。レイは自分の一撃が致命傷になっていないことに絶望する。

エルフの能力とレイの敗北
兄弟は「凍れ」で王都を氷原に変え、冷気の流れからレイの位置を逆探知し、「軽くなれ」「落ちろ」「吹き飛べ」といった言葉だけの力で足場を浮かせて叩き落とし、最後は不意打ちの衝撃でレイを気絶させた。彼らは見えない女を器ごと解体するために持ち帰ろうとするが、直後にレイは消え、代わりに黒い剣を手にしたノールが立っていた。

黒い球体とノールの「パリイ」
弟エルフはノールを確実に殺すべく、あらゆるものを微細な破片に分解する巨大な黒い球体を「潰れろ」の一言で王都上空に呼び出し、標的だけを押し潰そうとした。だがノールは黒い剣の切っ先を球に軽く触れさせ、「パリイ」と呟いて表面をなぞっただけで、その異常な力場を跡形もなく消し飛ばしたのである。エルフ兄弟は唖然とし、ノールもまた頭をさすりながら彼らを困惑した顔で見返していた。

222 俺は長い耳の兄弟をパリイする

ノールの覚醒と凍てついた王都
ノールは黒い剣を枕に眠り込み、後頭部の激痛とともに目を覚ました。店内の壁は崩壊し、客や仲間は全員眠り込んでいた。外に出ると王都中央広場は真冬の氷原のように変貌しており、ノールはレイが長耳族の男二人に挑み吹き飛ばされる場面に遭遇し、レイを治療した。頭上に現れた不気味な黒球は、黒い剣で「パリイ」となぞっただけで消滅した。

レイの存在と長耳族の言霊
レイは長耳族が精霊王の香炉で王都を眠らせていること、彼らが言葉だけで現象を起こす「言霊」の力を使うことを説明した。レイは存在強化のイヤリングを失ってもノールには姿も声も届いており、それが初めて自分をはっきり認識してくれる相手だと喜んだ。一方、長耳族はノールの黒い剣が自分たちの言霊を無効化する事実に驚愕し、「理念物質」の性質が拡大しているのではないかと推測した。

レイの告白と「しのびあし」の決断
レイは幼少から誰にも認識されず、死ぬよりも「誰の記憶にも残らず消える」ことが怖かったと語る。隠密兵団で教わった初歩の技「しのびあし」を使えば、自分が世界から消えてしまうかもしれない恐怖から封印していたが、ノールが自分を覚えていてくれるなら痕跡は残ると考え、使用を決心する。その前提として「少しの間だけ自分を見失わずに見守ってほしい」とノールに頼み、了承を得た。

「しのびあし」と見えない斬撃、香炉の破壊
レイが「しのびあし」を発動すると、周囲から音が消え、存在感そのものが希薄化し、自身も含めて全てが消えたかのような静寂の球体が広がった。長耳族には位置を全く把握できず、レイは限りなく薄い影となって二人に接近し、「オブスカート」で連続斬撃を浴びせる。男たちは斬られても自力で肉体と衣服を再生し続けるが、香炉だけは必死に守り続ける。最後に、男たちが耳だけでレイの位置を探ろうとした瞬間、横から割って入ったノールが「パリイ」で二人の剣を砕き、その隙にレイの白い刃が精霊王の香炉を両断した。霧は晴れ、王都は通常の月夜の景色を取り戻した。

兄の崩壊と弟の絶望的な勘違い
香炉破壊後も長耳族は自らや武器を再生しようとするが、ノールの黒い剣の破片で付いた弟の頬の小さな傷だけが「治れ」で回復しなかった。その瞬間、兄の体は「同族を害した戒律」に反応して塩の結晶のように白く変質し、弟を庇うような言葉を残して風に崩れ去った。弟は兄の崩壊を「自分たちを傷つけた短命種のせい」と受け取り、ノールのパリイが兄を壊した元凶だと逆恨みする。

残された弟の復讐宣言
弟は里の戒律と長耳族の務めを捨てると宣言し、香炉の残骸を踏み砕いてからノールとレイに憎悪の視線を向けた。理念物質の所有者であるノールの顔を「何千年経とうとも忘れない」と刻み込み、今後の生涯を二人を地獄に落とす復讐だけに捧げると誓う。最後に「お前の人生に安寧は訪れない」と言い放ち、静まり返った王都から姿を消した。

223 四国会議 1

王の覚醒と長耳族襲撃の総括
クレイス王は、王都襲撃後の状況報告を受け、自身の不在と失態を噛み締めていた。祝宴の最中、長耳族の兄弟が迷宮遺物『精霊王の香炉』を用いて王都中の生き物を眠らせ、王の目前にまで侵入していたにもかかわらず、王は酔って机に突っ伏し、何一つ対処できなかったのである。被害はライオスの店の壁や中央広場の建造物の破壊にとどまり、人的被害は奇跡的になかったが、それは【幽姫】レイの覚醒とノールの奮戦により辛うじて事態が収束した結果であった。長耳族の兄は結晶状に崩壊して死亡し、弟はノールの顔を「覚えた」と告げて去った事実も、王に重くのしかかっていた。

四カ国首脳会議の召集とノールへの負債
レイン王子は、魔導皇国ミルバ、ミスラ教国のアスティラ教皇、商業自治区新領主ランデウスに対し、王都襲撃を受けた四カ国首脳会議の招集を要請していた。いずれの盟主も即座に出席を約し、とりわけノールへの恩義を理由に協力を約束した。王は、つい先日まで想像もできなかった隣国三カ国との信頼関係が、ノールの働きによって築かれた現状を認めつつ、再び彼に大きな借りを作ったことを痛感していた。また、子供の頃に聞いた「長耳族は忘れた頃にやってくる」というお伽話が現実となったことに、苦々しい思いを深めていた。

隠密兵団の自責と長耳族との今後の対峙
謁見の間には【隠聖】カルーが姿を現し、王都中心部への侵入を許したことを「隠密兵団の失態」と認めた。王は相手が悪すぎるとして責任を問わない姿勢を示したが、カルーは【六聖】全員がいずれかの長耳族と既に接触している事実を挙げ、今回の襲撃はむしろ必然であり、今後も再来は避けられないと告げた。長耳族が数年後か数十年後、あるいは数百年後に再び現れる可能性があるという時間感覚の違いも、王の不安を増大させていた。

王妃レオーネの秘密と父としての葛藤
カルーは、この機会に「王妃に関する件」を王子と王女へ開示すべきだと提案し、長耳族と関わる以上は避けて通れぬ話題であると指摘した。だが王は、王妃レオーネの件は二度と口にしないと皆で誓ったこと、特に娘リーンが母の行き先を知れば必ず「自分も行く」と言い出すため、それだけは決して許せないと拒んだ。王はカルーに以後この件へ触れないよう求め、彼が去った後、執務室の壁に掛けられたレオーネの肖像画の前で足を止めた。リンネブルグ王女に酷似したその女性に向かい、王は「子どもたちに決してお前の後を追わせない」というかつての約束を反芻しながら、本当にそれで良いのかと自問した。絵は何も答えず、王の瞳には深い後悔と迷いだけが揺れていた。

224 四国会議 2

レインとラシードの再会と忠告としての「襲撃」
四国会議の準備に訪れたレイン王子は、商業自治区サレンツァ新領主ラシードと再会した。ラシードは就任とメリッサとの結婚を祝われつつ、リーン王女の世話をしたことを軽口交じりに語り、外交儀礼上は自分の方が上位だとしながらも、衣服に短刀を隠し持っていた。レインがそれを見抜くと、ラシードは突然短刀をレインの喉元に突きつけ、即座に長剣で受け流される。これは、要人でありながら護衛を付けず単独行動を取るレインの不用心さを指摘する実地の「忠告」であり、同時にレインの戦闘勘が鈍っていないかを確かめる意図もあったと明かされた。また、ラシードはノールから預かったリゲルとミィナを秘書と護衛として同行させており、若いが有能だからこそ機会を与えるのだと語り、価値観の違いからレインと再び噛み合わないやり取りを交わした。

各国首脳の集合と会議開始
やがて魔導皇国からミルバ皇帝と「十機集」筆頭ランデウスが到着し、ミルバは相変わらず睡眠と食事を重視する飄々とした姿勢を見せつつも、事態の重大さを理解して急ぎ駆けつけたことを述べた。ラシードはミルバやランデウスに対しても、問題の多い親族を抱えていた点で互いの苦労を軽口で共有しつつ、新体制の挨拶を行った。続いて神聖ミスラ教国からアスティラ教皇とティレンスが飛空挺で到着し、レインと軽く挨拶を交わす。全員が揃ったところで、傷だらけの顔をしたクレイス王が姿を現し、急な召集の非礼を詫びたうえで、長耳族による王都襲撃の件を共有するための四国会議を開始した。

アスティラの出自と「長耳族」との距離
会議の冒頭、クレイス王は今回の騒動が長耳族によるものであると説明し、半エルフであるアスティラが何か情報を持っていないかを確認した。しかしアスティラは、小さい頃の記憶が全くなく、気づいた時には森に一人で放り出されていたこと、長年自分と同じ見た目の者に出会ったことがなく、「長耳族」という種族名もオーケンから聞くまで知らなかったことを語る。彼女が「ハーフエルフ」と呼ばれるようになったのも、かつてオーケンに「長耳族によく似ているが少し違う」と言われたのが由来であり、本人には長耳族に関する自覚や知識はなかった。

オーケンの告白と長耳族の規格外の脅威
そこへ【魔聖】オーケンが姿を現し、かつて自らが語った「冒険譚」が脚色はあれど事実であり、自分は長耳族の本拠地「長命者の里」を訪れたことがあると認めた。彼は若き日に森で長耳族らしき三人を目撃し、その後北方の大国の図書館で古い文献を見つけて「長耳族」の詳細な記述を読んだが、自分が閲覧した直後に顔の見えない黒衣の男が現れ、本と閲覧者の存在を探り、その後その国や周辺諸国ごと跡形もなく消滅したと語る。さらに、自身が里から帰還した後、その体験を酒場で吹聴し、印刷所と協力して本にした結果、その街や印刷所もまとめて消されてしまったと告白した。
オーケンは、長耳族が迷宮遺物を山ほど保有し、『精霊王の香炉』級の遺物ですら消耗品扱いであること、サレンツァの砂漠や北の「永久氷壁」、西の「大空洞」など、世界地図の不自然な空白はかつて栄えた国々が長耳族によって消された痕跡であると推測する。そして、自分の冒険譚は彼らにとって「知られたくない情報の塊」であり、長耳族は自分たちを見聞きした人間や痕跡を徹底的に消す「触れてはならぬ災い」だと断言した。

「進む」か「去る」かの選択と四カ国の決意
オーケンは、長耳族に敵対すれば迷宮遺物の力で徹底的に「消し」に来る一方、見て見ぬふりをすれば静かに生き延びられる可能性もあると説明し、今なら「話を聞くのをやめて去る」選択もできると警告した。しかし、この提案に最初に応じたミルバは、クレイスを見捨てて自国だけ安全圏に逃れるつもりはなく、「聞く」ことを選ぶと即答した。ランデウスも、魔導皇国は既にクレイスと運命共同体であり、受けた恩義の大きさから見捨てることはできないと明言した。
アスティラとティレンスもまた、ノールやリーン王女に救われた恩と、クレイスへの危機は自国への脅威と同等もしくはそれ以上であるという認識から、「共に進む」と宣言する。ラシードも、商業自治区は既に長耳族に政治中枢を乗っ取られた過去があり、「見逃してもらえる」可能性は低い以上、クレイスと協力しノールに最大限投資することが自国の延命にも最も合理的だと述べた。各国首脳が揃って進む意志を示し、オーケンの「恐れて逃げるべきだ」という本音は次第に押し流されていく。

長命者の里の位置と「雲の上の里」という真実
皆の決意を受けて観念したオーケンは、レインが用意した大地図に指を置き、長耳族の里への「入り口」の位置を示した。それはクレイス北端の「永久氷壁」のさらに奥、かつて「精霊の森」と呼ばれた深い森の奥地であり、現在の地図には存在しない領域であった。さらに彼は、そこにあるのはあくまで里に繋がる入口だけであり、エルフたちの本当の居場所は「遥か空の彼方、雲の上」に浮かぶ里そのもので、世界のどこかを漂いながら地上を見下ろしているのだと明かした。この告白に、地図を囲んでいた四カ国の代表者たちは思わず天井を見上げ、地図の枠外に潜む「雲上の脅威」の実在を改めて意識することになった。

225 王妃の墓標

墓前の兄妹
王女リンネブルグは母レオーネの墓前で心を静めていた。そこへレイン王子が現れ、献花を添えながら彼女の様子を案じた。リンネブルグは母の記憶が薄れていく寂しさと、母を理想として生きようとする思いを語った。レインは働きづめで兄らしく接してこられなかったことを悔いていると明かし、妹への気遣いを示した。

リンネブルグの不安と罪悪感
リンネブルグは最近、人前に弱さを見せることを恐れて墓地に足を運んでいたと語る。イネスの危機を思い返すたびに胸が締め付けられ、王都襲撃が幸運に救われただけだと考えると恐怖が込み上げていた。自分だけが辛い顔を見せることへの罪悪感も重なり、気持ちはどんどん塞いでいた。

王子の決断と妹への命令
レインは四ヶ国会議の結果を伝え、長耳族討伐の連合がノールを中心に結成されると告げた。しかしリンネブルグには参加を禁じ、むしろイネスと共に逃げ延びる役目を与えた。長耳族は接触した者を痕跡ごと消し去る存在であり、イネスも“器”として狙われているため、二人の避難が最優先だと言い切った。リンネブルグは拒絶したが、レインは家族を失いたくない私情も吐露し、最後には命令として討伐への関与を禁じて立ち去った。

母への涙と弱さの告白
雨が降り始めた墓前で、リンネブルグはひとり残された。兄の言葉の正しさを認めつつも、自分が足手纏いである現実に苦しんでいた。母を失った日から少しも成長していないと自嘲し、強さへの憧れと喪失の恐怖の間で揺れ、声を震わせながら母に問いかけ続けた。泣き声は冷たい雨と共に静かに墓地へ吸い込まれていった。

【長命者の里】

議会の叱責と失敗の理由
長命者の里では議会がルードを呼び出し、理念物質の回収失敗を咎めていた。忘却の巨人の損失よりも理念物質を確保できなかった点を重視し、地上に持ち出された遺物が未だ回収できない異常事態が議場を重くしていた。エルフの長老たちは、クレイス王国周辺に想定外の勢力が存在し始めている可能性を議論し、状況の変化を警戒していた。

兄弟派遣の決定と報告の破綻
議会はルードの帰還と入れ違いに、若い兄弟メトスとレメクに精霊王の香炉を持たせ地上に派遣したと告げた。しかし議場に届いた最新の通信には、メトスが戒律違反により即死し、理念物質回収にも失敗したとの報告が記されていた。弟レメクは消息不明となり、最悪の場合は失踪者として処分対象になる恐れが示され、議場は動揺した。失踪者発生は過去にも大規模な地上浄化を招き、甚大な犠牲を伴った歴史が思い起こされていた。

議会の判断とルードへの再任務
長老たちは地上浄化を即時に進める案を保留し、代わりに慎重な手作業による対応を選択した。議長はルードに再度理念物質の回収とレメク捜索を命じ、過去の過ちを繰り返さぬよう責任ある行動を求めた。またアーティアの記憶が完全に消えていないと告げ、その処理も任務に含めた。

アーティアとの再会と別れ
ルードは実家のアーティアを訪ね、彼女が長年働けず家で趣味に没頭して暮らしていることを知った。アーティアは最近「娘がいる夢」を見ると言い、幸せな家庭像を語ったが、ルードは妄想だと切り捨てた。議会から聞いた兄弟の死と失踪の事実を伝えると、アーティアは悲しみつつもルードの出立を受け入れた。ルードは彼女の記憶の件に触れかけたが何も言わず、別れを告げて家を出た。

ザドゥとの合流と任務開始
里を出たルードは隠密の男ザドゥと再合流し、理念物質を持つ男の始末と諸任務へ向けて行動を開始した。

故郷の湖畔で

兄弟の釣りと語らい
満天の星空の下、エルフの兄メトスと弟レメクは故郷の湖畔で釣った魚を調理していた。レメクは下拵えの面倒を嘆きつつも手際よく作業し、火を起こしたメトスの隣で焼き上がる魚を眺めていた。メトスは自然の摂理と生物の役割を語り、レメクは野生動物の弱さと人類への嫌悪をあらわにしていた。

人類と長耳族の起源に関する会話
二人は人類が短命で愚かに見える理由を論じ合い、レメクは彼らが過去の戦禍を忘れて同じ過ちを繰り返すと断じた。メトスは古代人類が高度な文明を築き、多くの知識と機械を用いて発展していた記録を語り、それを滅ぼした異世界勢力の存在にも触れた。レメクは神々を自称する異世界の存在を嫌悪し、長耳族が造られた経緯を改めて理解しようとしていた。

初任務を前にした兄弟の心境
翌日はレメクの初仕事の日であった。レメクは自信を示しつつも、メトスは慢心を戒めた。二人は千年連れ添った絆を確認し、互いがいれば何事も成し遂げられると語り合った。やがて火は消え、湖畔を星明かりだけが照らす中、メトスは就寝を促し、兄弟は翌日の任務に備えて静かに眠りについた。

【幽姫】レイの読書日和

書店での買い物と噂
レイは休日になると必ず訪れる古い書店で本を選んでいた。店主と客の間では、本を複数買い代金だけを置いて姿を見せない「本好きの幽霊」が噂になっており、レイはそれが自分であると気づきつつ心の中で謝罪し、そっと代金を置いて店を後にした。

喫茶店での静かな読書時間
レイは人の少ない喫茶店のテラス席に向かい、席料を置いて静かに読書を始めた。風通しの良い特等席は彼女の定位置であり、セルフサービスのコーヒーを片手に買ったばかりの本を丁寧に読み進めていく。読書はレイにとって唯一の安らぎであり、文字との対話を楽しむ大切な時間だった。

人付き合いの不器用さと読書への傾倒
恩寵の影響で姿が認識されにくいレイには話し相手が少なく、友人との時間を過ごすことも難しかった。メリジェーヌやマリーベールのように気にかけてくれる人は増えたものの、自分から誘うことはできず、休日はほぼ読書に費やしていた。彼女の隠れ家の書棚は恋愛小説で溢れ、私設図書館のような様相を呈していた。

買い物の失敗と選ばれた居場所
かつて宝飾店で商品を購入した際、支払い方法が原因で怪盗と誤解され、店側に大騒ぎを引き起こした経験から、レイは気軽に外で買い物ができなくなった。唯一、自然に受け入れてくれるのがこの小さな書店と喫茶店であり、レイはその居心地の良さに救われていた。

満ち足りた読書の一日
お気に入りの作家の作品を読み終えたレイは幸福に浸りつつ、次々と本を読み進めた。夕暮れ時、喫茶店の店主は消えた菓子と空になったコーヒーポットに首を傾げつつも、代わりに置かれた多めのチップに満足して閉店準備を始めた。レイは感謝を告げると、抱えた本を手に静かな隠れ家へ戻り、幸せな一日の余韻を大切にしながら去っていった。

同シリーズ

俺は全てを【パリイ】する

rectangle_large_type_2_faa579d2d65727a4cae9abc0d4b5a911 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ
俺は全てを【パリイ】する
rectangle_large_type_2_d9c6a53521b53432eaa660084e65b52c 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ
俺は全てを【パリイ】する ~逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい~ 2巻
rectangle_large_type_2_9744825a8a55d516651c083643581e0a 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ
俺は全てを【パリイ】する ~逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい~ 3巻
6ec0f5f384767478730fde8dc6ee4679 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ
俺は全てを【パリイ】する ~逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい~ 4巻
c2d2683d9b4550acadeca68e0b05f81a 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ
俺は全てを【パリイ】する ~逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい~ 5巻
fe1e35fcb4b09db49ea328443612bda7 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ
俺は全てを【パリイ】する ~逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい~ 6巻
90c3b04da94629d0c33668e465057312 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ
俺は全てを【パリイ】する ~逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい~ 7巻
a6d0d1404203b1e36f75b81be1ca5f77 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ
俺は全てを【パリイ】する ~逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい~ 8
98de9492da681d61e10a8032634fce0c 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ
俺は全てを【パリイ】する ~逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい~ 9巻
2697eafcd918ea04001479659d0be80e 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ
俺は全てを【パリイ】する ~逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい~ 10巻
37756cbed6639f1adace70ffae13ac15 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ
俺は全てを【パリイ】する ~逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい~ 11巻

その他フィクション

e9ca32232aa7c4eb96b8bd1ff309e79e 小説【パリイする】「俺は全てを【パリイ】する 11」感想・ネタバレ
フィクション(novel)あいうえお順