物語の概要
本作は異世界転生×政治×戦記のライトノベルである。お飾り社長としての人生に嫌気が差した男が自ら命を絶つも、異世界で若き王――グロワス13世 として転生する。彼が受け継いだ王国は巨額の赤字財政と列強の干渉、革命の気配に悩まされており、己より有能な重臣や妃候補の令嬢たちに囲まれながらも、無力な異世界人としての限界と戦い続けねばならない。左様、彼は“暗愚な君主”として生き延びるしかないのだが、玉座に在るという役割を全うしようとする。国家の命運を賭けた政治・外交・内政の綱渡りが、本作の主軸となっている。
主要キャラクター
グロワス13世(主人公) : かつてお飾り社長だった現代男が異世界の王として転生した人物である。政治・軍事・外交を総合的に処理する必要に迫られ、しばしば“暗君(暗愚な君主)”として自己を評するが、玉座と王国を守ろうと奮闘する。
物語の特徴
本作の魅力は、“暗君”という否定的なレッテルを逆手に取りながらも、苛烈な政治状況を戦い抜く王の姿を描く点にある 。異世界転生ものにありがちなチート能力や戦闘無双ではなく、赤字財政、列強の圧力、国内革命の気配といった現実的な政治課題がまともに立ちはだかる。主人公は特殊技能を持たない凡人でありながら、王としての判断と責務を全うするために苦悩し、策略と妥協を積み重ねていく。
書籍情報
汝、暗君を愛せよ 著者:本条謙太郎 氏 イラスト:toi8 氏 出版社:ドリコム (DREノベルス) 発売日:2025年8月6日 ISBN:978-4-434-36211-8
本条謙太郎/toi8 ドリコム 2025年08月06日頃
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あらすじ・内容
ぼくは王として生きる。この豪華な地獄に。 お飾り社長としての人生に嫌気がさして自ら命を絶った「ぼく」は、異世界の若き王の中へと転生する。しかし彼の王国は巨額の赤字財政と列強の干渉に悩まされ、国内には革命の気配すら漂い始めていた。 政治的影響力を無視できない妃候補の令嬢たちと、自分よりも明らかに有能な重臣たちに取り巻かれ、無力な異世界人たる彼にできることはあまりに少ない。だが、何とか“上手くやらなければ”生き残れない。 「ぼくの名は、暗愚な君主の1人として残るだろう。永遠に」 それでもなお、彼は玉座に在り続ける。かつて“投げ捨てた”役割を今度こそ全うするために。
汝、暗君を愛せよ
感想
本書は、転生者でありながら「弱さを引き受ける覚悟」を真正面から描いた、かなり苦くて誠実な一冊であった。 読後に残るのは爽快感ではなく、「確かにこれは豪華な地獄だ」という納得であった。
この作品の面白いところは前世の記憶を取り戻した後の変化が、能力や知識ではなく「態度」に表れている点であった。 特に印象的なのが、食事の場面だ。食べ方が変わり、零したことを周囲に謝っただけで驚愕される。 その反応から逆算される「以前の暗君っぷり」が、説明なしでもはっきり伝わってくる。 このささやかな変化が、主人公が本当に別人になったことを雄弁に語っていた。
主人公が転生した世界の情勢はツミな状態だった。 巨額の赤字財政、納税しない半独立状態の諸侯、周辺の列強の干渉、市民革命の気配。 どれか一つでも重いのに、それが全部そろっていた。 確かにここは宮殿の王座であり、同時に逃げ場のない豪華な地獄であった。 前世で三代目の造園会社の社長として役割に押し潰され、自ら命を絶った主人公が、再び「投げ捨てた役割」を拾い直さなければならない皮肉は、かなりきつかった。 逃げた現実以上に豪華だが危険な来世。 本当に地獄だわ。
主人公グロワスは終始、自分を暗君だと認識し、上手くやり過ごすために必死でもがいていた。 簡単な道や派手な理想論を選ばず、前世を反面教師にしながら、一つ一つ自分で向き合う。 その姿勢が、突然の方針転換を訝しんでいた妃候補の令嬢や有能な重臣たちの態度を、少しずつ変えていく過程が丁寧に描かれていた。
人間関係の描写も本作の大きな魅力である。言葉が足りず、誤解を生み、思惑がすれ違う場面は何度もある。それでもグロワスは、人を道具として扱わず、相手を「個人」として認識しようとする。その姿勢は特に女性陣との関係性に強く表れており、情にも精神的にも弱いことを自覚したうえで、それでも背負おうとする姿は、愛と呼んで差し支えないものに感じられた。
主人公の情けなさが、ここまで好意的に映る作品も珍しい。強くない。賢くもない。だが、自分の弱さを理解し、それを誤魔化さない潔さがある。一度すべてを諦めてしまったからこそ、異世界で「暗君として生きる」ことを選んだ覚悟が、行動の端々から伝わってくる。
大きな決断を下したグロワスの先に、世界がどう動いていくのかはまだ分からない。だからこそ続きが気になるし、正直に言えば幕間をもっと読みたいとも思った。 総じて本作は、英雄譚でも成り上がりでもなく、「逃げなかった人間の再挑戦」を描いた物語である。華やかさの裏にある重さを、じっくり噛みしめたい読者にこそ勧めたい一冊であった。
最後までお読み頂きありがとうございます。
本条謙太郎/toi8 ドリコム 2025年08月06日頃
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登場キャラクター
グロワス十三世(イレン)
サンテネリ王国の国王である。前世の記憶をもつため、宮廷の作法と政治の力学を冷めた目で見ている。家宰や令嬢たちと距離を取りつつ、裁可役として国家の転換を受け入れていく立場である。 ・所属組織、地位や役職 サンテネリ王国、国王。正教の守護者として扱われる立場である。 ・物語内での具体的な行動や成果 御前会議で外交方針の転換と帝国との和解を裁可した。 近衛軍の縮小と国軍統合の方針を承認した。 暗殺未遂ののち、事件を「事故」として収める方針を命じた。 官製メディアの必要を意識し、自分が文章を書く決断をした。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 病後に言動が変わり、臣下が「意図を読めない王」として警戒する状態になった。 帝国第一王女を正妃に迎える婚姻を進め、国体の象徴としての重みが増した。
ブラウネ・エン・フロイスブル
フロイスブル侯爵家の長女である。理性と規律を重んじ、王を観察して判断する立場である。父マルセルの意向を受け、王の近くへ出仕する。 ・所属組織、地位や役職 フロイスブル侯爵家、令嬢。のちに光の宮殿で王の世話にあたる役目を負う。 ・物語内での具体的な行動や成果 茶会で王の変化を目撃し、動揺しつつ対応した。 襲撃事件後、黒衣で出仕し「侍る」と宣言した。 王が追い詰められた場で「あなた」と呼び、王を個人として扱った。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 王の命令により、宮殿での常駐に近い立場へ移った。 王の言い訳を許さない姿勢を示し、王の行動を縛る圧力になった。
マルセル・エネ・エン・フロイスブル
フロイスブル侯爵であり家宰である。王権の中枢として国政を回してきた人物である。王の回復後は再び実務の中心に戻る。 ・所属組織、地位や役職 サンテネリ王国、家宰。フロイスブル侯爵家当主である。 ・物語内での具体的な行動や成果 王の更迭や復帰を「運命」として受け止めた。 襲撃事件後、王の怒りを引き出すために挑発したと語った。 娘ブラウネの出仕を既成事実化し、王の撤回を封じた。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 王の下命で、家宰としての責任と家族の安全を同時に背負う状態になった。
フェリシア
マルセルの側妻である。侍女から側妻になった来歴をもち、宮廷の含意を読む。正妃付き女官長として火種消しを担う。 ・所属組織、地位や役職 フロイスブル家、側妻。のちに正妃付き女官長となる。 ・物語内での具体的な行動や成果 王の「世話」の言葉を最悪に取る夫を止め、侍女としての出仕へ解釈を転じた。 小宴で正妃の言葉を言い換え、場の凍結を回避した。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 王の判断で正妃側の実務責任者に据えられ、後宮の調整力が増した。
ゾフィ・エン・ガイユール
ガイユール公爵家の令嬢である。明るく物怖じしない性格である。王を「お兄さん」として見てきた過去があり、病後の王の変化で感情が揺れる。 ・所属組織、地位や役職 ガイユール公爵家、令嬢。王の後見下にある存在として扱われる。 ・物語内での具体的な行動や成果 夜会で王に接近し、首飾りの話題で距離を詰めた。 時計の場に同席し、月齢表示の時計に歓声を上げた。 シュトロワに残り、見聞を広めて王へ報告する意欲を示した。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 父の要請により、王の庇護下にあることが政治的に周知される方向へ動いた。
ザヴィエ(ガイユール大公)
ガイユール家の現当主である。王を危険な存在と見なし、手綱で制御する発想をもつ。娘ゾフィの養育を政治の道具として設計した。 ・所属組織、地位や役職 ガイユール公爵家、当主。外様諸侯の筆頭格である。 ・物語内での具体的な行動や成果 ゾフィを深窓にせず、多様な人と接する方針で育てた。 娘の変化を読み違え、再度王と話す必要を思案した。 王に「後見」を求め、政治取引の材料として使った。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 国内関税撤廃の合意など、税制改革の入口で王と結ぶ立場になった。
メアリ・エン・バロワ
バロワ家の令嬢である。近衛軍の誇りを背負い、軍務への志が強い。王の病後の態度で、自分が「記号」ではなく「高官」として扱われたと感じる。 ・所属組織、地位や役職 バロワ伯爵家、令嬢。近衛軍の系譜に連なる立場である。 ・物語内での具体的な行動や成果 夜会や時計の場で警戒を続け、職人の手元も監視した。 襲撃時に止血し、のちに布をほどいて王の呼吸を戻した。 近衛軍縮小に反発し、父の問いで考えを改めていった。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 襲撃事件の責任感から自死を図ったとされ、周囲が監視する状態になった。 王のもとで「王様係」に近い部署へ置かれ、宮殿内での存在感が増した。
内務卿クレメンス・エネ・エン・プルヴィユ
内務を担う高官である。治安と行政を所管し、秘密警察も扱う。世論と反発の芽を「芯」として警戒する。 ・所属組織、地位や役職 サンテネリ王国、内務卿。治安と地方行政の責任者である。 ・物語内での具体的な行動や成果 反発はあるが組織的動きはないと王に報告した。 介入の可能性も含め、数日内に状況整理を申し出た。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 王の命で背後関係の調査を担う立場となり、政治の要になった。
財務監モンブリエ
財務を統括する高官である。婚姻費用が出せない現実を会議で告げ、政権の弱点を露呈させた。 ・所属組織、地位や役職 サンテネリ王国、財務監。国庫と支出の管理者である。 ・物語内での具体的な行動や成果 婚姻の費用がないと報告し、会議を葬式の空気にした。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 財政危機の「口火」を切る役となり、政策設計の前提を決めた。
海軍卿
海軍の統括者である。海外拡張と海軍再建を強硬に主張し、王と衝突した。 ・所属組織、地位や役職 サンテネリ王国、海軍卿。海軍の最高責任者である。 ・物語内での具体的な行動や成果 拡張路線の放棄に反発し、停滞は死だと迫った。 陸軍卿への登用案を示され、熟考の時間を求めた。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 陸海統合の長期設計で、職位を保ったまま陸軍を見せる案の対象となった。
近衛軍監
近衛軍を統括する高官である。襲撃事件の場に居合わせ、王の方針に従う立場となる。 ・所属組織、地位や役職 サンテネリ王国、近衛軍監。近衛軍の監督者である。 ・物語内での具体的な行動や成果 襲撃後の執務室会議に参加し、事故処理の方針を共有した。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 失態の責任が連鎖し得る立場として、王の怒りの対象に含まれた。
デルロワズ公ジャン
国軍の実権を握る公爵である。統合軍の将来像を王から提示され、剣の持ち主として期待される。 ・所属組織、地位や役職 デルロワズ公爵家、当主。国軍の中枢を担う。 ・物語内での具体的な行動や成果 王と会食し、近衛統合の条件を聞き取った。 王から統合軍全体を託す青写真を示され、反逆の危険も含めて問答した。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 陸軍卿就任の先延ばしに苛立ちを抱えつつ、国家の剣として位置づけられた。
ピエル・エネ・エン・アキアヌ(アキアヌ大公)
王族の親戚筋にあたる大公である。貧民救済を掲げつつ、再開発の実利も語る。王に旧市街を見よと迫る。 ・所属組織、地位や役職 アキアヌ大公家、当主。反王家勢力の核として扱われる。 ・物語内での具体的な行動や成果 貴族の使命を説き、王に旧市街の視察を求めた。 立ち退きを私兵で行ったと語り、現実の暴力を示した。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 自前の新聞を持つとされ、世論形成で王家に先行している存在となった。
母后マリエンヌ
王の母である。息子の身体を案じる母として接し、王の罪悪感を刺激する。信徒として喜捨にも心を痛める。 ・所属組織、地位や役職 サンテネリ王国、母后。王家の一員である。 ・物語内での具体的な行動や成果 王の怪我の回復を喜び、祈りを捧げた。 傷病兵の負担に胸を痛め、財政難も理解した。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 正妃来訪を控えた宮中で、側妃文化への距離感が火種になり得る立場である。
大僧卿
正教側の高位聖職者である。喜捨を求め、戦争の傷病兵問題を示す存在である。 ・所属組織、地位や役職 正教、大僧卿。宗教権力の代表である。 ・物語内での具体的な行動や成果 喜捨の要望を出し、傷病兵の収容負担を背景に示した。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 信仰と政治の両面で、王家に圧力をかけ得る位置にいる。
アナリース(正妃アナリゼ・エン・ルロワ)
帝国エストビルグ家の第一王女である。婚姻により改名して正妃となる。接触文化の違いで硬直し、宮廷では誤解の火種になる。 ・所属組織、地位や役職 エストビルグ家、第一王女。のちにサンテネリ王国の正妃である。 ・物語内での具体的な行動や成果 儀礼の接触に強く身をこわばらせた。 小宴で帝国作法の言い方をし、場を冷やしかけた。 女官長の言い換えを受け、即座に修正した。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 婚姻そのものが国体維持の中核となり、国内政治の軸として扱われる。
ゲルギュ五世
エストビルグ国王である。皇女の肖像画を贈り、和解の象徴を演出した。 ・所属組織、地位や役職 エストビルグ家、国王。 ・物語内での具体的な行動や成果 皇女アナリースの肖像画を贈り物として送った。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 婚姻と和解の象徴を供給する側として、外交の重みを持つ。
アブラム・ブラーグ
王家御用達の時計師である。王の呼び出しを受けて宮殿へ来る。帝国由来の部品が地雷になりかける。 ・所属組織、地位や役職 時計職人。王家御用達の立場である。 ・物語内での具体的な行動や成果 見本の懐中時計を五つ提示し、王と令嬢たちの注文に応じた。 部品の出自を口ごもり、王の姿勢で恐怖が和らいだ。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 王の周囲に大貴族が並ぶ現場を見て、客層の重さを突きつけられた。
グロワス十二世
先代王である。戦争を数字として処理する姿勢が語られる。 ・所属組織、地位や役職 サンテネリ王国、先代国王。 ・物語内での具体的な行動や成果 戦争を抽象化して遂行した存在として、母后との対比で語られた。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 過去の政治姿勢が、現王の自己理解の材料になっている。
襲撃した女性(氏名不明)
王を短剣で刺そうとした人物である。単独犯とされ、戦争と未払いで全てを失った経緯が示される。 ・所属組織、地位や役職 所属は不明である。 ・物語内での具体的な行動や成果 庭園で王へ接近し、短剣で刺そうとした。 取調中の「事故」で死亡したと報告された。 ・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項 王の「神聖不可侵」の建前を現実として破り、宮廷の恐怖を引き出した。
展開まとめ
【第一話】王のルーティン
異世界での覚醒と日常の始まり サンテネリ王国の王として目覚めてから約二か月が経過していた。毎朝決まった時刻に起床し、侍従に見守られながら身だしなみを整え、形式と作法に縛られた王としての一日が始まっていた。宮殿での生活は過剰なほど厳格であり、些細な行動にも意味と評価が付随していた。
朝食と宮廷社会の空気 朝食に向かう廊下では、多くの貴族が列を成し、挨拶と請願を浴びせてきた。小食堂と呼ばれる部屋での食事は形式的で、会話もなく、王として孤立した立場を象徴していた。食事の完食は義務であり、拒否は許されなかった。
御前会議と国家の現実 午前中から御前会議が開かれ、外交・内政・財務など日替わりの議題が議論された。特に財務の日は厳しく、王国は深刻な赤字と膨大な債務を抱えており、その責任は王自身に帰属していた。現代日本での経験はほとんど役に立たず、状況を理解し聞き続けることしかできなかった。
茶会と人間関係の調整 午後の休憩時間は実質的な業務の延長であり、フロイスブル侯爵令嬢ブラウネとの茶会が行われた。彼女の献身的だが距離を保った態度に対し、王は慎重に感謝と評価を示し、誤解や軋轢を生まないよう言葉を選んで応対した。宮廷では些細な振る舞いが派閥や評価に直結していた。
個別会談と政治の力学 夕刻には貴族や平民代表との個別会談が続き、税負担と権利を巡る対立が表面化した。貴族と平民の双方が正当性を主張し、その調整役として王の判断が求められていたが、実際には既定路線を承認する役割に近かった。
夜の会食と次代への視線 夜にはガイユール公爵家を招いた会食が行われ、その後、公爵令嬢ゾフィと面会した。まだ若い彼女の率直さと活力は、王にとって癒やしであると同時に、宮廷内の派閥関係を意識させる存在でもあった。
判子係としての覚悟 王は自らを改革者ではなく、優秀な臣下に委ねる判子係と位置づけていた。完成された組織を無理に変えれば破滅を招くと理解し、虚無感に耐えながら傍観を選ぶ覚悟を固めていた。前世での後悔を胸に、今回はできる限り害を及ぼさない生き方を選び、静かに眠りについた。
【第二話】暗君とブラウネ
ブラウネの出自と教育 ブラウネ・エン・フロイスブルはフロイスブル侯爵家の長女として生まれ、宰相家宰マルセルを父に持つ立場で育った。長女が代々「ブラウネ」を継ぐ家風のもと、思慮と厳密さ、果断を重んじる価値観を叩き込まれていた。
新王への不信と政策への断絶 ブラウネは即位したグロワス十三世を好まなかった。正教教義の徹底と海外領土拡張という相反する政策を熱狂的に掲げ、魔力を根拠に階層秩序を固定しようとする姿勢は時代錯誤に映った。破綻寸前の財政と艦隊・陸軍の弱体化を知る彼女には、亡国に向かう確信すらあった。
宰相失脚と召喚の衝撃 新王治下で父は面罵され出仕停止となり、ブラウネは婚姻候補から外れたことに安堵していた。しかし王が病から回復すると王家の使者が父を召喚し、家中は亡命すら視野に騒然となった。父は忠節を選び、娘に薬の瓶を託して出立し、夕刻に無事帰還した。
父の告げた評価と再出仕 帰還した父は陛下は名君となられると震える声で告げ、次の茶会にブラウネの出仕を望むと伝えた。父は自分の目も耳も信用ならないとして、彼女に見聞のすべてを報告するよう求めた。
茶会で露わになった王の変化 久々に対面した王は甘味を好む点など外見上は変わらなかったが、菓子を丁寧に食べ、零した滓に対して零してしまったと呟き、従僕にも謝意を示した。さらに肩肘張らぬ世間話を促し、自身の懐中時計の意匠を誇らしいと語って彼女に渡した。かつてなら排外的に断じたであろう背景を持つ時計職人の品を称える言葉は、ブラウネの認識を揺さぶった。
困惑と動揺の確信 ブラウネは突飛な問いに即答できず、次回までの課題とする形で応じた。王は謝罪し彼女の寛容さを褒め、失敗を許してくれると述べた。ブラウネは王が変になられたと感じ、目を見開いたまま小さく頷き返すしかなかった。
【第三話】王の謝罪
謝罪が日課となった立場 グロワス十三世は、王という立場になっても謝罪から逃げられない現実を自覚していた。社長時代も含め、揉め事の鎮静や説得のために頭を下げる場面は多く、謝罪は相手次第で効き目が変わる諸刃の剣だと理解していた。そこでグロワス十三世は、本気で謝る場合と形だけ謝る場合の二基準を作り、効果よりも自分の誠実さを守るために使い分ける姿勢を固めていた。
過去の所業を引き受ける矛盾 グロワス十三世が謝っているのは、現状の混乱を招いた過去の王の行動であった。ただし本人の感覚では、それは二か月以上前にこの身体の主がやったことであり、自責と他責が同居する不条理な謝罪になっていた。特に家宰フロイスブル侯爵を更迭した件では一の態度で謝罪し、侯爵の警戒が残りつつも一定の信頼を得たと感じていた。
海軍卿との対立と現実の提示 この日の相手は海軍卿であり、過去に語られた海軍再建と海外領拡張の大望が反故にされたことへの憤りをぶつけられた。グロワス十三世は、大望自体を否定せず国が先細る危機感は共有しつつも、財政と実利の観点から新大陸領の損切りと海軍再建の困難を示した。海軍卿は停滞は死だとして決断を迫り、アングランの脅威を引き合いに強硬に主張した。
面子が効かない相手への切り替え グロワス十三世は、家宰や財務監に現実を教えられたと突き返し、語気を強めて応じたが、海軍卿は動じなかった。頭を下げる価値も通じにくい相手だと判断したグロワス十三世は、論争の決着ではなく局面転換を選び、陸軍卿逝去による空席という現実を話題に移した。
栄転に見せかけた封じ込め人事 グロワス十三世は海軍卿の忠誠と手腕を評価すると述べ、陸軍卿への登用を提案した。陸軍卿は海軍卿より格上の地位であり、名誉としては破格である一方、家職化した陸軍に外様を落下傘で入れる危険も孕んでいた。提案を受ければ現実への妥協を引き出せ、拒めば理想主義者として対話が無意味になるという見立てのもと、グロワス十三世は人事で事態を収めようとした。
脚本化された謝罪と暗君の自覚 海軍卿は熟考の時間を求め、グロワス十三世は浅慮で心労を与えたとして頭を下げ、海軍卿も王国のために考えると応じて退出した。だが一連の筋書きは事前に家宰と組んだものであり、主導したのは家宰であった。グロワス十三世は自分が何もしていない事実を認め、暗君としてそれを受け入れていた。
【第四話】王の夜会
「ちょっとしたパーティー」という嘘 グロワス十三世は、現代で見たハイブランドの「用途が謎なスーツ」を思い出しつつ、この世界でも「ちょっとしたパーティー」という言葉が信用ならないと痛感していた。シュトロワ新市街の宮殿パール・ルミエや、ガイユール家の巨大な別邸など、規模感が人間の感覚を平然と裏切ってくる中で、今夜の夜会も参加者五百人規模でありながら「小規模扱い」されていた。
ガイユール大公の誘導と三人の令嬢 若者たちの騒がしい輪から逃げたがっていたグロワス十三世は、主催者ガイユール大公に連れられ、令嬢たちの集まる一角へ向かった。そこにはフロイスブル侯爵令嬢ブラウネ、ガイユール公爵令嬢ゾフィ、そしてバロワ伯爵令嬢メアリが揃っていた。三者はそれぞれ、国政の大黒柱たる譜代筆頭、外様諸侯の筆頭、そして近衛軍を握る王家直属の暴力装置という立場を背負う家の代表であり、配置として美しすぎるほど政治的であった。
近衛軍とバロワ家の重み 語り手はサンテネリに「国軍」と「近衛軍」という二重の軍があることを整理し、近衛軍が王家の私兵として王命にのみ従う危険な装置であると認識していた。その近衛軍を家職として率いるバロワ家の令嬢メアリは、マッチョイズムが強い社会で例外的に軍務の中枢に関わる存在であり、容姿も雰囲気も「仕事ができる」方向に振り切れた圧を帯びていた。
社交の地雷原と首飾り事件 グロワス十三世は、現代の感覚でセクハラや権力勾配を恐れ、会話や距離感に過剰なまでに神経を使っていた。しかし夜会の空気は意外に緩く、ゾフィが首飾りを見せる流れで、彼の手を包み込むという接触まで起きた。語り手は内心で「逮捕」と騒ぎつつも、メアリもブラウネも表面上は微笑でやり過ごし、ここが単なる恋愛イベントではなく「観察と評価の場」であることが一層はっきりした。
和気藹々の裏にある集団戦 令嬢たちは仲良く談笑していたが、語り手はそれを額面通りに受け取らなかった。敵意は露骨に出さず、味方を増やして集団戦で勝つのが現実であり、そのための手段は結局「相手が利益と感じるものを与えること」だと割り切っていた。そして制度上もっとも“得な味方”にされる存在は王である以上、グロワス十三世自身が絶えず欲望と弱点を探られていると理解していた。
置物になりたい王の自己矛盾 グロワス十三世は、探り合いと仲間作りから逃れる唯一の道として「置物」になることを夢想した。ただし完全な無能の置物は排除されるため、責任を押し付けられるサンドバッグとしての“微かな価値”が必要だという、救いのない結論に行き着いた。酒が好きなのは、対価や後腐れを伴う「色」と違って、罪悪感なしに一時的な逃避をくれるからだと整理していた。
翌日の最悪の予告 夜会の余韻と自己分析の末、グロワス十三世は定例会議へ向かったが、そこで「帝国」から正妃候補が来るという話が現実味を帯びて降ってきた。彼はそれを祝福ではなく、戦争とセットで持ち込まれる政治的爆弾として受け止め、元気な肝臓とは裏腹に胃痛を覚えていた。
【第五話】暗君とゾフィ
公爵号とガイユール家の「国家内国家」 中央大陸の公爵家は「かつて王家級の独立勢力」か「王家の近親」であることが条件であり、ガイユール家は両方を満たす最大級の名門であった。諸民族のうねり後期に成立したガイユール公領を起源に、ルロワ家との戦争と婚姻政策で独立性を削がれつつも、言語文化の差異を残す独立色の強い地域として生き延びた。宮廷官職を持たないのも「家臣化」を避けるためであり、その距離が交易と金融で蓄えた富と自由を守っていた。
ザヴィエの危機感と「手綱」の発想 現当主ザヴィエは、新王グロワス十三世を王太子時代から観察し、若さ・野心・宗教的熱狂が揃うことを最悪の組み合わせと見なしていた。野心は領土拡張に向かい、宗教熱は妥協を拒む。常識不足のまま賭博的政策に突っ込めば、矛先がガイユールに向く危険すらあるため、彼は王を「手綱で制御すべき対象」として捉えていた。
ゾフィの養育方針と父への敬慕 ザヴィエはゾフィを深窓の令嬢にせず、身分を問わず多様な人々と接させ、将来は夫を「操縦できる聡明さ」を持たせようとした。その結果、ゾフィは天真爛漫で物怖じしない性格を得ると同時に、世界を見せ守ってくれる父を強く敬慕するようになった。成長の過程で幼い執着は消えたが、「父のような包容力を持つ男性」への嗜好だけが残った。
王太子グロワスとの四年間と、見えてきた未来 ゾフィは十歳で王太子グロワスと出会い、年に数回だけ会える「お兄さん」として好意的に接してきた。だが十四歳になる頃には、結婚が政治であることを理解し、「自分が王妃になるかもしれない」という未来が現実味を帯びる一方、王子の虚勢や観念的な言動に物足りなさも感じ始めていた。それでも受け入れた上で、どう立ち回るかを考える段階に入っていた。
病後の王の変化と、茶会での決定的な体験 王が病から回復した後、ゾフィは見舞い名目でシュトロワへ向かい、夜会の一週間ほど前に茶会へ招かれた。そこで王は、彼女が自分で選んだ「鳥の首飾り」を見たいと言い、家宝ではなく「個人の宝物」に価値があると説いたうえで、装飾のない金の懐中時計を示して自分の好みを堂々と開示した。征服や偉大な王の話に戻らず、ゾフィの話を聞き、相槌し、茶を勧め、笑い、彼女の言動そのものを楽しんだ。
ゾフィの高揚と不安、そして父に見せない沈黙 ゾフィは「ガイユールの姫」ではなく「ゾフィという一人の娘」を見られた感触に新鮮な喜びを覚え、話が止まらないほど心を開いた。だが帰りの馬車で、王が以前と別人のように大人びていることに気づき、今度は自分の振る舞いが子どもっぽかったのではないかと耳が熱くなる不安も抱えた。帰ったら母に「殿方と話す秘訣」を聞こうと考える時点で、感情の質が政治から恋情寄りにズレ始めていた。
ザヴィエの読み違いと、公妃の苦笑 ザヴィエは娘の変化を長年観察し、「心が通じ合うのは難しくとも上手く折り合うだろう」と踏んでいたが、今回のゾフィは父にほとんど語らず、心ここにあらずの短答に終始した。ザヴィエは「拗れた」「勘気を被ったかもしれない」と危機を疑い、再度王と話す必要を思案する。だが公妃は、ゾフィが自分には大量に報告したと明かし、父親には話しにくいことがあると笑う。ザヴィエはそこで、自分が娘の感情の領域に踏み込めていない現実を突きつけられた。
【第六話】王としんどい会議
会議という儀式と、不安の確認行動 語り手は会議嫌いが多数派である現実を踏まえ、会議の本質が「議論」ではなく「事前に詰めた結論の発表と確認」にあると捉えた。上の人間が不安ゆえに部下の顔を見て安心したがる構図を、携帯をポケットで確かめる癖になぞらえた。国も会社も神経で繋がった身体ではなく、失くすのが怖い“携帯”に近い存在であり、語り手は会議中ずっと懐中時計に触れて心を落ち着けていた。
御前会議の構図と、王がやることの少なさ 執務の間には家宰フロイスブル侯爵を筆頭に、財務監・外務卿・陸軍副卿・海軍卿・近衛軍監・内務卿らが勢揃いし、国の中枢が集結した。語り手は、かつてなら表情を読んで腹の探り合いをしていたはずだが、今は忠誠も信頼も求めず「国が回ればそれでいい」と割り切っていた。会議の三時間はほぼ儀式であり、王の役目は最後に「王の命令として裁可する」一言を言うことだけであった。
国是の転換の決定 裁可の結果、サンテネリ王国は長年の外交方針を転換し、帝国との和解と共闘、さらに王の結婚を決めた。仇敵である帝国は諸王国の連合体で、形式上は選出制だが実態はエストビルグ家の世襲であり、サンテネリは百年単位で帝国内の継承争いに口を出して揺さぶってきた。今回の転換は、帝国側の多数の王国の一つであるプロザン王国の動きが発端となった。
メアリとの茶会と、王の「無力の自覚」 会議後、語り手は近衛軍のバロワ伯爵令嬢メアリを招いて茶会を開き、決定の是非を問われる。メアリは「常道はエストビルグと結んでプロザンを囲むが課題が多い」と婉曲に疑義を示し、語り手は自分が押し切られたわけではなく納得していること、そして「無力の自覚を持てる者は少しだけましになる」と踏み込んで返した。背景には、王が豹変すれば立案者が近衛軍に処刑されかねないという恐怖があり、語り手は彼らがそれを抱えたまま案を進めたこと自体を凄いと評価した。
近衛軍縮小の痛みと、メアリの忠誠の噴出 和約は国軍縮小に繋がり、さらに近衛軍も十年単位で国軍へ統合して実質解体していく方針となった。メアリはバロワ家の誇りとして近衛を守ってきた歴史を語り、寂しさを滲ませたが、続けて王の決断を「民に身を委ねる勇敢さ」として称え、正教の守護者としての王に誇りを表明した。語り手はその賛辞を“褒め言葉の形をした責任の念押し”として受け取りつつ、王だけが無傷で妻まで得ることへの後ろめたさを冗談で紛らわせた。
話題転換と、メアリの意外な素顔 語り手は夜会で聞いた噂を切り出し、メアリの趣味が手芸で、黒い子犬のぬいぐるみを作っていると知る。バロワ家の紋章が黒犬であり、始祖マリー女公が黒犬を好んだ逸話にも触れ、歴史トリビアで距離を詰めた。語り手は本気で作品を見たがったが、踏み込み過ぎたと自制し、懐中時計で時間を確かめて茶会を締めた。
和約と婚約の確定、そして「出費が嫌」 サンテネリは帝国と中央大陸史上初の全面和約を結び、グロワス十三世は帝国エストビルグ家長女アナリースと婚約した。婚礼は彼女が十八歳になる二年後であり、その間にできることは少ないが、戦争回避こそが最大の価値であると語り手は結論づけた。サンテネリと帝国の同盟が周辺国プロザンや海の向こうのアングランを刺激しないことを願い、何より「もう出費は嫌だ」と現実的な本音で締めた。
【第七話】暗君とメアリ
近衛軍とバロワ家の起源 第九期半ば、女王マルグリテに仕えた平民出自とされる女マリーが戦功で頭角を現し、非公式親衛隊を率いる女官となった。彼女がバロワの地に封じられたことを起点に、バロワ家は八百年にわたり王家の剣として近衛軍を支え続けた。近衛軍は国軍と切り離された「王だけの軍」であり、王族警護、儀仗、貴族の捕縛や鎮圧、対外戦争での最前線投入まで担う精強の象徴であった。
バロワの女に課された実像 バロワ家では女も軍務に就くとされるが、実際に戦場へ赴くことはなく、幼少から武芸も仕込まれなかった。彼女たちの本質的役割は「王の最も近くにいる女性」として側妃となり、血縁で王家と近衛軍の忠誠を固定する点にあった。王家は近衛の背信を恐れず、近衛は王家を害しにくいという、相互利益の構造が形成されていた。
メアリの志と、叶わない戦場 メアリ・エン・バロワは始祖マリーの名を継ぐ者として戦場での軍功を望み、自主的に教練と軍学に励み優秀な成果を示した。しかし近衛軍が出る規模の戦争が六年間起きず、彼女は父の下で副官として奉職するに留まった。自分に求められているものが「側妃要員」であると理解しつつ、納得できず、将として戦えるはずだという自負を抱き続けた。
王太子の一言が残した呪い メアリ二十歳、王太子十六歳で出会い、好戦的な王太子に彼女は好感を持ち、共に戦う未来を夢想した。だが王太子が酔って「戦は男の仕事、おまえは宮殿におれ、余が守ってやる」と言い放ったことで、彼女は自分が戦う主体として見られていない現実を突きつけられた。演習での転倒一つで中止と手当が優先される扱いも重なり、彼女は「兵は自分の指揮では本当に動かない」ことを薄々悟りながらも、受け入れまいともがいた。
王の暴走と、近衛の破綻寸前 王の崩御後、グロワス十三世は治世初年をエストビルグ攻略準備に費やし、予算据え置きで近衛を倍増せよと命じた。経理にも携わるメアリには無理筋が明白であり、父が各省と折衝して苦しむ姿を見て、組織の痛みに溜飲を下げる感情すら霧散した。王の無理が父の無理と同型であると悟ったためである。
病からの回復と、王の別人化 王が倒れて回復すると、言動は「余」から「私」へ変わり、好戦的野望も消えた。決定的だったのは、人を区別しない態度である。召使いから家宰まで同列に扱い、メアリも側妃候補ではなく一人の部下として接した。軍政の意見を求められることが「軍の高官として見做された証」となり、彼女は肩肘を張る必要を失い、女性的装いにも抵抗が薄れ、王への近侍が再び好きになった。
近衛軍縮小案への反発と、父の戦場の教え 近衛軍縮小と国軍統合の案を聞いたメアリは裏切りと感じ、父に詰め寄ったが、父は「近衛軍は誰のためにある」と問い返し、王が自分の剣と盾を手放す理由を考えさせた。父は戦場で兵を動かす唯一の方法は「戦列の頭に立って敵へ駆ける覚悟を見せること」だと語り、兵に死ねと命ずるなら自分も死ぬ自覚の上で行えと諭した。その教えからメアリは、王がサンテネリの窮状を自覚し、国軍だけでなく近衛にも手を付けることで「聖域を作らない」と示し、国軍を従わせる覚悟を見せたのだと理解へ傾いた。
再編後の行き先と、選択の先送り 近衛は即時解体ではなく数年かけて国軍に合同し、名は一部隊として残る見込みとなった。指揮系統上はデルロワズ公爵家の傘下に入る可能性が示され、父はメアリに「軍に残すか、嫁に行くか」を提示した。メアリは「近衛がすぐには変わらない」ことを確認したうえで選択を先送りし、嫁ぐなら“女としても有能さとしても自分を見てくれる相手”を望むようになった。
茶会で確かめた王の正体と、恋ではなく自覚 和約決定後、王から茶会に招かれたメアリは、王が自分の政策の意味、手放すものの重要性、手放される側の恐怖まで理解し、それを告げるに足る存在として自分を扱うことを実感した。二年前に受けた「宮殿におれ」という呪いが、同じ男の成長によって解かれていく感覚があった。趣味の手芸を興味深く聞かれ、ぬいぐるみを見せることを恥じたのは、王が「バロワの女」という記号ではなく現実の男になり、彼女もまた王を現実の男性として見始めたからである。メアリは、嫁に行くという選択肢が現実的に“悪くない”ものになったと自覚した。
【第八話】王のお買い物
「オフ」が消える構造 語り手は「オフ」を身体拘束ではなく、仕事の不安を頭から追い出せる時間だと定義し、立場が上がるほどそれが消えると述べた。社長が一日中「大丈夫かな」と不安に侵食されるのと同様、王もまた日常の些事にまで統治の責任が染み込み、精神の平衡を保つには没入できる趣味が必要だと結論づけた。
時計趣味の発火とブラーグ召喚 語り手は愛用の懐中時計が王家御用達の時計師アブラム・ブラーグの作だと知り、装飾のない金無垢ケースやギヨシェ彫りの文字盤を評価しつつも、ムーブメントが見えないことに耐えられなくなった。店へ行く希望は侍従長に握り潰され、深夜に職人を叩き起こす事態を避けるため「急ぎではない」と念押ししたうえで、宮殿へブラーグを呼ぶ段取りとなった。
貴婦人同伴という地獄の買い物 当日、語り手の趣味話を嗅ぎつけたゾフィ、ブラウネ、メアリが同席する流れとなった。ゾフィは同好の士として便乗し、ブラウネは家宰の娘として情報網で参加し、メアリは「軍に時計は必須」と言い立てて同行を取り付けた。語り手は本来一人で孤独に時計を選びたかったが、断れない政治事情により“王の買い物”が社交の場へ変質した。
王の場回しと職人の震え 語り手はブラーグを丁重に迎え、三人の身分を紹介して場を整えた。フロイスブル侯爵家、ガイユール公爵家、バロワ伯爵家の名に、ブラーグは露骨に動揺し、王の客層の重さを突きつけられた。語り手自身は「ここは金持ちマウントの場ではない」と割り切り、時計談義は自分の流儀で貫く姿勢を固めた。
マニア談義と帝国部品の地雷 語り手は針の青焼きの歩留まりや造形の重要性など、職人の核心を突く質問を投げ、ブラーグの表情を一気に明るくさせた。さらに文字盤素材の話から、部品が帝国由来だとブラーグが口を濁し始めるが、メアリが「陛下は政と技術を峻別する」と助け舟を出し、王も「良い物は良い」と明言して職人の恐怖を鎮めた。かつての王の対帝国感情が、市井にはまだ残っている現実も示された。
見本提示と、近衛の警戒 ブラーグは「陛下のため」として見本の懐中時計五つを提示した。メアリは職人の手元を凝視し、万一の武器取り出しに備えるように警戒を続けた。語り手はブラウネへ見どころを解説しようとするが、ゾフィが王の腕を掴んで月齢表示の“顔つき月”に歓声を上げ、場は一気に騒がしくなった。語り手は全員を巻き込んで体験を共有することで沈静化を図り、次回は必ず一人で買うと心に誓った。
側妃制度の圧と、買い物が政治になる理屈 語り手は貴婦人たちのふとした能面のような表情に精神を削られ、王の買い物が常に政治になる現実を痛感した。一夫一婦制の偉大さを噛みしめつつ、この世界の側妃制度が王朝の安定に寄与してきた事実も理解していたため、安易に否定すれば和約体制そのものが揺らぐ危険を自覚した。
二つの注文と、ペアルックの成立 最終的に語り手は懐中時計を二つ注文し、一つは裏蓋をガラス張りにしてムーブメント鑑賞を可能にした。もう一つは現代知識を使う“自分のための仕掛け”として選び、国家には何ら貢献しないと割り切った。さらにゾフィ、ブラウネ、メアリも同じ懐中時計を注文し、語り手は内心「ペアルック扱いするな」と叫びつつ、表向きは「絆ができた」と微笑んで受け入れ、納品を楽しみにする結末となった。
【第九話】王の儚い夢
「うさんくささ」の正体 語り手は、若手経営者の会で見た「欲望むき出しの自慢」と「耳当たりのいい道徳」が同居する空気を思い出し、その嘘くささの源泉を考えた。王として「民を慈しむ」理念は共有しているが、支配層が把握できる“民”はせいぜい平民の富裕層までであり、路地裏で死にかける貧民は「観念」としてしか捉えられないと断じた。善意そのものより、現実を理解できないのに理解した顔で語る構図が、胡散臭さを生むと整理した。
アキアヌ大公ピエルの熱弁 語り手の前で、王族の親戚にあたるピエル・エネ・エン・アキアヌが、貧民救済と貴族の使命を熱弁した。彼は「民無くして王無し」「貴族は民の護り手」と道徳を掲げ、王に旧市街を見よと迫った。語り手は理屈としては肯定しつつ、葡萄酒を飲みながら毒にも薬にもならない返答で受け流し、演説に酔う人間の厄介さを観察した。
道徳から金儲けへ、矛盾のない切替 語り手が旧市街の土地取得の意図を問うと、ピエルは屋敷群をまとめて再開発し、富裕平民が金を落とす場を作ると語った。立ち退きは私兵で行い、不法占拠者は追い出したと平然と言い切った。語り手は、農業の大規模化が穀物供給を改善する一方で、零細農が潰れて元農民が軍と都市へ流入し、戦場で消耗するか無産市民として滞留する構造を連想した。
「誰が恨まれるか」という残酷な答え 追い出された貧民が恨む相手はピエルではなく王になる、と語り手は結論づけた。貧民も王も互いを「観念」としてしか捉えられず、国が治まらない責任は王へ集約される。ゆえに有能な統治者は怒りのはけ口として貴族を生贄にし、さらに富裕市民と無産市民の対立軸を作って分割統治するが、その実行には繊細さと暴力装置が要ると理解した。近衛軍を手放す決断は、そうした力技を自分は選べないという自己認識と結びついた。
改革案の行き先が「議会」である恐怖 行き詰まり打開として、富裕平民に国政参加の道を開き資金も引き出す案が流行していると語り手は述べた。しかしそれは、商業活動の保証のために法を整備し、立法機関としての議会を作ることに直結し、王権と貴族権力を定義して制限する流れを不可避にする。さらに正教由来の身分制の根拠が「魔力」にあるのに、その前提が崩れつつあるため、「王は神聖不可侵」の根拠が問われ始めれば、気づきが連鎖して止まらなくなる危険を予感した。
学びの無力感と、現実逃避の衝動 語り手は、歴史教育が視点を遠景化していく感覚を思い出しつつ、自分はこの世界で制度設計を担う才も教育も足りず、思いつきは明後日の方向へ飛ぶだろうという徒労感に沈んだ。その結果、現実の問題を剣と魔法で倒せる“魔王”のような単純な敵を欲しがり、王位を譲って冒険へ逃げる妄想を膨らませた。だが妄想内の「姫」「男装の騎士令嬢」「宰相の娘」「妹感ある大貴族の娘」といった要素は現実にも揃い始めているのに、倒せる相手としての魔王だけが欠けていると自嘲して終えた。
【第十話】王の美術鑑賞
「展覧会」という名の国家行事 語り手は光の宮殿で絵画展を開いた。タイトルは『ルロワ王宮の光と闇』で、帝国協賛と「皇帝の娘」初公開を大々的に掲げたが、会場は要するに自宅であった。五つの大広間が巨大絵画で埋まり、家族連れも混ざる中、語り手は接待用広間の大椅子に座り、いつもの宮廷メンバーに囲まれて儀式の開始を待った。
婚約の象徴としての肖像画 帝国大使が恭しく進み出て、エストビルグ国王ゲルギュ五世からの贈り物として、皇女アナリースの肖像画が披露された。会場は歓声に包まれたが、それは絵の出来より「サンテネリとエストビルグの和解」という政治的意味への反応であった。語り手は至近で肖像を見て、アッシュブラウンの髪と鳶色の瞳、意志の強そうな微笑みから、真面目な委員長タイプだと評しつつ、正妃として迎える現実を受け止めた。
「王族は美形が多い」理屈の解説 語り手は側妃制度の仕組みを引き合いに、嫡流に多様な血が入りやすく、身分要件が緩い側妃には美貌が強く求められるため、結果的に王族の容姿が整う傾向があると説明した。加えて栄養と清潔が確保され発育が良い点も理由に挙げ、中央大陸には入浴習慣が根付いていると補足した。
大使との外交トークと“本番”の予告 語り手は大使に対し、婚姻の喜びと両国の親密化を言葉にして儀礼を締め、大使は退場した。ここからが本番として、婚約ニュースが一か月ほどかけて全国へ浸透し、国民反発が起こり得ることを想定した。帝国への敵視感情や戦争体験、排他的な国民性を踏まえ、支持率調査があれば政権が落ち込むだろうと自嘲しつつ、それでも和約を進めた覚悟を再確認した。さらに、アングランが必ず大陸を攪乱しプロザンを焚きつけると見立て、敵が敵であり続ける地政学を苦々しく語った。
内務卿との庭園散策と治安の現実 午後、語り手は光の宮殿の庭園を内務卿クレメンス・エネ・エン・プルヴィユと歩いた。内務卿は反発は避けられず摘発は日々あるが、まだ酒場の愚痴程度で組織的動きはないと断言し、思想の“芯”が生まれて組織化する事態を最も警戒していると示した。内務卿は地方行政やインフラ、文教に加え、秘密警察まで所管し、主だった人物の所在と行動を把握していると語り、アングランの介入可能性も含めて数日内に状況を整理して説明すると申し出た。
「開放的な王」と服装フィルター 庭園は国立公園のように比較的自由に出入りでき、貴族だけでなく平民の富裕層も憩っていた。ただし入場の実態は服装が身分証として機能し、上質な仕立ての服を着られる者だけが自然に選別される仕組みであった。語り手は、遠くから挨拶されれば大声で返すだけで済む距離感を心地よく感じつつ、この庭園開放が「王は国民の父」というイデオロギーの産物であり、危険が少ないのは来園者が上澄みだからだと理解した。
世論調査ごっこと自虐 語り手は、いずれ日陰でくつろぐ来園者に“政策転換への不安”を尋ねる世論調査ごっこをしてみたいと想像し、翌日の新聞が「市民の七割が不安」などと煽る未来を思い描いた。最後に、そんな見出しが出たら総辞職だろうかと皮肉を添え、王の仕事が美術鑑賞にすら政治を連れてくる現実を滲ませた。
【第十一話】王の身体
魔力という“説明装置” 正教は魔力を「人を従える力」と定義し、身分秩序を支える根拠にしてきた。魔力は獣欲を抑える力でもあり、他者を働かせる力であり、自分を律する自制心でもあると整理される。戦争の場面では「逃げたい獣欲」を抑え、上官が下官を死地へ向かわせることまで魔力の体系に組み込まれていた。だが魔力は証明できず、建前として薄れつつも、千年単位で刷り込まれた感覚だけが残り続けている。
「王の身体は神聖不可侵」という爆弾 王の魔力は身体に蓄えられ、傷を負えば“漏れる”というイメージが根強く、王への加害は国家への加害と直結する。語り手自身もそれを理屈では方便と理解していたが、社会心理としては今も生きていると示される。
庭園での襲撃と“不可侵”の破綻 秋の庭園散歩中、上質な服装の小柄な女性が「陛下」と叫びながら接近し、短剣で刺そうとした。語り手は反射で刃を素手で握りしめ、両手を深く切る。激痛の中でも妙に冷静で、騒ぎを最小化し執務室へ戻る指示を出した。メアリは震えながら大判布で止血し、語り手は「ただの切り傷だ」と落ち着かせようとした。
“事故”として処理したい政治的理由 執務室には家宰マルセル、内務卿、近衛軍監が集まる。語り手は公的対応を最小にし「事故」として収めたいと述べる。大逆未遂にすると、警察と近衛の失態、ひいては家宰の責任となり解任や更迭が連鎖する。さらに民衆側では「王の身体が害された=国家が害された」と感情が暴走し、外交転換で不安定な空気に血なまぐさい公開処罰が混ざれば、都市全体が制御不能になり得るからであった。
忠誠の儀式が引き起こした王の爆発 家宰は「責任を取って解任されたい、引退したい」と言い出し、ついには「公的な死を」とまで願い出る。語り手はそれを責任放棄と受け取り、怒りが噴出した。王としての節度を投げ捨て、叫び、脅し、感情のままに命令を重ねる。 最終的に語り手は「事故として処理」「内務卿は背後を洗え」「辞任も自害も認めない」と命じ、さらに家宰と近衛軍監に対し、娘であるブラウネとメアリを光の宮殿へ出仕させろと要求する。実務上は自分の手が不自由で世話が必要という名目だが、実態は彼らを踏みとどまらせるための人質に近い衝動であった。
冷めた後の痛みと後悔 会議が終わると手の痛みがぶり返し、語り手は蒸留酒で酔い潰れようとする。だが酔えない。今回の件で「王の身体は神聖不可侵」が宮廷人にも民衆にも建前ではないと理解し、メアリが危険な立場に置かれることにも遅れて気づいた。さらに、三人が事前に“死を口にする筋書き”を共有していた可能性まで感じ取り、政治家の怖さに胃が痛む。
二人の令嬢への罪悪感と自己矛盾の自覚 メアリは当事者として自責を抱え、ブラウネも父の事件として負い目を背負い、光の宮殿で暮らすことになる。語り手は「世話をさせろ」と言い放った自分の浅はかさを恐れ、巨大な負い目を抱えた二人と同居して平静でいられる自信がないと認める。 そして決定的に、語り手は自分の怒りが不当だと断じる。かつて自分も責任から逃げるように死を選ぼうとした過去があり、似た行為を口にする者を責める資格はないと理解してしまった。酔って意識を消したいのに酒が回らず、ただ自己嫌悪だけが残った。
【第十二話】暗君とフロイスブル家
家宰マルセルの来歴と“運命”の受け止め方 家宰マルセル・エネ・エン・フロイスブル侯爵は、譜代の名門フロイスブル家の次男として生まれ、兄の早世で家督を継いだ。先代王が晩年に政務不能となり、王太子も未成年だった時期には、実質的に国政を回した中心人物でもあった。新王グロワス十三世の即位後は、王の過剰な親政と理想先行に諫言で対抗したが容れられず、冷遇と更迭を「そういう運命」として淡々と受け入れていた。
王の“変化”と、臣下が感じた別種の恐怖 王が不予から回復して呼び戻されると、グロワスは謝罪し「助けてほしい」とまで言ってマルセルを復帰させた。以後、和約や軍改革など大方針が討議ベースで進み、王も「理解した上で命じる」と言うようになる。だが会議中は置物のように黙し、個別の場では鋭い質問で理解力を露呈させるため、臣下たちは「全て理解した上で黙って観察する絶対権力者」という疑心暗鬼に取り憑かれていく。
襲撃事件の報告と、家族が凍りつく理由 襲撃と“事故処理”の方針を屋敷で語り終えると、家族は血の気を失う。「王の身体は神聖不可侵」という感情が彼らにも生きており、本来なら大逆として極刑が当然だという感覚があるからだ。マルセル自身は、最悪でも自分が毒杯で片付く程度と読んでいたが、昨日の場では「王の御心が知りたい」という衝動が勝ち、あえて挑発し、王の感情を引き出そうとしたと告白する。
“世話”の多義性が生む暗澹 しかし王が口走った「ブラウネを出仕させよ」「世話をさせよ」が、父にとって最悪の方向へ転がる。侍女と下女は似て非なる地位であり、とりわけ「世話」には隠語として性行為を含み得る。王が娘を辱める意図を持つのではないかという恐怖が、マルセルの胸を真っ黒にした。
フェリシアの逆転の発想 側妻フェリシアは、王の言葉が直截な“遊び女にせよ”ではない点を突き、むしろ「侍女として王の傍に上げよ」と解釈し直す。自身が侍女から側妻になった来歴を物語として語り、ブラウネに「姫であると同時に王の侍女になれ」と命じる。さらに、侍女姿を嗤う者がいれば家宰として潰すと宣言し、夫に娘を守れと釘を刺した。
光の宮殿での“責任の取り方” 翌朝、マルセルは光の宮殿へ赴き、王は昨夜の無礼を詫びる。だがマルセルはあえて「昨日の下命を果たすため」と押し切り、控え室に待たせたブラウネを呼び入れる。王は焦り、言い訳を重ね、傷は小刀の不注意だと虚偽まで口にするが、マルセルは丁寧に遮って既成事実化を進めた。
黒衣のブラウネと、王への無言の拘束 ブラウネは装飾を捨てた上質な黒衣で現れ、膝をつき「全身全霊で侍る」と宣言する。王が弁明しようとしても、彼女は「不便でしょう。今後は私がお世話する」と断固として繰り返す。青い瞳は言外に告げていた。王を逃がさない、と。
【第十三話】王と王様係
起床前から始まる“監視”と、王の居心地の悪さ グロワス十三世は毎朝、目覚ましが鳴る直前に目が覚め、寝室のどこかに佇むブラウネとメアリの気配を感じ続けていた。旧来の世話係だった侍従たちは姿を消し、代わりに身分の高い二人の令嬢が「最も無防備な寝起き」を見守る形となり、王は羨望どころか強烈な心理的圧迫を覚えていた。侍従長に担当変更を申し出ても「規則」で退けられ、階層を飛ばした命令が通らない現場の硬直も王を苛立たせた。
メアリの自罰願望と、王の限界反応 王は本人たちに直接負担を伝える決意を固められないまま一週間が過ぎ、特にメアリは言葉を誤れば自死に直結しかねない危うさを抱えていた。実際、襲撃事件後にメアリは拘束され、短銃で自殺を図ったとされ、周囲は寝ずの番で再発防止に追われた。翌日の面会でメアリは「罪人に厳罰」「死を賜りたい」と繰り返し、さらに「背後関係はない。自分のことだ」と言い切って、警護失敗の責任として自らの死を求めた。王は言葉を探しきれず、衝動的に「ならば私も死ぬ。共に死ぬか」と投げ、心が折れる感覚に沈んだ。
窒息発作と、“二度救われた”実感 王は大判布を外せないまま息苦しさに襲われ、過呼吸に似た発作を起こした。メアリは刹那に飛びかかり、覆い被さるように大判布をほどいて王の呼吸を取り戻させた。涙も鼻水も抑えられない彼女は理性の体裁すら手放し、王の胸に顔を押し当てて震え続けた。王は彼女が眠り落ちた頃合いに、止血と呼吸の二度、自分を救ったのだと小声で告げ、軽率な接触がさらなる問題を呼ぶと自制した。
“仕事を作る”という現代的な解決策 王は家宰に相談し、ブラウネとメアリのために新部署を新設した。名目上は秘書的役割だが、実務の中核であるアポイントや書類は従来どおりベテラン侍従侍女が担い、「ベテラン→王様係→王」という伝言の層を一枚増やす形で、二人を“仕事がある状態”に置いた。身の回りの介助は熟練の侍従が行い、王は入浴は自力で済ませるなど線引きを明確にした。
休憩時間のはずが“職場居座り”になる矛盾 王は二人が休みなく働く状態を避けるため、昼から午後を休憩時間とし趣味に充てるよう配慮した。だが結果として、二人は王の茶の間で編み物や手芸、おしゃべりに時間を使い、執務室の隣から「陛下が……」「まぁ!」と噂話めいた声が漏れて、王の動悸を煽った。居室に戻るよう促したくても、侍女部屋に入れれば周囲の気苦労が激増し、結局は貴賓室を二つ用意して侍女や従者ごと住まわせることになった。
“怪獣頂上決戦”としてのお茶会と、王の自覚 王の茶会では、招かれる相手も大貴族の令嬢であり、給仕に入るブラウネとメアリもまた同格の大貴族の娘であるため、表面上は上品な友好の挨拶が交わされつつ、空気は緊張を孕んだ。王はこの状況が「実質勤務」になり得ることを理解し、彼女たちを傍に置くこと自体が労務上も心理上も危ういと自覚しながら、それでも安全と体面と政治的地雷の回避のために、不得手な“仕事を作る”処理を選び取った。
【第十四話】王と国家
“新書”で国家を回す恐怖 グロワス十三世は、御前会議や高官の説明を「新書を読む」感覚で受け止め、政治・軍事・経済・文化まで概要だけは掴めるようになっていた。しかし理解は輪郭に留まり、設計図を引けるほどの実務感覚も、方向性を決め切る信念も足りないと痛感していた。にもかかわらず家臣は王に「ビジョン」を求め、王はその要求が最も危険な期待だと感じた。
“国体維持政策”としての婚姻と、愛妾に見える現実 王の結婚は私情ではなく国体維持そのものであり、相手が帝国エストビルグ家の姫である以上、当事者の感情を無視して遂行される政治行為になった。同時に、ブラウネとメアリを光の宮殿に住まわせ、侍女給与以上の費用を宮廷費で賄う形は、貴族社会から「そういう関係」と解釈されやすい。王はそれを否定できず、自分の行為が国内外に向けた政治メッセージとして消費される現実を受け入れた。
ゾフィの“後見”が意味するもの ガイユール大公ザヴィエは、十五歳の娘ゾフィをシュトロワに残す不安を理由に、王の庇護下にあることを周知したいと迫った。ゾフィ本人は窮屈さを否定し、シュトロワで見聞を広めて王に報告する意欲を示したが、その明るさは政治の枠組みによって形作られている面もあった。王は大仰な言葉で後見を引き受け、これは内定として即座に広め、対価を得る段取りへ移った。
税が“もう一つの巨大問題”として立ちはだかる 王が次に直面した本丸は税制改革であった。軍縮が支出削減なら、税は収入増の手段であり、避ければ維持はできても発展はない。サンテネリでは直接税(収穫税・財産税)と、多種の間接税が並立し、さらに直轄行政区と「国の中の国」である地方行政区が混在して税制が割れ、国内関税まで発生して流通を阻害していた。間接税は徴税請負人が国に一括納付し、代わりに徴収権と免税特権を得る仕組みで、請負権を担保に債券を発行し、集めた資金で国家に貸し付ける構造まで形成されていた。改革は他者の懐に手を突っ込む行為で、やり方を誤れば殺し合いになると王は理解した。
“国内関税撤廃”という第一歩と、国家への再編 王は統一税制の確立と徴税請負制の改正を目標に置きつつ、軍事で地方を潰す案は内乱と列強介入を招くため不可能だと判断した。そこで「気づいたら変わっていた」に持ち込む漸進策として、ガイユール公領との国内関税撤廃を最初の一歩に据え、ゾフィ後見の政治取引と結びつけて合意を得た。目的はサンテネリを「ルロワ家の拡大体」から、諸侯が心から「我が国」と思える国家へ作り替えることであり、その過程では家宰職を含む既得権の配分変更が避けられないと王は理解した。
象徴になりたい王と、言えない線引き 王は最終的に自分が“国民統合の象徴”へと退く未来を望みつつ、現状では皆の背中を押すしかできない立場にいた。ゾフィについては光の宮殿への同居を拒み、無役で放置する非現実、宮廷費の体面、そして十五歳という年齢が孕む決定的な問題を理由に、当面は実家に住まわせる妥協を選んだ。政治が全てを規定する世界で、王は「理想のご婦人」がいても自由に動けない現実を、苦い自嘲と共に抱え続けた。
【第十五話】王の重荷
暗殺未遂の結末と、消えない罪悪感 暗殺未遂から一月が経ち、グロワス十三世の手はほぼ完治した。犯人は単独犯とされ、戦争で息子を失い、軍への納入代金の未払いで家業も破産した末、全てを失った女性であった。彼女は王を刺して自ら死ぬために宮殿へ来たと結論づけられ、取調中の「事故」で既に亡くなったという報告がなされた。王は彼女の人生を何一つ覚えていない自分を責め、これは政治ではなく、救われなかった一個人の絶望であると痛感した。
重荷を抱えたままの日常と、崩れる平静 王は内務卿を下がらせ、夕刻のアキアヌ大公との会食を前に葡萄酒を求めた。給仕に現れたのはブラウネであり、王は独りになろうとしたが、彼女はその場を離れなかった。震える手から葡萄酒を零し、取り繕う王の姿を前に、ブラウネは「あなた」と呼びかけ、王を国王ではなく一人の人間として扱う覚悟を示した。
責任から逃れられない者同士の対話 王は自らが王であるがゆえに、誰かを恨むことも、責任を転嫁することもできない存在だと吐露した。ブラウネは、全てを決められる王と、何一つ決められない自分との差を語り、王がその重荷を自覚し引き受けていることこそが勇気であり、真に勇敢な者だけが背負えるものだと断じた。彼女は、かつて王の不用意な言葉によって自分も死の淵に追い込まれていた事実を明かし、それでもなお王を恨まず、付き従う意志を示した。
フロイスブル家の由来と“勇者”の系譜 ブラウネは自家の秘史として、フロイスブル家初代ブラウネが、反逆者として処刑された軍人ユニウス・エン・デルロワズに仕え、その家訓が「勇者の下で槍を振るえ」であったことを語った。思想家として名高いユニウスと、彼を忘れなかったマルグリテ女王の逸話は、勇気と責任を引き受ける者の系譜として王の胸に重く響いた。
理解されることの救いと、新たな重み ブラウネは、威勢の良い言葉だけを吐く過去の王ではなく、責任を背負う現在の王にこそ侍りたいと告げ、自らも背負ってほしいと願った。王は初めて深く理解される感覚を知り、それが何も解決しないと分かりながらも、大きな救いであると感じた。夜、会食の記憶も曖昧なまま、身体に残る熱と鼓動の高鳴りを自覚し、王は自分が生身の感情を取り戻しつつあること、そしてその感情すらまた新たな重荷になることを理解していた。
【第十六話】王と軍
一年の観察と、見えない亀裂への恐怖 グロワス十三世はサンテネリに現れてから一年近く、能動的に動けないまま周囲の説明を“新書”のように受け取り続けたに過ぎないと自嘲した。表面上は閣僚も諸侯も協調しているが、それは拡大すれば山と谷だらけの世界が潜むはずであり、王はその深部を体験できていない不安を抱えていた。
三つ巴の政治地形と、軍縮が生む緊張 サンテネリの勢力は、王家中枢の与党、王権と敵対し得るアキアヌ大公中心の反王家勢力、そして外様諸侯の核であるガイユール大公勢力に大別された。血縁では王家とアキアヌが近いが政治的には対立し、ガイユールは王権奪取の野心が薄いのに歴史的因縁で与党に取り込めないという、危うい均衡が成立していた。王は外征を捨て軍縮を進めることで、アキアヌの倒閣シナリオを肩透かしにしつつ、近衛解体という常識外れの選択で、かろうじて破局を遅らせていた。
“正しい改革”が即死につながる現実 王は本来なら国軍を王権に直結させ、近衛を核に国軍を吸収し、反抗貴族を削いで上から近代化するのが定石だと理解していた。しかし貴族たちは有能で、拙い強行は貴族会の拒否や「重病死」につながると見抜いていた。さらにアキアヌを冤罪で排除すれば独立の連鎖が起き、国が分裂する未来が容易に想像できた。王は、暗君として生き残ることすら難しいと悟り、家宰が過去の自分を必死に止めていた意味を思い知った。
デルロワズ公との会食と、見せつける“政権の相似形” 夕食会には国軍の実権を握るデルロワズ公ジャンが招かれ、王はメアリとブラウネを左右に据えた。二人の貴婦人は互いに火花を散らし、ジャンはそれを観察した。王はこの配置そのものが政権構造の縮図であり、ジャンに“王の周囲の力学”を理解させる意図があった。
近衛統合の条件と、メアリを手放さない宣言 夜更け、王はジャンと軍の話に入り、近衛軍は予定通り王国軍と統合すると断言した。ただしメアリは手放さず、バロワ家との結びつきを軸に近衛の一体性を残したまま、王国軍の指揮下に置く構想を示した。ジャンはその意図を即座に読み取り、統合軍の中核に黒針鼠と近衛の二枚看板が立つ未来を受け止めつつ、陸軍卿就任を先延ばしされる苛立ちを抑えて応じた。
陸海統合という長期設計と、反逆への備え 王はさらに、海軍卿の職位を保ったまま陸軍を見させる恒久的な“国軍一元化”を語り、将来的にジャンへ統合軍全体を託す青写真を示した。ジャンは「任せすぎではないか」「自分が背けば危険だ」と問い、王は「私に背くのは構わないが、サンテネリに背くか」と返したうえで、王を国家そのものとみなす発想を捨て、王は冠に過ぎず“身体”は国家だと再定義した。
王が求めた剣の持ち主 王は、ジャンにデルロワズ公領の主ではなく、サンテネリ王国という“身体”が握る剣になってほしいと願った。自分は暗君であり、考えるのは有能な者たちの仕事だと繰り返し、王権を守るためではなく国家を生かすために軍を組み替えるという、危うくも現実的な方向性だけを示して会談を締めた。
【第十七話】王と家族
結婚という政治イベントと、先に死にそうな疲労感 グロワス十三世は日本で結婚を経験しないまま死んだが、サンテネリでは王として結婚を避けられないと理解していた。結婚そのものより、周辺に付随する面倒、とりわけ「嫁姑」じみた政治摩擦を想像して早くも消耗していた。日本で見た祖母と母の不仲の記憶も、その予感を補強していた。
母后マリエンヌの“個人としての優しさ” 母后マリエンヌは、王の健康を国事として監視するのではなく、息子の身体を案じる母として接した。怪我の回復を喜び、祈りを捧げ、王はその無垢な心配に救われる一方で、優しさを向けられるほど罪悪感と責任感が増していく感覚を抱えた。
オルリオ家の正妃適性と、宗教権力の現実 マリエンヌの実家オルリオ家は「王家のスペア」として家格は高いが実力は小さく、王権に過度な外圧を与えない“理想の正妃実家”であった。サンテネリが国内婚を好む背景には、強大な外戚が政治に影を落とす危険がある。さらにサンテネリは正教の守護国家であり、イレン教区と大僧卿は信仰者であると同時に老練な政治主体でもあった。王はその構造を冷静に見つつ、宗教的な空気に完全には馴染めない自分を意識していた。
喜捨と傷病兵が突きつける“戦争の請求書” 大僧卿から喜捨の要望が出た背景には、戦争で溢れ返る傷病兵の収容負担があった。マリエンヌは財政難を理解して無理強いせず、それでも信徒として胸を痛める姿勢を崩さなかった。王は、父グロワス十二世が人を数字へ抽象化して戦争を遂行したのに対し、母は人を人として見てしまう善性を持つと整理し、自身がその両極を継いだがゆえに精神が煮詰まりやすいと自覚した。
一年後の結婚と、“火種”の投下 王は「大きな行事」として一年後に控える結婚を意識しつつ、母后の無聊を慰める名目で、ブラウネとメアリに母后訪問を提案した。ここには王妃がエストビルグ家から来る予定であること、そして母后が側妃文化を理解しながらも正教的価値観から積極的には好まないことが影を落としていた。過去の自分が側妃たちを嫌悪し、空気を読んだ彼女たちが宮殿を退去した経緯も、宮中の温度を冷やしていた。
メアリの辞退と、ブラウネの“侍女”という救済策 メアリは母后に会うことを辞退しようとした。暗殺未遂で王が負傷した件への自責、そして息子を傷つけた近衛として母后にどう見られるかの恐怖が理由であった。王は「女だから戦の責任外」という価値観で諭すことができず、近衛の矜持を傷つけかねないと分かっていた。そこでブラウネが「侍女として二人で参る」と立場を整え、王もその言葉に乗ることで、メアリの逃げ場と尊厳を同時に守った。
女たちの結束が示す未来の構図 ブラウネとメアリは対立関係を孕みつつも、この場面では密やかに団結し、母后から“心の守り方”まで学ぶと宣言した。王はその結束の意味を考え、母后の言葉「山に登るものは山に、海に潜るものは海に生きよ」を思い出す。それは“地元が一番”という教えであり、他国から来る王妃に対してサンテネリの女たちが結束する前触れにも見えた。王は、来年確実に揉めそうな火種を、すでに手の中に抱えていると悟った。
【第十八話】王の選択
婚姻費用ゼロという地獄の報告 御前会議で財務監モンブリエが「婚姻の費用がない」と告げ、閣僚一同が葬式ムードになった。王は怒りはせず、むしろ式典縮小自体は個人的に歓迎できるが、宴会・祝賀金・国威の体裁が絡むため政治的爆発物だと理解した。家宰マルセルは臨時課税や徴税請負人組合による資金調達を示唆するが、時期的に民心を燃やす最悪手になり得ると王は危惧した。
世論時代の到来と、官製メディアの必要性 王は内務卿に「有望な書き手」の探索を確認し、政府が自前メディアを持たない欠陥を問題視した。識字率上昇と新聞の普及により、商家・官僚・学生などが“世論”を形成し始めている。アキアヌ大公は既に自前の新聞を持つ。王は官報だけでは読まれないと理解しつつ、最も知られた名である自分が“実際に書く”ことで、読み物としての吸引力を作ろうと決めた。
「吝嗇」を「慈愛」に変換する政治設計 王は婚姻を質素化し、宴会を削る一方で祝賀金は必ず出す方針を示した。ただのケチに見せないため、これを「民への慈愛」として意味づけし、アキアヌ型の“体感できる善政”を模倣する必要を感じた。家宰は「言葉ではなく実感」が要ると指摘し、王はより派手で分かりやすい“身を切る”演出を探る。
旧城シュトゥール・エン・ルロワを差し出す決断 王はルロワ家興りの地である旧城を手放し、王家の宝物も売却し、負傷兵の療養・生活施設へ転用する構想を打ち出した。兵は祖国の剣であり、剣はふさわしい鞘に収めるべきだとして、教会の施しに依存してきた傷病兵支援を国家業務へ移管し、財源は国庫とする方針を描いた。さらに貴族には課税ではなく「寄付」という名目で負担を求め、将来的には正規徴兵も導入していく青写真を示した。
家宰の反発と、改革の危険性の自覚 家宰は王の案を理想論として「その道をゆけば国が破綻する」と強く反発した。王は治安維持費や傭兵費用、野盗討伐など既存コストとの比較計算を求め、教会への支出減も含めて再試算させる。王は“何もしないために何かをする”覚悟を固め、アキアヌ大公への根回しも必要だと見据えた。
メアリへの失言と、涙で露呈した誤解 午後の根回しとして王はメアリと二人で茶をし、デルロワズ公との関係強化を狙う。軽い雑談で「メアリも先方を気に入ったようだ」と伝えると、メアリは涙を流し「それが陛下の思し召しなら従う」と受け取り、王が自分を政略結婚の駒として差し出すのだと誤解した。王の意図は妹の縁談の仲介だったが、言葉不足が致命傷になった。
「手放さない」という王の宣言 王は隣に座り、手を取り、デルロワズ側に縁組打診があった事情を説明した上で、メアリを手放さないと告げた。選択できない立場の者に意思確認を迫るのは卑怯だとして、責任は王が負うと決め、「王はあなたを手放さない」と繰り返した。メアリは「言葉が不足し、短慮で傲慢だ」と叱責しつつも、王に自分の価値を言語化するよう求めた。
価値の提示と、最後の一言 王はまず政治的価値として、メアリに兵士であることを望まないが、培った経験を借りてより良い国家選択を重ねたいと述べ、軍に関わる助力を求めた。メアリはなお「他には」と問う。王は濁さず、個人としての欲望を認め、「女として、欲しい」と告げた。
【第十九話】王の決意
負債の現実と「国は潰れない」の含意 サンテネリ王国の負債は「年間収入の十年分」に達し、しかも海外の金融資本家への債務比率が高い上に、資産が乏しいという危険な構造であった。国家は企業のように簡単に倒産しないが、債権者救済を名目に戦争を招く可能性はあり得ると王は理解した。サンテネリ自体は人口と排外性により粘り強く戦えるが、破綻と戦争が進めば滅びるのは国ではなく王自身だと結論づけた。
最悪ルートの整理と外部脅威の見立て 王は「財政破綻→戦争→敗戦→退位→暗殺」を最悪ルートとして想定し、回避策を三つに整理した。財政破綻を避けて自転車操業を続ける、破綻しても戦争に勝つ、または暗殺する価値もない存在になる道である。大規模戦争の相手はアングラン・プロザン・エストビルグに限られるが、アングランは陸軍力が弱く直接侵攻しづらい。プロザンは大義名分が薄く、むしろサンテネリはエストビルグに引っ張り出される形で戦争に巻き込まれる可能性を警戒すべきだと見定めた。結果として当面は「すぐ滅びない」からこそ借金が回るという皮肉を噛みしめた。
革命の兆候と、時代の鋳型からの逃げられなさ 中央大陸に市民革命の前例はないが、富裕平民と中間層の増加、都市下層の膨張、宗教的身分秩序の正統性低下、貴族の弱体化など、兆候は積み上がっていると王は捉えた。王自身は人の本質的平等という感覚を捨て切れず、旧来の世界観に強い違和感を抱く一方で、自分もまた時代の枠にはめられた普通の人間であり、完全には時代を超えられないと自覚した。その齟齬はいずれ表面化し、溺れずに流される技術が必要だと腹を括った。
権力と不正への嫌悪、そして「保険」 王はブラウネとメアリへの執着を「常識を言い訳にして拘束している」として内心嫌悪し、さらに今後も政略のために他国の姫君と関係を持たされる未来を見据えた。相手もまた別の枠組みで育ち、出産装置としての役割を当然視しているという相互の“鋳型”を理解しつつ、衝突が避けられないことを認める。失敗時の保険として、王は内務卿に「人道的な処刑装置」の開発を命じ、自分の最期すら合理化しようとした。
自死の衝動と、選ばないことの意味 光の宮殿の二階から外を眺め、葡萄酒に酔った王は一瞬「飛び降りたらどうなるか」と確かめたくなる衝動に襲われる。しかし高さが足りず即死できない現実と、背負った責任がそれを止めた。大学時代に読んだ思想から「世界から去らない選択をした者は世界を引き受けた」という考えを想起し、死を選ばない以上、自分はこの世界とサンテネリを認めたのだと結論する。ゆえに王は、生きること自体によって国家を背負う義務を負ったのだと自らに言い聞かせた。
【第二十話】王と正妃
異世界の結婚式と「意思」の感覚 イレンは現世で結婚式に数多く出席し、スピーチも得意だった記憶を辿りつつ、異世界で自分の婚礼に立っている現実を噛みしめた。正教が結婚を「天地開闢から定まった運命」と宣言する甘美さに一瞬救われかけるが、それは当人たちの意思を無価値化する思想でもあると感じ、彼は「両性の合意」を建前だけでも守りたいと考えた。
正妃アナリゼの硬直と文化のズレ エストビルグ第一王女アナリースは改名して正妃アナリゼ・エン・ルロワとなったが、儀礼で手を握られただけで鳥肌が立つほど硬直していた。イレンは敵意と早合点しかけたが、彼女は単に接触文化の乏しい環境で育ち、サンテネリの距離感に驚いただけだと判明する。素直すぎる受け答えは、裏を読むのが常態の宮廷では危険であり、彼は「翻訳役」が必要だと悟った。
フェリシア招致と後宮の火種消し イレンは家宰の妻フェリシアを正妃付き女官長に据えることを即断し、翌日に呼び寄せた。目的は作法の完璧さではなく、アナリゼの意図を周囲に翻訳し、サンテネリ流の振る舞いを命令ではなく助言で教えられる存在の確保であった。ブラウネやメアリが若く、初対面の齟齬から冷戦に発展する危険をイレンは強く警戒し、場当たりではなく火種を先に踏み消す方針を固めた。
宴席の一撃と、女官長の危機管理 歓迎の小宴で、アナリゼが「令嬢たち」を帝国作法の感覚で呼びつける形になり、会場が凍りついた。イレンが介入するより早く、フェリシアがわざと周囲に聞かせる形で「こちらへいらして下さいませ」と言い換えを指導し、アナリゼも即座に修正した。ブラウネとメアリも明るく受け、イレンは「正妃が我が国文化を尊重して学んできた」と賛美する演出に全力で乗り、破局を回避した。
中傷ビラと世論戦の開始 翌日、アナリゼを「東の田舎娘」と嘲る告発ビラが出回り、背後は利害からアングランが濃厚だと内務卿は見立てた。内務卿は誤解解説と賛美記事の配布、噂の流布で対抗策を即実行し、イレンはさらに母后を前面に出して「国母が正妃を可愛がる」長期キャンペーンを構想した。対外的な恫喝は証拠不足で危険なため、アングランには外務卿経由で確実に釘を刺す方針とした。
帝国大使バダンとの腹芸と牽制 イレンは帝国新大使バダン宮中伯を私室応接に招き、メアリをあえて給仕に入れて相手の情報収集力と配慮を測った。バダンはメアリを即座に識別し、丁重に持ち上げ、宮廷力学を熟知していることを示した。会話でイレンは「アナリゼの学びを快く思わぬ勢力が帝国側にもいるのでは」と婉曲に探り、バダンは否定しつつも必要な情報を返した。最後にイレンは「私はアナリゼを好ましく思う。貴国も誠実でありたいものだ」と釘を刺し、皇帝へ確実に伝わる形で圧を残した。
夜の訪問と、言葉の壁を越える試み イレンは能動的に正妃居室を訪れ、帝国侍女たちへの歓迎も示した。アナリゼは「廊下が綺麗、鏡が多い」と真顔で語り、会話は途切れがちだったが、イレンは彼女の恐怖と努力を理解し、感謝を伝えるために手を握る許可を求めた。そこから話題が腕時計に移り、アナリゼは「召使いになりたいのか」と純粋に問うてしまう。イレンは傷つきつつも、時計を「怠けたがりの獣欲を抑えるための魔力増幅器具」という屁理屈で救済し、彼女はそれを「王の証」と受け取って笑顔を見せた。イレンは腕時計を外して渡し、次は彼女の好きなものを教えてほしいと告げ、関係を“会話”で育てる道筋を作った。
【第二十一話】暗君と帝国とアングラン
バダンの酷評と「暗君」認定 帝国大使バダン宮中伯は、グロワス十三世を「外交のお遊びに興じる若者」と切り捨てた。夜会の失態を口実に帝国側が譲歩を迫られる局面で、王が抗議や圧力に踏み切らず「帝国内の反和約派の探り」で終わらせた点を、弱さと臆病さの証拠として見た。王とは国家そのものであり、王が出てくるなら重い決定があるはずなのに、それが無かったという失望であった。
帝国の狙いは「対プロザン戦へ引きずり込む」 バダンは、サンテネリ王が重い決断を下せないと確信し、ならば帝国の本業である対プロザン戦にサンテネリを巻き込むのは容易だと踏んだ。問題は開戦の是非ではなく「いつやるか」だけになった、と冷徹に整理している。サンテネリは先王の流血への反動で外に目を背け、止める家臣もいないので、王は“遊び”に付き合っているうちに流されるという読みであった。
アングランの政治体制と「王は対岸」 場面はアングランへ移り、同国は貴族合議と内閣決定が国家行動となる異質な国制として描かれた。首都ランデネムでは王宮と首相宮が河を挟んで対峙し、王は象徴的に「対岸の存在」で、実権は首相宮に集中している。首相アルバ公爵は報告書を読み、サンテネリが変わったと断じる。
アングランの“仕掛け”不発と、サンテネリの変質 アングランが流した工作は不発に終わり、アルバ公爵は「彼らは足下を見るようになった」と評価した。王が民衆に直接呼びかける官報、増える政治寸評、背後に政府の意思を感じる新聞群。かつて階層が分断されていたサンテネリ社会が、統治側が庶民の評判を無視できない方向に混交し始めていると分析される。
「好戦的」ではなく「危険な綱渡り」 秘書官は若い王の思いつきで矛盾が増えたのだろうと見るが、アルバ公爵は否定し、むしろ王は危険な橋を渡っていると指摘した。貴族の懐に手を入れる一方で近衛軍を手放す、権力の源泉を捨てるような動きが、卵を割らずに中身を取り出すような“本来不可能”に近い離れ業だという比喩で語られた。通常なら近衛解体は貴族の伸長と政権奪取に繋がるはずだが、各大公家も大きく動かず、寄付という名の実質課税も受け入れている点が不気味であった。
背後の絵描きと、読めないサンテネリ アルバ公爵は、貴族同士を噛み合わせて均衡を取りつつ、第三の力として平民層を取り込もうとしていると見た。突出か妥協かの二択で、先王は「強い王」を演じ突出したが、新王は妥協の道を選び、その背後に絵を描く者がいる可能性すら示唆された。だが少なくとも、その絵を受け入れて綱渡りをする度胸は王にある。
最大の脅威はサンテネリという結論 帝国は安定、プロザンは拡張という目的が読みやすいのに対し、サンテネリは落とし所が見えない。アルバ公爵は、円熟の皇帝、脂の乗ったフライシュ三世、若いグロワス十三世という並びを見ても、「与しやすいはずのサンテネリが一番怖い」と感じる。帝国もプロザンもやる気だが、サンテネリがどう出るかだけが読めず、だからこそ繊細な対応が必要だと締めた。
【第二十二話】王と戦争
「戦争を知らない」王の自己紹介 語り手であるグロワス十三世は、自分が戦争を年号と映像でしか知らないと認めたうえで、国軍の交戦決定権と全面指揮権を渡された現状を「正気の沙汰ではない」と捉えた。しかも今さら勉強しても、この世界の戦争は現代感覚とかけ離れすぎていて役に立たないと割り切った。
サンテネリ軍の実態:横領が基本の“連隊国家” 軍の中心単位は連隊で、連隊長が領民や流れ者を集め、国から渡された金を兵の給料に回す建前になっていた。しかし現実は中抜きが常態化し、監察制度も買収され、特に「国の中の国」では効きが悪い。階級も細かく整備されず、連隊長と士官が貴族、下士官と兵が平民という身分構造がそのまま軍の構造になっていた。士官は名誉担当で突撃の先頭に立つが、そもそも実戦が起きにくいので普段は威張るだけ、という冷笑的な観察が入った。
戦争は“しょぼくて深刻”な消耗戦 会戦のような派手な決戦より、砦を囲んで控えめに砲撃し、頃合いで明け渡させて進軍する流れが多い。砲弾も「撃ったことにして横流し」という、国家規模のサボりと犯罪がシステム化されていた。だが“しょぼい”のに人は死に、砦は壊れ、修復コストが積み上がり、擦り傷の出血が止まらないように国力が削れていくため、双方が限界を感じると講和に向かう。
規律を作れる中核部隊と「数の暴力」 例外的に複雑な行動が可能な部隊として、デルロワズ公の中核軍(黒針鼠)や王の近衛軍が挙げられた。どちらも領民基盤と世襲の将校団があり、目的意識を持って集まるため強い。ただしサンテネリが大陸で暴れ回れた理由は、精鋭だけでなく“その他の分厚い兵数”があったからで、最終的に物を言うのは数だという現実論に落ちる。
王が戦場にいる意味と、プロザンが強い理由 王が出ると貴族連隊長が命令に従いやすくなる。司令官(同格貴族)に従うのは屈辱でも、王に従うのは忠義で面子が立つからだ。ところが大国は親征しないので、逆に小国プロザンは王が実質総司令官として統制でき、国土の小ささもあって強い。グロワス十三世がフライシュ三世に憧れてしまう心理も、ここで自嘲気味に説明された。
傭兵という“派遣戦力”と国内治安の恐怖 遠征は補給と脱走で破綻しやすく、遠方の戦いは傭兵を雇う方が合理的になる。ただし高い。さらに大きい理由として、国内に大量の武装集団を常在させる危険が語られた。サンテネリ軍の多くは社会から鼻つまみ者扱いで、略奪も起きる。軍も生きるために略奪せざるを得ず、根本原因は国が直接雇用して待遇保証できない財政構造にある、と結論づけた。
対プロザン戦の誘いと、サンテネリの立場転換 プロザンがエストビルグに難癖を付け、シュバル公領を軍事占領し、エストビルグは会戦で大敗して小競り合いが続いている。これまでエストビルグが本気を出せなかったのは、サンテネリが背後から刺す恐れがあったからだ。しかしアナリゼ皇女との婚姻で両国が接近し、プロザンは挟撃のリスクを意識する状況になった。フライシュ三世はその可能性を低く見つつも、王太子と文通するなど手は打っていた。
外務卿ベルノーと「誠意を示さない」帝国を利用する発想 定例閣議後、王は外務卿ベルノー・エネ・エン・トゥルームを招き、バダン宮中伯からの正式打診を聞く。王は自分の態度が弱腰に見えたことを理解しつつ、国家間では損害が生じた側が誠意を示すべきだと整理した。にもかかわらず帝国が誠意を示さないのは、短期利益を最大化したいバダンのプレイヤー気質ゆえだと見抜き、それならこちらも後ろめたさなく動ける“道義的フリーハンド”を得たと冷徹に喜んだ。
王の戦略:小規模参戦で泥沼を維持し、国内改革を優先 王はプロザンに積極関与しないと決めた。軍は出すが国境を軽く侵す程度で、エストビルグの戦いを「軽く援助」するに留め、プロザンが弱りすぎないよう調整する。理想はエストビルグとプロザンが争い続ける状態であり、エストビルグが勝ちすぎればアングランが介入すると見て、その場合はサンテネリがそちらに乗る腹づもりまで示した。サンテネリの最優先は戦争ではなく、国内統合・軍制改革・財政健全化である。
「置物」になって暗君として退く 王は数か月後に大権を内閣へ委任し、アキアヌ大公を首班にガイユール大公やデルロワズ公を含む正式内閣を発足させる予定だと語った。王権で「国の中の国」を破壊吸収できないなら、諸大公に主役を譲り、サンテネリを「彼らの国」にして自分は正真正銘の暗君として名を残す。アナリゼの夫として義理の実家を助けたい気持ちはあるが、王国はもはやルロワ家の私領ではないのでできない。文句は内閣へどうぞ、という皮肉で締めた。
【第二十三話】王の委任
委任と委譲の違い 王は「委譲」でもよいと考えたが、周囲は「委任」を求めた。委譲は退位とルロワ朝の終わりを意味し、変化が大きすぎるからである。委任であれば、王が全権を保持したまま臣下に預ける形となり、「大がかりな人事異動」程度として受け止められ、反発が広がりにくかった。
反対者は家宰とアキアヌ大公であった 強く反対したのは二人である。家宰フロイスブル侯爵(マルセル)は、外様諸侯の参入でルロワ家の権威が落ちることを恐れ、年単位で討論が続いた。もう一人はアキアヌ大公ピエルであり、王が早い段階で構想を打ち明けた相手だった。
旧城での会談と「王の器」問答 王は旧城を負傷兵宿舎へ転用する件で、形だけでも話を通すためピエルを旧城に呼び、昼食と酒をともにした。ピエルは転用に感傷を抱かず、むしろ大量の兵士と年金が生む消費を見て乗り気であった。 酔いが回ったころ、王は「王の器」の有無を問い、自分にそれがあるかを尋ねた。ピエルは一瞬で警戒し「自分は謀反人か」と確認したが、王は逮捕の意図も能力もないと告げ、率直な評を求めた。ピエルは「器はない」と断じ、理由を「兵を潜ませていなかったから」と答えた。答え次第で逮捕する腹なら器がある、と言い返し、政敵としての警戒と逃げ筋を同時に立てた。
王位の誘惑と現状の限界 王は「腹を括った王なら何でもできる」として、アキアヌ大公領を滅ぼす覚悟があれば処刑すら可能だと示した。だがピエルは、それは覚悟ではなく国を滅ぼす暗愚だと切り返し、現在のサンテネリに体力がない現実を突きつけた。王は自分に器がないからこそ舵取りを他者に任せたいと語り、アングランのような仕組みを目指すと明かした。
ピエルの恐れと王の挑発 ピエルは、王は国家の唯一の柱であり、権力を渡す試みは王朝交代や弑逆の連鎖に繋がりかねないと警告した。一方で王は制度化による受け皿を主張し、ピエルを掣肘する第三者も交えればよいと説いた。 ピエルが「その立場を引き受けても自分に利点がない」と問うと、王は「国を動かす責任から逃げるな」と挑発し、ピエルが批判だけを続ける矛盾を抉った。これは王の苛立ちの噴出でもあり、最大の力と富を持ちながら野党気取りでいる姿勢が気に食わなかったのである。ピエルは衝突の末に折れ、即答は避けつつ「考える時間がほしい」と述べ、最後は場を切り替えて飲み直した。王はこの切り替えの早さを「器」に結びつけ、同時に豹変の速さへの警戒も強めた。
側妃たちへの告知と、関係の再確認 王は実権を手放す話をブラウネとメアリにも伝えた。これは条件変更を黙るのは卑怯だという考えからであり、別れを切り出されても仕方ないと覚悟していた。 ブラウネは「陛下が陛下である限り側にいる」と応じ、王の冗談(歳費制限で贅沢できない)にも、むしろ大判布を締めて世話を焼けるのが嬉しいと軽やかに返した。柔らかいが前提条件を外さない姿勢が描かれた。 メアリは一度「不要宣言」と誤解しかけたが、王が望みと彼女の望みを分けて言い直すと態度を改めた。彼女は自分に政治的価値はないが、助けたい一心でいると述べ、すでに二度救っているから三度目も必要になると断言した。王の過去の独り言が彼女の生を支えていたことが明かされ、甘さを含みつつも、彼女の硬質な忠誠が強調された。
【第二十四話】王の旅
王の外遊が面倒すぎる現実 語り手は出不精で好奇心も薄く、本来は宮殿の外に出たがらない立場であった。だがエストビルグから正妃が来る前に、国家内国家(ガイユール)を統合できるかの「肌感」を掴む必要があり、自ら出向く行幸を決めた。行程はシュトロワからバロワ、デルロワズを経てガイユールへ至る王国心臓部の巡回で、随行は妃格のブラウネ、メアリ、主賓のゾフィ、そして内務卿・財務監ら大物に加え護衛兵約五百という大所帯となった。
妃の同乗という地雷原 初日は語り手が「一人旅気分」を満喫してしまい、女性陣が冷えた空気を放った。王と妃は同乗が基本で、誘わないのは政治的メッセージになる不文律だと内務卿に諭され、語り手は一人ずつ誘って事態を収めた。以後、馬車内は賑やかになり、語り手は「王は地雷原を歩く」と痛感した。
近衛軍閲兵と“国軍化”の構想 バロワでは近衛軍を閲兵し、兵役が領民にとって安定職になっている仕組みと、国軍統合でそれが変わっていく未来を見た。デルロワズでは黒針鼠の本拠「針鼠の巣」を視察し、兵器工廠・士官教育・研究を段階的に国立化して「家職」を国家の枠に移す構想を描いた。語り手は演説の定型句の順番を「民・大地・王」に変え、王の軍から民の軍へという意志を小さく刻んだが、同時に自分の胆力不足も自覚していた。
ゾフィの“始まりの地”と意志の宣言 夜、ゾフィは広場へ散歩に誘い、ここがかつてガイユール侵攻の出発点だったと語った。彼女は歴史の敗者側直系としての現実味を抱えつつ、運命ではなく選択だとする語り手の言葉を受け止め、「意志を持つことを許してほしい」と問うた。語り手はそれを肯定し、彼女が子どもから大人へ移る瞬間を見守る姿勢を明確にした。
ガイユール入城と統合の危うさ 玄関都市ロワイヨブル、続く首府リーユは熱狂的歓迎に包まれ、ガイユール方言や都市の繁栄が“異国感”を強めた。リーユは運河で三経済圏の結節点を握る「国の中の国」であり、常備軍を持たない代わりに傭兵と対岸アングランとの結びつきで抑止力を持つ、王国にとって厄介で魅力的な存在として描かれた。ザヴィエ大公は独立の選択肢も踏まえた上で「積極的に王国の一部となる」道を選び、入閣も内定していた。
護衛軍内乱未遂と“王の演説” 入城当夜、近衛と黒針鼠が酒場の諍いから宿営地で銃を手に対峙する騒ぎが起きた。語り手は現場に出て、近衛に「王を知らぬのに何故忠誠を誓う」と突きつけ、「私がサンテネリなのではない、サンテネリが私なのだ」と土地と人を守れと叫んだ。黒針鼠には「デルロワズ公の私兵か、国軍か」を迫り、兵権は王にあると明言して同一指揮系統を叩き込んだ。反応は薄かったが、「王が仲裁に来た」という事実が鎮静の効力となり、酒を振る舞って収束させた。
リーユでの告白と“両方を愛せ” 公式日程後、ゾフィと運河沿いを歩き、語り手は王権を手放し置物になる構想を説明し、ゾフィが王との関係では自由だと告げた。ゾフィはそれでも「好きだ」と断言し、それが恋愛の甘さではなく政治的決断として提示された。彼女は父ザヴィエの評価「王として戴くに値する方だ」を引き、語り手に「鳥の首飾りの自分」と「宝玉石の自分」という相反する姿の両方を受け止めてほしいと求めた。語り手はそれを彼女の意志と認め、「私とシュトロワに来てくれ。共に暮らそう」と受け入れ、彼女は無言で腕に抱きついた。
【第二十五話】暗君とガイユールとデルロワ
ガイユール大公ザヴィエの「王」観と違和感 ガイユール大公ザヴィエは、ロワイヨブルの夜に近衛とデルロワズ兵の間へ立ち、喉が枯れるほど演説するグロワス十三世を目撃し、当代の王が歴代のサンテネリ王と質的に異なると確信した。王は本来、理解を求めず命ずるのみで神格化されるべき存在だが、グロワス十三世は状況を理解したうえで過程まで語り、他者の理解を求める繊細さを見せていた。ザヴィエはそれを王権にとって致命的とも評しつつ、王が自分の危うさを自覚し、あえて王権を棚上げする新政権構想に踏み込む点に、逆説的な「王の器」を見た。
ゾフィの問いと、婚姻が持つ政治的な重し ザヴィエは、娘ゾフィが「命令を聞きに来た」のではなく、決断の材料として助言を求めてきたことに動揺した。彼は個人としてのグロワス十三世を悪くないと感じながらも、王として釣り合うかを測り直した末、ロワイヨブルの夜の演説が兵の存在意義を「領」から「国」へ書き換える力を持つと理解した。新政権後に混乱の調整役を背負うのは王ではなく実務側であり、だからこそガイユール大公女を妻とする事実が王にとっても周囲にとっても「重し」になると考えた。
王が描いた布石と、ガイユールが抱える詰み筋 ザヴィエは、王が各勢力との縁を姉妹や縁談で丁寧に組み替え、最後に残るピースがガイユールであると見抜いた。さらにゾフィが「陛下は私の選択を尊重する」と語ったことで、ゾフィが望むのに父が反対すれば王が圧をかけ得る構図、逆に父が望むのにゾフィが拒めば家庭内で説得を迫られる構図が浮かび、どちらもガイユールの立場を不安定にすると読んだ。結局、絵を描いているのは家宰でもアキアヌでもなく、若い王自身だと結論し、ザヴィエはゾフィの望みに賛同して王への奉仕を許した。
デルロワズ公ジャンの評価と恐怖 デルロワズ公領の主であり王国軍元帥でもあるジャン・エネ・エン・デルロワズは、王が約束を守り、さらにバロワ家次女との縁談まで整えたことで、個人的にも王と結び付いた。即位当初は若い王が軍を消耗品のように扱うと危ぶんだが、不予以来の変化によって、王が分析の細部に溺れず「大きく掴み、大きく舵を取る」術を心得た存在だと認め、仕えるに値する王だと判断した。
国軍統合がもたらす栄光と破滅の二択 一方でジャンは、王が近衛を吸収して国軍を混合体に変え、デルロワズ家の私兵という建前を実態へ塗り替えようとしている点に、朧気な恐怖を抱いた。短期的にはデルロワズ家の利となるが、長期的には軍が家の手を離れ、重職の独占が崩れ、家の「当然」が失われる未来が見えたからである。それでも新政権に参加しなければ発言権を失い、政府に従属するだけになるため、ジャンは当事者として改革に加わる道しか選べなかった。王の方向性が正しければサンテネリは「国」を背負う本物の軍を得て大陸軍へ至るが、誤れば権益侵害で貴族が反発し、平等思想が先鋭化し、財源不足で兵制改革が頓挫して王権が崩れ、グロワス十三世は呪われる亡国の王となる危険もまた示された。
地に落ちて死なば
三年生き残った王の自己採点 正教新暦一七一五年、グロワス十三世は治世三年を迎えたと独白し、異世界で王として三年生き延びた事実を「偉業」だと位置づけた。機能不全の専制国家に放り込まれて統治せよと言われても普通は無理だと自嘲しつつ、自分が生き残れた理由を整理しようとした。
生存理由① 権力ではなく王権の権威 彼がまず挙げたのは、ルロワ王家が長い歴史で積み上げた「王はサンテネリそのもの」という常識の強さであった。国家に不可欠な装置として王が見做され、個人は極端に言えば誰でもよいが、彼自身は先王と正妃の嫡子という血統の正統性で圧倒的に守られていると認識した。
生存理由② 譜代官僚の優秀さと“無害さ” 次に彼は、家宰や内務卿ら譜代が非常に優秀で、しかも積極的に害そうとせず支えてくれる幸運を挙げた。彼らが守りたいのは王権であり、その王権を毀損するほどの「危険物」ではないと見做されているからこそ、生かされているのだと自己分析した。王として有能というより、少なくとも致命的に有害ではないという評価で延命している点に、皮肉と安堵が混じっていた。
生存理由③ 女性たちと義務としての愛 彼は自分が繊細で、常に作り笑いの裏で怯えていると認めたうえで、この世界の構造そのものに好悪の違和感があると吐露した。その苦痛を和らげたのが女性たちの存在であり、彼は彼女たちに想いを捧げられて王として生きていると感じていた。ゆえに返礼として愛したいのではなく、王として「愛さなければならない」と自らに課し、個人の感情と王の義務が絡み合う重さを示した。
聖句の引用と、自己犠牲の政治哲学 彼は「一粒の麦」の聖句を引き、自分は文字通り一度地に落ちて死んだ存在だと語った。そのうえで、サンテネリにおいて自分の身を“種”として、善きものや豊かな実りをもたらせるかを自問した。ただし国家の変化は生前に結果が出ず、歴史の善悪も相対的であるため、結局は自分の価値観に従って選び続けるしかないと結論づけた。
臆病な歩みと暗君の矜持 彼は「より善いと感じる方」へ進むと誓うが、臆病ゆえに震えながら、すり足で進むと宣言した。それでも「暗君にも矜持はある」と締め、自己評価の低さを抱えたまま、王としての意志だけは捨てない姿勢を明確にした。
『視ること: ゾフィ』
視線という権力と無意識の回避 グロワス十三世は、視線そのものが周囲に意味を伝えてしまう王の立場を自覚していた。意図せず視線を向けただけで「王の関心」と解釈されるため、彼は無意味さを示す対象として壁や天井を見る癖を持っていた。それは視覚情報を断つための、消極的で防御的な選択であった。
絵画観をめぐる対話の始まり 茶室で待機していた彼のもとにゾフィが現れ、壁画を見つめる姿から絵画への関心を読み取った。グロワス十三世は、特定の作品ではなく、筆致や細部から描き手の意志を感じ取ることに楽しみを見出していると語った。サンテネリにおいて絵画が芸術ではなく実用品として扱われている現状が、両者の会話の前提として浮かび上がった。
「正確さ」とは何かという問い ゾフィは絵の価値を「似姿」としての正確さに置いていたが、グロワス十三世は人物画における正確さの定義そのものを疑問視した。熟練の画家と自分が同時にゾフィを描いた場合を想定し、外見の再現では画家に及ばずとも、その人の在り方や内面であれば自分の方が描けるかもしれないと述べた。
目に見えないものを描くという価値 彼は執務室に飾られた「女王戴冠」の絵を例に挙げ、写実的ではなくとも、マルグリテ女王の本質を伝えている点で「正確」であると評価した。ゾフィもまた、絵が人の怖さや本質を伝え得ることに気づき、目に見えないものを描く意義を理解していった。
ゾフィの問いと、王の答え ゾフィは冗談めかして、自分ならどんな姿を描くのかと問いかけた。グロワス十三世は、彼女の美ではなく、聡明さと思いやりを描くと答え、夫の拙い話を楽しんで聞く心優しい妻の姿を示した。その言葉を受けたゾフィは、彼の腕に身を寄せ、深く頷いた。
真心としての視線 その仕草は単なる社交的反応ではなく、ゾフィ自身の真心からのものだと、グロワス十三世には感じられた。無意味さを示すために向けていた視線は、いつしか一人の人間を「視る」行為へと変わっていたのである。
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汝、暗君を愛せよ
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