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フルメタル・パニック! 3巻の表紙画像(レビュー記事導入用)

小説「フルメタル・パニック! 3 揺れるイントゥ・ザ・ブルー」感想・ネタバレ

フルメタル・パニック! 2巻
フルメタル・パニック! 4巻

物語の概要

本作はSFミリタリーライトノベルであり、「学園もの」と「軍事もの」を両立させたシリーズの第3巻である。世界最強の兵士である《ミスリル》所属の兵士 相良宗介 は、護衛対象の高校生 千鳥かなめ と共に、日常と非日常の境界を揺らしながら戦いと日常生活を往復している。第3巻では、宗介がかなめを誘って訪れた南の島での“夏休み”が、甘くない冒険と危険なテロ事件に発展し、猛毒兵器や残忍な敵が二人を追い詰める。テロの裏に潜む巨大な陰謀を追いながら、戦闘・逃走・協力関係が極限状況下で展開される。

主要キャラクター

  • 相良宗介
    主人公である《ミスリル》所属の特殊兵士。戦闘技能・戦術構築能力に優れ、護衛任務のため高校生活へ潜入しながらも、危険な戦闘状況に即応する最強クラスの兵士である。
  • 千鳥かなめ
    宗介の護衛対象であり物語のヒロイン。平凡な高校生として生活していたが、宗介の護衛によって非日常へ巻き込まれる存在。《ウィスパード》と呼ばれる特殊能力が物語の中核に関わる可能性を秘める。
  • テレサ・“テッサ”・テスタロッサ
    《ミスリル》の指揮官の一人。冷静な判断力と部隊運用能力を備え、宗介たちを支援する役割を果たす。

物語の特徴

本作の魅力は、SFミリタリーアクションと青春的要素が同時進行する点にある。単なる戦闘ストーリーではなく、護衛対象であるヒロインと兵士の信頼関係、日常生活の混乱、そしてテロ・陰謀という硬派な展開がミックスされている。第3巻では特に“南の島での一見平穏な休暇が命がけの戦いに変わる”という構成が秀逸で、読者に緊張と安堵の両方を味わせる構造となっている。また、戦闘描写のみならず、心理面や人間関係の駆け引きを重視している点が他の軍事系ライトノベルとの差別化ポイントである。

書籍情報

フルメタル・パニック! 3 揺れるイントゥ・ザ・ブルー
Full Metal Panic
著者:賀東 招二 氏
イラスト:四季童子  氏
出版社:KADOKAWA
レーベル:ファンタジア文庫
発売日:2000年2月14日
ISBN:9784040711188

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あらすじ・内容

「ふたりだけで、南の島へ行こう」宗介からの誘いにかなめは…!?
うだるような夏。ちょっとした冒険もなく、ロマンスもなく、ひたすら生徒会の雑務に追われる千鳥かなめの夏休みは、そのひと言で激変した。「ふたりだけで、南の島へ行こう」世界最強の戦争ボケ男・相良宗介らしからぬ突然の誘い! 戸惑いながらもかなめはときめきを隠せない。だが、それは甘酸っぱいひと夏の出来事であるわけもなく、命がけのスリルと恐怖への特急券であったのだ! 危険な化学兵器解体所を襲った“猛毒”と呼ばれる朱い鋼鉄の悪魔が、宗介とかなめを追いつめていく! テロ事件の裏に潜む巨大な陰謀! そしてふたりに、残忍な殺人鬼は迫っていた!! お待たせっ! 超人気シリーズ、ファン待望の書き下ろし長編。

フルメタル・パニック!揺れるイントゥ・ザ・ブルー

感想

シリーズの中でも緊張感と感情の振れ幅が最も大きい一冊であり、軍事アクションと人間関係の転換点がはっきりと刻まれた巻であると感じた。

物語は、夏休みにもかかわらず生徒会の雑務に追われる千鳥かなめの鬱屈から始まる。そこに投げ込まれる、相良宗介の「ふたりだけで、南の島へ行こう」という一言は、あまりにも不器用で、あまりにも宗介らしくない。その違和感こそが、今回の出来事が単なるバカンスでは終わらないことを強く予感させていた。実際、かなめが連れて行かれた先で待っていたのは、甘酸っぱい非日常ではなく、トゥアハー・デ・ダナン占拠事件という極限状況であった。

トゥアハー・デ・ダナンが敵に占拠されてからの展開は、アクション作品として非常に出来が良い。もっと多くの犠牲が出てもおかしくない状況が続き、閉鎖空間である潜水艦という舞台が、緊張感を何倍にも増幅させている。ASが暴れ回れる格納庫を備えた潜水艦のスケール感には、改めて驚かされ、「こんなものが海の底を動いている」という設定そのものが強い迫力を持っていた。

今回の敵役であるガウルンの存在感も際立っている。生きていたという事実そのものが不穏であり、壊れ切った悪役としての振る舞いは、場面ごとに空気を一段冷やす力を持っていた。理屈も交渉も通じない狂気が、潜水艦という逃げ場のない場所に放り込まれることで、常に「最悪」が視界の端にちらつく。この緊迫感が、トゥアハー・デ・ダナン占拠以降の物語を最後まで引っ張っていたように思う。

しかし本巻の核心は、単なる占拠事件の解決ではない。事件の渦中で描かれる、かなめと宗介のすれ違いと、その乗り越え方にこそ強く心を引かれた。宗介はこれまで、かなめの隣にいる理由を「任務」という言葉で整理してきたが、今回の出来事を通じて、それだけでは説明できない感情があることを自覚していく。その気付きは小さく、劇的な告白があるわけでもないが、だからこそ重みがあった。

かなめの側も同様である。守られる存在でありながら、宗介の内面の変化を敏感に感じ取り、彼が自分をどう見ているのかを真剣に考えるようになる。本巻を読み終えた時点で、二人の思いの方向性ははっきりと定まり、「護衛対象と護衛者」という関係にはもう戻れない地点に立ったと感じられた。特に、宗介が「任務だからではない」と自覚できたことは、今後の関係性を大きく変える決定的な一歩である。

総じて本巻は、シリーズ前半の一つの山場であり、軍事アクションとしての完成度と、ラブコメでは済まされない人間関係の深化が同時に描かれた一冊である。トゥアハー・デ・ダナン占拠という極限状況の中で、銃やAS以上に重要なものが何であるかが静かに浮かび上がる。その余韻が強く残り、次の物語で二人がどのような距離感で進んでいくのか、自然と続きを手に取りたくなる巻であった。

最後までお読み頂きありがとうございます。

フルメタル・パニック! 2巻
フルメタル・パニック! 4巻

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登場キャラクター

学校関係

千鳥かなめ

高校二年生であり、生徒会の雑務に追われていた人物である。相良宗介の常識外れな発想に反発しつつも、行動の端々で彼に巻き込まれていった。テレサ・テスタロッサとは同年代の友人として接点を持ち、艦内では部外者としての居心地の悪さも味わっていた。
・所属組織、地位や役職
 高校の生徒であり、生徒会の作業を担っていた。
・物語内での具体的な行動や成果
 文化祭ゲート費用の異常に気づき、現場で宗介と衝突した。
 宗介の提案で遠出に同行し、〈トゥアハー・デ・ダナン〉へ乗艦した。
 艦内の非常事態では、艦長室の金庫からユニヴァーサル・キーを回収した。
 TAROSと同調し、艦の制御系と接続した状態に至った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 艦内では「過去に多くの命を救った」として乗員の敬意を受けた。
 ウィスパードとして狙われる立場であると説明を受けた。

ミスリル

相良宗介

〈ミスリル〉のSRT要員であり、現場判断を優先する性格であった。千鳥かなめの護衛と作戦任務が重なり、感情の処理が遅れて衝突も起こした。ARX-7〈アーバレスト〉の運用では、機体が「SGTサガラ」を条件にする異常性を背負っていた。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉SRTの軍曹であった。
 ARX-7〈アーバレスト〉の担当者であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 千鳥かなめをメリダ島へ連れて行く任務に就いていた。
 飛行中にかなめを同伴させ、海上へ跳躍して潜航乗艦を実施した。
 作戦ブリーフィングで、未知AS「ヴェノム」破壊任務を一任された。
 艦内の非常事態では、かなめの救出と敵対者の排除に動いた。
 格納庫でガウルン搭乗機と対峙し、最終局面の戦闘へ踏み込んだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 ラムダ・ドライバが宗介の搭乗でのみ駆動した。
 護衛任務の重圧が行動と判断に影を落とした。

テレサ・テスタロッサ

強襲揚陸潜水艦〈トゥアハー・デ・ダナン〉の艦長であり、若年ながら指揮権を握っていた。艦内では公平さを崩せない立場を自覚し、私情を抑えて行動していた。千鳥かなめには最高機密の一部を説明し、危険を直視させる役割も担っていた。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉の大佐であり、〈トゥアハー・デ・ダナン〉艦長であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 〈パサデナ〉への接近試験を指揮し、帰還航行を進めていた。
 事態B20cを化学兵器施設の占拠と断定し、進路変更を命じた。
 艦内パーティを実施し、士気維持の場を作った。
 かなめにウィスパードと共振の危険を説明し、口外禁止を求めた。
 艦内の乗っ取りでは、発令所で対抗手段の実行に踏み切った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 順安事件での操艦が評価され、クルーの見方が変わった。
 艦の制御に関わる機密を把握する数少ない人物として扱われた。

リチャード・マデューカス

〈トゥアハー・デ・ダナン〉の副長格として、艦内秩序と実務を支えていた人物である。テッサの若さに反発していた過去を持ち、順安事件以降に評価を改めた。艦内の異変では判断の遅れが致命域に近づく形となった。
・所属組織、地位や役職
 〈トゥアハー・デ・ダナン〉の中佐であり、副長級の立場であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 艦長の体調を気遣い、発令所運用を補佐した。
 隔壁封鎖と酸素遮断の局面で、後部への確認指示を出そうとした。
 緊急浮上後は、積荷固定の規律徹底を再確認した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 艦内の評価軸が艦長中心へ移った過程を内心で整理していた。

クルツ・ウェーバー

SRT要員であり、軽口と行動力を併せ持つ人物である。相良宗介をからかいながらも、状況の核心では身体を張った。艦内の非常事態では、裏切り者と対峙しつつ宗介を前へ押し出した。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉SRTの軍曹であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 艦内パーティで司会を務め、場を強引に回した。
 宗介の言動を非難し、拳で制裁して軌道修正を促した。
 艦内の異変では宗介と合流し、銃声の方向へ走った。
 グェンとの対峙で負傷しつつも時間を稼いだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 宗介に対して、謝罪と救助を優先させる圧力をかけた。

マオ

SRT要員であり、現場での判断と切り替えが早い人物であった。かなめには艦長の立場の重さを説明し、別の角度から現実を示した。艦内の混乱では、負傷状態でも前線に介入した。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉SRTの隊員であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 作戦編成で爆弾処理班の一員となった。
 かなめに艦長の公平性と制約を説明した。
 グェンとの場面で投擲により戦局を反転させた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 作戦後に軽傷として搬送される描写があった。

アンドレイ・カリーニン

作戦の説明と統制を担う立場にあり、情報の整理を優先した人物である。未知ASの脅威を前に、命令違反を厳罰と断言した。テッサに対しても責任感を見せていた。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉の少佐であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 作戦ブリーフィングで敵勢力と基地状況を説明した。
 未知AS「ヴェノム」への交戦回避命令を強調した。
 宗介に破壊任務が集中する構図を提示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 命令体系の中核として、現場に強い制約を課した。

ノーラ・レミング

〈アーバレスト〉担当の技術士官であり、装備の説明と整備方針を示した人物である。ラムダ・ドライバの不明点を率直に認め、宗介の適性を「結果」から評価した。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉の少尉であり、技術士官であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 〈アーバレスト〉の塗装変更と隠密仕様を進めた。
 ラムダ・ドライバの構成要素と未解明点を説明した。
 駆動条件が宗介依存である事実を示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 機体の予備部品が限られる制約を共有した。

ゲイル・マッカラン

SRTの大尉であり、作戦上の編成で中心に置かれた人物である。艦内パーティではビンゴの当選者として場の焦点になった。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉SRTの大尉であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 作戦編成で突入班の担当になった。
 艦内ビンゴで一等賞に当選し、テッサの形式的なキスを受けた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 作戦指示の引き継ぎ元として名前が挙がった。

デジラニ

ソナー員として状況報告を担い、艦の試験運用の実態を軽口混じりに語った人物である。米軍艦艇への接近監視が演習である点を示した。
・所属組織、地位や役職
 〈トゥアハー・デ・ダナン〉の軍曹であり、ソナー員であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 〈パサデナ〉の浮上傾向を報告した。
 接近試験の経緯をテッサへ説明した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 試験結果として静粛性に課題が残る判断へ繋がった。

ゴールドベリ

艦医として千鳥かなめの状態を確認し、安全対策用のプレートを渡した人物である。動力源に関わるリスクを簡潔に説明した。
・所属組織、地位や役職
 〈トゥアハー・デ・ダナン〉の大尉であり、艦医であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 かなめの検査結果を「問題なし」と判断した。
 被曝確認用のプレートを手渡した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 艦の安全対策の一端を補強する役となった。

カスヤ・ヒロシ

厨房を預かる立場であり、かなめの様子を見て干渉を避けた人物である。宗介の探索にも協力し、かなめの位置情報を伏せた。
・所属組織、地位や役職
 〈トゥアハー・デ・ダナン〉の上等兵であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 かなめの落ち込みを察し、無理に関わらなかった。
 宗介に対して「見ていない」と答え、時間を稼いだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 艦内の人間関係の摩擦を増やさない立ち回りをした。

AI〈ダーナ〉

艦の中枢にあるAIとして、回線受信や航法、警告を淡々と出力した存在である。乗っ取りでは「艦長」として扱われ、命令系統の争点になった。
・所属組織、地位や役職
 〈トゥアハー・デ・ダナン〉の運用AIであった。
・物語内での具体的な行動や成果
 タスキング受信を告げ、電文転送を行った。
 魚雷接近を警告し、戦術表示を更新した。
 艦長側の命令で囮射出などの手順を実行した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 「誰が艦長か」という支配の象徴として利用された。

AI〈アル〉

〈アーバレスト〉と直結するAIとして、ラムダ・ドライバ駆動条件を表示した存在である。宗介依存の表示が消せず、運用上の制約となった。
・所属組織、地位や役職
 ARX-7〈アーバレスト〉のAIであった。
・物語内での具体的な行動や成果
 「SGTサガラの搭乗が必要」という条件表示を出した。
 無理な処置で凍結する挙動が示された。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 機体の異常性を裏づける根拠として扱われた。

バニ・モラウタ

ウィスパードであり、ラムダ・ドライバ搭載機を作った人物として語られた。知識の引き出しが危険である例として、末路が説明された。
・所属組織、地位や役職
 所属は明示されず、〈アーバレスト〉開発の関係者として扱われた。
・物語内での具体的な行動や成果
 ラムダ・ドライバ搭載機の製作者として言及された。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 「ささやき」に踏み込み、発狂して自死したと説明された。

米海軍

キリィ・B・セイラー

攻撃型原潜〈パサデナ〉の艦長であり、短気で対立を起こしやすい人物であった。未知目標への執着を抱き、判断を攻撃に寄せていった。
・所属組織、地位や役職
 米海軍攻撃型原潜〈パサデナ〉の中佐であり、艦長であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 正体不明コンタクトS15の回避行動を命じた。
 司令部命令に苛立ちつつ、待ち伏せ方針へ落とし込んだ。
 〈トイ・ボックス〉と判断した目標へ魚雷攻撃を決断した。
 安全深度解除を指示し、再攻撃準備へ進んだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 誤認を含む強い確信が、交戦エスカレーションの要因になった。

マーシー・タケナカ

〈パサデナ〉の副長として補佐に回り、艦長の暴走を現実面から支えた人物である。噂話として「トイ・ボックス」を口にし、状況理解の枠組みも与えた。
・所属組織、地位や役職
 米海軍攻撃型原潜〈パサデナ〉の大尉であり、副長であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 ソナー解析と状況整理を艦長へ補足した。
 「トイ・ボックス」の噂を艦長へ共有した。
 攻撃判断の局面で確認と補助を行った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 艦長の衝動を止め切れず、攻撃行動に同乗した。

エド・オルモス

ペリオ共和国の戦場に投入された米軍側AS搭乗者として登場した。赤いASにより圧倒され、交戦の末に死亡した。
・所属組織、地位や役職
 米軍側の二等軍曹であった。
 M6A3〈ダーク・ブッシュネル〉の搭乗者であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 海岸で撤退機動を取りつつ交戦した。
 通常兵器が通じない相手を前に抵抗を続けた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 未知兵器の脅威を示す犠牲として描かれた。

武装勢力・敵対者

ガウルン

敵対勢力の中心人物として動き、赤いAS〈ヴェノム〉の搭乗者であると明かされた。艦内では乗っ取りを実行し、酸素遮断やミサイル発射で危機を拡大した。宗介とかなめへの執着を示し、最終局面でも自爆を選択した。
・所属組織、地位や役職
 武装勢力側の指揮者であった。
 〈コダールi〉および赤いAS〈ヴェノム〉の搭乗者であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 ベリルダオブ島で米軍部隊を壊滅させた。
 艦内でAI〈ダーナ〉を利用し、艦の制御を掌握した。
 酸素遮断を脅しとして使い、実行に移した。
 〈ハープーン〉対艦ミサイルの発射を命じた。
 格納庫で宗介と交戦し、自爆を選んだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 右脚を失った過去が示され、義足の描写があった。
 生還への執着が薄く、破滅を選ぶ傾向が強調された。

クラマ

ガウルンの協力者として登場し、通信で得た情報を伝える役を担った。〈ミスリル〉介入の見通しを報告し、ガウルンの歓喜を引き出した。
・所属組織、地位や役職
 ガウルン側の協力者であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 〈ミスリル〉が本格介入する可能性を伝えた。
 宗介とかなめが同じ艦にいる可能性を示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 情報伝達により、敵側の行動方針を後押しした。

グェン

敵側の内通者として動き、艦内で宗介とクルツを牽制した。作戦編成では狙撃班に入っていたが、後に銃で味方を止める立場へ転じた。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉SRT要員として登場した。
 後に裏切り者として行動した。
・物語内での具体的な行動や成果
 艦内通路で宗介とクルツに拳銃を向けた。
 買収を口にし、寝返りを促した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 内部崩壊の直接要因として機能した。

ダニガン

敵側の実行役として艦内でかなめを追跡し、暴力で支配しようとした人物である。最終的に厨房でかなめと宗介により排除された。
・所属組織、地位や役職
 ガウルン側の戦闘員であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 艦内でかなめを捕まえ、逃走を強要して追い詰めた。
 厨房でかなめへ致命傷を狙う動きを見せた。
 宗介の突入後に交戦し、死亡した。
・地位の変化, 昇進, 影響力, 特筆事項
 かなめの生存本能と状況対応を引き出す存在になった。

ゴダート

艦内運用の一部を担う人物として名前が出た。タートルのコントロールを任され、収容手順の中核を担当した。
・所属組織、地位や役職
 〈トゥアハー・デ・ダナン〉側の要員であった。
・物語内での具体的な行動や成果
 無人艇「タートル」のコントロールを担当した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 艦の収容手順の成立に関与した。

その他

リャン

艦内の異変を示す場面で、死亡していた事実が発見された人物である。拘束具の抜け殻とともに状況悪化の証拠になった。
・所属組織、地位や役職
 〈ミスリル〉側の一等兵として言及された。
・物語内での具体的な行動や成果
 第一状況説明室で死体として発見された。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 艦内が訓練ではないと確信させる材料になった。

ヤン

艦内の揉め事を止める役として登場し、状況説明も担った人物である。クルツの行動意図を宗介へ補足した。
・所属組織、地位や役職
 伍長として登場した。
・物語内での具体的な行動や成果
 クルツの暴力沙汰を制止した。
 クルツの真意を宗介へ説明した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 内部の衝突が致命傷にならないよう抑える役割を持った。

展開まとめ

プロローグ

夏休みの終わりと千鳥かなめの虚脱感

夏休み終了を目前にした高校二年生の千鳥かなめは、友人たちがそれぞれ充実した時間を過ごす中、文化祭準備に追われる自分の現状に虚しさを募らせていた。生徒会室は冷房故障で使えず、体操服姿で廊下に寝そべりながら予算書類を確認する日々を送っていた。

異常な入場歓迎ゲートの請求書

文化祭資料の中で、かなめは入場歓迎ゲート制作費が約百五十万円に達していることに気づいた。その異常さに憤り、資材置き場へ向かう。

要塞のようなゲートと相良宗介の主張

現地で目にしたのは、金属フレームと装甲板で構成された要塞同然の構造物だった。責任者の相良宗介は、治安維持と抑止効果を目的とした保安施設だと説明し、武装テロへの備えまで想定していた。かなめは常識外れの発想と予算浪費を強く非難する。

マーキング装置の誤作動

口論の最中、かなめがゲート内部を通過したことでマーキング装置が作動し、赤い塗料を全身に浴びてしまう。宗介は冷静に装置の機能を説明するが、かなめの感情は限界に達する。

怒りから悲哀へ

塗料まみれになった自身の姿と、空虚な夏の終わりが重なり、かなめは深い悲しみに沈む。宗介を張り倒した後、自分の青春が何も残らず終わろうとしていることを嘆いた。

突然の旅行の誘い

かなめの話を聞いた宗介は、数日間の遠出を提案する。南の島へ二人きりで行くという予想外の誘いに、かなめは戸惑いながらも、最終的に承諾した。

1:トイ・ボックス

米海軍潜水艦〈パサデナ〉での異常探知

八月二五日、マリアナ諸島近海を航行中の米海軍攻撃型原潜〈パサデナ〉は、正体不明の新たなコンタクトS15を探知した。艦長キリィ・B・セイラー中佐は休憩直前だったが、正体不明の目標を前に持ち場を離れられず、発令所で指揮を執ることになる。

艦長と副長の衝突

副長マーシー・タケナカ大尉は冷静に状況を補佐するが、短気なセイラー艦長と口論になり、発令所ではいつもの衝突が繰り返される。しかしS15の解析が進むにつれ、艦内は緊張感を増していった。

国籍不明の巨大潜水艦の可能性

ソナー解析により、S15は二軸スクリューを持つ大型艦である可能性が示されるが、既存データには該当せず、ロシアの弾道ミサイル潜水艦とも一致しなかった。国籍も目的も不明な存在として、〈パサデナ〉は追跡を検討する。

異常な急接近と衝突回避

S15は突如、至近距離まで接近し、衝突寸前の状況となる。セイラー艦長は緊急回避行動を命じ、〈パサデナ〉は激しい旋回と潜航で衝突を回避した。艦内は大混乱に陥るが、最悪の事態は免れた。

謎の消失

衝突を免れた直後、S15は突如としてソナーから完全に消失した。機器故障の可能性も検証されたが、異常は確認されず、目標は痕跡すら残さなかった。

幽霊潜水艦「トイ・ボックス」の噂

タケナカ副長は、この現象が「トイ・ボックス」と呼ばれる幽霊潜水艦の噂と一致すると語る。音もなく現れ、音もなく消え、どの高性能艦も追跡に失敗しているという存在であった。

世界的脅威の示唆と報告決断

もしその潜水艦が核兵器を搭載していれば、世界規模の破滅を引き起こしかねない。事態を重く見たセイラー艦長は司令部への報告と浮上を決断し、指揮を副長に委ねて発令所を後にした。

艦長の私的な決意

去り際、セイラー中佐は「トイ・ボックス」の艦長への強い敵意を胸に抱き、その正体と再会を強く望むのだった。

同時刻強襲揚陸潜水艦〈トゥアハー・デ・ダナン〉

テッサの悪寒と発令所の状況

テレサ・テスタロッサ大佐は発令所で突然悪寒を覚え、マデューカス副長に気遣われたが、空調のせいだとして受け流した。〈トゥアハー・デ・ダナン〉の発令所は広く、各部署のクルーが専門任務に就き、隣室のソナーや通信部門とも連携する体制にあった。

〈パサデナ〉への接近と演習の実態

ソナー員デジラニ軍曹は、米軍潜水艦〈パサデナ〉が浮上しつつあることを報告し、〈デ・ダナン〉が背後に張りついていた事実を軽口混じりに語った。テッサは相手に申し訳なさを示しつつも、演習相手が乏しい事情から、米軍艦艇を相手に接近・監視・回避の試験を行っている現状を受け入れていた。試験結果として、通常推進での静粛性には調整の余地があると判断された。

帰還航行の開始と高性能艦の描写

整備基地のあるメリダ島へ戻るため、電磁流体制御をパッシブにし、通常推進を再始動して前進原速で航走を開始した。可変ピッチ・スクリューが形状を変え、静粛性と効率を最適化しつつ、巨大な船体はほとんど音を立てずに前進した。テッサは日本の漁船操業海域での事故を避けるため、ソナー室に特定方位の警戒を指示した。

艦内の変化とテッサの評価

マデューカスは、当初は若年のテッサが艦長であることに反発していたクルーが、今では評価を一変させた経緯を回想した。四か月前の順安事件での操艦が決定打となり、彼女の技量と度胸が艦内に浸透した結果、艦は彼女を中心に据えた独特の秩序を帯びるようになっていた。

千鳥かなめの来訪予定と相良宗介への含み

テッサは基地帰還後に誕生パーティを予定し、翌日に千鳥かなめをメリダ島へ招くよう相良宗介軍曹へ依頼していたことを語った。マデューカスは、テッサが宗介の話題で声を弾ませたことを見逃さず、必要なら彼を遠ざける判断も視野に入れ、艦長周辺への「妙な虫」を警戒していた。

タスキング受信と進路変更命令

航走開始から一時間後、マザーAIが回線E2のタスキング受信を告げ、電文が転送された。テッサは帰還中止と進路南下を命じ、マデューカスに電文を回した。最優先命令では、区域L6-CWで事態B20cが発生し、現任務を中止して陸戦隊搭載後、指定海域へ五〇〇時間以内に進出・待機することが指示されていた。

事態B20cの正体と新たな戦争の予感

目的地は南方のペリオ諸島であり、テッサはB20cを化学兵器貯蔵施設が武装グループに襲撃・占拠された事態だと即座に断定した。爆破されれば住民と観光客に甚大な被害が及び、国家が消滅しかねないと見積もった。米軍による鎮圧が想定される一方で、状況次第では〈ミスリル〉の介入が不可避となり、テッサは再び戦争になると覚悟を口にした。

八月二六日 一三三〇時(日本標準時間)

移動中の相良宗介の困惑

相良宗介は、〈ミスリル〉西太平洋基地メリダ島へ向かう途中、双発ターボプロップ機の機内で千鳥かなめの不機嫌さに焦っていた。出発時のかなめは上機嫌で、セスナ機で八丈島へ向かう段階までは旅行に期待していたが、八丈島で宗介が目的地を〈ミスリル〉基地と明かし、さらにテレサ・テスタロッサ大佐がかなめに会いたがっていると説明した途端、かなめは黙り込み、無言のまま態度を硬化させた。

不機嫌の表面化と通信呼び出し

宗介が不満の有無を尋ねても、かなめは皮肉を返し、距離を置くように窓へ視線を向けた。宗介は副操縦士からメリダ島経由の連絡を受け、操縦室で同僚クルツ・ウェーバー軍曹と通信する。そこで事態に伴う待機命令が出ており、宗介も可及的速やかに航行中の〈トゥアハー・デ・ダナン〉へ乗艦せよと告げられた。

かなめ同伴の許可と宗介の決断

宗介は、メリダ島に到着できないためヘリでの合流が不可能だと判断し、かなめをどうするか悩んだ。するとクルツから、テッサの伝言として、かなめがよければ艦に同伴させてよいとの許可が伝えられる。宗介は特殊な乗艦方法を伴う点を踏まえつつも、安全性は高いと考え、かなめも連れて行くと決めた。

千鳥かなめの誤解と失望

一方のかなめは、旅行が二人きりの特別な出来事になり得ると悩みつつも、次第に楽しみに気持ちを切り替えていた。しかし八丈島での説明により、今回が宗介の任務の都合で自分が「届け物」のように扱われているのだと理解し、強い脱力と惨めさを覚えて不機嫌になっていた。

目的地変更と水着への着替え指示

宗介はキャビンに戻り、予定変更としてテッサがメリダ島にいないこと、彼女のいる船へ同行してほしいことを告げる。かなめは無関心を装って了承するが、宗介は操縦室との往復を続けて準備を進めた。やがて宗介は水着の有無を確認し、急いで着替えるよう指示する。かなめはトイレでワンピース水着に着替え、戻ると宗介は私服の上からウェットスーツを着ていた。

装備装着と緊迫したタイムリミット

宗介はかなめに完全防水の袋へ手荷物を詰めるよう命じ、さらに頑丈なベルトと金具の付いた装備を装着させた。操縦室側では燃料不足でやり直しができない状況が示され、時間制限の中で宗介はかなめと自分を金具で連結し、二人を固定した。

機外への跳躍と落下

副操縦士がハッチを開けると強風が機内に吹き込み、眼下に海面だけが広がる状況となる。宗介は風向きを確認し、かなめに行くぞと告げ、飛行中の機体からかなめごと機外へ飛び出した。かなめは恐怖で叫ぶが、風音で声はかき消され、空と海だけの視界の中を落下する。

パラシュート展開と着水準備

強い衝撃の後にパラシュートが開き、二人はゆっくり降下する。宗介は着水直前にパラシュートを切り離すため、息を大きく吸うよう指示し、かなめは泣きたい気持ちのまま従った。パラシュートが切り離され、二人は固まったまま海へ落下し、海水と気泡に包まれた。水は覚悟していたほど冷たくなかった。

八月二六日 〇六三八時(グリニッジ標準時)

着水音の探知と減速指示

西太平洋、深度三〇メートルの〈トゥアハー・デ・ダナン〉発令所で、ソナー員が人間サイズの着水音を探知し、方位三七、距離約五〇〇ヤードと報告した。テレサ・テスタロッサ大佐は予定通りだとして針路維持と三ノットへの減速を命じ、収容作業の準備を進めた。

無人艇「タートル」による収容手順

テッサは有線操縦式小型無人艇「タートル」を宗介たちへ向かわせ、ゴダートにコントロールを任せた。タートルは通信機器と光学センサーを備え、AS技術応用で静粛に泳ぐ「泳ぐ潜望鏡」として海上偵察にも使える装備であった。宗介たちは潜水具を付けてタートルにつかまり、潜航中の艦まで曳航され、ハッチ横付け後に気密室を通じて収容される手筈であった。

水面の混乱とテッサの判断

ところがソナー員は、着水した人間が水面で暴れ、激しい水音と悲鳴があるとして溺水の可能性を報告した。濡れたパラシュートが絡んで溺れる事故が想起され、発令所は緊張する。テッサはダイバー待機を指示しかけたが、ソナー員が叫び声の内容を伝えるため音声をスピーカーに回した。

日本語の罵声と救助中止

高性能ソナーが拾った声には、宗介が千鳥かなめに首を絞められかけるようなやり取りと、かなめの激しい罵倒が混じっていた。日本語を理解できないクルーが戸惑う中、テッサは状況を察し、放っておいてよいと不機嫌気味に判断した。

潜航乗艦と艦影との遭遇

騒動の末、かなめは慣れない潜水用具を装着させられ、宗介とともにタートルにつかまって海中へ潜った。海中には巨大な〈トゥアハー・デ・ダナン〉が待っており、かなめは滑らかな曲線と圧倒的な巨体に驚愕し、海中に横たわる黒い山のようだと感じた。

気密室での解放と過去の乗艦の示唆

宗介に導かれ、かなめは船体中央付近の小ハッチから円筒形の気密室へ入った。海水が排出されるとマウスピースから解放され、かなめは潜水艦に乗るとは聞いていないと抗議した。宗介は以前にも乗艦経験があると告げ、当時はもっと手荒で、かなめは意識を失っていたと説明した。

テッサとの再会と乗艦許可

床ハッチから甲板へ降りると、通路でカーキ色の制服を着たアッシュ・ブロンドの少女が待っていた。千鳥かなめは彼女をテッサと呼び、テッサは久しぶりだと微笑して、千鳥かなめの乗艦を許可すると告げた。こうして、かなめは〈トゥアハー・デ・ダナン〉への二度目の乗艦を果たした。

八月二六日 一六二五時(ペリオ標準時)

ベリルダオブ島の戦場化

ペリオ共和国ベリルダオブ島の化学兵器解体基地は、夜の珊瑚礁を照らす爆炎と銃撃音に包まれていた。攻撃ヘリは撃墜され、海面に激突して四散し、戦闘艇は炎上、黒煙が立ちこめていた。島の波打ち際には、アメリカ海軍SEAL所属のAS、M6A3〈ダーク・ブッシュネル〉が大破して擱坐しており、その周囲には金属片と高分子ゲルの血液が散乱していた。

鎮圧作戦の崩壊

鎮圧作戦に投入された部隊は混乱に陥り、無線には被弾報告、救援要請、仲間の死を告げる叫びがあふれていた。だが、それらは次第に絶望的な悲鳴へと変わっていった。原因はただ一つ、正体不明の赤色ASの存在であった。

エド・オルモス二等軍曹の孤立

生き残ったエド・オルモス二等軍曹は、自身の〈ダーク・ブッシュネル〉で海岸を疾走していた。分隊の僚機二機はすでに撃破され、いずれも精鋭の操縦兵であったにもかかわらず、赤色のAS一機によってあっさりと屠られていた事実に、オルモスは恐怖と混乱を隠せずにいた。

赤色のASとの交戦

突風とともに敵機は姿を現し、オルモスは反射的に回避しながらロケット弾と40ミリ砲弾を撃ち込んだ。至近距離での爆発と連続射撃にもかかわらず、敵機は無傷で現れた。暗赤色の細身のASは、未知の機種でありながら、禍々しい力を感じさせる存在だった。

嘲笑と圧倒的性能

赤色のASは外部スピーカーで哄笑し、弾切れを皮肉る言葉を投げかけた。オルモスは最後の抵抗としてハンドガンを撃ち放ったが、弾丸は透明な障壁に阻まれて弾け飛んだ。敵機は指を銃口のように向け、「バーン」と告げた直後、不可視のエネルギーを放った。

最後の瞬間

その力は装甲を無視してコックピットを貫通し、〈ダーク・ブッシュネル〉と搭乗者を内側から爆散させた。オルモスは、何が起きたのか理解する間もなく命を落とした。こうして鎮圧チーム最後のASは沈黙し、機体の正面装甲には、傷一つ残されていなかった。

要するに、米軍精鋭部隊は、理屈の通じない怪物に蹂躙されたというわけだ。戦争という言葉が、また一段と重くなる展開である。

戦闘後の損害確認と勝敗

敵の残存部隊が敗走し、戦闘が終結すると、ガウルンは点呼を行った。配下のASは十機中一機が撃破、一機が左腕を喪失し、歩兵の損害は戦死六名、負傷十名であった。決して軽い損害ではないが、相手が世界屈指の実力を誇るアメリカ軍特殊部隊であったことを考えれば、むしろ幸運と評価できた。一方で敵側はAS十二機が全滅し、ヘリや戦闘艇も半数が破壊され、多数の死体が島に残された。

化学兵器貯蔵庫への移動

ガウルンは自ら操る赤色のASを化学兵器貯蔵庫まで歩かせた。外壁は流れ弾で崩れ、猛毒弾頭を扱う施設とは思えない惨状であったが、彼は意に介さなかった。機体を降着姿勢にして地上へ降り、義足となった右脚の感触を確かめるように立ち尽くした。

〈コダールi〉と過去の因縁

赤色のASは『設計案1058』、通称〈コダールi〉であり、欠陥の多かった旧型『設計案1056』の改良機であった。旧型は四か月前、北朝鮮の山中で〈ミスリル〉の白いASとの戦闘で失われ、その際にガウルンは右脚を失っている。彼はその因縁を思い出し、暗い笑みを浮かべた。

クラマとの合流と新情報

そこへクラマと呼ばれる男が現れ、通信で得た情報を伝えた。〈ミスリル〉が潜水艦で強襲部隊を積み込み、監視ではなく本格的に介入する可能性が高いという内容であった。それを聞いたガウルンは、敵が用意された餌に食いついたと愉快そうに笑った。

新たな餌と歪んだ歓喜

さらにクラマは、ガウルンが執着する二人が同じ潜水艦に乗っているかもしれないと告げた。ガウルンは心底楽しそうに反応し、彼女だけは死なせないと語った。計画上の不満が解消される可能性に、彼は異様な喜びを見せる。

不吉な締めくくり

ガウルンは最後に、事故というものは起きるものだと呟いた。その言葉は軽く投げられた冗談のようでありながら、これから起こる惨事を予告する、不穏な余韻を残していた。

2: 深海パーティ

八月二六日 0八0七時(グリニッジ標準時)

医務室での再会と微妙な空気

かなめは医務室で毛布にくるまり、検査後のココアをすすっていた。久しぶりに会ったテッサは制服姿で引き締まり、以前のラフな格好とは違い「艦長」らしさが際立っていた。艦医ゴールドベリ大尉は「問題なし」と太鼓判を押し、宗介は扉前で直立して待機した。かなめは宗介への怒りと疲労をにじませつつ、テッサとの会話の“実務的すぎる”雰囲気に、かえって胸のざわつきを抑えきれなかった。

艦内案内の準備と「安全のお守り」

テッサは宗介を主格納庫へ先に行かせ、かなめを艦内案内へ誘導した。かなめは着替えの途中で鏡に映る自分を見て妙に張り合い、すぐに我に返って平服へ着替えた。出発前にゴールドベリ大尉から、中性子被曝で色が変わるプレートを渡される。テッサは動力源がパラジウム・リアクターであり、万一に備えた安全対策だと説明し、はぐれないよう注意した。

狭い通路と艦の静粛性

艦内通路は狭く、低い天井にパイプやケーブル、水密扉が並び、かなめが想像した「SF的な通路」ではなかった。航行中のはずなのに機関音も振動もほとんどなく、潜水艦のステルス性が騒音を徹底的に嫌うためだとテッサは語った。テッサは説明中によそ見をしてパイプに肩をぶつけ転び、艦の構造を設計者らしく細部まで言い訳するが、かなめからは「危なっかしい艦長」に見えた。

人気のない艦内と不安

通路では乗員をほとんど見かけず、すれ違った若い乗員も会釈せず避けるように去った。かなめは部外者として歓迎されていないのではと落ち着かなくなる。テッサは英語に切り替える前置きをし、分厚い水密扉の向こうへかなめを導いた。

主格納庫の“敬礼”サプライズ

扉の先は明るく広い格納庫で、装備や兵器が整然と並び、左舷側には約二百人の乗員が三列で整列していた。さらにAS六機も人間同様に並び、その中には宗介の白い機体もあった。マデューカスが大声で号令をかけ、全員がかなめに向けて敬礼した。かなめは突然の主役扱いに言葉を失い、視線の集中に狼狽したが、それは過去の事件で多くの命を救った彼女への最大限の敬意であった。

騒ぎと称賛、そして本音

儀礼が崩れると、乗員たちは拍手や歓声で一気に茶化し始め、かなめは妙な居心地の悪さを覚えた。マデューカスは、結果よりも「困難な状況で何をしたか」が重要だと語り、かなめに誇りを持てと諭した。テッサも同意し、これからささやかなパーティを開くと告げた。

深海パーティの理由

かなめは軍艦で宴会など不謹慎ではと戸惑うが、目的地まではまだ時間があり、そもそも別の理由で予定されていたとテッサは明かした。今日は「この子」の一歳の誕生日であり、その祝宴が深海で開かれようとしていた。

八月二六日 一三三五時(グリニッジ標準時)

深海パーティの始まり

〈トゥアハー・デ・ダナン〉は就役からちょうど一年を迎えていた。本来はメリダ島基地で祝われる予定だったが、急な作戦のため艦内で簡素なパーティが開かれることになった。主格納庫の一角に即席の会場が設けられ、弾薬ケースを利用したテーブルや装飾されたM9が横断幕を掲げ、祝宴の雰囲気を演出していた。

ビンゴ大会とクルツの暴走

テッサの短いスピーチの後、司会役を買って出たクルツ・ウェーバーがビンゴ大会を開始した。三等賞は故障したレーダー部品、二等賞は基地の将校用居住区の空室使用権という微妙な賞品だったが、一等賞として突然「テレサ・テスタロッサ艦長のキス」が発表され、会場は一気に騒然となった。テッサは完全に想定外の事態に動揺するが、クルツは強引に進行を続けた。

緊張の抽選と結果

宗介がリーチを宣言したことで会場はさらに盛り上がり、テッサも内心では激しく動揺する。しかし最終的にビンゴを引き当てたのはゲイル・マッカラン大尉であり、宗介ではなかった。落胆と安堵が入り混じる中、テッサは覚悟を決め、形式的にマッカランの頬へ軽くキスをする。会場は拍手と冷やかしで包まれ、宴会は無事(?)成立した。

宴の加速とかなめの存在感

その後は演奏と歌で完全に宴会モードへ突入し、かなめは周囲に押される形で歌唱を披露する。最初は遠慮がちだったが、次第にノリに乗り、テッサまで巻き込んで熱唱し、クルーたちの喝采を浴びた。かなめは短時間で艦内の空気を掴み、乗員たちと自然に打ち解けていった。

宗介の距離感と内省

格納庫の隅で宗介は一人、かなめたちの様子を眺めていた。彼女の社交性と人を惹きつける力を、戦闘技術よりも価値のある才能だと感じる一方で、自分自身の不完全さを意識してしまう。彼女が遠い存在に思え、思わずため息を漏らす宗介を、クルツがからかうが、宗介は素っ気なく否定した。

束の間の平穏と迫る戦い

騒音厳禁の潜水艦での宴は本来なら危険行為だが、周囲に敵影はなく、作戦前の不安を紛らわす時間として許容されていた。明日になれば再び緊張が支配し、戦闘が始まることを誰もが理解している。それでもこの瞬間だけは、暗雲を忘れたかのように、かなめとクルーたちは音楽と歓声に身を委ねていた。

八月二六日 一五一七時(グリニッジ標準時)

中央発令所の冷気

格納庫の祝宴と対照的に、中央発令所は数字と図表だけが整然と並ぶ無機的な静けさに支配されていた。戻ったテッサを待っていたマデューカスとカリーニンは、米軍特殊部隊の奇襲が失敗し、状況が悪化していると報告した。占拠犯はフランス製AS八機など装備が妙に充実し、要求内容だけが稚拙で、テッサは陽動の可能性を疑った。さらに情報部の追加報告で、米軍ASが「正体不明の赤いAS一機」に全滅させられた事実が判明し、順安で交戦した機体と同型だと確信する。ラムダ・ドライバ搭載の可能性が濃厚となり、テッサは宗介に〈アーバレスト〉とラムダ・ドライバについて、把握している範囲すべてを説明させる方針へ切り替えた。

パーティ後のマオとの会話

片付け中、マオはかなめに声をかけ、テッサと宗介の関係に触れつつ、テッサが航海中に「恋する乙女」になれない理由を語った。艦長として部下に死を命じうる立場である以上、部下の前では公平さを崩せず、特定の誰かへの好意を表に出せないのだと説明した。かなめは同い年の少女が背負う責任の重さを実感し、その残酷さに思いを巡らせたところで、当人のテッサに呼ばれ艦長室へ向かった。

艦長室と艦の素性

テッサは艦の構造と出自を説明し、〈デ・ダナン〉がロシアで建造途中に廃棄されかけた船体を入手し、自分たちが再設計と改修で完成させた艦だと明かした。艦長室は質素だが、かなめの荷物が運び込まれており、ここで寝泊まりするよう告げられる。かなめが写真立てに手を伸ばすとテッサが過剰に止め、そこに宗介に関わる私物があると察したかなめは複雑な感情を抱いた。

ウィスパードの告白

テッサは本題として「ウィスパード」を持ち出し、自分も同じ存在であると明言した。ウィスパードは“存在しない技術”に繋がる知識を得うるが、多くは成長とともに「ささやき声」によって知性が加速し、かなめ自身も理数系の成績の異常で兆候が出ていたと自覚する。さらにテッサは、条件が揃うとウィスパード同士が「共振」し、領域を介して思考を共有すると説明し、それは便利ではなく危険だと釘を刺した。紅茶にミルクを混ぜる比喩で、共振が自己同一性を壊す恐れを示した。

〈アーバレスト〉とバニの死

テッサは〈アーバレスト〉がラムダ・ドライバ搭載機であり、それを作ったのがウィスパードのバニ・モラウタだったと語った。しかし「ささやき」に踏み込む行為は共振以上に危険で、知識を引き出すたびに乗っ取られかねないという。バニはその結果、発狂して自殺したと明かされ、艦長室は沈黙に沈んだ。

狙われる理由と影の護衛

テッサはウィスパードが狙われる現実を説明し、ガウルンの背後にラムダ・ドライバ搭載ASを建造できる組織があり、彼らは既にウィスパードを確保している可能性が高いと推測した。〈ミスリル〉はかなめを孤立無援にしないため、護衛を付けているが、それは宗介だけではないと告げる。かなめが動揺すると、テッサは宗介が囮の役割を担っていることを冷静に認め、かなめは怒りかけるが、テッサは「誰のためか」を考えろと語気を強めて押し返した。宗介が危険を知りつつ黙って任務を引き受けている事実が、かなめの胸を熱くし、同時に自己嫌悪を呼び起こした。

友人としての和解と秘密の誓約

張り詰めた空気は、テッサが宗介への想いをあえて挑発的に語ることでほどけ、二人は笑い合う関係に戻った。最後にテッサは、この話が〈ミスリル〉でも「存在しない事実」とされる最高機密であり、上層部の禁令に逆らって話した重大な違反だと明かす。かなめの父が国連の要職である点も含め、政治的事情で黙らされていたが、危険の放置はできないと判断したのだという。かなめは口外しないと即答し、二人は友人として握手した。

艦内見学と空気の変化

翌朝、かなめは宗介とクルツに艦内を案内され、ソナー室の海の音や兵器類の見学を楽しんだ。宗介はASの操作を危険として強く止め、かなめは前夜の秘密を一切漏らさず普段通りに振る舞った。しかし昼を過ぎた頃、艦内の人影が減り、格納庫も静まり、緊張が広がり始める。理由を問うかなめに、宗介は艦が作戦海域へ近付き、もうすぐ実戦が始まると告げた。

3:水圧、重圧、制圧

八月二七日 一八五七時(現地時間)

八月二七日一八五七時、〈トゥアハー・デ・ダナン〉はペリオ諸島の北東数十キロの海域へ到達していた。海上は穏やかで、夕日に照らされた珊瑚礁の南洋は絵のように美しく輝いていた。

しかし水面下では、その美しさを食い破るように、巨大な船体が赤い光と薄闇の境目を滑っていった。黒いシルエットはナイフやサメを思わせ、優雅で滑らかな曲線の内側に殺戮と破壊の機能を秘めた存在として描かれた。もし全貌を見た魚がいたなら、本能的に逃げ出すだろうという不吉な暗喩が重ねられる。

その艦内では、外の静けさとは裏腹に、戦闘準備が着々と進行していた。

八月二七日 一四三六時(グリニッジ標準時)

八月二七日一四三六時、〈トゥアハー・デ・ダナン〉第一状況説明室にて作戦ブリーフィングが開始された。集められた戦闘員は三三名。作戦前のため、全員がラフな野戦服姿であったが、出撃時には迷彩服や操縦服へと切り替わる予定であった。

作戦概要と敵勢力

カリーニン少佐は前置きなく、米軍の化学兵器解体基地が武装グループ〈緑の救世軍〉によって占拠された事実を告げた。基地はペリオ諸島ベリルダオブ島に存在し、老朽化した神経ガス弾頭を大量に保管している。武装グループは観光産業排除と自然保護を名目に、毒ガス拡散を盾に脅迫を行っていた。

敵勢力は通常型AS九機と自走式対空砲五輛に加え、極めて危険な未知の第三世代型AS一機を保有していることが判明する。この機体はパラジウム・リアクターを動力とし、高度な静粛性と電磁迷彩を備え、米軍特殊部隊を全滅させた存在であった。

未知のAS「ヴェノム」

問題の機体は便宜的に「ヴェノム」と呼称された。通常兵器がほぼ通用せず、遭遇時は交戦を避けて撤退せよという命令が下される。その異例の指示に隊員たちは動揺するが、カリーニンは命令であることを強調し、違反は厳罰に処すと断言した。

ヴェノムの破壊任務は、〈アーバレスト〉を操るサガラ軍曹に一任される。宗介は冷静にこれを受け入れるが、その失敗が作戦全体の破綻と味方全滅につながると明言され、重圧を一身に背負うこととなった。

宗介に課された重責

宗介はこれまで数多の危険な任務を経験してきたが、今回の任務は「自分一人の死」では済まされないものであった。〈アーバレスト〉と千鳥かなめの存在が、彼に失敗を許さない立場を与えていたのである。逃げ場のない重圧の中でも、宗介は感情を表に出さず、「了解しました」と静かに応答した。

部隊編成と突入計画

作戦は水中からの潜入で開始され、撤収はヘリで行う。AS六機は三チームに分けられ、突入班、狙撃班、爆弾処理班が編成された。突入班はマッカラン大尉とサガラ、狙撃班はウェーバーとグェン、爆弾処理班はマオとダニガンが担当する。その他のSRT要員は歩兵分隊長として待機することが決定され、詳細な指示はマッカランから引き継がれた。

こうして、〈デ・ダナン〉は静かな海の下で、破滅的な脅威を制圧するための準備を整えていった。

八月二七日 一六二一時(グリニッジ標準時)
〈トゥアハー・デ・ダナン〉 主格納庫

主格納庫での準備と機体の変貌

ブリーフィング後、宗介は主格納庫へ向かい、〈アーバレスト〉担当の技術士官ノーラ・レミング少尉と打ち合わせを行った。ARX-7〈アーバレスト〉は一晩でダークグレーに塗装され、白い装甲の目立ちやすさを抑える応急的な隠密仕様となっていた。機体はM9同様に人間に近い体型を持ち、柔軟な関節と長い手足、放熱ユニットなど独特の外観が神秘的な印象を強めていた。

ラムダ・ドライバの構成と「分からなさ」

レミング少尉は、ラムダ・ドライバが主に三要素で構成されると説明した。第一はコックピットに搭載されたTAROSであり、搭乗者の神経パルスを読み取り特殊信号へ変換するらしいが、詳細は不明であった。第二は小型冷蔵庫ほどの中核モジュールで、虹色の光束を収めたシリンダーから成るとされるが、機能は解明できていなかった。駆動時には莫大な電力を消費し、予備コンデンサーを必要とし、AI〈アル〉と直結しているにもかかわらず、解析しても関係性が掴めなかった。第三は骨格系で、M9系素材の芯に特殊構造材が鋳込まれ、電気によって内部パターンが変化するが、それが何を意味するかは結局分からなかった。結論として、ラムダ・ドライバは「分からないこと尽くし」の装置であった。

「SGTサガラ」依存という異常性

〈アル〉は起動時に必ず「ラムダ・ドライバの駆動には“SGTサガラ”の搭乗が必要」と表示し、他者を拒否はしないものの、別の操縦者では決して駆動しなかった。表示を消す試みや初期化は失敗し、無理な処置をすると〈アル〉は凍結するという。つまり、宗介の存在そのものが駆動条件になっている異常な状態であった。

技術士官の見立てと宗介への言葉

レミング少尉は、ラムダ・ドライバが「精神力のような何か」を増幅する装置ではないかと推測した。装置を作った人物はすでに死亡しており、詳しく知る者は艦長テッサくらいだとされる。さらに、機体は新規建造が不可能で、予備部品も限られており、次に損傷すればM9部品の流用も視野に入るという制約が明かされた。

それでもレミング少尉は、宗介がぶっつけ本番で二度も駆動に成功した事実を根拠に、宗介には素質があると述べ、「神様がくれたプレゼントだ」と皮肉めいた励ましを与えた。宗介はそれを受け取りつつも、機体の不気味な特別性を改めて突き付けられる形となった。

八月二七日 一六五五時(グリニッジ標準時)
〈トゥアハー・デ・ダナン〉厨房

作戦前の空白と不安

八月二七日一六五五時、〈トゥアハー・デ・ダナン〉の厨房にいた千鳥かなめは、艦内見学にも飽き、強い手持ち無沙汰を感じていた。宗介たちは会議に呼ばれて姿を消し、テッサも朝からほとんど発令所に詰めきりで、かなめは完全に取り残された状態であった。作戦終了後に帰投するまでは艦内で過ごすしかなく、気晴らしとして厨房で調理の手伝いを始める。

艦内放送と戦闘配置

調理を続ける中、艦内放送でテッサが作戦海域進入と第二戦闘配置を告げた。艦自体は戦闘を行わないが、影のように行動するという指示が淡々と伝えられる。放送直後、戦闘配置のベルが鳴り、クルーたちは一斉に持ち場へ散っていった。コックの説明により、戦闘に出るのは特別対応班SRTであり、その中に相良宗介が含まれていることを、かなめは改めて意識する。

宗介を探して

不安に駆られたかなめは厨房を飛び出し、待機室や艦内各所を探し回った末、主格納庫にたどり着いた。そこではすでに武装を終えたASの前で、宗介が技術者と真剣な打ち合わせをしていた。漆黒の操縦服に身を包み、作戦準備に没頭する宗介は、かなめの存在にまったく気付いていなかった。

距離を感じる瞬間

クルツやマオに声をかけられるも、格納庫は出撃直前の緊張状態であり、マオは婉曲に退去を促した。かなめは小さな疎外感を覚えつつ、その場を後にする。振り返った先でクルツが手を振り、マオが詫びる仕草を見せるが、宗介は最後までこちらを見なかった。

残された思い

遠ざかる格納庫を背に、かなめは宗介が世界で最も遠い場所にいるように感じる。これが見納めではないと自分に言い聞かせながらも、胸に残る不安と寂しさを振り払えず、静かにため息をつくのだった。

八月二八日 四○五時(現地時間)
ペリオ諸島 ベリルダオブ島

夜明けの激突

八月二八日四時五分、朝焼けに染まるペリオ諸島ベリルダオブ島で戦闘が始まった。燃えさかる炎の向こうから、二機の〈ミストラルⅡ〉が姿を現し、左右に分かれて高速で接近しながら牽制射撃を繰り返した。

宗介の迎撃判断

相良宗介は凡庸な回避行動を選ばず、〈アーバレスト〉をその場にひざまずかせた。敵の狙いが射撃動作の封殺と次の一手への布石であると見抜き、敢えて動かず反撃に専念した。牽制射撃の中、ショット・キャノンを構えて発砲し、一機を撃破、続けて爆散させた。

近接戦闘とHEATハンマー

弾切れの直後、残る一機が接近戦を仕掛けてきた。敵はHEATハンマーを使用し、爆発を伴う一撃を振るう。宗介は爆風を利用して後退し、武器を即座に判別したうえで接近。〈アーバレスト〉は敵の攻撃をかわし、単分子カッターで制御系を切断し、四機目の撃破を果たした。

戦況の整理

無線には各隊から次々と報告が入った。敵ASと対空砲はほぼ排除され、歩兵は鎮圧、人質も安全を確保された。作戦は順調に進んでいたが、ただ一つ、最大の脅威である赤いAS――ヴェノムだけが姿を見せていなかった。

ヴェノムの出現

捜索の呼びかけの直後、マオからの報告が入る。ヴェノムは基地北東の最も高いビルの上に、ECSも使わず堂々と立っていた。ひし形の頭部、鋭い赤い一つ目、大型のガトリング砲を携えたその姿は、禍々しい存在感を放っていた。

再会の宣告

外部スピーカーから響いた声を聞いた瞬間、宗介は敵の正体を悟る。その声は、かつて倒したはずの男――ガウルンのものだった。赤いASは無骨なガトリング砲を構え、挑発的に名を呼びかける。戦闘は新たな局面へと突入した。

4: ヴェノムがまわる

八月二七日 二○一五時(グリニッジ 標準時)
〈トゥアハー・デ・ダナン〉 主格納庫

帰投と安堵の気配
八月二七日二〇一五時、〈トゥアハー・デ・ダナン〉主格納庫では、作戦を終えたヘリとASが次々と収容された。戦闘員たちは疲労をにじませつつも、生きて戻れた安堵を浮かべていた。千鳥かなめは格納庫の入口でそれを見守り、全員が無事であることを感じ取っていた。マオは軽傷で医務室へ運ばれ、致命的な損害は出ていないことが告げられた。

宗介の沈鬱
相良宗介も無事に帰投していたが、その様子は明らかに落胆していた。視線は床を彷徨い、かなめの存在にも気づかないほど覇気を失っていた。宗介は自らの「ミス」を口にし、仲間に合わせる顔がないと吐き捨てる。死者が出ていないにもかかわらず、彼はラムダ・ドライバを使いこなせなかったこと、〈アーバレスト〉が肝心な場面で操縦者を裏切ったと感じたことに苛立ちを募らせていた。

すれ違いと衝突
かなめは宗介を気遣おうとするが、宗介はその思いを受け止められず、苛立ちをぶつけてしまう。自分に押し付けられた役割や厄介事への不満を並べ立て、護衛任務すら重荷であるかのように語った。かなめは深く傷つき、言い返しながらもその場を去る。二人の間には、戦場以上にどうしようもない距離が生まれていた。

拳による制裁
かなめが去った後、宗介は鬱々とした思考に沈む。そこへクルツが現れ、突然、宗介を殴り倒した。クルツは、作戦で思うように戦えなかった苛立ちをかなめに八つ当たりした宗介を激しく非難する。英雄気取りで独り相撲を取るな、と容赦なく言い放ち、ヤン伍長に止められてその場を去った。

残された重さ
殴られた痛みと血の味を感じながら、宗介は自分がかなめを泣かせた事実にようやく思い至る。作戦は成功し、任務としては問題なかった。それでも、彼の胸に残った重圧と後悔は消えなかった。拳の痛みは新鮮だったが、心の澱は晴れないまま、宗介は格納庫に立ち尽くしていた。

八月二七日 二○一五時(グリニッジ 標準時)
〈トゥアハー・デ・ダナン〉 主格納庫

主格納庫 帰投直後の光景
八月二七日二〇一五時、〈トゥアハー・デ・ダナン〉の格納甲板にヘリが揃って降り、フライト・ハッチが閉じられた。切り離されたASは各スポットへ歩いて膝をつき、ヘリはローターを畳んで牽引され、整備兵とデッキ・クルーが固定や武器弾薬の除装に追われた。千鳥かなめは格納庫入口で落ち着かずに立ち、戦闘帰りの隊員たちの疲労と安堵を見て「全員無事なのか」と確かめようとしていた。

マオの搬送と宗介の落胆
マオが担架で運ばれてきて、かなめは咄嗟に心配するが、艦医ペギーは転倒程度で大丈夫だと告げた。かなめが見送った直後、相良宗介が立っているのに気づき、彼の無事に安堵する。しかし宗介は返事もせず、小型電気トラクターに座り込み、視線を床に彷徨わせて覇気がなかった。艦内では潜航アラームが鳴り、格納庫は人影が薄くなって静まり返っていった。

「ミス」とラムダ・ドライバへの苛立ち
かなめが待機室へ戻らないのかと問うと、宗介は「ミスをした」とだけ言い、操縦服を脱ぎ始めた。死者がいないなら良いではないかとかなめが言うと、宗介は語気を強め、マオは一歩間違えば死んでいたと断じる。続けて宗介は、ラムダ・ドライバの曖昧さにうんざりしていること、〈アーバレスト〉が肝心な場面で操縦者を裏切ると感じていることを吐き出し、あれは兵器ではなくまじないだと罵った。

「ソースケらしくない」への反発と護衛任務の刺さり方
かなめは疲れているのではと気遣い、「らしくない」と言うが、宗介は「軽々しく『らしい』と言うな」と押し返す。四か月前の事件以降、ガウルン、赤いAS、そしてかなめの護衛など厄介事ばかりで自分向きではないと語り、かなめはそれを「迷惑」と受け取って強い衝撃を受けた。かなめが「頼んだわけじゃない、ならやめればいい」と言うと、宗介は「俺にしかできない任務だ」とだけ返し、荒涼とした目で「疲れているのは君の方だ」と突き放し、部屋に戻れと命じた。かなめは会釈もせず力なく去った。

鬱屈の残留とクルツの拳
かなめが去っても宗介は床を睨み、不安と慷慨に沈んだ。ガウルンが生きていること、艦内にいること、〈アーバレスト〉、マオ、ラムダ・ドライバ。見通しの立たなさが頭を重くしていた。そこへクルツが現れ、宗介の左頬に不意打ちの拳を叩き込み、宗介は転げ落ちて口の中を切る。ヤン伍長が止める中、クルツは宗介を「大活躍できなかったから女に八つ当たりした」と罵り、「あんな子を泣かせるな」と怒鳴った。

拳の痛みが突きつけた事実
宗介はその瞬間になって、かなめを傷つけたことに思い至る。クルツは作戦の結果そのものは成功だと整理し、あのASの不確かさも織り込み済みだったと言い残して去った。ヤンは、クルツは励ますつもりでからかおうとしていたが会話を立ち聞きして激昂したのだと説明する。宗介は血を拭い、殴られた痛みと血の味の新鮮さを噛みしめつつも、気分は晴れないままだった。

八月二八日 ○一一〇時(グリニッジ標準時)
西太平洋
アメリカ海軍潜水艦〈パサデナ〉

〈パサデナ〉に下った曖昧な命令
八月二八日〇一一〇時、西太平洋を哨戒中のアメリカ海軍潜水艦〈パサデナ〉には、久方ぶりに艦隊司令部から命令が届いた。その内容は、十二時間以内に近海を通過する可能性がある謎の存在「トイ・ボックス」を探知し、発見できた場合は追尾して可能な限りのデータを収集せよ、というものであった。ただし積極的な行動は控え、ひたすら息を潜めよという、責任だけ重く具体性に欠ける指示であった。

艦長セイラーの苛立ち
〈パサデナ〉艦長キリィ・B・セイラー中佐は、その命令書を読み終えるや否や握り潰し、露骨な不機嫌さを示した。以前、至近距離ですら見失った相手を、半径一〇〇キロという広大な海域で探せという指示は、現実的とは言い難かった。セイラーは司令部自身も成功を期待していないのだろうと皮肉混じりに受け止めていた。

副長との軽口と過去話
副長タケナカ大尉は比較的気楽な態度で、他艦が南方に駆り出されている中、この艦だけが外れた海域に置かれている点を指摘する。セイラーはそれを聞きながら、唐突に少年時代の草野球の思い出を語り始めた。無能な選手ノビーを冷遇していたという、どこか陰湿でどうでもいい昔話であり、タケナカは容赦なくそれを「しょうもない」と切り捨てた。

不毛な口論と結論
その一言をきっかけに、二人は激しい口論と取っ組み合いを始め、周囲の士官に制止される始末となった。無駄な言い争いの末、最終的には艦を変温層の境界に静止させ、「トイ・ボックス」を待ち伏せするという、消極的かつ退屈極まりない方針に落ち着いた。

退屈なはずの十二時間
こうして〈パサデナ〉は、見つかるはずもない標的を待ちながら、十二時間をやり過ごすことになった。少なくともその時点では、艦内の誰もがそれを単なる暇潰しの任務だと考えていた。しかし、その予想が裏切られることになる兆しが、この静かな時間の先に潜んでいた。

八月二八日 〇四三一時(グリニッジ標準時)
〈トゥアハー・デ・ダナン〉 厨房

厨房の隙間に閉じこもる千鳥かなめ
八月二八日〇四三一時、〈トゥアハー・デ・ダナン〉の厨房では、新品の電子レンジとオーブンの間にある暗い隙間に、千鳥かなめがしゃがみ込んでいた。人一人分の肩幅ほどの狭い空間は、殻に閉じこもるには都合が良く、かなめは膝を抱えて陰鬱な感情に沈み込んでいた。宗介との口論が頭から離れず、怒りや失望、悲しみが入り混じり、自分の存在そのものが疎ましく思えてならなかった。

護衛任務からの解放を望む思い
かなめは、翌日になったらテッサに頼み、相良宗介を護衛任務から外してもらおうと考えていた。護衛を別の人物に変えるか、任務自体を打ち切ってもらうかはどうでもよかった。迷惑そうな顔をされながら傍にいるくらいなら、離れた方がいい。それ以上「お荷物」だと思われたくないという感情だけが、彼女の中に残っていた。

カスヤ・ヒロシの気遣い
厨房を預かるカスヤ・ヒロシ上等兵は、かなめの様子を察し、あえて干渉せずにいた。数時間前、宗介が彼女を探しに来た際も、彼は気を利かせて「見ていない」と答えている。疲れ切ったかなめは、その場でうとうとと浅い眠りを繰り返し、目覚めるたびに思考の迷路へと戻っていった。

立ち去りの決断
やがて見かねたカスヤは、学術書を手にかなめへ声をかけ、食事や休息を勧めた。かなめはそれを拒み、艦長室に戻ることにも気が進まないと告げる。誰かと顔を合わせること自体が重荷だったのである。最終的に、困ったように微笑むカスヤの様子を見て、かなめは自分がここでも邪魔になっていると感じ、のろのろと立ち上がって厨房を後にした。

〈トゥアハー・デ・ダナン〉 主格納庫

不審な火災訓練と隔壁の封鎖
主格納庫には「第二機関室で火災、訓練である」という放送に叩き起こされた乗員が雪崩れ込み、手順自体は完璧だったが、不平と倦怠が濃かった。宗介は状況に違和感を覚えた。艦内には重要な捕虜がいて、周囲に敵性艦がいるかもしれないのに、テッサがこんな火災訓練をするはずがないからである。宗介が千鳥かなめの所在を探しても誰も知らず、後部へ向かおうとする宗介は中尉に止められた。訓練上「後部は有毒ガスで全滅」扱いで、水密扉を閉める命令が出たためである。宗介は命令に従うべきだと理解しつつ、扉の向こうにかなめがいる予感に抗えず、閉じる隙間へ滑り込んだ。

クルツとの合流と異変の確信
薄暗い後部通路で宗介はクルツ・ウェーバーと合流した。クルツも避難訓練の異常性を感じており、マッカラン不在、さらにマオが病室から消えたという情報まで掴んでいた。二人は武器も情報も乏しいまま、閉鎖された水密扉だらけの艦内を走り、発令所方面の銃声へ向かった。

ガウルンの乗っ取りと酸素遮断
実際には火災訓練はガウルンの罠であり、乗員を前部格納庫に集めて隔壁をロックさせ、後部の発令所を孤立させていた。発令所ではテッサとかなめ以外のクルーが手錠と鎖で拘束され、ガウルンはAI〈ダーナ〉を「艦長」として扱わせて艦の制御を掌握した。テッサが「格納庫のASで隔壁を破れる」と牽制すると、ガウルンは生活空気供給を逆流させ、前部の酸素を止めると脅し、実行に移した。完全自動モードの艦運用は不効率と事故リスクが高く、艦全体がいずれ破綻することも示された。

テッサの賭けとかなめへの“押し付け”
テッサは〈ダーナ〉を奪還する唯一の手段として、中央コンピュータ室「聖母礼拝堂(レディ・チャペル)」で艦と同化し制御を直接操作する案に至った。しかし実行には艦長室の金庫から「ユニヴァーサル・キー」が必要で、テッサ本人は逃走も戦闘も不可能だった。そこでテッサは“共振”による無言の意思伝達で、かなめに金庫の鍵と暗証番号を書いた紙片を渡し、ユニヴァーサル・キー回収とレディ・チャペル到達を託した。かなめは「とんでもないことを押し付けられた」と直感しつつ、事態は待ってくれなかった。

発令所での発砲とかなめの脱出
ガウルンがかなめの手元を疑った瞬間、テッサは隠していた小型拳銃(ワルサーTPH)でガウルンを掠め撃ちし、続けて出口のグェンへ発砲して隙を作った。かなめは躊躇なく駆け出し、ダニガンに服を引き裂かれながらも驚異的なバランスで逃走し、銃弾を浴びせられても止まらず通路へ消えた。残されたテッサは弾切れとなり、ガウルンの暴力と脅迫を受ける立場に戻った。

艦長室での鍵回収と“見てはいけない写真”
かなめは追跡をやり過ごし、靴もパーカーも捨てて裸足で艦長室へ辿り着いた。テッサの合鍵で入室し、金庫を暗証番号で開いて「UNV刻印のユニヴァーサル・キー」を入手する。だが金庫奥の写真立てを見てしまい、テッサと宗介が並ぶ写真に強く動揺した。自分は部外者で、ただのお荷物だという感覚が再燃し、なぜここまでして動いているのか分からなくなりながらも、かなめは自動的に行動を続け、鍵を持ってレディ・チャペルを探す決意だけは捨てなかった。

ミサイル発射と前部クルーの酸欠
ガウルンはテッサへの「ペナルティ」として、浮上して近傍の米海軍フリゲート艦を探知させ、〈ハープーン〉対艦ミサイルを発射する命令をAIに与えた。テッサが必死に止めても間に合わず、ミサイル発射音は前部格納庫にも届いた。同時に前部では酸素供給が止められ、乗員は頭痛と息苦しさで倒れ始め、マデューカス中佐も判断力を失っていった。隔壁封鎖から三〇分で事態は致命域に入り、救援も指揮系統も機能しないまま艦全体が崩壊へ向かい始めた。

マデューカスの遅すぎた決断
マデューカス中佐は、発令所から返事が返らず、AIが「待機せよ」としか言わない状況に、ようやく“慎重すぎた”と気付いた。隔壁閉鎖から三〇分が経過し、もはや悠長に様子見している時間はないと判断し、後部へ人員を送って状況確認しようとした。ところが前部では酸素供給が止められており、頭痛と息苦しさで乗員が次々に倒れ始め、命令を出す本人の身体すら言うことを聞かなくなる。OBAマスク着用や手動パネル操作、M9で隔壁を破る指示が口から途切れ途切れに出るが、最後は膝から崩れ落ちて意識が沈む。本人は理解していないが、酸欠で全滅しない程度に“まだ生かされている”のは、かなめの用心深さが作戦の鍵を運んでいるからであるという皮肉が添えられている。

米原潜〈パサデナ〉が攻撃を確信する
同時刻、別海域の攻撃原潜〈パサデナ〉は、友軍フリゲート艦へのミサイル攻撃を探知した。発射主体は「トイ・ボックス」だと判断され、しかもそれが理性的な軍事行動ではなく、味方を平然と撃つ“狂った敵”の振る舞いに見えるため、艦内は一気に戦闘モードへ切り替わる。艦長は血気にはやって戦闘配置を命じ、実弾のADCAP魚雷準備を怒鳴り散らす。結論は単純で、見つけ次第沈めるしかない。こうして〈パサデナ〉は殺意の塊みたいな勢いで、まともに戦える状態にない〈デ・ダナン〉へ接近していく。人間の思い込みって便利だよな。一回「敵だ」判定が出ると、全員が正義の顔で引き金を引く準備を始める。

〈トゥアハー・デ・ダナン〉後部第四甲板

迷子のかなめと、ダニガンの「遊び」
かなめは後部第四甲板で完全に迷子になり、扉と行き止まりだらけの艦内を地下迷宮みたいにさまよっていた。物音に怯えながら進むうち、真正面からダニガンに捕まる。腕を掴まれ、片腕で投げ飛ばされ、扉が開いた拍子に船室へ転がり込む。ダニガンは銃ではなくナイフを持ち、捕獲ではなく“いたぶる遊び”としてかなめに逃走を強要し、子供みたいな笑顔で追い詰めていった。

宗介とクルツの合流失敗、グェンの裏切り
遠方で悲鳴を聞いた宗介とクルツは、第一状況説明室でリャン一等兵の死体と拘束具の抜け殻を発見し、異常事態を確信して第四甲板へ急ぐ。しかし階段付近でグェンが現れ、9mm自動拳銃で二人を牽制する。宗介たちは武器がなく、クルツの鉄パイプしかない。クルツは自分が囮になると決め、宗介に「かなめを助けろ、ちゃんと謝れ」と押し出し、宗介が階下へ突っ走る。

厨房の死闘と“おろしがね”の逆転
かなめは食堂から厨房へ追い込まれ、包丁や道具を投げても通じず、壁際で首を掴まれ、ナイフで喉を切られかける。だが最後の瞬間、手に掴んだのは武器ではなくABS樹脂のおろしがねだった。それをダニガンの顔面に叩きつけ、左顔面の皮膚が剥けるほどの損傷を与えて動きを止める。直後に宗介が突入し、ダニガンは拳銃で反撃するが、宗介は冷蔵庫のドアを盾にしつつ包丁を投げて隙を作り、最後は蹴り倒して決着をつけ、ダニガンは絶命する。人間、最終的には台所用品でも勝てる。文明の利器ってすごいな。

「お荷物じゃない」と「ひとりで平気じゃない」
助け起こされたかなめは、身体より胸が痛いと感じつつ、自分が危険を冒して動き回っていた理由を掴む。「あたしは、お荷物なんかじゃない」と泣きながら言い切る。宗介は不器用に謝罪し、かなめが何度も宗介を救ってきた事実を認め、「君がいるから、俺はいまここにいる。だから『ひとりでも平気』だなどと言わないでくれ」と告げる。かなめは宗介の手の温かさに触れ、関係が最悪のまま終わらなかったことが、ようやく現実になる。

新しい“音”と、魚雷の脅威
その直後、艦内に金属が船体に当たるような甲高い音が響く。宗介はそれを攻撃ソナーの音だと判断し、どこかの潜水艦が〈デ・ダナン〉に魚雷を撃とうとしていると告げる。救出劇の直後に、今度は艦ごと沈むかもしれない話が来る。人生って、本当に空気読まない。

USS〈パサデナ〉

〈パサデナ〉が“獲物”を捉える
USS〈パサデナ〉は、〈デ・ダナン〉こと“トイ・ボックス”が再び深海へ潜り、北へ増速している航走音を捕捉した。針路は北、速度は約30ノット、距離は約4マイル。しかも以前のような滑らかな機動ではなく、事故寸前だった数日前と比べても明らかに騒音が大きく、艦の動きが荒れている。〈パサデナ〉側から見ると、「これは手負いで制御を失ってる」としか思えない状況で、攻撃判断を後押しする材料になった。

攻撃原潜の“正しい仕事”、ADCAP魚雷
〈パサデナ〉は攻撃ポジションへ滑り込み、アクティブ・ソナーで目標位置を確定する。搭載するADCAP(Mk46系の最新モデル扱いの魚雷)が、雷速60ノット超・炸薬約300kg級という「当たれば終わり」性能であるため、撃てば沈むという確信がある。艦内は緊張し、副長タケナカが「マジですか」と確認するが、艦長セイラーは「逃せばこちらが殺られる」と断言し、交戦を決める。

一本目を撃つ理由がいやらしい
セイラーは容赦無用で3番発射管からまず1本だけ発射する。圧縮空気で射出された魚雷は気泡の尾を引いて突進。ここが一番いやらしいポイントで、1本目で相手に回避機動を強要し、数分遅らせて2本目を撃って“逃げた先に刺す”二段構えにする算段だ。優しさゼロ、効率100%。軍隊って感じがする。

タイムリミットが発生する
計算上、1本目の魚雷が“トイ・ボックス”に到達するまで約6分。つまり〈デ・ダナン〉側は、ガウルンの暴走と艦内の内乱に加えて、「6分以内に魚雷回避か対処をしないと全員まとめて海の藻屑」という、ありがちな最悪イベントが確定した。

〈トゥアハー・デ・ダナン〉中央発令所

中央発令所:魚雷接近、詰みかける
〈ダーナ〉が「方位291.8、水中に高速スクリュー音。魚雷1基、接近中」と淡々と告げ、海図には魚雷マークがじりじり迫る様子が映る。残り5分もない。超電導推進が使えず、振り切りは不可能で、命中すれば巨艦でも沈む見込みとなった。テッサはガウルンに操艦権の返還を迫るが、ガウルンは「沈むなら豪勢な自殺だ」と笑い、そもそも生還への執着がないことが露呈する。結果、ガウルンは深度1500フィートへの無茶な潜航を命じ、艦は限界深度を越えて圧壊寸前へ落下していった。

艦内:内憂外患の地獄が同時進行する
一方でクルツは、裏切ったグェンに通路で追い詰められる。グェンは「500万ドルで潜水艦まるごとだ、寝返れ」と金で釣り、クルツは悪趣味な冗談で拒絶し、消火器で即席の煙幕を作って接近戦に持ち込む。しかしグェンは拳銃とナイフ両方に長け、クルツは負傷して膝をつく。そこへメスが飛び、グェンの首筋と胸を刺す。投擲の主はマオで、朦朧とした下着姿のまま現れ、クルツの接近戦センスを酷評しつつ状況を把握できていない様子を見せる。魚雷の探信音が迫り、クルツは「カメラがねえ」と悪態をつきながら絶望する。

レディ・チャペル:TAROSの中枢と“別人”のかなめ
宗介はかなめが言った「レディ・チャペル」に心当たりを見つける。それは第三甲板奥の黒塗り“機密区画”で、宗教施設のない艦内方針から「聖母礼拝堂」だと推測される。到着した部屋にはASコックピットのような構造物があり、《転送と応答「オムニスフィア」/System103…》の刻印があった。宗介はそれがTAROSだと気付き、かなめは「アーバレストのTAROSより旧式」「ラムダ・ドライバではなく艦の制御系に接続」と言い当て、別人のように落ち着いた口調で理解を進める。そして宗介に「今度は、わたしを助けに来てくれますか?」と微笑み、主導権がかなめ側へ移っていく。

発令所:テッサが“復活”し、魚雷を外す
圧壊領域まで残り100フィート、背後には魚雷。発令所は騒音と警告で地獄絵図だったが、ガウルンが「面舵いっぱい、囮も撒け」と叫んだ瞬間、正面スクリーンが一瞬ブラックアウトする。直後、テッサが顔を上げると、瞳には絶望がなく、冷徹な意思と静かな自信が宿っていた。彼女は〈ダーナ〉に「合図で対抗手段1番2番を深海モードで射出」と命じ、〈ダーナ〉は「アイ・マム」と応答する。テッサは極限まで魚雷を引き付け、合図と同時に囮を射出、続けて緊急ブローを指示し、バラストを高圧空気で強制排水して急浮上する。突発的な機動とノイズで魚雷は目標を見失い、囮へ突進して直下で炸裂する。衝撃は凄まじくテッサも叩きつけられるが、それでも艦は風船やロケットのように舞い上がり、生存の目をこじ開けた。

USS〈パサデナ〉

〈パサデナ〉:外しやがった、という衝撃
セイラー艦長は「避けた、だと!?」と吐き捨て、部下の報告で“緊急ブローで急速浮上中”だと知る。魚雷の探知円錐から逃げるには、ぎりぎりまで引き付けて急激に動くしかないのに、あの巨体でそれをやり切ったのが信じられず、セイラーは艦長の度胸を罵倒混じりに称える。タケナカ副長も唖然とし、「とんでもない度胸だ」と認める。

残る現実:二本目はまだ生きている
問題は“感心してる暇がない”ことだった。遅れて発射する前提だった二本目の魚雷が、まだ『トイ・ボックス』に向かって走っている。命中まで残り3分。人間が感動に浸る時間は、魚雷のスケジュール表には載っていない。

〈トゥアハー・デ・ダナン〉

〈トゥアハー・デ・ダナン〉の主導権奪還
緊急浮上によって艦は海面へ飛び出し、甚大な衝撃を受けながらも船体は耐え切った。発令所では、テレサ・テスタロッサが主導権を完全に取り戻し、艦の各システムは彼女の意思に呼応するかのように正常化していった。これは〈ダーナ〉の制御ではなく、別系統からの直接制御によるものであった。

千鳥かなめとTAROSの完全同期
千鳥かなめは〈トゥアハー・デ・ダナン〉最深部のTAROSと完全に同調していた。彼女は艦の制御系と精神的に接続し、動力炉やバラスト、艦内構造を自らの身体の一部として認識していた。ラムダ・ドライバはその力の一形態に過ぎず、艦とのシンクロもまた「オムニ・スフィア」の応用であると理解していた。

発令所への突入とガウルンの逃走
左舷側の扉から相良宗介が発令所へ突入し、ガウルンと銃撃戦となった。ガウルンは被弾しながらもテレサを盾に取り、混乱に乗じて右舷側から逃走した。宗介は追撃を試みるが、艦の制御回復と迫る第二の魚雷への対応を優先し、発令所に残る判断を下した。

第二魚雷の接近と回避の成立
米軍潜水艦〈パサデナ〉から放たれた二本目のADCAP魚雷が接近するが、魚雷は一定深度以上へ浮上できない安全設定が施されていた。〈トゥアハー・デ・ダナン〉の緊急浮上により、魚雷は目標を捕捉できず、艦の周囲を旋回するのみとなった。この設定を事前に見抜いたテレサの判断により、艦は完全に撃沈を免れた。

生還と決着への覚悟
危機を脱した発令所では、クルーが艦の制御を再開し、テレサは気絶したまま保護された。宗介は彼女の無事を確認した後、逃走したガウルンを追うため艦内を駆け出した。この対峙が最終局面に近いことを、宗介は直感的に悟っていた。

USS〈パサデナ〉

USS〈パサデナ〉の追撃決断
二本目の魚雷も回避されたことで、セイラー艦長は激昂した。〈トゥアハー・デ・ダナン〉が魚雷の安全深度設定を読んでいた可能性、あるいは偶然である可能性を副長が示唆するが、艦長はそれを一蹴した。

安全深度解除と再攻撃命令
セイラーは魚雷の安全深度制限を解除し、再度の攻撃を命令した。一番および二番発射管への注水が指示され、即時発射準備に入る。これは、友軍誤射のリスクを承知の上での判断であり、〈パサデナ〉がもはや慎重さを捨てたことを意味していた。

浮上による攻撃態勢への移行
追加の魚雷を発射するため、〈パサデナ〉自身も浮上を開始した。これは位置を晒す危険な行動であるが、それでもなお〈トゥアハー・デ・ダナン〉を沈める意志が撤回されていないことを示している。

〈トゥアハー・デ・ダナン〉

格納庫の被害とマデューカスの復帰
緊急浮上の衝撃で主格納庫は凄惨な状態になり、多くの乗員が床に叩きつけられて負傷した。だが機体や弾薬類は厳重に固定されていたため最悪の大惨事は免れ、マデューカス中佐は「積荷固定の規律」を改めて徹底しようと決意した。隔壁扉や空気供給など艦機能も、誰かの介入で急速に復旧していった。

ガウルンの脱出と「赤いAS」への到達
ゴダートとの通話で、ガウルンが左肩を負傷しつつ逃走した事実を掴んだマデューカスは、格納庫で不審な東洋人兵士が赤いAS〈ヴェノム〉へ駆け寄るのを目撃した。兵士は熟練の手つきでジェネレーターを接続し、周囲をサブマシンガンで牽制して搭乗する。〈ヴェノム〉は起動し、拘束ワイヤーを引きちぎって立ち上がった。

格納庫での決戦開始
格納庫近傍には弾薬庫や魚雷発射室、燃料貯蔵など危険物が集中しており、下手に対戦車兵器を撃てば艦そのものが吹き飛ぶ。そこへARX-7〈アーバレスト〉が起動し、宗介がガウルンと格納庫両端で対峙する構図が成立した。宗介は恐怖と喪失を直視しつつも「絶対に許さない」と殺意を明確にして踏み込んだ。

単分子カッター戦の加速とラムダ衝撃波
互角に見える機体性能の中で、勝負を決めるのは搭乗者のセンスと殺意となった。宗介は〈ヴェノム〉の装甲を裂き、膝蹴りで壁に叩きつけるなど優勢に進めるが、ガウルンはラムダ・ドライバの指向性衝撃波「指鉄砲」を放つ。〈アーバレスト〉は対抗機能で内部損傷を防ぎ、宗介は思考を捨てて殴打で押し切り、敵機のセンサーを破壊し、左腕駆動系も潰した。

ガウルンの自爆とエレベーターの罠
追い詰められたガウルンは「自爆」を選び、〈アーバレスト〉に全身を絡めて離れない。さらに二機を載せたエレベーターが上昇し、嵐の中でフライト・ハッチが自動開放される。発令所には丸文字で《心配しないで、すべては幸せになるよ》と表示され、誰かが自爆を看破して“甲板に運ぶ”手を打ったことが示された。

蒸気カタパルトで強制射出
甲板先端まで這って捨てに行く時間は足りない。そこで宗介は蒸気カタパルトの射出台を利用し、ワイヤーガンで射出台のフックに絡め、さらにワイヤーを〈ヴェノム〉に巻き付けて「出せ」と叫ぶ。射出台の爆発的加速で二機は先端へ叩き出され、宗介側はワイヤーガンのアンカーが甲板に残って命綱となる一方、ワイヤーガンを持たない〈ヴェノム〉は嵐の海へ落下し、直前で300kg爆薬の大爆発を起こして消えた。

かなめの“同調”と帰還
かなめはTAROSを介して艦と一体化し、艦の機能を直接復旧させていた。フライト・ハッチの閉鎖、再潜航準備、高圧空気充填の進行など、艦の「息吹」を感じ取りつつ、超電導推進が復帰すれば〈パサデナ〉の魚雷も振り切れると見通す。彼女は領域から離脱し、聖母礼拝堂で目を覚ますが、以前なら忘れていたはずの“仕組み”や“力”の理解が、今回はまだ残っていた。

USS〈パサデナ〉

USS〈パサデナ〉:追撃失敗と艦内の空気

ソナー員は『トイ・ボックス』が急速に遠ざかっていると報告した。深度は約500、速度はおそらく50ノット超であり、〈パサデナ〉の魚雷では捕捉できない見込みだった。つまり、完全に逃げられた状況であった。

タケナカ副長はその結論を端的に引き取り、「逃がした」と認めたうえで、敵艦の性能を「すごい船」と評した。

セイラー艦長は落胆し、ADCAPを4発も撃ちながら成果が出なかったことを「バカ丸出し」と自嘲する。するとタケナカは「仕方ない。だってバカなんだから」と突き放すように言い切り、艦長の怒りを直撃した。

セイラーは逆上してタケナカに掴みかかり、周囲の乗員が慌てて制止に入った。

エピローグ

喪失と帰結

死者と責任の所在
死者は四名であった。裏切りに関与したダニガンとグェンに加え、マッカラン大尉とリャン一等兵が命を落とした。マデューカス中佐らは「事態の規模を考えれば二名の戦死で済んだのは奇跡」と評したが、艦長テッサの心情は沈んだままであった。彼女は結果の重さを自ら引き受け、強い自責を抱いていた。

内通者の余波
事件を知ったカリーニン少佐もまた深い責任を感じていた。内通者が自らの管理下にあったSRT要員から出たこと、そして副官を失ったことが彼を追い詰め、彼は密かに何かを決意した様子であった。その中身は、この時点では誰にも知られなかった。

点呼と不在の名
メリダ島基地到着後、恒例の点呼が行われた。テッサは全員の名を暗記しており、地下ドックを歩きながら一人ずつ呼名した。マッカラン大尉とリャン一等兵の名には「パトロール中です」と返答がなされ、冷酷な事実だけが残った。裏切り者の名は、SRTにもPRTにも存在しなかった。

別れの儀式
遺体は基地から移送され、同僚に担がれて棺が送り出された。遺族には民間警備会社勤務中の事故死として通知され、詳細は伏せられた。テッサは遺族へ手紙を書くことすら許されず、それがこの道の掟であると理解していた。かなめは、この出来事を通じてテッサの背負う重さを知った。

慰めの瞬間
かなめに促され、宗介はテッサのもとへ向かった。誰もいない通路で言葉を交わしたのち、テッサは宗介の胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。かなめはその光景を遠くから見届け、静かに身を引いた。

三十分の逃避
東京行きの便まで残りわずかの時間、宗介はかなめを基地北部の海辺へ連れ出した。彼が差し出したのは釣り竿であり、そこは彼だけが知るという秘密の釣り場であった。時間は三十分。成果は何もなかったが、二人は並んで糸を垂らし、短い静けさを共有した。

小さな結び
魚は一匹も釣れなかった。だが、その三十分は、嵐の後に訪れた確かな休息であった。宗介は、かなめと共にいることで自分が前へ進めると語り、かなめは笑ってそれを受け止めた。喪失の重さを抱えたまま、物語は静かに幕を下ろした。

フルメタル・パニック! 2巻
フルメタル・パニック! 4巻

同シリーズ

フルメタル・パニック! 1巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
フルメタル・パニック! 1の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
フルメタル・パニック! 2巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
フルメタル・パニック! 2の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
フルメタル・パニック! 3巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
フルメタル・パニック! 3の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。

外伝

フルメタル・パニック!Family 1巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
フルメタル・パニック! Familyの表紙。
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フルメタル・パニック! Family 2の表紙。
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フルメタル・パニック! Family 3の表紙。
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その他フィクション

e9ca32232aa7c4eb96b8bd1ff309e79e 小説「フルメタル・パニック! Family3」感想・ネタバレ
フィクション(novel)あいうえお順

戦国小町苦労譚18巻の表紙画像(レビュー記事導入用)

漫画「戦国小町苦労譚 19巻 上杉臣従」感想・ネタバレ

物語の概要

本作は戦国時代を舞台とする歴史ファンタジー・時代コミックである。現代日本から戦国時代にタイムスリップした歴女・静子が、織田信長の配下として農業改革や戦略立案を通じて歴史を変えていく姿を描く。第19巻では、信濃の上杉家が織田家への臣従を申し出るという重大な情報がもたらされ、それを受けて謙信が大軍を率い、織田信長のいる岐阜城へと赴く展開が描かれる。静子の周囲では越後の命運が揺れ、戦国の勢力図が大きく動く。

主要キャラクター

  • 綾小路静子(あやのこうじ しずこ)
    本作の主人公である歴女の女子高生。戦国時代にタイムスリップし、現代知識を武器に織田信長の元で活躍する。農業・政治・戦略あらゆる領域で才覚を発揮し、信長の評価を高めている。戦国の混沌を生き抜き、越後の動きにも深く関与する存在である。
  • 織田信長
    戦国時代屈指の戦国大名。静子の能力を評価しつつ、時に大胆な戦略を採る人物。上杉家臣従の申し出を受け、新たな局面に直面する。
  • 上杉謙信
    越後の戦国大名。織田家との関係を再構築するため、臣下の礼を取るべく岐阜城へ進軍する。戦略眼と武勇を兼ね備えた存在として物語に登場する。

物語の特徴

本作の魅力は、“戦国時代のリアルな歴史描写”と“現代知識を持つ異邦者の活躍”という二つの軸を鮮やかに融合している点である。静子が農業・経済・戦略といった現代的知識を駆使し、戦国大名たちの行動に影響を与えることで、歴史の常識が変容していくという構造が醍醐味である。

第19巻は越後・上杉家と織田信長の関係という大きな歴史的節目を描き、戦国の命運を賭けた“臣従の礼”という政治的事件が物語の中心となる。単なる戦闘描写にとどまらず、外交・情報戦・人間ドラマが重層的に描かれており、歴史ファンにも読み応えのある構成となっている。

書籍情報

戦国小町苦労譚上杉臣従19
著者:沢田一 氏
原作:夾竹桃  氏
キャラクター原案:平沢下戸  氏
出版社:アース・スター エンターテイメントアース・スターコミックス
発売日:2025年12月12日
ISBN:978-4-8030-2233-9

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あらすじ・内容

目を見張らんばかりの大邸宅に引っ越した静子。
引っ越しの慌ただしさが落ち着いた頃、
静子を訪ねてきた与六。
与六が持参したのは謙信からの手紙。
そこに書かれていたのは、
上杉家が信長の配下に入るという申し出だった!
間もなくして多勢を率いた謙信が、
臣下の礼を取るため信長のいる岐阜城へ──。
「小説家になろう」発人気時代小説コミカライズ、
越後の命運揺れる第19巻!!

戦国小町苦労譚⑲ 上杉臣従

感想

侵略してきた武田を退け、その武田と敵対していた上杉が自主的に織田に臣従する。
この一手で、織田家の天下が事実上固まったと感じさせたが、まだ西には毛利、東には北条がいる状態。
あくまでも天下統一が見えただけで、実際はまだまだコレから。
それは織田信長も感じているようで、本人も自身を自制するシーンが散見された。

本巻で強く印象に残るのは、軍事だけでなく貨幣の主導権を織田が握り、日本の経済が織田中心へ傾く布石が打たれた事であった。
数百年前に貨幣を中国から輸入して、鐚銭が出回っていたこの時代。
その貨幣を紙幣に変えて、経済から日本を統一する。
その中心に若い女性の静子がいるという構図は、この物語の特徴ともいえる。

一方で、その「特徴」が全員に歓迎されるわけではない点が、この巻を単なる祝祭に終わらせない。
織田家の内側ですら、静子の存在に納得する者と、割り切れない者がいる。
合理と感情、先見と不安が交錯し、同じ結果を見ていても評価が分かれる。その温度差が、物語に緊張を与えていたが静子の周りには彼女の理解者しか居ないので本人が嫌な思いをすることが無いのが救いであった。

上杉の臣従は、織田家の天下統一への意味では極めて合理的であった。
だが、それが人の心まで整えてくれるわけではない。
謙信が臣下の礼を取る場面に漂う空気は、勝者と敗者の単純な図式ではなく、時代が一段階進んでしまったと感じさせた。
静かであるが、重い礼。

静子という存在もまた、称賛だけで包まれない位置に立った。
彼女の判断が正しかったことは、結果が証明している。それでも、その正しさが周囲の価値観や誇りを削っていく事実は消えない。
静子が中心にいるからこそ、歪みもまた彼女から広がっていく。その描かれ方が、このシリーズらしい構図であった。

総じて本巻は、「天下統一が見えた」瞬間を描きながら、同時に「ここからが面倒だ」と告げる巻であった。
戦国が終わりに近づくほど、人は割り切れなくなる。
織田の覇道が確定的になった今、その中心に立つ静子が、どれだけの理解と反発を背負って進むことになるのか。その先を見届けずにはいられない一冊であった。

そう言えばこの後に上杉謙信は禁酒させられるんだよな…
あの酒宴の笑顔は最初で最後になるのか…(遠い目)

最後までお読み頂きありがとうございます。

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登場キャラクター

近衛静子

近衛家に連なる立場で、織田信長のもとで政と現場の両方に関わる人物である。自分の思いつきだけで動かず、報告と確認を重ねて物事を進める。信長や周囲から能力を注目され、標的としても見られている。

・所属組織、地位や役職
 近衛家の人物である。織田方の政策や整備事業に関与する立場である。
・物語内での具体的な行動や成果
 信長の茶室で、南蛮の奴隷を買った件の調査状況を報告した。
 新居の屋敷を拠点として、来客対応と政務の場を整えた。
 月一回の試験的な休日制度を提案し、尾張近郊の整備事業で導入させた。
 信長に対し、信用にもとづく貨幣の仕組みを説明した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 信長から十万石の話を告げられ、規模の大きさに動揺した。
 本願寺側から「鍵を握る人物」として名指しされ、弱点を探られる対象になった。
 信長の激怒の場で発言が通り、意見を述べる立場として描かれた。

織田信長

織田方の頂点に立ち、戦と政の判断を一手に握る人物である。感情を見せる場面はあるが、結論は統治者として出す。静子の提案を聞き、使える形に落としこもうとする。

・所属組織、地位や役職
 織田家の当主である。軍の総大将として出陣した。
・物語内での具体的な行動や成果
 静子を茶室に呼び、南蛮の奴隷の件を問いただした。
 静子の移住祝いとして十万石を与える案を示した。
 本願寺と和睦を結び、条件提示で主導権を握った。
 上杉家の臣従文書を確認し、使者の与六に直接問い質した。
 新通貨の構想に関心を示し、発行の時機を判断した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 武田を討った戦果を前提に、褒賞が威信に関わると述べた。
 親族に強い怒りを向け、半年の猶予を与える判断を下した。
 上杉景勝と直江兼続を尾張に留める決定を下した。

与六

上杉家の家臣で、使者として近衛静子のもとに現れた人物である。軽口をたたくが、任務を最優先にしようとする。文書を届けたあと、人質に近い形で留め置かれた。

・所属組織、地位や役職
 上杉家の家臣である。織田方への使者である。
・物語内での具体的な行動や成果
 連絡なしで静子邸を訪れ、対面の場を作らせた。
 上杉謙信の臣従を示す正式な降伏文を差し出した。
 岐阜城で信長の問いに答え、決断が熟考の末だと述べた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 臣従が破られた場合の覚悟を問われ、自分の命を差し出す意志を示した。
 静子邸に留め置かれ、保護と人質の両方の意味を持つ立場になった。

上杉謙信

越後の大勢力を率いる武将であり、織田方に臣従する決断をした人物である。形式だけではなく、存続のための選択として頭を下げる。信長の前で儀礼を行い、情勢を決定的に動かした。

・所属組織、地位や役職
 上杉家の当主である。越後の勢力を率いる。
・物語内での具体的な行動や成果
 精鋭五千を率い、春日山城を出立して岐阜へ向かった。
 岐阜城で臣下の礼を取り、織田への臣従を所作で示した。
 静子邸の宴に一行で参加し、静子に礼を尽くしてあいさつした。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 臣従によって、越後の立場が大きく変わった。
 反織田勢力に衝撃を与え、情勢が織田優位へ傾く引き金になった。

足満

上杉謙信の行軍に同行し、現場で即断する人物である。神仏への恐れを示さず、障害物は排除する姿勢を貫く。近衛前久とは遠慮のない関係として描かれる。

・所属組織、地位や役職
 上杉謙信の同行者である。側近の一人である。
・物語内での具体的な行動や成果
 道をふさいだ神輿を障害物と判断し、崖下へ落とした。
 兵が動けない状況で行軍を再開させ、隊を前へ進めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 神罰をおそれる周囲と対比され、異端的な印象を残した。
 謙信に、目的のために切り捨てる現実を突きつける役になった。

近衛前久

足満と並走し、皮肉と軽口を交わす人物である。足満の態度を当然として受け止め、関係の近さが示される。謙信の同行者として行軍に加わる。

・所属組織、地位や役職
 上杉謙信の行軍に同行する人物である。
・物語内での具体的な行動や成果
 道中で足満と会話を続け、緊張の中でもやり取りを保った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 足満との遠慮のない友誼が、謙信の内省を引き出す材料になった。

濃姫

静子の新居に祝いとして訪れる人物である。静子を観察し、女の場の空気を読んで動く。要求の裏に、静子を孤立させない意図を持っていた。

・所属組織、地位や役職
 織田信長の周辺にいる人物である。
・物語内での具体的な行動や成果
 新居祝いとして大量の鯛を持ちこみ、静子を困らせた。
 静子の秘蔵の甘味を食べ尽くし、そのまま屋敷を去った。
 静子についての妬みや同情の流れを分析し、考えを巡らせた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 静子への高度な要求が、孤立回避の策でもあったと示した。
 信長の兄の子を静子の養子にする話題を出し、波紋を生んだ。

前田慶次

静子の馬廻衆として警備にあたる人物である。場の緊張を読んで、空気を崩すようなふるまいも見せる。警備の報告役としても動く。

・所属組織、地位や役職
 静子の馬廻衆である。警備の担当である。
・物語内での具体的な行動や成果
 宴が大きくなる見通しを口にし、状況を受け入れさせた。
 屋敷内で不審者を捕らえ、静子へ報告した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 静子邸が警戒と統制を要する場になったことを示す役回りになった。

可児歳三

静子の馬廻衆として動く人物である。騒ぎにのまれず、即応できる配置を取る。準備を淡々と進める姿が描かれる。

・所属組織、地位や役職
 静子の馬廻衆である。警備に関わる。
・物語内での具体的な行動や成果
 宴の拡大を見越し、すぐ動ける形で配置についた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 場の安全を支える一員として、裏方の軸になっている。

森長可(勝蔵)

静子の馬廻衆として動き、警備体制の引きしめを意識する人物である。前田慶次と同じ馬廻衆であるが、血縁ではない。療養場面で上半身裸の描写がある。

・所属組織、地位や役職
 静子の馬廻衆である。警備の担当である。
・物語内での具体的な行動や成果
 宴が大きくなる兆しを見て、警備の厳格化を意識した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 前田慶次と兄弟ではなく、血のつながりもないと明言された。

明智光秀

静子邸の夜の場で、来客対応に追われる人物である。屋敷の外れで小間使いの珠を叱責する。静子の制止でその場を収める。

・所属組織、地位や役職
 織田方の人物である。静子邸で来客対応を担う。
・物語内での具体的な行動や成果
 職務を外れた珠を見つけ、仕事中であると叱った。
 静子の言葉を受け、叱責を終えて場を離れた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 静子が屋敷内の人の動きにも口を出せる立場だと示す対比になった。

静子邸で働く小間使いである。仕事中に職務を離れ、猫と遊んでいた。光秀に叱られ、深く謝罪した。

・所属組織、地位や役職
 静子邸の小間使いである。
・物語内での具体的な行動や成果
 職務を離れて猫とたわむれ、光秀に見つかった。
 叱責を受け、あわてて謝罪した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 屋敷が大勢の来客を抱え、規律が求められる場だと示す材料になった。

武藤喜兵衛(真田昌幸)

養子として武藤家を継ぎ「武藤喜兵衛」と名乗った後、兄たちが戦死したため真田家に戻り「真田昌幸」を名乗る。
大藤城で敗北した事実が明言される。敗戦は個人の失策ではなく、武田側全体の敗北として整理される。

・所属組織、地位や役職
 武田陣営の人物である。
・物語内での具体的な行動や成果
 大藤城で敗北したと語られた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 敗北が戦全体の帰結として扱われ、これ以上の流血回避の判断につながった。

上杉景勝

上杉家の人物として、人質受け入れの対象になった。信長の決定で尾張に留め置かれる。場面は簡素で、形式的なやり取りのみが描かれる。

・所属組織、地位や役職
 上杉家の人物である。
・物語内での具体的な行動や成果
 尾張に留まる場で名を述べ、受け入れの手続きが進んだ。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 同盟保証のための人質として扱われる立場になった。

瑠璃

尾張の技術町で、絨毯の技術を伝える人物である。異国での経験をもとに、現場で実地指導を行う。おだやかな態度で教え、評価を得ている。

・所属組織、地位や役職
 尾張の技術町で指導にあたる人物である。
・物語内での具体的な行動や成果
 織機の前で職人に絨毯づくりを教えた。
 作業の進みを安定させ、現場の評価を得た。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 教える者として定着し、技術伝承の中心になっている。

弥一

金属加工の工房で働く職人である。口数は少ないが、基本技術を周囲に示す。奴隷時代との比較で、今の待遇を肯定する発言をする。

・所属組織、地位や役職
 金属加工の職人である。工房の作業者である。
・物語内での具体的な行動や成果
 基本の技を惜しまず見せ、日常的に技術共有を行った。
 会話で、今の働き方が昔より良いと述べた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 技の共有を通じて、現場の底上げに関わっている。

紅葉

尾張農園で温室の植物を管理する人物である。ニームを育て、記録をこまかく付ける。成功だけでなく失敗も残す姿勢を持つ。

・所属組織、地位や役職
 尾張農園の作業者である。植物管理を担う。
・物語内での具体的な行動や成果
 温室でニームを栽培し、成長の変化を観察した。
 栽培記録を続け、小さな変化も残すと説明した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 記録の意義が評価され、作業が継続される流れになった。

虎太郎

静子邸の書庫で翻訳を担う人物である。語学に通じ、電子辞書を補助にして作業を進める。静子と地動説を話題にし、観測と実証の話へ進む。

・所属組織、地位や役職
 静子邸の書庫で翻訳作業を担う人物である。言語学者としての経歴がある。
・物語内での具体的な行動や成果
 西洋由来の書物を翻訳し、区切りのよい所まで進めた。
 静子と縁側で地動説について対話し、歴史的経緯を説明した。
 観測機材の必要性を共有し、研究の継続に意欲を示した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 静子から今後の協力を求められ、翻訳と研究の軸として位置づけられた。

展開まとめ

九十一幕 新居

信長邸・茶室での対面

1573年4月、静子は新居に移って間もなく、信長の茶室へ呼び出され、献茶の席に入った。信長は南蛮の奴隷を購入した件について静子の調査結果を尋ね、静子は足満が素性調査を徹底したこと、今後も継続して注視すると報告した。

引っ越し祝いと破格の加増案

信長は静子の移住完了を確認し、祝いとして「10万石を与える」と告げた。静子は新居が十分であるとして辞退しようとしたが、信長は近衛家と静子個人に5万石ずつ与える計算であると説明した。
ここで作品は、石高の概念とその換算価値(現代評価で100億円以上に相当)を提示し、静子が受領不可能な規模であることが描かれた。

加増の理由と管理体制

信長は、武田を討った功にふさわしい褒賞を与えなければ自身の威信に関わると述べ、静子に広大な領地を与える意図を示した。また、土地管理の補佐官も派遣する予定であるとし、静子が適切に活用することを期待した。

静子の困惑と茶席の締め

信長は静子が領地をどう使うか楽しみだと語り、茶が冷める前に飲むよう促した。静子は圧倒的な加増案に動揺しつつ茶を口にした。

尾張への帰還と与六の独白
与六は尾張へ向かう道中、尾張を離れてから一年が経過したことを振り返っていた。道は以前より整備され、人や荷の往来も増えており、静子の施策による変化が目に見える形で現れていた。与六はこれを「静子殿の仕事」であると認識していた。

道中での気の緩みと自制
与六は静子の着任祝いとして酒盛りをしたい気持ちを一瞬抱いたが、自身に課された重要な任務を思い出し、軽率な行動を戒めた。軽口を叩きつつも、気を引き締めて尾張へ向かう姿が描かれた。

新居への帰還と拠点の完成
京での用事を終えた静子は新居へと戻った。そこには本殿・裏殿・側殿を中心とした大規模な屋敷が完成しており、堀と城壁に囲まれた構造は城郭拠点と呼べる規模であった。新居は居住、政務、来客対応、生産、警備を兼ね備えた複合施設として整備されていた。

屋敷機能の多層化と管理負担
本殿は信長も使用する公的空間、裏殿は静子と侍女たちの生活空間、側殿は織田家武将や信長専用の宿泊施設として区分されていた。敷地内には衛兵詰所、厩舎、家畜施設、畑、ビニールハウスが配置され、自給と生産を前提とした構造となっていた。一方で、五万石の追加加増により、静子は管理体制の再構築が不可避であることを痛感していた。

濃姫の来訪と引っ越し祝い
新居には濃姫が引っ越し祝いとして訪れた。濃姫が贈った祝いの品は大量の鯛であり、桶に詰められたその数は常識的な消費量を大きく超えていた。静子はその物量に強い衝撃を受け、対応に頭を抱えることとなった。

秘蔵の甘味と日常の侵食
一方で、濃姫は静子の屋敷に滞在する中で、静子が秘蔵していた甘味を次々と口にしていった。それらは祝いの品ではなく、静子が個人的に保管していたものであったが、濃姫は悪びれる様子もなく食べ尽くした。

濃姫の退場と静子の困惑
甘味を食い尽くした後、濃姫はそのまま屋敷を去った。残された静子は、大量の鯛と空になった甘味を前に、新居で始まる新たな日常が平穏とは程遠いものであることを改めて思い知らされていた。

静子邸への来訪者
静子が新居での生活を整えていた折、使者の来訪が告げられた。現れたのは上杉家の家臣・与六であり、彼は事前の連絡もなく静子邸を訪ねてきた。静子はその無遠慮さに疑問を抱きつつも、遠路を考慮して対面の場を設けた。

最重要任務を抱えた与六の動揺
与六は食事を勧められても「最重要任務が先である」と辞退したが、腹の音がそれを裏切った。結果として膳が用意され、与六は任務を優先しようとしつつも、場の流れに従い話を続けることとなった。

差し出された降伏文書
与六は本題として文書を差し出した。それは上杉謙信が織田家に臣従することを示す正式な降伏文であった。静子は文面を慎重に読み込み、その内容が駆け引きではなく、覚悟を伴った決断であることを理解した。上杉家が戦わずに頭を下げるという選択は、戦国の常識から見ても異例であった。

岐阜城での報告と信長の判断
文書は岐阜城へ届けられ、織田信長の前でその内容が確認された。信長は即座に使者を呼び出し、与六に直接問い質した。与六は「御実城様の熟考の末の決断である」と答え、家臣としての立場を崩さなかった。

臣従の覚悟と人質の意味
信長は与六に対し、約定が破られた場合の覚悟を問うた。与六は迷いなく自らの命を差し出す意志を示し、その姿勢は臣従が形式ではなく現実のものであることを裏付けた。与六はそのまま静子の邸に留め置かれ、保護と人質の両義的な立場に置かれることとなった。

静子の受け止め方
静子は、上杉謙信が武名や誇りよりも越後の存続を選んだ結果であると受け止めた。敗れてから降るのではなく、価値を保ったまま頭を下げるという判断は、冷酷でありながら合理的であった。ここで描かれるのは戦の勝敗ではなく、為政者が下した「選択」の重さである。

独座する信長の内省
広い座敷に独り座した信長は、静かに思考を巡らせていた。背を向けた構図と無言の間によって、外部との対話はすでに終わり、判断の段階に入ったことが示されている。

武田討伐の達成
信長の独白として、「武田を倒し」という認識が示される。これはすでに成し遂げた事実として扱われており、誇示ではなく、冷静な戦果確認として描かれている。

上杉の動向への評価
続けて「上杉までをも配下に治めたか」という言葉が浮かぶ。ここでの上杉は、完全制圧ではなく、臣従という形で勢力下に収めつつある段階として認識されている。

満足ではなく、未完の自覚
信長は小さく歯を鳴らし、「未だだ」「未だ未だ」と自らに言い聞かせる。大きな成果を得ながらも、それを最終地点とは捉えていない姿勢が強調される。この場面では歓喜や嘲笑は描かれず、むしろ覇業が途上にあるという自己認識が前面に出ている。

九十二幕 知己 

上杉謙信の降伏が各地に波及
上杉謙信の降伏は、各方面に大きな衝撃を与えた。作中では複数の有力者の反応が示され、特に反織田勢力の中核である本願寺が強く動揺した様子が描かれている。上杉という大勢力の臣従は、情勢が決定的に織田優位へ傾いたことを意味していた。

和睦を申し入れる勢力の出現
信長のもとには、和睦を申し入れる動きが届く。岐阜城の描写とともに、対立を続けるよりも従属を選ぶ勢力が現れ始めたことが示され、戦局が「戦う段階」から「整理される段階」へ移行しつつあることが強調される。

独座する信長の冷静な評価
信長は広間に独り座し、上杉の件を受けて現状を見渡す。「くっくっく」「大慌てだな」と語るが、それは勝利に酔った笑いではなく、敵勢の動きを冷静に見下ろす観察者としての反応である。「臣下の礼も済んでおらぬ」という言葉からも、彼が形式や順序を重視していることが分かる。

時間を得たことへの認識
信長は、和睦を受け入れることによって「奴らに時間を与えることになる」と理解した上で、それでもなお選択肢として成立すると判断している。ここでは感情的な快楽や嘲弄は描かれず、政治的・戦略的な視点のみが前面に出ている。

次を見据える視線
最後に描かれる山並みの遠景は、信長の関心がすでに次の局面へ向かっていることを象徴している。上杉の降伏は通過点に過ぎず、覇業はまだ途上であるという認識が、静かな余韻として残されている。

春日山城出立と上洛行
上杉謙信は精鋭五千を率いて春日山城を発ち、岐阜へ向かう。形式上は織田家への臣下の礼を取るための行軍であるが、謙信自身は信長と本願寺の和睦を全面的には信じ切っていなかった。そのため、行軍には足満や近衛前久といった側近が同行している。

道中に生じる違和感と軽口
行軍の途上、謙信は漠然とした違和感を覚えていた。一方で足満と近衛前久は並走し、皮肉と軽口を交わす。足満は常に苛立ちを隠さず、前久はそれを面白がるようにからかう。この二人の関係は険悪に見えて、実際には遠慮のない友誼に基づくものであった。

神輿による進路妨害
道を塞ぐように神輿が置かれているのを一行は発見する。神輿は神が鎮座するものとされ、兵たちは神罰を恐れて足を止める。ここで行軍は一時停滞し、緊張が走る。

足満の判断と実行
迷いなく動いたのは足満であった。足満は神輿を神聖視せず、障害物として即断する。「捨ててしまえ」という判断のもと、神輿を道から排除し、崖下へ落とす。兵たちはその行動に動揺するが、足満は一瞥もくれず行軍を再開する。

神威への恐れと対比
周囲の兵や武将が神罰を畏れる中、足満だけは神仏に対する恐怖や敬意を一切示さない。その態度は異端的であり、同行者たちに強い印象を残す。一方で近衛前久は、その姿勢を当然のものとして受け止めていた。

謙信の内省
足満と前久のやり取りを見た謙信は、彼らの関係を眩しげに見つめる。利害や立場を超えて本音で言葉を交わせる友の存在を、謙信は羨ましく感じていた。自身にはそうした友がいないという自覚が、静かに胸をよぎる。

行軍の継続と覚悟
障害を排した一行は、再び西へ進む。神威も世俗的な評判も切り捨て、目的のために進むという姿勢が、足満の行動を通じて明確に示された。謙信はその現実を受け止めた上で、岐阜へ向かう覚悟を新たにする。

新静子邸周辺の植生確認と静子の感覚

静子は新静子邸周辺で、カカオ、コーヒー、ライチ、マンゴスチンなどの植生を確認していた。いずれも順調に育っているものの、自生地と比べて生育速度が大きく変わらない点に違和感を覚え、環境要因やストレスが成長に影響している可能性を考え始める。木の香りや空気に触れながら、戦や鉄砲とは無縁だった日々を思い出し、静子は一時的な安堵を得ていた。

与六の合流と日常への引き戻し

静子が森の中で思索に沈んでいると、与六が合流する。与六は静子の立場を気遣い、無防備な外出を咎めつつも、軽い調子で会話を交わす。静子は与六の指摘に渋々同意し、二人のやり取りは新静子邸での穏やかな日常を象徴するものとなっていた。

新築祝いが宴へと変質する兆し

静子は新築祝いを「軽く」済ませるつもりでいたが、屋敷には祝儀の品が次々と集まり、事態は想定外の方向へ進む。倉には贈答品が積み上がり、表向きは控えめな祝いであっても、周囲の認識はすでに大規模な祝宴であった。

馬廻衆の動きと警備の現実

前田慶次、可児歳三、森長可(勝蔵)の三名は、静子の馬廻衆として動いていた。宴の規模拡大を察した勝蔵は警備体制の厳格化を意識し、歳三は即応可能な配置を取る。一方、慶次は場の緊張を察しつつも、それを意図的に崩すような振る舞いを見せ、結果として場の空気を和らげていく。

上杉勢来訪と宴の不可避性

上杉勢の来訪が確定すると、静子はもはや内輪の祝いでは済まないと悟る。警備は一段階引き上げられ、邸内は厳戒態勢に入るが、それでも宴を避ける選択肢は存在しなかった。慶次は「どうせ大宴会になる」と笑い、歳三は淡々と準備を進め、勝蔵は全体を引き締める役に徹する。

軽い祝いのはずだったという静子の独白

静子は当初「軽く祝うだけ」と考えていた自分の見通しの甘さを内心で認める。新静子邸を中心に人と物が集まり、彼女の意思とは無関係に状況が動いていく現実を前に、静子は静かに覚悟を固めるのであった。

信長と本願寺の密約成立

1573年5月、信長は本願寺と和睦を結んだ。武田討伐を終えた直後の判断であり、表情からは迷いのなさがうかがえた。この和睦は単なる停戦ではなく、信長側が主導権を握った上での条件提示であった。

本願寺での条件協議

本願寺では、織田から提示された和睦条件が検討された。条件は各地の道路整備や経済発展への出資であり、表向きは双方に利益がある内容であったが、実質的には織田の影響力を各地に浸透させるものであった。

通貨発行権という異質な要求

協議の中で、織田家が通貨発行権の承認を求めていることが明らかとなった。当時流通していた通貨は劣化が進み、限界を迎えていたとはいえ、通貨発行は国家権力の根幹に関わる異例の要求であり、本願寺側はその真意を測りかねていた。

織田の狙いへの疑念

本願寺側は、織田が領土拡張や賠償金を求めてこなかった点に違和感を覚えた。武力による正面突破ではなく、経済と制度から支配する意図があるのではないかという疑念が共有される。

武田滅亡と上杉の従属

信長は武田を一日にして葬り、戦わずして上杉を従わせたと語られる。その結果を前に、本願寺側は織田の手法が従来の戦国の常識から外れていることを再認識する。

鍵を握る人物の存在

議論の中で、織田の背後に「鍵を握る人物」が存在することが示唆された。武力でも外交でも説明がつかない一連の動きの中心に、特定の存在がいる可能性が浮上する。

近衛静子への注視

その人物として名前が挙がったのが近衛静子であった。全てにおいて優れた能力を持つ存在として認識され、本願寺側は彼女を軽視すべきではないと判断する。

弱点を突く方針の決定

織田家を正面から武力で攻めることは不可能と結論づけられ、本願寺は方針を転換する。近衛静子を重点的に注視し、弱点を突き崩すことで状況を打開する策が選ばれた。

九十三幕 歓迎

岐阜城での対面と時代背景の提示
1573年6月、岐阜城。重厚な城郭描写とともに、舞台が織田信長の本拠であることが明示される。城内では家臣団が整然と列座し、異例の来訪を迎える緊張感が支配していた。

上杉謙信の登場と空気の変化
上杉謙信は正装で姿を現し、堂内の視線を一身に集めた。その表情は厳しく、感情を抑えたものであり、この場が儀礼ではなく政治的決断の場であることを示していた。

信長と謙信の沈黙の応酬
信長は上座に座し、謙信を静かに見据える。言葉は最小限で、互いの力量と覚悟を測る沈黙が続く。両者の視線の交錯が、この会見の本質が対等な交渉ではなく、歴史の転換点であることを強調する。

謙信の決断と臣従の所作
謙信は畳に手をつき、深く頭を下げる。形式上の臣従を示す明確な所作であり、この瞬間をもって越後の立場が決定的に変化したことが示された。「またひとつ大きく歴史が動いた」というモノローグが、その重みを言語化する。

日本列島図による勢力構造の可視化
地図描写によって、織田の支配が越後にまで及んだことが示される。これにより、日本の中心に織田・徳川・上杉の壁が成立し、三国が連なる構造が成立したことが示唆された。

信長の勢いと時代の加速
信長の勢力はここからさらに加速すると語られる。一向宗などの反信長勢力は、もはや個別の抵抗では対抗できない局面に追い込まれつつあることが、旗印や構図によって暗示される。

謙信の内面と覚悟の強調
謙信は「騙るなかれ」と自らに言い聞かせるような表情を見せる。これは屈服ではなく、時代を見据えた選択であることを示す描写であり、武人としての矜持が完全に失われたわけではないことが示されている。

儀式の完了と新秩序の成立
臣従の儀が終わり、場は静かに収束する。派手な歓声や祝賀は描かれず、淡々とした空気の中で、新たな秩序が成立したことだけが確定事項として残された。

尾張・新静子邸の全景

尾張に築かれた新静子邸の全景が描かれ、山と田畑に囲まれた広大な敷地と、大規模な屋敷構えが示される。静子の拠点が並の屋敷ではないことが視覚的に強調される。

来客の到着と静子の迎え

静子は来客を笑顔で迎え入れ、丁寧な挨拶を交わす。新居披露の場として、正式に客を迎える雰囲気が整えられている。

上杉謙信一行の参加

上杉謙信が家臣を伴って姿を見せ、静子に対して礼を尽くした挨拶を行う。場は内輪の集まりという枠を越え、名だたる武将が集う宴へと変化していく。

屋敷への感嘆と宴への期待

客たちは屋敷の立派さに感心しつつ、自然と料理や酒の話題へと移っていく。静子のもてなしへの期待が率直な言葉として交わされる。

大規模な酒宴の始まり

宴は次第に人が増え、広間には多くの武将が集まる大規模な酒宴となる。酒と料理が次々と運ばれ、場は一気に賑やかさを増していく。

宴の盛り上がり

会場では杯が交わされ、笑い声と掛け声が飛び交う。酒が足りないと不満を漏らす声や、さらに料理を求める声が上がり、宴は勢いを増していく。

静子の対応と距離感

静子は宴に完全には沈み込まず、騒ぎすぎないように釘を刺しつつも、多少の酒には付き合う姿を見せる。主催者として場を制御しながらも、空気を壊さない立ち位置を保っている。

馬廻衆による警備

宴の裏では、静子の馬廻衆である前田慶次、可児歳三、森長可(勝蔵)が警備に当たっている。騒がしい宴の最中でも警戒を怠らず、場の安全を支えている。

静子邸の静かな夜と甘味の時間

夜の静子邸はすでに宴の喧騒を離れ、建物の外観だけが静かに描かれる。静子は一人で甘味の時間を楽しんでおり、用意していたのはクサイチゴを使ったショートケーキであった。酸味のあるクサイチゴをジャムにし、生クリームと合わせたもので、静子自身が「最高」と感じる出来栄えである。

ケーキは来客用として多めに作られており、並んだホールケーキを前に静子は作り過ぎたことを自覚する。それでも食欲は止まらず、もう一つ手を伸ばそうとした瞬間、頭の中でふくよかな自分の姿が想像され、思わず踏みとどまる。

最後は屋敷全体を俯瞰する描写とともに、静子が小さく「だめだめ……」と自制する場面で締めくくられ、宴の余韻や権力構造の示唆ではなく、完全に私的で日常的な静子の姿が描かれている

女子衆の集まりと静子不在の違和感
静子邸の一角では女子衆の集まりが開かれていたが、当の静子は姿を見せていなかった。集まった女性たちはその不在を当然のように受け止めつつも、静子の立場や振る舞いについて率直な意見を交わしていた。場は落ち着いているものの、静子を巡る評価と距離感が静かに浮かび上がっていた。

女の役割と静子の異質さ
女の務めとは何かという話題の中で、婚姻し子を成し家を支えることが当然とされる価値観が示される。一方で静子は、武田を倒し政にも功績を挙げながら、その枠組みに当てはまらない存在として語られた。女子衆の視点では、静子は有能であるがゆえに、かえって扱いに困る存在でもあった。

濃姫の独白と観察
場面は濃姫の専用の部屋へ移り、濃姫は静子について静かに考えを巡らせていた。静子は誰にも成し得ない成果を挙げ続けているが、それゆえに妬みや陰口、失礼な扱いを受けかねない立場にあると認識している。濃姫はその現状を冷静に分析していた。

感情の変化と静子への評価
濃姫は、以前よりも静子への妬みの声が減ってきていることに気づいていた。同時に、同情が集まり、場の空気が和らぎつつあることも理解している。静子という存在が、周囲の感情を変化させていることを濃姫は感じ取っていた。

要求の意図と狙い
濃姫は、静子に対して無茶とも思える高度な要求を繰り返してきた理由を振り返る。それは静子を追い詰めるためではなく、彼女が女社会の中で孤立しないための策でもあった。濃姫自身、その狙いが伝わったかどうかを静かに考えていた。

軽口と本音の境界
濃姫は「考えすぎだ」と自らを制しつつも、静子の反応を面白がる余裕を見せる。冗談めかした仕草の裏には、静子の身を案じる現実的な判断があった。静子を守るために策を巡らせていることが、さりげなく示される。

養子の話題と新たな波紋
最後に、信長の兄の子を静子の養子にするという話が示される。この一言により、静子の立場が個人の問題ではなく、家と社会を巻き込むものになりつつあることが明確になった。場の空気は一変し、次の展開を予感させて締めくくられる。

夜の静子邸と人の気配

夜の静子邸では宴が続いており、多くの来客が集まっていた。屋敷の広さと賑わいから、この場が私邸でありながら半ば公的な集会の場として機能している様子が描かれていた。明智光秀はその場で来客に声を掛けられ、対応に追われていた。

珠の油断と光秀の叱責

その頃、屋敷の外れでは小間使いの珠が職務を離れ、猫と戯れていた。そこへ光秀が現れ、仕事中であることを忘れている珠を厳しく叱責した。珠は慌てて謝罪し、他の小間使いが皆働いていることを指摘され、自身の失態を自覚した。

静子の介入と場の収拾

叱責の場に静子が現れ、光秀に制止を求めた。珠は深く詫び、静子は状況を受け止めつつ、その場を収めた。光秀は静子の言葉に応じ、叱責を終えて場を離れた。

慶次の登場と警備の報告

その後、警備を担当していた前田慶次が現れ、静子に報告を行った。屋敷内で不審者を捕らえたことが伝えられ、静子は事態を把握した。宴の裏で、屋敷がすでに警戒と統制を必要とする場になっていることが示されていた。

九十四幕 恩義

密書の確認と捕縛者の正体

静子は慶次と共に牢を訪れ、捕縛されている女の存在を確認した。慶次が差し出した文書によって、その女が重要な情報を握っていることが示唆されるが、静子自身は感情を表に出さず、静かに状況を受け止めていた。

武藤喜兵衛と武田陣営の敗北

話題は武田陣営の現状へと移り、武藤喜兵衛が大藤城で敗北したことが明言された。この敗戦は個人の失策ではなく、戦そのものが武田側の敗北であったと整理され、これ以上の流血を避けるための判断であったことが語られた。

真田家の立場と内部対立

真田家は武田家に従うべきだという主張があったものの、実際には反対派と大揉めしていた状況が示された。真田昌幸は主を強く諫めた結果、現在の立場に追い込まれたことが示唆され、家中の不安定さが浮き彫りになった。

捕縛された女の役割

牢に囚われた女は、真田家の反対派に属する間者であり、争いの中で重要な役割を担っていた存在であった。彼女は責を一身に負わされる立場にあり、その命が政治的判断の材料となっていることが示された。

静子の判断と距離感

静子は首級や即断即決を求められながらも、それを拒み、自身の判断で事を進める姿勢を示した。感情的な同情や敵意ではなく、状況全体を見据えた冷静な対応であり、慶次もまたその判断を静かに受け止めていた。

新居完成と一件の収束

最終的に、静子邸の新築祝いが無事に終わったことが描かれ、この一連の出来事はいったんの区切りを迎えた。捕縛者の処遇や真田家の問題は未解決の余地を残しつつも、表向きの混乱は収束した状態で幕を閉じている。

人質受け入れの正式決定

信長は上杉家との同盟関係の保証として、上杉景勝と直江兼続を尾張に留める決定を下した。二人は酒宴などを伴わない簡素な場で名を述べ、信長は形式的なやり取りのみでこれを了承した。この場面では歓待や私的交流は描かれず、政治的判断として淡々と処理されている。

尾張・技術町への場面転換

時代は天正元年六月中旬。舞台は尾張の技術町へ移る。ここでは絨毯の製作現場が描かれ、職人たちが実際に手を動かしながら技術を吸収している様子が示された。作業は地道であり、華やかな演出はない。

瑠璃による絨毯技術の共有

瑠璃は織機の前に立ち、かつて異国で培った経験をもとに、職人たちへ実地で指導を行っていた。彼女は威圧的な態度を取らず、丁寧で穏やかな対応を心がけており、その姿勢が周囲から好意的に受け止められていた。ここでは「教える者」と「学ぶ者」の関係が落ち着いた日常として描かれている。

技術伝承の評価と安定

職人たちは瑠璃の指導を高く評価し、作業の進捗も安定していることが示された。苦労の過去に触れる台詞はあるものの、感傷的な回想には踏み込まず、現在の成果に焦点が当てられている。

金属加工職人・弥一の紹介

場面は金属加工の工房へ移り、弥一が登場する。弥一は寡黙ながらも確かな腕を持つ職人として描かれ、基本技術を惜しみなく周囲に示していた。日常的な指導の積み重ねが、自然な技術共有につながっていることが強調されている。

労働環境と価値観の対比

弥一は作業後の会話の中で、奴隷時代と比べれば現在の待遇は雲泥の差であると語った。長時間労働ではあるが、自らの意思で働き、報酬を得られる現状を肯定的に受け止めている姿が描かれている。

尾張農園での紅葉の仕事

舞台は尾張農園へ移り、紅葉が温室内で植物を管理する様子が描かれた。紅葉はインド原産のニームを栽培しており、栽培記録を几帳面に付けていた。植物の成長過程を観察し、数値や変化を書き留める姿勢が強調されている。

ニームの特性と実験目的

ニームは害虫忌避効果を持つ植物として説明され、化学農薬に頼らない農業の可能性を探る対象として扱われていた。成功例だけでなく失敗も含めた記録が重要であると紅葉は理解しており、慎重かつ真面目に作業へ向き合っていた。

記録の意義と継続

紅葉は記録の細かさについて指摘される場面で、自身の判断ではなく将来の参考のためであると説明した。小さな変化も残す姿勢が評価され、作業は今後も継続されることが示唆されて締めくくられる。

静子邸書庫と虎太郎の役割

静子の邸内にある書庫では、虎太郎が大量の書物に囲まれながら翻訳作業を担っていた。虎太郎は語学能力に優れ、この時代の文法や語法の揺れにも対応できる存在として、静子の持ち込んだ電子辞書を補助に用いながら翻訳を進めていた。虎太郎は言語学者として翻訳を生業としてきた経歴を持ち、フランス語を中心にスペイン語やギリシャ語にも通じていた。

翻訳作業の進展と知識の蓄積

虎太郎の翻訳は順調に進み、区切りのよいところまで作業を終えたことで、静子に進捗を示す場面が描かれた。西洋由来の書物が机上に積み上がり、虎太郎自身もこれほど多くの珍しい書物を扱える機会を喜ばしいものとして受け止めていた。翻訳という行為そのものが知的探究であり、単なる作業ではないことが強調されていた。

地動説をめぐる対話の始まり

縁側で静子と虎太郎は地動説について語り合った。虎太郎は、太陽が動かず地球が回っているという考え方が逆だと言えば驚かれる時代であることを踏まえつつ、静子の理解力に驚きを見せた。静子はその概念を自然に受け止め、「地動説」という言葉を口にすることで、会話の核心に踏み込んだ。

古代から近代への天文学史の整理

虎太郎は、天体が地球の周囲を回るという考えが近代まで常識であったこと、紀元前2世紀のアリスタルコスが地動説を提唱していたこと、そしてコペルニクスにより再び理論として整理された経緯を説明した。当時最新の観測技術や計算方法によって検証が進んだ一方で、宗教的世界観との対立が問題を生んだ点にも言及していた。

科学の進歩と実証への意志

静子は理論だけでなく実証の重要性を示し、時間はかかるものの観測機材を手配する意志を明確にした。虎太郎は静子がすでに多くを知っていることに内心驚きつつも、その提案を前向きに受け止めた。望遠鏡の性能が課題であることも共有されるが、それでも科学の進歩を早めたいという静子の姿勢が印象づけられていた。

管理と役割分担への現実的な視点

会話の締めくくりでは、静子が虎太郎に対して今後の協力を求め、虎太郎も翻訳と研究の継続に意欲を示した。一方で静子は管理職としての負担の大きさを自嘲気味に語り、理想と現実の両立に向き合う姿を見せて場面は終わっている。

尾張近郊の整備事業と休日制度の導入

1573年6月下旬、尾張近郊では街道整備を中心としたインフラ整備が進められていた。従事者の負担軽減を目的として、静子の提案により月一回の試験的な休日制度が導入される。現場では当初戸惑いも見られたが、休日前後の楽しみや慣れを口にする者も現れ、制度は一定の効果を示していた。

前例のない制度と静子の評価

明治以前の日本において明確な休日制度は存在せず、この試みは極めて異例であった。休み明けの疲労や夜の騒がしさといった問題点も語られるが、労働者の生活安定と生産性維持を目的とする施策として、静子の判断は受け入れられていた。

岐阜城での報告と異変

静子は制度の報告のため岐阜城を訪れる。休日制度は概ね順調に機能しており、報告自体は簡潔に済む内容であった。しかし、城内では異様な緊張感が漂っており、最近は上機嫌であったはずの信長が、激しい怒りを露わにしていた。

九十五幕 愚息

信長の激怒と抜刀

静子が居合わせた場で、信長は刀を手にし、明確な殺意を示すほどの激怒を見せる。その矛先はその場にいた人物に向けられ、「その首、刎ねてくれる」と断言するほどであった。

静子の制止

事態を前に、静子は恐怖を覚えながらも信長の前に立ち、「お許しを」と叫んで制止に入る。場面は緊迫した空気のまま続き、静子の行動がこの衝突にどう影響するかは描かれないまま幕を閉じる。

信長の激怒と岐阜城の緊張

信長は岐阜城において激怒しており、刀を手にして親族に斬首を示唆するほど感情を荒らげていた。畳は乱れ、倒れ込む者もおり、場はすでに制止寸前の状況であった。静子はその場に居合わせ、事態の深刻さを即座に理解した。

静子の諫言と信長の制止

静子は恐怖を抑えつつ、「過度なお怒りはお体に障る」と信長に進み出て諫言した。信長は即座に反応し、静子に邪魔をするなと一喝するが、最終的には刀を納め、場の殺気は一応収束した。この場面では、刀を持っているのが信長本人であることが明確に描かれている。

親族への処断予告と猶予

信長は怒りを抑えつつも、問題を起こした親族に対し、状況が改善されなければ親子の縁を切ると明言した。ただし即断は避け、期限として「半年」を与える判断を下した。この猶予は情ではなく、統治者としての最終判断として示されている。

静子の立場と発言の重み

静子は恐怖に震えながらも、その場に留まり、信長の言葉を受け止め続けた。信長もまた、静子の存在を排除せず、結果的にそのまま話を続ける姿勢を見せた。このやり取りにより、静子が単なる報告役ではなく、意見を述べる立場にあることが視覚的に示されている。

伊勢開発の遅延と信長の苛立ち

話題は伊勢へと移り、信長は伊勢の開発が遅れている現状に強い不満を示した。信長はすでに伊勢の海運を掌握しており、尾張と伊勢を結ぶ街道整備が進まないことを問題視していた。

遅延の原因と現場の混乱

伊勢および尾張では、戦の影響で作業が停滞し、工事の遅れが積み重なっていた。信長自身も本心では勢力を抑え込みたいが、現実的には足を取られ続けている状況であることが示される。

静子への問いかけと次の段階

信長は状況を整理したうえで、静子に対して今後についての意見を求める姿勢を見せた。静子は一度は「本日は休日制度の報告を」と切り出すが、信長はそれを後回しにし、より根本的な問題について話を進めようとするところで場面は締めくくられる。

岐阜城での謁見と信長の激怒

静子は報告のため岐阜城を訪れたが、信長は珍しく苛立ちを露わにしていた。刀を手にし、近頃上機嫌だった様子とは一転した空気が漂っていた。
信長は静子の説明に耳を傾けつつも、その内容が直感的に理解しがたいものであることを率直に示し、「この後どう展開するのか」と問いを投げかけた。

貨幣と信用の関係についての説明

静子は、金銀そのものを使わずに経済を回すという考えが誤解されやすいことを認めたうえで、金の発生と信用の仕組みについて説明を始めた。
中世ヨーロッパでは金細工職人が金を預かり、預かり証を発行していたこと、その預かり証が市中で流通し、物やサービスとの交換に使われるようになった経緯が示された。

預かり証の流通と信用創造の発生

預かり証は金そのもの以上に流通し、やがて実際には存在しない金額分の証書が使われ始めた。
金細工職人は、すべての預かり証が同時に金へ引き換えられないことに気づき、預かっていない金まで貸し出すようになった。
この瞬間に、信用を背景とした「お金」が生み出されたことが示される。

現代銀行制度との接続

静子は、この仕組みが現代の銀行と本質的に同じであると説明した。
銀行は通帳に数字を記すだけで貸付を行い、理論上は無限に信用創造が可能だが、実際には制度と管理によって制限されている。
日本政府が円を発行する際も、手続きは異なるが、同様に「無から生み出される」構造であることが語られた。

信長の理解と評価

信長は、この仕組みが机上の空論ではなく、既に異世界や現代で行われてきた現実であることを認識した。
金の裏付けを必要としない信用による貨幣創造に強い関心を示し、「面白い」と評価した。

新通貨構想と具体策

静子は、いきなり紙幣を発行するのは無理があるとし、まずは金銀を用いた新貨幣の鋳造を提案した。
同時に銀行制度を整備し、信用を段階的に育てることで、安定した通貨供給を目指す方針が示された。
偽造防止のため、紙幣への切り替えを将来的に宣言する構想も語られた。

経済拡大への展望

貸付によって事業者が活動を拡大し、借金を返せば再び貸付が行われる循環が生まれることで、織田領内の民間事業が活性化する見通しが示された。
さらに、中央銀行的な立場で信長自身が通貨発行権を行使すれば、経済発展の速度は飛躍的に高まると静子は述べた。

信長の最終判断

信長は慎重さを求めつつも、新通貨発行の時機が到来していることを理解した。
質の悪い永楽銭が市場から駆逐されつつある現状を踏まえ、「今こそ新通貨発行の時」と結論づける場面で、この一連の説明は締めくくられる。

七月の穏やかな日常

天正元年七月、静子は領内で比較的穏やかな日々を過ごしていた。狼と戯れ、畑仕事に励み、教育や政務を担う者たちも成長を見せていた。信長から一定の裁量を任されていることで、静子の精神的負担は軽減され、束の間の平穏が描かれる。

夏の暑さと体調の異変

夏の暑さの中、静子は作業を続けるが、ほどなく体に異変を覚え、発熱と倦怠感に見舞われた。周囲は異変を察知し、静子を休ませる判断を下す。これは重病ではなく、疲労と暑さによる一時的な症状であった。

前田慶次と森長可の描写

療養の場面では、馬廻衆の前田慶次と森長可(勝蔵)が上半身裸の姿で登場する。両者は武闘派として並び立つ存在であるが、兄弟ではなく、血縁関係もない。単に同じ馬廻衆として行動を共にしているに過ぎない。

戦の気配と信長の判断

穏やかな時間の裏で、情勢は確実に戦へと傾いていた。信長は浅井・朝倉との対決を見据え、決断の時が近いことを示唆する。私情や評判ではなく、あくまで武として、そして政として動く覚悟が語られる。

時代の転換点

信長は「これからは上様の時代」と語り、既存の秩序が終わり、新たな時代が始まることを明確にする。周囲はその言葉の重みを理解し、静子もまた、自身が再び戦に関わる段階へ入ったことを自覚する。

嵐の前の静けさ

最後に描かれるのは、完全な決起ではなく、あくまで直前の静けさである。冷やす、休む、備えるという日常的な行為の中に、これから始まる大きな動乱の気配が重ねられていた。

織田軍の布陣と総大将信長

天正元年七月下旬、織田軍は軍勢を整え、明確な戦時体制へと移行していた。信長は自ら総大将として前面に立ち、軍の結束と覚悟を示す姿を見せていた。その威圧的な存在感は、周囲の将兵に対し、今回の戦が容易なものではないことを無言のうちに示していた。

浅井・朝倉との対峙と戦意の表明

織田方では、浅井・朝倉との決戦を視野に入れ、長期戦も辞さぬ構えが取られていた。戦を終わらせるための準備が進められ、信長はこの戦いに明確な終止符を打つ意思を固めていた。兵の動員や陣の展開からも、消耗戦を覚悟した本気の布陣であることがうかがえた。

静子の動向と兵站への関与

静子は軍中にあって、戦闘そのものではなく、兵站や補給に関わる立場として行動していた。戦場の最前線に立つことはないものの、軍の継戦能力を支える存在として重要な役割を担っていた。戦が長引く可能性を前提に、補給面での準備が進められていたことが示唆されている。

出陣命令と織田軍の前進

最終的に織田軍は出陣を開始し、馬廻衆を含む兵が整然と進軍する。静子もまた、その流れの中で軍と共に前へ進む立場に置かれていた。戦いが不可避であることを前提に、織田軍は一斉に行動を開始し、決戦へと向かう段階に入ったのである。

同シリーズ

戦国小町苦労譚 シリーズ

漫画

戦国小町苦労譚 11巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 11巻の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 12巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
漫画「戦国小町苦労譚 越後の龍と近衛静子 12巻」の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 13巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 乱世を照らす宰相 13の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 14巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 乱世を照らす宰相 14の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 15巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 治世の心得(15)の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 16巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 忍び寄る影 16の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 17巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 忍び寄る影 17の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚18巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 忍び寄る影 18の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚18巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 忍び寄る影 19の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。

小説版

戦国小町苦労譚 1巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 1 邂逅の時の表紙。
あらすじと考察は本文で詳しく解説。
戦国小町苦労譚 2巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 2 天下布武の表紙。
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戦国小町苦労譚 3巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 3 上洛の表紙。
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戦国小町苦労譚 4巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 4 第一次織田包囲網の表紙。
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戦国小町苦労譚 5巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 5 宇佐山の死闘と信長の危機の表紙。
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戦国小町苦労譚 6巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 6 崩落、背徳の延暦寺の表紙。
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戦国小町苦労譚 7巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 7 胎動、武田信玄の表紙。
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戦国小町苦労譚 8巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 8 岐路、巨星墜つの表紙。
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戦国小町苦労譚 9巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 9 黄昏の室町幕府の表紙。
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戦国小町苦労譚 10巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 10 逸を以て労を待つの表紙。
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戦国小町苦労譚 11巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 11 黎明、安土時代の幕開けの表紙。
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戦国小町苦労譚 12巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 12 哀惜の刻の表紙。
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戦国小町苦労譚 13巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 十三、第二次東国征伐の表紙。
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戦国小町苦労譚 14巻の表紙画像(レビュー記事導入用)
戦国小町苦労譚 14 工業時代の夜明けの表紙。
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『戦国小町苦労譚』15の表紙。
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『戦国小町苦労譚』16の表紙。
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『戦国小町苦労譚』17の表紙。
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『戦国小町苦労譚』18の表紙。
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漫画感想(⚠️ネタバレあり)「薬屋のひとりごと 21巻 88話~93話」

薬屋のひとりごと~猫猫の後宮謎解き手帳~ 20レビュー
薬屋のひとりごと~猫猫の後宮謎解き手帳~ まとめ
薬屋のひとりごと~猫猫の後宮謎解き手帳~ 22レビュー

物語の概要

本作は宮廷ミステリー×歴史ファンタジーの漫画作品である。後宮に売られた薬師の少女・猫猫(マオマオ)が、薬理知識と洞察力を武器に数々の謎を解き明かしながら、帝国内での立場と運命を切り拓いていく姿を描く。第21巻では、猫猫が後宮を離れて花街へ戻った後、蝗害(こうがい)という国家的危機を防ぐ方法を記した古い図録を求め、子一族の砦にあった最後の一冊を探し求める展開となる。国家の命運が懸かる大きな謎を前に、猫猫の知識と推理がより大きな役割を果たす。

主要キャラクター

猫猫(マオマオ)
本作の主人公である薬師の少女。後宮で薬や毒の知識を駆使して様々な事件を解決してきた。冷静な観察力と専門的な薬理知識を武器に、国家危機を解く鍵を見出す。

壬氏(ジンシ)
帝の側近にして有力な宦官。猫猫の能力を評価し、彼女と行動を共にすることが多い人物。猫猫に難事件の解決を依頼する役どころでもある。

物語の特徴

本作の最大の魅力は、宮廷内のミステリー解決と薬理学的知識の融合である。主人公・猫猫は単なる謎解き役ではなく、専門知識を駆使することで“人間と国家の危機”を解決する。後宮という閉ざされた空間での陰謀や政治的駆け引きに加え、疫病や蝗害といった国家的レベルの危機が絡むことで、物語は単なる恋愛や人間ドラマを超えたスケールへと拡大する。

書籍情報

薬屋のひとりごと~猫猫の後宮謎解き手帳~ 21
原作: 日向 夏  氏
作画: 倉田三ノ路  氏
キャラクター原案: しのとうこ 氏
出版社:小学館(サンデーGXコミックス)
発売日:2025年12月19日
ISBN:978-4091582089

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あらすじ・内容

超絶ヒットノベルコミカライズ第二十一弾!
後宮から花街へと戻ってきた猫猫。国を滅ぼす天災・蝗害を防ぐ方法を知るため、猫猫は子一族の砦にあった図録を手に入れようとする。最後の一冊が隠されていた場所とは…!?

薬屋のひとりごと~猫猫の後宮謎解き手帳~ 21

感想

猫猫の素敵な笑顔が見れる21巻。
悪辣な事を考えると笑う癖はもう直せないだろう(面白いし)。
下町言葉とこの悪辣な顔、なかなかに居ないヒロイン像だと思う。
うん、嫌いじゃ無い。むしろ好きだ。

笑顔を見れるシーンは娘が病気で診断してくれと金を持って無さそうな男から証文に血判を捺印させた時。(笑顔1)
あと、左膳がヒントらしき事を呟いた時も笑顔であった。
瞳孔がガン開きだったが口は笑っていた。

さらに、壬氏にイナゴ料理を食べさせようと企み、壬氏に「お食事をして帰られてはいかがでしょうか?」と言ったシーン。
その後のコマで高順の表情が素晴らしい。
普通ならそうなる。
それを黙って受け入れる壬氏が…以下自粛。

物語の核となるのは、子翠の置き土産とも呼べる虫の本。
蝗害への対策となり得るのか、というのが戦略的なテーマとなった。
その可能性を確かめるため、壬氏たちが各所を奔走し、猫猫が一つひとつ謎を切り拓いていく流れが今後も続いて行くのだろう。
猫猫の知識と推理が前に出る構成であり、問題解決の過程が露呈して行く演出が良い。

同時に、背景には他国の影がちらつくのも不気味。単なる国内の出来事に収まらず、外からの影響が静かに差し込まれることで、世界の広がりが自然に感じられる点が巧妙だと思えた。
まだ全体像は見えないが、だからこそ想像が膨らむ。
もしかすると杞憂かも知れない事を含めて謎は多い。
さらに急に出てきた、白蛇仙女の正体は何者なのか。
麦角のクッキーをばら撒いた連中の意図はどこにあるのか。
どれも即答を与えず考える余白を残す構成も楽しい。
その余白が不安と期待を同時に育てる。

個人的に気になるのは、相変わらず掴みどころのない猫猫の好みの男である。匂わせはあるが、決定打はない。
だが、その曖昧さこそが猫猫らしく、物語の重心を恋愛に傾け過ぎない抑制として機能しているように思うというより、猫猫は他人に興味がないのだろうとも思っている。

総じて本巻は、謎が解けた爽快感よりも、「まだ先がある」と静かに告げる力を持つ一冊であった。
読み終えたあと、小説版五巻から続きを読み返したくなるのも自然な流れであろう。
いや、1巻から順に読むか?

最後までお読み頂きありがとうございます。

薬屋のひとりごと~猫猫の後宮謎解き手帳~ 20レビュー
薬屋のひとりごと~猫猫の後宮謎解き手帳~ まとめ
薬屋のひとりごと~猫猫の後宮謎解き手帳~ 22レビュー

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登場キャラクター

薬屋と長屋周辺

猫猫

薬屋としての技能を持ち、金と現実を基準に動く実務家である。伝承や噂を疑い、物の性質を観察と実験で切り分ける立場にある。趙迂や緑青館の面々、さらに宮廷側の依頼とも関わり、状況に応じて距離感を調整する人物である。
・所属組織、地位や役職
 薬屋。長屋住まい。
・物語内での具体的な行動や成果
 火鼠の皮衣の布を炭で試し、燃えない性質と石綿の可能性を示した。貧民街の少女を診て原因を毒性のある麦と流産に整理し、環境改善と移送を選んだ。図録の欠落から翠苓へ接触し、診療所に残された飛蝗資料へ辿り着いた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 噂や伝説を否定しつつも、結果として真相に近い解釈を組み立てる立ち位置を強めた。蝗害対策では、未然に潰すという発想を壬氏へ提示した。

趙迂

猫猫と同居し、日常の場面で強く反応する感情の動きを見せる人物である。猫猫の厳しさを目の当たりにしつつも、子どもへの気遣いを優先する面がある。
・所属組織、地位や役職
 猫猫の同居人。
・物語内での具体的な行動や成果
 古着屋で衣に惹かれつつ猫猫の実験を止めようとした。貧民の少女の件では同行し、猫猫の態度を「悪人みたいだ」と評した。飛蝗の場面では禿を連れて退場し、保護する側に回った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 蘇りの薬の影響として、半身不随と過去の記憶喪失が示唆された。

右叫

男衆頭として現場を回し、外の情報や裏の事情にも通じる立場である。猫猫に対しては、必要な場面で示唆を与え、動かす役割を担う。
・所属組織、地位や役職
 緑青館の男衆頭。
・物語内での具体的な行動や成果
 見世物が続く背景に錬丹術の可能性を挙げ、猫猫に警戒を促した。貧民街の件では、裏のじいさんの末路の話が右叫の語りとして共有された。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 表向きの力仕事だけでなく、噂の危険性や筋の悪さを嗅ぎ分ける影響力が描かれた。

左膳

下働きとして掃除を任され、周囲から評価されにくい側にいる人物である。一方で、研究部屋の冊数や内情を知る証言者として機能する。
・所属組織、地位や役職
 緑青館の下働き。門前掃除担当。
・物語内での具体的な行動や成果
 図録が本来三冊あるはずの虫の分が一冊欠けていると断言した。じいさんの死と遺体処理が翠苓担当だった点を明かし、猫猫の行動を引き起こした。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 右叫の方針の下で「試される立場」にあり、猫猫から叱咤され掃除へ戻された。

裏のじいさん

貧民街の裏手に関わる存在として語られ、焼き菓子の件で悪影響の中心にいた人物である。
・所属組織、地位や役職
 貧民街の老人。
・物語内での具体的な行動や成果
 焼き菓子を与え続けた結果、指が腐り落ちた過去が語られた。少女と母の症状と結びつく要因として扱われた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 末路の話が警告として機能し、菓子の危険性を裏付ける材料となった。

貧民街の父親

娘の危機で夜中に猫猫を叩き起こし、支払い不能のまま懇願する人物である。追い詰められた末に証文と血判を差し出す。
・所属組織、地位や役職
 貧民街の父親。
・物語内での具体的な行動や成果
 診察を求めるが金がなく、証文と血判で支払いを誓った。少女の移送を最終的に受け入れた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 数日後も金を持参できず、現実として「売れるものを売る」選択が家族に迫った。

貧民街の姉

妹を守るために状況を理解し、自分が代わりに身を売る覚悟を口にする人物である。感情ではなく、沈む未来を避けるための選択として提示する。
・所属組織、地位や役職
 貧民街の姉。妹の保護者。
・物語内での具体的な行動や成果
 芋の入手や妹への食事の経緯を示し、原因究明の手掛かりとなった。金が用意できない現実を踏まえ、自分が働いて稼ぐ道を選ぶと明言した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 妹との別れを選び、自分の責任で踏み出す姿勢が強調された。

貧民街の妹

衰弱し、手足の冷えや変色などの症状を示す少女である。原因は焼き菓子由来の毒性と流産に整理され、移送と静養で回復へ向かった。
・所属組織、地位や役職
 貧民街の妹。
・物語内での具体的な行動や成果
 症状の観察対象となり、焼き菓子の摂取が鍵として扱われた。猫猫の家で静養し、数日後に歩けるまで回復した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 母の死と同型の経過が示され、被害の連鎖を象徴する存在となった。

緑青館

やり手婆

緑青館を回す実務の中心におり、場を強引に動かす人物である。猫猫に対しても命令と暴力で従わせ、意図的に空気を作る。
・所属組織、地位や役職
 緑青館のやり手。
・物語内での具体的な行動や成果
 壬氏の宿泊や部屋の手配を主導し、猫猫を泊める流れを作った。猫猫に「好みの男」を語らせる場を仕切り、紙や墨まで用意した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 猫猫が逆らいにくい圧を持ち、館内の人員を動員できる影響力が描かれた。

白鈴

緑青館の妓女であり、馬閃に過剰に接近して場を乱す人物である。興味を優先し、相手の反応を楽しむ側に立つ。
・所属組織、地位や役職
 緑青館の妓女。
・物語内での具体的な行動や成果
 馬閃へ親しげに接し、退散を招いた。猫猫の「好みの男」騒動にも加わり、空気を煽った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 馬閃を「初物」と捉える発言があり、館内の価値観を象徴した。

女華

緑青館の妓女であり、男嫌いの気配と冷静な現実観を持つ人物である。最後に猫猫と二人になり、立場と心変わりの現実を語る。
・所属組織、地位や役職
 緑青館の妓女。
・物語内での具体的な行動や成果
 猫猫の「好みの男」騒動の後に残り、男の移ろいやすさと、女郎とその子の立場を突きつけた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 猫猫の内面を言語化し、感情ではなく現実として整理する役割を担った。

梅梅

緑青館側の会話の起点となり、客足減少の原因として白蛇仙女の噂を共有する人物である。
・所属組織、地位や役職
 緑青館の妓女。
・物語内での具体的な行動や成果
 女華と碁を打ちながら、見世物が高官の関心を集めている状況を語った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 館の不調を「外の娯楽」に結びつけ、猫猫の警戒を誘発した。

禿

緑青館の子どもとして場に居合わせ、飛蝗の給餌の光景で強い動揺を見せる。
・所属組織、地位や役職
 緑青館の禿。
・物語内での具体的な行動や成果
 壬氏が飛蝗を食べる場面に耐えられず泣き崩れ、趙迂に連れ出された。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 子どもに過剰な刺激である点を、猫猫に自覚させるきっかけとなった。

宮廷と周辺

壬氏

王氏として薬屋に滞在し、蝗害対策の相談相手となる人物である。嫌悪を示しながらも責務として受け止め、猫猫の提案に向き合う。
・所属組織、地位や役職
 王氏として扱われる立場。
・物語内での具体的な行動や成果
 被害地域を地図で示し、猫猫の見解を求めた。飛蝗料理の案に葛藤しつつも最終手段として受け入れ、実際に飛蝗を食べた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 診療所から押収された図録を猫猫へ渡し、飛蝗資料の発見に繋げた。

高順

壬氏の側近として同席し、場の衝撃に反応を示す人物である。
・所属組織、地位や役職
 壬氏の側近。
・物語内での具体的な行動や成果
 壬氏が飛蝗を食べた場面で手を震わせるなど、周囲の動揺を代表する反応を見せた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 馬閃が「高順の子」である点が示され、関係の背景として機能した。

馬閃

図録を持参して猫猫を訪ねるが、場の混乱で退散する人物である。期待していた内容が欠けている事実に直面する。
・所属組織、地位や役職
 高順の子として扱われる立場。
・物語内での具体的な行動や成果
 倉の図録を猫猫へ渡し、虫の図録欠落の疑いを強めた。白鈴の介入で動揺し、用件を果たせぬまま去った。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 官名を避ける配慮が言及され、立場の繊細さが示された。

阿多

離宮に属する屋敷の家主として場に立ち会い、猫猫と翠苓の対話を静かに見守る人物である。男装で現れ、気配の強さが描かれる。
・所属組織、地位や役職
 元四夫人。皇帝の離宮に属する屋敷の主。
・物語内での具体的な行動や成果
 前置きを不要として対話に同席し、「あの子はとても聡い子だった」と言葉を残した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 隠居先に見えて実態はそれ以上の場所であると、猫猫に再認識させた。

翠苓

じいさんの助手であり、子翠の異母姉である。表に出られない立場を示し、師の現状や資料の処分を語る。
・所属組織、地位や役職
 じいさんの助手。子翠の異母姉。阿多に従う立場。
・物語内での具体的な行動や成果
 師が蘇りの薬を試したことを認め、温泉郷の寝たきり老人が師だと明かした。図録は本来十五冊で一冊欠けると述べ、研究資料の処分と左膳の関与を説明した。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 「いくら聡い子でも、もういない」と断じる態度が、猫猫の違和感と追跡を促した。

子翠

蝗の研究を担い、猫猫に手掛かりを残した存在として語られる。直接は不在だが、残した痕跡が事件を動かす。
・所属組織、地位や役職
 蝗の研究を担った人物。翠苓の異母妹。
・物語内での具体的な行動や成果
 診療所の本棚に図録を紛れ込ませ、猫猫が後から気付く形の手掛かりを残したと整理された。飛蝗に関する挿絵資料や書き込みが多い図録へ繋がった。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 不在でありながら、最後の仕掛けが蝗害対策の核心資料の発見に直結した。

深緑

診療所閉鎖後の処遇として語られる女官である。後宮脱出を助けた側として重罪に問われた。
・所属組織、地位や役職
 女官。
・物語内での具体的な行動や成果
 自殺未遂の末に生き延び、罪人として捕らえられていると説明された。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 診療所再開が「宦官の監視下」という形になった背景の一部となった。

羅門

右叫が「真似するな」と釘を刺された相手として言及され、錬丹術への距離を示す基準点となる。
・所属組織、地位や役職
 右叫が警告を受けた相手として登場。
・物語内での具体的な行動や成果
 錬丹術を危険として扱う文脈で名前が出た。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 具体的行動は示されないが、禁忌の線引きとして機能した。

羅の一族と同行者

羅半

羅の一族の一員で、軍師の甥であり養子でもある。損得勘定で動き、美しいものに価値を見る性質を持つ。
・所属組織、地位や役職
 羅の一族。軍師の甥で養子。
・物語内での具体的な行動や成果
 白蛇仙女の見世物へ猫猫を誘い、劇場へ同行した。表向きの理由を述べるが、猫猫に虚偽と切り捨てられた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 入場者の仮面や紗の意味を説明し、場の性質を言語化する役を担った。

陸孫

軍師の部下として行動し、軍師の「気になる」という一言を受けて見世物一団を調べていた人物である。猫猫の移動にも関わる。
・所属組織、地位や役職
 軍師の部下。
・物語内での具体的な行動や成果
 劇場の席選びや周囲の警戒を補足し、噂の存在を猫猫へ伝えた。別場面では馬車の扉を開けるなど、同行の補助役としても描かれた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 「根拠がないことが多い軍師の勘」でも無視しない姿勢を示し、調査の実務側に立った。

見世物と噂の中心

白娘々

白蛇仙女として見世物の中心に立つ存在である。白い衣と白い肌、白い髪に、紅い唇と目が強烈な印象を残す。
・所属組織、地位や役職
 旅芸人一団の見世物の「仙女」。
・物語内での具体的な行動や成果
 劇場で白い靄と銅鑼の演出とともに登場し、観客の視線を一瞬で奪った。仙術や人心掌握の噂がつきまとい、都の高官の関心を集めた。
・地位の変化、昇進、影響力、特筆事項
 小さな見世物小屋から都の劇場へと規模が拡大し、花街の客足に影響する存在として扱われた。

展開まとめ

第八十八話 火鼠の皮衣

薬屋の閉店と帰宅の判断
夜になり、薬屋は灯りを落とした状態で閉店していた。客足はなく、灯油も無駄にできない状況であったため、営業を続ける理由はなかった。売上は管理役に預けられ、猫猫は帰宅を選択した。

あばら家での夕食と生活観
帰宅後、簡素な夕食が用意された。食事内容は質素で、肉類も最低限であった。趙迂は生活の厳しさに不満を示したが、猫猫は働いて稼げばよいという現実的な姿勢を崩さなかった。困窮時は手持ちの資源で凌ぐという価値観が示されていた。

寒さと住環境の問題
住居は隙間風が入り、暖を取るには不十分な状態であった。緑青館のような暖かさはなく、冬を越すには問題があることが明確であった。この環境を前提に、現状の改善が必要だと判断されていた。

衣類購入の提案
猫猫は翌日、着物を買いに行くことを提案した。寒さ対策として現実的な選択であり、住環境を即座に改善できない以上、身に着けるもので対応する方針であった。趙迂はその提案に即座に反応し、外出への意欲を見せた。

古着屋での衣探し
猫猫と趙迂は古着屋を訪れ、実用性重視で綿入れを探していた。店内には庶民向けの衣類が並び、贅沢とは程遠い品揃えであった。その中で、刺繍が施された上下揃いの白い衣装が目に留まった。

異質な衣装への違和感
その衣装は古着屋の品としては明らかに異質であり、上下ともに白く、装飾も過剰であった。趙迂は素直に美しさに惹かれたが、猫猫は用途や出自に疑問を抱き、現実的な視点で観察していた。

衣装に付随する伝承
店主はその衣装について、「天女が織った衣」であるという伝承を語った。西方の村に伝わる話として、泉に現れた美しい娘と、それを巡る出来事が説明された。話はあくまで昔話として語られており、事実かどうかは不明であった。

村娘と織物の逸話
語られた内容では、村人に助けられた娘が、不思議な文様の衣を織って恩返しをしたとされていた。その衣は非常に高値で売れ、村に富をもたらしたとされる。一方で、娘はやがて村を去り、村人はその行方を知ることができなかった。

婚姻と村人の選択
伝承の中で、村人は娘を村に留めようとし、最終的に嫁として迎え入れる判断をした。娘は拒否の意思を示したが、村人は聞き入れず、結果として婚姻が成立した形となった。

結末としての別れ
娘は婚姻後も涙を流し続け、やがて泉へ向かった。村人が後を追った時、娘の姿は消えており、泉には衣の一部だけが残されていた。村人は娘が元の場所へ帰ったのだと解釈した。

現実への引き戻し
話が終わり、店内に戻ると、その衣装が伝承の中で娘が織ったものだと説明された。趙迂は驚きを隠さなかったが、猫猫はあくまで「そういう話が付随している衣」であると受け止めていた。

天女伝説への懐疑
店主は天女伝説を信じるかと問いかけたが、猫猫は感情を交えず否定的な態度を示した。水に消えた天女という説明に対し、猫猫は一度人に裏切られた存在の行動として整理していた。

衣の異常性への着目
猫猫は衣に触れ、刺繍部分を含めた質感を注意深く確認した。見た目の豪華さだけでなく、布そのものが異様に丈夫である点に注目していた。

価格交渉と実験の提案
猫猫は「十倍の値で売れたらどうするか」と問い、今の価値は単なる古着であると位置づけた上で、炭を使った確認を提案した。趙迂が止める中、猫猫は実験を強行した。

燃えない布の実証
衣の上に炭を置いても、布は燃えず、焦げ跡すら残らなかった。周囲の人間は驚愕し、店主自身も想定外の結果に動揺した。炭で焼いても燃えないという事実が、衣の特異性を明確に示した。

素材の正体の指摘
猫猫はその布が「石で織られた布」である可能性を示した。草や木、虫由来ではなく、繊維状の石から作られた布であると説明し、古い時代の特殊な製法であることを補足した。

火鼠の皮衣という名称
東の島国では、このような石綿の布を「火鼠の皮衣」と呼ぶことがあると猫猫は語った。燃えない特性そのものが、天女伝説の根拠として語り継がれた可能性が示された。

価値の再定義
猫猫は、この衣は十倍の値で売れる可能性があるとしつつも、売却ではなく古着として譲り受ける選択をした。多くの人間がその正体を知らないため、価値が理解されていないことも指摘された。

伝説の否定と整理
一連の説明を終えた後、猫猫は天女の話を改めて否定的に扱い、衣の正体は伝説ではなく物質的特性によるものだと結論づけた。趙迂は話の落差に戸惑いを見せていた。

刺繍文様への着目
猫猫は衣の刺繍を改めて観察し、文様に文字のような規則性があることに気付いた。それは西方の文字が崩れた形であり、装飾ではなく意味を持つ記述である可能性が示された。

天女と呼ばれた娘の意図
猫猫は、天女と呼ばれた娘が故郷へ帰りたいと考え、その思いを刺繍によって衣に残したのではないかと整理した。村人に理解されない文字で記すことで、意図を隠したまま形にした可能性が示されていた。

伝説の成り立ちの整理
娘が婚礼の日に身を清め、泉で衣を濡らしたという話は、火に弱い状況を避けるための合理的な行動として説明された。木の器に水を満たし、乾くまで燃えない性質と同じ原理であると猫猫は捉えていた。

逃走計画としての衣
衣は燃えにくい素材で作られており、万一火を向けられても即座に危険に至らない構造であった。猫猫は、刺繍・素材・行動が一体となった周到な計画が存在していたと判断した。

なぜ店主に語らなかったのか
趙迂が疑問を口にする中、猫猫は伝説を否定する必要はないと結論づけた。浪漫が大事である以上、現実的な推論をわざわざ明かす意味はなく、結果として計画が成功した事実だけが残れば十分だと考えていた。

西方出身者への疑念
猫猫は、普通の村娘が石綿の知識や文字を扱える点に違和感を覚えた。西方は他国との争いが多い土地であり、知識と技術を持つ人物が流れ着く可能性は否定できないと考えた。

二人の特使の存在
猫猫の思考は、西方から来た二人の特使へと及んだ。行動や雰囲気が似通っている点から、天女と呼ばれた娘もまた、何らかの役割を持つ存在だった可能性が浮かび上がった。

結論としての距離感
猫猫は、それ以上の推測を「くだらない妄想」と切り捨てた。確証のない話を広げることはせず、衣と伝説をそのまま受け止める形で思考を終えていた。

第八十九話 麺麭がなければ

深夜の叩き起こし
夜更け、猫猫の家の戸が激しく叩かれた。現れたのは中年の男で、「薬屋」と呼びながら今すぐ来てほしいと懇願した。猫猫は布団から顔だけ出し、露骨に不機嫌な様子を見せた。

診察要求と即時の拒否
男は娘を診てほしいと訴えたが、猫猫はまず金の有無を確認した。男は支払いができないと認め、薬屋なのだから見捨てる気かと食い下がったが、猫猫は店ではない以上金はもらうと突き放した。

生活事情の突き付け
猫猫は、自分も長屋に住む貧乏人であり、無償で働く余裕はないと明言した。金がないなら帰れと告げ、戸を閉めようとしたことで男は追い詰められた。

血判による懇願
男は地面に膝をつき、子どもが病気であることを明かした。金は必ず払うと繰り返し、証文を書くことを申し出た。猫猫は墨と筆を持ってくるよう指示した。

証文の作成
男は証文に署名し、親指で血判を押した。内容は薬代を必ず支払うという約束であり、親指がない場合は別の指でも構わないと猫猫は淡々と確認した。

条件付きの承諾
証文を受け取った猫猫は、それでよいと判断し、診察を引き受けることを決めた。その際、仕方がないと小さく呟き、完全な善意ではないことを隠さなかった。

後味の悪さ
去り際、同行していた趙迂は猫猫の態度を「悪人みたいだ」と評したが、猫猫は否定も弁解もしなかった。必要な条件を満たしただけだという立場を崩さず、静かに準備を始めた。

路地裏への案内
男は猫猫を連れ、町外れの路地裏へと向かった。人通りは少なく、建物も荒れており、生活に余裕のない者が集まる場所であった。男は迷いなく進み、そこが目的地であることを示した。

あばら家と家族の状況
辿り着いたのは石と土に囲まれた簡素な住まいであった。中には衰弱した少女が横たわり、その傍らに姉が付き添っていた。父親は猫猫に診察を求め、切迫した様子を見せた。

少女の異変と初期確認
猫猫は少女の様子を観察し、呼びかけや触診を行った。意識はあるものの反応は鈍く、手足の冷えや変色が確認された。単なる寒さによる凍傷ではない可能性が示唆された。

生活環境と衛生状態
室内には排泄物の臭気が残り、清潔とは言い難い環境であった。猫猫は状況を冷静に受け止めつつ、ここで長期間生活してきたこと自体が体調悪化の一因であると判断した。

症状の整理
少女には手先の冷えと変色、痺れ、瞳孔の異常、反応の鈍さが見られた。発症は最近ではなく、数日前から徐々に悪化していたことが父親の証言から明らかになった。

母親の死と家族の不安
父親は、母親も同様の症状で亡くなった過去を語った。家族はその再来を恐れており、姉は妹を守ろうと必死であった。その言葉により、病状が一過性ではないことが強調された。

流産という判断
猫猫は原因を「流産」であると断じた。病ではなく、妊娠とその失敗による体内変化が、現在の衰弱を引き起こしていると説明した。父親はその言葉に動揺を見せた。

食事内容への疑念
猫猫は少女が口にしていた食事に注目した。ほとんど米も入らない粥であり、量を増やそうとして与えた食材が問題であると見抜いた。

隠されていた食べ物
姉が差し出したのは、芋であった。それは家族が密かに手に入れ、妹に食べさせていたものである。猫猫はそれを確認し、現在の症状と強く結びついていると判断した。

焼き菓子の味と違和感
猫猫は少女が口にしていた焼き菓子を舐め取り、砂糖の甘さとは異なる不自然な甘味を感じ取った。それは菓子としては過剰であり、日常的に与えるには不釣り合いなものであった。

入手経路の特定
猫猫は焼き菓子を「誰からもらったのか」を問い、同じものを口にして同様の症状が出た人物がいないかを確認した。その結果、裏のじいさんが関与していたことが判明した。

環境改善の必要性
猫猫は、あばら家の不衛生で悪臭のこもる環境では治療しても意味がないと断じた。原因を断たなければ回復は望めず、この場に少女を置く判断はできないと結論づけた。

少女の移送
猫猫は少女を連れて帰る決断を下した。右叫が運搬役を引き受け、父親はそれを見守る形となった。父親は当初反発したが、状況を理解し、最終的に娘を託した。

裏のじいさんの末路
右叫は、裏のじいさんの指が腐り落ちた過去を語った。最初は小銭を渡すだけの関係であったが、菓子を与え続けた結果、取り返しのつかない状態になったことが示唆された。

焼き菓子の正体
焼き菓子の原因は麦であった。薬にも使われる一方で、粗悪な麦には毒性があり、摂取すれば中毒症状を引き起こす。症状が進めば血行障害や麻痺、幻覚に至り、最悪の場合は死に至ると説明された。

母親の死との一致
少女の母親も同じ焼き菓子を口にしていたことが明らかになった。その結果、流産を起こし、命を落とした可能性が高いと示された。少女の症状は、その再現であった。

治療方針の確定
猫猫は、毒の摂取を即座に止め、あとは適度に体を動かすことが重要だと告げた。特別な薬ではなく、原因の排除と回復力に委ねる方針であった。

帰還後の対応
猫猫は礼として白米を受け取り、すぐに湯を沸かすよう指示した。少女は猫猫の家で静養することになり、徐々に回復へ向かう兆しを見せた。

証文への所感
猫猫は、男が書いた証文について考えを巡らせた。男が本当に取り立てに来るとは思えず、あの場の切迫した感情が生んだ行為であったと受け止めた。

数日後の回復と現実の確認
数日が経過し、保護されていた妹は歩けるところまで回復していた。姉は妹の状態を見て安堵する一方、父親が金を持ってこない事実を冷静に受け止めていた。金がない以上、現状を変えるためには何かを売るしかないという現実が突きつけられていた。

姉の申し出と覚悟の表明
姉は、自分が代わりに働けば高く売れると口にし、妹を守るために自ら身を差し出す意思を示した。それは衝動ではなく、状況を理解した上での選択であった。妹を泣き落としに使うつもりはなく、あくまで自分が前に出るという強い覚悟が語られた。

逃げ場のない現実と選択の重さ
このまま何もしなければ、二人は確実に泥沼に沈むと姉は理解していた。助けを待つだけでは何も変わらず、逃げても先はないという判断に至っていた。その選択は誰に強いられたものでもなく、自分で選び取るしかない道であった。

猫猫の静かな問いかけ
猫猫は姉の覚悟を否定も肯定もせず、感情を挟まずに問いを投げかけた。その選択が本当に自分の意思なのか、後戻りできない道であることを理解しているのかを確認するように向き合った。

姉の決断と責任の受容
姉は、自分で選び、進む道だと明確に答えた。妹を守るためであっても、最終的に選んだのは自分自身であり、その責任を負う覚悟があると示した。その言葉には迷いよりも決意が勝っていた。

妹との別れと踏み出す一歩
姉は妹を抱きしめ、先のことは分からないが前に進むと告げた。妹は状況を完全には理解できずとも、姉の気持ちを感じ取り、黙って見送るしかなかった。

準備としての助言
猫猫は、これから先に備え、まず身なりを整えるよう姉に告げた。髪を切り、汚れを落とし、商品として扱われる前提で最低限の準備をするよう淡々と指示した。それは冷酷ではなく、現実を直視した上での実務的な助言であった。

別れ際の沈黙
姉妹は玄関先で別れ、姉は自分で選んだ道へと歩き出した。猫猫はその背中を追わず、止めることもしなかった。選択の結果を引き受けるのは当人であり、他人が肩代わりできるものではないと理解していたからである。

二人で沈んだ街の記憶
猫猫は、この街で花開く者もいれば、二人一緒に泥沼へ沈む者もいることを思い起こした。姉妹がどちらになるのかは分からない。ただ、自分で選び、進んだ道であることだけは確かであった。

第九十話 最後の一冊

馬閃の来訪と図録の持参
薬屋に馬閃が訪れ、猫猫に対して持参した書物を差し出した。それは倉に保管されていた図録であり、虫や植物に関する記録が集められたものであった。猫猫は応対しつつ、彼が高順の子であることを踏まえ、表立った官名を使わない配慮がなされている点にも注意を向けた。

図録の内容確認と違和感
猫猫は図録を確認し、鳥魚や植物に関する記述は揃っているものの、本来あるはずの項目が欠けていることに気づいた。特に、馬閃が期待していた内容に該当する記述が見当たらず、誰かが意図的に持ち出した可能性が示唆された。保管中に抜き取られたという事実は、単なる管理不備では済まない問題であった。

欠落した一冊の正体
話を進める中で、欠けているのは「虫」に関する図録である可能性が浮上した。猫猫は、保管されていたはずの書物が誰かの興味によって持ち去られたと推測し、その行為自体が異常であると判断した。虫の研究は一般的に敬遠される分野であり、動機の存在が強く疑われた。

白鈴の介入と場の混乱
その場に緑青館の妓女・白鈴が現れ、馬閃に親しげに接近した。白鈴は肩に手を回すなど過剰な距離感で応対し、馬閃を動揺させる様子を見せた。周囲がざわつく中、猫猫は一歩引いた立場で状況を眺め、茶菓子を口にしながら事態を静観していた。

馬閃の退散と残された課題
白鈴の振る舞いに耐えきれなくなった馬閃は、図録を置いたまま薬屋を後にした。彼は用件を果たせぬまま退散する形となり、白鈴は「初物」を逃したことに不満を漏らした。一方、猫猫は欠けた一冊の存在を強く意識し、誰が、何のために持ち出したのかという新たな疑問を胸に刻んだ。

左膳の立場と男衆の序列

左膳は門前の掃除を任される下働きであり、男衆頭である右叫の方針によって半ば試される立場にあった。力も向上心も示さなければ解雇されるが、反発して仕事を覚えようとする者は引き立てられる。その中で左膳は鼻歌交じりに箒を持ち、どう見ても評価されていない側の男であった。

本の到着と冊数の違和感

猫猫は馬閃が持参した本を左膳に見せ、左膳が以前保管していた分と合わせて冊数を確認した。合計十四冊であり、数そのものは猫猫の記憶と一致していた。しかし内容を精査すると、蝗に関する記述が一切存在しなかった。

欠落した虫の図録

左膳は虫の図録が本来三冊あるはずだと断言した。現存していたのは二冊で、いずれも蝗に触れていない。つまり、猫猫が研究部屋を訪れた時点ですでに一冊は誰かに持ち出されていたことになる。この事実は、研究資料が意図的に抜き取られた可能性を示していた。

じいさんの死と研究の失敗

話題は猫猫の前任、通称「じいさん」に及んだ。左膳の証言によれば、じいさんは不老不死の薬の研究中、実験の失敗によって死亡したという。不死の薬を作るには段階的な実験が必要であり、その過程で危険な試行を重ねていた可能性が高かった。

人体実験への連想

猫猫は、趙迂に使われた蘇りの薬の不完全さを思い出し、成功率を高めるには動物実験だけでは足りないという現実に思い至った。鼠を使った実験の次に必要となるのは、人間での検証である。その考えに至った瞬間、猫猫は不自然なほど歪んだ笑みを浮かべていた。

遺体処理と翠苓の名

猫猫は左膳に、じいさんの遺体がどこで処理されたのかを問い詰めた。左膳はそれを翠苓が担当していたと明かす。翠苓はじいさんの助手であり、無表情な女として知られ、子翠の異母姉にあたる人物であった。その名を聞いた瞬間、猫猫は重要な点を見落としていたことに気づく。

気づきと行動

翠苓の正体と立場を理解した猫猫は、即座に行動を決めた。左膳を叱咤して掃除に戻らせると、本を布に包み直し、急ぎ薬屋へ戻って文をしたためる準備に入った。事件はすでに、単なる資料不足の段階を越えていた。

離宮への招集と出立

猫猫が書いた文は男衆を介して届けられ、翌朝には返事が戻った。迎えの馬車が用意され、猫猫は翠苓が身を寄せている元四夫人・阿多のもとへ向かうことになった。出立に際し、猫猫は図録を従者に預け、薬屋の戸を閉めた。

趙迂との別れと子どもたちへの配慮

出かける猫猫を見て、趙迂は同行をせがんだが、仕事であるとして猫猫はこれを拒んだ。阿多のもとには子の一族の子どもたちが集められており、接触を避ける必要があったためである。猫猫は趙迂を右叫に託し、その様子を見送りながら、趙迂の将来について思案を巡らせた。

貧民の娘と妓楼の現実

薬屋の周囲には、禿として試用中の貧民の娘もいた。父親が連れ戻そうと何度も現れていたが、娘自身の意思と楼の事情により追い返されていた。猫猫はそれを冷静に見つめつつ、まだ支払われていない代金のことを思い出し、内心で皮算用をしていた。

離宮の格式と装いの変更

阿多の屋敷は皇帝の離宮に属するだけあり、壮麗な佇まいであった。猫猫は馬車を降りる前に礼儀として着替えを命じられ、長い裳を汚さぬよう慎重に歩いた。庭園は庭石と砂利、苔が計算され尽くした美しさを湛えており、場所の格を如実に示していた。

阿多と翠苓との再会

案内された部屋には、家主である阿多と、もう一人の人物がいた。阿多は男装の姿で現れ、以前にも増して凛とした気配を放っていた。その一歩後ろに控えていたのが翠苓であり、彼女もまた男装し、無表情のまま阿多に従っていた。猫猫は、二人の姿を前にして、ここがただの隠居先ではないことを改めて認識したのであった。

第九十一話 聡い子

阿多立ち会いのもとでの対面
阿多は前置きを不要とし、猫猫と翠苓の対話に同席する立場を取った。猫猫は持参した虫の図録を卓上に並べ、師の遺した資料について翠苓に確認を行った。翠苓は、それらがかつて師が使用していたものであると認めたが、冊数が一冊足りないと指摘した。

欠けた一冊と翠苓の沈黙
図録は本来十五冊あったはずだと翠苓は述べたが、失われた一冊の所在については分からないと答えた。その態度に虚偽の兆しはなく、猫猫は嘘をつく理由も見出せなかった。翠苓はすでに子の一族と無縁の立場にあり、表に出られない身であることも語られる。

師の生存への確信
猫猫が師の所在を尋ねると、翠苓は一瞬だけ反応を見せた。その様子から、猫猫は師がまだ生きていると推測し、「蘇りの薬」を自ら試したのではないかと問いただした。翠苓はそれを認め、師が実験を兼ねて薬を服用したからこそ砦を脱することができたのだと語った。

蘇りの代償と趙迂の姿
翠苓は、猫猫に趙迂の現在の姿を思い出すよう促した。趙迂は蘇生したものの、半身不随となり、過去の記憶を失っている。それは単なる記憶喪失ではなく、古い記憶が削がれた結果であり、知らぬまま過去とすれ違っている可能性があると示唆された。

温泉郷の老人の正体
翠苓は、かつて猫猫が訪れた温泉郷にいた寝たきりの老人の一人が自分の師であると明かした。療養地である温泉郷では珍しくない存在だったが、その老人はすでに自分が何者であるかすら忘れていたという。もし健在であれば、子翠が事件を起こすこともなかったはずだと翠苓は語った。

子翠の行動と姉への想い
翠苓は、子翠が事を起こした理由に自分が関係していることを自覚していた。子翠はこの国の膿を出すと同時に、姉である翠苓を母から解放しようとしていたのである。その事実を前に、猫猫は複雑な感情を抱いた。

蝗の研究への行き詰まり
猫猫は最後の望みとして、師が研究していた蝗について尋ねた。しかし翠苓は、自身はその研究に関与していないと答えた。虫が苦手であり、蝗の研究はすべて子翠の領分だったためである。すでに子翠がいない以上、情報は途絶えていた。

研究資料の処分と左膳の関与
不死の薬を作るよう命じられた際、それまでの研究資料の大半は処分された。持ち出されたのは、あの部屋に残っていた分のみであった。それでも研究を続けた師は、給仕係である左膳を使い、密かに調査を進めていたことが明らかになる。

阿多の一言
一連の話を静かに聞いていた阿多は、湯飲みを置き、「『あの子』はとても聡い子だったようだ」と述べた。その言葉は、子翠の才覚と、失われたものの大きさを静かに示していた。

翠苓の否定と違和感

翠苓は「いくら聡い子でも、もういない」と断じ、その存在自体を過去のものとして扱っていた。猫猫はその言葉に強い違和感を覚え、拳を握りしめる。聡い子が何も残さずに消えたという前提そのものが、不自然であると感じたためである。

阿多の態度と記憶の引っ掛かり

猫猫の追及に対し、翠苓は動揺して立ち上がり、阿多は場を和らげるように気楽でいいと語った。その言葉を受けた瞬間、猫猫の中で何かが引っ掛かる。謝罪すべき場面であるにもかかわらず、阿多の発言が思考を刺激し、過去の記憶を掘り起こすきっかけとなった。

診療所の記憶の想起

猫猫は記憶を辿る中で、後宮、医局ではなく「診療所」に行き着く。後宮から攫われる直前、診療所で見た光景を思い出し、本棚に紛れ込ませてあった図録の存在に思い当たった。それは虫の図録ではなく、意図的に隠されたものだった可能性が高かった。

子翠の意図と猫猫の確信

猫猫は、二度と会えないはずの子翠が、自身に気付かせるため、ぎりぎりの線を狙って図録を残したのだと理解する。その狡猾さと執念に、悔しさを超えて笑いがこみ上げる。子翠が悪戯めいて仕掛けた最後の手掛かりであると、猫猫は確信した。

診療所の現状と後宮の闇

診療所は一度閉鎖されていた。後宮脱出を助けた者たちは重罪に問われ、特に女官・深緑は自殺未遂の末に生き延び、罪人として捕らえられている。しかし診療所は後宮に不可欠な施設であり、現在は宦官の監視下で再開されていることが明らかとなった。

診療所から押収された図録の発見
猫猫がさらわれた際、診療所にあった資料はすべて押収されており、猫猫が目を留めていた図録もその中に含まれていた。壬氏は休みを取ってそれを猫猫に手渡し、猫猫は中身を確認した。図録には書き込みが異様に多い箇所があり、ページを開くと大量の挿絵資料が床に落ちた。それらはすべて飛蝗に関する詳細な図であった。

飛蝗の分類と変化の考察
猫猫は図録と書き込みを照らし合わせ、飛蝗を大きく二種、細かくは三段階に分類した。普段見られる緑色の飛蝗、昨年の小規模蝗害に関与した中間型、そして今年増える可能性が高い茶色の大型個体である。飛蝗は条件が揃うことで体色や翅の形を変え、世代を重ねるごとに数を増やしていくと記されていた。小規模な蝗害は、大規模被害の前触れであると判断された。

蝗害の危険性と社会的影響
蝗害は判断を誤れば餓死者を出すほど深刻な災害である。猫猫自身は都育ちで直接見たことはなかったが、花街に売られてきた妓女の中には、蝗害によって食い詰めた農村出身者が多くいた。さらに、子の一族滅亡の翌年に蝗害が重なれば、国情としても極めて不安定になることが示唆された。

防除方法と限界
図録には特効薬のような決定打は記されていなかったが、小規模被害の段階で対処する重要性が強調されていた。幼虫期に駆除することが最優先であり、そのための殺虫剤の製法が残されていた。材料は比較的入手しやすいものが使われており、大量消費を前提とした内容であった。また、成虫にはかがり火を用いる古来の方法も推奨されていた。

被害地域の分布と違和感
壬氏は被害報告のあった農村を地図上に示し、猫猫に見解を求めた。被害地はいずれも平原近くであり、飛蝗の生育環境としては妥当であった。しかし、この地域では数十年にわたり深刻な蝗害が起きていなかった点が問題視された。

森林破壊と蝗害発生の因果関係
問題の地域は、かつて子北州の豊かな森林地帯であったが、現在は禿山と化していた。女帝の時代には禁じられていた無秩序な伐採が、子の一族によって密かに行われていたのである。木材は国内外に売却され、自然環境は著しく破壊されていた。その結果、虫を捕食する鳥が減少し、飛蝗が異常繁殖した可能性が高いと推測された。

壬氏の落胆と事態の深刻さ
壬氏は森林資源を用いた食糧不足の補填を見込んでいたが、その前提が崩れたことに強い落胆を見せた。自然破壊がもたらした影響は、単なる農業被害に留まらず、国全体の安定を揺るがす要因となっていた。猫猫と壬氏は、蝗害が人為的な愚行の積み重ねによって引き起こされた可能性を、重く受け止めることとなった。

診療所の本と薬の不足

猫猫は診療所に残されていた図録を確認し、現在想定されている殺虫剤の調合だけでは薬量が明らかに不足すると判断した。効果が多少落ちる可能性を承知のうえで、別の調合も並行して準備する必要があると壬氏に進言し、状況の深刻さを共有した。

害虫対策としての現実的手段

猫猫は幼虫の発生源を野焼きする案を挙げ、即効性のある対処法として検討に値すると述べた。ただし、場所によっては実施が難しい点もあり、万能ではないことも理解していた。続いて、害虫を捕食する雀を保護するため、禁猟措置を取る案にも言及したが、生業として雀を扱う者たちからの反発が避けられない点が問題として残った。

被害を未然に潰すという発想

これらの対策をすべて講じても、被害が本当に出るかどうかは分からない。しかし猫猫は、何も起きなければそれは幸運であり問題ではないと考えていた。起こり得る負の可能性を事前に潰していくことこそが、政を担う者の仕事であり、正当な評価を得られなくとも必要な行為だと認識していた。

飛蝗料理という最終案

雀禁猟への反発を避ける代替案として、猫猫は飛蝗料理を宮廷料理として定着させる案を提示した。帝や官僚が食すれば、民も追随し、結果として飛蝗を捕る者が増えるという現実的な狙いであった。この提案に壬氏は強い動揺を見せ、食への嫌悪感と責務の間で葛藤する様子を露わにした。

壬氏の葛藤と猫猫の微笑

壬氏は飛蝗料理を最終手段とすることで折り合いをつけ、事態への意欲を新たにした。猫猫はその様子を見て薄く笑みを浮かべ、壬氏が本気で嫌がっていることを理解したうえで、丁寧な口調で食事を勧めた。その表情には、からかいと確信が入り混じっていた。

第九十二話 いたずら

飛蝗料理という悪戯の始まり

王氏は夕餉を食べて帰ることとなり、薬屋では手狭なため空いている客室が用意された。猫猫はまだ残っていた飛蝗の煮つけを出したが、最初から本気で食べさせるつもりはなく、軽い悪戯のつもりであった。王氏の機嫌が悪くなればすぐに下げる算段であり、やり手婆の視線もその警戒を裏付けていた。

冗談が現実になる瞬間

猫猫は箸で飛蝗をつまみ、「あーん」と食べさせる真似をしただけのつもりだった。しかし壬氏は一瞬の逡巡の後、それを口にしてしまう。猫猫自身すら顔を歪めるほど、その光景は強烈で、壬氏の女装とは別の意味で「見てはいけないもの」を見た感覚を覚えた。

周囲に走る衝撃

その場にいた者たちは一様に硬直した。高順は手を震わせ、禿は大切なものを汚されたかのように泣きそうになり、趙迂ややり手婆までもが顔を引きつらせた。壬氏本人は嫌そうな表情のまま咀嚼し、何事もなかったかのように飲み込んだ。

粥と飛蝗の往復

壬氏は無言で粥を要求し、猫猫が蓮華で差し出すと、それを受け取らず猫猫の手元を見続けた。意図を察した猫猫が口元へ運ぶと、壬氏は粥を食べ、続けて差し出された飛蝗にも再び食らいついた。周囲の悲鳴と動揺をよそに、その奇妙な給餌は繰り返された。

禿と趙迂の退場

あまりの光景に耐えかねた禿は泣き崩れ、趙迂がそれを連れて席を外した。猫猫は子どもには刺激が強すぎたのだろうと内心で反省する。趙迂は気弱な禿を庇うことが多く、実際に面倒を見ている存在であった。

壬氏の素顔と猫猫の自覚

壬氏は最後まで飛蝗を嫌そうに食べ続け、猫猫はその様子を見て「悪いことをした」と思いながらも、差し出せば食べるという事実を確認していた。美貌ゆえに緑青館でも人前に出されない壬氏が、最も無防備な姿をさらしていることに、猫猫自身も複雑な感覚を覚えていた。

趙迂の紙と不穏な気配

壬氏が帰った後、趙迂が筆と紙を持って現れる。やり手婆が高価な紙を渡すこと自体が不自然であり、猫猫は強い胡散臭さを感じた。帰ろうとする猫猫に対し、やり手婆は泊まっていくよう指示し、風呂や寝間着まで用意していた。

やり手婆の異様な親切

親切すぎる態度に警戒する猫猫だったが、逆らうと容赦なく拳が飛んできた。半ば強引に部屋へ通され、趙迂が紙を広げ、やり手婆が墨の準備を始める。事態は完全に猫猫の想定外へと進んでいった。

野次馬の集結

そこへ白鈴小姐と女華小姐まで現れ、状況はさらに不可解さを増す。客を取らない夜の妓女たちが集まり、猫猫は「胡散臭すぎる」と確信しつつ、この場から逃れられないことを悟った。

好みの男を言わされる猫猫

やり手婆の発案で、猫猫は突然「好みの男」を答える羽目になる。仕事中にもかかわらず、趙迂や白鈴まで加わり、半ば強制的な話題として進められた。猫猫は面倒に感じつつも、逆らうより従う方が早いと判断し、条件を淡々と口にしていく。

現実的すぎる好みの条件

猫猫は背が高すぎないこと、痩せすぎていないこと、髭はあってもよいが濃すぎないこと、顔立ちは鋭さより柔らかさを重視することなど、実用性と世間体を基準にした好みを述べた。それは恋情よりも生活感覚に根差したものであり、聞き手の期待する色気とは程遠い内容であった。

描かれた男と冷ややかな評価

趙迂が猫猫の条件をもとに男の似顔絵を描き上げるが、その出来は地味で冴えないものだった。白鈴ややり手婆からは辛口の評価が飛び、女華に至っては一言で却下する。三姫の一人でありながら男嫌いの女華は、大抵の男を容赦なく切り捨てる性格であった。

猫猫が感じた既視感

騒ぎの中で猫猫はその似顔絵を見つめ、言葉を失う。それはあまりにも見覚えのある顔であり、好み以前の問題として強い既視感を覚えたためであった。問い詰められた猫猫は、ついにその理由を明かす。

後宮の医官にそっくりな男

猫猫は、その男は「後宮の医官にそっくりだ」と答える。宦官であり、恋愛対象と呼ぶ以前の存在であるその人物の名は出されないが、場の空気は一気に冷めた。恋話を期待していた白鈴は興味を失い、他の者たちも拍子抜けした様子で次々と部屋を後にする。

女華と猫猫だけの時間

最後に部屋に残ったのは女華と猫猫だけであった。女華は窓を開け、夜の娼館の景色を眺めながら煙管をくゆらせる。恋が生まれては消えていく光景を前に、女華は猫猫の気持ちを完全ではないにせよ理解していると語る。

変わり続ける男という存在

女華は、男はいつ心変わりするかわからず、力を持つ男であればなおさらだと静かに告げる。白鈴のような魔性の女ならともかく、猫猫は自分と似た側の人間だと指摘し、信じることの脆さと、この場所にいれば嫌というほど思い知らされる現実を突きつけた。

女郎と女郎の子という現実

女華は、所詮自分は女郎であり、猫猫は女郎の子であると断言する。それが現実であり、変えられない立場であると。猫猫はその言葉を否定せず、煙管の灰を見つめながら静かに受け止める。

煙の向こうに残るもの

煙管を吸い続ける女華を猫猫がたしなめると、女華は客の前では嫌われるからこそ、今は好きにするのだと笑う。白い煙が夜空に溶ける中、猫猫は何も言わず、その背中を見送った。

第九十三話 白蛇仙女

珍客の噂と緑青館の不調
緑青館では、最近客足が落ちている原因として「白蛇仙女」と呼ばれる見世物の噂が話題になっていた。梅梅と女華は碁を打ちながら、その仙女が高官たちの関心を集めていることを語った。猫猫は二人の灸の準備をしつつ話を聞き、珍しい存在が客を奪っている現状を把握していた。

白髪赤眼の正体についての説明
仙女は髪が真っ白で、目が赤いとされていた。猫猫はその特徴から、生まれつき色素を持たない「白子」の可能性を示した。白子は人では稀であるが、動物では白い蛇や狐として神聖視されることもあると説明した。一方で、異国では白い肌の子どもが万能薬になるという迷信もあるが、それは眉唾であり、体の本質が変わるわけではないと語った。

仙女信仰と見世物の拡大
その白子の娘は凶兆ではなく吉兆として扱われ、「仙女」として崇められていた。最初は小さな見世物小屋で披露されていたが、次第に評判を呼び、都の劇場を借りるほどに規模が拡大していた。夜に一度だけ開かれる見世物には、財力のある客が集まり、花街の妓女たちの不満の原因となっていた。

仙術の噂と人心掌握
梅梅は、その仙女が本当に仙術を使うという話を伝えた。人の心を読み、金を生み出す力があるとされ、その話に猫猫は強い警戒を示した。荒唐無稽な話であっても、権力者が信じれば信仰へと変わり、不老不死の力が実在すると錯覚させる危険があると考えた。

右叫の補足と錬丹術への連想
男衆頭の右叫は、この見世物が一度きりで終わらない理由として「錬丹術」の存在を挙げた。不老不死を目指す怪しげな術であり、かつて羅門から決して真似するなと釘を刺されていたものだった。珍しい容姿と人心を読む力が結びつけば、疑っていた者ほど強く信じ込む可能性があると語られた。

猫猫の否定と疑念の深化
猫猫は、不老不死や仙術の実在を強く否定した。そんな都合の良い話があるはずがないと内心で断じつつも、なぜそのような見世物がここまで信仰を集めているのか、その仕組みには強い疑問を抱いた。白蛇仙女の正体と、人々が惑わされる理由を見極める必要性を感じていた。

不老不死の薬への疑念

猫猫は、不老不死の薬を研究した末に「蘇りの薬」を作り出した人物の存在を思い出していた。その人物は、かつて医官として優秀であったが、薬の副作用により今では見る影もない状態である。もしその知識が残されていれば、蝗害への対策もより適切なものになった可能性があり、猫猫はやりきれなさを抱いていた。ただし災害はまだ途中段階であり、今後の対応次第で被害は変わり得るとも考えていた。

仙女の噂と見世物の実態

都で話題となっている「仙女」は、不老不死の薬を餌に人を集めている存在ではないかと噂されていた。猫猫自身はその真偽を掴みきれずにいたが、右叫から断片的な話を聞き、興味を抱く。見世物の料金は高額で、猫猫自身が気軽に足を運べるものではなかったが、右叫は誰かに頼めばよいと示唆し、その場を去った。

意外な来訪者

数日後、猫猫のもとを訪れたのは予想外の人物であった。現れたのは羅の一族の羅半であり、変人軍師の甥であり養子でもある男であった。羅半は、仙女の見世物に猫猫を誘う目的で現れ、さらに同行者として一人の男を連れていた。その人物は、軍師の部下である陸孫であった。

羅半の思惑

羅半は、美しいものに価値を見出す性質を持ち、その「白子の仙女」が相当な美女であるという話に興味を示していた。猫猫は誘われた理由に疑念を抱き、損得勘定で動く羅半が無償で誘うはずがないと見抜く。羅半は、西方との取引に向けた出し物として見世物一団を検討しており、女性の視点からの意見が欲しいと説明したが、猫猫は即座に虚偽であると切り捨てた。

陸孫の補足

そこで口を開いたのが陸孫であった。彼は、軍師自身がその見世物について「気になる」と漏らしていたことを明かす。陸孫はその一言を受け、旅芸人一団を独自に調べていたという。軍師の勘には根拠がないことが多いが、それでも無視できないものがあるため、陸孫は慎重に情報を集めていた。

不穏な噂の始まり

陸孫は、調査の過程で耳にした「気になる噂」の存在を猫猫に伝えようとする。仙女を巡る話は、単なる珍奇な見世物では済まされない可能性を帯び始めており、猫猫もまた、その裏に潜む真実を無視できなくなっていくのであった。

劇場への同行と違和感の予感
猫猫は面倒事でなければよいと考えつつ、羅半と陸孫に同行して夜の都へ向かった。劇場は都の中央部に位置し、商業と富裕層が集まる一等地にあった。旅芸人の独演会としては不釣り合いな場所であり、その時点で猫猫は白娘々という仙女の存在に俗っぽさと胡散臭さを感じ取っていた。

仮面と紗が作る閉じた空間
劇場に集まった観客の多くは顔を隠しており、素顔の者はほとんどいなかった。羅半はこれは互いの立場や身分を曖昧にするための小道具だと説明した。猫猫も紗を被せられ、この見世物が公には語れない性質のものであることを理解した。入場料の高さや劇場の規模から、背後に出資者が存在することも察せられた。

席配置と客層の観察
猫猫たちは舞台に近い席に案内されたが、中央最前の席には成金然とした男が若い娘を従えて陣取っていた。陸孫は、あえて目立つ席を避けるのも一つの判断だと述べ、猫猫もまた、座る位置によって権力や財力が透けて見える場であると認識した。

酒と菓子、そして警戒
卓には酒と焼き菓子が供されたが、猫猫はすぐに口をつけなかった。白娘々を観察するためには、感覚を鈍らせたくなかったからである。羅半や陸孫、護衛もまた酒を控え、場の雰囲気とは裏腹に、彼らが慎重に状況を見極めようとしていることが示された。

白娘々の登場
薄暗い劇場に白い靄が立ちこめ、銅鑼の音とともに白娘々が舞台に現れた。白い衣、白い肌、白い髪という徹底した色彩の中で、紅い唇と双眸だけが強烈な存在感を放っていた。その姿は観客の視線を一瞬で奪い、仙女という呼び名が単なる誇張ではないことを印象づけた。

異様な魅了と静かな注視
観客が熱気を帯びる中、猫猫は感情を抑え、白娘々を冷静に観察し続けた。その美しさが演出によるものなのか、あるいは別の要因によるものなのかを見極めるためである。白娘々の出現は、この見世物が単なる芸では終わらない可能性を、猫猫に強く意識させるものであった。

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